憂「手をつないで、外へ出よう」 前編
憂「手をつないで、外へ出よう」 後編

3以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 05:33:46.69:op33K3/A0

ひらさわけ!

憂「えっと、三年ぐらい前の話だけど、していい?」

梓「三年前だと…唯先輩が中三の時?」

憂「そうだよ。たしか九月ぐらいだったかな」

梓「あ。そのころって……」

憂「うん。お姉ちゃんが引きこもってたころ」


 
4以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 05:40:06.04:op33K3/A0

梓「でも想像できないなあ……だってあの唯先輩でしょ?」

憂「お姉ちゃんはずっとやさしかったよ」

梓「まぁ、ニートになってごろごろしてるだけなら目に浮かぶけど…」

憂「あはは、それ律さんにも言われちゃった」くすっ

梓「私も憂や純からちらっとは聞いてたけど、つまり……そういう事情だったんだよね?」

憂「……うん。学校、行けなくなっちゃって」

 
5以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 05:46:15.36:op33K3/A0

梓「ごめん、つらかったらいいよ」

憂「気にしないで、梓ちゃんには聞いてほしかったから」

梓「憂がそういってくれると、ちょっとうれしいかも」

憂「ありがと……えっと、そのころベタってお魚飼っててね」

 
6以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 05:52:15.73:op33K3/A0

   ◆  ◆  ◆

唯「ういー、アイスー…」

憂「おはようお姉ちゃん、お昼ごはん食べてからね」

  九月のよく晴れた水曜日のことでした。
  カーテンの閉められた薄暗い部屋ではたきを掛けていると、お姉ちゃんの眠そうな声が聞こえてきました。

唯「あれ…うい、起きてたの」

  そっとベッドに腰かけた私を見上げる、まだ寝ぼけた目のお姉ちゃん。
  熱っぽい湿気を帯びた布団から白い腕だけを出すと、私の手を探して握ってくれました。
  布団の中で汗ばんだ手のひらはどうしても昨日の夜を思わせるので、あわてて話題をそらします。

憂「えっとね、九時ごろにおばあちゃんが来てたんだ。お野菜とか持ってきてくれたよ」

唯「そっかぁ……ありがと、うい」

  お姉ちゃんはふわっとほほえみを浮かべてまた布団の中にもぐり込もうとします。
  遮光カーテンに光を遮られたこの部屋はどこか湿っぽく、教室に忘れられた水槽のようによどんだ空気に満ちています。
  でもその生ぬるい空気もなぜだか居心地がよくて、なんだかお姉ちゃんと一眠りしたくなってしまいました。
  いけない、いけない。

  私は無理やりお姉ちゃんのベッドから立ち上がり、カーテンを開けました。

 
7以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 05:58:35.38:op33K3/A0

  差し込む強い光は、この部屋の水分すらも蒸発させていくようで、心地いいはずなのになぜか心もとなく感じてしまったりして。

唯「ん…まぶしい……」

  お姉ちゃんのうるんだ二つの瞳はまだ夢と現実との間をさまよっているみたいで、陽の光にきゅっと目を細めています。
  カーテンをもう一度閉めてあげようかちょっとだけ迷いましたが、やっぱり起こすことにしました。

憂「ほら、もう十一時過ぎなんだよ?」

  もぐり込もうとするお姉ちゃんの布団を少しだけゆすって声を掛けると、お姉ちゃんは中から顔を出してごまかすように笑いました。
  つられてこちらの口元にも笑みがうつってしまい、胸の奥にほっこりした熱が点るのを感じます。
  日差しに乾いていくシーツをすがり付くように握り締めたお姉ちゃんがいとおしくて、カーテンを開けてしまったことをちょっと後悔します。
  本棚のホコリすらしっとり湿らせるような心地よい蒸し暑さと、甘味料のように吹き込むかすかな風。
  重なった二つの含み笑い。

  ……ごめんなさい。
  こんな瞬間が一番幸せなんです。

 
9以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 06:04:42.88:op33K3/A0

唯「じゃあご飯たべなきゃだねぇ」

  お姉ちゃんは布団の中をごそごそと探り、脱ぎ捨てた下着をつけなおして身体を起こします。
  見慣れた着替えなのですが……やっぱりどうしても意識しちゃうので、パソコンのホコリをわざと念入りに落とします。
  すると机の下で電源が入れっぱなしのモデムがかなり熱くなっていました。
  お姉ちゃんは昨日、一緒に寝る前に誰かとチャットでもしていたのでしょう。
  一晩ずっと点いたままだったモデムは人肌ほどに温まり、今も接続先を求めてちかちかと点滅しています。
  このままだと壊れてしまうのですばやく電源を落として、早く冷めるように日差しの当たらぬところに移しました。

唯「ねぇ、憂」

  ぼんやり考えていたら、すっかり目を覚ましたおねえちゃんに話しかけられました。
  その声がやけに冷たく聞こえて、息苦しく感じて一瞬戸惑ってしまいます。

唯「……やっぱいいや」

憂「あっごめん、なぁに?」


唯「私。引きこもり、やめた方がいいよね」

 
10以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 06:10:54.38:op33K3/A0

  お姉ちゃんは今年で中学三年なのですが、いまは学校に行っていません。
  学校でうまくいかなかったせいで、玄関から外に出ようとすると体調を崩して立っていられなくなるみたいです。
  心の病気で家から出られないお姉ちゃんが心配で私も付き添う生活が続き、かれこれ半年近く経ちました。
  両親は今もどこか遠い国を飛び回っていますが、お隣のとみおばあちゃんと和ちゃんが週に二、三度食料などを持ってきてくれるので不自由はしていません。

  思い返すと昔から私たちの両親は不在がちでした。
  私も両親に抱きしめられるより、とみおばあちゃんに抱きしめられたことの方が多かった気がします。
  お母さんの腕の感触や手の温もりはかろうじて覚えていますが、お父さんの手のひらは今ではよく思い出せません。
  もちろんお姉ちゃんはあの頃からその百万倍抱きしめくれましたけどね。
  言葉のあやでなく本当に、平沢憂はお姉ちゃんの腕の中で育ったようなものなんです。

  とにかく、私たち二人は和ちゃんやおばあちゃんの助けを借りながらもなんとか暮らせています。
  狭い家の中だけれど私たちは満ち足りた生活を送っている。そうに決まってるんです。
  けれどときどき……これから先のことを考えると、不安でたまらなくてめまいを覚えてしまうのです。
  そう。今みたいに。

憂「無理、しなくていいんだよ? お姉ちゃん」

  お姉ちゃんが無理に外に出てしまったら、どうなってしまうんだろう――

 
12以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 06:17:24.30:op33K3/A0

  自分の声が変に震えてしまって、唇がうまく動きません。
  どうしよう。お姉ちゃんを元気付けなきゃいけないのに……。

唯「あっごめんね、なんでもないよ。 じゃあお昼にしよっか!」

  お姉ちゃんはそう言ってベッドから飛び出して、Tシャツにホットパンツだけの格好で私の手を引きました。
  やわらかい外の日差しを集めたようなお姉ちゃんの笑顔は、いつだって何もかもを忘れさせてくれます。
  手を引かれてリビングに着く頃には、不安の種も消えてしまったみたいです。

  でも、お姉ちゃん。
  家の中だけど、一応ブラはつけてほしいかな……。

 
14以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 06:23:32.67:op33K3/A0

  しばらくして、私たちはお昼ごはんをいただきました。
  と言ってもちゃんとしたものでなく、冷蔵庫にあった鶏肉と卵を使って簡単な丼ものを作っただけなのですが。
  ご飯を作っている間にソファーに仰向けで横たわったお姉ちゃんが向けた、さかさまの笑顔。
  床に垂れ下がった伸びた髪は窓から吹き込む風にかすかに揺れる姿は、台所でガスを使う私の心も風鈴のように涼ませてくれました。


唯「ええー…だって、寝てる間とか背中きっついんだもん」

憂「お姉ちゃん、そんなこと言ってるといいお嫁さんになれないよ?」

  テーブルに二人向かい合って箸を動かしながら、そんなたわいもない会話を交わします。
  みりんの量を少し変えたのが功を奏したのでしょうか、お姉ちゃんのほっこりした顔も今日は多いようです。
  机の下でちょっとこぶしをにぎって、ガッツポーズ。バレたらはずかしいな……。

 
15以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 06:27:52.02:op33K3/A0

唯「うい? 憂、きいてる?」

憂「あっごめんお姉ちゃん」

  おいしそうに食べるお姉ちゃんを眺めていたら、いきなり話しかけられてびっくりしてしまいました。

唯「ははーん、さては私の顔に見とれてましたな」

憂「もう……そんなことないよ、お姉ちゃん」

  あわててお漬け物に箸を伸ばして落としそうになってしまいます。
  なんでわかっちゃうんだろう、私のこと。

 
16以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 06:34:01.37:op33K3/A0

唯「でもね、私お嫁さんにならなくてもいいかな」

  ふいに箸を止めて、お姉ちゃんはそんなことを口にしました。

憂「どうして?」

唯「憂と結婚すればいいじゃん」

  それはお姉ちゃんにとって、話の流れからふいに湧いた軽口に過ぎなかったのでしょう。
  けれど胸の奥に無邪気に飛び込んできたその言葉は内側から必要以上に甘く蝕んでいく気がして、

唯「……あは、そんな顔しないでよ。そういうことじゃないって」

憂「もう。変なこと言わないでよ、お姉ちゃん」

  場をつなぐようにお姉ちゃんと笑い合ってみます。
  けど、ほほえみを浮かべようとするこの唇はどこかぎこちなくて。
  なんとなくだけど、お姉ちゃんも無理して笑い合おうとしてるみたいで。

唯「じゃあ、きょうはお皿洗うよ」

憂「うん。……ありがとう」

  気を使わせてしまったのが少しうしろめたいです。
  私、お姉ちゃんに迷惑かけてばっかりだ……。
  なにかしていないと落ち着かなくて、とりあえず電話の棚から熱帯魚用のえさを取り出しました。

 
18以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 06:40:22.90:op33K3/A0

  私たちはリビングの窓際に置いた金魚鉢でベタというお魚を飼っています。
  ゆれる水草と透明な水の中で、空をひとかけら持ってきたように青々とした尾ひれが揺れているのを見ると私もどこか涼しげな気分になります。

  このベタは半年ぐらい前、病院帰りにお姉ちゃんとお散歩に行ったついでにホームセンターのペットショップで見つけました。
  水槽の照明に照らし出されたベタはこのときものんびり泳いでいて、お姉ちゃんは一目惚れしてしまったみたいです。

唯『小さくてかわいくてやわらかそうで、なんだか守ってあげたくなっちゃうなあ…』

  その時、お姉ちゃんは私の手をつないだまま水槽を見つめて言っていました。
  あったかい手を握りしめながら耳元でつぶやかれたので、私に向けて言っているような気がしてちょっと顔が熱くなってしまいました。

 
22以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 06:46:37.37:op33K3/A0

  そうしてその場のお姉ちゃんの勢いに流されて買ってしまったベタですが、今も小さな金魚鉢のなかで気持ちよさそうに泳いでいます。
  名前はベタのたーくん。
  もちろん、名付け親はお姉ちゃんです。
  お姉ちゃんらしい、かわいい名前だと思いませんか?

