- 朋也「軽音部? うんたん?」1・ 2・ 3・ 4・ 5・ 6・ 7・ 8・ 9・ ラスト
218:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 00:52:28.18:jpDSDOMkO
4/29 木 祝日
4月の祝日。
週末からはゴールデンウィークに突入するので、今日はその前座といった感じだ。
俺のような、何も予定がない暇人は、ただ怠惰に過ごして終わるだけなのだが。
今だって、町の中を意味もなくぶらついたりなんかしているわけで…
強いて言うなら、朝食の後の散歩といったところだ。
気が済めば、いつものように春原の部屋に向かうつもりなのだが。
朋也(ん…?)
歩いていると、ひとりの女の子を見つけた。
梓「………」
中野だった。
身をかがめ、停めてある車の下を覗き込んでいた。
その姿に、通行人がじろじろと目をくれていく。
それもそうだろう。スカートがはだけて少し下着が見えてしまっているんだから。
朋也(はぁ…ったく…)
顔を合わせる前に、無視して過ぎ去ろうと思ったのだが…
一応、忠告しておくことにした。
朋也「おい、中野」
声をかける。
梓「え…」

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韓国からポーランドに輸出されるはずだった戦車、軽戦闘機、自走砲などの「K防産」、すべて霧散して夢と終わる可能性も…
219:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 00:52:52.52:+UZ/pLeq0
振り返る。
梓「ああ…」
なんだ、こいつか…とでも言いたげな顔。
梓「はぁ…」
大きくため息をつき、また頭を下げて、車の下を覗き込む。
…せめて、なにか言え。
朋也「おい、見えてるぞ…おまえのパンツ」
梓「っ!」
ばっと身を起こし、手でスカートを抑えながら俺に向き直る。
頬を赤く染め、目を潤ませていた。
梓「へ、変態っ!」
朋也「いや、おまえ自ら見せてたんだろ。そんなに自信あったのか、下着に」
梓「ち、違いますよっ! 私はただ…」
車を見る。
朋也「車上荒らしか? やめとけよ、ここは人の目が多い」
梓「それも違いますっ!」
220:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 00:54:05.42:jpDSDOMkO
梓「この下に猫がいるから、危ないと思って、助けようとしてたんですっ!」
朋也「猫?」
俺もしゃがんで覗き込んでみる。
朋也(あ…ほんとだ)
身を丸め、じっとしたまま動かない猫が一匹いた。
朋也「あの猫、あそこからどかせればいいんだな?」
低姿勢のまま言う。
梓「え?」
朋也「ちょっと待っとけ」
俺は匍匐前進で車の下に入り込んでいった。
朋也(ん、動かないな、あいつ…)
近づけば逃げていくかと思ったのだが…
朋也(よ…)
ひょい、と掴めてしまった。
そのまま這い出る。
朋也「ほら、いけ」
221:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 00:54:32.46:+UZ/pLeq0
そっと手を離す。
だが、それでも動かない。
座り込んで、前足を舐めていた。
梓「あ…この子、怪我してる…」
見れば、舐めている箇所の毛が抜けていて、そこから血が滲みだしていた。
梓「ど…どうしよう…助けてあげなきゃ…」
おろおろと狼狽する中野。
朋也「動物病院、行ってみるか」
梓「あ…は、はいっ…」
朋也「よし」
中野の返事を聞き、俺は猫を抱えた。
そして気づく。病院の場所なんて、まったく心当たりがないことに。
朋也「あのさ…この辺って、動物病院、あったっけ」
梓「ちょっと待ってください…」
携帯を取り出し、なにか操作していた。
梓「あ、ありました。こっちですっ」
液晶画面を見ながら言う。
223:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 00:56:34.92:+UZ/pLeq0
そして、先導するように小走りで道を進んでいった。
俺もその後についていく。
―――――――――――――――――――――
行き着いた先には、こじんまりとした、寂れた建物があった。
看板には、しっかりと、動物病院と記されていたのだが…
ペンキが落ちたのか、文字がただれていて、ホラーチックだった。
ここで本当に大丈夫かと、内心、心配だったのだが、それも杞憂に終わった。
診察と治療は至極まともだったのだ。
担当の獣医は、好々爺然とした風貌で、事情を話すと、おもしろそうに笑っていた。
なにが気に入られたのか知らないが、診察代も、治療代も格安にしてくれていた。
―――――――――――――――――――――
梓「…かわいそうです」
今は中野が猫を抱いていた。
通りに据えられたベンチに腰掛け、膝の上でくつろぐその猫を撫でている。
朋也「まぁ…野良だろうからな。首輪もしてないし」
獣医が言うには、どうも、傷は、人の手によってつけられた可能性が高いということだった。
梓「じゃあ…飼い猫だったら、こんな目に合わないって言うんですか」
朋也「まぁ、少なくとも、野良よりはマシなんじゃないのか」
朋也「そもそも、野良なんて、保健所に収容されれば、それだけでアウトだからな」
224:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 00:57:56.20:jpDSDOMkO
朋也「それに、餌の確保ができなけりゃ、餓死するし…他にも、危険なんてたくさんある」
梓「…そう…ですよね、やっぱり」
梓「………」
しばらくの間視線を落として黙っていると、猫を抱きかかえ、無言で立ち上がった。
どこか思いつめたような顔をしている。
朋也「どうしたんだよ」
梓「私、この子を飼ってくれる人を探します」
朋也「どうやって」
梓「それは…道行く人に、声をかけて、とか…」
朋也「そら、大変だな」
梓「それでも、やるんですっ」
声を張って答えていた。
朋也(はぁ…俺、こういうのに弱いのかな…)
なぜか放っておけない。
朋也「俺も手伝うよ。おまえがよければだけど」
梓「ほんとですか? ちょっと、不本意ですけど…」
225:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 00:58:30.40:+UZ/pLeq0
梓「この際、なんでもいいです。よろしくお願いしますっ」
朋也「ああ」
梓「それじゃ、人通りの多いところに…」
朋也「いや…そうだな、まず、軽音部の連中に当たってみろよ」
朋也「知り合いだから訊きやすいだろ? それに、もしOKならそこで終わりだ」
梓「あ、そうですね、すっかり忘れてました」
携帯を取り出す。
そして、猫の写真を撮ると、また画面と向き合っていた。
多分、今の画像を添えてメールでも送っているんだろう。
俺は黙って結果を待つことにする。
―――――――――――――――――――――
梓「あ、きた」
中野の携帯から着信音が鳴り響く。
慌てたように開いて、返信を確認する。
梓「…ムギ先輩もダメでした」
朋也「そうか…」
他の部員からも、断りの返事が届いていた。
家庭の事情や、経済的負担などが理由だった。
226:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 00:59:56.28:jpDSDOMkO
琴吹なら、猫の一匹くらい、なんでもないだろうと期待していたのだが…
その想いも、打ち砕かれてしまった。
朋也「で、琴吹はなんだって?」
梓「なんか…ポチに捕食されるかもしれないから、責任が持てない…らしいです」
朋也「……捕食?」
梓「……はい」
朋也「………」
梓「………」
朋也「…なにを飼ってるんだろうな、琴吹は」
梓「…多分、知らないほうがいいです」
だろうな…。
―――――――――――――――――――――
朋也「あ、すいません、ちょっとい…」
朋也「あ…くそっ」
人の往来が激しい大通りで飼い主探しを始めたのだが…
何かのキャッチと思われているのか、見向きもされなかった。
227:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:00:22.70:+UZ/pLeq0
朋也「俺じゃだめだ。次、おまえいってくれ」
梓「わかりました」
梓「…不甲斐ない人」
朋也「聞えたからな…」
―――――――――――――――――――――
朋也(あいつはなんか、上手くやりそうだよな…)
中野から預かった猫とじゃれあいながら、思う。
梓「あの、すみません」
男「ん?」
一発目から捕まえることに成功していた。
梓「えっと、私、今…」
男「3万…いや、君なら4万出すよ」
梓「へ? どういう…」
男「この近くに、いいとこあるからさ、今からいく?」
これは、まさか…
228:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:01:39.55:jpDSDOMkO
梓「え…いいとこ…ですか?」
朋也「おい、おっさん、なにやってんだよ」
猫を抱いたまま、睨みを利かせて近づいていく。
プリチーな生き物を伴って絡んでくる仏頂面の男…さぞ不気味なことだろう。
男「ひぃっ、い、いや、私はまだなにも…」
朋也「まだ?」
男「い、いや…はは、なんでも」
背を向けて、足早に去っていった。
梓「なんで邪魔するんですか!」
朋也「おまえ…わかんなかったのか、今の」
梓「岡崎先輩の行動の方がわかりませんよ!」
朋也「いや…だから…」
梓「足を引っ張るなら帰ってください!」
本当に、ただ俺が妨害しただけだと思っているようだ。
誤解を解いておいたほうが、今後の信頼関係のためにもいいんだろうが…
詳しく説明するのも、なんだか気が引けた。
朋也「…ああ、悪かったよ。もう邪魔しない」
229:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:02:05.24:+UZ/pLeq0
だから、俺に非があったと、黙って認めておくことにした。
梓「勘弁してくださいよ、ほんとにもう…」
朋也「でも、ああいうおっさんは避けろよ、一応」
梓「おっさん差別ですか? 最低ですね、自分の近い将来の姿なのに」
朋也「まだ遠いっての…」
今年で18だ、俺は。
―――――――――――――――――――――
梓「そうですか…話を聞いてくれて、ありがとうございました」
女性「いえ…」
朋也(だめだったか…)
今ので4人目だった。
梓「はぁ…」
中野も落胆を隠しきれないようだった。
男1「ねぇ、君さ、さっきから声かけてるよね」
男2「逆ナン?」
230:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:03:21.13:jpDSDOMkO
梓「え? いえ…違います…」
ちゃらちゃらとした男の二人組に絡まれていた。
男1「じゃ、俺らが君ナンパしていい?」
男2「かわいいよね、君。遊びいこうよ」
梓「あの…それは、ちょっと…」
男1「いいじゃん、いこうよ」
男2「そこのカフェでなんか食べようよ。おごりだよ?」
梓「う…あう…」
困惑した表情で、すがるように目を向けてくる。
SOS信号だろう。
朋也(いくか…)
立ち上がる。
朋也「こらぁ、なんだ、おまえらは」
男1「はぁ?」
男2「なにおまえ」
朋也「みりゃわかるだろうが。猫を持ったキレ気味な人だ」
232:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:04:01.40:+UZ/pLeq0
猫「にゃあ」
男1「意味が…」
男2「君、もういこうよ。変なの来たし」
中野の手を取ろうと、腕を伸ばす。
俺はその腕を掴んで止めていた。
朋也「やめとけ。こいつは俺が先に目をつけてたんだよ」
少しキャラを作ってみた。設定は、鬼畜王だ。
朋也「失せろ、カスども」
猫「にゃあ」
男2「…っ離せよっ」
ばっと俺の手を振り払う。
そして、その瞬間から睨み合いが始まった。
朋也「………」
男1「………」
男2「………」
猫「にゃあ」
235:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:05:25.70:jpDSDOMkO
男1「…ちっ」
男2「ばぁか」
間の抜けた猫の鳴き声を以って、ガンつけ勝負は終わった。
ふたりの男は捨て台詞を吐くと、雑踏の中へと消えていった。
朋也(ふぅ…)
朋也「おい、中野…」
朋也「あん?」
振り返ると、俺から距離を取って身構えていた。
梓「…このけだもの。ずっと私を狙ってたんですねっ」
朋也「おまえが信じるなっ! ありゃ方便だっ」
梓「………」
疑惑に満ちた目を向けてくる。
朋也(どこまで信用ないんだ、俺は…)
もともとなかったところを、先の一件でさらに信用を失ってしまったのか…。
なら、捨て身でこちらから歩み寄っていくしかない。
まずは安心感を与えて、警戒を解かなくては…。
朋也(はぁ…ちくしょう)
236:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:05:53.64:+UZ/pLeq0
朋也「こほん…あー…」
朋也「ほら、おいで梓ちゃん、怖くないよ~」
ぎこちない笑顔で、猫なで声を出す。
梓「…キモ」
…ものすごく冷めた顔で暴言を返されていた。
朋也(ま、そりゃそうか…)
わかってはいたが、実際言われると、ショックと恥ずかしさが同時に襲ってきた。
梓「冗談です。助けてくれて、ありがとうございました」
朋也「ああ、別に…」
恥をかく前に言って欲しかったが。
梓「キモかったのは本当ですけど」
朋也「あ、そ…」
徒労に終わった上に、追い討ちまでかけられていた。
朋也「まぁ、いいけど、何か対策考えないとな」
朋也「おまえ、見た目可愛いから、変な奴よってくるし」
237:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:07:02.35:jpDSDOMkO
梓「な、か、可愛いって…お、おだててどうするつもりですかっ!」
梓「気をよくしたところを、一気につけこんでくるつもりですかっ!」
梓「このけだものっ!」
朋也「想像が飛躍しすぎだ。思ったことを言ったまでだよ」
梓「な、なな…わ、私は騙されませんからっ」
朋也「だから、そんな気はないっての」
朋也「それよか、もう昼だし、飯にしようぜ」
梓「う、うう…」
朋也「ほら、いくぞ」
俺が歩き出すと、後ろからうーうー言いながらもついてきた。
238:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:07:22.42:+UZ/pLeq0
―――――――――――――――――――――
朋也「ほらよ」
コンビニで買ってきたパンとジュースを差し出す。
梓「ありがとうございます」
受け渡すと、俺も中野が座っているベンチに腰掛けた。
梓「よかったんですか? おごってもらっちゃって」
朋也「いいよ。いつか、おまえにおごってもらった事あっただろ」
朋也「これであいこだ」
梓「でも、あれはお詫びのつもりだったから…」
朋也「まぁ、細かいことは気にするなよ」
梓「はぁ…」
朋也「よし、おまえにもやろう」
俺は自分のパンをちぎって猫に与えた。
くんくんと匂った後、ぺろりと口にしていた。
その姿を見て思う。
朋也「こいつって、あの時おまえがねこじゃらしで遊んでた奴か?」
239:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:08:37.33:jpDSDOMkO
梓「そうですよ。気づかなかったんですか?」
朋也「ああ、まぁな。今ようやく思い出したよ」
梓「こんな可愛い子、普通は一度みたら忘れないのに」
言って、中野も自分のパンをちぎって猫の前にそっと据えた。
すると、それも遠慮なく食べ始めていた。
梓「かわいいなぁ…」
その様子を温かい目で見守る中野。
朋也「おまえ、猫好きなのか」
梓「はい、大好きですっ!」
朋也「そっか。なんか、らしいよな。おまえ、猫っぽいし」
梓「あ、ありがとうございます…」
こいつにとっては称賛と同義だったようだ。
素直に礼なんか返してきた。
朋也「でもさ、それなら、おまえの家で飼ってやれないのか」
梓「それができたら、最初から飼い主探しなんてしてませんよ」
朋也「それもそうだな」
240:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:09:01.54:+UZ/pLeq0
梓「岡崎先輩こそ…いや、いいです、やっぱり」
俺に飼えるかどうか打診するつもりだったんだろう。
だが、回答はどうあれ、俺に飼われるのは嫌だったようだ。
だから、途中で切ったんだろう。
まぁ、うちで飼えるわけじゃないので、別によかったが。
朋也「飯、食い終わったら、また頑張って探さなきゃな」
梓「そうですね。頑張りましょうっ」
―――――――――――――――――――――
梓「あの…ほんとにこれ、効果あるんでしょうか」
朋也「ああ、ばっちりだ」
中野が手に持つのは、可愛らしく装飾されたプラカード。
頭には、ネコミミカチューシャをつけていた。
その2つのアイテムは、憂ちゃんと行った、あのファンシーショップで調達してきていた。
朋也「今までは、こっちから攻めていってたけど、それは間違いだった」
朋也「興味のない人にまで当たっちまうから、効率が悪かったんだ」
朋也「だから、今度は待ちに入るんだ」
梓「いえ…そうじゃなくて、なんでネコミミなんですか…」
梓「このプラカードは、わかりますけど…」
241:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:10:19.94:jpDSDOMkO
そのプラカードには『この猫、飼ってください!』と書いてある。
宣伝のつもりだった。
朋也「そっちの方がわかりやすいじゃん」
梓「いえ、これつけなくても、プラカードだけで事足りると思いますけど…」
朋也「より目立ったほうが、目を引きやすいだろ」
朋也「おまえ、似合ってるしさ、大抵の男は振り向くと思うぞ」
梓「そ、そんな…」
朋也「こいつのためだ。頑張れよ」
ダンボールを抱えてみせる。
その中には、猫が入っていた。
やはり、拾ってください、なんて言うなら、このスタイルしかないだろう。
梓「うう…わかりました」
ダンボールを手に持ち、街頭に立つ。
そして、足元に置くと、プラカードを掲げた。
やはり、道行く人は皆一瞥をくれていく。
こっちをみて、ひそひそと話しこんでいる者たちも見受けられた。
ナンパの算段でも立てているんだろうか。
それでも、隣に俺も立っているから、簡単には近づいてこないだろう。
これが、俺の考えた対策だった。抑止力というやつだ。
単純なことだが、効果は高いと思う。
今も、中野を遠巻きに眺めていた男たちが、諦めたように散会していくのが見えた。
243:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:10:47.22:+UZ/pLeq0
やはり、これで合っていたようだ。
―――――――――――――――――――――
5分くらい経った頃だろうか。
一人の男がこちらに近寄ってきていた。
男「あの…ふぅ、ふぅ…」
興奮しているのか知らないが、息が荒い。
男「か、飼うって、い、いいの…?」
梓「え…はいっ、もちろんですっ!」
男「はぁ…はぁ…き、君、家出少女なんだ…?」
梓「え、あ…はい?」
男「ふっひ…う、うちのアパート…いこう…」
男「君みたいな可愛い子なら…悦んで飼ってあげるよ…」
梓「い、いえ、私じゃなくてっ! この子ですっ」
ダンボールから猫を抱き起こした。
猫「にゃあ」
男「え…なんだ…でも、君も猫だし…」
244:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:12:20.43:jpDSDOMkO
言って、ネコミミに目をやる。
男「君もついてくるなら、一緒に飼ってあげるよ…ふっひ…」
梓「ひぃっ…え、遠慮しておきます…」
男「はぁ、はぁ…じゃあ、いいや…」
のそのそと立ち去っていった。
梓「…岡崎先輩のせいですよ」
朋也「いや、でも、世間にはああいう奴もいるってわかってよかったじゃん」
梓「上から目線で言わないでくださいっ!」
梓「次は岡崎先輩がやってくださいよっ!」
俺にプラカードを押し付けてくる。
朋也「ああ、いいけど」
受け取る。
梓「ちゃんとこのネコミミもつけてくださいよ」
朋也「やだよ、なんで俺が」
梓「私にはつけさせたじゃないですかっ!」
245:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:12:47.46:+UZ/pLeq0
朋也「だからってなぁ、俺だぞ?」
梓「いいから、つべこべいわずにつけてくださいっ!」
朋也「わかったよ…」
仕方なく、装備した。
…周囲の視線が痛い。
梓「…ぷっ」
朋也「せめておまえだけは笑わんでくれ…」
―――――――――――――――――――――
朋也(お…)
一人の女性がこちらに近づいてくる。
男の情欲を煽るような服を綺麗に着こなして、妖艶な雰囲気を纏っていた。
年の頃は、二十代後半といったところか。
朋也(って、なに分析してんだ、俺は…)
女性「ボウヤ…飼って欲しいの?」
朋也「あ、いえ…俺じゃなくて、こっちの猫っす」
ダンボールを指さす。
女性「そうなの?」
246:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:13:05.77:PRCvP3Z4O
おまえらキタwwwwwww
247:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:14:02.70:jpDSDOMkO
朋也「はい。だめっすか」
女性「私、動物嫌いなの」
女性「でも…」
俺の頬に手を添えた。
どきっとする。
女性「あなたみたいな動物なら、死ぬほど可愛がってあげるわ」
朋也「はは…」
なんと答えていいのやら…。
女性「これ、名刺。渡しとくわ」
手を取られ、少し強引に握らされた。
そこには、夜の店の名前と、この人の源氏名らしきものが書かれていた。
裏も見てみる。電話番号が手書きされていた。
朋也「俺、未成年なんですけど…」
女性「見ればわかるわよ」
朋也「そっすか…」
女性「お店に来いって言ってるんじゃないわ」
女性「私にいつでも連絡入れなさいって言ってるの」
248:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:14:23.10:+UZ/pLeq0
朋也「はぁ…」
女性「それじゃね」
色気を漂わせながら去っていく。
梓「…ヒモ野郎。最低です。死ね死ね」
朋也「悪口のタガが外れてるからな、おまえ…」
梓「こんな時まで女をたぶらかすなんて、信じられないです」
朋也「俺は何もしてないだろ…」
朋也「…あぁ、とにかく、もうネコミミはやめだ。これは危険すぎる」
梓「最初からいらないって言ってたのに…このヒモ男は…」
ぶつぶつと小言をぶつけられていた。
止む気配はない。
しばらくはこの状態が続きそうだった。
朋也(はぁ…)
―――――――――――――――――――――
一度休憩を取るため、適当な石段に腰掛けた。
朋也「なかなか見つからねぇな」
252:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:19:13.14:jpDSDOMkO
梓「そうですね…」
梓「やっぱり、岡崎先輩が女たらしのクセに唯先輩に手を出すから、皆怒ってるんですよ」
朋也「それはおまえの心の内だ」
朋也「つーか、俺はあいつに手なんか出してないからな」
梓「嘘つき。いつもベタベタしてくるせに」
朋也「どこがだよ。普通の距離感だろ」
梓「朝だって一緒に登校してるじゃないですか」
梓「それに、唯先輩、部室でも岡崎先輩の隣に座りたがるし…」
朋也「それは俺からじゃなくて、あいつの方からきてないか」
梓「あーっ! 今、自分がモテ男だってさりげなく言いましたね!?」
梓「やらしいですっ! すべてにおいてあらゆる意味でやらしいですっ!」
梓「やらしいですっ! やらしいですっ!」
朋也「悔しいですみたく言うな」
朋也「前に言ってたけど、あいつは俺のことなんとも思ってないらしいぞ」
梓「ほんとですか? でも、どういう会話の流れでその発言が出たんですか?」
253:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:19:56.02:+UZ/pLeq0
朋也「いや、冗談のつもりで、俺に気があるのかって訊いてみたんだよ」
朋也「そしたら、そんなんじゃないってさ」
梓「…なるほど」
梓「まぁ、唯先輩は、わりとすぐ人と仲良くなりますからね…」
梓「ってことは、岡崎先輩にじゃれついてるのは、遊びだったってことですね」
梓「あはは、唯先輩にとっては、岡崎先輩なんて、遊びだったってことですよ」
梓「あははは」
朋也「はは…」
俺もなぜか乾いた笑いで同調してしまっていた。
梓「じゃあ、岡崎先輩も、唯先輩のことは、なんとも思ってないわけですね」
朋也「ん、ああ…」
梓「…なんで言いよどむんですか?」
朋也「いや…」
がたっ
朋也(ん?)
254:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:21:11.09:jpDSDOMkO
音のした方に振り向く。
ダンボールが倒れ、猫が飛び出していた。
空に飛び立っていく鳥を追っている。
その先には、激しく車の行き交う道路があった。
俺は考える前に駆け出していた。
朋也(うらっ…)
飛び込み、猫をキャッチする。
間一髪間に合った。
猫は、俺の胸の中できょとんとしている。
朋也「いっつ…」
背中に痛みが走る。
モロにコンクリでぶつけたからだ。
腕も擦ってしまい、血が流れてくる感触が肌に伝わってきた。
梓「大丈夫ですかっ!?」
中野が駆け寄ってくる。
朋也「ああ、無事だよ」
上体を起こし、猫を両手で掲げてみせる。
梓「そうじゃなくて、岡崎先輩がですよっ」
朋也「ああ、俺は…っつ…」
255:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:21:42.81:+UZ/pLeq0
梓「痛みますか? どこです?」
朋也「いや、大丈夫」
梓「ちょっと腕見せてください」
言って、俺の袖をまくった。
梓「血が出てるじゃないですか…」
朋也「ほっときゃ止まるよ」
梓「そんなこと言って、バイ菌が入ったら大変ですよっ」
梓「ここでじっとしててください。私、ちょっと行ってきます」
そう言い残し、人ごみを縫ってすぐ近くの雑貨店に入っていった。
―――――――――――――――――――――
梓「はい、これでいいです」
朋也「サンキュ」
中野は、水で傷口を丁寧に洗い流し、その上から透明なシートを貼ってくれていた。
梓「患部を水で濡らした後、このシートを貼っておくんですよ」
パック入りになったそれを渡してくる。
256:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:22:54.02:jpDSDOMkO
朋也「ああ、わかったよ。で、いくらだったんだ? これと水合わせて」
受け取って、そう訊いた。
梓「お金なんていいですよ。この子、助けようとしてくれたんでしょ」
膝の上に乗り、安心して丸まっている猫の顎を撫でる。
梓「ほんと、馬鹿ですね。あんなことしなくても、道路になんか飛び出しませんよ」
朋也「そうだったかな」
梓「そうですよ」
朋也「ちょっと神経質すぎだったな」
朋也「動物の挙動なんて、予測できないからさ、嫌な予感がして、先走っちまった」
梓「岡崎先輩の行動の方がよっぽど予測できません」
朋也「そっか」
梓「はい、そうです」
朋也「………」
梓「………」
会話が途切れる。
257:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:23:14.62:+UZ/pLeq0
俺はなんとなくネコミミを手にとってみた。
梓「って、なんで猫にネコミミをつけるんですか…意味ないですよ…」
朋也「これで、二倍猫になるだろ」
梓「もう…なんなんですか、それ。意味がわかりませんよ」
梓「ほんと、馬鹿なんだから」
柔和に微笑む。
初めて俺に向けられた曇りのない笑顔。
いつもこんな風に笑っていてくれれば、こいつも無害な普通の女の子なのだが。
声「あら、岡崎じゃない」
朋也「ん…」
声がして、顔を向ける。
そこには一人の女性が立っていた。
女性「奇遇ね。こんなとこで、なにやってんの」
朋也「美佐枝さん…」
この女性、学生寮の寮母をやっている人だった。
名は相楽美佐枝。
寮生でない俺も、あれだけ通い詰めていれば、嫌でも顔見知りになる。
美佐枝「ところで…そっちの子は?」
258:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:24:33.41:jpDSDOMkO
中野を見て言う。
朋也「ああ…まぁ、後輩だよ」
梓「あ、初めまして。中野梓といいます」
美佐枝「これは、ご丁寧にどうも。私は、相楽美佐枝。学生寮の寮母をやってるの」
梓「寮母さんなんですか…すごくお若いのに…」
美佐枝「あら? そうみえる? ありがと」
美佐枝「にしても…」
美佐枝「岡崎、あんたも隅に置けないわねぇ。こんな可愛い子とデートなんてさ」
梓「な、ち、違いますっ」
中野が勢いよく否定する。
美佐枝「ありゃ、彼女じゃなかったの?」
朋也「こいつとはそんなんじゃねぇよ」
梓「そ、そうですよっ」
美佐枝「ふぅん、なかなか似合って見えたのにねぇ」
梓「そ、そんなことないですっ! 私たち、犬猿の仲なんですっ」
259:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:24:53.87:+UZ/pLeq0
梓「こ、こんな人となんて…そんな…」
美佐枝「あんた、嫌われてるの?」
朋也「少なくとも、好かれちゃいないかな」
美佐枝「あ、そなの」
朋也「ああ」
猫「にゃあ」
中野の膝の上、猫が鳴いてた。
美佐枝「あら…可愛い猫だこと。触ってもいい?」
梓「あ、もちろんです」
美佐枝「ありがと。それじゃ…」
くすぐるように顎を撫でた。
ごろごろと気持ちよさそうに唸る。
美佐枝「あんたの猫なの?」
梓「いえ…野良なんです」
美佐枝「へぇ、それにしては毛並みが綺麗よね」
梓「ですよね。可愛いです」
260:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:26:18.66:jpDSDOMkO
美佐枝さんが撫でると、猫もうれしいのか、尻尾をピンと立てていた。
ここまで気を許させてしまうのは、この人の持つ、包み込むような母性のためだろうか。
動物にもそれが直感的にわるから、安心して身をゆだねることができるのかもしれない。
どうせ飼われるなら、こんな人がいいと思う。
面倒見のいいこの人のことだ、きっと大事にしてくれるに違いない。
だが、寮で飼うなんてことが許されるのだろうか…
そこだけが唯一気にかかる。
朋也(ダメもとで訊いてみるか…)
朋也「美佐枝さん。そいつ、飼ってやれないか」
美佐枝「え? あたしが?」
朋也「ああ。俺たち、ずっと飼ってくれる奴探してたんだけど…」
俺はこれまでのいきさつを美佐枝さんに話した。
美佐枝「はぁ…その猫の怪我、そういうことだったんだ」
朋也「ああ。だから、頼むよ。美佐枝さんなら、安心して任せられるし」
梓「私からも、お願いします」
美佐枝「う~ん…でもねぇ…」
美佐枝「………」
顎に手を当て、しばしの間、思案に暮れる。
261:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:27:15.50:+UZ/pLeq0
美佐枝「…猫、か。もう一匹増えたところで、変わりないか…」
何かつぶやいていたが、小さくて聞き取れなかった。
美佐枝「うん…わかった。一応、つれて帰ったげる」
梓「ほんとですかっ? ありがとうございますっ」
美佐枝「でも、正式に飼うわけじゃないわよ」
朋也「どういうこと?」
美佐枝「原則、寮でペットを飼うのは禁止されてるからねぇ」
美佐枝「おおっぴらには飼えないってことよ」
美佐枝「部屋を間借りさせてあげるのと、餌をあげることくらいしかできないけど…」
美佐枝「それでもいい?」
梓「十分ですよっ」
朋也「ああ、それだけしてくれりゃ、飼ってるのと変わりねぇよ」
美佐枝「そ。じゃあ、あたしはもう帰るとするかねぇ」
美佐枝「さ、おいで」
猫をその胸に抱く。
一片の抵抗もみせず、大人しく美佐枝さんの腕の中に収まっていた。
262:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:29:27.81:jpDSDOMkO
朋也「ありがとな、美佐枝さん」
梓「ありがとうございますっ」
美佐枝「ん、いいわよ、別に」
美佐枝「それじゃね」
朋也「ああ」
梓「はいっ」
俺たちに背を向け、歩いていく。
梓「よかったぁ…」
よほど嬉しかったのか、肩の力を抜いて、安堵の表情を浮かべていた。
朋也「そうだな」
おもむろに、ぽむっと中野の頭に手を乗せる俺。
梓「な、なにするんですかっ」
が、すぐに振り払われた。
朋也「いや、いい位置にあったから」
梓「そ、そんな理由で触らないでくださいっ」
263:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:29:57.78:+UZ/pLeq0
朋也「悪かったな。もうしねぇよ」
梓「………」
朋也「そんじゃ、俺も行くからさ。じゃあな」
言って、俺も美佐枝さんが行ったのと同じ方向に足を向けた。
これから春原の部屋に向かうつもりだった。
今からなら、途中で美佐枝さんに追いつくだろう。
別れの挨拶をした意味がないな…ぼんやりと思う。
梓「あ、あのっ」
朋也「なんだよ」
声をかけられ、振り返る。
梓「きょ、今日はありがとうございましたっ…協力してくれて…」
梓「その…岡崎先輩のおかげで、飼い主も見つかりましたし…」
梓「猫を助けようって、必死になってもくれましたし…」
梓「ちょっとだけ…見直しました」
朋也「そりゃ、どうも」
梓「それと…頭に手を乗せられたのも、ほんとは嫌じゃないっていうか…」
梓「むしろ…その…」
266:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:31:07.50:jpDSDOMkO
もじもじとしているだけで、その先は出てこなかった。
朋也「じゃあさ、これからは仲良くしてくれよな、あずにゃん」
梓「な、あ、あずにゃんって呼ばないでくださいっ」
梓「この調子乗りっ! うわぁぁんっ」
顔を真っ赤にして、どぴゅーっとものすごい勢いで逃げていった。
朋也(変な奴…)
だが、少しだけあいつとの関係が改善された…ような気がした。
―――――――――――――――――――――
267:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:31:30.34:+UZ/pLeq0
4/30 金
唯「あ~…だるぅい~」
憂「お姉ちゃん、たった一日で休みボケしすぎだよ」
唯「だってぇ…もうゴールデンウィーク入ったって錯覚しちゃったんだもん…」
憂「あしたいけば、本物の連休がくるから、がんばろ?」
唯「う~…えいっ」
憂ちゃんに腕を回し、全体重を預ける平沢。
憂「な、なに? 重いよぉ、お姉ちゃん…」
唯「このまま進んで、学校まで運んでよぉ~」
憂「うぅ…わかったよ…私頑張るね…」
憂「よいしょ…よいしょ…」
懸命にずるずる引きずっていく。
唯「遅いよぉ~スピード上げてよぉ~」
憂「う、うん、わかったよ…よい…しょ…」
憂「あ…もうだめ…」
268:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:32:07.14:LXRyRTn+0
ええ話や。゚(゚´Д`゚)゚。
269:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:32:50.06:jpDSDOMkO
ぺたり、とその場にへたりこんでしまう。
朋也「自分で歩けよ、平沢」
朋也「ほら、憂ちゃん」
手を差し伸べる。
憂「あ、ありがとうございます」
その手を取って立ち上がる憂ちゃん。
平沢は崩れ落ちたまま微動だにしなかった。
唯「はひぃ…」
朋也「置いてくぞ」
唯「ああ…まってぇ」
のろのろ立ち上がり、追ってくる。
唯「岡崎くん、しがみついていい?」
朋也「だめ」
唯「けちぃ…」
―――――――――――――――――――――
270:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:33:09.99:+UZ/pLeq0
下駄箱まで足を運んでくる。
朋也「おい、平沢…そろそろ離せ」
唯「え~、教室まで連れてってくれてもいいじゃん…」
結局、坂を上ったあたりから、平沢を引きずってくることになってしまっていた。
あまりにもしつこかったので、俺のほうが折れてしまったのだ。
朋也「ここまででいいだろ。さっさと靴履き替えろ」
唯「ぶぅ…」
声「…おはようございます」
…この声。
振り向く。
梓「………」
中野が引きつった笑顔をぴくぴくとひくつかせ、音もなく背後に立っていた。
…おまえは忍者の末裔か。
唯「あ、あずにゃん、おはよぉ」
朋也「…よぅ」
梓「………」
眉間に寄った皺は消えそうにない。
272:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:34:35.22:jpDSDOMkO
また、いらぬ恨みを買ってしまったんだろうか…。
梓「…また、放課後に」
唯「うん、部活でね」
梓「それじゃ、失礼します」
言って、軽く会釈。
最後に俺をちらっと見て…
梓「…馬鹿」
ムッとした顔を向け、そう口が動いた気がした。
それも、一瞬のことだったので、定かではなかったが。
―――――――――――――――――――――
………。
―――――――――――――――――――――
昼。
唯「あぁ…刻(とき)が見える…」
平沢は未だにローテンションを引きずっていた。
唯「はぁ…むしろ生きる意味がわからない…」
273:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:35:00.28:+UZ/pLeq0
澪「どんどんひどくなっていってるな…」
和「唯、口からぼろぼろこぼれ落ちてるから、咀嚼する時だけは気合入れなさい」
唯「ああぅ…わかた…多分」
春原「はは、情けねぇなぁ。もっとピシッとしろよ」
律「おまえは今日も重役出勤だったくせに、えらぶんな」
春原「うるせぇっ! 元気があればなんでも出来るんだよっ!!」
律「うわっ、ばかっ、口の中に食べ物含んだまま叫ぶなよっ!」
律「内容物が飛び散ってんだろうがっ! 私に当たったらどうすんだよっ!」
春原「避ければいいじゃん」
律「おまえが飛ばさなきゃいいの!」
律「ったく…」
朋也「あ、部長、右肩んところ…」
律「ん?」
律「うひぃ、ちょっと被弾しちゃってるし…最悪…」
汚らしそうに、ばっばっと振り払っていた。
274:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:36:10.24:jpDSDOMkO
澪「唯、今日が山場だ。明日は4時間だし、ここさえ乗り切ってしまえば、あとは楽だぞ」
春原「そうそう、土曜なんて、あってないようなもんだしね」
律「そりゃ、おまえが大抵昼からしかこないからだろ」
唯「う~ん、わかっちゃいるけど、体がついてこないよぉ…」
紬「唯ちゃん、よかったら、これ食べて、元気出して?」
琴吹が弁当箱から高級そうなだんごを覗かせた。
唯「え? いいの?」
紬「うん、もちろん」
唯「やったぁ、それじゃ…あ~ん」
餌を待つヒナ鳥のように口を開けた。
紬「はい、あ~ん」
箸で平沢の口まで運ぶ琴吹。
澪「そこまでめんどくさがるのに、ちゃっかりもらうんだな…」
唯「むぐむぐ…おいひぃ~」
紬「ほんと? よかったぁ」
275:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:36:37.73:+UZ/pLeq0
律「しょうがねぇなぁ、私からもやるよ…このキンピラゴボウ」
春原「おまえ、またんなもん食ってんの」
律「うるせぇなぁ、りっちゃんキンピラは最高にうまいんだぞ」
唯「う~ん…一応もらっておこうかな…あ~ん」
また口を開けて待つ。
律「一応とはなんだ、一応とは」
言いながら、箸でひとかたまり摘んで、口に運ぶ。
唯「むぐむぐ…ぺっぺっ」
律「あーっ! てめぇ、唯!」
春原「ははは、だせぇ」
律「こぉの野郎ぉーっ!」
平沢に横からヘッドロックをかける部長。
唯「ご、ごめぇん、冗談だよ、おいしいよぉ」
律「80回以上噛んでから飲み込め、こらっ!」
唯「2回で許してぇ」
276:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:37:54.29:jpDSDOMkO
律「味が出る前に飲み込もうとしてるだろ、それっ!」
律「不味いって言いたいのかよぉ!」
ぎりぎりと締め付けていく。
唯「うわぁん、嘘、嘘だよ! 分子レベルまで噛み締めるから、許してぇ」
澪「まったく…もっと静かに食べられないのか」
唯「冷静なこと言ってないで、助けてよぉ、澪ちゃんっ」
紬「くすくす」
こうして、昼も騒がしく過ぎていった。
―――――――――――――――――――――
………。
―――――――――――――――――――――
放課後。
唯「………」
梓「唯先輩、どうしたんですか?」
平沢は机に突っ伏して、一言も発していなかった。
277:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:38:24.26:+UZ/pLeq0
律「なんか、連休前で、息切れしてるんだってさ」
梓「はぁ…」
紬「はい、唯ちゃん。ここ、置いておくね」
唯「ん…」
少し顔を上げる。
唯「ひゃっほうっ、今日はチーズケーキなんだねっ!」
ケーキを目の前にして、今まで伏せていた上体を勢いよく起こしていた。
澪「いきなり元気になったな…」
律「現金な奴…」
―――――――――――――――――――――
春原「おい、部長。ちょっとラジカセ貸してくんない?」
律「あん? どうすんだよ」
春原「これをかけようと思ってね」
ポケットからカセットテープを取り出す。
春原「ボンバヘッ聴きながら、ムギちゃんの用意してくれたお茶を飲む…」
279:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:39:53.66:jpDSDOMkO
春原「これ以上のくつろぎ方はこの世に存在しないね」
律「いや、いいけどさ…ボンバヘッってなによ?」
春原「かぁ、知らねぇのかよ、あの有名なHIPHOPの最高峰を」
春原「おまえ、それでも軽音部部長かよ」
律「いや、聞いた事ないからさ…みんな知ってるか?」
唯「知らなぁい」
澪「私も…」
紬「私も、ちょっと…」
梓「私も聞いたことないです」
春原「ええ、マジ? じゃ、この機会に知っておいたほうがいいよ」
春原「部長、ラジカセまだかよ」
律「物置にあるから、自分で取ってこい」
春原「ちっ、気の利かねぇ奴だな」
律「おまえのために動く道理なんかねぇよ」
春原は物置に入っていくと、ややあってラジカセを手に戻ってきた。
280:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:40:31.33:+UZ/pLeq0
春原「んじゃ、かけるよ」
テープを入れ、再生ボタンを押す。
流れてきたのは、古臭い歌謡ヒップホップ。
朋也(ダッサ…こんなの聴かねぇだろ…)
春原「よくない? ボンバヘッ!」
律「ん、まぁ、なかなか…」
唯「ノリがいいよね」
澪「そうだな。普段、こういう曲はあんまり聞かないけど、いいかも」
紬「うん、なんか、親しみやすいなぁ」
梓「ちょっと古い感じしますけど…逆に新鮮でいいです」
春原「へへ、だろ?」
…意外と好評のようだった。
春原「おまえら、どんどんボンバヘッコピーして、いいバンドになれよ」
律「アホか。私たちの音楽性と違いすぎるわ」
梓「音楽性って…それも、プロみたいでちょっと大げさな気もしますけどね」
唯「でも、おもしろそうじゃない? ボンバヘッ時間とかやってみたらさ」
281:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:41:47.79:jpDSDOMkO
律「んなアレンジするかよ…澪だって、歌詞思いつかないだろ、そんなんじゃ」
澪「う~ん…頑張ればできるかも…」
律「できるんかい…」
唯「どんな感じ? 澪ちゃん」
澪「うん…えっと…」
澪「キミをみてると、いつもハートBON☆BAHE…とか…」
静まり返る室内。
澪「………」
律「じゃ、練習しよっか」
唯「そだね」
梓「やってやるです」
紬「頑張りましょうね」
春原「岡崎、せんべいちょっとわけてよ」
朋也「いいけど」
澪「ちょっと待てぇっ!」
282:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:42:13.64:+UZ/pLeq0
律「どうしたんだよ、澪。んな大声出しちゃって」
澪「なんでなかったことにされてるんだよっ!」
律「いや、だって、すげぇ微妙だったし…」
澪「仕方ないだろぉ! 即興だったんだからっ!」
律「にしてもなぁ…」
澪「うぅ…じゃあ、納得できるもの書いてきてやるっ」
澪「春原くん、後でテープダビングさせてっ!」
春原「あ、ああ、いいけど…」
律「澪ちゃ~ん、そこでまでしなくていいからなぁ~…」
―――――――――――――――――――――
練習が始まり、俺たちは暇になる。
今残っている茶を飲み干せば、退散を決め込むつもりだった。
春原「う~ん…まだか…」
春原がなにやらラジカセのアンテナをしきりに動かしていた。
朋也「なにやってんの、おまえ」
春原「みてわかんない? ラジオ聴こうとしてんだよ」
283:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:43:32.82:jpDSDOMkO
朋也「いや、わかるけどさ、なんで琴吹に向けてんの」
ちょうど、胸のあたりに照準を合わせているような…
春原「どうせなら、ムギちゃんのおっぱいを通った電波受信したいじゃん」
朋也「あ、そ…」
こいつは絶対アホだ。
春原「うぉおおおっきたきたぁっ!」
じりじりとラジカセが音を立て始める。
内容は、情報番組のようだった。
春原「ちっ、なんだよ、つまんねぇチャンネルだなぁ」
春原「せっかくムギちゃん通してんだから、ムギちゃんのおっぱい情報を事細かに伝えろよなぁ」
朋也「琴吹の前に、どっかのおっさんを5、6回経由してきたようだな」
春原「マジで? それ、やべぇよ」
春原「くそぉ、知りてぇえええ! ムギちゃんのおっぱい秘話っ!!」
がんっ
春原「イテぇっ!」
ドラムスティックが春原の顔面に直撃していた。
284:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:44:04.31:+UZ/pLeq0
律「変態発言はよそでやれ、アホっ!」
部長が投げ放った物のようだ。
春原「顔面狙うことないだろ、クソデコっ!」
律「黙れ、変態ヘタレ野郎っ!」
悪口の応酬が始まる。
平沢たちは部長を、俺は春原をなだめ、なんとか場を収めた。
律「ったくぅ…ムギもなんとか言ってやれよぉ」
律「こいつ、ムギにすげぇやらしいことしてたんだぜ?」
律「セクハラだよ、セクハラ」
春原「いや、そういうつもりじゃ…」
春原「ちょっとしたジョークだよ。ムギちゃんなら、わかってくれるよね?」
紬「えっと…もう少しで、立件できそうなの」
春原「前々から準備進めてたんすかっ!?」
律「わははは!」
―――――――――――――――――――――
結局、最後まで居座ってしまい、一緒に下校することになってしまっていた。
285:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:45:38.15:jpDSDOMkO
春原が寮に戻り、俺ひとりが女集団の中に残されたので、やはり少し離れて歩いた。
目の前では、平沢たちが楽しげに会話をしている。
部長と平沢がボケて、秋山と中野がつっこみを入れ、琴吹が笑う。
役割が大体決まっているのだろうか。よく見かける構図だった。
澪「岡崎くん」
話がひと段落ついたのか、輪から抜けて、秋山が俺に近寄ってきた。
他の奴らは、次の話題に移っているようだった。
朋也「なんだ」
澪「今ね、みんなで星座占いやってたんだけど…」
言って、持っていた携帯に目を落とす。
澪「よかったら、岡崎くんもやってみない?」
朋也「俺?」
澪「うん。興味ないかな、やっぱり…」
少し寂しそうな顔。
確かに、別段興味はなかったが…
こんな顔をされては、断る気にもなれない。
朋也「さそり座」
澪「え?」
286:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:45:59.63:+UZ/pLeq0
朋也「俺の星座だよ。占ってくれるんだろ」
澪「あ…うんっ」
表情をぱっと明るくして、携帯を操作する。
澪「えっとね…」
澪「今日のあなたは超絶好調☆誰にも止められない☆邪魔者はみんな叩き殺しちゃえ☆」
澪「…ということだそうです」
…どんな占いサイトだ。
澪「あはは…よかったね…すごく運いいみたいだよ…」
秋山もその結果に、とういうか、文章にうろたえているのか、声がうわずっていた。
朋也「ああ…みたいだな。まぁ、すでに今日も後半に入ってるけどさ」
澪「あはは…そうだね…」
朋也「はは…」
澪「あはは…」
意味もなく笑う俺たち。
澪「あの…相性占いもしてたんだけど…やってみる?」
287:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:48:54.72:jpDSDOMkO
口直しに、とでもいうように、そう訊いてきた。
朋也「相性って…俺と、誰を?」
澪「誰でもいいよ。名前と、誕生日を知ってる人なら」
澪「春原くんとか、どう?」
朋也「いや、あいつは、俺の中でまだ顔と名前が一致してないくらいの仲だしな」
朋也「相性なんて、どうでもいいよ」
澪「そ、そんな他人みたいな…ひどいなぁ…あんなに仲いいのに」
朋也「よくない」
澪「素直じゃないんだね」
朋也「本音だ」
澪「あはは…そういうことにしておくね」
澪「じゃあ、春原くん以外で、誰かいる?」
朋也「そうだな…」
俺の交友関係なんて、あいつを除けば、ほとんど無きに等しい。
改めて考えてみると、俺って、かなり寂しい奴なんじゃないだろうか…。
澪「もし、よかったら…私たちの内の誰かでもいいよ」
288:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:49:33.45:+UZ/pLeq0
朋也「おまえでも?」
澪「え、わ、私? 私なんかで、いいの…?」
澪「岡崎くん、唯と仲いいし…その…相性知りたいんじゃないかなって…」
また平沢との疑惑が持ち上がってくるのか…。
これももう何度目だろうか。
まぁ、今となっては、俺自身、そんなに嫌でもなかったが…
朋也「おまえとにするよ」
だが、露骨に俺から近寄っていくのも、何か違う気がした。
第一、平沢は、その気がないとかつて言っていたこともあるのだ。
だから、今のままが一番いいと思う。
澪「…う、うん、わかった…じゃあ、私とで…」
携帯の画面と向き合い、カチカチと入力していく。
澪「岡崎くん、誕生日は?」
朋也「10月30日」
澪「10月…30…」
俺の返答を聞くと、また画面に目を戻し、入力を始めた。
澪「名前の、ともや、ってこの字でいいかな?」
289:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:51:58.88:LXRyRTn+0
澪ちゃんかわええ
290:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:52:14.75:jpDSDOMkO
画面を俺に見せてくる。
朋也「ああ、いいよ」
澪「えっと…朋也っと…」
澪「血液型は?」
朋也「A型」
澪「Aっと…」
澪「それじゃあ…」
カチッと一押しする。
最後の入力が終わったようだ。
澪「あ…出てきた…」
幾ばくかの間があって、そう声を上げた。
澪「………」
画面をじっと見つめたまま何も言わない。
言い辛い結果だったんだろうか。
朋也「どうだったんだ」
澪「うん…えっと…」
291:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:53:17.59:+UZ/pLeq0
澪「…話す内、お互い、気を許し合えることがわかります」
澪「長年に渡って、良きパートナーとなれるでしょう…」
澪「…って、ことなんだけど…」
朋也「ふぅん、結構よさげじゃん」
澪「う、うん、そうだね…」
澪「それで…男女ペアだったから、もうひとつあるんだけど…」
男女ペア特有の相性…それは、やっぱり…
澪「あの…恋愛相性…なんだけど…」
…そうなるか。
澪「き、興味、あるかな…?」
頬を赤らめながら訊いてくる。
朋也「あ、ああ…まぁ、一応」
仮にも、秋山は美人の部類である女の子だ。
そんな奴との相性が気にならないと言ったら、それは嘘になる。
澪「じ、じゃあ、言うよ…えっと…」
澪「…お互いの精神的弱点を補い合い、成長できる恋愛が出来そうです」
292:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:55:19.55:jpDSDOMkO
澪「強さと繊細さを持ち合わせた理想のカップルとなれるでしょう…」
澪「………」
言い終わると、口をきゅっと結び、目を泳がせながら押し黙ってしまう。
朋也「あー…俺たち、相性いいみたいだな」
つとめて淡白な素振りを意識して、軽い口調で言った。
所詮アルゴリズムで弾き出された答えだ。
気負うことはないと、そう伝えたかったからだ。
澪「う、うん、そうだね…」
俺の意思が通じたのか、秋山も笑顔を作ってそう返してくれた。
澪「あの…岡崎くんってさ…」
朋也「うん?」
澪「えっと…」
グサ
下腹部に違和感。
澪「あ…」
朋也「…ん?」
293:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:55:54.50:+UZ/pLeq0
