- 唯「ゾンビの平沢」 1
唯「ゾンビの平沢」 2
唯「ゾンビの平沢」 3
唯「ゾンビの平沢」 4【完結】
152:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 03:17:15.18:oU4XMhGz0
★5
目を覚ますと、涙目の憂が私の顔を覗き込んでいた。
憂の横には、消毒液と包帯が転がっていた。
唯「憂……」
憂「お姉ちゃん! お姉ちゃん!!」
私は憂の頭を撫でた。
唯「憂、泣かないで。私は大丈夫だよ……」
梓「唯先輩、大丈夫ですか?」ウル
唯「私はへっちゃらだよ~」グッ
和「近くで鍵の付いた車を拾ってきたの。
早速だけど、その車でこの街から出ましょう。
唯、動ける?」
唯「うん、平気!」
和「じゃあ早速行きま……」
純「や……ヤバ……ヤバイ……ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ……」

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韓国からポーランドに輸出されるはずだった戦車、軽戦闘機、自走砲などの「K防産」、すべて霧散して夢と終わる可能性も…
153:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 03:19:25.92:oU4XMhGz0
梓「純……?」
純「きた……ヤバイ位きた……私……無理……」
その言葉が何を意味するのか、私達は知っていた。
純ちゃんの体は激しくガタガタと震えていた。
純「は、早く行って……ち、血が……」
私は頭から出血していた。
その血の匂いが、純ちゃんを蝕んだのだ。
純「わ、私は人間だ……人間なんだ……ニンゲンニンゲンニンゲン……」
梓「皆さん、先に行ってて下さい! 私が残りますから!! 」
憂「梓ちゃん!」
梓「憂、和先輩……。唯先輩を……お願いします!」
和「……分かったわ。」
唯「そ、そんな……」
155:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 03:21:52.13:oU4XMhGz0
梓「唯先輩、ごめんなさい……。ここでお別れです。
でも、大丈夫です。唯先輩には憂と和先輩が付いてますから」
純「わ、私の事はいいから……梓も行って……」
梓「純を一人で置いてけるわけ無いじゃん……親友なんだからさ……。
あんた一人じゃ……私が付いてなきゃ、全然駄目な奴だしさ」
純「寂しがり屋の梓に……言われたくないっての……」
憂「純ちゃん……」
純「憂……お姉ちゃんを一人にしちゃ駄目だからね……。
和先輩、和先輩の凄さを改めて知りました……もっと仲良くしたかったです……。
唯先輩、唯先輩の笑顔は素敵でした……だからいつでも笑顔でいてください……」
唯「うん……分かったよ純ちゃん……」
私は泣きながら、目一杯の笑顔を見せた。
純ちゃんは優しい顔で笑ってくれた。
私達は二人を置いて車に向かった。
158:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 03:25:18.55:oU4XMhGz0
外に出て、表の道路に止めてあるという車に向かう。
しかし、私達はその車に乗る事は出来なかった。
和ちゃんが手に入れたという車の周りには、
凶暴化したゾンビ……「崩壊者」達が集まってきていて、
とても近付けるような状態ではなかった。
そのうちの一人が私達に気付いた。
無機質な魚の様な目で私達を凝視している。
その様子に別の崩壊者も気付き、私達の方に顔を向けた。
皆、同じ目をしている。
その大きく開かれた黒い瞳からは、人間としての感情を読み取る事は出来ない。
小さな唸り声を上げ、私達を威嚇している。
一人、二人、私達の方にじりじりと近づいて来た。
それに合わせ、私達も後退りをする。
次の瞬間、崩壊者達が一斉に私達の方に駆け寄ってきた。
和「唯! 走って!」
和ちゃんの声を聞いて、私は只管走った。
後方からは、凄まじい雄叫びと金切り声が聞こえてくる。
振り返ってはいけないと思いつつも、
私は憂と和ちゃんが気になって後方に目を向けた。
二人は私の後を追いながら、襲い掛かってくる崩壊者達に応戦していた。
159:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 03:28:35.88:oU4XMhGz0
どれ位走っただろうか。
私達は市街地を抜け、郊外まで来ていた。
道路の両脇には青々と茂った木々が立ち並び、延々と先まで続いている。
振り向くと、遥か後方で憂と和ちゃんが崩壊者達と交戦していた。
いつの間にか、二人とかなりの距離が開いていた。
また、私だけが逃げている……。
仲間を犠牲にして、私だけが安全な所で……。
本当は戻って二人に加勢したかった。
しかし、運動神経の悪い私が行った所で、足手纏いになるのは明白だ。
昨日とは打って変わり、雲一つ無い晴天が広がっている。
夏の日差しが容赦なく私に降りかかる。
背中のギターケースが一段と重く感じられた。
滝の様に流れる汗が止まらない。
また意識が朦朧としてきた。
でも、ここで倒れるわけにはいかない。
倒れたらまた迷惑を掛ける事になる。
今、私に出来る事は、歩を前に進める事だけなのだ。
160:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 03:31:19.67:oU4XMhGz0
私は無力な存在だ。
みんなに守られて、みんなを傷付けて、みんなを苦しめて……。
そんな私が最後まで生き残るなんて、世の中は間違っている。
何故神様は、私にこんなに素晴らしい友人達を与え、
その友人達に惨い仕打ちを加えるのか。
本来その仕打ちを受けるべきは、私の筈なのに。
私の様な無力の人間が生き残って何になるというのだ。
他人に迷惑を掛けるだけじゃないか。
憂や和ちゃんみたいに、他人を救える人間にはなれないんだ。
誰でもいい、あの二人を助けて下さい。
その為なら、どんな代償も払うから。
無力な私の代わりに、あの二人をどうか……。
視界がかなりぼやけてきた。そんな時だった。
幻覚かもしれない。
私の視界の先に、装甲車のような物が映っていた。
161:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 03:33:44.56:oU4XMhGz0
「君は人間か?」
装甲車の横の人影が、スピーカーのような物で話し掛けて来た。
この人達は「人間」だ。
唯「たすけて……助けて……! 助けてーーーーーー!!!!」
私は残る力の全てを込めて叫んだ。叫び続けた。
人影が装甲車に乗り込むと、私に向かって動き出した。
装甲車は私の近くまで来て止まった。
兵1「君、大丈夫か?」
唯「たすけて……たすけてください……おねがいします……」
私はその場に倒れ込みながらも、後方を指差しながら声を絞り出した。
兵2「もう大丈夫だからね、安心しなさい」
兵1「こちら第三捜索部隊、要救助者を確保、十代女性、感染無し。」
兵3「先方よりレベル5感染者接近、数10、来ます!!」
兵1「迎撃体制、これより、レベル5感染者を殲滅する!」
兵士達が感染者に向けて一斉に銃を向けた。
163:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 03:37:15.64:oU4XMhGz0
唯「まってください……あのなかには……まだ……」
兵1「てえええぇぇぇぇぇっっっーーー!!」
私の言葉は、銃声に掻き消された。
乾いた音が辺りに鳴り響いた。
唯「やめて……やめてよおおおぉぉぉぉぉぉぉっっっーーー!!!」
私の言葉は彼等には届かなかった。
彼等は暫くの間、感染者達に向けて銃を撃ち続けた。
兵1「撃ち方止め!!!」
兵1「殲滅完了、帰還する」
そこには、もう立っている感染者は一人もいなかった。
皆地面に伏せて、ぴくりとも動かなかった。
憂と和ちゃんも……。
唯「あああ……ぁぁぁぁぁぁぁ…………」
私の意識は、海溝の闇に引き込まれるかの様だった。
兵士達が私の体を揺すり、何か話し掛けている。
私は目を瞑った。
そして全ての情報は遮断された……。
164:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 03:40:28.62:oU4XMhGz0
気が付くと、私は白い部屋のベッドに寝かされていた。
汗を掻いてベトベトだった筈の体は、妙にすっきりしていた。
誰かが私の体をタオルか何かで拭いてくれたのだろう。
私は病衣を着ていて、腕には点滴をされていた。
ベッドの横には、着ていた筈の制服が綺麗に畳まれて置かれ、
近くには私のポーチとギターケースもあった。
看護師「あら、目が覚めたみたいね」
優しそうな女性看護師が、笑顔で私に話し掛けた。
看護師「あなたは丸3日間寝ていたのよ」
私は3日も寝ていたんだ……。
看護師「今まで大変だったでしょう?
もう大丈夫よ、今先生を呼んでくるから待っててね」
暫くして、その看護師は医師を連れて戻ってきた。
165:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 03:42:46.28:oU4XMhGz0
医師「お名前は?」
唯「……」
医師「年は?」
唯「……」
医師「君は何処から来たのかな?」
唯「……」
医師と看護師は顔を見合わせた。
極度のストレスと疲労の所為だろう、
医師はそんな風な事を看護師に話していた。
私は最早言葉を発する気力すら失っていた。
暫くの間、私はこの病室で安静にする事となった。
166:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 03:44:38.00:oU4XMhGz0
その後、この場所についての様々な話を聞かされた。
今、ここにはおよそ5000人の「人間」が住んでいて、
その人達が数年暮らせる程の物資が蓄えられているらしい。
皆各自役割を持っていて、ここでの共同生活を営んでいる。
私も元気になったら役割を与えられ働く事になる。
私を助けたのは、この施設の所有者の私兵団。
元自衛隊員や、元警察官が主体らしい。
ここは元々、どこかのお金持ちが作らせた、私設の核シェルターらしい。
今は噛み付き病からの避難施設として使われている。
国、企業、個人が作ったこういう施設は、日本各地にあるという。
戦争、災害等に備えて、私達一般人が知らない間に、事は着々と進められていた。
救われる人間と救われない人間の「選別」も。
167:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 03:48:49.44:oU4XMhGz0
それから一週間、私はこの病室で過ごした。
食事が出されても殆んど喉を通らず、
私はみるみるうちにやせ細っていった。
医師からは、まだ暫く休むようにと言われた。
でも、私はそれを断り、皆と同じよう働く事を志願した。
何もしないで生かされる事が苦痛だった。
「受け付けカウンター(受付)」と書かれた所で、
必要な衣類とこの施設の地図、白いIDカードを渡された。
このIDカードは様々な役割を果たしていて、ドアの鍵にもなっているという。
無くすと大変だからと、大切に管理するよう念を押された。
私の仕事は明日からと言われ、明日の朝食後にまた受付に来るようにと言われた。
白く無機質な長い廊下を歩き、私は自分に与えられた部屋に向かった。
一般人の居住区は男女分かれていて、数人ずつの相部屋になっているという。
しかし、私は病気を理由に、特別に小さな個室が与えられた。
相部屋だとストレスが溜まり、私の病状を悪化させる可能性があるとの事だった。
私の荷物は、制服とポーチとギターだけ。
その狭い部屋は、私にとっては十分過ぎた。
私は部屋の中央にあった台を横にずらし、
用意されていた布団を敷き、そのままそこに倒れ込んだ。
何も考えたくなかった。目を瞑り、必死に眠りに就こうとした。
168:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 03:54:25.01:oU4XMhGz0
起床は6時半で就寝は23時。
朝食は7時から8時、昼食は12時から13時、夕食は19時から20時。
その間に食堂に行き食べなければ、食事は無しとなる。
朝食後は受付に行き、その日一日の仕事の指示を受ける。
20時から23時は自由時間で、その間に入浴を済ませなければならない。
規律を著しく乱す者には罰則があり、最悪の場合ここから強制退去させられるらしい。
自由に過ごしてきた人からすれば、監獄のような生活と思われるかもしれない。
しかし、ここでは安全と食事と住居が保障されているのだ。
あの地獄を体験した人なら、それだけでここの暮らしがいかに幸せかを理解出来るだろう。
私は部屋の隅に置いてあるギターに目をやった。
私が大事に抱えここまで持ってきたギー太。
でも、もう弾く事の無い物。無用の長物……。
いっその事、壊してしまおうか。
私はギー太を取り出した。
重い。
今の私には、ギターを壊す力も残っていなかった。
私はギー太をケースに仕舞い、部屋を出た。
170:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 03:58:14.13:oU4XMhGz0
私は朝食に殆んど手を付けず、そのまま受付に向かった。
これからは食事の量をもっと少なくしてもらおうと思った。
まだ受付は混雑しておらず、すぐに私の番がきた。
受付をしていたのは、まだ若くて優しそうなお姉さんだった。
私はそのお姉さんにIDカードを差出した。
受付嬢「平沢さんですね。あなたはAブロックの公衆トイレの清掃をお願いします。
あちらの更衣室に作業着が準備されていますので、
自分に合ったサイズの服を選んで着替えて下さい。
初めてという事なので、分からない事は聞いて下さいね。
そこの掃除が全て終わったら、またここに来て下さい」
唯「はい……」
今まで家事は全部憂がしていて、私は殆んど何もしていなかった。
家事だけではない。思えば、私は一人で何かをした事など無かった。
そんな私がここで出来る事は、トイレの掃除位なものだ。
私は作業着に着替え、指定された場所に向かった。
171:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 04:02:14.87:oU4XMhGz0
トイレットペーパーと石|梔tの補充、ゴミ箱の片付け、手拭きの交換……。
それが終わったら、汚れた便器と床をブラシで綺麗にする。
女性トイレが終わったら、次は男性の方だ。
男性トイレに入ると、鼻を突く異臭がした。
男性用便器は尿が飛び散り、周りが酷く汚れていた。
しかし、私はそんな事を気にせず、黙々と清掃作業を続けた。
私は、私に出来る事をするだけだ。
掃除だって、やろうと思えばちゃんと出来るんだよ、憂。
憂『凄いね、お姉ちゃん』
和『唯はやれば凄いから』
律『唯のキャラじゃないな』
澪『唯もやれば出来るじゃないか』
梓『流石です、唯先輩』
純『私、唯先輩を見直しました』
いちご『……悪くない。』
しずか『凄いよ、唯ちゃん』
みんなが応援してくれている気がした。
どんなに私が醜く弱い人間でも、みんなは私の味方で在り続ける。
今までもそうだし、これからも変わらないだろう。
私が生き続ける限り、その優しさが私の心を抉り続ける。
私の目からは、いつの間にか涙が溢れていた。
172:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 04:05:09.89:oU4XMhGz0
大切だった仲間達を全て失ってしまった私には、
もう生きる気力など残っていなかった。
いっその事、死んでしまえればいいと思った。
そうすれば、この苦しみから解放される。
しかし、私が死ぬ事は許されない。
もし、ここで死んでしまえば、私を守る為にしてくれたみんなの行為が無駄になる。
だから、何があっても私は生きなければならない。
どんなに苦しくても、辛くても、「死」に逃げる事は絶対に許されない。
この苦痛は、私に与えられた罰なのだ。
私一人が生き残った罪。
みんなの痛みに気付かず、苦しみに気付かず生活していた罪。
自分の親友達を殺した罪。
私はなんて罪深いのだろう。
私はこの苦しみの中で生きる事により、その罪を償える。
私にとって生きる事が罰であり、贖罪なのだ。
173:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 04:07:17.12:oU4XMhGz0
私が実際に死を目にしたのは、憂と和ちゃんだけだ。
でも、澪ちゃんと純ちゃんは「崩壊」する直前だった。
彼女達が「崩壊」すれば、りっちゃんやあずにゃんも壊れてしまうだろう。
いちごちゃんとしずかちゃんの安否は分からない。
しかし、学校があんなになってしまったら、もう縋るモノは何も無い。
そんな状態で、彼女達の精神が長く持つ筈が無い。
私が軽音部最後の生き残り。
最も役立たずの私が、最後まで生き残ってしまった。
174:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 04:09:50.49:oU4XMhGz0
Aブロック最後の公衆トイレの清掃が終わる頃、時間は既に12時を過ぎていた。
食堂に行くと、既に多くの人達が作業着のまま昼食を取っていた。
私はお盆を持ち、食事の配給を待つ列に並んだ。
今日の昼食はカレーライスだった。
今度はちゃんと量を少なめにしてもらった。
配給係りの人に、そんなに少なくて大丈夫かと気遣われたが、
大丈夫ですと答え、早々にそこから立ち去った。
私は一番端の隅っこの席に座った。
一人ぼっちの食事。優しい誰かが隣に居る食事はもう二度と無い。
私はカレーを口に運んだ。
砂の味がした。
私は味覚を失っていた。
昔はあんなに楽しかった食事の時間。
けれど、今の私にとっては、何よりも苦痛な時間だった。
175:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 04:12:22.17:oU4XMhGz0
唯「……Aブロックの公衆トイレの掃除、終わりました……」
受付嬢「お疲れ様でした、彼女とは仲良く出来ましたか?」
平沢さんは今回が初めてと言う事で、
彼女に同じ所へ行くようにしておきました」
唯「え……? あ、はい……」
私はずっと一人だった。
受付嬢の言う「彼女」なんて、私は知らない。
受付嬢「次はBブロックの公衆トイレをお願いします。
彼女が先に行っていると思うので、また一緒に清掃して下さい」
唯「……分かりました」
「彼女」とは誰の事だろう。
もしかして、受付嬢が何か勘違いしてるのではないだろうか。
あるいは、仕事の指定場所を間違えたか……。
そんな事を考えながら、私はBブロックの公衆トイレに来ていた。
やはりそこには誰もいなかった。
とりあえず、私はここから清掃する事にした。
彼女が同じブロックの公衆トイレを掃除しているのなら、
そのうちどこかで彼女と遭遇する筈だ。
176:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 04:15:30.61:oU4XMhGz0
結局その日、彼女に会う事は無かった。
他のトイレが清掃されている様子もなかった。
ゴミ箱に溢れる程物が入っていた事がそれを証明していた。
しかし、私にとってそんな事はどうでもよかった。
他人の行動などには全く興味が無い。
誰が何をしようが、私は私のすべき事をするだけ。
むしろ一人になれて良かったとさえ思った。
私はもう誰とも関わり合いたくないのだ。
夕食後、私はすぐに浴場へと向かった。
人が来る前に入浴を済ませたかった。
案の定、この時間の浴場はまだ閑散としていた。
私はさっさと体を洗い、早々に浴場を後にした。
部屋に戻り、布団に倒れ込む。
まだ20時半、就寝時間までまだ時間がある。
しかし、起きていてもやる事など何も無い。
ふと、部屋の隅に置いてあるギターが目に入った。
でも、今の私にギターを弾く資格など無い。その必要も無い。
放課後のティータイムはもう終わったのだ。永遠に。
私は毛布に包まり、眠りに就いた。
177:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 04:19:55.58:oU4XMhGz0
それから一ヶ月が過ぎた。
夏休みも終わり、二学期が始まる頃だ。
ここは地下で、外の様子は全く分からない。
太陽の光が無いここの生活にも慣れた。
もう地図が無くても困る事は無い。
私はいつも通りに仕事を熟し、一人で夕食を取っていた。
本当は食事などしたくはなかった。
しかし、死なない程度に栄養を摂取しなければならない。
私は味の無い食べ物を無理やり胃袋に押し込んだ。
元々僅かな量しかない。
私の食事はすぐに終わる。
私は一層窶れ、地上にいた頃の面影など欠片も残っていなかった。
私は食器を返そうと席を立った。
その時、私は一人の女性に声を掛けられた。
私より2つか3つ位年上だろうか。
「あんたが平沢でしょ?」
178:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 04:22:56.84:oU4XMhGz0
その女性との面識は無かった。
何故私の名前を知っている?
その疑問は、すぐに解決した。
女「あたしは女。あんたと一緒に仕事してる事になってるんだけどさ」
私が仕事を始めた時から、彼女は私と一緒に仕事をしている事になっていた。
もちろん、それは表向きの事だ。
私が彼女にあったのは今日が初めてだし、
私の清掃場所が、他の誰かに掃除されている形跡など一度も無かった。
受付嬢がたまに彼女の存在を仄めかす様な事を言っていた。
私はそれに適当な相槌を打って済ませた。
私にとって、この女の事などどうでもよかったのだ。
むしろ、一人で作業出来る事の方が私にとっては好都合だった。
それは、彼女にとっても願っても無い事の筈だ。
仕事をサボっても誰にもバレずにいられるのだから。
女「ちょっと顔貸しなよ」
食器を片した後、彼女は有無を言わせず私の腕を掴み歩き出した。
179:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 04:26:21.15:oU4XMhGz0
どうせ私の口止めでもする気なのだろう。
こんな事をしなくても、私は告げ口などしないのに。
私は貴女の事など、本当にどうでもいいのだ。
だから、私の事は放っておいて下さい。
私は心の中でそう何度も呟いていた。
私は彼女の部屋に連れて来られていた。
10畳程の部屋には、彼女のルームメイトらしき3人の女性が居た。
皆若く、歳は私と同じか少し上に見えた。
女2「うわ、なにそいつ」
女3「ちょーキモイんですけど」
女4「ウケルーw」
女「こいつが平沢だよ」
私は状況が掴めず困惑した。
自分が何故ここに連れて来られたのか分からない。
口止めをさせる為ではないという事だけは感じ取れた。
彼女は私に、私が想像した事以上に酷い事をさせようとしていた。
180:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 04:29:00.64:oU4XMhGz0
何が何だか分からずにいる私に、女は嘲笑いながら言った。
女「これからあたし達の仕事を、全部あんたにやって貰うから」
私はその時全てを理解した。
この人は最初から、私が告げ口などしない事を分かっていたのだ。
それを利用して、私にこの人達の仕事まで押し付ける気だったのか。
私が想像していたより、遥かに悪党ではないか。
彼女は私の髪を鷲掴みし、耳元で囁いた。
女「この事を誰かに言ったら、ただじゃおかないから」
唯「……。」
女「それじゃあまた明日、平沢さん」
私は部屋から追い出された。
私は明日から彼女達の仕事もする事になる。
好都合だった。
私は女に感謝した。
182:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 04:34:48.98:oU4XMhGz0
次の日、朝食を済ませ、受付で指示をされた後、
私は彼女達との待ち合わせ場所に向かった。
そこで私は彼女達の仕事を聞き、その仕事もする。
彼女達も、私と同じ清掃係りの様だ。
女「じゃあよろしくね、平沢さん」
女2「ありがとう平沢さん」
女3「大好きだよ、平沢さん」
女4「またね~」
彼女達は私に仕事を押し付け去っていった。
私の仕事は4倍の量になった。
物理的には不可能な仕事の量だが、
適度に手を抜き、私はそれらの仕事を上手く遣って退けた。
いつの間にか、私は要領良く仕事を熟す術を身に付けていた。
人間やれば出来るものだ。
私はそれから一週間、毎日そつなく仕事をやり遂げた。
そんな私に、新たな仕事が加わった。
彼女達の「ストレス解消」だ。
183:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 04:37:40.10:oU4XMhGz0
私は毎日夕食後、彼女達の部屋に呼び出され暴行を受けた。
体中痣だらけになったが、顔だけは無事だった。
この事実が表沙汰になれば、彼女達もただでは済まない。
露出する部分に彼女達は手を出さなかった。
私は入浴を、終了時間ギリギリの人がいない時に済ませる様になった。
仕事の激務と暴行によって、私の体はボロボロになっていた。
私が動く度、体が悲鳴を上げていた。
その痛みが、今の私にとっては心地良かった。
私が生きる理由、それは「贖罪」だ。
私にとって生きる事とは、「贖罪」なのだ。
痛み苦しみが増える程、それは満たされるのだ。
しかし、まだまだだ。
この程度の痛みや苦しみで許される筈などない。
皆が受けた傷と痛みはこんなものではない。
あの痛がりの澪ちゃんが自分の腕に付けた傷に比べれば。
いっその事、私に死をも齎す苦痛を与えよ。
184:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 04:39:44.48:oU4XMhGz0
彼女達に関わってから一ヶ月が過ぎようとしていた。
何をされても反応しない私に、彼女達は興味を失い始めていた。
ある日、私はいつもとは違う場所に呼び出された。
男性の居住区の一室に私は呼ばれたのだ。
そこにはいつもの女達と、柄の悪そうな5人の男達がいた。
男達は私に侮蔑の眼差しを向け、大声で笑い出した。
どうやら私の容姿を嘲笑する為に呼び出したようだ。
私はそのまま、何もされず帰らされた。
下種な男達に厭らしい行為を強要されるのではないかと思ったが、
今の私には、男達の性欲を掻き立てる色香など皆無であった。
185:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 04:42:32.59:oU4XMhGz0
他人を傷付ける事によって、愉悦、充足感を得る。
俗悪、蔑視に値する者達。人間の屑。
でも、私は貴方達を許し、受け容れよう。
彼女達もあの男達も、思えば哀れでちっぽけな人間だ。
彼女達には、私達の様な人間関係を築く事は永遠に出来ないだろう。
この世で一番大切なモノを、彼女達は知らない、得られない。
私を傷付ける事で心が満たされると言うのなら、好きなだけ嬲るがいい。
それで私も救われるのだ。
互いにとって悪くない話だろう?
186:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 04:45:28.17:oU4XMhGz0
いつの間にか、私は彼女達から「ゾンビ」と呼ばれるようになっていた。
無気力、窶れて隈の出来た顔、伸びたぼさぼさの髪、今の私に相応しい渾名だ。
「人間」と「ゾンビ」の違いは何か?
私が思うに、それは「心」が有るか無いかだ。
私の「心」は、もう既に死んでいる。
贖罪意識が私の体を動かしているに過ぎない。
「平沢唯」はもうこの世に存在しないのだ。
私の妹と友人達はゾンビだった。
でも、みんなには「心」があった。
強く優しい「心」を彼女達は持っていた。
最後の最後まで「人間」で在る事を貫き通した。
それに比べ、私はどうだっただろう。
私は人間である事を悲観し、自らゾンビになろうとさえしていた。
私の人としての「心」はその時点で死んでいたのではないか?
「ゾンビ」だったのは私の方だ。
私こそが「ゾンビ」だったのだ。
187:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 04:48:34.13:oU4XMhGz0
私は今まで、ゾンビ達の中で暮らす唯一の人間だった。
そして今、人間達の中で暮らしている、ただ一人の「ゾンビ」なのだ。
周りの人達がゾンビになったから、私の生活は変わってしまったのだと思っていた。
しかしそうではない。周りなど関係無かったのだ。
私の生活が変わってしまったのは、私自身が「ゾンビ」になっていたからなのだ。
私は自分がずっと人間であると思っていた。
その事に何の疑問も持たずにいた。
だから気付けなかった。
自分が「ゾンビ」になっている事に。
私は既に「ゾンビの平沢」だったのだ。
188:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 04:52:08.06:oU4XMhGz0
もう何も考えたくない。思い出したくもない。
私は思考を停止させた。
痛みや苦しみさえも、今の私は感じる事が出来なくなっていた。
そんな私に、女達は完全に興味を失った様だ。
彼女達が私を呼び出す事は無くなっていた。
清掃場所はいつも同じ所をローテーションしている。
彼女達に会わなくても、どこに行けばいいのか分かっていた。
私が彼女達と会う事は無くなっていた。
私は日々をただ生きる屍と化した。
思えばそれは今に始まった事ではないのかもしれない。
それも最早どうでもよい事だ。
ただ生き、ただ死ぬ。
これこそ私に相応しい人生ではないか。
私は一日の仕事を終え、自分の部屋へと向かっていた。
「唯ちゃん……?」
189:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 04:54:14.32:oU4XMhGz0
私の背後から、聞き覚えのある声がした。
その声は、私に今までに無い衝撃を与えた。
心臓が激しく脈打ち、脳に電流が迸った。
私の脳裏に過去の映像が鮮明に甦る。
この声はムギちゃんだ。
私の脳内では、ムギちゃんとの思い出が高速で再生されていた。
最初に会ったその日から、最後に会ったあの日まで。
唯「……ムギ……ちゃん……?」
私は振り向いた。
そして同時に言葉を失った。
190:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 04:57:23.99:oU4XMhGz0
そこに立っていた少女、琴吹紬である筈の少女……。
その姿は、私の記憶の「琴吹紬」からは掛け離れていた。
髪は荒れ、目には酷い隈ができ、頬は痩せこけ、体は骨と皮になっていた。
美しい髪の膨よかな少女は、あまりにも変わり果てていた。
紬「やっぱり唯ちゃんだったのね!」
ムギちゃんは私に抱き付いた。
以前私がムギちゃんに抱き付いた時とは、似ても似付かぬ感触だった。
紬「唯ちゃん……無事で良かった……」
ムギちゃんは涙を流していた。
私の目からも涙が溢れていた。
でも、私が泣いたのはムギちゃんとの再会が感動的だったからではない。
あまりにも変わり果てた親友の姿に涙したのだ。
涙など、疾うに枯れ果てたと思っていた。
痩せ細った私の体のどこにこれ程の水分が残っていたのだろうか。
私の涙は止め処なく流れ続けた。
195:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 05:08:11.81:oU4XMhGz0
★6
近くの給湯室でコップに水を注ぎ、
それを持ってムギちゃんを自分の部屋に招き入れた。
私達はコップの水に口を付け、高ぶった感情を静めた。
ムギちゃんは私に聞きたい事が山程あるだろう。
しかし、私がムギちゃんに聞きたい事は何も無かった。
何故なら、私は彼女を見て全てを理解したからだ。
彼女は私達よりも先にウイルスの危険性を認知した。
それは恐らく、琴吹グループの情報網からだろう。
危険性を知った父親は、逸早く安全な場所へと逃れようとした。
琴吹家の力ならそんな事は容易い筈だ。
避難先としてこの核シェルターが選ばれた。
しかし、それは彼女の意図したモノではなかった。
彼女は仲間を見捨て、一人だけ安全な場所へ逃げる事など望んではいなかった。
恐らく、ここにも強引に連れて来られたのだろう。
その事で彼女は自責の念に苛まれ、拒食症に陥ったのだ。
私にはムギちゃんの心が手に取るように分かった。
ムギちゃんが最初に私にする質問の内容でさえも。
紬「唯ちゃん、他のみんなは……?」
196:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 05:13:29.52:oU4XMhGz0
私はムギちゃんに声を掛けられた瞬間から、
この質問にどう答えるかを只管考えていた。
事実を言えば、彼女が傷付き苦しむ事は間違いない。
ムギちゃんは真正面から私の顔をじっと見詰めている。
私はどうすれば良い……?
