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京介「あやせ、結婚しよう」 あやせ「ほ、本当ですかお兄さん!?」
京介「俺の妹がこんなに可愛いわけがない 8?」 前編
京介「俺の妹がこんなに可愛いわけがない 8?」 後編
桐乃「そんな優しくしないで どんな顔すればいいの」
京介「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」
京介「桐乃…お前は昔は素直でいい子だったのよな…」
94:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/20(月) 18:26:06.06:KU/Wy8bd0
駅前の駐輪場に自転車を止めた俺は、
いつものクセで額を拭い、ちっとも手の甲が濡れていないことに気が付いた。
今日は過ごしやすい一日となるでしょう、という天気予報士のお告げは正しかったようだ。
空には薄い雲が斑模様に広がっていて、盛夏の日差しを和らげてくれている。
風は少し強いくらいで、駅から流れ出てくる人々は、
一様に目を瞬かせ、髪型の乱れを気にする素振りを見せる。
「早く着きすぎちまったかな」
俺は腕時計から駅前に視線を転じ、やがて小さな人だかりの隙間に、待ち人の姿を見た。
つば広帽子に、真っ白なワンピース。
腰まで届く艶やかな黒髪が、整った顔立ちを縁取っている。
和風美人という言葉がぴったりのその少女は、
しかしその容姿を見られまいとするかのように、体を縮こまらせていた。
「せ……せんぱ……」
俺の姿を認めた黒猫は、今にも泣きそうな声でそう言った。
俺は黒猫を囲んでいた野郎どもをぐるりと見渡し、
「こいつらお前の知り合いか?」
「違うわ」
「だよな」
黒猫の手を引いて歩き出す。
取り巻き連中の一人が何か言ってきたが、全部無視して歩き続けた。

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韓国からポーランドに輸出されるはずだった戦車、軽戦闘機、自走砲などの「K防産」、すべて霧散して夢と終わる可能性も…
97:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/20(月) 18:57:22.18:YqSWSG1e0
どれくらい歩いただろう。
「はぁ……はぁっ……追っては、こないみたいよ……っ……」
「そっか、……って、急ぎ足で引っ張っちまって悪かったな。大丈夫か?」
黒猫は胸に手を当てて乱れた息を整え、
「問題ないわ。あなたは、わたしを助けようとしてくれたのでしょう?」
優しく笑んで、上目遣いに見つめてくる。
か、可愛すぎる。これ、狙ってやってんなら反則だからな?
俺は頬をカリカリ掻きつつ、
「まあ、それはそうだけどよ……つーか、お前さあ、待ち合わせの時間分かってるか?
十時だぜ、十時。早く来すぎだっつうの」
「それはあなたが偉そうに言える台詞ではないでしょう?」
分かってねえなあ、コイツ。
「お前は俺を待たせる側なの」
「とんだフェミニストね」
「バーカ。俺よりも早く来てナンパされてたら世話ねえだろうが」
107:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/20(月) 20:04:35.36:KU/Wy8bd0
「……あなたは重大な勘違いをしているわ。
わたしは千葉の堕天聖黒猫。
人間風情が束になってかかってきたところで、闇の眷属たるわたしに敵うわけがない。
もしも『頻闇の帳(ブラインドフィールド)』を展開していれば、
彼らはわたしを傷つけるどころか、わたしを認識することすらできない愚図に成り下がっていたでしょうね」
嘘こけ。
俺が駆けつけた時は思いっきり泣きそうだったじゃねえか。
ついでに言っとけば、
「今日のお前は黒猫じゃなくて、白猫だろ」
「またこの前と同じことを言うのね……白猫だったら何だと言うの?」
「電波発言は控えめにしとけってこと。
私服姿のお前がそういう台詞口にしても、全然似合わねえから」
「フン。わたしの知ったことではないわ」
黒猫は拗ねるように唇を尖らせ、胸を反らせる。
真っ白なワンピースの上で、陽光を弾き銀色に輝くロザリオ。
この前のコミケで、俺が黒猫に買ってやったものだ。
「着けてきてくれたんだな」
113:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/20(月) 20:36:37.80:KU/Wy8bd0
「あ、当たり前でしょう?」
黒猫は赤くなった顔を隠すように俯くと、
「これはあなたがわたしにくれた……初めてのプレゼントなのよ」
愛おしげに、指先でロザリオを撫でる。
その仕草は妙に扇情的で、俺はカッと顔が熱くなるのを感じた。
おいおい、ここで照れ隠しするのがいつもの黒猫だろ?
「『今日のわたしは黒猫ではなく白猫だ』と言ったのは、あなたじゃない」
繋いだ手に力が籠もる。
「ねえ……もしも……もしもあなたが望むなら……。
わたしはあなたの前でだけ、ずっと白猫のままでいてもいいわ」
ちょ、ちょっと待った!
落ち着け白猫――じゃない、黒猫!
お前最初から飛ばしすぎだよ。デート開始からまだ20分しか経ってないんだぜ?
クスリ。黒猫は妖艶に笑み、
「ふふっ、本当に騙されやすい雄ね。
わたしが自分のアイデンティティをそう簡単に捨てられるわけがないじゃない」
で、ですよねー。ほっと胸を撫で下ろしたよ。
残念な気がしなかったと言えば、嘘になるけどさ。
114:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/20(月) 20:38:52.26:H3wAquQbO
「でも……呼び方を変えることは可能よ」
視線を俺の唇に注ぎ、意味深な呟きを漏らす黒猫。
「じゃあ、これからは白猫って呼んでもいいのか?」
と真顔で訊くと、
「…………ッ」
軽蔑の眼差しが飛んできた。
えっ?俺何か間違ったこと言った?
呼び方を変えてもいいって、そういうことだったんじゃないの?
黒猫は苛立たしげに目を眇め、
「わたしたちの関係に、もっと相応しい呼び方があるでしょう?
あなたは既に知っているはずよ。
わたしの真名ではないほうの……人間に擬態しているときの、仮の名前を」
「あっ……」
ここまで言われなくちゃ分からない自分に、ほとほと嫌気がさしてくるね。
「五更……瑠璃……」
「長すぎるわ」
ここで名字を選ぶほど、俺の脳味噌は終わっちゃいない。
「瑠璃」
127:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/20(月) 21:31:55.20:KU/Wy8bd0
「そう、それでいいのよ」
黒猫は――瑠璃は満足げに頷くと、
「このままでは不公平だから……わたしも、あなたの呼び方を変えるわ」
顔を完熟した林檎みたいに真っ赤にして、
「京介」
『兄さん』でも『先輩』でもない、俺の名前を呼んでくれた。
顔面の筋肉に力が入らない。
鏡が無いので分からないが、俺の顔は緩みに緩み、鑑賞に堪えないものに成り果てているに違いなかった。
元々見るに堪えない顔だって?ほっとけや。
「瑠璃……瑠璃……」
語感を確かめるように、何度も繰り返し、黒猫の本当の名前を口にする。
ああ、瑠璃にとっては『黒猫』が本当の名前なんだったっけ。
「は、恥ずかしいから無意味に連呼しないで頂戴」
「別にいいだろ、減るモンでもないしよ」
128:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/20(月) 21:36:23.21:pZHm48Wr0
手を繋ぎ、お互いの本当の名前を呼び合う――。
ただそれだけで、瑠璃と恋人同士になったことを強く実感した。
ともすれば幸福感に酔い痴れそうになる理性を奮い立たせ、
俺は彼女に喜んでもらえそうな、午前中のデートプランを提案する。
1、秋葉原
2、自由記述
2はできれば千葉県内の観光できるところでお願い
あまりにデートスポットからかけ離れていたら自動的に1で
>>145
144:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/20(月) 21:58:46.27:pZHm48Wr0
所変わって中央公園。
「ベルフェゴールの好きそうな場所ね。倦怠と堕落の香りがするわ」
敷地内に足を踏み入れた瑠璃は、開口一番、小馬鹿にするような笑みを浮かべてそう言った。
倦怠と堕落の香りって何だよ。さっぱり分からん。
「飯の時間までは、ここでのんびりしてようぜ」
俺は瑠璃の手を引いて、池に臨んだ遊歩道を歩いて行く。
何度も言うが、ここは初見で感じるほど退屈な場所じゃない。
木漏れ日が織りなす幾何学模様や湖面で弾ける陽光が目を楽しませてくれるし、
草いきれを孕んだ涼風は、現代社会に生きることで摩耗した心を優しく撫でてくれる……って、完璧思考がジジイだわ。
無難な選択をしたつもりだったけど、退屈させてねえかな?
恐る恐る瑠璃の様子を伺うと……。
「綺麗なところね」
穏やかな表情で、そう言ってくれたよ。
言葉少なに散歩を続けていると、やがて右手に、あのベンチが見えてきた。
自然と歩みが遅くなる。
つい昨日の出来事なのに、瞼の裏に蘇る光景が、
随分と昔のことのように色褪せて見えるのはなんでだろうな。
「……あのベンチが気になるの?」
「なんでもない。行こうぜ、あっちに花畑があるんだ」
訝しげな視線から逃げるように顔を背けて、歩調を早めた。
167:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/21(火) 00:21:25.60:PCIUKWNi0
遊歩道の果て、池の一辺の延長線に沿うように作られた植え込みに近づくにつれて、甘い薫りが強くなる。
白、ピンク、赤、黄色、橙――色取り取りに咲き誇る花の中で、名前を知っているものはほんの数えるほどしかない。
それでも、大事なのは花を愛でる気持ちであって、たとえ名前を呼ばれなくても、
見られて綺麗と思ってもらえれば、それがお花にとって最高の幸せだと思う――とは麻奈実の弁。
「ここの花壇は、いったい誰が世話をしているのかしら」
「さあな。市の職員じゃないか」
「大変な作業でしょうね…………あら」
瑠璃は花壇の一角に屈み込み、何かを拾い上げた。
「何を拾ったんだ?」
「これよ」
瑠璃の手のひらの上に乗っていたのは、黄色いハイビスカスだった。
まだ落ちて間もないのだろう、踏まれた痕もなく、花びらはどれも瑞々しさを保っている。
「可哀想に。何かの拍子に落ちてしまったのね」
「貸してくれ」
「構わないけど、何に使うつもりなの?」
「いいから」
首を傾げながらも、瑠璃は俺の手のひらの上に、そっとハイビスカスを乗せてくれる。
俺はその付け根を指でつまみ、黒猫のつば広帽子の編みが粗い部分に差し込んだ。うん、いい感じだ。
「もう……」
瑠璃は一瞬、俺の勝手な装飾に文句をつけかけ、
「似合っているかしら?変ではない?」
170:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/21(火) 00:48:03.05:PCIUKWNi0
「よく似合ってるよ。マジで」
いよいよ夏の青春映画に出てくるヒロインじみてきた、とは言わないでおく。
「でも水に挿してあげなければ、すぐにでも凋萎してしまうのではなくて?」
なんだ、そんな心配してたのかよ。
「ハイビスカスはよく首飾りに使われてるだろ?
あれって、摘んでもなかなか萎れないからなんだ」
「そう。物知りなのね……きょ、京介は」
「………」
悪いな瑠璃、堪えきれそうにねえわ。
俺は吹き出した。
「な、何が可笑しいの?」
「慣れないうちは、無理して名前で呼ぼうとしなくてもいいんだぜ」
「呼ばなければいつまで経っても慣れることがないじゃない」
矛盾を突き付けられ、それもそうか、と思い直す。
てことは、これからしばらくは、ぎこちない『京介』を聞かされることになるんだな。
瑠璃はぷいと顔を背けて、さっき俺がしていたように、俺の名前を繰り返し唱える。
「京介……京介……」
なんだか背中がむず痒くなってきやがった。
おい瑠璃、本人の前で練習するのはやめろ。
176:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/21(火) 01:28:01.56:PCIUKWNi0
駅前の喫茶店で軽い昼食を取った俺たちは、電車を乗り継いで、
沙織の住む高級住宅街からそう遠くない、海辺の町にやってきた。
仄かに漂う磯の香りや爽籟の音に、いやがうえにも気分が高揚してくる……のだが、暑い。とにかく暑い。
空を薄く覆っていた斑雲はいつの間にか風に流され、
満面の笑みを浮かべた太陽は、まるで午前中の鬱憤を晴らすかのように眩い陽光を降り注がせている。
電車を降りてから数分、俺のTシャツは早くも汗でべとべとだ。
だというのに、
「瑠璃は汗一つかいてねえな」
透き通るように白い肌の上には、汗の玉どころか、しっとり濡れている様子さえ見受けられない。
マジで妖気の膜を張ってるとは思えないし、生まれつき汗腺が少ないんだろう。
「体調が悪くなったら、すぐに言うんだぞ」
「わたしの心配をする前に、自分の心配をしたらどう?
そんなに汗をかいていては、到着する前に脱水症状を起こしてしまうのではないかしら?」
空のペットボトルを見せる。
「あら、もう飲み干してしまったの?」
瑠璃は呆れたように瞬きし、しかし次の瞬間には、
はい、と自分の半分ほど中身が残っているペットボトルを差し出してきた。
いや、そういうつもりで見せたわけじゃ……嘘です、ちょっと期待してました。
「いいのか?」
「遠慮しないで呑んで頂戴。
わたしは喉が渇いていないし、あっちにも自販機の一つや二つ、置いてあるでしょう?」
223:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/21(火) 22:47:15.94:PCIUKWNi0
瑠璃の言葉に甘えて、蓋を開ける。
一口だけにしておくつもりが、我に返ってみれば、綺麗に飲み干していた。
一部始終を見ていた瑠璃は、
「子供みたいよ、あなた」
クスッと笑みを零す。
わ、悪い。飲み始めたら止まらなくってさ。
「謝ることはないわ。
遠慮しないで呑んでいいと、最初に言ったでしょう?」
「……そっか」
セスナ機の低く間延びしたエンジン音が、上空を横切っていく。
坂道の峠に差し掛かった折、瑠璃は出し抜けに言った。
「間接キスね?」
おま……、分かってても言わねーだろ、普通さあ。
「何を照れているの?小中学生じゃあるまいし」
俺をからかう瑠璃は心底楽しそうで、しかし人のことを笑えないくらい、顔を上気させていた。
「この程度のことを恥じらっているようでは、先が思い遣られるわね……きゃっ、何をするの?前が見えないじゃない!」
「不意打ちした罰だ。海に着くまでそうしてろ」
帽子のつばを目一杯下ろした――正確には下ろされた――瑠璃は泣きそうな声で、
「この状態でどうやって歩けと言うの?」
228:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/21(火) 23:24:33.90:PCIUKWNi0
「手を繋いでるから問題ないだろ」
「あなた、本気で言ってるの?」
「……冗談だよ」
帽子のつばを上げてやる。
微かに潤んだ双眸が現れ、非難するような視線を寄越してきた。
お、怒るなよ。落ち着いて俺の名前呼んでみ?
「きょ……京介」
ぷっ。
「わ、笑わないで頂戴。
それ以上笑えば、『緘黙の僕(サイレントスレイブ)』をかけざるをえなくなるわ」
「そいつはいったいどんな魔法なんだ?」
「72時間一言も口が利けなくなる恐ろしい呪いよ。無理に発声しようとすれば全身から血を吹き出して死ぬわ」
嫌な死に方ランキングがあれば余裕で上位を狙えそうな死に方だな。
俺は片手で口を塞ぎ、込み上げてくる笑いを噛み殺した。
立ち入り禁止のテープをくぐって、陽光に灼けた砂浜を踏む。
ざあ……ざあ……と響く潮騒が、耳に心地よい。
水平線では海原のエメラルドグリーンと夏空のセルリアンブルーが融け合い、その境界を曖昧にしていた。
俺と瑠璃の他に人影はなく、まるで世界に二人だけになってしまったかのような錯覚に陥る。
無骨な重機にさえ目を瞑れば、夏の海を楽しむには最高のビーチだった。
「どうやってこんな場所を見つけたの?」
「夏休みに入る少し前に、沙織が教えてくれたんだ」
232:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/21(火) 23:51:22.16:PCIUKWNi0
「沙織が?」
「ああ。瑠璃が夏コミに参加して俺たちがそれを手伝うことにならなけりゃ、
適当に都合の良い日見つけて、全員で来る腹積もりだったんじゃねえかな?」
この穴場で出来上がるまでの過程を要約すると、以下のようになる。
とある大企業が輸出業に飽きたらず観光リゾートの開発に着手、
着工からまもなく急激な円高化で企業成績は悪化、事業は縮小を余儀なくされ、
後には立ち入り禁止の看板と、乗り手のない重機だけが残された、というわけ。
「ふうん」
瑠璃は遠い目になり、
「本当に……綺麗な海ね……」
ぺたぺたと砂場に足跡をつけながら波打ち際に寄り、パンプスを脱いで素足を浸した。
抜けるような快晴のもと、瑠璃の波との戯れは、そのまま一枚の絵になるくらいに、色めいた光景だった。
絵心のない俺はその代わりにと、携帯カメラのフレームに彼女を収めた。
つば広帽子が瑠璃の精緻な顔に陰影を落とす。
海風が瑠璃のワンピースをふわっと膨らませる。
時折寄せる強い波が、瑠璃を慌てふためかせる。
235:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/22(水) 00:03:24.48:qVOnB9zkO
242:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/22(水) 00:48:15.55:N/7hYphP0
12話見た
色々と消化不良なところはあったけど桐乃可愛すぎて泣いた
この話が終わった暁には1レス30行かけて桐乃への愛を綴ろうと思う
「いつまでそこで惚けているつもり?」
「すぐ行くよ」
靴を脱ぎ、携帯をその上に乗せる。
ジーンズの裾を捲り上げて波打ち際に歩み寄ると、ひんやりとした感触がくるぶしまでを包み込みんだ。
気持ちよさに身震いしたそのとき、
「うおっ……何しやがる!?」
「ふふっ、水も滴るいい男になったじゃない?」
両手で海水をすくい、第二波の準備を完了した瑠璃が言う。
あのなあ、一つだけ言っとくぜ。
俺は巷のバカップルみてえに、砂浜でキャッキャウフフ水を掛け合ったり、追いかけっこするつもりは――
「ぶはっ」
思いっきり顔面を狙って来やがった!
口の中いっぱいに塩気が広がる。
「お前なあっ……!」
瑠璃は悪びれたふうもなく口角を上げて、
「悔しかったらやり返してみなさいな?」
243:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/22(水) 00:50:19.27:v1oTpzpTO
「おう、やってやるよ!」
俺は五秒前の発言を忘れて、両手の指を海水に浸す。
瑠璃のワンピースをびしょ濡れにしないほどの加減は弁えているつもりだ。
「おらっ」
「きゃっ……痛い……水滴が目に入ってしまったわ」
「だ、大丈夫か?」
慌てて近寄ろうとした俺を、
「フッ、愚かな雄ね。こうも簡単に騙されてくれると、張り合いが抜けてしまうじゃないの」
瑠璃は両手いっぱいの海水で迎撃する。
びしゃり。……久しぶりにキレちまったよ。覚悟しろや。
「待てコラ」
瑠璃はワンピースの裾を持ち上げて走り出す。
「人間風情がこのわたしに追いつけると本気で思っていて?」
甘いな。甘いぜ瑠璃。お前の弱点はその慢心にある。
ワンピースを濡らさないように注意を払っているが故の緩慢な逃げ足は、
既に首から上を海水に濡らし、Tシャツを汗みずくにした俺にとってはあまりに遅く、
「捕まえた」
「やっ……」
羽交い締めにされた瑠璃は、まるで触られることに慣れていない野良猫のように身を捩らせる。
254:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/22(水) 01:26:35.94:N/7hYphP0
瑠璃が抵抗の力を強めれば強めるほど、
俺は瑠璃を拘束する力を強め……いつしか、俺は瑠璃を後ろからきつく抱きしめる格好になっていた。
「……………」
「……………」
柔肌の感触や、髪から漂う甘い香りを意識した時には、もう遅かった。
胸郭を叩く心臓の鼓動が、瑠璃の背中から伝わるそれと、ぴったり重なっているように感じる。
どれほどそうしていただろう。
「あなたの妹には、もう、伝えたの?」
潮風に掻き消されてしまいそうなほど小さな声が聞こえた。
俺は黒猫の肩に顎を乗せて、
「ああ」
と頷く。
289:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/22(水) 20:01:01.97:N/7hYphP0
「ごめんなさい。嫌な役を押しつけてしまって」
「気にすんな。あいつからお前に、何か連絡は?」
「いいえ……何度かわたしの方から連絡を取ろうとしたのだけれど、
今のところは、すべて無視されているわ」
瑠璃はしんみりと言った。
「わたしとあなたの妹は、もしかしたら、もう元の関係には戻れないのかもしれない」
「弱気なこと言ってんじゃねえよ。
お前とあいつ――桐乃――は友達だろ」
「わたしはあの女と幾度となく喧嘩して、幾度となく仲直りしてきたわ。
でも、今回は違うのよ」
数拍の沈黙があって、
「わたしたちは……少なくともわたしには……妥協点を見つけることができそうにない」
いつか黒猫が言った言葉を思い出す。
『わたしにとってもっとも望ましい結果がもたらされるようにわたしなりの全力を尽くす』
その結果が現在ならば、黒猫は――瑠璃はなんとしても現状を維持しようとするだろう。
たとえその行動が、友達を失うことに繋がるとしても。
292:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/22(水) 20:43:38.76:N/7hYphP0
「勘違いしないで頂戴ね。
あの女はわたしが宵闇の加護を受けてから、初めてわたしに好敵手と認めさせた人間よ。
その関係を繋ぎ止めるためなら、わたしはどんな犠牲を捧げることも厭わない。
ただ一人、"あなた"を除いて―――」
瑠璃は俺から体を離し、
「――そこだけは、どうしても譲れないの」
どこまでも青い空を仰いで、
「あなたも、同じでしょう?」
「……ああ」
鷹揚に頷いて見せた俺を、瑠璃は一瞬、泣きそうな目で見つめ――、
次の瞬間には、強く吹き付けた海風が瑠璃の髪を攫い、その表情を覆い隠していた。
日が沈む少し前にビーチを引き上げた俺たちは、
そこから半時間ほど歩いたところにある、海鮮料理の美味しいお店にやってきた。
黒を基調としたシックな内装は、穏やかな暖色の照明に照らされて、上品な雰囲気を醸している。
294:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/22(水) 21:16:43.00:N/7hYphP0
案内に従って二人用のテーブルに着く。
瑠璃は周囲を見渡し、
「なんだか酷く場違いな気がするわ。
わたしはもっと庶民的なお店で良かったのに……」
そわそわと落ち着かない様子だ。
確かにここのメニューはどれも割高、主な客層は懐に余裕のある社会人で、
付き合い立ての学生カップルが訪れるような場所じゃないかもしれない。
でもさ、そんなことは気にするだけ無駄なんだよ。
代金さえ払えば、誰にだって美味い飯を食う権利はある。
さて、ここで問題です。
「どうして俺がこの店を選んだと思う?」
「分からないわ」
ギブアップ早っ。お前、最初から考える気なかっただろ。
「分からないものは分からないのよ。早く答えを言いなさいな」
本当は自分で気づいて欲しかったんだけど……仕方ねえか。
「瑠璃の好物は魚だろ」
「えっ」
予想外の反応に、ひやりとした不安が胸に滑り込んでくる。
あれ?違ったの?
298:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/22(水) 21:56:46.59:N/7hYphP0
瑠璃はフリフリと首を横に動かし、
「違わないわ。わたしは魚が好き……でも、どうしてそれをあなたが知っているの?」
言った覚えはないのだけれど、と不思議そうな面持ちで呟く。
まあ、忘れてても無理ないか。
「俺とお前が初めて会った日のこと、覚えてるか?」
コミュニティ『オタクっ娘あつまれー』のオフ会で、
黒猫と桐乃は他のメンバー同士の会話から見事にあぶれてしまっていた。
オフ会終了後、コミュニティの管理人である沙織の気配りによって、
俺、桐乃、黒猫、沙織の四人だけでの二次会が開かれ、互いに自己紹介をすることになったのだが、
黒猫の番、黒猫は自分の名前以上に多くを語ろうとしなかった。
そこで俺は「好きな食べ物は?」と尋ねた。
すると黒猫はいやいや義務を果たすように、しかし逡巡なく「魚」と即答してくれたのだった。
「思い出したわ」
瑠璃は頬を赤く染め、目線をあちこちに泳がせて言った。
「あなたはあの問答の内容を、ずっと覚えていてくれたのね」
ああ、と頷く。
「あの日のことは、多分一生忘れないと思うぜ」
オタクへの偏見が変わった日。
妹が自分の趣味を理解してくれる友達を手に入れた日……。
301:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/22(水) 22:26:06.24:N/7hYphP0
「ありがとう……とても嬉しいわ」
真っ直ぐなお礼の言葉が照れ臭い。
「そういうのは料理を腹一杯食った後で聞かせてくれ」
「それもそうね」
瑠璃は緩んだ表情を見られまいとするかのように顔を背けて、
「京介がこのお店に来るのは、これが初めてではないのでしょう?」
と訊いてきた。
「どうしてそう思うんだ?」
「お店に入るときに、ここは海鮮料理の美味しいお店だと、あなたが言ったのよ。
おかしな人ね。昔々のことは覚えているのに、ついさっきのことは忘れてしまうなんて」
俺だってド忘れくらいするさ。
クスクスと喉を鳴らしていた瑠璃は、ふいに思い悩むように視線を下ろし、唇を舌で湿らせると、
「……誰と一緒に来たのか、聞いてもかまわないかしら?」
304:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/22(水) 23:04:39.18:N/7hYphP0
女心の機微を"誤解"することにかけては天才的な俺の脳味噌でも分かったよ。
心の隅で縮こまっていた嗜虐欲が、ムクムクと首をもたげてくる。
海ではさんざ水を掛けられたことだし、ちょっとくらい虐め返しても罰は当たらねえよな?
「誰だっていいだろ。いちいち詮索してんじゃねえよ」
わざとぶっきらぼうに言う。
瑠璃はショックを受けたように目を見開いて、
「そ、そんなつもりで訊いたのではないのよ」
「じゃあ何のつもりで訊いたんだよ?」
「ッ、それはっ……あなたが……あなたの交友関係が気になって……」
しどろもどろに言葉を紡ぎ、湿り気を帯びた双眸で俺を見上げ、
「ごめんなさい……気分を害してしまったなら謝るわ」
やべえ。罪悪感が半端ねえ。
後で悔やむと書いて『後悔』だが、まさにそうだ。
彼女にこんな仕打ちをして楽しむつもりでいた30秒前の自分をブチ殺したくなってくるね。あやせじゃねえけど。
俺は慌てて弁明する。
「フェイトさんだよ」
瑠璃は茫然とした様子で言った。
「フェイトとはあの、伊織・フェイト・刹那のことを言っているの?」
313:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/22(水) 23:42:27.97:N/7hYphP0
「ああ、そのフェイトさんで合ってるよ」
ここで彼女のことを忘れた人のために簡単に解説していおくと、
伊織・フェイト・刹那、通称フェイトさんは、
二十代中盤のクォーターにして、スーツ姿がよく似合う理知的な美人――という華々しい外面はさておき、
内面は他人の創作物を剽窃するわ、中学生から借りた金を全額FXで溶かすわ、
収入のない高校生に飯を奢らせるわのダメダメ人間である。
盗作騒ぎで小説家への道を閉ざされた上派遣切りに遭い、
食い扶持を繋ぐことさえ困難な状況に陥っていた彼女だが、
今年の夏コミでは有名絵師の作品を一冊の本に纏めて売り捌くことに成功し、同人ゴロとしての第一歩を踏み出した。
「いったいどんな経緯で、彼女と食事することになったの?」
317:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 00:49:11.73:6bruxdXk0
「瑠璃がゲー研の自主制作してた頃に、フェイトさんに呼び出されたことがあってさ。
その時に全然金持ってないって言われて、あんまりにも可哀想だったから、飯を奢ってあげたんだ」
「あなた、自分が相当なお人好しだという自覚はある?」
瑠璃は憐れむように目を細める。
いや、マジで可哀想だったんだって!
定職ナシ貯金ナシ身寄りナシの三重苦に陥ったフェイトさん目の当たりにしてみ?
自然と涙出てくるから。
「苦境はあの女が自分で招いたものよ。同情には値しないわ」
瑠璃、フェイトさんにはホント容赦ねえなあ。
無言で先を促され、俺は話を続けた。
「実は、この前コミケでフェイトさんに会ったときに、
もしも今回の同人誌販売で大もうけできたら、その時はいつかの恩返しをするから、ってこっそり言われててさ」
フェイトさん借金あるし、金遣い荒いし、全然期待はしてなかった、
というか約束自体すっかり忘れていたのだが、
「予想以上に儲かったらしくて、ついこの前呼び出されて、連れてこられたのがここってわけ」
「同人ゴロはあの女にとっての天職だったようね」
そうみたいだな。
「調子に乗って訴えられないといいけど」
320:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 01:17:19.30:6bruxdXk0
その心配はない……とも言い切れないのがフェイトさんがフェイトさんたる所以だ。
実際、この前一緒にご飯食べた時も、
『派遣が何よ。中途採用試験が何よ。
同人で一発当てたらそんなのどうでもよくなるわ。
京介くん、今のわたし輝いてる?わたしって勝ち組よね?ねっ?』
とベロベロに酔っ払って絡んできたしな。
同人ゴロの儲けに味を占め、やり口が年々エスカレート、槍玉に挙げられる未来が垣間見えたよ。
「お、来たみたいだぜ」
話が一段落したところを見計らったかのように、注文していた料理が運ばれてきた。
お腹はもうペコペコだ。
俺たちは早口で「いただきます」を唱え、箸を取った。
瑠璃は上品な箸使いで白身魚の焼き漬けを取り分け、小さな口に運ぶ。
もぐもぐ。一心不乱に噛んでいるところが可愛い。
まるで小動物の食事風景を見ているみたいだよ。
答えが分かっていても、尋ねずにはいられない。
「どうだ?美味いか?」
瑠璃は相好を崩して頷いた。
325:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 02:11:10.80:6bruxdXk0
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トイレから戻ってくると、瑠璃は食事中の輝く笑顔はどこへやら、虚ろな目で空になった皿を見つめていた。
「何浮かない顔してるんだ」
食べ過ぎて腹痛でも起こしたか?
俺のからかいを綺麗にスルーし、
「とても、言いにくいことがあるのだけれど」
「うん?」
瑠璃はきまり悪げに俯いて告白した。
「わたしが食べた分の代金を、しばらく、立て替えておいてもらえないかしら。
食べるのに夢中になって、今日どれだけお金を持ってきていたのか、忘れてしまっていたの」
はぁ~。俺は大袈裟に溜息をついて見せる。瑠璃はおろおろとした様子で、
「ほ、本当にごめんなさい。月の終わりには、アルバイトの給料が貰えるから、必ず返すと約束するわ」
「落ち着け。あのな、いったいどうしてそういう発想が出てくるんだ?
今日は俺の奢りだよ。つーか、飯代くらい払わせろって」
さすがに交通費まで面倒見る気はないけどさ。
「そういうわけにはいかないわ。とりあえず、今お財布の中にあるお金だけでも……」
「だから、いらないっての」
なおも食い下がる彼女に、俺は止めの一言を刺してやる。
「トイレいくついでに会計済ましてきたから」
346:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 11:47:56.93:6bruxdXk0
「なっ……卑怯よ」
なんとでも言え。
ちなみにこの方法は親父殿から伝授してもらったもので、
『一緒に誰かと飯食ってて、奢られるのを嫌がられた時はどうすりゃいい?』
『用を足すついでに払っておけばよかろう』
そんな遣り取りが昨日の夜にあったのだ。
割烹店で女に財布を出させることに羞恥心をくすぐられるのも、たぶん親父の影響なんだろうなあと思う。
店を出ると、むわっとした熱気が肌を包み込んだ。
辺りにはすっかり夜の帳が下りていて、八月が終わりに近づくにつれて、日が短くなっていることを実感する。
どちらからともなく手を絡め、歩き出した。
「ごちそうさま。とても、美味しかったわ」
「おう。気に入ってもらえて良かったよ」
「…………」
それきり会話が途絶える。
察しの良いこいつのことだ、俺が無理して見栄を張っていることにはとっくに気づいているんだろうな。
夏コミや二度にわたる偽装デートなどで今月の出費は嵩みに嵩み、
今朝財布に詰めてきた諭吉と樋口さんはさっきの会計で天に召され、今では野口英世が三人残っているのみである。
小遣い日は月初めだし、しゃーねえ、明日にでも年玉貯金崩しに行くか、
高校一年、二年の暇な時期にバイトでもしときゃ良かったな……と過去の怠慢を悔いていると、
「京介」
349:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 12:26:02.50:6bruxdXk0
瑠璃がにわかに手を強く握りしめる。
俺は何気なく横を向いた。
「……んっ……」
かつ、と前歯が何かにぶつかる音がして、次の瞬間には、
ふっくらと柔らかい、まるで薔薇の花びらのような何かが唇に押し当てられていた。
とっさに身を引かなかったのは、本能がその感触を、その行為を求めていたからだと思う。
緩慢な時の流れ。
目と鼻の先にある瑠璃の顔は息が詰まるほど綺麗で、
俺はしばしその光景に見惚れ、……唐突に、『瑠璃にキスされている』ことを理解した。
どれくらいそうしていただろう。
瑠璃が背伸びをやめるのと同時に、唇を覆っていた心地よい感触も離れていく。
強い口寂しさに襲われた俺は、瑠璃の体を引き寄せようとして、
「ダメ……これ以上はいけないわ」
胸に手をつかれる。
「えっ」
その時の俺は、おあずけを食らった犬みたいな間抜け面をさらしていたに違いなかった。
「だ、誰かに見られたらどうするの。まったく、破廉恥な雄ね」
い、いきなりキスしてきて、その言い草はないだろ。
瑠璃は暗闇の中でも分かるほど、顔を耳まで真っ赤にして、
「……今のは"解呪"よ。
よかったわね。これであなたにかかっていた呪いは、新たな呪いに上書きされたわ」
351:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 12:52:57.51:/yj59s5O0
「……っふ」と邪悪な笑みを浮かべる。
校舎裏に呼び出されたとき、俺は"解呪"の方法としてキスを想像し、
心を読まれて叱られたが……やっぱ、それで合ってたんじゃねえか。
「いかに宵闇の加護を受けたわたしとて、
呪いをかけるには、直接相手に触れなければならない。
そして最上級の呪いをかけるときは、経口が一番有効な手段だと古来から言い伝えられているのよ」
早口で捲し立てる瑠璃。
ならその古来からの言い伝えに感謝しなくちゃな。
甘い空気は電波発言で綺麗さっぱり霧散しちまったけれども。
「……帰るか」
「ええ、そうね」
「一回目の呪いが解呪されたからには、もう俺がヘタレても、死ぬことはないんだよな?」
「ふふっ、何を悠長なことを言っているの?
呪いは上書きされたのよ。制約を侵せば、あなたは全身から血を噴き出し、のたうちまわりながら息絶えるわ。
いえ、この呪いはもっと強力だから、想像を絶する苦しみがあなたを襲い、
それが何時間も続いた後でようやく死が訪れるのでしょうね」
怖ええ。
「ええ、本当に恐ろしい呪いよ」
瑠璃は悪戯っぽく笑んで、再び背伸びし、今度は俺の耳許に口を近づけて言った。
「だから精々、わたしを離さないことね」
364:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 14:14:47.61:6bruxdXk0
家に帰ると、お袋はテーブルの椅子に座ってTVを眺め、
親父は一人掛のソファに座って新聞を読んでいた。
一見それは高坂家九時台の珍しくともなんともない光景のようで、
しかし同じ家に住む俺には、部屋に漂うピリピリとした緊張感が感じ取れた。
「ただいま」
「あら、お帰り、京介」
「………うむ」
挨拶を交わし、冷蔵庫へ。
常時備蓄されているはずの麦茶はどこにも見当たらず、
「麦茶、切れてんの?」
「買ってくるの忘れてたわ。今日は我慢して」
俺は仕方なしにコップに水道水を注いで喉を潤す。
ごく……ごく……。横目で伺った二人の様子は、明らかに普段と違っていた。
お袋はTVを見ているようで、ちらちらと壁時計を見ては溜息をついているし、
親父もさっきからずっと、新聞の同じページを読み続けていて、、
頭の中では全然別のことを考えていることがバレバレだった。
俺は三人掛のソファに腰掛け、あくまで顔はTVの方を向けたまま、
「桐乃は?」
親父の巌のような体が反応する。
「……知らん」
強い酒精の芳香が、つんと鼻の奥を刺した。
こりゃ相当飲んでんな。いや、お袋が飲ませたのか。
366:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 14:37:14.53:6bruxdXk0
「あの子、今どこにいるか分からないのよ」
その一言に、この部屋に漂う嫌な空気の原因が凝縮されていた。
桐乃は見た目こそ派手だが、基本的に夜遊びはしない。
たまに帰りが遅くなるときは、必ず、今どこにいるのか・いつ帰るのか連絡して、お袋と親父を安心させていた。
「電話には出ないしメールも返さないし……どうしちゃったのかしら。
京介、あんた、桐乃の行き先に心当たりある?」
「いいや」
「そ。あんたたち最近、仲が良いみたいだったから、桐乃に何か聞いてるかと思ったんだけどね」
悄然と息を吐くお袋。なんだか一気に歳を取ったみたいだ。
そんなお袋の姿が見ていられなくて、
「桐乃の友達に電話してみるよ」
俺はリビングを出て、階段に腰掛け、携帯のフラップを開いた。
メモリからあやせを選び、通話ボタンを押す。
着拒されてませんように着拒されてませんように……!
神への祈りは通じたようで、
「……もしもし?」
よかったぁ~。
声色は依然とツンツンしているが、出てくれただけでも重畳だよ。
371:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 15:05:12.42:6bruxdXk0
「あやせは今どこにいるんだ?」
「どこって……自分の部屋、ですけど……」
「そっか。じゃあ今あやせの隣に、桐乃いたりしねえかな?」
「いません」
ガクッ。これで望みの半分以上が断たれちまった。
あとは沙織に聞いて、それでダメだったら――。
「でも、少し前までは一緒でした」
「えっ!マジで!?」
「ちょっ……声が大きいです、お兄さん。今何時だと思ってるんですか?」
「す、すまん」
それから、何か言葉を選ぶような、言うのを躊躇うような微妙な間があって、
「……今日はお昼から撮影があって、
帰りに一緒に買い物をして、わたしの家で晩ご飯を食べて、
その後は、ずっとわたしの部屋でお喋りしてたんです」
はあぁぁぁ。なんだよ。フツーに友達と遊んでただけかよ。
あー、心配して損した。早くお袋と親父に話して安心させてやらねえと。
「で、今桐乃はこっちに帰ってきてるのか?」
「はい。夜道は危ないから、お母さんが車を出してくれて……」
タイミング良く、家の前に車が止まる気配がする。
「ちょうど着いたみたいだ」
373:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 15:23:24.99:6bruxdXk0
「そうですか」
「こんな時間に電話して悪かったな」
「いえ……」
「じゃあ、切るぜ」
名残惜しいが、もうあと十秒もしないうちに、桐乃が玄関の扉を開く。
あやせは無言で通話からフェードアウトするかと思いきや、焦燥を滲ませた声で、
「………待って下さい」
「なんだよ。おやすみの挨拶か?」
「ち、違いますっ!変な期待はしないで下さいと前に言ったじゃないですか。
永遠の眠りに就かせますよ?」
ええぇぇ。なんで「おやすみ」を言ってもらえると思ったくらいで永眠させられなくちゃならねえの!?
仲の良い友達同士ならごく当たり前の遣り取りですよね?
「わ、わたしはお兄さんと仲良くなった覚えはありませんから。
あのですね……わたしがお兄さんに言いたかったのは……その……桐乃に……」
「はあ?」
声が小さすぎて聞き取れねえよ。
「もっと……、優しく――」
そのとき玄関の扉が開いて、桐乃が姿を現した。
すまんあやせ、また今度聞くからよ。
心の中で謝り、携帯を折りたたんでポケットに入れる。
俺は階段から腰を上げて、のろのろと靴を脱いでいる桐乃に言ってやった。
「おかえり」
374:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 15:47:52.61:6bruxdXk0
桐乃は無言で俺の前にやってくると、光彩の失せた瞳で俺を見つめ、
「"こんなところで何してんの?"」
「何って、お前が帰ってくるのを待ってたんだよ」
「ふぅん、そう。……"待ってたんだ"……」
独り言のように呟き、
「邪魔。どいて」
そのまま隣を通り過ぎようとする。
「おい、待てよ」
手を掴んだら、
「気安く触んないでよ!」
もの凄い剣幕で振り払われた。
でも、退かねえ。掴み直して、振り向かせる。
「お袋や親父に心配かけて、ごめんなさいの一言もねえのかよ」
「………ッ」
桐乃は憎悪を宿した目で俺を睨み付け、
「分かったから、手、離して」
大人しくリビングに向かう。俺は特に深く考えずに、その後に付いていった。
375:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 15:48:30.72:29F4pjhRP
今から思えば、俺の第六感は予感していたのかもしれない。
その時の桐乃がお袋や親父に会えばマズイなことになる、と。
事実、俺はリビングに通ずるドアを開けて間もなく、
なぜ階段で桐乃と別れてからすぐに自室に籠もり、
ヘッドホンを装着して大音量の音楽を流さなかったのかと後悔することになった。
390:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 17:35:07.84:6bruxdXk0
「心配かけて、ごめんなさい」
第一声、桐乃は素直に謝った。
娘の姿を認めるやいなや、お袋は曇らせていた顔をパッと明るくして、
「もう、どこに行ってたのよ?連絡もしないで」
「あやせのところ。連絡しなかったのは……忘れてただけ」
「携帯に電話したのは知ってる?」
「電池切れちゃってて、見てない」
どうして新垣さんのお家の電話を借りなかったのか、とか、
四六時中携帯を弄ってる桐乃が電池切れを放置しておくわけがない、とか、
色々言いたかったことはあるだろうに、お袋はうん、うんと頷いて、
「お腹はどう?空いてる?」
「ううん。晩ご飯食べさせてもらったから」
「そう……」
途切れる会話。俯く桐乃。気まずいってもんじゃねえ。
それまでアクションを起こさなかった親父が、静かに新聞を畳み、ガラステーブルの上に置いた。
お袋は場を和ませようとするかのように、乾いた笑い声を上げて、
「あ、そうそう。桐乃聞いて?