秋山から視線を外し、下にさげていく。
…股間に枝が突き刺さっていた。
朋也(なぜ…)
ゆっくりとその先に視線を這わせていくと、中野が呆れた顔で突っ立っていた。
梓「まったく、ちょっと目を離すとすぐふたりっきりになろうとする…」
梓「最低です」
朋也「いや、まずこの枝どけろよ」
言って、振り払う。
が、すぐにまた戻される。
澪「あ、梓、やめなさい」
梓「だって、澪先輩がこのけだものに襲われてたから…」
澪「そんなことされてないから、やめなさい」
梓「…はい」
しぶしぶ枝を自然に還していた。
まぁ、ただ捨てただけなのだが。
梓「岡崎先輩、後ろの方でこそこそといちゃつくのはやめてください」
朋也「んなことしてねぇって」
295:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:57:34.93:jpDSDOMkO
澪「そ、そうだぞ、ただ私が話しかけて…」
梓「澪先輩、だまされちゃだめですっ」
澪「はうっ…」
その迫力に気圧される秋山。
梓「気を許させて、そこから一気に畳み掛けるつもりなんですからっ」
梓「岡崎先輩、卑怯ですよ、こんな純情な澪先輩まで毒牙にかけようなんてっ」
朋也「ただトークしてただけだっての…」
梓「そんなに女の子とふたりっきりで話したいんですかっ」
朋也「いや、俺は…」
梓「そういうことなら…私…私が犠牲になるので、先輩たちに手を出さないでくださいっ」
朋也「じゃあ、おまえとならいちゃついてもいいってことかよ」
梓「な、なななっ…」
梓「…そ、それで岡崎先輩が大人しくなるなら…我慢しますです…」
澪「あ、梓…」
律「おーおー、敬語が雑になるくらい動揺しちゃって…」
296:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:58:02.00:+UZ/pLeq0
紬「あらあら、梓ちゃんったら…」
いつの間にやら部長と琴吹も集まってきていた。
律「まさか、梓まで攻略するなんてな…岡崎、おまえ、すげぇよっ」
梓「ななな、なに言ってるんですかっ! そんなことされた覚えありませんっ!」
律「だってさぁ、岡崎が他の女といちゃつくの嫌なんだろ?」
律「それで、今、独占しようとしてたじゃん」
梓「違いますっ! あくまで身代わりになろうとしてただけですっ!」
律「ふぅん、身代わりねぇ…いひひ」
梓「り、律先輩っ! 変な笑い方しないでくださいっ」
律「いやぁ、おもしろくなってきましたなぁ、ムギさんや」
紬「そうですねぇ、りっちゃんさん」
梓「む、ムギ先輩までっ…」
声「おお、すごぉいっ!」
前方で声。この場に居合わせた全員が前を向く。
唯「りっちゃんとトンちゃんの相性ばっちりだよっ…って、あれ?」
298:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:58:59.94:jpDSDOMkO
唯「なんでみんなそんな後ろの方にいるの?」
平沢がひとり、こちらを振り返ってきょとんとしていた。
律「あいつは…なにとあたしの相性占ってんだよ…」
唯「ほら、りっちゃんみてみて、トンちゃんとの相性!」
とてとて走ってくる。
唯「すごいフィーリングだよっ。よかったねっ」
唯「りっちゃん、私たち全員と相性微妙だったからっ」
律「それは言うなぁっ!」
バックを取り、チョークスリーパーをかける。
299:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 01:59:19.63:+UZ/pLeq0
唯「うわぁん、ごめんなさぁいっ」
騒ぎ出すふたり。
澪「…はぁ」
秋山が俺の隣でため息をついていた。
そういえば、中野が現れる前、なにか俺に言おうとしていたような…
朋也「なぁ、さっきなにか言いかけてたけど、なんだったんだ」
澪「ん? うん…いいの、なんでもない」
朋也「あ、そ」
澪「うん…」
間が空いて、興がそがれてしまったんだろうか。
何を言おうとしていたのか…少しだけ気になった。
それは、こいつの横顔が、やたらと儚げにみえたからだろう。
物憂げな表情も、こいつなら絵になるものだと…
この時、俺は単純に感心していた。
―――――――――――――――――――――
301:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:00:19.85:+UZ/pLeq0
5/1 土
唯「ふでぺーんふっふー♪ ぐふふ」
憂「お姉ちゃん、きのうとは別人のようにハイテンションだよね」
唯「まぁね~。明日からは黄金週間だしね~おもいっきりだらだらするんだぁ」
憂「でも、お父さんとお母さんが帰ってくるから、家族で出かけるんだよ?」
憂「話、聞いてたでしょ?」
唯「え? うん、まぁ…」
憂「忘れちゃってた?」
唯「いや、えっと…覚えてたよ…うん…」
声のトーンが落ち、濁したように答えていた。
唯「………」
俺の顔色を窺うように、ちらりと見上げてくる。
目が合っても、逸らそうとはしない。
その瞳には、なにか複雑な色をたたえていた。
…ああ、そうか。今、わかった。
平沢は、俺を気遣ってくれているのだ。
こいつには、うちの家庭環境を話していたから、それで。
朋也(そういうことには敏感なんだよな、こいつは…)
302:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:01:48.40:jpDSDOMkO
俺は平沢の頭に手を乗せ、ぽむぽむと軽く触れた。
唯「…ん、なに? どうしたの?」
朋也「いや、なんでも」
唯「?」
―――――――――――――――――――――
………。
―――――――――――――――――――――
昼。
律「ったく、なんでネタ被らせてくんだよ、ばか」
春原「僕の方が先に食券買ってただろうがっ! おまえが加害者で、僕が被害者だっ」
律「ごちゃごちゃうっせぇやい、りっちゃんちゃぶ台返し食らわすぞっ!」
今回のいざこざは、ふたりが同じメニューを購入してきたことに端を発していた。
部長は普段、弁当食なのだが、気分を変えたかったらしく、今日は学食を利用していたのだ。
春原「んな言いにくい技、僕には通用しねぇってのっ」
律「なんだとぉ! じゃあ、食らわせてやるよっ」
腕まくりする部長。
303:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:03:25.90:jpDSDOMkO
律「死んでからあの世で後悔するんだなっ」
唯「まぁまぁ、落ち着きなよ」
平沢が肩にぽん、と手を乗せる。
唯「おんなじもの選ぶってことは、それだけ気が合うってことだよ。だから、仲良くしなきゃだめだよ?」
律「気も合わないし、仲良くもしねぇってのっ。あんまりおぞましいこと言うなよなぁ」
律「こんなヘタレなんかと一緒にされた日にゃ、くそ夢見悪ぃよ」
春原「あんだとっ! てめぇ、あとで便所裏こいやぁっ!」
朋也「それが男子便のことを指すなら、裏は女子便ってことになるな」
春原「えぇ? それ、マジ?」
そのつもりで言っていたようだ。
律「なんてとこ呼び出そうとしてんだ、この変態っ!」
春原「ち、ちが…そ、そうだ…体育館裏こいやぁっ!」
朋也「告白でもするのか? あそこ、告りスポットで有名だぞ」
春原「マジかよっ!?」
律「うわ…勘弁してよ…」
304:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:03:57.04:+UZ/pLeq0
春原「くそ、勘違いするなよ…えっと…えっと…」
朋也「校庭に生えてるでかい樹の下でいいんじゃないか。なんか伝説あるみたいだし」
春原「そ、そうか…じゃあ…」
春原「校庭にある伝説の樹の下までこいやぁっ!」
朋也「敬語のほうが丁寧で印象もよくなるし、来てくれる確率もあがるんじゃないか」
春原「そ、そっか、じゃあ…」
春原「校庭にある伝説の樹の下まで来てくださいっ!」
春原「って、こっちの方が告ろうとしてるようにみえるだろっ!」
朋也「成功したら、次は実家に呼び出せよっ」
ぐっと親指を立ててみせる。
春原「なんだよそのさわやかさはっ! つーか、展開早ぇよっ!」
律「最低…そんな目であたしをみてたんだ…キショ…」
春原「あ、てめぇ、勘違いすんなよ、こらっ!」
唯「春原くん、大胆だねっ」
春原「ああ? だから、違うって言ってん…」
305:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:04:34.82:+UZ/pLeq0
紬「頑張って、春原くんっ」
春原「って、え゛ぇえっ!? ムギちゃんまで…」
朋也「よかったじゃん、追い風吹いてるぞ。本人には拒否されてるけど」
春原「岡崎、頼むからもうおまえは喋らないでくれ…」
―――――――――――――――――――――
………。
―――――――――――――――――――――
放課後。
紬「あの…ちょっとみんなに見てもらいたいものがあるんだけど…」
いつものように茶をすすっていると、琴吹がおもむろに口を開いた。
春原「うん? なにかな? もしかして、おっぱ…」
律「黙れ、変態っ」
ぽかっ
春原「ってぇな…」
律「それで、ムギ、なに? みせたいものってさ」
306:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:06:14.65:jpDSDOMkO
紬「うん…マンボウ改、なんだけど…」
律「マ、マンボウ改…?」
唯「ムギちゃん、なに、それ?」
紬「ほら、一年生の時に、クリスマスパーティーやったじゃない?」
紬「あの時、一発芸で私が披露した、あれの改良版なの」
唯「あ、ああ、なるほどねぇ~…」
澪「あ、あれか…」
とすると、二年前のことなんだろう。
俺と春原にはさっぱりわからない話だった。
梓「なんなんです? マンボウって」
…ああ、こいつもか。
澪「いや、口じゃちょっと説明しづらいっていうかだな…」
梓「そうなんですか?」
澪「ああ…」
律「しっかし、なんでまたそんなものを…」
紬「鏡みてたら、急に思い出しちゃって…」
307:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:06:34.38:+UZ/pLeq0
紬「それで、ひとりで思い出し笑いしてたら、新しい案が閃いちゃったの」
紬「で、完成型を今日みんなにみせるために、98429回は素振りしてきたのよ」
澪「す、素振りって、マンボウをか…?」
律「しかも、その回数かよ…」
唯「すごいポテンシャルを持ってるね…さすがムギちゃんだよ…」
紬「あ、ごめんなさい。そのくだりは嘘なの」
ずるぅっ!
天使のような笑顔で言われ、みな転けていた。
律「あ、そですか…」
紬「でも、マンボウ改が生まれたのは本当よ。みてくれるかな…?」
春原「僕は喜んで見るよっ」
紬「ほんとに?」
春原「うん。めちゃみたいよっ」
梓「私も興味あります」
唯「わ、私もあるかなぁ~…あはは~…」
308:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:08:04.65:jpDSDOMkO
澪「そ、そうだな、ある意味見てみたいかも…」
律「ほどほどにな、ムギ…」
紬「それじゃあ…」
ステージに登るようにして、俺たちの前に立つ。
目を閉じて、一度深呼吸…
腹を決めたのか、かっと見開いた。
紬「マンボウのマネっ」
口の中いっぱいに空気を含み、頬を膨らませ、手でヒレの部分を再現していた。
シュールだ…
朋也(つーか…)
…顔がおもしろい。
梓「え…」
春原「はは…」
初見のこのふたりも、ある種ぶっ飛んだこのネタについていけていないようだった。
紬「…改っ!」
叫び、手で虎爪を作って腕をひねらせながら前に突き出した。
そこで動きを止め、微動だにしなくなった。
どうやら、ここで終わりのようだ。
309:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:08:30.27:+UZ/pLeq0
………。
皆、唖然とした表情で、口をあけてぽかんとしていた。
律「ムギ、今のは…?」
紬「威嚇よ」
体勢を元に戻し、一仕事やりとげたいい顔でそう答えた。
律「い、威嚇…」
澪「マンボウって威嚇するのか…?」
唯「っていうか、攻撃してたよね?」
律「ああ、こう、腕が敵にめり込んでたっていうかさ…」
律「マンボウの面影がまったく残ってない攻撃方法だったよな」
梓「絶対あのマンボウは生態系の頂点にいると思います」
次々にダメ出しされていく。
紬「…ダメ、だったかな…」
顔を伏せ、しょぼくれる琴吹。
春原「さ、最高だったよ、ムギちゃんっ!」
春原の苦し紛れの賛辞が飛ぶ。
310:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:09:49.78:jpDSDOMkO
律「あ、ああ、言うほど悪くなかったぞ、ムギっ」
澪「う、うん、再現度高かったぞっ」
唯「だよね、一瞬マンボウが陸で二足歩行してるのかと思っちゃったよっ」
梓「す、すごくハイレベルな芸でしたよ。二発目以降も十分ウケると思いますですっ」
それに続き、部員たちのフォローが入る。
紬「…よかったぁ♪」
その甲斐あってか、もとの明るい表情を取り戻していた。
紬「じゃあ、アンコールにこたえて、もう一回…」
律「い、いや、もういいよっ」
律「…っていうか、アンコールしてないし…」
小声で言う。
澪「そんなに連続してやったら、ムギの体がもたないだろ?」
澪「休憩したほうがいいぞ、うん」
紬「そう…?」
唯「アンコールには、りっちゃんが代わりにこたえてくれるんだって」
311:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:10:19.51:+UZ/pLeq0
律「私かいっ」
唯「がんばって、りっちゃん」
澪「がんばれ、おまえの腕の見せ所だぞ」
律「あたしゃ芸人かい…」
律「でも、急に言われてもなぁ…ネタが…」
梓「ムギ先輩に倣って、マネシリーズでいいんじゃないですか」
律「マネか…う~ん、それもそうだな。じゃあ、なにがいいかな…」
312:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:11:42.45:jpDSDOMkO
律「ウケるには、滑稽な生き物がいいだろうから…」
律「む…そこから導き出される答えはただ一つ…春原、ってことになるな」
春原「あんだと、てめぇっ」
朋也「それはやめといた方がいい。難易度が高すぎる」
春原「そうだよ、こいつに僕のマネなんかできるわけないからね」
春原「滑る前に、無難なのにしといたほうがいいぜ、ベイベ?」
朋也「春原を再現しようと思ったら、白目向いて、痙攣しながら泡吹かなきゃいけないからな」
春原「って、なんでだれかにヤられた後なんだよっ!」
律「わははは!」
―――――――――――――――――――――
313:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:12:15.45:+UZ/pLeq0
5/2 日
ゴールンウィーク。その初日。
いや…世間ではもう、昨日から入っているところの方が多いのか…。
なら、正確には二日目なのかもしれない。
なんにせよ、その連休効果で町の中は人で溢れかえり、異様な活気に包まれていた。
まだ朝食を食べていてもおかしくはない時間だというのにだ。
朋也(交通量も多いな…)
やっぱり、この連休に遠出する世帯が多いんだろう。
道路がかなり混みあっていた。
そして、どの車の窓からも、楽しそうに会話する家族の姿が垣間見ることができた。
………。
朋也(なんか食うか…)
俺はとりあえずのところ、駅前に出ることにした。
―――――――――――――――――――――
朋也(今日は琴吹の奴、いなかったな…)
俺は琴吹のバイト先であるファストフード店で、少し遅めの朝飯を済ませていた。
毎週日曜にシフトが入っていると聞いていたのだが…店内にその姿は見えなかった。
朋也(旅行にでも行ってんのかな…あいつなら、海外とか…)
朋也(まぁ、なんでもいいけど…)
314:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:12:49.03:+UZ/pLeq0
寮の方に足を向ける。
これからまた春原の部屋で無意味に時間を浪費することになるのだ。
いつものことだったが、今だけは余計にむなしく思えた。
空は一点の曇りも無い快晴。そして、余裕たっぷりの連休初日。
なのに、俺のやることといえば、むさ苦しい男とふたりで悶々と駄弁るぐらいのものなのだから。
朋也(はぁ…)
予定のある奴らが恨めしい。
周りの道行く人たちも、これからの時間を満喫すべく動いているんだろう。
俺とは大違いだ。
朋也(いくか…)
考えていても仕方ない。そう思い、一歩踏み出すと…
声「なんで勝手にそんなことするのっ!?」
女の怒声。その声には、聞き覚えがあった。
目を向ける。
朋也(琴吹…)
見れば、なにやら誰かと揉めているようだった。
相手は、紳士風な、身なりのきちんとした、老いのある男性だ。
俺は正直、驚いていた。偶然、今ここで琴吹を見かけたこともそうだが…
まず、なにより、あの温厚な琴吹が、怒りをあらわにして声を荒げていることにだ。
あの男性となにがあったんだろうか…
紬「あ、ちょっと、離してっ!」
315:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:14:03.27:jpDSDOMkO
肩を掴まれ、必死に抵抗していた。
朋也(あ…あの野郎…)
俺は駆け足で近づいていった。
朋也「おい、あんた、なにやってんだ」
紬「あ…岡崎くん…」
男「ん…?」
男性の動きが止まる。
その隙を突いて、琴吹が俺の後ろに隠れた。
ぎゅっと服の裾を握ってくる。
朋也「こんな公衆の面前で、拉致でもしようとしてたのかよ、あんたは」
朋也「場合によっちゃ、警察につき出すけど」
男「いえ、待ってください、私は琴吹家の執事をやらせていただいている者で、斉藤と申します」
朋也「執事…?」
斉藤「はい」
そんな人までいるのか、琴吹の家は…。
改めて生きる世界が違うことを実感させられる。
斉藤「失礼ですが、あなたは、どちら様で…?」
316:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:14:55.66:+UZ/pLeq0
朋也「あ、ああ…俺は、琴吹さんのクラスメイトで…」
紬「私の片想いだった人よ」
朋也「…は?」
紬「でも、今両思いになったわ。そうでしょ?」
俺の腕に強く絡み、さらに力をこめてくる。
そこからは、やわらかい感触が伝わってきた。
胸が当たっているのだ。
…でかい。それが体感できる…。
朋也「あ、ああ…」
俺はなにがなんだかわからず、情けない声で肯定してしまっていた。
紬「ほらね。両思いの恋人同士なんだから、あなたは早く帰ってもらえる?」
紬「いつまでも一緒にいるなんて、野暮なことしないわよね?」
斉藤「………」
しばし、沈黙する。
斉藤「…はぁ。わかりました」
ひとつため息をついて、そう答えた。
斉藤「…お嬢様をよろしくお願いします」
318:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:16:11.37:jpDSDOMkO
振り向きざま、俺にそう告げると、路肩に駐車していた黒塗りのベンツに乗り込んで、車道に出て行った。
紬「………」
朋也「琴吹…そろそろ…」
紬「あ、ごめんなさい」
慌てて俺から離れる。
朋也「…で、なんだったんだ、今のは」
紬「うん…ちょっと、色々あって…」
紬「あ、そうだ、ごめんなさい、勝手に恋人なんかにしちゃって…」
朋也「いや、いいよ、別に。おまえとだし…嫌でもないからさ」
紬「そう? それは、ありがとう」
眩しい笑顔。
もういつもの琴吹に戻っていた。
朋也「よかったら、事情を聞かせてくれないか」
琴吹があそこまで取り乱していたのだから、どうしても気になってしまう。
紬「…うん」
少しの間があって、小さく返事が返ってきた。
319:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:16:47.34:+UZ/pLeq0
その表情には、少しだけ陰りが見えた。
なにがあったんだろうか…。
―――――――――――――――――――――
朋也「ふぅん…そうだったのか」
俺たちは、噴水のある広場に移動してきていた。
ベンチに腰掛け、琴吹から話を聞いていたのだが…
なんでも、勝手にバイトを辞めさせられていたらしい。
これ以上続けるのは、勉学に差し支えあると判断されたからだそうだ。
だが、そんなこと、本人の与り知らないところで決められるのだろうか。
そう疑問に思ったが…琴吹家の人間が動いているのだ。
大抵のことはまかり通ってしまいそうなので、すぐにその懐疑は消えていった。
朋也「それで、今日はバイト先に挨拶しにきてたのか」
紬「うん、そうなの。私からなにも音沙汰がないのは失礼だと思って」
朋也「そっか。やっぱ、しっかりしてるよ、琴吹はさ」
紬「ありがとう、岡崎くん」
朋也「でも、なんであの斉藤さんに止められてたんだ?」
止められるようなこともでもないと思うのだが…。
紬「あれは、止めてたっていうより、連れ戻そうとしてたのよ」
紬「今日は、家族でイタリアに発つ予定だったから」
321:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:18:11.54:jpDSDOMkO
紬「その便に間に合うように、私を迎えにきてたの」
紬「もう、時間がぎりぎりだったから」
朋也「ん? ってことは、今はもう…」
紬「うん、手遅れかな」
朋也「それは…いいのか?」
紬「いいのよ。勝手にバイトのこと決められちゃってたし…」
紬「私もね、言ってくれれば、考えたの」
紬「もう3年生だし、いつかは辞めないといけないのはわかってたから」
紬「でも、それをいきなり、私になんの断りも無くなんて、ひどいもの」
紬「だから、旅行なんていかないの」
むくれた顔で言う。
つまり、これはささやかな反抗というわけだ。
あの時咄嗟に出てきた片想い宣言にも、ようやく納得がいった。
朋也「じゃあ、今日はこれからどうするんだ」
朋也「旅行行くはずだったんなら、暇になったんじゃないのか」
紬「うん、そうね…残りの休日をどうやって過ごそうか、それを考える一日になりそう」
322:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:18:44.93:+UZ/pLeq0
朋也「ならさ、今日は俺と一緒に遊んでみないか」
せっかくだから、こういうのもいいかもしれない。
少なくとも、春原の部屋で退廃的にぐだついているよりはずっといい。
紬「え? いいの?」
朋也「もちろん。だって、俺たち、恋人同士なんだろ」
言葉遊びのつもりで、そう言った。
紬「あ…そうねっ。じゃあ、よろしく、朋也くんっ」
向こうも乗ってきてくれたようだ。
こんなところ、絶対に春原の奴には見せられない。
きっと、嫉妬に狂って暴れだすに違いない。
朋也「こっちこそ。紬」
紬「ふふ」
朋也「まずはバイト先に挨拶しにいかなきゃな」
紬「うんっ」
―――――――――――――――――――――
また駅前まで出てきて、ファストフード店まで足を運んでくる。
俺は店の外で琴吹をただじっと待っていた。
323:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:20:55.54:jpDSDOMkO
朋也(しかし、どういう反応をされるんだろうな…)
もしかして、自分の口で伝えなかったことを非難されたりするんだろうか…。
他の従業員からも、蔑みの眼差しで見られたり…。
………。
朋也(お…)
考えていると、自動ドアをくぐって琴吹が出てきた。
それも、晴れやかな顔を伴って。
朋也「どうだった」
その顔を見れば、訊くまでもないかもしれないが。
紬「うん…店長も、みんなも、今までご苦労様って、そう言ってくれたの」
朋也「よかったじゃん」
紬「うん。みんなすごくいい人たちで…私、ここで働けて本当によかった」
朋也「向こうも、琴吹と一緒に働けてよかったって思ってるよ」
だからこそ、そんな言葉をかけてもらえたんだろう。
朋也「なんたって、こんな可愛くて、その上しっかり者なんだからな」
紬「ふふ、ありがとう。すごく持ち上げてくれるのね」
朋也「そりゃ、今は俺、琴吹の彼氏だからな。自分の彼女は、褒めたいもんだよ」
324:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:24:35.25:jpDSDOMkO
紬「ふふ、私、岡崎くんの彼女になれてよかったな」
紬「こんなに優しくて、その上かっこいいんだもの」
朋也「そりゃ、どうも」
まるで頭の軽いカップルのような褒め合いだった。
朋也「じゃ、いこうか」
紬「うんっ」
同時、俺に手を重ねてくる琴吹。
朋也「あ…」
紬「いいでしょ?」
朋也「ん、ああ」
多少動揺が声に出てしまう。
紬「ふふ」
そんな俺をみて、余裕のある笑みを見せる琴吹。
朋也(なんなんだ、この差は…)
朋也(…まぁ、いいか)
325:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:25:02.85:+UZ/pLeq0
その手に温かさと柔らかさを感じながら、俺たちは歩き出した。
朋也「ああ、そうだ、どこか行きたいところあるか」
紬「う~ん、そうねぇ…岡崎くんに任せるわ」
朋也「俺か? いいのかよ。俺、女の子が好きそうな場所とかわかんないぞ」
紬「いいの。普段岡崎くんがいくところに連れてってほしいな」
朋也「まぁ、それでいいなら、俺も楽だけど…」
朋也「あんまり期待するなよ?」
紬「大丈夫。岡崎くんと一緒だもの。きっと、どこにいっても楽しいと思うの」
朋也「そっかよ…でも、余計にプレッシャーだな…」
紬「あはは、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんだけど」
紬「気楽にいきましょうね、岡崎くん」
朋也「ああ、だな」
朋也(しかし…)
琴吹にリードしてもらっているような、この現状…。
男として情けない…。
―――――――――――――――――――――
326:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:26:15.20:jpDSDOMkO
紬「ここが噂の…」
朋也「なんか、大げさだな」
紬「私、一度も来た事がなかったから…」
俺たちがやってきたのは、古本、新刊、中古CD、ゲームなどを総合的に扱っている中古ショップだ。
全国にチェーン展開し、その名を知らない者はいないのではないかというくらいに有名な店だった。
朋也「琴吹は、やっぱ新品で買うんだな」
紬「うん、そうなんだけど…立ち読みって、ずっとやってみたかったのっ」
朋也「そっか…」
やはり一般人とは少し違った感覚をしているようだ。
紬「はやくいきましょっ」
朋也「ああ」
こんなところ、ふたりして遊びに来るような場所でもないかと思ったのだが…
喜んでくれているようで、なによりだった。
―――――――――――――――――――――
紬「わぁ…ほんとにみんな立ち読みしてるぅ」
子供のように目を輝かせながら言う。
327:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:26:35.78:+UZ/pLeq0
紬「いくら読んでても、店員さんに注意されないのよね?」
朋也「ああ、そうだよ。だから、実質ここに住みついてるような奴もいるんだ」
紬「えぇ? ほ、ほんとに?」
朋也「ああ。ほら、あそこに座り込んでる奴がいるだろ?」
朋也「あいつは、ここら一帯を仕切ってる、いわば主みたいな存在だな」
朋也「だから、通り過ぎる時は挨拶しなきゃならないんだ」
紬「そ、そんなしきたりが…」
朋也「行ってみるか」
紬「う、うん」
座り込んでいる男のもとに歩み寄っていく。
紬「あ、あのっ…」
男「……?」
紬「わ、私、琴吹紬といいます。新参者ですが、どうぞよろしくお願いしますっ」
男「おぅ…あ…うぶぅ…」
朋也「琴吹、もういいぞ。認められた」
328:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:28:33.67:jpDSDOMkO
紬「よ、よかったぁ…」
朋也「じゃ、もう行こう。あんまり居すぎて怒りを買うとまずい」
紬「う、うん、わかった…」
完全に信じ込んでいるようだ。
ちょっと悪い気はしたが…正直、面白かった。
―――――――――――――――――――――
紬「あれ、このコーナー、ピンク色になってる…なんでかしら」
迷い込むようにして、入っていこうとする。
朋也「琴吹、そこは…」
寸でのところで止める。
紬「? どうしたの、岡崎くん」
朋也「入ったらダメだ。そこは18歳未満はお断りゾーンだ」
紬「え…そうだったの?」
朋也「ああ。俺の後ろ、右上に監視カメラがあるだろ?」
朋也「あれで捕らえられてたら、警報が鳴ってたんだぞ」
紬「そ、そんな…」
329:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:29:20.03:+UZ/pLeq0
朋也「いいか? 今からカメラの死角に入る」
朋也「そしたら、何食わぬ顔で健全なコーナーから出て行くんだ」
朋也「いくぞっ」
紬「は、はいっ」
したたたーっ!