唯「……ムギちゃんがいなくなった後、暫くは普通の生活をしてたの。
でも、感染者がどんどん増えていって……。
そのうちに噛み付き事件とかも増えていって、大変な事になって……」
唯「それで、みんなで都心に在るこういう施設に逃げようって話になったの。
和ちゃんの知り合いにその施設の関係者がいて、
和ちゃんにお願いしたら、みんなもそこに連れて行ってくれるって……」
唯「それで、車でその施設に向かっていたんだけど、
途中で感染者に襲われちゃったの。
そこをたまたま通りかかった人達に助けられて……」
紬「……」
ムギちゃんは私を注視している。
198:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 05:20:47.98:oU4XMhGz0
唯「私達はその人達の車に乗せて貰う事になったんだけど、
私だけみんなと別の車になっちゃって……」
唯「それからまた感染者に襲われたんだけど、
私の乗ってた車のガソリンが無くなっちゃって、
車から降りて逃げていたら、皆バラバラになっちゃったの」
唯「それで私は一人になって、道を歩いてたら車が来て、それに乗せて貰ったの。
行き先とか確認しなかったら、こっちの方まで来ちゃってて、
それからまた感染者に襲われて……。
そこを、ここの関係者の人に助けて貰ったの」
紬「……」
唯「他のみんなは、たぶん東京の施設にいると思う」
私は口から出任せを言った。
即興の割にはある程度の辻褄は合わせられたと思う。
そもそも、私一人が長野にいる状況自体が不自然極まりない。
長野に核シェルターが在るという噂を聞いて、和ちゃんが車を運転してここまで来た。
この真実こそ信じ難い話だろう。
私の作り話の方が、むしろ現実味があるのではなかろうか。
紬「……」
199:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 05:25:12.18:oU4XMhGz0
唯「正直言うと、私も憂達の事が心配なの。
ちゃんと無事でいるのかなって……。
でも、私はみんなが無事だって信じてる。
だから、ムギちゃんも心配しないでね。
きっといつか、また会えるから……」
紬「そうね……」
どうやらムギちゃんは私の話を信じてくれたようだ。
ムギちゃんは私を「嘘の付けない子」と信じている。
あの頃の私は、確かにその通りだった。
でも、今は違う。
私は平気で人を騙せる人間になったのだ。
その事を、ムギちゃんは知らない。
紬「でも、私はみんなに会う資格が無いわ……」
唯「どうして?」
理由など聞かなくても分かっていた。
けれど、私はそれに気付かない振りをした。
私は鈍感な人間なのだ。
少なくとも、ムギちゃんがいた頃の私はそうだった。
私はあの頃のままの自分を演じる必要があった。
私は何も変わっていない、「平沢唯」だ。
彼女の為に「平沢唯」という存在でなければならないのだ。
200:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 05:28:33.90:oU4XMhGz0
紬「私はみんなを裏切った……。みんなを見捨てて、一人だけ逃げたの……」
ムギちゃんの目からまた涙が溢れ出した。
紬「私は最低の人間なの……。
私はみんなに合わせる顔が無いわ……。
唯ちゃんにも謝らなければならないのに……。
ごめんね唯ちゃん……ごめんね……本当に……ごめんなさい……」
ムギちゃんは台に伏し、大声で泣き出した。
私はムギちゃんの方に移動し、後ろから優しく彼女を抱き締めた。
私にはムギちゃんの苦しみが誰より理解できる。
ムギちゃんと私は同じ苦しみを抱いているから。
唯「泣かないでムギちゃん……。
私達はムギちゃんの事を咎めたりしないよ。
みんなムギちゃんの事が大好きだから……。
それは何があっても変わらない事だから……」
紬「そんなの嘘よ……。
私は嫌われて当然の人間だもの……。
みんな私を軽蔑しているわ……」
唯「そんな事無い、絶対無いよ。
私達はね、ムギちゃんが安全な所にいるって分かってた。
だから、私達は安心してたの。ムギちゃんは大丈夫だって。
安全な所にいる事を非難する親友なんていないんだよ?」
201:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 05:31:27.47:oU4XMhGz0
唯「私達はね、ムギちゃんが無事ならそれだけで良かったの。
だって、ムギちゃんは親友だもん。
ムギちゃんだって同じでしょ?」
紬「唯ちゃん……」
唯「だから大丈夫。私達もみんな無事だから。
だって、一番ドジで頭の悪い私が無事なんだよ?
こんな私が無事なら、他のみんなだって無事に決まってるよ」
私はありったけの笑顔を作って見せた。
この場所に来てから、初めての笑顔。
今の私はちゃんと笑顔を作れているだろうか。
いや、作れている筈だ。
大好きなムギちゃんの為の笑顔なのだから。
紬「唯ちゃん……唯ちゃん……」
私達は互いに向き合い、強く抱き締めあった。
この場所に来てから、初めて感じた温もりだった。
202:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 05:34:45.88:oU4XMhGz0
紬「この施設はね、父の知り合いが作ったの。
建設費用も琴吹グループがかなり援助したらしいわ。
もともとは、核シェルターとして建造されたモノらしいけれど」
紬「父達はこのウイルスの危険性を以前から知っていたみたい。
私が父に、軽音部の子が感染したって言ったら、
突然学校を辞めろって言われたの……。
私は反対したけれど、結局辞める事になって……。
噛み付き病が流行し始めた当初から、
この施設に避難する事を検討していたと後で聞かされたわ」
紬「私はその後ずっと自宅から出してもらえなくて、
携帯も取り上げられてしまって、みんなに連絡出来なかったの……。
ここに連れて来られたのは、四月の中旬頃だったと思う。
父も斉藤も、その頃ずっと外国を飛び回っていて、私は一人だった……」
紬「唯ちゃんがここに来た事はね、私の耳にも届いていたの。
といっても、その時は唯ちゃんって確証は無かったのだけれど……。
ギターを持った十代の女の子を保護したって話を聞いて、
もしかしたらって思って……」
紬「本当はすぐに会いに来たかったのだけれど、
この区域に来る事を父に物凄く反対されちゃって……。
それでも、どうしても確認したくて、黙って抜け出して来ちゃったの」
203:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 05:39:56.27:oU4XMhGz0
紬「ここは一般人の居住地区で、私達の居住区は別の所にあるの。
この施設は全体を高い壁で囲んであるから、敷地内なら外にも出られるのよ。
唯ちゃんも、これからはそこで生活するの。
部屋は広くて綺麗で陽も射すし、甘いお菓子もお茶もあるわ。
テレビも観れるし、ギターのアンプだって用意できるから」
最初から気付いていた。
ここには二種類の人間がいるのだ。
支配する者と支配される者。
ムギちゃんは支配する者、特権階級の人間。
そして私は支配される者、労働階級の人間……奴隷なのだ。
文明社会というのは、常にこの二つの階級で構成されている。
もし、特権階級の人間しかいなかったら、
その中の誰かが汚い仕事、危険な仕事、キツイ仕事をしなければならない。
だから、彼等には私達のような奴隷が必要不可欠なのだ。
その奴隷は、この施設の外に行けばいくらでも手に入る。
私達一般人を「救助」という名目でここに連れて来ればいいのだ。
私達は安心、安全を手に入れ、その対価として労働力を提供する。
互いに損の無い、非常に理に適ったやり方ではないか。
紬「だから唯ちゃん、私と一緒に来て?」
204:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 05:44:04.69:oU4XMhGz0
ムギちゃんに付いて行けば、私は何不自由なく生活出来るだろう。
特権階級、その中でも最も権力を持つ人達の仲間入りをする事になる。
でも、それでいいのだろうか?
いや、そんな事が許される筈が無い。
私は贖罪に生きなければならない人間なのだ。
唯「ごめんねムギちゃん、私は一緒に行けないよ……」
紬「どうして……? どうしてなの? 唯ちゃん……」
唯「私さ、今までずっとみんなに迷惑掛けてきて、一人じゃ何も出来なくて……。
だから、今は少しでもいいから自分に出来る事がしたいの。
ムギちゃんには、今まで凄くお世話になっていたから、
これ以上ムギちゃんに迷惑を掛けたくないし……。
だから、今まで通りここで働きたいの。
それが今私に出来る、精一杯の恩返しだから」
紬「……分かったわ、唯ちゃん……」
紬「私もここで唯ちゃんと一緒に働くわ」
206:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 05:47:11.84:oU4XMhGz0
唯「えっ? ムギちゃん、ちょっと待って……」
紬「私もね、もう誰かに守られているだけじゃ嫌なの。
だからね、私も唯ちゃんと一緒に頑張りたいの。
私もここに住んで、一緒にお仕事をするわ」
本当なら、強引にでもその申し出を断るべきだった。
今のムギちゃんの体で労働などさせたくなかった。
しかし、私はムギちゃんの意思を尊重した。
ムギちゃんは私と同じ苦しみを味わっている。
彼女も自らの贖罪を求めているのだ。
唯「一緒に頑張ろう、ムギちゃん……」
紬「ええ、唯ちゃん……」
その後、私達は一緒に入浴した。
ムギちゃんの体は、余りにも痛々しかった。
それなのに、彼女は自分の体の事など気にせず、
私の体に付いている痣について執拗に尋ねてきた。
ドジが原因だと、私はその場を上手く濁した。
その日、私達は一つの布団で一緒に寝た。
人の温もりがこんなにも暖かかった事を、私は忘れていた。
207:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 05:51:08.56:oU4XMhGz0
次の日から、私はムギちゃんと共に行動するようになった。
そして、ムギちゃんが何故この様な姿になったのかが明らかになった。
私の予想通り、ムギちゃんは食事をしていない。
私の食事中、彼女はサプリメントの様な物を飲んだだけだった。
私は彼女が気を遣わぬよう、いつもより食事の量を多めにしていた。
私はいつも通りに受付に行った。
ムギちゃんは私達とは違う、黒のIDカードを持っていた。
それを見ると、受付嬢はムギちゃんの言いなりになった。
あの黒いIDカードは特権階級の証の様だ。
私はいつも以上にテキパキと掃除を熟した。
私が頑張れば、それだけムギちゃんの仕事が楽になる。
私は彼女の負担を出来るだけ減らすよう心掛けた。
彼女の掃除の手際は悪かった。
いつも私達にお茶を淹れてくれていた彼女だが、
本来お嬢様である彼女が雑務などする筈が無い。
まして、トイレ掃除など初めての経験だろう。
208:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 05:56:50.18:oU4XMhGz0
そう、ムギちゃんはお嬢様なのだ。
今までずっと誰かに守られてきたのだろう。
私も彼女も、常に誰かに守られて生きてきた。
しかし、彼女は自身を守る檻から抜け出してきてしまった。
彼女を守る者達がいないこの場所に。
今、ここで彼女を守れる者は私しかいないのだ。
私はムギちゃんを守る檻になろう。
今までムギちゃんは一人で苦しんできた。
彼女が私と同じ苦しみを背負っているのなら、誰かの支えが必要なのだ。
そして今、彼女の支えになる事が出来るのは私しかいない。
私はムギちゃんを守る事によって「人間」で在ろうとした。
みんなが私にそうした様に……。
それこそが、私の罪の償いになるのではないかと思ったのだ。
209:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 06:00:19.74:oU4XMhGz0
夕食の時間、ムギちゃんは用があると言い、一人出掛けて行った。
私が食事を終え部屋に戻ると、そこは朝の時とは違う空間になっていた。
間違いなくムギちゃんの関係者だ。
部屋は綺麗に掃除され、壁紙も新調されていた。
床には綺麗な絨毯が敷かれ、テーブルは可愛らしい物になっていた。
壁際には小さな棚が置かれ、綺麗な食器が納まっていた。
その引き出しには、様々な茶葉が詰まった缶が入っていた。
その横には、桃色の給湯器が置かれている。
部屋の隅には、新品の様な二人分の布団が綺麗に畳まれ積まれていた。
私の荷物も整頓され置かれていた。
その横には、ムギちゃんの生活用品が置かれていた。
紬「ただいま……これは……斉藤の仕業ね」
どうやらムギちゃんも知らなかった様だ。
210:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 06:06:52.66:oU4XMhGz0
ムギちゃんは手に洋風の籠を持っていた。
その中には、果物とお菓子が入っていた。
クッキー、梨、バナナ、苺……。
紬「唯ちゃんに食べて貰おうと思って持ってきたの」
ムギちゃんは棚の中の物を確認した後、ティータイムの準備を始めた。
部屋の中はダージリンの甘い香りで充満していた。
紬「どうぞ、唯ちゃん」
微笑みながらムギちゃんは、紅茶の入ったカップを私の目の前に置いた。
ティータイム……これは彼女の贖罪の一つの形なのだろう。
彼女は私に許しを請うているのだ。
ならば私は、その全てを受け入れなければならない。
私は彼女のティータイムに笑顔で応えた。
私はムギちゃんが剥いてくれた梨を口に入れた。
やはり何の味もしなかった。
私はテーブルの上に置かれた食材を一心に貪り、紅茶で強引に胃袋へ流し込んだ。
紅茶は泥水の様に感じられた。
その後、私はトイレで全てを吐き出した。
私の体は、最低限生きる以上の養分を受け入れる事が出来なくなっていたのだ。
それから毎日、食物を胃袋に入れ、それを吐き出す作業が続いた。
211:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 06:10:01.91:oU4XMhGz0
そして今日も偽りのティータイムが始まる。
ムギちゃんは、私のギターが聞きたいと言った。
私は手が痛いと偽り、それを断った。
ムギちゃんの悲しい顔を見て、私の心は痛んだ。
けれど、ギターを弾く事は、今の私にはどうしても無理だった。
彼女は私の演奏を聞いて、あの頃の放課後ティータイムを感じたいのだろう。
私がギターを弾かなくてもそれは可能だった。
私のポーチには、放課後ティータイムの演奏DVDが入っている。
ムギちゃんがいない新歓ライブの映像もある。
しかし、私はその事をムギちゃんには言わなかった。言えなかった。
今、あの映像を見てしまったら、私は完全に壊れてしまうだろう。
親友達の姿を見てしまったら、私も彼女達の元へ行きたくなってしまう。
私はDVDの存在を心の奥に封印した。
ムギちゃんとの生活にも慣れてきた頃だった
すっかり忘れていた人物が、また私達の前に現れた。
あの女達が。
212:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 06:13:12.71:oU4XMhGz0
きっかけはムギちゃんの行動だった。
ムギちゃんは夕食の時間にどこかに行き、
ティータイムの為のお菓子や果物を持ってくる。
ある日、部屋に来る途中で会った人物にお菓子を分け与えた。
その人物がとても疲れた顔をしていたので、
お菓子で元気になってもらいたかったらしい。
その話が広まってしまったのだ。
私達一般人は、食事に稀に果物が出る事はあるが、
クッキーやチョコなどのお菓子は一切口にする事が出来なかった。
お菓子が食べられるのは、特権階級の人間だけなのだ。
ムギちゃんはその事を知らなかった。
その事が、貪欲なハイエナを呼び寄せてしまった。
女達がムギちゃんに集りに来たのだ。
213:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 06:17:00.06:oU4XMhGz0
紬「ごめんね、今日はこれしか無いの……」
そう言って、ムギちゃんは二枚のクッキーと一粒の苺を差し出した。
残りは女達に取り上げられたのだろう。
紬「あの人達、可哀相だったから分けてあげたの」
ムギちゃんは女達に騙されていた。
仕事も出来ない程体調の悪い子がいて、
その子にお菓子や果物を食べさせて元気にさせたいのだと言われたらしい。
私は女達の悪行をムギちゃんに暴露し、
ムギちゃんの執事に頼んで、奴等をムギちゃんから引き離して貰おうかと考えた。
しかし、ムギちゃんの話を聞くうち、
それが果たして正しい事なのかどうか迷った。
紬「私、今まであんなに頼られた事は無かったの。
食べ物を持って行くと、皆感謝してくれて……。
病気の子も凄く喜んでくれているらしくて、手紙まで貰ったの」
ムギちゃんは嬉しそうにその手紙を見せてくれた。
手紙には感謝の言葉が書き連ねられていた。
悪党が。
214:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 06:19:18.48:oU4XMhGz0
紬「私、彼女達の力になれて凄く嬉しいわ。
これからも彼女達の力になってあげたいの。
でも、それで唯ちゃんのおやつが減ってしまって……」
ムギちゃんは悲しそうな顔をした。
あの悪党達がムギちゃんを元気付けて、
私がムギちゃんを悲しませている……?
また私は間違えてしまったのだろうか?
唯「私は大丈夫だよムギちゃん。
それより病気の子、早く元気になるといいね。
お菓子の事は気にしないでいいからね」
紬「……ごめんね、唯ちゃん……」
唯「だから、謝らなくていいの!
病気の子を差し置いてお菓子を食べたいと思う程、
平沢唯は意地汚くないのだよ~。
私の分も食べさせてあげてね」
紬「……ありがとう、唯ちゃん」
ティータイムのおやつは、いつしか一粒の苺だけになっていた。
215:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 06:22:14.33:oU4XMhGz0
女達にとって、ムギちゃんは金づるだ。
ぞんざいに扱う事はしまい。
それに彼女は特権階級だ。
ムギちゃんを傷付ければ、自分達もタダで済まない事は重々分かっている筈だ。
入浴時、私は彼女の体を念入りに確認するようにした。
彼女の体は痩せ細っていたけれど、肌はとても白く綺麗だった。
大丈夫、痣や傷などは一つも無い。
ムギちゃんは物理的に痛い目には遭わされていない。
最近のムギちゃんは、以前よりも明るく振舞っていた。
彼女は大丈夫、私は安心していた。
だが、それは私の大きな勘違いだった。
216:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 06:26:11.62:oU4XMhGz0
夕食後、私は自室でムギちゃんが帰ってくるのを待っていた。
しかし、何時まで経っても帰ってこない。
時計は既に22時を回っていた。
幾ら何でも遅過ぎる。胸騒ぎがした。
私は部屋を飛び出し、ムギちゃんを探し回った。
唯(ムギちゃん……ムギちゃん……ムギちゃん……!)
ムギちゃんはCブロックの緊急避難用の階段に倒れていた。
そこは薄暗く、人も滅多に通らない所だ。
唯「ムギちゃん! ムギちゃん!!」
彼女は意識を失いぐったりしていた。
衣服は乱れ、顔や手足には沢山の痣と傷が付いていた。
とにかく医務室に連れて行こう。
私は彼女を抱き起こし、背負って医務室に向かった。
彼女の体は、まるで幼い子供の様に軽かった。
今の私でも楽々と背負い運ぶ事が出来る位に。
217:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 06:28:30.43:oU4XMhGz0
私は医務室のドアを激しく叩いた。
ここは私が最初に運ばれてきた所だ。
医師「こんな時間にどうしたんだい?」
唯「ムギちゃんが……ムギちゃんが……」
医師「その子……酷い怪我じゃないか! そこのベッドに寝かして!」
私は近くにあったベッドにムギちゃんを寝かした。
その時、硬く握り締められていたムギちゃんの右手から、一粒の苺が零れ落ちた。
しかし、苺は少しも潰れてはいなく、原型を留めていた。
ムギちゃんは、私の為にこの苺を守ったのだ。
自分よりも、この一粒の苺を……。
私はその赤く美しい苺を口に運んだ。
口の中に程よい酸味を含んだ甘味が充満した。
唯「美味しい……美味しいよムギちゃん……」
218:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 06:33:34.18:oU4XMhGz0
私の目からは何故か涙が出なかった。
傷付いたムギちゃんを見ても、ムギちゃんの優しさを感じても……。
私の中に、何か得体の知れない感情が満ち溢れていた。
それは私の体の奥底から無尽蔵に湧き上がってくる。
一体それが何なのか、私には分からなかった。
私は一人、女達のいる部屋に向かっていた。
女達の部屋の前に着き、私はその扉を叩いた。
暫く叩き続けていると、ようやく扉が開いた。
女「何だようっせーな……ってゾンビかよ」
中には女達の他に、私の姿を笑い物にした男達もいた。
女「ちょっと……何なのあんた!」
私は女の制止を無視し、土足のまま部屋の中に入っていった。
219:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 06:49:26.65:oU4XMhGz0
部屋の中央の台には、ムギちゃんから奪ったお菓子や果物が置いてあった。
唯「なんで……ムギちゃんを傷付けた……?」
男1「はっ? ムギちゃんって誰だよ?」
女2「あ、もしかして、あいつの事じゃね?」
女3「あーあいつか」
男2「え、誰? 誰なの?」
女4「あの無料自販機」
男3「あ、いつもお前らがカツアゲしてる奴の事ね」
女2「ちげーよ、あいつが自主的に私達に貢いでんの」
女4「そうそう、ちょっと脅し掛けただけなのにな」
唯「……脅した?」
220:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 06:55:03.72:oU4XMhGz0
女「あいつが旨い物持ってるって噂聞いてさ、
探してたら、お前と一緒にいる所を見たんだよ。
だから、お前の持ってる物を渡さないと平沢をボコるってね」
男1「ぶっ、それって脅迫じゃん」
女2「誰かにチクったら、仲間が平沢をボコボコにするって保険も掛けて」
唯「……あの手紙は?」
女3「手紙? あー、あれは私があいつに書かせたんだよ。
そうすりゃ、お前も騙されて黙ってるだろうと思ってさ」
男5「女3、お前頭良すぎw」ケラケラ
女4「病気の子の為にとか、マジ吹き出す所だった」
ムギちゃんのあの笑顔は全て偽りだった。
私が彼女を騙しているつもりが、逆に騙されていたのだ。
私を守る為に、ムギちゃんは嘘を付いていた。
私はずっと彼女に守られていたのだ。
221:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 06:59:57.65:oU4XMhGz0
唯「それで……なんで……ムギちゃんを……傷付けた……?」
女「全部寄こせって言ってんのに、あいつ苺を隠し持ってたんだよな」
女2「これだけは駄目だとか言って、苺一つに何ムキになってんだか」
女3「だからみんなでボコったワケ」
男1「どんだけ苺好きなんだよそいつ」
思えば、ここでのティータイムには必ず苺が出されていた。
ムギちゃんは覚えていたんだ。
私が苺を大好きだったという事を。
だから最後まで苺を手放さなかったのだ。
ムギちゃんは馬鹿だ。
どうしようもない馬鹿だ。
たかが苺の為にあんなに傷付くなんて。
私の為にあんなに傷付くなんて
唯「んんんんん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛……」
222:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 07:03:35.06:oU4XMhGz0
男1「お、おい、なんだよこいつ……」
唯「うううううう゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛ぐぐぐぐぐぐぐぐ……」
女3「な、なんだ……?」
私の体の深部から、マグマのような感情が湧き上がる。
全身が熱くなり、全てを破壊したくなる衝動に駆られた。
その時、ようやく私はこの感情の正体に気付いた。
これは「怒り」だ。
私は今まで「怒り」という感情を知らなかった。
優しい友人達や妹に囲まれていた私には、その様な感情を抱く機会が無かったのだ。
今、私は生まれて初めて「怒り」という感情を知り、それに全身を支配されていた。
無意識に私の体は激しく揺れ、腹の底から湧き出した地鳴りの様な唸り声が口から漏れていた。
男1「おい、その気持ち悪い声やめろ」
男が私の肩を手で押そうとした。
私はその腕を掴み、上腕に思いっきり噛み付いた。
男は悲鳴を上げたが、私はそんな事を気にせず力任せにその肉を喰い千切った。
部屋に女達の悲鳴が響いた。
224:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 07:08:12.97:oU4XMhGz0
次の瞬間、私の後頭部に衝撃が走る。
別の男が私の頭を後ろから殴ったのだ。
私はその衝撃で倒れて込んでしまった。
だが、その程度で私は怯まなかった。
私は、私を殴った男の足を掴み、その脛に齧り付いた。
男は悲鳴を上げ倒れた。
その様子を見ていた別の男達が、私を男の足から引き離そうとする。
私は振り返り、私を掴む男の手の指に喰らい付き、それを噛み千切った。
その様子、私の形相を見て、さすがに男達もたじろいだ。
相手は痩せこけた女一人……。
体躯で勝る自分達が、こんな女に負ける筈がない。
そんな思い違いに、漸く気付いたのだろう。
私は近くにいた別の男に飛び掛り、その首筋に噛み付いた。
首の肉を千切ると大量の血が勢いよく噴出し、その血が私の全身を真紅に染めた。
男達は皆完全に戦意を喪失し、私から距離を置いた。
女達は部屋の隅に固まり、体をガタガタと震わせている。
部屋の人間達は、恐怖に怯えた目で私を見ていた。
まるで「ゾンビ」を見るかの様な目で。
226:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 07:12:29.32:oU4XMhGz0
私はゆっくり女達に近付いた。
女達は震え泣きながら謝罪の言葉を繰り返している。
今更もう遅いから。
謝る位なら最初からしなければいいのに。
私は貴女達を傷付けないのに、何故貴女達は私を傷付けるの?
その理由がやっと分かったよ。
私が貴女達を傷付けないから、貴女達は私を傷付けるのでしょう?
だったら、傷付けてあげる。
自分が痛みを受けなければ、他人の痛みを理解する事なんて出来はしないんだよ。
二度と私を、私達を傷付ける事が出来ないよう、その体に教えてあげる。
私達に痛みを与えないよう、貴女達に痛みを教えてあげる。
一人の女が立ち上がり、部屋から逃げ出そうと扉の方へ駆け出した。
私は後ろからその女の髪を鷲掴みし、全力で引っ張った。
ブチブチと髪が千切れる音がし、女は悲鳴を上げて倒れ込んだ。
逃がさないよ。
私は恐れ慄く女達の体に噛み傷を付けた。
それは証なの。
貴女達が痛みを知ったという証なんだよ。
大丈夫、ちゃんと服で隠れる所に付けたからね。
227:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 07:15:04.11:oU4XMhGz0
女達の部屋を出ると、多くの人が集まってきていた。
全身血塗れな私の姿を見るやざわめき立った。
警備員「皆さん通してください!」
誰が呼んだか、3人の警備員がやってきた。
部屋の防音は悪くないけれど、あれだけ悲鳴を上げれば外に洩れるか。
警備員「き、君、大丈夫?」
唯「はい、私の血じゃないですから」
警備員達の顔が引き攣った。
「ちょっと通してもらえるか?」
人ごみの奥から、一人の紳士がやってきた。
以前、私はこの人を見た事がある。
ムギちゃんの執事の斉藤さんだ。
斉藤「平沢唯さん……だね?」
私は頷いた。
228:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 07:17:04.03:oU4XMhGz0
斉藤「彼女は私に任せて、部屋の中を」
警備員「は、はい」
唯「斉藤さん、ですよね。お願いがあるんですけど……。
お風呂に入りたいんです……。入浴時間過ぎてますけど……。
あと、着替えをお風呂場まで持って来て頂けると助かります……」
斉藤「分かりました、着替えもこちらで用意します……」
唯「ありがとうございます」ニコ
私は笑顔で斉藤さんにお礼を言った。
斉藤さんは困惑した顔をしていた。
おかしい、私はちゃんと笑顔を作れている筈だ。
どうして斉藤さんはそんな顔をしているの?