あと一時間経っても帰ってこなかったら、
お父さん、自分の職場に娘の捜索願出すトコだったのよ?」
395:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 17:59:42.46:6bruxdXk0
「あはっ……おかしいね、それ……」
ぎこちなく応じる桐乃。
「マジかよ、親父……恥ずかしすぎんだろ……」
茶番だと理解しながら、俺もそれに乗っかる。
でも親父の目は、ちっとも笑っちゃいなかった。
自分をネタにされて怒ってるわけじゃない。
ただ、娘の不可解な行動のワケを、うやむやにする気がないだけで。
「桐乃」
地底から響くような声がした。
「な、なに?」
「なぜこんな時間まで、誰にも連絡を入れず遊び回っていた?」
「だ、だから……それは……ただ、忘れててただけで……携帯も電池切れちゃってたし」
とお袋に言った言葉をリピートする桐乃。
「嘘を言うな」
「……ッ、勝手に決めつけないでよ!」
「決めつけているのではない」
親父はよくできた酒豪だ。
自分が酩酊する酒量を知っていて、それ以上は決して呑もうとしないし、
事実、俺はこの人が会話もままならないほど泥酔したところを見たことがない。
つまり何が言いたいかというと、……いくら親父の体にアルコールが回ろうが、
犯罪者相手に培われた洞察眼は健在で、桐乃が真実を吐かされるのは時間の問題だってことだ。
398:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 18:29:15.05:6bruxdXk0
「さっき、新垣さんの家にいた、と言ったな。ご両親は家にいたのか」
「……いたケド……それが何?」
「お前は晩ご飯をご馳走になる前に、その旨を自宅に連絡するよう言われなかったのか?」
親父の言うことはもっともだ。
桐乃は下唇を噛み、スカートの前で絡めた両手をぎゅっと握りしめて、
「き、聞かれなかった」
「……そうか」
親父は眼鏡のレンズ越しに、鋭い眼光を桐乃に向けて言った。
「ならば新垣さんのご両親に、桐乃がご馳走になったお礼を兼ねて、
今お前が言った言葉が真実かどうか尋ねても問題はないな」
終わった。
桐乃の狼狽ぶりを見れば、桐乃が嘘を吐いていることは明らかだった。
コイツはあやせの両親に「お母さんとお父さんは揃って家を空けているんです」とかなんとか言って、
家に連絡する必要はないと思わせたに違いない。
親父はお袋に、電話の子機を取るように言った。
長年連れ添ったお袋は、こうなった親父がテコでも折れないことを知っている。
でも俺は、コイツが……桐乃が一方的に言い負かされて、言いたくないことを無理矢理吐かされるところなんて見たくなかった。
そりゃ俺だって気になるよ。
『なんで人に心配をかけるようなことをした?』
『こうしてこっぴどく叱られることは、分かってたはずだよな?』
問い詰められるモンなら、問い詰めてやりてえ。
でもさ、こんな顔してる桐乃に……今にも泣きそうになってる可愛い妹に、そんな真似できるワケねえだろうが。
「もういいじゃねえか、親父」
404:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 18:57:45.67:6bruxdXk0
気づけば、お袋の手から子機をもぎとっていたよ。
親父の極道ヅラが俺を見据える。
正直言って、チビりそうになったね。昔の俺、スゲェよ。
こんな化けモン相手に、よく胸ぐら掴んで説教かまそうなんて気になれたな。
「京介、これはお前が口を挟むことではない」
「桐乃が無事に帰ってきたんだ。今日のところは、それでいいだろ」
笑いそうになる膝に力を込めて、親父の前に立ちはだかる。
今の俺は知っている。
ありえねえくらい頑固で、ありえねえくらい堅物の親父だけどさ、
必死に訴えかけりゃあ、伝わるモンはあるんだ。
「電話を寄越せ」
「嫌だね」
これがあの日の再現に近いことは、あんたも分かってるはずだよな。
いいか、俺は折れねえぞ――と固く子機を握りしめたのも束の間、
親父は一切無駄のない挙止で俺の服を引き寄せ、ソファの上に引き倒した。
さすが、柔道有段者。勝てねえ。
ガラステーブルや床を避けてくれたのは、親父のささやかな優しさの表れか、と天井を見つめながら思う。
414:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 19:34:34.65:6bruxdXk0
親父の手が、俺の子機を握りしめている方の手に伸びる。
渡してたまるかよ。
指が全部剥がされる前に、俺はもう片方の手で、親父の胸ぐらを引き寄せた。
「何、ムキになってんだよ」
「………なんだと?」
「どうして桐乃のことを信じてやれねえんだよ」
「なっ」
親父の鬼の形相が、ふっと真顔に戻り――。
「もうっ、やめてよっ!」
耳をつんざくような桐乃の絶叫が、部屋に響き渡った。
パサリと垂れた前髪の内から、透明の雫が落ちる。
「なんであたしのことで、兄貴とお父さんが喧嘩してんの……馬鹿じゃん……?
あたし、もう十五だよ……?あたしがどこに出かけようが、いつ家に帰ってこようが、あたしの勝手でしょっ……!」
リビングを飛び出す桐乃。
「待ちなさい!」
慌ててその背中を追うお袋。
「…………」
「…………」
後に残された俺と親父は、至近距離でお互いの顔を見つめ合い、同時に顔を逸らす。
ソファに仰向けになって、眼を瞑った。火照っていた頭が、急速に冷めていくのが分かる。
422:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 20:02:27.23:6bruxdXk0
どっかと一人掛のソファに座り込んだ親父に、もはやあやせ家に電話する気は残っていないようだった。
静まり返った室内に、壁時計が時を刻む音が、やけに大きく響く。
「…………………………すまなかった」
へ?親父、今なんつった?
あー、分かった。幻聴か。
最近寝不足だったところに、体引っ繰り返されて脳味噌揺らされりゃ、幻聴がしてもおかしくねえわ。
「だから、すまなかったと言っている。
さっきは、桐乃を前後不覚に叱りつけた俺に非があった」
飛び起きたね。え……何……親父、ガチで俺に謝ってんの?
これ、夢じゃねえよな?現実だよな?
何も言わず独酌する親父。
哀愁漂うその姿を見ていると、急激に申し訳なさが募ってきて、
「俺も……さっきは、偉そうな口利いて悪かったよ」
「本当だ、このバカ息子が。
次に楯突いたときは、公妨で鑑別所送りにしてやる」
「それはマジで勘弁してください」
俺は言葉を選んで、親父に語りかけた。
「桐乃のことが心配な親父の気持ちは……よく分かるよ」
あいつが日本に帰ってきて、内心喜んでいた矢先に、
あいつが彼氏を連れてきて……まあ、結局それは無かったことになったんだけど……
親父に娘を失う恐怖を植え付けるには、十分すぎる出来事で。
娘の交友関係に必要以上に敏感になるのも、無理はねえと思う。
430:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 20:37:43.73:6bruxdXk0
でもさ。御鏡が家に来たときの話を蒸し返すつもりはねえけど、
「あいつは俺や親父が思ってるより、ずっと大人なだよ。
あいつが何も言わずにこんな時間まで遊びに出てたことには、
きちんとした理由があって、それを親父に言えなかったのにも、それなりの理由があって……。
その理由をハナからやましいことだと決めつけて、頭ごなしに叱るのはどうかと思うんだよ」
「では、もしも桐乃が嘘をついた理由が、男との逢い引きを隠すためだったとしたら、どうするのだ?
都合よく騙され、手をこまねいて見ていろと言うのか?」
「そうだよ」
「なっ……そんな馬鹿な話があるか!」
カッと両眼を見開き、怒りを露わにする親父。
そんなに怖さを感じなくなったのは、耐性が出来てきたからかもしれねえな。
「もしも桐乃に、マジで好きな男が出来たらさ、ぜってぇ家に連れてくるよ。
この前みてえにさ……。親父もあいつの性格知ってるだろ?
最初は隠せてても、そのうち我慢できなくなるに決まってんだ。
んでもって俺たちの役目は……、その時に桐乃の彼氏がどんな奴か、
桐乃を本当に幸せにできるのか、見極めてやることだと思うんだよ」
親父は水面に顔を出したカバみたいに、むふぅ、と荒い鼻息を吐いて、
「………ふっ」
笑った?親父が?
おいおいおいおい、今日の親父はどうしちまったんだよ。
手近にカメラが無いのが悔やまれるね。
親父の純朴な笑顔なんて、ガキの頃に見た以来だよ。
434:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 20:55:00.97:6bruxdXk0
「お前はよくできたバカ息子だな」
誉められてるのか貶されてるのか分からねえよ、それじゃ。
逸らしていた視線を戻すと、親父の顔は元の仏頂面に戻っていた。
俺は腰を上げて、部屋に戻ることにする。
「勉強してくる」
リビングのドアに手を掛けたその時、背中に声がかかった。
「待て、京介」
「……?」
「俺には、最近、桐乃の考えていることが分からん」
今までは分かっていたような口ぶりだな、と言えば顔面に鉄拳が飛んでくるのは自明の理、
「へえ」
と無難に相づちを打つ。
「桐乃に歳が近いお前の方が、桐乃の機微を理解してやれることも多いだろう」
「さあ、どうだろうな」
「………任せたぞ」
任されても困るっつうの。
俺は今度こそリビングを出かけて、言い忘れていたことを思い出した。
438:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 21:14:27.67:6bruxdXk0
「親父」
「なんだ?」
「彼女が出来たんだ。また今度紹介する」
親父はぽかんと口を開けていたが、
やがて色んな感情を綯い交ぜにしたような顔になり、くいっと酒を煽ると、
「……そうか」
と呟いた。え、反応それだけ?
「自室で勉強するのだろう?早く行け」
すげない言葉に背中を押され、リビングを出る。
ま、こんなモンだよな。
可愛がってる桐乃と違って、出来の悪い長男に彼女が出来ようが出来まいが、親父の関心事にはなり得ないんだろうよ……。
親父が詮索してこなかった理由は他にあるって?
分かってるさ、それくらい。
511:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/24(金) 00:31:00.71:GQjBgs+10
駅から出ると、電車に乗っているときは本降りだった雨が、小止みになっていた。
一応黒の折り畳み傘をショルダーバッグから取りだし、いつでもさせるようにしておく。
もう片方の手で携帯を弄り、BeegleMapという地図検索サイトにアクセス、
住所を入力すると、ものの数秒で駅から目的地までの最短ルートが表示される。
良い時代になったもんだよな。
雨に濡れたアスファルトを歩くこと十分。
俺は古式蒼然とした平屋の前で足を止めた。表札には『五更』の文字。
インターホンを押すと、
「どちら様ですか?」
普段より高いトーンの声で瑠璃が答えた。
「俺だよ」
「………少し待っていて」
516:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/24(金) 00:58:42.60:GQjBgs+10
俺はインターホンから顔を離し、改めて平屋――瑠璃の家――を眺めた。
壁の漆喰はところどころ剥がれ、屋根板は赤銅色に褪せていて、
素人目にも、かなり古い建物であることが分かる。
キコキコという甲高い音が聞こえて、視線を下ろすと、瑠璃が小さな鉄門の閂を外しているところだった。
「さ、入って頂戴」
「あ、ああ……でも、その前にひとつ聞いていいか?」
俺は瑠璃が着ている、白のラインが入った臙脂色の服を見つめて、
「なんでジャージ?」
しかもしれ、市販の奴じゃなくて中学校の指定ジャージだよな。
瑠璃はむっと頬を膨らませ、
「こ、これは部屋着よ。
機能性に富み着用者の運動を妨げない、最高の衣類だと思わない?」
まあ、確かにその通りだけどよ……。
「あっ、それ」
俺は瑠璃の胸元で笑う黒猫のワッペンを指さし、
「瑠璃が自分で着けたのか?」
「よく気づいたわね。でも、勘違いしないで頂戴。
これは決して繊維の解れを隠すためのものではなくて、
わたしが闇の眷属であることを証明するのと同時に顕界への影響を抑えるための封印具だから」
ああそう。
522:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/24(金) 01:39:09.23:GQjBgs+10
瑠璃は「分かればいいのよ」と満足げに頷き、俺を家に請じ入れてくれた。
さて、今更ながら、俺が瑠璃の家にやってきた理由を説明しておこう。
初デートから二日が経ち、俺は二回目のデートを提案したのだが、その時に瑠璃が宣った台詞がコレである。
『明日は……家に親がいないの……それで、あなたさえよければ……わたしの家に来てもらえないかしら?』
クラリとしたね。
お前マジで言ってんの?いくらなんでもそれは早すぎじゃね?俺にも心の準備ってモンが……。
『母さんが一日仕事に出ていて、妹の面倒を見なければならないのよ』
脳髄を沸騰させていた自分が恥ずかしくなったよ。
でもさあ、あんな言い方されたらエッチな想像しちゃうよね?
ガラガラと引き戸を閉め、土間で靴を脱ぐ瑠璃。
「お邪魔します」と挨拶して、その後に続く。
俺が歩くと盛大に軋む床板の上を、瑠璃は足音ひとつ立てずに進み、やがて右手の障子を開けた。
するとそこにいたのは、
1 五更家の次女と三女だった
2 五更家の三女だった
>>525
描写配分分岐
黒猫シスターズはアニメ9話準拠です 寝る
525:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/24(金) 01:40:51.60:Jm2PegOu0
五更家の次女と三女……でいいんだよな?
身長と顔つきから判断するに、
やや茶色がかったセミロングの髪をツインテールにしてるのが次女で、
真っ黒な髪を肩口で切りそろえ、おかっぱにしているのが三女だろう。
「こ、こんちわ~」
なるたけ愛想の良い笑みを浮かべてみたが、
二人ともぽかーんと口を開けて、突然の闖入者に驚きを隠せない様子だ。
おい瑠璃、俺が来ることは話してなかったのかよ!
「ル、ルリ姉……この人がもしかして……?」
次女が酸欠に陥った金魚みたいに口をパクパクさせて、姉に問いかける。
瑠璃は軽く頬を朱に染めながら、尊大に頷き、
「ええ、そうよ。この人の名前は高坂京介。わたしの、か、彼氏よ」
「ホントにいたんだ!……えーウッソー、すっごぉい。絶対またルリ姉の見栄っ張りだと思ってたのに!」
次女はととと、と俺の近くに寄ってくると、矯めつ眇めつ俺の顔面を眺め、
「へぇ~、これがルリ姉の彼氏かぁ~。
あ……自己紹介遅れてすみません。あたし、ルリ姉の妹の――」
瑠璃、という長女の名前から想像はついていたが、小難しい漢字の名前だな。
565:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/24(金) 12:02:58.79:GQjBgs+10
「よろしくお願いしますね!」
「おう、よろしく」
人懐っこい笑みを浮かべる次女。
瑠璃の妹とは思えない社交性の高さだな。
つーかこの次女のテンション、誰かのと似てねえ?
俺が正体不明の既視感に頭を悩ませていると、
「しっこく!」
舌足らずな声が居間に響き渡った。
見れば、それまで固まっていた三女がピッと俺を指さして顔を強張らせていた。
あれ……もしかして俺、怖がられてる?あと『しっこく』って何だ?
最近流行りの悪口か何かか?
「しっこくがいます、姉さま!」
瑠璃は困ったように溜息を吐いて、
「あ、あれはただのコスプレ……変装よ。
彼は魔導資質を持たないただの人間。魔法は使えないわ」
ああ、電波ワードで分かったよ。
なるほど、三女は同人誌のコスプレ写真を見て、俺の顔を知っていたんだな。
『MASCHERA~堕天した獣の慟哭~』に登場するキャラクター『漆黒(しっこく)』として。
568:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/24(金) 12:32:33.75:GQjBgs+10
「この人はルリ姉の彼氏。さっき聞いたでしょー?」
三女は可愛らしく小首を傾げて、
「かれし……とはなんですか、姉さま?」
純真無垢な質問に、うぐ、と声を詰まらせる次女。
「それは、えっとねえ……友達よりも、もっと仲良くなったのが、彼氏、かなぁ……?」
うまい!
三女は納得したようにパァッと顔を輝かせると、おもむろに俺の顔を見つめて、
「姉さまのかれしは、兄さまですか?」
なんでそうなる!?今論理に大きな飛躍があったぞ!
「まあ、長い目で見ればそうかもねえ」
次女もさり気なく同意してんじゃねえ!
あやせに桐乃の兄という意味で『お兄さん』と呼ばれるのと、
瑠璃の妹にそのままの意味で『兄さま』と呼ばれるのでは、全然意味が違ってくる。
俺が『兄さま』って呼ばれることを、コイツはどう思ってんのかな……と隣を見ると、
「お、お茶を用意するから、適当に座って待っていて頂戴」
瑠璃は居間と直接繋がっている台所に行ってしまった。
どうしたもんかね、と突っ立っていると、「どうぞ」と次女が座布団を敷いてくれた。
574:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/24(金) 13:14:29.35:GQjBgs+10
腰を下ろし、部屋をぐるりと見渡してみる。
居間は畳八枚の不祝儀敷き、中央に方形のちゃぶ台、その正面には小さなブラウン管型テレビ、
部屋の角には木製の収納棚が二つあって、その隣に渋い色の座布団が数枚積み重なっている。
麻奈実家の居間と似ているが、どことなく暗い感じがするのはどうしてだろうな。
首を傾げつつ視線を右下に転じると、畳の上に、画用紙が何枚か散っていた。
これは……見たままに言うなら、ピンク色の人……か?
俺はさらにその横で、創作活動に励んでいる三女に問いかけた。
「何を描いているんだ?」
「メルル!」
おお、言われてみれば確かにメルルだ。
ピンクのバリアジャケットにピンクのツインテール……。
「そっくりじゃねえか」
にぱー、と笑顔を咲かせる三女。
「メルルが好きなのか?」
「はいー!」
俺の妹と気が合いそうだな。
「兄さまも、メルル好きです?」
575:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/24(金) 13:33:06.50:fuKIcvr+O
「あんなガキ向けのアニメ好きでも嫌いでもねーよ」と本音を漏らすワケにもいかず、
「俺の家族の一人が大好きなんだ。だから、少しならメルルのことが分かるぜ」
「じゃあ、これは誰ですか?」
画用紙を手渡される。
黒のバリアジャケットに黄色のツインテール、か。
「アルファ・オメガだ」
「正解です。じゃあ……これは分かりますか?」
二枚目。
人型を作る枠線の中身は肌色で塗りつぶされ、
背中には一対の黒の翼が描かれている。少し悩んだが……。
「ダークウィッチ『タナトスエロス』EXモードだ」
「すごいです!」
注がれる尊敬の眼差し。
背中から別の視線を感じて振り返ると、次女が複雑な面持ちで俺と三女の遣り取りを見つめていた。
ち、違う!俺は断じてメルルの『大きなお友達』じゃねえ!
613:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/24(金) 19:24:22.59:GQjBgs+10
「あっ、別に隠さなくてもいいですよー。
ルリ姉があんなふうだから、京介さんもそんな感じなんだろうなあって思ってましたし」
「いや隠してねえから!」
エロゲのプレイ歴があったりアニメの話にそこそこついていけたりと、
一般人の域は超えているかもしれねえが……俺はまだグレーゾーンにいる。
うん、いるはずだ。
だからそのちょっと憐れむような視線をやめてもらえませんかね?
「そういえば」
と次女はポンと手を打って、話題を変える準備をした。
あーあ、こりゃ絶対誤解されたまんまだよ。
「ルリ姉とはどうやって知り合ったんですか?」
「話せば長くなるんだが……『オタクっ娘集まれ~』ってオタクの女の子限定のコミュニティがあってさ、
そこの管理人が去年の春頃にオフ会を開いて……」
「そこに京介さんも参加したんですか?男なのに?」
してねえ。なんで俺が参加したっていう発想がナチュラルに出てくるんだ。
「俺は遠目で見てただけ。参加したのは俺の妹だよ。
たぶん、瑠璃が持ってる写真で見たことあるんじゃねえかな?
髪の毛を明るい茶色に染めて、ピアスしてるんだけど」
「あぁ~、分かりました。ルリ姉の親友ですね」
親友、か。
「俺はそいつの兄貴。
オフ会をきっかけにウチの妹と瑠璃が連むようになって、その流れで俺と瑠璃も……」
616:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/24(金) 19:44:45.47:GQjBgs+10
「何の話をしているの?」
台所から戻ってきた瑠璃が、ちゃぶ台の上に人数分のお茶と、お茶請けを乗せていく。
「ルリ姉と彼氏さんの馴れ初め聞いてたところ。
でも京介さん、終盤のほう端折りすぎ。もっと詳しく聞きたいなぁ~……痛ッ!」
デコピンが炸裂し、次女は両手で額を押さえる。マジで痛そうだ。
「余計なことは聞かなくてもいいのよ」
「えぇ~、こういうコト聞かないと、ルリ姉が彼氏連れてきた意味がないじゃん」
「わ、わたしは何もあなたたちに見せびらかすために、この人を家に呼んだわけではないわ」
「じゃあ、何のため?」
瑠璃は困ったような顔になって、口を噤む。
救難信号を察知した俺は言ってやった。
「妹二人を家に残して遊びに出かけるのが不安だから、俺を家に呼んだんだよな?」
妹想いの良いお姉ちゃんだよ。
うんうん、と頷いて顔を上げると、次女は懸命に笑いを堪え、
瑠璃は顔を赤くし、怒気を孕んだ横目で俺を睨み付けていた。
あ、あっれぇ~、俺何か失言しちゃったかなぁ~?
621:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/24(金) 20:23:08.42:GQjBgs+10
一人事情が飲み込めていない俺のために、次女が解説してくれた。
「ウチはお母さんがほとんど毎日仕事に出かけてて、
子供だけで留守番させられるのなんて、日常茶飯事なんです」
お絵描きに夢中になっている三女を見て、
「さすがにこの子一人だけ残すことはないですけど、
あたしとこの子だけでお留守番するのは、これまでにも何度もあったことでぇ……ぷくくっ」
次女は止めの一言を刺した。
「妹をダシに彼氏を家に呼び込むとか、ルリ姉も考えることがコスいよねえ」
「…………」
わなわなと肩を震わせる瑠璃。
あー、瑠璃?
嘘をつかれたことに関しては、俺は全然怒ってねえし、
むしろそうまでして呼びたかった瑠璃の気持ちが知れて嬉しかったっつーか……。
瑠璃はキッと次女を睨み付け、
「わたしの部屋に行きましょう」
すっくと立ち上がり、障子に手を掛ける。
「えぇー、もう行っちゃうの?
もうちょっとここでゆっくりしていきなよー。jこのお茶、どうするの?」
「あなたが三人分呑めばいいでしょう。
あと、その子がお昼寝するまで、傍から離れることを禁ずるわ」
632:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/24(金) 20:58:14.80:GQjBgs+10
「様子を見に行くのもダメ?」
「もしも覗いているところを見つけたら、
その瞬間に『紅蓮地獄(セブンス・ヘル)』に『強制転送(トランスポート)』するわよ」
「はいはい。心配しなくていいよ、あたしはずっとここでテレビ見てるからさ」
さすが瑠璃の妹、電波受信した姉の扱いも手慣れてんなあ。
俺が立ち上がると、おもむろに三女が顔を上げて、
「兄さま」
どうした?
「ごゆっくり」
「お、おう……」
言いたいことは言ったとばかりに、黒のクレヨンを握り直し、お絵描きを再開する。
今三女の手元にある画用紙は、散らばっているそれらよりも幾分大きめで、
それに伴って絵も巨大化し、現時点では何のキャラクターを描いているのかさっぱり見当がつかなかった。
「何をぐずぐずしているの?」
瑠璃に急かされ、廊下に出る。
「不躾な妹たちでごめんなさいね」
「いい妹じゃんか。瑠璃の趣味も認めてくれてるみたいだしよ」
662:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 00:13:34.49:BzHnjpPT0
「あれは認めているとは言わないわ。
意見の相違を理解した上で、衝突しないように議論を避けているのよ」
「どっちが?」
「妹の方が、に決まっているじゃない」
本当かなあ?
「下の妹はどうなんだ?」
「闇の加護を受けるに相応しい魔力資質の持ち主よ。
いまのところ、わたしが与えた魔導具は、全て完璧に使いこなしているわ。
唯一心配なのは、上の妹の影響を受けて、俗に染まってしまうことね。
それだけは何としても止めるつもりだけど」
いやそこは俗に染まらせてやれよ、という言葉を呑み込み、代わりに溜息を吐いた。
しばらく歩くと、裏手の縁側に出た。
庭には瑠璃の親の趣味なのか、盆栽がいくつか置いてあって、小雨に体を濡らしている。
「こっちよ」
瑠璃は縁側の最奥で足を止めた。
右手の障子を開けば、多分、そこが瑠璃の部屋なんだろう。
ゴクリ。唾を飲み込む音がやけに大きく頭の中に響く。
き、緊張すんなあ。
同じ女の子の部屋でも、麻奈実の部屋に入るときは全然意識しねえのに。
「入って頂戴」
俺の葛藤を余所に、瑠璃はあっさりと障子を開けた。
そろりと足を踏み入れ、部屋を見渡す。
668:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 01:01:09.26:BzHnjpPT0
床は居間と同じような畳敷きで、四方のほとんどが障子と襖という純和風な造りだが、
畳の上に敷かれた薄緑色のカーペットや、茶色の文机やノートパソコンなど、
洋風な調度が多いせいで、全体としては和洋折衷の趣を醸している。
中でも特に浮いているのがパイプ椅子で、
文机とセットになっていたはずの椅子はどこに消えたのかと首を傾げずにはいられない。
「これに座って」
振り返ると、別のパイプ椅子が展開されていた。
瑠璃は無言で文机に着き、俺に背を向けてノートパソコンを立ち上げる。
なぜにパソコン?まさか俺を放置してネットサーフィンするつもりなの?
不安に駆られて瑠璃の表情を伺うと、頬がかすかに上気していて、
平静を装っている裏で、俺と同じように緊張していることが分かった。
女の子の扱いに慣れた男なら、ここで場を和ませる冗談でも飛ばせるんだろうが、
悲しいかな、俺にそんなトークテクニックの持ち合わせはない。
早く何か言わねえと――焦れば焦るほど言葉は出てこなくて、
適当に視線を彷徨わせていると、やがて文机の上に、面白いものが乗っていることに気が付いた。
「マトリョーシカ……しかも黒猫の……お前、本当に猫が好きなのな」
671:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 01:41:31.76:BzHnjpPT0
瑠璃は五匹いる猫のうち、一番小さいものを手に取って、
「猫はやはり黒猫に限るわ。
これは……これはね、母さんにもらったものなの」
ふにゃりと表情を崩す。
「思い入れがあるモノなのか?」
「昔々……わたしがとても辛くて寂しい思いをしていたときに、
このマトリョーシカが元気づけてくれたの。幼心とは単純なものね。
入れ子を取り出して並べるだけで、寂しさを紛らわせることができるのだから」
辛くて寂しい思い出なんて、わざわざ思い出したくもねえし、話したくもねえだろう。
俺はマトリョーシカの話題から離れるために、今この家にいない人物について尋ねることにした。
「そういや瑠璃のお母さんは、どんな仕事をしている人なんだ?」
「駅の近くで飲食店を経営しているわ」
「へぇー、すごいじゃん」
「自営業と言えば聞こえはいいけれど、維持するのが精一杯の、本当に小さなお店よ。
人手が足りないときは、わたしもホール仕事を手伝わされているの」
「もしかしてアルバイトって、そのことを言ってたのか?」
こくん、と頷く瑠璃。
なるほどな、親の店の手伝いをしてたなら納得だよ。
前々から不思議に思ってたんだ。
労働基準法に抵触せずに、中学生の頃の瑠璃にも出来たアルバイトっていったい何なんだろう、ってさ。
708:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 10:28:49.39:BzHnjpPT0
じゃあお父さんは――と尋ねようとした時、丁度パソコンが立ち上がった。
壁紙はもちろんマスケラで、『漆黒』と『夜魔の女王』が背中合わせになって夜空を見上げている。
線が緻密なうえ、色使いも巧みで、素人目にもレベルの高い絵だということが分かった。
一見すると公式絵にしか見えない。
「有名なイラストレーターが、趣味で画像投稿サイトに投稿したものよ」
噂に聞くプロの仕業ってヤツか。
「今のわたしには、どれだけ時間を費やしても、これに匹敵する絵を描くことができないわ。
アマチュアが本気になっても描けない絵を、プロは片手間に描けてしまう。
悔しいけれど、それが現実よ」
自分に言い聞かせるようにそう言って、
瑠璃は滑らかなマウス捌きでランチャーからフォルダを選択し、そこからさらに深い階層に潜っていく。
途中、中身が何もないフォルダに行き着き、ここで終わりかとおもいきや、
瑠璃がフォルダオプションを弄るとそれまで見えなかった隠しフォルダが表れて、溜息が出た。
カチ、カチ、カチ――。
小気味良いクリック音に眠気さえ感じてきたころ、ようやく瑠璃の手が止まる。
画面に表示されているフォルダの名前は……『創作』。
711:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 10:56:00.93:BzHnjpPT0
「近くに来て頂戴。ええ、そうよ。椅子ごとね」
文机の下の右半分はキャスター付きの収納箱が占めていて、
左半分のスペースに足を差し入れようとすると、必然的に瑠璃と密着する形になってしまう。
「せ、狭くねえ?」
「あなたが体を小さくすれば無問題よ」
瑠璃は実に淡々としている。
まあ、この前のデートであれだけ"恋人らしいこと"をすれば、
肩が触れあうくらいのことで、恥ずかしがったりはしねえよな……。
つうか、この『一つのノートパソコンの前に二人で寄り合う』シチュエーション、
なーんか懐かしい感じがすると思ったら、
桐乃が海外に行っちまう前の晩に、あいつの部屋で体験してたんだった。
「これからあなたに見せるのは……」
瑠璃は数秒言い淀み、
「わたしが、去年から書きためていた小説よ」
『創作』フォルダをダブルクリックする。
中に置かれていたのは、ワードファイルが一つと、画像ファイルがいくつか。
715:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 11:34:05.41:BzHnjpPT0
マウスの使用権をもらい、ワードファイルを開いて最初に思ったことは……。
スクロールバー短けえ!
40文字×34行の書式で軽く100枚はありそうだなオイ!
これ、今から全部読むの?
俺文章読むの遅えし、読み終わる頃には日が暮れてんじゃねえかな?
しかし一度ファイルを開いちまった手前、
『また今度ゆっくり読むわ』
と言えるわけもなくて、半ば諦めの境地で、最初の一行に目を通した。
ちなみに適当に読み流そうなんて考えは、ハナから無かったよ。
闇の眷属たる"私"が、"此方の世界"へと移行(シフト)したのは、春の匂いを色濃く残す五月のことだった――。
冒頭を読んだ時点で嫌な予感がしたね。
こりゃまた難解用語がポンポン出てきて、読者を置いてきぼりにするパターンかな?
じいっ、と横頬を刺す瑠璃の視線を意識しないようにしつつ、先を読み進める。
別世界で幾千もの天使を殲滅し、生きとし生けるもの全ての頂点に君臨していた闇の女王は、
信頼を置いていた部下に裏切られて肉体を失う一刹那前、
辛うじて精神体を転移させ、別世界の人間に憑依することに成功する。
716:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 11:55:07.66:0+9eU2Je0
憑依した人間は、"此方の世界"の住人にしてはそこそこ魔力資質に恵まれている15才の少女。
"彼方の世界"の自分と似通っている、雪色の肌と闇色の髪を姿見で認め、闇の女王は深い溜息を吐く。
誰よりも魔術の深淵に通暁している彼女だが、
借り物の体では、"彼方の世界"の百分の一ほどの力も発揮できない。
しかもこうしているうちにも、かつての部下や天使どもが、
続々と"此方の世界"に転移し、今度こそ完全に彼女の息を止めるべく暗躍しているに違いないのだ――。
存外、スイスイと導入部を読み終えることができた。
小難しい漢字や表現が多いのは相変わらずだが、
注釈が必要なオリジナルワードは今のところ出てきていないし、
主人公も最強から最弱になってしまったという、成長の余地を大きく残している設定で、
また主人公の命を狙う刺客の存在が、ストーリーに微妙な緊張感を与えている。
闇の女王は少女としての生活を営みながら、元の世界に帰還する方法を探すことにした。
方法には二種類ある。"此方の世界"のどこかに存在する『世界を繋ぐ者(コネクター)』を発見するか、
日々借り物の体で生み出される微々たる魔力を蓄積し、『転送魔法』を使うか。
前者を達成できる確率はゼロに等しく、後者は現実的だが、達成するのに数年もの時間を要してしまう。
"此方の世界"で魔力を譲渡してくれる協力者が見つかればいいのだが……。
自分と同じように、"彼方の世界"の刺客が"此方の世界"の住人に憑依している可能性を考えると、
安易に他人と接触するのは、とても愚かしい行為だと言えた。
そうして、闇の女王は孤独でいることを選択した。
闇の女王の考えは分かるけどなぁー……。
それでぼっちになった宿主の少女があんまりにも不憫じゃね?
いつか憑依が解けたとき、自分がコミュニケーション不全のレッテル貼られてると知ったら絶望するしかねえわ。
721:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 13:26:56.84:BzHnjpPT0
それからしばらくしたある日のこと、
闇の女王は、自分の考えがあまりに甘かったことを思い知る。
眼前の輝かしい容貌を持つ少女が"熾天使(ウリエル)"の成り変わりであることは明白だった。
正規の手続きを踏んで『転移』した天使は、その魔力を失わない。
弱り切った私の息の根を止めることなど児戯にも等しいはず――。
スクロールすると、挿絵が表れた。
視線を交わす『闇の女王』と『熾天使』。
誰がモデルかは言わずもがなだが、表情の描き分けがスゲー上手い。
瑠璃――じゃなくて闇の女王の歯軋りしている口元とか、桐乃――じゃなくて熾天使の見下すような目とかさ。
絶体絶命の状況。
しかし熾天使は威圧するような態度を崩すと、害意が無いことを伝えてきた。
なぜ殺さないの?と訝しむ闇の女王に、熾天使は自嘲の笑いを漏らして告白した。
熾天使は"彼方の世界"で偶然、闇の女王の部下と天界の神による『恐ろしい策謀』を知ってしまった。
そのせいで殺されかけたが、精神体だけを"此方の世界"に転移させることで、生き延びた。
つまり熾天使は闇の女王と同じく、魔力をほとんど失ってしまっていたのだ。
へぇ、意外な展開だな。
俺は黙々とスクロールする。
730:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 14:29:58.87:BzHnjpPT0
恐ろしい策謀の内容はこうだ。
闇の女王の部下は、闇の女王亡き後は自分が地上を支配し、
それを邪魔されないことを条件に、天界の神に女王の弱点を教えることを提案した。
闇の女王に脅威を感じていた天界の神々は渋々その条件を呑むことにしたが、
それを認めない上級天使が何人か存在した。
神々は熟考の末、彼らを犠牲にすることを決めた。
闇の女王が肉体を失い、別世界に逃亡したことが判明すると、
神々はその上級天使たちに、すぐさま女王の後を追い、始末するよう命じた。
次々と正規ゲートから『転移』する上級天使たち。
しかし今やそのゲートは閉ざされ、仮に精神体だけ『転移』させて戻ってくることができたとしても、
元の魔力は失われ、最下級の天使に憑依するのが精一杯の状態になっていることだろう。
そう、不意打ちによって闇の女王の体が滅し、その精神体を逃がすことは最初から予定通りだったのだ……。
挿絵二枚目。闇の女王の部下が神々と交渉しているシーン。
丸っこい顔に邪悪な笑顔を浮かべた眼鏡っ娘は、これまた誰をモデルにしているのか一目瞭然だった。
なんで麻奈実なんだ?こればっかりは配役間違ってるだろ。
闇の女王は『世界を繋ぐ者(コネクター)』を探し出せる特殊な広域検索魔法を知っているが魔力が無い。
対して熾天使の憑依した人間は、魔力生成資質に富み、
数日経てば広域検索魔法を一度発動するだけの魔力が溜まる。
二人は一刻も早く"彼方の世界"に戻るため、停戦協定を結ぶことにした。
熾天使が味方になれば、怖いものナシじゃね?と思ったが、安心するのはまだ早かった。
始末命令を受けた上級天使は、自分たちが神々から切り捨てられたことを知らない。
襲い来る上級天使に必死で真実を説明しようとするも、逆に裏切り者扱いされる熾天使。
734:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 14:52:29.01:BzHnjpPT0
時に啀み合い、時に助け合いながら逃避行を続けるうちに、
闇の女王は熾天使に情を移しつつある自分に気が付いていた。
闇の眷属と光の使者の友情など前代未聞だ。
そんな女王の葛藤とは無関係に、熾天使の魔力は溜まり、広域検索魔法を発動する時がやってきた。
熾天使と自分の両手を合わせ、魔力を譲渡してもらう。
どんなに多く見積もっても、この弓状列島に『世界を繋ぐ者(コネクター)』が存在する確率は千分の一以下。
しかし奇跡は起きた。
なんと熾天使が憑依した少女の兄が『世界を繋ぐ者(コネクター)』だったのである。
なんつうご都合主義。
てかそんなにすぐ近くにいるならもっと早く気づけよ――という突っ込みは呑み込んで、スクロールを続ける。
挿絵に描かれていた『少女の兄』を見てももう驚かなかったね。
どう見ても俺です本当にありがとうございました。
741:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 15:38:30.32:yJ1KgvPZ0
744:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 15:50:14.43:BzHnjpPT0
『世界を繋ぐ者(コネクター)』の能力は、夢を介することで、
ある世界の住人の意識を、別の世界に『転送』することができるというものである。
しかもその際、転送先の世界の『事象記録(イデア)』を読み出し、
その住人の肉体を復元できるというチート性能で、
つまり闇の女王と熾天使は、"彼方の世界"で失った肉体も一緒に取り戻すことができる。
しかし能力には制限が付き物で、一度に『転送』できる意識体はひとつまで。
しかも一度転送が成功すれば、強い脳への負荷によって、術者は能力を失ってしまう。
強い脳への負荷って……大丈夫なのかよ。
植物状態になったりしねえよな。
長い話し合いの末に、闇の女王と熾天使は、『世界を繋ぐ者』に選択を委ねることにした。
結局は、『世界を繋ぐ者』がどちらの夢を見るかで、どちらが転送されるかが決まるのだ。
そして、夜。
簡易魔術で転送先である"彼方の世界"の光景を『世界を繋ぐ者』の意識にすり込んだ後、
闇の女王と熾天使は、同じベッドに横になり、同じ天井を見つめていた。
闇の女王は約束する。もしも自分が"彼方の世界"に戻ることができたら、
一度だけ闇の眷属の掟を破り、熾天使の肉体を復活させると。
熾天使は約束する。もしも自分が"彼方の世界"に戻ることができたら、
一度だけ光の使者の掟を破り、闇の女王の肉体を復活させると。
745:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 15:56:44.57:JmBiyZLDO
気づくと、闇の女王は一糸まとわぬ姿で、暗い闇の底に横たわっていた。
全身には活力が漲り、魔力も元に戻っている。
――『世界を繋ぐ者』は私を選択したのだ。
辺りには噎ぶような腐臭と血の匂いが立ち込めていた。
恐らく私の死体は、散々弄ばれた後でこの掃き溜めに打ち捨てられたに違いない。
怒りがふつふつと沸き上がってきたが、
今は自分を不意打ちした天使や、かつての部下への復讐を忘れて、復活の儀を執り行う。
なぜ膨大な魔力の三分の一を消費してまで、自分の天敵である熾天使を復活させるのか?