憂「たーくん、お昼ごはんだよ」

  金魚鉢にえさを一粒落とすと、たーくんは振り向いてえさ粒をぱくっと食べました。
  振り向いたいきおいで水草の気泡がひとつふたつ浮かんで水面に消えました。
  日差しの向きが変わったからか、金魚鉢を通した半透明の影がゆらゆら揺れています。

  そういえば、朝起きたときにも私はえさをあげてしまいました。
  むかしグッピーを飼っていた和ちゃんに「えさのあげすぎは水質を悪くして、寿命を縮める」って言われたのを思い出します。

憂「……ごめんね、おなかいっぱいだったかな」

  なんとなく、不安を感じたりいたたまれなくなるたびにたーくんにえさをあげてる気がしました。
  とりあえず手のひらに残ったえさ粒をえさの缶に払い落としました。


唯「きゃっ」

  後ろでガラスの割れる音が聞こえました。

 
23以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 06:52:59.86:op33K3/A0

憂「お姉ちゃん大丈夫?!」

唯「ごめんね……コップ、割っちゃった」

  あわてて駆け寄ると床にはちらばったコップの破片。
  私はすぐお姉ちゃんの指先や手の甲や足首を見渡しました。
  よかった、ケガしてなかった。
  ほっと一息ついてから、お姉ちゃんに少し離れててもらって袋に大きめの破片を集めていきます。

唯「憂、ごめんね。私、なんにもできなくって」

  その場に立ちすくむお姉ちゃんが沈んだ声でつぶやきました。
  そんなことないよ。
  だって、お姉ちゃんは私のために――。

唯「あっ拾うの手伝うよ!」

憂「ううん、大丈夫。それより掃除機持ってきてくれるかな?」

唯「あ……うん、わかった」

  できることを見つけてうれしそうなお姉ちゃんは、ぱたぱたと足音を立てて飛び出していきました。

 
24以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 06:59:16.24:op33K3/A0

唯「ふぅ…これで大丈夫かな」

憂「ちゃんと掃除したし、大丈夫だよ」

  お姉ちゃんが掃除機で小さな破片を吸い取ったあと、私たちは台所の床の拭き掃除をしました。
  コップは割れてしまいましたが、おしまいには前よりも床がきれいになってうれしいです。
  これもたぶん、お姉ちゃんのおかげです。
  こんなこと言うと、また純ちゃんに叱られちゃいそうですけどね。

憂「床きれいになってよかったね」

唯「えへへ、まさしく七転び八起きだね!」

  お姉ちゃん、それはちょっと違うと思う……。

 
25以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 07:05:41.62:op33K3/A0

唯「あっそうそう、今日は和ちゃんがね、」

  そう言い掛けたとき、チャイムが鳴りました。
  インターホンをのぞき込むと荷物を手に持った和ちゃんがいます。

和『お米入ってるから早く開けてくれない?』

憂「うわさをすれば、って感じだね」

唯「もしかしてタイミング見計らってたとか?」

和『…何のタイミングだっていうのよ』

  二人でくすくす笑ってしまいます。
  重い荷物を抱えてる和ちゃんがかわいそうなので、掃除機の片づけをお姉ちゃんに任せて私は玄関に向かいました。

 
26以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 07:12:00.99:op33K3/A0

憂「和ちゃん、今日早いね。まだ十二時だよ?」

和「ほら、校内模試で半日なのよ……って、知らないわよね」

  制服姿の和ちゃんは牛乳やお米の入った大きなビニール袋を玄関横に置くと、そばに座り込みました。
  ドアの外では強い日差しが縁石を白く焼き尽くすほどに照っています。
  こんな日差しの中、お姉ちゃんが外に出たら大変なことになってしまいそうです。
  私はドアを閉め、それでも窓から差し込む日光から一歩足を引いて、ビニール袋を抱え上げました。

和「はぁ…この量はなかなか腰にくるわね。せっかくだからってさすがに買い込んじゃったかしら」

憂「なんか今の和ちゃん、おばあちゃんみたい」

和「買い出し班にひどいこと言うわね、あんた。ところで唯の調子はどう?」


唯「あ。和ちゃん!」

 
27以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 07:18:01.35:op33K3/A0

  廊下の向こうから冷たい水のように澄んだ声が聞こえて、思わずほころんでしまいます。
  掃除機をしまったお姉ちゃんはそばに腰掛けている和ちゃんを後ろからスリーステップでいきおいよく抱きしめました。

和「ちょ――唯、危ないじゃない!」

唯「だって三日ぶりだよー?」

  少しふりほどこうとした和ちゃんも、あきれたように笑って抱きしめられました。
  ちょっとうらやましくなってしまいます。
  和ちゃんを抱きしめている、お姉ちゃんが。
  お姉ちゃんに抱きしめられる、和ちゃんも。

和「……憂も見てないでちょっとは止めなさいよ」

憂「えへへ、ごめんね」

 
30以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 07:24:14.70:op33K3/A0

  私たち三人はリビングで和ちゃんの持ってきたケーキを食べることにしました。
  お茶を入れている間、和ちゃんが担任の先生から預かってきた課題を取り出しました。
  厚くて大きなその問題集はどうやら百ページ近くあるらしく、お姉ちゃんはそれを見るなり力を失って椅子に倒れこんでしまいます。

唯「の、のどかちゃん…量多くなってない?!」

和「私が出したんじゃないわよ」

唯「でもこのワークブック一冊は多いよ! それにこの範囲わかんないもん! ぶーぶー!」

  お姉ちゃんはぱくぱく口を動かしたり数学の問題集を机にぱんと叩いたりして抗議します。
  なんだか水揚げされた魚のように見えて、ちょっとおかしかったです。

  めくれたページを見ると計算用の余白が多かったので、見た目ほど大変な量ではないみたいです。
  とはいえ、大きくて重たいこの問題集自体に最初からおそれをなしてしまうお姉ちゃんの気持ちも分かります。
  これじゃあ先が見えないもんね。

和「一ヶ月あるんだから余裕じゃない。たかが一日三ページちょっとでしょう。少しずつ進めていきなさいよ」

唯「あは、あはは…」

  お姉ちゃん、昔から夏休みの課題を始業式前夜に始めるタイプだもんね……。
  なんとなく一ヶ月後にあわてる姿が浮かんでしまって、思わず笑ってしまいます。

和「ほら、憂だって笑ってるわよ。ちょっとずつ解いてくしかないじゃない」

唯「ういーっ!」

憂「あはは、ごめんお姉ちゃん」

 
31以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 07:30:43.21:op33K3/A0

和「あっそうそう、いいもの持ってきたわよ。最近、唯が元気ないって聞いてたから」

唯「えー? そんなことないよ、うい」

  お姉ちゃんはきょとんと小首をかしげます。

憂「うーん…ほら、朝だって」

唯「あれはなんでもないって。気にしすぎだよお」

  私は腕をゆすって困ったように笑うお姉ちゃんの声は、なぜか必要以上に強く聞こえました。
  お姉ちゃんは外が怖くて出られないけど、本当はいつもどおり元気一杯なんだ。
  そう思わせたがっているかのように。

  でも、朝に「引きこもりやめる」って――

憂「――あつっ」

唯「う、憂大丈夫?」

  唇を刺すような痛みが走ります。
  その場しのぎに口に含んだ紅茶が思ったより熱くて、思わずむせてしまいました。

 
32以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 07:37:07.56:op33K3/A0

和「まったくもう、唯だけじゃなくて憂までそんなんじゃどうするのよ」

憂「ご、ごめんなさい…」

唯「そうだよ、憂もしっかりしなくちゃねっ」

和「これ、突っ込むところ?」

  わざと胸を張って答えるお姉ちゃんにまた笑ってしまいます。
  考えすぎなのかな。やっぱ。
  考えすぎる頭をお姉ちゃんの優しさにあずけると、なんだかこのままでいいような気もしてきました。

唯「ほら、もうさめたよ?」

  お姉ちゃんは私のコップをひたひた触って温度を確かめてから渡してくれました。
  落ち着いて、やけどしないようにそっと息を吹きかけて、紅茶を口に含みます。
  少し冷めた、でもほんのり熱の灯った液体が身体の奥へと流れていきました。