まあいいや。とにかく今はお風呂に入ろう。
体がベトベトして気持ち悪いんだもの。
お風呂に行く途中、すれ違う人達は皆私に奇異の眼を差し向けていた。
私はそれに笑顔で応えた。
230:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 07:22:08.85:oU4XMhGz0
★7
私は大きな浴場で、一人湯船に浸かりながら考えていた。
あの時和ちゃんが言った言葉を……。
和『私は強くなんかないわ……出来る事をしているだけなの』
人は何故失敗をするのか。
出来ない事をしようとするから失敗する。
以前、和ちゃんはそう言っていた。
今になって分かる。
私はいつも、自分に出来ない事をしようとしていた。
私は皆を守ろうとした。だから皆を失ったのだと。
和ちゃんは、私を守る為なら純ちゃんを殺すと言い切った。
あの時、私は和ちゃんを心の中で非難した。
何故、友人を殺すなどと簡単に言えるのかと。
でも、それは間違いだったのだ。
和ちゃんには覚悟があったのだ。
何があっても私を守るという覚悟が。
私以外の全てを犠牲にしてでも守り抜くという覚悟が。
誰かを守るという事は、つまりそういう事なのだ。
それ位の覚悟が無ければ、一人の人間を守る事など出来はしないのだ。
231:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 07:26:19.61:oU4XMhGz0
私が今生きているのは、皆がその命を賭して私を守ってくれたからだ。
私にも、皆の為に命を張る覚悟があった。
この身を犠牲にしてでも守りたいと思っていた。
しかし、大切な誰かを守る為に、仲間の命すら奪うという覚悟は私に無かった。
私にとって、一番大切な人は憂だった。
でも、憂とあずにゃんのどちらかしか助けられない状況になったら……。
咄嗟の判断であれば、私は反射的に憂に救いの手を差し伸べてしまうだろう。
でも、そこにもし考える時間があったとしたら……。
私にはあずにゃんを見殺しにする事が出来ないだろう。
誰か一人を絶対に守り抜くという「覚悟」が私には足りないからだ。
結果、どちらも助ける事が出来ず、二人を失うのだ。
優柔不断、中途半端……。
だから肝心な選択肢を見誤る。
でも、私はもう迷いはしない。
今、私は「覚悟」を決めた。
『私はムギちゃんを守る』
232:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 07:30:12.01:oU4XMhGz0
私はムギちゃんを守る為なら、他のあらゆるモノの犠牲を厭わない。
何を犠牲にしてでも、ムギちゃんを守り抜く。
私のみんなに対する贖罪は、今ここで終わりを告げた。
ごめんねみんな。みんなの事を考えていると、ムギちゃんを守れないんだ。
和ちゃん、色々大切な事を教えてくれてありがとう。
りっちゃん、いつも私に元気を分けてくれたね。
澪ちゃん、貴女のお陰で私は強くなれたんだよ。
あずにゃん、初めての私の後輩が貴女で良かった。
純ちゃん、陰でいつも皆に気を遣ってた事、私は知ってるよ。
いちごちゃん、しずかちゃん、短い間だったけど二人と仲良くなれて良かったよ。
そして憂、何もしてあげられなくてごめんね。今までありがとう。
浴場から出て脱衣所に行くと、私の為の服が用意されていた。
汚れた方の服は斉藤さんが持っていった様だ。
私は用意された服を来て、ムギちゃんのいる医務室へと急いだ。
233:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 07:33:39.81:oU4XMhGz0
医務室に行くと、斉藤さんと見た事の無い男性がいた。
この人がムギちゃんのお父さんの様だ。
医師「あ、平沢さん……」
唯「ムギちゃんの具合はどうですか?」
医師「大丈夫、眠っているだけだよ。
怪我よりも疲労の方が心配だね。
だけど、点滴も打ってるし、明日には元気になるよ。
だから、今日は静かにゆっくりと眠らせてあげてね」
私達は医務室を後にした。
斉藤「平沢様、少しお時間を頂いて宜しいでしょうか?」
私に対する口調が敬語になっていた。
私は二人の後を付いていった。
そこは特権階級の居住区、初めて来る場所だ。
私達の居住区とは全く異なり、照明も扉も全てが艶やかだった。
私はその一室に招かれた。
部屋は広く豪勢な家具で飾られ、大きなガラス戸から外を眺める事も出来た。
私は久しぶりに空を見た。
東京で見る空とは違い、星がとても綺麗に輝いていた。
234:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 07:38:59.78:oU4XMhGz0
私が用意された椅子に座ると、斉藤さんはお茶の準備を始めた。
私達に紅茶を差し出すと、自らも席に着いた。
暫く沈黙が続いたが、紬父が話を切り出した。
紬父「君にはこちらの居住区に住んで貰いたい」
紬父「紬があそこに居るのは、君と一緒に居たいからなのだろう?
君がここに来れば、あの子もこっちに戻ってくる。
あそこは汚いし危険だ。碌でもない人間も多い。
君もあんな所より、こちらの方がいいだろう?」
唯「……」
紬父「もう働く必要は無いし、君にも優雅な生活を約束しよう。
君は紬と仲良くしてくれれば、それで良い。
君の欲しいものは全てこちらで用意しよう」
唯「……」
紬父「君が喧嘩した相手、彼等は他にも色々トラブルを起こしてるみたいでね、
ここから出て行ってもらう事にしたよ。紬もこれで安心するだろう。
私の娘を脅すとは、本当に愚かな連中だ」
唯「……やっぱり」
紬父「ん?」
唯「貴方は自分の娘の事が全く分かっていないんですね」
235:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 07:42:19.50:oU4XMhGz0
紬父「……それはどういう意味だね?」
唯「……言葉通りの意味です。
お願いですから、これ以上紬さんを傷付けないで下さい」
紬父は不快感を顕にした。
紬父「君の言っている事がよく理解できないのだが……。
詳しく説明して貰えるかね?」
唯「……紬さんがどの様に脅されていたか知っていますか?」
紬父「いや、詳しくは聞いていない」
唯「誰かに言ったら、私に危害を加えると脅したんです」
紬父「ほう、それで?」
唯「何故その事を貴方や斉藤さんに言わなかったか分かりますか?」
紬父「それは君に危害が加えられる事を恐れたからだろう?」
唯「……。そんなワケないでしょ……」
236:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 07:45:24.15:oU4XMhGz0
紬父「……?」
唯「貴方や斉藤さんなら、私一人を守る事なんて簡単に出来た。
例えば、私をこちらの居住区に匿えば、彼女達は手を出せませんよね?」
紬父「確かに、一般人は許可なくこちらの居住区には入って来れないからな。
では、何故、紬は私達に何も言わなかったと?」
唯「私はその時、こちらの居住区に来れない理由があったんです」
紬父「その理由も気になる所だが……。
しかし、君がこちらの居住区に来れないとしても、
君を守る方法などいくらでもある。
そもそも、私の娘を脅した連中など、即外に放り出してやる。
この施設から追い出せば、君にも紬にも手は出せまい」
唯「……だから言わなかったんですよ」
紬父「? ……どういう事だ……?」
唯「……まだ分かりませんか?
紬さんは彼女達を施設の外に出したくなかったんです」
237:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 07:48:04.79:oU4XMhGz0
紬父「言っている意味が分からん。何故だ?
紬は何故あいつらを施設の外に出したくないのだ?」
唯「施設の外は危険だからです」
紬父「外が危険だから……?」
唯「紬さんはとても優しいんです。
例えどんなに傷付いても、どんなに傷付けられても……、
誰かを傷付ける事なんてしたくないんです。
貴方や斉藤さんに彼女達の事を言えば、
貴方達は彼女達を傷付けるでしょう?
さっき貴方が言った様に、あの地獄へ彼女達を放り出すと……。
だから彼女は誰にもこの事を言わなかった。
彼女達を守る為に。
紬さんは、自らを傷付けた相手を、必死に守っていたんです」
紬父「そ、そんな……馬鹿な……」
唯「でも、私は彼女の様に優しくはなれなかった。
私は怒りに身を任せ、彼女達を傷つけました。
彼女達が私をこれ以上苦しめないように。
私は自分が傷付きたくないから、彼女達を傷付けたんです」
238:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 07:51:02.19:oU4XMhGz0
唯「私は紬さんの思いを裏切りました。
でも、後悔なんてしてません。
私はもう決めたんです。
何があっても彼女を守るって。
だから、貴方もこれ以上彼女を傷付けないで下さい」
紬父「……」
唯「貴方はさっき、私がここに来れない理由が気になると言いましたよね。
その理由は、紬さんが私と一緒にいる理由と同じなんです」
紬父「……」
唯「……贖罪。」
紬父「……贖罪?」
唯「私達が、紬さんの姿をあんな風にしてしまった原因なんです」
紬父「……君は……軽音部の部員なんだね……」
唯「……私が軽音部で生き残った最後の一人です」
そうか、と小さく呟き、紬父は天井を見詰めた。
239:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 07:55:16.59:oU4XMhGz0
紬父「私は、紬が軽音部の仲間達をあんなに愛しているとは思わなかった……。
高校を卒業した後はドイツに留学する事になっていたし、
軽音部など、ただの暇潰しに過ぎないものだと思っていたのだ。
友人などまた新しく作ればいい、
暫くすれば、紬も高校の友人の事など忘れてしまうだろうと思っていた……。
だから私は、少しでも早く忘れられるよう友人と連絡を取る事さえ禁止した」
紬父「だが、私の考えは間違っていた。
いつまで経っても紬は君達の事を忘れられず、
拒食症を患い、今の様な姿になってしまったのだ。
紬をあんな姿にしてしまったのは私だ。
そして君達にも謝らなければ……すまなかった」
唯「私達は貴方を恨んだりしていません。
親友である彼女が安全な所にいられればそれで良かったんです」
紬父の目からは涙が流れていた。
唯「私はここで紬さんに会って、無事を確認出来て嬉しかった……。
でも、紬さんの今の姿を見て悲しかった……。
だから、これからは紬さんの傍にいてあげたい……。
悲しみも苦しみも、もう一人で背負って欲しくないんです。
私の事を命懸けで守ってくれた妹や友人達の様に、
今度は私が紬さんを守ってあげたいんです……」
240:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 07:57:31.51:oU4XMhGz0
紬父と斉藤さんは、私に全面的に協力してくれると言った。
私は部屋を後にし、再び医務室に戻った。
そこにはもうムギちゃんの姿は無かった。
彼女は特権階級の人達が利用する医療施設に移動させられていた。
そこは私がいた医務室とは全く様子が違っていた。
広く綺麗で、何やら凄そうな医療機器まで配備されていた。
そこの医師にお願いし、特別にムギちゃんの傍に居させて貰える事になった。
ムギちゃんは広くて綺麗な個室のベッドの上に横になっていた。
私は部屋にあった椅子をベッドの横に移動させそこに座った。
ムギちゃんは天使の様に優しい寝顔をしていた。
私はムギちゃんの髪を優しく撫でた。
唯(何があっても絶対にムギちゃんを守るからね……)
私はムギちゃんの手を握り締めた。
細く硬くなってしまった彼女の手……。
でも、とても暖かかった。
彼女の手を握ったまま、私は眠りに落ちていた。
241:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 08:00:09.19:oU4XMhGz0
翌日、私の方が先に目を覚ました。
小さな寝息が聞こえる。ムギちゃんはまだ寝ていた。
私達の手はまだしっかりと握り合っていた。
私が立ち上がろうとしたその時、ムギちゃんは目を覚ました。
紬「……唯……ちゃん……」
唯「私はここにいるよ、ムギちゃん」
紬「私……まだ生きているのね……」
唯「そうだよ。私達は生きているんだよ……」
ムギちゃんの目からは涙が溢れていた。
紬「どうして……私はまだ生きてるの……?
唯ちゃん……私はもう生きるのが辛いの……。
私も……早くみんなの所に……逝きたいわ……」
唯「ムギちゃん……?」
紬「もうみんな死んでしまったのでしょう……?」
242:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 08:04:14.76:oU4XMhGz0
唯「……いつから気付いてたの?」
紬「最初に唯ちゃんの姿を見た時から分かってたの……」
やっぱりムギちゃんを騙す事なんて出来なかったんだ。
ムギちゃんは私が気を遣って嘘を付いている事を見抜いてた。
私の為に、ムギちゃんは騙された振りをしていたんだね……。
唯「ごめんねムギちゃん……。私、嘘を付いてたの……」
紬「ううん、いいの唯ちゃん……。
私も唯ちゃんに嘘を付いてたの……。
唯ちゃんに謝らなくちゃいけないの……」
唯「もういいんだよ、全部終わったから……」
紬「あの人達は大丈夫かな……?」
ムギちゃんは自分を傷付けた人間達の心配をしていた。
どうして彼女はこんなにも優しくいられるのだろう。
私とムギちゃんは一体何が違うのだろう。
私は彼女に、全てを伝えた。
私があの女達を傷付けた事、紬父と話した事、
そして、ムギちゃんが桜ヶ丘高校からいなくなった後の事を。
243:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 08:07:13.07:oU4XMhGz0
紬「そんなに辛い事があったのね……」
唯「私はムギちゃんの姿を見て、どうしても本当の事が言えなかったの……。
これ以上ムギちゃんを傷付けたくなかったから……。
でも、私はもうムギちゃんに嘘や隠し事をしたくないの。
だから、ムギちゃんも私にそういう事はもうしないで。
私達は一人じゃない、二人なんだよ。
悲しい事も辛い事も、楽しい事も嬉しい事も、全部二人で分かち合いたいの」
紬「うん……。もう唯ちゃんに嘘も隠し事もしないと誓うわ」
唯「私は今まで過去ばかり見てたの……。
命懸けで守ってくれたみんなに、ずっと申し訳ないと思っていたの……。
でも、私はもう過去に縛られない。
それは過去を、みんなを忘れるって事じゃない。
過去と向き合って、未来の為に生きるの」
紬「唯ちゃんは強いのね……」
唯「私は全然強くなんか無いの……。
私は、今、私に出来る事をしているだけなんだよ、ムギちゃん……」
紬「私は……私には無理だわ……。私は唯ちゃんみたいに出来ない……」
唯「それでいいんだよ、ムギちゃん。
私とムギちゃんは違う人間なんだもの。
無理に同じ事をしようとする必要は全然無いんだよ。
ムギちゃんに出来て、私に出来ない事もいっぱいあるの。
ムギちゃんは、ムギちゃんに出来る事を精一杯すればいいんだよ。
足りない部分は二人で補えばいいんだよ」
244:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 08:09:40.86:oU4XMhGz0
唯「ムギちゃんには過去を割り切る事が難しいかもしれない。
それはムギちゃんが優しいからなんだよ。
だから、無理に変えようとする必要なんて無い。
少しずつでもいい。たまには立ち止まったっていい。
それでも私は、必ずムギちゃんの隣にいるから。絶対にいるから。
私と一緒に未来へ行こう、ムギちゃん」
紬「唯ちゃん……」
唯「まずはここでゆっくり休んで、元気になろう?
それが今、ムギちゃんに出来る事だよ……」
紬「分かったわ、唯ちゃん……」
唯「ムギちゃんが退院するまで、この部屋で一緒に寝ていいかな?」
紬「もちろん、是非そうして欲しいわ」
その時ドアが開き、紬父と斉藤さんが部屋に入って来た。
唯「あ、あとムギちゃんに見せたい物があるの。
それと、部屋も引っ越す事になったから、私ちょっと行って来るね」
紬「分かったわ」
私は二人に頭を下げ、部屋を出た。
245:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 08:10:46.70:oU4XMhGz0
私が彼女に見せたい物……。
それは、放課後ティータイムの演奏DVD。
これを見たら、彼女は懐かしさと共に苦しみをも得るかもしれない。
それは私も同じだ。
でも、私達は今、このDVDを見なければならないと思った
過去が消える事は無い。
楽しかった事、嬉しかった事、苦しかった事、悲しかった事……。
その全てが、今の自分を構成している要素なのだ。
だから目を背けてはならない。
私はもう目を背けない。
全てを受け入れ、私は前に進むんだ。
大好きなムギちゃんと一緒に。
246:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 08:12:26.77:oU4XMhGz0
部屋の前に着くと、数人の男達が部屋の家具を運び出していた。
ムギちゃんが来た時に持ち込まれた物達だ。
私は男達に軽く頭を下げ、部屋の中に入った。
私の私有物は、まだ部屋に置かれたままになっていた。
制服、ギター、ポーチ。私の全財産。
私はポーチの中を確認した。
そこには、スタンガンが2つと小さなナイフが1つ、
皆と一緒に写っている沢山の写真達、そして5枚のDVDが入っていた
私はそれらを持ってムギちゃんの待つ病室に向かった。
247:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 08:13:42.07:oU4XMhGz0
ムギちゃんの個室のドアを開けると、芳ばしい香りが漂ってきた。
部屋に置いてある台の上には、豪勢な食事が一人分だけ用意されていた。
紬「まだ食事を取ってないでしょう?
斉藤が唯ちゃんの朝食を用意してくれたの。
遠慮しないでいっぱい食べてね。
食後のデザートも用意してあるのよ」
笑顔でそういうと、ベッドの横に置いてあるバスケットを指差した。
唯「……ありがとうムギちゃん。
ムギちゃんは……食べないの?」
紬「私は食欲が無いから……。
でも大丈夫よ。サプリメントを飲んでるし、点滴もしているから」
やっぱり、ムギちゃんはまだ食べられないんだ……。
248:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 08:15:44.32:oU4XMhGz0
私は席に着き、用意された食事を食べ始めた。
あれだけ良い香りがしていたのに、口に入るとそれはまるで無機物の様だった。
美しい料理達も、今の私にとっては何の魅力も価値も無かった。
しかし、私はそれらを全て胃に収めた。
何度も逆流しそうになる無機物を、私は強引に押し戻した。
ムギちゃんを守る為に、私は身も心も強くならなければならない。
食事は私の肉体を強化する儀式なのだ。
砂であろうが泥水であろうが、必要であるならば全て飲み込んでやる。
台に置かれた料理達は、跡形も無くその姿を消した。
唯「ごちそうさまでした、もう食べられないよ~」
紬「あ、唯ちゃん、アイスもあるのよ?」
ムギちゃんは冷蔵庫を指差して言った。
唯「流石に今は無理だよ~。後で一緒に食べようよ」
紬「……そうね、そうしましょう」
249:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 08:17:28.89:oU4XMhGz0
唯「お腹一杯になったら、なんだか眠くなっちゃったよ……」
紬「唯ちゃん、こっちに来て」
そう言って、ムギちゃんは私に手招きをした。
私はその言葉の意味を理解し、ムギちゃんのベッドに潜り込んだ。
セミダブルサイズのベッドだけれど、二人でも全然窮屈ではなかった。
紬「おやすみ、唯ちゃん」
ムギちゃんは優しく私の頭を撫でてくれた。
それはとても心地よく、私の眠気は一気に増した。
少しだけでいいから、今は私を眠らせて……。
私はムギちゃんの細い体に寄り添い、目を閉じた。
ムギちゃんの優しい匂いに包まれ、私は眠りに就いた。
250:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 08:21:31.44:oU4XMhGz0
1時間程寝ていたらしい。
目を覚まし隣を見ると、ムギちゃんは布団から上半身を出し、
背もたれに寄り掛かり、静かに本を読んでいた。
部屋を見渡すと、台の上の食器は全て綺麗に片付けられていた。
その代わりに、色鮮やかな果物とお菓子が用意されている。
ムギちゃんは私が目覚めた事に気付くと、本を閉じてそれを脇に置いた。
紬「おはよう、唯ちゃん」
唯「寝ちゃってごめんね、ムギちゃん」
紬「ううん、全然構わないわ。唯ちゃんの可愛い寝顔も見れたもの」
そう言って、私に明るい笑顔を見せてくれた。
唯「そうだ、私、ムギちゃんに見せたい物があったんだ」
私はベッドから出て、ポーチからDVDを取り出し、ムギちゃんに見せた。
紬「それは何?」
唯「放課後ティータイムの演奏DVDだよ」
251:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 08:23:21.86:oU4XMhGz0
唯「ホントはね、すぐにでもムギちゃんにこれを見せてあげたかったの。
でもね、私はみんなの事を思い出すと悲しくて、辛くて、苦しくて……。
どうしてもこれを見る事が出来なかった……。
だから、このDVDの事をムギちゃんに言えなかったの……。
ごめんね、ムギちゃん……」
ムギちゃんは、優しい顔でゆっくり首を横に振った。
唯「でもね、今ならこのDVDを見れると思う。
ううん、観なきゃいけないと思うの。
そうしないと、私は前に進めない気がするから……。
だから、ムギちゃんと一緒にこのDVDを見たいの」
ムギちゃんは首を縦に振った。
紬「一緒に観ましょう、唯ちゃん」
唯「ありがとう、ムギちゃん」
部屋の隅には大きな薄型テレビが置かれ、DVDプレイヤーも備えてあった。
しかし、ベッドから観るには少し距離が離れている為、
私はテレビの横にあったノートパソコンで観る事にした。
ベッド用の食事台を設置し、その上にパソコンを置いた。
画面が見やすくなるように、ベッドの角度も調整した。
私はムギちゃんの隣に座り、パソコンの電源を入れた。
252:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 08:25:38.18:oU4XMhGz0
唯「これは1年の学際ライブ、これは2年の新歓ライブ、こっちが2年の学際ライブ、
これが3年の新歓迎ライブで、これが……あれ? これは何だろう……?」
一枚、表面に何も書かれていない、私の知らないDVDが入っていた。
とりあえず、私は3年の新歓ライブのDVDをパソコンにセットした。
唯「これは3年になった私達の、新歓ライブの映像だよ」
和『次は、軽音楽部の演奏です』
唯『皆さん、入学おめでとうございます。
私達軽音楽部は、5人と部としては少ない人数ですが、
お茶したり、お喋りしたり、毎日楽しく過ごしています。
あ、練習もたまにします!』
律『たまにかよっ!』
新入生『あははははっ!』
唯『私が軽音部に入った当時は、何の楽器も出来ませんでした。
そんな私でも、優しい仲間達のお陰で、今ではギターが弾けるようになりました。
ですから、初心者でも音楽を楽しみたいという方は、是非来てください。
勿論、経験者でも大歓迎です! 誰でも大歓迎します!』
唯『続いて、メンバー紹介!
私はギター&ボーカルの平沢唯です!』チャラリーラリチャラリラリラー
澪『何でチャルメラ!』
新入生『あははははっ!』
253:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 08:26:50.26:oU4XMhGz0
唯『ツッコミ担当ベースの澪ちゃん!』
澪『何だその紹介はっ!』ベベンベンベンベーン
唯『我等が部長、ドラムのりっちゃん!』
律『いえーい!』ドゴドゴドゴドゴジャーン
唯『愛しの後輩、可愛いあずにゃん!』
梓『唯先輩、恥ずかしいです!』ジャンジャンジャンジャラーン
唯『そして、皆を陰から支えてくれた、キーボードのムギちゃん!
家の都合で転校してしまいましたが、
ムギちゃんはいつまでも私達の大切なメンバーです。
今日は新入生の皆さんと、ムギちゃんの為に演奏したいと思います』
唯『それでは、聴いて下さい! ふわふわ時間!』
律『ワン、ツー!』カチカチ
ムギちゃんは食い入るように画面をじっと見詰めていた。
その目からは涙が零れ落ちていた。
ムギちゃんは手で涙を拭う事をしなかった。
真っ直ぐに画面を見詰め、一瞬でも視線を逸らす事は無かった。
254:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 08:28:38.07:oU4XMhGz0
映像が終わると、ムギちゃんは小さな声で呟いた。
紬「どうして……私はみんなを裏切ったのに……一人で逃げたのに……」
唯「私達は、本当にムギちゃんの事をそんな風に思ってないんだよ……。
みんなムギちゃんの事が大好きなんだよ。
その気持ちは絶対に本当だから。
ステージの上のキーボードがその証拠だよ。
ムギちゃんは、永遠に放課後ティータイムの仲間だから……」
紬「唯ちゃん……」
私はムギちゃんを抱き寄せ、頭を優しく撫でた。
ムギちゃんは大声で泣いた。
私は、ムギちゃんが泣き止むまで頭を撫で続けた。
思いっ切り泣いて、全てを吐き出して。
悲しみも苦しみも、一人で抱え込まないで。
ムギちゃんはもう一人じゃないのだから。
今までムギちゃんが皆を支えていたように、
今度は私がムギちゃんを支えるから。
その為に私はここにいるのだから。
255:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 08:31:36.88:oU4XMhGz0
紬「ごめんね、唯ちゃん。取り乱しちゃって……」
唯「いいんだよ、ムギちゃん。もう、泣きたい時には我慢しないでいいの。
好きなだけ泣いて。私がムギちゃんの涙を全部受け止めるから」
紬「ありがとう、唯ちゃん……」
唯「次はこのDVD……タイトルも書いてなくて、何だか分からないけど……」
私はDVDを入れ替えた。
この中には何が入っているのだろう?
もしかしたら、何も入っていないかもしれない。
だが、それもすぐに分かる事だ。
映像が流れ始めた。
映し出されたのは誰もいない部室。
いや、カメラに人が写っていないだけだ。
何を話しているかは聞き取れないけれど、微かに話し声がする。
2人?3人?いや、もっといる。
皆聞き覚えのある声だ。
一体これは何だ……。
日付は……2010年……今年の7月3日?
256:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 08:34:26.91:oU4XMhGz0
澪『それじゃあ、準備はいいか?』
純『バッチシです、澪先輩』
いちご『……問題ない。』
律『んじゃ、行くぞ!』
律澪梓和純いちごしずか『いえ~い!』
律澪和『唯、ムギ、見てるか~?』
梓純『唯先輩、ムギ先輩、ゾンビのアズジュンでーす!』
梓『って、何これ~! やっぱりもっと普通に行こうよ!』
純『いいじゃん、梓~。こっちの方が絶対面白いってば!』
257:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 08:36:34.42:oU4XMhGz0
しずか『ムギちゃん、私達、軽音部の新メンバーです』
いちご『ムギ、元気にしてる? あと唯も。』
律『いちごとしずかもムギと仲良かったのか? 渾名で呼んでるし』
しずか『私は一年生の時に同じクラスで、少し話した事があったから』
いちご『私は話した事が無いけれど、みんながそう呼んでたから。』
律『話した事も無いのに渾名で呼んだのかいっ!』
いちご『別にいいでしょ。軽音部のメンバーだし。』
律『だったら私の事をりっちゃんって呼んでみて!』
いちご『やだ。』
261:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 09:06:35.47:oU4XMhGz0
梓『もう、いい加減にして下さいよ、律先輩!』
澪『……』ゴツン
律『ってぇ……。なんであたしだけ……』
いちご『自業自得。』
和『とりあえず、話進めるわよ』
純『ですね』
しずか『これを企画したのはりっちゃんなの』
澪『新生放課後ティータイムを映像で残して置きたいっていうのと、
もしかしたら、今後唯がムギと会うかもしれないし、
そしたらムギに私達の事を見て欲しかったんだ』
梓『ムギ先輩に言いたい事もありますしね』
律『まぁ、唯がムギと会えたらの話なんだけどな』
梓『絶対会えます!』
262:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 09:07:35.84:oU4XMhGz0
和『まぁ、唯って物凄く運が良い子だからね』
律『確かに、憂ちゃんの姉って時点でかなりの強運の持ち主だよな』
純『あ、それ分かります』
しずか『憂ちゃんって、すっごくいい子だもんね』
律『あたしも憂ちゃんみたいな妹欲しかったな~』
澪『お前には聡がいるだろ』
律『いらねーよあんなの』バッサリ
263:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 09:09:22.29:oU4XMhGz0
いちご『ちなみに、唯は憂と一緒に帰宅。』
律『唯がいたら、サプライズ映像じゃなくなっちまうからな』
純『それは私のアイデアです』フンス
律『そうそう、鈴木さんのアイデアだぞ』
純『鈴木さんじゃありませんっ! ってアレ?』
律『ん?』
純『やっと覚えてくれたんですね、律先輩!』
律『そりゃあ同じ軽音部のメンバーだからな、佐藤さん!』
純『って、間違ってるし! てか、ずっとワザと間違えてましたよねっ!』
律『てへっ、バレちゃった?』
澪『……』ゴツン
律『だから何であたしだけ……』
264:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 09:10:44.14:oU4XMhGz0
和『それより律、澪、梓、あんた達はムギに言いたい事があるんでしょう?』
律『あ、そうだった。え~おほん! あー、ムギさん? えーっとですね……』
いちご『……。』ゴツン
律『いってぇーな澪! ……って思ったらいちごかよ!』
いちご『……一度殴ってみたかった。』
律『っておい! なんだそりゃ! 理不尽だ! なんて可哀相なりっちゃん!』
澪『……』ゴツン
律『……本当に理不尽だ。ぅぅ……』
純『本当に話進みませんねこれ……』
しずか『あ、あはっ……あはは……』
律『まぁ、こんな感じなんだよ、ムギ』
梓『私達はムギ先輩の事、怒ったりしてませんからね』
澪『ムギは優しいから、私達の事を気にしてるんじゃないかなって思ったんだ。
一人だけ遠くに行ってしまった事に、負い目を感じてるんじゃないかって……。
でも、そんな事気にする必要は全くないぞ?
何があっても、例えどんなに離れてても、私達は仲間だ。
ムギは永遠に放課後ティータイムのキーボードだからな』
265:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 09:14:48.85:oU4XMhGz0
★8
梓『私、ムギ先輩とは二人だけで話す機会が余り無くて……。
でも、ムギ先輩はいつも笑顔で優しくて、私はそんなムギ先輩の事が大好きです!』
律『ムギが軽音部に入ってくれなかったら、唯も軽音部に入らなかったかもしれない。
私達は本当にムギには感謝してるんだ。ありがとう、ムギ』
純『私もムギ先輩のお菓子食べたかったです!』
和『ちょっと純……いい話が台無しよ……』
梓『……』ゴツン
純『いったぁ~……』
いちご『……。』クスッ
266:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 09:16:12.98:oU4XMhGz0
純『あ、いちご先輩が笑った!』
澪『えっ、ウソ!?』
和『そう言えば、いちごの笑った所って見た事ないわね』
しずか『私も殆んど見た事ないかも……』
いちご『……笑ってない。』
純『え~、絶対笑ってましたっ!』
いちご『笑ってない。』
律『まぁ、全部録画してあるからな。後で確認しようぜ! ニシシ』
いちご『……律うざい。』
267:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 09:18:39.18:oU4XMhGz0
澪『それと、唯とムギに聴いて欲しい歌があるんだ。
私が来年の卒業の時の為に作っていた歌詞があって……。
時期的に早過ぎるんだけどさ、これにみんなで曲を付けたんだ。
本当は梓に捧げる予定の歌で、テーマは卒業だったんだけど、
【卒業】の部分を【さよなら】に変えて二人に送りたいと思う』
梓『さよならって言っても、別れるって意味のさよならじゃありません。
それはこの歌を聴いてくれれば分かると思います!』
和『私も、この歌はとても良いと思ったわ』
しずか『素敵な歌だと思います』
純『私も作曲に参加しましたっ!』
いちご『……嫌いじゃない。』
律『それじゃあ聴いて貰おうかな。
あ、そうだ、ムギは知らないと思うから言っとくと、
あたし達色々あって、演奏する楽器が変わってるんだ。
しかも、みんなで合わせたのが今日初めてだから、あまり期待するなよ?』
純『みんなで練習したら唯先輩にバレちゃいますからね』
268:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 09:20:26.64:oU4XMhGz0
律『あたしはベース。ドラムは和。澪はボーカル。
梓と純ちゃんはギター。純ちゃんのギターは、準備室漁ってたら出てきた奴。
いちごがリコーダーでしずかはピアニカだ。
新規メンバーの腕前を、篤とご覧あれ!』
しずか『りっちゃん、ハードル上げないでよ~』
いちご『律、うるさい。』
澪『本当は憂ちゃんのキーボードを入れたかったんだけど、
唯を一人にする訳にはいかないからな』
梓『唯先輩と憂も入れて演奏する案もあったのですが……』
和『律と純が、内緒の方が面白いって言い張ってね……』
律『細かい事はいいんだよっ!』
純『そうですよっ! とにかく、演奏しましょ!』
澪『唯、ムギ、聴いてくれ』
律『いっせーのっ!』
律澪梓和純いちごしずか『天使にふれたよ!』
269:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 09:22:35.32:oU4XMhGz0
卒業を意識したというお別れの歌詞。
本来ならば、これはあずにゃんに送られる筈の物。
その中には、澪ちゃんの優しさと、軽音部への想いが溢れていた。
皆、それぞれ大切な想いを込めて演奏しているのだろう。
それらの音は、乗算の様に互いの旋律を高め合う。
みんなの調べが一つになった時が、私達の本当の音楽になる。
それこそが、「放課後ティータイム」なのだ。
彼女達の演奏は、私とムギちゃんの心を震わせた。
270:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 09:23:56.30:oU4XMhGz0
律『ふぅ~』
しずか『どうだったかな……』
梓『良かったと思いますっ!』
和『こんなもんかしら?』
澪『そうだな』
純『私のギターは梓より上手かったね』
いちご『純、調子に乗り過ぎ。』
純『え~、酷いですよ、いちご先ぱ~い』
律『というワケで、そろそろお開きっ!』
271:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 09:25:03.87:oU4XMhGz0
律『唯、あんまりムギに迷惑かけるなよっ!』
澪『唯、ムギ、元気でな』
和『ムギ、大変だと思うけど、唯をよろしくね』
梓『唯先輩、ムギ先輩、私は二人に会えてとても良かったです』
純『梓と憂の面倒は私がちゃんと見ますから安心して下さい!』
梓『何よそれ! 逆でしょ! 逆!』
いちご『短い間だけど、軽音部は楽しかった……と思う。』
しずか『私も、軽音部に入って凄く楽しかったよ』
272:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 09:30:34.32:oU4XMhGz0
私もムギちゃんも涙が止まらなかった。
こうしてムギちゃんと再会する事も、ムギちゃんの気持ちも、
私達の事は全部お見通しだったんだね……。
やっぱり、みんな凄いよ……。
和ちゃん、最後はやっぱり私とお別れするつもりだったんだね。
自分がゾンビだから……私を傷付けない為に……。
映像が少し途切れたが、すぐにまた始まった。
場所は部室ではない。でも、私はここに見覚えがある。
そう、ここは生徒会室だ。
梓『準備はいい、純?』
純『オッケーオッケー!』
梓『じゃあ、始めるよ』
次の瞬間、私は心臓を押し潰される様な衝撃を受けた。
画面に現れた人物……。
「憂」
273:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 09:33:40.15:oU4XMhGz0
憂『何を言おうか考えてきたのに……分からなくなっちゃった……。
お姉ちゃんに言いたい事は山程あるのに、上手く言葉が出て来ないや。
……ごめん、梓ちゃん、純ちゃん、ちょっと待って。
考えが全然纏まらないの……どうしよう……』
純『憂、頑張って!』
梓『何でもいいから、今の自分の気持ちを全部出しちゃえばいいんだよ!』
憂『ありがとう、梓ちゃん、純ちゃん……』
純『時間はたっぷりあるからね。リラックス、リラックス!』
憂『お姉ちゃん、これを見ている時、私はもう近くにはいないと思う。
私はゾンビでお姉ちゃんは人間……。
だから、いつかはお別れをする時が絶対に来ると思うの。
でも、私はお姉ちゃんにずっと人間のままでいて欲しい』
憂『お姉ちゃんは、自分もゾンビだったらいいのに、なんて考えちゃってるよね。
自分一人だけが人間のままである事に罪悪感を感じて……。
でもね、それは間違っていると思う。
お姉ちゃんが人間だから救われている人だっているんだよ?
お姉ちゃんが人間だから、私は人間でいられるの』
憂『お姉ちゃんは私の、私達の希望なの。
私達が諦めないで頑張れるのは、お姉ちゃんのお陰なんだよ。
さわ子先生も言ってたよ。
唯ちゃんが人間だから、私も頑張らなきゃって。
教師である私が唯ちゃんを守らなきゃって』
274:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 09:38:26.51:oU4XMhGz0
憂『本当はね、私達も怖かった。凄く怖かったんだよ。
いつかあの人達みたいに、自分を失って人を傷付けるんじゃないかって。
でも、絶望しなかったのは、お姉ちゃんがいたからなの。
私達が自暴自棄になったら、お姉ちゃんが一人になっちゃうから。
私達自身が、お姉ちゃんを傷付ける事になっちゃうかもしれないから。
友達として、後輩として、家族として、私達はお姉ちゃんを守りたかったの。
みんなお姉ちゃんの事が好きだったから、守りたかったんだよ』
憂『私達は、そう思える自分達の事を誇りに思っているの。
大切な人を想う心、それを持つ人こそが『人間』なんだって。
だから、みんなでお姉ちゃんを守ろうって誓ったの。
私達が最後の最後まで『人間』で在り続ける為に』
憂『私はお姉ちゃんが好き。大好き。
ご飯を食べてるお姉ちゃんが好き。
アイスをねだるお姉ちゃんが好き。
ごろごろ寝転がってるお姉ちゃんが好き。
ギターの練習をしているお姉ちゃんが好き。
一緒に寝てくれるお姉ちゃんが好き。
どんな仕草でも、お姉ちゃんの全てが大好き』
憂『でも、一番好きなのは明るくて優しい笑顔のお姉ちゃん。
お姉ちゃんの笑顔が何よりも一番大好き。
でも、最近のお姉ちゃんの笑顔は全部嘘。
泣いているのに顔だけ笑って見せて……。
そんなお姉ちゃんは嫌い、大っ嫌いなの』
275:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 09:41:57.64:oU4XMhGz0
憂『泣きたい時には泣いていいんだよ。
それを無理して我慢して、偽りの笑顔なんて作らないで。
そんなの……お姉ちゃんらしくないよ。
そんなの、私の大好きなお姉ちゃんじゃない!』
憂は泣いていた。
憂の他にも鼻を啜る音が聞こえた。
私が憂の偽の笑顔に気付いていた様に、憂もまた私のそれに気付いていた。
結局また、私が一人で人を騙せている気になっていただけだったのだ。
憂『ごめんなさい……私……こんな事を言いたかったんじゃないのに……。
何で私、こんな嫌な事ばかり言っているんだろう……。
ごめんなさい、お姉ちゃん……私……私……』
あずにゃんが横から現れ、憂を抱き締めた。
二人は暫く抱き合っていた。
その間も、録画は続いていた。
画面から啜り泣く声だけが延々と流れてきた。
憂がこんな風に泣くのを、私は生まれて初めて見た。
私の胸は締め付けられ、呼吸すら困難な状態だった。
でも、私は目を離さない。
最後まで見続ける。絶対に。
276:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 09:45:46.00:oU4XMhGz0
憂『ごめんね、お姉ちゃん、私は駄目な妹だね……。
でも、私はお姉ちゃんに心から笑って欲しいの。
お姉ちゃんの本当の笑顔が私は大好きだから……。
ううん、私だけじゃない、みんなお姉ちゃんの笑顔が大好きなの』
憂『律さんが言ってた、お姉ちゃんの笑顔は天使みたいだって。
澪さんは、お姉ちゃんの笑顔を見ると歌詞が浮かんでくるって。
和ちゃんも、お姉ちゃんの笑顔は反則なくらい素敵だって』
憂『だからお願い、本当な笑顔のお姉ちゃんでいて。
そうすれば、世界の誰もがお姉ちゃんの味方になるから。
必ずお姉ちゃんを守ってくれるから。
それが私からの、お姉ちゃんにする最後のお願いだよ』
ごめんね、憂。それは無理だよ。そのお願いだけは聞けないよ。
だって、私の隣に憂がいないんだもん。
憂がいないと、心から笑う事なんて出来ないんだよ。
そうだ、憂が悪いんだ。
憂が私の傍にいないから悪いんだ。
私は絶対に本当の笑顔なんて見せない。
憂のお願いなんて聞いてやるものか。
それが嫌なら今すぐ私の前に来てよ、憂。
憂『そして、もし、これを紬さんが見ていたら、お願いがあります』
278:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 09:49:33.37:oU4XMhGz0
憂『紬さん、私は貴女の優しさをよく知っています。
紬さんの優しさは、お姉ちゃんの優しさと凄く似ているから……。
だから、貴女はお姉ちゃんと同じ苦しみを感じていると思います』
憂『だからお願いです、苦しみを一人で抱え込まないで下さい。
困った事や辛い事があったら、お姉ちゃんに相談して下さい。
お姉ちゃんは絶対に紬さんの力になってくれる筈です。
それが私のお姉ちゃん、平沢唯です』
憂『私は毎日家事をして、お姉ちゃんのお世話をしてると思われています。
私がいないと、お姉ちゃんは一人では何も出来ない、
なんて知り合いから言われる事もありました」
憂『でも、それは違います』
憂『本当に困った時、辛い時、私はいつもお姉ちゃんに助けられてきました。
いつもダラダラしていて、怠け者の様に思われる事もあるお姉ちゃんですが、
いざという時には物凄い力を発揮するんです。
お姉ちゃんを、平沢唯を信じて頼って下さい。私が保証します』
279:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 09:52:13.01:oU4XMhGz0
憂『お姉ちゃん、私はお姉ちゃんの事なら何でも分かるよ。
私がこんな事を言わなくても、お姉ちゃんは全力で紬さんを守ろうとするって』
憂『でもね、これだけは言わせてね。
お姉ちゃんが傷付いたら、紬さんも傷付くって事。
だから、自分の事も大切にして。紬さんの為に』
憂『紬さん、私は今まで辛い事があっても、二人だから乗り越えられました。
紬さんも、もう一人じゃありません。お姉ちゃんが付いてます。
私がそうだった様に、貴女もお姉ちゃんと一緒なら絶対に大丈夫です。
紬さんとお姉ちゃんの無事を、心から願っています』
憂『最後に、お姉ちゃん、私はお姉ちゃんの事が大好きです。
世界で一番、お姉ちゃんの事が大好きです。
私のお姉ちゃんでいてくれてありがとう。
私は貴女の妹で本当に幸せでした』
憂は涙を流しながら、今までで一番素敵な笑顔を見せた。
それは作り物ではない、本物の笑顔だった。
そして映像は完全に途切れた。
280:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 09:54:19.21:oU4XMhGz0
唯「うい……」
唯「うい……うい……ぅぅぅ……う゛い゛ーーーー!」
唯「あ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ーーーーーーーー!!」
唯「う゛う゛ぅ゛う゛ぅ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ーーーーーー!!!」
唯「う゛い゛ーーう゛い゛ーーーう゛い゛ーーーー!!!!」
人間の体の中には、どれ位の涙が蓄えられているのだろう。
私の瞳からは大粒の涙が止まる所を知らずに流れ落ちた。
まるで、体中の全ての水分が飛び出していくかの様に。
ムギちゃんは激しく震える私の体を強く抱き締め、私を静めようとしてくれた。
そのムギちゃんの目からも激しく涙が溢れていた。
それでも、私は湧き上がる感情を抑える事が出来ず、
その衝動に従うまま号泣し続けた。
憂は駄目な妹なんかじゃない。世界で最高の妹だ。
私はありったけの言葉を並べて、それを憂に伝えたい。伝えたかった。
でも、それはもう無理なんだね……。
ごめんね憂。こんなお姉ちゃんで本当にごめんね。
281:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 09:57:35.34:oU4XMhGz0
私とムギちゃんはベッドに横になり、白い天井を眺めていた。
毛布の下で、私達は手を硬く結び合っていた。
唯「私ね、過去を全て切り捨てるつもりだった……」
唯「憂の事も、和ちゃんの事も、りっちゃんの事も、澪ちゃんの事も、
いちごちゃんの事も、しずかちゃんの事も、全部切り捨てようと思ってた……」
唯「だって、みんなの事を考えていると、どうしても立ち止まっちゃうんだ……。
過去に縛られて、未来を見る事が出来なくなっちゃうんだよ……。
私一人ならそれでもいいんだ。私はそれだけ罪深い人間なんだから。
でも、私はどうしてもムギちゃんを守りたい……。
過去に縛られてちゃ、ムギちゃんを守る事なんて出来ないんだ……。
だから過去を切り捨てたいの……切り捨てなきゃいけないのに……」
紬「唯ちゃんは私に、自分の出来る事をしているだけ、って言ったわよね?
それなら、自分に出来ない事を無理にする必要はないんじゃないかしら」
ムギちゃんは優しく微笑みながら私に言った。
紬「唯ちゃんに過去を切り捨てるなんて事は出来ないわ。
だって、唯ちゃんはとっても優しい女の子だもの。
今まで自分を愛してくれた人達の事を忘れるなんて出来る筈ない」
唯「でもそれじゃあ駄目なの……駄目なんだよ……。
そんな甘い考えじゃ誰も守れない、救えないんだよ!」
紬「でも、それが今の唯ちゃんなのでしょう?
その甘い考えを捨てる事が出来ない、それが唯ちゃんなの。
私はそれでいいと思ってる。だって、それが唯ちゃんなんだもの」
283:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 10:01:00.11:oU4XMhGz0
紬「無理に自分を変える事なんて絶対に出来ないわ。
そして、出来ない事をしようとすれば、必ず失敗してしまうのよ」
ムギちゃんは和ちゃんと同じ事を言った。
和ちゃんの言う事はいつでも正しかった。
私はそんな事すらも忘れてしまっていた。
紬「でもね、私は唯ちゃんの事を信じているの。
唯ちゃんは過去を切り捨てなくても、必ず私を守ってくれるって。
だって、憂ちゃんのお墨付きを貰っているんだもの」
唯(違う……私は……)
紬「それにね、私、憂ちゃんの言葉を聞いて思ったの。
私も誰かを守りたい、ううん、唯ちゃんを守りたいって。
私は今まで、誰かに守られてばかりだったわ。
その度に、自分の無力さを痛感していたの」
紬「私には財力……お金がある。
でも、そのお金は私自身の力じゃない。
全て私の親の力で、私はそれを借りているだけ。
バイトを始めて、私はその事に気が付いたの」
紬「今はまだ、お父様の力に縋って生きるしかない。
でも、私はいずれ自分だけでその力を手に入れたい。
その為に私は経済学、経営学、その他諸々の勉強をしてるわ。
それが今の私に出来る事、それしか私には出来ないから」
284:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 10:06:24.84:oU4XMhGz0
紬「そして私は今、もう一つの目標が出来たの。それは、早く元気になる事よ」
紬「今の状態では、私は唯ちゃんに何もしてあげられない、
唯ちゃんに守って貰うだけの存在だから。
私も元気になって、唯ちゃんを守れる人間になるわ」
ムギちゃんは目を輝かせながら言った。
この施設に来てから、初めて見せた眩しい笑顔だった。
その笑顔を齎したのは、憂の言葉だ。
私だけでは、ムギちゃんのこの笑顔を生む事は出来なかっただろう。
私一人では何も出来ない……。
でも、今はそれでも構わない。
ムギちゃんが笑ってくれるならそれでいいんだ。
私は、今の私の力を素直に認める事にした。
そして、私は私に出来る事をする。
それから私の新しい毎日が始まった。
285:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 10:10:16.55:oU4XMhGz0
一週間後、ムギちゃんは順調に回復し、病室から出る事が決まった。
これからは、特権階級居住区のスイートルームで暮らす事になる。
私もこの一週間で、以前とは比べ物にならない位体調が良くなった。
その主因は、食事をちゃんと取り、決して吐き出さないという私のルール。
味のしない食事が苦手なのは今も変わらない。
でも、食物が体の中に入れば、味など関係なく私のエネルギーになる。
ムギちゃんも、少しずつサプリメント以外の物を口にするようになった。
以前の私と同じで極少量ではあるけれど、0が1になる事は大きな変化だ。
また、ムギちゃんは医務室で一日に2時間ずつ3回、計6時間の点滴を行っている。
この間、ムギちゃんはずっと医務室に篭り本を読んでいる。
私はムギちゃんと別れるその時間を利用して、密かに様々な特訓をしていた。
その例の一つとして、私は斉藤さんにお願いをし、車の運転を教わっている。
もし、これから外に出るような事になった場合、車という移動手段は非常に魅力的だ。
長距離を楽に移動できるし、何より徒歩で移動するよりも安全性が格段に高い。
その他にも、護身術、応急手当の方法など、役に立ちそうな様々な事を教えて貰っている。
それらは全て、和ちゃん達がしていた事だ。
彼女達も、私に知られずに様々な訓練や準備をしていたのだ。
私が彼女達の様になる事は無理かもしれない。
それでも、私は彼女達の様になりたかった。
その為に努力をしたっていいだろう。
例えそれが無駄な足掻きであったとしても。
286:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 10:16:40.75:oU4XMhGz0
ギターも弾くようになった。
ギターは私が持っている最大の「力」だという事に気付いたからだ。
特権階級の中にはプロのミュージシャンや楽器の修理技術者もいるらしい。
さらにスタジオ、楽器、楽譜、修理道具なども揃っていて、音楽活動に不自由はしない。
私はスタジオが空いている時に限り、利用出来る許可を貰った。
しかし、私は主に自室でギターの練習をしていた。
ムギちゃんが、私のギターを聞きたいと言うからだ。
スタジオまではそれなりに距離があり、その移動はムギちゃんの負担になる。
今の状態のムギちゃんに、あまり体力的負担を掛けさせたくはない。
それに、私もムギちゃんも、あまり外出が好きではなかった。
私達は、外見をそれ程気にするタイプではないけれど、まだ十代の女子高生だ。
今の窶れた姿に、多少のコンプレックスを持っていた。
それは、私達が精神的ゆとりを持ち始めていた事をも意味していた。
自分の容姿に気を遣う余裕が出てきたのだ。
私は、今までに覚えた曲をムギちゃんに唄って聴かせた。
暫くギターには触れていなかったけれど、体が全てを覚えていた。
ムギちゃんは私のギターを聴くと、満面の笑みで私を褒め称えた。
私はムギちゃんの笑顔が見たくて、次々と新しい曲も覚えていった。
今、私は、私だけの「力」でムギちゃんに笑顔を咲かせているのだ。
287:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 10:20:32.88:oU4XMhGz0
特権階級居住区での生活は、一般人居住区での監獄の様な生活とは似ても似付かぬモノだった。
仕事は無いし、規則も無い。贅沢品も取り揃えられ、まるでリゾート地だ。
今更驚く事ではないが、この施設には豪勢なスポーツクラブなどの娯楽設備も完備されていた。
私はそこで水泳を始める事にした。
水泳は全身の筋肉を使うバランスの良い運動、和ちゃんがその様な事を言っていたからだ。
特権階級専用らしく、そこで汗を流している人間は品も身形も良い者達ばかりで、
私が一般人居住区で見た人達と、同じ人間であるとは思えなかった。
皆の表情は明るく、談笑し、面識の無い私にすら挨拶をしてくる。
それにしても、同じ施設の中に、こんなにも異なった空間が存在していたとは。
あらゆる娯楽を楽しむ事が可能な、優雅で贅沢な生活。
「お金持ち」達の暮らし振りは、私の想像を遥かに超えていた。
その事実を知った時、私はある種の「恐怖」とも言うべきモノを感じていた。
何故、この人達はそんなに「普通」でいられるのだ?