答えはひとつ――友達と約束したからだ。
儀式が終わると、自分と同じく、胎児のように手足を折りたたんだ熾天使の裸体が顕現した。
『転移魔法』を発動し、"彼方の世界"で待っている熾天使の意識体を、"此方の世界"に引き寄せ、肉体に定着させる。
瞼が震え、熾天使が目を開ける。
お互いを認めると、自然に笑みが零れた。
本当なら殺し合って然るべき関係。でも今は……今はまだ……。
熾天使は純白の翼を、闇の女王は漆黒の翼を広げ、しばし同じ空を飛んで、別れた。
熾天使が今回の策謀を『最高神』に訴えれば、計画に荷担した神々は罰せられ、
上級天使たちは"彼方の世界"から"此方の世界"に、力を失わずに戻ってくることができるだろう。
そして私はこれから、私の玉座に我が物顔で座っている裏切り者の体に、深い後悔を刻みつけに行く。
その後、数千年にわたる天界と下界の抗争が、
当代の闇の女王と熾天使が橋渡しとなって終息することを、その時の私は知る由も無かった。
終わりかと思いきや、物語にはまだ続きがあった。
憑依されていた間の記憶を失った少女は、
しかし『世界を繋ぐ者(コネクター)』と触れたことで、
自分が数多の世界に鏡写しのように偏在し、"女王"であり"騎士"であり、そして"黒き獣"であることを知る。
752:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 16:51:53.07:BzHnjpPT0
春の匂いを色濃く残す五月。
少女は"女王"を模した黒い衣装を手作りし、身に纏う。
彼女が熾天使に憑依されていた憐れな少女と、
その兄――かつての『世界を繋ぐ者』――と再び出会うのは、それから少し先の話である。
了
お、終わった。俺は今モーレツに感動している。
ストーリーに、じゃねえ。厨二成分が濃縮されたこの物語を一息で読み終えた自分に、だ。
766:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 17:58:17.08:BzHnjpPT0
瑠璃と瀬菜がノベルゲー『強欲の迷宮』を作る過程で
テスターとして、延々鬱になる文章を読まされたときは、
まだ……なんつーか、こう……作業感みたいなものがあったんだが、
今回は一つの完成作品を精読したわけで、読後の疲労感がまるで違う。
「感想を聞かせてもらってもいいかしら」
「ちょっと待ってくれ。頭の中でまとめてるから」
俺は眉間をもみつつ、
「文章は、読みやすくなってると思う。
専門用語や辞書引かなきゃ分からんねえ漢字は……、
まあ、あるっちゃあるけど、昔に比べりゃ随分少ないし」
768:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 18:28:11.62:BzHnjpPT0
ちなみに比較対象に挙げてる作品は、
去年の冬、瑠璃がメディアスキー・ワークスに持ち込んだマスケラの二次創作だ。
「話の内容は、王道から逸れてていいんじゃねえかな。
簡単にまとめりゃ、魔法の世界から、こっちの世界にやってきた闇の女王が、
本当は宿敵の天使と協力して、元の世界に帰るために頑張る話で……。
最後は……ハッピーエンド……なんだよな?」
自信がなく疑問符をつけてしまったが、瑠璃は何も言わず、
「それで?」とでも言いたげな目で俺を見上げてくる。
「登場人物は………もうちっとオリジナリティのあるキャラクター使った方が良くね?
挿絵の登場人物とか、一目でモデルが誰か丸わかりだしよ……。
あっ、絵はかなり上手くなってたな!」
これは読後に絶対誉めてやろうと思っていたことだった。
安易な萌えに走らない、人物の特徴を捉えた写実性重視の挿絵は、
物語の描写とぴったりマッチしていた。……あ、女王の家来役の麻奈実は例外な。
パソコンのすぐ後ろに視点をずらせば、
絵や文章のかきかたに関する本がずらりと並んでいて、
瑠璃の画力と筆力は日々の努力の賜なんだな、と再確認する。
「話の大筋はこのまま、要所要所を分かりやすい描写に変えてさ、
あと、登場人物の心理描写を若干増やせば……」
「もういいわ」
769:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 18:34:21.56:vDR+4ma20
瑠璃はそう呟くと、パソコンの電源を落とした。
は、はぁ?
俺は、お前が感想を聞かせてくれって言うから――。
「わたしはアドバイスが聞きたいと言ったわけではないの。
物語を読んで、純粋に思ったこと、感じたことが聞きたかったのよ」
瑠璃が言わんとしていることが分からない。
たぶん俺の理解力が足りてないんじゃなくて、
誰が聞いても同じように理解できないんじゃねえかと思う。
批評者として失格の烙印を押されたような気分になった俺は、悔し紛れに言った。
「瑠璃はこの作品を、このまま応募するつもりなのかよ?
はっきり言って今のままじゃ、この前と同じような感想書かれて突っ返されると思うぜ」
去年の冬、メディアスキー・ワークス編集部の熊谷さんは、
瑠璃の持ち込んだ長大な二次創作作品と、それと同じくらい分厚い設定資料に全て目を通した上で、
あの作品に不足していたもの、過剰だったものを、それぞれ丁寧に解説してくれたよな。
その解説が、この作品には全然生きてねえ。
絵が上手くなってるのは認める。
でも文章は、『強欲の迷宮』の方がまだ読みやすかったよ。
776:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 19:22:40.46:BzHnjpPT0
瑠璃は穏やかに言う。
「あなたに言われた改善点は、きちんと承知しているわ。
ストーリーの概要は王道から逸れて失敗した典型的例だし、
文章は一文一文が長ったらしくて修飾過剰。
登場人物の容姿や性格は知り合いからの流用で新鮮味に欠けていて、
物語の終わりにあるべきカタルシスもない……。
商業的観点から見れば、唾棄すべきクズ作品よ」
る……瑠璃さん?
何もそこまで卑下する必要はないんじゃないスか……?
瑠璃は優しい微笑を浮かべて、
「でもね、これはどこかに応募するために書いた作品ではないの。
自分のため……あくまで自分のために書いた作品なのよ」
782:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 21:10:34.36:BzHnjpPT0
「じゃあ、書き始めたときは、誰かに見せるつもりはなかったのか?」
「ええ。これでも、あなたに見せるためにかなり添削したんだから」
マジかよ。
今読んだのが改変版なら、原本はいったいどんな厨二具合なんだ?
「残念だけれど、見せることはできないわ。常人が読めば発狂しかねない酷さよ。
幾分耐性が出来ているあなたでも、三日三晩は寝込むことになるでしょうね」
もはや呪いの書じゃねえか。
瑠璃はノートパソコンの天板を閉じて、寂しげな微笑を浮かべた。
『覚えてるわけ、ないよね』
誰かの声が耳許でリフレインした。
あのときと同じだ。瑠璃はあのときの桐乃と同じ顔をしている。
そしてあのときと同じように、俺には瑠璃が、どんな言葉を欲しているのか分からない。
785:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 21:47:56.33:BzHnjpPT0
その言葉が、今し方読まされた作品に関係していることは分かる。
しかし俺の記憶では、瑠璃に出会ったのはあのオフ会の日が初めてで、
間違っても俺が『世界を繋ぐ者』で、
瑠璃にその昔取り憑いていたという闇の女王を魔法の世界に送り返した、なんてトンデモ話は有り得ねえ。
何かのメタファーという可能性もないではなかったが、
俺のポンコツな脳味噌に行間を読むなんて芸当は望むべくもなかった。
それから俺は瑠璃にラフ絵を見せてもらったり、
コミケで販売した同人誌の写真コーナーを見直したりして楽しんだ。
最後まで桃色の空気にならなかったのは、小説の件が尾を引いていたのと、
今日の瑠璃が、黒猫寄りの雰囲気を纏っていたからだと思う。
「お楽しみは終わったぁ~?」
居間に戻ると、開口一番、次女が顔をニヨニヨさせて言った。
こいつ、意味分かって言ってんのかね?
瑠璃は次女の発言を華麗にスルーし、台所に向かう。
「何してんだ?」
「何って……これから夕食の準備をするのよ」
振り返った瑠璃は、真っ白な割烹着を装着していた。
うわぁ……どっからどう見ても昭和のお母さんだよコレ。
コスプレに私服にジャージに割烹着に……着るモンひとつ変えても全然印象が違うなあ。
786:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 21:50:50.56:BzHnjpPT0
瑠璃はゴムで後ろ髪を纏めながら言う。
「あなたも食べていくのでしょう?」
俺は……。
1、食べていく
2、今日は帰るよ
>>790
787:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 21:52:10.80:nY/9r8XjO
「食べていくよ」
と言うと、次女と三女は揃って顔を輝かせ、
「やった。ご飯は一緒に食べる人が多いほど美味しいもんねっ」
「今日は、夜まで兄さまと一緒です?」
「そうだよぉ。もしかしたら泊まってくんじゃないかなぁ~?」
「兄さまはどの部屋で眠りますか?」
「そりゃやっぱルリ姉の部屋で……ごめ、ごめん、冗談だって!
ほら、ルリ姉は早くご飯作ってきてよ~。あたしたちお腹空いているんだからさぁー」
じゃれあう三姉妹を見ていると、自然と笑みが零れてくる。
俺はそっと廊下に出て、携帯を取りだした。
「もしもし?高坂ですけど」
「あ、お袋?俺俺」
断っておくが、別にオレオレ詐欺を意識しているわけじゃない。
自然とこの言葉が出てくるんだよな。
お袋は声のトーンを普段のそれに戻して、
「京介ぇ?あんた今どこにいるの?」
「今赤城と街に出てる」
「あら、そうなの?晩ご飯はどうする?食べてくる?」
「そうするよ。あ、それが言いたかっただけだから」
「そう。あんまり遅くならないようにしなさいよ~」
電話を切ると、ささやかな罪悪感が胸に去来した。
正直に言ってもよかったかもな。
『彼女の家で晩飯をご馳走になる』ってさ。
832:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/26(日) 00:40:40.55:u4wVIxT00
居間に戻ると、瑠璃は本格的に晩飯の支度に取りかかっていた。
にしても、マジで割烹着似合ってるな。
ベストジーンズ賞ならぬベスト割烹着賞があれば、十代の部で優勝狙えるレベルだよ。
「兄さま」
座布団の上に座ると、三女が後ろ手に何かを持ってやってきた。
が、三女の体よりもその何か――画用紙――が大きいせいで、バレバレだ。
「ん、またメルルのキャラクターか?」
三女はニコーっと笑い、画用紙を差し出す。
そこに描かれていたのは、白い仮面を持った黒ずくめの男。
メルルには基本的に大人の男性が登場しない。ということは……分かったぜ。
「漆黒か」
「いいえー」
えっ、違うの!?
かなり自信あったんだけどなぁ。
「ほんとうのほんとうに分かりませんか?」
「……降参。誰なんだ?教えてくれ」
「兄さまです」
ああ、なるほどね。……って、分かんねーよ!
841:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/26(日) 01:00:38.05:u4wVIxT00
俺は日常的にこんな黒い服着てねえし!
「それは兄さまにあげます」
しかもくれるんだ!?
兄さまの部屋狭くて飾るトコねえし、
スケッチブックに保管しといてくんねえかな?
「あげます」
押し強えわ、この子。はい、謹んで拝領致します。
「あははっ、京介さんよかったねぇ~」
遣り取りを見ていた次女がケタケタと笑う。
「この雨の中どうやってこの画用紙を折らずに持って帰るか一緒に考えてくれよ」
「今日のところはルリ姉の部屋に置いといて、
また晴れた日に持って帰ればいいんじゃないかな」
「そうさせてもらう」
「あ、全然話は変わるけど」
次女は三女が教育テレビに興味を移したのを確認すると、台所に届かない程度の小声で、
「ルリ姉の部屋で何してたの?どこまでいった?」
あー、こういう子のことなんて言うんだっけ。
……思い出した。マセガキだ。
しかも完全に敬語忘れてやがるしな。
いや、この方が俺も気楽に話せていいんだけどよ。
845:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/26(日) 01:17:00.34:u4wVIxT00
「お前が期待してるようなことは何もしてねえ」
「えぇーっ、チューもしてないの?」
沈黙を勝手に肯定と受け取った次女は、
「彼氏家に呼んどいて何もしないとかルリ姉も強気なのか奥手なのかわっかんないよねぇー。
あと、京介さんは自信持ってルリ姉のこと押し倒せばいいと思うよっ」
頼む、誰かこのガキを黙らせてくれ。
そんな祈りが通じたのか、台所から瑠璃が次女の名を呼び、
「暇にしているなら、こっちに来て手伝って頂戴」
「あたし今ねえ、京介さんとお喋りするので超忙しいから無理」
「それを暇にしていると言うのよ。
お腹が空いているのでしょう?手伝った分、早く出来上がるわ」
「しょーがないなー。京介さん、この子の相手頼むねっ」
次女は立ち上がり、ツインテールをぴこぴこ揺らして台所に向かう。
919:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/26(日) 12:18:43.65:u4wVIxT00
夕食が完成したのは七時ちょっと前で、
調理を手伝えなかった俺は、せめてもと配膳係に志願した。
四人分の椀や皿を、台所から居間のちゃぶ台に運んでいく。
箸立には暖色の箸が三膳入っていて、それを適当に並べていると、
「あ、その子はスプーンとフォークです。練習中なんだよねぇ」
「はいー!」
ああ、じゃあこれは瑠璃と次女と、今は仕事に出てるお母さんの分か。
んで俺は割り箸、と。
四人全員がちゃぶ台の周りに座り、合掌する。
「いただきます」
メニューはご飯に味噌汁、鰯の塩焼きに冷や奴、キュウリの漬け物の計五品で、まさに日本料理といった感じ。
満遍なく箸をつける。
料理番組のコメンテーターのように豊富なボキャブラリーを持たない俺は、こう言うしかない。
「うまい。マジでうまいよ」
それまで横目で俺の反応を伺っていた瑠璃は、ほう、と息を吐いて、
「そ、そう?気に入ってもらえたなら、嬉しいわ。
……味加減はどうかしら?」
少し薄味だけど、たぶんそれは妹のため、わざとそうしているんだろう。
「ちょうどいい。ウチと似てる」
「よかったね、ルリ姉。これでいつでも嫁げるねぇ~……痛ッ」
927:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/26(日) 12:55:57.32:u4wVIxT00
額を押さえて呻く次女。
デコピンされると分かっていただろうに。口を衝いて出てしまうんだろうか。
「姉さま、ふりかけはどこですか?」
「ここにあるわ」
瑠璃はふりかけの封を切って、三女のご飯の上に振りかけてやる。
「零さないようにして食べるのよ」
「はいー」
思わず笑っちまったよ。
「何が可笑しいの?」
「いや、なんか姉妹っていうより、母娘って感じだと思ってさ」
「お母さんがいないときはルリ姉がその代わりだもんねぇ~」
その遣り取りを見ていた三女は、訊きたくてウズウズしていたんだろう、
口の中のご飯を大急ぎで呑み込むと、
「姉さまがお母さまなら、兄さまはお父さまですか?」
「うぅ~ん、それはちょっと違うかなぁ~?」
俺と瑠璃は顔を見合わせて、苦笑する。
本当に三女と次女が娘で、瑠璃が奥さんなら、さぞかし家に帰るのが楽しいだろうな。
938:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/26(日) 13:21:31.09:u4wVIxT00
そんな妄想を見透かされたのか、はたまた最初から同じことを考えていたのか、
みるみるうちに瑠璃は顔を朱に染め、俯く。
普段下ろしている髪は、今は後ろでまとめられていて、
透き通るような白さの項が妙に色っぽい……って、食事中になんてこと考えてんだ俺は。
瑠璃は微妙な雰囲気を払拭するかのように、
「お、お代わりはいる?」
俺の椀の底も見ないで言ってきた。
まだ少しご飯は残っちゃいるが……。
「ああ、頼む……つうか、自分で行ってくるよ。炊飯器の場所分かってるしさ」
「いいのよ、あなたは動かなくて。ご飯はたくさん?それとも少し?」
ここは好意に甘えるとするか。
「少しでいいよ。ありがとな」
椀を手渡してから気づく。
この会話、どっかで聞いたことあると思ったらまんま親父とお袋のそれだよ。
それからしばらくして帰ってきたお椀には、白米がなみなみとよそわれていた。
こいつ完璧に上の空で聞いてやがったな。
まあ、漬け物がスゲー美味いからいくらでも食べられますけどね。
948:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/26(日) 13:54:04.29:u4wVIxT00
食事が終わり、「食器洗いくらいは」と申し出てみたものの、
瑠璃は「妹たちの面倒を見ていて頂戴」の一点張りで、
結局今日、俺は一度も五更家の台所に立たせてもらえなかった。
まったく、「男子厨房に入らず」なんて言葉が箴言たり得たのは昭和までだろうがよ。
「ルリ姉~あたしお風呂入れてくる~」
次女が行ってしまい、今俺は三女と一緒にクイズ番組を見ている。
単純な知識量や計算力ではなく、直感力や想像力を試す、
要するに右脳を働かせて答えるタイプのクイズなので、幼い三女にも問題なく楽しめている。
テレビ画面には騙し絵が映っていて、
「兄さま、この絵には何匹のお馬が隠れていますか?」
「一、二、三……四匹じゃないか?」
「わたしには六匹見えます」
制限時間が終わり、正解が発表される。おっ、七匹もいたのか。
「惜しかったな」
「はいー……」
悔しそうに、ぎゅうと丸っこいウサギのぬいぐるみを抱きしめる三女。
「それ、手作りか?」
「はいー。姉さまが作ってくれた『まどーぐ』です」
ま、まどーぐ?
数秒考えて、それが『魔道具(まどうぐ)』と書くことに思い当たる。
961:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/26(日) 14:17:36.76:u4wVIxT00
そういやさっき瑠璃が、『三女は私の与えた魔道具は全て完璧に使いこなしている』と言ってたっけ。
でもこれ、どう見ても魔道具じゃねえよな。こんな可愛らしい魔道具があってたまるか。
普通にぬいぐるみとして渡してやれよ。
「たっだいまー」
次女が帰ってくる。
「順番どうする?京介さんから入る?」
「は?」
「だからぁ、お風呂。モチロン入ってくんでしょ~?」
いやいや待て待て。
「さすがに風呂は遠慮しとく」
「えぇ~っ、なんで?ルリ姉と一緒に入りなよぉー」
あのなあ。
「馬鹿な発言は慎みなさい。
この家のお風呂のどこに人二人が入れるスペースがあるというの」
洗い物が終わったのか、瑠璃が手の水気をミニタオルで拭きながらやってくる。
「じゃあお風呂場が広かったら、京介さんと一緒に入ってもいいんだ?」
「なっ、そ、そういう意味ではなくて……」
972:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/26(日) 14:52:09.41:u4wVIxT00
俺は瑠璃に加勢する。
「ほら、俺下着の替えとか持ってないしさ」
「近くにコンビニあるから、買ってくればいいんじゃないかなぁ?
なんならあたしがひとっ走りしてこよっか?」
結構です。
小さな女の子が一人で男物のパンツ買おうとしたら絶対コンビニ店員怪しむよ!
「と、とにかく。今日は帰る。好意だけもらっとくわ」
「ちぇ、つまんない」
それまでクイズ番組に夢中になっていた三女が、ふぁ、と小さな欠伸をする。
「もうおねむの時間?今日は早いねぇ。あんまりお昼寝しなかったからかなぁ?」
おいで、と次女が手招きすると、三女は次女の膝に頭を乗せて目を瞑った。
「お風呂できたら起こすからね」
「…………」
次女がテレビの音量を小さくすると、すぅ……すぅ……穏やかな寝息が聞こえてきた。
瑠璃が思わせぶりな視線を、俺、時計の順に移す。
もう八時過ぎか。腰を上げると、瑠璃もそれに続いた。
「あっ、あたしも見送りたい……けど動けないし」
次女は膝の上の三女を見ると、表情に諦めの色を浮かべ、
「あたしはここで。またいつでも来てくださいねー、京介さん」
983:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/26(日) 15:24:21.84:u4wVIxT00
瑠璃が引き戸を開けると、外では依然として霧状の雨が降っていた。
「傘は持ってきているの?」
「ああ」
黒の折り畳み傘を開いて見せる。
瑠璃は傘立てにあった赤い傘を開くと、俺の一歩先を歩いて、来たときと同じように門の閂を外してくれた。
「今日は……呼んでくれてありがとな。
瑠璃の妹たちに会えて良かったし、
美味い飯もご馳走になって……楽しかったよ」
「妹たちには懐かれて大変だったのではなくて?」
「避けられるよりずっとマシだろ」
瑠璃はやんわりと笑んで、
「京介は小さな子供の扱いに慣れているのね。
下の妹は内気な性格なのだけれど、あなたに対しては人見知りしなかったみたい」
「似姿も描いてもらったしな。あれ、今のところは瑠璃の部屋に置いといてもらってもいいかな」
「構わないわ。
それと晩ご飯は……、質素な献立でごめんなさい。
正直、物足りなかったでしょう?
本当はもっと凝ったものを作るつもりだったのだけれど、
し、失敗するのが怖くて、一番作り慣れているもので妥協してしまったの」
997:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/26(日) 16:18:52.87:u4wVIxT00
失敗するのが怖くて――、か。
本音を隠さずに教えてくれたことは嬉しいよ。
でもあれが妥協の結果だなんて、言われなきゃ全然分からなかったぜ。
質素な献立?関係ねえよ。
「俺はああいう純和風な料理が好きなんだ。
それに、普通で無難な料理ほど、料理人の腕が反映されやすいだろ?
お前の料理、スゲー美味かったよ。
また今度何か食わせてくれな」
「ほ、ホメ殺さないで頂戴」
瑠璃は傘で顔を隠してしまう。
ざあ、とにわかに雨脚が強まり、街灯の明かりが鈍くなる。
俺は傘のへりを指で持ち上げ、その中の唇に、自分の唇を合わせた。
「…………っ……ん……」
微かに身動ぎした後で、大人しくなる。
23:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/26(日) 16:56:37.16:u4wVIxT00
大きく見開いた目を閉じ、固く閉じた唇を薄く開いて、瑠璃は俺を受け入れてくれた。
まるで親鳥に餌をねだる小鳥のように、お互いの唇を啄む。
熱く濡れた吐息や、空気を求める喘ぎ声、触れた肩の温もりが、際限なく興奮を高まらせていく。
やめ時が分からない。いつまでもこうしていたい。
俺を夢から覚ましたのは、すぐ近くで起こった水音だった。
「はぁ……っ……はぁっ……」
「大丈夫か?」
傘を拾い上げて、瑠璃の頭上に翳してやる。
陶然とした双眸に理性の色は見て取れない。
瑠璃は泣きそうな声で言った。
「どうして……やめたの……?」
脳髄に熱い電極をぶっ刺されたような気がしたよ。
「こ、これ以上続けたら色々とヤバいだろ」
もう既に色々とヤバいことになってるんですけどね、俺のリヴァイアサンは。
30:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/26(日) 17:16:18.15:u4wVIxT00
呼吸が整ってきたのに伴って、思考もはっきりしてきたんだろう、
瑠璃は元々上気させていた顔を、さらに赤くして、
「い、いきなりすぎるわ……。
しかもこんなところで……情緒も何もあったものではないじゃない」
ぽす、と弱々しい力で俺の胸を突く。
お前だって前のデートで、いきなしキスしてきたじゃないか。これであいこだ。
「あれは……解呪のための口吻であって……」
呪いをかけるという名目ならいつでもどこでもキスしていいのかよ。
「じゃあ俺もそういうことで」
「闇の眷属ではないあなたに呪術を使うことは不可能よ」
はぁ。どうして俺と瑠璃のキスの後は、なんつーの?こう、甘い雰囲気が流れないんだろうなぁ。
うっとりとお互いを見つめ合い睦言を交わす……てなことをしてみたいと思うのは、贅沢なんだろうか。
俺は言ってやった。
「キスしたくなったからキスしたんだよ」
文句あっか。不意打ちだの情緒がないだの知ったこっちゃねえっての。
50:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/26(日) 18:20:36.20:u4wVIxT00
「なんて、強引な人」
瑠璃は下唇を噛み、目を伏せる。
「杞憂……だったのかしら……」
「杞憂?」
オウム返しに尋ねると、
「酷い顔」
どこまでな真っ直ぐな眼差しと一緒に言われた。
な、なんで俺悪口言われてんの?全然そんな脈絡無かったよね!?
「今日のお昼、インターホンが鳴って、扉を開けて、
わたしの家を眺めているあなたを見て、そう思ったのよ」
それは顔の造形的な意味で?それとも表情的な意味で?
瑠璃は喉をくつくつと鳴らして、
「後者に決まっているじゃない。
あなたの顔は、あなたが思っているほど地味でもなければ、不細工でもないわ」
57:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/26(日) 18:44:16.34:u4wVIxT00
でも格好いいってワケでもねえんだろ。
「ふふっ、なにを拗ねているの?
万人受けする容貌でないことは確かだけれど、
わたしの好みには合致するのだから、それで充分なのではなくて?」
と切り返されなんとも面映ゆい気持ちになった俺は、話題を元に戻すことにする。
「俺は今でも、その、酷い顔してるか?」
瑠璃はフリフリと横にかぶりを振って、
「いいえ。きっと光の加減で、わたしが見間違えたのでしょうね。
下の妹も上の妹も、初対面のあなたに怖がらず接していたでしょう?
特に下の妹は人の機微に敏感でね、心の闇が表情に出ている人間には決して近づかないのよ」
そっか。じゃ、杞憂だよ。
俺は瑠璃から離れ、肩に斜めにかけていた折り畳み傘を垂直に持ち直した。
「そろそろ、帰るわ」
72:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/26(日) 19:57:54.74:u4wVIxT00
「ま、待って」
返しかけた踵を戻す。瑠璃は胸に手を添えて、
「次は、いつ会えるのかしら?」
「明日は瑠璃はアルバイト……お母さんの手伝いがあるんだよな。
じゃあ、明後日、久しぶりに二人で、部活に顔を出さないか。
部長が来い来いうるさくてさ。たぶん、瑠璃にもメール来てるだろ?」
唇を尖らせる。不服のサインだ。
「部活が終わったら、その後は二人でどこかに遊びに行こうぜ」
「ええ、そうね。そうしましょう」
破顔する。これ以上に分かり易い喜びの感情表現はないだろう。
コロコロと表情を変える瑠璃を見ていると、
澄ました無表情がデフォルトだった頃の瑠璃を忘れそうになるよ。
102:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/26(日) 22:57:13.95:u4wVIxT00
瑠璃と玄関先で別れて、しばらくしたところでBeegleMapにアクセスする。
検索エンジンは自宅までの最短ルートを表示してくれたが、俺は少し遠回りの道が知りたかった。
にしても、「酷い顔」か。
五更家の前に立ったときは、気持ちを切り替えていたつもりでいたんだが……。
しっかりバレてたみたいだ。
ホント、女の勘は鋭さには驚かされるよ。
翌日。
俺は地元の中学校に程近い公園にやってきていた。
遊具と呼べるものは砂場くらい、あとは砂地の多目的広場になっていて、
小学生数人がこのクソ暑い直射日光の中、サッカーボールを追いかけ回している。
元気なもんだ。俺にも少しその元気を分けてくれよ、と思う。
ここは俺とラブリーマイエンジェルの親交の軌跡が刻まれている場所でもある。
目を瞑ればあやせたんにビンタされた記憶、ハイキックされた記憶、腹の底から罵られた記憶が……。
マジで良い思い出ねえな。
サッカーを邪魔しないように端を歩いてベンチに近づくと、
淡いブルーのカジュアルドレスを纏った少女が顔を上げて言った。
「お兄さん」
「よう、待たせたか?」
「いえ……わたしもついさっき着いたところですから」
社交辞令を済ませて、ベンチの空いたスペースに腰掛ける。
するとあやせもお尻をあげて座り直した。
もちろん俺と距離を置く形で。
124:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 00:55:00.59:qTavd8nf0
「お兄さんを呼び出した理由は、もうご存知ですよね」
「桐乃のことについて話があるんだろ」
昨日もらったメールにそう書いてあったからな。
あやせはこくんと頷き、膝の上で両手を握りしめて訊いてきた。
「単刀直入に聞きますけど……。
お兄さんの目から見て、家での桐乃はどうですか?」
「はっきり言ってスゲー荒んでる」
瑠璃と付き合うことを告白したあの夜から、
桐乃の俺に対する態度は、一年と半年前のそれに逆戻りした。
廊下ですれ違っても言葉一つ交わさない、当然挨拶もなし、
偶然目が合えば舌打ちし、聞こえるか聞こえないくらいの大きさの声で悪態を吐く。
「しかも俺だけにじゃなくて、親父やお袋に対しても似たような態度取ってるからな。
今はみんな、腫れ物触るようにあいつに接してるよ」
「そんな……」
128:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 01:40:51.59:qTavd8nf0
「親友のお前から見て、桐乃はどうなんだ?」
あやせは悲愴な面持ちで、訥々と語った。
「ここ数日の桐乃は、なんだか桐乃じゃないみたいです。
冷たくされたり、あからさまに避けられているわけではないんですよ?
でも、メールは続かないし、電話で話してても上の空で……わたし怖いんです。
今の状態がずっと続けば、桐乃との関係が壊れてしまうような気がして……」
あやせが悲観的に捉えすぎている可能性がなくもないが、
桐乃があやせを含めた学校の友達にまで素っ気なくしているのは一応の事実なんだろう。
「桐乃は昨日あった撮影の仕事を無断欠勤しています。
あと、これは陸上部の友達が教えてくれたんですけど、
桐乃はここ数日の部活も、何の連絡せずに休んでいるみたいなんです。
みんなすごく心配してました……。
あの娘、仕事や部活には、常に真面目で、本気でしたから。
遅刻もこれまで一度もしたことありませんでしたし……」
それには薄々勘付いてたよ。
あいつ、三日前から家に引きこもり通しだからな。
153:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 09:42:12.30:qTavd8nf0
「わたしは、三日前に、桐乃に何かがあったんだと考えています。
その日はお昼から撮影で、撮影が終わった後は一緒に買い物に……。
あ、お兄さんには電話で言いましたよね。
桐乃、撮影の時から様子が変でした。
表情や雰囲気がイマイチだって、何度もカメラマンの人に注意されてて……。
モデルだって人間ですから、機嫌が悪い時や、
体調が悪い時に撮影の仕事が入ることは珍しいことではありません。
桐乃のすごいところは、どんなに不調な時でも、
カメラの前では普段通りの桐乃でいられるところで……。
でも、あの日は違ったんです。
桐乃の目……、まるで一晩中泣いてたみたいに腫れてました」
その喩えはたぶん事実だよ。
それにしても、仕事や部活は自他ともに厳しかったあの桐乃がね……。
あやせと喧嘩したときでも、撮影や部活の合宿は休まず参加して『いつも通りの桐乃』を演じてたってのに。
「わたし、撮影が終わった後で桐乃に言ったんです。
『何かあったの』って。『わたしでよければ相談に乗るよ』って。
だってわたしたち、親友じゃないですか。なのに桐乃は『なんでもない』としか言ってくれませんでした。
桐乃が嘘を吐いているのはすぐに分かりました。
わたし、ショックで頭の中が真っ白になって……でも、そこで桐乃を責めても仕方ないと思いました。
だから桐乃の好きなタイミングで悩みを言ってもらうために、
桐乃を元気づける意味も込めて、『買い物に行こう』って誘ったんです」
一年前に比べりゃ大きな進歩だな、と思ったよ。
人間関係に潔癖で、純粋で、素直で、嘘を吐かれると人が変わったようになるあやせが、
桐乃の隠し事に言及するよりも、自分から話してもらうまで待つ選択をしたんだからな。
158:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 10:29:31.18:qTavd8nf0
「街に出ると、桐乃はいつもの桐乃に戻ったように見えました。
撮影のときの桐乃が嘘みたいに、桐乃は笑顔で……でも、やっぱり違ったんです。
お金の使い方がすごく荒くて、ナンパされたときも普通に話してて……いつもは無視するか、冷たくあしらうのに……。
桐乃、テンションが高いというよりは、自棄になってるみたいでした。
桐乃を家の晩ご飯に誘ったのは、長く街にいればいるほど、桐乃がおかしくなるような気がしたからです」
あやせの賢明な判断に感謝しねえとな。
隣にあやせがいなけりゃ、あいつ、マジで朝帰りして親父に捜索願出されてたかもしれねえ。
「わたしたちはご飯を食べた後で、わたしの部屋に行きました。
その時に、桐乃に『泊めて』と頼まれて……でも、心を鬼にして断りました。
お父さんやお母さんは桐乃の言葉を信じてましたけど、
わたしには、桐乃が桐乃のお家に連絡していないことが分かっていたんです。
だってその日、桐乃は一度も携帯を開いていませんでしたから」
お前の観察眼には怖れ入る。
161:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 11:07:21.61:qTavd8nf0
「それで、桐乃を家に帰してくれたのか」
「はい。そうするのが桐乃の友達として……親友として……正しい選択だと思いました。
あの、あの後桐乃はご両親に……?」
「叱られたよ」
途中で俺が止めに入ったことは黙っておく。
「お兄さんは、桐乃が変わった原因について、何か心当たりがありませんか?」
「さあな。あいつは何も話してくれねえから」
「わたしはお兄さんの考えを聞いているんです」
「……………」
熱気を孕んだ一陣の風が吹きすぎ、あやせの豊かな黒髪を膨らませる。
すぐ後ろの木立で独唱していた蝉が力尽きる気配がした。
サッカーをしていた小学生たちは、いつの間にかいなくなっていた。
「―――お兄さんが原因なんじゃないですか?」
しん、と水を打ったように静まり返った公園に、あやせの透明に澄んだ声はよく響いた。
168:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 11:49:37.09:qTavd8nf0
「なんでそう思うんだ?」
「あの日、桐乃は一度もお兄さんの悪口を言いませんでしたから。それが逆に不自然でした」
あやせは重く低い声で言う。
「桐乃が夜遅くなっても帰りたがらず、連絡も入れようとしなかった理由は、
きっととても単純なことで……家族に……お兄さんに心配をかけたかったからなんだと思います」
お前も麻奈実と同じことを言うんだな、あやせ。
夏休みが明けるまでは、瑠璃との交際を公にせず、これまでどおりに振る舞う――。
それは瑠璃と話し合って決めたことで、
だから一昨日の図書館勉強は、麻奈実と純粋に『仲の良い幼馴染み』として過ごせる、
残り少ない貴重な時間だったのかもしれないのに、
麻奈実はめざとく俺が落ちこんでいることに気づき、結局俺は、桐乃の不可解な行動の顛末を話してしまった。
そして麻奈実は、俺の話を聞き終えたあとでこう言ったのだ。
『桐乃ちゃんは、きょうちゃんに探して欲しかったんじゃないかなあ』
176:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 12:27:20.76:qTavd8nf0
麻奈実は続けてこうも言った。
『ねえ、きょうちゃんはその時、何をしてたの?』
声の調子は優しく穏やかで、だからこそ俺には堪えた。
開き直れたらどんなに楽だったろうな。
「妹の我が儘なんざ知ったこっちゃねえ」ってさ。
でも俺は決まり悪く俯いて、「家を空けてた」と言うのが精一杯だった。
麻奈実を失望させたくなかったというのもあるし、
そうやって嘯いたところで、麻奈実には通用しないと分かり切っていたからだ。
あやせは言った。
「もう一度訊きます。
桐乃があんなふうになったのは……お兄さんが原因なんじゃないですか?」
これ以上否定しても白々しいだけだ。
首肯すると、あやせはそれまでの必死な表情を、さっと能面に変えて、
「やっぱり……そうだったんですね」
ぞわ、と全身が粟立つ。
一瞬のうちに、俺たちを取り巻く夏の熱気が冬の冷気に変換されたような錯覚がした。」
「桐乃に、何をしたんですか?」
182:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 12:48:31.58:qTavd8nf0
お、落ち着け。
「俺が桐乃に直接何かしたワケじゃねえよ」
「でも、桐乃が傷つくようなことをしたのは、事実なんですよね!?」
「俺にあいつを傷つけるような意図は、これっぽっちもなかったっての!」
「結果的にはそうなってるじゃないですか!」
目的語不在の論駁に終着点は見えず、
「これは俺たち兄妹の問題なんだ。
お前が首を突っ込むことじゃねえんだよ」
俺はつい、いつものスタンスを忘れて、強い言葉をぶつけてしまった。
「………ッ」
あやせの表情に、怯えと悔しさが綯い交ぜになった色が浮かぶ。
俺は深呼吸してささくれ立った気持ちを落ち着け、
「……あやせが心配することはねえよ。
しばらくしたら、桐乃は元通りになる。
お前とはこれからも親友でいるだろうし、モデルの仕事や部活にも復帰するさ」
193:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 13:39:25.51:qTavd8nf0
「時間が解決してくれると?」
「……ああ」
「お兄さんは……、桐乃のことが心配じゃないんですか?」
「心配だよ。心配に決まってんだろ」
「じゃあお兄さんは、桐乃があんなふうになってから、今まで何をしていたんですか?
わたしはわたしなりに桐乃を元気づけようとしてメールを送ったり、電話をかけたりしました。
全部、無駄でしたけど……それでも、放っておくことなんてできませんでしたから」
あやせは消え入るような声で言った。
「わたしの知っているお兄さんは、
桐乃が苦しんでいるときに、こんなに悠長に構えているお兄さんじゃありません」
あやせは木陰から日向に踏み出すと、
「さよなら」
そのまま振り返りもせずに、去っていった。
「人の気も知らないで、好き勝手言いやがってよ」
誰もいない、閑散とした公園で独りごちた。
200:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 14:39:09.26:qTavd8nf0
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「ただいま」
返事は帰ってこない。お袋の靴が無くなっている。
買い物に出かけたんだろう。親父は仕事で朝から家にいない。
俺はリビングで麦茶を飲んだ後、階段を上って自室に向かいかけ、
右手のドアの前で、足を止めた。ドアプレートには『桐乃』の文字。
心の裡で誰かが言った。
……たったの三日で手前との約束を反故にしていいのかよ。
「桐乃、いるか?」
考えていることとは裏腹に、右手の甲がドアを叩く。
「いるんだろ、桐乃」
言葉が口を衝いて出ていた。
ドアノブに手を掛ける。駄目元で捻ると、あっさり開いた。
家に誰もいないと思って、油断してたのかもしれねえな。
203:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 15:18:05.69:qTavd8nf0
部屋から流れ出してきた、甘く冷たい空気に身震いする。
照明はついておらず、閉め切られたカーテン越しに届く仄かな陽光が、
部屋の中のものにぼんやりとした陰影を与えていた。
クーラーが冷風を送る音と、マウスのクリック音が虚しく響いている。
実に陰気な部屋だ。いるだけで気が滅入ってくる。
そしてそんな部屋の左奥に、俺の妹がいた。
手入れを怠っているせいか、髪のぱさつきがよく目立つ。
ディスプレイの光に照らされた顔はどこまでも無表情で、
寝ても覚めてもパソコンと向き合う生活を続けているせいか、目は赤く充血している。
「……なに、勝手に入ってきてんの?」
「話があるんだ」
桐乃はゴミを見るような目でこちらを一瞥し、
「あんたとなんか話したくない。出てって」
「やだよ」
俺は後ろ手にドアを閉めて言った。
「お前さ、いつまでこうして引きこもってるつもりなんだ?」
206:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 15:46:07.90:qTavd8nf0
「…………」
「撮影の仕事や、部活、無断で休んでるんだってな」
桐乃は「ッチ」と大きく舌打ちし、
「……誰から聞いたの?」
「んなことは今どうだっていいだろ。
お前、いい加減に外出ねえと、終いにみんなから愛想尽かされちまうぞ」
ティーン誌の人気モデルに、陸上部のエース……。
今まで築き上げてきた地位が水泡に帰してもいいのか?
そんなこと、お前のプライドが許せるのかよ?
桐乃はふっと嘲るような笑みを浮かべて、
「別に?もう、どうでもいいし。勝手に愛想尽かしてろって感じ」
「おま……それ、マジで言ってんのか?」
「本気だけど?あたし今年受験あるし、
モデルも走るのも飽きてきたトコだったし……丁度いい機会じゃん」
売り言葉に買い言葉、で出てきた言葉じゃなさそうだ。
212:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 16:31:29.84:qTavd8nf0
受験勉強に専念する――辞めるには誂え向きの理由だな。
でもさ、
「それは建前だろ」
「ハァ?勝手に決めつけるとか超ウザいんですケド。
なに『俺は全部分かってる』みたいなキモい顔してるワケ?
あんたなんかに、あたしの考えてるコトの一万分の一も分かるわけないじゃん!」
「……受験勉強のためにモデルや部活をやめることは、俺以外の誰かに言ってあるのか?」
「ま、まだ言ってない。でも、これから言うつもりだったの!」
携帯を手に取り、電源を入れようとする桐乃。
コイツまさか今から事務所や部活の顧問に辞める意志を伝える気か?
「ちょ、早まんなって!」
お前が今超絶に神経質なのを忘れて、下手に刺激した俺が悪かった!