和「もう一心同体ね」

  和ちゃんの笑い顔が、少し呆れているように見えて思わず目を背けてしまいます。

 
33以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 07:43:20.09:op33K3/A0

唯「それで和ちゃん、いいものって?」

和「ああ、これこれ」

  和ちゃんが取り出したのは貯金箱ほどの大きさのジャムびんでした。

和「ローヤルゼリー。滋養強壮にもいいらしいわよ、毎朝早起きして食べなさい」

唯「は、はあ……」

  お姉ちゃんはびんを受け取ったものの、どうしていいかわからないのか私に目を向けました。
  ときどき私も和ちゃんが分からなくなります……。

和「憂、あまりあげすぎないようにね。肝油ドロップのこと覚えてるでしょう?」

憂「う……うん、小三のときだよね」

 
34以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 07:49:35.46:op33K3/A0

  小学三年のとき、学校で肝油ドロップの販売業者が来ました。
  ビタミンCが含まれたサプリメントのようなもので、食べると夜盲症の予防や身体の成長に良いそうです。
  そのときお姉ちゃんはもの珍しがってとみおばあちゃんに頼んで注文し、届くやいなやすっかり肝油ドロップにはまってしまいました。
  たしか、おばあちゃんや私に隠れて一日十数個食べてお腹を痛くしちゃったんだっけ。

唯「あぁ…懐かしいね、あれ甘くてグミとハイチュウの間みたいでおいしいんだよね!」

和「買ってあげないわよ」

唯「まだなにも言ってないよ私?!」

  唯の考えてることぐらい分かるわよ。
  そう言う和ちゃんは呆れたように、でも優しくほほえんでいました。

憂「そうだよね。いくら身体のためだからって、甘くておいしいからって、たくさん食べ過ぎたら身体に毒だよ」

  すると和ちゃんは不意に顔を曇らせ、なにか私たちの向こう側を見やるような遠い目をして黙り込んでしまいました。

唯「……? どうしたの?」

和「いや……憂の言うとおりだなって」

 
35以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 07:55:47.97:op33K3/A0

憂「エサのやりすぎはよくない、ってこと?」

  和ちゃんはちょっと困ったような顔をして、金魚鉢の方をちらちらと見やりました。
  まるで何か代わりの言葉を探しているかのようでちょっと不自然です。
  私なんか変なこと言っちゃったのかな……。

和「私ほら、昔グッピー飼ってたじゃない」

唯「ああ、小二の時だよね!」

和「それであの時も私、エサあげすぎて逆にグッピーを病気にしちゃったことがあって……」

  だからそうやって手を掛けすぎるとダメになることもあるのよ。
  和ちゃんはその言葉を、なんだかお姉ちゃんの方に向けて言っているようでした。
  お姉ちゃんも何か言いたげな顔をしていますが……よくわかりません。

唯「うーん…たーくんはいっぱいエサもらえてうれしいと思うけどなぁ…」

和「唯じゃないんだから」

 
36以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 08:01:51.49:op33K3/A0

唯「ねぇねぇ和ちゃん、参考書いっしょにやろ?」

  ふいに顔を上げたお姉ちゃんが言いました。
  お姉ちゃんから参考書をやろうなんて、珍しいな。

和「えっ…うん、いいけど。じゃあ憂、後片付け頼むわね」

憂「うん。しばらくしたらおやつも持ってくね」

  あの時の感覚はよくわかりません。
  言葉に出せない何かがよどんだ水のように部屋の中を満たしている気がして、少し息苦しく思えました。

  それからお姉ちゃんたちは部屋で勉強することになり、私もお皿を洗い始めます。
  和ちゃんの言葉を聞いたせいか、心なしかベタのゆるやかな動きも弱ってきているように見えたのは、気のせいでしょうか。

 
38以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 08:08:00.86:op33K3/A0

――――――

和『……なに?』

唯『なにって、平方根とかよくわかんないから教えて?』

和『そうじゃないでしょ。何の話なのよ』

唯『……憂に変なこというのやめて』


和『それは、だって…唯も、このままじゃダメなの分かってるでしょう?』

唯『分かってるよ』

和『じゃあ少しでも良い方向に向かった方が――』

唯『分かってないのは和ちゃんの方じゃん』

 
39以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 08:14:15.22:op33K3/A0

和『……私も、悪かったわよ』

唯『もういい。早く帰って。チャットしたいから』

和『それを言うなら唯、あんただって――』

唯『憂は悪くない!』


唯『悪いのは、ごろごろして学校に行かない私なの』

和『ちょ、ちょっと唯』

唯『もういいじゃんそれで。私は一生家でごろごろしてニート暮らししてやるから』

和『……分かったわ。話はまた今度にしましょう』

唯『うん』

和『でもね』

唯『……なに』

和『あんたの憂に対する付き合い方も、褒められたものじゃないと思うんだけど』

 
41:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 08:18:51.01:uJ7aqY9nP
また唯がダメ人間ってパターンか

 
42以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 08:20:44.58:op33K3/A0

唯『……だって憂のこと、本当に大好きなんだもん』

和『じゃあ憂のために前向きなことしなさいよ』

唯『してるよ!』

和『一日じゅう引きこもってネットするか寝てるかが、憂のためなの?』

唯『……和ちゃんは分かってるでしょ』

和『唯だって、いつまでもこんなことしてられる訳じゃないことぐらい分かるでしょう』

唯『もういい。この話終わりにしよ』

和『…………』

唯『私もう寝るから。おやすみ』


和『……憂のこと、ちゃんと考えてあげるのよ』

唯『うん。……ごめんね、和ちゃん。言い過ぎたよね』

和『いいわよ。私のせいでもあるし』

 
43以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 08:26:25.23:op33K3/A0

――――――

憂「あれ、和ちゃんもう帰るの?」

和「うん。唯、ひさしぶりに頭使って疲れちゃったみたいね」

  お皿を洗い終わってクッキーとレモンティーを持ってお姉ちゃんの部屋に向かうと、和ちゃんはもう帰り支度をはじめていました。
  部屋の中にはふくらむ布団の中に、寝ぐせが付いたままのお姉ちゃんの髪が見えます。
  和ちゃんは一度出した筆記用具をてきぱきとしまい、それから机の上の消しかすをさっとゴミ箱に落とします。
  その間、お姉ちゃんはずっとお布団の中でぼーっとしていました。

憂「お姉ちゃんの様子はどう?」

和「心配ないわ。またしばらく寝たら起きてくるはずよ」

  和ちゃんは優しそうに言うのですが、それに反して部屋の中はやけに空気が重く感じるのです。
  私は部屋に入って遮光カーテンを開けて外の風を入れました。
  まぶしがってお姉ちゃんは布団をかぶります。

和「じゃあ行くわね。唯、あんまり憂を心配させたらダメよ」

唯「……和ちゃんだって」

  お姉ちゃんの声は変にとげがあって、また少し息苦しさを覚えました。
  この部屋には酸素が足りない、なんとなくそう思えます。
  ……お姉ちゃんさえいれば、大丈夫なはずなのに。

 
44以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 08:33:25.71:op33K3/A0

  和ちゃんを見送ってからお姉ちゃんの部屋に戻りました。
  ですがお姉ちゃんはパソコンを始めたらしく、部屋に入ってきて欲しくないみたいです。

  リビングに戻り、一人分あまったクッキーとレモンティーをテーブルに置いてソファーに腰を下ろします。
  気づけばもう陽が傾き始め、オレンジの光が窓際の植物や金魚鉢の影を伸ばしています。
  しばらく網戸のままにしていたせいか、乾いてしまった部屋の空気がやけに冷たく感じました。
  私も昼過ぎのお姉ちゃんみたいにソファーに仰向けに寝転がって、床や天井をぼんやりと眺めてみました。

  和ちゃんは、本当はたぶん私たちの関係を快く思っていないのでしょう。
  それなのに私たちのお世話をしてもらって……迷惑をかけてばかりです。
  床に広がった半透明の影の中でもたーくんが不安げに揺れ動いているのが見えました。

憂「たーくん」

  なんとなく、影に向けて声を掛けてみます。
  なにを言おうとしたのかは自分でも分かりません。
  ですが、言葉は浮かび上がるのを待っていた気泡のようにするすると湧いてきました。

憂「……ごめんね、こんな狭いところに閉じ込めちゃって」

  ごめんなさい。
  本当に、ごめんなさい……。

 
47以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 08:40:49.26:op33K3/A0

  いつしか私は眠ってしまって、夢を見ていました。
  水の中をどこまでもどこまでも泳いでいくような、そんな夢を。

  青く深い海の中をどことも知れず泳いでいきます。
  はじめ誰かと泳ぎ始めたころは楽しかったですが、気づけば泳ぎ続けているのは私一人だけでした。
  身体が疲れて動かなくなっても、息が詰まっても、泳ぐのをやめられません。
  だって、泳ぐのをやめたら死んでしまうから。
  それに――ここを泳ぎきったら、とてもいいところにたどり着くのだと。
  誰かがそう言っていた記憶があるのです。
  早く無事にたどり着かなきゃ。そしたらみんな喜んでくれるはずなんだ。

  それなのに、私の身体は少しずつうまく動かせなくなってしまいます。
  うまく泳げなくなればなるほど身体に酸素が行きわたらなくて必死でもがきます。
  けれどもう光すら届かないほどの深みに来ていた私を、水圧がゆっくりと押し潰していきます。

  助けてよ。
  息が出来ないよ。
  もう、泳げないよ――。

  そんな時、唇から温かい息が流れ込んできました。

 
48以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 08:47:55.81:op33K3/A0

唯「……えへへ。おはよう、うい」

  水中から浮かび上がるようにして目を覚ますと、ぼやけた視界の向こう岸にいたのは私の大好きな人でした。
  抱え上げるようにそっと腕を回したお姉ちゃんの背中に私もしがみ付くように抱きつきます。
  気づけばさっきまでの息苦しさが嘘のように薄れていました。
  あまりの安心感に、思わず目から涙があふれてしまいます。

唯「よしよし。いいこいいこ」

  お姉ちゃんはそれから何も言わず、抱きしめた私の頭をずっと撫でていてくれます。

憂「……あのね、こわい夢、みたの」

唯「そっかぁ。それはつらかったね……」

憂「うん……くるしくて、息ができなくなったの」

唯「でも大丈夫だよ、憂にはお姉ちゃんがいるからね」

  気休めだと誰かは言うでしょう。
  ともすれば気持ち悪いとさえ思われているかもしれません。
  だけど――何よりも、お姉ちゃんの言葉と温もりは私を守ってくれるんです。

憂「おねえちゃん……はなれないでね」

唯「うん。ずーっとそばにいるよ」

  ごめんなさい。
  でももう少しだけ、ここにいてもいいですよね?