俺たちは素早く動き出した。
本の整理をしていた店員からは、奇異な視線を向けられ続けていた。
―――――――――――――――――――――
一通り見回り、もとの位置に戻ってくる。
紬「なんか、わくわくしたねっ」
朋也「なにが」
紬「通路も狭くて、人を避けながら進む感じが、こう、なんていうんだろ…」
紬「そう、未開の地に踏み入っていくパイオニアみたいで」
朋也「じゃあ、客は全員、なんかよく得体の知れない部族ってことか」
紬「あはは、それはなんだか失礼な感じ」
朋也「まぁ、それはそうと、一周してきたわけだけど、なんか気に入ったのあったか」
331:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:30:55.08:jpDSDOMkO
紬「うん、少女マンガの区画で、『今日からあたしゃ!!』っていうのが、気になったかな」
朋也「そ、そうか…」
少年漫画にもよく似たタイトルで面白い漫画があるのだが…
なにか関係あるんだろうか。謎だ…。
朋也(それはいいとして…)
朋也「じゃあ、俺は青年誌のとこいるからさ。気が済んだら、声かけに来てくれ」
紬「うん、そうするね。岡崎くんも、飽きちゃったら、私の方に来てね」
朋也「わかった。んじゃ、また後でな」
紬「うん」
―――――――――――――――――――――
琴吹と別れてから漫画を読み始めて、すでに5冊は読破していた。
巻数も抜けることなく連番でそろっていたので、快適に読むことができていた。
朋也(ん…)
6冊目を読み始め、中盤に差し掛かったとき、濡れ場が訪れた。
朋也(ふむ…)
いつになく集中する俺。
ページを繰る手が止まる。
332:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:31:44.05:+UZ/pLeq0
声「岡崎くん」
朋也(うおっ)
咄嗟に持っていた漫画を背に隠して振り返る。
紬「なに読んでるの?」
朋也「い、いや、別に…あ、そ、そうだ、琴吹はもういいのか? 漫画は…」
紬「うん、先の巻が途切れちゃってたから、もう終わりにしようかなって」
朋也「そ、そっか…」
紬「それで…岡崎くんは、なにを読んでたの?」
朋也「ん? いや、たいしたもんじゃねぇよ」
紬「気になるなぁ…見せて?」
朋也「い、いや、もう出よう」
さっと漫画を棚に戻し、琴吹の手を引いて出口に向かった。
―――――――――――――――――――――
紬「どうしたの? 急に…」
朋也「いや…もう昼だし、腹減ったからさ、どっかで食いたいなってな…」
335:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:33:41.52:jpDSDOMkO
ごまかしのつもりで言ったが、実際、俺は小腹が減っていた。
タイミングとしては丁度よかったのかもしれない。
朋也「琴吹は、どうだ? 腹、減ってないか?」
紬「う~ん、そうね…減っちゃってるかも…」
朋也「じゃあ、なんか食いに行こうか」
紬「そうね、いきましょう」
―――――――――――――――――――――
俺がわりとよく利用するラーメン屋。
ニンニク入りで、コクのある濃い味がウリの店だ。
食べた後は、しばらく息にニンニク臭が混じってしまうほどの強烈さがある。
それに、脂分も多いので、どんぶりもべたついている。
琴吹にどこで食べたいか訊かれ、ここのことを話すと興味を示したので、一応連れて来たのだが…
朋也「本当にここでよかったのか」
そういう食器事情も含めて、女の子が好むような店ではないように思う。
だが、それらを説明しても、琴吹はここに来たがっていた。
紬「もちろん。私、こういうストイックなラーメン屋さんで食べてみたかったのっ」
紬「ヤサイマシマシニンニクカラメアブラ! だったかしら?」
朋也「いや、ここはそんな二郎チックなところじゃないからな…普通のラーメン屋だよ」
336:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:34:33.50:+UZ/pLeq0
紬「あら、そうなの?」
朋也「ああ。やめとくか?」
紬「ううん。ここまで来たんだから、食べていきましょ?」
言って、先陣を切って中に入っていった。
俺も後に続く。
―――――――――――――――――――――
カウンター席に隣り合って座る。
俺は醤油ラーメンで、琴吹はみそラーメンを注文した。
しばらくして、俺たちの前にラーメンが差し出された。
紬「あ、おいしそうな匂い…」
言って、箸に麺をからめる。
紬「ふー…ふー…」
息を吹きかけ、よく冷ます。
そして、髪を横にかき上げてから口にした。
紬「けほっ、けほっ」
どんぶりから立ち込める湯気も一緒に吸ってしまったのか、むせてしまっていた。
朋也「ほら、水」
337:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:35:59.09:jpDSDOMkO
俺のそばにあったお冷サーバーから琴吹のコップに水を満たして、それを渡す。
紬「んん…ありがとう」
受け取り、喉を潤した。
朋也「食べられそうか?」
紬「うん、大丈夫。今ちょっと食べたけど、麺にも味が染みててすごくおいしいから」
朋也「そっか。でも、無理はするなよ? 最初は結構キツイかもだからさ」
朋也「食べられないと思ったら、残りを俺にくれ。完食するから」
紬「ふふ、それ、間接キス…じゃなくて、間接口移しのお誘いかしら?」
朋也「ばっ…んな下心ねぇっての」
紬「あはは、ごめんなさい、冗談で言ったの」
あどけなく笑う。
こうなると、もうなにも言えなかった。
朋也(ったく…)
結局、琴吹は自力で食べ切っていた。
しかも、スープまでだ。
お嬢様なんて温室育ちなはずなのに…見上げた胆力だった。
―――――――――――――――――――――
339:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:36:46.00:+UZ/pLeq0
紬「はぁ~っ…すごい、ほんとにニンニクの匂いがする…」
口に手を当て、口臭を確認していた。
朋也「じゃ、クレープでも食って中和するか。俺、おごるよ」
序盤にリードされた分を盛り返すべく、そう申し出た。
紬「ほんとに?」
朋也「ああ。まぁ、琴吹には必要ないかもしれないけどさ…」
紬「そんな…うれしいよ、その気持ちも…」
紬「私、おごってもらうなんて、初めてだし…それも、男の子になんて…」
紬「だから、特別に思っちゃうな」
朋也「そっか。じゃあ、彼氏の役割も果たせてるのかな」
紬「うん、すごくね。ありがとう、朋也くんっ」
抱きつくように腕を組んでくる。
琴吹のいい匂いが、ふわりと香る。
思わずどきっとしてしまう俺がいた。
紬「いきましょ?」
立ち止まっていると、そう声をかけてきた。
340:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:38:03.25:jpDSDOMkO
朋也「あ、ああ…」
腕を絡ませたまま歩き出す。
本当に恋人同士になったようだった。
―――――――――――――――――――――
クレープも食べ終わり、ひと息入れる。
クレープ自体はうまかったのだが、腹の中でラーメンと混じり合って少し気持ち悪かった。
紬「おいしかったぁ。えっと、これで息は直ったかしら…」
また口に手を当て、口臭を確認する。
紬「う~ん…」
難しそうな顔。
納得がいかないといった感じだ。
朋也「俺も確認しようか? 息はぁ~ってやってくれ」
冗談だった。
そんなエチケットに関することなんて、自分以外に知られたくはないだろう。
紬「じゃあ、お願いね」
…普通に受け入れていた!
琴吹の顔が迫ってくる。
俺のすぐ鼻先で止まった。
そして、口を開けて…
341:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:38:49.18:+UZ/pLeq0
紬「はぁ~」
温かい吐息がかかる。
甘い香りがした。
ニンニク臭さなんて微塵もない。
紬「…どう?」
朋也「…ちょっとよくわかんなかったな…もう一回いいか?」
紬「ん、それじゃあ…」
再び甘い香りを堪能する。
朋也(ああ、琴吹って、歯並びいいよな…)
そんなことを考えながら、俺はこのシチュエーションに興奮を覚え始めていた。
紬「…岡崎くん?」
朋也「ん、ああ…」
軽くトリップしてしまっていたようだ。
琴吹の声で現世に戻ってこれた。
紬「どうだった?」
朋也「う~ん…もう一回やれば、わかるかも…」
紬「岡崎くん…楽しみ始めてない?」
342:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:40:38.67:jpDSDOMkO
朋也「あ、バレた」
紬「くすくす…もう、子供みたい」
屈託なく表情を和ませて微笑む琴吹。
陽だまりの中で見るその笑顔は、とても魅力的に見えた。
春原が入れ込むのも無理はない。そう思えるくらいに。
こいつの彼氏になる奴は、幸せ者だ。
その分、男の方にも釣り合いが取れていないといけないんだろう。
残念ながら、俺や春原では役者が足りなかった。
朋也(ま、でも、今は俺が仮の彼氏だしな…)
朋也(う~ん…)
俺は急に自分の身だしなみが気になった。
琴吹の隣に立つという、その敷居の高さを意識してしまったからだ。
とりあえず、俺も自分の口臭を確認してみる。
やはり、ニンニクの匂いが強く香った。
口というか、胃から直接匂いが昇ってきている感じだ。
それくらい強烈なはずなのに、琴吹からはバニラのような甘い香りしかしなかった。
実に神秘的だ、琴吹は…。
―――――――――――――――――――――
腹ごなしに、町の中を練り歩く。
紬「あ、岡崎くん、見て、あれ」
足を止め、ショーウインドウを指さす。
343:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:42:04.90:+UZ/pLeq0
その中には、げっ歯類のような、謎の生き物のぬいぐるみがあった。
紬「可愛いわぁ…」
近づいていき、すぐそばで眺める。
朋也「そうか? つぶらな瞳してるけど、なんか、口開けてよだれたらしてるし…」
朋也「ヤバイ薬キメた直後みたいになってるぞ」
紬「むしろそこがいいのよぉ~」
朋也「あ、そ」
そんなとりとめもない会話を交わしながら、次はどこに行こうか…などと考えていた。
すると…
がらり
装飾品のベルが鳴らされると共に、その店のドアが開いた。
店員らしき人がこちらに寄ってくる。
男「あの、琴吹紬様…でよろしかったでしょうか」
紬「はい、そうですけど…」
男「ああ、やっぱり。いつもお父様には大変お世話になっております」
紬「は、はぁ…」
344:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:43:26.77:jpDSDOMkO
男「今日は、うちでなにかお求めで?」
紬「いえ、ただ見てただけなので…」
男「ああ、そうでしたか。気に入ったものがあれば、お持ち帰り頂こうと思ったのですが…」
紬「い、いえ、そんな、悪いですから…」
男「でしたら、せめて、お茶をお出しするので、中でくつろいでいかれてください」
紬「い、いえ…えっと…い、いきましょっ、岡崎くんっ」
朋也「あ、ああ…」
俺の手を引いて、急ぎ足で立ち去る。
後ろからは、店の人の呼び止める声が聞え続けていたが、立ち止まることはなかった。
―――――――――――――――――――――
紬「ごめんなさい」
あの場から離れて一旦落ち着いた頃、琴吹が開口一番そう口にした。
朋也「なにが」
紬「私のせいで、こんな逃げるようなことになっちゃって…」
朋也「いや、俺は別になんとも思ってないよ」
朋也「けど、お茶くらい、もらってもよかったんじゃないか?」
345:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:44:11.03:+UZ/pLeq0
紬「うん…それだけなら、いいんだけど…」
紬「こういう時って、必ず最後に、お父さんによろしく言っておいて欲しいって、そう言われるの」
紬「私、そういうことって、上手く言えないから、苦手で…」
紬「それに、今は喧嘩中だから、なおさら伝えにくいし…」
紬「もてなしてもらったのに、そんなことじゃ、お店の人に悪いから…」
朋也「そっか…なんか、大変なんだな、琴吹も」
紬「ううん、そんな大変ってほどじゃ、ないんだけどね…」
朋也「まぁ、事情はわかったよ。これからはそういうことにも気をつけながらいこう」
紬「ごめんね…」
朋也「謝るなよ、そのくらいのことで」
紬「うん…」
朋也「ほら、いこう」
今度は俺の方から手を取って歩き出した。
―――――――――――――――――――――
その後も似たようなことが立て続けに起きた。
電器店の近くを通りかかれば、呼び込みが騒ぎ出し、店長を呼びつけられたし…
346:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:45:35.10:jpDSDOMkO
ショッピングモールに入れば、各コンテナのオーナーが直々に挨拶しにくる始末だ。
おまけに、道ですれ違った、いかにもその筋な方にも会釈されていた。
その度にそそくさと逃げ出していたのだが…
繰り返すうち、気づけば俺たちは町外れまできてしまっていた。
朋也「手広くやってるんだな、琴吹んとこの事業はさ」
紬「お恥ずかしいかぎりです…」
朋也「いや、誇れることだよ」
紬「うぅ…そうかな…」
朋也「ああ」
朋也(でも、これからどうするかな…)
カラオケ…なんて、俺のガラじゃないし…
バッティングセンター…は、さすがにだめだな…
そもそも、俺はまともにバットを振れない。
琴吹は…どうだろう…
野球に興味がなくても、打つだけならそれなりに楽しめるかもしれない。
朋也(つーか、バッティングセンターなんて、この町にあったかな…)
それすらも知らなかった。
穴だらけの発想だ…
朋也(う~ん…)
347:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:45:59.49:+UZ/pLeq0
紬「岡崎くん、あそこ、入ってみない?」
朋也「ん?」
考えを巡らせていると、琴吹が俺の袖を引いてきた。
指さす先、寂れたおもちゃ屋があった。
紬「なんだか、おもしろそうじゃない?」
朋也「ん、そうだな…」
それほどでもなかったが、琴吹にとっては新鮮だったのかもしれない。
朋也(さすがにこんなとこまでは、琴吹家の手は伸びてないよな…)
ともあれ、まずは入ってみることにした。
―――――――――――――――――――――
店内には、時代に逆行するようなおもちゃが数多く並んでいた。
まるで、ここだけ時の流れが止まってしまっているようだった。
朋也(おお…懐かしい…キャップ弾だ…)
キャップ弾とは、プラスチック製ロケットの先端に火薬を詰めて、空に放って遊ぶおもちゃだ。
落ちてきて地面に当たると火薬が炸裂し、乾いた音が響くのだ。
それだけの単純な仕組みだったが、やけにおもしろかったことを覚えている。
ガキの時分、年上の遊び仲間に混じって、ずいぶんこれで遊ばせてもらったものだ。
朋也(あの時は自分で買えなかったんだよな…)
348:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 02:47:10.17:jpDSDOMkO
それを思うと、なぜか大人買いしたくなる衝動に駆られた。
朋也(って、今さらだよな…)
この年でそんな遊びをするわけにもいかない。
俺にだって、一応、周囲の目を気にするだけの恥じらいはある。
まぁ、散々琴吹といちゃついてきておいて、なんだが…
紬「岡崎くん、みてみて、水鉄砲よっ」
カチカチと空砲を撃っている。
紬「かっこいいと思わない?」
そして、まじまじとその構造を眺めていた。
朋也「いや、別に…つーか、なんだ、珍しいのか?」
紬「うんっ、私、水鉄砲なんて触ったの初めてだから」
朋也「そっか」
男からしてみれば、水鉄砲を避けて通る人生なんて、ほぼ考えられないのだが。
朋也「じゃあ、それ買って、実際に撃ってみろよ。近くに公園あったし、そこでさ」
紬「あ、いいねっ、それっ。おもしろそうっ。早速買ってくるねっ」
きらきらと目を輝かせながら、カウンターに駆けていった。
365:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 03:18:20.52:+UZ/pLeq0
朋也(俺も一個買うか…安いし…)
一つ手にとって、琴吹の後を追った。
―――――――――――――――――――――
紬「えいっ!」
ピュピュッ
発射された水が勢いを失って地面に染みていく。
紬「撃った時に手ごたえを感じるわ…これが武器を扱うことの重みなのね…」
朋也「いや、単純に水を押し出してる抵抗だからな」
言って、俺も発射する。
特に意味はなかったので、適当なところを狙っていた。
朋也「やっぱ、マトがないと盛り上がらないな」
朋也「なんか、手ごろなもんがないか…」
びしゃっ
朋也「ぷぇっ」
水が口に入り込んでくる。
紬「あ、ごめんなさい、威嚇射撃のつもりだったんだけど…」
366:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 03:19:30.43:jpDSDOMkO
朋也「おまえな…」
びしゃっ
紬「きゃっ」
お返しとばかりに、俺も撃ち返す。
紬「…えいっ」
びしゃっ
朋也「うわっ」
さらに撃ち返された。
朋也「………」
紬「………」
さささっ!
同時に距離を取る。
それは、お互いが銃撃戦の開幕を了承したことを意味していた。
琴吹は俺に発砲しながら草むらに向かって行く。
俺は水道のコンクリ部分に身を隠してそれを避けた。
顔だけを出して、琴吹を確認する。
朋也(いない…?)
368:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 03:20:16.48:+UZ/pLeq0
その時、上から落ち葉が大量に降ってきた。
朋也(ちぃっ)
ごろごろと転がってその場から離れる。
朋也(奇襲か…やるな、琴吹)
振り返ると、琴吹が水道で弾を補充していた。
朋也(喰らえっ)
ぴゅぴゅぴゅっ
三連射。
が、水道の影に隠れられてしまう。
朋也(ちっ、残弾が少ない…)
補給が必要だが、琴吹が陣取っていて近づけない。
朋也(どうする…?)
朋也(ん…?)
ダンボールが落ちていた。
これを盾に進めば、あるいは…
朋也(よし…)
369:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 03:21:39.77:jpDSDOMkO
体を覆い隠しながら突進する。
足音に気づいた琴吹が顔を出してきた。
紬「!」
驚いているようだ。必死にヘッドショットを狙ってくる。
が、すべて外れていた。
そうこうしているうちに、琴吹の目の前までやってくる。
朋也「終わりだぜ、琴吹」
ぴゅっぴゅっ
紬「きゃっ」
胸の辺りに二発入った。
紬「卑怯よ、岡崎くん…」
朋也「防弾チョッキだったと思って、許してくれ」
へたり込んでいる琴吹に手を差し伸べる。
紬「ん…」
その手を取って、立ち上がる。
紬「濡れちゃった…」
服がぺたぺたと肌に吸い付いていた。
370:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 03:22:12.37:+UZ/pLeq0
被弾箇所は胸。つまり…はっきりと形がわかってしまっていた。
いや、それはブラの形なのかもしれないが…正直、たまらない。
紬「もう一度、水を満タンにしてやり直しましょっ」
朋也「あ、ああ…」
まだ続行する気なら、どんどん胸に当てていけば、いずれは…
朋也(って、俺は春原かよ…)
しかし…
朋也(遊びの中で起きたことなら、不可抗力だよな…)
………。
やってやるぜ…。
―――――――――――――――――――――
紬「あ~っ、おもしろかったぁ」
息も切れてきたので、一度休憩を入れていた。
髪も服も、だいぶ水気を含んでしまっている。
紬「水鉄砲って、楽しいのね」
朋也「ああ、だな」
俺も途中から邪な考えは消え、童心に帰って純粋に楽しんでしまっていた。
371:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 03:23:25.64:jpDSDOMkO
そうできたのも、きっと、琴吹の遊びに対する純真な姿勢につられてしまったからだろう。
朋也(ほんと、いい顔してたもんな…)
朋也(ん…?)
子供「………」
俺たちの腰掛けるベンチの手前、じっと見上げてくる男の子が四人。
小学校低学年くらいだろうか。
紬「なぁに? どうしたの?」
子供「………」
誰も何も言わず、無言で見つめてくる。
紬「これ?」
水鉄砲を差し出す。
すると、一人がこくりと小さく頷いた。
紬「欲しいの?」
また、頷く。
紬「じゃあ、ちょっと待っててね」
子供たちに言って、俺に顔を向ける。
372:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 03:23:57.90:+UZ/pLeq0
紬「岡崎くん、私、さっきのおもちゃ屋さんに行ってくるね」
朋也「こいつらの水鉄砲買いにか?」
紬「うん」
朋也「じゃ、俺もいくよ。2個ずつ買ってやろう」
紬「あ、さすが岡崎くんねっ。ふとっぱら」
朋也「おまえもな」
―――――――――――――――――――――
おもちゃ屋で人数分購入してくると、全員に分け与えた。
子供たちは、礼の言葉を言うと、嬉しそうに水鉄砲を手の中に収めていた。
紬「ふふ、かわいい」
朋也「まぁ、今時のガキにしちゃ、可愛げがある方かもな」
こんな水鉄砲なんかで喜ぶのは、かなりの希少種なんじゃないだろうか。
今は高性能な携帯ゲーム機など、おもしろい娯楽で溢れかえっているのだ。
そっちに傾倒しているのが普通だろう。
朋也(ま、俺も言えた義理じゃないか…)
俺も小学校高学年頃からは、遊びといえば、友人の家に入り浸ってひたすらゲームだった気がする。
いつからか、自然とこういう遊びはやめてしまっていた。
373:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 03:25:27.71:jpDSDOMkO
子供1「あの…」
紬「ん? なに?」
子供1「お姉ちゃんたちも、一緒にやらない? 水鉄砲」
子供2「やったほうがいいし」
子供3「やろうよ」
子供4「う○こ」
一人だけ異端なことを口走っていたが、遊びのお誘いだった。
紬「いいの?」
子供1「うん、もちろん」
子供2「だから言ってるし」
子供3「おまえ口調キツイだろ」
子供4「ち○こ」
紬「じゃあ、一緒に遊びましょっか。岡崎くんも、ね?」
朋也「ああ、いいけど」
子供1「やったぁ」
374:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 03:25:56.32:+UZ/pLeq0
子供2「当然だし」
子供3「おまえ傲慢すぎるぞ」
子供4「うん○こ」
無邪気にはしゃぎ出すガキども。変わった連中だった。
見ず知らずの俺たちに近づいてきたかと思えば、おもちゃをねだってみたり…果ては遊びに誘うなんて。
一人、頑なに下ネタしか言わない奴もいるし…とりあず、退屈だけはしないで済みそうだった。
―――――――――――――――――――――
二チームに別れ、公園の端と端にそれぞれの陣営を敷いた。
場についてから5分後に状況開始の取り決めだった。
俺は腕時計を見た。
朋也「よし、時間だ。いくぞ」
子供1「はい」
子供4「ちん○こ」
俺が前衛を張り、ガキふたりを後衛に据え、突撃していく。
子供2「ファイアインザホォルだしっ!」
掛け声と共に向こうから何かが投擲された。ちょうど俺の足元に落ちてくる。
直後…
ぱんぱんぱぱんっ!
375:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 03:27:08.86:jpDSDOMkO
朋也「おわっ」
激しい火花が散る。爆竹だった。
子供1「うわぁああっ」
子供4「ひぃぃいうん○ちん○ぉおっ」
ぴゅぴゅぴゅっ
混乱して俺を撃ち始めていた。
朋也「ちょ、おい、やめろ…」
子供2「死ねし」
子供3「おまえ暴言吐きすぎ」
ぴゅぴゅぴゅっ
敵からも攻撃を受ける。
もはや俺一人が袋叩きにされている状態だった。
朋也「だぁーっ、くそ、このクソガキどもっ、喰らえ、こらっ」
俺も反撃する。
子供1「うわぁ、僕は味方ですよぉ」
朋也「知るかっ! おまえが先に撃ってきたんだっ」
376:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 03:27:35.50:+UZ/pLeq0
子供1「そんな…うわっ」
顔に水がかかる。
子供3「よそ見だし。おまえ死ぬし」
子供1「てめぇっ!」
敵味方入り混じり、ドッチボールで言うめちゃぶつけの様相を呈していた。
紬「くすくす」
琴吹はそんな俺たちを喧騒の外から眺め、終始笑っていた。
―――――――――――――――――――――
朋也「はぁ…」
びしょびしょになった体をべちゃっと荒くベンチに預ける。
紬「おつかれさま」
隣で琴吹がねぎらいの言葉をかけてくれる。
俺とは反対に、もう服は乾ききっていた。
紬「楽しそうだったね、岡崎くん」
朋也「ああ…年甲斐もなくはしゃいじまった」
紬「くすくす…なんか、可愛かった。大きな子供みたいで」
377:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 03:28:48.04:jpDSDOMkO
朋也「あ、そ…」
ガキどもはすでに家路についていた。
帰り際、俺たちの水鉄砲をくれてやると、二丁拳銃だなんだと、また騒ぎ出していたが。
紬「あ…」
朋也「ん…」
琴吹のバッグから携帯の着信音。
紬「ごめん、ちょっと出るね」
朋也「ああ」
紬「えっと…」
携帯を取り出し、ディスプレイを見て、相手を確認している。
紬「………」
一瞬、表情を曇らせると、ためらいがちに通話を始めた。
最初は、黙ったまま相手の話を聞いていた。
そして、次第にぽつぽつと返事を返すようになったところで電話を切った。
紬「………」
浮かない顔。
朋也「あー…もしかして、親御さん?」
378:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 03:29:12.57:+UZ/pLeq0
紬「うん…」
朋也「で…なんだって?」
紬「話し合いたいから、帰ってきてほしい、って…」
紬「アルバイトのことも謝りたいし、イタリアにも、夜の便で出るから、って…」
朋也「そっか。そりゃ、よかったじゃん。仲直りってことだな」
紬「そう…だね」
朋也「なら、もう帰らなきゃだな」
紬「うん…」
朋也「俺、送ってくよ」
紬「ありがとう、岡崎くん」
朋也「ああ、別に」
立ち上がる。
朋也「じゃ、いこうか」
紬「うん」
―――――――――――――――――――――
379:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 03:30:27.40:jpDSDOMkO
琴吹は、この町へは電車で来ているらしく、俺が送ってあげられるのも、駅までだった。
実家は隣町の方にあるらしい。
紬「今日は本当にありがとうね。すごく楽しかったわ」
朋也「俺の方こそ。おまえといられてよかったよ。ありがとな」
紬「ふふ、どういたしまして」
冗談めかしたように言う。
紬「でも、なんだか寂しいね…これで、恋人同士が終わっちゃうなんて」
朋也「じゃ、最後にキスするか」
紬「え…えぇ!?」
慌てふためく琴吹。
初めてみるその動揺っぷりに、顔が緩むのを抑えられなかった。
そして、冗談だと、そう言おうとした時…
紬「…うん。しましょうか…」
朋也「え?」
紬「………」
目を瞑って、顔を上げる。
緊張しているのか、頬を赤くして、その太めの眉がへの字になっていた。
380:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 03:30:57.56:+UZ/pLeq0
朋也(どうするんだよ…俺)
ごくりと生唾を飲み込む。
このままいってしまえば、なし崩し的に付き合うことになったりするんだろうか。
………。
でも、それは…
朋也(違うよな…)
こんな、その場の雰囲気に流されて始まった関係なんか、絶対長続きしない。
なにより、俺は…
朋也(って、なんで平沢の顔が出てくんだよ…)
朋也(ったく…)
俺は頭を振った。
そして、琴吹を見据える。
その頭に手を置いた。
朋也「それは、ほんとの彼氏ができた時のためにとっとけよ」
ぽんぽん、と優しく触れる。
紬「ん…」
ゆっくりと目を開ける琴吹。
紬「…あ…あはは…ご、ごめんなさい、私ったら…真に受けちゃって…」
382:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/26(日) 03:32:19.46:jpDSDOMkO
わたわたと、手の先を絡ませて弄ぶ。
朋也「まぁ、でも、俺も、かなりどきっとしたよ」
紬「そ、そう?」
朋也「ああ。だって、気づかれないように、つむじに5回くらいキスしてたんだぜ、俺」
紬「え…ほ、ほんとに?」
頭頂部をさする。
朋也「まぁ、作り話だけど」
紬「もう…」
ぷっと吹き出す。
朋也「それじゃな」
紬「うん、またね」
笑顔で別れの挨拶を交わした。
最後に、琴吹の恥らう乙女な姿を見ることができてよかった…歩きながら思う。
あのワンシーンのために、今日一日があったと言っても過言ではないかもしれない。
―――――――――――――――――――――
次へ
振り返る。
梓「ああ…」
なんだ、こいつか…とでも言いたげな顔。
梓「はぁ…」
大きくため息をつき、また頭を下げて、車の下を覗き込む。
…せめて、なにか言え。
朋也「おい、見えてるぞ…おまえのパンツ」
梓「っ!」
ばっと身を起こし、手でスカートを抑えながら俺に向き直る。
頬を赤く染め、目を潤ませていた。
梓「へ、変態っ!」
朋也「いや、おまえ自ら見せてたんだろ。そんなに自信あったのか、下着に」
梓「ち、違いますよっ! 私はただ…」
車を見る。
朋也「車上荒らしか? やめとけよ、ここは人の目が多い」
梓「それも違いますっ!」
梓「この下に猫がいるから、危ないと思って、助けようとしてたんですっ!」
朋也「猫?」
俺もしゃがんで覗き込んでみる。
朋也(あ…ほんとだ)
身を丸め、じっとしたまま動かない猫が一匹いた。
朋也「あの猫、あそこからどかせればいいんだな?」
低姿勢のまま言う。
梓「え?」
朋也「ちょっと待っとけ」
俺は匍匐前進で車の下に入り込んでいった。
朋也(ん、動かないな、あいつ…)
近づけば逃げていくかと思ったのだが…
朋也(よ…)
ひょい、と掴めてしまった。
そのまま這い出る。
朋也「ほら、いけ」
そっと手を離す。
だが、それでも動かない。
座り込んで、前足を舐めていた。
梓「あ…この子、怪我してる…」
見れば、舐めている箇所の毛が抜けていて、そこから血が滲みだしていた。
梓「ど…どうしよう…助けてあげなきゃ…」
おろおろと狼狽する中野。
朋也「動物病院、行ってみるか」
梓「あ…は、はいっ…」
朋也「よし」
中野の返事を聞き、俺は猫を抱えた。
そして気づく。病院の場所なんて、まったく心当たりがないことに。
朋也「あのさ…この辺って、動物病院、あったっけ」
梓「ちょっと待ってください…」
携帯を取り出し、なにか操作していた。
梓「あ、ありました。こっちですっ」
液晶画面を見ながら言う。
そして、先導するように小走りで道を進んでいった。
俺もその後についていく。
―――――――――――――――――――――
行き着いた先には、こじんまりとした、寂れた建物があった。
看板には、しっかりと、動物病院と記されていたのだが…
ペンキが落ちたのか、文字がただれていて、ホラーチックだった。
ここで本当に大丈夫かと、内心、心配だったのだが、それも杞憂に終わった。
診察と治療は至極まともだったのだ。
担当の獣医は、好々爺然とした風貌で、事情を話すと、おもしろそうに笑っていた。
なにが気に入られたのか知らないが、診察代も、治療代も格安にしてくれていた。
―――――――――――――――――――――
梓「…かわいそうです」
今は中野が猫を抱いていた。
通りに据えられたベンチに腰掛け、膝の上でくつろぐその猫を撫でている。
朋也「まぁ…野良だろうからな。首輪もしてないし」
獣医が言うには、どうも、傷は、人の手によってつけられた可能性が高いということだった。
梓「じゃあ…飼い猫だったら、こんな目に合わないって言うんですか」
朋也「まぁ、少なくとも、野良よりはマシなんじゃないのか」
朋也「そもそも、野良なんて、保健所に収容されれば、それだけでアウトだからな」
朋也「それに、餌の確保ができなけりゃ、餓死するし…他にも、危険なんてたくさんある」
梓「…そう…ですよね、やっぱり」
梓「………」
しばらくの間視線を落として黙っていると、猫を抱きかかえ、無言で立ち上がった。
どこか思いつめたような顔をしている。
朋也「どうしたんだよ」
梓「私、この子を飼ってくれる人を探します」
朋也「どうやって」
梓「それは…道行く人に、声をかけて、とか…」
朋也「そら、大変だな」
梓「それでも、やるんですっ」
声を張って答えていた。
朋也(はぁ…俺、こういうのに弱いのかな…)
なぜか放っておけない。
朋也「俺も手伝うよ。おまえがよければだけど」
梓「ほんとですか? ちょっと、不本意ですけど…」
梓「この際、なんでもいいです。よろしくお願いしますっ」
朋也「ああ」
梓「それじゃ、人通りの多いところに…」
朋也「いや…そうだな、まず、軽音部の連中に当たってみろよ」
朋也「知り合いだから訊きやすいだろ? それに、もしOKならそこで終わりだ」
梓「あ、そうですね、すっかり忘れてました」
携帯を取り出す。
そして、猫の写真を撮ると、また画面と向き合っていた。
多分、今の画像を添えてメールでも送っているんだろう。
俺は黙って結果を待つことにする。
―――――――――――――――――――――
梓「あ、きた」
中野の携帯から着信音が鳴り響く。
慌てたように開いて、返信を確認する。
梓「…ムギ先輩もダメでした」
朋也「そうか…」
他の部員からも、断りの返事が届いていた。
家庭の事情や、経済的負担などが理由だった。
琴吹なら、猫の一匹くらい、なんでもないだろうと期待していたのだが…
その想いも、打ち砕かれてしまった。
朋也「で、琴吹はなんだって?」
梓「なんか…ポチに捕食されるかもしれないから、責任が持てない…らしいです」
朋也「……捕食?」
梓「……はい」
朋也「………」
梓「………」
朋也「…なにを飼ってるんだろうな、琴吹は」
梓「…多分、知らないほうがいいです」
だろうな…。
―――――――――――――――――――――
朋也「あ、すいません、ちょっとい…」
朋也「あ…くそっ」
人の往来が激しい大通りで飼い主探しを始めたのだが…
何かのキャッチと思われているのか、見向きもされなかった。
朋也「俺じゃだめだ。次、おまえいってくれ」
梓「わかりました」
梓「…不甲斐ない人」
朋也「聞えたからな…」
―――――――――――――――――――――
朋也(あいつはなんか、上手くやりそうだよな…)
中野から預かった猫とじゃれあいながら、思う。
梓「あの、すみません」
男「ん?」
一発目から捕まえることに成功していた。
梓「えっと、私、今…」
男「3万…いや、君なら4万出すよ」
梓「へ? どういう…」
男「この近くに、いいとこあるからさ、今からいく?」
これは、まさか…
梓「え…いいとこ…ですか?」
朋也「おい、おっさん、なにやってんだよ」
猫を抱いたまま、睨みを利かせて近づいていく。
プリチーな生き物を伴って絡んでくる仏頂面の男…さぞ不気味なことだろう。
男「ひぃっ、い、いや、私はまだなにも…」
朋也「まだ?」
男「い、いや…はは、なんでも」
背を向けて、足早に去っていった。
梓「なんで邪魔するんですか!」
朋也「おまえ…わかんなかったのか、今の」
梓「岡崎先輩の行動の方がわかりませんよ!」
朋也「いや…だから…」
梓「足を引っ張るなら帰ってください!」
本当に、ただ俺が妨害しただけだと思っているようだ。
誤解を解いておいたほうが、今後の信頼関係のためにもいいんだろうが…
詳しく説明するのも、なんだか気が引けた。
朋也「…ああ、悪かったよ。もう邪魔しない」
だから、俺に非があったと、黙って認めておくことにした。
梓「勘弁してくださいよ、ほんとにもう…」
朋也「でも、ああいうおっさんは避けろよ、一応」
梓「おっさん差別ですか? 最低ですね、自分の近い将来の姿なのに」
朋也「まだ遠いっての…」
今年で18だ、俺は。
―――――――――――――――――――――
梓「そうですか…話を聞いてくれて、ありがとうございました」
女性「いえ…」
朋也(だめだったか…)
今ので4人目だった。
梓「はぁ…」
中野も落胆を隠しきれないようだった。
男1「ねぇ、君さ、さっきから声かけてるよね」
男2「逆ナン?」
梓「え? いえ…違います…」
ちゃらちゃらとした男の二人組に絡まれていた。
男1「じゃ、俺らが君ナンパしていい?」
男2「かわいいよね、君。遊びいこうよ」
梓「あの…それは、ちょっと…」
男1「いいじゃん、いこうよ」
男2「そこのカフェでなんか食べようよ。おごりだよ?」
梓「う…あう…」
困惑した表情で、すがるように目を向けてくる。
SOS信号だろう。
朋也(いくか…)
立ち上がる。
朋也「こらぁ、なんだ、おまえらは」
男1「はぁ?」
男2「なにおまえ」
朋也「みりゃわかるだろうが。猫を持ったキレ気味な人だ」
猫「にゃあ」
男1「意味が…」
男2「君、もういこうよ。変なの来たし」
中野の手を取ろうと、腕を伸ばす。
俺はその腕を掴んで止めていた。
朋也「やめとけ。こいつは俺が先に目をつけてたんだよ」
少しキャラを作ってみた。設定は、鬼畜王だ。
朋也「失せろ、カスども」
猫「にゃあ」
男2「…っ離せよっ」
ばっと俺の手を振り払う。
そして、その瞬間から睨み合いが始まった。
朋也「………」
男1「………」
男2「………」
猫「にゃあ」
男1「…ちっ」
男2「ばぁか」
間の抜けた猫の鳴き声を以って、ガンつけ勝負は終わった。
ふたりの男は捨て台詞を吐くと、雑踏の中へと消えていった。
朋也(ふぅ…)
朋也「おい、中野…」
朋也「あん?」
振り返ると、俺から距離を取って身構えていた。
梓「…このけだもの。ずっと私を狙ってたんですねっ」
朋也「おまえが信じるなっ! ありゃ方便だっ」
梓「………」
疑惑に満ちた目を向けてくる。
朋也(どこまで信用ないんだ、俺は…)
もともとなかったところを、先の一件でさらに信用を失ってしまったのか…。
なら、捨て身でこちらから歩み寄っていくしかない。
まずは安心感を与えて、警戒を解かなくては…。
朋也(はぁ…ちくしょう)
朋也「こほん…あー…」
朋也「ほら、おいで梓ちゃん、怖くないよ~」
ぎこちない笑顔で、猫なで声を出す。
梓「…キモ」
…ものすごく冷めた顔で暴言を返されていた。
朋也(ま、そりゃそうか…)
わかってはいたが、実際言われると、ショックと恥ずかしさが同時に襲ってきた。
梓「冗談です。助けてくれて、ありがとうございました」
朋也「ああ、別に…」
恥をかく前に言って欲しかったが。
梓「キモかったのは本当ですけど」
朋也「あ、そ…」
徒労に終わった上に、追い討ちまでかけられていた。
朋也「まぁ、いいけど、何か対策考えないとな」
朋也「おまえ、見た目可愛いから、変な奴よってくるし」
梓「な、か、可愛いって…お、おだててどうするつもりですかっ!」
梓「気をよくしたところを、一気につけこんでくるつもりですかっ!」
梓「このけだものっ!」
朋也「想像が飛躍しすぎだ。思ったことを言ったまでだよ」
梓「な、なな…わ、私は騙されませんからっ」
朋也「だから、そんな気はないっての」
朋也「それよか、もう昼だし、飯にしようぜ」
梓「う、うう…」
朋也「ほら、いくぞ」
俺が歩き出すと、後ろからうーうー言いながらもついてきた。
―――――――――――――――――――――
朋也「ほらよ」
コンビニで買ってきたパンとジュースを差し出す。
梓「ありがとうございます」
受け渡すと、俺も中野が座っているベンチに腰掛けた。
梓「よかったんですか? おごってもらっちゃって」
朋也「いいよ。いつか、おまえにおごってもらった事あっただろ」
朋也「これであいこだ」
梓「でも、あれはお詫びのつもりだったから…」
朋也「まぁ、細かいことは気にするなよ」
梓「はぁ…」
朋也「よし、おまえにもやろう」
俺は自分のパンをちぎって猫に与えた。
くんくんと匂った後、ぺろりと口にしていた。
その姿を見て思う。
朋也「こいつって、あの時おまえがねこじゃらしで遊んでた奴か?」
梓「そうですよ。気づかなかったんですか?」
朋也「ああ、まぁな。今ようやく思い出したよ」
梓「こんな可愛い子、普通は一度みたら忘れないのに」
言って、中野も自分のパンをちぎって猫の前にそっと据えた。
すると、それも遠慮なく食べ始めていた。
梓「かわいいなぁ…」
その様子を温かい目で見守る中野。
朋也「おまえ、猫好きなのか」
梓「はい、大好きですっ!」
朋也「そっか。なんか、らしいよな。おまえ、猫っぽいし」
梓「あ、ありがとうございます…」
こいつにとっては称賛と同義だったようだ。
素直に礼なんか返してきた。
朋也「でもさ、それなら、おまえの家で飼ってやれないのか」
梓「それができたら、最初から飼い主探しなんてしてませんよ」
朋也「それもそうだな」
梓「岡崎先輩こそ…いや、いいです、やっぱり」
俺に飼えるかどうか打診するつもりだったんだろう。
だが、回答はどうあれ、俺に飼われるのは嫌だったようだ。
だから、途中で切ったんだろう。
まぁ、うちで飼えるわけじゃないので、別によかったが。
朋也「飯、食い終わったら、また頑張って探さなきゃな」
梓「そうですね。頑張りましょうっ」
―――――――――――――――――――――
梓「あの…ほんとにこれ、効果あるんでしょうか」
朋也「ああ、ばっちりだ」
中野が手に持つのは、可愛らしく装飾されたプラカード。
頭には、ネコミミカチューシャをつけていた。
その2つのアイテムは、憂ちゃんと行った、あのファンシーショップで調達してきていた。
朋也「今までは、こっちから攻めていってたけど、それは間違いだった」
朋也「興味のない人にまで当たっちまうから、効率が悪かったんだ」
朋也「だから、今度は待ちに入るんだ」
梓「いえ…そうじゃなくて、なんでネコミミなんですか…」
梓「このプラカードは、わかりますけど…」
そのプラカードには『この猫、飼ってください!』と書いてある。
宣伝のつもりだった。
朋也「そっちの方がわかりやすいじゃん」
梓「いえ、これつけなくても、プラカードだけで事足りると思いますけど…」
朋也「より目立ったほうが、目を引きやすいだろ」
朋也「おまえ、似合ってるしさ、大抵の男は振り向くと思うぞ」
梓「そ、そんな…」
朋也「こいつのためだ。頑張れよ」
ダンボールを抱えてみせる。
その中には、猫が入っていた。
やはり、拾ってください、なんて言うなら、このスタイルしかないだろう。
梓「うう…わかりました」
ダンボールを手に持ち、街頭に立つ。
そして、足元に置くと、プラカードを掲げた。
やはり、道行く人は皆一瞥をくれていく。
こっちをみて、ひそひそと話しこんでいる者たちも見受けられた。
ナンパの算段でも立てているんだろうか。
それでも、隣に俺も立っているから、簡単には近づいてこないだろう。
これが、俺の考えた対策だった。抑止力というやつだ。
単純なことだが、効果は高いと思う。
今も、中野を遠巻きに眺めていた男たちが、諦めたように散会していくのが見えた。
やはり、これで合っていたようだ。
―――――――――――――――――――――
5分くらい経った頃だろうか。
一人の男がこちらに近寄ってきていた。
男「あの…ふぅ、ふぅ…」
興奮しているのか知らないが、息が荒い。
男「か、飼うって、い、いいの…?」
梓「え…はいっ、もちろんですっ!」
男「はぁ…はぁ…き、君、家出少女なんだ…?」
梓「え、あ…はい?」
男「ふっひ…う、うちのアパート…いこう…」
男「君みたいな可愛い子なら…悦んで飼ってあげるよ…」
梓「い、いえ、私じゃなくてっ! この子ですっ」
ダンボールから猫を抱き起こした。
猫「にゃあ」
男「え…なんだ…でも、君も猫だし…」
言って、ネコミミに目をやる。
男「君もついてくるなら、一緒に飼ってあげるよ…ふっひ…」
梓「ひぃっ…え、遠慮しておきます…」
男「はぁ、はぁ…じゃあ、いいや…」
のそのそと立ち去っていった。
梓「…岡崎先輩のせいですよ」
朋也「いや、でも、世間にはああいう奴もいるってわかってよかったじゃん」
梓「上から目線で言わないでくださいっ!」
梓「次は岡崎先輩がやってくださいよっ!」
俺にプラカードを押し付けてくる。
朋也「ああ、いいけど」
受け取る。
梓「ちゃんとこのネコミミもつけてくださいよ」
朋也「やだよ、なんで俺が」
梓「私にはつけさせたじゃないですかっ!」
朋也「だからってなぁ、俺だぞ?」
梓「いいから、つべこべいわずにつけてくださいっ!」
朋也「わかったよ…」
仕方なく、装備した。
…周囲の視線が痛い。
梓「…ぷっ」
朋也「せめておまえだけは笑わんでくれ…」
―――――――――――――――――――――
朋也(お…)
一人の女性がこちらに近づいてくる。
男の情欲を煽るような服を綺麗に着こなして、妖艶な雰囲気を纏っていた。
年の頃は、二十代後半といったところか。
朋也(って、なに分析してんだ、俺は…)
女性「ボウヤ…飼って欲しいの?」
朋也「あ、いえ…俺じゃなくて、こっちの猫っす」
ダンボールを指さす。
女性「そうなの?」
おまえらキタwwwwwww
朋也「はい。だめっすか」
女性「私、動物嫌いなの」
女性「でも…」
俺の頬に手を添えた。
どきっとする。
女性「あなたみたいな動物なら、死ぬほど可愛がってあげるわ」
朋也「はは…」
なんと答えていいのやら…。
女性「これ、名刺。渡しとくわ」
手を取られ、少し強引に握らされた。
そこには、夜の店の名前と、この人の源氏名らしきものが書かれていた。
裏も見てみる。電話番号が手書きされていた。
朋也「俺、未成年なんですけど…」
女性「見ればわかるわよ」
朋也「そっすか…」
女性「お店に来いって言ってるんじゃないわ」
女性「私にいつでも連絡入れなさいって言ってるの」
朋也「はぁ…」
女性「それじゃね」
色気を漂わせながら去っていく。
梓「…ヒモ野郎。最低です。死ね死ね」
朋也「悪口のタガが外れてるからな、おまえ…」
梓「こんな時まで女をたぶらかすなんて、信じられないです」
朋也「俺は何もしてないだろ…」
朋也「…あぁ、とにかく、もうネコミミはやめだ。これは危険すぎる」
梓「最初からいらないって言ってたのに…このヒモ男は…」
ぶつぶつと小言をぶつけられていた。
止む気配はない。
しばらくはこの状態が続きそうだった。
朋也(はぁ…)
―――――――――――――――――――――
一度休憩を取るため、適当な石段に腰掛けた。
朋也「なかなか見つからねぇな」
梓「そうですね…」
梓「やっぱり、岡崎先輩が女たらしのクセに唯先輩に手を出すから、皆怒ってるんですよ」
朋也「それはおまえの心の内だ」
朋也「つーか、俺はあいつに手なんか出してないからな」
梓「嘘つき。いつもベタベタしてくるせに」
朋也「どこがだよ。普通の距離感だろ」
梓「朝だって一緒に登校してるじゃないですか」
梓「それに、唯先輩、部室でも岡崎先輩の隣に座りたがるし…」
朋也「それは俺からじゃなくて、あいつの方からきてないか」
梓「あーっ! 今、自分がモテ男だってさりげなく言いましたね!?」
梓「やらしいですっ! すべてにおいてあらゆる意味でやらしいですっ!」
梓「やらしいですっ! やらしいですっ!」
朋也「悔しいですみたく言うな」
朋也「前に言ってたけど、あいつは俺のことなんとも思ってないらしいぞ」
梓「ほんとですか? でも、どういう会話の流れでその発言が出たんですか?」
朋也「いや、冗談のつもりで、俺に気があるのかって訊いてみたんだよ」
朋也「そしたら、そんなんじゃないってさ」
梓「…なるほど」
梓「まぁ、唯先輩は、わりとすぐ人と仲良くなりますからね…」
梓「ってことは、岡崎先輩にじゃれついてるのは、遊びだったってことですね」
梓「あはは、唯先輩にとっては、岡崎先輩なんて、遊びだったってことですよ」
梓「あははは」
朋也「はは…」
俺もなぜか乾いた笑いで同調してしまっていた。
梓「じゃあ、岡崎先輩も、唯先輩のことは、なんとも思ってないわけですね」
朋也「ん、ああ…」
梓「…なんで言いよどむんですか?」
朋也「いや…」
がたっ
朋也(ん?)