果たして外の惨状を知っているのだろうか、と。
288:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 10:25:04.05:oU4XMhGz0
一般人の居住区にいた人達は、皆常に何かに怯えていた。
外で地獄を体験した人間ならば、その理由などすぐに分かるだろう。
皆、危惧しているのだ。
この安全がいつか失われるのではないかと。
特権階級の人間達は、今の安泰が恒久であると信じている。
何があっても、自分達の安全は保障されているのだと。
噛み付き病が大騒ぎされる以前の人達と同じ心理状態。
『世界が崩壊する訳が無い』
根拠もなく、ただ盲心的にそう思い込んでいるのだ。
特権階級の人間はテレビを観る事が出来る。
通信衛星を利用して、今も普通に放送は継続されていた。
世界の状態は、その放送から全て知る事が出来る。
しかし、彼等には実感が無いのだ。
ニュースで戦争の光景を見るだけで、戦争の悲惨さを実感する事などできまい。
飢えに苦しむ人間達の存在を知った所で、我々は贅沢をやめる事などできまい。
所詮は他人事なのだ。
彼等にとって、噛み付き病など他人事に過ぎないのだ。
実際に自らが体験しなければ、それが事実であろうが虚構なのだ。
289:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 10:34:46.56:oU4XMhGz0
和ちゃんは言っていた。
「安心」は「慢心」を生み、そこから「綻び」が生じる。
小さな「綻び」はやがて大きくなり、全てを「瓦解」させる、と。
小学校の国語の授業で「油断大敵」という言葉を習った時の話だ。
私はこの「偽りの安全」に満ちた世界に染まらぬよう心掛けた。
ここでは、自ら何もしなくても、全て周りの人間が世話をしてくれる。
その為に、専用に雇われているスタッフ達が居るのだ。
一部の一般人は、そのスタッフの人達に雇われ仕事をしていた。
私は出来るだけ他人の手を借りないようにした。
掃除、洗濯、炊事……。私が憂に任せっきりにしていた事だ。
食材を貰い、一部厨房を借りて調理をさせて貰った。
私の調理する姿を見て、料理人達は私に包丁の使い方などを親切に指導してくれた。
聞くと、危なっかしくて見ていられなかったそうだ。
私は厨房の料理人達と親しくなり、様々なレシピも教えて貰った。
私の味覚消失は非常に特殊で、自分で料理した物の味は感じる事が出来た。
ムギちゃんは、私が料理を始めた日から、私の料理を食べてくれている。
最初は下手だからと断ったが、それでも私の料理が食べたいと言って聞かなかった。
ムギちゃんは、私の料理をいつも笑顔で受け入れてくれた。
僅かな量でも、ムギちゃんが食事をする姿を見られる事は私の幸せだった。
290:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 10:38:40.66:oU4XMhGz0
12月17日
ムギちゃんと一緒にこの部屋に引っ越して来てから一ヶ月が過ぎた。
伸び放題だった髪も切り、私は以前の健康的な姿に戻りつつあった。
ムギちゃんも、痩せたままではあるけれど、血色は以前より大分良くなっていた。
唯「きつい……。この服、ちょっと小さいかも……」
紬「新しい服を貰いに行きましょう。可愛い服もいっぱいあるわ」
一般人に配給される普段着や寝巻きは全て同じ物だった。
唯一違う所は、刺繍されている番号。
年頃の女の子が着る様な柄の物ではないが、私はこれが結構気に入っていた。
唯「そうだね、ムギちゃんも一緒に来てくれる?」
紬「もちろんよ」ニコ
私がムギちゃんに案内され着いた先は、まるで高級デパートの様だった。
見るからに高そうな服達が、所狭しと並べられている。
普段着から礼服、パーティードレスまで、あらゆる服が揃えてある。
ここに置いてある物は全て女性物で、男性物はまた別の所にあるらしい。
階を見回すと、小さな女の子を連れた貴婦人が子供用の服を選んでいた。
ムギちゃんは店員らしき人と何やら話をしている。
私は以前着ていた作業服が妙に懐かしくなっていた。
291:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 10:41:26.83:oU4XMhGz0
ムギちゃんは店員らしき人を引き連れ、私の元に来た。
紬「それじゃあ、唯ちゃんの服を選びましょう」
唯「あの、ムギちゃん、この服とかっていくら位するのかな……?」
紬「あ、ここの服は全て無料なの。だから好きなのを選んでいいのよ」
これは後に斉藤さんに聞いた話だけれど、
この施設の特権階級にいる人達は、多額の入居資金を支払っている。
それには、この施設のあらゆる設備・備品の使用権利も含まれているのだ。
特権階級の人間達は「被災者」ではなく「お客様」なのである。
そして、それを証明するのがこの黒いIDカード。
この黒いIDカードこそ、ここでの絶対的権力の証、「力」の象徴なのだ。
292:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 10:43:44.44:oU4XMhGz0
私は、陳列されている服の中から動きやすそうな物を数点選び、
それを店員らしき人に渡した。
後でこの人が私達の部屋まで荷物を持って来てくれるらしい。
それ位自分で出来るけれど、ムギちゃんの顔を立て、それに従う事にした。
紬「唯ちゃん、この服なんてどうかしら?」
ムギちゃんが可愛らしいひらひらした服を持って来た。
紬「唯ちゃんにはこういう服が似合うと思うの。ちょっと着てみてくれる?」
私がその言葉に逆らえる筈がない。
私はムギちゃんの着せ替え人形になった。
試着室で服を着替えムギちゃんに見せると、
ムギちゃんは絶賛し、とても喜んでくれた。
この笑顔の為なら、私はどんな事でもしよう。
紬「とっても可愛いわ、唯ちゃん」
結局、試着した服は全て貰う事になった。
293:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 10:47:38.30:oU4XMhGz0
次の日、私は今まで着ていた一般人用の普段着と寝巻きを返しに行く事にした。
私が一般人であったという証の物達。
何だか名残惜しい気もするけれど、サイズが合わないからどうしようもない。
私は久しぶりに一般人の居住区に来ていた。
以前には気付かなかった、その異様な雰囲気を私は感じ取っていた。
最初にここに来た時は、私自身絶望し、周りを気にする余裕など全く無かった。
だからこそ、今初めて私はこの場が異質である事に気付いたのだろう。
皆、私の方に視線を向ける。
私だけが皆と違う、綺麗な服装をしている。
この空間で、私は目立ち過ぎていた。
私は早足で受付に向かった。
受付嬢「あら……貴女は……平沢さん?」
唯「お久しぶりです」
受付嬢は私の事を覚えていたようだ。
受付嬢「以前と姿も服装も違うので驚きました。元気になったみたいですね」
この人は私の事を心配していてくれたらしい。
294:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 10:50:31.17:oU4XMhGz0
唯「あの、今日は服を返しに来たんです。サイズが合わなくなってしまって……」
受付嬢「分かりました。新しい服は……必要無いみたいですね」
唯「あ、宜しければ、新しい普段着を2着ほど頂きたいです。
動きやすいし、ちょっと汚れるような事もしているので……」
受付嬢「分かりました、平沢さんに合いそうな服を持ってきますね。少々お待ちを」
そう言うと、受付嬢はカウンター奥の扉の中へと消えていった。
5分位経っただろうか。
扉が開き、中から受付嬢が服を2着持って私の前に来た。
受付嬢「どうぞ」
唯「ありがとうございます」
私は服を受け取り、足早にその場を後にした。
295:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 10:52:46.40:oU4XMhGz0
一般人居住区……。
私は、私が傷付けたあの女達の事を思い出していた。
何故、彼女達は私達を傷付けたのか。
彼女達があんな風になってしまった原因は何だったのだろうか。
もしかしたら、ここでの厳しい生活が彼女達を変えてしまったのかもしれない。
あんな雰囲気の中で、まともな精神でいられる筈が無い。
私は今日、あの場に行ってそれを確信した。
もし、私が彼女達の苦悩に気付き、もっと優しく出来ていたら……。
もしかしたら、私達は友人になれたかもしれない。
もう一度彼女達と会おう。
彼女達には仕事がある。今行っても会えない可能性が高い。
私は彼女達が部屋に帰るであろう時間まで待った。
21時。今なら彼女達も部屋にいる事だろう。
ムギちゃんは22時まで夜の点滴をしている。
台の上のお菓子の詰まったバスケットを持ち、私は彼女達の元に向かった。
296:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 10:54:44.67:oU4XMhGz0
彼女達の部屋は変わっていた。
私が騒ぎを起こした日から、あの部屋は空き部屋となっている。
私は受付嬢に無理を言って、彼女達の新しい部屋を教えて貰った。
大丈夫なの?と、受付嬢は心配そうに私に尋ねた。
当然この人も、あの事件の事を知っている。
彼女達が仕事をサボっていた事も、事件後聞かされたという。
私とあの女を引き合わせた張本人。
私に良かれと引き合わせた人物が、私をひどい目に遭わせていたのだ。
受付嬢にも、罪悪感があったのだろう。
事件後、受付嬢は私に会いに来て謝罪をした。
私はこの人を恨む気持ちなど全く無かった。
この人は純粋に私の事を想ってくれていたのだから。
受付に行く度、私の体の事を心配してくれていた。
唯(この人にも何かしないといけないね……)
私はバスケットの中からお菓子を取り出し、お礼を言って彼女に渡した。
297:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 10:58:52.33:oU4XMhGz0
私は新しい彼女達の部屋の前に来た。
彼女達はまた全員で同じ部屋に住んでいる様だ。
私はドアをノックした。
一般人用の部屋にはインターホンなど無い。
暫くして、ドアが開けられた。
私を出迎えたのは、私と一緒に仕事をしていた筈の女だった。
女「……どちら様?」
唯「平沢唯です……。……入っていいですか?」
女「平沢……お前が……? まぁ、取り敢えず入んなよ。歓迎するから」
意外な返事に、私は一瞬戸惑った。
私は彼女に導かれ、部屋の中へと入っていった。
部屋の中には、いつもの女達がいた。
皆、最初は私の事が誰だか分からなかった様だ。
唯「あの……」
298:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 11:00:15.06:oU4XMhGz0
私が彼女達に話し掛けようとすると、それを遮るかの様に女達が口を開いた。
女「本当にごめん、平沢さん!」
女2「私達、本当に反省してます」
女3「ごめんね」
女4「許してください」
彼女達は口々に謝罪の言葉を述べた。
唯「あ、あの……私の方こそごめんなさい。その、これ……」
私はお菓子の入ったバスケットを差し出した。
唯「今更こんな事を言うのはアレなんだけど……、
私、みんなと仲直りしたくて、これ持って来たの……。
良かったら、これみんなで食べて下さい……」
女「えっ? いいの? マジ嬉しい! ありがとう、平沢さん!」
女2「平沢さんも一緒に食べようよ」
女3「うんうん、そうしなよ」
女4「迷惑じゃなかったら……」
私は彼女達と一緒にお菓子を食べる事にした。
299:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 11:01:45.57:oU4XMhGz0
唯「私ね、みんなの事、全然知らないから……。
良かったらみんなの事、色々教えて貰えないかな……?」
私は今まで、彼女達がどういう人間かという事に全く興味が無かった。
彼女達だけではない。私は他人に全く関心を持てずにいた。
しかし今、私はここに住んでいる人間全てに興味が湧いていた。
一般の人も、特権階級の人も、どういう経緯でこの場に居るのだろうか、と。
そして今、何を考えているのだろうか、と。
この施設にいる全ての人間に話を聞く事は不可能だろう。
しかし、自分に関わった人間達の事位は知っておきたかった。
どのような形であれ、この女達は私に関わりのある人間なのだ。
彼女達は自分達の事を語り出した。
300:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 11:04:52.94:oU4XMhGz0
★9
彼女達4人は、美容師を養成する専門学校の学生で、
皆地元を離れ、同じ寮で暮らしていたらしい。
その美容専門学校でも桜ヶ丘高校の様な事件が起きた。
4人で逃げる途中、私同様この施設の兵士達に助けられたという。
助かったのは4人だけで、他の仲間は皆死んでしまったらしい。
その時の事を思い出してか、女2と女4は俯き啜り泣いていた。
私はいつの間にか涙を流していた。
彼女達の話に、私は自分の姿を重ねていた。
女「ごめんね、湿っぽい話になっちゃって」
唯「ううん、私の方こそ、思い出させてごめんね」
気付くと、時計は既に21時55分を回っていた。
ムギちゃんの点滴が終わる頃だ。
唯「私そろそろ戻るね」
女「ああ、平沢さんと話せて良かったよ。明日も来ない?」
唯「うん。あと、私の事は唯でいいよ」
女「分かったよ唯。じゃあ、明日もこの時間で」
女達は満面の笑みで私を見送った。
私は女達の部屋を後にし、ムギちゃんの待つ医務室に向かった。
301:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 11:06:06.58:oU4XMhGz0
医務室に着くと、ムギちゃんは既に点滴を終わらせていた。
唯「ごめん、ちょっと遅れちゃった」
紬「ううん、丁度今終わった所だから」
紬「唯ちゃんは何をしていたの?」
唯「……ちょっと女ちゃん達に会いに行ってたの」
紬「……彼女達、元気にしてる?」
唯「うん、元気そうだったよ……」
紬「そっか、良かった……」
ムギちゃんはほっとしていた。
やっぱり彼女達の事を気に掛けていたんだ。
ホントにムギちゃんは優しい子だ。
ムギちゃんは一方的に彼女達に傷付けられたのに。
302:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 11:09:15.63:oU4XMhGz0
部屋に戻り、私はお風呂にお湯を張った。
特権階級の部屋には、お風呂もトイレも付いていた。
豪勢な大浴場もあるけれど、ムギちゃんは殆んど利用しない。
私は毎日運動後にそこを利用している。
唯「ムギちゃん、お風呂の準備できたよ~」
紬「先に入ってて、私もすぐ行くわ~」
私は服を洗濯篭に入れ、浴室に入った。
この部屋の浴室は、私の家のそれより2倍程の広さがあり、
浴槽も、私達二人が悠々入れる程の大きさがあった。
紬「お待たせ、唯ちゃん」
私達はいつも二人で一緒にお風呂に入っていた。
その度に、私は憂とお風呂に入っていた時の事を思い出し涙した。
ここなら、涙を流してもムギちゃんに気付かれる事はなかった。
303:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 11:24:05.71:oU4XMhGz0
お風呂から上がり、ドライヤーで髪を乾かす。
当然、私の方が早く髪が乾く。
髪の長いムギちゃんのドライヤーは時間が掛かるのだ。
その間に、私はベッドメイキングをする。
二人で寝ても広すぎるキングサイズのベッド。
寄り添う私達には、シングルでも充分だというのに。
私はポートワインを開け、2つのグラスにそれを注ぐ。
ムギちゃんは、寝る前にお酒で睡眠薬を飲む。
アルコールと睡眠薬の相乗効果で、よく眠れるらしいのだ。
一般人居住区での生活の時には、睡眠薬だけを多めに飲んでいた様だが、
特権階級の居住区に居た頃は、お酒でそれを飲む事が習慣だったらしい。
ムギちゃんがそれを打ち明けた日から、私はムギちゃんの寝酒に付き合っている。
それが体に悪い事を私達は知っていた。
それでも、彼女はそうしないと熟睡出来ないのだ。
彼女は酷い睡眠障害も患っていた。
304:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 11:27:34.38:oU4XMhGz0
私達は乾杯をし、一気にグラスを飲み干した。
これが一番効率的な飲み方なのだ。
私達は別にお酒が好きというワケではない。
そもそも、どんな高級なお酒であろうが、味覚障害の私はそれを味わう事など出来ない。
ただ酔う為に、それを摂取しているだけだ。
ムギちゃんによると、このワインは「フォーティファイドワイン」と呼ばれるもので、
通常のワインよりもアルコール度数が高いのだそうだ。
私と違い、ムギちゃんはお酒に弱かった。
一口アルコールを口にすれば、すぐにその白い顔は紅潮する。
そして私に甘えてくるのだ。
私に逢うまで、ムギちゃんはずっと一人だった。
アルコールはムギちゃんの孤独と寂しさを紛らわせていたに違いない。
唯「ムギちゃん、寝る前にうがいと歯磨きだよ?」
紬「うん」ニコ
私達は歯磨きを終え、同じベッドに潜り込んだ。
今日もまた、私達は寄り添い抱き合って眠りに就いた。
305:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 11:31:36.46:oU4XMhGz0
ムギちゃんの寝息が聞こえる。
アルコールと薬の効果で、すぐにムギちゃんは深い眠りに就く。
私はそっとベッドから抜け出し、ギー太を持ってスタジオに向かう。
時計は22:50分を回っている。
この時間にスタジオを使う者は私以外いない。
ここは完全防音になっていて、外に音が洩れる心配は無い。
私はギターをアンプにk~ぎ、大音量でただ只管に掻き乱す。
それはまるで、悲哀の咆哮。
そこで私は、全ての悲しみ、苦しみをギー太から吐き出した
嘆きの独奏は、私の気が済むまで続けられる。
夜中の2時、遅い時には3時頃まで、私はギー太を奏でていた。
気が治まったら、スタジオを片付け部屋に戻る。
ムギちゃんが目覚める気配は無い。
私はギー太を元の位置に戻し、ベッドに戻る。
ムギちゃんの寝顔を見ながら「おやすみ」と呟き、軽く頬にキスをした。
306:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 11:35:29.88:oU4XMhGz0
次の日も、私はいつも通りの日課を熟していた。
何も変わらぬ日常。
そう、今の私にとって、この生活が日常になりつつあった。
朝食を作り、ムギちゃんと二人でそれを食べる。
少しお喋りをして、ムギちゃんを医務室まで送る。
彼女が朝の点滴をしている間、私は掃除や洗濯を済ませる。
早めにそれらを片付けたら、余った時間でギターの練習だ。
11時、彼女の1回目の点滴が終わる時間だ。
私は医務室に彼女を迎えに行く。
彼女はベッドに腰を掛け、迎えに来た私に笑顔でこう言うのだ。
紬「今日も調子がとってもいいわ」
唯「それじゃあ、お散歩にでも行こうか」
307:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 11:37:45.56:oU4XMhGz0
まずは屋上。
もうすぐクリスマス。
外はとても寒く、吐いた息が白くなる。
呼吸をすると、冷たい空気が肺に入り、体の中から冷えるのを感じた。
それでも私達は、新鮮な空気を求め屋外に出る。
屋上に設置されているベンチに座り、二人で空を見上げる。
空は今も昔も変わらず、ただ鮮やかな青色に満ちていた。
こんなにも美しい空の下で、今もどこかで惨劇は続いているのだろう。
ウイルスの所為だけではない。
戦争、飢餓、凶悪事件……。
世界は常に悲劇で溢れていた。
私が知らなかっただけだ。
知らない振りをしていただけだ。
私にとって、そんな世界の惨禍など、他人事に過ぎなかったから。
308:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 11:39:59.95:oU4XMhGz0
屋上で一息ついた後、今度は施設から出て敷地内を歩く。
私たちの他にも、散歩をしている人の姿がちらほら見える。
施設の庭は、職人達によって綺麗に整備されていた。
「まるで恋人みたいね」
ムギちゃんが呟く。
散歩をする時、ムギちゃんは自分の腕を私に絡める。
「そうだね」
私は優しく彼女を引き寄せる。
私もムギちゃんも、ただ純粋に温もりを求めていた。
心と体を暖かくしてくれる存在を求めていたのだ。
私達はお互いに深く依存していた。
誰であろうと、私達を引き離す事など出来ないだろう。
309:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 11:41:19.71:oU4XMhGz0
12時が過ぎ、私達は昼食の準備の為に厨房に向かう。
今ではムギちゃんも一緒に料理を作っているのだ。
「おいしい?」
ムギちゃんは、いつも自分の料理の感想を私に求める。
「うん、美味しいよ」
私は笑顔で答える。
嘘ではなかった。
ムギちゃんの料理には、ちゃんと「味」があった。
私にとっては、一流シェフのフルコースよりも美味しい御馳走だ。
楽しい食事の時間が戻ってきたのだ。
311:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 11:44:22.70:oU4XMhGz0
楽しい時間はあっと言う間に過ぎ去るもの。
14時、2度目の点滴の時間だ。
別れを惜しみ、私は着替えを持ってプールに向かう。
帽子を深く被り、ゴーグルをして顔を隠すようにした。
以前、しつこくナンパをしてきた男がいたのだ。
今の私は人付き合いが億劫ではない。
しかし、ああいうタイプの人間は正直苦手だ。
私は水泳専用レーンで、ただ泳ぐ事だけに没頭した。
気が済むまで泳いだ後は、大浴場で体を綺麗にする。
プールと浴場は中で繋がっていて、
私の他にも、遊泳後塩素に染まった体を洗う人達がいた。
16時、ムギちゃんと二人でティータイムの準備をする。
厨房を借り、私達は自分達でお菓子を作るようになっていた。
この施設には、当然一流のパティシエ達がいる。
斉藤さんの計らいで、私達は彼等から色々学ぶ事が出来た。
お菓子の準備も整い、私達のティータイムが始まる。
偽りではない、本物のティータイム。
水泳でお腹の減った私の、貴重なエネルギー源だ。
軽音部のみんなで行っていたティータイム。
それと遜色の無い程、この時間は心地よかった。
312:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 11:46:35.89:oU4XMhGz0
お茶の後はムギちゃんとギターの練習だ。
練習と言うより、発表会と言った方がしっくり来るかもしれない。
私は夜中に覚えた曲や、ムギちゃんがリクエストした曲を披露した。
ムギちゃんは子供の様な笑顔を私に向け、演奏を聴いてくれる。
紬「次はねぇ、次はねぇ……」
夕飯の準備を始める18時半まで、彼女のリクエストが止まる事は無い。
そろそろご飯の準備をしよう、そう言って私は彼女を宥めた。
彼女はしぶしぶながらも、それに従う。
「また明日弾いてあげるからね」
そう言って、私は彼女と指切りをする。
ムギちゃんの細い指が、私の指に絡まる。
「約束ね」
彼女はそう言うと、私に明るい笑顔を見せるのだった。
314:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 11:49:11.71:oU4XMhGz0
20時、ムギちゃんの今日最後の点滴が始まる。
いつもなら、斉藤さんに様々な事を教えて貰う時間だ。
斉藤さんは仕事が忙しく、夜でないと自由な時間が取れないらしい。
そんな貴重な時間を削ってまで、彼は私の我侭に付き合ってくれていた。
しかし、昨日に続き、今日も斉藤さんとの訓練は無い。
私が女達の部屋に行くからだ
21時まで時間がまだある。
私はギー太を取り出し、練習を始めた。
ギターを弾いていると、時の流れが急に早くなる。
気付けばもう40分も経っていた。
少し早くてもいいかな……。
私はお菓子の入ったバスケットを持ち、女達の部屋に向かった。
唯「ごめんね、ちょっと早く来ちゃったんだけどいいかな?」
女「……ああ。入りなよ唯」
私は女に招かれ部屋に入った。
ガチャリ。
オートロックの鍵が閉まる音がした。
316:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 11:51:17.79:oU4XMhGz0
部屋に入ると、いつもの女達の他に、3人の男達がいた。
以前に見た男達ではない。
柄も悪そうには見えないが、体躯が良く圧倒的な威圧感があった。
女達の方を見ると、何故かニヤニヤしている。
厭らしい笑い方だ。
唯「あの……これ、お菓子です……」
漢1「おー、旨そうじゃん」
漢2「ありがとう、唯ちゃん。俺、腹減ってたんだよね」
漢3「さっき飯食ったばっかじゃん」
私の名前を知っていた。
この男達は彼女達の友人だろうか?
私は女の顔を見た。
女は私を淫靡漂う表情で見詰めている。
どうしてそんな目で私を見るの……?
318:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 11:53:18.70:oU4XMhGz0
漢1「へぇ~、唯ちゃんって……聞いてたより全然可愛いじゃん」
漢2「だね。ゾンビとか言ってたから、どんな子が来るかと思ってたら」
漢3「こんな可愛い子とは思わなかったわ」
男達は、舐める様な視線で、私の下半身から上半身を隈無く品定めしていた。
戸惑う私を尻目に、女達はクスクスと小さく笑い出していた。
漢1「でも、マジでいいの? ヤバクない?」
女「大丈夫、この子そういうのが好きだから」
女2「そうそう、遠慮とかしなくていいから」
女3「その子、口めっちゃ堅いから大丈夫」
唯「あの……女ちゃん……?」
漢2「あ、唯ちゃんのその表情、凄くいいね!」
漢3「俺もちょっと興奮した!」
漢1「てか、もう始めちゃって良いワケ?」
女「……ああ、好きなだけ犯っちゃって」
319:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 11:56:58.32:oU4XMhGz0
唯「なに……それ……どういう事……?」
女4「お前をこれから輪姦すんだよ」
漢2「唯ちゃんにはたっぷり乱れて貰うからね」
唯「女ちゃん……どうして……?」
女2「どうしてだって!? 馬鹿かこいつ!」
女3「あれだけやっといて、今更仲良しとかありえないだろ」
女4「しかもそんな服着て、自分はうちらとは違うとでも言いたいのか?」
女「あたしら、ずっとお前に復讐しようと思ってたんだよね」
唯「復讐……?」
女「あんなナメた真似しといて、タダで済むと思ってんのか?」
唯「……。」
女「でも、お前の方からこっちに来てくれて良かったよ。
あたしらじゃ、あっちの居住区には入れないからな」
女2「誘い出す手間が省けたね」
唯「……。」
唯「……じゃあ、どうして昨日は謝ってくれたの……?」
320:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 11:59:26.16:oU4XMhGz0
女3「お前を油断させて、今日も来て貰う為だよ」
女4「お前が暴れると、うちらだけじゃ手に負えないからな」
漢2「それで俺達の出番ってワケだな」
女2「こいつら、この施設の兵士だからな。前のヘタレチンピラ共とは全然違うぜ」
漢3「うわ、ひど! その男達かわいそ~」
唯「……昨日言ってた話は全部嘘だったの?」
女2「ああ。あたし達は専門学校なんて行ってねーし」
女「あたしの彼氏が金持ちで、ここに連れて来て貰ったんだ」
女4「彼氏というか財布だろ」
女3「あたしと女2と女4は、女の彼氏の愛人だよん」
女4「最初うちらも金持ち共の居住区に住んでたんだけどさ、
女の手癖が悪すぎて追い出されたんだよ」
女「お前らだって同じだろ。それにあいつ等だって同類だぜ?
薬に買春、なんでもありだからな。屑だよ屑。
金だって有り余る程あんだし、ちょっと位こっちに寄こせっての」
321:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 12:02:22.69:oU4XMhGz0
漢3「ほんと、お前ら悪女だよな」
漢2「俺は唯ちゃんみたいに純粋な子が好みだよ」
漢1「あ、やべっ! ゴム持って来るの忘れちった」
女2「中に出しちゃっていいよ」
女3「後で腹パンすればオッケー」
漢1「うわ、鬼畜~」
漢3「あ、順番決めようぜ! 俺いっちば~ん」
漢1「あっ!? 勝手に決めんなよ、俺も一番がいい」
漢2「この子処女っぽいし、一番は譲れないな」
322:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 12:03:10.32:oU4XMhGz0
漢1「おい、誰がこの話持って来たか覚えてるか?」
漢3「う~ん、それを言われるとなぁ……」
漢2「……仕方無い。じゃあ俺は処女アナルで我慢するよ」
女4「処女にいきなりアナルかよ!」
女3「悶・絶・必・死!」
漢2「泣き叫ぶから興奮するんじゃん」
漢3「こいつドSだから」
漢1「というワケで、唯ちゃんの処女は俺が頂くね」
323:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 12:04:54.77:oU4XMhGz0
私は3人の漢達に囲まれていた。
唯「……。」
漢1「怖くて声出せないのかな~? でも、挿れた時はちゃんと鳴いてね?
そうじゃないと、こっちも興奮しないからさ」
唯「……。」
漢2「唯ちゃん、すっごく気持ち良くしてあげるからね」
唯「……。」
漢3「唯ちゃんを可愛がったら、今度は紬ちゃんの番だな」
女2「こいつを餌にすれば、あいつすぐ来るだろうな」
唯「……………………。」
私の心の中で何かが壊れる音がした。
324:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 12:06:18.95:oU4XMhGz0
漢1「それじゃあ、まずその可愛い服を脱がしちゃおうかな」
男の大きな手が、ゆっくりと私に近づいて来た。
次の瞬間、男は悲鳴と共に崩れ落ちた。
女達も男達も、最初は何が起こったのか分からなかった。
しかし、私の右手でバチバチと音を立て、
放電するスタンガンを見て、皆その状況を理解した。
私は服の裏に隠し持っていたスタンガンを、男の下腹部に思いっきり押し当てたのだ。
男は余りの痛みに悶絶している。
苦しみ悶えるその姿は、とても滑稽だった。
悶絶するのは私の方じゃなかったみたいだね。
325:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 12:07:58.14:oU4XMhGz0
男達は油断していた。以前の男達と同じだ。
屈強な男が3人もいれば、女一人に負ける筈など無いと。
女達も同じ考えだろう。
今、自分達が絶対的に有利な立場にいる。
それは何があっても揺るがないのだという、根拠の無い自信。
そんな「安心」が「慢心」を生み、隙が出来るのだ。
進歩無いね。
いい加減、気付こうよ。
絶対的な安心、安全なんてどこにも存在しないって事にさ。
私の予想外の反撃によって、他の男達は動揺していた。
私はそれを見逃さなかった。
素早く二人の男達の腹部にスタンガンを当てた。
男達は体勢を崩した。
しかし、腹部に当てた程度では、すぐに起き上がってくるだろう。
私は、 獅ォ苦しむ男達の頸部にスタンガンを押し当て、止めを刺した。
男達は気絶し、完全に動かなくなった。
女達は恐怖の形相で目を見開き、言葉を失っている。
部屋に沈黙が続いた。
この光景、激しくデジャビュだ 。
328:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 12:13:52.13:oU4XMhGz0
唯「私さ、初めから分かってたんだよ。女ちゃん達の謝罪も笑顔も全部ウソだって」
唯「私はね、女ちゃん達にした事を、凄く後悔していたの。
もっと別のやり方があったんじゃないかって……。
もしかしたら、女ちゃん達も、私と同じ苦しみを感じていたんじゃないかって。
だから、私は女ちゃん達に謝りたかった。私のした酷い行為を謝りたかった。
例え女ちゃん達が、自分達の行為を反省していなかったとしてもね」
唯「昨日の別れ際の女ちゃん達の笑顔、とても素敵だったよ。
でもね、状況を考えたらとっても不自然なんだよ。
本当に謝罪の気持ちがあるのなら、あんな風に笑えるワケないんだよ」
唯「そうだ、状況が不自然だったんだ……。
だからあの時、斉藤さんは私の笑顔を見てあんな顔をしたんだ。
ムギちゃんは私の姿を見たから私の嘘が分かったんだ。
みんなが無事なら私があんな姿になる筈ないもんねぇ、そっかそっかぁ」
唯「あー、私は駄目だなぁ……。
そんな事、ちょっと考えれば分かるじゃないか。
どうして私はそんな事にも気付かなかったんだろう。
これじゃあ、また失敗しちゃうよ……困ったなぁ……」
唯「……。」
唯「考えても分からないや。とりあえず、私に今出来る事をしよう」
私は女達の方を見た。
唯「今日は静かだね。前は震えながら謝ってくれたのに」
329:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 12:16:44.49:oU4XMhGz0
私が女達の方に近付こうとすると、彼女達は後退りした。
彼女達はあの時と同じく、部屋の隅で固まった。
ヒューヒューと変な呼吸音が聞こえる。
唯「ねぇ、女ちゃん……」
女の体がビクっと動いた。
唯「どうすれば、女ちゃんは私達を傷付ける事、辞めてくれるの?」
女「ご、ごめん……なさい……」
消え入るような声で女は謝罪の言葉を口にした。
私はしゃがみ込み、蹲っている彼女の顔を、目を見開き正面から近くで見た。
唯「前もそうやって謝ってたけど、何も変わってないじゃない……」
私は女の顔を平手で力いっぱい打った。
女の体はその衝撃で横に倒れ込んだ。
その様子を見て、女達は皆震えだした。
唯「ねぇ、前にいた男達と、あの日以来会った事ある?」
330:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 12:18:23.35:oU4XMhGz0
私は隅に蹲る女達の方に目をやった。
彼女達は怯えた目で私を見ている。
唯「……質問に答えろ。」
女2「い、いえ、あれから会った事は無いです……」
唯「……そうなんだ。」
女3「ほ、本当です! あの人達の事は何も知りません!」
唯「……そう。じゃあ、私が首を噛み切った男の事……覚えてる?」
女2「お、覚えてます……」
唯「その人がどうなったか……知ってる?」
沈黙が流れた。
唯「あの人、死んだって。」
女達の体の震えが一段と大きくなった。
332:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 12:23:14.34:oU4XMhGz0
唯「私ね、人を殺しちゃったみたいなの……。
でもね、今はそれでよかったと思ってるの。
だって、そうすれば、二度と私達を傷付けられないでしょ?」
唯「私ね、どんな人でも話せばきっと分かり合えると思ってた。
でも、その考えって間違ってるよね。
絶対に分かり合えない人って、やっぱりいるもん。
貴女達みたいに、他人の痛みが分からない人とかさ」
私は女2の顔を思い切りグーで殴りつけた。
女2の鼻からは真っ赤な鼻血がボトボトと垂れ落ちた。
唯「でも、それってしょうがない事なのかもしれない。
だって、他人の痛みはやっぱり他人の痛みで、分かるワケないもん。
他人の痛みが分かる、何て軽々しくいう人は痴がましいよね」
私は女3のお腹を思い切り蹴り上げた。
女3は呻き声を上げ、先程食べた夕飯を嘔吐した。
唯「腹パンってこういうのだよね。あ、パンってパンチの事だっけ。
間違えて蹴っちゃったよ。ごめんね、女3ちゃん」
唯「私、女ちゃん達に謝らなきゃ……。
私ね、貴女達って最低の屑だと思ってたの。
でもね、私も貴女達と同じ卑しい最低の人間だったんだ……」
唯「だって、こんなにも簡単に人を傷付ける事が出来るんだもん」
333:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 12:29:22.49:oU4XMhGz0
私は女4の髪を掴み、俯いている顔を強引に上げさせた。
唯「ねぇ、女4ちゃん、私はどうすればいい?