 
49以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 08:55:03.32:op33K3/A0

憂「お姉ちゃん、今日はパソコンやらないの?」

唯「んー、チャットの人が来てなかったんだよねぇ」

  もう陽もすっかり沈んだ頃、夕食を作り始めました。
  いつもこの時間、お姉ちゃんは部屋でパソコンを使うか本を読むかして過ごしています。
  ですから食事を作っている時にお姉ちゃんがそばにいると、なんだかちょっと落ち着きません。

唯「あぁっ! おはぎ落としちゃったよう……うい、ティッシュどこぉ?」

  いろいろな意味で、落ち着けません……。

 
52以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 09:02:08.69:op33K3/A0

  私はウェットティッシュを持ってソファーのところに行き、一緒に床を掃除します。
  コップといい、おはぎといい、なんだか今日のお姉ちゃんは調子が悪いみたいです。
  最近、長い時間パソコンを使うのが多くなったからでしょうか。
  ……お姉ちゃん、ネットでどんなことしてるんだろう?

憂「ねえねえ、いつもチャットでどんな人と話してるの?」

唯「あー……えっとね、クリスティーナさんっていうんだけどね」

憂「ええっ、外国人の方なの?」

唯「ちがうよ、ハンドルネームだよ。ネットの中の名前」

  お姉ちゃんの話だと、ネットの中では身元がばれないように違う名前を使うのだそうです。
  ちなみにお姉ちゃんは「あいす」って名前でした。お姉ちゃんらしいなあ……。

唯「それでね、クリスティーナさん大学生で、バンドやってるんだって!」

憂「へえ……どんな音楽やってるの?」

唯「ええっと、なんだかいかつくて怖そうなやつ……」

  お姉ちゃんは頭の上に指で角を立てたり、手を怪獣のようにこわばらせたりしました。
  いったいどんなバンドなんだろう……。

 
55以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 09:09:29.22:op33K3/A0

  床をきれいにした後、お姉ちゃんとおしゃべりしながら夕食を作って一緒に食べました。

唯「あれ? なんかこの煮物あまい!」

憂「和ちゃんからもらったハチミツを入れてみたの。どうかなあ?」

唯「おいしいよ、憂はやっぱ天才だね!」

  工夫した料理を作ったとき、お姉ちゃんがそう言ってくれるのはうれしいです。
  ですがお姉ちゃんのおいしそうに食べる様子は言葉以上にうれしくて、なんだか心があたたまるようです。

憂「でもローヤルゼリーだと思って見てみたら普通のハチミツでびっくりしたなあ…」

唯「その二つって違うの?」

憂「ローヤルゼリーは錠剤か粉末だよ。でも……こんなに高いものもらっちゃっていいのかなあ?」

唯「あっそれは大丈夫だって和ちゃん言ってたよ!」

  和ちゃん甘すぎるのは苦手なんだって。
  栄養があって成長に必要なのはわかるけど、甘すぎて体悪くしそうで……みたいに言ってたよ。
  そう、お姉ちゃんは無邪気な笑顔で教えてくれます。

憂「甘すぎると、からだが悪くなるのかなあ……」

唯「……うい?」

憂「あっごめん、なんでもないよ」

 
56以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 09:16:44.72:op33K3/A0

  甘すぎると、身体に良くない。
  食べ終わった食器を洗いながら、なぜかその言葉が頭をぐるぐると回っていました。
  ハチミツだけでなく糖分は成長に必要ですし、なかったら頭が働かなくなります。
  けれど……肝油ドロップのようにそればかり食べ過ぎてしまったら、いずれお腹を壊してしまうでしょう。

唯「ういどうしたの?」

憂「えっ…なんでもないよ。お姉ちゃん、お風呂沸かしてくれる?」

唯「……うん、わかった。一緒に入ろうね!」

  何か言おうとして押し留めたのか、その声はわざと明るくしたように聞こえました。
  嘘が下手なお姉ちゃんはいとおしいけれど、時々どうすることもできずに苦しくなるのです。

 
59以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 09:24:08.10:op33K3/A0

憂「そうだね……うん」

  なんとなく答えてしまいますが、こうしていていいのかも分からなくなってきました。
  和ちゃんはたぶん気づいてるんだと思います。
  だから「そういうこと」を続けるのはお姉ちゃんのためにならない。
  今日の和ちゃんは私たちにそれを伝えたかったのでしょうか。

  お姉ちゃんが引きこもりになってからの半年。
  それは私にとってもかつてないほど、どうしようもなく甘い一時でした。
  ……いや、ダメだ。
  これはお姉ちゃんの回復のためなんだ。
  私は理性を働かせようと、お風呂場の方に声を投げかけました。


憂「お姉ちゃんごめんね、今日は一人で入る」

 
60以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 09:31:30.34:op33K3/A0

  しばらくして、お姉ちゃんがお風呂から上がった後に一人で湯船につかりました。
  ここ最近、お姉ちゃんとお風呂に入ることが多かったので一人でこうするのは久しぶりです。
  うなじに胸元、二の腕を通って指先を一本一本洗い流す――自然とお姉ちゃんが洗うようにしてしまいます。
  けれど、いつもと違って背中から伝わる熱はありません。
  意識するとよけいに一人に思えてきてしまうので、シャワーの蛇口を力をこめてひねりました。

  目をつむった中で温水に打たれながら、難しい考えを一度洗い流してしまおうとします。
  ですが水に当たっているとさっきの夢を思い出してしまって、思わずシャワーを止めました。

  ……誰もいません。
  水音が消えたお風呂場は、やけに静かに思えました。
  なにかで埋めなければ耐えられなくなるほどに。

 
61以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 09:38:58.80:op33K3/A0

  頭と身体を自分の手で一通り洗い流してから、ゆっくりとお湯につかります。
  温かい水が身体中に沁み込んで全身を暖めてくれます。
  ですが浴槽の反対側に手を伸ばすとあるはずのやわらかい肌は、今日はありません。

  なんとなく目をきゅっとつむって、広くはない湯船の中に頭を沈めてみます。
  そうしたら自分が狭い金魚鉢の中のたーくんになったように思えて少し楽しくなりました。
  一人では広く感じる浴槽の中で、さっき見た夢のように自由に泳ぐ姿を想像してみます。
  どこまでもどこまでも深く。暗い海の向こう側へ。

   『海の向こう側には、幸せが待っている。』

  顔の分からない優しそうな人たちが口々にそんな言葉をかけるイメージが頭をよぎります。
  とみおばあちゃんや和ちゃんも手を叩いて応援してくれている気がして、深く深く潜っていくのです。
  けれどそのイメージの中ではいつまで経ってもお姉ちゃんの声が聞こえませんでした。

 
62以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 09:46:02.20:op33K3/A0

憂「――ふぅっ」

  声が聞きたくなってしまって水の中から顔を上げます。
  浴室の照明に目が慣れず、まばゆさにくらくらしてしまいました。
  私はどのくらい浴槽に沈んでいたのでしょうか。

  水から顔を上げると急に狭い世界に閉じ込められたように感じます。
  けれども程よく狭い水の中はかえって居心地がよく、泳ぐ気も薄れてしまいます。
  たーくんのような魚が捕まえられて飼育されるときも、こんな感覚なのかもしれません。

憂「……お姉ちゃん」

  ダメだ。
  やだよ、ひとりでなんていられないよ。
  お姉ちゃん、なんでお風呂にいないの?
  身体の奥に空けられた穴が心を乾かしていくようで、息が詰まります。
  その穴はたぶんお姉ちゃんの腕の中でしか埋められないものなのです。

  どうしてこんな風になってしまったんだろう。
  甘い日々に我をうしなって、すでに身体のどこかが壊れてしまったからなのかな。
  ……いや、私に限ってはもっと前から壊れていたのかもしれないけれど。

  お風呂を出た私はその晩、結局お姉ちゃんの部屋に行ってしまいました。
  みなさん、本当にごめんなさい。

 
63以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 09:53:11.71:op33K3/A0

  夜遅くに目が覚めるとお姉ちゃんのやわらかい腕に抱かれていて、それだけでずいぶん満たされるものです。
  重ねた肌と、溶け合わせた汗。眠りに落ちる前に繋いだ手は、今日はまだほどけずにいてくれました。

  お姉ちゃんはすっかり眠ってしまって、はだけた布団を掛けなおそうともしません。
  その呼吸に合わせて上下するやわらかい胸にゆっくりと頭を乗せて、心臓の音を聞いてみたりします。
  胸の奥から響く一定のリズムは私の頭をなでる時のように優しくて、空いた方の腕でもう一度お姉ちゃんを抱きしめました。

憂「お姉ちゃん……あいしてる」

  身体を少し起こして、目を覚まさないようにゆっくりとキスしました。
  暗い部屋で目を閉じると唇の感触がいっそう強く響くようで、もっともっとお姉ちゃんを求めたくなってしまいます。
  そしてその度に自分がとても気持ち悪いものに思えて耐えられなくなるのです。

 
64以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 10:00:38.21:op33K3/A0

  身体を重ねるようになったのは、お姉ちゃんが不登校になった辺りからです。
  あの頃はおたがいにどうしていいか分からず、ただ抱きしめなきゃいけない気がして、気づくとここまで来てしまいました。

