- 唯「ゾンビの平沢」 1
唯「ゾンビの平沢」 2
唯「ゾンビの平沢」 3
唯「ゾンビの平沢」 4【完結】
1:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 16:51:18.36:yiRVTPAu0
★1
7月16日
ジリリリリリリィィィ
けたたましくベルの音が部屋に響く。
時計は朝の6時半を指していた。
「はぁ、もう朝かぁ……」
私はベッドからゆっくりと起き上がり、洗面所に向かう。
顔を洗い、鏡を見て寝癖を直した後、自室に戻り制服に着替えて今度はキッチンへ。
「朝ごはんはおにぎりで……お弁当は昨日の残り物を詰めよう」

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2:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 16:53:15.24:yiRVTPAu0
私の名前は平沢唯。
私立桜ヶ丘高校に通う3年生だ。
高校から始めた軽音部のガールズバンドでギターをしている。
バンド名は放課後ティータイム。
その名の如く、放課後の部活時間にお茶を飲む事から付いた名だ。
私はそのまったりとしたティータイムが大好きだった。
練習時間よりお茶を飲む時間が長く、周りからはよく何部なのかと冷やかされたけど、
合宿にライブと、それなりに部活らしい事もした。
バンドの仲間は皆良い子達ばかりで、私のかけがえの無い友人となった。
そんな私の高校生活は充実していた。
しかし、その楽しい高校生活はある日突然無くなってしまったのだ。
3:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 16:56:18.62:yiRVTPAu0
「おはよう、お姉ちゃん……」
妹の憂が起きて来た。
唯「おはよう憂。ほら、涎垂れてるよ~」
憂「う~?」
私は妹の口元をハンカチで優しく拭った。
唯「女の子なんだから、ゾンビになってもこういう所は気を付けなきゃ駄目だよ?」メッ
憂「えへへ、ありがとうお姉ちゃん」ニッコリ
唯「おにぎり作ったから、一緒に食べよ?」
憂「うん」ニコ
4:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 17:00:15.23:yiRVTPAu0
唯「おいしい? 憂」
憂「うん、お姉ちゃんの作ったマシュマロおにぎり凄く美味しいよ」ニコ
ゾンビになっても、私の唯一の妹である事に変わりはない。
憂と一緒に食事をする事が、今の私にとって一番の安らぎだった。
唯「あ、憂、ご飯粒がほっぺに付いちゃってるよ~」
憂「あう~?」
唯「お姉ちゃんが取ってあげるね」ヒョイ
憂「ありがと~」ニコリ
唯「食べ終わったら歯磨きして、一緒に学校行こ?」
憂「うん!」ニコ
私は、本当は学校になんて行きたくなかった。
だって、あの学校に「人間」はもう私しかいないのだから。
5:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 17:04:48.66:yiRVTPAu0
事の発端は、私が2年生の夏休みに入って間もない頃。
米国で起きた、世界有数の大手製薬会社で起きた爆発事故。
新聞やテレビ、ネットでも大々的に取り上げられた。
死者は千数百人に上り、全メディアが悲劇と謳い悲しみを煽ったが、
今にして思えば、そんなのはそれから起こる惨劇の些細な序章に過ぎなかったのだ。
爆発から二ヶ月後、米国で「噛み付き病」と呼ばれるものが流行りだした。
識者達は、人が人に喰らい付く、狂犬病の様なものだと説明した。
そして、近いうちに予防薬・治療薬が出来て沈静化するだろう、という見解を示した。
しかし、実際は狂犬病程度で済む問題ではなかった。
識者達の見解は、最悪の方向に裏切られたのだった。
まず、このウイルスに対する薬は、そう簡単に出来るものではなかった。
その上、「噛み付き病」は非常に厄介な性質を持っていたのである。
6:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 17:09:39.22:yiRVTPAu0
「噛み付き病」の性質
1 感染経路
「噛み付き病」は、保菌者に噛み付かれる事によって感染する、ウイルス感染症である。
ウイルスは唾液に最も多く含まれ、それが直に血液中に入ると100%感染する。
このウイルス事態は非常に脆弱で、唾液と共に体外に排出されると、ものの僅かで死滅してしまう。
即ち、保菌者に直接噛まれなければ、感染する事はまずないのだ。
また、このウイルスは人間にしか感染しないらしい。
2 潜伏期間
潜伏期間と発症するまでの時間は、傷の状況や個人差によって大きく異なる。
傷が深く大量のウイルスが血液中に入れば、感染後数分で噛み付き行動をする事も有り得る。
正確な期間は分かっておらず、中には発生当時に感染しているにも関わらず、
未だ噛み付き行動を起こしていない人もいるのだ。
しかし、それらは間違った解釈だった。
症状の項でも述べるが、実際は感染と同時に発症もしていたのだ。
7:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 17:16:22.24:yiRVTPAu0
3 症状
感染者かどうか見分けるのは、非常に簡単だ。
感染すると、徐々に皮膚の色素が抜けていき、およそ一週間で雪の様に白くなる。
日本人同士であれば、一瞥しただけで感染者か否か判別出来るだろう。
次に、生命力・運動能力の向上。
このウイルスは、生物の生命活動を爆発的に高める作用があるらしいのだが、
その所為か、常人ではありえない身体能力と回復力を持つのだ。
故に、噛み殺された筈の人間がすぐに息を吹き返し、近くの人間を襲う事もあったとか。
その様は、病気のそれというよりもむしろ「ゾンビ」といった方が正しいかもしれない。
その分燃費が悪くなり食欲が増すのではないか、という指摘には一応「YES」と答えよう。
実際には、消化・吸収効率が格段に上がり、それ程大食いにはならない。
また、その所為か排便・排尿が減るようだ。
そして、感染すると「食肉」の欲求が尋常でなく高まってゆく。
この「食肉」とは、私達人間が普段食べている肉では全く駄目なようなのだ。
理由は分からない。ただ、体が、脳が欲するのだという。
人 間 の 肉 を 。
8:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 17:21:34.91:yiRVTPAu0
それは例えるなら、薬物中毒患者が欲する「薬物」を「人肉」に変えると分かり易いだろう。
では、感染者同士の共喰いはあるのか?
答えは「NO」だ。
感染者同士は、外見ではない「何か」で互いを認知出来るらしく、互いの肉を喰い合う事はない。
肉好きの人間でも、普通は人肉を食べたがらないのと同じ理屈だそうだ。
それはつまり、「感染者と非感染者は異なる生物」という事を意味するのだという。
しかし、この食肉衝動は理性で抑える事が出来るらしい。
それこそが、この病の最も恐ろしい所なのだ。
10:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 17:31:52.34:yiRVTPAu0
感染者と非感染者の違いは何か。
肌の色?そんなものは非感染者同士だって大いにある。
生命力・運動能力だって、当然個人差がある。
決定的に違うのは、「食肉衝動」この1つである。
ウイルス感染だが、噛み付かれない限り感染する危険性は0だ。
即ち、理性で食肉衝動を抑えられさえすれば、感染の危険はない。
普通の人間となんら変わりは無いのである。
エイズの人間はどうか。
保菌者を危険な存在として隔離する事を、現在の国際社会は是とするだろうか。
刑期を終えた薬物中毒患者はどうなる?
病院に通いながら中毒を克服しようとする人間を、危険因子とし刑務所に拘留し続けるべきなのか。
精神病患者が殺人を犯した場合はどうなる?
現在の日本の法では、刑事責任能力が無ければ無罪だ。
酒癖の悪い人間に、酒を飲むなと強制する事は可能か?
では、酒癖の悪い人間は無害と言えるのか。
人によって考えはそれぞれだろう。
しかし、確実に言える事がある。
もしこの人達を隔離・規制しようとすれば、
世界中の自称人権団体なる者達が一斉に騒ぎ立てるだろう。
人権を、平等を、と。
ならば、この「噛み付き病」の感染者をどう扱えば良いのか?
11:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 17:36:46.66:yiRVTPAu0
世界はこの病を持て余した。
この病がどの程度危険で、どの程度の規制を掛ければいいのか。
理性の弱い人間はまさに狂犬、感染してから数日のうちに大量殺人を起こすケースもあった。
理性の強い人間は、未だ普通の人と変わらぬ生活を送っている。
犯罪を犯す人間と犯さない人間の違いは何か?
それは理性の強さだ。
悪いのは病気ではなく、理性を持たぬ人間の方なのだ、世界はこう結論付けた。
つまりは、患者の人権を優先すべきという事である。
人の驕りが楽観的視観を助長する。
所詮は狂犬病と似たようなもの、治療薬だって今の科学技術があればすぐに開発される筈だ。
この瞬間、人類滅亡への序曲が始まったのだ。
13:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 17:44:35.14:yiRVTPAu0
当初、世界に表立った変化は無かった。
所謂「噛み付き事件」なるものが米国で起きる事はしばしばあったが、
全米の凶悪事件の割合から見れば、取るに足らない程度のものだった。
また、その頃はこの事件の関連での死者が少ない事が、その存在を薄めた。
人間が人間を噛み殺すというのは、非常に労力のいる行為だ。
噛まれる場所にもよるが、腕や足に噛み付かれ、肉を削がれた程度で人間は死なない。
「噛み付き事件」を起こす人間(ゾンビ)に理性は無いし、
肉食動物としての野生があるわけでもない。
所構わず周囲の人間に襲い掛かり、その肉を噛む。ただそれだけだ
噛まれる方も抵抗するから、肉体的に優位に立つ感染者でもそうそう決着は付かない。
その間に周囲の人間が止めに入り、いずれは警官も到着する。
多勢に無勢、いくら屈強な男であろうと、数で圧倒されればなす術もない。
傷害事件発生、犯人確保。それで終わりだ。
しかしそれが、結果として死者が出るよりも恐ろしい事態を招いた。
保菌者の爆発的増大。
そして、ある現象に注目が集まり始める。
「スポーツにおける噛み付き病感染者の優位性」
14:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 17:48:24.04:yiRVTPAu0
噛み付き病感染者は、筋組織に特殊な変化が起こり、
常人よりも遥かに優れた運動能力を手にする事が出来るのだ。
また、怪我をしても、その直りが常人よりも遥かに早い。
スポーツ界では、保菌者に金を払って感染させて貰うという事態にまで至った。
さらには、スポーツ選手を目指す子供に、親が故意に感染させるというケースすら発生し始めた。
流石に事態を重く見た米政府は、
故意による噛み付き病感染の全面禁止を決定する。
しかし、故意かどうか見分けるのは至難な上、
それはもはや米国一国で済むような問題ではなくなっていた。
スポーツ選手を目指す近隣諸国の人達が、保菌者を求めた。
闇のブローカーがその願望を実現させた。
新たなる人身売買、しかも売られる方が非人道的扱いを受けるわけでもなく、むしろ高待遇だ。
人の欲望がこのウイルスを世界に蔓延させた。
16:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 17:52:34.94:yiRVTPAu0
唯2年 1月15日
このウイルスが日本社会に蔓延するキッカケを作ったのは、ある女子高生だった。
帰国子女と名乗るその女子高生は、詳しい経緯は語らなかったが、
米国で噛み付き病ウイルスに感染したらしい。
日本人離れした、その白く透き通った肌は、画質の悪い投稿動画でも十分に伝わる程だった。
その子は言った。感染した事でニキビ等で酷かった自分の肌が、こんなにも綺麗になったと。
感染前と感染後の比較を映したその動画は、各動画サイトに転載され、大きな反響を呼んだ。
ただの比較動画なら、これ程の反響は無かっただろう。
この5分弱の動画の人気の本質は、最後の10秒に凝縮されていた。
「交通費+1万円で噛み付き病ウイルス売ります。東京在住。メルアドは……」
19:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 17:58:20.39:yiRVTPAu0
動画はすぐに運営によって削除された。
けれども、一度流出した動画を止める事は不可能だった。
某有名匿名掲示板では、連日この話題で賑わっていた。
その動画の内容が、真実なのか否か……。
そんな事を必死に議論した所で、答えなど出る筈がなかった。
分かっているのは、その動画が存在したという事実だけ。
その内容が真実かどうかなど、当事者以外に分かる筈が無い。
実際の所、それが真実であろうが無かろうが、彼らにとってはどうでもよい事なのだ。
彼らにとっての情報とは、所詮暇つぶし程度のモノでしかないのだから。
ネットには情報が氾濫している。
しかし、必ずしもそれらの情報が真実とは限らない。
もちろん、それはその他のメディアについても言える事だ。
ただ、ネットでは誰でも自由に、簡単に情報を発信する事が出来る。
噂話や迷信すら、あたかも事実の様に語る事すら簡単なのだ。
愉快犯がとんでもないデマを流す事も日常茶飯事である。
それ故、ネットの情報は信頼性が低いと言わざるを得ないのだ。
逆に、組織じゃないからこそ出てくる驚愕の真実、スクープもある。
情報流出を未然に防ぐ事が不可能だからだ。
そんな重大な情報でも、彼らにとってはどうでもいい事なのだ。
それを知った所で、彼らに出来る事など何も無い。
所詮はただの傍観者に過ぎないのだから。
「ああ、そうだったのか」と思った所で、現実は何も変わらない。
20:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 18:03:41.53:yiRVTPAu0
ついには、その女子高生に実際に噛まれてきたという者まで現れ始めた。
丁寧にも、その噛み傷の写真を携帯で撮り、証拠として提示もしていた。
ここでまた不毛な議論が始まる。
その噛み傷が本物であるか否か。
仮に傷が本物だったとしても、それを付けたのが誰なのかなど特定できる筈もない。
けれど、そんな事はどうでもいい。
面白おかしく、暇さえ潰せれば彼らは満足した。
それらの情報は全て真実だった。
この時点で、もしその事をそこにいた全ての人が理解出来ていたなら、現在(いま)は変わっていただろうか。
何も変わらない。
行動を起こせない無力な人間がいくら集まった所で、それは何の力も持たない。
ただ力を持っている様な錯覚に陥ってるに過ぎず、彼らの妄想的自己満足以外の何物でもない。
0にいくら0を加えようが0なのだ。
21:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 18:11:14.43:yiRVTPAu0
翌日、都内の公園で30代の男性が、20代の女性を噛み殺す事件が発生した。
しかし、事件の残虐性から事の真相は伏せられ、普通の暴行事件としてニュースに取り上げられた。
「残虐な真実は、極力国民に知らせない様にする」
そんなメディアの姿勢が、完全に裏目に出たのだ。
以降、噛み付きウイルスに関して、表向きは下火となる、
しかし、会員制の携帯サイトなど、表からは見えにくい小さなコミュニティ内では、
秘密の美容法として女子中高生を中心に、日本全国に拡大していった。
ネットでは、噛み付き病がカニバリズムという理解が一般的であったが、
テレビなどのマスメディアはその残虐性から、「特殊な摂食障害」と報道していた。
その事が、少女達の噛み付きウイルスに対する危機意識を著しく低下させていた。
また、この食肉衝動は、人間の持つ攻撃性とも関連があった。
一般的に、男性より女性の方が攻撃性は低く、
食肉衝動も、男性より女性の方が影響を受けにくかったのである。
その事が、ウイルスの拡大を覆い隠す帳となっていたのだった。
22:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 18:14:10.88:yiRVTPAu0
唯3年 7月16日
唯「お弁当持った?」
憂「あ、忘れてた……取ってくるね!」パタパタ
唯「憂……」
憂「持ってきたよ~」ニコ
唯「……じゃあ、行こっか」
憂「うん!」ニコ
私は憂の手を握り、玄関のドアを開けた。
和「おはよう唯、一緒に学校に行きましょう」
唯「うん、和ちゃん」
和ちゃんはゾンビになっても、とても優しい女の子。
あの日以来、毎日私の家までお迎えに来てくれる。
23:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 18:18:31.34:yiRVTPAu0
律「おいーっす!」ビシ
澪「……おはよう」
唯「おはよ~りっちゃん、澪ちゃん」ビシ
和「おはよう」
憂「おはようございます」ニコ
唯「今日のりっちゃんのおやつは何かな~」
律「ふっふっふっ……ティータイム、楽しみにしとけよ~」ニヤリ
唯「うん、期待してるよ~」
律「和と憂ちゃんもな」ビシ
和「ふふふ、楽しみにしてるわ、律」
憂「はい」ニコ
和ちゃんと憂はあの日の後、一緒に軽音部に入部してくれた。
生徒会はもう無い。
生徒会役員は、和ちゃん以外は皆死んでしまったから。
ゾンビは生命力が高く、手足が捥げた程度では死にはしない。
そんな事をされれば、当然、激痛で悶え苦しむだろうけど……。
だからといって、不死身というワケでもない。
いくら生命力が強いといっても、脳や心臓等、重要器官に致命的なダメージを受けると死んでしまう。
24:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 18:22:18.33:yiRVTPAu0
梓「おはようございます」
純「……おはよう……ございます」
あずにゃんと純ちゃんが来た。
勿論、二人ともゾンビだ。
純ちゃんも軽音部の新しいメンバー。
ジャズ研の部員はもういない。
皆の挨拶に続いて、私も二人に挨拶をした。
唯「おはよう純ちゃん、ゾンビにゃん~」
梓「なんですか、そのゾンビにゃんて……」
唯「ゾンビあずにゃん、略してゾンビにゃんだよ~」フンス
私は以前の様に、あずにゃんに抱き付こうとした。
梓「やめてください!!!」
あずにゃんは私を強く突き飛ばした。
その勢いで、私は尻餅をついた。
場が静まり返る。
天然と言われる私にだって分かる。
今の私の行為が、あずにゃんにとってどれだけ辛い事なのか……。
25:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 18:25:35.54:yiRVTPAu0
梓「す、すいません唯先輩……。でも前に言ったとおり、そういう行動は今後一切しないで下さい……」
唯「……。」
梓「唯先輩……?」
唯「……なんで?」
梓「だって私は……以前の中野梓じゃないんです……」
俯きながら、あずにゃんはそう呟いた。
尻餅をついていたので、俯いてるあずにゃんの目に涙が溜まっているのが見える。
私はゆっくり立ち上がってから言った。
唯「あずにゃんはあずにゃんだよ……何も変わってないよ。みんなだってそうだよ……」
私は和ちゃん達の方に振り返った。
唯「世界は変わっちゃったかもしれない……。でも私達は変わってないよ……変わってないんだよ!!」
皆俯いている。
26:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 18:29:07.17:yiRVTPAu0
唯「憂、こっち見て……私をちゃんと見て……」
憂が私を真っ直ぐ見詰めた。目には涙が溜まっていて、今にも溢れそうだった。
唯「憂は私の妹じゃなくなったの? 私の事が嫌いになったの?」
憂「私は……お姉ちゃんの妹だし……お姉ちゃんの事が……大好きだよ……」
小さな声だった。でも、はっきりとした口調で答えた。
唯「和ちゃんは私の幼馴染で、一番の親友でしょ? 違うの?」
和「そうね……その通りよ」ニコ
和ちゃんは笑って答えてくれた。でも、その瞳は潤んでいた。
そしてそれは、今までで一番優しい和ちゃんの笑顔だった。
唯「りっちゃん、澪ちゃん、放課後ティータイムの絆って、こんな事で壊れる位脆いものだったの?」
律「んなワケないだろ! 何があろうと私達の絆は壊れやしねーよ!!」
りっちゃんは私を真っ直ぐ見てくれた。
澪ちゃんはまだ俯いてる。
唯「澪ちゃんは?」
澪ちゃんは俯いたままだったけれど、ちゃんと言ってくれた。
澪「私が……唯を嫌いになる事なんて……絶対……無いよ」
27:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 18:34:00.50:yiRVTPAu0
私はあずにゃんと純ちゃんの方に向き直った。
唯「純ちゃん! 純ちゃんは憂とあずにゃんの親友でしょ? それは何があっても変わらないでしょ?」
純「……。」
唯「純ちゃん!」
純「……はい。」
純ちゃんは小さく頷いた。
私は、明るくて陽気な純ちゃんの、今にも泣き出しそうな声を初めて聞いた。
唯「憂とあずにゃんの親友なら、私の親友なんだよ……私は純ちゃんの事が大好きなんだよ……」
純「はい……」
俯いた純ちゃんの顔から、大きな雫がポタポタと地面に落ちていった。
28:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 18:35:25.07:yiRVTPAu0
唯「分かったでしょ、あずにゃん……。何も変わらない、変わってないんだよ……」
唯「だから私はあずにゃんに今までと同じ様にするし、それを変えるつもりはないから!」
梓「でも駄目なんです、私達はゾンビなんです……」
あずにゃんが顔を上げて私を見た。
目を真っ赤にして、鼻水を流して、声を啜りながら……。
梓「私は唯先輩が大好きです、だからお願いです、分かってください……」
後ろからも鼻を啜る音が聞こえてきた。
唯「もし、みんながゾンビになった事で、私に対する態度を変えると言うのなら……」
唯「私もゾンビになるよ……」
29:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 18:39:47.42:yiRVTPAu0
和「唯!!」
憂「お姉ちゃん!!」
唯「だって、私はみんなと一緒がいいもん……何があったって離れたくないもん……」
唯「誰でもいいから、私を噛んでよ!!」
私は痛い事をされるのが嫌だ。
でも、心が痛くなる事はもっと嫌だ。
ゾンビになる事で皆と一緒にいられるというのなら、
どんなに痛くたって、苦しくたって耐えられる。
お願いだから……誰か私をゾンビにしてよ……。
律「そんな事……ぜってー誰にもさせねーし」
梓「そんなの絶対嫌です!!」
なんで……なんでみんな私の事を差別するの……?