どうすれば貴女は私を傷付けなくなるの? 教えて?」
女4「ごめん……な……さい……」
唯「だからさ……、それじゃあ答えになってないでしょ!」
私は女4の頭を思いっ切り地面に打ち付けた。
何度も何度も彼女の頭を地面に打ち付けた。
彼女の体の震えが止まった。彼女は動かなくなった。
その時、後ろで男の呻き声がした。
振り向くと、漢1がゆっくりと立ち上がろうとしていた。
私は漢1に飛び掛った。
馬乗りになり、近くにあった木製の置物で漢1の顔を殴り続けた。
そのうち、漢1は動かなくなった。
顔は原形を留めない程腫れ上がり、前歯は全て折れていた。
念の為、私はもう一度3人の男達にスタンガンを当てた。
334:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 12:33:51.70:oU4XMhGz0
唯「ねえ、女ちゃん……」
私は女の両肩を掴み、体をこっちに向けさせた。
唯「女ちゃんは、自分達が私よりも強いと思ったから、こんな事をしようとしたんでしょ?
私が女ちゃん達よりも強そうだったら、女ちゃん達は私を傷付けようとはしなかった。
昨日私に手を出さなかったのは、そういう理由だったよね?」
唯「はっきり言っておくよ。
私はね、いつでも女ちゃん達より強いんだよ?
女ちゃんがどんなに強そうな男の人を連れて来てもね、絶対に私には勝てないの」
唯「私がやろうと思えば、何でも出来るんだよ?
貴女達をここから追い出す事だって、殺す事だって簡単にね」
唯「じゃあ、何でそれをしないと思う?
それはね、それをすると悲しむ人がいるからなんだよ。
私はね、その人が悲しむ事をしたくはないんだよ!」
私は女ちゃんの体を激しく揺さ振った。
唯「でもね、私はその人程優しい人間じゃないの!
私は貴女達と同じだから!
だからね、いざとなれば、私は貴女達を殺す事なんて躊躇い無く出来るんだよ!」
私は震える彼女の首に手を掛け、ゆっくりと締め上げた。
335:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 12:36:34.66:oU4XMhGz0
唯「女2ちゃん、女3ちゃん、このままだと女ちゃん、死んじゃうよ?」
二人はガタガタと激しく震えていた。
恐怖で顔は引き攣り、私に抵抗する気力などありはしなかった。
唯「ねぇ、本当に死んじゃうよ? 友達なんでしょ? 助けなくていいの?」
女の顔から血の気が引いていく。
顔は白くなり、唇は紫に変色していった。
唯(そんなものだよね、貴女達の関係なんて……)
もし軽音部のみんななら……。
自分の命なんて顧みず、即座に相手に飛び掛っていくだろう。
大切な仲間を守る為に。
私は彼女の首から手を離した。
大きく咳き込む彼女の耳の傍で、私は囁いた
「今度私に歯向かったら殺すからね」
336:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 12:41:28.79:oU4XMhGz0
唯「こっちの二人にはもう少しお仕置きが必要だよね……」
私は倒れている漢2と漢3の方へ歩み寄った。
女達に唆されたとはいえ、面識の無い人間を手篭めにしようとしたのだ。
しかも、悪びれる様子もなく、意気揚々と。
他人を傷付けるって事は、自分も他人に傷付けられる覚悟があるって事だよね?
そうじゃなきゃ、フェアじゃないよ。
一方的に相手を傷付けるだけなんて、そんな都合の良い話があるワケないでしょ。
私は、失神してうつ伏せになっている漢2の腕を、力を込めて後方に捩じ上げた。
唯「んぐぐぐぐぐぐ……」
ミシミシと腕が軋む音がした。
私はそんな事を気にせず、全体重を掛けた。
唯「ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛……」
鈍い音がした。男の腕が在り得ない方向に曲がっていた。
痛みで漢2は覚醒し、呻き声を上げた。
唯「うるさいよ。」
私は漢2が完全に意識を失うまでスタンガンを押し付けた。
同様に、漢3の腕も圧し折った。
唯「ふぅ~、腕を折るのって結構疲れるね。やり方が悪いのかなぁ?」
337:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 12:42:49.17:oU4XMhGz0
私は震い慄く女達の方に体を向けた。
唯「部屋、また汚しちゃったね……。今回は自分達で掃除するんだよ?」
唯「それと……」
唯「この事を誰かに言ったら、ただじゃおかないから」ニコ
唯「寝てる人達にも教えてあげて。誰かが喋ったら、連帯責任だからね?」
唯「……。」
唯「ちゃんと返事してよ!」
女達は震えながら頷いた。
ふと部屋にあった時計に目をやった。
もうすぐムギちゃんの点滴が終わる時間だ。
医務室に迎えに行かなきゃ……。
私は女達の部屋を後にした。
338:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 12:47:51.16:oU4XMhGz0
医務室で私の姿を見たムギちゃんは、一目散に私の近くに寄って来た。
紬「どうしたの唯ちゃん!?」
私の服や顔には、あの人達の返り血が付いていた。
ムギちゃんの事を考えていたら、血を拭くのを忘れちゃった。
ああ、私はまたムギちゃんに心配を掛けてしまっているのか。
唯「大丈夫、これ私の血じゃないから」ニコ
私は心配そうに尋ねるムギちゃんに元気一杯の笑顔で答えた。
怪我をしている人間が、こんな笑顔を作れる筈がない。
だって、痛いんだからこんな風に笑えるワケないじゃん。
平気だよ、私は無傷だから。どこも痛くないの。
だから安心してね、ムギちゃん。
339:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 12:51:01.58:oU4XMhGz0
紬「……何があったの? 唯ちゃん……」
唯「ん? 大した事ないよ?」
紬「大した事無いって……」
私はその場で服を脱ぎ、下着姿になった。
ムギちゃんと医師は驚きの表情で私を見ている。
唯「ほらね、よく見て? 私はどこも怪我してないでしょ?
私はもうムギちゃんには嘘を付かないよ。
だから大丈夫、心配しないでね」
紬「と、とにかく服を着て部屋に戻りましょ」
唯「うん」ニコ
341:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 12:55:45.55:oU4XMhGz0
部屋に入ると、私はムギちゃんに浴室に連れて行かれた。
まだお風呂にお湯を張ってないよ……。
ムギちゃんは私の顔にシャワーを掛け、あいつらの血を洗い流した。
紬「……あの女の人達ね?」
唯「うん。」
紬「あの人達が、また唯ちゃんを傷付けようとしたのね……?」
唯「うん。」
紬「ごめんなさい……ごめんなさい、唯ちゃん……」
ムギちゃんは泣いていた。
お湯ではない液体が、ムギちゃんの顔に流れている。
342:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 12:58:08.18:oU4XMhGz0
なんで……どうしてムギちゃんが泣くの?
私を傷付けようとした人達をやっつけただけなのに。
そんなにあの人達の事が心配?
違う、ムギちゃんは私を見て泣いている……。
ムギちゃんの表情……私の事を……心配している……?
私は無事だよ?どこも痛くないよ?
わからない……わからないよ、ムギちゃん。
唯「なんでムギちゃんが泣くの?
私を見て、なんでムギちゃんが泣くの?
どこも怪我なんてしてないのに、なんで泣くの?
分からない……分からないよムギちゃん。
教えて、なんで泣いているのか、教えてよムギちゃん!」
シャワーが私の涙を掻き消していた。
343:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 13:01:11.57:oU4XMhGz0
ムギちゃんは、無言で私を見詰めている。
高い場所に設置されたシャワーが私達に降り注ぐ。
私のどこに心配される要因があるの?
ムギちゃんは私の何を見て涙を流したの?
どこ?どこ?私の何所にそんなモノがあるの?
見えない。ムギちゃんに見えるモノが、私には見えないよ。
見えない……見えない……見えない……見えない?
見えない物……目では見えない物……心?
ムギちゃんは私の心を見たの?私の心を見て……。
私の心……?
ああ、そうか。
ムギちゃんも気付いちゃったんだ。
「平沢唯」が既に死んでいた事に。
344:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 13:03:20.53:oU4XMhGz0
そうだった……。すっかり忘れていた……。
私はもう人間じゃないんだ……。
人間だった「平沢唯」はもう死んだんだよ。
唯「う゛う゛う゛……」
急に眩暈がし、足元がふらついた。
倒れそうになる私を、ムギちゃんが受け止めてくれた。
紬「唯ちゃん、大丈夫!?」
唯「私は……もう……人間じゃ……ないんだ……」
紬「何を言っているの!? 唯ちゃんは人間よ!」
唯「違う……私は人間じゃない……。ゾンビの……平沢なんだ……」
唯「私の……中に……怪物がいるの……。
人を……平気で……傷付ける事の……出来る……怪物……ゾンビが……」
紬「違う、貴女はゾンビなんかじゃないわっ!
とっても可愛くて、とっても優しい女の子、平沢唯よ!」
唯「私は……ひらさわ……ゆい?」
紬「そうよ、貴女は平沢唯、平沢唯なの!」
唯「ぅぅ……ムギちゃん……」
345:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 13:06:42.18:oU4XMhGz0
唯「ぅぅ、怖いよムギちゃん……。私、怖いよ……。
私の中に、ゾンビがいるんだよ……。
時々ね、そのゾンビが出てくるの……。
ゾンビが出てくると、私、自分を抑えられないんだよ……!」
唯「ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっーーーー」
唯「私がみんなを傷付ける……ムギちゃんも傷付ける……」
唯「ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛……」
唯「怖い……助けて……誰か……お願い……」
紬「落ち着いて、大丈夫、大丈夫よ、唯ちゃん……」
浴室は、湯気が濃い霧の様に立ち込めていた。
白い霞の中で、ムギちゃんの姿だけがハッキリと見えていた。
346:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/02/01(火) 13:08:26.78:oU4XMhGz0
紬「大丈夫、私が付いているから大丈夫よ……。
唯ちゃんを困らせるゾンビなんて、私がやっつけちゃうわ。
だから安心して。私はいつでも唯ちゃんの味方なのよ……」
唯「ムギちゃん……」
降り頻るシャワーの下で、ムギちゃんは私を強く抱き締めた。
私は大声で泣いた。
泣き続けている間、ムギちゃんはずっと頭を優しく撫でてくれていた。
大丈夫、安心して、と慰めの言葉を紡ぎながら。
浴室から出た私達は、髪も乾かさず、裸のままベッドに入った。
ムギちゃんの肌の温もりが、私の心を落ち着かせた。
その日、私達はワインを飲まなかった。
次へ
梓「純……?」
純「きた……ヤバイ位きた……私……無理……」
その言葉が何を意味するのか、私達は知っていた。
純ちゃんの体は激しくガタガタと震えていた。
純「は、早く行って……ち、血が……」
私は頭から出血していた。
その血の匂いが、純ちゃんを蝕んだのだ。
純「わ、私は人間だ……人間なんだ……ニンゲンニンゲンニンゲン……」
梓「皆さん、先に行ってて下さい! 私が残りますから!! 」
憂「梓ちゃん!」
梓「憂、和先輩……。唯先輩を……お願いします!」
和「……分かったわ。」
唯「そ、そんな……」
梓「唯先輩、ごめんなさい……。ここでお別れです。
でも、大丈夫です。唯先輩には憂と和先輩が付いてますから」
純「わ、私の事はいいから……梓も行って……」
梓「純を一人で置いてけるわけ無いじゃん……親友なんだからさ……。
あんた一人じゃ……私が付いてなきゃ、全然駄目な奴だしさ」
純「寂しがり屋の梓に……言われたくないっての……」
憂「純ちゃん……」
純「憂……お姉ちゃんを一人にしちゃ駄目だからね……。
和先輩、和先輩の凄さを改めて知りました……もっと仲良くしたかったです……。
唯先輩、唯先輩の笑顔は素敵でした……だからいつでも笑顔でいてください……」
唯「うん……分かったよ純ちゃん……」
私は泣きながら、目一杯の笑顔を見せた。
純ちゃんは優しい顔で笑ってくれた。
私達は二人を置いて車に向かった。
外に出て、表の道路に止めてあるという車に向かう。
しかし、私達はその車に乗る事は出来なかった。
和ちゃんが手に入れたという車の周りには、
凶暴化したゾンビ……「崩壊者」達が集まってきていて、
とても近付けるような状態ではなかった。
そのうちの一人が私達に気付いた。
無機質な魚の様な目で私達を凝視している。
その様子に別の崩壊者も気付き、私達の方に顔を向けた。
皆、同じ目をしている。
その大きく開かれた黒い瞳からは、人間としての感情を読み取る事は出来ない。
小さな唸り声を上げ、私達を威嚇している。
一人、二人、私達の方にじりじりと近づいて来た。
それに合わせ、私達も後退りをする。
次の瞬間、崩壊者達が一斉に私達の方に駆け寄ってきた。
和「唯! 走って!」
和ちゃんの声を聞いて、私は只管走った。
後方からは、凄まじい雄叫びと金切り声が聞こえてくる。
振り返ってはいけないと思いつつも、
私は憂と和ちゃんが気になって後方に目を向けた。
二人は私の後を追いながら、襲い掛かってくる崩壊者達に応戦していた。
どれ位走っただろうか。
私達は市街地を抜け、郊外まで来ていた。
道路の両脇には青々と茂った木々が立ち並び、延々と先まで続いている。
振り向くと、遥か後方で憂と和ちゃんが崩壊者達と交戦していた。
いつの間にか、二人とかなりの距離が開いていた。
また、私だけが逃げている……。
仲間を犠牲にして、私だけが安全な所で……。
本当は戻って二人に加勢したかった。
しかし、運動神経の悪い私が行った所で、足手纏いになるのは明白だ。
昨日とは打って変わり、雲一つ無い晴天が広がっている。
夏の日差しが容赦なく私に降りかかる。
背中のギターケースが一段と重く感じられた。
滝の様に流れる汗が止まらない。
また意識が朦朧としてきた。
でも、ここで倒れるわけにはいかない。
倒れたらまた迷惑を掛ける事になる。
今、私に出来る事は、歩を前に進める事だけなのだ。
私は無力な存在だ。
みんなに守られて、みんなを傷付けて、みんなを苦しめて……。
そんな私が最後まで生き残るなんて、世の中は間違っている。
何故神様は、私にこんなに素晴らしい友人達を与え、
その友人達に惨い仕打ちを加えるのか。
本来その仕打ちを受けるべきは、私の筈なのに。
私の様な無力の人間が生き残って何になるというのだ。
他人に迷惑を掛けるだけじゃないか。
憂や和ちゃんみたいに、他人を救える人間にはなれないんだ。
誰でもいい、あの二人を助けて下さい。
その為なら、どんな代償も払うから。
無力な私の代わりに、あの二人をどうか……。
視界がかなりぼやけてきた。そんな時だった。
幻覚かもしれない。
私の視界の先に、装甲車のような物が映っていた。
「君は人間か?」
装甲車の横の人影が、スピーカーのような物で話し掛けて来た。
この人達は「人間」だ。
唯「たすけて……助けて……! 助けてーーーーーー!!!!」
私は残る力の全てを込めて叫んだ。叫び続けた。
人影が装甲車に乗り込むと、私に向かって動き出した。
装甲車は私の近くまで来て止まった。
兵1「君、大丈夫か?」
唯「たすけて……たすけてください……おねがいします……」
私はその場に倒れ込みながらも、後方を指差しながら声を絞り出した。
兵2「もう大丈夫だからね、安心しなさい」
兵1「こちら第三捜索部隊、要救助者を確保、十代女性、感染無し。」
兵3「先方よりレベル5感染者接近、数10、来ます!!」
兵1「迎撃体制、これより、レベル5感染者を殲滅する!」
兵士達が感染者に向けて一斉に銃を向けた。
唯「まってください……あのなかには……まだ……」
兵1「てえええぇぇぇぇぇっっっーーー!!」
私の言葉は、銃声に掻き消された。
乾いた音が辺りに鳴り響いた。
唯「やめて……やめてよおおおぉぉぉぉぉぉぉっっっーーー!!!」
私の言葉は彼等には届かなかった。
彼等は暫くの間、感染者達に向けて銃を撃ち続けた。
兵1「撃ち方止め!!!」
兵1「殲滅完了、帰還する」
そこには、もう立っている感染者は一人もいなかった。
皆地面に伏せて、ぴくりとも動かなかった。
憂と和ちゃんも……。
唯「あああ……ぁぁぁぁぁぁぁ…………」
私の意識は、海溝の闇に引き込まれるかの様だった。
兵士達が私の体を揺すり、何か話し掛けている。
私は目を瞑った。
そして全ての情報は遮断された……。
気が付くと、私は白い部屋のベッドに寝かされていた。
汗を掻いてベトベトだった筈の体は、妙にすっきりしていた。
誰かが私の体をタオルか何かで拭いてくれたのだろう。
私は病衣を着ていて、腕には点滴をされていた。
ベッドの横には、着ていた筈の制服が綺麗に畳まれて置かれ、
近くには私のポーチとギターケースもあった。
看護師「あら、目が覚めたみたいね」
優しそうな女性看護師が、笑顔で私に話し掛けた。
看護師「あなたは丸3日間寝ていたのよ」
私は3日も寝ていたんだ……。
看護師「今まで大変だったでしょう?
もう大丈夫よ、今先生を呼んでくるから待っててね」
暫くして、その看護師は医師を連れて戻ってきた。
医師「お名前は?」
唯「……」
医師「年は?」
唯「……」
医師「君は何処から来たのかな?」
唯「……」
医師と看護師は顔を見合わせた。
極度のストレスと疲労の所為だろう、
医師はそんな風な事を看護師に話していた。
私は最早言葉を発する気力すら失っていた。
暫くの間、私はこの病室で安静にする事となった。
その後、この場所についての様々な話を聞かされた。
今、ここにはおよそ5000人の「人間」が住んでいて、
その人達が数年暮らせる程の物資が蓄えられているらしい。
皆各自役割を持っていて、ここでの共同生活を営んでいる。
私も元気になったら役割を与えられ働く事になる。
私を助けたのは、この施設の所有者の私兵団。
元自衛隊員や、元警察官が主体らしい。
ここは元々、どこかのお金持ちが作らせた、私設の核シェルターらしい。
今は噛み付き病からの避難施設として使われている。
国、企業、個人が作ったこういう施設は、日本各地にあるという。
戦争、災害等に備えて、私達一般人が知らない間に、事は着々と進められていた。
救われる人間と救われない人間の「選別」も。
それから一週間、私はこの病室で過ごした。
食事が出されても殆んど喉を通らず、
私はみるみるうちにやせ細っていった。
医師からは、まだ暫く休むようにと言われた。
でも、私はそれを断り、皆と同じよう働く事を志願した。
何もしないで生かされる事が苦痛だった。
「受け付けカウンター(受付)」と書かれた所で、
必要な衣類とこの施設の地図、白いIDカードを渡された。
このIDカードは様々な役割を果たしていて、ドアの鍵にもなっているという。
無くすと大変だからと、大切に管理するよう念を押された。
私の仕事は明日からと言われ、明日の朝食後にまた受付に来るようにと言われた。
白く無機質な長い廊下を歩き、私は自分に与えられた部屋に向かった。
一般人の居住区は男女分かれていて、数人ずつの相部屋になっているという。
しかし、私は病気を理由に、特別に小さな個室が与えられた。
相部屋だとストレスが溜まり、私の病状を悪化させる可能性があるとの事だった。
私の荷物は、制服とポーチとギターだけ。
その狭い部屋は、私にとっては十分過ぎた。
私は部屋の中央にあった台を横にずらし、
用意されていた布団を敷き、そのままそこに倒れ込んだ。
何も考えたくなかった。目を瞑り、必死に眠りに就こうとした。
起床は6時半で就寝は23時。
朝食は7時から8時、昼食は12時から13時、夕食は19時から20時。
その間に食堂に行き食べなければ、食事は無しとなる。
朝食後は受付に行き、その日一日の仕事の指示を受ける。
20時から23時は自由時間で、その間に入浴を済ませなければならない。
規律を著しく乱す者には罰則があり、最悪の場合ここから強制退去させられるらしい。
自由に過ごしてきた人からすれば、監獄のような生活と思われるかもしれない。
しかし、ここでは安全と食事と住居が保障されているのだ。
あの地獄を体験した人なら、それだけでここの暮らしがいかに幸せかを理解出来るだろう。
私は部屋の隅に置いてあるギターに目をやった。
私が大事に抱えここまで持ってきたギー太。
でも、もう弾く事の無い物。無用の長物……。
いっその事、壊してしまおうか。
私はギー太を取り出した。
重い。
今の私には、ギターを壊す力も残っていなかった。
私はギー太をケースに仕舞い、部屋を出た。
私は朝食に殆んど手を付けず、そのまま受付に向かった。
これからは食事の量をもっと少なくしてもらおうと思った。
まだ受付は混雑しておらず、すぐに私の番がきた。
受付をしていたのは、まだ若くて優しそうなお姉さんだった。
私はそのお姉さんにIDカードを差出した。
受付嬢「平沢さんですね。あなたはAブロックの公衆トイレの清掃をお願いします。
あちらの更衣室に作業着が準備されていますので、
自分に合ったサイズの服を選んで着替えて下さい。
初めてという事なので、分からない事は聞いて下さいね。
そこの掃除が全て終わったら、またここに来て下さい」
唯「はい……」
今まで家事は全部憂がしていて、私は殆んど何もしていなかった。
家事だけではない。思えば、私は一人で何かをした事など無かった。
そんな私がここで出来る事は、トイレの掃除位なものだ。
私は作業着に着替え、指定された場所に向かった。
トイレットペーパーと石|梔tの補充、ゴミ箱の片付け、手拭きの交換……。
それが終わったら、汚れた便器と床をブラシで綺麗にする。
女性トイレが終わったら、次は男性の方だ。
男性トイレに入ると、鼻を突く異臭がした。
男性用便器は尿が飛び散り、周りが酷く汚れていた。
しかし、私はそんな事を気にせず、黙々と清掃作業を続けた。
私は、私に出来る事をするだけだ。
掃除だって、やろうと思えばちゃんと出来るんだよ、憂。
憂『凄いね、お姉ちゃん』
和『唯はやれば凄いから』
律『唯のキャラじゃないな』
澪『唯もやれば出来るじゃないか』
梓『流石です、唯先輩』
純『私、唯先輩を見直しました』
いちご『……悪くない。』
しずか『凄いよ、唯ちゃん』
みんなが応援してくれている気がした。
どんなに私が醜く弱い人間でも、みんなは私の味方で在り続ける。
今までもそうだし、これからも変わらないだろう。
私が生き続ける限り、その優しさが私の心を抉り続ける。
私の目からは、いつの間にか涙が溢れていた。
大切だった仲間達を全て失ってしまった私には、
もう生きる気力など残っていなかった。
いっその事、死んでしまえればいいと思った。
そうすれば、この苦しみから解放される。
しかし、私が死ぬ事は許されない。
もし、ここで死んでしまえば、私を守る為にしてくれたみんなの行為が無駄になる。
だから、何があっても私は生きなければならない。
どんなに苦しくても、辛くても、「死」に逃げる事は絶対に許されない。
この苦痛は、私に与えられた罰なのだ。
私一人が生き残った罪。
みんなの痛みに気付かず、苦しみに気付かず生活していた罪。
自分の親友達を殺した罪。
私はなんて罪深いのだろう。
私はこの苦しみの中で生きる事により、その罪を償える。
私にとって生きる事が罰であり、贖罪なのだ。
私が実際に死を目にしたのは、憂と和ちゃんだけだ。
でも、澪ちゃんと純ちゃんは「崩壊」する直前だった。
彼女達が「崩壊」すれば、りっちゃんやあずにゃんも壊れてしまうだろう。
いちごちゃんとしずかちゃんの安否は分からない。
しかし、学校があんなになってしまったら、もう縋るモノは何も無い。
そんな状態で、彼女達の精神が長く持つ筈が無い。
私が軽音部最後の生き残り。
最も役立たずの私が、最後まで生き残ってしまった。
Aブロック最後の公衆トイレの清掃が終わる頃、時間は既に12時を過ぎていた。
食堂に行くと、既に多くの人達が作業着のまま昼食を取っていた。
私はお盆を持ち、食事の配給を待つ列に並んだ。
今日の昼食はカレーライスだった。
今度はちゃんと量を少なめにしてもらった。
配給係りの人に、そんなに少なくて大丈夫かと気遣われたが、
大丈夫ですと答え、早々にそこから立ち去った。
私は一番端の隅っこの席に座った。
一人ぼっちの食事。優しい誰かが隣に居る食事はもう二度と無い。
私はカレーを口に運んだ。
砂の味がした。
私は味覚を失っていた。
昔はあんなに楽しかった食事の時間。
けれど、今の私にとっては、何よりも苦痛な時間だった。
唯「……Aブロックの公衆トイレの掃除、終わりました……」
受付嬢「お疲れ様でした、彼女とは仲良く出来ましたか?」
平沢さんは今回が初めてと言う事で、
彼女に同じ所へ行くようにしておきました」
唯「え……? あ、はい……」
私はずっと一人だった。
受付嬢の言う「彼女」なんて、私は知らない。
受付嬢「次はBブロックの公衆トイレをお願いします。
彼女が先に行っていると思うので、また一緒に清掃して下さい」
唯「……分かりました」
「彼女」とは誰の事だろう。
もしかして、受付嬢が何か勘違いしてるのではないだろうか。
あるいは、仕事の指定場所を間違えたか……。
そんな事を考えながら、私はBブロックの公衆トイレに来ていた。
やはりそこには誰もいなかった。
とりあえず、私はここから清掃する事にした。
彼女が同じブロックの公衆トイレを掃除しているのなら、
そのうちどこかで彼女と遭遇する筈だ。
結局その日、彼女に会う事は無かった。
他のトイレが清掃されている様子もなかった。
ゴミ箱に溢れる程物が入っていた事がそれを証明していた。
しかし、私にとってそんな事はどうでもよかった。
他人の行動などには全く興味が無い。
誰が何をしようが、私は私のすべき事をするだけ。
むしろ一人になれて良かったとさえ思った。
私はもう誰とも関わり合いたくないのだ。
夕食後、私はすぐに浴場へと向かった。
人が来る前に入浴を済ませたかった。
案の定、この時間の浴場はまだ閑散としていた。
私はさっさと体を洗い、早々に浴場を後にした。
部屋に戻り、布団に倒れ込む。
まだ20時半、就寝時間までまだ時間がある。
しかし、起きていてもやる事など何も無い。
ふと、部屋の隅に置いてあるギターが目に入った。
でも、今の私にギターを弾く資格など無い。その必要も無い。
放課後のティータイムはもう終わったのだ。永遠に。
私は毛布に包まり、眠りに就いた。
それから一ヶ月が過ぎた。
夏休みも終わり、二学期が始まる頃だ。
ここは地下で、外の様子は全く分からない。
太陽の光が無いここの生活にも慣れた。
もう地図が無くても困る事は無い。
私はいつも通りに仕事を熟し、一人で夕食を取っていた。
本当は食事などしたくはなかった。
しかし、死なない程度に栄養を摂取しなければならない。
私は味の無い食べ物を無理やり胃袋に押し込んだ。
元々僅かな量しかない。
私の食事はすぐに終わる。
私は一層窶れ、地上にいた頃の面影など欠片も残っていなかった。
私は食器を返そうと席を立った。
その時、私は一人の女性に声を掛けられた。
私より2つか3つ位年上だろうか。
「あんたが平沢でしょ?」
その女性との面識は無かった。
何故私の名前を知っている?