  求められたくて、お姉ちゃんそのものが欲しくて、すがるようにそうしてきました。
  お姉ちゃんも私のバラバラになりそうな心や身体の輪郭をなぞるように、崩れそうな私を集めて守るようにして抱いてくれました。
  それはセックスの時だけではなく、例えば一緒にお風呂に入る時だって同じです。
  お姉ちゃんは丁寧に――変な言い方ですが、溶け崩れていく私を身体に集めてしまいこむようかのように――指先から爪先まで洗ってくれるんです。

  昔から好きだった人にそんな風にされたらもっと好きになっちゃいますよ。
  愛してはいけない人でも、愛してしまいますよ。
  もう一秒たりともお姉ちゃんから離れたくない自分もここにはいます。
  だから、ときどき思ってはいけないことまで考えてしまうんです。

  たとえば、お姉ちゃんがずっとひきこもりでいてほしい、なんて。

 
66以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 10:07:38.73:op33K3/A0

憂「……最低だよ、私。しんじゃえばいいのにな」

  自分を傷つけるナイフのような言葉を、わざと口に出してみました。
  なにか罰を受けたくなったのです。
  今もお姉ちゃんを抱きしめている自分が、どうしようもなく思えて。

  セックスはすばらしいものだと言う人がいます。
  だけど私はうまくそう思えません。
  今さら「女の子同士だから」とか「姉妹だから」なんて考え直せるほど私は強い人間じゃないです。
  でも、だからって全てを肯定する勇気もありません。

  甘い蜜のような快楽は一瞬だけすべてを忘れさせてくれます。
  けれども理性を溶かすような快楽が終わって、祭りの後のように一人目覚めたとき。
  逃げていた現実に急に引き戻され、打ち揚げられた魚みたいに呼吸の仕方すら分からなくなるんです。

  私は、せっくすがきらいです。
  すきだけど、やっぱりきらいなんです。
  矛盾してますよね。身体がバラバラになりそうなぐらいに。

 
67以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 10:15:01.25:op33K3/A0

  布団の奥で足を絡ませながら、お姉ちゃんの心音をずっと聞いていました。
  肌の感触と体温とが私を安心させてくれるけれど、同時にお姉ちゃんを閉じ込めているようにも感じます。

  息苦しさを感じると空を見上げたくなるものですよね。
  お姉ちゃんから見せてもらった不登校の方のブログに空の写真が多いのもそういう理由かもしれません。
  たとえ狭いディスプレイの中の空の画像でさえも、水草から浮かぶ気泡のように意識をゆらゆらと浮かばせられる気はするのでしょう。

  お姉ちゃんにしがみ付くように肌を重ねたまま、窓の外の空に目を向けました。
  今夜は満月のようです。薄い雲ににじんだ月明かりが、雲の動きによって揺れ動いて見えます。

  もし、あの窓ガラスが私たちを外とを隔てた壁だとすれば。
  私たちもたーくんと一緒で、この家という小さな金魚鉢に閉じ込められているのかもしれません。
  そうして私たちは外での泳ぎ方を忘れて、ここで息絶えてしまうのでしょうか。

  閉塞感の心地よさが怖くて、私はその夜うまく寝付くことが出来ませんでした。
  ぼんやりと眺めた窓ガラスの向こう側。
  月明かりは雲の波間に浮かんで、いつまでも揺れていたのでした。

 
68以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 10:22:12.75:op33K3/A0

   ◆  ◆  ◆

憂「・・・・・ごめんね。変な話、聞かせちゃって」

梓「いいよ、私と憂の仲じゃん。それに唯先輩は私にとっても大事な人だし」

憂「ありがとう。じゃあ、続き話してもいい?」

梓「うん。……憂は大丈夫?」

憂「へいきだよ。ありがと、梓ちゃん。……それでね、」

 
70以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 10:29:41.05:op33K3/A0

   ◆  ◆  ◆

  うなされる時はいつだって溺れる夢を見ます。
  今朝もそうでした。

  教室。解答用紙。席に着いた生徒の群れ。
  今はもう懐かしくも思える休み時間の騒ぎ声が蝉のように遠く近く響いています。
  次の瞬間――木製の机と椅子と床が砂のように崩れて足下の濁流に飲みこまれ、手も足も出せずに沈んでいきます。
  ずぶずぶずぶと身体が水中に飲み込まれていき、気づくと私は海の中に漂っていました。

  生徒たちはいつしか深海魚へと姿を変え、もう名前も思い出せないほどです。
  尾びれが肥大化したり、何か触覚のようなものが生えたりして畸形化したクラスメイトたち。
  どうやら私もその気になれば魚の姿に変われるみたいですが、周りの深海魚を見ているとどうにもそういう気になれません。
  ですが……背中が急速に、あたかも氷で焼かれるように冷たくなっていきます。

 
72以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 10:37:09.59:op33K3/A0

  息が出来ません。
  吸い込めば吸い込むほど酸素が逃げていき、苦い味の海水が喉の奥へと押し込まれていきます。
  助けて、苦しいよ。
  水の中でもがく制服姿の私を、深海魚たちは遠めで不思議そうに眺め、時々笑っています。
  なんだか私も人間のままでいるとこのまま溺れ死んでしまいそうです。
  あきらめて指先に力を込めてヒレに変えようとしたとき、どこか遠くからやわらかいまなざしを感じました。

  ――無理しなくていいんだよ。

  その声は水の中を伝って私に届いたかと思うとすぐ途切れてしまいました。
  ですがその声は水中に伝わる深海魚たちの発する音とは違って、私を優しく包み込むように響いたのです。
  もっと、あの声が聞きたい。
  こっちに来てよ。
  離れないで。
  助けて。

  水の中でぶざまに手足を動かしていると、やがて射した光が辺りを飲み込んでいきました。

 
73以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 10:44:35.15:op33K3/A0

憂「……はあっ、はぁ…………ん」

  体温と感触と熱のこもったタオルケット。
  落ちるように目を覚ますといつものお姉ちゃんの部屋でした。
  なんだか背中が冷たいです。
  寝ている間に掛け布団がはだけてしまったのでしょうか。
  自分の息づかいがうるさいです。
  また変な夢でも見てしまったのでしょうか。

憂「……お姉ちゃん、おはよう」

  声をかけて、抱きしめます。
  かけがえのない存在を確かめるように、身体をくっつけて抱きしめます。
  お姉ちゃんはまだ夢の中で、ときどき寄せては返す静かな波のようにかすかな笑みを浮かべます。
  私のようにうなされてなければいいけれど。

 
75以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 10:51:53.49:op33K3/A0

  私は眠っているお姉ちゃんを起こさないように気をつけてベッドから降りると布団の中に押し込んだ下着をつけ、自分の部屋に戻りました。
  二人きりの家とはいえ、無防備な姿で歩くのにはさすがに抵抗があります。
  お姉ちゃんはときどき、バスタオル一枚でお風呂から部屋に戻ってそのまま寝てしまうこともありますけどね。

  それにしても今日はずいぶん寒い日です。
  灰色の雲が空を覆いつくしてるせいでもあるのでしょう。
  九月に入っても続いていたはずの生ぬるい天気から急に冷え込んだらしく、ちょっと喉の調子もよくないです。
  私は服を着替えるとお姉ちゃんの部屋に戻って、タオルケットの上に掛け布団を敷きなおしてリビングに向かいました。
  ……お姉ちゃん、身体冷やしてなければいいけど。

 
76以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 10:59:02.92:op33K3/A0

  それから私はリビングに着いて顔を洗い、朝ごはんの前にたーくんにエサをあげようとしました。
  ですが、なんだかたーくんの様子がおかしいです。

憂「あれ。なんか、ぜんぜん動かないよ…」

  たーくんは私がエサをあげようとしても少しも動かず、じっとしています。
  いつもは金魚鉢を指でかるくつついてみるとすぐにたーくんは反応するのに。
  もしかして、病気になっちゃったのかな。

憂「エサ、あげすぎちゃったからかな…」

  どうしよう。
  私が世話しすぎたせいで、苦しめてしまったのかも。
  エサの缶を握ったままどうしていいか分からず動けずにいる私の顔が、金魚鉢にゆがんで映ります。

憂「とりあえず、水の中の掃除しよう……うん、汚れとかあるかもしれないよね」

  自分に「なにごともない」と言い聞かせようとひとりごとを口に出すのに、かえって不安が頭に響くばかりでした。

 
79以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 11:06:03.45:op33K3/A0

唯「ういー、おはよ」

  急に声がしてびっくりして、思わずスポイトを取り落としそうになります。
  振り返ると髪のハネたお姉ちゃんが眠そうな目をこすりながら立っていました。
  さっき着替えたばかりなのか、パジャマのボタンが途中から一個ずつ掛け違えているのにも気づいていません。

唯「うい、どしたの?」

  お姉ちゃんは何かに気づいたようにほんの少し目を見開いてこちらを見ます。
  まだ何も言ってないのに。
  やっぱり、かなわないです。

憂「たーくんが…朝起きたらね、たーくんの具合がわるくなってて」

唯「ええっ」

 
80以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 11:13:24.83:op33K3/A0

  大げさに驚く声をあげたお姉ちゃんは金魚鉢に駆け寄ります。
  そしてしばらくの間、弱っているたーくんをじっと見つめていました。

唯「……死んでないよね?」

憂「うん、大丈夫だと思うけど」

  狭い水の中で弱ったたーくんの姿に、半透明に歪んで映る私たちの顔が重なります。
  錯覚なのか、自分がたーくんを閉じこめいたぶっているような気がしました。
  見ないようにしてその場を離れるため、引き出しにエサをしまいに行きます。
  するとお姉ちゃんが私の方を向いて真剣な顔つきで訊ねました。

唯「ねぇ、たーくんって……もしかして食べすぎ?」

  なんだかミスマッチな気がして、思わず吹き出してしまいました。

 
82以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 11:22:49.61:op33K3/A0

唯「ちょ――ういー、わたし本気で…」

憂「そういうお姉ちゃんだって、ちょっと笑ってるじゃん」

  二人でつられあって笑ってしまいます。
  なんだか、それほど心配するようなことじゃないようにも思えました。
  お姉ちゃんはこうやって、いつも自然と私の心を軽くしてくれます。