みんなの気持ちは分かるよ……でも苦しいんだよ……。
こんな気持ち耐えられないんだよ……。
憂も和ちゃんも、私の所為でゾンビになった。
頭も良くて、運動神経抜群の二人だ。
私に構わず逃げていれば、ゾンビに噛まれる事なんて絶対に無かった筈なんだ。
その証拠に、ドジで運動音痴な私が、かすり傷一つ無く、無事にあの日を生き延びた。
二人が私を守ってくれたから……。
30:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 18:44:12.26:yiRVTPAu0
澪「……いい加減に……しろ、唯……」
澪ちゃんが私の顔を見て言った。
澪「私達はみんなで話し合って……唯をゾンビから守るって決めたんだ……。
唯だけは……何があっても……絶対に守るって……。
その気持ちがあるからこそ……私達はあの学校の中で、まともな精神を保つ事が出来るんだ……。
唯の気持ちも分かる……でも……唯が人間である事が私達の最後の支えなんだ……。
だから……ブレないでくれ……唯……頼む……」
そう言うと、澪ちゃんはまた俯いてしまった。
唯「ごめん澪ちゃん……あずにゃんもごめん……みんなごめん……」
私はみんなの優しさに涙が出そうになった。でも堪えた。
ここで泣いちゃ絶対に駄目だと思った。
皆が私の心の支えで、私が皆の心の支えなんだ……。
どっちが崩れても駄目なんだ……私は心に言い聞かせた。
そして空を仰ぎ、目から湧き出る水が零れるのを必死に堪えた。
31:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 18:47:35.13:yiRVTPAu0
律「辛気臭いのはもうやめようぜ!」
赤い目をしたりっちゃんが、元気で明るい声を出した。
和「そうね。それに、ここでこんなに道草喰っていたら遅刻するわ」
律「この話はこれでお終いな。蒸し返すのは無しだぞ!」
唯「了解です、りっちゃん隊長!」ビシ
律「よし、じゃあ学校に行くぞ唯隊員」ビシ
こうして私達は再び歩き出した。
私立桜ヶ丘高校……私達の日常の終焉が始まった場所へ……。
32:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 19:02:36.16:yiRVTPAu0
そもそも、何故私達は崩壊してしまった桜ヶ丘高校に向かうのか。
それは、私達にとって、いや、ほとんどの学生にとって「学校」が日常そのものだからだ。
そして、その日常こそが、このウイルスの進行を遅らせる方法の一つなのである。
ある精神学者が提示した、噛み付き病に関する調査報告書の中にそれはあった。
私達学生は、皆必ずある共通の盟約の様なものを持っている。
「学校に行く事」
学校が好きであろうが嫌いであろうが、学校に行かなくてはならないのだ。
その「しなくてはならない」という目的意識が自我を確立する。
自我を確立する事が、食肉衝動という本能に抵抗する理性を生むのだ。
感染者の病状進行は、軽度のレベル1から重度のレベル5という5段階で表される。
レベル1とは、感染初期の状態だ。肉体的変化は起きるが、精神的変化は、常人にはまず現れない。
レベル2とは、感染後7日経ち、皮膚の色素が完全に抜けた状態の事だ。
精神的疾患を持つ者や、異常性癖者は、この時点で殆どが「崩壊者」状態に陥る。
普通の精神の持ち主であれば、食肉欲を理性で抑え「崩壊者」状態になる事はまずない。
レベル3とは、感染後7日目以降の安定期の事だ。この期間は、個人差により大きく異なる。
自我をしっかりと持ち、精神が安定している者程この期間が長くなる。
レベル4になると、言語障害、記憶障害、手足の痙攣などが現れ始める。
自我崩壊の序曲だ。
とは言え、レベル4の初期であれば、常人と比較してもその差は微々たるものだ。
言葉がすぐに出てこない、ちょっとした物忘れをする、たまに手足が震える、ぼーっとする、それは常人にもありえる事だ。
しかし、レベル3の時とは異なり、非常に危うい面も出始める。
33:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 19:12:08.48:yiRVTPAu0
非感染者の血の臭いに非常に敏感になるのだ。
このウイルスは、唾液を媒体にし他者の血液に侵入する。
その習性が、感染者の血に対する執着・過敏な反応を生むのだろう。
レベル4の者がこの臭いを嗅ぐと、言葉では言い表せぬ苦しみ、俗に言う禁断症状が現れるのだ。
大抵の者は、ここで自我が崩壊し、レベル5へと移行する。
レベル5になった者は自我を失い、「肉」を求めるだけの人食いに成り果てる。
この人食いの事を、識者達は「崩壊者」と呼んだ。
「崩壊者」達のその様は、まさに生者の肉を求め跋扈する「ゾンビ」そのものだ。
こうなるともう、以前の状態に戻る事は不可能となる。
そしてもう一つ重要な事がある。
レベル1の状態から、一気にレベル5まで移行するパターン。
このウイルスは、人間の持つ生命の力を爆発的に高める。
そして、その力を最も大きく高める要因が、「生命の危機」なのだ。
初期感染時に母体が危機的状態にある場合、中度のレベルを一気に飛び越え「崩壊者」になる。
もちろん、レベル2、3,4の状態である場合でも同様だ。
肉体に多大な損傷を受けると、「崩壊者」へと覚醒する。
34:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 19:15:27.15:yiRVTPAu0
私の友人達は、私と六つの盟約を結んでいる。
一つ、学校に行く事。
二つ、ティータイムを行う事。
三つ、楽器の練習をする事。
四つ、平沢唯をゾンビ達から守る事。
五つ、上の四つを毎日継続する事。
そして最後に、傍にいる者が自分から離れるよう促した場合、平沢唯は必ずそれに従う事。
それが私達9人、「新生放課後ティータイム(新HTT)」の掟。絶対に破ってはならないもの。
私達は絶対に希望を捨てない。
必ず特効薬が発明され、私達は元の緩い日常生活に戻れると。
既に失ったモノは大きすぎるけれど……。
それでも、私達にはまだ失いたくないモノが沢山あるんだ。
35:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 19:19:44.95:yiRVTPAu0
校門が見えてきた。
そこには、二人の女生徒達が立っていた。
七月も半ばのこの時期に、彼女達も私達と同じく冬物のブレザーを着ている。
これが、「平沢唯を守る会」の目印だ。
なぜこの暑い中ブレザーなのか。
りっちゃん曰く、「防御力が高そうだから」
ゾンビだって暑さ寒さは感じる。
「崩壊者」でない限り、服装は季節によって変わるのだ。
では、誰もがブレザーを着る冬はどうするのか。
りっちゃん曰く、「また、あの着ぐるみでも着ようか」
澪ちゃんのゲンコツがりっちゃんの後頭部に炸裂した事は言うまでも無い。
二人の女生徒達も私達に気が付いたようだ。
一人の女生徒がこちらに向かって手を振っている。
もう一人は不機嫌そうにそっぽを向いている。
あくまで不機嫌そうに見えるだけであって、実際に不機嫌なのではない。
彼女、若王子いちごはそういう風に見えやすいタイプの人間なのだ。
もう一人の手を振っている彼女は木下しずか、笑顔がかわいい女の子だ。
36:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 19:33:34.11:yiRVTPAu0
しずか「みんな、おはよ~」
いちご「……遅い。」
和「遅くなってごめんなさい」
律「いちごは私たちの事心配してくれてたのかな~?」
いちご「……律、ウザい。」
律「素直になれよ、いちごしゃん~」ギュッ
いちご「……暑苦しい。」
満更でもなさそうな顔をしている。
私とあずにゃんのハグも、傍から見たらこんな感じだったのだろうか。
唯「二人とも本当にごめんね」
しずか「ううん、全然平気だよ」
いちご「……別に気にしてない。」
和「教室に行きましょう」
37:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 19:43:24.31:yiRVTPAu0
外観は以前と全く変わっていない桜ヶ丘高校。
あの日の後、7日間で業者が全てを元通りにした。
でも、直ったのは外見だけ。
もうここに「桜ヶ丘高校」は存在しない。
でも、それは何があっても口にしてはいけない。
それを口に出せば、私達ですら崩壊しかねないから。
以前は各学年3クラスあったけれど、現在は各学年1クラスしかない。
それで足りてしまう程の生徒数になってしまったのだ。
その全てのクラスは3階にある。
3階を使用するのは、見晴らしがよく、遠くの景色まで見る事が出来るからだ。
何かが起これば、逸早くそれを知る事が出来る。
階段を上って、手前から1年生、2年生、3年生の教室となっている。
私はこの廊下を歩くのが嫌だった。
私がこの学校で唯一の「人間」なのだという事を、嫌でも実感してしまう。
教室の前を通る時、下級生達の黒く光の無い視線が私に集中する。
もともと私は鈍感で、他人の考えている事など読めない人間だ。
そんな私でも感じてしまう程の強烈な意思が、そこには含まれていた。
その漆黒の視線に感じるもの……。
悪意や狂気、敵意といった類のモノではない、もっと異質な何か。
「食欲」
その視線から、私は彼女達の強烈な食欲を感じていたのだ。
38:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 19:49:41.12:yiRVTPAu0
律「ういーっす」ガラガラ
いつもりっちゃんが最初にドアを開ける。
次に澪ちゃん、いちごちゃん、しずかちゃん、私、和ちゃんの順に入る。
この順番で教室に入る事が、いつの間にか私達のルールになっていた。
誰もこちらに視線を向けない。
3年生は下級生達と違って、私に視線を向ける事は無い。
私は挨拶を絶対にしない。してはいけない。
それは和ちゃんにきつく言われている事だ。
皆分かっているのだ。
私が皆の崩壊のキッカケを招きかねない、危険な存在だという事に。
だから、私はクラスメイトを刺激しない様、細心の注意を払う。
私はこの空間で息を潜め、ただひたすら空気となるのだ。
ここは、私にとって「教室」と呼べる場所ではなかった。
本来なら、私はこの場に居ていい人間ではない。
皆、自我を保とうと必死にここに居るというのに、
私の存在は、それを危ういモノにしているからだ。
しかし、私はここに居なければならない。
その一番の理由は、生徒会を失った和ちゃんだ。
和ちゃんは生徒会の活動で忙しかった為、
生徒会役員以外で親友と呼べる者は、私しかいなかったのだ。
もちろん、りっちゃんや澪ちゃんとは親しい友人ではあるが、
「軽音部」という絆を持たない和ちゃんは、やはり円の外側の人間なのだ。
39:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 19:57:55.33:yiRVTPAu0
★2
私の席は、最も窓際に近い列の一番後ろ。
前から、しずかちゃん、いちごちゃん、そして最後尾に私。
私の右横には和ちゃんがいて、その前にはりっちゃんと澪ちゃんがいた。
廊下側前列の方には、元3年2組の佐藤アカネちゃん、佐伯三花ちゃん、野島ちかちゃんがいる。
あの日までは、あの3人も「人間」だった。
アカネちゃんは、あの日のりっちゃんとエリちゃんの事で軽音部と気まずくなり、
以来、互いに声をかける事すら無くなった。
同じバレー部の三花ちゃんと、三花ちゃんの友達のちかちゃんは、
たまにしずかちゃんと話しているのを見掛ける。
しずかちゃんはいちごちゃんと一番仲が良いみたいだけど、ちかちゃんとは以前からよくお喋りしていた。
私達の中で、彼女達と会話が出来るのはしずかちゃんだけだった。
しずかちゃんによると、三花ちゃんとちかちゃんも軽音部に入りたかったらしい。
でも、そうするとアカネちゃんが孤立してしまう。
アカネちゃんが軽音部に入る事は絶対にないから。
それで二人は軽音部入部を断念したとの事だった。
40:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 20:02:55.34:yiRVTPAu0
さわ子「……おはよう。」
さわちゃん先生が来た。今、学校に来てくれている唯一の教師だ。
最初10名いた教師達は、その後一人二人と姿を見せなくなっていった。
今ではさわちゃん先生が全学年を受け持っている。
といっても、さわちゃん先生が行うのは朝と帰りのHRだけだ。
それ以外の時間は、全て各自自習となる。
自習といっても、普通の学校のそれとは全く違う。
ある子達は調理室で料理をしたり、
またある子達は、体育館に集まって様々なスポーツをしたりしている。
一人で携帯電話やノートパソコンをずっと弄ったりしている子達もいる。
最近では、ぼーっとする子も増えてきた。
さわ子「……それじゃあみんな、今日も一日頑張ってね」
出席を取り終えて、さわちゃん先生は教室を出て行った。
さわちゃん先生は、帰りのHRまで職員室でパソコンを弄っている。
あの日以来、さわちゃん先生はティータイムに来なくなった。
律「うっし、じゃあ音楽室に行くか!」
教室のドアを開けると、先にHRを終えていた2年生3人組が待っていた。
私達9人は音楽室に向かった。
41:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 20:12:30.41:yiRVTPAu0
私達9人は、HR以外の全ての時間を音楽室で過ごす。
以前は、音楽室でまず最初にする事はお茶だった。
けれど、朝ごはんを食べてくればこの時間にお腹は空かない。
そんなわけで、お茶の時間は10時半と15時半から30分ずつ計2回となっている。
基本的に、お茶の時間以外は皆自由行動だ。
ただし、必ず楽器の練習を少しはしなくてはいけない。
午後のお茶の後に、どんなに拙い演奏でも皆で合奏する事が今の軽音部の決まりだからだ。
私達の軽音部には、ティータイムとこの合奏が不可欠だった。
ティータイムは以前の軽音部らしさの象徴であり、合奏には皆との絆を強める役割があった。
りっちゃん、あずにゃん、いちごちゃんは、最初に各自買ってきた雑誌を読む。
りっちゃんはコンビニで買ってきた漫画の雑誌。
梓ちゃんは音楽雑誌で、いちごちゃんはファッション雑誌のようだ。
準備室には、三人が買ってきた雑誌が山積みになっている。
42:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 20:16:28.47:yiRVTPAu0
和ちゃんとしずかちゃんは、何か難しそうな分厚い本を読んでいる。
この前、二人の本を後ろからこっそり覗いて見たら、
小さな文字がびっしりと詰まっていて、私は眩暈がした。
たまに二人で本の内容について語り合っている。
和ちゃんとしずかちゃんは、趣味が合うのかもしれない。
澪ちゃんはヘッドホンをして、自宅から持ってきたノートパソコンと睨めっこ。
音楽サイトや情報サイトを巡ったり、詩を書いたりしているらしい。
純ちゃんは人懐っこい性格からか、皆の所を回っている。
澪ちゃんのパソコンを覗いてみたり、あずにゃんと一緒に雑誌を見てたり、
りっちゃんと一緒に漫画を読んで笑ってたり。
でも、和ちゃんとしずかちゃんの本は過去一度覗いたきりだ。
最近では、よくいちごちゃんと一緒にファッション雑誌を読んで、
なにやら二人であーだこーだと論議している。
いちごちゃんがあんなに喋っている姿を、以前の私なら想像する事すら出来なかった。
43:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 20:19:39.30:yiRVTPAu0
憂はヘッドホンを付けて、ムギちゃんの置いていったキーボードを練習している。
以前よりも練習する量が増えていた。
そして、練習している時に、度々不機嫌な顔を見せる様になった。
本人は無意識なのだろうが、誰もがその事に気付いていた。
その理由も分かっていたから、誰も気付かない振りをした。
私はヘッドホンをしてギターの練習を始めた。
この音楽室は、私が唯一ギターを弾ける場所だ。
それが、私の学校生活における最後の救いだった。
家でギターを弾く事は無い。
「崩壊者」は音にも非常に敏感だ。
日常生活以外の音がすれば、それに惹かれて寄ってくるかもしれない。
万が一の為、私は家でギターには触れない様にしているのだ。
私がゾンビであれば、そんな事を気にする必要など無いのに……。
私は夢中でギターを掻き鳴らした。
全てを忘れ、ただただギターを奏でる事に集中した。
44:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 20:26:22.40:yiRVTPAu0
律「そろそろお茶にしよーぜー」
気付けば1回目のお茶の時間になっていた。
憂と和ちゃんが皆のお茶を入れている。
ムギちゃんの居ないティータイム、私はもう慣れた。
お菓子は、私と憂を除いた各自が当番制で持ってくる。
私が外を無闇に歩き回れば、それだけ危険が増える。
だから、登下校以外で私は外を歩いてはいけない。
今の私は籠の中の鳥だ。
でも、籠は私の自由を奪う為のモノではない。
私は籠の中でしか自由を得られない存在なのだ。
りっちゃんは、鞄の中から大量の駄菓子を出した。
りっちゃん達の通学路の途中にある駄菓子屋から「持ってきた」らしい。
和「凄い量ね……」
いちご「……タダだからって持ってきすぎ。」
律「一度これ位の量の駄菓子を一気に食べてみたかったんだよ!」
そうか、駄菓子屋のお婆ちゃんも居なくなったんだ……。
46:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 20:34:15.92:yiRVTPAu0
駄菓子を摘みながら、熱い緑茶を啜る。
それが全身を駆け巡り、冷たくなった体を火照らせた。
音楽室の冷房は強めにしてある。
夏に冬服を着て冷房、なんて非効率なのだろう。
環境に悪いわね、和ちゃんは笑いながら言った。
ライフラインが未だ健在なのは、
私達と同様、自我を保つ為に日常を維持しようとする人達がいるからだ。
足りない人手は、自衛隊や有志の人達が補っているらしい。
もちろん、その人達もゾンビだ。
たまに町内の見回りをして、崩壊者の「駆除」をしているらしい。
街の商店も普通に営業しているけれど、最近は店員のいない店も増えてきた。
窃盗など今は取るに足らぬ行為で、それを取り締まる気配など無い。
このような状況になったら、略奪が起こるのは必然だろう。
しかし、そのような暴動じみた事はまだ一度も起きていない。
せいぜい、私達のようにちょこっと物資を持ち出す程度のものだ。
ゾンビになると、食肉欲とその他の欲求が反比例するらしい。
症状が進行する程、彼らは無気力になっていく。
そして、虚脱感が増し抵抗力を失うと、症状は加速度的に悪化していくのだ。
何もしなければ、病状の悪化を早める。
だからこそ、私達は無理矢理にでも何かする事を求めなければならない。
軽音部の活動は、その為のものなのだ。
47:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 20:39:03.55:yiRVTPAu0
1回目のお茶の後は、皆楽器の練習をする。
憂はお茶をする前と変わらずキーボードの練習。
りっちゃんは純ちゃんのコーチを受け、エリザベスで練習だ。
ベースを弾けなくなった澪ちゃんの代わりに。
澪ちゃんはパソコンを使って音を奏でる。
キーを押すと、それに対応して様々な音が出るというアプリらしい。
ドラムを叩くのは和ちゃん。
和ちゃんは最初りっちゃんから教わっていたが、
りっちゃんもベースの練習をしなければならないので、
ドラムに関する本を借り、一人で頑張った。
勉強も運動も得意で、練習熱心な和ちゃんは、
すぐにある程度の演奏技術を身に付ける事が出来た。
りっちゃんも、和ちゃんの事をセンスがあると褒めていた。
いちごちゃんはリコーダー、しずかちゃんはピアニカを持ってきた。
二人は同じ小学校で、一緒に音楽クラブに入っていた事があるらしい。
私はあずにゃんとギターの練習だ。
以前はあずにゃんに、真面目に練習してください、とよく怒られたものだが、
今ではそんな事はもうない。
家でギターを弾けなくなってから、私はこの音楽室で誰よりも練習に励んだ。
あの練習熱心だったあずにゃんよりも……。
48:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 20:44:25.79:yiRVTPAu0
お昼、音楽室でお弁当を食べ、私はまたギターを掻き鳴らす。
一心不乱に、時の流れすら忘れる程に。
澪「……そろそろ教室に戻ろう」
時計は14時半を指している。
大体14時40分から15時が帰りのHRの時間。
楽器を置き、私達は教室に向かった。
帰りのHRといっても、連絡事項など何も無い。
ただ一言、挨拶をするだけの儀式だ。
それが終われば、私達はまた音楽室に戻る。
部外者からすれば、それは無駄で無意味な行為に見えるかもしれない。
でも、私達は必ずそれに参加する。
さわちゃん先生に挨拶をする為に。
それがさわちゃん先生が学校に来る理由なのだから。
教室に戻り、暫くしてさわちゃん先生が入ってきた。
クラスを一瞥し、一言挨拶をする。
さわ子「……みなさんさようなら、ではまた明日」
クラスメイト達が次々と教室を出て行く。
私達は最後に席を立ち、また音楽室に向かって歩き出した。
49:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 20:48:35.97:yiRVTPAu0
2回目のお茶が終わり、合奏の時間になった。
最初の曲目は「翼をください」。
その後は順不同に、HTTの楽曲や、音楽の教科書にあった曲などを演奏する。
私はその全ての曲のボーカルも兼任している。
和「ワン、ツー!」カチカチ
音楽室が大音響に包まれる。
私達の奏でる音は音楽室を飛び出し、学校中に響き渡っている事だろう。
私は音の大きさなど気にする事なく、思いっ切りギー太を掻き鳴らす。
この瞬間だけは、私を囲う籠など存在しない。
平沢唯は、音楽という翼で自由に大空を飛び回った。
50:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 20:58:19.69:yiRVTPAu0
合奏の後は、あずにゃんの提案がキッカケで、私が独奏を披露する事になっていた。
最初は、あずにゃんや澪ちゃんに借りたCDの中から気に入った曲を演奏していた。
そのうち、他の皆もCDを持ってくる様になった。
気付けば、私のレパートリーは膨大な数になっていた。
律「また唯は上手くなったな」
澪「……ああ」
しずか「私、感動しました!」
いちご「……凄い。」
憂「良かったよお姉ちゃん」ニコ
梓「やっぱり唯先輩は凄いです!」
純「ホントに凄いですよ、唯先輩……」
和「最高だったわ、唯」
皆が私を絶賛してくれた。
練習時間が増えた事で、私の演奏技術は格段に上がっていた。
でも、私は少しも嬉しくなかった。むしろ辛かった。
私が上達するのと反対に、皆の演奏は稚拙になっていったのだ。
51:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 21:03:23.04:yiRVTPAu0
症状が進行して脳神経に障害が出始めると、細かい作業が苦手になる。
それが、演奏技術を著しく低下させていたのだ。
感染初期のりっちゃんのドラムは凄かった。
それは、脳が正常な内に運動能力の向上があったからだ。
脳に異常を来せば、単純な運動なら問題なく出来ても、
楽器演奏の様に緻密な操作は、徐々に出来なくなってしまう。
彼女達の演奏が、まさにそれを物語っていたのだ。
そしてその事が、憂に苛立ちの表情を作らせ、澪ちゃんがベースを辞める原因となった。
りっちゃんは、澪ちゃんがベースを辞める事に猛反対した。
でも、澪ちゃんの意思は揺るがなかった。
澪ちゃんはりっちゃんに大切なベースを託した。
私の代わりにベースを弾いて欲しいと。
翌日から、りっちゃんはベーシストになった。
あんなに反対していたのに、なぜ翌日にはそれをあっさり受け入れたのだろうか。
私には分からない何かが、幼馴染の二人にはあったのだろう。
昔から澪ちゃんにベースを触らせて貰っていたらしく、ある程度の基礎は出来ていた。
ベーシストのりっちゃんはカチューシャを外していた。
52:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 21:07:25.67:yiRVTPAu0
外はもう暗くなり始めていた。
時計は既に19時を回っている。
律「今日はそろそろ解散とするか」
澪「……そうだな」
私達は音楽室を後にした。
校門でいちごちゃん、しずかちゃんとはお別れだ。
いちご「また明日。」
しずか「気をつけてね」
別れを告げて、私達も帰路に就く。
皆と別れ別れになる帰り道、私はどうしようもなく怖くなる。
明日もみんなに会えるだろうか?
そんな私の感情に関係なく、無慈悲にも別れは淡々と私達を切り裂いていった。
54:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 21:12:22.23:yiRVTPAu0
唯「ただいま~憂~」
憂「ただいま、お姉ちゃん」ニコ
唯「おかえり~憂~」
憂「おかえり、お姉ちゃん」ニコ
これが帰宅時の私達のルールだ。
二人で「ただいま」を言い、二人で「おかえり」と答える。
私は憂に、憂は私に。
一人なら滑稽な姿になってしまうかもしれないが、私達は二人なんだ。
雨戸は常に閉めっぱなしにしているから、部屋は真っ暗だ。
こんな所に一人で帰ってきたら、寂しさで涙を流してしまうかもしれない。
でも、私達は二人なんだ。二人なら、どんな暗闇だってへっちゃらだ。
私は着替え、憂と一緒に家事に取り掛かる。
室内で陰干しした洗濯物を畳み、掃除をして早めにお風呂を焚く。
あとは夕食の下拵え、炊飯をして和ちゃんを待つ。
57:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 21:41:48.75:yiRVTPAu0
ピンポーン ピンポーン
玄関のチャイムが鳴る。
この鳴らし方は和ちゃんだ。
玄関を開けると、沢山の食材を持った和ちゃんがいた。
唯「いらっしゃ~い」
憂「いらっしゃい」ニコ
和「お邪魔するわね」
和ちゃんは、いつも私達の代わりに日用品や食料品を買ってきてくれる。
最初は心苦しかったけれど、これも和ちゃんの為なのだと割り切った。
和ちゃんの意思なら、私はどんな事だって受け入れるつもりだ。
私が和ちゃんにしてあげられる事は、それしかないのだから。
和「カレーの材料を買ってきたから、一緒に作りましょう」
憂「うん!」ニコ
唯「ありがとう和ちゃん」
和ちゃんは、毎日夕食を私達と一緒に作り、一緒に食べる。
でも、絶対に泊まって行く事は無い。
私が誘っても、和ちゃんは頑なにそれを拒否し続けた。
私にはその理由が分かっていた。
和ちゃんは恐れていたのだ。
自我を失い、幼馴染であり親友である私を傷付けてしまうのではないかと。
59:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 21:44:08.40:yiRVTPAu0
唯「ご馳走さま~」
憂「美味しかったね、お姉ちゃん」ニコ
和「いっぱい作ったから、残りはタッパーに詰めて冷蔵庫に入れるのよ」
唯「は~い」
和「じゃあ私、家に帰るわね。片付けは任せるわ」
唯「らじゃ~」ビシッ
憂「また明日」ニコ
和ちゃんは帰っていった。
唯「私が後片付けしとくから、憂はお風呂入っちゃってね」
憂「うん」ニコ
憂は着替えを取りに行った。
唯「それじゃあ、ちゃっちゃと片付けちゃいましょ~!!」グッ
60:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 21:49:10.12:yiRVTPAu0
憂と一緒のお風呂に入ったのは、あの日から一週間後の時が最後だった。
私はふと、その時の事を思い出していた。
肌は雪の様に白くなり、まるで白雪姫のようだった。
憂はその姿が嫌だったのか、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
けれど、私の口からはそれを賛美する言葉が自然と洩れていた
「とても綺麗だよ憂……」
憂はその言葉を聞き、大声を出して泣き出してしまった。
私は憂を優しく抱きしめた。
私が抱き締めても憂が泣き止まなかったのは、あの時だけだった。
今にして思えば、私はなんて酷い事を言ってしまったのだろうか。
でも、本当に憂は綺麗だった。世界中の誰よりも。
その日、私は憂と一緒に寝た。
憂と一緒に寝たのも、その日が最後だった。
61:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 21:51:21.22:yiRVTPAu0
憂「お風呂上がったよ、お姉ちゃん」ニコ
唯「ほ~い」
片付けは終わり、私もお風呂に入る事にした。
お風呂に入るといつも、あの時の憂の裸を思い出してしまう。
私は妹に恋をしてしまったのだろうか。
性別に関係なく、あの姿を見たら誰でも同じ事を思うのではないだろうか。
そんな事を考えている自分を、私は嫌悪した。
(ごめんね憂……)
私は心の中で、憂に何度も何度も懺悔した。
62:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 21:55:29.27:yiRVTPAu0
お風呂から上がると、憂が私を呼んだ。
憂「アイス一緒に食べよ?」ニコ
カレーの材料と一緒に、和ちゃんは私の好きなアイスも買ってきてくれていた。
2つのアイス、私の分と憂の分。
和ちゃんの気配りと優しさが、今の私には辛かった。
唯「うん、一緒に食べよ~」ニコ
嘘を付く事が下手だった私。
でも、私はいつの間にか嘘を付く事が得意になっていた。
私は憂に悲しい顔など見せたくなかった。
私が悲しい顔をすれば、憂が悲しむから……。
憂も同じ事を考えていたのだろう。
自分が悲しい顔をすれば、私が悲しむと……。
だから、憂は笑顔を振り撒いた。偽りの笑顔を。
でも、私はその笑顔の違和感に気付いていた。
私は憂が生まれてから、ずっとその顔を見てるんだよ?
本当に笑っているのかどうかなんて、すぐに見分けられるんだよ。
だから無理に笑わなくていい、泣きたい時は泣けばいいんだ。
私は憂のお姉ちゃんなんだ。
憂が私に遠慮する必要なんて、どこにも無いんだ。
私はその言葉が言えず、憂の偽りの笑顔を受け入れた。
私には、憂の優しさを否定する事が出来なかった。
私は最低のお姉ちゃんだった。
63:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 22:00:09.75:yiRVTPAu0
アイスを食べ終え、私達は居間のソファーで寛いでいた。
横を見ると、憂がこっくりこっくり居眠りをしている。
時計は22時になった所だ。
唯「憂、起きて。ベッドに行こう?」
憂「う~?」
憂は少し寝惚けているみたいだ。
私は憂を支えながら、妹の部屋へと連れて行った。
そして、ベッドに寝かせ、布団を掛ける。
唯「おやすみ憂、また明日ね」
憂「おやすみ……おねえちゃん……」ニコ
憂はすぐに眠りに就いてしまった。
私は憂の額に軽くキスをして部屋を出た。
私も眠ろう。
ベッドに潜り込むと、すぐに強い睡魔に襲われた。
私はそのまま深い眠りに落ちた。
ああ、今日もまた、あの日の夢を見るのだろうか……。
64:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 22:02:01.73:yiRVTPAu0
唯2年 2月15日
もう春休みも目の前に迫ってきていた。
私たちはもうすぐ最上級生になる。
新歓ライブに向け、私達は珍しく熱心に練習をしていた。
今年新入部員を引き入れなければ、来年はあずにゃん一人になってしまうからだ。
そんな頃、私たちの周りではある噂が流行していた。
「健康美白ウイルス」
なんでもそのウイルスに感染すると、肌が美しくなり、健康にもなるというのだ。
副作用は、ちょっとした摂食障害になる事らしい。
最初は誰もがそんな噂を信じる事は無かった。
実際に感染者を自分の目で見るまでは。
65:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 22:06:48.61:yiRVTPAu0
桜ヶ丘高校で最初に感染が明らかになったのは、あずにゃんのクラスの子だった。
あずにゃんによると、一週間程度でみるみるうちに肌が白く綺麗になっていったという。
さらにその子は、今まで運動が苦手だったにも関わらず、
体育の時間に信じられない程の活躍を見せたという。
その子は瞬く間に学校中の噂になった。
しかし、その子から感染が拡大する事は無かった。
純ちゃんによると、その子は内気な性格で友達もいないらしい。
そんな子が何時、何処で感染したのか、誰もが興味を持った。
けれども、彼女は詳しい感染の経緯を語らず、真相は闇に包まれた。
そんな彼女に、ウイルスをうつして欲しいとお願いする子もいたらしいが、
直接噛むという行為自体が、感染の予防になった様だ。
見ず知らずの他人を噛むというのは、噛む方にとってもかなりの抵抗があったのだろう。
けれども、そこで感染が止まる程甘くはなかった。
どうしてもウイルスが欲しい子達は、中学の時の友人と連絡を取ったり、
携帯コミュニティーサイトなどで保菌者を探していたのだ。
66:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 22:09:48.22:yiRVTPAu0
2年生で最初に感染したと思われるのは、立花姫子ちゃんという子だった。
その頃の私は、まだ姫子ちゃんと面識はなかったけれど、
姫子ちゃんの噂はすぐに私の耳にも届いた。
彼女のバイト先の友人の知り合いが保菌者で、その子から感染したという。
もともと姫子ちゃんは、人目を引くクール系の美人だった。
そんな彼女の肌がどんどん白くなっていくと、
まるで女優を思わせるかの様な美しさ、輝きを放つようになった。
その美しさが、「健康美白ウイルス」の需要を爆発的に高める要因となった。
春休み直前には、私のクラスにも数人、肌が白くなりつつある子がいた。
67:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 22:12:33.12:yiRVTPAu0
軽音部で最初に感染したのはりっちゃんだった。
それに最初に気付いたのは澪ちゃんだった。
春休み、新勧ライブに向けての練習の為、部室に集まった時の事だ。
いつもりっちゃんと澪ちゃんは一緒に登校しているが、
その日は澪ちゃんだけ先に部室に来ていた。
りっちゃんは寝坊したらしく、後から来るとの事だった。
お茶をしていると、暫くしてりっちゃんがやってきた。
律「わりーわりー、寝坊しちった」
唯「も~、りっちゃんは駄目駄目だね~」
律「どうせ唯は憂ちゃんに起こして貰ったんだろ?」
唯「でへへ、すいやせん」
紬「今お茶入れるわね」
梓「それ飲んだらすぐ練習しますからね」
律「へいへい」
澪「……」
68:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 22:17:00.33:yiRVTPAu0
澪「律、お前肌の色、少し白くなってないか?」
律「お、澪ちゃん、気付いちゃいましたか~」
紬「言われてみると、りっちゃんの肌、前より少し白いわね」
律「実は昨日マキちゃんに、健康美白ウイルスをうつして貰ってさ。
その後、ラブ・クライシスのみんなとオールでカラオケしてたんだ~。
今日は寝ないで、そのままこっちに来ようと思ってたんだけど、
横になったらいつの間にか寝ちゃっててさぁ」
梓「律先輩も美白で綺麗になりたかったんですか?」
唯「りっちゃんはそのままでも可愛いのに~」
律「ちげーって! てゆーか、私はそんなミーハーじゃないぞ?」
梓「じゃあ何でですか」
69:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 22:19:11.56:yiRVTPAu0
りっちゃんが感染した理由は、ラブ・クライシスというバンドにあった。
そのバンドのドラマーは、りっちゃんと澪ちゃんの中学時代の友人だった。
りっちゃんは、同じドラマーという事で今でも付き合いが深く、
一緒に出掛ける事もしばしばあるらしい。
律「ラブ・クライシス、メジャーデビューしたんだよ」
梓「メジャーデビューですか!?」
律「ああ、昨日はその祝賀会だったんだ」
梓「なるほど。で、それが健康美白ウイルスと何の関係があるんですか?」
律「デビュー出来たのは、そのウイルスの力なんだよ」
70:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 22:21:23.64:yiRVTPAu0
ラブ・クライシスのメンバーは、才能の壁に悩まされていた。
バンドとしての能力は高く、小さなライブハウスなら、
単独で満員にする位の実力も人気もあった。
しかし、それはあくまでもアマチュアレベルでの話である。
プロの世界はそれ程甘くは無い。
彼女達は、アマチュア以上プロ未満という、
ミュージシャンとして一番辛い時期にあった。
そんな時、彼女達は健康美白ウイルスの話を知った。
それを利用し、ルックスを良くする事によってバンドの人気を上げようとした。
大成功だった。
さらに、ウイルスの思わぬ効能が表れた。
身体能力の向上により、楽器演奏の技術が飛躍的に向上したのだ。
かくして、ラブ・クライシスはメジャーデビューを果たす。
71:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 22:24:46.57:yiRVTPAu0
梓「信じられません……と言いたい所ですが……」
実際に私達は、感染者を身近に見ている。
そうでなければ、この様な話をすぐには信じられなかっただろう。
律「私も、直に演奏を見て、聴いて、ビックリしたよ。
マキのドラムは、今までのソレとは別次元のレベルだったんだ。
それで私も、って思って……。
今度の新歓ライブ、梓の為に最高の出来にしたいからさ……」
梓「律先輩……」
紬「りっちゃんらしいわね」
唯「りっちゃん部長っぽいよ」
律「へへ……」
澪「……」
72:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 22:25:42.30:yiRVTPAu0
唯「でも、本当にりっちゃんも上手くなるの?」
梓「確かに、律先輩まで上手くなるというのは信じ難いですね」
律「言うじゃない中野~。まぁ、百聞は一見にしかずってね」
唯「おお~、りっちゃんがやる気になってる!」
律「なんか体中から力が漲ってくる感じがするんだよね」
梓「それじゃあ、一回合わせてみましょうか」
律「よっしゃ!!」
74:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 22:28:35.81:yiRVTPAu0
りっちゃんのドラムは凄かった。
リズムキープは相変わらずだったけれど、
力強く刻むビートは、りっちゃんらしさに磨きが掛かっていた。
荒削りだけれど、そこには輝く何かが確かに存在した。
律「ふぅ~……」
紬「今のりっちゃんのドラム、凄く良かったと思う!」
唯「うんうん、凄かったよりっちゃん!」
梓「リズムキープはまだまだですが……確かに良かったです!」
律「だろ? 今日は寝不足だったからまだまだだけど、
本調子になったら、こんなもんじゃないぜ?」
唯「私もウイルス貰ったらギター上手くなるかな……?」
律「私が唯を噛んでやろうか? にひひ」
紬「あらあらあらあら」
唯「なんかりっちゃんイヤラシ~よ~」ケラケラ
澪「やめろよ!!」
それまで無口だった澪ちゃんが突然大きな声を上げた。
75:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 22:34:59.11:yiRVTPAu0
律「何だよ澪……突然大声出してさ……」
澪「何でそんな事勝手にするんだよ……何で私に相談しなかったんだ、律……。
それはウイルスなんだぞ? 病気なんだぞ?
摂食障害になるって聞いたし、治療薬だってまだ出来てないって聞くし……。
それなのに、故意に感染してくるなんて、何を考えてんだよ!