その疑問は、すぐに解決した。
女「あたしは女。あんたと一緒に仕事してる事になってるんだけどさ」
私が仕事を始めた時から、彼女は私と一緒に仕事をしている事になっていた。
もちろん、それは表向きの事だ。
私が彼女にあったのは今日が初めてだし、
私の清掃場所が、他の誰かに掃除されている形跡など一度も無かった。
受付嬢がたまに彼女の存在を仄めかす様な事を言っていた。
私はそれに適当な相槌を打って済ませた。
私にとって、この女の事などどうでもよかったのだ。
むしろ、一人で作業出来る事の方が私にとっては好都合だった。
それは、彼女にとっても願っても無い事の筈だ。
仕事をサボっても誰にもバレずにいられるのだから。
女「ちょっと顔貸しなよ」
食器を片した後、彼女は有無を言わせず私の腕を掴み歩き出した。
どうせ私の口止めでもする気なのだろう。
こんな事をしなくても、私は告げ口などしないのに。
私は貴女の事など、本当にどうでもいいのだ。
だから、私の事は放っておいて下さい。
私は心の中でそう何度も呟いていた。
私は彼女の部屋に連れて来られていた。
10畳程の部屋には、彼女のルームメイトらしき3人の女性が居た。
皆若く、歳は私と同じか少し上に見えた。
女2「うわ、なにそいつ」
女3「ちょーキモイんですけど」
女4「ウケルーw」
女「こいつが平沢だよ」
私は状況が掴めず困惑した。
自分が何故ここに連れて来られたのか分からない。
口止めをさせる為ではないという事だけは感じ取れた。
彼女は私に、私が想像した事以上に酷い事をさせようとしていた。
何が何だか分からずにいる私に、女は嘲笑いながら言った。
女「これからあたし達の仕事を、全部あんたにやって貰うから」
私はその時全てを理解した。
この人は最初から、私が告げ口などしない事を分かっていたのだ。
それを利用して、私にこの人達の仕事まで押し付ける気だったのか。
私が想像していたより、遥かに悪党ではないか。
彼女は私の髪を鷲掴みし、耳元で囁いた。
女「この事を誰かに言ったら、ただじゃおかないから」
唯「……。」
女「それじゃあまた明日、平沢さん」
私は部屋から追い出された。
私は明日から彼女達の仕事もする事になる。
好都合だった。
私は女に感謝した。
次の日、朝食を済ませ、受付で指示をされた後、
私は彼女達との待ち合わせ場所に向かった。
そこで私は彼女達の仕事を聞き、その仕事もする。
彼女達も、私と同じ清掃係りの様だ。
女「じゃあよろしくね、平沢さん」
女2「ありがとう平沢さん」
女3「大好きだよ、平沢さん」
女4「またね~」
彼女達は私に仕事を押し付け去っていった。
私の仕事は4倍の量になった。
物理的には不可能な仕事の量だが、
適度に手を抜き、私はそれらの仕事を上手く遣って退けた。
いつの間にか、私は要領良く仕事を熟す術を身に付けていた。
人間やれば出来るものだ。
私はそれから一週間、毎日そつなく仕事をやり遂げた。
そんな私に、新たな仕事が加わった。
彼女達の「ストレス解消」だ。
私は毎日夕食後、彼女達の部屋に呼び出され暴行を受けた。
体中痣だらけになったが、顔だけは無事だった。
この事実が表沙汰になれば、彼女達もただでは済まない。
露出する部分に彼女達は手を出さなかった。
私は入浴を、終了時間ギリギリの人がいない時に済ませる様になった。
仕事の激務と暴行によって、私の体はボロボロになっていた。
私が動く度、体が悲鳴を上げていた。
その痛みが、今の私にとっては心地良かった。
私が生きる理由、それは「贖罪」だ。
私にとって生きる事とは、「贖罪」なのだ。
痛み苦しみが増える程、それは満たされるのだ。
しかし、まだまだだ。
この程度の痛みや苦しみで許される筈などない。
皆が受けた傷と痛みはこんなものではない。
あの痛がりの澪ちゃんが自分の腕に付けた傷に比べれば。
いっその事、私に死をも齎す苦痛を与えよ。
彼女達に関わってから一ヶ月が過ぎようとしていた。
何をされても反応しない私に、彼女達は興味を失い始めていた。
ある日、私はいつもとは違う場所に呼び出された。
男性の居住区の一室に私は呼ばれたのだ。
そこにはいつもの女達と、柄の悪そうな5人の男達がいた。
男達は私に侮蔑の眼差しを向け、大声で笑い出した。
どうやら私の容姿を嘲笑する為に呼び出したようだ。
私はそのまま、何もされず帰らされた。
下種な男達に厭らしい行為を強要されるのではないかと思ったが、
今の私には、男達の性欲を掻き立てる色香など皆無であった。
他人を傷付ける事によって、愉悦、充足感を得る。
俗悪、蔑視に値する者達。人間の屑。
でも、私は貴方達を許し、受け容れよう。
彼女達もあの男達も、思えば哀れでちっぽけな人間だ。
彼女達には、私達の様な人間関係を築く事は永遠に出来ないだろう。
この世で一番大切なモノを、彼女達は知らない、得られない。
私を傷付ける事で心が満たされると言うのなら、好きなだけ嬲るがいい。
それで私も救われるのだ。
互いにとって悪くない話だろう?
いつの間にか、私は彼女達から「ゾンビ」と呼ばれるようになっていた。
無気力、窶れて隈の出来た顔、伸びたぼさぼさの髪、今の私に相応しい渾名だ。
「人間」と「ゾンビ」の違いは何か?
私が思うに、それは「心」が有るか無いかだ。
私の「心」は、もう既に死んでいる。
贖罪意識が私の体を動かしているに過ぎない。
「平沢唯」はもうこの世に存在しないのだ。
私の妹と友人達はゾンビだった。
でも、みんなには「心」があった。
強く優しい「心」を彼女達は持っていた。
最後の最後まで「人間」で在る事を貫き通した。
それに比べ、私はどうだっただろう。
私は人間である事を悲観し、自らゾンビになろうとさえしていた。
私の人としての「心」はその時点で死んでいたのではないか?
「ゾンビ」だったのは私の方だ。
私こそが「ゾンビ」だったのだ。
私は今まで、ゾンビ達の中で暮らす唯一の人間だった。
そして今、人間達の中で暮らしている、ただ一人の「ゾンビ」なのだ。
周りの人達がゾンビになったから、私の生活は変わってしまったのだと思っていた。
しかしそうではない。周りなど関係無かったのだ。
私の生活が変わってしまったのは、私自身が「ゾンビ」になっていたからなのだ。
私は自分がずっと人間であると思っていた。
その事に何の疑問も持たずにいた。
だから気付けなかった。
自分が「ゾンビ」になっている事に。
私は既に「ゾンビの平沢」だったのだ。
もう何も考えたくない。思い出したくもない。
私は思考を停止させた。
痛みや苦しみさえも、今の私は感じる事が出来なくなっていた。
そんな私に、女達は完全に興味を失った様だ。
彼女達が私を呼び出す事は無くなっていた。
清掃場所はいつも同じ所をローテーションしている。
彼女達に会わなくても、どこに行けばいいのか分かっていた。
私が彼女達と会う事は無くなっていた。
私は日々をただ生きる屍と化した。
思えばそれは今に始まった事ではないのかもしれない。
それも最早どうでもよい事だ。
ただ生き、ただ死ぬ。
これこそ私に相応しい人生ではないか。
私は一日の仕事を終え、自分の部屋へと向かっていた。
「唯ちゃん……?」
私の背後から、聞き覚えのある声がした。
その声は、私に今までに無い衝撃を与えた。
心臓が激しく脈打ち、脳に電流が迸った。
私の脳裏に過去の映像が鮮明に甦る。
この声はムギちゃんだ。
私の脳内では、ムギちゃんとの思い出が高速で再生されていた。
最初に会ったその日から、最後に会ったあの日まで。
唯「……ムギ……ちゃん……?」
私は振り向いた。
そして同時に言葉を失った。
そこに立っていた少女、琴吹紬である筈の少女……。
その姿は、私の記憶の「琴吹紬」からは掛け離れていた。
髪は荒れ、目には酷い隈ができ、頬は痩せこけ、体は骨と皮になっていた。
美しい髪の膨よかな少女は、あまりにも変わり果てていた。
紬「やっぱり唯ちゃんだったのね!」
ムギちゃんは私に抱き付いた。
以前私がムギちゃんに抱き付いた時とは、似ても似付かぬ感触だった。
紬「唯ちゃん……無事で良かった……」
ムギちゃんは涙を流していた。
私の目からも涙が溢れていた。
でも、私が泣いたのはムギちゃんとの再会が感動的だったからではない。
あまりにも変わり果てた親友の姿に涙したのだ。
涙など、疾うに枯れ果てたと思っていた。
痩せ細った私の体のどこにこれ程の水分が残っていたのだろうか。
私の涙は止め処なく流れ続けた。
★6
近くの給湯室でコップに水を注ぎ、
それを持ってムギちゃんを自分の部屋に招き入れた。
私達はコップの水に口を付け、高ぶった感情を静めた。
ムギちゃんは私に聞きたい事が山程あるだろう。
しかし、私がムギちゃんに聞きたい事は何も無かった。
何故なら、私は彼女を見て全てを理解したからだ。
彼女は私達よりも先にウイルスの危険性を認知した。
それは恐らく、琴吹グループの情報網からだろう。
危険性を知った父親は、逸早く安全な場所へと逃れようとした。
琴吹家の力ならそんな事は容易い筈だ。
避難先としてこの核シェルターが選ばれた。
しかし、それは彼女の意図したモノではなかった。
彼女は仲間を見捨て、一人だけ安全な場所へ逃げる事など望んではいなかった。
恐らく、ここにも強引に連れて来られたのだろう。
その事で彼女は自責の念に苛まれ、拒食症に陥ったのだ。
私にはムギちゃんの心が手に取るように分かった。
ムギちゃんが最初に私にする質問の内容でさえも。
紬「唯ちゃん、他のみんなは……?」
私はムギちゃんに声を掛けられた瞬間から、
この質問にどう答えるかを只管考えていた。
事実を言えば、彼女が傷付き苦しむ事は間違いない。
ムギちゃんは真正面から私の顔をじっと見詰めている。
私はどうすれば良い……?
唯「……ムギちゃんがいなくなった後、暫くは普通の生活をしてたの。
でも、感染者がどんどん増えていって……。
そのうちに噛み付き事件とかも増えていって、大変な事になって……」
唯「それで、みんなで都心に在るこういう施設に逃げようって話になったの。
和ちゃんの知り合いにその施設の関係者がいて、
和ちゃんにお願いしたら、みんなもそこに連れて行ってくれるって……」
唯「それで、車でその施設に向かっていたんだけど、
途中で感染者に襲われちゃったの。
そこをたまたま通りかかった人達に助けられて……」
紬「……」
ムギちゃんは私を注視している。
唯「私達はその人達の車に乗せて貰う事になったんだけど、
私だけみんなと別の車になっちゃって……」
唯「それからまた感染者に襲われたんだけど、
私の乗ってた車のガソリンが無くなっちゃって、
車から降りて逃げていたら、皆バラバラになっちゃったの」
唯「それで私は一人になって、道を歩いてたら車が来て、それに乗せて貰ったの。
行き先とか確認しなかったら、こっちの方まで来ちゃってて、
それからまた感染者に襲われて……。
そこを、ここの関係者の人に助けて貰ったの」
紬「……」
唯「他のみんなは、たぶん東京の施設にいると思う」
私は口から出任せを言った。
即興の割にはある程度の辻褄は合わせられたと思う。
そもそも、私一人が長野にいる状況自体が不自然極まりない。
長野に核シェルターが在るという噂を聞いて、和ちゃんが車を運転してここまで来た。
この真実こそ信じ難い話だろう。
私の作り話の方が、むしろ現実味があるのではなかろうか。
紬「……」
唯「正直言うと、私も憂達の事が心配なの。
ちゃんと無事でいるのかなって……。
でも、私はみんなが無事だって信じてる。
だから、ムギちゃんも心配しないでね。
きっといつか、また会えるから……」
紬「そうね……」
どうやらムギちゃんは私の話を信じてくれたようだ。
ムギちゃんは私を「嘘の付けない子」と信じている。
あの頃の私は、確かにその通りだった。
でも、今は違う。
私は平気で人を騙せる人間になったのだ。
その事を、ムギちゃんは知らない。
紬「でも、私はみんなに会う資格が無いわ……」
唯「どうして?」
理由など聞かなくても分かっていた。
けれど、私はそれに気付かない振りをした。
私は鈍感な人間なのだ。
少なくとも、ムギちゃんがいた頃の私はそうだった。
私はあの頃のままの自分を演じる必要があった。
私は何も変わっていない、「平沢唯」だ。
彼女の為に「平沢唯」という存在でなければならないのだ。
紬「私はみんなを裏切った……。みんなを見捨てて、一人だけ逃げたの……」
ムギちゃんの目からまた涙が溢れ出した。
紬「私は最低の人間なの……。
私はみんなに合わせる顔が無いわ……。
唯ちゃんにも謝らなければならないのに……。
ごめんね唯ちゃん……ごめんね……本当に……ごめんなさい……」
ムギちゃんは台に伏し、大声で泣き出した。
私はムギちゃんの方に移動し、後ろから優しく彼女を抱き締めた。
私にはムギちゃんの苦しみが誰より理解できる。
ムギちゃんと私は同じ苦しみを抱いているから。
唯「泣かないでムギちゃん……。
私達はムギちゃんの事を咎めたりしないよ。
みんなムギちゃんの事が大好きだから……。
それは何があっても変わらない事だから……」
紬「そんなの嘘よ……。
私は嫌われて当然の人間だもの……。
みんな私を軽蔑しているわ……」
唯「そんな事無い、絶対無いよ。
私達はね、ムギちゃんが安全な所にいるって分かってた。
だから、私達は安心してたの。ムギちゃんは大丈夫だって。
安全な所にいる事を非難する親友なんていないんだよ?」
唯「私達はね、ムギちゃんが無事ならそれだけで良かったの。
だって、ムギちゃんは親友だもん。
ムギちゃんだって同じでしょ?」
紬「唯ちゃん……」
唯「だから大丈夫。私達もみんな無事だから。
だって、一番ドジで頭の悪い私が無事なんだよ?
こんな私が無事なら、他のみんなだって無事に決まってるよ」
私はありったけの笑顔を作って見せた。
この場所に来てから、初めての笑顔。
今の私はちゃんと笑顔を作れているだろうか。
いや、作れている筈だ。
大好きなムギちゃんの為の笑顔なのだから。
紬「唯ちゃん……唯ちゃん……」
私達は互いに向き合い、強く抱き締めあった。
この場所に来てから、初めて感じた温もりだった。
紬「この施設はね、父の知り合いが作ったの。
建設費用も琴吹グループがかなり援助したらしいわ。
もともとは、核シェルターとして建造されたモノらしいけれど」
紬「父達はこのウイルスの危険性を以前から知っていたみたい。
私が父に、軽音部の子が感染したって言ったら、
突然学校を辞めろって言われたの……。
私は反対したけれど、結局辞める事になって……。
噛み付き病が流行し始めた当初から、
この施設に避難する事を検討していたと後で聞かされたわ」
紬「私はその後ずっと自宅から出してもらえなくて、
携帯も取り上げられてしまって、みんなに連絡出来なかったの……。
ここに連れて来られたのは、四月の中旬頃だったと思う。
父も斉藤も、その頃ずっと外国を飛び回っていて、私は一人だった……」
紬「唯ちゃんがここに来た事はね、私の耳にも届いていたの。
といっても、その時は唯ちゃんって確証は無かったのだけれど……。
ギターを持った十代の女の子を保護したって話を聞いて、
もしかしたらって思って……」
紬「本当はすぐに会いに来たかったのだけれど、
この区域に来る事を父に物凄く反対されちゃって……。
それでも、どうしても確認したくて、黙って抜け出して来ちゃったの」
紬「ここは一般人の居住地区で、私達の居住区は別の所にあるの。
この施設は全体を高い壁で囲んであるから、敷地内なら外にも出られるのよ。
唯ちゃんも、これからはそこで生活するの。
部屋は広くて綺麗で陽も射すし、甘いお菓子もお茶もあるわ。
テレビも観れるし、ギターのアンプだって用意できるから」
最初から気付いていた。
ここには二種類の人間がいるのだ。
支配する者と支配される者。
ムギちゃんは支配する者、特権階級の人間。
そして私は支配される者、労働階級の人間……奴隷なのだ。
文明社会というのは、常にこの二つの階級で構成されている。
もし、特権階級の人間しかいなかったら、
その中の誰かが汚い仕事、危険な仕事、キツイ仕事をしなければならない。
だから、彼等には私達のような奴隷が必要不可欠なのだ。
その奴隷は、この施設の外に行けばいくらでも手に入る。
私達一般人を「救助」という名目でここに連れて来ればいいのだ。
私達は安心、安全を手に入れ、その対価として労働力を提供する。
互いに損の無い、非常に理に適ったやり方ではないか。
紬「だから唯ちゃん、私と一緒に来て?」
ムギちゃんに付いて行けば、私は何不自由なく生活出来るだろう。
特権階級、その中でも最も権力を持つ人達の仲間入りをする事になる。
でも、それでいいのだろうか?
いや、そんな事が許される筈が無い。
私は贖罪に生きなければならない人間なのだ。
唯「ごめんねムギちゃん、私は一緒に行けないよ……」
紬「どうして……? どうしてなの? 唯ちゃん……」
唯「私さ、今までずっとみんなに迷惑掛けてきて、一人じゃ何も出来なくて……。
だから、今は少しでもいいから自分に出来る事がしたいの。
ムギちゃんには、今まで凄くお世話になっていたから、
これ以上ムギちゃんに迷惑を掛けたくないし……。
だから、今まで通りここで働きたいの。
それが今私に出来る、精一杯の恩返しだから」
紬「……分かったわ、唯ちゃん……」
紬「私もここで唯ちゃんと一緒に働くわ」
唯「えっ? ムギちゃん、ちょっと待って……」
紬「私もね、もう誰かに守られているだけじゃ嫌なの。
だからね、私も唯ちゃんと一緒に頑張りたいの。
私もここに住んで、一緒にお仕事をするわ」
本当なら、強引にでもその申し出を断るべきだった。
今のムギちゃんの体で労働などさせたくなかった。
しかし、私はムギちゃんの意思を尊重した。
ムギちゃんは私と同じ苦しみを味わっている。
彼女も自らの贖罪を求めているのだ。
唯「一緒に頑張ろう、ムギちゃん……」
紬「ええ、唯ちゃん……」
その後、私達は一緒に入浴した。
ムギちゃんの体は、余りにも痛々しかった。
それなのに、彼女は自分の体の事など気にせず、
私の体に付いている痣について執拗に尋ねてきた。
ドジが原因だと、私はその場を上手く濁した。
その日、私達は一つの布団で一緒に寝た。
人の温もりがこんなにも暖かかった事を、私は忘れていた。
次の日から、私はムギちゃんと共に行動するようになった。
そして、ムギちゃんが何故この様な姿になったのかが明らかになった。
私の予想通り、ムギちゃんは食事をしていない。
私の食事中、彼女はサプリメントの様な物を飲んだだけだった。
私は彼女が気を遣わぬよう、いつもより食事の量を多めにしていた。
私はいつも通りに受付に行った。
ムギちゃんは私達とは違う、黒のIDカードを持っていた。
それを見ると、受付嬢はムギちゃんの言いなりになった。
あの黒いIDカードは特権階級の証の様だ。
私はいつも以上にテキパキと掃除を熟した。
私が頑張れば、それだけムギちゃんの仕事が楽になる。
私は彼女の負担を出来るだけ減らすよう心掛けた。
彼女の掃除の手際は悪かった。
いつも私達にお茶を淹れてくれていた彼女だが、
本来お嬢様である彼女が雑務などする筈が無い。
まして、トイレ掃除など初めての経験だろう。
そう、ムギちゃんはお嬢様なのだ。
今までずっと誰かに守られてきたのだろう。
私も彼女も、常に誰かに守られて生きてきた。
しかし、彼女は自身を守る檻から抜け出してきてしまった。
彼女を守る者達がいないこの場所に。
今、ここで彼女を守れる者は私しかいないのだ。
私はムギちゃんを守る檻になろう。
今までムギちゃんは一人で苦しんできた。
彼女が私と同じ苦しみを背負っているのなら、誰かの支えが必要なのだ。
そして今、彼女の支えになる事が出来るのは私しかいない。
私はムギちゃんを守る事によって「人間」で在ろうとした。
みんなが私にそうした様に……。
それこそが、私の罪の償いになるのではないかと思ったのだ。
夕食の時間、ムギちゃんは用があると言い、一人出掛けて行った。
私が食事を終え部屋に戻ると、そこは朝の時とは違う空間になっていた。
間違いなくムギちゃんの関係者だ。
部屋は綺麗に掃除され、壁紙も新調されていた。
床には綺麗な絨毯が敷かれ、テーブルは可愛らしい物になっていた。
壁際には小さな棚が置かれ、綺麗な食器が納まっていた。
その引き出しには、様々な茶葉が詰まった缶が入っていた。
その横には、桃色の給湯器が置かれている。
部屋の隅には、新品の様な二人分の布団が綺麗に畳まれ積まれていた。
私の荷物も整頓され置かれていた。
その横には、ムギちゃんの生活用品が置かれていた。
紬「ただいま……これは……斉藤の仕業ね」
どうやらムギちゃんも知らなかった様だ。
ムギちゃんは手に洋風の籠を持っていた。
その中には、果物とお菓子が入っていた。
クッキー、梨、バナナ、苺……。
紬「唯ちゃんに食べて貰おうと思って持ってきたの」
ムギちゃんは棚の中の物を確認した後、ティータイムの準備を始めた。
部屋の中はダージリンの甘い香りで充満していた。
紬「どうぞ、唯ちゃん」
微笑みながらムギちゃんは、紅茶の入ったカップを私の目の前に置いた。
ティータイム……これは彼女の贖罪の一つの形なのだろう。
彼女は私に許しを請うているのだ。
ならば私は、その全てを受け入れなければならない。
私は彼女のティータイムに笑顔で応えた。
私はムギちゃんが剥いてくれた梨を口に入れた。
やはり何の味もしなかった。
私はテーブルの上に置かれた食材を一心に貪り、紅茶で強引に胃袋へ流し込んだ。
紅茶は泥水の様に感じられた。
その後、私はトイレで全てを吐き出した。
私の体は、最低限生きる以上の養分を受け入れる事が出来なくなっていたのだ。
それから毎日、食物を胃袋に入れ、それを吐き出す作業が続いた。
そして今日も偽りのティータイムが始まる。
ムギちゃんは、私のギターが聞きたいと言った。
私は手が痛いと偽り、それを断った。
ムギちゃんの悲しい顔を見て、私の心は痛んだ。
けれど、ギターを弾く事は、今の私にはどうしても無理だった。
彼女は私の演奏を聞いて、あの頃の放課後ティータイムを感じたいのだろう。
私がギターを弾かなくてもそれは可能だった。
私のポーチには、放課後ティータイムの演奏DVDが入っている。
ムギちゃんがいない新歓ライブの映像もある。
しかし、私はその事をムギちゃんには言わなかった。言えなかった。
今、あの映像を見てしまったら、私は完全に壊れてしまうだろう。
親友達の姿を見てしまったら、私も彼女達の元へ行きたくなってしまう。
私はDVDの存在を心の奥に封印した。
ムギちゃんとの生活にも慣れてきた頃だった
すっかり忘れていた人物が、また私達の前に現れた。
あの女達が。
きっかけはムギちゃんの行動だった。
ムギちゃんは夕食の時間にどこかに行き、
ティータイムの為のお菓子や果物を持ってくる。
ある日、部屋に来る途中で会った人物にお菓子を分け与えた。
その人物がとても疲れた顔をしていたので、
お菓子で元気になってもらいたかったらしい。
その話が広まってしまったのだ。
私達一般人は、食事に稀に果物が出る事はあるが、
クッキーやチョコなどのお菓子は一切口にする事が出来なかった。
お菓子が食べられるのは、特権階級の人間だけなのだ。
ムギちゃんはその事を知らなかった。
その事が、貪欲なハイエナを呼び寄せてしまった。
女達がムギちゃんに集りに来たのだ。
紬「ごめんね、今日はこれしか無いの……」
そう言って、ムギちゃんは二枚のクッキーと一粒の苺を差し出した。
残りは女達に取り上げられたのだろう。
紬「あの人達、可哀相だったから分けてあげたの」
ムギちゃんは女達に騙されていた。
仕事も出来ない程体調の悪い子がいて、
その子にお菓子や果物を食べさせて元気にさせたいのだと言われたらしい。
私は女達の悪行をムギちゃんに暴露し、
ムギちゃんの執事に頼んで、奴等をムギちゃんから引き離して貰おうかと考えた。
しかし、ムギちゃんの話を聞くうち、
それが果たして正しい事なのかどうか迷った。
紬「私、今まであんなに頼られた事は無かったの。
食べ物を持って行くと、皆感謝してくれて……。
病気の子も凄く喜んでくれているらしくて、手紙まで貰ったの」
ムギちゃんは嬉しそうにその手紙を見せてくれた。
手紙には感謝の言葉が書き連ねられていた。
悪党が。
紬「私、彼女達の力になれて凄く嬉しいわ。
これからも彼女達の力になってあげたいの。
でも、それで唯ちゃんのおやつが減ってしまって……」
ムギちゃんは悲しそうな顔をした。
あの悪党達がムギちゃんを元気付けて、
私がムギちゃんを悲しませている……?
また私は間違えてしまったのだろうか?
唯「私は大丈夫だよムギちゃん。
それより病気の子、早く元気になるといいね。
お菓子の事は気にしないでいいからね」
紬「……ごめんね、唯ちゃん……」
唯「だから、謝らなくていいの!