音のした方に振り向く。
ダンボールが倒れ、猫が飛び出していた。
空に飛び立っていく鳥を追っている。
その先には、激しく車の行き交う道路があった。
俺は考える前に駆け出していた。
朋也(うらっ…)
飛び込み、猫をキャッチする。
間一髪間に合った。
猫は、俺の胸の中できょとんとしている。
朋也「いっつ…」
背中に痛みが走る。
モロにコンクリでぶつけたからだ。
腕も擦ってしまい、血が流れてくる感触が肌に伝わってきた。
梓「大丈夫ですかっ!?」
中野が駆け寄ってくる。
朋也「ああ、無事だよ」
上体を起こし、猫を両手で掲げてみせる。
梓「そうじゃなくて、岡崎先輩がですよっ」
朋也「ああ、俺は…っつ…」
梓「痛みますか? どこです?」
朋也「いや、大丈夫」
梓「ちょっと腕見せてください」
言って、俺の袖をまくった。
梓「血が出てるじゃないですか…」
朋也「ほっときゃ止まるよ」
梓「そんなこと言って、バイ菌が入ったら大変ですよっ」
梓「ここでじっとしててください。私、ちょっと行ってきます」
そう言い残し、人ごみを縫ってすぐ近くの雑貨店に入っていった。
―――――――――――――――――――――
梓「はい、これでいいです」
朋也「サンキュ」
中野は、水で傷口を丁寧に洗い流し、その上から透明なシートを貼ってくれていた。
梓「患部を水で濡らした後、このシートを貼っておくんですよ」
パック入りになったそれを渡してくる。
朋也「ああ、わかったよ。で、いくらだったんだ? これと水合わせて」
受け取って、そう訊いた。
梓「お金なんていいですよ。この子、助けようとしてくれたんでしょ」
膝の上に乗り、安心して丸まっている猫の顎を撫でる。
梓「ほんと、馬鹿ですね。あんなことしなくても、道路になんか飛び出しませんよ」
朋也「そうだったかな」
梓「そうですよ」
朋也「ちょっと神経質すぎだったな」
朋也「動物の挙動なんて、予測できないからさ、嫌な予感がして、先走っちまった」
梓「岡崎先輩の行動の方がよっぽど予測できません」
朋也「そっか」
梓「はい、そうです」
朋也「………」
梓「………」
会話が途切れる。
俺はなんとなくネコミミを手にとってみた。
梓「って、なんで猫にネコミミをつけるんですか…意味ないですよ…」
朋也「これで、二倍猫になるだろ」
梓「もう…なんなんですか、それ。意味がわかりませんよ」
梓「ほんと、馬鹿なんだから」
柔和に微笑む。
初めて俺に向けられた曇りのない笑顔。
いつもこんな風に笑っていてくれれば、こいつも無害な普通の女の子なのだが。
声「あら、岡崎じゃない」
朋也「ん…」
声がして、顔を向ける。
そこには一人の女性が立っていた。
女性「奇遇ね。こんなとこで、なにやってんの」
朋也「美佐枝さん…」
この女性、学生寮の寮母をやっている人だった。
名は相楽美佐枝。
寮生でない俺も、あれだけ通い詰めていれば、嫌でも顔見知りになる。
美佐枝「ところで…そっちの子は?」
中野を見て言う。
朋也「ああ…まぁ、後輩だよ」
梓「あ、初めまして。中野梓といいます」
美佐枝「これは、ご丁寧にどうも。私は、相楽美佐枝。学生寮の寮母をやってるの」
梓「寮母さんなんですか…すごくお若いのに…」
美佐枝「あら? そうみえる? ありがと」
美佐枝「にしても…」
美佐枝「岡崎、あんたも隅に置けないわねぇ。こんな可愛い子とデートなんてさ」
梓「な、ち、違いますっ」
中野が勢いよく否定する。
美佐枝「ありゃ、彼女じゃなかったの?」
朋也「こいつとはそんなんじゃねぇよ」
梓「そ、そうですよっ」
美佐枝「ふぅん、なかなか似合って見えたのにねぇ」
梓「そ、そんなことないですっ! 私たち、犬猿の仲なんですっ」
梓「こ、こんな人となんて…そんな…」
美佐枝「あんた、嫌われてるの?」
朋也「少なくとも、好かれちゃいないかな」
美佐枝「あ、そなの」
朋也「ああ」
猫「にゃあ」
中野の膝の上、猫が鳴いてた。
美佐枝「あら…可愛い猫だこと。触ってもいい?」
梓「あ、もちろんです」
美佐枝「ありがと。それじゃ…」
くすぐるように顎を撫でた。
ごろごろと気持ちよさそうに唸る。
美佐枝「あんたの猫なの?」
梓「いえ…野良なんです」
美佐枝「へぇ、それにしては毛並みが綺麗よね」
梓「ですよね。可愛いです」
美佐枝さんが撫でると、猫もうれしいのか、尻尾をピンと立てていた。
ここまで気を許させてしまうのは、この人の持つ、包み込むような母性のためだろうか。
動物にもそれが直感的にわるから、安心して身をゆだねることができるのかもしれない。
どうせ飼われるなら、こんな人がいいと思う。
面倒見のいいこの人のことだ、きっと大事にしてくれるに違いない。
だが、寮で飼うなんてことが許されるのだろうか…
そこだけが唯一気にかかる。
朋也(ダメもとで訊いてみるか…)
朋也「美佐枝さん。そいつ、飼ってやれないか」
美佐枝「え? あたしが?」
朋也「ああ。俺たち、ずっと飼ってくれる奴探してたんだけど…」
俺はこれまでのいきさつを美佐枝さんに話した。
美佐枝「はぁ…その猫の怪我、そういうことだったんだ」
朋也「ああ。だから、頼むよ。美佐枝さんなら、安心して任せられるし」
梓「私からも、お願いします」
美佐枝「う~ん…でもねぇ…」
美佐枝「………」
顎に手を当て、しばしの間、思案に暮れる。
美佐枝「…猫、か。もう一匹増えたところで、変わりないか…」
何かつぶやいていたが、小さくて聞き取れなかった。
美佐枝「うん…わかった。一応、つれて帰ったげる」
梓「ほんとですかっ? ありがとうございますっ」
美佐枝「でも、正式に飼うわけじゃないわよ」
朋也「どういうこと?」
美佐枝「原則、寮でペットを飼うのは禁止されてるからねぇ」
美佐枝「おおっぴらには飼えないってことよ」
美佐枝「部屋を間借りさせてあげるのと、餌をあげることくらいしかできないけど…」
美佐枝「それでもいい?」
梓「十分ですよっ」
朋也「ああ、それだけしてくれりゃ、飼ってるのと変わりねぇよ」
美佐枝「そ。じゃあ、あたしはもう帰るとするかねぇ」
美佐枝「さ、おいで」
猫をその胸に抱く。
一片の抵抗もみせず、大人しく美佐枝さんの腕の中に収まっていた。
朋也「ありがとな、美佐枝さん」
梓「ありがとうございますっ」
美佐枝「ん、いいわよ、別に」
美佐枝「それじゃね」
朋也「ああ」
梓「はいっ」
俺たちに背を向け、歩いていく。
梓「よかったぁ…」
よほど嬉しかったのか、肩の力を抜いて、安堵の表情を浮かべていた。
朋也「そうだな」
おもむろに、ぽむっと中野の頭に手を乗せる俺。
梓「な、なにするんですかっ」
が、すぐに振り払われた。
朋也「いや、いい位置にあったから」
梓「そ、そんな理由で触らないでくださいっ」
朋也「悪かったな。もうしねぇよ」
梓「………」
朋也「そんじゃ、俺も行くからさ。じゃあな」
言って、俺も美佐枝さんが行ったのと同じ方向に足を向けた。
これから春原の部屋に向かうつもりだった。
今からなら、途中で美佐枝さんに追いつくだろう。
別れの挨拶をした意味がないな…ぼんやりと思う。
梓「あ、あのっ」
朋也「なんだよ」
声をかけられ、振り返る。
梓「きょ、今日はありがとうございましたっ…協力してくれて…」
梓「その…岡崎先輩のおかげで、飼い主も見つかりましたし…」
梓「猫を助けようって、必死になってもくれましたし…」
梓「ちょっとだけ…見直しました」
朋也「そりゃ、どうも」
梓「それと…頭に手を乗せられたのも、ほんとは嫌じゃないっていうか…」
梓「むしろ…その…」
もじもじとしているだけで、その先は出てこなかった。
朋也「じゃあさ、これからは仲良くしてくれよな、あずにゃん」
梓「な、あ、あずにゃんって呼ばないでくださいっ」
梓「この調子乗りっ! うわぁぁんっ」
顔を真っ赤にして、どぴゅーっとものすごい勢いで逃げていった。
朋也(変な奴…)
だが、少しだけあいつとの関係が改善された…ような気がした。
―――――――――――――――――――――
4/30 金
唯「あ~…だるぅい~」
憂「お姉ちゃん、たった一日で休みボケしすぎだよ」
唯「だってぇ…もうゴールデンウィーク入ったって錯覚しちゃったんだもん…」
憂「あしたいけば、本物の連休がくるから、がんばろ?」
唯「う~…えいっ」
憂ちゃんに腕を回し、全体重を預ける平沢。
憂「な、なに? 重いよぉ、お姉ちゃん…」
唯「このまま進んで、学校まで運んでよぉ~」
憂「うぅ…わかったよ…私頑張るね…」
憂「よいしょ…よいしょ…」
懸命にずるずる引きずっていく。
唯「遅いよぉ~スピード上げてよぉ~」
憂「う、うん、わかったよ…よい…しょ…」
憂「あ…もうだめ…」
ええ話や。゚(゚´Д`゚)゚。
ぺたり、とその場にへたりこんでしまう。
朋也「自分で歩けよ、平沢」
朋也「ほら、憂ちゃん」
手を差し伸べる。
憂「あ、ありがとうございます」
その手を取って立ち上がる憂ちゃん。
平沢は崩れ落ちたまま微動だにしなかった。
唯「はひぃ…」
朋也「置いてくぞ」
唯「ああ…まってぇ」
のろのろ立ち上がり、追ってくる。
唯「岡崎くん、しがみついていい?」
朋也「だめ」
唯「けちぃ…」
―――――――――――――――――――――
下駄箱まで足を運んでくる。
朋也「おい、平沢…そろそろ離せ」
唯「え~、教室まで連れてってくれてもいいじゃん…」
結局、坂を上ったあたりから、平沢を引きずってくることになってしまっていた。
あまりにもしつこかったので、俺のほうが折れてしまったのだ。
朋也「ここまででいいだろ。さっさと靴履き替えろ」
唯「ぶぅ…」
声「…おはようございます」
…この声。
振り向く。
梓「………」
中野が引きつった笑顔をぴくぴくとひくつかせ、音もなく背後に立っていた。
…おまえは忍者の末裔か。
唯「あ、あずにゃん、おはよぉ」
朋也「…よぅ」
梓「………」
眉間に寄った皺は消えそうにない。
また、いらぬ恨みを買ってしまったんだろうか…。
梓「…また、放課後に」
唯「うん、部活でね」
梓「それじゃ、失礼します」
言って、軽く会釈。
最後に俺をちらっと見て…
梓「…馬鹿」
ムッとした顔を向け、そう口が動いた気がした。
それも、一瞬のことだったので、定かではなかったが。
―――――――――――――――――――――
………。
―――――――――――――――――――――
昼。
唯「あぁ…刻(とき)が見える…」
平沢は未だにローテンションを引きずっていた。
唯「はぁ…むしろ生きる意味がわからない…」
澪「どんどんひどくなっていってるな…」
和「唯、口からぼろぼろこぼれ落ちてるから、咀嚼する時だけは気合入れなさい」
唯「ああぅ…わかた…多分」
春原「はは、情けねぇなぁ。もっとピシッとしろよ」
律「おまえは今日も重役出勤だったくせに、えらぶんな」
春原「うるせぇっ! 元気があればなんでも出来るんだよっ!!」
律「うわっ、ばかっ、口の中に食べ物含んだまま叫ぶなよっ!」
律「内容物が飛び散ってんだろうがっ! 私に当たったらどうすんだよっ!」
春原「避ければいいじゃん」
律「おまえが飛ばさなきゃいいの!」
律「ったく…」
朋也「あ、部長、右肩んところ…」
律「ん?」
律「うひぃ、ちょっと被弾しちゃってるし…最悪…」
汚らしそうに、ばっばっと振り払っていた。
澪「唯、今日が山場だ。明日は4時間だし、ここさえ乗り切ってしまえば、あとは楽だぞ」
春原「そうそう、土曜なんて、あってないようなもんだしね」
律「そりゃ、おまえが大抵昼からしかこないからだろ」
唯「う~ん、わかっちゃいるけど、体がついてこないよぉ…」
紬「唯ちゃん、よかったら、これ食べて、元気出して?」
琴吹が弁当箱から高級そうなだんごを覗かせた。
唯「え? いいの?」
紬「うん、もちろん」
唯「やったぁ、それじゃ…あ~ん」
餌を待つヒナ鳥のように口を開けた。
紬「はい、あ~ん」
箸で平沢の口まで運ぶ琴吹。
澪「そこまでめんどくさがるのに、ちゃっかりもらうんだな…」
唯「むぐむぐ…おいひぃ~」
紬「ほんと? よかったぁ」
律「しょうがねぇなぁ、私からもやるよ…このキンピラゴボウ」
春原「おまえ、またんなもん食ってんの」
律「うるせぇなぁ、りっちゃんキンピラは最高にうまいんだぞ」
唯「う~ん…一応もらっておこうかな…あ~ん」
また口を開けて待つ。
律「一応とはなんだ、一応とは」
言いながら、箸でひとかたまり摘んで、口に運ぶ。
唯「むぐむぐ…ぺっぺっ」
律「あーっ! てめぇ、唯!」
春原「ははは、だせぇ」
律「こぉの野郎ぉーっ!」
平沢に横からヘッドロックをかける部長。
唯「ご、ごめぇん、冗談だよ、おいしいよぉ」
律「80回以上噛んでから飲み込め、こらっ!」
唯「2回で許してぇ」
律「味が出る前に飲み込もうとしてるだろ、それっ!」
律「不味いって言いたいのかよぉ!」
ぎりぎりと締め付けていく。
唯「うわぁん、嘘、嘘だよ! 分子レベルまで噛み締めるから、許してぇ」
澪「まったく…もっと静かに食べられないのか」
唯「冷静なこと言ってないで、助けてよぉ、澪ちゃんっ」
紬「くすくす」
こうして、昼も騒がしく過ぎていった。
―――――――――――――――――――――
………。
―――――――――――――――――――――
放課後。
唯「………」
梓「唯先輩、どうしたんですか?」
平沢は机に突っ伏して、一言も発していなかった。
律「なんか、連休前で、息切れしてるんだってさ」
梓「はぁ…」
紬「はい、唯ちゃん。ここ、置いておくね」
唯「ん…」
少し顔を上げる。
唯「ひゃっほうっ、今日はチーズケーキなんだねっ!」
ケーキを目の前にして、今まで伏せていた上体を勢いよく起こしていた。
澪「いきなり元気になったな…」
律「現金な奴…」
―――――――――――――――――――――
春原「おい、部長。ちょっとラジカセ貸してくんない?」
律「あん? どうすんだよ」
春原「これをかけようと思ってね」
ポケットからカセットテープを取り出す。
春原「ボンバヘッ聴きながら、ムギちゃんの用意してくれたお茶を飲む…」
春原「これ以上のくつろぎ方はこの世に存在しないね」
律「いや、いいけどさ…ボンバヘッってなによ?」
春原「かぁ、知らねぇのかよ、あの有名なHIPHOPの最高峰を」
春原「おまえ、それでも軽音部部長かよ」
律「いや、聞いた事ないからさ…みんな知ってるか?」
唯「知らなぁい」
澪「私も…」
紬「私も、ちょっと…」
梓「私も聞いたことないです」
春原「ええ、マジ? じゃ、この機会に知っておいたほうがいいよ」
春原「部長、ラジカセまだかよ」
律「物置にあるから、自分で取ってこい」
春原「ちっ、気の利かねぇ奴だな」
律「おまえのために動く道理なんかねぇよ」
春原は物置に入っていくと、ややあってラジカセを手に戻ってきた。
春原「んじゃ、かけるよ」
テープを入れ、再生ボタンを押す。
流れてきたのは、古臭い歌謡ヒップホップ。
朋也(ダッサ…こんなの聴かねぇだろ…)
春原「よくない? ボンバヘッ!」
律「ん、まぁ、なかなか…」
唯「ノリがいいよね」
澪「そうだな。普段、こういう曲はあんまり聞かないけど、いいかも」
紬「うん、なんか、親しみやすいなぁ」
梓「ちょっと古い感じしますけど…逆に新鮮でいいです」
春原「へへ、だろ?」
…意外と好評のようだった。
春原「おまえら、どんどんボンバヘッコピーして、いいバンドになれよ」
律「アホか。私たちの音楽性と違いすぎるわ」
梓「音楽性って…それも、プロみたいでちょっと大げさな気もしますけどね」
唯「でも、おもしろそうじゃない? ボンバヘッ時間とかやってみたらさ」
律「んなアレンジするかよ…澪だって、歌詞思いつかないだろ、そんなんじゃ」
澪「う~ん…頑張ればできるかも…」
律「できるんかい…」
唯「どんな感じ? 澪ちゃん」
澪「うん…えっと…」
澪「キミをみてると、いつもハートBON☆BAHE…とか…」
静まり返る室内。
澪「………」
律「じゃ、練習しよっか」
唯「そだね」
梓「やってやるです」
紬「頑張りましょうね」
春原「岡崎、せんべいちょっとわけてよ」
朋也「いいけど」
澪「ちょっと待てぇっ!」
律「どうしたんだよ、澪。んな大声出しちゃって」
澪「なんでなかったことにされてるんだよっ!」
律「いや、だって、すげぇ微妙だったし…」
澪「仕方ないだろぉ! 即興だったんだからっ!」
律「にしてもなぁ…」
澪「うぅ…じゃあ、納得できるもの書いてきてやるっ」
澪「春原くん、後でテープダビングさせてっ!」
春原「あ、ああ、いいけど…」
律「澪ちゃ~ん、そこでまでしなくていいからなぁ~…」
―――――――――――――――――――――
練習が始まり、俺たちは暇になる。
今残っている茶を飲み干せば、退散を決め込むつもりだった。
春原「う~ん…まだか…」
春原がなにやらラジカセのアンテナをしきりに動かしていた。
朋也「なにやってんの、おまえ」
春原「みてわかんない? ラジオ聴こうとしてんだよ」
朋也「いや、わかるけどさ、なんで琴吹に向けてんの」
ちょうど、胸のあたりに照準を合わせているような…
春原「どうせなら、ムギちゃんのおっぱいを通った電波受信したいじゃん」
朋也「あ、そ…」
こいつは絶対アホだ。
春原「うぉおおおっきたきたぁっ!」
じりじりとラジカセが音を立て始める。
内容は、情報番組のようだった。
春原「ちっ、なんだよ、つまんねぇチャンネルだなぁ」
春原「せっかくムギちゃん通してんだから、ムギちゃんのおっぱい情報を事細かに伝えろよなぁ」
朋也「琴吹の前に、どっかのおっさんを5、6回経由してきたようだな」
春原「マジで? それ、やべぇよ」
春原「くそぉ、知りてぇえええ! ムギちゃんのおっぱい秘話っ!!」
がんっ
春原「イテぇっ!」
ドラムスティックが春原の顔面に直撃していた。
律「変態発言はよそでやれ、アホっ!」
部長が投げ放った物のようだ。
春原「顔面狙うことないだろ、クソデコっ!」
律「黙れ、変態ヘタレ野郎っ!」
悪口の応酬が始まる。
平沢たちは部長を、俺は春原をなだめ、なんとか場を収めた。
律「ったくぅ…ムギもなんとか言ってやれよぉ」
律「こいつ、ムギにすげぇやらしいことしてたんだぜ?」
律「セクハラだよ、セクハラ」
春原「いや、そういうつもりじゃ…」
春原「ちょっとしたジョークだよ。ムギちゃんなら、わかってくれるよね?」
紬「えっと…もう少しで、立件できそうなの」
春原「前々から準備進めてたんすかっ!?」
律「わははは!」
―――――――――――――――――――――
結局、最後まで居座ってしまい、一緒に下校することになってしまっていた。
春原が寮に戻り、俺ひとりが女集団の中に残されたので、やはり少し離れて歩いた。
目の前では、平沢たちが楽しげに会話をしている。
部長と平沢がボケて、秋山と中野がつっこみを入れ、琴吹が笑う。
役割が大体決まっているのだろうか。よく見かける構図だった。
澪「岡崎くん」
話がひと段落ついたのか、輪から抜けて、秋山が俺に近寄ってきた。
他の奴らは、次の話題に移っているようだった。
朋也「なんだ」
澪「今ね、みんなで星座占いやってたんだけど…」
言って、持っていた携帯に目を落とす。
澪「よかったら、岡崎くんもやってみない?」
朋也「俺?」
澪「うん。興味ないかな、やっぱり…」
少し寂しそうな顔。
確かに、別段興味はなかったが…
こんな顔をされては、断る気にもなれない。
朋也「さそり座」
澪「え?」
朋也「俺の星座だよ。占ってくれるんだろ」
澪「あ…うんっ」
表情をぱっと明るくして、携帯を操作する。
澪「えっとね…」
澪「今日のあなたは超絶好調☆誰にも止められない☆邪魔者はみんな叩き殺しちゃえ☆」
澪「…ということだそうです」
…どんな占いサイトだ。
澪「あはは…よかったね…すごく運いいみたいだよ…」
秋山もその結果に、とういうか、文章にうろたえているのか、声がうわずっていた。
朋也「ああ…みたいだな。まぁ、すでに今日も後半に入ってるけどさ」
澪「あはは…そうだね…」
朋也「はは…」
澪「あはは…」
意味もなく笑う俺たち。
澪「あの…相性占いもしてたんだけど…やってみる?」
口直しに、とでもいうように、そう訊いてきた。
朋也「相性って…俺と、誰を?」
澪「誰でもいいよ。名前と、誕生日を知ってる人なら」
澪「春原くんとか、どう?」
朋也「いや、あいつは、俺の中でまだ顔と名前が一致してないくらいの仲だしな」
朋也「相性なんて、どうでもいいよ」
澪「そ、そんな他人みたいな…ひどいなぁ…あんなに仲いいのに」
朋也「よくない」
澪「素直じゃないんだね」
朋也「本音だ」
澪「あはは…そういうことにしておくね」
澪「じゃあ、春原くん以外で、誰かいる?」
朋也「そうだな…」
俺の交友関係なんて、あいつを除けば、ほとんど無きに等しい。
改めて考えてみると、俺って、かなり寂しい奴なんじゃないだろうか…。
澪「もし、よかったら…私たちの内の誰かでもいいよ」
朋也「おまえでも?」
澪「え、わ、私? 私なんかで、いいの…?」
澪「岡崎くん、唯と仲いいし…その…相性知りたいんじゃないかなって…」
また平沢との疑惑が持ち上がってくるのか…。
これももう何度目だろうか。
まぁ、今となっては、俺自身、そんなに嫌でもなかったが…
朋也「おまえとにするよ」
だが、露骨に俺から近寄っていくのも、何か違う気がした。
第一、平沢は、その気がないとかつて言っていたこともあるのだ。
だから、今のままが一番いいと思う。
澪「…う、うん、わかった…じゃあ、私とで…」
携帯の画面と向き合い、カチカチと入力していく。
澪「岡崎くん、誕生日は?」
朋也「10月30日」
澪「10月…30…」
俺の返答を聞くと、また画面に目を戻し、入力を始めた。
澪「名前の、ともや、ってこの字でいいかな?」
澪ちゃんかわええ
画面を俺に見せてくる。
朋也「ああ、いいよ」
澪「えっと…朋也っと…」
澪「血液型は?」
朋也「A型」
澪「Aっと…」
澪「それじゃあ…」
カチッと一押しする。
最後の入力が終わったようだ。
澪「あ…出てきた…」
幾ばくかの間があって、そう声を上げた。
澪「………」
画面をじっと見つめたまま何も言わない。
言い辛い結果だったんだろうか。
朋也「どうだったんだ」
澪「うん…えっと…」
澪「…話す内、お互い、気を許し合えることがわかります」
澪「長年に渡って、良きパートナーとなれるでしょう…」
澪「…って、ことなんだけど…」
朋也「ふぅん、結構よさげじゃん」
澪「う、うん、そうだね…」
澪「それで…男女ペアだったから、もうひとつあるんだけど…」
男女ペア特有の相性…それは、やっぱり…
澪「あの…恋愛相性…なんだけど…」
…そうなるか。
澪「き、興味、あるかな…?」
頬を赤らめながら訊いてくる。
朋也「あ、ああ…まぁ、一応」
仮にも、秋山は美人の部類である女の子だ。
そんな奴との相性が気にならないと言ったら、それは嘘になる。
澪「じ、じゃあ、言うよ…えっと…」
澪「…お互いの精神的弱点を補い合い、成長できる恋愛が出来そうです」
澪「強さと繊細さを持ち合わせた理想のカップルとなれるでしょう…」
澪「………」
言い終わると、口をきゅっと結び、目を泳がせながら押し黙ってしまう。
朋也「あー…俺たち、相性いいみたいだな」
つとめて淡白な素振りを意識して、軽い口調で言った。
所詮アルゴリズムで弾き出された答えだ。
気負うことはないと、そう伝えたかったからだ。
澪「う、うん、そうだね…」
俺の意思が通じたのか、秋山も笑顔を作ってそう返してくれた。
澪「あの…岡崎くんってさ…」
朋也「うん?」
澪「えっと…」
グサ
下腹部に違和感。
澪「あ…」
朋也「…ん?」
秋山から視線を外し、下にさげていく。
…股間に枝が突き刺さっていた。
朋也(なぜ…)
ゆっくりとその先に視線を這わせていくと、中野が呆れた顔で突っ立っていた。
梓「まったく、ちょっと目を離すとすぐふたりっきりになろうとする…」
梓「最低です」
朋也「いや、まずこの枝どけろよ」
言って、振り払う。
が、すぐにまた戻される。
澪「あ、梓、やめなさい」
梓「だって、澪先輩がこのけだものに襲われてたから…」