それがどんなに危ない事なのか、お前は分からないのかよ……!」
律「澪は気にし過ぎだろ……。
みんなやってるし、マキちゃんの話だと症状も大した事ないらしいし……。
そもそも、そんなに危ないモノなら、もっとテレビとかで大騒ぎしてる筈だろ?」
澪「だからお前は単純だっていうんだ!
そりゃあ、今は平気かもしれないけど、今後の事は分からないだろ!
場当たり的に行動するから、いつも失敗するんじゃないか!
もうちょっと先の事も考えろよ、馬鹿律!!」
律「な、なんだよ……お前は私の保護者か何かか?
何でいちいち澪に相談しなきゃいけないんだよ!
それとも、私が綺麗になる事に嫉妬でもしてんのか?」
音楽室にパチンと乾いた音が響いた。
澪ちゃんの大きな掌が、りっちゃんの頬を紅く染めた。
澪ちゃんは瞳にいっぱいの涙を溜め込んで、
何も言わずに音楽室から走り去っていった。
76:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 22:40:52.45:yiRVTPAu0
りっちゃんは、ただただ茫然と立ち尽くしていた。
私もムギちゃんもあずにゃんも、なんて声を掛ければいいのか分からず、
黙ってその様子を眺めている事しか出来なかった。
結局、その後は練習も出来ず解散となった。
りっちゃんと澪ちゃんが喧嘩した事は以前にもあった。
でも、翌日には決まって仲直りをしていた。
だから、明日になれば、また仲良しの二人に戻っている筈だ。
私は、そんな風に楽観的に考えていた。
次の日、澪ちゃんとムギちゃんは練習に来なかった。
りっちゃんは元気なく項垂れていて、目の下には隈が出来ていた。
私もあずにゃんも、その顔を見てすぐに分かった。
まだ二人は仲直りをしていないという事が。
昨日のりっちゃんと澪ちゃんの喧嘩が、
今までのそれとは全く違うものであるという事が。
とても練習など出来る状態ではなかった。
そんなりっちゃんを見兼ねたあずにゃんは、しばらく練習を中止しようと提案した。
りっちゃんと澪ちゃんには時間が必要だと判断したのだろう。
りっちゃんは俯きながら、弱々しく一言、ごめん、と言った
77:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 23:06:34.08:yiRVTPAu0
★3
残りの春休みはあっという間に終わり、始業式を迎えた。
クラス割りを見ていると、りっちゃんと澪ちゃんが一緒に登校してきた。
りっちゃんの肌は真っ白くなり、その容姿は驚く程美しくなっていた。
二人の間の溝は、まだ完全には埋まっていなかった。
そのぎこちなさ、余所余所しい態度を完全に隠す事は出来ていなかった。
私とあずにゃんはそれに気付かないフリをした。
私達に心配を掛けまいとする、二人の気遣いを感じたからだった。
澪ちゃんは、私とあずにゃんに「悪かった」と一言謝り、
今日からまた一緒に練習を頑張ろうと言った。
あずにゃんは元気良く、はい、と答えた。
78:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 23:09:58.38:yiRVTPAu0
唯「私と和ちゃんとりっちゃんと澪ちゃんは一緒のクラスだよ」
和「一年間よろしくね」
律「澪と和がいれば、どんなに宿題が出ても安心だな」
澪「いい加減、宿題くらいちゃんと自分でしろ!」
梓「私は憂、純と一緒のクラスです」
純「私達って、腐れ縁ってやつかな」
憂「ふふ、二人ともよろしくね」
澪「そういえば、ムギがいないな……」
唯「ムギちゃんとは違うクラスになっちゃったみたいだね……。
電話しても繋がらないし……」
律「もうこんな時間だし、先に自分の教室に行ったんじゃないか? 私達も教室に行こう」
梓「それじゃあ先輩方、また放課後に」
80:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 23:18:42.73:yiRVTPAu0
教室に入ると、一人の少女が箱を持って近付いてきた。
いちご「……席を決めるクジを引いて。」
律「あ、いちごじゃん。また同じクラスだな、よろしく」
いちご「……早く引いてくれない?」
律「相変わらず、愛想の無い奴だな~」ギュッ
いちご「……暑苦しい。」
いちごちゃんは、2年生の時に同じクラスで、大人しい子だった。
物静かだけれど、お姫様みたいに綺麗な容姿は、クラスの中で目立っていた。
その雰囲気が、どことなく澪ちゃんに似ていた。
人見知りの激しい澪ちゃんは、私達がいない時はとっても大人しい。
そんな澪ちゃんも、その容姿の所為か、ただ静かにそこにいるだけで十分な存在感があった。
そんないちごちゃんに、りっちゃんはいつもちょっかいを出していた。
最初は激しく抵抗していたものの、りっちゃんのしつこい攻めは止まらない。
いつの間にか、二人は名前で呼び合う仲になっていた。
いちご「黒板に席の位置と番号が書いてあるから、引いた番号と同じ所に名前を書いて。」
81:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 23:19:48.07:yiRVTPAu0
律「げ、中央の一番前……」
いちご「……。」クスッ
律「あ、笑ったな!」
いちご「……笑ってない。」
律「席代わってくれよ、いちご~」
いちご「やだ。」
唯「私は……窓際の一番後ろ」
和「私は唯の前ね」
澪「ほら、律、席に行くぞ」
私達は黒板に名前を書き込み、自分達の席に着いた。
「平沢さん、だっけ? よろしくね」
私は突然、横の席の子に話しかけられた。
立花姫子ちゃんだった。
82:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 23:22:24.89:yiRVTPAu0
私はその時初めて、姫子ちゃんを間近で見た。
息を呑んだ。その美貌に。
容姿には特に気を使っていない私だけれど、
ウイルスに群がる女の子の気持ちが分かった。
唯「よろしくね、立花さん」
姫子「姫子でいいよ」
笑顔はさらに素敵だった。
唯「私も唯でいいよ、姫子ちゃん」
外見からは少し冷たく見えるけれど、実際はとても優しい女の子だった。
私と姫子ちゃんが親しくなるまで、殆んど時間は掛からなかった。
間も無くして担任の先生がやってきた。
私達の担任はさわちゃん先生だった。
84:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 23:25:42.52:yiRVTPAu0
始業式が終わり、帰りのHRの後、私達軽音部の3人はさわちゃん先生に呼び出された。
そこで、私達が一緒のクラスだったのは、さわちゃん先生の策略だったと聞かされた。
そんな話をしていると、あずにゃんがやってきた。
あずにゃんもさわちゃん先生に呼び出されたらしい。
嫌な予感がした。
その予感は的中した。
さわちゃん先生の表情は一転して陰り、それが私達をさらに不安にさせた。
しばらく沈黙が続き、重い空気が私達を押し潰そうとしていた。
さわちゃん先生は意を決したのか、硬く噤んでいた口をゆっくりと開いた。
さわ子「ムギちゃんね、転校したの」
85:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 23:32:10.24:yiRVTPAu0
私は、「何故?」と聞こうとした。
口を開けて言葉を発せようとした。
しかし、私の口からは音を発する事が出来なかった。
苦しい。息が出来ない。心臓が爆発するかの様に、激しく鼓動した。
私は胸に手を当て、必死に呼吸を整えようとしていた。
周りを見ると、りっちゃんも澪ちゃんもあずにゃんも固まっていた。
さわ子「今日の朝、斉藤さんって執事の方から連絡がきてね、
事情により、彼女のお父さんが外国に行く事になって、
長期になるから、ムギちゃんも一緒にって……」
さわ子「彼女と直接話をしたかったのだけれど、
もう一週間位前に外国に行っちゃってて、連絡出来ないって言われたの。
あなた達が何か知らないかと思って呼んだのだけれど、
その様子じゃ、あなた達も知らなかったみたいね……」
一週間前というと、りっちゃんがウイルスに感染して澪ちゃんと喧嘩をした頃だ。
あの時のムギちゃんには、そんな兆候など全然無かった。
もし、あの時すでに転校が決まっていたとしたら、
あんなに普通でいられた筈がない。
私達は職員室を出て、音楽室に向かった。
86:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 23:35:27.66:yiRVTPAu0
私達は音楽室で呆然としていた。
もうムギちゃんのティータイムは無く、ムギちゃんとの合奏も無い。
ティーセットもキーボードも、何も変わらずここに存在するのに……。
執事の斉藤さんは、それらは学校に寄付するので自由に使って貰って構わない、
と、さわちゃん先生に電話で言ったそうだ。
律「もしかして、私のせいかな……」
りっちゃんが弱々しく呟いた。
皆気付いていた。
ムギちゃんの転校の時期と、りっちゃんが感染した時期が重なっている事に。
澪「違う! そんな事でムギが私達に何も言わないで転校するわけがない!」
梓「そうですよ! それにムギ先輩は家がお金持ちですし、何か別の理由があったんですよ!」
澪ちゃんとあずにゃんは、必死でりっちゃんを慰めていた。
律「でも……」
澪「律が気にする事は無い。それに律以外にだって感染者はいっぱいいるんだ!
それでも、ムギは何も気にせず普通にしてたじゃないか!」
沈黙が流れた。
88:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 23:41:22.80:yiRVTPAu0
唯「ムギちゃんはいつも優しかった。
いつも笑って私達を見守ってた。
例え何があっても私はムギちゃんの友達だし、
ムギちゃんもそう思っていると私は信じてる。
だから、今、私達に出来る事をしようよ」
唯「色々考えて不安になっちゃう事もあるけど、
考えても分からない事を考えていてもしょうがないよ。
私達が今しなくちゃいけないのは、軽音部を守る事だよ。
ムギちゃんがいたこの軽音部を、私達みんなの居場所を……」
澪「唯の言う通りだ。ムギだって軽音部の為にあんなに頑張っていたんだから……」
梓「そうですよ、一緒に頑張りましょうよ……」
律「そうだな……」
89:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 23:42:43.77:yiRVTPAu0
唯「弱気なんて、りっちゃんのキャラじゃないよ」
梓「ですね。サバサバしてて、いい加減で、能天気な律先輩の方が私は好きです」
律「中野~」ギュッ
唯「りっちゃんずるい~私もあずにゃん分補給~」ギュッ
唯「澪ちゃんもおいでよ~」スリスリ
澪「こ、今回だけだぞ」ギュッ
私の目からは大粒の涙が零れ落ちていた。
私はあずにゃんに抱き付いたまま、大声を出して泣いた。
それに釣られて、りっちゃんも澪ちゃんもあずにゃんも泣いた。
これからムギちゃんがいなくても泣かなくて済むように、
私達は涙が枯れ果てるまで泣き続けた。
90:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 23:44:48.75:yiRVTPAu0
それから私達は、毎日一生懸命練習に励んだ。
練習してる時は全てを忘れられた。
ティータイムも続ける事にした。
ムギちゃんがいた時の様な豪華なものではないけれど、
皆で交代でお菓子とお茶を用意して。
時々さわちゃん先生が差し入れを持って来てくれた。
和ちゃんが和菓子を持って来てくれた。
憂が手作りのお菓子を作って来てくれた。
純ちゃんもたまに遊びに来てくれた。
そして新歓ライブ、私達は誰も弾かないキーボードを持って行った。
転校しても、ムギちゃんは放課後ティータイムのメンバーなのだ。
舞台の上の、弾き手がいないキーボード。
新入生達には異様に見えたかもしれない。
それでも、私達にとってはそれが必要だった。
ライブは今までで最高の出来だった。
さわちゃん先生がこの演奏をしっかり録画してくれた。
いつか、この映像をムギちゃんに見て欲しい、心からそう願った。
しかし、新入部員が来る事はなかった。
91:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 23:50:10.47:yiRVTPAu0
新歓ライブが終わった頃、嫌なニュースが流れ始めた。
「噛み付き事件」
私達が健康美白ウイルスと呼んでいたモノが原因だった。
全国で同時多発的に起きたその事件は、連日ニュースを賑わせた。
こんなに話題になる前にも、噛み付き事件は度々起きていたらしい。
しかし、加害者・被害者の人権的観点から、情報は伏せられていた。
それが隠し通せない程、事態は深刻になっていたのだ。
噛み付き事件が表舞台に姿を現すと、
今までの静けさが嘘の様に、メディアはこぞってそれを取り上げた。
そして初めて、私達はそのウイルスの本当の恐ろしさを知る事となった。
その危険性を、パニック防止、人権保護等を理由に国が糊塗していた事も。
その中で私達が一番驚愕したのが、摂食障害とされていた病状の真実……。
「食肉衝動」
この真実は日本中にかつてない衝撃と恐怖を与えた。
一部で真しやかに囁かれていたが、本気で信じる者などいなかった。
都市伝説の類と似たような物と思われていたのだ。
それが今、確かに私達の前に存在していた。
92:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/01/31(月) 23:53:36.47:yiRVTPAu0
連日の報道が、感染者に対する不信感・恐怖感・嫌悪感を高めた。
それは桜ヶ丘高校においても例外ではなかった。
それまで羨望の眼差しを向けられていた感染者達は、
一転して忌み嫌われる存在へと変貌していた。
表向きにその様な態度は表されなかったが、
そこかしこで陰口を叩かれ、その声は私にも聞こえてきた。
誰が最初に言い出したのかは分からない。
食肉衝動、異様な肌の白さ、それらから連想されたのだろう。
いつしか感染者は「ゾンビ」と呼ばれる様になっていた。
「人間」と「ゾンビ」の対立は日毎に悪化の一途を辿っていた。
それが、ゾンビ達の精神的安定に悪影響を及ぼしていた。
93:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 00:00:49.05:oU4XMhGz0
私のクラスは全部で38人、内ゾンビは8人。
人数で言えば、「人間」は圧倒的優位な状態にあった。
他の学年、クラスも大体それ位の割合だった。
故にゾンビ達は肩身が狭く、今の状況を受け入れざるを得なかった。
綺麗で明るくて優しかった姫子ちゃん。
お喋りが好きだった彼女の口数もめっきり減っていた。
目の下には隈ができ、その顔は酷く憔悴していた。
ゾンビに対して、恐怖感が全く無いと言ったら嘘になるかもしれない。
でも、私はそんな事より、窶れていく姫子ちゃんの支えになってあげたいという気持ちが強かった。
私と和ちゃん、りっちゃん、澪ちゃん、姫子ちゃんは教室で一緒にお弁当を食べる様になった。
食肉衝動の所為か、昼食時には特に隔絶感が私達を包んでいた。
この学校で「人間」と「ゾンビ」が一緒に食事をしているのは私達だけだった。
そんな私達を見て、なにやらヒソヒソと話す子達もいた。
でも、私達はそんな事気にしなかった。気にしないようにした。
りっちゃんは姫子ちゃん程ではないけれど、たまに少し疲れている様な顔を見せた。
けれど、りっちゃんはそんな事は無いと言わん許りに、無理に明るく振舞っていた。
澪ちゃんは口数が減った。授業中もノートを取らず、ただただ俯いている。
怖がりな澪ちゃん。でも、ゾンビのりっちゃんを怖がっているワケではない。
私にはすぐに分かった。澪ちゃんはりっちゃんを心配しているのだ。
和ちゃんは普段通りだった。幼馴染だから分かる、和ちゃんの強さ。
何時でも冷静で、優しくて、正義感に溢れている。
いつも私の傍に居てくれる和ちゃん。
だから私は、こんな状況でも安心していられた。
95:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 00:05:18.04:oU4XMhGz0
唯3年 5月20日
そして「あの日」がきた。
桜ヶ丘高校が崩壊した日。
今までの日常が破綻した日。
いつもの様に5人で昼食を取った後、その片付けをしていた時の事だ。
姫子ちゃんが不意に言葉を漏らした。
「軽音部が羨ましい」
りっちゃんと私達の関係を見てそう思ったのだろう。
姫子ちゃんはソフトボール部に所属していたが、そこに彼女の居場所はもう無かった。
それを聞いてりっちゃんは得意気に言った。
「軽音部の絆は永遠に不滅だからな」
その言葉が、あの揉め事の原因となった。
96:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 00:08:31.76:oU4XMhGz0
「絆とか馬鹿みたい」
りっちゃんのその言葉を聞いたクラスメイトの一人が鼻で笑った。
瀧エリちゃんだった。
律「……思いっ切り聞こえてるんですけど。」
エリ「あ、ごめん、聞こえちゃった?」クスクス
律「言いたい事があるならはっきり言えよ。
いつもコソコソ陰口ばっか言ってて恥ずかしくないのかよ」
エリ「は? だから何? てかさ、絆とか言ってるのが可笑しかっただけだから」
律「……何が可笑しいんだよ」
エリ「ちょ、マジで分かんないの? 琴吹だよ、琴吹紬」
97:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 00:11:26.91:oU4XMhGz0
りっちゃんの顔が引き攣った。
私の心臓に、何か鋭い物で突かれた様な痛みが走った。
澪ちゃんも一瞬体をビクッとさせた。
律「ムギがなんだっていうんだよ……」
エリ「みんな噂してるって。あいつんち金持ちだから、一人で逃げたってさ」ケラケラ
律「なっ……」
エリ「あいつは私達より先に知ってたんだよ。
健康美白ウイルスが、かなりヤバイ物だって事をさ。
だから金の力で一人だけ先に安全な所に逃げたんだろ」
律「ちが……」
りっちゃんが言い掛けた所に、エリちゃんが追い討ちを掛けた。
98:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 00:19:32.98:oU4XMhGz0
エリ「あいつはお前らを見捨てたんだよ。
本当に仲間だったら、自分だけ逃げるワケないじゃん。
お前らの事なんて、所詮どうでもいい存在としか見てなかったんだ」
律「それは……」
エリ「違うって言うなら、その証拠見せてみなよ」
律「……もし、お前の言う様にムギが一人で逃げたとしても、
私達はムギが安全な所に逃げられたのなら、それを素直に喜べる。
ムギが私達をどう思っていようが、私達はムギの事を仲間だと思ってるんだ」
エリ「ふぅん、律ってさ……」
エリ「ホントに馬鹿なんだ」クスクス
エリ「そういう独り善がりってさ、ホントにウザイからやめてくれない?」
律「……は? 何だよそれ……」
99:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 00:24:11.97:oU4XMhGz0
エリ「そんな風に考えてるのはお前だけだよ。
お前はさ、もうゾンビだからいいのかもしれないけどさ、
唯も澪も人間なんだよ? お前とは違うの。
内心ではお前の事を気味悪がってるに決まってんだろ……」
唯「そんなこと無いよ!
私もりっちゃんと同じ事を思ってるし、
りっちゃんの事を気味悪いとか思ってないもん!」
エリ「あー、そういえば唯も馬鹿だったね」ケラケラ
和ちゃんが立ち上がり何かを言おうとしたが、私はそれを止めた。
ここで私が和ちゃんを止めていなければ、
あんな事も起きなかったかもしれない。
でも、これは軽音部の問題なんだ。
ここで和ちゃんを巻き込んではいけないと、その時の私は思ったのだ。
100:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 00:29:22.78:oU4XMhGz0
エリ「これ以上『人間』を巻き添えにするのやめてくれない?
澪だって、幼馴染だから傍に居るんだろうけどさ、
ゾンビと一緒とか迷惑だっての。澪が可哀相だと思わないの?」
澪「わ、私は迷惑だなんて思っていない!」
澪ちゃんは小刻みに震えていた。
りっちゃんが激しく責め立てられていたからだろう。
けれど、そんな事はエリちゃんには分からなかった。
エリ「ほら、澪だってこんなに震えてるじゃん」
澪「ち、違う! こ、これは……」
エリ「とにかくさ、お前はもう『人間』じゃないんだからさ、
ゾンビはゾンビ同士でつるんでなって」
律「エリ、お前……」
次の瞬間、りっちゃんの拳がエリちゃんの左頬を強打した。
エリちゃんは机を薙ぎ倒しながら倒れ込んだ。
それを見て、佐藤アカネちゃんがエリちゃんに駆け寄った。
アカネちゃんはエリちゃんの一番の親友だ。
アカネちゃんはりっちゃんを睨み付けていた。
102:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 00:35:36.80:oU4XMhGz0
エリ「いったぁ……こいつ、殴りやがった……」
エリちゃんは口を切ったらしく、血を流していた。
りっちゃんはただ呆然と立ち尽くしている。
教室の空気は凍りついていた。
いちご「律!」
いちごちゃんが、今までに聞いた事の無い声でりっちゃんの名を叫んだ。
りっちゃんは一瞬ビクッとして、我に返った。
いちご「……やり過ぎ。」
律「……ごめん」
いちご「エリは言い過ぎ。」
エリ「……。」
張り詰めた雰囲気の教室に、始業のチャイムが鳴り響いた。
皆それぞれの席に帰っていった。
103:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 00:39:03.66:oU4XMhGz0
5時間目は、先生が体調不良の為自習となった。
いつもなら、自習の時は皆騒いだりするものだが、
昼休みのいざこざが尾を引き、教室は静まり返っていた。
授業の残り時間が半分位になった頃だろうか。
教室内には、ある異変が起きていた。
私の隣の席の姫子ちゃんが、小刻みに震えだしていた。
それは次第に大きくなっていき、ガタガタと机を揺らし始めた。
他にも何人か、震えている子がいた。
岡田春菜ちゃん、飯田慶子ちゃん、小磯つかさちゃん、中島信代ちゃん……ゾンビの子達だ。
唯「……姫子ちゃん、大丈夫?」
姫子「ふうぅぅ……うぅ、ふぅぅぅぅぅぅ……」
呼吸がおかしい。姫子ちゃんは右手で自分の左手を強く握っていた。
よく見ると、右手の爪が左手の肉に食い込み、血が流れている。
只事ではないと直感した。
周りの人も姫子ちゃんを心配そうに見ていた。
唯「姫子ちゃん……?」
姫子「ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛……」
姫子ちゃんは小さく地響きの様な唸り声を出し始め、それは段々大きくなっていった。
次の瞬間、姫子ちゃんはいきなり立ち上がった。
椅子は飛ばされ、教室の後ろの壁に激しく衝突した。
姫子「唯……」
104:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 00:41:22.72:oU4XMhGz0
姫子「唯……唯……ゆい……ゆ…い……」
唯「なに? 姫子ちゃん? 私はここにいるよ……」
姫子「もう駄目だ……もう抑えられない……もう……もう……」
唯「なにが駄目なの? 保健室行く? 和ちゃん、どうすれば……」
私は和ちゃんの方を見た。和ちゃんの顔は恐怖で引き攣っていた。
私が姫子ちゃんの方へ振り返ろうとした瞬間、私の体は何かに押され横に倒れた。
和「唯!!!」
私を押したの和ちゃんだった。
そして私が見たものは、和ちゃんの右手に噛み付いている姫子ちゃんの姿だった。
姫子ちゃんは既に「人間」ではなくなっていた。
教室に悲鳴が響いた。
姫子ちゃんは和ちゃんの腕の肉を喰い千切った。
その反動で和ちゃんは後ろに倒れ込んだ。
血が噴水の様に噴き出している。
辺りは真っ赤に染まっていた。
鉄の匂いが立ち込める。それが引き金になった。
他のゾンビの子達も一斉に近くの子に襲い掛かった。
教室は地獄絵図の様相になっていた。
105:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 00:45:11.81:oU4XMhGz0
和ちゃんの肉を食べ終えた姫子ちゃんが、私達の方に近づいてきた。
目は大きく見開かれ、口は真っ赤に染まり、人とは思えない声を発していた。
姫子「ぅ゛ぅ゛ぅ゛う゛う゛う゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぐぉぉぉぉぉぉぉぉ……」
和「唯!! 下がって!!」
和ちゃんはハンカチで傷口の上をきつく縛っていた。
私の手を引っ張り、自分の後ろへ私を引っ張り込んだ。
そして和ちゃんはシャーペンを握り、姫子ちゃんと対峙した。
次の瞬間、姫子ちゃんが和ちゃんに向かって来た。
和ちゃんは椅子を蹴り飛ばし、それが姫子ちゃんの膝に激突した。
姫子ちゃんが体制を崩したと同時に、和ちゃんは姫子ちゃんに飛び掛り、
深々と姫子ちゃんの目にシャーペンを突き刺した。
姫子ちゃんは物凄い悲鳴をあげ、腕を振り回した。
その腕に和ちゃんが当たり、和ちゃんの体は吹っ飛ばされ宙を舞った。
唯「大丈夫!? 和ちゃん!!」
和「なんとかね……この場から早く離れましょう!」
その時、澪ちゃんの悲鳴が聞こえた。
108:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 00:48:32.09:oU4XMhGz0
澪ちゃんの肩に噛み付いていたのは信代ちゃんだった。
信代「ぐお゛お゛お゛お゛お゛ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
澪「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁ!!!!」
信代ちゃんは澪ちゃんの両腕を掴み、澪ちゃんの体は宙に浮いていた。
澪「痛いいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!」
律「澪ぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
りっちゃんが信代ちゃんの腹部にドラムのスティックを何度も突き刺した。
信代ちゃんは奇声を上げ、澪ちゃんを投げ飛ばした。
そしてりっちゃんを睨み付け、大声を上げながら猛突進していった。
律「唯、和! 澪を頼む!! 私は平気だから」
和「分かったわ!! 行くわよ唯、澪!!」
和ちゃんは澪ちゃんを抱き起こしながら言った。
澪「で、でも律が!! 律ぅぅぅぅー!!!」
律「馬鹿澪! いいからさっさと隠れてろ! ぐっ!!」
信代ちゃんがりっちゃんの首を両手で締め上げている。
りっちゃんの体は宙に浮き、苦しそうに足をバタつかせている。
109:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 00:51:58.43:oU4XMhGz0
律「ぐぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ……」
りっちゃんはスティックを信代ちゃんの首に突き刺した。
それでも信代ちゃんは手の力を緩めない。
りっちゃんは苦痛で顔を歪めた。
和「唯、何してるの!? さっさと行くわよ!!」
私は和ちゃんの声で我に返り、彼女の後を追い掛けた。
教室の入り口付近では、つかさちゃんが曜子ちゃんを食べていた。
曜子ちゃんはまだ生きているのか、手足がピクピクと小さく痙攣していた。
つかさちゃんはふと顔を上げ、私たちの方を見た。
その黒い瞳には、一切の感情が感じられない。
真っ白な顔の口元は、曜子ちゃんの血で鮮やかな紅に染まっていた。
つかさちゃんは虚脱した表情で私を見詰めている。
近くに食料があるからなのか、私達を襲おうとはせず、彼女はまた食事を再開した。
私達は教室を後にした。
他のクラスも似た様な惨状になっていた。
恐らく、私達の教室の血の匂いが伝染していったのだろう。
後ろを振り向くと、私達の教室の前に、全身血塗れの曜子ちゃんが立っていた。
足や手、首などに肉を噛み千切られた傷が無数にある。
大抵の人間は、「完全に死ぬ」前に彼女の様に起き上がる。
大きく目を見開き、瞬きする事も無く、じっとこちらの様子を伺っている。
もはや彼女は人間ではない。
110:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 00:59:19.27:oU4XMhGz0
ふと、廊下から外を見た。
外には、悲鳴を上げながら、血に染まったワイシャツで逃げ惑う女生徒達がいた。
そして、それを追うゾンビの姿……。
そのゾンビ達は、桜ヶ丘高校の生徒だけではなかった。
血の匂いを嗅ぎ付け、どこからともなく湧いて来た者達。
校内にも校外にも、私達にとって安全な場所はどこにもなくなっていた。
緊急校内放送が流れ、生徒は速やかに外へ非難するようにと伝えられた。
しかし、あの情景を見れば、校舎の外が安全などと思えるわけがなかった。
和「生徒会室に行きましょう、あそこはドアも頑丈だし」
私達は校外へ逃げ出す事を諦め、校内に立て篭もる事にした。
澪ちゃんは全身をガタガタと震わせていた。
こんな状態では、外へ逃げ出すのは無理だと和ちゃんは判断したのだろう。
私達は生徒会室に逃げ込み、ドアに鍵を掛け、息を潜めた。
外からは「人間」の悲鳴と、人か獣か分からない奇声が絶え間なく聞こえてきた。
自分は今安全な場所に居る、そう感じた途端、一気に恐怖心が私の体の奥から湧いてきた。
先程までは、その光景が信じられず、まるで夢を見ている様な錯覚に陥っていたのだ。
私は目を瞑り耳を塞いだ。
恐怖で体がガクガクした。
それを止めようと、必死で口唇を噛んだ。
111:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 01:01:54.87:oU4XMhGz0
和「澪、大丈夫?」
澪「だ、大丈夫。和は平気か?」
和「私は大丈夫よ」
和ちゃんは本当に凄い。
酷い怪我をしているのに、他人を気遣う余裕があった。
私はどこにも怪我などしていないのに、頭の中は恐怖心で満ち、
これから自分が何をすべきかも分からずにいた。
真っ白になった頭の中で、私が一つだけ覚えていた事……。
「憂」
憂は無事だろうか。
しっかり者で、頭が良くて、運動神経も凄くて、私とは正反対の憂。
憂なら大丈夫だろうと思ってはいるが、私は不安を拭い去る事が出来なかった。
私を助ける為に怪我をした親友より、自分の妹の事を心配している。
我ながら、なんて薄情な人間だろうと思った。
それでも私は今、憂の事しか考えられずにいた。
112:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 01:04:39.60:oU4XMhGz0
何より早く憂の安否が知りたい。
私は無意識のうちに憂に電話を掛けていた。
コール音だけが鳴り響き、憂が電話に出る事はなかった。
唯(もしかしたら、あずにゃん達と一緒かもしれない)
私はあずにゃんに電話を掛けた。
あずにゃんの事も心配だったのは本当だ。
でも、私は妹の安全を確認する為にあずにゃんに電話を掛けたのだ。
私は最低の先輩だった。
結局、あずにゃんも電話には出なかった。
コールはした。私は、着信履歴見て二人が返信してくる事を待った。
しかし、私の携帯が鳴る事は無かった。
113:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 01:07:28.98:oU4XMhGz0
生徒会室に逃げ込んでから1時間が経過していた。
先程の阿鼻叫喚が嘘の様に、外は静まり返っていた。
泣き叫ぶ「人間」はもういなくなったのだ。
ゾンビ達はさらなる肉を求めて校外に出ていったのだろう。
そろそろ外の様子を見に行こう、和ちゃんが声を出したのと同時だった。
生徒会室の扉をドンドンと叩く音がした。
「お姉ちゃん?」
憂の声だ。
私は一目散に扉に駆寄り扉を開けた。
そこには憂と、憂の肩を借りて立っているりっちゃんがいた。
私は憂に抱きついた。
良かった、憂は無事だった。
その時の私は、憂の腕に小さな噛み傷がある事に全く気付いていなかった。
114:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 01:09:41.68:oU4XMhGz0
澪「憂ちゃん、梓や純ちゃんは無事なのか?」
澪ちゃんが尋ねた。
私は憂の無事を確認して喜んでいた自分を恥じた。
と同時に、あずにゃんや純ちゃんの事で頭が一杯になった。
今更こんな事を言っても信じてもらえないかもしれないが、
私は心の底から二人の無事を願っていた。
憂「分かりません……」
憂が俯きながら、小さな声で答えた。
115:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 01:13:35.13:oU4XMhGz0
憂のクラスは体育で、体育館にいたらしい。
何やら外が騒がしい、何かあったのか。
しかし、始めは誰もがそれ程気にしてはいなかった。
暫くして、血塗れの生徒が体育館に逃げ込んできた。
それを見て、誰もが事態は深刻であると気付く。
だが、その時には既に手遅れたっだ。
そして、その血の臭いをきっかけに、憂のクラスのゾンビ達が凶暴化した。
憂とあずにゃんと純ちゃんは、体育館から無事に逃げ出した。
純ちゃんは、このまま学校を出て、警察に連絡しようと提案した。
あずにゃんもそれに賛同した。
しかし、憂は私を心配し、学校に残って私を探すと言った。
憂はその場で二人と別れ、私の教室に向かったのだ。
そこで憂は、りっちゃんと他のゾンビが乱闘している現場を目撃する。
憂は昇降口から持ってきた傘を武器に、りっちゃんに加勢した。
あの時、憂ちゃんがいなかったらヤバかった、
りっちゃんは苦笑しながら私達にそう言った。
116:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 01:16:53.17:oU4XMhGz0
その後、あずにゃんと純ちゃんの無事を確認した。
ゾンビに噛まれてはいたが、とりあえず生き延びていた。
校庭で憂と分かれた後、憂を追って校舎の中に入ったらしい。
しかし、凶暴化したゾンビに襲われ、止む無く多目的室に逃げ込んだ。
そこから出るに出れず、二人はそこに留まっていたという。
あれだけの騒ぎが起きたにも関わらず、次の日には既に事態は沈静化していた。
凶暴化したゾンビ達も、霧の様にその姿を消していた。
といっても、噛み付き事件が終わったわけではない。
この桜が丘町から隣の町へ、そこからさらに次の町へと、
惨劇の場を移していっただけなのだった。
最初、数の上では圧倒的優位にいた人間達であったが、
ゾンビに致命傷を負わされた者達が凶暴化して蘇ると、
その数の差は瞬く間に逆転した。
他の町では、私達が体験した以上の惨劇が起きている事は間違いなかった。
人間が逃げる。それをゾンビが追っていく。
桜ヶ丘町が平穏になったのは、この町から「人間」がいなくなったからなのだ。
117:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 01:20:42.37:oU4XMhGz0
★4
唯3年 7月17日
またあの日の夢を見た。
あの日から二ヶ月近くも経っているのに、
まるで昨日の事の様に鮮明に頭の中に残っている。
時計を見ると、目覚ましが鳴る10分前だった。
寝汗を掻いてしまったので、シャワーでも浴びよう。
シャワーの後、いつもの様に身嗜みを整え、朝食とお弁当を準備、
起きてきた憂と朝食を食べ、家を出る。
玄関を出ると、いつものように和ちゃんがいて、互いに挨拶をする。
今日も昨日と変わらない、いつも通りの一日が始まる、
この時の私はそう思っていた。
ふと空を見上げると、今にも雨が降り出しそうな程、
黒く厚い雲に覆われていた。
和「午後から激しい雨が降るそうよ」
大丈夫、私はギターに掛ける防水カバーと、傘を2つ持ってきていた。
118:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 01:23:10.79:oU4XMhGz0
教室に入り席に座る。
窓から空を眺めると、雨がしとしとと降り始めていた。
外はまるで夜の様に暗く、それを見ていると私の心まで暗くなる。
早く音楽室に行きたい……。
私はさわちゃん先生が来るのをひたすら待っていた。
さわちゃん先生は、大体8時40分頃に私達の教室に来る。
しかし、今日は遅い。時計は既に9時を回っていた。
心臓の鼓動が早く、激しくなった。
あまりにも遅すぎる。
教室がざめき立ち始めた。
さわちゃん先生は、この学校の最後の教師だった。
そういう意味で、軽音部以外の生徒達にとっても彼女は特別な存在だった。
この場所が今でも「学校」であり続けられるのは、
彼女の存在があったからこそだと思う。
その彼女がいなくなってしまったら……。
私の体は震えていた。
私はどうにかしてそれを止めようとした。
しかし、私の体は荒波に漂う筏の如く、
自分の意思ではどうにも出来ない状態だった。
119:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 01:26:44.14:oU4XMhGz0
突如、停電が起き、教室も街も光を失った。
その時私達は、この停電が一過性のものだと思っていた。
しかし、失われた光が戻る事は無かった。
その理由はすぐに想像できた。
ライフラインを管理する「ゾンビ」達に異変が起きたのだと。
現代の人間は、電気に依存し過ぎている。
それを失えば、私達の生活は根底から崩壊する。
それは人間の精神を破壊するのに十分過ぎる出来事だった。
外からあの声が聞こえてきた。
まるで地獄の釜の蓋が開いたように。
私の脳裏には、あの日の映像がフラッシュバックされていた。
実際、あの日の再現がこの教室で起こりつつあった。
120:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 01:30:34.97:oU4XMhGz0
「世界は終わったんだ!」
「私達はもう終わりだ!」
「こんなのもう嫌!!」
教室から一斉に悲観と絶望に満ちた叫びが響いた。
和「……ここから出ましょう」
和ちゃんの一声で、私達は教室から出る事にした。
私はギターケースを背負い、席を立った。
「待ちなよ」
一人の生徒が私達の前に立ちはだかった。
「なんでお前だけ『人間』なんだよ……」
その子は私を睨み付けた。
その一言にクラス中の視線が集まった。
彼女のその言葉に含まれた意味を、皆即座に理解した。
『一人だけ人間のままなんて許せない』
『お前もゾンビにしてやる』
121:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 01:40:53.79:oU4XMhGz0
律「そこを退けよ……」
律「退けって言ってんだよ!!」
りっちゃんが立ちはだかっていた子を突き飛ばした。
それが乱闘のきっかけになった。
軽音部とクラスの子達の総力戦となった。
りっちゃん達は服の内側に隠し持っていた武器を取り出した。
軽音部の皆はこういう時の為に武器を携帯していた様だ。
そんな事、私は全然知らなかった。
和「近づくな!!」
和ちゃんが叫んだ。初めて聞く怒声だった。
先頭にりっちゃんと和ちゃんが立ち、サバイバルナイフを振り回した。
躊躇している余裕など全く無かった。
二人のナイフがクラスメイト達を切り裂いた。
いちごちゃんとしずかちゃんと澪ちゃんは、私を取り囲み、
近付いてくる子達に容赦なく一撃を浴びせていた。
いちごちゃんは、アイスピックの様な物で相手の顔を狙い突き刺した。
澪ちゃんとしずかちゃんは、果物ナイフのような物を振り翳していた。
それらの一連の動きに、一切の無駄は無かった。
恐らく、私が知らない間にあらゆる事態を想定して、
行動の打ち合わせをしていたのだろう。
この中で私だけが無力だった。
122:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 01:45:03.47:oU4XMhGz0
「おねえちゃん!」
入り口の方から、憂の叫ぶ声が聞こえた。
その手には、大きな出刃包丁が握られていた。
それで憂は近づく者を薙ぎ払い、いつの間にか私のすぐ横に来ていた。
梓「唯先輩!!」
扉付近にあずにゃんと純ちゃんが見えた。
二人はスタンガンの様な物を持っていた。
クラスメイト達は、あずにゃんと純ちゃんが私達の仲間である事を知っていた。
二人が教室に入ろうとするや、彼女達に数人の子が襲い掛かった。
咄嗟にスタンガンを押し付けたが、ゾンビの勢いに圧倒され、二人は押し倒された。
律「梓ぁぁぁぁぁー!!」
その時、アカネちゃん、三花ちゃん、ちかちゃんの3人が、
あずにゃん達に襲い掛かってる子達を引き離した。
そして、そのままその子達と取っ組み合いを始めた。
やっぱり3人は私達の味方だった。
123:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 01:48:34.12:oU4XMhGz0
和「憂、唯を安全な所へ連れて行って! 早く!!」
憂「わかった、和ちゃん!」
憂は私の手を引っ張り走り出した。
あずにゃん、純ちゃん、澪ちゃんが私達に付いてきた。
和ちゃんとりっちゃんは、まだ教室内で戦っていた。
いちごちゃんとしずかちゃんは、アカネちゃん達に加勢していた。
奇声、悲鳴、怒号、それらが混じり合い、学校を覆い尽くした。
それに呼応するかの様に、1年生、2年生が次々と凶暴化し、私達の前に立ちはだかった。
先頭に憂が立ち、行く手を阻む者達を容赦なく皆殺しにした。
ある者には側面から首に包丁を突き刺し、ある者には心臓に包丁を突き立てた。
憂が一刺しすれば、刺された者は瞬く間に崩れ落ち、動かなくなった。
私達は音楽室に向かった。
憂は前方の敵を全て排除し終えると、
今度は素早く後方に移り、追ってくる者達に刃を振るった。
124:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 01:52:07.23:oU4XMhGz0
私達は音楽室の前まで辿り着いた。
階段の下には、私達を追ってきたゾンビ達もいる。
あずにゃんと純ちゃんは、スタンガンを私に手渡し、
入り口に置いてあったバットを手に取った。
梓「唯先輩と澪先輩は中に! 私達はあいつらを食い止めます!」
そう言うと、私を音楽室に押し込め、ドアを閉めた。
澪ちゃんは即座にドアの鍵を閉めた。
梓「私達が言うまで絶対にドアを開けないで下さい!」
純「梓、来る!!」
梓「澪先輩、唯先輩をお願いします!」
そう告げた後、階段を下りて行く音が聞こえた。
ドアの向こうからは、金切り声が絶え間なく響いてきた。
澪ちゃんはソファーに座って震えていた。
怖がりの澪ちゃんにとって、今の状況は耐え難いものの筈だ。
澪ちゃんが私を守るんじゃない。私が澪ちゃんを守るんだ。
私は両手にスタンガンを持ち、音楽室の入り口を見据えた。
125:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 01:55:11.30:oU4XMhGz0
澪「唯……ごめん……」
澪ちゃんが突然小さな声で私を呼んだ。
唯「何? 澪ちゃん?」
澪「唯……ごめんな……」
唯「澪ちゃん……どうして謝るの?」
澪「私は……もう駄目だ……もう耐えられそうにない……。
私もあいつらと……同じになる……」
唯「澪ちゃん……」
私は、ソファーに座っている澪ちゃんの正面に移動した。
澪ちゃんは震えながら、制服の袖を捲り上げ、自らの右腕にナイフを突き刺していた。
唯「澪ちゃん! 何してるの!?」
澪「もう駄目だ……痛みでも抑えられないんだ……」
澪ちゃんの右腕の肉は削げ落ち、白い骨が見えていた。
126:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 01:59:01.97:oU4XMhGz0
私はその傷を見て、全てを理解した。
何故澪ちゃんがベースを弾かなくなったのか。
弾けなかったんだ。
あの様子では、右腕の神経は完全に切断されている。
澪「私は弱い人間なんだ……律みたいに強くなれないんだ……。
唯の事が大好きだったから、唯を傷付けない様に頑張った……。
私がもっと唯を好きだったら……もっと頑張れたかもしれない……。
ごめん唯……ごめんな唯……」
澪ちゃんは俯き、呻き声を上げた。
私の目から涙が溢れた。
あの痛がりの澪ちゃんが、血を見るのが怖い澪ちゃんが、
骨が見えるまで自分の腕を傷付けていたんだ……。
私を傷付けない為に、自分をこんなに傷付けていたんだ。
それなのに……それなのに澪ちゃんは私に謝るなんて……。
澪ちゃんはこんなに頑張ってくれた。私なんかの為に。
彼女が私に謝る事なんか何一つ無い。
むしろ私が謝らなければならないのに。
127:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 02:03:33.50:oU4XMhGz0
私は澪ちゃんを抱きしめた。
ごめん、ごめんね澪ちゃん……。
澪ちゃんの腕がこんなになっても気付かないでいてごめんね。
嗚咽しながら、私は澪ちゃんに謝罪を繰り返した。
恐らく、他の皆も同じだろう。
私が考えている以上に、皆の病状は進行している。
そして、衝動を抑える為に自らを傷付けているのだ。
痛みで自我を保っていたんだ。
だから、夏なのに冬物を着ていたんだ。
自らの傷を隠す為に……私に悟られない様に。
思えば、私は憂の腕の肌すらずっと見ていない。
憂はいつからか、家でも常に長袖の服を着ていた。
そんな妹の変化にも気付かなかったなんて。
皆、自分を犠牲にして私を守っていたんだ。
私はそんな事も露知らず、自分の事ばかり考えていた。
私はなんて罪深いのだろう。
128:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 02:06:04.08:oU4XMhGz0
その時、ドアを叩く音がした。
律「澪、唯、私だ! 駐車場に行くぞ! 和達が車で待機してる!」
私はドアまで走り、鍵を開けた。
ドアを開けると、りっちゃんとあずにゃんと純ちゃんが立っていた。
唯「りっちゃん……澪ちゃんが……澪ちゃんが……」
律「澪がどうした? 澪?」
ソファーに座ったまま、澪ちゃんは立とうとしない。
律「何してる澪、行くぞ!」
澪「私は行けない……律、唯を任せたぞ……」
律「何言ってんだよ澪! お前も来い!」
澪ちゃんは静かに立ち上がり、こちらを見た。
右手からは血が滴り落ちている。
それを見て、りっちゃんも理解した。
律「澪……」
りっちゃんは澪ちゃんに近寄り、力強く抱き締めた。
129:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 02:07:43.98:oU4XMhGz0
律「唯、行ってくれ。梓、純ちゃん、唯を頼む」
梓「……分かりました。」
あずにゃんが私の手を引っ張った。
私はそれに抵抗する事も、何か言葉を発する事も出来ずにいた。
ただただ、私は引き摺られる様に歩いた。
澪「何で……律が……まだここにいるんだ……?」
律「お前を残して行けるわけないだろ……」
澪「律は強いな……私達よりずっと前に感染しているのに……」
律「私が居なくなったら、澪は一人じゃ何もできないだろ……」
澪「律には……食肉衝動が無いのか……?」
律「……。」
130:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 02:09:50.57:oU4XMhGz0
澪「あるんだな……。いつからだ……? どうして今まで……何も言わなかったんだ?」
律「……それを言ったら、お前が怖がるだろ……」
澪「律なら……怖くない……。何があっても……お前なら怖くなんてない……。
ゾンビになっても……私はお前にずっと傍に……いて……欲しかったんだ……」
律「そっか……。私はお前の傍にいていいんだな……?」
澪「当たり前だろ……馬鹿律……」
律「なら、私はずっと澪と一緒にいるよ……」
澪「ありがとう、律……」
律「……馬鹿。」
澪「律……」
律「何だ、澪?」
澪「律……私を……殺して……くれないか……?」
131:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 02:13:22.46:oU4XMhGz0
外は激しい雨になっていた。
駐車場に着くと、憂が私達を見つけて手招きをしている。
その近くの車から、エンジンを掛ける音が聞こえた。
運転席には和ちゃんが乗っているのが見える。
あの日に死んだ教師のスポーツワゴンだ。
和ちゃん達は、事前に車のキーを確保していたらしい。
いざという時に、車で逃れる為に。
和「いちごとしずかは来ないわ。早く乗って!」
二人は怪我をしたアカネちゃん達を残して行けなかったらしい。
ゾンビ達……崩壊者達がすぐ後ろに迫ってきていた。
憂は助手席に、私達3人は後部座席に乗り込んだ。
和「しっかり掴まってなさい!!」
和ちゃんは勢いよくアクセルを踏み込んだ。
私達は、その衝撃で座席に体を打ち付けた。
和ちゃんは、立ち阻む者達を勢いよく跳ね飛ばした。
フロントガラスにはヒビが入ったが、そんな事はお構いなしだった。
純「和先輩って運転出来たんですね」
和「操作の仕方はネットで調べたわ」
梓「この辺はもう駄目ですね……」
和「そうね。それじゃあ、梓の家に行くわね」
132:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 02:17:20.81:oU4XMhGz0
私達はあずにゃんの家に来た。
家の広さ、構造から、何かあった時はここに避難する予定だったという。
窓やドアは頑丈に補強されていて、食料や日用品、武器等が貯めてある部屋もあった。
ここに立て篭もれるよう、少しずつ皆で集めていたらしい。
またしても、私の知らない所で物事が進んでいた。
こういう計画は、主に和ちゃんとりっちゃんが立てていたらしい。
私達はあずにゃんの部屋に集まった。
梓「電気とガスは駄目です。水道はまだ平気みたいですね」
和「ここに来るまでの街の様子からみて、この街はもう終わりね……」
憂「……」
純「……これからどうします?」
和「街を出るしかないわね……」
梓「行く当てはあります?」
皆の家族は既にいなくなっていた。
携帯の連絡がつかない事から、
死亡しているか、崩壊者になっている可能性が高かった。
私の両親もずっと音信不通だ。
133:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 02:19:12.78:oU4XMhGz0
和「都市部なら物資は豊富だろうけれど、その分、危険かもしれないわ。
地方の方が、人が少ないから安全性は高いと思う。
それに、場所を選べば自給自足だって可能よ」
純「サバイバル……ですか?」
和「問題無いわ」
梓「和先輩がそう言うと、何か安心できますね」
憂「和ちゃんは何でもできるんだよ~」ニコ
和「フフフ、ありがとう」
和ちゃんは小さい頃から何でも出来た。
和ちゃんが問題無いと言うのなら、その通りなのだろう。
それに比べて私は……。
唯「ちょっとお手洗いに行ってくるね」
134:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 02:21:43.85:oU4XMhGz0
私はそんなに切り替えが早く出来る人間ではなかった。
ここに居ない友人達の事を考えると、胸が苦しくなった。
何も出来ない私が、こんな事を言える立場じゃないのは分かっている。
私が一番皆の足を引っ張っていた事も自覚している。
その事を思うと、私は眩暈がし、吐き気を催した。
私はトイレで何度も嘔吐した。
暫くすると、胃から吐き出す物は何も無くなっていた。
部屋に戻ろうと扉の前まで来ると、中から会話が聞こえてきた。
純「……唯先輩をゾンビにすべきです」
私はドアノブに手を掛けようとしたが、それを止めた。
135:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 02:27:19.72:oU4XMhGz0
梓「純、あんた何言ってんの? そんな事出来るわけないでしょ!?」
純「じゃあ、これからずっと唯先輩を守っていけるの?
澪先輩だってああなっちゃったんだよ?
もしかしたら、私達が唯先輩を殺しちゃうかもしれないじゃん!」
憂「……。」
和「梓も純も落ち着いて……」
純「私達だって、いつ凶暴になるか分かんないでしょ?
みんな痛みで症状を紛らわせて隠してるだけじゃん!
唯先輩がゾンビになれば、少なくとも襲われる事は無いんだよ?
他の奴らにも、私達にも! 私の言ってる事、間違ってる?」
梓「そ、それは……」
和「純……。私も憂も、唯をゾンビにする気は無いわ。
私達は、何があっても唯を守り続けるから」
純「和先輩達はいいですよ。
和先輩は唯先輩の幼馴染だし、憂は妹だし。
唯先輩に対する想いが強いから、自我を保てるでしょうね。
でも、私と梓は違うんですよ。
この中で凶暴化するとしたら、まず私で、次に梓でしょう?
そうしたら、和先輩はどうしますか?」
和「私は……貴女達が凶暴化したら、躊躇無く貴女達を殺すわ」
136:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 02:32:09.05:oU4XMhGz0
純「でしょうね。貴女にとって大切なのは唯先輩と憂ですもんね。
私と梓なんて、邪魔になったらいつでも切れるんでしょ?
貴女にとって、私達はその程度の存在なんですよね。
私だって、貴女が梓を殺そうとするなら、貴女を殺す事に躊躇しませんから。
ぶっちゃけ、私達と和先輩の人間関係なんてそんなもんですから、ねえ?」
憂「純ちゃん……」ポロポロ
梓「そんな事言うのやめてよ純……」ポロポロ
純「私は梓の為に言ってるんだよ。
梓が唯先輩を大好きなのは分かってる。
でも、和先輩や憂に比べたら、その気持ちは敵う筈が無い。
だとしたら、そのうち梓も唯先輩を傷付けるかもしれないんだよ?
大好きな唯先輩を傷付ける事になってもいいの?」
梓「それでも、私は唯先輩にゾンビになんかなって欲しくない……。
私が凶暴化しても、憂と和先輩が唯先輩を守ってくれる……。
私は唯先輩の為なら……死んでもいいの!」
純「何で梓はそこまで……私達がゾンビになったのだって、唯先輩のせいじゃん!」
唯「それってどういう事……?」
私は純ちゃんの言葉を聞いて、無意識のうちにドアを開けていた。
梓「唯先輩……」
137:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 02:34:34.75:oU4XMhGz0
純「私達は憂を追い掛けて校舎に入った後、
ゾンビに襲われて多目的室に隠れたって言いましたよね。
その時は私達、まだ噛まれて無かったんですよ。」
梓「純……やめて……」
純「物陰に隠れて、ゾンビ達をやり過ごそうとしてたのに……」
梓「もう……やめてよぅ……」
純「唯先輩、梓に電話したでしょ?」
梓「やめてぇぇぇぇぇぇー!!」
唯「あ……あぁ……」
139:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 02:35:54.92:oU4XMhGz0
純「バイブって、静かな所だと結構響くんですよ……音が」
唯「あぁ……あぁぁぁぁ……」
純「唯先輩の電話のせいで、私達ゾンビに見つかって噛まれたんですよ!!」
唯「うああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
私は目の前が真っ暗になって、その場に倒れ込んだ。
憂「お姉ちゃん!!!」
唯「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……
ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……
ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
私はそのまま意識を失った。
140:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 02:39:14.02:oU4XMhGz0
どの位眠っていただろうか。
目を覚ますと、私はあずにゃんのベッドの上にいた。
横を見ると、憂がベッドに寄り掛かり、居眠りをしていた。
憂にもちゃんと毛布が掛けられていた。
和「目が覚めた?」
唯「……あずにゃんと純ちゃんは?」
和「別の部屋にいるわ……」
時計の針を見ると、午後の4時を指していた。
唯「和ちゃん……もう無理だよ……」
和「大丈夫、唯は何の心配もしなくていいのよ……」
唯「嫌だ……もう嫌だ……限界だよ……」
和「大丈夫、大丈夫だから……。唯なら絶対大丈夫だから……」
唯「何で和ちゃんはそんな事言うの……?