俺の呼びかけも虚しく、桐乃は素早く電話帳から目当ての番号を選び出し、通話ボタンに手を掛ける。
すんでのところで取り上げた。
「か、返してよっ!てか、あたしの携帯に汚い手で触んなっ!」
216:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 17:15:50.46:qTavd8nf0
「落ち着け、落ち着けってば!」
「うるさいっ!返せっ!」
「返したら電話するだろ、お前!」
拙いパンチやキックを躱して後退していくと、背中が本棚にぶつかった。
逃げ場を失った俺は、わざと携帯を床に落として、
掴み掛かってきた桐乃の両手を、逆に掴み返す。
性別も違えば歳も違う。
膂力の差は歴然だったが、しかし……、桐乃は暴れた。
顎先に頭突きをもらい、爪先を親の仇のように力いっぱい踏み潰され、
鳩尾に数発膝蹴りを叩き込まれてなお俺は倒れず(今振り返ってもよく持ちこたえたと思う)、
逆に俺の股間を一蹴しようと大きく足を後ろに引いた桐乃がバランスを崩し――。
「…………ん」
目を覚ますと、後頭部がずきずきと痛んだ。
手をやると微かに膨らんでいて、熱を持っているのが分かる。
やれやれ、この年でたんこぶか。
軽く意識が飛んでいる間に、俺の体は桐乃のベッド脇にもたれ掛かるような格好になっていて、
部屋の中に桐乃の姿はなく、ついでに携帯も消えている。
……終わったな。なにやってんだ、俺。
絶望に浸りかけたそのとき、ドアが開いた。
227:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 17:37:31.75:qTavd8nf0
「あ……」
「桐乃……」
焦燥の色を浮かべていた顔が、ぱぁっと明るくなって、すぐに顰め面に変わる。
「……起きたんだ」
「ああ、さっきな」
「これ、あげる」
桐乃は手に持っていた何かを放ってきた。氷嚢か。
「わざわざありがとよ」
「別に。クモ膜下出血とかで死なれても困るから作ってきてあげただけ」
氷嚢で押さえたくらいでクモ膜下出血が治るかよ、という突っ込みは我慢して、後頭部を押さえる。
熱が奪われていく心地よい感触に目を瞑っていると、
「ねえ……あんた、そのまま死んだりしないよね」
「死ぬかボケ」
死因がたんこぶとかどんな虚弱体質だよ。
「だってさ、倒れたとき、ものすごい音したよ?」
「親父やお袋が出払っててよかったな」
234:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 18:02:09.90:r9eJFn620
桐乃が背中から倒れる一瞬前、
引き寄せることも間に合わないと判断した俺は、咄嗟に自分の体と桐乃の体を入れ替えた。
似たようなことが、一年前、桐乃があやせや加奈子を家に連れてきたときにもあって、
あの時は桐乃の背中に手を回すことで事無きを得たのだが(怪我の有無的な意味で)、
今回は両手を掴み合っていたことが仇になり、
結果、俺はめでたく後頭部を床に強かに打ち付け、
ダメ押しに桐乃のボディプレスをもらうことになった――んだろうな。
最後らへんはあんまし良く覚えてねえや。
っと、んなことよりも大事なこと聞くの忘れてた。
「お前、電話しちまったのか?」
「し、したって言ったら?」
「俺がかけ直して、さっきのは間違いだから取り消してくれって頼む」
俺は大真面目に言ったつもりだったのだが、
桐乃は「ぷっ、馬鹿じゃん」とお馴染みの台詞を口にすると、俺の前にぺたんと座り込み、
「……電話はしてないよ。これが証拠」
携帯を操作して、発信履歴を見せてくる。
最新の発信日時は三日前のものだった。
245:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 18:37:45.28:qTavd8nf0
ホッと胸を撫で下ろそうとした矢先、
「でも、辞めようと思ってるのはホントなんだ」
桐乃は神妙な顔で言った。
「受験のためじゃなくて?」
「うん……もういいかな、って。
やる気がなくなったっていうよりは、やる意味が無くなったっていうか……。
モデルはお小遣い稼ぎのために、続けてもいいかなーって思ってるケド……」
ええぇぇ、それ逆じゃね?
普通モデル業より部活優先するだろ。だって、
「お前、あんなに走るの大好きだったじゃねえかよ」
「走るのは今でも好きだよ」
「じゃあ……!」
俺はそこで二の句を継げなくなる。
桐乃は濡れた瞳に、再び拒絶の意志を宿し、
「もう、どうでもいいじゃん。あんたには関係ないことでしょ」
「桐乃……」
283:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:09:30.20:qTavd8nf0
ここが分水嶺だ。このときの俺には、根拠不明の確信があった。
自分に課した約束を破るか否か。
破れば俺はきっと桐乃の我が儘を叶えてしまう。
守れば俺はきっと瑠璃の呪いに縛られ続ける。
かなり迷ったんですけどやっぱ安価にします
ここは安価SSスレだもんね
誰かが泣いて誰かが幸せになるルート と 誰も泣かないルート に分岐
1 自分との約束を破る
2 自分との約束を破らない
ラスト安価になりそうなので>>300までに多かったので
287:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:12:19.48:9PxoJlSH0
→ 1 誰も泣かないルート
「関係なくなんかねえよ。お前は俺の妹だろうが」
「い、妹だから何だっての?」
「放っとけねえって言ってんだ」
親父に『桐乃を任せる』と責任を負わされたからでも、
あやせや麻奈実に発破を掛けられたからでもない。
事実俺は、今この瞬間まで、自分との約束を破るつもりなんてなかったんだ。
卑怯だよ、妹ってやつは。
兄貴の弱点がなんなのか、無意識のうちに分かってやがる。
「俺はお前の泣いてる姿は見たくないんだよ」
人差し指で、桐乃の目から溢れた涙を拭ってやる。
「やめてよ」
桐乃はいやいやするように首を振った。
「中途半端に優しくしないでって、あたし前に言ったよね?」
言われた記憶は無いが、お前が言うならそうなんだろうな。
「そういうの、マジでムカつくの……。
構うのか構わないのか、どっちかにしろって感じ……。
妹が泣いてる姿は見たくない?……ざけんなっ。
それじゃああんたさぁ、あたしを泣き止ませるためなら、何でも出来るわけ?」
356:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 22:15:12.87:qTavd8nf0
俺は頷く。
桐乃は一瞬怯むように肩を震わせて、ぎり、と下唇を噛み、
「じゃあ……………………黒いのと、別れてよ」
「それは……」
言い淀むと、桐乃は勝ち誇ったような笑みを、涙で濡れた顔に浮かべて、
「ほら、どうせ出来ないんでしょ?
撤回していいよ。あんたが口先で言ってるのは、最初から分かってたし――」
「待てよ。俺はまだ何とも言ってねえだろ。
それに答える前に、ひとつだけ、どうしても訊いておきたいことがあるんだ」
「な、何?」
「お前はどうして、俺と黒猫に別れて欲しいんだ?」
381:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 23:14:51.01:qTavd8nf0
「そ、それは……っ」
攻守が反転する。
ただ単純に、自分の兄貴と友達が付き合うのが許せないという理屈が通らないのは、
桐乃も重々承知しているはずだ。
いつまでも口を噤んだままの妹に、俺は尋ねた。
「お前、俺のことが好きなのか?」
燃え上がった後悔の炎は、そのすぐ後で、清涼感にも似た開放感に吹き消される。
もう元には戻れない。でも、それでいい。
ずっとその真偽を確かめたくて、答えを知るのがどうしようもなく怖くて、
『その質問をする状況』から、俺はこれまでみっともなく逃げ回っていた。逃げ切れた気でいた。
瑠璃と付き合う選択をすることで、
もし仮に『桐乃が異性として俺のことが好き』だったとしても、
自然とそれを諦めてくれるだろうという後ろ暗い打算があった。
383:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 23:18:16.54:VuZvj+m90
「あたしは……あんたのことが……あんたのことなんか……っ」
桐乃は顔を真っ赤にして、苦しそうに言葉に喘ぐ。
もしも桐乃が『異性として』俺のことが好きで、
そのために瑠璃と別れて欲しがっているなら……、俺はその気持ちには応えられない。
確かに俺は、桐乃が泣いている姿は見たくないと言った。
でも一時的に『妹の涙を止める』ことが、『妹を不幸せ』にする未来に繋がるなら、
俺は妹が――桐乃が自分で泣きやんで、自分の力で歩き出すまで見守る道を選ぶ。
もしも桐乃が『兄として』俺のことが好きで、
そのために瑠璃と別れて欲しがっているなら……、俺は……。
「分かんない」
桐乃は涙をポロポロ零しながら、叩きつけるように叫んだ。
「あたしは自分でも、あんたのことをどう思ってるのか分かんないのっ!」
「なっ」
完全に想定外の答えに、またしても攻守が逆転する。
わ、分からないってお前……自分の心に尋ねればすむ話だろうがよ!
403:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 00:03:31.13:pcN/w9Iq0
「わ、分かんないことは分かんないんだから、しょーがないでしょ!?」
桐乃はぐしぐしと両手の甲で目を擦ると、キバを剥いて睨み付けてくる。
そして出し抜けに立ち上がると、乱暴に本棚をスライドさせて襖を開き、
オタクグッズを掻き分けるようにして"あの段ボール箱"を取り出した。
通信簿や運動会のワッペン……あの段ボール箱に入っているのは、
桐乃が過去の自分と向き合い、初志に立ち帰るためのアイテムだ。
唖然とする俺を余所に、桐乃は段ボール箱のフタを開けアルバムを取り出すと、
「見て!」
「は、はぁ?」
いきなりなんだってんだよ。
今の話と、お前の『陸上を始めた理由』のどこに関係があるってんだ?
「いいから!見て!」
物凄い剣幕に押されて、アルバムを受け取る。
439:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 03:16:51.23:pcN/w9Iq0
もう二度と見ることはないと思っていた。
桐乃が留学する日の未明、そのチャンスを、自分でふいにしてしまったから。
アルバムの表紙を開く。
果たしてそこにあったのは、幼い頃の桐乃と俺の二人か、俺一人だけが写っている写真ばかりだった。
大きな毛布にくるまり、抱き合って眠っている二人。
リビングで頬をすり寄せ合って笑っている二人。
親父の竹刀を振り回している俺。
庭に設えたビニールプールで水を掛け合っている二人。
玄関の前でランドセルを背負いVサインをしている俺。
ブランコに乗った桐野と、その背中を押してやっている俺。
砂浜で砂のお城を作っている二人。
揃ってランドセルを背負い、玄関の前に立っている二人。
運動会の徒競走でゴールテープを切っている俺……。
ブレの有無で、お袋と親父のどちらがシャッターを切っていたのか分かる。
ふっくらと丸い顔に天真爛漫な笑みを咲かせた桐乃は天使のように愛らしく、
俺はガキのくせに真面目腐った、なんつーか、今の俺もよりもずっと桐乃の兄貴らしい顔をしていた。
眠っていた記憶が呼び覚まされていく。
465:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 09:18:47.83:pcN/w9Iq0
俺はこれらの写真が撮られた瞬間を覚えている。
現像された写真を親父やお袋に見せてもらった記憶もある。
だが以前親父に桐乃の趣味を認めさせようと親父のアルバムを持ち出したとき、
そこに俺が写っている写真は一枚もなくて、
ああ、どうせ桐乃に比べれば俺なんて……と軽いショックを覚えたりもした。
「お前が持ってたんだな」
俺の正面にぺたんと座り込んだ桐乃は、さっと目を逸らし、ややあってから頷く。
理由を聞くのは後でもいい。とりあえず最後まで目を通すか。
ぱらぱらと頁を捲っていくと、アルバムの中程で、唐突に終わりが訪れた。
最後の一枚に写っていたのは、
碧眼を眇め、悔しげな表情でバトンを握りしめて佇立している体操着姿の桐乃だった。
胸のゼッケンには『2-2』の文字。
確かこの頃の桐乃はまだ全然足が遅くて、
だからこれはきっと、桐乃がリレーで負けちまった時の写真なんだろう。
背後の勝者と思しき男の子の喜びようがコントラストとなって、
余計に哀愁を誘う一枚に仕上がっている。
「これで終わりかよ……?」
お前の輝かしい勝利の記録は?
「写真はそれで終わり。次の年からビデオになったから」
467:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 09:34:37.18:pcN/w9Iq0
「ああ、そうだったっけ。
で……お前がこのアルバムを俺に見せた理由は何なんだ?」
「あたしが陸上始めたのはさ、あたしがまだ小学生で、足が遅かった頃に、
超ムカつくことがあったからって、前に言ったじゃん?」
質問に質問で返すなよな。
「聞いたよ。その超ムカつくことが何かは聞いてないけどな」
桐乃は言葉を選ぶように口籠もり、
しかしそれ以外に適切な言い方を思いつかなかったのか、
「そのアルバム見たら分かると思うケドさぁ、
小さい頃のあたしたちって、き、気持ち悪いくらい仲良かったよね?」
気持ち悪いくらい、は余計だろ。
「あんたはあたしのことが大好きで、
あ、あたしも兄貴のことがそれなりに好きで、
どこに行くのも一緒で、何をするのも一緒だった……よね?」
当時の記憶はほとんど残っちゃいねえが、
まあ、このアルバムを見る限り、俺たちは仲睦まじい兄妹だったんだろうな。
471:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 09:52:14.54:pcN/w9Iq0
その関係が拗れることなく続いていれば、
俺たちは赤城兄妹のように、普通に仲の良い兄妹になれていたのかもしれない。
「よく公園に遊びに行ったの、覚えてる?」
「さっきの写真にも写ってた公園か?」
「そ」
俺はアルバムを逆向きに捲り、桐乃がブランコに乗り、
俺がその背中を押している写真を見つけ出す。
背景を見る限り、敷地はかなり広いようで、ブランコの他にもシーソーや回転式の遊具が見える。
少なくとも近所の小さな公園で無いことは確かだ。
「これ、どこの公園なんだ?」
「中学校の近くにあるでしょ。あんたが……ホラ……あやせを説得してくれた、あの公園」
嘘つけ。
あそこは公園と呼ぶのも躊躇われるほど何もない殺風景な場所で、こんなブランコ――。
「撤去されたの。何年か前に小さな子が遊具で怪我して、その親が大騒ぎしてさ。
結局、残ったのは鉄棒と砂場だけ」
476:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 10:08:34.53:pcN/w9Iq0
桐乃は小さく洟を啜って、
「やっぱり、覚えてるワケないよね」
これだけ言われても、思い出せないものは思い出せない。
「すまん」
「謝んなくてもいいよ。
あんたの記憶はあたしよりも三年分劣化してるんだから……、忘れてても仕方ないと思うし」
ムカつくけど、と付け加える桐乃。やっぱ怒ってんじゃねえか。
「小さい頃のあたしはさ、友達作るのが苦手でさ、
家に帰ったら兄貴の後についてばっかりだったんだ。
兄貴と一緒に遊ぶのが楽しくて……、兄貴がいれば、友達なんていらないと思ってた」
桐乃はそこで一瞬、チラ、と俺を恨みがましい目で見て、
「でも、あんたはあたしのことを裏切った」
「う、裏切った?」
「いつもみたいにあんたと一緒に公園に行ったら、
そこにあんたの友達がいて……、あんたはあたしじゃなくて、友達と遊ぶのを選んだのっ」
477:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 10:09:38.91:3phj1zLhO
幼稚な裏切りだな、と一笑に付しかけて、自己嫌悪に陥った。
当時の桐乃にとっては、俺は兄貴であると同時に、唯一の友達だったんだ。
「あたしはあんたに置いてかれるのがヤで、あんたとあんたの友達の後についてった。
そしたらあんたがすっごく怖い声で『帰ってろ』って言って、
それでもあたしがついていったら、あんたと友達が走り出して、
足の遅いあたしはすぐに兄貴たちの姿を見失って……そんなことが何度もあったの」
たぶん、俺は本気で桐乃のことをウザがっていたわけではないんだろう。
だが同年代の友達と遊ぶことと、幼い妹の相手をすることを天秤にかけたとき、下がるのは当然前者の皿で、
それから少なからず、友達の前で妹を優先するのが気恥ずかしかったに違いない。
俺を見失い、半泣きで一人帰路を歩む桐乃の姿を想像する。
「ごめんな、桐乃」
無意識のうちに謝っていた。
「……遅いよ、馬鹿」
487:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 11:00:03.08:3phj1zLhO
桐乃は懐古するように遠い目になり、
「あたしが走る練習始めたのは、それから。
運動会のリレーでビリになることよりも、
あんたに置いてかれたことの方が、よっぽど悔しくて、悲しかった。
小さい頃のあたしは単純でさぁ、兄貴たちに追いつければ、
また一緒に遊んでもらえると思ってたんだよね。
馬鹿みたいだケド……、本気でそう思ってたんだ」
くすっ、と笑い声を挟み、
「そしたら何勘違いしたのか知んないケド、
あんたがあたしに、どうやったら早く走れるようになるのか、色々教えてくれたんだよね。
結局、あたしが兄貴たちに追いつけるくらい足が速くなる前に、
あたしにも仲の良い友達ができて、走る練習をやめようかな、って思ってたところに、運動会があったんだ。
あたしが三年生で、あんたは六年生で……、
一緒に参加できる最後の運動会だから、
せめてどれだけあたしの足が速くなったか見てもらおうと思ったの」
桐乃ははにかみながら、手に隠し持っていたiPodを俺に手渡した。
492:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 11:05:30.86:F/qmjnjk0
「見て」
見て?そこは「聞いて」が適当なんじゃないかと訝しみつつ、
イヤホンを片耳に挿し、クリックホイールを操作して再生した瞬間、
俺はiPodが『音楽』だけではなく、『動画』も再生できるツールに進化していたことを思い出した。
iPodの画面に、幼い桐乃の姿が映し出される。
テレビで再生したものを直に撮り直したんだろう、
画質は最低だが、これが運動界のワンシーン――桐乃の徒競走――であることは分かる。
『桐乃ー、がんばってー』
がやがやとした喧噪に混じって、若かりし頃のお袋の声が聞こえる。
ビデオカメラを回しているのは親父と考えて間違いなさそうだ。
桐乃がスタートラインに着く。
まだクラウチングスタートを知らない桐乃は、ただ体を前に傾け、ひたとゴールテープを見据える。
そして――乾いた空砲の音が轟き、走者が一斉に駆けだした。
505:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 11:48:17.22:pcN/w9Iq0
所詮、小学三年生の駆けっこだ。
走者の身体能力に差はほとんどなく、
走る練習をしていた桐乃が上位に食い込むのは容易いはずだった。
なのに……桐乃の足は悲しいほど遅く、みるみるうちに前の集団から離されていく。
リアと桐乃の勝負を見ていた時と、そっくり同じ感覚が腹の底から沸き上がってきた。
くそっ、応援してやりてえ。
頑張れと、負けるなと、諦めるなと、まだ追いつけると、大声で叫んでやりたかった。
現在と過去を隔てる液晶ディスプレイの前で歯がみしたその時、
『がんばれぇーっ、いけーっ、桐乃ーっ!』
喧噪を切り裂いて、誰かの絶叫が木霊した。
親父は桐乃を追いかけるので精一杯で、その誰かの顔は映らないが、俺には分かる。
――こいつは桐乃の兄貴だ。
『負けるなぁーっ!抜けーっ!最後まであきらめんな桐乃ーっ!』
ほら、その証拠に俺が言いたいことを全部言っちまいやがった。
510:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 12:19:33.21:pcN/w9Iq0
俺の祈りが届いたのか、はたまた緊張で忘れていた走り方を思い出したのか、
桐乃の体がぐんぐん加速していく。まるで桐乃の背中にだけ追い風が吹いているかのようだ。
あっという間に一人を抜き去り、もう一人の背中に追いついたところで――ゴール。
五位、か。段ボールに入っているワッペンの数字どおりの結末だ。
そこで動画は終わっていた。
俺は桐乃にiPodを返し、
「100メートル走ならお前が一位だったな」
「ぷっ、いいよ。今更慰めてくれなくても」
桐乃はiPodを大切そうに両手で包んで、
「あんたの応援、ちゃんと聞こえてたから。
あたしが最後に早くなったのは、あんたのおかげ」
照れ臭くなった俺は頬をポリポリ掻きつつ、
「あれはお前の実力だろ」
「ううん。それだけじゃない。
嘘言っても仕方ないから、言うね。
あ、あたしさ……、なんでか分かんないんだケド、
あんたに応援されると、いつも以上に頑張れるんだ」
516:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 12:48:30.69:TdajZLZDO
桐乃は俯き、
「あの時あんたが応援してくれて、すっごく嬉しくて、気持ちよくて、
たぶんその気持ちが、走ることに結びついたんだと思う。
だからあたしの陸上の原点はあんたで……その原点を記録したコレは、あたしにとっての宝物なの。
スランプになったときや、走るのが辛くなったときは、コレを見るんだ。
あはっ……あんたからしたら、超キモいよね?」
中学に上がって、陸上部に入った桐乃は、
親父やお袋だけじゃなくて、俺にも大会を見に来て欲しかったに違いないんだ。
俺たちは小さな頃の擦れ違いをそのままにしたまま、成長してしまった。
桐乃は裏切られた記憶をいつまでも忘れられず、
俺は裏切った記憶をいつのまにか忘れてしまって。
物心ついた桐乃は素直に兄貴に甘えられなくなり、
妹にコンプレックスを抱えた俺は妹を避けるようになり。
『仲直りしよう』
一番言いたかった言葉は、時間が経てば経つほど、絶対に言えない言葉になっていった。
527:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 14:55:55.30:pcN/w9Iq0
「去年の春に人生相談するまで、あんたはあたしのことが大嫌いで、
同じ家にいても他人同然で、あんたが家を出たら、
本当の本当に他人みたいになっちゃうんだと思ってた」
襖の奥のオタクグッズを一瞥して、
「けどあんたは……あたしの相談に乗ってくれた。
あたしが友達探すの手伝ってくれて、
お父さんと喧嘩してまであれを守ってくれて……他にも色々してくれたよね。
それで、人生相談を続けていくうちに、また昔みたいに戻れるカモって思った。
もう一度あんたのことを好きになれるカモって」
桐乃の告白は、俺の考えていたことと全く同じだった。
桐乃の我が儘を、面倒だ、鬱陶しい、と言いながらも叶えてやっていたのは、
俺が桐乃と仲直りしたかったからだ。桐乃のことをもう一度好きになりたかったからだ。
「あんたが留学してたあたしを連れ戻しに来たとき、どうしてあたしが帰ることにしたか分かる?」
「……俺がお前がいないと寂しくて死ぬって言ったからか?」
「そ、それは……違わないけど、違う……」
どっちだよ。
「あー、じゃあお前がリアに言った台詞そのまま借りるけど、
こっちにお前の大切なモンがたくさんあって、それがお前の原動力、だからか?」
534:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 15:59:43.07:pcN/w9Iq0
桐乃はまたしても首を横に振り、
「日本に帰れば、あんたがあたしのことを見てくれるって、
あの時みたいにあたしを応援してくれるって、はっきり分かったから。
こっちに来たリアと中学校で競争して、あんたに応援されて再確認した。
あのね、あたしさ……弱く、なっちゃったんだ……」
「弱くなったって、どういう意味だよ?」
「あたしはもう…………なきゃ…………ダメなの」
枯れていた涙が、再び目の縁から溢れ出す。
桐乃は嗚咽を必死で堪えながら、
「あたしは……あたしはもうっ……あんたに見ててもらわなきゃダメなのっ……!」
「な、何言ってんだよ。俺はいつでもお前のことを」
見てるじゃねえか、と言い終える前に、桐乃が涙混じりの言葉を投げつけてくる。
「見てないっ!」
怯んだ俺に、桐乃は畳みかけた。
「黒いのと付き合いだしてから、あたしのこと、全然見てくれてないじゃんっ……!
どうせっ……どうせあたしのことなんか……どうでもよくなっちゃったんでしょっ……!?」
542:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 16:31:53.87:pcN/w9Iq0
なんだその言い草。
あれだけ自分から俺を拒絶するような態度とってたくせによ。
やっぱり構って欲しかったんじゃねえか。
「俺がここ最近、お前のことを避けてたのは……」
ああ、クソ。
なんでよりにもよって一番言いたくない相手にこんなことを言わなくちゃならねえんだろうな。
「お前に……兄離れして欲しかったからだよ!」
「あ、兄離れ?」
「ああ、そうだ!
お前は自覚なかったのかもしれねーけど、ここ最近のお前は、俺にベタベタしすぎなんだよ!」
普段から人のことシスコンシスコン馬鹿にしてるけどな、
「お前も立派なブラコン――ぶはっ」
痛ぇ!何しやがる!?
俺の胸をボカッと一発殴った桐乃は、
「ブ、ブラコンの何が悪いワケ!?
むしろシスコンのあんたからしたら好都合だよね!?
なんでまた距離置こうとするの!?そんなの、おかしいじゃんっ!」
545:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 16:52:43.47:pcN/w9Iq0
「俺は怖かったの!
お前に、純粋に兄貴としてじゃなくて、
その……まあ……なんだ……一人の男として好かれてたらどうしようかと――ぐはっ」
パンチ二発目頂きました。
誰も心臓マッサージは頼んでねえよ!
「あ、ああ、あたしがあんたのことを……ひ、一人の男として……?」
桐乃は舌を激しく縺れさせ、
「そ、そんなこと……」
あるワケないじゃんマジエロゲ脳キモすぎ死なして九十九里浜に埋めるよ?とは続けずに、
「……分かんない」
またそれかよ!
とりあえずは俺を安心させるために『兄妹としての好きだよ(ハート)』って言っとけや。
なんで禁断の愛の可能性を残すの?ねえ、なんで?
559:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 17:24:11.11:pcN/w9Iq0
「あ、あんたと疎遠だった時間が長すぎたから、
自分でもあんたへの『好き』がどういう『好き』なのか分かんないのっ!
た、多分……兄妹としての『好き』なんだとは……思う……ケド?」
"多分"と最後の疑問符が余計だが……まあ、今のところはそれで納得しといてやるか。
「で……、話を元に戻すけど、
お前は……俺に見てて欲しい……んだよな?」
桐乃は顔を真っ赤にして、しかし力強く頷く。
俺は言った。
「俺はいつでもお前のことが心配で、いつでもお前のことを応援してる。
それは黒猫と付き合っても、何も変わらねえよ。……なぁ、それじゃダメなのか?」
数秒の沈黙。
やがて桐乃は、膝をついて俺の傍に寄ってくると、
ライトブラウンのつむじを俺の胸に預け、
「一番じゃ、ないんでしょ?」
ぽす、とまともに握ってもいない拳で叩いてくる。
「一番じゃなきゃ、ヤなの」
そして桐乃は、俺がこれまで聞いた中でも、史上最大級の我が儘を口にする。
「黒猫はあたしの友達で……友達だから……あんたのことが本気で好きなのも分かってるっ……!
でも……ヤなのっ!あたしよりも黒猫の方が大切にされるのが……ヤなのっ……!」
560:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 17:25:36.16:YzF3VGdhO
そっか。お前の気持ちはよく分かったよ。
「あんた、男と付き合うのなんてやめて欲しいって……この前あたしに言ったよね……。
なのに……自分は黒いのと付き合うなんて……そんなの、ズルい!
あたしだって……あたしだってっ……!兄貴に、女と付き合うのなんてやめて欲しいっ……!」
Tシャツは涙でぐしょ濡れだ。
ぽかすかと殴りつけてくる桐乃の頭に手を乗せて、小さな子をあやすように撫でてやる。
そうしていると、ずっと昔にも、こんなことがあったことを思い出した。
転んで膝を擦り剥いた桐乃を、
雷に怯えた桐乃を、
親父に叱られた桐乃を――俺はこんなふうに慰めてやっていたんだ。
妹が泣いたら、泣き止ませるのが兄貴の仕事で、
妹が離れるその時まで、我が儘を聞いてやって、しっかり護ってやらなきゃならない。
そうだったよな、赤城。
「なあ、桐乃。お前に約束してほしいことがあるんだ――」
613:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 20:11:32.17:pcN/w9Iq0
「イヤあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!晒しスレが立ってるぅぅぅぅぅぅ!!!!」
ムンクの叫びのように両手を頬に当てて絶叫する少女の名前は赤城瀬菜。赤城の妹だ。
俺は真壁君と顔を見合わせ、今は触れないほうがいい、と無言で合意を終えた。
だというのに瑠璃は横目でチラと瀬菜を見遣ると、
「あなたは相も変わらず騒がしいわね。
またわざわざネットから批判を蒐集して発狂しているの?
被虐趣味も大概にしておきなさいよ。耳障りだから」
あーあ触れちまった。瀬菜はキッと瑠璃を睨め付けて吠えた。
「五更さんは批判され慣れてるかもしれないですけどっ!
あたしには全っ然耐性ができてないんです!」
「おい赤城ィ、お前ちっと声のトーン落とせよなぁ。この前も隣の部室から苦情が……」
「部長は黙ってて下さい。
あと壊滅的に臭いので可及的速やかに全身を殺菌洗浄してきてください」
部長はのっぺりした前髪を摘みながら、
「ハァ?一昨日シャワー浴びたばっかりだぜぇ?」
「真壁せんぱい、ファブリーズをお願いします」
614:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 20:17:13.82:wpUW2JUrP
両手にファブリーズを携え、距離を詰めていく真壁くん。
「オイ真壁てめぇ、まさかチョクで吹きかけるつもりじゃねえだろうな!?」
「きちんと毎日お風呂に入らない部長が悪いんですよ。汚物は消毒です」
シュッシュッ。真壁くん容赦ねえな。
「ギャーやめろ!やめろって!今すぐ水浴びしにいくから」
部室を飛び出していく部長には目もくれず、
瀬菜はマウスのホイールを回しては呪詛を吐く作業を再開している。
匿名批評者の槍玉に挙げられているのは、
ゲー研が夏コミ一日目で販売した創作物だ。
制作の根幹にはもちろん瑠璃と瀬菜が関わっていて、
煽られ慣れていない瀬菜が発狂するのはもはや恒例行事になりつつある。
「キィームカツク!ああぁー悔しいっ!
こいつら人間じゃないです!人の皮を被った悪魔です!」
「なら悪魔も納得させるようなゲームを作るまでよ」
瑠璃にすげなく言い換えされた瀬菜は、ぐぎぎと歯を食いしばり、
文句の聞き役を探して部室を見渡し、標的を俺に定める。
「ねー高坂先輩。聞いてくださいます~?」
「真壁くんに聞いてもらったらどうだ?」
621:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 21:04:53.09:pcN/w9Iq0
真壁くんはニッコリ笑って、
「僕でよかったら聞き役になりますよ。悔しい気持ちは僕も一緒ですし」
「真壁せんぱぁい……」
真壁くんと瀬菜の仲を取り持つ俺マジGJ。
瀬菜は男からのアピールに鈍そうだし、真壁くんは積極性に欠けるからな。
これで実は既に付き合ってる、とか言われたらビックリだけどよ。
今度それとなく真壁くんに聞いてみっかな。
-------
昇降口を出たところで、瑠璃は何も言わずに手を絡めてきた。
「お、おい。誰かに見られたらどうすんだよ」
「何も怖れることはないわ。
半径五メートル以内の空間に『頻闇の帳(ブラインドフィールド)』を展開しておいたから。
で、今日はどこに連れて行ってくれるのかしら?」
瑠璃は上目遣いに尋ねてくる。
今日は部活に参加した後、途中で抜けて、制服デートを楽しむ約束をしていたのだ。
俺は言った。
「その前に……さ。瑠璃に話があるんだ」
期待の光を宿していた瑠璃の双眸に、翳りが差す。
622:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 21:11:19.22:3phj1zLhO
「それは歩きながら話せるような話ではないの?」
「ああ。できるならどこか、落ち着いた場所で話がしたい」
「………そう。なら誂え向きの場所を知っているわ」
瑠璃はきゅっと下唇を噛むと、俺の手を引いて、校門とは逆方向に歩き出した。
果たして辿り着いたのは校舎裏のベンチで、俺たちはそこに手を繋いだまま腰掛けた。
日陰を吹き抜ける涼風に汗が引いていく。
グラウンドから響く運動部のかけ声と、葉擦れの音以外には何も聞こえない静謐なこの場所は、
俺と瑠璃にとっては思い出深い場所でもある。
「…………」
話がある、と言い出しておきながらダンマリを決め込んだ俺に、
瑠璃は辛抱強く付き合ってくれた。
唇を湿らせ、覚悟を決める。
しかし俺が舌先に言葉を載せる直前に、
「別れよう」
えっ?
「そう、言いたかったのでしょう?」
650:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 21:49:10.44:pcN/w9Iq0
「なんで……」
と呟きを漏らすのが精一杯の俺に、瑠璃は訥々と言葉を重ねていく。
「わたしと二人きりになった途端に、
あんなに悲愴で、沈痛で、哀切の漂う表情をされれば、厭でも察しが付くわ。
で、わたしの勘は当たっていたのかしら?それとも外れていたのかしら?」
否定できない。ああ、その通りだ。
確かに俺は今日、お前に別れを切り出すつもりでいた。
沈黙は肯定と同義で、瑠璃はふんと鼻を鳴らし、
「どうやら図星だったようね。
理由は……十中八九、あなたの妹に泣き付かれたからでしょう?
そろそろ頃合いだと思っていたのよ。
あなたが折れるか、あの女が素直に欲望を吐露するか、のね」
全ては想定内だと言わんばかりの語り口だった。
そして今のところ、瑠璃の言っていることはほとんど正鵠を得ている。
673:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 22:11:56.27:pcN/w9Iq0
「三日と少し……よくもったほうだ、と言うべきなのかしら。
いずれにせよ、短い幻想(ユメ)だったわね。
ふふっ、あなたを家に呼んだときに既成事実でも作っておけば、
わたしは今も幻想(ユメ)を見続けることができていたのかしら」
瑠璃は清々しい表情でそう言い放ち、立ち上がろうとする。
でも、俺は瑠璃が手を解くのを許さなかった。
……このまま行かせてたまるか。
「離して頂戴」
瑠璃は振り返らずに言う。
「安心しなさいな。
わたしがあなたと付き合っていたことは、
一夏の思い出として、胸の内に仕舞っておいてあげるから。
ベルフェゴールや沙織にはまだ何も伝えてないのでしょう?
なら、何も問題はないわ。あなたはこれまで通りの日常に回帰――」
力に任せて、無理矢理振り向かせた。瑠璃は咄嗟に俯く。
それでも瑠璃がこちらに顔を向けた一瞬、たしかに俺は瑠璃の眦に大粒の涙を見た。
なに、物わかりのいい彼女演じてんだよ。
全然納得できてねえんじゃねえか。
698:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 22:43:38.14:pcN/w9Iq0
「なぜわたしを止めるの?
まだ何か不満なら、どうぞ言ってごらんなさいな」
不満?大ありだよ。
俺は言った。
「お前の言ったことは、大体当たってる。
桐乃は……あいつは、俺がお前と付き合うのがどうしても許せないらしいんだ。
俺がお前に取られる気がするんだと……まるっきりガキの理屈だよな」
ホント、中学三年にもなって、兄貴に彼女作るなとかどんだけブラコンなんだって話だよ。
「でもさ、俺は桐乃の我が儘に耳を塞げなかった。無視できなかった。
元を辿ればさ、あいつがそんなことを言い出した原因は俺にある。
俺は随分長いことあいつをほったらかしにしてきて、
そっからこれまでの空白期間を埋めるみたいに、あいつに構っちまった。
自分で言うのもなんだけどさ……、今のあいつには、俺が必要なんだ。
あいつは俺が見てなきゃダメになっちまうんだよ」
「ふっ、妹を想う兄の鏡ね。シスコンとブラコン、最高の組み合わせじゃない?」
俺は瑠璃の震えた声には応えず、
「でも、俺だっていつまでもあいつのことを見ていられるわけじゃねえ。
だから桐乃に約束させた。
もしも桐乃に、桐乃のことを俺よりも大切にしてやれる奴ができたら――その時はお役ご免だってな」
716:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 23:05:39.50:pcN/w9Iq0
「あなたは当然、その約束があなた自身を縛ることにも気づいているのでしょうね」
「ああ、分かってるつもりだ」
桐乃に彼氏ができるまで、桐乃を誰よりも大切にすることは、
桐乃に彼氏ができるまで、俺が彼女を作れないことと同じ意味だ。
それを承知で、俺は桐乃と約束を交わした。
「それで……」
瑠璃は繋いだ手に力を込めて言った。
「あなたはわたしに、あの女に彼氏ができるまで待っていろと言うの?」
779:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 23:47:47.74:pcN/w9Iq0
「……待っててくれ、とは言わない」
お前が誰か他の奴のことを好きになっても仕方ないし、
その時に、俺がお前に文句を言う資格もない。
だから、
「もしも桐乃に彼氏ができたら、"俺"が"お前"に告白する」
お前が俺に愛想を尽かしていたら、遠慮無く、こっぴどく振ってくれていい。
もしも一分でも好きな気持ちを残してくれていたら、その時は……。
どちらにせよ、選ぶ権利は瑠璃にある。
その選択権さえ放棄したいなら、それでも構わない。
俺はもう……瑠璃に嫌われるには、充分すぎるほど最低なことをした。
813:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/29(水) 00:17:37.32:MBV6f3cx0
「ごめん」
俺は手を解き、目を瞑って頭を垂れる。
長い長い沈黙があった。
目を開けばそこに瑠璃の姿はなく、
一人ベンチに取り残されているのではないかと疑うほどの静寂があった。
「卑怯よ」
瞼を開く。瑠璃はまだそこにいてくれた。
「そんなことを言われては、あなたを責めるに責められないじゃない」
「瑠璃……」
「さっきも言ったでしょう……三日と少し……よくもったほうだ、と。
あなたに別れを切り出されるのは、所詮時間の問題なのだと、わたしには初めから分かっていた」
瑠璃はスカートの前で、こぶしをぎゅっと握りしめて、
「告解するわ。わたしは……わたしはあなたとあなたの妹の微妙な関係を利用したのよ。
あなたは『妹から異性として好かれている』可能性を怖れていた。そうでしょう?
それが真実か否か確かめる状況から逃げる『手段』として、わたしと付き合う選択肢を意識させた。
あの時、あなたはわたしのことが好きだから、
わたしの告白を受け入れると言ってくれたけれど……。
実際は、それが唯一の理由ではなかったはずよ」
828:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/29(水) 00:29:58.95:MBV6f3cx0
そうだ。
俺は桐乃との関係を、自分でも自信が持てなかった可能性を指弾されて、
都合良く目の前にあった逃げ場に駆け込んだにすぎない。
瑠璃のことが好きだという気持ちに嘘はない。
けれど俺は、その気持ちを最後まで吟味することなく、性急に答えを出してしまった。
いや、出すことを強いられた、というのが正しいのか。
「わたしもあなたも、打算的だったわ。
そんな不純なきっかけで始まった恋人関係が長続きするわけがない。当然の帰結ね」
でも、と瑠璃は続ける。
「それでもわたしは……あなたの恋人になりたかった。
たとえ純粋な気持ちからではなくても、あなたがわたしを選んで、
そのままわたしを選び続けてくれる極小の可能性に賭けた」
882:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/29(水) 01:13:35.88:MBV6f3cx0
そうまでして瑠璃が俺の恋人になりたかった理由は……考えるまでもねえよな。
「ねえ、正直に応えて頂戴ね。
あなたがわたしに告白をしなおすというのは、筋を通すため?
それとも……あなたが本気でそうしたいと思っているから?」
俺はありのままの気持ちを口にする。
「本気でそうしたいと思ってるからだ」
桐乃を避けていた理由は、兄離れをさせたかったのと、
それと何より、瑠璃と別れるのが嫌だったからだ。
俺は瑠璃と恋人でいることに、他の何にも代え難い幸福感を覚えていた。
順序が逆かもしれねえけど、付き合ってからハッキリ気づいたんだ。
「俺はお前のことが好きだよ。手放したくなんかない」
「わたしもあなたのことが好きよ。別れたくなんかないわ」
「じゃあ瑠璃は……待ってくれるのか?」
「待つ、という言い方は適当ではないわ。
そうね、言うなればこれは契約の"一時解消"よ」
瑠璃は――黒猫は両手の指で目を擦り、艶然と笑んで言った。
「だから、もしもあの女に相応しい彼氏ができたときは……その時は再び、闇の契りを交わしましょう?」
935:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/29(水) 01:38:14.59:MBV6f3cx0
八月二十八日。
夏休みも後数日を残すところとなり、
世間の怠惰な受験生はこれまでの遅れを取り戻すべく必死になっているんだろうが、
勉強の出来る心強い幼馴染みのサポートを受けている俺に焦りは無縁で、
友人家族と一緒に県外くんだりまで出かける余裕さえある。
「京介~、あの子の出番いつなの~?
もう走り終わっちゃったんじゃないの?」
双眼鏡を覗きながらお袋が言った。
「もうすぐだろ。親父、ビデオの準備は?」
「む、完了している」
普通に出来てるって言えよな。
隣の沙織はくっくっくっと喉を鳴らして、
「きりりん氏のご両親は愉快な方たちですなぁ」
愉快て。
「もちろん誉め言葉でござるよ?
それにしても、ずいぶん準備に時間がかかっているご様子……」
沙織は手を庇にして首を前に突き出す。
視力云々以前に、そのぐるぐる眼鏡でどこまで先の物が見えているのかと尋ねたい。
「る……黒猫、お前は大丈夫か?相変わらず汗一つかいてねーけど」
「だから、わたしは薄い妖気の膜を――」
「ほらよ。お袋が持ってきたの貸してやるから」
990:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/29(水) 02:35:14.11:MBV6f3cx0
俺は有無を言わさず日傘を差して、黒猫に手渡す。
「あ、ありがとう」
はにかみ、顔を赤らめる黒猫。
「京介氏は黒猫氏には優しいんですなぁ?拙者、嫉妬してしまいますぞ?」
「お前はたっぷり汗かいてるから大丈夫だろ」
口をω(←こんなふう)にして憤慨する沙織。
人の機微に敏感なコイツのことだ、俺たちに何か秘め事をされていることには、とっくに気づいているのかもしれない。
少なくとも桐乃が塞ぎ込んでいた期間、あやせと同じように、沙織も桐乃の異常に気づいてたに違いないのだ。
いつか、説明しなくちゃならない時が来る。
でも今は……その時が来るまでは、沙織の思いやりに甘えておこうと思う。
「あれではないかしら?」
ぽそりと黒猫が言った。皆が一斉にその視線を辿り、赤茶色のトラックの上に整列する群衆の上に、探していた人影を認める。
均整の取れた体。すらりと伸びた長い足。ライトブランの豊かな髪は走りの邪魔にならないよう、綺麗に結わえられている。
緊張に強張っていた顔が、こちらに向き……満面の笑みに変わる。
大きく手を振る桐乃。俺たちは全員でそれに応えてやった。
今日は桐乃にとって、中学最後の陸上選抜大会だ。桐乃が今、他の走者と共にスタートラインに着いた。
完成されたフォームは、あの日の稚拙な構えとは比べものにならない。
乾いた空砲が蒼穹に鳴り響く。
「がんばれーっ!桐乃ーっ!」
俺はいつかの運動会と同じように、声を張り上げた。
995:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/29(水) 02:38:51.85:YkgpngrGO
白猫wktk
98:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/20(月) 19:08:17.81:KU/Wy8bd0どれくらい歩いただろう。
「はぁ……はぁっ……追っては、こないみたいよ……っ……」
「そっか、……って、急ぎ足で引っ張っちまって悪かったな。大丈夫か?」
黒猫は胸に手を当てて乱れた息を整え、
「問題ないわ。あなたは、わたしを助けようとしてくれたのでしょう?」
優しく笑んで、上目遣いに見つめてくる。
か、可愛すぎる。これ、狙ってやってんなら反則だからな?