澪「そんなことされてないから、やめなさい」
梓「…はい」
しぶしぶ枝を自然に還していた。
まぁ、ただ捨てただけなのだが。
梓「岡崎先輩、後ろの方でこそこそといちゃつくのはやめてください」
朋也「んなことしてねぇって」
澪「そ、そうだぞ、ただ私が話しかけて…」
梓「澪先輩、だまされちゃだめですっ」
澪「はうっ…」
その迫力に気圧される秋山。
梓「気を許させて、そこから一気に畳み掛けるつもりなんですからっ」
梓「岡崎先輩、卑怯ですよ、こんな純情な澪先輩まで毒牙にかけようなんてっ」
朋也「ただトークしてただけだっての…」
梓「そんなに女の子とふたりっきりで話したいんですかっ」
朋也「いや、俺は…」
梓「そういうことなら…私…私が犠牲になるので、先輩たちに手を出さないでくださいっ」
朋也「じゃあ、おまえとならいちゃついてもいいってことかよ」
梓「な、なななっ…」
梓「…そ、それで岡崎先輩が大人しくなるなら…我慢しますです…」
澪「あ、梓…」
律「おーおー、敬語が雑になるくらい動揺しちゃって…」
紬「あらあら、梓ちゃんったら…」
いつの間にやら部長と琴吹も集まってきていた。
律「まさか、梓まで攻略するなんてな…岡崎、おまえ、すげぇよっ」
梓「ななな、なに言ってるんですかっ! そんなことされた覚えありませんっ!」
律「だってさぁ、岡崎が他の女といちゃつくの嫌なんだろ?」
律「それで、今、独占しようとしてたじゃん」
梓「違いますっ! あくまで身代わりになろうとしてただけですっ!」
律「ふぅん、身代わりねぇ…いひひ」
梓「り、律先輩っ! 変な笑い方しないでくださいっ」
律「いやぁ、おもしろくなってきましたなぁ、ムギさんや」
紬「そうですねぇ、りっちゃんさん」
梓「む、ムギ先輩までっ…」
声「おお、すごぉいっ!」
前方で声。この場に居合わせた全員が前を向く。
唯「りっちゃんとトンちゃんの相性ばっちりだよっ…って、あれ?」
唯「なんでみんなそんな後ろの方にいるの?」
平沢がひとり、こちらを振り返ってきょとんとしていた。
律「あいつは…なにとあたしの相性占ってんだよ…」
唯「ほら、りっちゃんみてみて、トンちゃんとの相性!」
とてとて走ってくる。
唯「すごいフィーリングだよっ。よかったねっ」
唯「りっちゃん、私たち全員と相性微妙だったからっ」
律「それは言うなぁっ!」
バックを取り、チョークスリーパーをかける。
唯「うわぁん、ごめんなさぁいっ」
騒ぎ出すふたり。
澪「…はぁ」
秋山が俺の隣でため息をついていた。
そういえば、中野が現れる前、なにか俺に言おうとしていたような…
朋也「なぁ、さっきなにか言いかけてたけど、なんだったんだ」
澪「ん? うん…いいの、なんでもない」
朋也「あ、そ」
澪「うん…」
間が空いて、興がそがれてしまったんだろうか。
何を言おうとしていたのか…少しだけ気になった。
それは、こいつの横顔が、やたらと儚げにみえたからだろう。
物憂げな表情も、こいつなら絵になるものだと…
この時、俺は単純に感心していた。
―――――――――――――――――――――
5/1 土
唯「ふでぺーんふっふー♪ ぐふふ」
憂「お姉ちゃん、きのうとは別人のようにハイテンションだよね」
唯「まぁね~。明日からは黄金週間だしね~おもいっきりだらだらするんだぁ」
憂「でも、お父さんとお母さんが帰ってくるから、家族で出かけるんだよ?」
憂「話、聞いてたでしょ?」
唯「え? うん、まぁ…」
憂「忘れちゃってた?」
唯「いや、えっと…覚えてたよ…うん…」
声のトーンが落ち、濁したように答えていた。
唯「………」
俺の顔色を窺うように、ちらりと見上げてくる。
目が合っても、逸らそうとはしない。
その瞳には、なにか複雑な色をたたえていた。
…ああ、そうか。今、わかった。
平沢は、俺を気遣ってくれているのだ。
こいつには、うちの家庭環境を話していたから、それで。
朋也(そういうことには敏感なんだよな、こいつは…)
俺は平沢の頭に手を乗せ、ぽむぽむと軽く触れた。
唯「…ん、なに? どうしたの?」
朋也「いや、なんでも」
唯「?」
―――――――――――――――――――――
………。
―――――――――――――――――――――
昼。
律「ったく、なんでネタ被らせてくんだよ、ばか」
春原「僕の方が先に食券買ってただろうがっ! おまえが加害者で、僕が被害者だっ」
律「ごちゃごちゃうっせぇやい、りっちゃんちゃぶ台返し食らわすぞっ!」
今回のいざこざは、ふたりが同じメニューを購入してきたことに端を発していた。
部長は普段、弁当食なのだが、気分を変えたかったらしく、今日は学食を利用していたのだ。
春原「んな言いにくい技、僕には通用しねぇってのっ」
律「なんだとぉ! じゃあ、食らわせてやるよっ」
腕まくりする部長。
律「死んでからあの世で後悔するんだなっ」
唯「まぁまぁ、落ち着きなよ」
平沢が肩にぽん、と手を乗せる。
唯「おんなじもの選ぶってことは、それだけ気が合うってことだよ。だから、仲良くしなきゃだめだよ?」
律「気も合わないし、仲良くもしねぇってのっ。あんまりおぞましいこと言うなよなぁ」
律「こんなヘタレなんかと一緒にされた日にゃ、くそ夢見悪ぃよ」
春原「あんだとっ! てめぇ、あとで便所裏こいやぁっ!」
朋也「それが男子便のことを指すなら、裏は女子便ってことになるな」
春原「えぇ? それ、マジ?」
そのつもりで言っていたようだ。
律「なんてとこ呼び出そうとしてんだ、この変態っ!」
春原「ち、ちが…そ、そうだ…体育館裏こいやぁっ!」
朋也「告白でもするのか? あそこ、告りスポットで有名だぞ」
春原「マジかよっ!?」
律「うわ…勘弁してよ…」
春原「くそ、勘違いするなよ…えっと…えっと…」
朋也「校庭に生えてるでかい樹の下でいいんじゃないか。なんか伝説あるみたいだし」
春原「そ、そうか…じゃあ…」
春原「校庭にある伝説の樹の下までこいやぁっ!」
朋也「敬語のほうが丁寧で印象もよくなるし、来てくれる確率もあがるんじゃないか」
春原「そ、そっか、じゃあ…」
春原「校庭にある伝説の樹の下まで来てくださいっ!」
春原「って、こっちの方が告ろうとしてるようにみえるだろっ!」
朋也「成功したら、次は実家に呼び出せよっ」
ぐっと親指を立ててみせる。
春原「なんだよそのさわやかさはっ! つーか、展開早ぇよっ!」
律「最低…そんな目であたしをみてたんだ…キショ…」
春原「あ、てめぇ、勘違いすんなよ、こらっ!」
唯「春原くん、大胆だねっ」
春原「ああ? だから、違うって言ってん…」
紬「頑張って、春原くんっ」
春原「って、え゛ぇえっ!? ムギちゃんまで…」
朋也「よかったじゃん、追い風吹いてるぞ。本人には拒否されてるけど」
春原「岡崎、頼むからもうおまえは喋らないでくれ…」
―――――――――――――――――――――
………。
―――――――――――――――――――――
放課後。
紬「あの…ちょっとみんなに見てもらいたいものがあるんだけど…」
いつものように茶をすすっていると、琴吹がおもむろに口を開いた。
春原「うん? なにかな? もしかして、おっぱ…」
律「黙れ、変態っ」
ぽかっ
春原「ってぇな…」
律「それで、ムギ、なに? みせたいものってさ」
紬「うん…マンボウ改、なんだけど…」
律「マ、マンボウ改…?」
唯「ムギちゃん、なに、それ?」
紬「ほら、一年生の時に、クリスマスパーティーやったじゃない?」
紬「あの時、一発芸で私が披露した、あれの改良版なの」
唯「あ、ああ、なるほどねぇ~…」
澪「あ、あれか…」
とすると、二年前のことなんだろう。
俺と春原にはさっぱりわからない話だった。
梓「なんなんです? マンボウって」
…ああ、こいつもか。
澪「いや、口じゃちょっと説明しづらいっていうかだな…」
梓「そうなんですか?」
澪「ああ…」
律「しっかし、なんでまたそんなものを…」
紬「鏡みてたら、急に思い出しちゃって…」
紬「それで、ひとりで思い出し笑いしてたら、新しい案が閃いちゃったの」
紬「で、完成型を今日みんなにみせるために、98429回は素振りしてきたのよ」
澪「す、素振りって、マンボウをか…?」
律「しかも、その回数かよ…」
唯「すごいポテンシャルを持ってるね…さすがムギちゃんだよ…」
紬「あ、ごめんなさい。そのくだりは嘘なの」
ずるぅっ!
天使のような笑顔で言われ、みな転けていた。
律「あ、そですか…」
紬「でも、マンボウ改が生まれたのは本当よ。みてくれるかな…?」
春原「僕は喜んで見るよっ」
紬「ほんとに?」
春原「うん。めちゃみたいよっ」
梓「私も興味あります」
唯「わ、私もあるかなぁ~…あはは~…」
澪「そ、そうだな、ある意味見てみたいかも…」
律「ほどほどにな、ムギ…」
紬「それじゃあ…」
ステージに登るようにして、俺たちの前に立つ。
目を閉じて、一度深呼吸…
腹を決めたのか、かっと見開いた。
紬「マンボウのマネっ」
口の中いっぱいに空気を含み、頬を膨らませ、手でヒレの部分を再現していた。
シュールだ…
朋也(つーか…)
…顔がおもしろい。
梓「え…」
春原「はは…」
初見のこのふたりも、ある種ぶっ飛んだこのネタについていけていないようだった。
紬「…改っ!」
叫び、手で虎爪を作って腕をひねらせながら前に突き出した。
そこで動きを止め、微動だにしなくなった。
どうやら、ここで終わりのようだ。
………。
皆、唖然とした表情で、口をあけてぽかんとしていた。
律「ムギ、今のは…?」
紬「威嚇よ」
体勢を元に戻し、一仕事やりとげたいい顔でそう答えた。
律「い、威嚇…」
澪「マンボウって威嚇するのか…?」
唯「っていうか、攻撃してたよね?」
律「ああ、こう、腕が敵にめり込んでたっていうかさ…」
律「マンボウの面影がまったく残ってない攻撃方法だったよな」
梓「絶対あのマンボウは生態系の頂点にいると思います」
次々にダメ出しされていく。
紬「…ダメ、だったかな…」
顔を伏せ、しょぼくれる琴吹。
春原「さ、最高だったよ、ムギちゃんっ!」
春原の苦し紛れの賛辞が飛ぶ。
律「あ、ああ、言うほど悪くなかったぞ、ムギっ」
澪「う、うん、再現度高かったぞっ」
唯「だよね、一瞬マンボウが陸で二足歩行してるのかと思っちゃったよっ」
梓「す、すごくハイレベルな芸でしたよ。二発目以降も十分ウケると思いますですっ」
それに続き、部員たちのフォローが入る。
紬「…よかったぁ♪」
その甲斐あってか、もとの明るい表情を取り戻していた。
紬「じゃあ、アンコールにこたえて、もう一回…」
律「い、いや、もういいよっ」
律「…っていうか、アンコールしてないし…」
小声で言う。
澪「そんなに連続してやったら、ムギの体がもたないだろ?」
澪「休憩したほうがいいぞ、うん」
紬「そう…?」
唯「アンコールには、りっちゃんが代わりにこたえてくれるんだって」
律「私かいっ」
唯「がんばって、りっちゃん」
澪「がんばれ、おまえの腕の見せ所だぞ」
律「あたしゃ芸人かい…」
律「でも、急に言われてもなぁ…ネタが…」
梓「ムギ先輩に倣って、マネシリーズでいいんじゃないですか」
律「マネか…う~ん、それもそうだな。じゃあ、なにがいいかな…」
律「ウケるには、滑稽な生き物がいいだろうから…」
律「む…そこから導き出される答えはただ一つ…春原、ってことになるな」
春原「あんだと、てめぇっ」
朋也「それはやめといた方がいい。難易度が高すぎる」
春原「そうだよ、こいつに僕のマネなんかできるわけないからね」
春原「滑る前に、無難なのにしといたほうがいいぜ、ベイベ?」
朋也「春原を再現しようと思ったら、白目向いて、痙攣しながら泡吹かなきゃいけないからな」
春原「って、なんでだれかにヤられた後なんだよっ!」
律「わははは!」
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5/2 日
ゴールンウィーク。その初日。
いや…世間ではもう、昨日から入っているところの方が多いのか…。
なら、正確には二日目なのかもしれない。
なんにせよ、その連休効果で町の中は人で溢れかえり、異様な活気に包まれていた。
まだ朝食を食べていてもおかしくはない時間だというのにだ。
朋也(交通量も多いな…)
やっぱり、この連休に遠出する世帯が多いんだろう。
道路がかなり混みあっていた。
そして、どの車の窓からも、楽しそうに会話する家族の姿が垣間見ることができた。
………。
朋也(なんか食うか…)
俺はとりあえずのところ、駅前に出ることにした。
―――――――――――――――――――――
朋也(今日は琴吹の奴、いなかったな…)
俺は琴吹のバイト先であるファストフード店で、少し遅めの朝飯を済ませていた。
毎週日曜にシフトが入っていると聞いていたのだが…店内にその姿は見えなかった。
朋也(旅行にでも行ってんのかな…あいつなら、海外とか…)
朋也(まぁ、なんでもいいけど…)
寮の方に足を向ける。
これからまた春原の部屋で無意味に時間を浪費することになるのだ。
いつものことだったが、今だけは余計にむなしく思えた。
空は一点の曇りも無い快晴。そして、余裕たっぷりの連休初日。
なのに、俺のやることといえば、むさ苦しい男とふたりで悶々と駄弁るぐらいのものなのだから。
朋也(はぁ…)
予定のある奴らが恨めしい。
周りの道行く人たちも、これからの時間を満喫すべく動いているんだろう。
俺とは大違いだ。
朋也(いくか…)
考えていても仕方ない。そう思い、一歩踏み出すと…
声「なんで勝手にそんなことするのっ!?」
女の怒声。その声には、聞き覚えがあった。
目を向ける。
朋也(琴吹…)
見れば、なにやら誰かと揉めているようだった。
相手は、紳士風な、身なりのきちんとした、老いのある男性だ。
俺は正直、驚いていた。偶然、今ここで琴吹を見かけたこともそうだが…
まず、なにより、あの温厚な琴吹が、怒りをあらわにして声を荒げていることにだ。
あの男性となにがあったんだろうか…
紬「あ、ちょっと、離してっ!」
肩を掴まれ、必死に抵抗していた。
朋也(あ…あの野郎…)
俺は駆け足で近づいていった。
朋也「おい、あんた、なにやってんだ」
紬「あ…岡崎くん…」
男「ん…?」
男性の動きが止まる。
その隙を突いて、琴吹が俺の後ろに隠れた。
ぎゅっと服の裾を握ってくる。
朋也「こんな公衆の面前で、拉致でもしようとしてたのかよ、あんたは」
朋也「場合によっちゃ、警察につき出すけど」
男「いえ、待ってください、私は琴吹家の執事をやらせていただいている者で、斉藤と申します」
朋也「執事…?」
斉藤「はい」
そんな人までいるのか、琴吹の家は…。
改めて生きる世界が違うことを実感させられる。
斉藤「失礼ですが、あなたは、どちら様で…?」
朋也「あ、ああ…俺は、琴吹さんのクラスメイトで…」
紬「私の片想いだった人よ」
朋也「…は?」
紬「でも、今両思いになったわ。そうでしょ?」
俺の腕に強く絡み、さらに力をこめてくる。
そこからは、やわらかい感触が伝わってきた。
胸が当たっているのだ。
…でかい。それが体感できる…。
朋也「あ、ああ…」
俺はなにがなんだかわからず、情けない声で肯定してしまっていた。
紬「ほらね。両思いの恋人同士なんだから、あなたは早く帰ってもらえる?」
紬「いつまでも一緒にいるなんて、野暮なことしないわよね?」
斉藤「………」
しばし、沈黙する。
斉藤「…はぁ。わかりました」
ひとつため息をついて、そう答えた。
斉藤「…お嬢様をよろしくお願いします」
振り向きざま、俺にそう告げると、路肩に駐車していた黒塗りのベンツに乗り込んで、車道に出て行った。
紬「………」
朋也「琴吹…そろそろ…」
紬「あ、ごめんなさい」
慌てて俺から離れる。
朋也「…で、なんだったんだ、今のは」
紬「うん…ちょっと、色々あって…」
紬「あ、そうだ、ごめんなさい、勝手に恋人なんかにしちゃって…」
朋也「いや、いいよ、別に。おまえとだし…嫌でもないからさ」
紬「そう? それは、ありがとう」
眩しい笑顔。
もういつもの琴吹に戻っていた。
朋也「よかったら、事情を聞かせてくれないか」
琴吹があそこまで取り乱していたのだから、どうしても気になってしまう。
紬「…うん」
少しの間があって、小さく返事が返ってきた。
その表情には、少しだけ陰りが見えた。
なにがあったんだろうか…。
―――――――――――――――――――――
朋也「ふぅん…そうだったのか」
俺たちは、噴水のある広場に移動してきていた。
ベンチに腰掛け、琴吹から話を聞いていたのだが…
なんでも、勝手にバイトを辞めさせられていたらしい。
これ以上続けるのは、勉学に差し支えあると判断されたからだそうだ。
だが、そんなこと、本人の与り知らないところで決められるのだろうか。
そう疑問に思ったが…琴吹家の人間が動いているのだ。
大抵のことはまかり通ってしまいそうなので、すぐにその懐疑は消えていった。
朋也「それで、今日はバイト先に挨拶しにきてたのか」
紬「うん、そうなの。私からなにも音沙汰がないのは失礼だと思って」
朋也「そっか。やっぱ、しっかりしてるよ、琴吹はさ」
紬「ありがとう、岡崎くん」
朋也「でも、なんであの斉藤さんに止められてたんだ?」
止められるようなこともでもないと思うのだが…。
紬「あれは、止めてたっていうより、連れ戻そうとしてたのよ」
紬「今日は、家族でイタリアに発つ予定だったから」
紬「その便に間に合うように、私を迎えにきてたの」
紬「もう、時間がぎりぎりだったから」
朋也「ん? ってことは、今はもう…」
紬「うん、手遅れかな」
朋也「それは…いいのか?」
紬「いいのよ。勝手にバイトのこと決められちゃってたし…」
紬「私もね、言ってくれれば、考えたの」
紬「もう3年生だし、いつかは辞めないといけないのはわかってたから」
紬「でも、それをいきなり、私になんの断りも無くなんて、ひどいもの」
紬「だから、旅行なんていかないの」
むくれた顔で言う。
つまり、これはささやかな反抗というわけだ。
あの時咄嗟に出てきた片想い宣言にも、ようやく納得がいった。
朋也「じゃあ、今日はこれからどうするんだ」
朋也「旅行行くはずだったんなら、暇になったんじゃないのか」
紬「うん、そうね…残りの休日をどうやって過ごそうか、それを考える一日になりそう」
朋也「ならさ、今日は俺と一緒に遊んでみないか」
せっかくだから、こういうのもいいかもしれない。
少なくとも、春原の部屋で退廃的にぐだついているよりはずっといい。
紬「え? いいの?」
朋也「もちろん。だって、俺たち、恋人同士なんだろ」
言葉遊びのつもりで、そう言った。
紬「あ…そうねっ。じゃあ、よろしく、朋也くんっ」
向こうも乗ってきてくれたようだ。
こんなところ、絶対に春原の奴には見せられない。
きっと、嫉妬に狂って暴れだすに違いない。
朋也「こっちこそ。紬」
紬「ふふ」
朋也「まずはバイト先に挨拶しにいかなきゃな」
紬「うんっ」
―――――――――――――――――――――
また駅前まで出てきて、ファストフード店まで足を運んでくる。
俺は店の外で琴吹をただじっと待っていた。
朋也(しかし、どういう反応をされるんだろうな…)
もしかして、自分の口で伝えなかったことを非難されたりするんだろうか…。
他の従業員からも、蔑みの眼差しで見られたり…。
………。
朋也(お…)
考えていると、自動ドアをくぐって琴吹が出てきた。
それも、晴れやかな顔を伴って。
朋也「どうだった」
その顔を見れば、訊くまでもないかもしれないが。
紬「うん…店長も、みんなも、今までご苦労様って、そう言ってくれたの」
朋也「よかったじゃん」
紬「うん。みんなすごくいい人たちで…私、ここで働けて本当によかった」
朋也「向こうも、琴吹と一緒に働けてよかったって思ってるよ」
だからこそ、そんな言葉をかけてもらえたんだろう。
朋也「なんたって、こんな可愛くて、その上しっかり者なんだからな」
紬「ふふ、ありがとう。すごく持ち上げてくれるのね」
朋也「そりゃ、今は俺、琴吹の彼氏だからな。自分の彼女は、褒めたいもんだよ」
紬「ふふ、私、岡崎くんの彼女になれてよかったな」
紬「こんなに優しくて、その上かっこいいんだもの」
朋也「そりゃ、どうも」
まるで頭の軽いカップルのような褒め合いだった。
朋也「じゃ、いこうか」
紬「うんっ」
同時、俺に手を重ねてくる琴吹。
朋也「あ…」
紬「いいでしょ?」
朋也「ん、ああ」
多少動揺が声に出てしまう。
紬「ふふ」
そんな俺をみて、余裕のある笑みを見せる琴吹。
朋也(なんなんだ、この差は…)
朋也(…まぁ、いいか)
その手に温かさと柔らかさを感じながら、俺たちは歩き出した。
朋也「ああ、そうだ、どこか行きたいところあるか」
紬「う~ん、そうねぇ…岡崎くんに任せるわ」
朋也「俺か? いいのかよ。俺、女の子が好きそうな場所とかわかんないぞ」
紬「いいの。普段岡崎くんがいくところに連れてってほしいな」
朋也「まぁ、それでいいなら、俺も楽だけど…」
朋也「あんまり期待するなよ?」
紬「大丈夫。岡崎くんと一緒だもの。きっと、どこにいっても楽しいと思うの」
朋也「そっかよ…でも、余計にプレッシャーだな…」
紬「あはは、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんだけど」
紬「気楽にいきましょうね、岡崎くん」
朋也「ああ、だな」
朋也(しかし…)
琴吹にリードしてもらっているような、この現状…。
男として情けない…。
―――――――――――――――――――――
紬「ここが噂の…」
朋也「なんか、大げさだな」
紬「私、一度も来た事がなかったから…」
俺たちがやってきたのは、古本、新刊、中古CD、ゲームなどを総合的に扱っている中古ショップだ。
全国にチェーン展開し、その名を知らない者はいないのではないかというくらいに有名な店だった。
朋也「琴吹は、やっぱ新品で買うんだな」
紬「うん、そうなんだけど…立ち読みって、ずっとやってみたかったのっ」
朋也「そっか…」
やはり一般人とは少し違った感覚をしているようだ。
紬「はやくいきましょっ」
朋也「ああ」
こんなところ、ふたりして遊びに来るような場所でもないかと思ったのだが…
喜んでくれているようで、なによりだった。
―――――――――――――――――――――
紬「わぁ…ほんとにみんな立ち読みしてるぅ」
子供のように目を輝かせながら言う。
紬「いくら読んでても、店員さんに注意されないのよね?」
朋也「ああ、そうだよ。だから、実質ここに住みついてるような奴もいるんだ」
紬「えぇ? ほ、ほんとに?」
朋也「ああ。ほら、あそこに座り込んでる奴がいるだろ?」
朋也「あいつは、ここら一帯を仕切ってる、いわば主みたいな存在だな」
朋也「だから、通り過ぎる時は挨拶しなきゃならないんだ」
紬「そ、そんなしきたりが…」
朋也「行ってみるか」
紬「う、うん」
座り込んでいる男のもとに歩み寄っていく。
紬「あ、あのっ…」
男「……?」
紬「わ、私、琴吹紬といいます。新参者ですが、どうぞよろしくお願いしますっ」
男「おぅ…あ…うぶぅ…」
朋也「琴吹、もういいぞ。認められた」
紬「よ、よかったぁ…」
朋也「じゃ、もう行こう。あんまり居すぎて怒りを買うとまずい」
紬「う、うん、わかった…」
完全に信じ込んでいるようだ。
ちょっと悪い気はしたが…正直、面白かった。
―――――――――――――――――――――
紬「あれ、このコーナー、ピンク色になってる…なんでかしら」
迷い込むようにして、入っていこうとする。
朋也「琴吹、そこは…」
寸でのところで止める。
紬「? どうしたの、岡崎くん」
朋也「入ったらダメだ。そこは18歳未満はお断りゾーンだ」
紬「え…そうだったの?」
朋也「ああ。俺の後ろ、右上に監視カメラがあるだろ?」
朋也「あれで捕らえられてたら、警報が鳴ってたんだぞ」
紬「そ、そんな…」
朋也「いいか? 今からカメラの死角に入る」
朋也「そしたら、何食わぬ顔で健全なコーナーから出て行くんだ」
朋也「いくぞっ」
紬「は、はいっ」
したたたーっ!