酷いよ……。私は和ちゃんみたいに強くないから……」
和「私は強くなんかないわ……出来る事をしているだけなの」
和ちゃんの目からは涙が溢れていた。
和ちゃんは私を強く抱きしめた。
141:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 02:41:47.27:oU4XMhGz0
和「唯がどんなに辛いか分かってる。
唯がどんなに悲しんでいるのかも分かってる。
それでも、私は唯に人間のままでいて欲しいの。
私が唯にお願いする、最初で最後の我侭なの。
お願い唯、最後まで諦めないで。
唯が諦めてしまったら、私も諦めてしまうから。
唯が諦めなければ、私は私のままでいられるから……」
唯「ずるいよ和ちゃん……。
私は今までずっと和ちゃんに迷惑を掛けてきたから……、
そんな事を言われたら……私は和ちゃんに逆らえないよ……」
和「私はずるい女なのよ……」
唯「和ちゃんの意地悪……」
和ちゃんは私の頭を優しく撫でてくれた。
唯「和ちゃん、左腕を見せて……」
和ちゃんは制服を脱ぎ、ワイシャツを捲くって腕を見せてくれた。
広範囲に包帯が巻かれ、その包帯は血で黒く染まっていた。
それはゾンビ達に因るものではない。
その傷は、和ちゃんの自傷行為に因る物だ。
142:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 02:47:17.11:oU4XMhGz0
唯「私は和ちゃんをこんなに傷付けていたんだね……。
和ちゃんだけじゃない、他のみんなも、私が傷付けていたんだ……。
ごめんね……ごめんね和ちゃん……」
和「唯……、これは傷なんかじゃないわ。
これはね、私がまだ人間であるという証なの。
大好きな人を守ったという勲章なのよ。
私はね、何があっても最後まで人間でいたいの。
確かに、体はウイルスに侵されてゾンビになってしまったかもしれない。
でもね、心は……心だけは、絶対にゾンビになんかなったりしないわ」
その時、ドアの向こうから啜り泣く声が聞こえてきた。
ドアが開き、あずにゃんと純ちゃんが入ってきた。
和「……聞いてたの?」
梓「ごめんなさい……」
143:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 02:49:40.66:oU4XMhGz0
純「ごめんなさい、和先輩……。
私、和先輩の気持ちなんて、全然考えてませんでした……。
ただ自分が苦しくて、辛くて、どうしようもなくて、
梓の為とか言って、自分の不満をぶつけていたんです……」
純「ごめんなさい、唯先輩……。
唯先輩は悪くないって分かってるんです……。
誰かの所為にしてしまいたかっただけなんです……。
ごめんなさい……ごめんなさい……」
純ちゃんは大声を出して泣き出してしまった。
和ちゃんは純ちゃんを抱きしめた。
その声で憂は目を覚ました。
憂「純ちゃん、泣かないで……」
憂も純ちゃんを抱きしめた。
私もあずにゃんも、純ちゃんを抱きしめた。
私は、軽音部の4人で抱き合って泣いた日の事を思い出していた。
その日、私達は涙が枯れるまで泣き続けた。
泣き疲れた私は、そのまま眠りに落ちてしまった。
144:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 02:54:26.98:oU4XMhGz0
翌日朝7時、私達は目覚ましのベルで目を覚まし、
身支度を整え、この街を出る為の準備に取り掛かった。
朝食を済ませた後、あずにゃんの家の大きなワゴン車に必要な物を詰め込んだ。
和「それじゃあ、出発しましょう」
目的地は長野の軽井沢に決まった。
以前、そこに核シェルターを作ろうという話があったのを、
ネットで見た気がすると、あずにゃんは言う。
誰もそんな話を信じているワケではないけれど、
どうせ行く当てもない旅だ。
もしかしたら、本当にそれがあって、
そこに避難している人達がいるかもしれない。
そんな淡い夢を見ていた。
カーナビを軽井沢駅にセットして、私達は軽井沢へと向かった。
今回は安全重視の為、法定速度以下のスピードで走っていた。
その途中で、私達はこの国で起きている惨状を目の当たりにする。
荒れ果てた街並み、放置されたままの死体……。
桜ヶ丘町はそれらに比べれば断然ましだった。
途中、瓦礫や放置された車によって通行出来ない道もあった。
迂回したり、車から降りて障害物を取り除いたり……。
軽井沢駅に着く頃には、すっかり辺りは暗くなっていた。
145:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 02:59:49.76:oU4XMhGz0
和「ここも電気は駄目みたいね。
電気が無いと、建物の中は暗くて危険だわ。
今日は車内で寝ましょう」
和ちゃんは、車を駅の駐車場に止めた。
今日はここで一泊する事になる、誰もがそう思っていた。
そんな時、駅の方から人影が近付いて来るのが見えた。
唯「誰か近付いてくるみたい……」
皆武器を手にした。私も両手にスタンガンを握った。
けれど、昨日スタンガンを手にしたあずにゃんが、相手に押し倒されている所を思い出し、
私は2つのスタンガンをポーチの中にしまい、代わりに金属バットを手にした。
私達は息を潜めて、相手の出方を伺っていた。
どうやら、こちらの存在に気付いてはいないらしい。
人影は私達の車から離れていった。
しかし、安心してはいられなかった。
駅の中から次々と人影が現れたのだ。
耳を澄ますと、奇妙な声が聞こえてくる。
私達は確信した。彼等は「人間」じゃない。
幸いにも、彼等は私達に気付いていなかった。
このまま息を潜めていればやり過ごせる、そう思っていた。
その時、荷物の中の目覚まし時計が鳴り響いた。
時計は7時を示している。
今日掛けた目覚ましを完全に止める事を忘れていた。
146:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 03:03:01.93:oU4XMhGz0
私達に気付いた彼等は、奇声を発しながら物凄い勢いで私達に向かって来た。
和ちゃんはエンジンを掛け、一気にアクセルを踏み込んだ。
どこに向かうのかなど、考えている余裕は全く無かった。
とにかく、この場が離れる事だけを考えていた。
道なり数百メートル進んだ所で、突然車は停止した。ガス欠だった。
後ろを見ても、彼等の姿は見えない。
しかし、彼等が発する奇声は、確実に私達に近づいて来ていた。
和「車は捨てて行きましょう!」
私はギターケースとポーチ、バットを持って車を降りた。
暗闇の中、私達はただ只管に走った。
梓「あの建物に隠れましょう!!」
そこはこの街の公民館だった。
148:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 03:06:15.06:oU4XMhGz0
私は入り口のガラス戸をバットで破壊した。
私達は、その公民館の最上階である3階の一室に身を潜めた。
その部屋は見晴らしが良く、私達が走ってきた道路を見渡せた。
また、バルコニーには非常階段が設置されていて、
万が一の時には、素早く外に逃げる事も可能だ。
和ちゃんとあずにゃんは、そこから外の様子を伺っていた。
暫くして、二人が部屋に戻ってきた。
和「アイツ等は私達を見失ったみたいよ」
梓「明日になったら、一度荷物を車に取りに行きましょう」
和ちゃんは頷いた。
和「軽井沢って、夏なのにこんなに涼しいのね。
今日がずっと曇りだったからかもしれないけれど。
毛布か何か無いか、ちょっと探してくるわ」
梓「私も行きます」
二人は部屋から出て行った。
149:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 03:09:26.74:oU4XMhGz0
和ちゃんの言う通り、ここは凄く肌寒かった。
あの日以来、あまり私に寄り添う事の無くなった憂が、
ぴったりとくっ付いて、うつらうつらとしていた。
その様子を、純ちゃんが部屋の隅っこで一人体育座りをして見ていた。
唯「純ちゃんもこっちにおいで……」
純ちゃんは立ち上がり、私の横に来てちょこんと座った。
純ちゃんは私の肩に頭を寄り掛からせた。
もこもこの髪の毛が私の顔に当たり、少し擽ったかった。
私は二人を優しく抱き抱えた。
唯「あったか、あったかだよ……」
純「あったかいです……」
純ちゃんは小さく呟いた。
私はそのまま眠りに落ちていた。
150:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 03:12:04.34:oU4XMhGz0
ふと、目が覚めた。
外は既に明るくなり始めていた。
私達は、いつの間にか毛布を掛けられ、布団の上に綺麗に寝かされていた。
右には憂と和ちゃんが、左には純ちゃんとあずにゃんが小さな寝息を立てていた。
私は彼女達を起こさぬよう、静かに布団から出た。
部屋からこっそりと抜け出し、私はお手洗いに向かった。
用を足し、手を洗っていると、廊下の方から物音が聞こえた。
唯「誰?」
私が廊下に出ると、そこには血塗れの巨漢が立っていた。
男は私を無感情な目で見詰め、次の瞬間、奇声と共に私に襲い掛かってきた。
私は反射的に悲鳴を上げた。
私の声に反応して、皆が部屋から飛び出してきた。
私は男から離れようとしたが、すぐに掴まってしまった。
男は私の首を両腕で締め上げる。
憂「お姉ちゃん!」
和「唯!」
梓純「唯先輩!!」
4人は一斉に巨漢に飛び掛り、男の腕を私から引き離そうとした。
151:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 03:14:11.09:oU4XMhGz0
急いで来た為か、誰も武器を持っていなかった。
腕力には圧倒的な差があり、男の手はなかなか私から離れない。
私は目の前が真っ白になり、意識が朦朧としていた。
純ちゃんが男の腕に思いっ切り噛み付き、
あずにゃんが男の目に指を突き刺した。
刹那、私は重力を失った。
私は男に投げ飛ばされ、壁に頭と体を打ち付けた。
唯「ううぅぅぅ……」
男は奇声を上げ蹌踉めき、手摺りから階下へ落下していった。
私の名前を呼ぶ声がしたけれど、頭がぼーっとしてよく分からない。
私はそのまま意識を失った。
次へ
私の名前は平沢唯。
私立桜ヶ丘高校に通う3年生だ。
高校から始めた軽音部のガールズバンドでギターをしている。
バンド名は放課後ティータイム。
その名の如く、放課後の部活時間にお茶を飲む事から付いた名だ。
私はそのまったりとしたティータイムが大好きだった。
練習時間よりお茶を飲む時間が長く、周りからはよく何部なのかと冷やかされたけど、
合宿にライブと、それなりに部活らしい事もした。
バンドの仲間は皆良い子達ばかりで、私のかけがえの無い友人となった。
そんな私の高校生活は充実していた。
しかし、その楽しい高校生活はある日突然無くなってしまったのだ。
「おはよう、お姉ちゃん……」
妹の憂が起きて来た。
唯「おはよう憂。ほら、涎垂れてるよ~」
憂「う~?」
私は妹の口元をハンカチで優しく拭った。
唯「女の子なんだから、ゾンビになってもこういう所は気を付けなきゃ駄目だよ?」メッ
憂「えへへ、ありがとうお姉ちゃん」ニッコリ
唯「おにぎり作ったから、一緒に食べよ?」
憂「うん」ニコ
唯「おいしい? 憂」
憂「うん、お姉ちゃんの作ったマシュマロおにぎり凄く美味しいよ」ニコ
ゾンビになっても、私の唯一の妹である事に変わりはない。
憂と一緒に食事をする事が、今の私にとって一番の安らぎだった。
唯「あ、憂、ご飯粒がほっぺに付いちゃってるよ~」
憂「あう~?」
唯「お姉ちゃんが取ってあげるね」ヒョイ
憂「ありがと~」ニコリ
唯「食べ終わったら歯磨きして、一緒に学校行こ?」
憂「うん!」ニコ
私は、本当は学校になんて行きたくなかった。
だって、あの学校に「人間」はもう私しかいないのだから。
事の発端は、私が2年生の夏休みに入って間もない頃。
米国で起きた、世界有数の大手製薬会社で起きた爆発事故。
新聞やテレビ、ネットでも大々的に取り上げられた。
死者は千数百人に上り、全メディアが悲劇と謳い悲しみを煽ったが、
今にして思えば、そんなのはそれから起こる惨劇の些細な序章に過ぎなかったのだ。
爆発から二ヶ月後、米国で「噛み付き病」と呼ばれるものが流行りだした。
識者達は、人が人に喰らい付く、狂犬病の様なものだと説明した。
そして、近いうちに予防薬・治療薬が出来て沈静化するだろう、という見解を示した。
しかし、実際は狂犬病程度で済む問題ではなかった。
識者達の見解は、最悪の方向に裏切られたのだった。
まず、このウイルスに対する薬は、そう簡単に出来るものではなかった。
その上、「噛み付き病」は非常に厄介な性質を持っていたのである。
「噛み付き病」の性質
1 感染経路
「噛み付き病」は、保菌者に噛み付かれる事によって感染する、ウイルス感染症である。
ウイルスは唾液に最も多く含まれ、それが直に血液中に入ると100%感染する。
このウイルス事態は非常に脆弱で、唾液と共に体外に排出されると、ものの僅かで死滅してしまう。
即ち、保菌者に直接噛まれなければ、感染する事はまずないのだ。
また、このウイルスは人間にしか感染しないらしい。
2 潜伏期間
潜伏期間と発症するまでの時間は、傷の状況や個人差によって大きく異なる。
傷が深く大量のウイルスが血液中に入れば、感染後数分で噛み付き行動をする事も有り得る。
正確な期間は分かっておらず、中には発生当時に感染しているにも関わらず、
未だ噛み付き行動を起こしていない人もいるのだ。
しかし、それらは間違った解釈だった。
症状の項でも述べるが、実際は感染と同時に発症もしていたのだ。
3 症状
感染者かどうか見分けるのは、非常に簡単だ。
感染すると、徐々に皮膚の色素が抜けていき、およそ一週間で雪の様に白くなる。
日本人同士であれば、一瞥しただけで感染者か否か判別出来るだろう。
次に、生命力・運動能力の向上。
このウイルスは、生物の生命活動を爆発的に高める作用があるらしいのだが、
その所為か、常人ではありえない身体能力と回復力を持つのだ。
故に、噛み殺された筈の人間がすぐに息を吹き返し、近くの人間を襲う事もあったとか。
その様は、病気のそれというよりもむしろ「ゾンビ」といった方が正しいかもしれない。
その分燃費が悪くなり食欲が増すのではないか、という指摘には一応「YES」と答えよう。
実際には、消化・吸収効率が格段に上がり、それ程大食いにはならない。
また、その所為か排便・排尿が減るようだ。
そして、感染すると「食肉」の欲求が尋常でなく高まってゆく。
この「食肉」とは、私達人間が普段食べている肉では全く駄目なようなのだ。
理由は分からない。ただ、体が、脳が欲するのだという。
人 間 の 肉 を 。
それは例えるなら、薬物中毒患者が欲する「薬物」を「人肉」に変えると分かり易いだろう。
では、感染者同士の共喰いはあるのか?
答えは「NO」だ。
感染者同士は、外見ではない「何か」で互いを認知出来るらしく、互いの肉を喰い合う事はない。
肉好きの人間でも、普通は人肉を食べたがらないのと同じ理屈だそうだ。
それはつまり、「感染者と非感染者は異なる生物」という事を意味するのだという。
しかし、この食肉衝動は理性で抑える事が出来るらしい。
それこそが、この病の最も恐ろしい所なのだ。
感染者と非感染者の違いは何か。
肌の色?そんなものは非感染者同士だって大いにある。
生命力・運動能力だって、当然個人差がある。
決定的に違うのは、「食肉衝動」この1つである。
ウイルス感染だが、噛み付かれない限り感染する危険性は0だ。
即ち、理性で食肉衝動を抑えられさえすれば、感染の危険はない。
普通の人間となんら変わりは無いのである。
エイズの人間はどうか。
保菌者を危険な存在として隔離する事を、現在の国際社会は是とするだろうか。
刑期を終えた薬物中毒患者はどうなる?
病院に通いながら中毒を克服しようとする人間を、危険因子とし刑務所に拘留し続けるべきなのか。
精神病患者が殺人を犯した場合はどうなる?
現在の日本の法では、刑事責任能力が無ければ無罪だ。
酒癖の悪い人間に、酒を飲むなと強制する事は可能か?
では、酒癖の悪い人間は無害と言えるのか。
人によって考えはそれぞれだろう。
しかし、確実に言える事がある。
もしこの人達を隔離・規制しようとすれば、
世界中の自称人権団体なる者達が一斉に騒ぎ立てるだろう。
人権を、平等を、と。
ならば、この「噛み付き病」の感染者をどう扱えば良いのか?
世界はこの病を持て余した。
この病がどの程度危険で、どの程度の規制を掛ければいいのか。
理性の弱い人間はまさに狂犬、感染してから数日のうちに大量殺人を起こすケースもあった。
理性の強い人間は、未だ普通の人と変わらぬ生活を送っている。
犯罪を犯す人間と犯さない人間の違いは何か?
それは理性の強さだ。
悪いのは病気ではなく、理性を持たぬ人間の方なのだ、世界はこう結論付けた。
つまりは、患者の人権を優先すべきという事である。
人の驕りが楽観的視観を助長する。
所詮は狂犬病と似たようなもの、治療薬だって今の科学技術があればすぐに開発される筈だ。
この瞬間、人類滅亡への序曲が始まったのだ。
当初、世界に表立った変化は無かった。
所謂「噛み付き事件」なるものが米国で起きる事はしばしばあったが、
全米の凶悪事件の割合から見れば、取るに足らない程度のものだった。
また、その頃はこの事件の関連での死者が少ない事が、その存在を薄めた。
人間が人間を噛み殺すというのは、非常に労力のいる行為だ。
噛まれる場所にもよるが、腕や足に噛み付かれ、肉を削がれた程度で人間は死なない。
「噛み付き事件」を起こす人間(ゾンビ)に理性は無いし、
肉食動物としての野生があるわけでもない。
所構わず周囲の人間に襲い掛かり、その肉を噛む。ただそれだけだ
噛まれる方も抵抗するから、肉体的に優位に立つ感染者でもそうそう決着は付かない。
その間に周囲の人間が止めに入り、いずれは警官も到着する。
多勢に無勢、いくら屈強な男であろうと、数で圧倒されればなす術もない。
傷害事件発生、犯人確保。それで終わりだ。
しかしそれが、結果として死者が出るよりも恐ろしい事態を招いた。
保菌者の爆発的増大。
そして、ある現象に注目が集まり始める。
「スポーツにおける噛み付き病感染者の優位性」
噛み付き病感染者は、筋組織に特殊な変化が起こり、
常人よりも遥かに優れた運動能力を手にする事が出来るのだ。
また、怪我をしても、その直りが常人よりも遥かに早い。
スポーツ界では、保菌者に金を払って感染させて貰うという事態にまで至った。
さらには、スポーツ選手を目指す子供に、親が故意に感染させるというケースすら発生し始めた。
流石に事態を重く見た米政府は、
故意による噛み付き病感染の全面禁止を決定する。
しかし、故意かどうか見分けるのは至難な上、
それはもはや米国一国で済むような問題ではなくなっていた。
スポーツ選手を目指す近隣諸国の人達が、保菌者を求めた。
闇のブローカーがその願望を実現させた。
新たなる人身売買、しかも売られる方が非人道的扱いを受けるわけでもなく、むしろ高待遇だ。
人の欲望がこのウイルスを世界に蔓延させた。
唯2年 1月15日
このウイルスが日本社会に蔓延するキッカケを作ったのは、ある女子高生だった。
帰国子女と名乗るその女子高生は、詳しい経緯は語らなかったが、
米国で噛み付き病ウイルスに感染したらしい。
日本人離れした、その白く透き通った肌は、画質の悪い投稿動画でも十分に伝わる程だった。
その子は言った。感染した事でニキビ等で酷かった自分の肌が、こんなにも綺麗になったと。
感染前と感染後の比較を映したその動画は、各動画サイトに転載され、大きな反響を呼んだ。
ただの比較動画なら、これ程の反響は無かっただろう。
この5分弱の動画の人気の本質は、最後の10秒に凝縮されていた。
「交通費+1万円で噛み付き病ウイルス売ります。東京在住。メルアドは……」
動画はすぐに運営によって削除された。
けれども、一度流出した動画を止める事は不可能だった。
某有名匿名掲示板では、連日この話題で賑わっていた。
その動画の内容が、真実なのか否か……。
そんな事を必死に議論した所で、答えなど出る筈がなかった。
分かっているのは、その動画が存在したという事実だけ。
その内容が真実かどうかなど、当事者以外に分かる筈が無い。
実際の所、それが真実であろうが無かろうが、彼らにとってはどうでもよい事なのだ。
彼らにとっての情報とは、所詮暇つぶし程度のモノでしかないのだから。
ネットには情報が氾濫している。
しかし、必ずしもそれらの情報が真実とは限らない。
もちろん、それはその他のメディアについても言える事だ。
ただ、ネットでは誰でも自由に、簡単に情報を発信する事が出来る。
噂話や迷信すら、あたかも事実の様に語る事すら簡単なのだ。
愉快犯がとんでもないデマを流す事も日常茶飯事である。
それ故、ネットの情報は信頼性が低いと言わざるを得ないのだ。
逆に、組織じゃないからこそ出てくる驚愕の真実、スクープもある。
情報流出を未然に防ぐ事が不可能だからだ。
そんな重大な情報でも、彼らにとってはどうでもいい事なのだ。
それを知った所で、彼らに出来る事など何も無い。
所詮はただの傍観者に過ぎないのだから。
「ああ、そうだったのか」と思った所で、現実は何も変わらない。
ついには、その女子高生に実際に噛まれてきたという者まで現れ始めた。
丁寧にも、その噛み傷の写真を携帯で撮り、証拠として提示もしていた。
ここでまた不毛な議論が始まる。
その噛み傷が本物であるか否か。
仮に傷が本物だったとしても、それを付けたのが誰なのかなど特定できる筈もない。
けれど、そんな事はどうでもいい。
面白おかしく、暇さえ潰せれば彼らは満足した。
それらの情報は全て真実だった。
この時点で、もしその事をそこにいた全ての人が理解出来ていたなら、現在(いま)は変わっていただろうか。
何も変わらない。
行動を起こせない無力な人間がいくら集まった所で、それは何の力も持たない。
ただ力を持っている様な錯覚に陥ってるに過ぎず、彼らの妄想的自己満足以外の何物でもない。
0にいくら0を加えようが0なのだ。
翌日、都内の公園で30代の男性が、20代の女性を噛み殺す事件が発生した。
しかし、事件の残虐性から事の真相は伏せられ、普通の暴行事件としてニュースに取り上げられた。
「残虐な真実は、極力国民に知らせない様にする」
そんなメディアの姿勢が、完全に裏目に出たのだ。
以降、噛み付きウイルスに関して、表向きは下火となる、
しかし、会員制の携帯サイトなど、表からは見えにくい小さなコミュニティ内では、
秘密の美容法として女子中高生を中心に、日本全国に拡大していった。
ネットでは、噛み付き病がカニバリズムという理解が一般的であったが、
テレビなどのマスメディアはその残虐性から、「特殊な摂食障害」と報道していた。
その事が、少女達の噛み付きウイルスに対する危機意識を著しく低下させていた。
また、この食肉衝動は、人間の持つ攻撃性とも関連があった。
一般的に、男性より女性の方が攻撃性は低く、
食肉衝動も、男性より女性の方が影響を受けにくかったのである。
その事が、ウイルスの拡大を覆い隠す帳となっていたのだった。
唯3年 7月16日
唯「お弁当持った?」
憂「あ、忘れてた……取ってくるね!」パタパタ
唯「憂……」
憂「持ってきたよ~」ニコ
唯「……じゃあ、行こっか」
憂「うん!」ニコ
私は憂の手を握り、玄関のドアを開けた。
和「おはよう唯、一緒に学校に行きましょう」
唯「うん、和ちゃん」
和ちゃんはゾンビになっても、とても優しい女の子。
あの日以来、毎日私の家までお迎えに来てくれる。
律「おいーっす!」ビシ
澪「……おはよう」
唯「おはよ~りっちゃん、澪ちゃん」ビシ
和「おはよう」
憂「おはようございます」ニコ
唯「今日のりっちゃんのおやつは何かな~」
律「ふっふっふっ……ティータイム、楽しみにしとけよ~」ニヤリ
唯「うん、期待してるよ~」
律「和と憂ちゃんもな」ビシ
和「ふふふ、楽しみにしてるわ、律」
憂「はい」ニコ
和ちゃんと憂はあの日の後、一緒に軽音部に入部してくれた。
生徒会はもう無い。
生徒会役員は、和ちゃん以外は皆死んでしまったから。
ゾンビは生命力が高く、手足が捥げた程度では死にはしない。
そんな事をされれば、当然、激痛で悶え苦しむだろうけど……。
だからといって、不死身というワケでもない。
いくら生命力が強いといっても、脳や心臓等、重要器官に致命的なダメージを受けると死んでしまう。
梓「おはようございます」
純「……おはよう……ございます」
あずにゃんと純ちゃんが来た。
勿論、二人ともゾンビだ。
純ちゃんも軽音部の新しいメンバー。
ジャズ研の部員はもういない。
皆の挨拶に続いて、私も二人に挨拶をした。
唯「おはよう純ちゃん、ゾンビにゃん~」
梓「なんですか、そのゾンビにゃんて……」
唯「ゾンビあずにゃん、略してゾンビにゃんだよ~」フンス
私は以前の様に、あずにゃんに抱き付こうとした。
梓「やめてください!!!」
あずにゃんは私を強く突き飛ばした。
その勢いで、私は尻餅をついた。
場が静まり返る。
天然と言われる私にだって分かる。
今の私の行為が、あずにゃんにとってどれだけ辛い事なのか……。
梓「す、すいません唯先輩……。でも前に言ったとおり、そういう行動は今後一切しないで下さい……」
唯「……。」
梓「唯先輩……?」
唯「……なんで?」
梓「だって私は……以前の中野梓じゃないんです……」
俯きながら、あずにゃんはそう呟いた。
尻餅をついていたので、俯いてるあずにゃんの目に涙が溜まっているのが見える。
私はゆっくり立ち上がってから言った。
唯「あずにゃんはあずにゃんだよ……何も変わってないよ。みんなだってそうだよ……」
私は和ちゃん達の方に振り返った。
唯「世界は変わっちゃったかもしれない……。でも私達は変わってないよ……変わってないんだよ!!」
皆俯いている。
唯「憂、こっち見て……私をちゃんと見て……」
憂が私を真っ直ぐ見詰めた。目には涙が溜まっていて、今にも溢れそうだった。
唯「憂は私の妹じゃなくなったの? 私の事が嫌いになったの?」
憂「私は……お姉ちゃんの妹だし……お姉ちゃんの事が……大好きだよ……」
小さな声だった。でも、はっきりとした口調で答えた。
唯「和ちゃんは私の幼馴染で、一番の親友でしょ? 違うの?」
和「そうね……その通りよ」ニコ
和ちゃんは笑って答えてくれた。でも、その瞳は潤んでいた。
そしてそれは、今までで一番優しい和ちゃんの笑顔だった。
唯「りっちゃん、澪ちゃん、放課後ティータイムの絆って、こんな事で壊れる位脆いものだったの?」
律「んなワケないだろ! 何があろうと私達の絆は壊れやしねーよ!!」
りっちゃんは私を真っ直ぐ見てくれた。
澪ちゃんはまだ俯いてる。
唯「澪ちゃんは?」
澪ちゃんは俯いたままだったけれど、ちゃんと言ってくれた。
澪「私が……唯を嫌いになる事なんて……絶対……無いよ」
私はあずにゃんと純ちゃんの方に向き直った。
唯「純ちゃん! 純ちゃんは憂とあずにゃんの親友でしょ? それは何があっても変わらないでしょ?」
純「……。」
唯「純ちゃん!」
純「……はい。」
純ちゃんは小さく頷いた。
私は、明るくて陽気な純ちゃんの、今にも泣き出しそうな声を初めて聞いた。
唯「憂とあずにゃんの親友なら、私の親友なんだよ……私は純ちゃんの事が大好きなんだよ……」
純「はい……」
俯いた純ちゃんの顔から、大きな雫がポタポタと地面に落ちていった。
唯「分かったでしょ、あずにゃん……。何も変わらない、変わってないんだよ……」
唯「だから私はあずにゃんに今までと同じ様にするし、それを変えるつもりはないから!」
梓「でも駄目なんです、私達はゾンビなんです……」
あずにゃんが顔を上げて私を見た。
目を真っ赤にして、鼻水を流して、声を啜りながら……。
梓「私は唯先輩が大好きです、だからお願いです、分かってください……」
後ろからも鼻を啜る音が聞こえてきた。
唯「もし、みんながゾンビになった事で、私に対する態度を変えると言うのなら……」
唯「私もゾンビになるよ……」
和「唯!!」
憂「お姉ちゃん!!」
唯「だって、私はみんなと一緒がいいもん……何があったって離れたくないもん……」
唯「誰でもいいから、私を噛んでよ!!」
私は痛い事をされるのが嫌だ。
でも、心が痛くなる事はもっと嫌だ。
ゾンビになる事で皆と一緒にいられるというのなら、
どんなに痛くたって、苦しくたって耐えられる。
お願いだから……誰か私をゾンビにしてよ……。
律「そんな事……ぜってー誰にもさせねーし」
梓「そんなの絶対嫌です!!」
なんで……なんでみんな私の事を差別するの……?