  それからお姉ちゃんはシャワーを浴びに行き、私は金魚鉢のなかのごみをスポイトで吸い取るのを再開しました。
  ベタはカルキが抜かれて酸素がほどよく入った水でないと弱ってしまうので、あまり水を入れ替えるわけには行かないのです。
  たーくんは弱っているようですが、ときどきひれを少し動かしては部屋の照明の方へ向き直ったりしています。
  お姉ちゃんをあまり心配させたくなかったのですが……やっぱり、不安は消えません。

 
83以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 11:30:54.98:op33K3/A0

  金魚鉢のゴミ掃除を終えてから、私は前に和ちゃんからもらった熱帯魚用の薬を数滴垂らしました。
  薬浴といって、薬の入った水に浸かることでたーくんの具合がよくなると聞いています。

  私はまたソファーに身体を預け、ぼんやりと金魚鉢や窓の外を見ていました。
  窓の向こうの曇り空はにごった水槽のようで、リビングの生ぬるくていけない空気も実は心地よかったです。
  ときどき家の外を通る車の音が小さな気泡がはじけるように遠く聞こえて、すぐ前の道路ですら遠い世界のように思えます。

  窓を開けなきゃ。
  換気をしなくちゃ。
  そうは思うのですが……なんとなく、このままでもいい気もしてしまって、ソファーに寝そべってしまうのです。

  そういえば。
  ここ最近は金魚鉢の水を替えていませんでした。
  あまりに何度もきれいな水に替えてしまうとかえって住み心地が悪くなって弱ってしまう。
  和ちゃんはそう言うので抵抗はあるのですが、さすがにそろそろ替えなければいけない時期かもしれません。

 
85以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 11:39:17.52:op33K3/A0

唯「おばあちゃん来た?」

  気づくと、髪を濡らしたお姉ちゃんがそこにいました。
  茶色がかったきれいな髪の毛は色鮮やかな魚のひれのようで、もう少しだけ濡れた髪を見ていたい、そう思ってしまいます。

憂「あ……まだだよ。九時だし、そろそろだと思うけど」

唯「ふぅん。ういもシャワー浴びる?」

憂「んー…そうだね。寝汗かいちゃったし」

唯「さくばんはおたのしみでしたねぇ」

憂「……お姉ちゃんが言わないでよ、はずかしいよ」

  にやにや笑うお姉ちゃんから逃げるように私はリビングを出て、自分の部屋に着替えを取りに行きました。

 
87以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 11:47:28.93:op33K3/A0

  シャワーをあびて髪を乾かし終わった頃、電話が鳴りました。
  お姉ちゃんは自分の部屋にいるみたいなので、ドライヤーを置いて一呼吸おいてから受話器を取ります。

憂「はい。平沢です」

とみ『ああ憂ちゃん、おはようさん』

憂「なんだぁ、おばあちゃんだったんだ…びっくりしちゃったよ」

とみ『そうかい? それはすまなかったねぇ』

憂「ううん、だいじょうぶ。でもおばあちゃん、いきなり電話かけてどうしたの?」

とみ『それがねぇ…リウマチの病院行かなきゃならないの、てっきり忘れちゃってね』

  年取ると物忘れが激しくていやだねえ、そう言っておばあちゃんは笑います。

 
88以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 11:55:46.36:op33K3/A0

憂「そうなんだ…腰の具合はどう?」

とみ『だいぶよくなったと思ったんだけどね……やっぱり無理はよくないねぇ』

憂「ごめんねおばあちゃん、無理はしないでね?」

とみ『いいのよ。憂ちゃんも唯ちゃんも私の孫みたいなものだから』

憂「………うん」

  孫、という言葉を聞いてお父さんたちのことを思い出してしまいました。
  最近は電話もめっきり減って、ずいぶん忙しくしているみたいです。

とみ『お父さんお母さんがいなくて、さみしかったりしないかい?』

  私の気持ちを分かってくれたのでしょうか、おばあちゃんは優しく聞いてくれます。
  心からいたわるような声でそう尋ねてくれるので、かえって申し訳なく感じてしまいました。

  わたしは、おねえちゃんさえいればいい。
  ……両親の不在がそれほど気にならなくなっている私は、たぶん悪い子です。

とみ『ほんと、年頃の娘をほっぽらかしてなにやってるのかねぇ、平沢さんとこのだんなは…』

  受話器の向こうでなげく声にどうしようもなくとがめられてる気がして、ごめんなさい、と一言つぶやきました。
  ごめんなさい、本当にごめんなさい。
  ……ときどき私はおまじないのように、無意識につぶやいてしまうのです。

 
91以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 12:04:12.88:op33K3/A0

とみ『憂ちゃんが謝ることないじゃないの』

憂「でも、お姉ちゃんがこうなったのだって……」

とみ『いいのよ。人生八十年、まだまだ長いんだから疲れた時はゆっくり休むのが一番じゃない』

  憂ちゃんは小さい頃から頑張り屋さんだったものね。
  とみおばあちゃんの気遣いは冷たい水のように心地よくて、それがかえって痛ましく感じるのです。
  言葉が心のどこかに開いた傷口に、間に合わせで固めたかさぶたを溶かすように染み込むんです。

とみ『元気になったら、二人で手をつないで外にでも行きなさいね』

憂「うん。私もお姉ちゃんとお散歩できたら……いい、かな」

とみ『そうよ。お天道様も照っていて、気持ちいいわよ。今日は曇っちゃってるけれどね、ふふふ』

憂「……うん、ありがとう」

  私は電話を切った後、開けていたカーテンを閉めました。
  陽の光が、窓の外から注ぎ込まれる熱が、ちょっとだけ怖かったのです。

 
94以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 12:12:21.33:op33K3/A0

唯「おばあちゃん、なんだってー?」

憂「……あ、うん。なんでもないよ」

唯「え…?」

  いつの間にかリビングに降りてきていたお姉ちゃんが、いぶかしむような表情で立っていました。

憂「あー…うん、ええっとね、おばあちゃんが来ないんだって」

唯「どして?」

憂「なんかね、リウマチの病院いかなきゃいけなくて……そうそう、お散歩がいい…って、ううん、なんでもない」

  とっさにわけが分からなくなって、つながらない言葉をやみくもに並べてしまいました。
  急に頭の中にいろいろなものがあふれてきて、息がうまくできません。

 
96以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 12:20:45.73:op33K3/A0

憂「――けほっ、こほっ」

唯「わわ、大丈夫?」

憂「……う、うん…水、あるかな」

  お姉ちゃんはすぐキッチンへと走り、コップに水を入れて戻ってきました。
  そして床に少しこぼれて広がった水滴に気づきもせずに、相変わらずせき込む私の背中をさすります。

唯「だいじょうぶ? 紙袋、いる?」

憂「ううん、落ち着いてきたから大丈夫……ごめんなさい」

唯「……憂は悪くないよ」

  背中をあたためていた手が離れると、すぐにその腕は私の身体ごと抱きしめました。

 
98以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 12:29:06.10:op33K3/A0

  肩にそっと頭を乗せて、頬を近づけるようにしてお姉ちゃんはささやきます。

唯「……あのね、私が全部悪いの。学校行けなくなっちゃったのも、私が引きこもりだから」

憂「……うん」

  『そんなことないよ。だって――』

  そんな言葉が頭に浮かんで、けれどお姉ちゃんの柔らかい腕がそれをかき消しました。
  このまま抱きしめられていてはいけない。
  けれど、そう思うこともお姉ちゃんを裏切る気がして、なにもかもが壊れてしまいそうで。

唯「……ごめんね、だめなお姉ちゃんで」

憂「……ううん、そんなことないよ。一緒にお姉ちゃんの引きこもりを治していこうね」

  怖かったんです。
  プールの中みたいに居心地のいいこの場所が、ガラスのように割れて壊れてしまうことが。

  もっとも、ずいぶん前に壊れてしまっているのかもしれないのですけど。

 
99以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 12:35:53.85:op33K3/A0

  落ち着くと私たちはいつもどおりの生活に戻しました。
  お姉ちゃんは自分の部屋で数学の問題集を進めて、私は洗濯機を動かしてから部屋の掃除を始めます。

  本当は掃除なんていらないほどきれいなリビングの床に掃除機をかけ、ほこりの溜まりそうな所を濡れ雑巾で拭きます。
  あまり掃除をし過ぎてしまうと居心地が悪くなってしまいそうですが、日課なので欠かすことはできません。

  昨日お姉ちゃんがコップを割ってしまった床を特に念入りに磨き上げ、ほかの床よりもきれいにできたところでようやく一休みです。
  お姉ちゃんも和ちゃんに言われて勉強がんばってるみたいだし、クッキーでも作ってあげようかな。
  小麦粉、まだ残ってたかな……。

  と、そのとき電話がかかってきました。

憂「はい、平沢です――」

純『やっほー。憂、元気してた?』

 
118以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 13:57:50.81:op33K3/A0

  声の主は同じ中学に通っていた純ちゃんでした。
  最近は電話も少なくなっていたので、前に話したときから一ヶ月ぐらい経っているかもしれません。

憂「純ちゃん久しぶりだね。でもどうしたの? 今日って学校じゃ…」

純『まぁね。行く気しないからさぼっちゃった!』

  えっ、それってどうなんだろう……。
  私たちもぜんぜん人のこと言えないですけれど。

純『あ、いやじょーだんだって。ほら、創立記念日。国民の祝日だよ!』

憂「国民のではないよ、純ちゃん」

純『まあいいじゃん別に。ところで暇だから遊び行ってもいい?』

憂「えっ……うん、別にいいけど」

  なんとなく喉が渇くような気がして、先ほどせき込んだ喉の皮膚がかすかに痛むのに気づきました。

 
121以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 14:06:18.15:op33K3/A0

  純ちゃんとは小学校の時に通っていた塾で知り合いました。
  はじめて会ったときは、私にとってちょっと苦手なタイプだと思っていました。
  けれども話してみるととても人なつっこくて、すぐに私たちは打ち解けたんです。