俺たちは素早く動き出した。
本の整理をしていた店員からは、奇異な視線を向けられ続けていた。
―――――――――――――――――――――
一通り見回り、もとの位置に戻ってくる。
紬「なんか、わくわくしたねっ」
朋也「なにが」
紬「通路も狭くて、人を避けながら進む感じが、こう、なんていうんだろ…」
紬「そう、未開の地に踏み入っていくパイオニアみたいで」
朋也「じゃあ、客は全員、なんかよく得体の知れない部族ってことか」
紬「あはは、それはなんだか失礼な感じ」
朋也「まぁ、それはそうと、一周してきたわけだけど、なんか気に入ったのあったか」
紬「うん、少女マンガの区画で、『今日からあたしゃ!!』っていうのが、気になったかな」
朋也「そ、そうか…」
少年漫画にもよく似たタイトルで面白い漫画があるのだが…
なにか関係あるんだろうか。謎だ…。
朋也(それはいいとして…)
朋也「じゃあ、俺は青年誌のとこいるからさ。気が済んだら、声かけに来てくれ」
紬「うん、そうするね。岡崎くんも、飽きちゃったら、私の方に来てね」
朋也「わかった。んじゃ、また後でな」
紬「うん」
―――――――――――――――――――――
琴吹と別れてから漫画を読み始めて、すでに5冊は読破していた。
巻数も抜けることなく連番でそろっていたので、快適に読むことができていた。
朋也(ん…)
6冊目を読み始め、中盤に差し掛かったとき、濡れ場が訪れた。
朋也(ふむ…)
いつになく集中する俺。
ページを繰る手が止まる。
声「岡崎くん」
朋也(うおっ)
咄嗟に持っていた漫画を背に隠して振り返る。
紬「なに読んでるの?」
朋也「い、いや、別に…あ、そ、そうだ、琴吹はもういいのか? 漫画は…」
紬「うん、先の巻が途切れちゃってたから、もう終わりにしようかなって」
朋也「そ、そっか…」
紬「それで…岡崎くんは、なにを読んでたの?」
朋也「ん? いや、たいしたもんじゃねぇよ」
紬「気になるなぁ…見せて?」
朋也「い、いや、もう出よう」
さっと漫画を棚に戻し、琴吹の手を引いて出口に向かった。
―――――――――――――――――――――
紬「どうしたの? 急に…」
朋也「いや…もう昼だし、腹減ったからさ、どっかで食いたいなってな…」
ごまかしのつもりで言ったが、実際、俺は小腹が減っていた。
タイミングとしては丁度よかったのかもしれない。
朋也「琴吹は、どうだ? 腹、減ってないか?」
紬「う~ん、そうね…減っちゃってるかも…」
朋也「じゃあ、なんか食いに行こうか」
紬「そうね、いきましょう」
―――――――――――――――――――――
俺がわりとよく利用するラーメン屋。
ニンニク入りで、コクのある濃い味がウリの店だ。
食べた後は、しばらく息にニンニク臭が混じってしまうほどの強烈さがある。
それに、脂分も多いので、どんぶりもべたついている。
琴吹にどこで食べたいか訊かれ、ここのことを話すと興味を示したので、一応連れて来たのだが…
朋也「本当にここでよかったのか」
そういう食器事情も含めて、女の子が好むような店ではないように思う。
だが、それらを説明しても、琴吹はここに来たがっていた。
紬「もちろん。私、こういうストイックなラーメン屋さんで食べてみたかったのっ」
紬「ヤサイマシマシニンニクカラメアブラ! だったかしら?」
朋也「いや、ここはそんな二郎チックなところじゃないからな…普通のラーメン屋だよ」
紬「あら、そうなの?」
朋也「ああ。やめとくか?」
紬「ううん。ここまで来たんだから、食べていきましょ?」
言って、先陣を切って中に入っていった。
俺も後に続く。
―――――――――――――――――――――
カウンター席に隣り合って座る。
俺は醤油ラーメンで、琴吹はみそラーメンを注文した。
しばらくして、俺たちの前にラーメンが差し出された。
紬「あ、おいしそうな匂い…」
言って、箸に麺をからめる。
紬「ふー…ふー…」
息を吹きかけ、よく冷ます。
そして、髪を横にかき上げてから口にした。
紬「けほっ、けほっ」
どんぶりから立ち込める湯気も一緒に吸ってしまったのか、むせてしまっていた。
朋也「ほら、水」
俺のそばにあったお冷サーバーから琴吹のコップに水を満たして、それを渡す。
紬「んん…ありがとう」
受け取り、喉を潤した。
朋也「食べられそうか?」
紬「うん、大丈夫。今ちょっと食べたけど、麺にも味が染みててすごくおいしいから」
朋也「そっか。でも、無理はするなよ? 最初は結構キツイかもだからさ」
朋也「食べられないと思ったら、残りを俺にくれ。完食するから」
紬「ふふ、それ、間接キス…じゃなくて、間接口移しのお誘いかしら?」
朋也「ばっ…んな下心ねぇっての」
紬「あはは、ごめんなさい、冗談で言ったの」
あどけなく笑う。
こうなると、もうなにも言えなかった。
朋也(ったく…)
結局、琴吹は自力で食べ切っていた。
しかも、スープまでだ。
お嬢様なんて温室育ちなはずなのに…見上げた胆力だった。
―――――――――――――――――――――
紬「はぁ~っ…すごい、ほんとにニンニクの匂いがする…」
口に手を当て、口臭を確認していた。
朋也「じゃ、クレープでも食って中和するか。俺、おごるよ」
序盤にリードされた分を盛り返すべく、そう申し出た。
紬「ほんとに?」
朋也「ああ。まぁ、琴吹には必要ないかもしれないけどさ…」
紬「そんな…うれしいよ、その気持ちも…」
紬「私、おごってもらうなんて、初めてだし…それも、男の子になんて…」
紬「だから、特別に思っちゃうな」
朋也「そっか。じゃあ、彼氏の役割も果たせてるのかな」
紬「うん、すごくね。ありがとう、朋也くんっ」
抱きつくように腕を組んでくる。
琴吹のいい匂いが、ふわりと香る。
思わずどきっとしてしまう俺がいた。
紬「いきましょ?」
立ち止まっていると、そう声をかけてきた。
朋也「あ、ああ…」
腕を絡ませたまま歩き出す。
本当に恋人同士になったようだった。
―――――――――――――――――――――
クレープも食べ終わり、ひと息入れる。
クレープ自体はうまかったのだが、腹の中でラーメンと混じり合って少し気持ち悪かった。
紬「おいしかったぁ。えっと、これで息は直ったかしら…」
また口に手を当て、口臭を確認する。
紬「う~ん…」
難しそうな顔。
納得がいかないといった感じだ。
朋也「俺も確認しようか? 息はぁ~ってやってくれ」
冗談だった。
そんなエチケットに関することなんて、自分以外に知られたくはないだろう。
紬「じゃあ、お願いね」
…普通に受け入れていた!
琴吹の顔が迫ってくる。
俺のすぐ鼻先で止まった。
そして、口を開けて…
紬「はぁ~」
温かい吐息がかかる。
甘い香りがした。
ニンニク臭さなんて微塵もない。
紬「…どう?」
朋也「…ちょっとよくわかんなかったな…もう一回いいか?」
紬「ん、それじゃあ…」
再び甘い香りを堪能する。
朋也(ああ、琴吹って、歯並びいいよな…)
そんなことを考えながら、俺はこのシチュエーションに興奮を覚え始めていた。
紬「…岡崎くん?」
朋也「ん、ああ…」
軽くトリップしてしまっていたようだ。
琴吹の声で現世に戻ってこれた。
紬「どうだった?」
朋也「う~ん…もう一回やれば、わかるかも…」
紬「岡崎くん…楽しみ始めてない?」
朋也「あ、バレた」
紬「くすくす…もう、子供みたい」
屈託なく表情を和ませて微笑む琴吹。
陽だまりの中で見るその笑顔は、とても魅力的に見えた。
春原が入れ込むのも無理はない。そう思えるくらいに。
こいつの彼氏になる奴は、幸せ者だ。
その分、男の方にも釣り合いが取れていないといけないんだろう。
残念ながら、俺や春原では役者が足りなかった。
朋也(ま、でも、今は俺が仮の彼氏だしな…)
朋也(う~ん…)
俺は急に自分の身だしなみが気になった。
琴吹の隣に立つという、その敷居の高さを意識してしまったからだ。
とりあえず、俺も自分の口臭を確認してみる。
やはり、ニンニクの匂いが強く香った。
口というか、胃から直接匂いが昇ってきている感じだ。
それくらい強烈なはずなのに、琴吹からはバニラのような甘い香りしかしなかった。
実に神秘的だ、琴吹は…。
―――――――――――――――――――――
腹ごなしに、町の中を練り歩く。
紬「あ、岡崎くん、見て、あれ」
足を止め、ショーウインドウを指さす。
その中には、げっ歯類のような、謎の生き物のぬいぐるみがあった。
紬「可愛いわぁ…」
近づいていき、すぐそばで眺める。
朋也「そうか? つぶらな瞳してるけど、なんか、口開けてよだれたらしてるし…」
朋也「ヤバイ薬キメた直後みたいになってるぞ」
紬「むしろそこがいいのよぉ~」
朋也「あ、そ」
そんなとりとめもない会話を交わしながら、次はどこに行こうか…などと考えていた。
すると…
がらり
装飾品のベルが鳴らされると共に、その店のドアが開いた。
店員らしき人がこちらに寄ってくる。
男「あの、琴吹紬様…でよろしかったでしょうか」
紬「はい、そうですけど…」
男「ああ、やっぱり。いつもお父様には大変お世話になっております」
紬「は、はぁ…」
男「今日は、うちでなにかお求めで?」
紬「いえ、ただ見てただけなので…」
男「ああ、そうでしたか。気に入ったものがあれば、お持ち帰り頂こうと思ったのですが…」
紬「い、いえ、そんな、悪いですから…」
男「でしたら、せめて、お茶をお出しするので、中でくつろいでいかれてください」
紬「い、いえ…えっと…い、いきましょっ、岡崎くんっ」
朋也「あ、ああ…」
俺の手を引いて、急ぎ足で立ち去る。
後ろからは、店の人の呼び止める声が聞え続けていたが、立ち止まることはなかった。
―――――――――――――――――――――
紬「ごめんなさい」
あの場から離れて一旦落ち着いた頃、琴吹が開口一番そう口にした。
朋也「なにが」
紬「私のせいで、こんな逃げるようなことになっちゃって…」
朋也「いや、俺は別になんとも思ってないよ」
朋也「けど、お茶くらい、もらってもよかったんじゃないか?」
紬「うん…それだけなら、いいんだけど…」
紬「こういう時って、必ず最後に、お父さんによろしく言っておいて欲しいって、そう言われるの」
紬「私、そういうことって、上手く言えないから、苦手で…」
紬「それに、今は喧嘩中だから、なおさら伝えにくいし…」
紬「もてなしてもらったのに、そんなことじゃ、お店の人に悪いから…」
朋也「そっか…なんか、大変なんだな、琴吹も」
紬「ううん、そんな大変ってほどじゃ、ないんだけどね…」
朋也「まぁ、事情はわかったよ。これからはそういうことにも気をつけながらいこう」
紬「ごめんね…」
朋也「謝るなよ、そのくらいのことで」
紬「うん…」
朋也「ほら、いこう」
今度は俺の方から手を取って歩き出した。
―――――――――――――――――――――
その後も似たようなことが立て続けに起きた。
電器店の近くを通りかかれば、呼び込みが騒ぎ出し、店長を呼びつけられたし…
ショッピングモールに入れば、各コンテナのオーナーが直々に挨拶しにくる始末だ。
おまけに、道ですれ違った、いかにもその筋な方にも会釈されていた。
その度にそそくさと逃げ出していたのだが…
繰り返すうち、気づけば俺たちは町外れまできてしまっていた。
朋也「手広くやってるんだな、琴吹んとこの事業はさ」
紬「お恥ずかしいかぎりです…」
朋也「いや、誇れることだよ」
紬「うぅ…そうかな…」
朋也「ああ」
朋也(でも、これからどうするかな…)
カラオケ…なんて、俺のガラじゃないし…
バッティングセンター…は、さすがにだめだな…
そもそも、俺はまともにバットを振れない。
琴吹は…どうだろう…
野球に興味がなくても、打つだけならそれなりに楽しめるかもしれない。
朋也(つーか、バッティングセンターなんて、この町にあったかな…)
それすらも知らなかった。
穴だらけの発想だ…
朋也(う~ん…)
紬「岡崎くん、あそこ、入ってみない?」
朋也「ん?」
考えを巡らせていると、琴吹が俺の袖を引いてきた。
指さす先、寂れたおもちゃ屋があった。
紬「なんだか、おもしろそうじゃない?」
朋也「ん、そうだな…」
それほどでもなかったが、琴吹にとっては新鮮だったのかもしれない。
朋也(さすがにこんなとこまでは、琴吹家の手は伸びてないよな…)
ともあれ、まずは入ってみることにした。
―――――――――――――――――――――
店内には、時代に逆行するようなおもちゃが数多く並んでいた。
まるで、ここだけ時の流れが止まってしまっているようだった。
朋也(おお…懐かしい…キャップ弾だ…)
キャップ弾とは、プラスチック製ロケットの先端に火薬を詰めて、空に放って遊ぶおもちゃだ。
落ちてきて地面に当たると火薬が炸裂し、乾いた音が響くのだ。
それだけの単純な仕組みだったが、やけにおもしろかったことを覚えている。
ガキの時分、年上の遊び仲間に混じって、ずいぶんこれで遊ばせてもらったものだ。
朋也(あの時は自分で買えなかったんだよな…)
それを思うと、なぜか大人買いしたくなる衝動に駆られた。
朋也(って、今さらだよな…)
この年でそんな遊びをするわけにもいかない。
俺にだって、一応、周囲の目を気にするだけの恥じらいはある。
まぁ、散々琴吹といちゃついてきておいて、なんだが…
紬「岡崎くん、みてみて、水鉄砲よっ」
カチカチと空砲を撃っている。
紬「かっこいいと思わない?」
そして、まじまじとその構造を眺めていた。
朋也「いや、別に…つーか、なんだ、珍しいのか?」
紬「うんっ、私、水鉄砲なんて触ったの初めてだから」
朋也「そっか」
男からしてみれば、水鉄砲を避けて通る人生なんて、ほぼ考えられないのだが。
朋也「じゃあ、それ買って、実際に撃ってみろよ。近くに公園あったし、そこでさ」
紬「あ、いいねっ、それっ。おもしろそうっ。早速買ってくるねっ」
きらきらと目を輝かせながら、カウンターに駆けていった。
朋也(俺も一個買うか…安いし…)
一つ手にとって、琴吹の後を追った。
―――――――――――――――――――――
紬「えいっ!」
ピュピュッ
発射された水が勢いを失って地面に染みていく。
紬「撃った時に手ごたえを感じるわ…これが武器を扱うことの重みなのね…」
朋也「いや、単純に水を押し出してる抵抗だからな」
言って、俺も発射する。
特に意味はなかったので、適当なところを狙っていた。
朋也「やっぱ、マトがないと盛り上がらないな」
朋也「なんか、手ごろなもんがないか…」
びしゃっ
朋也「ぷぇっ」
水が口に入り込んでくる。
紬「あ、ごめんなさい、威嚇射撃のつもりだったんだけど…」
朋也「おまえな…」
びしゃっ
紬「きゃっ」
お返しとばかりに、俺も撃ち返す。
紬「…えいっ」
びしゃっ
朋也「うわっ」
さらに撃ち返された。
朋也「………」
紬「………」
さささっ!
同時に距離を取る。
それは、お互いが銃撃戦の開幕を了承したことを意味していた。
琴吹は俺に発砲しながら草むらに向かって行く。
俺は水道のコンクリ部分に身を隠してそれを避けた。
顔だけを出して、琴吹を確認する。
朋也(いない…?)
その時、上から落ち葉が大量に降ってきた。
朋也(ちぃっ)
ごろごろと転がってその場から離れる。
朋也(奇襲か…やるな、琴吹)
振り返ると、琴吹が水道で弾を補充していた。
朋也(喰らえっ)
ぴゅぴゅぴゅっ
三連射。
が、水道の影に隠れられてしまう。
朋也(ちっ、残弾が少ない…)
補給が必要だが、琴吹が陣取っていて近づけない。
朋也(どうする…?)
朋也(ん…?)
ダンボールが落ちていた。
これを盾に進めば、あるいは…
朋也(よし…)
体を覆い隠しながら突進する。
足音に気づいた琴吹が顔を出してきた。
紬「!」
驚いているようだ。必死にヘッドショットを狙ってくる。
が、すべて外れていた。
そうこうしているうちに、琴吹の目の前までやってくる。
朋也「終わりだぜ、琴吹」
ぴゅっぴゅっ
紬「きゃっ」
胸の辺りに二発入った。
紬「卑怯よ、岡崎くん…」
朋也「防弾チョッキだったと思って、許してくれ」
へたり込んでいる琴吹に手を差し伸べる。
紬「ん…」
その手を取って、立ち上がる。
紬「濡れちゃった…」
服がぺたぺたと肌に吸い付いていた。
被弾箇所は胸。つまり…はっきりと形がわかってしまっていた。
いや、それはブラの形なのかもしれないが…正直、たまらない。
紬「もう一度、水を満タンにしてやり直しましょっ」
朋也「あ、ああ…」
まだ続行する気なら、どんどん胸に当てていけば、いずれは…
朋也(って、俺は春原かよ…)
しかし…
朋也(遊びの中で起きたことなら、不可抗力だよな…)
………。
やってやるぜ…。
―――――――――――――――――――――
紬「あ~っ、おもしろかったぁ」
息も切れてきたので、一度休憩を入れていた。
髪も服も、だいぶ水気を含んでしまっている。
紬「水鉄砲って、楽しいのね」
朋也「ああ、だな」
俺も途中から邪な考えは消え、童心に帰って純粋に楽しんでしまっていた。
そうできたのも、きっと、琴吹の遊びに対する純真な姿勢につられてしまったからだろう。
朋也(ほんと、いい顔してたもんな…)
朋也(ん…?)
子供「………」
俺たちの腰掛けるベンチの手前、じっと見上げてくる男の子が四人。
小学校低学年くらいだろうか。
紬「なぁに? どうしたの?」
子供「………」
誰も何も言わず、無言で見つめてくる。
紬「これ?」
水鉄砲を差し出す。
すると、一人がこくりと小さく頷いた。
紬「欲しいの?」
また、頷く。
紬「じゃあ、ちょっと待っててね」
子供たちに言って、俺に顔を向ける。
紬「岡崎くん、私、さっきのおもちゃ屋さんに行ってくるね」
朋也「こいつらの水鉄砲買いにか?」
紬「うん」
朋也「じゃ、俺もいくよ。2個ずつ買ってやろう」
紬「あ、さすが岡崎くんねっ。ふとっぱら」
朋也「おまえもな」
―――――――――――――――――――――
おもちゃ屋で人数分購入してくると、全員に分け与えた。
子供たちは、礼の言葉を言うと、嬉しそうに水鉄砲を手の中に収めていた。
紬「ふふ、かわいい」
朋也「まぁ、今時のガキにしちゃ、可愛げがある方かもな」
こんな水鉄砲なんかで喜ぶのは、かなりの希少種なんじゃないだろうか。
今は高性能な携帯ゲーム機など、おもしろい娯楽で溢れかえっているのだ。
そっちに傾倒しているのが普通だろう。
朋也(ま、俺も言えた義理じゃないか…)
俺も小学校高学年頃からは、遊びといえば、友人の家に入り浸ってひたすらゲームだった気がする。
いつからか、自然とこういう遊びはやめてしまっていた。
子供1「あの…」
紬「ん? なに?」
子供1「お姉ちゃんたちも、一緒にやらない? 水鉄砲」
子供2「やったほうがいいし」
子供3「やろうよ」
子供4「う○こ」
一人だけ異端なことを口走っていたが、遊びのお誘いだった。
紬「いいの?」
子供1「うん、もちろん」
子供2「だから言ってるし」
子供3「おまえ口調キツイだろ」
子供4「ち○こ」
紬「じゃあ、一緒に遊びましょっか。岡崎くんも、ね?」
朋也「ああ、いいけど」
子供1「やったぁ」
子供2「当然だし」
子供3「おまえ傲慢すぎるぞ」
子供4「うん○こ」
無邪気にはしゃぎ出すガキども。変わった連中だった。
見ず知らずの俺たちに近づいてきたかと思えば、おもちゃをねだってみたり…果ては遊びに誘うなんて。
一人、頑なに下ネタしか言わない奴もいるし…とりあず、退屈だけはしないで済みそうだった。
―――――――――――――――――――――
二チームに別れ、公園の端と端にそれぞれの陣営を敷いた。
場についてから5分後に状況開始の取り決めだった。
俺は腕時計を見た。
朋也「よし、時間だ。いくぞ」
子供1「はい」
子供4「ちん○こ」
俺が前衛を張り、ガキふたりを後衛に据え、突撃していく。
子供2「ファイアインザホォルだしっ!」
掛け声と共に向こうから何かが投擲された。ちょうど俺の足元に落ちてくる。
直後…
ぱんぱんぱぱんっ!
朋也「おわっ」
激しい火花が散る。爆竹だった。
子供1「うわぁああっ」
子供4「ひぃぃいうん○ちん○ぉおっ」
ぴゅぴゅぴゅっ
混乱して俺を撃ち始めていた。
朋也「ちょ、おい、やめろ…」
子供2「死ねし」
子供3「おまえ暴言吐きすぎ」
ぴゅぴゅぴゅっ
敵からも攻撃を受ける。
もはや俺一人が袋叩きにされている状態だった。
朋也「だぁーっ、くそ、このクソガキどもっ、喰らえ、こらっ」
俺も反撃する。
子供1「うわぁ、僕は味方ですよぉ」
朋也「知るかっ! おまえが先に撃ってきたんだっ」
子供1「そんな…うわっ」
顔に水がかかる。
子供3「よそ見だし。おまえ死ぬし」
子供1「てめぇっ!」
敵味方入り混じり、ドッチボールで言うめちゃぶつけの様相を呈していた。
紬「くすくす」
琴吹はそんな俺たちを喧騒の外から眺め、終始笑っていた。
―――――――――――――――――――――
朋也「はぁ…」
びしょびしょになった体をべちゃっと荒くベンチに預ける。
紬「おつかれさま」
隣で琴吹がねぎらいの言葉をかけてくれる。
俺とは反対に、もう服は乾ききっていた。
紬「楽しそうだったね、岡崎くん」
朋也「ああ…年甲斐もなくはしゃいじまった」
紬「くすくす…なんか、可愛かった。大きな子供みたいで」
朋也「あ、そ…」
ガキどもはすでに家路についていた。
帰り際、俺たちの水鉄砲をくれてやると、二丁拳銃だなんだと、また騒ぎ出していたが。
紬「あ…」
朋也「ん…」
琴吹のバッグから携帯の着信音。
紬「ごめん、ちょっと出るね」
朋也「ああ」
紬「えっと…」
携帯を取り出し、ディスプレイを見て、相手を確認している。
紬「………」
一瞬、表情を曇らせると、ためらいがちに通話を始めた。
最初は、黙ったまま相手の話を聞いていた。
そして、次第にぽつぽつと返事を返すようになったところで電話を切った。
紬「………」
浮かない顔。
朋也「あー…もしかして、親御さん?」
紬「うん…」
朋也「で…なんだって?」
紬「話し合いたいから、帰ってきてほしい、って…」
紬「アルバイトのことも謝りたいし、イタリアにも、夜の便で出るから、って…」
朋也「そっか。そりゃ、よかったじゃん。仲直りってことだな」
紬「そう…だね」
朋也「なら、もう帰らなきゃだな」
紬「うん…」
朋也「俺、送ってくよ」
紬「ありがとう、岡崎くん」
朋也「ああ、別に」
立ち上がる。
朋也「じゃ、いこうか」
紬「うん」
―――――――――――――――――――――
琴吹は、この町へは電車で来ているらしく、俺が送ってあげられるのも、駅までだった。
実家は隣町の方にあるらしい。
紬「今日は本当にありがとうね。すごく楽しかったわ」
朋也「俺の方こそ。おまえといられてよかったよ。ありがとな」
紬「ふふ、どういたしまして」
冗談めかしたように言う。
紬「でも、なんだか寂しいね…これで、恋人同士が終わっちゃうなんて」
朋也「じゃ、最後にキスするか」
紬「え…えぇ!?」
慌てふためく琴吹。
初めてみるその動揺っぷりに、顔が緩むのを抑えられなかった。
そして、冗談だと、そう言おうとした時…
紬「…うん。しましょうか…」
朋也「え?」
紬「………」
目を瞑って、顔を上げる。
緊張しているのか、頬を赤くして、その太めの眉がへの字になっていた。
朋也(どうするんだよ…俺)
ごくりと生唾を飲み込む。
このままいってしまえば、なし崩し的に付き合うことになったりするんだろうか。
………。
でも、それは…
朋也(違うよな…)
こんな、その場の雰囲気に流されて始まった関係なんか、絶対長続きしない。
なにより、俺は…
朋也(って、なんで平沢の顔が出てくんだよ…)
朋也(ったく…)
俺は頭を振った。
そして、琴吹を見据える。
その頭に手を置いた。
朋也「それは、ほんとの彼氏ができた時のためにとっとけよ」
ぽんぽん、と優しく触れる。
紬「ん…」
ゆっくりと目を開ける琴吹。
紬「…あ…あはは…ご、ごめんなさい、私ったら…真に受けちゃって…」
わたわたと、手の先を絡ませて弄ぶ。
朋也「まぁ、でも、俺も、かなりどきっとしたよ」
紬「そ、そう?」
朋也「ああ。だって、気づかれないように、つむじに5回くらいキスしてたんだぜ、俺」
紬「え…ほ、ほんとに?」
頭頂部をさする。
朋也「まぁ、作り話だけど」
紬「もう…」
ぷっと吹き出す。
朋也「それじゃな」
紬「うん、またね」
笑顔で別れの挨拶を交わした。
最後に、琴吹の恥らう乙女な姿を見ることができてよかった…歩きながら思う。
あのワンシーンのために、今日一日があったと言っても過言ではないかもしれない。
―――――――――――――――――――――
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