みんなの気持ちは分かるよ……でも苦しいんだよ……。
こんな気持ち耐えられないんだよ……。
憂も和ちゃんも、私の所為でゾンビになった。
頭も良くて、運動神経抜群の二人だ。
私に構わず逃げていれば、ゾンビに噛まれる事なんて絶対に無かった筈なんだ。
その証拠に、ドジで運動音痴な私が、かすり傷一つ無く、無事にあの日を生き延びた。
二人が私を守ってくれたから……。
澪「……いい加減に……しろ、唯……」
澪ちゃんが私の顔を見て言った。
澪「私達はみんなで話し合って……唯をゾンビから守るって決めたんだ……。
唯だけは……何があっても……絶対に守るって……。
その気持ちがあるからこそ……私達はあの学校の中で、まともな精神を保つ事が出来るんだ……。
唯の気持ちも分かる……でも……唯が人間である事が私達の最後の支えなんだ……。
だから……ブレないでくれ……唯……頼む……」
そう言うと、澪ちゃんはまた俯いてしまった。
唯「ごめん澪ちゃん……あずにゃんもごめん……みんなごめん……」
私はみんなの優しさに涙が出そうになった。でも堪えた。
ここで泣いちゃ絶対に駄目だと思った。
皆が私の心の支えで、私が皆の心の支えなんだ……。
どっちが崩れても駄目なんだ……私は心に言い聞かせた。
そして空を仰ぎ、目から湧き出る水が零れるのを必死に堪えた。
律「辛気臭いのはもうやめようぜ!」
赤い目をしたりっちゃんが、元気で明るい声を出した。
和「そうね。それに、ここでこんなに道草喰っていたら遅刻するわ」
律「この話はこれでお終いな。蒸し返すのは無しだぞ!」
唯「了解です、りっちゃん隊長!」ビシ
律「よし、じゃあ学校に行くぞ唯隊員」ビシ
こうして私達は再び歩き出した。
私立桜ヶ丘高校……私達の日常の終焉が始まった場所へ……。
そもそも、何故私達は崩壊してしまった桜ヶ丘高校に向かうのか。
それは、私達にとって、いや、ほとんどの学生にとって「学校」が日常そのものだからだ。
そして、その日常こそが、このウイルスの進行を遅らせる方法の一つなのである。
ある精神学者が提示した、噛み付き病に関する調査報告書の中にそれはあった。
私達学生は、皆必ずある共通の盟約の様なものを持っている。
「学校に行く事」
学校が好きであろうが嫌いであろうが、学校に行かなくてはならないのだ。
その「しなくてはならない」という目的意識が自我を確立する。
自我を確立する事が、食肉衝動という本能に抵抗する理性を生むのだ。
感染者の病状進行は、軽度のレベル1から重度のレベル5という5段階で表される。
レベル1とは、感染初期の状態だ。肉体的変化は起きるが、精神的変化は、常人にはまず現れない。
レベル2とは、感染後7日経ち、皮膚の色素が完全に抜けた状態の事だ。
精神的疾患を持つ者や、異常性癖者は、この時点で殆どが「崩壊者」状態に陥る。
普通の精神の持ち主であれば、食肉欲を理性で抑え「崩壊者」状態になる事はまずない。
レベル3とは、感染後7日目以降の安定期の事だ。この期間は、個人差により大きく異なる。
自我をしっかりと持ち、精神が安定している者程この期間が長くなる。
レベル4になると、言語障害、記憶障害、手足の痙攣などが現れ始める。
自我崩壊の序曲だ。
とは言え、レベル4の初期であれば、常人と比較してもその差は微々たるものだ。
言葉がすぐに出てこない、ちょっとした物忘れをする、たまに手足が震える、ぼーっとする、それは常人にもありえる事だ。
しかし、レベル3の時とは異なり、非常に危うい面も出始める。
非感染者の血の臭いに非常に敏感になるのだ。
このウイルスは、唾液を媒体にし他者の血液に侵入する。
その習性が、感染者の血に対する執着・過敏な反応を生むのだろう。
レベル4の者がこの臭いを嗅ぐと、言葉では言い表せぬ苦しみ、俗に言う禁断症状が現れるのだ。
大抵の者は、ここで自我が崩壊し、レベル5へと移行する。
レベル5になった者は自我を失い、「肉」を求めるだけの人食いに成り果てる。
この人食いの事を、識者達は「崩壊者」と呼んだ。
「崩壊者」達のその様は、まさに生者の肉を求め跋扈する「ゾンビ」そのものだ。
こうなるともう、以前の状態に戻る事は不可能となる。
そしてもう一つ重要な事がある。
レベル1の状態から、一気にレベル5まで移行するパターン。
このウイルスは、人間の持つ生命の力を爆発的に高める。
そして、その力を最も大きく高める要因が、「生命の危機」なのだ。
初期感染時に母体が危機的状態にある場合、中度のレベルを一気に飛び越え「崩壊者」になる。
もちろん、レベル2、3,4の状態である場合でも同様だ。
肉体に多大な損傷を受けると、「崩壊者」へと覚醒する。
私の友人達は、私と六つの盟約を結んでいる。
一つ、学校に行く事。
二つ、ティータイムを行う事。
三つ、楽器の練習をする事。
四つ、平沢唯をゾンビ達から守る事。
五つ、上の四つを毎日継続する事。
そして最後に、傍にいる者が自分から離れるよう促した場合、平沢唯は必ずそれに従う事。
それが私達9人、「新生放課後ティータイム(新HTT)」の掟。絶対に破ってはならないもの。
私達は絶対に希望を捨てない。
必ず特効薬が発明され、私達は元の緩い日常生活に戻れると。
既に失ったモノは大きすぎるけれど……。
それでも、私達にはまだ失いたくないモノが沢山あるんだ。
校門が見えてきた。
そこには、二人の女生徒達が立っていた。
七月も半ばのこの時期に、彼女達も私達と同じく冬物のブレザーを着ている。
これが、「平沢唯を守る会」の目印だ。
なぜこの暑い中ブレザーなのか。
りっちゃん曰く、「防御力が高そうだから」
ゾンビだって暑さ寒さは感じる。
「崩壊者」でない限り、服装は季節によって変わるのだ。
では、誰もがブレザーを着る冬はどうするのか。
りっちゃん曰く、「また、あの着ぐるみでも着ようか」
澪ちゃんのゲンコツがりっちゃんの後頭部に炸裂した事は言うまでも無い。
二人の女生徒達も私達に気が付いたようだ。
一人の女生徒がこちらに向かって手を振っている。
もう一人は不機嫌そうにそっぽを向いている。
あくまで不機嫌そうに見えるだけであって、実際に不機嫌なのではない。
彼女、若王子いちごはそういう風に見えやすいタイプの人間なのだ。
もう一人の手を振っている彼女は木下しずか、笑顔がかわいい女の子だ。
しずか「みんな、おはよ~」
いちご「……遅い。」
和「遅くなってごめんなさい」
律「いちごは私たちの事心配してくれてたのかな~?」
いちご「……律、ウザい。」
律「素直になれよ、いちごしゃん~」ギュッ
いちご「……暑苦しい。」
満更でもなさそうな顔をしている。
私とあずにゃんのハグも、傍から見たらこんな感じだったのだろうか。
唯「二人とも本当にごめんね」
しずか「ううん、全然平気だよ」
いちご「……別に気にしてない。」
和「教室に行きましょう」
外観は以前と全く変わっていない桜ヶ丘高校。
あの日の後、7日間で業者が全てを元通りにした。
でも、直ったのは外見だけ。
もうここに「桜ヶ丘高校」は存在しない。
でも、それは何があっても口にしてはいけない。
それを口に出せば、私達ですら崩壊しかねないから。
以前は各学年3クラスあったけれど、現在は各学年1クラスしかない。
それで足りてしまう程の生徒数になってしまったのだ。
その全てのクラスは3階にある。
3階を使用するのは、見晴らしがよく、遠くの景色まで見る事が出来るからだ。
何かが起これば、逸早くそれを知る事が出来る。
階段を上って、手前から1年生、2年生、3年生の教室となっている。
私はこの廊下を歩くのが嫌だった。
私がこの学校で唯一の「人間」なのだという事を、嫌でも実感してしまう。
教室の前を通る時、下級生達の黒く光の無い視線が私に集中する。
もともと私は鈍感で、他人の考えている事など読めない人間だ。
そんな私でも感じてしまう程の強烈な意思が、そこには含まれていた。
その漆黒の視線に感じるもの……。
悪意や狂気、敵意といった類のモノではない、もっと異質な何か。
「食欲」
その視線から、私は彼女達の強烈な食欲を感じていたのだ。
律「ういーっす」ガラガラ
いつもりっちゃんが最初にドアを開ける。
次に澪ちゃん、いちごちゃん、しずかちゃん、私、和ちゃんの順に入る。
この順番で教室に入る事が、いつの間にか私達のルールになっていた。
誰もこちらに視線を向けない。
3年生は下級生達と違って、私に視線を向ける事は無い。
私は挨拶を絶対にしない。してはいけない。
それは和ちゃんにきつく言われている事だ。
皆分かっているのだ。
私が皆の崩壊のキッカケを招きかねない、危険な存在だという事に。
だから、私はクラスメイトを刺激しない様、細心の注意を払う。
私はこの空間で息を潜め、ただひたすら空気となるのだ。
ここは、私にとって「教室」と呼べる場所ではなかった。
本来なら、私はこの場に居ていい人間ではない。
皆、自我を保とうと必死にここに居るというのに、
私の存在は、それを危ういモノにしているからだ。
しかし、私はここに居なければならない。
その一番の理由は、生徒会を失った和ちゃんだ。
和ちゃんは生徒会の活動で忙しかった為、
生徒会役員以外で親友と呼べる者は、私しかいなかったのだ。
もちろん、りっちゃんや澪ちゃんとは親しい友人ではあるが、
「軽音部」という絆を持たない和ちゃんは、やはり円の外側の人間なのだ。
★2
私の席は、最も窓際に近い列の一番後ろ。
前から、しずかちゃん、いちごちゃん、そして最後尾に私。
私の右横には和ちゃんがいて、その前にはりっちゃんと澪ちゃんがいた。
廊下側前列の方には、元3年2組の佐藤アカネちゃん、佐伯三花ちゃん、野島ちかちゃんがいる。
あの日までは、あの3人も「人間」だった。
アカネちゃんは、あの日のりっちゃんとエリちゃんの事で軽音部と気まずくなり、
以来、互いに声をかける事すら無くなった。
同じバレー部の三花ちゃんと、三花ちゃんの友達のちかちゃんは、
たまにしずかちゃんと話しているのを見掛ける。
しずかちゃんはいちごちゃんと一番仲が良いみたいだけど、ちかちゃんとは以前からよくお喋りしていた。
私達の中で、彼女達と会話が出来るのはしずかちゃんだけだった。
しずかちゃんによると、三花ちゃんとちかちゃんも軽音部に入りたかったらしい。
でも、そうするとアカネちゃんが孤立してしまう。
アカネちゃんが軽音部に入る事は絶対にないから。
それで二人は軽音部入部を断念したとの事だった。
さわ子「……おはよう。」
さわちゃん先生が来た。今、学校に来てくれている唯一の教師だ。
最初10名いた教師達は、その後一人二人と姿を見せなくなっていった。
今ではさわちゃん先生が全学年を受け持っている。
といっても、さわちゃん先生が行うのは朝と帰りのHRだけだ。
それ以外の時間は、全て各自自習となる。
自習といっても、普通の学校のそれとは全く違う。
ある子達は調理室で料理をしたり、
またある子達は、体育館に集まって様々なスポーツをしたりしている。
一人で携帯電話やノートパソコンをずっと弄ったりしている子達もいる。
最近では、ぼーっとする子も増えてきた。
さわ子「……それじゃあみんな、今日も一日頑張ってね」
出席を取り終えて、さわちゃん先生は教室を出て行った。
さわちゃん先生は、帰りのHRまで職員室でパソコンを弄っている。
あの日以来、さわちゃん先生はティータイムに来なくなった。
律「うっし、じゃあ音楽室に行くか!」
教室のドアを開けると、先にHRを終えていた2年生3人組が待っていた。
私達9人は音楽室に向かった。
私達9人は、HR以外の全ての時間を音楽室で過ごす。
以前は、音楽室でまず最初にする事はお茶だった。
けれど、朝ごはんを食べてくればこの時間にお腹は空かない。
そんなわけで、お茶の時間は10時半と15時半から30分ずつ計2回となっている。
基本的に、お茶の時間以外は皆自由行動だ。
ただし、必ず楽器の練習を少しはしなくてはいけない。
午後のお茶の後に、どんなに拙い演奏でも皆で合奏する事が今の軽音部の決まりだからだ。
私達の軽音部には、ティータイムとこの合奏が不可欠だった。
ティータイムは以前の軽音部らしさの象徴であり、合奏には皆との絆を強める役割があった。
りっちゃん、あずにゃん、いちごちゃんは、最初に各自買ってきた雑誌を読む。
りっちゃんはコンビニで買ってきた漫画の雑誌。
梓ちゃんは音楽雑誌で、いちごちゃんはファッション雑誌のようだ。
準備室には、三人が買ってきた雑誌が山積みになっている。
和ちゃんとしずかちゃんは、何か難しそうな分厚い本を読んでいる。
この前、二人の本を後ろからこっそり覗いて見たら、
小さな文字がびっしりと詰まっていて、私は眩暈がした。
たまに二人で本の内容について語り合っている。
和ちゃんとしずかちゃんは、趣味が合うのかもしれない。
澪ちゃんはヘッドホンをして、自宅から持ってきたノートパソコンと睨めっこ。
音楽サイトや情報サイトを巡ったり、詩を書いたりしているらしい。
純ちゃんは人懐っこい性格からか、皆の所を回っている。
澪ちゃんのパソコンを覗いてみたり、あずにゃんと一緒に雑誌を見てたり、
りっちゃんと一緒に漫画を読んで笑ってたり。
でも、和ちゃんとしずかちゃんの本は過去一度覗いたきりだ。
最近では、よくいちごちゃんと一緒にファッション雑誌を読んで、
なにやら二人であーだこーだと論議している。
いちごちゃんがあんなに喋っている姿を、以前の私なら想像する事すら出来なかった。
憂はヘッドホンを付けて、ムギちゃんの置いていったキーボードを練習している。
以前よりも練習する量が増えていた。
そして、練習している時に、度々不機嫌な顔を見せる様になった。
本人は無意識なのだろうが、誰もがその事に気付いていた。
その理由も分かっていたから、誰も気付かない振りをした。
私はヘッドホンをしてギターの練習を始めた。
この音楽室は、私が唯一ギターを弾ける場所だ。
それが、私の学校生活における最後の救いだった。
家でギターを弾く事は無い。
「崩壊者」は音にも非常に敏感だ。
日常生活以外の音がすれば、それに惹かれて寄ってくるかもしれない。
万が一の為、私は家でギターには触れない様にしているのだ。
私がゾンビであれば、そんな事を気にする必要など無いのに……。
私は夢中でギターを掻き鳴らした。
全てを忘れ、ただただギターを奏でる事に集中した。
律「そろそろお茶にしよーぜー」
気付けば1回目のお茶の時間になっていた。
憂と和ちゃんが皆のお茶を入れている。
ムギちゃんの居ないティータイム、私はもう慣れた。
お菓子は、私と憂を除いた各自が当番制で持ってくる。
私が外を無闇に歩き回れば、それだけ危険が増える。
だから、登下校以外で私は外を歩いてはいけない。
今の私は籠の中の鳥だ。
でも、籠は私の自由を奪う為のモノではない。
私は籠の中でしか自由を得られない存在なのだ。
りっちゃんは、鞄の中から大量の駄菓子を出した。
りっちゃん達の通学路の途中にある駄菓子屋から「持ってきた」らしい。
和「凄い量ね……」
いちご「……タダだからって持ってきすぎ。」
律「一度これ位の量の駄菓子を一気に食べてみたかったんだよ!」
そうか、駄菓子屋のお婆ちゃんも居なくなったんだ……。
駄菓子を摘みながら、熱い緑茶を啜る。
それが全身を駆け巡り、冷たくなった体を火照らせた。
音楽室の冷房は強めにしてある。
夏に冬服を着て冷房、なんて非効率なのだろう。
環境に悪いわね、和ちゃんは笑いながら言った。
ライフラインが未だ健在なのは、
私達と同様、自我を保つ為に日常を維持しようとする人達がいるからだ。
足りない人手は、自衛隊や有志の人達が補っているらしい。
もちろん、その人達もゾンビだ。
たまに町内の見回りをして、崩壊者の「駆除」をしているらしい。
街の商店も普通に営業しているけれど、最近は店員のいない店も増えてきた。
窃盗など今は取るに足らぬ行為で、それを取り締まる気配など無い。
このような状況になったら、略奪が起こるのは必然だろう。
しかし、そのような暴動じみた事はまだ一度も起きていない。
せいぜい、私達のようにちょこっと物資を持ち出す程度のものだ。
ゾンビになると、食肉欲とその他の欲求が反比例するらしい。
症状が進行する程、彼らは無気力になっていく。
そして、虚脱感が増し抵抗力を失うと、症状は加速度的に悪化していくのだ。
何もしなければ、病状の悪化を早める。
だからこそ、私達は無理矢理にでも何かする事を求めなければならない。
軽音部の活動は、その為のものなのだ。
1回目のお茶の後は、皆楽器の練習をする。
憂はお茶をする前と変わらずキーボードの練習。
りっちゃんは純ちゃんのコーチを受け、エリザベスで練習だ。
ベースを弾けなくなった澪ちゃんの代わりに。
澪ちゃんはパソコンを使って音を奏でる。
キーを押すと、それに対応して様々な音が出るというアプリらしい。
ドラムを叩くのは和ちゃん。
和ちゃんは最初りっちゃんから教わっていたが、
りっちゃんもベースの練習をしなければならないので、
ドラムに関する本を借り、一人で頑張った。
勉強も運動も得意で、練習熱心な和ちゃんは、
すぐにある程度の演奏技術を身に付ける事が出来た。
りっちゃんも、和ちゃんの事をセンスがあると褒めていた。
いちごちゃんはリコーダー、しずかちゃんはピアニカを持ってきた。
二人は同じ小学校で、一緒に音楽クラブに入っていた事があるらしい。
私はあずにゃんとギターの練習だ。
以前はあずにゃんに、真面目に練習してください、とよく怒られたものだが、
今ではそんな事はもうない。
家でギターを弾けなくなってから、私はこの音楽室で誰よりも練習に励んだ。
あの練習熱心だったあずにゃんよりも……。
お昼、音楽室でお弁当を食べ、私はまたギターを掻き鳴らす。
一心不乱に、時の流れすら忘れる程に。
澪「……そろそろ教室に戻ろう」
時計は14時半を指している。
大体14時40分から15時が帰りのHRの時間。
楽器を置き、私達は教室に向かった。
帰りのHRといっても、連絡事項など何も無い。
ただ一言、挨拶をするだけの儀式だ。
それが終われば、私達はまた音楽室に戻る。
部外者からすれば、それは無駄で無意味な行為に見えるかもしれない。
でも、私達は必ずそれに参加する。
さわちゃん先生に挨拶をする為に。
それがさわちゃん先生が学校に来る理由なのだから。
教室に戻り、暫くしてさわちゃん先生が入ってきた。
クラスを一瞥し、一言挨拶をする。
さわ子「……みなさんさようなら、ではまた明日」
クラスメイト達が次々と教室を出て行く。
私達は最後に席を立ち、また音楽室に向かって歩き出した。
2回目のお茶が終わり、合奏の時間になった。
最初の曲目は「翼をください」。
その後は順不同に、HTTの楽曲や、音楽の教科書にあった曲などを演奏する。
私はその全ての曲のボーカルも兼任している。
和「ワン、ツー!」カチカチ
音楽室が大音響に包まれる。
私達の奏でる音は音楽室を飛び出し、学校中に響き渡っている事だろう。
私は音の大きさなど気にする事なく、思いっ切りギー太を掻き鳴らす。
この瞬間だけは、私を囲う籠など存在しない。
平沢唯は、音楽という翼で自由に大空を飛び回った。
合奏の後は、あずにゃんの提案がキッカケで、私が独奏を披露する事になっていた。
最初は、あずにゃんや澪ちゃんに借りたCDの中から気に入った曲を演奏していた。
そのうち、他の皆もCDを持ってくる様になった。
気付けば、私のレパートリーは膨大な数になっていた。
律「また唯は上手くなったな」
澪「……ああ」
しずか「私、感動しました!」
いちご「……凄い。」
憂「良かったよお姉ちゃん」ニコ
梓「やっぱり唯先輩は凄いです!」
純「ホントに凄いですよ、唯先輩……」
和「最高だったわ、唯」
皆が私を絶賛してくれた。
練習時間が増えた事で、私の演奏技術は格段に上がっていた。
でも、私は少しも嬉しくなかった。むしろ辛かった。
私が上達するのと反対に、皆の演奏は稚拙になっていったのだ。
症状が進行して脳神経に障害が出始めると、細かい作業が苦手になる。
それが、演奏技術を著しく低下させていたのだ。
感染初期のりっちゃんのドラムは凄かった。
それは、脳が正常な内に運動能力の向上があったからだ。
脳に異常を来せば、単純な運動なら問題なく出来ても、
楽器演奏の様に緻密な操作は、徐々に出来なくなってしまう。
彼女達の演奏が、まさにそれを物語っていたのだ。
そしてその事が、憂に苛立ちの表情を作らせ、澪ちゃんがベースを辞める原因となった。
りっちゃんは、澪ちゃんがベースを辞める事に猛反対した。
でも、澪ちゃんの意思は揺るがなかった。
澪ちゃんはりっちゃんに大切なベースを託した。
私の代わりにベースを弾いて欲しいと。
翌日から、りっちゃんはベーシストになった。
あんなに反対していたのに、なぜ翌日にはそれをあっさり受け入れたのだろうか。
私には分からない何かが、幼馴染の二人にはあったのだろう。
昔から澪ちゃんにベースを触らせて貰っていたらしく、ある程度の基礎は出来ていた。
ベーシストのりっちゃんはカチューシャを外していた。
外はもう暗くなり始めていた。
時計は既に19時を回っている。
律「今日はそろそろ解散とするか」
澪「……そうだな」
私達は音楽室を後にした。
校門でいちごちゃん、しずかちゃんとはお別れだ。
いちご「また明日。」
しずか「気をつけてね」
別れを告げて、私達も帰路に就く。
皆と別れ別れになる帰り道、私はどうしようもなく怖くなる。
明日もみんなに会えるだろうか?
そんな私の感情に関係なく、無慈悲にも別れは淡々と私達を切り裂いていった。
唯「ただいま~憂~」
憂「ただいま、お姉ちゃん」ニコ
唯「おかえり~憂~」
憂「おかえり、お姉ちゃん」ニコ
これが帰宅時の私達のルールだ。
二人で「ただいま」を言い、二人で「おかえり」と答える。
私は憂に、憂は私に。
一人なら滑稽な姿になってしまうかもしれないが、私達は二人なんだ。
雨戸は常に閉めっぱなしにしているから、部屋は真っ暗だ。
こんな所に一人で帰ってきたら、寂しさで涙を流してしまうかもしれない。
でも、私達は二人なんだ。二人なら、どんな暗闇だってへっちゃらだ。
私は着替え、憂と一緒に家事に取り掛かる。
室内で陰干しした洗濯物を畳み、掃除をして早めにお風呂を焚く。
あとは夕食の下拵え、炊飯をして和ちゃんを待つ。
ピンポーン ピンポーン
玄関のチャイムが鳴る。
この鳴らし方は和ちゃんだ。
玄関を開けると、沢山の食材を持った和ちゃんがいた。
唯「いらっしゃ~い」
憂「いらっしゃい」ニコ
和「お邪魔するわね」
和ちゃんは、いつも私達の代わりに日用品や食料品を買ってきてくれる。
最初は心苦しかったけれど、これも和ちゃんの為なのだと割り切った。
和ちゃんの意思なら、私はどんな事だって受け入れるつもりだ。
私が和ちゃんにしてあげられる事は、それしかないのだから。
和「カレーの材料を買ってきたから、一緒に作りましょう」
憂「うん!」ニコ
唯「ありがとう和ちゃん」
和ちゃんは、毎日夕食を私達と一緒に作り、一緒に食べる。
でも、絶対に泊まって行く事は無い。
私が誘っても、和ちゃんは頑なにそれを拒否し続けた。
私にはその理由が分かっていた。
和ちゃんは恐れていたのだ。
自我を失い、幼馴染であり親友である私を傷付けてしまうのではないかと。
唯「ご馳走さま~」
憂「美味しかったね、お姉ちゃん」ニコ
和「いっぱい作ったから、残りはタッパーに詰めて冷蔵庫に入れるのよ」
唯「は~い」
和「じゃあ私、家に帰るわね。片付けは任せるわ」
唯「らじゃ~」ビシッ
憂「また明日」ニコ
和ちゃんは帰っていった。
唯「私が後片付けしとくから、憂はお風呂入っちゃってね」
憂「うん」ニコ
憂は着替えを取りに行った。
唯「それじゃあ、ちゃっちゃと片付けちゃいましょ~!!」グッ
憂と一緒のお風呂に入ったのは、あの日から一週間後の時が最後だった。
私はふと、その時の事を思い出していた。
肌は雪の様に白くなり、まるで白雪姫のようだった。
憂はその姿が嫌だったのか、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
けれど、私の口からはそれを賛美する言葉が自然と洩れていた
「とても綺麗だよ憂……」
憂はその言葉を聞き、大声を出して泣き出してしまった。
私は憂を優しく抱きしめた。
私が抱き締めても憂が泣き止まなかったのは、あの時だけだった。
今にして思えば、私はなんて酷い事を言ってしまったのだろうか。
でも、本当に憂は綺麗だった。世界中の誰よりも。
その日、私は憂と一緒に寝た。
憂と一緒に寝たのも、その日が最後だった。
憂「お風呂上がったよ、お姉ちゃん」ニコ
唯「ほ~い」
片付けは終わり、私もお風呂に入る事にした。
お風呂に入るといつも、あの時の憂の裸を思い出してしまう。
私は妹に恋をしてしまったのだろうか。
性別に関係なく、あの姿を見たら誰でも同じ事を思うのではないだろうか。
そんな事を考えている自分を、私は嫌悪した。
(ごめんね憂……)
私は心の中で、憂に何度も何度も懺悔した。
お風呂から上がると、憂が私を呼んだ。
憂「アイス一緒に食べよ?」ニコ
カレーの材料と一緒に、和ちゃんは私の好きなアイスも買ってきてくれていた。
2つのアイス、私の分と憂の分。
和ちゃんの気配りと優しさが、今の私には辛かった。
唯「うん、一緒に食べよ~」ニコ
嘘を付く事が下手だった私。
でも、私はいつの間にか嘘を付く事が得意になっていた。
私は憂に悲しい顔など見せたくなかった。
私が悲しい顔をすれば、憂が悲しむから……。
憂も同じ事を考えていたのだろう。
自分が悲しい顔をすれば、私が悲しむと……。
だから、憂は笑顔を振り撒いた。偽りの笑顔を。
でも、私はその笑顔の違和感に気付いていた。
私は憂が生まれてから、ずっとその顔を見てるんだよ?
本当に笑っているのかどうかなんて、すぐに見分けられるんだよ。
だから無理に笑わなくていい、泣きたい時は泣けばいいんだ。
私は憂のお姉ちゃんなんだ。
憂が私に遠慮する必要なんて、どこにも無いんだ。
私はその言葉が言えず、憂の偽りの笑顔を受け入れた。
私には、憂の優しさを否定する事が出来なかった。
私は最低のお姉ちゃんだった。
アイスを食べ終え、私達は居間のソファーで寛いでいた。
横を見ると、憂がこっくりこっくり居眠りをしている。
時計は22時になった所だ。
唯「憂、起きて。ベッドに行こう?」
憂「う~?」
憂は少し寝惚けているみたいだ。
私は憂を支えながら、妹の部屋へと連れて行った。
そして、ベッドに寝かせ、布団を掛ける。
唯「おやすみ憂、また明日ね」
憂「おやすみ……おねえちゃん……」ニコ
憂はすぐに眠りに就いてしまった。
私は憂の額に軽くキスをして部屋を出た。
私も眠ろう。
ベッドに潜り込むと、すぐに強い睡魔に襲われた。
私はそのまま深い眠りに落ちた。
ああ、今日もまた、あの日の夢を見るのだろうか……。
唯2年 2月15日
もう春休みも目の前に迫ってきていた。
私たちはもうすぐ最上級生になる。
新歓ライブに向け、私達は珍しく熱心に練習をしていた。
今年新入部員を引き入れなければ、来年はあずにゃん一人になってしまうからだ。
そんな頃、私たちの周りではある噂が流行していた。
「健康美白ウイルス」
なんでもそのウイルスに感染すると、肌が美しくなり、健康にもなるというのだ。
副作用は、ちょっとした摂食障害になる事らしい。
最初は誰もがそんな噂を信じる事は無かった。
実際に感染者を自分の目で見るまでは。
桜ヶ丘高校で最初に感染が明らかになったのは、あずにゃんのクラスの子だった。
あずにゃんによると、一週間程度でみるみるうちに肌が白く綺麗になっていったという。
さらにその子は、今まで運動が苦手だったにも関わらず、
体育の時間に信じられない程の活躍を見せたという。
その子は瞬く間に学校中の噂になった。
しかし、その子から感染が拡大する事は無かった。
純ちゃんによると、その子は内気な性格で友達もいないらしい。
そんな子が何時、何処で感染したのか、誰もが興味を持った。
けれども、彼女は詳しい感染の経緯を語らず、真相は闇に包まれた。
そんな彼女に、ウイルスをうつして欲しいとお願いする子もいたらしいが、
直接噛むという行為自体が、感染の予防になった様だ。
見ず知らずの他人を噛むというのは、噛む方にとってもかなりの抵抗があったのだろう。
けれども、そこで感染が止まる程甘くはなかった。
どうしてもウイルスが欲しい子達は、中学の時の友人と連絡を取ったり、
携帯コミュニティーサイトなどで保菌者を探していたのだ。
2年生で最初に感染したと思われるのは、立花姫子ちゃんという子だった。
その頃の私は、まだ姫子ちゃんと面識はなかったけれど、
姫子ちゃんの噂はすぐに私の耳にも届いた。
彼女のバイト先の友人の知り合いが保菌者で、その子から感染したという。
もともと姫子ちゃんは、人目を引くクール系の美人だった。
そんな彼女の肌がどんどん白くなっていくと、
まるで女優を思わせるかの様な美しさ、輝きを放つようになった。
その美しさが、「健康美白ウイルス」の需要を爆発的に高める要因となった。
春休み直前には、私のクラスにも数人、肌が白くなりつつある子がいた。
軽音部で最初に感染したのはりっちゃんだった。
それに最初に気付いたのは澪ちゃんだった。
春休み、新勧ライブに向けての練習の為、部室に集まった時の事だ。
いつもりっちゃんと澪ちゃんは一緒に登校しているが、
その日は澪ちゃんだけ先に部室に来ていた。
りっちゃんは寝坊したらしく、後から来るとの事だった。
お茶をしていると、暫くしてりっちゃんがやってきた。
律「わりーわりー、寝坊しちった」
唯「も~、りっちゃんは駄目駄目だね~」
律「どうせ唯は憂ちゃんに起こして貰ったんだろ?」
唯「でへへ、すいやせん」
紬「今お茶入れるわね」
梓「それ飲んだらすぐ練習しますからね」
律「へいへい」
澪「……」
澪「律、お前肌の色、少し白くなってないか?」
律「お、澪ちゃん、気付いちゃいましたか~」
紬「言われてみると、りっちゃんの肌、前より少し白いわね」
律「実は昨日マキちゃんに、健康美白ウイルスをうつして貰ってさ。
その後、ラブ・クライシスのみんなとオールでカラオケしてたんだ~。
今日は寝ないで、そのままこっちに来ようと思ってたんだけど、
横になったらいつの間にか寝ちゃっててさぁ」
梓「律先輩も美白で綺麗になりたかったんですか?」
唯「りっちゃんはそのままでも可愛いのに~」
律「ちげーって! てゆーか、私はそんなミーハーじゃないぞ?」
梓「じゃあ何でですか」
りっちゃんが感染した理由は、ラブ・クライシスというバンドにあった。
そのバンドのドラマーは、りっちゃんと澪ちゃんの中学時代の友人だった。
りっちゃんは、同じドラマーという事で今でも付き合いが深く、
一緒に出掛ける事もしばしばあるらしい。
律「ラブ・クライシス、メジャーデビューしたんだよ」
梓「メジャーデビューですか!?」
律「ああ、昨日はその祝賀会だったんだ」
梓「なるほど。で、それが健康美白ウイルスと何の関係があるんですか?」
律「デビュー出来たのは、そのウイルスの力なんだよ」
ラブ・クライシスのメンバーは、才能の壁に悩まされていた。
バンドとしての能力は高く、小さなライブハウスなら、
単独で満員にする位の実力も人気もあった。
しかし、それはあくまでもアマチュアレベルでの話である。
プロの世界はそれ程甘くは無い。
彼女達は、アマチュア以上プロ未満という、
ミュージシャンとして一番辛い時期にあった。
そんな時、彼女達は健康美白ウイルスの話を知った。
それを利用し、ルックスを良くする事によってバンドの人気を上げようとした。
大成功だった。
さらに、ウイルスの思わぬ効能が表れた。
身体能力の向上により、楽器演奏の技術が飛躍的に向上したのだ。
かくして、ラブ・クライシスはメジャーデビューを果たす。
梓「信じられません……と言いたい所ですが……」
実際に私達は、感染者を身近に見ている。
そうでなければ、この様な話をすぐには信じられなかっただろう。
律「私も、直に演奏を見て、聴いて、ビックリしたよ。
マキのドラムは、今までのソレとは別次元のレベルだったんだ。
それで私も、って思って……。
今度の新歓ライブ、梓の為に最高の出来にしたいからさ……」
梓「律先輩……」
紬「りっちゃんらしいわね」
唯「りっちゃん部長っぽいよ」
律「へへ……」
澪「……」
唯「でも、本当にりっちゃんも上手くなるの?」
梓「確かに、律先輩まで上手くなるというのは信じ難いですね」
律「言うじゃない中野~。まぁ、百聞は一見にしかずってね」
唯「おお~、りっちゃんがやる気になってる!」
律「なんか体中から力が漲ってくる感じがするんだよね」
梓「それじゃあ、一回合わせてみましょうか」
律「よっしゃ!!」
りっちゃんのドラムは凄かった。
リズムキープは相変わらずだったけれど、
力強く刻むビートは、りっちゃんらしさに磨きが掛かっていた。
荒削りだけれど、そこには輝く何かが確かに存在した。
律「ふぅ~……」
紬「今のりっちゃんのドラム、凄く良かったと思う!」
唯「うんうん、凄かったよりっちゃん!」
梓「リズムキープはまだまだですが……確かに良かったです!」
律「だろ? 今日は寝不足だったからまだまだだけど、
本調子になったら、こんなもんじゃないぜ?」
唯「私もウイルス貰ったらギター上手くなるかな……?」
律「私が唯を噛んでやろうか? にひひ」
紬「あらあらあらあら」
唯「なんかりっちゃんイヤラシ~よ~」ケラケラ
澪「やめろよ!!」
それまで無口だった澪ちゃんが突然大きな声を上げた。
律「何だよ澪……突然大声出してさ……」
澪「何でそんな事勝手にするんだよ……何で私に相談しなかったんだ、律……。
それはウイルスなんだぞ? 病気なんだぞ?
摂食障害になるって聞いたし、治療薬だってまだ出来てないって聞くし……。
それなのに、故意に感染してくるなんて、何を考えてんだよ!
それがどんなに危ない事なのか、お前は分からないのかよ……!」
律「澪は気にし過ぎだろ……。
みんなやってるし、マキちゃんの話だと症状も大した事ないらしいし……。
そもそも、そんなに危ないモノなら、もっとテレビとかで大騒ぎしてる筈だろ?」
澪「だからお前は単純だっていうんだ!
そりゃあ、今は平気かもしれないけど、今後の事は分からないだろ!
場当たり的に行動するから、いつも失敗するんじゃないか!