  そのころ通っていた塾で私は特別進学クラスに入っていたので、帰りがいつも夜の十時近くになっていました。
  お姉ちゃんも同じ塾に通っていて、中学に入るまでは純ちゃんと三人で一緒に帰っていたのを思い出します。

純『……うい? 聞いてる?』

憂「あ、うん。ごめん」

 
123以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 14:14:27.53:op33K3/A0

純『はぁ……憂がしっかりしないと平沢家ヤバいんだからさ、がんばんなよ?』

憂「……うん、ありがと」

  がんばれ、という言葉は重たくて昔は苦手でした。
  けれども最近はそうでもないみたいです。
  必要としてくれることが実感できて、ここにいてもいいんだって気がして。

純『あっそうそう! 憂、和さんから宿題もらってたっけ?』

憂「うん、昨日お姉ちゃんの分と一緒に」

純『……悪いんだけどぉ』

  なんだかちょっと吹き出してしまいます。
  宿題を見せてあげたり、教えてあげたりしていたのは塾のころからずっと変わってなくて。

 
125以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 14:22:42.93:op33K3/A0

純『笑わないでよー、私は憂と違って飲み込み遅いんだから』

憂「ごめんね、そういう意味じゃないよ。なんか……昔みたいだなって」

純『昔ねぇ……まぁいいや。じゃあ四時ごろ行くね』

  そのとき、ふいに純ちゃんが何か言いよどんだように感じました。
  私は一瞬問いかけようとしたんですが――結局、聞かずじまいでした。

憂「…うん、四時だよね。クッキーでも作って待ってるよ」

純『おおー神じゃん! じゃあ、おなかすかしとくからねー』

  弾んだ声で約束を決めて、電話が切れました。
  純ちゃんとは久しぶりに会うのでわくわくするはずですがが……なぜかそのとき、心にひっかかるものを覚えたのです。
  どうも無理しておどけた声を出していたような気がして。
  被害妄想だとは、思うのですが。

 
126以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 14:30:52.31:op33K3/A0

  それから私はチョコクッキーを焼き、シナモンティーの準備をして待っていました。
  お姉ちゃんもクッキーの焼ける香りにひかれてリビングに降りてきたので、ちょっとだけ味見をしてもらいました。

唯「うん、今日のとびっきりおいしいよ!」

  お姉ちゃんはそう言って、おどろいたような笑顔を見せてくれました。
  味見してもらったのは久しぶりに純ちゃんと会うのでおいしくできたか気になっていたのもあります。
  けれどやっぱり、できたクッキーをお姉ちゃんに真っ先に食べてほしかったのです。

唯「昨日のシフォンケーキもおいしかったけど、やっぱり憂の作るのが一番好きだよ!」

  あめ玉のように響くお姉ちゃんのうれしそうな声に、私は思わず抱きしめたくなってしまいました。

 
127以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 14:38:56.69:op33K3/A0

  純ちゃんがうちに来たのは四時半すぎでした。

純「ごめんごめん! 道混んでてさぁ」

憂「えっ、行く途中に近くで事故でもあったの?」

純「う……いや、そういう訳じゃなくてさぁ…」

  私が尋ねると、純ちゃんは困ったように目をそらします。
  何か聞いちゃいけないことでも聞いちゃったのかな……。

純「いや、あのね? 道混んでたとかって、単に寝坊したとかの言い訳で使わない?」

憂「うーん…寝坊したことがそんなにないから分からないよ」

  純ちゃんは大きくため息をつくと、やけになったみたいに少し大きめの声で言います。

純「ごめんなさい、お昼寝してたら寝坊しました!」

  あ、寝坊だったんだ……。

 
128以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 14:47:05.07:op33K3/A0

憂「あはは、純ちゃんらしいね」

純「なんか平沢姉妹と話してると自分が申し訳なく思えてくるんだけど…」

憂「え、どうして?」

純「いや、そのー…いい子だなって」

  私には純ちゃんがなにを言おうとしているのか、いまひとつ分かりませんでした。
  けれどもリビングから広がるクッキーのにおいに気づくと、純ちゃんは子犬のように「早く食べよ!」と私をせかします。

 
130以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 14:55:29.35:op33K3/A0

憂「……なんだか、変わんないね」

純「それどういう意味さっ」

  頬を膨らませてむくれる純ちゃんに謝ってから、わたしはシナモンティーをいれにキッチンに行きました。
  純ちゃんと久しぶりに話して、会うときまで胸につかえていたものが少し溶けた気がしました。

純「ほら、早く食べよっ」

憂「もう……食べたらちゃんと数学もやるんだよ?」

純「はいはい」

  小学校の塾の時も、私の作ったお弁当を食べながらこんな感じでおしゃべりしたんだっけ……。
  ちょっと懐かしい気持ちになりました。

 
131以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 15:03:56.76:op33K3/A0

唯「あー純ちゃん、久しぶり!」

純「わわ……唯さん、ハグ激しいですよっ」

  お姉ちゃんは純ちゃんに気づくと、昨日の和ちゃんの時みたいに強く抱きしめます。
  ふいに抱きしめられてはじめびっくりしていた純ちゃんの顔もとまどいからあきらめへと変わります。
  そうしていつしかやわらかな、ほっこりしたような顔を浮かべていました。
  私の大好きな、お姉ちゃんの腕の魔法です。

純「唯さん、相変わらずっすねー…」

唯「えへへ、久しぶりだとこうしたくなっちゃうんだよねえ」

  考えてみるとお姉ちゃんは外から誰かが来るたびに抱きしめていました。
  お姉ちゃんだって病気が治ったら外に早く出たいんだと思います。

憂「……お姉ちゃん。クッキー、食べようよ?」

唯「あっごめん、じゃあおやつにしよっか!」

  一瞬だけ胸の奥が曇ったような気がして、そんな自分がいやになりました。
  なに考えてるんだろう、私。

 
132以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 15:12:00.93:op33K3/A0

  純ちゃんはリビングに着くとすぐにソファーに寝ころがってお菓子をねだりました。

純「ういー、くっきー」

憂「ふふ、なんだかお姉ちゃんみたいだね」

唯「だって憂の料理おいしいんだもん、しょうがないよ」

純「んっとにラブラブだよね、平沢姉妹……」

  クッションを抱きしめて足をぱたぱたさせている純ちゃんがちょっとあきれたように言いました。
  さっき心の奥で溶かしたはずの良くないものがまた固まるような気がして、私はあわててクッキーを取りに行きます。

 
133以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 15:22:21.29:op33K3/A0

  シナモンティーを入れてリビングに戻ると、純ちゃんが金魚鉢をのぞき込んでいました。

純「ねぇ……このベタ、なんか弱ってない?」

憂「あ、うん……。今朝からなんか様子がおかしいの」

唯「今日はくもりだし、たーくんも元気じゃないんだよ」

  純ちゃんと入れ替わりにソファーに寝ころがったお姉ちゃんが、仰向けになって言います。
  決して忘れていたわけではないけれど、たーくんのことを思い出して喉の痛みがぶり返すように胸の奥で何かが黒く広がるのを感じました。

純「あのさ、憂」

憂「な、なにかな…?」

純「これ、そろそろ水入れ替えた方がよくない?」

 
134以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 15:32:37.68:op33K3/A0

  きっかけはささいなことだったんです。

憂「え……でも和ちゃんが『あんまり水換えるのよくない』って、そう聞いたから」

純「うーん、それにしたってもう替えなきゃだよ。スポイトで吸い出して捨てられるゴミだけじゃないんだし」

憂「そうかな……水替えたら、たーくん環境に慣れなくて」

  さっきまでと違って、どう話していいか分からなくなって言葉を選ぶのに焦ってしまいます。
  純ちゃんも言葉を選んでいるみたいですが、なぜかあわててしまう私を諭すように話しています。

純「ずっとおんなじ水の中にいる方が体に悪いよ」

憂「うん……その、水換えた方がいいのは分かってるんだけど、うん、分かってる」

純「っていうか、その、さ? 憂ってやっぱ過保護すぎて逆になんかベタとかも…」

唯「ちょ、ちょっと純ちゃん――」

  やっぱ最近の憂、なんか憂らしくないよ。
  ……いつ聞いたともしれない言葉がもう一度聞こえたとき、急に喉が苦しくなりました。

 
137以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 15:42:40.22:op33K3/A0

純「ちょ――憂大丈夫?」

  さっき治まったはずのせきがまたぶり返してしまって、立っていられなくなりました。
  弾みでティーカップを落としてしまい、破片が床に散らばります。
  どうしよう、またこぼしちゃった。
  どうしよう、どうしよう……。

唯「う、うい大丈夫?! 待ってね、いま紙袋持ってくるから――」

純「あ、あの唯さん私も」


唯「純ちゃんはだまっててよ!」

  突き刺すようなお姉ちゃんの声が部屋に響きました。

 
138以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 15:53:53.00:op33K3/A0

  なにも言えず立ちすくむ純ちゃんの横をお姉ちゃんは駆け出し、すぐに紙袋を握りしめて戻ってきました。

唯「ほらうい、大丈夫だからね? ゆっくり息して、深呼吸だよっ」

  私の身体を抱き留めて背中をさするお姉ちゃんの向こう側で、純ちゃんは食べかけのクッキーを握りしめたまま私たちを見ていました。
  おびえているのか、あわれんでいるのか分からないけれど、純ちゃんの目が怖くてお姉ちゃんの手を握りしめます。

唯「ごめんね、お姉ちゃんがこんなことになったせいで、憂に迷惑かけちゃって」

  違う。違うって分かってるのに……。
  大丈夫大丈夫大丈夫って自分に言い聞かせて呼吸を無理矢理整えようとするのですが、酸素はうまく身体に入っていきません。
  どうにか空気を吸い込もうとするのですが、するとよけいに咳がひどくなって涙までこぼれてきます。