俺は頬をカリカリ掻きつつ、
「まあ、それはそうだけどよ……つーか、お前さあ、待ち合わせの時間分かってるか?
十時だぜ、十時。早く来すぎだっつうの」
「それはあなたが偉そうに言える台詞ではないでしょう?」
分かってねえなあ、コイツ。
「お前は俺を待たせる側なの」
「とんだフェミニストね」
「バーカ。俺よりも早く来てナンパされてたら世話ねえだろうが」
「……あなたは重大な勘違いをしているわ。
わたしは千葉の堕天聖黒猫。
人間風情が束になってかかってきたところで、闇の眷属たるわたしに敵うわけがない。
もしも『頻闇の帳(ブラインドフィールド)』を展開していれば、
彼らはわたしを傷つけるどころか、わたしを認識することすらできない愚図に成り下がっていたでしょうね」
嘘こけ。
俺が駆けつけた時は思いっきり泣きそうだったじゃねえか。
ついでに言っとけば、
「今日のお前は黒猫じゃなくて、白猫だろ」
「またこの前と同じことを言うのね……白猫だったら何だと言うの?」
「電波発言は控えめにしとけってこと。
私服姿のお前がそういう台詞口にしても、全然似合わねえから」
「フン。わたしの知ったことではないわ」
黒猫は拗ねるように唇を尖らせ、胸を反らせる。
真っ白なワンピースの上で、陽光を弾き銀色に輝くロザリオ。
この前のコミケで、俺が黒猫に買ってやったものだ。
「着けてきてくれたんだな」
「あ、当たり前でしょう?」
黒猫は赤くなった顔を隠すように俯くと、
「これはあなたがわたしにくれた……初めてのプレゼントなのよ」
愛おしげに、指先でロザリオを撫でる。
その仕草は妙に扇情的で、俺はカッと顔が熱くなるのを感じた。
おいおい、ここで照れ隠しするのがいつもの黒猫だろ?
「『今日のわたしは黒猫ではなく白猫だ』と言ったのは、あなたじゃない」
繋いだ手に力が籠もる。
「ねえ……もしも……もしもあなたが望むなら……。
わたしはあなたの前でだけ、ずっと白猫のままでいてもいいわ」
ちょ、ちょっと待った!
落ち着け白猫――じゃない、黒猫!
お前最初から飛ばしすぎだよ。デート開始からまだ20分しか経ってないんだぜ?
クスリ。黒猫は妖艶に笑み、
「ふふっ、本当に騙されやすい雄ね。
わたしが自分のアイデンティティをそう簡単に捨てられるわけがないじゃない」
で、ですよねー。ほっと胸を撫で下ろしたよ。
残念な気がしなかったと言えば、嘘になるけどさ。
あ、やばい俺今日悶え死ぬかも。
117:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/20(月) 20:47:14.95:sKHVdNmRPニヤニヤが止まらない!
122:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/20(月) 21:09:38.01:KU/Wy8bd0「でも……呼び方を変えることは可能よ」
視線を俺の唇に注ぎ、意味深な呟きを漏らす黒猫。
「じゃあ、これからは白猫って呼んでもいいのか?」
と真顔で訊くと、
「…………ッ」
軽蔑の眼差しが飛んできた。
えっ?俺何か間違ったこと言った?
呼び方を変えてもいいって、そういうことだったんじゃないの?
黒猫は苛立たしげに目を眇め、
「わたしたちの関係に、もっと相応しい呼び方があるでしょう?
あなたは既に知っているはずよ。
わたしの真名ではないほうの……人間に擬態しているときの、仮の名前を」
「あっ……」
ここまで言われなくちゃ分からない自分に、ほとほと嫌気がさしてくるね。
「五更……瑠璃……」
「長すぎるわ」
ここで名字を選ぶほど、俺の脳味噌は終わっちゃいない。
「瑠璃」
「そう、それでいいのよ」
黒猫は――瑠璃は満足げに頷くと、
「このままでは不公平だから……わたしも、あなたの呼び方を変えるわ」
顔を完熟した林檎みたいに真っ赤にして、
「京介」
『兄さん』でも『先輩』でもない、俺の名前を呼んでくれた。
顔面の筋肉に力が入らない。
鏡が無いので分からないが、俺の顔は緩みに緩み、鑑賞に堪えないものに成り果てているに違いなかった。
元々見るに堪えない顔だって?ほっとけや。
「瑠璃……瑠璃……」
語感を確かめるように、何度も繰り返し、黒猫の本当の名前を口にする。
ああ、瑠璃にとっては『黒猫』が本当の名前なんだったっけ。
「は、恥ずかしいから無意味に連呼しないで頂戴」
「別にいいだろ、減るモンでもないしよ」
兄貴爆発しろ
129:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/20(月) 21:37:46.67:uh7NiEooOもう俺が爆発するわ
135:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/20(月) 21:52:48.78:H3wAquQbO悶えすぎて関節が変な方向向いちゃった。
138:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/20(月) 21:54:32.84:KU/Wy8bd0手を繋ぎ、お互いの本当の名前を呼び合う――。
ただそれだけで、瑠璃と恋人同士になったことを強く実感した。
ともすれば幸福感に酔い痴れそうになる理性を奮い立たせ、
俺は彼女に喜んでもらえそうな、午前中のデートプランを提案する。
1、秋葉原
2、自由記述
2はできれば千葉県内の観光できるところでお願い
あまりにデートスポットからかけ離れていたら自動的に1で
>>145
中央公園
145:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/20(月) 21:59:00.62:pZHm48Wr0>>144
147:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/20(月) 22:41:47.10:KU/Wy8bd0所変わって中央公園。
「ベルフェゴールの好きそうな場所ね。倦怠と堕落の香りがするわ」
敷地内に足を踏み入れた瑠璃は、開口一番、小馬鹿にするような笑みを浮かべてそう言った。
倦怠と堕落の香りって何だよ。さっぱり分からん。
「飯の時間までは、ここでのんびりしてようぜ」
俺は瑠璃の手を引いて、池に臨んだ遊歩道を歩いて行く。
何度も言うが、ここは初見で感じるほど退屈な場所じゃない。
木漏れ日が織りなす幾何学模様や湖面で弾ける陽光が目を楽しませてくれるし、
草いきれを孕んだ涼風は、現代社会に生きることで摩耗した心を優しく撫でてくれる……って、完璧思考がジジイだわ。
無難な選択をしたつもりだったけど、退屈させてねえかな?
恐る恐る瑠璃の様子を伺うと……。
「綺麗なところね」
穏やかな表情で、そう言ってくれたよ。
言葉少なに散歩を続けていると、やがて右手に、あのベンチが見えてきた。
自然と歩みが遅くなる。
つい昨日の出来事なのに、瞼の裏に蘇る光景が、
随分と昔のことのように色褪せて見えるのはなんでだろうな。
「……あのベンチが気になるの?」
「なんでもない。行こうぜ、あっちに花畑があるんだ」
訝しげな視線から逃げるように顔を背けて、歩調を早めた。
遊歩道の果て、池の一辺の延長線に沿うように作られた植え込みに近づくにつれて、甘い薫りが強くなる。
白、ピンク、赤、黄色、橙――色取り取りに咲き誇る花の中で、名前を知っているものはほんの数えるほどしかない。
それでも、大事なのは花を愛でる気持ちであって、たとえ名前を呼ばれなくても、
見られて綺麗と思ってもらえれば、それがお花にとって最高の幸せだと思う――とは麻奈実の弁。
「ここの花壇は、いったい誰が世話をしているのかしら」
「さあな。市の職員じゃないか」
「大変な作業でしょうね…………あら」
瑠璃は花壇の一角に屈み込み、何かを拾い上げた。
「何を拾ったんだ?」
「これよ」
瑠璃の手のひらの上に乗っていたのは、黄色いハイビスカスだった。
まだ落ちて間もないのだろう、踏まれた痕もなく、花びらはどれも瑞々しさを保っている。
「可哀想に。何かの拍子に落ちてしまったのね」
「貸してくれ」
「構わないけど、何に使うつもりなの?」
「いいから」
首を傾げながらも、瑠璃は俺の手のひらの上に、そっとハイビスカスを乗せてくれる。
俺はその付け根を指でつまみ、黒猫のつば広帽子の編みが粗い部分に差し込んだ。うん、いい感じだ。
「もう……」
瑠璃は一瞬、俺の勝手な装飾に文句をつけかけ、
「似合っているかしら?変ではない?」
「よく似合ってるよ。マジで」
いよいよ夏の青春映画に出てくるヒロインじみてきた、とは言わないでおく。
「でも水に挿してあげなければ、すぐにでも凋萎してしまうのではなくて?」
なんだ、そんな心配してたのかよ。
「ハイビスカスはよく首飾りに使われてるだろ?
あれって、摘んでもなかなか萎れないからなんだ」
「そう。物知りなのね……きょ、京介は」
「………」
悪いな瑠璃、堪えきれそうにねえわ。
俺は吹き出した。
「な、何が可笑しいの?」
「慣れないうちは、無理して名前で呼ぼうとしなくてもいいんだぜ」
「呼ばなければいつまで経っても慣れることがないじゃない」
矛盾を突き付けられ、それもそうか、と思い直す。
てことは、これからしばらくは、ぎこちない『京介』を聞かされることになるんだな。
瑠璃はぷいと顔を背けて、さっき俺がしていたように、俺の名前を繰り返し唱える。
「京介……京介……」
なんだか背中がむず痒くなってきやがった。
おい瑠璃、本人の前で練習するのはやめろ。
駅前の喫茶店で軽い昼食を取った俺たちは、電車を乗り継いで、
沙織の住む高級住宅街からそう遠くない、海辺の町にやってきた。
仄かに漂う磯の香りや爽籟の音に、いやがうえにも気分が高揚してくる……のだが、暑い。とにかく暑い。
空を薄く覆っていた斑雲はいつの間にか風に流され、
満面の笑みを浮かべた太陽は、まるで午前中の鬱憤を晴らすかのように眩い陽光を降り注がせている。
電車を降りてから数分、俺のTシャツは早くも汗でべとべとだ。
だというのに、
「瑠璃は汗一つかいてねえな」
透き通るように白い肌の上には、汗の玉どころか、しっとり濡れている様子さえ見受けられない。
マジで妖気の膜を張ってるとは思えないし、生まれつき汗腺が少ないんだろう。
「体調が悪くなったら、すぐに言うんだぞ」
「わたしの心配をする前に、自分の心配をしたらどう?
そんなに汗をかいていては、到着する前に脱水症状を起こしてしまうのではないかしら?」
空のペットボトルを見せる。
「あら、もう飲み干してしまったの?」
瑠璃は呆れたように瞬きし、しかし次の瞬間には、
はい、と自分の半分ほど中身が残っているペットボトルを差し出してきた。
いや、そういうつもりで見せたわけじゃ……嘘です、ちょっと期待してました。
「いいのか?」
「遠慮しないで呑んで頂戴。
わたしは喉が渇いていないし、あっちにも自販機の一つや二つ、置いてあるでしょう?」
瑠璃の言葉に甘えて、蓋を開ける。
一口だけにしておくつもりが、我に返ってみれば、綺麗に飲み干していた。
一部始終を見ていた瑠璃は、
「子供みたいよ、あなた」
クスッと笑みを零す。
わ、悪い。飲み始めたら止まらなくってさ。
「謝ることはないわ。
遠慮しないで呑んでいいと、最初に言ったでしょう?」
「……そっか」
セスナ機の低く間延びしたエンジン音が、上空を横切っていく。
坂道の峠に差し掛かった折、瑠璃は出し抜けに言った。
「間接キスね?」
おま……、分かってても言わねーだろ、普通さあ。
「何を照れているの?小中学生じゃあるまいし」
俺をからかう瑠璃は心底楽しそうで、しかし人のことを笑えないくらい、顔を上気させていた。
「この程度のことを恥じらっているようでは、先が思い遣られるわね……きゃっ、何をするの?前が見えないじゃない!」
「不意打ちした罰だ。海に着くまでそうしてろ」
帽子のつばを目一杯下ろした――正確には下ろされた――瑠璃は泣きそうな声で、
「この状態でどうやって歩けと言うの?」
「手を繋いでるから問題ないだろ」
「あなた、本気で言ってるの?」
「……冗談だよ」
帽子のつばを上げてやる。
微かに潤んだ双眸が現れ、非難するような視線を寄越してきた。
お、怒るなよ。落ち着いて俺の名前呼んでみ?
「きょ……京介」
ぷっ。
「わ、笑わないで頂戴。
それ以上笑えば、『緘黙の僕(サイレントスレイブ)』をかけざるをえなくなるわ」
「そいつはいったいどんな魔法なんだ?」
「72時間一言も口が利けなくなる恐ろしい呪いよ。無理に発声しようとすれば全身から血を吹き出して死ぬわ」
嫌な死に方ランキングがあれば余裕で上位を狙えそうな死に方だな。
俺は片手で口を塞ぎ、込み上げてくる笑いを噛み殺した。
立ち入り禁止のテープをくぐって、陽光に灼けた砂浜を踏む。
ざあ……ざあ……と響く潮騒が、耳に心地よい。
水平線では海原のエメラルドグリーンと夏空のセルリアンブルーが融け合い、その境界を曖昧にしていた。
俺と瑠璃の他に人影はなく、まるで世界に二人だけになってしまったかのような錯覚に陥る。
無骨な重機にさえ目を瞑れば、夏の海を楽しむには最高のビーチだった。
「どうやってこんな場所を見つけたの?」
「夏休みに入る少し前に、沙織が教えてくれたんだ」
「沙織が?」
「ああ。瑠璃が夏コミに参加して俺たちがそれを手伝うことにならなけりゃ、
適当に都合の良い日見つけて、全員で来る腹積もりだったんじゃねえかな?」
この穴場で出来上がるまでの過程を要約すると、以下のようになる。
とある大企業が輸出業に飽きたらず観光リゾートの開発に着手、
着工からまもなく急激な円高化で企業成績は悪化、事業は縮小を余儀なくされ、
後には立ち入り禁止の看板と、乗り手のない重機だけが残された、というわけ。
「ふうん」
瑠璃は遠い目になり、
「本当に……綺麗な海ね……」
ぺたぺたと砂場に足跡をつけながら波打ち際に寄り、パンプスを脱いで素足を浸した。
抜けるような快晴のもと、瑠璃の波との戯れは、そのまま一枚の絵になるくらいに、色めいた光景だった。
絵心のない俺はその代わりにと、携帯カメラのフレームに彼女を収めた。
つば広帽子が瑠璃の精緻な顔に陰影を落とす。
海風が瑠璃のワンピースをふわっと膨らませる。
時折寄せる強い波が、瑠璃を慌てふためかせる。
あれ?こんな場面の絵をpixivで見たような
241:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/22(水) 00:41:53.70:z8mySBUj0242:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/22(水) 00:48:15.55:N/7hYphP0
12話見た
色々と消化不良なところはあったけど桐乃可愛すぎて泣いた
この話が終わった暁には1レス30行かけて桐乃への愛を綴ろうと思う
「いつまでそこで惚けているつもり?」
「すぐ行くよ」
靴を脱ぎ、携帯をその上に乗せる。
ジーンズの裾を捲り上げて波打ち際に歩み寄ると、ひんやりとした感触がくるぶしまでを包み込みんだ。
気持ちよさに身震いしたそのとき、
「うおっ……何しやがる!?」
「ふふっ、水も滴るいい男になったじゃない?」
両手で海水をすくい、第二波の準備を完了した瑠璃が言う。
あのなあ、一つだけ言っとくぜ。
俺は巷のバカップルみてえに、砂浜でキャッキャウフフ水を掛け合ったり、追いかけっこするつもりは――
「ぶはっ」
思いっきり顔面を狙って来やがった!
口の中いっぱいに塩気が広がる。
「お前なあっ……!」
瑠璃は悪びれたふうもなく口角を上げて、
「悔しかったらやり返してみなさいな?」
俺もなんかしょっぱい水が溢れてきた。
248:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/22(水) 01:10:57.71:N/7hYphP0「おう、やってやるよ!」
俺は五秒前の発言を忘れて、両手の指を海水に浸す。
瑠璃のワンピースをびしょ濡れにしないほどの加減は弁えているつもりだ。
「おらっ」
「きゃっ……痛い……水滴が目に入ってしまったわ」
「だ、大丈夫か?」
慌てて近寄ろうとした俺を、
「フッ、愚かな雄ね。こうも簡単に騙されてくれると、張り合いが抜けてしまうじゃないの」
瑠璃は両手いっぱいの海水で迎撃する。
びしゃり。……久しぶりにキレちまったよ。覚悟しろや。
「待てコラ」
瑠璃はワンピースの裾を持ち上げて走り出す。
「人間風情がこのわたしに追いつけると本気で思っていて?」
甘いな。甘いぜ瑠璃。お前の弱点はその慢心にある。
ワンピースを濡らさないように注意を払っているが故の緩慢な逃げ足は、
既に首から上を海水に濡らし、Tシャツを汗みずくにした俺にとってはあまりに遅く、
「捕まえた」
「やっ……」
羽交い締めにされた瑠璃は、まるで触られることに慣れていない野良猫のように身を捩らせる。
瑠璃が抵抗の力を強めれば強めるほど、
俺は瑠璃を拘束する力を強め……いつしか、俺は瑠璃を後ろからきつく抱きしめる格好になっていた。
「……………」
「……………」
柔肌の感触や、髪から漂う甘い香りを意識した時には、もう遅かった。
胸郭を叩く心臓の鼓動が、瑠璃の背中から伝わるそれと、ぴったり重なっているように感じる。
どれほどそうしていただろう。
「あなたの妹には、もう、伝えたの?」
潮風に掻き消されてしまいそうなほど小さな声が聞こえた。
俺は黒猫の肩に顎を乗せて、
「ああ」
と頷く。
「ごめんなさい。嫌な役を押しつけてしまって」
「気にすんな。あいつからお前に、何か連絡は?」
「いいえ……何度かわたしの方から連絡を取ろうとしたのだけれど、
今のところは、すべて無視されているわ」
瑠璃はしんみりと言った。
「わたしとあなたの妹は、もしかしたら、もう元の関係には戻れないのかもしれない」
「弱気なこと言ってんじゃねえよ。
お前とあいつ――桐乃――は友達だろ」
「わたしはあの女と幾度となく喧嘩して、幾度となく仲直りしてきたわ。
でも、今回は違うのよ」
数拍の沈黙があって、
「わたしたちは……少なくともわたしには……妥協点を見つけることができそうにない」
いつか黒猫が言った言葉を思い出す。
『わたしにとってもっとも望ましい結果がもたらされるようにわたしなりの全力を尽くす』
その結果が現在ならば、黒猫は――瑠璃はなんとしても現状を維持しようとするだろう。
たとえその行動が、友達を失うことに繋がるとしても。
「勘違いしないで頂戴ね。
あの女はわたしが宵闇の加護を受けてから、初めてわたしに好敵手と認めさせた人間よ。
その関係を繋ぎ止めるためなら、わたしはどんな犠牲を捧げることも厭わない。
ただ一人、"あなた"を除いて―――」
瑠璃は俺から体を離し、
「――そこだけは、どうしても譲れないの」
どこまでも青い空を仰いで、
「あなたも、同じでしょう?」
「……ああ」
鷹揚に頷いて見せた俺を、瑠璃は一瞬、泣きそうな目で見つめ――、
次の瞬間には、強く吹き付けた海風が瑠璃の髪を攫い、その表情を覆い隠していた。
日が沈む少し前にビーチを引き上げた俺たちは、
そこから半時間ほど歩いたところにある、海鮮料理の美味しいお店にやってきた。
黒を基調としたシックな内装は、穏やかな暖色の照明に照らされて、上品な雰囲気を醸している。
案内に従って二人用のテーブルに着く。
瑠璃は周囲を見渡し、
「なんだか酷く場違いな気がするわ。
わたしはもっと庶民的なお店で良かったのに……」
そわそわと落ち着かない様子だ。
確かにここのメニューはどれも割高、主な客層は懐に余裕のある社会人で、
付き合い立ての学生カップルが訪れるような場所じゃないかもしれない。
でもさ、そんなことは気にするだけ無駄なんだよ。
代金さえ払えば、誰にだって美味い飯を食う権利はある。
さて、ここで問題です。
「どうして俺がこの店を選んだと思う?」
「分からないわ」
ギブアップ早っ。お前、最初から考える気なかっただろ。
「分からないものは分からないのよ。早く答えを言いなさいな」
本当は自分で気づいて欲しかったんだけど……仕方ねえか。
「瑠璃の好物は魚だろ」
「えっ」
予想外の反応に、ひやりとした不安が胸に滑り込んでくる。
あれ?違ったの?
瑠璃はフリフリと首を横に動かし、
「違わないわ。わたしは魚が好き……でも、どうしてそれをあなたが知っているの?」
言った覚えはないのだけれど、と不思議そうな面持ちで呟く。
まあ、忘れてても無理ないか。
「俺とお前が初めて会った日のこと、覚えてるか?」
コミュニティ『オタクっ娘あつまれー』のオフ会で、
黒猫と桐乃は他のメンバー同士の会話から見事にあぶれてしまっていた。
オフ会終了後、コミュニティの管理人である沙織の気配りによって、
俺、桐乃、黒猫、沙織の四人だけでの二次会が開かれ、互いに自己紹介をすることになったのだが、
黒猫の番、黒猫は自分の名前以上に多くを語ろうとしなかった。
そこで俺は「好きな食べ物は?」と尋ねた。
すると黒猫はいやいや義務を果たすように、しかし逡巡なく「魚」と即答してくれたのだった。
「思い出したわ」
瑠璃は頬を赤く染め、目線をあちこちに泳がせて言った。
「あなたはあの問答の内容を、ずっと覚えていてくれたのね」
ああ、と頷く。
「あの日のことは、多分一生忘れないと思うぜ」
オタクへの偏見が変わった日。
妹が自分の趣味を理解してくれる友達を手に入れた日……。
「ありがとう……とても嬉しいわ」
真っ直ぐなお礼の言葉が照れ臭い。
「そういうのは料理を腹一杯食った後で聞かせてくれ」
「それもそうね」
瑠璃は緩んだ表情を見られまいとするかのように顔を背けて、
「京介がこのお店に来るのは、これが初めてではないのでしょう?」
と訊いてきた。
「どうしてそう思うんだ?」
「お店に入るときに、ここは海鮮料理の美味しいお店だと、あなたが言ったのよ。
おかしな人ね。昔々のことは覚えているのに、ついさっきのことは忘れてしまうなんて」
俺だってド忘れくらいするさ。
クスクスと喉を鳴らしていた瑠璃は、ふいに思い悩むように視線を下ろし、唇を舌で湿らせると、
「……誰と一緒に来たのか、聞いてもかまわないかしら?」
女心の機微を"誤解"することにかけては天才的な俺の脳味噌でも分かったよ。
心の隅で縮こまっていた嗜虐欲が、ムクムクと首をもたげてくる。
海ではさんざ水を掛けられたことだし、ちょっとくらい虐め返しても罰は当たらねえよな?
「誰だっていいだろ。いちいち詮索してんじゃねえよ」
わざとぶっきらぼうに言う。
瑠璃はショックを受けたように目を見開いて、
「そ、そんなつもりで訊いたのではないのよ」
「じゃあ何のつもりで訊いたんだよ?」
「ッ、それはっ……あなたが……あなたの交友関係が気になって……」
しどろもどろに言葉を紡ぎ、湿り気を帯びた双眸で俺を見上げ、
「ごめんなさい……気分を害してしまったなら謝るわ」
やべえ。罪悪感が半端ねえ。
後で悔やむと書いて『後悔』だが、まさにそうだ。
彼女にこんな仕打ちをして楽しむつもりでいた30秒前の自分をブチ殺したくなってくるね。あやせじゃねえけど。
俺は慌てて弁明する。
「フェイトさんだよ」
瑠璃は茫然とした様子で言った。
「フェイトとはあの、伊織・フェイト・刹那のことを言っているの?」
「ああ、そのフェイトさんで合ってるよ」
ここで彼女のことを忘れた人のために簡単に解説していおくと、
伊織・フェイト・刹那、通称フェイトさんは、
二十代中盤のクォーターにして、スーツ姿がよく似合う理知的な美人――という華々しい外面はさておき、
内面は他人の創作物を剽窃するわ、中学生から借りた金を全額FXで溶かすわ、
収入のない高校生に飯を奢らせるわのダメダメ人間である。
盗作騒ぎで小説家への道を閉ざされた上派遣切りに遭い、
食い扶持を繋ぐことさえ困難な状況に陥っていた彼女だが、
今年の夏コミでは有名絵師の作品を一冊の本に纏めて売り捌くことに成功し、同人ゴロとしての第一歩を踏み出した。
「いったいどんな経緯で、彼女と食事することになったの?」
「瑠璃がゲー研の自主制作してた頃に、フェイトさんに呼び出されたことがあってさ。
その時に全然金持ってないって言われて、あんまりにも可哀想だったから、飯を奢ってあげたんだ」
「あなた、自分が相当なお人好しだという自覚はある?」
瑠璃は憐れむように目を細める。
いや、マジで可哀想だったんだって!
定職ナシ貯金ナシ身寄りナシの三重苦に陥ったフェイトさん目の当たりにしてみ?
自然と涙出てくるから。
「苦境はあの女が自分で招いたものよ。同情には値しないわ」
瑠璃、フェイトさんにはホント容赦ねえなあ。
無言で先を促され、俺は話を続けた。
「実は、この前コミケでフェイトさんに会ったときに、
もしも今回の同人誌販売で大もうけできたら、その時はいつかの恩返しをするから、ってこっそり言われててさ」
フェイトさん借金あるし、金遣い荒いし、全然期待はしてなかった、
というか約束自体すっかり忘れていたのだが、
「予想以上に儲かったらしくて、ついこの前呼び出されて、連れてこられたのがここってわけ」
「同人ゴロはあの女にとっての天職だったようね」
そうみたいだな。
「調子に乗って訴えられないといいけど」
その心配はない……とも言い切れないのがフェイトさんがフェイトさんたる所以だ。
実際、この前一緒にご飯食べた時も、
『派遣が何よ。中途採用試験が何よ。
同人で一発当てたらそんなのどうでもよくなるわ。
京介くん、今のわたし輝いてる?わたしって勝ち組よね?ねっ?』
とベロベロに酔っ払って絡んできたしな。
同人ゴロの儲けに味を占め、やり口が年々エスカレート、槍玉に挙げられる未来が垣間見えたよ。
「お、来たみたいだぜ」
話が一段落したところを見計らったかのように、注文していた料理が運ばれてきた。
お腹はもうペコペコだ。
俺たちは早口で「いただきます」を唱え、箸を取った。
瑠璃は上品な箸使いで白身魚の焼き漬けを取り分け、小さな口に運ぶ。
もぐもぐ。一心不乱に噛んでいるところが可愛い。
まるで小動物の食事風景を見ているみたいだよ。
答えが分かっていても、尋ねずにはいられない。
「どうだ?美味いか?」
瑠璃は相好を崩して頷いた。
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トイレから戻ってくると、瑠璃は食事中の輝く笑顔はどこへやら、虚ろな目で空になった皿を見つめていた。
「何浮かない顔してるんだ」
食べ過ぎて腹痛でも起こしたか?
俺のからかいを綺麗にスルーし、
「とても、言いにくいことがあるのだけれど」
「うん?」
瑠璃はきまり悪げに俯いて告白した。
「わたしが食べた分の代金を、しばらく、立て替えておいてもらえないかしら。
食べるのに夢中になって、今日どれだけお金を持ってきていたのか、忘れてしまっていたの」
はぁ~。俺は大袈裟に溜息をついて見せる。瑠璃はおろおろとした様子で、
「ほ、本当にごめんなさい。月の終わりには、アルバイトの給料が貰えるから、必ず返すと約束するわ」
「落ち着け。あのな、いったいどうしてそういう発想が出てくるんだ?
今日は俺の奢りだよ。つーか、飯代くらい払わせろって」
さすがに交通費まで面倒見る気はないけどさ。
「そういうわけにはいかないわ。とりあえず、今お財布の中にあるお金だけでも……」
「だから、いらないっての」
なおも食い下がる彼女に、俺は止めの一言を刺してやる。
「トイレいくついでに会計済ましてきたから」
「なっ……卑怯よ」
なんとでも言え。
ちなみにこの方法は親父殿から伝授してもらったもので、
『一緒に誰かと飯食ってて、奢られるのを嫌がられた時はどうすりゃいい?』
『用を足すついでに払っておけばよかろう』
そんな遣り取りが昨日の夜にあったのだ。
割烹店で女に財布を出させることに羞恥心をくすぐられるのも、たぶん親父の影響なんだろうなあと思う。
店を出ると、むわっとした熱気が肌を包み込んだ。
辺りにはすっかり夜の帳が下りていて、八月が終わりに近づくにつれて、日が短くなっていることを実感する。
どちらからともなく手を絡め、歩き出した。
「ごちそうさま。とても、美味しかったわ」
「おう。気に入ってもらえて良かったよ」
「…………」
それきり会話が途絶える。
察しの良いこいつのことだ、俺が無理して見栄を張っていることにはとっくに気づいているんだろうな。
夏コミや二度にわたる偽装デートなどで今月の出費は嵩みに嵩み、
今朝財布に詰めてきた諭吉と樋口さんはさっきの会計で天に召され、今では野口英世が三人残っているのみである。
小遣い日は月初めだし、しゃーねえ、明日にでも年玉貯金崩しに行くか、
高校一年、二年の暇な時期にバイトでもしときゃ良かったな……と過去の怠慢を悔いていると、
「京介」
瑠璃がにわかに手を強く握りしめる。
俺は何気なく横を向いた。
「……んっ……」
かつ、と前歯が何かにぶつかる音がして、次の瞬間には、
ふっくらと柔らかい、まるで薔薇の花びらのような何かが唇に押し当てられていた。
とっさに身を引かなかったのは、本能がその感触を、その行為を求めていたからだと思う。
緩慢な時の流れ。
目と鼻の先にある瑠璃の顔は息が詰まるほど綺麗で、
俺はしばしその光景に見惚れ、……唐突に、『瑠璃にキスされている』ことを理解した。
どれくらいそうしていただろう。
瑠璃が背伸びをやめるのと同時に、唇を覆っていた心地よい感触も離れていく。
強い口寂しさに襲われた俺は、瑠璃の体を引き寄せようとして、
「ダメ……これ以上はいけないわ」
胸に手をつかれる。
「えっ」
その時の俺は、おあずけを食らった犬みたいな間抜け面をさらしていたに違いなかった。
「だ、誰かに見られたらどうするの。まったく、破廉恥な雄ね」
い、いきなりキスしてきて、その言い草はないだろ。
瑠璃は暗闇の中でも分かるほど、顔を耳まで真っ赤にして、
「……今のは"解呪"よ。
よかったわね。これであなたにかかっていた呪いは、新たな呪いに上書きされたわ」
にゃああああああああああああああああああああ
352:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 12:53:21.76:zNEkL7vFO今、京介くんとキスすれば間接だなあ……。
359:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 13:53:41.91:6bruxdXk0「……っふ」と邪悪な笑みを浮かべる。
校舎裏に呼び出されたとき、俺は"解呪"の方法としてキスを想像し、
心を読まれて叱られたが……やっぱ、それで合ってたんじゃねえか。
「いかに宵闇の加護を受けたわたしとて、
呪いをかけるには、直接相手に触れなければならない。
そして最上級の呪いをかけるときは、経口が一番有効な手段だと古来から言い伝えられているのよ」
早口で捲し立てる瑠璃。
ならその古来からの言い伝えに感謝しなくちゃな。
甘い空気は電波発言で綺麗さっぱり霧散しちまったけれども。
「……帰るか」
「ええ、そうね」
「一回目の呪いが解呪されたからには、もう俺がヘタレても、死ぬことはないんだよな?」
「ふふっ、何を悠長なことを言っているの?
呪いは上書きされたのよ。制約を侵せば、あなたは全身から血を噴き出し、のたうちまわりながら息絶えるわ。
いえ、この呪いはもっと強力だから、想像を絶する苦しみがあなたを襲い、
それが何時間も続いた後でようやく死が訪れるのでしょうね」
怖ええ。
「ええ、本当に恐ろしい呪いよ」
瑠璃は悪戯っぽく笑んで、再び背伸びし、今度は俺の耳許に口を近づけて言った。
「だから精々、わたしを離さないことね」
家に帰ると、お袋はテーブルの椅子に座ってTVを眺め、
親父は一人掛のソファに座って新聞を読んでいた。
一見それは高坂家九時台の珍しくともなんともない光景のようで、
しかし同じ家に住む俺には、部屋に漂うピリピリとした緊張感が感じ取れた。
「ただいま」
「あら、お帰り、京介」
「………うむ」
挨拶を交わし、冷蔵庫へ。
常時備蓄されているはずの麦茶はどこにも見当たらず、
「麦茶、切れてんの?」
「買ってくるの忘れてたわ。今日は我慢して」
俺は仕方なしにコップに水道水を注いで喉を潤す。
ごく……ごく……。横目で伺った二人の様子は、明らかに普段と違っていた。
お袋はTVを見ているようで、ちらちらと壁時計を見ては溜息をついているし、
親父もさっきからずっと、新聞の同じページを読み続けていて、、
頭の中では全然別のことを考えていることがバレバレだった。
俺は三人掛のソファに腰掛け、あくまで顔はTVの方を向けたまま、
「桐乃は?」
親父の巌のような体が反応する。
「……知らん」
強い酒精の芳香が、つんと鼻の奥を刺した。
こりゃ相当飲んでんな。いや、お袋が飲ませたのか。
「あの子、今どこにいるか分からないのよ」
その一言に、この部屋に漂う嫌な空気の原因が凝縮されていた。
桐乃は見た目こそ派手だが、基本的に夜遊びはしない。
たまに帰りが遅くなるときは、必ず、今どこにいるのか・いつ帰るのか連絡して、お袋と親父を安心させていた。
「電話には出ないしメールも返さないし……どうしちゃったのかしら。
京介、あんた、桐乃の行き先に心当たりある?」
「いいや」
「そ。あんたたち最近、仲が良いみたいだったから、桐乃に何か聞いてるかと思ったんだけどね」
悄然と息を吐くお袋。なんだか一気に歳を取ったみたいだ。
そんなお袋の姿が見ていられなくて、
「桐乃の友達に電話してみるよ」
俺はリビングを出て、階段に腰掛け、携帯のフラップを開いた。
メモリからあやせを選び、通話ボタンを押す。
着拒されてませんように着拒されてませんように……!
神への祈りは通じたようで、
「……もしもし?」
よかったぁ~。
声色は依然とツンツンしているが、出てくれただけでも重畳だよ。
「あやせは今どこにいるんだ?」
「どこって……自分の部屋、ですけど……」
「そっか。じゃあ今あやせの隣に、桐乃いたりしねえかな?」
「いません」
ガクッ。これで望みの半分以上が断たれちまった。
あとは沙織に聞いて、それでダメだったら――。
「でも、少し前までは一緒でした」
「えっ!マジで!?」
「ちょっ……声が大きいです、お兄さん。今何時だと思ってるんですか?」
「す、すまん」
それから、何か言葉を選ぶような、言うのを躊躇うような微妙な間があって、
「……今日はお昼から撮影があって、
帰りに一緒に買い物をして、わたしの家で晩ご飯を食べて、
その後は、ずっとわたしの部屋でお喋りしてたんです」
はあぁぁぁ。なんだよ。フツーに友達と遊んでただけかよ。
あー、心配して損した。早くお袋と親父に話して安心させてやらねえと。
「で、今桐乃はこっちに帰ってきてるのか?」
「はい。夜道は危ないから、お母さんが車を出してくれて……」
タイミング良く、家の前に車が止まる気配がする。
「ちょうど着いたみたいだ」
「そうですか」
「こんな時間に電話して悪かったな」
「いえ……」
「じゃあ、切るぜ」
名残惜しいが、もうあと十秒もしないうちに、桐乃が玄関の扉を開く。
あやせは無言で通話からフェードアウトするかと思いきや、焦燥を滲ませた声で、
「………待って下さい」
「なんだよ。おやすみの挨拶か?」
「ち、違いますっ!変な期待はしないで下さいと前に言ったじゃないですか。
永遠の眠りに就かせますよ?」
ええぇぇ。なんで「おやすみ」を言ってもらえると思ったくらいで永眠させられなくちゃならねえの!?
仲の良い友達同士ならごく当たり前の遣り取りですよね?
「わ、わたしはお兄さんと仲良くなった覚えはありませんから。
あのですね……わたしがお兄さんに言いたかったのは……その……桐乃に……」
「はあ?」
声が小さすぎて聞き取れねえよ。
「もっと……、優しく――」
そのとき玄関の扉が開いて、桐乃が姿を現した。
すまんあやせ、また今度聞くからよ。
心の中で謝り、携帯を折りたたんでポケットに入れる。
俺は階段から腰を上げて、のろのろと靴を脱いでいる桐乃に言ってやった。
「おかえり」
桐乃は無言で俺の前にやってくると、光彩の失せた瞳で俺を見つめ、
「"こんなところで何してんの?"」
「何って、お前が帰ってくるのを待ってたんだよ」
「ふぅん、そう。……"待ってたんだ"……」
独り言のように呟き、
「邪魔。どいて」
そのまま隣を通り過ぎようとする。
「おい、待てよ」
手を掴んだら、
「気安く触んないでよ!」
もの凄い剣幕で振り払われた。
でも、退かねえ。掴み直して、振り向かせる。
「お袋や親父に心配かけて、ごめんなさいの一言もねえのかよ」
「………ッ」
桐乃は憎悪を宿した目で俺を睨み付け、
「分かったから、手、離して」
大人しくリビングに向かう。俺は特に深く考えずに、その後に付いていった。
…ゴクリ
377:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/23(木) 15:56:34.82:6bruxdXk0今から思えば、俺の第六感は予感していたのかもしれない。
その時の桐乃がお袋や親父に会えばマズイなことになる、と。
事実、俺はリビングに通ずるドアを開けて間もなく、
なぜ階段で桐乃と別れてからすぐに自室に籠もり、
ヘッドホンを装着して大音量の音楽を流さなかったのかと後悔することになった。
「心配かけて、ごめんなさい」
第一声、桐乃は素直に謝った。
娘の姿を認めるやいなや、お袋は曇らせていた顔をパッと明るくして、
「もう、どこに行ってたのよ?連絡もしないで」
「あやせのところ。連絡しなかったのは……忘れてただけ」
「携帯に電話したのは知ってる?」
「電池切れちゃってて、見てない」
どうして新垣さんのお家の電話を借りなかったのか、とか、
四六時中携帯を弄ってる桐乃が電池切れを放置しておくわけがない、とか、
色々言いたかったことはあるだろうに、お袋はうん、うんと頷いて、
「お腹はどう?空いてる?」
「ううん。晩ご飯食べさせてもらったから」
「そう……」
途切れる会話。俯く桐乃。気まずいってもんじゃねえ。
それまでアクションを起こさなかった親父が、静かに新聞を畳み、ガラステーブルの上に置いた。
お袋は場を和ませようとするかのように、乾いた笑い声を上げて、
「あ、そうそう。桐乃聞いて?