もうちょっと先の事も考えろよ、馬鹿律!!」
律「な、なんだよ……お前は私の保護者か何かか?
何でいちいち澪に相談しなきゃいけないんだよ!
それとも、私が綺麗になる事に嫉妬でもしてんのか?」
音楽室にパチンと乾いた音が響いた。
澪ちゃんの大きな掌が、りっちゃんの頬を紅く染めた。
澪ちゃんは瞳にいっぱいの涙を溜め込んで、
何も言わずに音楽室から走り去っていった。
りっちゃんは、ただただ茫然と立ち尽くしていた。
私もムギちゃんもあずにゃんも、なんて声を掛ければいいのか分からず、
黙ってその様子を眺めている事しか出来なかった。
結局、その後は練習も出来ず解散となった。
りっちゃんと澪ちゃんが喧嘩した事は以前にもあった。
でも、翌日には決まって仲直りをしていた。
だから、明日になれば、また仲良しの二人に戻っている筈だ。
私は、そんな風に楽観的に考えていた。
次の日、澪ちゃんとムギちゃんは練習に来なかった。
りっちゃんは元気なく項垂れていて、目の下には隈が出来ていた。
私もあずにゃんも、その顔を見てすぐに分かった。
まだ二人は仲直りをしていないという事が。
昨日のりっちゃんと澪ちゃんの喧嘩が、
今までのそれとは全く違うものであるという事が。
とても練習など出来る状態ではなかった。
そんなりっちゃんを見兼ねたあずにゃんは、しばらく練習を中止しようと提案した。
りっちゃんと澪ちゃんには時間が必要だと判断したのだろう。
りっちゃんは俯きながら、弱々しく一言、ごめん、と言った
★3
残りの春休みはあっという間に終わり、始業式を迎えた。
クラス割りを見ていると、りっちゃんと澪ちゃんが一緒に登校してきた。
りっちゃんの肌は真っ白くなり、その容姿は驚く程美しくなっていた。
二人の間の溝は、まだ完全には埋まっていなかった。
そのぎこちなさ、余所余所しい態度を完全に隠す事は出来ていなかった。
私とあずにゃんはそれに気付かないフリをした。
私達に心配を掛けまいとする、二人の気遣いを感じたからだった。
澪ちゃんは、私とあずにゃんに「悪かった」と一言謝り、
今日からまた一緒に練習を頑張ろうと言った。
あずにゃんは元気良く、はい、と答えた。
唯「私と和ちゃんとりっちゃんと澪ちゃんは一緒のクラスだよ」
和「一年間よろしくね」
律「澪と和がいれば、どんなに宿題が出ても安心だな」
澪「いい加減、宿題くらいちゃんと自分でしろ!」
梓「私は憂、純と一緒のクラスです」
純「私達って、腐れ縁ってやつかな」
憂「ふふ、二人ともよろしくね」
澪「そういえば、ムギがいないな……」
唯「ムギちゃんとは違うクラスになっちゃったみたいだね……。
電話しても繋がらないし……」
律「もうこんな時間だし、先に自分の教室に行ったんじゃないか? 私達も教室に行こう」
梓「それじゃあ先輩方、また放課後に」
教室に入ると、一人の少女が箱を持って近付いてきた。
いちご「……席を決めるクジを引いて。」
律「あ、いちごじゃん。また同じクラスだな、よろしく」
いちご「……早く引いてくれない?」
律「相変わらず、愛想の無い奴だな~」ギュッ
いちご「……暑苦しい。」
いちごちゃんは、2年生の時に同じクラスで、大人しい子だった。
物静かだけれど、お姫様みたいに綺麗な容姿は、クラスの中で目立っていた。
その雰囲気が、どことなく澪ちゃんに似ていた。
人見知りの激しい澪ちゃんは、私達がいない時はとっても大人しい。
そんな澪ちゃんも、その容姿の所為か、ただ静かにそこにいるだけで十分な存在感があった。
そんないちごちゃんに、りっちゃんはいつもちょっかいを出していた。
最初は激しく抵抗していたものの、りっちゃんのしつこい攻めは止まらない。
いつの間にか、二人は名前で呼び合う仲になっていた。
いちご「黒板に席の位置と番号が書いてあるから、引いた番号と同じ所に名前を書いて。」
律「げ、中央の一番前……」
いちご「……。」クスッ
律「あ、笑ったな!」
いちご「……笑ってない。」
律「席代わってくれよ、いちご~」
いちご「やだ。」
唯「私は……窓際の一番後ろ」
和「私は唯の前ね」
澪「ほら、律、席に行くぞ」
私達は黒板に名前を書き込み、自分達の席に着いた。
「平沢さん、だっけ? よろしくね」
私は突然、横の席の子に話しかけられた。
立花姫子ちゃんだった。
私はその時初めて、姫子ちゃんを間近で見た。
息を呑んだ。その美貌に。
容姿には特に気を使っていない私だけれど、
ウイルスに群がる女の子の気持ちが分かった。
唯「よろしくね、立花さん」
姫子「姫子でいいよ」
笑顔はさらに素敵だった。
唯「私も唯でいいよ、姫子ちゃん」
外見からは少し冷たく見えるけれど、実際はとても優しい女の子だった。
私と姫子ちゃんが親しくなるまで、殆んど時間は掛からなかった。
間も無くして担任の先生がやってきた。
私達の担任はさわちゃん先生だった。
始業式が終わり、帰りのHRの後、私達軽音部の3人はさわちゃん先生に呼び出された。
そこで、私達が一緒のクラスだったのは、さわちゃん先生の策略だったと聞かされた。
そんな話をしていると、あずにゃんがやってきた。
あずにゃんもさわちゃん先生に呼び出されたらしい。
嫌な予感がした。
その予感は的中した。
さわちゃん先生の表情は一転して陰り、それが私達をさらに不安にさせた。
しばらく沈黙が続き、重い空気が私達を押し潰そうとしていた。
さわちゃん先生は意を決したのか、硬く噤んでいた口をゆっくりと開いた。
さわ子「ムギちゃんね、転校したの」
私は、「何故?」と聞こうとした。
口を開けて言葉を発せようとした。
しかし、私の口からは音を発する事が出来なかった。
苦しい。息が出来ない。心臓が爆発するかの様に、激しく鼓動した。
私は胸に手を当て、必死に呼吸を整えようとしていた。
周りを見ると、りっちゃんも澪ちゃんもあずにゃんも固まっていた。
さわ子「今日の朝、斉藤さんって執事の方から連絡がきてね、
事情により、彼女のお父さんが外国に行く事になって、
長期になるから、ムギちゃんも一緒にって……」
さわ子「彼女と直接話をしたかったのだけれど、
もう一週間位前に外国に行っちゃってて、連絡出来ないって言われたの。
あなた達が何か知らないかと思って呼んだのだけれど、
その様子じゃ、あなた達も知らなかったみたいね……」
一週間前というと、りっちゃんがウイルスに感染して澪ちゃんと喧嘩をした頃だ。
あの時のムギちゃんには、そんな兆候など全然無かった。
もし、あの時すでに転校が決まっていたとしたら、
あんなに普通でいられた筈がない。
私達は職員室を出て、音楽室に向かった。
私達は音楽室で呆然としていた。
もうムギちゃんのティータイムは無く、ムギちゃんとの合奏も無い。
ティーセットもキーボードも、何も変わらずここに存在するのに……。
執事の斉藤さんは、それらは学校に寄付するので自由に使って貰って構わない、
と、さわちゃん先生に電話で言ったそうだ。
律「もしかして、私のせいかな……」
りっちゃんが弱々しく呟いた。
皆気付いていた。
ムギちゃんの転校の時期と、りっちゃんが感染した時期が重なっている事に。
澪「違う! そんな事でムギが私達に何も言わないで転校するわけがない!」
梓「そうですよ! それにムギ先輩は家がお金持ちですし、何か別の理由があったんですよ!」
澪ちゃんとあずにゃんは、必死でりっちゃんを慰めていた。
律「でも……」
澪「律が気にする事は無い。それに律以外にだって感染者はいっぱいいるんだ!
それでも、ムギは何も気にせず普通にしてたじゃないか!」
沈黙が流れた。
唯「ムギちゃんはいつも優しかった。
いつも笑って私達を見守ってた。
例え何があっても私はムギちゃんの友達だし、
ムギちゃんもそう思っていると私は信じてる。
だから、今、私達に出来る事をしようよ」
唯「色々考えて不安になっちゃう事もあるけど、
考えても分からない事を考えていてもしょうがないよ。
私達が今しなくちゃいけないのは、軽音部を守る事だよ。
ムギちゃんがいたこの軽音部を、私達みんなの居場所を……」
澪「唯の言う通りだ。ムギだって軽音部の為にあんなに頑張っていたんだから……」
梓「そうですよ、一緒に頑張りましょうよ……」
律「そうだな……」
唯「弱気なんて、りっちゃんのキャラじゃないよ」
梓「ですね。サバサバしてて、いい加減で、能天気な律先輩の方が私は好きです」
律「中野~」ギュッ
唯「りっちゃんずるい~私もあずにゃん分補給~」ギュッ
唯「澪ちゃんもおいでよ~」スリスリ
澪「こ、今回だけだぞ」ギュッ
私の目からは大粒の涙が零れ落ちていた。
私はあずにゃんに抱き付いたまま、大声を出して泣いた。
それに釣られて、りっちゃんも澪ちゃんもあずにゃんも泣いた。
これからムギちゃんがいなくても泣かなくて済むように、
私達は涙が枯れ果てるまで泣き続けた。
それから私達は、毎日一生懸命練習に励んだ。
練習してる時は全てを忘れられた。
ティータイムも続ける事にした。
ムギちゃんがいた時の様な豪華なものではないけれど、
皆で交代でお菓子とお茶を用意して。
時々さわちゃん先生が差し入れを持って来てくれた。
和ちゃんが和菓子を持って来てくれた。
憂が手作りのお菓子を作って来てくれた。
純ちゃんもたまに遊びに来てくれた。
そして新歓ライブ、私達は誰も弾かないキーボードを持って行った。
転校しても、ムギちゃんは放課後ティータイムのメンバーなのだ。
舞台の上の、弾き手がいないキーボード。
新入生達には異様に見えたかもしれない。
それでも、私達にとってはそれが必要だった。
ライブは今までで最高の出来だった。
さわちゃん先生がこの演奏をしっかり録画してくれた。
いつか、この映像をムギちゃんに見て欲しい、心からそう願った。
しかし、新入部員が来る事はなかった。
新歓ライブが終わった頃、嫌なニュースが流れ始めた。
「噛み付き事件」
私達が健康美白ウイルスと呼んでいたモノが原因だった。
全国で同時多発的に起きたその事件は、連日ニュースを賑わせた。
こんなに話題になる前にも、噛み付き事件は度々起きていたらしい。
しかし、加害者・被害者の人権的観点から、情報は伏せられていた。
それが隠し通せない程、事態は深刻になっていたのだ。
噛み付き事件が表舞台に姿を現すと、
今までの静けさが嘘の様に、メディアはこぞってそれを取り上げた。
そして初めて、私達はそのウイルスの本当の恐ろしさを知る事となった。
その危険性を、パニック防止、人権保護等を理由に国が糊塗していた事も。
その中で私達が一番驚愕したのが、摂食障害とされていた病状の真実……。
「食肉衝動」
この真実は日本中にかつてない衝撃と恐怖を与えた。
一部で真しやかに囁かれていたが、本気で信じる者などいなかった。
都市伝説の類と似たような物と思われていたのだ。
それが今、確かに私達の前に存在していた。
連日の報道が、感染者に対する不信感・恐怖感・嫌悪感を高めた。
それは桜ヶ丘高校においても例外ではなかった。
それまで羨望の眼差しを向けられていた感染者達は、
一転して忌み嫌われる存在へと変貌していた。
表向きにその様な態度は表されなかったが、
そこかしこで陰口を叩かれ、その声は私にも聞こえてきた。
誰が最初に言い出したのかは分からない。
食肉衝動、異様な肌の白さ、それらから連想されたのだろう。
いつしか感染者は「ゾンビ」と呼ばれる様になっていた。
「人間」と「ゾンビ」の対立は日毎に悪化の一途を辿っていた。
それが、ゾンビ達の精神的安定に悪影響を及ぼしていた。
私のクラスは全部で38人、内ゾンビは8人。
人数で言えば、「人間」は圧倒的優位な状態にあった。
他の学年、クラスも大体それ位の割合だった。
故にゾンビ達は肩身が狭く、今の状況を受け入れざるを得なかった。
綺麗で明るくて優しかった姫子ちゃん。
お喋りが好きだった彼女の口数もめっきり減っていた。
目の下には隈ができ、その顔は酷く憔悴していた。
ゾンビに対して、恐怖感が全く無いと言ったら嘘になるかもしれない。
でも、私はそんな事より、窶れていく姫子ちゃんの支えになってあげたいという気持ちが強かった。
私と和ちゃん、りっちゃん、澪ちゃん、姫子ちゃんは教室で一緒にお弁当を食べる様になった。
食肉衝動の所為か、昼食時には特に隔絶感が私達を包んでいた。
この学校で「人間」と「ゾンビ」が一緒に食事をしているのは私達だけだった。
そんな私達を見て、なにやらヒソヒソと話す子達もいた。
でも、私達はそんな事気にしなかった。気にしないようにした。
りっちゃんは姫子ちゃん程ではないけれど、たまに少し疲れている様な顔を見せた。
けれど、りっちゃんはそんな事は無いと言わん許りに、無理に明るく振舞っていた。
澪ちゃんは口数が減った。授業中もノートを取らず、ただただ俯いている。
怖がりな澪ちゃん。でも、ゾンビのりっちゃんを怖がっているワケではない。
私にはすぐに分かった。澪ちゃんはりっちゃんを心配しているのだ。
和ちゃんは普段通りだった。幼馴染だから分かる、和ちゃんの強さ。
何時でも冷静で、優しくて、正義感に溢れている。
いつも私の傍に居てくれる和ちゃん。
だから私は、こんな状況でも安心していられた。
唯3年 5月20日
そして「あの日」がきた。
桜ヶ丘高校が崩壊した日。
今までの日常が破綻した日。
いつもの様に5人で昼食を取った後、その片付けをしていた時の事だ。
姫子ちゃんが不意に言葉を漏らした。
「軽音部が羨ましい」
りっちゃんと私達の関係を見てそう思ったのだろう。
姫子ちゃんはソフトボール部に所属していたが、そこに彼女の居場所はもう無かった。
それを聞いてりっちゃんは得意気に言った。
「軽音部の絆は永遠に不滅だからな」
その言葉が、あの揉め事の原因となった。
「絆とか馬鹿みたい」
りっちゃんのその言葉を聞いたクラスメイトの一人が鼻で笑った。
瀧エリちゃんだった。
律「……思いっ切り聞こえてるんですけど。」
エリ「あ、ごめん、聞こえちゃった?」クスクス
律「言いたい事があるならはっきり言えよ。
いつもコソコソ陰口ばっか言ってて恥ずかしくないのかよ」
エリ「は? だから何? てかさ、絆とか言ってるのが可笑しかっただけだから」
律「……何が可笑しいんだよ」
エリ「ちょ、マジで分かんないの? 琴吹だよ、琴吹紬」
りっちゃんの顔が引き攣った。
私の心臓に、何か鋭い物で突かれた様な痛みが走った。
澪ちゃんも一瞬体をビクッとさせた。
律「ムギがなんだっていうんだよ……」
エリ「みんな噂してるって。あいつんち金持ちだから、一人で逃げたってさ」ケラケラ
律「なっ……」
エリ「あいつは私達より先に知ってたんだよ。
健康美白ウイルスが、かなりヤバイ物だって事をさ。
だから金の力で一人だけ先に安全な所に逃げたんだろ」
律「ちが……」
りっちゃんが言い掛けた所に、エリちゃんが追い討ちを掛けた。
エリ「あいつはお前らを見捨てたんだよ。
本当に仲間だったら、自分だけ逃げるワケないじゃん。
お前らの事なんて、所詮どうでもいい存在としか見てなかったんだ」
律「それは……」
エリ「違うって言うなら、その証拠見せてみなよ」
律「……もし、お前の言う様にムギが一人で逃げたとしても、
私達はムギが安全な所に逃げられたのなら、それを素直に喜べる。
ムギが私達をどう思っていようが、私達はムギの事を仲間だと思ってるんだ」
エリ「ふぅん、律ってさ……」
エリ「ホントに馬鹿なんだ」クスクス
エリ「そういう独り善がりってさ、ホントにウザイからやめてくれない?」
律「……は? 何だよそれ……」
エリ「そんな風に考えてるのはお前だけだよ。
お前はさ、もうゾンビだからいいのかもしれないけどさ、
唯も澪も人間なんだよ? お前とは違うの。
内心ではお前の事を気味悪がってるに決まってんだろ……」
唯「そんなこと無いよ!
私もりっちゃんと同じ事を思ってるし、
りっちゃんの事を気味悪いとか思ってないもん!」
エリ「あー、そういえば唯も馬鹿だったね」ケラケラ
和ちゃんが立ち上がり何かを言おうとしたが、私はそれを止めた。
ここで私が和ちゃんを止めていなければ、
あんな事も起きなかったかもしれない。
でも、これは軽音部の問題なんだ。
ここで和ちゃんを巻き込んではいけないと、その時の私は思ったのだ。
エリ「これ以上『人間』を巻き添えにするのやめてくれない?
澪だって、幼馴染だから傍に居るんだろうけどさ、
ゾンビと一緒とか迷惑だっての。澪が可哀相だと思わないの?」
澪「わ、私は迷惑だなんて思っていない!」
澪ちゃんは小刻みに震えていた。
りっちゃんが激しく責め立てられていたからだろう。
けれど、そんな事はエリちゃんには分からなかった。
エリ「ほら、澪だってこんなに震えてるじゃん」
澪「ち、違う! こ、これは……」
エリ「とにかくさ、お前はもう『人間』じゃないんだからさ、
ゾンビはゾンビ同士でつるんでなって」
律「エリ、お前……」
次の瞬間、りっちゃんの拳がエリちゃんの左頬を強打した。
エリちゃんは机を薙ぎ倒しながら倒れ込んだ。
それを見て、佐藤アカネちゃんがエリちゃんに駆け寄った。
アカネちゃんはエリちゃんの一番の親友だ。
アカネちゃんはりっちゃんを睨み付けていた。
エリ「いったぁ……こいつ、殴りやがった……」
エリちゃんは口を切ったらしく、血を流していた。
りっちゃんはただ呆然と立ち尽くしている。
教室の空気は凍りついていた。
いちご「律!」
いちごちゃんが、今までに聞いた事の無い声でりっちゃんの名を叫んだ。
りっちゃんは一瞬ビクッとして、我に返った。
いちご「……やり過ぎ。」
律「……ごめん」
いちご「エリは言い過ぎ。」
エリ「……。」
張り詰めた雰囲気の教室に、始業のチャイムが鳴り響いた。
皆それぞれの席に帰っていった。
5時間目は、先生が体調不良の為自習となった。
いつもなら、自習の時は皆騒いだりするものだが、
昼休みのいざこざが尾を引き、教室は静まり返っていた。
授業の残り時間が半分位になった頃だろうか。
教室内には、ある異変が起きていた。
私の隣の席の姫子ちゃんが、小刻みに震えだしていた。
それは次第に大きくなっていき、ガタガタと机を揺らし始めた。
他にも何人か、震えている子がいた。
岡田春菜ちゃん、飯田慶子ちゃん、小磯つかさちゃん、中島信代ちゃん……ゾンビの子達だ。
唯「……姫子ちゃん、大丈夫?」
姫子「ふうぅぅ……うぅ、ふぅぅぅぅぅぅ……」
呼吸がおかしい。姫子ちゃんは右手で自分の左手を強く握っていた。
よく見ると、右手の爪が左手の肉に食い込み、血が流れている。
只事ではないと直感した。
周りの人も姫子ちゃんを心配そうに見ていた。
唯「姫子ちゃん……?」
姫子「ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛……」
姫子ちゃんは小さく地響きの様な唸り声を出し始め、それは段々大きくなっていった。
次の瞬間、姫子ちゃんはいきなり立ち上がった。
椅子は飛ばされ、教室の後ろの壁に激しく衝突した。
姫子「唯……」
姫子「唯……唯……ゆい……ゆ…い……」
唯「なに? 姫子ちゃん? 私はここにいるよ……」
姫子「もう駄目だ……もう抑えられない……もう……もう……」
唯「なにが駄目なの? 保健室行く? 和ちゃん、どうすれば……」
私は和ちゃんの方を見た。和ちゃんの顔は恐怖で引き攣っていた。
私が姫子ちゃんの方へ振り返ろうとした瞬間、私の体は何かに押され横に倒れた。
和「唯!!!」
私を押したの和ちゃんだった。
そして私が見たものは、和ちゃんの右手に噛み付いている姫子ちゃんの姿だった。
姫子ちゃんは既に「人間」ではなくなっていた。
教室に悲鳴が響いた。
姫子ちゃんは和ちゃんの腕の肉を喰い千切った。
その反動で和ちゃんは後ろに倒れ込んだ。
血が噴水の様に噴き出している。
辺りは真っ赤に染まっていた。
鉄の匂いが立ち込める。それが引き金になった。
他のゾンビの子達も一斉に近くの子に襲い掛かった。
教室は地獄絵図の様相になっていた。
和ちゃんの肉を食べ終えた姫子ちゃんが、私達の方に近づいてきた。
目は大きく見開かれ、口は真っ赤に染まり、人とは思えない声を発していた。
姫子「ぅ゛ぅ゛ぅ゛う゛う゛う゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぐぉぉぉぉぉぉぉぉ……」
和「唯!! 下がって!!」
和ちゃんはハンカチで傷口の上をきつく縛っていた。
私の手を引っ張り、自分の後ろへ私を引っ張り込んだ。
そして和ちゃんはシャーペンを握り、姫子ちゃんと対峙した。
次の瞬間、姫子ちゃんが和ちゃんに向かって来た。
和ちゃんは椅子を蹴り飛ばし、それが姫子ちゃんの膝に激突した。
姫子ちゃんが体制を崩したと同時に、和ちゃんは姫子ちゃんに飛び掛り、
深々と姫子ちゃんの目にシャーペンを突き刺した。
姫子ちゃんは物凄い悲鳴をあげ、腕を振り回した。
その腕に和ちゃんが当たり、和ちゃんの体は吹っ飛ばされ宙を舞った。
唯「大丈夫!? 和ちゃん!!」
和「なんとかね……この場から早く離れましょう!」
その時、澪ちゃんの悲鳴が聞こえた。
澪ちゃんの肩に噛み付いていたのは信代ちゃんだった。
信代「ぐお゛お゛お゛お゛お゛ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
澪「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁ!!!!」
信代ちゃんは澪ちゃんの両腕を掴み、澪ちゃんの体は宙に浮いていた。
澪「痛いいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!」
律「澪ぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
りっちゃんが信代ちゃんの腹部にドラムのスティックを何度も突き刺した。
信代ちゃんは奇声を上げ、澪ちゃんを投げ飛ばした。
そしてりっちゃんを睨み付け、大声を上げながら猛突進していった。
律「唯、和! 澪を頼む!! 私は平気だから」
和「分かったわ!! 行くわよ唯、澪!!」
和ちゃんは澪ちゃんを抱き起こしながら言った。
澪「で、でも律が!! 律ぅぅぅぅー!!!」
律「馬鹿澪! いいからさっさと隠れてろ! ぐっ!!」
信代ちゃんがりっちゃんの首を両手で締め上げている。
りっちゃんの体は宙に浮き、苦しそうに足をバタつかせている。
律「ぐぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ……」
りっちゃんはスティックを信代ちゃんの首に突き刺した。
それでも信代ちゃんは手の力を緩めない。
りっちゃんは苦痛で顔を歪めた。
和「唯、何してるの!? さっさと行くわよ!!」
私は和ちゃんの声で我に返り、彼女の後を追い掛けた。
教室の入り口付近では、つかさちゃんが曜子ちゃんを食べていた。
曜子ちゃんはまだ生きているのか、手足がピクピクと小さく痙攣していた。
つかさちゃんはふと顔を上げ、私たちの方を見た。
その黒い瞳には、一切の感情が感じられない。
真っ白な顔の口元は、曜子ちゃんの血で鮮やかな紅に染まっていた。
つかさちゃんは虚脱した表情で私を見詰めている。
近くに食料があるからなのか、私達を襲おうとはせず、彼女はまた食事を再開した。
私達は教室を後にした。
他のクラスも似た様な惨状になっていた。
恐らく、私達の教室の血の匂いが伝染していったのだろう。
後ろを振り向くと、私達の教室の前に、全身血塗れの曜子ちゃんが立っていた。
足や手、首などに肉を噛み千切られた傷が無数にある。
大抵の人間は、「完全に死ぬ」前に彼女の様に起き上がる。
大きく目を見開き、瞬きする事も無く、じっとこちらの様子を伺っている。
もはや彼女は人間ではない。
ふと、廊下から外を見た。
外には、悲鳴を上げながら、血に染まったワイシャツで逃げ惑う女生徒達がいた。
そして、それを追うゾンビの姿……。
そのゾンビ達は、桜ヶ丘高校の生徒だけではなかった。
血の匂いを嗅ぎ付け、どこからともなく湧いて来た者達。
校内にも校外にも、私達にとって安全な場所はどこにもなくなっていた。
緊急校内放送が流れ、生徒は速やかに外へ非難するようにと伝えられた。
しかし、あの情景を見れば、校舎の外が安全などと思えるわけがなかった。
和「生徒会室に行きましょう、あそこはドアも頑丈だし」
私達は校外へ逃げ出す事を諦め、校内に立て篭もる事にした。
澪ちゃんは全身をガタガタと震わせていた。
こんな状態では、外へ逃げ出すのは無理だと和ちゃんは判断したのだろう。
私達は生徒会室に逃げ込み、ドアに鍵を掛け、息を潜めた。
外からは「人間」の悲鳴と、人か獣か分からない奇声が絶え間なく聞こえてきた。
自分は今安全な場所に居る、そう感じた途端、一気に恐怖心が私の体の奥から湧いてきた。
先程までは、その光景が信じられず、まるで夢を見ている様な錯覚に陥っていたのだ。
私は目を瞑り耳を塞いだ。
恐怖で体がガクガクした。
それを止めようと、必死で口唇を噛んだ。
和「澪、大丈夫?」
澪「だ、大丈夫。和は平気か?」
和「私は大丈夫よ」
和ちゃんは本当に凄い。
酷い怪我をしているのに、他人を気遣う余裕があった。
私はどこにも怪我などしていないのに、頭の中は恐怖心で満ち、
これから自分が何をすべきかも分からずにいた。
真っ白になった頭の中で、私が一つだけ覚えていた事……。
「憂」
憂は無事だろうか。
しっかり者で、頭が良くて、運動神経も凄くて、私とは正反対の憂。
憂なら大丈夫だろうと思ってはいるが、私は不安を拭い去る事が出来なかった。
私を助ける為に怪我をした親友より、自分の妹の事を心配している。
我ながら、なんて薄情な人間だろうと思った。
それでも私は今、憂の事しか考えられずにいた。
何より早く憂の安否が知りたい。
私は無意識のうちに憂に電話を掛けていた。
コール音だけが鳴り響き、憂が電話に出る事はなかった。
唯(もしかしたら、あずにゃん達と一緒かもしれない)
私はあずにゃんに電話を掛けた。
あずにゃんの事も心配だったのは本当だ。
でも、私は妹の安全を確認する為にあずにゃんに電話を掛けたのだ。
私は最低の先輩だった。
結局、あずにゃんも電話には出なかった。
コールはした。私は、着信履歴見て二人が返信してくる事を待った。
しかし、私の携帯が鳴る事は無かった。
生徒会室に逃げ込んでから1時間が経過していた。
先程の阿鼻叫喚が嘘の様に、外は静まり返っていた。
泣き叫ぶ「人間」はもういなくなったのだ。
ゾンビ達はさらなる肉を求めて校外に出ていったのだろう。
そろそろ外の様子を見に行こう、和ちゃんが声を出したのと同時だった。
生徒会室の扉をドンドンと叩く音がした。
「お姉ちゃん?」
憂の声だ。
私は一目散に扉に駆寄り扉を開けた。
そこには憂と、憂の肩を借りて立っているりっちゃんがいた。
私は憂に抱きついた。
良かった、憂は無事だった。
その時の私は、憂の腕に小さな噛み傷がある事に全く気付いていなかった。
澪「憂ちゃん、梓や純ちゃんは無事なのか?」
澪ちゃんが尋ねた。
私は憂の無事を確認して喜んでいた自分を恥じた。
と同時に、あずにゃんや純ちゃんの事で頭が一杯になった。
今更こんな事を言っても信じてもらえないかもしれないが、
私は心の底から二人の無事を願っていた。
憂「分かりません……」
憂が俯きながら、小さな声で答えた。
憂のクラスは体育で、体育館にいたらしい。
何やら外が騒がしい、何かあったのか。
しかし、始めは誰もがそれ程気にしてはいなかった。
暫くして、血塗れの生徒が体育館に逃げ込んできた。
それを見て、誰もが事態は深刻であると気付く。
だが、その時には既に手遅れたっだ。
そして、その血の臭いをきっかけに、憂のクラスのゾンビ達が凶暴化した。
憂とあずにゃんと純ちゃんは、体育館から無事に逃げ出した。
純ちゃんは、このまま学校を出て、警察に連絡しようと提案した。
あずにゃんもそれに賛同した。
しかし、憂は私を心配し、学校に残って私を探すと言った。
憂はその場で二人と別れ、私の教室に向かったのだ。
そこで憂は、りっちゃんと他のゾンビが乱闘している現場を目撃する。
憂は昇降口から持ってきた傘を武器に、りっちゃんに加勢した。
あの時、憂ちゃんがいなかったらヤバかった、