 
139以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 16:07:30.56:op33K3/A0

  だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ。
  お姉ちゃんの声と背中をさするあったかい手に合わせて、少しずつ呼吸を楽にしていきます。

唯「だいじょうぶだよ、うい。私がそばにいるからね」

  お姉ちゃんは床にうずくまった私の右手と指を絡ませて、息が苦しくならないように身体を支えてくれます。
  体重を預けてリズムに合わせて深呼吸を繰り返していくうちに、がらがらと鳴っていた喉も次第に落ち着いていきました。

唯「……純ちゃん」

純「ごめんなさい、私が変なこと言ったせいで…」

唯「ううん、私だって分かってるもん」

 
141以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 16:18:57.43:op33K3/A0

  来たばかりの純ちゃんはクッキーをちょっと迷ってお皿に戻し、ごちそうさまでした、と言って身支度をはじめました。
  お姉ちゃんはその間もだいぶ楽になった私の身体をずっと抱きしめて、だいじょうぶだいじょうぶとささやいてくれていました。

純「あの……言いにくいんですけど」

  帰りの支度を整えた純ちゃんが、目をそらしながらお姉ちゃんに声をかけます。
  お姉ちゃんは私を守るようにぎゅっと抱きしめて、純ちゃんの方を向きます。

純「唯さんは憂のためにも、引きこもりやめた方がいいと思います」

唯「……分かってるよ、そんなこと」

  ――やっぱり、おかしいですよ。こんなの。ラブとかじゃないです、ぜったい。

  とがめるでもなく、いたわるでもなく、ただ心配そうな声で最後に純ちゃんはそう言いました。
  それからドアを閉める間際に振り返り、何かを言おうとして――代わりに目を伏せて、その場を後にしました。

  お姉ちゃんの身体が震えたのに気づいて顔を上げます。
  すると……その大きな瞳から涙がこぼれて、ぽたりと私の服に染み込みました。

 
143以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 16:33:33.80:op33K3/A0

唯「ごめんね、うい…なんにもできなくて、こんなことしかできなくて、つらいまんまで」

  お姉ちゃんが顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくり、私に抱きついてずっと謝り続けていました。
  違うのに。全部、わたしのせいなのに。
  お姉ちゃんが学校行けなくなったのも、外に出られなくなったのも。
  全部私が悪いのに……。

唯「私が、ニートだから。いけないんだよ……ごろごろしてる私が、全部わるいんだよぉ…」

  フローリングの床がすっかり暖まるほど長い間、涙を流す私たちは抱きしめあっていました。
  曇り空が晴れて差し込んでいたはずの光はまた厚い雲に遮られ、部屋の照明が作り物の光を私たちに浴びせています。
  お姉ちゃんの腕の向こうには今も割れたティーカップが散らばっていました。
  一瞬――たーくんの金魚鉢がそんな風に割れる光景が頭をよぎって、思わずお姉ちゃんの胸に顔を押し付けてしまいます。

唯「……だいじょうぶだよ、憂、だいじょうぶだからね、お姉ちゃんがダメなだけだから」

  半年前から引きこもりになってしまったお姉ちゃんは、昔と変わらず私の頭をなでていてくれたのです。
  そんな感触に身も心もゆだねながら……けれども、純ちゃんのさっきの言葉がずっと離れませんでした。
  ガラスが割れる音のように、ずっと頭に鳴り続けていたのです。

 
144以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 16:44:11.60:op33K3/A0

――――――

(Christinaさんがオンラインになりました)

あいす: こんばんはっ

Christina: おう、元気だったか?

あいす: 家でずっとごろごろしてました・・・・。

Christina: あいすちゃんらしいなw

あいす: えへへ・・・・めんぼくないです(>_<)

 
145以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 16:51:38.96:op33K3/A0

Christina: まあ私も今日はgdgdだったけどさ・・・・。

あいす: バンドの練習、でしたよね?

Christina: あー・・・・それさあ、キャサリンのやつが男ともめたらしくて(笑)

あいす: キャサリン・・・・って、どんな人でしたっけ??

Christina: ほら、うちのバンドのボーカル

あいす: あっなんか変身しそうな格好した人ですよね!

Christina: 変身て・・・・笑

Christina: まっ私もバンドだけやってるわけにはいかないしね

あいす: お勉強ですか?

Christina: うん。臨床心理士やるには大学院行かなきゃなんないし

 
146以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 16:58:23.58:op33K3/A0

あいす: 大変ですね・・・・

Christina: バンドやってきたいけどさ、就職とかも考えないとだし

あいす: しゅうしょく・・・・なんかぜんぜん遠い先の話っぽくて、よく分かんないです

Christina: あいすちゃんはまだ中学生でしょ?

あいす: はい、学校いってないけど

Christina: 学校はいけよー

あいす: 行きたいんですけど、やっぱり外出るのこわくて

あいす: ドア開けて外出るだけだってわかってるけど

Christina: うん

あいす: なんていうか・・・・広い海にでるぐらい怖いんです

 
147以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 17:03:29.25:op33K3/A0

Christina: 井の中の蛙、大海を知らず

あいす: なんですかそれ

Christina: 水槽の中の熱帯魚は幸せだけど不幸だってこと

あいす: むずかしいですね・・・・

Christina: とにかくさ、現状どんな感じなの

あいす: たぶん、心の病気なんだと思います

Christina: パニック障害っぽいよね、聞く限りじゃ

あいす: 病院いってないからわかんないですけど

Christina: 病院はいけよー

あいす: はい・・・・。

Christina: 私だってシロウトなんだし、学校行けないなら病院にはせめて行くべきだよ

Christina: 妹さんのためにもさ

 
148以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 17:16:18.61:op33K3/A0

あいす: でも、病院いくには外出なきゃなんないです

Christina: 甘えすぎだろ

あいす: ごめんなさい・・・・

Christina: つか、あいすちゃんの話が本当なら児童相談所とか動いてもおかしくないレベルなんですけど

あいす: はい

Christina: 確かにキャサリンから聞いて法律上の話とかしたの私だけどさ

Christina: さすがにもう9月だよ

あいす: はい

Christina: 姉妹そろって留年とかヤバいって

あいす: そう思います

 
150以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 17:23:16.02:op33K3/A0

Christina: 親はまだ海外?

あいす: はい、年内に戻れるかどうかって

Christina: なんという機能不全家族

Christina: てか受験生抱えた家族がそれとか・・・・

あいす: 受験の前からずっとそんな感じです

Christina: マジないわ・・・・

Christina: で、あいすちゃん的にはどうしてこうと思ってるの

Christina: やっぱり、まだ出たくない?


あいす: 外にでたいです

 
151以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 17:26:32.31:op33K3/A0

Christina: えっと、なんかあったの?

あいす: どうしてですか?

Christina: いきなり変わったから

Christina: 言いすぎたかなって

あいす: 違うんです

あいす: 今日、妹の友達が家に来てて

Christina: うん

あいす: それで、ちょっとケンカみたくなっちゃって

 
152以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 17:32:07.05:op33K3/A0

あいす: 私たちはラブじゃないって言われました

Christina: どうみても共依存だもんね・・・・

あいす: でも、私はういのことが好きなんです

あいす: それだけは本当です

あいす: 妹としてっていうより、一人の人間として愛してます

Christina: うーん・・・・

Christina: 正直、今のあなたの気持ちは信用できないかも

あいす: なんでですか?引きこもりだからですか?

Christina: ってかまずあいすちゃんが引きこもってるのってあれじゃん

あいす: それは分かってますけど・・・・

 
154以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 17:42:23.44:op33K3/A0

Christina: 自立してないやつが言う愛は大体ただの依存だよ

あいす: 別れろっていうんですか

あいす: 女同士だからですか

あいす: 姉妹だからですか

Christina: そうじゃないって

Christina: 落ち着いて聞いて

あいす: はい

Christina: あいすちゃんが妹のことすごい思いやってるのはわかる

あいす: はい

Christina: だけどそれって妹さんのこと閉じ込めてるわけでしょ

あいす: 分かってます

Christina: いいの?

 
155以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 17:45:55.60:op33K3/A0

あいす: 私はういに元気になってほしいです

Christina: だったら、妹さんと向き合わなきゃ

あいす: はい

Christina: しかるべき医療機関にかからなきゃダメ

あいす: 前行った時は睡眠薬くれただけでした

Christina: じゃあ他探しなよ

Christina: なるべく話聞いてくれるとこ

あいす: はい

Christina: ところでベタ飼ってるんだっけ

あいす: はい、そうですけど

 
156以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 17:57:31.38:op33K3/A0

Christina: ベタって闘魚っていうの知ってる?

あいす: しらないです

Christina: 狭い水槽の中に二匹入れとくと共食いしちゃうんだって

Christina: だから二匹以上が育つためには広い飼育場所が必要みたい

あいす: なにがいいたいんですか?

Christina: あいすちゃんも自分たちの水槽壊さなきゃだめだよ

 
157以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 18:04:03.92:op33K3/A0

Christina: 共食いはしないにしても、共倒れにはなっちゃうから

あいす: でも、お魚って外出たら息できなくなりますよ

Christina: それは水槽の中の水に慣れすぎたからでしょ

Christina: ちょっとずつでも、外の世界に慣れてかなきゃダメ

Christina: そのまま水入れ替えないと酸素足りなくなって二人とも死んじゃうよ

あいす: はい

あいす: 分かりました

Christina: それに、助けてくれる人だっているでしょ

 
159以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/10/10(日) 18:07:00.59:op33K3/A0

Christina: あいすちゃんの言ってた隣人さんとか、幼馴染の子とか

あいす: あとさっきのういの友達も、たぶんすごく心配してくれてます

Christina: だったら、あとは勇気出すかどうかじゃん


あいす: がんばってみます

Christina: がんばれ

Christina: 二人のこと応援してるから

あいす: はい!

 
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