あと一時間経っても帰ってこなかったら、
お父さん、自分の職場に娘の捜索願出すトコだったのよ?」
「あはっ……おかしいね、それ……」
ぎこちなく応じる桐乃。
「マジかよ、親父……恥ずかしすぎんだろ……」
茶番だと理解しながら、俺もそれに乗っかる。
でも親父の目は、ちっとも笑っちゃいなかった。
自分をネタにされて怒ってるわけじゃない。
ただ、娘の不可解な行動のワケを、うやむやにする気がないだけで。
「桐乃」
地底から響くような声がした。
「な、なに?」
「なぜこんな時間まで、誰にも連絡を入れず遊び回っていた?」
「だ、だから……それは……ただ、忘れててただけで……携帯も電池切れちゃってたし」
とお袋に言った言葉をリピートする桐乃。
「嘘を言うな」
「……ッ、勝手に決めつけないでよ!」
「決めつけているのではない」
親父はよくできた酒豪だ。
自分が酩酊する酒量を知っていて、それ以上は決して呑もうとしないし、
事実、俺はこの人が会話もままならないほど泥酔したところを見たことがない。
つまり何が言いたいかというと、……いくら親父の体にアルコールが回ろうが、
犯罪者相手に培われた洞察眼は健在で、桐乃が真実を吐かされるのは時間の問題だってことだ。
「さっき、新垣さんの家にいた、と言ったな。ご両親は家にいたのか」
「……いたケド……それが何?」
「お前は晩ご飯をご馳走になる前に、その旨を自宅に連絡するよう言われなかったのか?」
親父の言うことはもっともだ。
桐乃は下唇を噛み、スカートの前で絡めた両手をぎゅっと握りしめて、
「き、聞かれなかった」
「……そうか」
親父は眼鏡のレンズ越しに、鋭い眼光を桐乃に向けて言った。
「ならば新垣さんのご両親に、桐乃がご馳走になったお礼を兼ねて、
今お前が言った言葉が真実かどうか尋ねても問題はないな」
終わった。
桐乃の狼狽ぶりを見れば、桐乃が嘘を吐いていることは明らかだった。
コイツはあやせの両親に「お母さんとお父さんは揃って家を空けているんです」とかなんとか言って、
家に連絡する必要はないと思わせたに違いない。
親父はお袋に、電話の子機を取るように言った。
長年連れ添ったお袋は、こうなった親父がテコでも折れないことを知っている。
でも俺は、コイツが……桐乃が一方的に言い負かされて、言いたくないことを無理矢理吐かされるところなんて見たくなかった。
そりゃ俺だって気になるよ。
『なんで人に心配をかけるようなことをした?』
『こうしてこっぴどく叱られることは、分かってたはずだよな?』
問い詰められるモンなら、問い詰めてやりてえ。
でもさ、こんな顔してる桐乃に……今にも泣きそうになってる可愛い妹に、そんな真似できるワケねえだろうが。
「もういいじゃねえか、親父」
気づけば、お袋の手から子機をもぎとっていたよ。
親父の極道ヅラが俺を見据える。
正直言って、チビりそうになったね。昔の俺、スゲェよ。
こんな化けモン相手に、よく胸ぐら掴んで説教かまそうなんて気になれたな。
「京介、これはお前が口を挟むことではない」
「桐乃が無事に帰ってきたんだ。今日のところは、それでいいだろ」
笑いそうになる膝に力を込めて、親父の前に立ちはだかる。
今の俺は知っている。
ありえねえくらい頑固で、ありえねえくらい堅物の親父だけどさ、
必死に訴えかけりゃあ、伝わるモンはあるんだ。
「電話を寄越せ」
「嫌だね」
これがあの日の再現に近いことは、あんたも分かってるはずだよな。
いいか、俺は折れねえぞ――と固く子機を握りしめたのも束の間、
親父は一切無駄のない挙止で俺の服を引き寄せ、ソファの上に引き倒した。
さすが、柔道有段者。勝てねえ。
ガラステーブルや床を避けてくれたのは、親父のささやかな優しさの表れか、と天井を見つめながら思う。
親父の手が、俺の子機を握りしめている方の手に伸びる。
渡してたまるかよ。
指が全部剥がされる前に、俺はもう片方の手で、親父の胸ぐらを引き寄せた。
「何、ムキになってんだよ」
「………なんだと?」
「どうして桐乃のことを信じてやれねえんだよ」
「なっ」
親父の鬼の形相が、ふっと真顔に戻り――。
「もうっ、やめてよっ!」
耳をつんざくような桐乃の絶叫が、部屋に響き渡った。
パサリと垂れた前髪の内から、透明の雫が落ちる。
「なんであたしのことで、兄貴とお父さんが喧嘩してんの……馬鹿じゃん……?
あたし、もう十五だよ……?あたしがどこに出かけようが、いつ家に帰ってこようが、あたしの勝手でしょっ……!」
リビングを飛び出す桐乃。
「待ちなさい!」
慌ててその背中を追うお袋。
「…………」
「…………」
後に残された俺と親父は、至近距離でお互いの顔を見つめ合い、同時に顔を逸らす。
ソファに仰向けになって、眼を瞑った。火照っていた頭が、急速に冷めていくのが分かる。
どっかと一人掛のソファに座り込んだ親父に、もはやあやせ家に電話する気は残っていないようだった。
静まり返った室内に、壁時計が時を刻む音が、やけに大きく響く。
「…………………………すまなかった」
へ?親父、今なんつった?
あー、分かった。幻聴か。
最近寝不足だったところに、体引っ繰り返されて脳味噌揺らされりゃ、幻聴がしてもおかしくねえわ。
「だから、すまなかったと言っている。
さっきは、桐乃を前後不覚に叱りつけた俺に非があった」
飛び起きたね。え……何……親父、ガチで俺に謝ってんの?
これ、夢じゃねえよな?現実だよな?
何も言わず独酌する親父。
哀愁漂うその姿を見ていると、急激に申し訳なさが募ってきて、
「俺も……さっきは、偉そうな口利いて悪かったよ」
「本当だ、このバカ息子が。
次に楯突いたときは、公妨で鑑別所送りにしてやる」
「それはマジで勘弁してください」
俺は言葉を選んで、親父に語りかけた。
「桐乃のことが心配な親父の気持ちは……よく分かるよ」
あいつが日本に帰ってきて、内心喜んでいた矢先に、
あいつが彼氏を連れてきて……まあ、結局それは無かったことになったんだけど……
親父に娘を失う恐怖を植え付けるには、十分すぎる出来事で。
娘の交友関係に必要以上に敏感になるのも、無理はねえと思う。
でもさ。御鏡が家に来たときの話を蒸し返すつもりはねえけど、
「あいつは俺や親父が思ってるより、ずっと大人なだよ。
あいつが何も言わずにこんな時間まで遊びに出てたことには、
きちんとした理由があって、それを親父に言えなかったのにも、それなりの理由があって……。
その理由をハナからやましいことだと決めつけて、頭ごなしに叱るのはどうかと思うんだよ」
「では、もしも桐乃が嘘をついた理由が、男との逢い引きを隠すためだったとしたら、どうするのだ?
都合よく騙され、手をこまねいて見ていろと言うのか?」
「そうだよ」
「なっ……そんな馬鹿な話があるか!」
カッと両眼を見開き、怒りを露わにする親父。
そんなに怖さを感じなくなったのは、耐性が出来てきたからかもしれねえな。
「もしも桐乃に、マジで好きな男が出来たらさ、ぜってぇ家に連れてくるよ。
この前みてえにさ……。親父もあいつの性格知ってるだろ?
最初は隠せてても、そのうち我慢できなくなるに決まってんだ。
んでもって俺たちの役目は……、その時に桐乃の彼氏がどんな奴か、
桐乃を本当に幸せにできるのか、見極めてやることだと思うんだよ」
親父は水面に顔を出したカバみたいに、むふぅ、と荒い鼻息を吐いて、
「………ふっ」
笑った?親父が?
おいおいおいおい、今日の親父はどうしちまったんだよ。
手近にカメラが無いのが悔やまれるね。
親父の純朴な笑顔なんて、ガキの頃に見た以来だよ。
「お前はよくできたバカ息子だな」
誉められてるのか貶されてるのか分からねえよ、それじゃ。
逸らしていた視線を戻すと、親父の顔は元の仏頂面に戻っていた。
俺は腰を上げて、部屋に戻ることにする。
「勉強してくる」
リビングのドアに手を掛けたその時、背中に声がかかった。
「待て、京介」
「……?」
「俺には、最近、桐乃の考えていることが分からん」
今までは分かっていたような口ぶりだな、と言えば顔面に鉄拳が飛んでくるのは自明の理、
「へえ」
と無難に相づちを打つ。
「桐乃に歳が近いお前の方が、桐乃の機微を理解してやれることも多いだろう」
「さあ、どうだろうな」
「………任せたぞ」
任されても困るっつうの。
俺は今度こそリビングを出かけて、言い忘れていたことを思い出した。
「親父」
「なんだ?」
「彼女が出来たんだ。また今度紹介する」
親父はぽかんと口を開けていたが、
やがて色んな感情を綯い交ぜにしたような顔になり、くいっと酒を煽ると、
「……そうか」
と呟いた。え、反応それだけ?
「自室で勉強するのだろう?早く行け」
すげない言葉に背中を押され、リビングを出る。
ま、こんなモンだよな。
可愛がってる桐乃と違って、出来の悪い長男に彼女が出来ようが出来まいが、親父の関心事にはなり得ないんだろうよ……。
親父が詮索してこなかった理由は他にあるって?
分かってるさ、それくらい。
駅から出ると、電車に乗っているときは本降りだった雨が、小止みになっていた。
一応黒の折り畳み傘をショルダーバッグから取りだし、いつでもさせるようにしておく。
もう片方の手で携帯を弄り、BeegleMapという地図検索サイトにアクセス、
住所を入力すると、ものの数秒で駅から目的地までの最短ルートが表示される。
良い時代になったもんだよな。
雨に濡れたアスファルトを歩くこと十分。
俺は古式蒼然とした平屋の前で足を止めた。表札には『五更』の文字。
インターホンを押すと、
「どちら様ですか?」
普段より高いトーンの声で瑠璃が答えた。
「俺だよ」
「………少し待っていて」
俺はインターホンから顔を離し、改めて平屋――瑠璃の家――を眺めた。
壁の漆喰はところどころ剥がれ、屋根板は赤銅色に褪せていて、
素人目にも、かなり古い建物であることが分かる。
キコキコという甲高い音が聞こえて、視線を下ろすと、瑠璃が小さな鉄門の閂を外しているところだった。
「さ、入って頂戴」
「あ、ああ……でも、その前にひとつ聞いていいか?」
俺は瑠璃が着ている、白のラインが入った臙脂色の服を見つめて、
「なんでジャージ?」
しかもしれ、市販の奴じゃなくて中学校の指定ジャージだよな。
瑠璃はむっと頬を膨らませ、
「こ、これは部屋着よ。
機能性に富み着用者の運動を妨げない、最高の衣類だと思わない?」
まあ、確かにその通りだけどよ……。
「あっ、それ」
俺は瑠璃の胸元で笑う黒猫のワッペンを指さし、
「瑠璃が自分で着けたのか?」
「よく気づいたわね。でも、勘違いしないで頂戴。
これは決して繊維の解れを隠すためのものではなくて、
わたしが闇の眷属であることを証明するのと同時に顕界への影響を抑えるための封印具だから」
ああそう。
瑠璃は「分かればいいのよ」と満足げに頷き、俺を家に請じ入れてくれた。
さて、今更ながら、俺が瑠璃の家にやってきた理由を説明しておこう。
初デートから二日が経ち、俺は二回目のデートを提案したのだが、その時に瑠璃が宣った台詞がコレである。
『明日は……家に親がいないの……それで、あなたさえよければ……わたしの家に来てもらえないかしら?』
クラリとしたね。
お前マジで言ってんの?いくらなんでもそれは早すぎじゃね?俺にも心の準備ってモンが……。
『母さんが一日仕事に出ていて、妹の面倒を見なければならないのよ』
脳髄を沸騰させていた自分が恥ずかしくなったよ。
でもさあ、あんな言い方されたらエッチな想像しちゃうよね?
ガラガラと引き戸を閉め、土間で靴を脱ぐ瑠璃。
「お邪魔します」と挨拶して、その後に続く。
俺が歩くと盛大に軋む床板の上を、瑠璃は足音ひとつ立てずに進み、やがて右手の障子を開けた。
するとそこにいたのは、
1 五更家の次女と三女だった
2 五更家の三女だった
>>525
描写配分分岐
黒猫シスターズはアニメ9話準拠です 寝る
1
558:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/24(金) 11:27:56.79:GQjBgs+10五更家の次女と三女……でいいんだよな?
身長と顔つきから判断するに、
やや茶色がかったセミロングの髪をツインテールにしてるのが次女で、
真っ黒な髪を肩口で切りそろえ、おかっぱにしているのが三女だろう。
「こ、こんちわ~」
なるたけ愛想の良い笑みを浮かべてみたが、
二人ともぽかーんと口を開けて、突然の闖入者に驚きを隠せない様子だ。
おい瑠璃、俺が来ることは話してなかったのかよ!
「ル、ルリ姉……この人がもしかして……?」
次女が酸欠に陥った金魚みたいに口をパクパクさせて、姉に問いかける。
瑠璃は軽く頬を朱に染めながら、尊大に頷き、
「ええ、そうよ。この人の名前は高坂京介。わたしの、か、彼氏よ」
「ホントにいたんだ!……えーウッソー、すっごぉい。絶対またルリ姉の見栄っ張りだと思ってたのに!」
次女はととと、と俺の近くに寄ってくると、矯めつ眇めつ俺の顔面を眺め、
「へぇ~、これがルリ姉の彼氏かぁ~。
あ……自己紹介遅れてすみません。あたし、ルリ姉の妹の――」
瑠璃、という長女の名前から想像はついていたが、小難しい漢字の名前だな。
「よろしくお願いしますね!」
「おう、よろしく」
人懐っこい笑みを浮かべる次女。
瑠璃の妹とは思えない社交性の高さだな。
つーかこの次女のテンション、誰かのと似てねえ?
俺が正体不明の既視感に頭を悩ませていると、
「しっこく!」
舌足らずな声が居間に響き渡った。
見れば、それまで固まっていた三女がピッと俺を指さして顔を強張らせていた。
あれ……もしかして俺、怖がられてる?あと『しっこく』って何だ?
最近流行りの悪口か何かか?
「しっこくがいます、姉さま!」
瑠璃は困ったように溜息を吐いて、
「あ、あれはただのコスプレ……変装よ。
彼は魔導資質を持たないただの人間。魔法は使えないわ」
ああ、電波ワードで分かったよ。
なるほど、三女は同人誌のコスプレ写真を見て、俺の顔を知っていたんだな。
『MASCHERA~堕天した獣の慟哭~』に登場するキャラクター『漆黒(しっこく)』として。
「この人はルリ姉の彼氏。さっき聞いたでしょー?」
三女は可愛らしく小首を傾げて、
「かれし……とはなんですか、姉さま?」
純真無垢な質問に、うぐ、と声を詰まらせる次女。
「それは、えっとねえ……友達よりも、もっと仲良くなったのが、彼氏、かなぁ……?」
うまい!
三女は納得したようにパァッと顔を輝かせると、おもむろに俺の顔を見つめて、
「姉さまのかれしは、兄さまですか?」
なんでそうなる!?今論理に大きな飛躍があったぞ!
「まあ、長い目で見ればそうかもねえ」
次女もさり気なく同意してんじゃねえ!
あやせに桐乃の兄という意味で『お兄さん』と呼ばれるのと、
瑠璃の妹にそのままの意味で『兄さま』と呼ばれるのでは、全然意味が違ってくる。
俺が『兄さま』って呼ばれることを、コイツはどう思ってんのかな……と隣を見ると、
「お、お茶を用意するから、適当に座って待っていて頂戴」
瑠璃は居間と直接繋がっている台所に行ってしまった。
どうしたもんかね、と突っ立っていると、「どうぞ」と次女が座布団を敷いてくれた。
腰を下ろし、部屋をぐるりと見渡してみる。
居間は畳八枚の不祝儀敷き、中央に方形のちゃぶ台、その正面には小さなブラウン管型テレビ、
部屋の角には木製の収納棚が二つあって、その隣に渋い色の座布団が数枚積み重なっている。
麻奈実家の居間と似ているが、どことなく暗い感じがするのはどうしてだろうな。
首を傾げつつ視線を右下に転じると、畳の上に、画用紙が何枚か散っていた。
これは……見たままに言うなら、ピンク色の人……か?
俺はさらにその横で、創作活動に励んでいる三女に問いかけた。
「何を描いているんだ?」
「メルル!」
おお、言われてみれば確かにメルルだ。
ピンクのバリアジャケットにピンクのツインテール……。
「そっくりじゃねえか」
にぱー、と笑顔を咲かせる三女。
「メルルが好きなのか?」
「はいー!」
俺の妹と気が合いそうだな。
「兄さまも、メルル好きです?」
超好きっ!神アニメだよねアレ!
579:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/24(金) 13:54:48.89:NJmIvssW0>>575
桐乃こんなとこで何してんだよ
577:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/24(金) 13:37:58.44:GQjBgs+10桐乃こんなとこで何してんだよ
「あんなガキ向けのアニメ好きでも嫌いでもねーよ」と本音を漏らすワケにもいかず、
「俺の家族の一人が大好きなんだ。だから、少しならメルルのことが分かるぜ」
「じゃあ、これは誰ですか?」
画用紙を手渡される。
黒のバリアジャケットに黄色のツインテール、か。
「アルファ・オメガだ」
「正解です。じゃあ……これは分かりますか?」
二枚目。
人型を作る枠線の中身は肌色で塗りつぶされ、
背中には一対の黒の翼が描かれている。少し悩んだが……。
「ダークウィッチ『タナトスエロス』EXモードだ」
「すごいです!」
注がれる尊敬の眼差し。
背中から別の視線を感じて振り返ると、次女が複雑な面持ちで俺と三女の遣り取りを見つめていた。
ち、違う!俺は断じてメルルの『大きなお友達』じゃねえ!
「あっ、別に隠さなくてもいいですよー。
ルリ姉があんなふうだから、京介さんもそんな感じなんだろうなあって思ってましたし」
「いや隠してねえから!」
エロゲのプレイ歴があったりアニメの話にそこそこついていけたりと、
一般人の域は超えているかもしれねえが……俺はまだグレーゾーンにいる。
うん、いるはずだ。
だからそのちょっと憐れむような視線をやめてもらえませんかね?
「そういえば」
と次女はポンと手を打って、話題を変える準備をした。
あーあ、こりゃ絶対誤解されたまんまだよ。
「ルリ姉とはどうやって知り合ったんですか?」
「話せば長くなるんだが……『オタクっ娘集まれ~』ってオタクの女の子限定のコミュニティがあってさ、
そこの管理人が去年の春頃にオフ会を開いて……」
「そこに京介さんも参加したんですか?男なのに?」
してねえ。なんで俺が参加したっていう発想がナチュラルに出てくるんだ。
「俺は遠目で見てただけ。参加したのは俺の妹だよ。
たぶん、瑠璃が持ってる写真で見たことあるんじゃねえかな?
髪の毛を明るい茶色に染めて、ピアスしてるんだけど」
「あぁ~、分かりました。ルリ姉の親友ですね」
親友、か。
「俺はそいつの兄貴。
オフ会をきっかけにウチの妹と瑠璃が連むようになって、その流れで俺と瑠璃も……」
「何の話をしているの?」
台所から戻ってきた瑠璃が、ちゃぶ台の上に人数分のお茶と、お茶請けを乗せていく。
「ルリ姉と彼氏さんの馴れ初め聞いてたところ。
でも京介さん、終盤のほう端折りすぎ。もっと詳しく聞きたいなぁ~……痛ッ!」
デコピンが炸裂し、次女は両手で額を押さえる。マジで痛そうだ。
「余計なことは聞かなくてもいいのよ」
「えぇ~、こういうコト聞かないと、ルリ姉が彼氏連れてきた意味がないじゃん」
「わ、わたしは何もあなたたちに見せびらかすために、この人を家に呼んだわけではないわ」
「じゃあ、何のため?」
瑠璃は困ったような顔になって、口を噤む。
救難信号を察知した俺は言ってやった。
「妹二人を家に残して遊びに出かけるのが不安だから、俺を家に呼んだんだよな?」
妹想いの良いお姉ちゃんだよ。
うんうん、と頷いて顔を上げると、次女は懸命に笑いを堪え、
瑠璃は顔を赤くし、怒気を孕んだ横目で俺を睨み付けていた。
あ、あっれぇ~、俺何か失言しちゃったかなぁ~?
一人事情が飲み込めていない俺のために、次女が解説してくれた。
「ウチはお母さんがほとんど毎日仕事に出かけてて、
子供だけで留守番させられるのなんて、日常茶飯事なんです」
お絵描きに夢中になっている三女を見て、
「さすがにこの子一人だけ残すことはないですけど、
あたしとこの子だけでお留守番するのは、これまでにも何度もあったことでぇ……ぷくくっ」
次女は止めの一言を刺した。
「妹をダシに彼氏を家に呼び込むとか、ルリ姉も考えることがコスいよねえ」
「…………」
わなわなと肩を震わせる瑠璃。
あー、瑠璃?
嘘をつかれたことに関しては、俺は全然怒ってねえし、
むしろそうまでして呼びたかった瑠璃の気持ちが知れて嬉しかったっつーか……。
瑠璃はキッと次女を睨み付け、
「わたしの部屋に行きましょう」
すっくと立ち上がり、障子に手を掛ける。
「えぇー、もう行っちゃうの?
もうちょっとここでゆっくりしていきなよー。jこのお茶、どうするの?」
「あなたが三人分呑めばいいでしょう。
あと、その子がお昼寝するまで、傍から離れることを禁ずるわ」
「様子を見に行くのもダメ?」
「もしも覗いているところを見つけたら、
その瞬間に『紅蓮地獄(セブンス・ヘル)』に『強制転送(トランスポート)』するわよ」
「はいはい。心配しなくていいよ、あたしはずっとここでテレビ見てるからさ」
さすが瑠璃の妹、電波受信した姉の扱いも手慣れてんなあ。
俺が立ち上がると、おもむろに三女が顔を上げて、
「兄さま」
どうした?
「ごゆっくり」
「お、おう……」
言いたいことは言ったとばかりに、黒のクレヨンを握り直し、お絵描きを再開する。
今三女の手元にある画用紙は、散らばっているそれらよりも幾分大きめで、
それに伴って絵も巨大化し、現時点では何のキャラクターを描いているのかさっぱり見当がつかなかった。
「何をぐずぐずしているの?」
瑠璃に急かされ、廊下に出る。
「不躾な妹たちでごめんなさいね」
「いい妹じゃんか。瑠璃の趣味も認めてくれてるみたいだしよ」
「あれは認めているとは言わないわ。
意見の相違を理解した上で、衝突しないように議論を避けているのよ」
「どっちが?」
「妹の方が、に決まっているじゃない」
本当かなあ?
「下の妹はどうなんだ?」
「闇の加護を受けるに相応しい魔力資質の持ち主よ。
いまのところ、わたしが与えた魔導具は、全て完璧に使いこなしているわ。
唯一心配なのは、上の妹の影響を受けて、俗に染まってしまうことね。
それだけは何としても止めるつもりだけど」
いやそこは俗に染まらせてやれよ、という言葉を呑み込み、代わりに溜息を吐いた。
しばらく歩くと、裏手の縁側に出た。
庭には瑠璃の親の趣味なのか、盆栽がいくつか置いてあって、小雨に体を濡らしている。
「こっちよ」
瑠璃は縁側の最奥で足を止めた。
右手の障子を開けば、多分、そこが瑠璃の部屋なんだろう。
ゴクリ。唾を飲み込む音がやけに大きく頭の中に響く。
き、緊張すんなあ。
同じ女の子の部屋でも、麻奈実の部屋に入るときは全然意識しねえのに。
「入って頂戴」
俺の葛藤を余所に、瑠璃はあっさりと障子を開けた。
そろりと足を踏み入れ、部屋を見渡す。
床は居間と同じような畳敷きで、四方のほとんどが障子と襖という純和風な造りだが、
畳の上に敷かれた薄緑色のカーペットや、茶色の文机やノートパソコンなど、
洋風な調度が多いせいで、全体としては和洋折衷の趣を醸している。
中でも特に浮いているのがパイプ椅子で、
文机とセットになっていたはずの椅子はどこに消えたのかと首を傾げずにはいられない。
「これに座って」
振り返ると、別のパイプ椅子が展開されていた。
瑠璃は無言で文机に着き、俺に背を向けてノートパソコンを立ち上げる。
なぜにパソコン?まさか俺を放置してネットサーフィンするつもりなの?
不安に駆られて瑠璃の表情を伺うと、頬がかすかに上気していて、
平静を装っている裏で、俺と同じように緊張していることが分かった。
女の子の扱いに慣れた男なら、ここで場を和ませる冗談でも飛ばせるんだろうが、
悲しいかな、俺にそんなトークテクニックの持ち合わせはない。
早く何か言わねえと――焦れば焦るほど言葉は出てこなくて、
適当に視線を彷徨わせていると、やがて文机の上に、面白いものが乗っていることに気が付いた。
「マトリョーシカ……しかも黒猫の……お前、本当に猫が好きなのな」
瑠璃は五匹いる猫のうち、一番小さいものを手に取って、
「猫はやはり黒猫に限るわ。
これは……これはね、母さんにもらったものなの」
ふにゃりと表情を崩す。
「思い入れがあるモノなのか?」
「昔々……わたしがとても辛くて寂しい思いをしていたときに、
このマトリョーシカが元気づけてくれたの。幼心とは単純なものね。
入れ子を取り出して並べるだけで、寂しさを紛らわせることができるのだから」
辛くて寂しい思い出なんて、わざわざ思い出したくもねえし、話したくもねえだろう。
俺はマトリョーシカの話題から離れるために、今この家にいない人物について尋ねることにした。
「そういや瑠璃のお母さんは、どんな仕事をしている人なんだ?」
「駅の近くで飲食店を経営しているわ」
「へぇー、すごいじゃん」
「自営業と言えば聞こえはいいけれど、維持するのが精一杯の、本当に小さなお店よ。
人手が足りないときは、わたしもホール仕事を手伝わされているの」
「もしかしてアルバイトって、そのことを言ってたのか?」
こくん、と頷く瑠璃。
なるほどな、親の店の手伝いをしてたなら納得だよ。
前々から不思議に思ってたんだ。
労働基準法に抵触せずに、中学生の頃の瑠璃にも出来たアルバイトっていったい何なんだろう、ってさ。
じゃあお父さんは――と尋ねようとした時、丁度パソコンが立ち上がった。
壁紙はもちろんマスケラで、『漆黒』と『夜魔の女王』が背中合わせになって夜空を見上げている。
線が緻密なうえ、色使いも巧みで、素人目にもレベルの高い絵だということが分かった。
一見すると公式絵にしか見えない。
「有名なイラストレーターが、趣味で画像投稿サイトに投稿したものよ」
噂に聞くプロの仕業ってヤツか。
「今のわたしには、どれだけ時間を費やしても、これに匹敵する絵を描くことができないわ。
アマチュアが本気になっても描けない絵を、プロは片手間に描けてしまう。
悔しいけれど、それが現実よ」
自分に言い聞かせるようにそう言って、
瑠璃は滑らかなマウス捌きでランチャーからフォルダを選択し、そこからさらに深い階層に潜っていく。
途中、中身が何もないフォルダに行き着き、ここで終わりかとおもいきや、
瑠璃がフォルダオプションを弄るとそれまで見えなかった隠しフォルダが表れて、溜息が出た。
カチ、カチ、カチ――。
小気味良いクリック音に眠気さえ感じてきたころ、ようやく瑠璃の手が止まる。
画面に表示されているフォルダの名前は……『創作』。
「近くに来て頂戴。ええ、そうよ。椅子ごとね」
文机の下の右半分はキャスター付きの収納箱が占めていて、
左半分のスペースに足を差し入れようとすると、必然的に瑠璃と密着する形になってしまう。
「せ、狭くねえ?」
「あなたが体を小さくすれば無問題よ」
瑠璃は実に淡々としている。
まあ、この前のデートであれだけ"恋人らしいこと"をすれば、
肩が触れあうくらいのことで、恥ずかしがったりはしねえよな……。
つうか、この『一つのノートパソコンの前に二人で寄り合う』シチュエーション、
なーんか懐かしい感じがすると思ったら、
桐乃が海外に行っちまう前の晩に、あいつの部屋で体験してたんだった。
「これからあなたに見せるのは……」
瑠璃は数秒言い淀み、
「わたしが、去年から書きためていた小説よ」
『創作』フォルダをダブルクリックする。
中に置かれていたのは、ワードファイルが一つと、画像ファイルがいくつか。
マウスの使用権をもらい、ワードファイルを開いて最初に思ったことは……。
スクロールバー短けえ!
40文字×34行の書式で軽く100枚はありそうだなオイ!
これ、今から全部読むの?
俺文章読むの遅えし、読み終わる頃には日が暮れてんじゃねえかな?
しかし一度ファイルを開いちまった手前、
『また今度ゆっくり読むわ』
と言えるわけもなくて、半ば諦めの境地で、最初の一行に目を通した。
ちなみに適当に読み流そうなんて考えは、ハナから無かったよ。
闇の眷属たる"私"が、"此方の世界"へと移行(シフト)したのは、春の匂いを色濃く残す五月のことだった――。
冒頭を読んだ時点で嫌な予感がしたね。
こりゃまた難解用語がポンポン出てきて、読者を置いてきぼりにするパターンかな?
じいっ、と横頬を刺す瑠璃の視線を意識しないようにしつつ、先を読み進める。
別世界で幾千もの天使を殲滅し、生きとし生けるもの全ての頂点に君臨していた闇の女王は、
信頼を置いていた部下に裏切られて肉体を失う一刹那前、
辛うじて精神体を転移させ、別世界の人間に憑依することに成功する。
邪気眼自伝なのか・・・ゴクリ
717:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 11:56:35.75:bGFrTWa+O堕天聖の追憶か
718:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 12:34:23.26:BzHnjpPT0憑依した人間は、"此方の世界"の住人にしてはそこそこ魔力資質に恵まれている15才の少女。
"彼方の世界"の自分と似通っている、雪色の肌と闇色の髪を姿見で認め、闇の女王は深い溜息を吐く。
誰よりも魔術の深淵に通暁している彼女だが、
借り物の体では、"彼方の世界"の百分の一ほどの力も発揮できない。
しかもこうしているうちにも、かつての部下や天使どもが、
続々と"此方の世界"に転移し、今度こそ完全に彼女の息を止めるべく暗躍しているに違いないのだ――。
存外、スイスイと導入部を読み終えることができた。
小難しい漢字や表現が多いのは相変わらずだが、
注釈が必要なオリジナルワードは今のところ出てきていないし、
主人公も最強から最弱になってしまったという、成長の余地を大きく残している設定で、
また主人公の命を狙う刺客の存在が、ストーリーに微妙な緊張感を与えている。
闇の女王は少女としての生活を営みながら、元の世界に帰還する方法を探すことにした。
方法には二種類ある。"此方の世界"のどこかに存在する『世界を繋ぐ者(コネクター)』を発見するか、
日々借り物の体で生み出される微々たる魔力を蓄積し、『転送魔法』を使うか。
前者を達成できる確率はゼロに等しく、後者は現実的だが、達成するのに数年もの時間を要してしまう。
"此方の世界"で魔力を譲渡してくれる協力者が見つかればいいのだが……。
自分と同じように、"彼方の世界"の刺客が"此方の世界"の住人に憑依している可能性を考えると、
安易に他人と接触するのは、とても愚かしい行為だと言えた。
そうして、闇の女王は孤独でいることを選択した。
闇の女王の考えは分かるけどなぁー……。
それでぼっちになった宿主の少女があんまりにも不憫じゃね?
いつか憑依が解けたとき、自分がコミュニケーション不全のレッテル貼られてると知ったら絶望するしかねえわ。
それからしばらくしたある日のこと、
闇の女王は、自分の考えがあまりに甘かったことを思い知る。
眼前の輝かしい容貌を持つ少女が"熾天使(ウリエル)"の成り変わりであることは明白だった。
正規の手続きを踏んで『転移』した天使は、その魔力を失わない。
弱り切った私の息の根を止めることなど児戯にも等しいはず――。
スクロールすると、挿絵が表れた。
視線を交わす『闇の女王』と『熾天使』。
誰がモデルかは言わずもがなだが、表情の描き分けがスゲー上手い。
瑠璃――じゃなくて闇の女王の歯軋りしている口元とか、桐乃――じゃなくて熾天使の見下すような目とかさ。
絶体絶命の状況。
しかし熾天使は威圧するような態度を崩すと、害意が無いことを伝えてきた。
なぜ殺さないの?と訝しむ闇の女王に、熾天使は自嘲の笑いを漏らして告白した。
熾天使は"彼方の世界"で偶然、闇の女王の部下と天界の神による『恐ろしい策謀』を知ってしまった。
そのせいで殺されかけたが、精神体だけを"此方の世界"に転移させることで、生き延びた。
つまり熾天使は闇の女王と同じく、魔力をほとんど失ってしまっていたのだ。
へぇ、意外な展開だな。
俺は黙々とスクロールする。
恐ろしい策謀の内容はこうだ。
闇の女王の部下は、闇の女王亡き後は自分が地上を支配し、
それを邪魔されないことを条件に、天界の神に女王の弱点を教えることを提案した。
闇の女王に脅威を感じていた天界の神々は渋々その条件を呑むことにしたが、
それを認めない上級天使が何人か存在した。
神々は熟考の末、彼らを犠牲にすることを決めた。
闇の女王が肉体を失い、別世界に逃亡したことが判明すると、
神々はその上級天使たちに、すぐさま女王の後を追い、始末するよう命じた。
次々と正規ゲートから『転移』する上級天使たち。
しかし今やそのゲートは閉ざされ、仮に精神体だけ『転移』させて戻ってくることができたとしても、
元の魔力は失われ、最下級の天使に憑依するのが精一杯の状態になっていることだろう。
そう、不意打ちによって闇の女王の体が滅し、その精神体を逃がすことは最初から予定通りだったのだ……。
挿絵二枚目。闇の女王の部下が神々と交渉しているシーン。
丸っこい顔に邪悪な笑顔を浮かべた眼鏡っ娘は、これまた誰をモデルにしているのか一目瞭然だった。
なんで麻奈実なんだ?こればっかりは配役間違ってるだろ。
闇の女王は『世界を繋ぐ者(コネクター)』を探し出せる特殊な広域検索魔法を知っているが魔力が無い。
対して熾天使の憑依した人間は、魔力生成資質に富み、
数日経てば広域検索魔法を一度発動するだけの魔力が溜まる。
二人は一刻も早く"彼方の世界"に戻るため、停戦協定を結ぶことにした。
熾天使が味方になれば、怖いものナシじゃね?と思ったが、安心するのはまだ早かった。
始末命令を受けた上級天使は、自分たちが神々から切り捨てられたことを知らない。
襲い来る上級天使に必死で真実を説明しようとするも、逆に裏切り者扱いされる熾天使。
時に啀み合い、時に助け合いながら逃避行を続けるうちに、
闇の女王は熾天使に情を移しつつある自分に気が付いていた。
闇の眷属と光の使者の友情など前代未聞だ。
そんな女王の葛藤とは無関係に、熾天使の魔力は溜まり、広域検索魔法を発動する時がやってきた。
熾天使と自分の両手を合わせ、魔力を譲渡してもらう。
どんなに多く見積もっても、この弓状列島に『世界を繋ぐ者(コネクター)』が存在する確率は千分の一以下。
しかし奇跡は起きた。
なんと熾天使が憑依した少女の兄が『世界を繋ぐ者(コネクター)』だったのである。
なんつうご都合主義。
てかそんなにすぐ近くにいるならもっと早く気づけよ――という突っ込みは呑み込んで、スクロールを続ける。
挿絵に描かれていた『少女の兄』を見てももう驚かなかったね。
どう見ても俺です本当にありがとうございました。
744:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 15:50:14.43:BzHnjpPT0
『世界を繋ぐ者(コネクター)』の能力は、夢を介することで、
ある世界の住人の意識を、別の世界に『転送』することができるというものである。
しかもその際、転送先の世界の『事象記録(イデア)』を読み出し、
その住人の肉体を復元できるというチート性能で、
つまり闇の女王と熾天使は、"彼方の世界"で失った肉体も一緒に取り戻すことができる。
しかし能力には制限が付き物で、一度に『転送』できる意識体はひとつまで。
しかも一度転送が成功すれば、強い脳への負荷によって、術者は能力を失ってしまう。
強い脳への負荷って……大丈夫なのかよ。
植物状態になったりしねえよな。
長い話し合いの末に、闇の女王と熾天使は、『世界を繋ぐ者』に選択を委ねることにした。
結局は、『世界を繋ぐ者』がどちらの夢を見るかで、どちらが転送されるかが決まるのだ。
そして、夜。
簡易魔術で転送先である"彼方の世界"の光景を『世界を繋ぐ者』の意識にすり込んだ後、
闇の女王と熾天使は、同じベッドに横になり、同じ天井を見つめていた。
闇の女王は約束する。もしも自分が"彼方の世界"に戻ることができたら、
一度だけ闇の眷属の掟を破り、熾天使の肉体を復活させると。
熾天使は約束する。もしも自分が"彼方の世界"に戻ることができたら、
一度だけ光の使者の掟を破り、闇の女王の肉体を復活させると。
なるほど核心っぽくなってきたな。
748:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 16:33:50.73:BzHnjpPT0気づくと、闇の女王は一糸まとわぬ姿で、暗い闇の底に横たわっていた。
全身には活力が漲り、魔力も元に戻っている。
――『世界を繋ぐ者』は私を選択したのだ。
辺りには噎ぶような腐臭と血の匂いが立ち込めていた。
恐らく私の死体は、散々弄ばれた後でこの掃き溜めに打ち捨てられたに違いない。
怒りがふつふつと沸き上がってきたが、
今は自分を不意打ちした天使や、かつての部下への復讐を忘れて、復活の儀を執り行う。
なぜ膨大な魔力の三分の一を消費してまで、自分の天敵である熾天使を復活させるのか?
答えはひとつ――友達と約束したからだ。
儀式が終わると、自分と同じく、胎児のように手足を折りたたんだ熾天使の裸体が顕現した。
『転移魔法』を発動し、"彼方の世界"で待っている熾天使の意識体を、"此方の世界"に引き寄せ、肉体に定着させる。
瞼が震え、熾天使が目を開ける。
お互いを認めると、自然に笑みが零れた。
本当なら殺し合って然るべき関係。でも今は……今はまだ……。
熾天使は純白の翼を、闇の女王は漆黒の翼を広げ、しばし同じ空を飛んで、別れた。
熾天使が今回の策謀を『最高神』に訴えれば、計画に荷担した神々は罰せられ、
上級天使たちは"彼方の世界"から"此方の世界"に、力を失わずに戻ってくることができるだろう。
そして私はこれから、私の玉座に我が物顔で座っている裏切り者の体に、深い後悔を刻みつけに行く。
その後、数千年にわたる天界と下界の抗争が、
当代の闇の女王と熾天使が橋渡しとなって終息することを、その時の私は知る由も無かった。
終わりかと思いきや、物語にはまだ続きがあった。
憑依されていた間の記憶を失った少女は、
しかし『世界を繋ぐ者(コネクター)』と触れたことで、
自分が数多の世界に鏡写しのように偏在し、"女王"であり"騎士"であり、そして"黒き獣"であることを知る。
春の匂いを色濃く残す五月。
少女は"女王"を模した黒い衣装を手作りし、身に纏う。
彼女が熾天使に憑依されていた憐れな少女と、
その兄――かつての『世界を繋ぐ者』――と再び出会うのは、それから少し先の話である。
了
お、終わった。俺は今モーレツに感動している。
ストーリーに、じゃねえ。厨二成分が濃縮されたこの物語を一息で読み終えた自分に、だ。
瑠璃と瀬菜がノベルゲー『強欲の迷宮』を作る過程で
テスターとして、延々鬱になる文章を読まされたときは、
まだ……なんつーか、こう……作業感みたいなものがあったんだが、
今回は一つの完成作品を精読したわけで、読後の疲労感がまるで違う。
「感想を聞かせてもらってもいいかしら」
「ちょっと待ってくれ。頭の中でまとめてるから」
俺は眉間をもみつつ、
「文章は、読みやすくなってると思う。
専門用語や辞書引かなきゃ分からんねえ漢字は……、
まあ、あるっちゃあるけど、昔に比べりゃ随分少ないし」
ちなみに比較対象に挙げてる作品は、
去年の冬、瑠璃がメディアスキー・ワークスに持ち込んだマスケラの二次創作だ。
「話の内容は、王道から逸れてていいんじゃねえかな。
簡単にまとめりゃ、魔法の世界から、こっちの世界にやってきた闇の女王が、
本当は宿敵の天使と協力して、元の世界に帰るために頑張る話で……。
最後は……ハッピーエンド……なんだよな?」
自信がなく疑問符をつけてしまったが、瑠璃は何も言わず、
「それで?」とでも言いたげな目で俺を見上げてくる。
「登場人物は………もうちっとオリジナリティのあるキャラクター使った方が良くね?
挿絵の登場人物とか、一目でモデルが誰か丸わかりだしよ……。
あっ、絵はかなり上手くなってたな!」
これは読後に絶対誉めてやろうと思っていたことだった。
安易な萌えに走らない、人物の特徴を捉えた写実性重視の挿絵は、
物語の描写とぴったりマッチしていた。……あ、女王の家来役の麻奈実は例外な。
パソコンのすぐ後ろに視点をずらせば、
絵や文章のかきかたに関する本がずらりと並んでいて、
瑠璃の画力と筆力は日々の努力の賜なんだな、と再確認する。
「話の大筋はこのまま、要所要所を分かりやすい描写に変えてさ、
あと、登場人物の心理描写を若干増やせば……」
「もういいわ」
莫迦京介め
770:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 18:34:55.72:bGFrTWa+O鈍いな京介
772:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 18:53:13.81:BzHnjpPT0瑠璃はそう呟くと、パソコンの電源を落とした。
は、はぁ?
俺は、お前が感想を聞かせてくれって言うから――。
「わたしはアドバイスが聞きたいと言ったわけではないの。
物語を読んで、純粋に思ったこと、感じたことが聞きたかったのよ」
瑠璃が言わんとしていることが分からない。
たぶん俺の理解力が足りてないんじゃなくて、
誰が聞いても同じように理解できないんじゃねえかと思う。
批評者として失格の烙印を押されたような気分になった俺は、悔し紛れに言った。
「瑠璃はこの作品を、このまま応募するつもりなのかよ?