りっちゃんは苦笑しながら私達にそう言った。
その後、あずにゃんと純ちゃんの無事を確認した。
ゾンビに噛まれてはいたが、とりあえず生き延びていた。
校庭で憂と分かれた後、憂を追って校舎の中に入ったらしい。
しかし、凶暴化したゾンビに襲われ、止む無く多目的室に逃げ込んだ。
そこから出るに出れず、二人はそこに留まっていたという。
あれだけの騒ぎが起きたにも関わらず、次の日には既に事態は沈静化していた。
凶暴化したゾンビ達も、霧の様にその姿を消していた。
といっても、噛み付き事件が終わったわけではない。
この桜が丘町から隣の町へ、そこからさらに次の町へと、
惨劇の場を移していっただけなのだった。
最初、数の上では圧倒的優位にいた人間達であったが、
ゾンビに致命傷を負わされた者達が凶暴化して蘇ると、
その数の差は瞬く間に逆転した。
他の町では、私達が体験した以上の惨劇が起きている事は間違いなかった。
人間が逃げる。それをゾンビが追っていく。
桜ヶ丘町が平穏になったのは、この町から「人間」がいなくなったからなのだ。
★4
唯3年 7月17日
またあの日の夢を見た。
あの日から二ヶ月近くも経っているのに、
まるで昨日の事の様に鮮明に頭の中に残っている。
時計を見ると、目覚ましが鳴る10分前だった。
寝汗を掻いてしまったので、シャワーでも浴びよう。
シャワーの後、いつもの様に身嗜みを整え、朝食とお弁当を準備、
起きてきた憂と朝食を食べ、家を出る。
玄関を出ると、いつものように和ちゃんがいて、互いに挨拶をする。
今日も昨日と変わらない、いつも通りの一日が始まる、
この時の私はそう思っていた。
ふと空を見上げると、今にも雨が降り出しそうな程、
黒く厚い雲に覆われていた。
和「午後から激しい雨が降るそうよ」
大丈夫、私はギターに掛ける防水カバーと、傘を2つ持ってきていた。
教室に入り席に座る。
窓から空を眺めると、雨がしとしとと降り始めていた。
外はまるで夜の様に暗く、それを見ていると私の心まで暗くなる。
早く音楽室に行きたい……。
私はさわちゃん先生が来るのをひたすら待っていた。
さわちゃん先生は、大体8時40分頃に私達の教室に来る。
しかし、今日は遅い。時計は既に9時を回っていた。
心臓の鼓動が早く、激しくなった。
あまりにも遅すぎる。
教室がざめき立ち始めた。
さわちゃん先生は、この学校の最後の教師だった。
そういう意味で、軽音部以外の生徒達にとっても彼女は特別な存在だった。
この場所が今でも「学校」であり続けられるのは、
彼女の存在があったからこそだと思う。
その彼女がいなくなってしまったら……。
私の体は震えていた。
私はどうにかしてそれを止めようとした。
しかし、私の体は荒波に漂う筏の如く、
自分の意思ではどうにも出来ない状態だった。
突如、停電が起き、教室も街も光を失った。
その時私達は、この停電が一過性のものだと思っていた。
しかし、失われた光が戻る事は無かった。
その理由はすぐに想像できた。
ライフラインを管理する「ゾンビ」達に異変が起きたのだと。
現代の人間は、電気に依存し過ぎている。
それを失えば、私達の生活は根底から崩壊する。
それは人間の精神を破壊するのに十分過ぎる出来事だった。
外からあの声が聞こえてきた。
まるで地獄の釜の蓋が開いたように。
私の脳裏には、あの日の映像がフラッシュバックされていた。
実際、あの日の再現がこの教室で起こりつつあった。
「世界は終わったんだ!」
「私達はもう終わりだ!」
「こんなのもう嫌!!」
教室から一斉に悲観と絶望に満ちた叫びが響いた。
和「……ここから出ましょう」
和ちゃんの一声で、私達は教室から出る事にした。
私はギターケースを背負い、席を立った。
「待ちなよ」
一人の生徒が私達の前に立ちはだかった。
「なんでお前だけ『人間』なんだよ……」
その子は私を睨み付けた。
その一言にクラス中の視線が集まった。
彼女のその言葉に含まれた意味を、皆即座に理解した。
『一人だけ人間のままなんて許せない』
『お前もゾンビにしてやる』
律「そこを退けよ……」
律「退けって言ってんだよ!!」
りっちゃんが立ちはだかっていた子を突き飛ばした。
それが乱闘のきっかけになった。
軽音部とクラスの子達の総力戦となった。
りっちゃん達は服の内側に隠し持っていた武器を取り出した。
軽音部の皆はこういう時の為に武器を携帯していた様だ。
そんな事、私は全然知らなかった。
和「近づくな!!」
和ちゃんが叫んだ。初めて聞く怒声だった。
先頭にりっちゃんと和ちゃんが立ち、サバイバルナイフを振り回した。
躊躇している余裕など全く無かった。
二人のナイフがクラスメイト達を切り裂いた。
いちごちゃんとしずかちゃんと澪ちゃんは、私を取り囲み、
近付いてくる子達に容赦なく一撃を浴びせていた。
いちごちゃんは、アイスピックの様な物で相手の顔を狙い突き刺した。
澪ちゃんとしずかちゃんは、果物ナイフのような物を振り翳していた。
それらの一連の動きに、一切の無駄は無かった。
恐らく、私が知らない間にあらゆる事態を想定して、
行動の打ち合わせをしていたのだろう。
この中で私だけが無力だった。
「おねえちゃん!」
入り口の方から、憂の叫ぶ声が聞こえた。
その手には、大きな出刃包丁が握られていた。
それで憂は近づく者を薙ぎ払い、いつの間にか私のすぐ横に来ていた。
梓「唯先輩!!」
扉付近にあずにゃんと純ちゃんが見えた。
二人はスタンガンの様な物を持っていた。
クラスメイト達は、あずにゃんと純ちゃんが私達の仲間である事を知っていた。
二人が教室に入ろうとするや、彼女達に数人の子が襲い掛かった。
咄嗟にスタンガンを押し付けたが、ゾンビの勢いに圧倒され、二人は押し倒された。
律「梓ぁぁぁぁぁー!!」
その時、アカネちゃん、三花ちゃん、ちかちゃんの3人が、
あずにゃん達に襲い掛かってる子達を引き離した。
そして、そのままその子達と取っ組み合いを始めた。
やっぱり3人は私達の味方だった。
和「憂、唯を安全な所へ連れて行って! 早く!!」
憂「わかった、和ちゃん!」
憂は私の手を引っ張り走り出した。
あずにゃん、純ちゃん、澪ちゃんが私達に付いてきた。
和ちゃんとりっちゃんは、まだ教室内で戦っていた。
いちごちゃんとしずかちゃんは、アカネちゃん達に加勢していた。
奇声、悲鳴、怒号、それらが混じり合い、学校を覆い尽くした。
それに呼応するかの様に、1年生、2年生が次々と凶暴化し、私達の前に立ちはだかった。
先頭に憂が立ち、行く手を阻む者達を容赦なく皆殺しにした。
ある者には側面から首に包丁を突き刺し、ある者には心臓に包丁を突き立てた。
憂が一刺しすれば、刺された者は瞬く間に崩れ落ち、動かなくなった。
私達は音楽室に向かった。
憂は前方の敵を全て排除し終えると、
今度は素早く後方に移り、追ってくる者達に刃を振るった。
私達は音楽室の前まで辿り着いた。
階段の下には、私達を追ってきたゾンビ達もいる。
あずにゃんと純ちゃんは、スタンガンを私に手渡し、
入り口に置いてあったバットを手に取った。
梓「唯先輩と澪先輩は中に! 私達はあいつらを食い止めます!」
そう言うと、私を音楽室に押し込め、ドアを閉めた。
澪ちゃんは即座にドアの鍵を閉めた。
梓「私達が言うまで絶対にドアを開けないで下さい!」
純「梓、来る!!」
梓「澪先輩、唯先輩をお願いします!」
そう告げた後、階段を下りて行く音が聞こえた。
ドアの向こうからは、金切り声が絶え間なく響いてきた。
澪ちゃんはソファーに座って震えていた。
怖がりの澪ちゃんにとって、今の状況は耐え難いものの筈だ。
澪ちゃんが私を守るんじゃない。私が澪ちゃんを守るんだ。
私は両手にスタンガンを持ち、音楽室の入り口を見据えた。
澪「唯……ごめん……」
澪ちゃんが突然小さな声で私を呼んだ。
唯「何? 澪ちゃん?」
澪「唯……ごめんな……」
唯「澪ちゃん……どうして謝るの?」
澪「私は……もう駄目だ……もう耐えられそうにない……。
私もあいつらと……同じになる……」
唯「澪ちゃん……」
私は、ソファーに座っている澪ちゃんの正面に移動した。
澪ちゃんは震えながら、制服の袖を捲り上げ、自らの右腕にナイフを突き刺していた。
唯「澪ちゃん! 何してるの!?」
澪「もう駄目だ……痛みでも抑えられないんだ……」
澪ちゃんの右腕の肉は削げ落ち、白い骨が見えていた。
私はその傷を見て、全てを理解した。
何故澪ちゃんがベースを弾かなくなったのか。
弾けなかったんだ。
あの様子では、右腕の神経は完全に切断されている。
澪「私は弱い人間なんだ……律みたいに強くなれないんだ……。
唯の事が大好きだったから、唯を傷付けない様に頑張った……。
私がもっと唯を好きだったら……もっと頑張れたかもしれない……。
ごめん唯……ごめんな唯……」
澪ちゃんは俯き、呻き声を上げた。
私の目から涙が溢れた。
あの痛がりの澪ちゃんが、血を見るのが怖い澪ちゃんが、
骨が見えるまで自分の腕を傷付けていたんだ……。
私を傷付けない為に、自分をこんなに傷付けていたんだ。
それなのに……それなのに澪ちゃんは私に謝るなんて……。
澪ちゃんはこんなに頑張ってくれた。私なんかの為に。
彼女が私に謝る事なんか何一つ無い。
むしろ私が謝らなければならないのに。
私は澪ちゃんを抱きしめた。
ごめん、ごめんね澪ちゃん……。
澪ちゃんの腕がこんなになっても気付かないでいてごめんね。
嗚咽しながら、私は澪ちゃんに謝罪を繰り返した。
恐らく、他の皆も同じだろう。
私が考えている以上に、皆の病状は進行している。
そして、衝動を抑える為に自らを傷付けているのだ。
痛みで自我を保っていたんだ。
だから、夏なのに冬物を着ていたんだ。
自らの傷を隠す為に……私に悟られない様に。
思えば、私は憂の腕の肌すらずっと見ていない。
憂はいつからか、家でも常に長袖の服を着ていた。
そんな妹の変化にも気付かなかったなんて。
皆、自分を犠牲にして私を守っていたんだ。
私はそんな事も露知らず、自分の事ばかり考えていた。
私はなんて罪深いのだろう。
その時、ドアを叩く音がした。
律「澪、唯、私だ! 駐車場に行くぞ! 和達が車で待機してる!」
私はドアまで走り、鍵を開けた。
ドアを開けると、りっちゃんとあずにゃんと純ちゃんが立っていた。
唯「りっちゃん……澪ちゃんが……澪ちゃんが……」
律「澪がどうした? 澪?」
ソファーに座ったまま、澪ちゃんは立とうとしない。
律「何してる澪、行くぞ!」
澪「私は行けない……律、唯を任せたぞ……」
律「何言ってんだよ澪! お前も来い!」
澪ちゃんは静かに立ち上がり、こちらを見た。
右手からは血が滴り落ちている。
それを見て、りっちゃんも理解した。
律「澪……」
りっちゃんは澪ちゃんに近寄り、力強く抱き締めた。
律「唯、行ってくれ。梓、純ちゃん、唯を頼む」
梓「……分かりました。」
あずにゃんが私の手を引っ張った。
私はそれに抵抗する事も、何か言葉を発する事も出来ずにいた。
ただただ、私は引き摺られる様に歩いた。
澪「何で……律が……まだここにいるんだ……?」
律「お前を残して行けるわけないだろ……」
澪「律は強いな……私達よりずっと前に感染しているのに……」
律「私が居なくなったら、澪は一人じゃ何もできないだろ……」
澪「律には……食肉衝動が無いのか……?」
律「……。」
澪「あるんだな……。いつからだ……? どうして今まで……何も言わなかったんだ?」
律「……それを言ったら、お前が怖がるだろ……」
澪「律なら……怖くない……。何があっても……お前なら怖くなんてない……。
ゾンビになっても……私はお前にずっと傍に……いて……欲しかったんだ……」
律「そっか……。私はお前の傍にいていいんだな……?」
澪「当たり前だろ……馬鹿律……」
律「なら、私はずっと澪と一緒にいるよ……」
澪「ありがとう、律……」
律「……馬鹿。」
澪「律……」
律「何だ、澪?」
澪「律……私を……殺して……くれないか……?」
外は激しい雨になっていた。
駐車場に着くと、憂が私達を見つけて手招きをしている。
その近くの車から、エンジンを掛ける音が聞こえた。
運転席には和ちゃんが乗っているのが見える。
あの日に死んだ教師のスポーツワゴンだ。
和ちゃん達は、事前に車のキーを確保していたらしい。
いざという時に、車で逃れる為に。
和「いちごとしずかは来ないわ。早く乗って!」
二人は怪我をしたアカネちゃん達を残して行けなかったらしい。
ゾンビ達……崩壊者達がすぐ後ろに迫ってきていた。
憂は助手席に、私達3人は後部座席に乗り込んだ。
和「しっかり掴まってなさい!!」
和ちゃんは勢いよくアクセルを踏み込んだ。
私達は、その衝撃で座席に体を打ち付けた。
和ちゃんは、立ち阻む者達を勢いよく跳ね飛ばした。
フロントガラスにはヒビが入ったが、そんな事はお構いなしだった。
純「和先輩って運転出来たんですね」
和「操作の仕方はネットで調べたわ」
梓「この辺はもう駄目ですね……」
和「そうね。それじゃあ、梓の家に行くわね」
私達はあずにゃんの家に来た。
家の広さ、構造から、何かあった時はここに避難する予定だったという。
窓やドアは頑丈に補強されていて、食料や日用品、武器等が貯めてある部屋もあった。
ここに立て篭もれるよう、少しずつ皆で集めていたらしい。
またしても、私の知らない所で物事が進んでいた。
こういう計画は、主に和ちゃんとりっちゃんが立てていたらしい。
私達はあずにゃんの部屋に集まった。
梓「電気とガスは駄目です。水道はまだ平気みたいですね」
和「ここに来るまでの街の様子からみて、この街はもう終わりね……」
憂「……」
純「……これからどうします?」
和「街を出るしかないわね……」
梓「行く当てはあります?」
皆の家族は既にいなくなっていた。
携帯の連絡がつかない事から、
死亡しているか、崩壊者になっている可能性が高かった。
私の両親もずっと音信不通だ。
和「都市部なら物資は豊富だろうけれど、その分、危険かもしれないわ。
地方の方が、人が少ないから安全性は高いと思う。
それに、場所を選べば自給自足だって可能よ」
純「サバイバル……ですか?」
和「問題無いわ」
梓「和先輩がそう言うと、何か安心できますね」
憂「和ちゃんは何でもできるんだよ~」ニコ
和「フフフ、ありがとう」
和ちゃんは小さい頃から何でも出来た。
和ちゃんが問題無いと言うのなら、その通りなのだろう。
それに比べて私は……。
唯「ちょっとお手洗いに行ってくるね」
私はそんなに切り替えが早く出来る人間ではなかった。
ここに居ない友人達の事を考えると、胸が苦しくなった。
何も出来ない私が、こんな事を言える立場じゃないのは分かっている。
私が一番皆の足を引っ張っていた事も自覚している。
その事を思うと、私は眩暈がし、吐き気を催した。
私はトイレで何度も嘔吐した。
暫くすると、胃から吐き出す物は何も無くなっていた。
部屋に戻ろうと扉の前まで来ると、中から会話が聞こえてきた。
純「……唯先輩をゾンビにすべきです」
私はドアノブに手を掛けようとしたが、それを止めた。
梓「純、あんた何言ってんの? そんな事出来るわけないでしょ!?」
純「じゃあ、これからずっと唯先輩を守っていけるの?
澪先輩だってああなっちゃったんだよ?
もしかしたら、私達が唯先輩を殺しちゃうかもしれないじゃん!」
憂「……。」
和「梓も純も落ち着いて……」
純「私達だって、いつ凶暴になるか分かんないでしょ?
みんな痛みで症状を紛らわせて隠してるだけじゃん!
唯先輩がゾンビになれば、少なくとも襲われる事は無いんだよ?
他の奴らにも、私達にも! 私の言ってる事、間違ってる?」
梓「そ、それは……」
和「純……。私も憂も、唯をゾンビにする気は無いわ。
私達は、何があっても唯を守り続けるから」
純「和先輩達はいいですよ。
和先輩は唯先輩の幼馴染だし、憂は妹だし。
唯先輩に対する想いが強いから、自我を保てるでしょうね。
でも、私と梓は違うんですよ。
この中で凶暴化するとしたら、まず私で、次に梓でしょう?
そうしたら、和先輩はどうしますか?」
和「私は……貴女達が凶暴化したら、躊躇無く貴女達を殺すわ」
純「でしょうね。貴女にとって大切なのは唯先輩と憂ですもんね。
私と梓なんて、邪魔になったらいつでも切れるんでしょ?
貴女にとって、私達はその程度の存在なんですよね。
私だって、貴女が梓を殺そうとするなら、貴女を殺す事に躊躇しませんから。
ぶっちゃけ、私達と和先輩の人間関係なんてそんなもんですから、ねえ?」
憂「純ちゃん……」ポロポロ
梓「そんな事言うのやめてよ純……」ポロポロ
純「私は梓の為に言ってるんだよ。
梓が唯先輩を大好きなのは分かってる。
でも、和先輩や憂に比べたら、その気持ちは敵う筈が無い。
だとしたら、そのうち梓も唯先輩を傷付けるかもしれないんだよ?
大好きな唯先輩を傷付ける事になってもいいの?」
梓「それでも、私は唯先輩にゾンビになんかなって欲しくない……。
私が凶暴化しても、憂と和先輩が唯先輩を守ってくれる……。
私は唯先輩の為なら……死んでもいいの!」
純「何で梓はそこまで……私達がゾンビになったのだって、唯先輩のせいじゃん!」
唯「それってどういう事……?」
私は純ちゃんの言葉を聞いて、無意識のうちにドアを開けていた。
梓「唯先輩……」
純「私達は憂を追い掛けて校舎に入った後、
ゾンビに襲われて多目的室に隠れたって言いましたよね。
その時は私達、まだ噛まれて無かったんですよ。」
梓「純……やめて……」
純「物陰に隠れて、ゾンビ達をやり過ごそうとしてたのに……」
梓「もう……やめてよぅ……」
純「唯先輩、梓に電話したでしょ?」
梓「やめてぇぇぇぇぇぇー!!」
唯「あ……あぁ……」
純「バイブって、静かな所だと結構響くんですよ……音が」
唯「あぁ……あぁぁぁぁ……」
純「唯先輩の電話のせいで、私達ゾンビに見つかって噛まれたんですよ!!」
唯「うああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
私は目の前が真っ暗になって、その場に倒れ込んだ。
憂「お姉ちゃん!!!」
唯「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……
ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……
ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
私はそのまま意識を失った。
どの位眠っていただろうか。
目を覚ますと、私はあずにゃんのベッドの上にいた。
横を見ると、憂がベッドに寄り掛かり、居眠りをしていた。
憂にもちゃんと毛布が掛けられていた。
和「目が覚めた?」
唯「……あずにゃんと純ちゃんは?」
和「別の部屋にいるわ……」
時計の針を見ると、午後の4時を指していた。
唯「和ちゃん……もう無理だよ……」
和「大丈夫、唯は何の心配もしなくていいのよ……」
唯「嫌だ……もう嫌だ……限界だよ……」
和「大丈夫、大丈夫だから……。唯なら絶対大丈夫だから……」
唯「何で和ちゃんはそんな事言うの……?
酷いよ……。私は和ちゃんみたいに強くないから……」
和「私は強くなんかないわ……出来る事をしているだけなの」
和ちゃんの目からは涙が溢れていた。
和ちゃんは私を強く抱きしめた。
和「唯がどんなに辛いか分かってる。
唯がどんなに悲しんでいるのかも分かってる。
それでも、私は唯に人間のままでいて欲しいの。
私が唯にお願いする、最初で最後の我侭なの。
お願い唯、最後まで諦めないで。
唯が諦めてしまったら、私も諦めてしまうから。
唯が諦めなければ、私は私のままでいられるから……」
唯「ずるいよ和ちゃん……。
私は今までずっと和ちゃんに迷惑を掛けてきたから……、
そんな事を言われたら……私は和ちゃんに逆らえないよ……」
和「私はずるい女なのよ……」
唯「和ちゃんの意地悪……」
和ちゃんは私の頭を優しく撫でてくれた。
唯「和ちゃん、左腕を見せて……」
和ちゃんは制服を脱ぎ、ワイシャツを捲くって腕を見せてくれた。
広範囲に包帯が巻かれ、その包帯は血で黒く染まっていた。
それはゾンビ達に因るものではない。
その傷は、和ちゃんの自傷行為に因る物だ。
唯「私は和ちゃんをこんなに傷付けていたんだね……。
和ちゃんだけじゃない、他のみんなも、私が傷付けていたんだ……。
ごめんね……ごめんね和ちゃん……」
和「唯……、これは傷なんかじゃないわ。
これはね、私がまだ人間であるという証なの。
大好きな人を守ったという勲章なのよ。
私はね、何があっても最後まで人間でいたいの。
確かに、体はウイルスに侵されてゾンビになってしまったかもしれない。
でもね、心は……心だけは、絶対にゾンビになんかなったりしないわ」
その時、ドアの向こうから啜り泣く声が聞こえてきた。
ドアが開き、あずにゃんと純ちゃんが入ってきた。
和「……聞いてたの?」
梓「ごめんなさい……」
純「ごめんなさい、和先輩……。
私、和先輩の気持ちなんて、全然考えてませんでした……。
ただ自分が苦しくて、辛くて、どうしようもなくて、
梓の為とか言って、自分の不満をぶつけていたんです……」
純「ごめんなさい、唯先輩……。
唯先輩は悪くないって分かってるんです……。
誰かの所為にしてしまいたかっただけなんです……。
ごめんなさい……ごめんなさい……」
純ちゃんは大声を出して泣き出してしまった。
和ちゃんは純ちゃんを抱きしめた。
その声で憂は目を覚ました。
憂「純ちゃん、泣かないで……」
憂も純ちゃんを抱きしめた。
私もあずにゃんも、純ちゃんを抱きしめた。
私は、軽音部の4人で抱き合って泣いた日の事を思い出していた。
その日、私達は涙が枯れるまで泣き続けた。
泣き疲れた私は、そのまま眠りに落ちてしまった。
翌日朝7時、私達は目覚ましのベルで目を覚まし、
身支度を整え、この街を出る為の準備に取り掛かった。
朝食を済ませた後、あずにゃんの家の大きなワゴン車に必要な物を詰め込んだ。
和「それじゃあ、出発しましょう」
目的地は長野の軽井沢に決まった。
以前、そこに核シェルターを作ろうという話があったのを、
ネットで見た気がすると、あずにゃんは言う。
誰もそんな話を信じているワケではないけれど、
どうせ行く当てもない旅だ。
もしかしたら、本当にそれがあって、
そこに避難している人達がいるかもしれない。
そんな淡い夢を見ていた。
カーナビを軽井沢駅にセットして、私達は軽井沢へと向かった。
今回は安全重視の為、法定速度以下のスピードで走っていた。
その途中で、私達はこの国で起きている惨状を目の当たりにする。
荒れ果てた街並み、放置されたままの死体……。
桜ヶ丘町はそれらに比べれば断然ましだった。
途中、瓦礫や放置された車によって通行出来ない道もあった。
迂回したり、車から降りて障害物を取り除いたり……。
軽井沢駅に着く頃には、すっかり辺りは暗くなっていた。
和「ここも電気は駄目みたいね。
電気が無いと、建物の中は暗くて危険だわ。
今日は車内で寝ましょう」
和ちゃんは、車を駅の駐車場に止めた。
今日はここで一泊する事になる、誰もがそう思っていた。
そんな時、駅の方から人影が近付いて来るのが見えた。
唯「誰か近付いてくるみたい……」
皆武器を手にした。私も両手にスタンガンを握った。
けれど、昨日スタンガンを手にしたあずにゃんが、相手に押し倒されている所を思い出し、
私は2つのスタンガンをポーチの中にしまい、代わりに金属バットを手にした。
私達は息を潜めて、相手の出方を伺っていた。
どうやら、こちらの存在に気付いてはいないらしい。
人影は私達の車から離れていった。
しかし、安心してはいられなかった。
駅の中から次々と人影が現れたのだ。
耳を澄ますと、奇妙な声が聞こえてくる。
私達は確信した。彼等は「人間」じゃない。
幸いにも、彼等は私達に気付いていなかった。
このまま息を潜めていればやり過ごせる、そう思っていた。
その時、荷物の中の目覚まし時計が鳴り響いた。
時計は7時を示している。
今日掛けた目覚ましを完全に止める事を忘れていた。
私達に気付いた彼等は、奇声を発しながら物凄い勢いで私達に向かって来た。
和ちゃんはエンジンを掛け、一気にアクセルを踏み込んだ。
どこに向かうのかなど、考えている余裕は全く無かった。
とにかく、この場が離れる事だけを考えていた。
道なり数百メートル進んだ所で、突然車は停止した。ガス欠だった。
後ろを見ても、彼等の姿は見えない。
しかし、彼等が発する奇声は、確実に私達に近づいて来ていた。
和「車は捨てて行きましょう!」
私はギターケースとポーチ、バットを持って車を降りた。
暗闇の中、私達はただ只管に走った。
梓「あの建物に隠れましょう!!」
そこはこの街の公民館だった。
私は入り口のガラス戸をバットで破壊した。
私達は、その公民館の最上階である3階の一室に身を潜めた。
その部屋は見晴らしが良く、私達が走ってきた道路を見渡せた。
また、バルコニーには非常階段が設置されていて、
万が一の時には、素早く外に逃げる事も可能だ。
和ちゃんとあずにゃんは、そこから外の様子を伺っていた。
暫くして、二人が部屋に戻ってきた。
和「アイツ等は私達を見失ったみたいよ」
梓「明日になったら、一度荷物を車に取りに行きましょう」
和ちゃんは頷いた。
和「軽井沢って、夏なのにこんなに涼しいのね。
今日がずっと曇りだったからかもしれないけれど。
毛布か何か無いか、ちょっと探してくるわ」
梓「私も行きます」
二人は部屋から出て行った。
和ちゃんの言う通り、ここは凄く肌寒かった。
あの日以来、あまり私に寄り添う事の無くなった憂が、
ぴったりとくっ付いて、うつらうつらとしていた。
その様子を、純ちゃんが部屋の隅っこで一人体育座りをして見ていた。
唯「純ちゃんもこっちにおいで……」
純ちゃんは立ち上がり、私の横に来てちょこんと座った。
純ちゃんは私の肩に頭を寄り掛からせた。
もこもこの髪の毛が私の顔に当たり、少し擽ったかった。
私は二人を優しく抱き抱えた。
唯「あったか、あったかだよ……」
純「あったかいです……」
純ちゃんは小さく呟いた。
私はそのまま眠りに落ちていた。
ふと、目が覚めた。
外は既に明るくなり始めていた。
私達は、いつの間にか毛布を掛けられ、布団の上に綺麗に寝かされていた。
右には憂と和ちゃんが、左には純ちゃんとあずにゃんが小さな寝息を立てていた。
私は彼女達を起こさぬよう、静かに布団から出た。
部屋からこっそりと抜け出し、私はお手洗いに向かった。
用を足し、手を洗っていると、廊下の方から物音が聞こえた。
唯「誰?」
私が廊下に出ると、そこには血塗れの巨漢が立っていた。
男は私を無感情な目で見詰め、次の瞬間、奇声と共に私に襲い掛かってきた。
私は反射的に悲鳴を上げた。
私の声に反応して、皆が部屋から飛び出してきた。
私は男から離れようとしたが、すぐに掴まってしまった。
男は私の首を両腕で締め上げる。
憂「お姉ちゃん!」
和「唯!」
梓純「唯先輩!!」
4人は一斉に巨漢に飛び掛り、男の腕を私から引き離そうとした。
急いで来た為か、誰も武器を持っていなかった。
腕力には圧倒的な差があり、男の手はなかなか私から離れない。
私は目の前が真っ白になり、意識が朦朧としていた。
純ちゃんが男の腕に思いっ切り噛み付き、
あずにゃんが男の目に指を突き刺した。
刹那、私は重力を失った。
私は男に投げ飛ばされ、壁に頭と体を打ち付けた。
唯「ううぅぅぅ……」
男は奇声を上げ蹌踉めき、手摺りから階下へ落下していった。
私の名前を呼ぶ声がしたけれど、頭がぼーっとしてよく分からない。
私はそのまま意識を失った。
コメント 7
コメント一覧 (7)
28週後の最初を思い出した
感情のままに字を追うのが一番だな
怖いと言うよりも悲しみがこみ上げてきた。
>>142を読んだところで涙が止まらなかった・・・それぞれの思惑が良く考えられてるわ・・・
文章だけでよくこれだけの怖さを表せたなぁ
途中何度も読むのを止めようと思ったが、でも結局最後まで読んでしまった。
このSS、名作の呼び声高いのが良く分かったよ