はっきり言って今のままじゃ、この前と同じような感想書かれて突っ返されると思うぜ」
去年の冬、メディアスキー・ワークス編集部の熊谷さんは、
瑠璃の持ち込んだ長大な二次創作作品と、それと同じくらい分厚い設定資料に全て目を通した上で、
あの作品に不足していたもの、過剰だったものを、それぞれ丁寧に解説してくれたよな。
その解説が、この作品には全然生きてねえ。
絵が上手くなってるのは認める。
でも文章は、『強欲の迷宮』の方がまだ読みやすかったよ。
瑠璃は穏やかに言う。
「あなたに言われた改善点は、きちんと承知しているわ。
ストーリーの概要は王道から逸れて失敗した典型的例だし、
文章は一文一文が長ったらしくて修飾過剰。
登場人物の容姿や性格は知り合いからの流用で新鮮味に欠けていて、
物語の終わりにあるべきカタルシスもない……。
商業的観点から見れば、唾棄すべきクズ作品よ」
る……瑠璃さん?
何もそこまで卑下する必要はないんじゃないスか……?
瑠璃は優しい微笑を浮かべて、
「でもね、これはどこかに応募するために書いた作品ではないの。
自分のため……あくまで自分のために書いた作品なのよ」
「じゃあ、書き始めたときは、誰かに見せるつもりはなかったのか?」
「ええ。これでも、あなたに見せるためにかなり添削したんだから」
マジかよ。
今読んだのが改変版なら、原本はいったいどんな厨二具合なんだ?
「残念だけれど、見せることはできないわ。常人が読めば発狂しかねない酷さよ。
幾分耐性が出来ているあなたでも、三日三晩は寝込むことになるでしょうね」
もはや呪いの書じゃねえか。
瑠璃はノートパソコンの天板を閉じて、寂しげな微笑を浮かべた。
『覚えてるわけ、ないよね』
誰かの声が耳許でリフレインした。
あのときと同じだ。瑠璃はあのときの桐乃と同じ顔をしている。
そしてあのときと同じように、俺には瑠璃が、どんな言葉を欲しているのか分からない。
その言葉が、今し方読まされた作品に関係していることは分かる。
しかし俺の記憶では、瑠璃に出会ったのはあのオフ会の日が初めてで、
間違っても俺が『世界を繋ぐ者』で、
瑠璃にその昔取り憑いていたという闇の女王を魔法の世界に送り返した、なんてトンデモ話は有り得ねえ。
何かのメタファーという可能性もないではなかったが、
俺のポンコツな脳味噌に行間を読むなんて芸当は望むべくもなかった。
それから俺は瑠璃にラフ絵を見せてもらったり、
コミケで販売した同人誌の写真コーナーを見直したりして楽しんだ。
最後まで桃色の空気にならなかったのは、小説の件が尾を引いていたのと、
今日の瑠璃が、黒猫寄りの雰囲気を纏っていたからだと思う。
「お楽しみは終わったぁ~?」
居間に戻ると、開口一番、次女が顔をニヨニヨさせて言った。
こいつ、意味分かって言ってんのかね?
瑠璃は次女の発言を華麗にスルーし、台所に向かう。
「何してんだ?」
「何って……これから夕食の準備をするのよ」
振り返った瑠璃は、真っ白な割烹着を装着していた。
うわぁ……どっからどう見ても昭和のお母さんだよコレ。
コスプレに私服にジャージに割烹着に……着るモンひとつ変えても全然印象が違うなあ。
瑠璃はゴムで後ろ髪を纏めながら言う。
「あなたも食べていくのでしょう?」
俺は……。
1、食べていく
2、今日は帰るよ
>>790
1
788:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 21:53:03.18:YhR5S2Kc02
789:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 21:53:02.97:W99uioLW01
790:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 21:53:40.54:vDR+4ma201
791:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 21:54:02.72:JmBiyZLDO1
792:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 21:54:10.38:yJ1KgvPZ01
793:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/25(土) 21:54:32.04:a3Lwlu3rPお前らどこにいたんだよw
824:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/26(日) 00:20:54.38:u4wVIxT00「食べていくよ」
と言うと、次女と三女は揃って顔を輝かせ、
「やった。ご飯は一緒に食べる人が多いほど美味しいもんねっ」
「今日は、夜まで兄さまと一緒です?」
「そうだよぉ。もしかしたら泊まってくんじゃないかなぁ~?」
「兄さまはどの部屋で眠りますか?」
「そりゃやっぱルリ姉の部屋で……ごめ、ごめん、冗談だって!
ほら、ルリ姉は早くご飯作ってきてよ~。あたしたちお腹空いているんだからさぁー」
じゃれあう三姉妹を見ていると、自然と笑みが零れてくる。
俺はそっと廊下に出て、携帯を取りだした。
「もしもし?高坂ですけど」
「あ、お袋?俺俺」
断っておくが、別にオレオレ詐欺を意識しているわけじゃない。
自然とこの言葉が出てくるんだよな。
お袋は声のトーンを普段のそれに戻して、
「京介ぇ?あんた今どこにいるの?」
「今赤城と街に出てる」
「あら、そうなの?晩ご飯はどうする?食べてくる?」
「そうするよ。あ、それが言いたかっただけだから」
「そう。あんまり遅くならないようにしなさいよ~」
電話を切ると、ささやかな罪悪感が胸に去来した。
正直に言ってもよかったかもな。
『彼女の家で晩飯をご馳走になる』ってさ。
居間に戻ると、瑠璃は本格的に晩飯の支度に取りかかっていた。
にしても、マジで割烹着似合ってるな。
ベストジーンズ賞ならぬベスト割烹着賞があれば、十代の部で優勝狙えるレベルだよ。
「兄さま」
座布団の上に座ると、三女が後ろ手に何かを持ってやってきた。
が、三女の体よりもその何か――画用紙――が大きいせいで、バレバレだ。
「ん、またメルルのキャラクターか?」
三女はニコーっと笑い、画用紙を差し出す。
そこに描かれていたのは、白い仮面を持った黒ずくめの男。
メルルには基本的に大人の男性が登場しない。ということは……分かったぜ。
「漆黒か」
「いいえー」
えっ、違うの!?
かなり自信あったんだけどなぁ。
「ほんとうのほんとうに分かりませんか?」
「……降参。誰なんだ?教えてくれ」
「兄さまです」
ああ、なるほどね。……って、分かんねーよ!
俺は日常的にこんな黒い服着てねえし!
「それは兄さまにあげます」
しかもくれるんだ!?
兄さまの部屋狭くて飾るトコねえし、
スケッチブックに保管しといてくんねえかな?
「あげます」
押し強えわ、この子。はい、謹んで拝領致します。
「あははっ、京介さんよかったねぇ~」
遣り取りを見ていた次女がケタケタと笑う。
「この雨の中どうやってこの画用紙を折らずに持って帰るか一緒に考えてくれよ」
「今日のところはルリ姉の部屋に置いといて、
また晴れた日に持って帰ればいいんじゃないかな」
「そうさせてもらう」
「あ、全然話は変わるけど」
次女は三女が教育テレビに興味を移したのを確認すると、台所に届かない程度の小声で、
「ルリ姉の部屋で何してたの?どこまでいった?」
あー、こういう子のことなんて言うんだっけ。
……思い出した。マセガキだ。
しかも完全に敬語忘れてやがるしな。
いや、この方が俺も気楽に話せていいんだけどよ。
「お前が期待してるようなことは何もしてねえ」
「えぇーっ、チューもしてないの?」
沈黙を勝手に肯定と受け取った次女は、
「彼氏家に呼んどいて何もしないとかルリ姉も強気なのか奥手なのかわっかんないよねぇー。
あと、京介さんは自信持ってルリ姉のこと押し倒せばいいと思うよっ」
頼む、誰かこのガキを黙らせてくれ。
そんな祈りが通じたのか、台所から瑠璃が次女の名を呼び、
「暇にしているなら、こっちに来て手伝って頂戴」
「あたし今ねえ、京介さんとお喋りするので超忙しいから無理」
「それを暇にしていると言うのよ。
お腹が空いているのでしょう?手伝った分、早く出来上がるわ」
「しょーがないなー。京介さん、この子の相手頼むねっ」
次女は立ち上がり、ツインテールをぴこぴこ揺らして台所に向かう。
夕食が完成したのは七時ちょっと前で、
調理を手伝えなかった俺は、せめてもと配膳係に志願した。
四人分の椀や皿を、台所から居間のちゃぶ台に運んでいく。
箸立には暖色の箸が三膳入っていて、それを適当に並べていると、
「あ、その子はスプーンとフォークです。練習中なんだよねぇ」
「はいー!」
ああ、じゃあこれは瑠璃と次女と、今は仕事に出てるお母さんの分か。
んで俺は割り箸、と。
四人全員がちゃぶ台の周りに座り、合掌する。
「いただきます」
メニューはご飯に味噌汁、鰯の塩焼きに冷や奴、キュウリの漬け物の計五品で、まさに日本料理といった感じ。
満遍なく箸をつける。
料理番組のコメンテーターのように豊富なボキャブラリーを持たない俺は、こう言うしかない。
「うまい。マジでうまいよ」
それまで横目で俺の反応を伺っていた瑠璃は、ほう、と息を吐いて、
「そ、そう?気に入ってもらえたなら、嬉しいわ。
……味加減はどうかしら?」
少し薄味だけど、たぶんそれは妹のため、わざとそうしているんだろう。
「ちょうどいい。ウチと似てる」
「よかったね、ルリ姉。これでいつでも嫁げるねぇ~……痛ッ」
額を押さえて呻く次女。
デコピンされると分かっていただろうに。口を衝いて出てしまうんだろうか。
「姉さま、ふりかけはどこですか?」
「ここにあるわ」
瑠璃はふりかけの封を切って、三女のご飯の上に振りかけてやる。
「零さないようにして食べるのよ」
「はいー」
思わず笑っちまったよ。
「何が可笑しいの?」
「いや、なんか姉妹っていうより、母娘って感じだと思ってさ」
「お母さんがいないときはルリ姉がその代わりだもんねぇ~」
その遣り取りを見ていた三女は、訊きたくてウズウズしていたんだろう、
口の中のご飯を大急ぎで呑み込むと、
「姉さまがお母さまなら、兄さまはお父さまですか?」
「うぅ~ん、それはちょっと違うかなぁ~?」
俺と瑠璃は顔を見合わせて、苦笑する。
本当に三女と次女が娘で、瑠璃が奥さんなら、さぞかし家に帰るのが楽しいだろうな。
そんな妄想を見透かされたのか、はたまた最初から同じことを考えていたのか、
みるみるうちに瑠璃は顔を朱に染め、俯く。
普段下ろしている髪は、今は後ろでまとめられていて、
透き通るような白さの項が妙に色っぽい……って、食事中になんてこと考えてんだ俺は。
瑠璃は微妙な雰囲気を払拭するかのように、
「お、お代わりはいる?」
俺の椀の底も見ないで言ってきた。
まだ少しご飯は残っちゃいるが……。
「ああ、頼む……つうか、自分で行ってくるよ。炊飯器の場所分かってるしさ」
「いいのよ、あなたは動かなくて。ご飯はたくさん?それとも少し?」
ここは好意に甘えるとするか。
「少しでいいよ。ありがとな」
椀を手渡してから気づく。
この会話、どっかで聞いたことあると思ったらまんま親父とお袋のそれだよ。
それからしばらくして帰ってきたお椀には、白米がなみなみとよそわれていた。
こいつ完璧に上の空で聞いてやがったな。
まあ、漬け物がスゲー美味いからいくらでも食べられますけどね。
食事が終わり、「食器洗いくらいは」と申し出てみたものの、
瑠璃は「妹たちの面倒を見ていて頂戴」の一点張りで、
結局今日、俺は一度も五更家の台所に立たせてもらえなかった。
まったく、「男子厨房に入らず」なんて言葉が箴言たり得たのは昭和までだろうがよ。
「ルリ姉~あたしお風呂入れてくる~」
次女が行ってしまい、今俺は三女と一緒にクイズ番組を見ている。
単純な知識量や計算力ではなく、直感力や想像力を試す、
要するに右脳を働かせて答えるタイプのクイズなので、幼い三女にも問題なく楽しめている。
テレビ画面には騙し絵が映っていて、
「兄さま、この絵には何匹のお馬が隠れていますか?」
「一、二、三……四匹じゃないか?」
「わたしには六匹見えます」
制限時間が終わり、正解が発表される。おっ、七匹もいたのか。
「惜しかったな」
「はいー……」
悔しそうに、ぎゅうと丸っこいウサギのぬいぐるみを抱きしめる三女。
「それ、手作りか?」
「はいー。姉さまが作ってくれた『まどーぐ』です」
ま、まどーぐ?
数秒考えて、それが『魔道具(まどうぐ)』と書くことに思い当たる。
そういやさっき瑠璃が、『三女は私の与えた魔道具は全て完璧に使いこなしている』と言ってたっけ。
でもこれ、どう見ても魔道具じゃねえよな。こんな可愛らしい魔道具があってたまるか。
普通にぬいぐるみとして渡してやれよ。
「たっだいまー」
次女が帰ってくる。
「順番どうする?京介さんから入る?」
「は?」
「だからぁ、お風呂。モチロン入ってくんでしょ~?」
いやいや待て待て。
「さすがに風呂は遠慮しとく」
「えぇ~っ、なんで?ルリ姉と一緒に入りなよぉー」
あのなあ。
「馬鹿な発言は慎みなさい。
この家のお風呂のどこに人二人が入れるスペースがあるというの」
洗い物が終わったのか、瑠璃が手の水気をミニタオルで拭きながらやってくる。
「じゃあお風呂場が広かったら、京介さんと一緒に入ってもいいんだ?」
「なっ、そ、そういう意味ではなくて……」
俺は瑠璃に加勢する。
「ほら、俺下着の替えとか持ってないしさ」
「近くにコンビニあるから、買ってくればいいんじゃないかなぁ?
なんならあたしがひとっ走りしてこよっか?」
結構です。
小さな女の子が一人で男物のパンツ買おうとしたら絶対コンビニ店員怪しむよ!
「と、とにかく。今日は帰る。好意だけもらっとくわ」
「ちぇ、つまんない」
それまでクイズ番組に夢中になっていた三女が、ふぁ、と小さな欠伸をする。
「もうおねむの時間?今日は早いねぇ。あんまりお昼寝しなかったからかなぁ?」
おいで、と次女が手招きすると、三女は次女の膝に頭を乗せて目を瞑った。
「お風呂できたら起こすからね」
「…………」
次女がテレビの音量を小さくすると、すぅ……すぅ……穏やかな寝息が聞こえてきた。
瑠璃が思わせぶりな視線を、俺、時計の順に移す。
もう八時過ぎか。腰を上げると、瑠璃もそれに続いた。
「あっ、あたしも見送りたい……けど動けないし」
次女は膝の上の三女を見ると、表情に諦めの色を浮かべ、
「あたしはここで。またいつでも来てくださいねー、京介さん」
瑠璃が引き戸を開けると、外では依然として霧状の雨が降っていた。
「傘は持ってきているの?」
「ああ」
黒の折り畳み傘を開いて見せる。
瑠璃は傘立てにあった赤い傘を開くと、俺の一歩先を歩いて、来たときと同じように門の閂を外してくれた。
「今日は……呼んでくれてありがとな。
瑠璃の妹たちに会えて良かったし、
美味い飯もご馳走になって……楽しかったよ」
「妹たちには懐かれて大変だったのではなくて?」
「避けられるよりずっとマシだろ」
瑠璃はやんわりと笑んで、
「京介は小さな子供の扱いに慣れているのね。
下の妹は内気な性格なのだけれど、あなたに対しては人見知りしなかったみたい」
「似姿も描いてもらったしな。あれ、今のところは瑠璃の部屋に置いといてもらってもいいかな」
「構わないわ。
それと晩ご飯は……、質素な献立でごめんなさい。
正直、物足りなかったでしょう?
本当はもっと凝ったものを作るつもりだったのだけれど、
し、失敗するのが怖くて、一番作り慣れているもので妥協してしまったの」
失敗するのが怖くて――、か。
本音を隠さずに教えてくれたことは嬉しいよ。
でもあれが妥協の結果だなんて、言われなきゃ全然分からなかったぜ。
質素な献立?関係ねえよ。
「俺はああいう純和風な料理が好きなんだ。
それに、普通で無難な料理ほど、料理人の腕が反映されやすいだろ?
お前の料理、スゲー美味かったよ。
また今度何か食わせてくれな」
「ほ、ホメ殺さないで頂戴」
瑠璃は傘で顔を隠してしまう。
ざあ、とにわかに雨脚が強まり、街灯の明かりが鈍くなる。
俺は傘のへりを指で持ち上げ、その中の唇に、自分の唇を合わせた。
「…………っ……ん……」
微かに身動ぎした後で、大人しくなる。
大きく見開いた目を閉じ、固く閉じた唇を薄く開いて、瑠璃は俺を受け入れてくれた。
まるで親鳥に餌をねだる小鳥のように、お互いの唇を啄む。
熱く濡れた吐息や、空気を求める喘ぎ声、触れた肩の温もりが、際限なく興奮を高まらせていく。
やめ時が分からない。いつまでもこうしていたい。
俺を夢から覚ましたのは、すぐ近くで起こった水音だった。
「はぁ……っ……はぁっ……」
「大丈夫か?」
傘を拾い上げて、瑠璃の頭上に翳してやる。
陶然とした双眸に理性の色は見て取れない。
瑠璃は泣きそうな声で言った。
「どうして……やめたの……?」
脳髄に熱い電極をぶっ刺されたような気がしたよ。
「こ、これ以上続けたら色々とヤバいだろ」
もう既に色々とヤバいことになってるんですけどね、俺のリヴァイアサンは。
呼吸が整ってきたのに伴って、思考もはっきりしてきたんだろう、
瑠璃は元々上気させていた顔を、さらに赤くして、
「い、いきなりすぎるわ……。
しかもこんなところで……情緒も何もあったものではないじゃない」
ぽす、と弱々しい力で俺の胸を突く。
お前だって前のデートで、いきなしキスしてきたじゃないか。これであいこだ。
「あれは……解呪のための口吻であって……」
呪いをかけるという名目ならいつでもどこでもキスしていいのかよ。
「じゃあ俺もそういうことで」
「闇の眷属ではないあなたに呪術を使うことは不可能よ」
はぁ。どうして俺と瑠璃のキスの後は、なんつーの?こう、甘い雰囲気が流れないんだろうなぁ。
うっとりとお互いを見つめ合い睦言を交わす……てなことをしてみたいと思うのは、贅沢なんだろうか。
俺は言ってやった。
「キスしたくなったからキスしたんだよ」
文句あっか。不意打ちだの情緒がないだの知ったこっちゃねえっての。
「なんて、強引な人」
瑠璃は下唇を噛み、目を伏せる。
「杞憂……だったのかしら……」
「杞憂?」
オウム返しに尋ねると、
「酷い顔」
どこまでな真っ直ぐな眼差しと一緒に言われた。
な、なんで俺悪口言われてんの?全然そんな脈絡無かったよね!?
「今日のお昼、インターホンが鳴って、扉を開けて、
わたしの家を眺めているあなたを見て、そう思ったのよ」
それは顔の造形的な意味で?それとも表情的な意味で?
瑠璃は喉をくつくつと鳴らして、
「後者に決まっているじゃない。
あなたの顔は、あなたが思っているほど地味でもなければ、不細工でもないわ」
でも格好いいってワケでもねえんだろ。
「ふふっ、なにを拗ねているの?
万人受けする容貌でないことは確かだけれど、
わたしの好みには合致するのだから、それで充分なのではなくて?」
と切り返されなんとも面映ゆい気持ちになった俺は、話題を元に戻すことにする。
「俺は今でも、その、酷い顔してるか?」
瑠璃はフリフリと横にかぶりを振って、
「いいえ。きっと光の加減で、わたしが見間違えたのでしょうね。
下の妹も上の妹も、初対面のあなたに怖がらず接していたでしょう?
特に下の妹は人の機微に敏感でね、心の闇が表情に出ている人間には決して近づかないのよ」
そっか。じゃ、杞憂だよ。
俺は瑠璃から離れ、肩に斜めにかけていた折り畳み傘を垂直に持ち直した。
「そろそろ、帰るわ」
「ま、待って」
返しかけた踵を戻す。瑠璃は胸に手を添えて、
「次は、いつ会えるのかしら?」
「明日は瑠璃はアルバイト……お母さんの手伝いがあるんだよな。
じゃあ、明後日、久しぶりに二人で、部活に顔を出さないか。
部長が来い来いうるさくてさ。たぶん、瑠璃にもメール来てるだろ?」
唇を尖らせる。不服のサインだ。
「部活が終わったら、その後は二人でどこかに遊びに行こうぜ」
「ええ、そうね。そうしましょう」
破顔する。これ以上に分かり易い喜びの感情表現はないだろう。
コロコロと表情を変える瑠璃を見ていると、
澄ました無表情がデフォルトだった頃の瑠璃を忘れそうになるよ。
瑠璃と玄関先で別れて、しばらくしたところでBeegleMapにアクセスする。
検索エンジンは自宅までの最短ルートを表示してくれたが、俺は少し遠回りの道が知りたかった。
にしても、「酷い顔」か。
五更家の前に立ったときは、気持ちを切り替えていたつもりでいたんだが……。
しっかりバレてたみたいだ。
ホント、女の勘は鋭さには驚かされるよ。
翌日。
俺は地元の中学校に程近い公園にやってきていた。
遊具と呼べるものは砂場くらい、あとは砂地の多目的広場になっていて、
小学生数人がこのクソ暑い直射日光の中、サッカーボールを追いかけ回している。
元気なもんだ。俺にも少しその元気を分けてくれよ、と思う。
ここは俺とラブリーマイエンジェルの親交の軌跡が刻まれている場所でもある。
目を瞑ればあやせたんにビンタされた記憶、ハイキックされた記憶、腹の底から罵られた記憶が……。
マジで良い思い出ねえな。
サッカーを邪魔しないように端を歩いてベンチに近づくと、
淡いブルーのカジュアルドレスを纏った少女が顔を上げて言った。
「お兄さん」
「よう、待たせたか?」
「いえ……わたしもついさっき着いたところですから」
社交辞令を済ませて、ベンチの空いたスペースに腰掛ける。
するとあやせもお尻をあげて座り直した。
もちろん俺と距離を置く形で。
「お兄さんを呼び出した理由は、もうご存知ですよね」
「桐乃のことについて話があるんだろ」
昨日もらったメールにそう書いてあったからな。
あやせはこくんと頷き、膝の上で両手を握りしめて訊いてきた。
「単刀直入に聞きますけど……。
お兄さんの目から見て、家での桐乃はどうですか?」
「はっきり言ってスゲー荒んでる」
瑠璃と付き合うことを告白したあの夜から、
桐乃の俺に対する態度は、一年と半年前のそれに逆戻りした。
廊下ですれ違っても言葉一つ交わさない、当然挨拶もなし、
偶然目が合えば舌打ちし、聞こえるか聞こえないくらいの大きさの声で悪態を吐く。
「しかも俺だけにじゃなくて、親父やお袋に対しても似たような態度取ってるからな。
今はみんな、腫れ物触るようにあいつに接してるよ」
「そんな……」
「親友のお前から見て、桐乃はどうなんだ?」
あやせは悲愴な面持ちで、訥々と語った。
「ここ数日の桐乃は、なんだか桐乃じゃないみたいです。
冷たくされたり、あからさまに避けられているわけではないんですよ?
でも、メールは続かないし、電話で話してても上の空で……わたし怖いんです。
今の状態がずっと続けば、桐乃との関係が壊れてしまうような気がして……」
あやせが悲観的に捉えすぎている可能性がなくもないが、
桐乃があやせを含めた学校の友達にまで素っ気なくしているのは一応の事実なんだろう。
「桐乃は昨日あった撮影の仕事を無断欠勤しています。
あと、これは陸上部の友達が教えてくれたんですけど、
桐乃はここ数日の部活も、何の連絡せずに休んでいるみたいなんです。
みんなすごく心配してました……。
あの娘、仕事や部活には、常に真面目で、本気でしたから。
遅刻もこれまで一度もしたことありませんでしたし……」
それには薄々勘付いてたよ。
あいつ、三日前から家に引きこもり通しだからな。
「わたしは、三日前に、桐乃に何かがあったんだと考えています。
その日はお昼から撮影で、撮影が終わった後は一緒に買い物に……。
あ、お兄さんには電話で言いましたよね。
桐乃、撮影の時から様子が変でした。
表情や雰囲気がイマイチだって、何度もカメラマンの人に注意されてて……。
モデルだって人間ですから、機嫌が悪い時や、
体調が悪い時に撮影の仕事が入ることは珍しいことではありません。
桐乃のすごいところは、どんなに不調な時でも、
カメラの前では普段通りの桐乃でいられるところで……。
でも、あの日は違ったんです。
桐乃の目……、まるで一晩中泣いてたみたいに腫れてました」
その喩えはたぶん事実だよ。
それにしても、仕事や部活は自他ともに厳しかったあの桐乃がね……。
あやせと喧嘩したときでも、撮影や部活の合宿は休まず参加して『いつも通りの桐乃』を演じてたってのに。
「わたし、撮影が終わった後で桐乃に言ったんです。
『何かあったの』って。『わたしでよければ相談に乗るよ』って。
だってわたしたち、親友じゃないですか。なのに桐乃は『なんでもない』としか言ってくれませんでした。
桐乃が嘘を吐いているのはすぐに分かりました。
わたし、ショックで頭の中が真っ白になって……でも、そこで桐乃を責めても仕方ないと思いました。
だから桐乃の好きなタイミングで悩みを言ってもらうために、
桐乃を元気づける意味も込めて、『買い物に行こう』って誘ったんです」
一年前に比べりゃ大きな進歩だな、と思ったよ。
人間関係に潔癖で、純粋で、素直で、嘘を吐かれると人が変わったようになるあやせが、
桐乃の隠し事に言及するよりも、自分から話してもらうまで待つ選択をしたんだからな。
「街に出ると、桐乃はいつもの桐乃に戻ったように見えました。
撮影のときの桐乃が嘘みたいに、桐乃は笑顔で……でも、やっぱり違ったんです。
お金の使い方がすごく荒くて、ナンパされたときも普通に話してて……いつもは無視するか、冷たくあしらうのに……。
桐乃、テンションが高いというよりは、自棄になってるみたいでした。
桐乃を家の晩ご飯に誘ったのは、長く街にいればいるほど、桐乃がおかしくなるような気がしたからです」
あやせの賢明な判断に感謝しねえとな。
隣にあやせがいなけりゃ、あいつ、マジで朝帰りして親父に捜索願出されてたかもしれねえ。
「わたしたちはご飯を食べた後で、わたしの部屋に行きました。
その時に、桐乃に『泊めて』と頼まれて……でも、心を鬼にして断りました。
お父さんやお母さんは桐乃の言葉を信じてましたけど、
わたしには、桐乃が桐乃のお家に連絡していないことが分かっていたんです。
だってその日、桐乃は一度も携帯を開いていませんでしたから」
お前の観察眼には怖れ入る。
「それで、桐乃を家に帰してくれたのか」
「はい。そうするのが桐乃の友達として……親友として……正しい選択だと思いました。
あの、あの後桐乃はご両親に……?」
「叱られたよ」
途中で俺が止めに入ったことは黙っておく。
「お兄さんは、桐乃が変わった原因について、何か心当たりがありませんか?」
「さあな。あいつは何も話してくれねえから」
「わたしはお兄さんの考えを聞いているんです」
「……………」
熱気を孕んだ一陣の風が吹きすぎ、あやせの豊かな黒髪を膨らませる。
すぐ後ろの木立で独唱していた蝉が力尽きる気配がした。
サッカーをしていた小学生たちは、いつの間にかいなくなっていた。
「―――お兄さんが原因なんじゃないですか?」
しん、と水を打ったように静まり返った公園に、あやせの透明に澄んだ声はよく響いた。
「なんでそう思うんだ?」
「あの日、桐乃は一度もお兄さんの悪口を言いませんでしたから。それが逆に不自然でした」
あやせは重く低い声で言う。
「桐乃が夜遅くなっても帰りたがらず、連絡も入れようとしなかった理由は、
きっととても単純なことで……家族に……お兄さんに心配をかけたかったからなんだと思います」
お前も麻奈実と同じことを言うんだな、あやせ。
夏休みが明けるまでは、瑠璃との交際を公にせず、これまでどおりに振る舞う――。
それは瑠璃と話し合って決めたことで、
だから一昨日の図書館勉強は、麻奈実と純粋に『仲の良い幼馴染み』として過ごせる、
残り少ない貴重な時間だったのかもしれないのに、
麻奈実はめざとく俺が落ちこんでいることに気づき、結局俺は、桐乃の不可解な行動の顛末を話してしまった。
そして麻奈実は、俺の話を聞き終えたあとでこう言ったのだ。
『桐乃ちゃんは、きょうちゃんに探して欲しかったんじゃないかなあ』
麻奈実は続けてこうも言った。
『ねえ、きょうちゃんはその時、何をしてたの?』
声の調子は優しく穏やかで、だからこそ俺には堪えた。
開き直れたらどんなに楽だったろうな。
「妹の我が儘なんざ知ったこっちゃねえ」ってさ。
でも俺は決まり悪く俯いて、「家を空けてた」と言うのが精一杯だった。
麻奈実を失望させたくなかったというのもあるし、
そうやって嘯いたところで、麻奈実には通用しないと分かり切っていたからだ。
あやせは言った。
「もう一度訊きます。
桐乃があんなふうになったのは……お兄さんが原因なんじゃないですか?」
これ以上否定しても白々しいだけだ。
首肯すると、あやせはそれまでの必死な表情を、さっと能面に変えて、
「やっぱり……そうだったんですね」
ぞわ、と全身が粟立つ。
一瞬のうちに、俺たちを取り巻く夏の熱気が冬の冷気に変換されたような錯覚がした。」
「桐乃に、何をしたんですか?」
お、落ち着け。
「俺が桐乃に直接何かしたワケじゃねえよ」
「でも、桐乃が傷つくようなことをしたのは、事実なんですよね!?」
「俺にあいつを傷つけるような意図は、これっぽっちもなかったっての!」
「結果的にはそうなってるじゃないですか!」
目的語不在の論駁に終着点は見えず、
「これは俺たち兄妹の問題なんだ。
お前が首を突っ込むことじゃねえんだよ」
俺はつい、いつものスタンスを忘れて、強い言葉をぶつけてしまった。
「………ッ」
あやせの表情に、怯えと悔しさが綯い交ぜになった色が浮かぶ。
俺は深呼吸してささくれ立った気持ちを落ち着け、
「……あやせが心配することはねえよ。
しばらくしたら、桐乃は元通りになる。
お前とはこれからも親友でいるだろうし、モデルの仕事や部活にも復帰するさ」
「時間が解決してくれると?」
「……ああ」
「お兄さんは……、桐乃のことが心配じゃないんですか?」
「心配だよ。心配に決まってんだろ」
「じゃあお兄さんは、桐乃があんなふうになってから、今まで何をしていたんですか?
わたしはわたしなりに桐乃を元気づけようとしてメールを送ったり、電話をかけたりしました。
全部、無駄でしたけど……それでも、放っておくことなんてできませんでしたから」
あやせは消え入るような声で言った。
「わたしの知っているお兄さんは、
桐乃が苦しんでいるときに、こんなに悠長に構えているお兄さんじゃありません」
あやせは木陰から日向に踏み出すと、
「さよなら」
そのまま振り返りもせずに、去っていった。
「人の気も知らないで、好き勝手言いやがってよ」
誰もいない、閑散とした公園で独りごちた。
-----------------
「ただいま」
返事は帰ってこない。お袋の靴が無くなっている。
買い物に出かけたんだろう。親父は仕事で朝から家にいない。
俺はリビングで麦茶を飲んだ後、階段を上って自室に向かいかけ、
右手のドアの前で、足を止めた。ドアプレートには『桐乃』の文字。
心の裡で誰かが言った。
……たったの三日で手前との約束を反故にしていいのかよ。
「桐乃、いるか?」
考えていることとは裏腹に、右手の甲がドアを叩く。
「いるんだろ、桐乃」
言葉が口を衝いて出ていた。
ドアノブに手を掛ける。駄目元で捻ると、あっさり開いた。
家に誰もいないと思って、油断してたのかもしれねえな。
部屋から流れ出してきた、甘く冷たい空気に身震いする。
照明はついておらず、閉め切られたカーテン越しに届く仄かな陽光が、
部屋の中のものにぼんやりとした陰影を与えていた。
クーラーが冷風を送る音と、マウスのクリック音が虚しく響いている。
実に陰気な部屋だ。いるだけで気が滅入ってくる。
そしてそんな部屋の左奥に、俺の妹がいた。
手入れを怠っているせいか、髪のぱさつきがよく目立つ。
ディスプレイの光に照らされた顔はどこまでも無表情で、
寝ても覚めてもパソコンと向き合う生活を続けているせいか、目は赤く充血している。
「……なに、勝手に入ってきてんの?」
「話があるんだ」
桐乃はゴミを見るような目でこちらを一瞥し、
「あんたとなんか話したくない。出てって」
「やだよ」
俺は後ろ手にドアを閉めて言った。
「お前さ、いつまでこうして引きこもってるつもりなんだ?」
「…………」
「撮影の仕事や、部活、無断で休んでるんだってな」
桐乃は「ッチ」と大きく舌打ちし、
「……誰から聞いたの?」
「んなことは今どうだっていいだろ。
お前、いい加減に外出ねえと、終いにみんなから愛想尽かされちまうぞ」
ティーン誌の人気モデルに、陸上部のエース……。
今まで築き上げてきた地位が水泡に帰してもいいのか?
そんなこと、お前のプライドが許せるのかよ?
桐乃はふっと嘲るような笑みを浮かべて、
「別に?もう、どうでもいいし。勝手に愛想尽かしてろって感じ」
「おま……それ、マジで言ってんのか?」
「本気だけど?あたし今年受験あるし、
モデルも走るのも飽きてきたトコだったし……丁度いい機会じゃん」
売り言葉に買い言葉、で出てきた言葉じゃなさそうだ。
受験勉強に専念する――辞めるには誂え向きの理由だな。
でもさ、
「それは建前だろ」
「ハァ?勝手に決めつけるとか超ウザいんですケド。
なに『俺は全部分かってる』みたいなキモい顔してるワケ?
あんたなんかに、あたしの考えてるコトの一万分の一も分かるわけないじゃん!」
「……受験勉強のためにモデルや部活をやめることは、俺以外の誰かに言ってあるのか?」
「ま、まだ言ってない。でも、これから言うつもりだったの!」
携帯を手に取り、電源を入れようとする桐乃。
コイツまさか今から事務所や部活の顧問に辞める意志を伝える気か?
「ちょ、早まんなって!」
お前が今超絶に神経質なのを忘れて、下手に刺激した俺が悪かった!
俺の呼びかけも虚しく、桐乃は素早く電話帳から目当ての番号を選び出し、通話ボタンに手を掛ける。
すんでのところで取り上げた。
「か、返してよっ!てか、あたしの携帯に汚い手で触んなっ!」
「落ち着け、落ち着けってば!」
「うるさいっ!返せっ!」
「返したら電話するだろ、お前!」
拙いパンチやキックを躱して後退していくと、背中が本棚にぶつかった。
逃げ場を失った俺は、わざと携帯を床に落として、
掴み掛かってきた桐乃の両手を、逆に掴み返す。
性別も違えば歳も違う。
膂力の差は歴然だったが、しかし……、桐乃は暴れた。
顎先に頭突きをもらい、爪先を親の仇のように力いっぱい踏み潰され、
鳩尾に数発膝蹴りを叩き込まれてなお俺は倒れず(今振り返ってもよく持ちこたえたと思う)、
逆に俺の股間を一蹴しようと大きく足を後ろに引いた桐乃がバランスを崩し――。
「…………ん」
目を覚ますと、後頭部がずきずきと痛んだ。
手をやると微かに膨らんでいて、熱を持っているのが分かる。
やれやれ、この年でたんこぶか。
軽く意識が飛んでいる間に、俺の体は桐乃のベッド脇にもたれ掛かるような格好になっていて、
部屋の中に桐乃の姿はなく、ついでに携帯も消えている。
……終わったな。なにやってんだ、俺。
絶望に浸りかけたそのとき、ドアが開いた。
「あ……」
「桐乃……」
焦燥の色を浮かべていた顔が、ぱぁっと明るくなって、すぐに顰め面に変わる。
「……起きたんだ」
「ああ、さっきな」
「これ、あげる」
桐乃は手に持っていた何かを放ってきた。氷嚢か。
「わざわざありがとよ」
「別に。クモ膜下出血とかで死なれても困るから作ってきてあげただけ」
氷嚢で押さえたくらいでクモ膜下出血が治るかよ、という突っ込みは我慢して、後頭部を押さえる。
熱が奪われていく心地よい感触に目を瞑っていると、
「ねえ……あんた、そのまま死んだりしないよね」
「死ぬかボケ」
死因がたんこぶとかどんな虚弱体質だよ。
「だってさ、倒れたとき、ものすごい音したよ?」
「親父やお袋が出払っててよかったな」
京介がスペランカーじゃなくて良かったな
235:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 18:02:19.00:qTavd8nf0桐乃が背中から倒れる一瞬前、
引き寄せることも間に合わないと判断した俺は、咄嗟に自分の体と桐乃の体を入れ替えた。
似たようなことが、一年前、桐乃があやせや加奈子を家に連れてきたときにもあって、
あの時は桐乃の背中に手を回すことで事無きを得たのだが(怪我の有無的な意味で)、
今回は両手を掴み合っていたことが仇になり、
結果、俺はめでたく後頭部を床に強かに打ち付け、
ダメ押しに桐乃のボディプレスをもらうことになった――んだろうな。
最後らへんはあんまし良く覚えてねえや。
っと、んなことよりも大事なこと聞くの忘れてた。
「お前、電話しちまったのか?」
「し、したって言ったら?」
「俺がかけ直して、さっきのは間違いだから取り消してくれって頼む」
俺は大真面目に言ったつもりだったのだが、
桐乃は「ぷっ、馬鹿じゃん」とお馴染みの台詞を口にすると、俺の前にぺたんと座り込み、
「……電話はしてないよ。これが証拠」
携帯を操作して、発信履歴を見せてくる。
最新の発信日時は三日前のものだった。
ホッと胸を撫で下ろそうとした矢先、
「でも、辞めようと思ってるのはホントなんだ」
桐乃は神妙な顔で言った。
「受験のためじゃなくて?」
「うん……もういいかな、って。
やる気がなくなったっていうよりは、やる意味が無くなったっていうか……。
モデルはお小遣い稼ぎのために、続けてもいいかなーって思ってるケド……」
ええぇぇ、それ逆じゃね?
普通モデル業より部活優先するだろ。だって、
「お前、あんなに走るの大好きだったじゃねえかよ」
「走るのは今でも好きだよ」
「じゃあ……!」
俺はそこで二の句を継げなくなる。
桐乃は濡れた瞳に、再び拒絶の意志を宿し、
「もう、どうでもいいじゃん。あんたには関係ないことでしょ」
「桐乃……」
ここが分水嶺だ。このときの俺には、根拠不明の確信があった。
自分に課した約束を破るか否か。
破れば俺はきっと桐乃の我が儘を叶えてしまう。
守れば俺はきっと瑠璃の呪いに縛られ続ける。
かなり迷ったんですけどやっぱ安価にします
ここは安価SSスレだもんね
誰かが泣いて誰かが幸せになるルート と 誰も泣かないルート に分岐
1 自分との約束を破る
2 自分との約束を破らない
ラスト安価になりそうなので>>300までに多かったので
1
291:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:14:21.42:S3kP0pnJ0こんなのどっちかなんて選べねえよ!!!1
293:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:14:37.64:r9eJFn620どちらかと言えば1
できたら2も後で頼む
295:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:14:54.08:pcu/oZEi0できたら2も後で頼む
1
296:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:15:05.85:tY2anYI202
297:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:15:33.66:hrwGJdVO01
298:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:15:35.14:5WvA4ryX01
299:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:15:36.17:p71IbCX501に決まってる
300:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:16:07.33:KuBLxNIXO2
両方書けなんて野暮なこと言うなよ
306:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:20:13.04:sc+W5CVh0両方書けなんて野暮なこと言うなよ
何だかんだ言って
桐乃のハッピーエンドで
307:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:21:19.03:LM5dWep30桐乃のハッピーエンドで
桐乃が幸せになる方で
308:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:21:52.05:A3s2Kf6003番のあやせたん√で
310:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:22:32.23:Yw8kQefQ0黒猫が幸せならそれでいいです
312:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:23:37.90:sc+W5CVh0意見が別れてるな…
316:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:25:29.19:b0Ii18KaO全体的にみると意見半々なんだな
なぜか感動した
323:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:29:42.32:Yv403PEHOなぜか感動した
2を希望するが時既にお寿司
330:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:32:21.32:PYZQbxcm0てかお前ら何処に居たんだよwww
332:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:33:09.39:LM5dWep30>>300までって書いてるから1で決定だな
333:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:33:16.67:RZvZdH3y0桐乃が幸せなら何も言わない
337:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 21:42:32.96:qTavd8nf0→ 1 誰も泣かないルート
「関係なくなんかねえよ。お前は俺の妹だろうが」
「い、妹だから何だっての?」
「放っとけねえって言ってんだ」
親父に『桐乃を任せる』と責任を負わされたからでも、
あやせや麻奈実に発破を掛けられたからでもない。
事実俺は、今この瞬間まで、自分との約束を破るつもりなんてなかったんだ。
卑怯だよ、妹ってやつは。
兄貴の弱点がなんなのか、無意識のうちに分かってやがる。
「俺はお前の泣いてる姿は見たくないんだよ」
人差し指で、桐乃の目から溢れた涙を拭ってやる。
「やめてよ」
桐乃はいやいやするように首を振った。
「中途半端に優しくしないでって、あたし前に言ったよね?」
言われた記憶は無いが、お前が言うならそうなんだろうな。
「そういうの、マジでムカつくの……。
構うのか構わないのか、どっちかにしろって感じ……。
妹が泣いてる姿は見たくない?……ざけんなっ。
それじゃああんたさぁ、あたしを泣き止ませるためなら、何でも出来るわけ?」
俺は頷く。
桐乃は一瞬怯むように肩を震わせて、ぎり、と下唇を噛み、
「じゃあ……………………黒いのと、別れてよ」
「それは……」
言い淀むと、桐乃は勝ち誇ったような笑みを、涙で濡れた顔に浮かべて、
「ほら、どうせ出来ないんでしょ?
撤回していいよ。あんたが口先で言ってるのは、最初から分かってたし――」
「待てよ。俺はまだ何とも言ってねえだろ。
それに答える前に、ひとつだけ、どうしても訊いておきたいことがあるんだ」
「な、何?」
「お前はどうして、俺と黒猫に別れて欲しいんだ?」
「そ、それは……っ」
攻守が反転する。
ただ単純に、自分の兄貴と友達が付き合うのが許せないという理屈が通らないのは、
桐乃も重々承知しているはずだ。
いつまでも口を噤んだままの妹に、俺は尋ねた。
「お前、俺のことが好きなのか?」
燃え上がった後悔の炎は、そのすぐ後で、清涼感にも似た開放感に吹き消される。
もう元には戻れない。でも、それでいい。
ずっとその真偽を確かめたくて、答えを知るのがどうしようもなく怖くて、
『その質問をする状況』から、俺はこれまでみっともなく逃げ回っていた。逃げ切れた気でいた。
瑠璃と付き合う選択をすることで、
もし仮に『桐乃が異性として俺のことが好き』だったとしても、
自然とそれを諦めてくれるだろうという後ろ暗い打算があった。
あばばば
384:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 23:18:32.30:ExS037fmOあああああ
396:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/27(月) 23:40:18.64:qTavd8nf0「あたしは……あんたのことが……あんたのことなんか……っ」
桐乃は顔を真っ赤にして、苦しそうに言葉に喘ぐ。
もしも桐乃が『異性として』俺のことが好きで、
そのために瑠璃と別れて欲しがっているなら……、俺はその気持ちには応えられない。
確かに俺は、桐乃が泣いている姿は見たくないと言った。
でも一時的に『妹の涙を止める』ことが、『妹を不幸せ』にする未来に繋がるなら、
俺は妹が――桐乃が自分で泣きやんで、自分の力で歩き出すまで見守る道を選ぶ。
もしも桐乃が『兄として』俺のことが好きで、
そのために瑠璃と別れて欲しがっているなら……、俺は……。
「分かんない」
桐乃は涙をポロポロ零しながら、叩きつけるように叫んだ。
「あたしは自分でも、あんたのことをどう思ってるのか分かんないのっ!」
「なっ」
完全に想定外の答えに、またしても攻守が逆転する。
わ、分からないってお前……自分の心に尋ねればすむ話だろうがよ!
「わ、分かんないことは分かんないんだから、しょーがないでしょ!?」
桐乃はぐしぐしと両手の甲で目を擦ると、キバを剥いて睨み付けてくる。
そして出し抜けに立ち上がると、乱暴に本棚をスライドさせて襖を開き、
オタクグッズを掻き分けるようにして"あの段ボール箱"を取り出した。
通信簿や運動会のワッペン……あの段ボール箱に入っているのは、
桐乃が過去の自分と向き合い、初志に立ち帰るためのアイテムだ。
唖然とする俺を余所に、桐乃は段ボール箱のフタを開けアルバムを取り出すと、
「見て!」
「は、はぁ?」
いきなりなんだってんだよ。
今の話と、お前の『陸上を始めた理由』のどこに関係があるってんだ?
「いいから!見て!」
物凄い剣幕に押されて、アルバムを受け取る。
もう二度と見ることはないと思っていた。
桐乃が留学する日の未明、そのチャンスを、自分でふいにしてしまったから。
アルバムの表紙を開く。
果たしてそこにあったのは、幼い頃の桐乃と俺の二人か、俺一人だけが写っている写真ばかりだった。
大きな毛布にくるまり、抱き合って眠っている二人。
リビングで頬をすり寄せ合って笑っている二人。
親父の竹刀を振り回している俺。
庭に設えたビニールプールで水を掛け合っている二人。
玄関の前でランドセルを背負いVサインをしている俺。
ブランコに乗った桐野と、その背中を押してやっている俺。
砂浜で砂のお城を作っている二人。
揃ってランドセルを背負い、玄関の前に立っている二人。
運動会の徒競走でゴールテープを切っている俺……。
ブレの有無で、お袋と親父のどちらがシャッターを切っていたのか分かる。
ふっくらと丸い顔に天真爛漫な笑みを咲かせた桐乃は天使のように愛らしく、
俺はガキのくせに真面目腐った、なんつーか、今の俺もよりもずっと桐乃の兄貴らしい顔をしていた。
眠っていた記憶が呼び覚まされていく。
俺はこれらの写真が撮られた瞬間を覚えている。
現像された写真を親父やお袋に見せてもらった記憶もある。
だが以前親父に桐乃の趣味を認めさせようと親父のアルバムを持ち出したとき、
そこに俺が写っている写真は一枚もなくて、
ああ、どうせ桐乃に比べれば俺なんて……と軽いショックを覚えたりもした。
「お前が持ってたんだな」
俺の正面にぺたんと座り込んだ桐乃は、さっと目を逸らし、ややあってから頷く。
理由を聞くのは後でもいい。とりあえず最後まで目を通すか。
ぱらぱらと頁を捲っていくと、アルバムの中程で、唐突に終わりが訪れた。
最後の一枚に写っていたのは、
碧眼を眇め、悔しげな表情でバトンを握りしめて佇立している体操着姿の桐乃だった。
胸のゼッケンには『2-2』の文字。
確かこの頃の桐乃はまだ全然足が遅くて、
だからこれはきっと、桐乃がリレーで負けちまった時の写真なんだろう。
背後の勝者と思しき男の子の喜びようがコントラストとなって、
余計に哀愁を誘う一枚に仕上がっている。
「これで終わりかよ……?」
お前の輝かしい勝利の記録は?
「写真はそれで終わり。次の年からビデオになったから」
「ああ、そうだったっけ。
で……お前がこのアルバムを俺に見せた理由は何なんだ?」
「あたしが陸上始めたのはさ、あたしがまだ小学生で、足が遅かった頃に、
超ムカつくことがあったからって、前に言ったじゃん?」
質問に質問で返すなよな。
「聞いたよ。その超ムカつくことが何かは聞いてないけどな」
桐乃は言葉を選ぶように口籠もり、
しかしそれ以外に適切な言い方を思いつかなかったのか、
「そのアルバム見たら分かると思うケドさぁ、
小さい頃のあたしたちって、き、気持ち悪いくらい仲良かったよね?」
気持ち悪いくらい、は余計だろ。
「あんたはあたしのことが大好きで、
あ、あたしも兄貴のことがそれなりに好きで、
どこに行くのも一緒で、何をするのも一緒だった……よね?」
当時の記憶はほとんど残っちゃいねえが、
まあ、このアルバムを見る限り、俺たちは仲睦まじい兄妹だったんだろうな。
その関係が拗れることなく続いていれば、
俺たちは赤城兄妹のように、普通に仲の良い兄妹になれていたのかもしれない。
「よく公園に遊びに行ったの、覚えてる?」
「さっきの写真にも写ってた公園か?」
「そ」
俺はアルバムを逆向きに捲り、桐乃がブランコに乗り、
俺がその背中を押している写真を見つけ出す。
背景を見る限り、敷地はかなり広いようで、ブランコの他にもシーソーや回転式の遊具が見える。
少なくとも近所の小さな公園で無いことは確かだ。
「これ、どこの公園なんだ?」
「中学校の近くにあるでしょ。あんたが……ホラ……あやせを説得してくれた、あの公園」
嘘つけ。
あそこは公園と呼ぶのも躊躇われるほど何もない殺風景な場所で、こんなブランコ――。
「撤去されたの。何年か前に小さな子が遊具で怪我して、その親が大騒ぎしてさ。
結局、残ったのは鉄棒と砂場だけ」
桐乃は小さく洟を啜って、
「やっぱり、覚えてるワケないよね」
これだけ言われても、思い出せないものは思い出せない。
「すまん」
「謝んなくてもいいよ。
あんたの記憶はあたしよりも三年分劣化してるんだから……、忘れてても仕方ないと思うし」
ムカつくけど、と付け加える桐乃。やっぱ怒ってんじゃねえか。
「小さい頃のあたしはさ、友達作るのが苦手でさ、
家に帰ったら兄貴の後についてばっかりだったんだ。
兄貴と一緒に遊ぶのが楽しくて……、兄貴がいれば、友達なんていらないと思ってた」
桐乃はそこで一瞬、チラ、と俺を恨みがましい目で見て、
「でも、あんたはあたしのことを裏切った」
「う、裏切った?」
「いつもみたいにあんたと一緒に公園に行ったら、
そこにあんたの友達がいて……、あんたはあたしじゃなくて、友達と遊ぶのを選んだのっ」
なんでウザいのに可愛いんだ
479:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 10:11:33.13:kmDz9Pd20桐乃が幼稚園児に見えてしょうがない
482:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 10:30:23.55:pcN/w9Iq0幼稚な裏切りだな、と一笑に付しかけて、自己嫌悪に陥った。
当時の桐乃にとっては、俺は兄貴であると同時に、唯一の友達だったんだ。
「あたしはあんたに置いてかれるのがヤで、あんたとあんたの友達の後についてった。
そしたらあんたがすっごく怖い声で『帰ってろ』って言って、
それでもあたしがついていったら、あんたと友達が走り出して、
足の遅いあたしはすぐに兄貴たちの姿を見失って……そんなことが何度もあったの」
たぶん、俺は本気で桐乃のことをウザがっていたわけではないんだろう。
だが同年代の友達と遊ぶことと、幼い妹の相手をすることを天秤にかけたとき、下がるのは当然前者の皿で、
それから少なからず、友達の前で妹を優先するのが気恥ずかしかったに違いない。
俺を見失い、半泣きで一人帰路を歩む桐乃の姿を想像する。
「ごめんな、桐乃」
無意識のうちに謝っていた。
「……遅いよ、馬鹿」
昔は友達に京介を取られて今度は恋人に京介を取られるっていうのがなんとも言えなく嫌だったんじゃね
488:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 11:01:28.35:pcN/w9Iq0桐乃は懐古するように遠い目になり、
「あたしが走る練習始めたのは、それから。
運動会のリレーでビリになることよりも、
あんたに置いてかれたことの方が、よっぽど悔しくて、悲しかった。
小さい頃のあたしは単純でさぁ、兄貴たちに追いつければ、
また一緒に遊んでもらえると思ってたんだよね。
馬鹿みたいだケド……、本気でそう思ってたんだ」
くすっ、と笑い声を挟み、
「そしたら何勘違いしたのか知んないケド、
あんたがあたしに、どうやったら早く走れるようになるのか、色々教えてくれたんだよね。
結局、あたしが兄貴たちに追いつけるくらい足が速くなる前に、
あたしにも仲の良い友達ができて、走る練習をやめようかな、って思ってたところに、運動会があったんだ。
あたしが三年生で、あんたは六年生で……、
一緒に参加できる最後の運動会だから、
せめてどれだけあたしの足が速くなったか見てもらおうと思ったの」
桐乃ははにかみながら、手に隠し持っていたiPodを俺に手渡した。
iPodまで絡めてくるとは・・
494:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 11:08:11.86:2iRdHe1HOもう8巻これでよくね!?
496:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 11:21:38.87:pcN/w9Iq0「見て」
見て?そこは「聞いて」が適当なんじゃないかと訝しみつつ、
イヤホンを片耳に挿し、クリックホイールを操作して再生した瞬間、
俺はiPodが『音楽』だけではなく、『動画』も再生できるツールに進化していたことを思い出した。
iPodの画面に、幼い桐乃の姿が映し出される。
テレビで再生したものを直に撮り直したんだろう、
画質は最低だが、これが運動界のワンシーン――桐乃の徒競走――であることは分かる。
『桐乃ー、がんばってー』
がやがやとした喧噪に混じって、若かりし頃のお袋の声が聞こえる。
ビデオカメラを回しているのは親父と考えて間違いなさそうだ。
桐乃がスタートラインに着く。
まだクラウチングスタートを知らない桐乃は、ただ体を前に傾け、ひたとゴールテープを見据える。
そして――乾いた空砲の音が轟き、走者が一斉に駆けだした。
所詮、小学三年生の駆けっこだ。
走者の身体能力に差はほとんどなく、
走る練習をしていた桐乃が上位に食い込むのは容易いはずだった。
なのに……桐乃の足は悲しいほど遅く、みるみるうちに前の集団から離されていく。
リアと桐乃の勝負を見ていた時と、そっくり同じ感覚が腹の底から沸き上がってきた。
くそっ、応援してやりてえ。
頑張れと、負けるなと、諦めるなと、まだ追いつけると、大声で叫んでやりたかった。
現在と過去を隔てる液晶ディスプレイの前で歯がみしたその時、
『がんばれぇーっ、いけーっ、桐乃ーっ!』
喧噪を切り裂いて、誰かの絶叫が木霊した。
親父は桐乃を追いかけるので精一杯で、その誰かの顔は映らないが、俺には分かる。
――こいつは桐乃の兄貴だ。
『負けるなぁーっ!抜けーっ!最後まであきらめんな桐乃ーっ!』
ほら、その証拠に俺が言いたいことを全部言っちまいやがった。
俺の祈りが届いたのか、はたまた緊張で忘れていた走り方を思い出したのか、
桐乃の体がぐんぐん加速していく。まるで桐乃の背中にだけ追い風が吹いているかのようだ。
あっという間に一人を抜き去り、もう一人の背中に追いついたところで――ゴール。
五位、か。段ボールに入っているワッペンの数字どおりの結末だ。
そこで動画は終わっていた。
俺は桐乃にiPodを返し、
「100メートル走ならお前が一位だったな」
「ぷっ、いいよ。今更慰めてくれなくても」
桐乃はiPodを大切そうに両手で包んで、
「あんたの応援、ちゃんと聞こえてたから。
あたしが最後に早くなったのは、あんたのおかげ」
照れ臭くなった俺は頬をポリポリ掻きつつ、
「あれはお前の実力だろ」
「ううん。それだけじゃない。
嘘言っても仕方ないから、言うね。
あ、あたしさ……、なんでか分かんないんだケド、
あんたに応援されると、いつも以上に頑張れるんだ」
何故だろうウルッとしてしまった
520:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 13:31:35.18:pcN/w9Iq0桐乃は俯き、
「あの時あんたが応援してくれて、すっごく嬉しくて、気持ちよくて、
たぶんその気持ちが、走ることに結びついたんだと思う。
だからあたしの陸上の原点はあんたで……その原点を記録したコレは、あたしにとっての宝物なの。
スランプになったときや、走るのが辛くなったときは、コレを見るんだ。
あはっ……あんたからしたら、超キモいよね?」
中学に上がって、陸上部に入った桐乃は、
親父やお袋だけじゃなくて、俺にも大会を見に来て欲しかったに違いないんだ。
俺たちは小さな頃の擦れ違いをそのままにしたまま、成長してしまった。
桐乃は裏切られた記憶をいつまでも忘れられず、
俺は裏切った記憶をいつのまにか忘れてしまって。
物心ついた桐乃は素直に兄貴に甘えられなくなり、
妹にコンプレックスを抱えた俺は妹を避けるようになり。
『仲直りしよう』
一番言いたかった言葉は、時間が経てば経つほど、絶対に言えない言葉になっていった。
「去年の春に人生相談するまで、あんたはあたしのことが大嫌いで、
同じ家にいても他人同然で、あんたが家を出たら、
本当の本当に他人みたいになっちゃうんだと思ってた」
襖の奥のオタクグッズを一瞥して、
「けどあんたは……あたしの相談に乗ってくれた。
あたしが友達探すの手伝ってくれて、
お父さんと喧嘩してまであれを守ってくれて……他にも色々してくれたよね。
それで、人生相談を続けていくうちに、また昔みたいに戻れるカモって思った。
もう一度あんたのことを好きになれるカモって」
桐乃の告白は、俺の考えていたことと全く同じだった。
桐乃の我が儘を、面倒だ、鬱陶しい、と言いながらも叶えてやっていたのは、
俺が桐乃と仲直りしたかったからだ。桐乃のことをもう一度好きになりたかったからだ。
「あんたが留学してたあたしを連れ戻しに来たとき、どうしてあたしが帰ることにしたか分かる?」
「……俺がお前がいないと寂しくて死ぬって言ったからか?」
「そ、それは……違わないけど、違う……」
どっちだよ。
「あー、じゃあお前がリアに言った台詞そのまま借りるけど、
こっちにお前の大切なモンがたくさんあって、それがお前の原動力、だからか?」
桐乃はまたしても首を横に振り、
「日本に帰れば、あんたがあたしのことを見てくれるって、
あの時みたいにあたしを応援してくれるって、はっきり分かったから。
こっちに来たリアと中学校で競争して、あんたに応援されて再確認した。
あのね、あたしさ……弱く、なっちゃったんだ……」
「弱くなったって、どういう意味だよ?」
「あたしはもう…………なきゃ…………ダメなの」
枯れていた涙が、再び目の縁から溢れ出す。
桐乃は嗚咽を必死で堪えながら、
「あたしは……あたしはもうっ……あんたに見ててもらわなきゃダメなのっ……!」
「な、何言ってんだよ。俺はいつでもお前のことを」
見てるじゃねえか、と言い終える前に、桐乃が涙混じりの言葉を投げつけてくる。
「見てないっ!」
怯んだ俺に、桐乃は畳みかけた。
「黒いのと付き合いだしてから、あたしのこと、全然見てくれてないじゃんっ……!
どうせっ……どうせあたしのことなんか……どうでもよくなっちゃったんでしょっ……!?」
なんだその言い草。
あれだけ自分から俺を拒絶するような態度とってたくせによ。
やっぱり構って欲しかったんじゃねえか。
「俺がここ最近、お前のことを避けてたのは……」
ああ、クソ。
なんでよりにもよって一番言いたくない相手にこんなことを言わなくちゃならねえんだろうな。
「お前に……兄離れして欲しかったからだよ!」
「あ、兄離れ?」
「ああ、そうだ!
お前は自覚なかったのかもしれねーけど、ここ最近のお前は、俺にベタベタしすぎなんだよ!」
普段から人のことシスコンシスコン馬鹿にしてるけどな、
「お前も立派なブラコン――ぶはっ」
痛ぇ!何しやがる!?
俺の胸をボカッと一発殴った桐乃は、
「ブ、ブラコンの何が悪いワケ!?
むしろシスコンのあんたからしたら好都合だよね!?
なんでまた距離置こうとするの!?そんなの、おかしいじゃんっ!」
「俺は怖かったの!
お前に、純粋に兄貴としてじゃなくて、
その……まあ……なんだ……一人の男として好かれてたらどうしようかと――ぐはっ」
パンチ二発目頂きました。
誰も心臓マッサージは頼んでねえよ!
「あ、ああ、あたしがあんたのことを……ひ、一人の男として……?」
桐乃は舌を激しく縺れさせ、
「そ、そんなこと……」
あるワケないじゃんマジエロゲ脳キモすぎ死なして九十九里浜に埋めるよ?とは続けずに、
「……分かんない」
またそれかよ!
とりあえずは俺を安心させるために『兄妹としての好きだよ(ハート)』って言っとけや。
なんで禁断の愛の可能性を残すの?ねえ、なんで?
「あ、あんたと疎遠だった時間が長すぎたから、
自分でもあんたへの『好き』がどういう『好き』なのか分かんないのっ!
た、多分……兄妹としての『好き』なんだとは……思う……ケド?」
"多分"と最後の疑問符が余計だが……まあ、今のところはそれで納得しといてやるか。
「で……、話を元に戻すけど、
お前は……俺に見てて欲しい……んだよな?」
桐乃は顔を真っ赤にして、しかし力強く頷く。
俺は言った。
「俺はいつでもお前のことが心配で、いつでもお前のことを応援してる。
それは黒猫と付き合っても、何も変わらねえよ。……なぁ、それじゃダメなのか?」
数秒の沈黙。
やがて桐乃は、膝をついて俺の傍に寄ってくると、
ライトブラウンのつむじを俺の胸に預け、
「一番じゃ、ないんでしょ?」
ぽす、とまともに握ってもいない拳で叩いてくる。
「一番じゃなきゃ、ヤなの」
そして桐乃は、俺がこれまで聞いた中でも、史上最大級の我が儘を口にする。
「黒猫はあたしの友達で……友達だから……あんたのことが本気で好きなのも分かってるっ……!
でも……ヤなのっ!あたしよりも黒猫の方が大切にされるのが……ヤなのっ……!」
>>559
ほぼ告白だな
567:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 17:32:35.11:aiYs2LU9Oほぼ告白だな
>>1のおかげで桐乃が好きになれました。
やべー鼻血でそう可愛すぎ。
577:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 18:02:36.24:pcN/w9Iq0やべー鼻血でそう可愛すぎ。
そっか。お前の気持ちはよく分かったよ。
「あんた、男と付き合うのなんてやめて欲しいって……この前あたしに言ったよね……。
なのに……自分は黒いのと付き合うなんて……そんなの、ズルい!
あたしだって……あたしだってっ……!兄貴に、女と付き合うのなんてやめて欲しいっ……!」
Tシャツは涙でぐしょ濡れだ。
ぽかすかと殴りつけてくる桐乃の頭に手を乗せて、小さな子をあやすように撫でてやる。
そうしていると、ずっと昔にも、こんなことがあったことを思い出した。
転んで膝を擦り剥いた桐乃を、
雷に怯えた桐乃を、
親父に叱られた桐乃を――俺はこんなふうに慰めてやっていたんだ。
妹が泣いたら、泣き止ませるのが兄貴の仕事で、
妹が離れるその時まで、我が儘を聞いてやって、しっかり護ってやらなきゃならない。
そうだったよな、赤城。
「なあ、桐乃。お前に約束してほしいことがあるんだ――」
「イヤあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!晒しスレが立ってるぅぅぅぅぅぅ!!!!」
ムンクの叫びのように両手を頬に当てて絶叫する少女の名前は赤城瀬菜。赤城の妹だ。
俺は真壁君と顔を見合わせ、今は触れないほうがいい、と無言で合意を終えた。
だというのに瑠璃は横目でチラと瀬菜を見遣ると、
「あなたは相も変わらず騒がしいわね。
またわざわざネットから批判を蒐集して発狂しているの?
被虐趣味も大概にしておきなさいよ。耳障りだから」
あーあ触れちまった。瀬菜はキッと瑠璃を睨め付けて吠えた。
「五更さんは批判され慣れてるかもしれないですけどっ!
あたしには全っ然耐性ができてないんです!」
「おい赤城ィ、お前ちっと声のトーン落とせよなぁ。この前も隣の部室から苦情が……」
「部長は黙ってて下さい。
あと壊滅的に臭いので可及的速やかに全身を殺菌洗浄してきてください」
部長はのっぺりした前髪を摘みながら、
「ハァ?一昨日シャワー浴びたばっかりだぜぇ?」
「真壁せんぱい、ファブリーズをお願いします」
え?え?なに?
616:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 20:19:10.62:HElc2Y4o0ここで場面変えるかぁ・・・ (´・ω・`)
618:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 20:32:47.14:pcN/w9Iq0両手にファブリーズを携え、距離を詰めていく真壁くん。
「オイ真壁てめぇ、まさかチョクで吹きかけるつもりじゃねえだろうな!?」
「きちんと毎日お風呂に入らない部長が悪いんですよ。汚物は消毒です」
シュッシュッ。真壁くん容赦ねえな。
「ギャーやめろ!やめろって!今すぐ水浴びしにいくから」
部室を飛び出していく部長には目もくれず、
瀬菜はマウスのホイールを回しては呪詛を吐く作業を再開している。
匿名批評者の槍玉に挙げられているのは、
ゲー研が夏コミ一日目で販売した創作物だ。
制作の根幹にはもちろん瑠璃と瀬菜が関わっていて、
煽られ慣れていない瀬菜が発狂するのはもはや恒例行事になりつつある。
「キィームカツク!ああぁー悔しいっ!
こいつら人間じゃないです!人の皮を被った悪魔です!」
「なら悪魔も納得させるようなゲームを作るまでよ」
瑠璃にすげなく言い換えされた瀬菜は、ぐぎぎと歯を食いしばり、
文句の聞き役を探して部室を見渡し、標的を俺に定める。
「ねー高坂先輩。聞いてくださいます~?」
「真壁くんに聞いてもらったらどうだ?」
真壁くんはニッコリ笑って、
「僕でよかったら聞き役になりますよ。悔しい気持ちは僕も一緒ですし」
「真壁せんぱぁい……」
真壁くんと瀬菜の仲を取り持つ俺マジGJ。
瀬菜は男からのアピールに鈍そうだし、真壁くんは積極性に欠けるからな。
これで実は既に付き合ってる、とか言われたらビックリだけどよ。
今度それとなく真壁くんに聞いてみっかな。
-------
昇降口を出たところで、瑠璃は何も言わずに手を絡めてきた。
「お、おい。誰かに見られたらどうすんだよ」
「何も怖れることはないわ。
半径五メートル以内の空間に『頻闇の帳(ブラインドフィールド)』を展開しておいたから。
で、今日はどこに連れて行ってくれるのかしら?」
瑠璃は上目遣いに尋ねてくる。
今日は部活に参加した後、途中で抜けて、制服デートを楽しむ約束をしていたのだ。
俺は言った。
「その前に……さ。瑠璃に話があるんだ」
期待の光を宿していた瑠璃の双眸に、翳りが差す。
来るべき時が
623:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 21:11:50.65:F/qmjnjk0来てしまったな・・・
626:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 21:16:10.17:q4eQ3ckJOあああああああぁぁあああああ
632:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/28(火) 21:29:39.30:pcN/w9Iq0「それは歩きながら話せるような話ではないの?」
「ああ。できるならどこか、落ち着いた場所で話がしたい」
「………そう。なら誂え向きの場所を知っているわ」
瑠璃はきゅっと下唇を噛むと、俺の手を引いて、校門とは逆方向に歩き出した。
果たして辿り着いたのは校舎裏のベンチで、俺たちはそこに手を繋いだまま腰掛けた。
日陰を吹き抜ける涼風に汗が引いていく。
グラウンドから響く運動部のかけ声と、葉擦れの音以外には何も聞こえない静謐なこの場所は、
俺と瑠璃にとっては思い出深い場所でもある。
「…………」
話がある、と言い出しておきながらダンマリを決め込んだ俺に、
瑠璃は辛抱強く付き合ってくれた。
唇を湿らせ、覚悟を決める。
しかし俺が舌先に言葉を載せる直前に、
「別れよう」
えっ?
「そう、言いたかったのでしょう?」
「なんで……」
と呟きを漏らすのが精一杯の俺に、瑠璃は訥々と言葉を重ねていく。
「わたしと二人きりになった途端に、
あんなに悲愴で、沈痛で、哀切の漂う表情をされれば、厭でも察しが付くわ。
で、わたしの勘は当たっていたのかしら?それとも外れていたのかしら?」
否定できない。ああ、その通りだ。
確かに俺は今日、お前に別れを切り出すつもりでいた。
沈黙は肯定と同義で、瑠璃はふんと鼻を鳴らし、
「どうやら図星だったようね。
理由は……十中八九、あなたの妹に泣き付かれたからでしょう?
そろそろ頃合いだと思っていたのよ。
あなたが折れるか、あの女が素直に欲望を吐露するか、のね」
全ては想定内だと言わんばかりの語り口だった。
そして今のところ、瑠璃の言っていることはほとんど正鵠を得ている。
「三日と少し……よくもったほうだ、と言うべきなのかしら。
いずれにせよ、短い幻想(ユメ)だったわね。
ふふっ、あなたを家に呼んだときに既成事実でも作っておけば、
わたしは今も幻想(ユメ)を見続けることができていたのかしら」
瑠璃は清々しい表情でそう言い放ち、立ち上がろうとする。
でも、俺は瑠璃が手を解くのを許さなかった。
……このまま行かせてたまるか。
「離して頂戴」
瑠璃は振り返らずに言う。
「安心しなさいな。
わたしがあなたと付き合っていたことは、
一夏の思い出として、胸の内に仕舞っておいてあげるから。
ベルフェゴールや沙織にはまだ何も伝えてないのでしょう?
なら、何も問題はないわ。あなたはこれまで通りの日常に回帰――」
力に任せて、無理矢理振り向かせた。瑠璃は咄嗟に俯く。
それでも瑠璃がこちらに顔を向けた一瞬、たしかに俺は瑠璃の眦に大粒の涙を見た。
なに、物わかりのいい彼女演じてんだよ。
全然納得できてねえんじゃねえか。
「なぜわたしを止めるの?
まだ何か不満なら、どうぞ言ってごらんなさいな」
不満?大ありだよ。
俺は言った。
「お前の言ったことは、大体当たってる。
桐乃は……あいつは、俺がお前と付き合うのがどうしても許せないらしいんだ。
俺がお前に取られる気がするんだと……まるっきりガキの理屈だよな」
ホント、中学三年にもなって、兄貴に彼女作るなとかどんだけブラコンなんだって話だよ。
「でもさ、俺は桐乃の我が儘に耳を塞げなかった。無視できなかった。
元を辿ればさ、あいつがそんなことを言い出した原因は俺にある。
俺は随分長いことあいつをほったらかしにしてきて、
そっからこれまでの空白期間を埋めるみたいに、あいつに構っちまった。
自分で言うのもなんだけどさ……、今のあいつには、俺が必要なんだ。
あいつは俺が見てなきゃダメになっちまうんだよ」
「ふっ、妹を想う兄の鏡ね。シスコンとブラコン、最高の組み合わせじゃない?」
俺は瑠璃の震えた声には応えず、
「でも、俺だっていつまでもあいつのことを見ていられるわけじゃねえ。
だから桐乃に約束させた。
もしも桐乃に、桐乃のことを俺よりも大切にしてやれる奴ができたら――その時はお役ご免だってな」
「あなたは当然、その約束があなた自身を縛ることにも気づいているのでしょうね」
「ああ、分かってるつもりだ」
桐乃に彼氏ができるまで、桐乃を誰よりも大切にすることは、
桐乃に彼氏ができるまで、俺が彼女を作れないことと同じ意味だ。
それを承知で、俺は桐乃と約束を交わした。
「それで……」
瑠璃は繋いだ手に力を込めて言った。
「あなたはわたしに、あの女に彼氏ができるまで待っていろと言うの?」
「……待っててくれ、とは言わない」
お前が誰か他の奴のことを好きになっても仕方ないし、
その時に、俺がお前に文句を言う資格もない。
だから、
「もしも桐乃に彼氏ができたら、"俺"が"お前"に告白する」
お前が俺に愛想を尽かしていたら、遠慮無く、こっぴどく振ってくれていい。
もしも一分でも好きな気持ちを残してくれていたら、その時は……。
どちらにせよ、選ぶ権利は瑠璃にある。
その選択権さえ放棄したいなら、それでも構わない。
俺はもう……瑠璃に嫌われるには、充分すぎるほど最低なことをした。
「ごめん」
俺は手を解き、目を瞑って頭を垂れる。
長い長い沈黙があった。
目を開けばそこに瑠璃の姿はなく、
一人ベンチに取り残されているのではないかと疑うほどの静寂があった。
「卑怯よ」
瞼を開く。瑠璃はまだそこにいてくれた。
「そんなことを言われては、あなたを責めるに責められないじゃない」
「瑠璃……」
「さっきも言ったでしょう……三日と少し……よくもったほうだ、と。
あなたに別れを切り出されるのは、所詮時間の問題なのだと、わたしには初めから分かっていた」
瑠璃はスカートの前で、こぶしをぎゅっと握りしめて、
「告解するわ。わたしは……わたしはあなたとあなたの妹の微妙な関係を利用したのよ。
あなたは『妹から異性として好かれている』可能性を怖れていた。そうでしょう?
それが真実か否か確かめる状況から逃げる『手段』として、わたしと付き合う選択肢を意識させた。
あの時、あなたはわたしのことが好きだから、
わたしの告白を受け入れると言ってくれたけれど……。
実際は、それが唯一の理由ではなかったはずよ」
そうだ。
俺は桐乃との関係を、自分でも自信が持てなかった可能性を指弾されて、
都合良く目の前にあった逃げ場に駆け込んだにすぎない。
瑠璃のことが好きだという気持ちに嘘はない。
けれど俺は、その気持ちを最後まで吟味することなく、性急に答えを出してしまった。
いや、出すことを強いられた、というのが正しいのか。
「わたしもあなたも、打算的だったわ。
そんな不純なきっかけで始まった恋人関係が長続きするわけがない。当然の帰結ね」
でも、と瑠璃は続ける。
「それでもわたしは……あなたの恋人になりたかった。
たとえ純粋な気持ちからではなくても、あなたがわたしを選んで、
そのままわたしを選び続けてくれる極小の可能性に賭けた」
そうまでして瑠璃が俺の恋人になりたかった理由は……考えるまでもねえよな。
「ねえ、正直に応えて頂戴ね。
あなたがわたしに告白をしなおすというのは、筋を通すため?
それとも……あなたが本気でそうしたいと思っているから?」
俺はありのままの気持ちを口にする。
「本気でそうしたいと思ってるからだ」
桐乃を避けていた理由は、兄離れをさせたかったのと、
それと何より、瑠璃と別れるのが嫌だったからだ。
俺は瑠璃と恋人でいることに、他の何にも代え難い幸福感を覚えていた。
順序が逆かもしれねえけど、付き合ってからハッキリ気づいたんだ。
「俺はお前のことが好きだよ。手放したくなんかない」
「わたしもあなたのことが好きよ。別れたくなんかないわ」
「じゃあ瑠璃は……待ってくれるのか?」
「待つ、という言い方は適当ではないわ。
そうね、言うなればこれは契約の"一時解消"よ」
瑠璃は――黒猫は両手の指で目を擦り、艶然と笑んで言った。
「だから、もしもあの女に相応しい彼氏ができたときは……その時は再び、闇の契りを交わしましょう?」
エピローグを書く予定だったのですが
予想以上に流れが速くスレが途中で終わってしまいそうなので、ここで完結とします
数レス程度のエピローグのために新しいスレを立てるのもアレなので
京介「あやせ、結婚しよう」の内容に繋げることができたので自分は満足なんですが
期待通りの展開にならなかった方にはごめんなさい
長い間お付き合い頂きありがとうございました!
ではでは~
938:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/29(水) 01:39:16.21:5zXjW9QhO予想以上に流れが速くスレが途中で終わってしまいそうなので、ここで完結とします
数レス程度のエピローグのために新しいスレを立てるのもアレなので
京介「あやせ、結婚しよう」の内容に繋げることができたので自分は満足なんですが
期待通りの展開にならなかった方にはごめんなさい
長い間お付き合い頂きありがとうございました!
ではでは~
>>935
ち ょ っ と 待 て
939:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/29(水) 01:39:54.57:9GZGSigwIち ょ っ と 待 て
>>935
乙
面白かったよ
940:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/29(水) 01:39:55.17:yYpTfBvh0乙
面白かったよ
>>935
おい...おい!!まだだろ!
944:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/29(水) 01:41:35.15:Myik4wzg0おい...おい!!まだだろ!
>>935
乙。マジで心を込めて乙。
9巻待ってるぜ
946:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/29(水) 01:42:09.57:AxCNNtbn0乙。マジで心を込めて乙。
9巻待ってるぜ
>>935
乙っした
欲を言えば数レス程度なら書ききってしまって欲しかったけど
976:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/29(水) 02:05:03.72:BT0s1ka00乙っした
欲を言えば数レス程度なら書ききってしまって欲しかったけど
>>935
乙
俺が見たSSの中でもかなりの出来だった
次回作にも期待したい
989:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/29(水) 02:34:37.23:MBV6f3cx0乙
俺が見たSSの中でもかなりの出来だった
次回作にも期待したい
八月二十八日。
夏休みも後数日を残すところとなり、
世間の怠惰な受験生はこれまでの遅れを取り戻すべく必死になっているんだろうが、
勉強の出来る心強い幼馴染みのサポートを受けている俺に焦りは無縁で、
友人家族と一緒に県外くんだりまで出かける余裕さえある。
「京介~、あの子の出番いつなの~?
もう走り終わっちゃったんじゃないの?」
双眼鏡を覗きながらお袋が言った。
「もうすぐだろ。親父、ビデオの準備は?」
「む、完了している」
普通に出来てるって言えよな。
隣の沙織はくっくっくっと喉を鳴らして、
「きりりん氏のご両親は愉快な方たちですなぁ」
愉快て。
「もちろん誉め言葉でござるよ?
それにしても、ずいぶん準備に時間がかかっているご様子……」
沙織は手を庇にして首を前に突き出す。
視力云々以前に、そのぐるぐる眼鏡でどこまで先の物が見えているのかと尋ねたい。
「る……黒猫、お前は大丈夫か?相変わらず汗一つかいてねーけど」
「だから、わたしは薄い妖気の膜を――」
「ほらよ。お袋が持ってきたの貸してやるから」
俺は有無を言わさず日傘を差して、黒猫に手渡す。
「あ、ありがとう」
はにかみ、顔を赤らめる黒猫。
「京介氏は黒猫氏には優しいんですなぁ?拙者、嫉妬してしまいますぞ?」
「お前はたっぷり汗かいてるから大丈夫だろ」
口をω(←こんなふう)にして憤慨する沙織。
人の機微に敏感なコイツのことだ、俺たちに何か秘め事をされていることには、とっくに気づいているのかもしれない。
少なくとも桐乃が塞ぎ込んでいた期間、あやせと同じように、沙織も桐乃の異常に気づいてたに違いないのだ。
いつか、説明しなくちゃならない時が来る。
でも今は……その時が来るまでは、沙織の思いやりに甘えておこうと思う。
「あれではないかしら?」
ぽそりと黒猫が言った。皆が一斉にその視線を辿り、赤茶色のトラックの上に整列する群衆の上に、探していた人影を認める。
均整の取れた体。すらりと伸びた長い足。ライトブランの豊かな髪は走りの邪魔にならないよう、綺麗に結わえられている。
緊張に強張っていた顔が、こちらに向き……満面の笑みに変わる。
大きく手を振る桐乃。俺たちは全員でそれに応えてやった。
今日は桐乃にとって、中学最後の陸上選抜大会だ。桐乃が今、他の走者と共にスタートラインに着いた。
完成されたフォームは、あの日の稚拙な構えとは比べものにならない。
乾いた空砲が蒼穹に鳴り響く。
「がんばれーっ!桐乃ーっ!」
俺はいつかの運動会と同じように、声を張り上げた。
>>990
改めて乙
書いてくれると信じてた
992:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/29(水) 02:36:26.79:AxCNNtbn0改めて乙
書いてくれると信じてた
うおっ
乙乙
994:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/29(水) 02:38:07.17:g27eYn5NO乙乙
おおおお乙!
超愛してる!!
996:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/29(水) 02:38:55.02:Fs44My+uO超愛してる!!
おつ
997:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/29(水) 02:39:46.16:wWQ34sLO0うお、目に見えて減速したおかげかエピローグがきとるw
改めて乙
999:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/29(水) 02:40:36.38:XwZEJTAZ0改めて乙
おつ
1000:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/12/29(水) 02:41:02.37:FBdeoVb+01000
コメント 37
コメント一覧 (37)
なんちゅうもんを…なんちゅうもんを読ませてくれたんや…
この立ち回りの旨さ…長い目で見たらマジでハーレムを作れるかもしれない。
原作の読み込み具合とか構成筆力全部
これで8巻の内容がますます気になるwww
あやせ√ではないのが残念だがとても素晴らしいものを見れてよかった。
ラノベ作家になったらすべて揃えるぜw
次回はあやせ√待っている
ここ見てるかどうか分からんが
明日というか今日のテストは爆死確定だがまるで悔いは無い。
本当に無いんだよ。
できればみんな笑顔かつ黒猫とくっついてほしかったが
さすがに欲張りすぎか(^_^;)
8巻として売って問題無いな…9巻も期待してます
読みやすいし文章力ありすぎでしょ。
あれ?そういえば伏見先生の8巻遅れて・・・谷川病・・・
実際に7巻まで読み終わってこの創作のクオリティにびびった。
普通にこれに続いても全く違和感のないレベルじゃねーかw
原作ってこのSSよりもクオリティが高いのか?
人物描写といい展開といい説得力十分すぎて
とても二次作品とは思えないくらいなのだが・・・
前作も読んだけどこんなに読みごたえを
感じた作品はホント久しぶりだわ
他の作品もそうだけど完成度が凄すぎるわ
黒猫と最後までハッピーでいってほしかったけどこれはこれでありだーーーーー!!
これ書かれたの去年の12月とか冗談だろ
色々と原作と似すぎ
ストーリーがこのSSと準拠しすぎてて、どっちが原作だか分かんなくなったよw
そういう邪推ができてしまう辺りが怖いなこの完成度w