病気の子を差し置いてお菓子を食べたいと思う程、
平沢唯は意地汚くないのだよ~。
私の分も食べさせてあげてね」
紬「……ありがとう、唯ちゃん」
ティータイムのおやつは、いつしか一粒の苺だけになっていた。
女達にとって、ムギちゃんは金づるだ。
ぞんざいに扱う事はしまい。
それに彼女は特権階級だ。
ムギちゃんを傷付ければ、自分達もタダで済まない事は重々分かっている筈だ。
入浴時、私は彼女の体を念入りに確認するようにした。
彼女の体は痩せ細っていたけれど、肌はとても白く綺麗だった。
大丈夫、痣や傷などは一つも無い。
ムギちゃんは物理的に痛い目には遭わされていない。
最近のムギちゃんは、以前よりも明るく振舞っていた。
彼女は大丈夫、私は安心していた。
だが、それは私の大きな勘違いだった。
夕食後、私は自室でムギちゃんが帰ってくるのを待っていた。
しかし、何時まで経っても帰ってこない。
時計は既に22時を回っていた。
幾ら何でも遅過ぎる。胸騒ぎがした。
私は部屋を飛び出し、ムギちゃんを探し回った。
唯(ムギちゃん……ムギちゃん……ムギちゃん……!)
ムギちゃんはCブロックの緊急避難用の階段に倒れていた。
そこは薄暗く、人も滅多に通らない所だ。
唯「ムギちゃん! ムギちゃん!!」
彼女は意識を失いぐったりしていた。
衣服は乱れ、顔や手足には沢山の痣と傷が付いていた。
とにかく医務室に連れて行こう。
私は彼女を抱き起こし、背負って医務室に向かった。
彼女の体は、まるで幼い子供の様に軽かった。
今の私でも楽々と背負い運ぶ事が出来る位に。
私は医務室のドアを激しく叩いた。
ここは私が最初に運ばれてきた所だ。
医師「こんな時間にどうしたんだい?」
唯「ムギちゃんが……ムギちゃんが……」
医師「その子……酷い怪我じゃないか! そこのベッドに寝かして!」
私は近くにあったベッドにムギちゃんを寝かした。
その時、硬く握り締められていたムギちゃんの右手から、一粒の苺が零れ落ちた。
しかし、苺は少しも潰れてはいなく、原型を留めていた。
ムギちゃんは、私の為にこの苺を守ったのだ。
自分よりも、この一粒の苺を……。
私はその赤く美しい苺を口に運んだ。
口の中に程よい酸味を含んだ甘味が充満した。
唯「美味しい……美味しいよムギちゃん……」
私の目からは何故か涙が出なかった。
傷付いたムギちゃんを見ても、ムギちゃんの優しさを感じても……。
私の中に、何か得体の知れない感情が満ち溢れていた。
それは私の体の奥底から無尽蔵に湧き上がってくる。
一体それが何なのか、私には分からなかった。
私は一人、女達のいる部屋に向かっていた。
女達の部屋の前に着き、私はその扉を叩いた。
暫く叩き続けていると、ようやく扉が開いた。
女「何だようっせーな……ってゾンビかよ」
中には女達の他に、私の姿を笑い物にした男達もいた。
女「ちょっと……何なのあんた!」
私は女の制止を無視し、土足のまま部屋の中に入っていった。
部屋の中央の台には、ムギちゃんから奪ったお菓子や果物が置いてあった。
唯「なんで……ムギちゃんを傷付けた……?」
男1「はっ? ムギちゃんって誰だよ?」
女2「あ、もしかして、あいつの事じゃね?」
女3「あーあいつか」
男2「え、誰? 誰なの?」
女4「あの無料自販機」
男3「あ、いつもお前らがカツアゲしてる奴の事ね」
女2「ちげーよ、あいつが自主的に私達に貢いでんの」
女4「そうそう、ちょっと脅し掛けただけなのにな」
唯「……脅した?」
女「あいつが旨い物持ってるって噂聞いてさ、
探してたら、お前と一緒にいる所を見たんだよ。
だから、お前の持ってる物を渡さないと平沢をボコるってね」
男1「ぶっ、それって脅迫じゃん」
女2「誰かにチクったら、仲間が平沢をボコボコにするって保険も掛けて」
唯「……あの手紙は?」
女3「手紙? あー、あれは私があいつに書かせたんだよ。
そうすりゃ、お前も騙されて黙ってるだろうと思ってさ」
男5「女3、お前頭良すぎw」ケラケラ
女4「病気の子の為にとか、マジ吹き出す所だった」
ムギちゃんのあの笑顔は全て偽りだった。
私が彼女を騙しているつもりが、逆に騙されていたのだ。
私を守る為に、ムギちゃんは嘘を付いていた。
私はずっと彼女に守られていたのだ。
唯「それで……なんで……ムギちゃんを……傷付けた……?」
女「全部寄こせって言ってんのに、あいつ苺を隠し持ってたんだよな」
女2「これだけは駄目だとか言って、苺一つに何ムキになってんだか」
女3「だからみんなでボコったワケ」
男1「どんだけ苺好きなんだよそいつ」
思えば、ここでのティータイムには必ず苺が出されていた。
ムギちゃんは覚えていたんだ。
私が苺を大好きだったという事を。
だから最後まで苺を手放さなかったのだ。
ムギちゃんは馬鹿だ。
どうしようもない馬鹿だ。
たかが苺の為にあんなに傷付くなんて。
私の為にあんなに傷付くなんて
唯「んんんんん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛……」
男1「お、おい、なんだよこいつ……」
唯「うううううう゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛ぐぐぐぐぐぐぐぐ……」
女3「な、なんだ……?」
私の体の深部から、マグマのような感情が湧き上がる。
全身が熱くなり、全てを破壊したくなる衝動に駆られた。
その時、ようやく私はこの感情の正体に気付いた。
これは「怒り」だ。
私は今まで「怒り」という感情を知らなかった。
優しい友人達や妹に囲まれていた私には、その様な感情を抱く機会が無かったのだ。
今、私は生まれて初めて「怒り」という感情を知り、それに全身を支配されていた。
無意識に私の体は激しく揺れ、腹の底から湧き出した地鳴りの様な唸り声が口から漏れていた。
男1「おい、その気持ち悪い声やめろ」
男が私の肩を手で押そうとした。
私はその腕を掴み、上腕に思いっきり噛み付いた。
男は悲鳴を上げたが、私はそんな事を気にせず力任せにその肉を喰い千切った。
部屋に女達の悲鳴が響いた。
次の瞬間、私の後頭部に衝撃が走る。
別の男が私の頭を後ろから殴ったのだ。
私はその衝撃で倒れて込んでしまった。
だが、その程度で私は怯まなかった。
私は、私を殴った男の足を掴み、その脛に齧り付いた。
男は悲鳴を上げ倒れた。
その様子を見ていた別の男達が、私を男の足から引き離そうとする。
私は振り返り、私を掴む男の手の指に喰らい付き、それを噛み千切った。
その様子、私の形相を見て、さすがに男達もたじろいだ。
相手は痩せこけた女一人……。
体躯で勝る自分達が、こんな女に負ける筈がない。
そんな思い違いに、漸く気付いたのだろう。
私は近くにいた別の男に飛び掛り、その首筋に噛み付いた。
首の肉を千切ると大量の血が勢いよく噴出し、その血が私の全身を真紅に染めた。
男達は皆完全に戦意を喪失し、私から距離を置いた。
女達は部屋の隅に固まり、体をガタガタと震わせている。
部屋の人間達は、恐怖に怯えた目で私を見ていた。
まるで「ゾンビ」を見るかの様な目で。
私はゆっくり女達に近付いた。
女達は震え泣きながら謝罪の言葉を繰り返している。
今更もう遅いから。
謝る位なら最初からしなければいいのに。
私は貴女達を傷付けないのに、何故貴女達は私を傷付けるの?
その理由がやっと分かったよ。
私が貴女達を傷付けないから、貴女達は私を傷付けるのでしょう?
だったら、傷付けてあげる。
自分が痛みを受けなければ、他人の痛みを理解する事なんて出来はしないんだよ。
二度と私を、私達を傷付ける事が出来ないよう、その体に教えてあげる。
私達に痛みを与えないよう、貴女達に痛みを教えてあげる。
一人の女が立ち上がり、部屋から逃げ出そうと扉の方へ駆け出した。
私は後ろからその女の髪を鷲掴みし、全力で引っ張った。
ブチブチと髪が千切れる音がし、女は悲鳴を上げて倒れ込んだ。
逃がさないよ。
私は恐れ慄く女達の体に噛み傷を付けた。
それは証なの。
貴女達が痛みを知ったという証なんだよ。
大丈夫、ちゃんと服で隠れる所に付けたからね。
女達の部屋を出ると、多くの人が集まってきていた。
全身血塗れな私の姿を見るやざわめき立った。
警備員「皆さん通してください!」
誰が呼んだか、3人の警備員がやってきた。
部屋の防音は悪くないけれど、あれだけ悲鳴を上げれば外に洩れるか。
警備員「き、君、大丈夫?」
唯「はい、私の血じゃないですから」
警備員達の顔が引き攣った。
「ちょっと通してもらえるか?」
人ごみの奥から、一人の紳士がやってきた。
以前、私はこの人を見た事がある。
ムギちゃんの執事の斉藤さんだ。
斉藤「平沢唯さん……だね?」
私は頷いた。
斉藤「彼女は私に任せて、部屋の中を」
警備員「は、はい」
唯「斉藤さん、ですよね。お願いがあるんですけど……。
お風呂に入りたいんです……。入浴時間過ぎてますけど……。
あと、着替えをお風呂場まで持って来て頂けると助かります……」
斉藤「分かりました、着替えもこちらで用意します……」
唯「ありがとうございます」ニコ
私は笑顔で斉藤さんにお礼を言った。
斉藤さんは困惑した顔をしていた。
おかしい、私はちゃんと笑顔を作れている筈だ。
どうして斉藤さんはそんな顔をしているの?
まあいいや。とにかく今はお風呂に入ろう。
体がベトベトして気持ち悪いんだもの。
お風呂に行く途中、すれ違う人達は皆私に奇異の眼を差し向けていた。
私はそれに笑顔で応えた。
★7
私は大きな浴場で、一人湯船に浸かりながら考えていた。
あの時和ちゃんが言った言葉を……。
和『私は強くなんかないわ……出来る事をしているだけなの』
人は何故失敗をするのか。
出来ない事をしようとするから失敗する。
以前、和ちゃんはそう言っていた。
今になって分かる。
私はいつも、自分に出来ない事をしようとしていた。
私は皆を守ろうとした。だから皆を失ったのだと。
和ちゃんは、私を守る為なら純ちゃんを殺すと言い切った。
あの時、私は和ちゃんを心の中で非難した。
何故、友人を殺すなどと簡単に言えるのかと。
でも、それは間違いだったのだ。
和ちゃんには覚悟があったのだ。
何があっても私を守るという覚悟が。
私以外の全てを犠牲にしてでも守り抜くという覚悟が。
誰かを守るという事は、つまりそういう事なのだ。
それ位の覚悟が無ければ、一人の人間を守る事など出来はしないのだ。
私が今生きているのは、皆がその命を賭して私を守ってくれたからだ。
私にも、皆の為に命を張る覚悟があった。
この身を犠牲にしてでも守りたいと思っていた。
しかし、大切な誰かを守る為に、仲間の命すら奪うという覚悟は私に無かった。
私にとって、一番大切な人は憂だった。
でも、憂とあずにゃんのどちらかしか助けられない状況になったら……。
咄嗟の判断であれば、私は反射的に憂に救いの手を差し伸べてしまうだろう。
でも、そこにもし考える時間があったとしたら……。
私にはあずにゃんを見殺しにする事が出来ないだろう。
誰か一人を絶対に守り抜くという「覚悟」が私には足りないからだ。
結果、どちらも助ける事が出来ず、二人を失うのだ。
優柔不断、中途半端……。
だから肝心な選択肢を見誤る。
でも、私はもう迷いはしない。
今、私は「覚悟」を決めた。
『私はムギちゃんを守る』
私はムギちゃんを守る為なら、他のあらゆるモノの犠牲を厭わない。
何を犠牲にしてでも、ムギちゃんを守り抜く。
私のみんなに対する贖罪は、今ここで終わりを告げた。
ごめんねみんな。みんなの事を考えていると、ムギちゃんを守れないんだ。
和ちゃん、色々大切な事を教えてくれてありがとう。
りっちゃん、いつも私に元気を分けてくれたね。
澪ちゃん、貴女のお陰で私は強くなれたんだよ。
あずにゃん、初めての私の後輩が貴女で良かった。
純ちゃん、陰でいつも皆に気を遣ってた事、私は知ってるよ。
いちごちゃん、しずかちゃん、短い間だったけど二人と仲良くなれて良かったよ。
そして憂、何もしてあげられなくてごめんね。今までありがとう。
浴場から出て脱衣所に行くと、私の為の服が用意されていた。
汚れた方の服は斉藤さんが持っていった様だ。
私は用意された服を来て、ムギちゃんのいる医務室へと急いだ。
医務室に行くと、斉藤さんと見た事の無い男性がいた。
この人がムギちゃんのお父さんの様だ。
医師「あ、平沢さん……」
唯「ムギちゃんの具合はどうですか?」
医師「大丈夫、眠っているだけだよ。
怪我よりも疲労の方が心配だね。
だけど、点滴も打ってるし、明日には元気になるよ。
だから、今日は静かにゆっくりと眠らせてあげてね」
私達は医務室を後にした。
斉藤「平沢様、少しお時間を頂いて宜しいでしょうか?」
私に対する口調が敬語になっていた。
私は二人の後を付いていった。
そこは特権階級の居住区、初めて来る場所だ。
私達の居住区とは全く異なり、照明も扉も全てが艶やかだった。
私はその一室に招かれた。
部屋は広く豪勢な家具で飾られ、大きなガラス戸から外を眺める事も出来た。
私は久しぶりに空を見た。
東京で見る空とは違い、星がとても綺麗に輝いていた。
私が用意された椅子に座ると、斉藤さんはお茶の準備を始めた。
私達に紅茶を差し出すと、自らも席に着いた。
暫く沈黙が続いたが、紬父が話を切り出した。
紬父「君にはこちらの居住区に住んで貰いたい」
紬父「紬があそこに居るのは、君と一緒に居たいからなのだろう?
君がここに来れば、あの子もこっちに戻ってくる。
あそこは汚いし危険だ。碌でもない人間も多い。
君もあんな所より、こちらの方がいいだろう?」
唯「……」
紬父「もう働く必要は無いし、君にも優雅な生活を約束しよう。
君は紬と仲良くしてくれれば、それで良い。
君の欲しいものは全てこちらで用意しよう」
唯「……」
紬父「君が喧嘩した相手、彼等は他にも色々トラブルを起こしてるみたいでね、
ここから出て行ってもらう事にしたよ。紬もこれで安心するだろう。
私の娘を脅すとは、本当に愚かな連中だ」
唯「……やっぱり」
紬父「ん?」
唯「貴方は自分の娘の事が全く分かっていないんですね」
紬父「……それはどういう意味だね?」
唯「……言葉通りの意味です。
お願いですから、これ以上紬さんを傷付けないで下さい」
紬父は不快感を顕にした。
紬父「君の言っている事がよく理解できないのだが……。
詳しく説明して貰えるかね?」
唯「……紬さんがどの様に脅されていたか知っていますか?」
紬父「いや、詳しくは聞いていない」
唯「誰かに言ったら、私に危害を加えると脅したんです」
紬父「ほう、それで?」
唯「何故その事を貴方や斉藤さんに言わなかったか分かりますか?」
紬父「それは君に危害が加えられる事を恐れたからだろう?」
唯「……。そんなワケないでしょ……」
紬父「……?」
唯「貴方や斉藤さんなら、私一人を守る事なんて簡単に出来た。
例えば、私をこちらの居住区に匿えば、彼女達は手を出せませんよね?」
紬父「確かに、一般人は許可なくこちらの居住区には入って来れないからな。
では、何故、紬は私達に何も言わなかったと?」
唯「私はその時、こちらの居住区に来れない理由があったんです」
紬父「その理由も気になる所だが……。
しかし、君がこちらの居住区に来れないとしても、
君を守る方法などいくらでもある。
そもそも、私の娘を脅した連中など、即外に放り出してやる。
この施設から追い出せば、君にも紬にも手は出せまい」
唯「……だから言わなかったんですよ」
紬父「? ……どういう事だ……?」
唯「……まだ分かりませんか?
紬さんは彼女達を施設の外に出したくなかったんです」
紬父「言っている意味が分からん。何故だ?
紬は何故あいつらを施設の外に出したくないのだ?」
唯「施設の外は危険だからです」
紬父「外が危険だから……?」
唯「紬さんはとても優しいんです。
例えどんなに傷付いても、どんなに傷付けられても……、
誰かを傷付ける事なんてしたくないんです。
貴方や斉藤さんに彼女達の事を言えば、
貴方達は彼女達を傷付けるでしょう?
さっき貴方が言った様に、あの地獄へ彼女達を放り出すと……。
だから彼女は誰にもこの事を言わなかった。
彼女達を守る為に。
紬さんは、自らを傷付けた相手を、必死に守っていたんです」
紬父「そ、そんな……馬鹿な……」
唯「でも、私は彼女の様に優しくはなれなかった。
私は怒りに身を任せ、彼女達を傷つけました。
彼女達が私をこれ以上苦しめないように。
私は自分が傷付きたくないから、彼女達を傷付けたんです」
唯「私は紬さんの思いを裏切りました。
でも、後悔なんてしてません。
私はもう決めたんです。
何があっても彼女を守るって。
だから、貴方もこれ以上彼女を傷付けないで下さい」
紬父「……」
唯「貴方はさっき、私がここに来れない理由が気になると言いましたよね。
その理由は、紬さんが私と一緒にいる理由と同じなんです」
紬父「……」
唯「……贖罪。」
紬父「……贖罪?」
唯「私達が、紬さんの姿をあんな風にしてしまった原因なんです」
紬父「……君は……軽音部の部員なんだね……」
唯「……私が軽音部で生き残った最後の一人です」
そうか、と小さく呟き、紬父は天井を見詰めた。
紬父「私は、紬が軽音部の仲間達をあんなに愛しているとは思わなかった……。
高校を卒業した後はドイツに留学する事になっていたし、
軽音部など、ただの暇潰しに過ぎないものだと思っていたのだ。
友人などまた新しく作ればいい、
暫くすれば、紬も高校の友人の事など忘れてしまうだろうと思っていた……。
だから私は、少しでも早く忘れられるよう友人と連絡を取る事さえ禁止した」
紬父「だが、私の考えは間違っていた。
いつまで経っても紬は君達の事を忘れられず、
拒食症を患い、今の様な姿になってしまったのだ。
紬をあんな姿にしてしまったのは私だ。
そして君達にも謝らなければ……すまなかった」
唯「私達は貴方を恨んだりしていません。
親友である彼女が安全な所にいられればそれで良かったんです」
紬父の目からは涙が流れていた。
唯「私はここで紬さんに会って、無事を確認出来て嬉しかった……。
でも、紬さんの今の姿を見て悲しかった……。
だから、これからは紬さんの傍にいてあげたい……。
悲しみも苦しみも、もう一人で背負って欲しくないんです。
私の事を命懸けで守ってくれた妹や友人達の様に、
今度は私が紬さんを守ってあげたいんです……」
紬父と斉藤さんは、私に全面的に協力してくれると言った。
私は部屋を後にし、再び医務室に戻った。
そこにはもうムギちゃんの姿は無かった。
彼女は特権階級の人達が利用する医療施設に移動させられていた。
そこは私がいた医務室とは全く様子が違っていた。
広く綺麗で、何やら凄そうな医療機器まで配備されていた。
そこの医師にお願いし、特別にムギちゃんの傍に居させて貰える事になった。
ムギちゃんは広くて綺麗な個室のベッドの上に横になっていた。
私は部屋にあった椅子をベッドの横に移動させそこに座った。
ムギちゃんは天使の様に優しい寝顔をしていた。
私はムギちゃんの髪を優しく撫でた。
唯(何があっても絶対にムギちゃんを守るからね……)
私はムギちゃんの手を握り締めた。
細く硬くなってしまった彼女の手……。
でも、とても暖かかった。
彼女の手を握ったまま、私は眠りに落ちていた。
翌日、私の方が先に目を覚ました。
小さな寝息が聞こえる。ムギちゃんはまだ寝ていた。
私達の手はまだしっかりと握り合っていた。
私が立ち上がろうとしたその時、ムギちゃんは目を覚ました。
紬「……唯……ちゃん……」
唯「私はここにいるよ、ムギちゃん」
紬「私……まだ生きているのね……」
唯「そうだよ。私達は生きているんだよ……」
ムギちゃんの目からは涙が溢れていた。
紬「どうして……私はまだ生きてるの……?
唯ちゃん……私はもう生きるのが辛いの……。
私も……早くみんなの所に……逝きたいわ……」
唯「ムギちゃん……?」
紬「もうみんな死んでしまったのでしょう……?」
唯「……いつから気付いてたの?」
紬「最初に唯ちゃんの姿を見た時から分かってたの……」
やっぱりムギちゃんを騙す事なんて出来なかったんだ。
ムギちゃんは私が気を遣って嘘を付いている事を見抜いてた。
私の為に、ムギちゃんは騙された振りをしていたんだね……。
唯「ごめんねムギちゃん……。私、嘘を付いてたの……」
紬「ううん、いいの唯ちゃん……。
私も唯ちゃんに嘘を付いてたの……。
唯ちゃんに謝らなくちゃいけないの……」
唯「もういいんだよ、全部終わったから……」
紬「あの人達は大丈夫かな……?」
ムギちゃんは自分を傷付けた人間達の心配をしていた。
どうして彼女はこんなにも優しくいられるのだろう。
私とムギちゃんは一体何が違うのだろう。
私は彼女に、全てを伝えた。
私があの女達を傷付けた事、紬父と話した事、
そして、ムギちゃんが桜ヶ丘高校からいなくなった後の事を。
紬「そんなに辛い事があったのね……」
唯「私はムギちゃんの姿を見て、どうしても本当の事が言えなかったの……。
これ以上ムギちゃんを傷付けたくなかったから……。
でも、私はもうムギちゃんに嘘や隠し事をしたくないの。
だから、ムギちゃんも私にそういう事はもうしないで。
私達は一人じゃない、二人なんだよ。
悲しい事も辛い事も、楽しい事も嬉しい事も、全部二人で分かち合いたいの」
紬「うん……。もう唯ちゃんに嘘も隠し事もしないと誓うわ」
唯「私は今まで過去ばかり見てたの……。
命懸けで守ってくれたみんなに、ずっと申し訳ないと思っていたの……。
でも、私はもう過去に縛られない。
それは過去を、みんなを忘れるって事じゃない。
過去と向き合って、未来の為に生きるの」
紬「唯ちゃんは強いのね……」
唯「私は全然強くなんか無いの……。
私は、今、私に出来る事をしているだけなんだよ、ムギちゃん……」
紬「私は……私には無理だわ……。私は唯ちゃんみたいに出来ない……」
唯「それでいいんだよ、ムギちゃん。
私とムギちゃんは違う人間なんだもの。
無理に同じ事をしようとする必要は全然無いんだよ。
ムギちゃんに出来て、私に出来ない事もいっぱいあるの。
ムギちゃんは、ムギちゃんに出来る事を精一杯すればいいんだよ。
足りない部分は二人で補えばいいんだよ」
唯「ムギちゃんには過去を割り切る事が難しいかもしれない。
それはムギちゃんが優しいからなんだよ。
だから、無理に変えようとする必要なんて無い。
少しずつでもいい。たまには立ち止まったっていい。
それでも私は、必ずムギちゃんの隣にいるから。絶対にいるから。
私と一緒に未来へ行こう、ムギちゃん」
紬「唯ちゃん……」
唯「まずはここでゆっくり休んで、元気になろう?
それが今、ムギちゃんに出来る事だよ……」
紬「分かったわ、唯ちゃん……」
唯「ムギちゃんが退院するまで、この部屋で一緒に寝ていいかな?」
紬「もちろん、是非そうして欲しいわ」
その時ドアが開き、紬父と斉藤さんが部屋に入って来た。
唯「あ、あとムギちゃんに見せたい物があるの。
それと、部屋も引っ越す事になったから、私ちょっと行って来るね」
紬「分かったわ」
私は二人に頭を下げ、部屋を出た。
私が彼女に見せたい物……。
それは、放課後ティータイムの演奏DVD。
これを見たら、彼女は懐かしさと共に苦しみをも得るかもしれない。
それは私も同じだ。
でも、私達は今、このDVDを見なければならないと思った
過去が消える事は無い。
楽しかった事、嬉しかった事、苦しかった事、悲しかった事……。
その全てが、今の自分を構成している要素なのだ。
だから目を背けてはならない。
私はもう目を背けない。
全てを受け入れ、私は前に進むんだ。
大好きなムギちゃんと一緒に。
部屋の前に着くと、数人の男達が部屋の家具を運び出していた。
ムギちゃんが来た時に持ち込まれた物達だ。
私は男達に軽く頭を下げ、部屋の中に入った。
私の私有物は、まだ部屋に置かれたままになっていた。
制服、ギター、ポーチ。私の全財産。
私はポーチの中を確認した。
そこには、スタンガンが2つと小さなナイフが1つ、
皆と一緒に写っている沢山の写真達、そして5枚のDVDが入っていた
私はそれらを持ってムギちゃんの待つ病室に向かった。
ムギちゃんの個室のドアを開けると、芳ばしい香りが漂ってきた。
部屋に置いてある台の上には、豪勢な食事が一人分だけ用意されていた。
紬「まだ食事を取ってないでしょう?
斉藤が唯ちゃんの朝食を用意してくれたの。
遠慮しないでいっぱい食べてね。
食後のデザートも用意してあるのよ」
笑顔でそういうと、ベッドの横に置いてあるバスケットを指差した。
唯「……ありがとうムギちゃん。
ムギちゃんは……食べないの?」
紬「私は食欲が無いから……。
でも大丈夫よ。サプリメントを飲んでるし、点滴もしているから」
やっぱり、ムギちゃんはまだ食べられないんだ……。
私は席に着き、用意された食事を食べ始めた。
あれだけ良い香りがしていたのに、口に入るとそれはまるで無機物の様だった。
美しい料理達も、今の私にとっては何の魅力も価値も無かった。
しかし、私はそれらを全て胃に収めた。
何度も逆流しそうになる無機物を、私は強引に押し戻した。
ムギちゃんを守る為に、私は身も心も強くならなければならない。
食事は私の肉体を強化する儀式なのだ。
砂であろうが泥水であろうが、必要であるならば全て飲み込んでやる。
台に置かれた料理達は、跡形も無くその姿を消した。
唯「ごちそうさまでした、もう食べられないよ~」
紬「あ、唯ちゃん、アイスもあるのよ?」
ムギちゃんは冷蔵庫を指差して言った。
唯「流石に今は無理だよ~。後で一緒に食べようよ」
紬「……そうね、そうしましょう」
唯「お腹一杯になったら、なんだか眠くなっちゃったよ……」
紬「唯ちゃん、こっちに来て」
そう言って、ムギちゃんは私に手招きをした。
私はその言葉の意味を理解し、ムギちゃんのベッドに潜り込んだ。
セミダブルサイズのベッドだけれど、二人でも全然窮屈ではなかった。
紬「おやすみ、唯ちゃん」
ムギちゃんは優しく私の頭を撫でてくれた。
それはとても心地よく、私の眠気は一気に増した。
少しだけでいいから、今は私を眠らせて……。
私はムギちゃんの細い体に寄り添い、目を閉じた。
ムギちゃんの優しい匂いに包まれ、私は眠りに就いた。
1時間程寝ていたらしい。
目を覚まし隣を見ると、ムギちゃんは布団から上半身を出し、
背もたれに寄り掛かり、静かに本を読んでいた。
部屋を見渡すと、台の上の食器は全て綺麗に片付けられていた。
その代わりに、色鮮やかな果物とお菓子が用意されている。
ムギちゃんは私が目覚めた事に気付くと、本を閉じてそれを脇に置いた。
紬「おはよう、唯ちゃん」
唯「寝ちゃってごめんね、ムギちゃん」
紬「ううん、全然構わないわ。唯ちゃんの可愛い寝顔も見れたもの」
そう言って、私に明るい笑顔を見せてくれた。
唯「そうだ、私、ムギちゃんに見せたい物があったんだ」
私はベッドから出て、ポーチからDVDを取り出し、ムギちゃんに見せた。
紬「それは何?」
唯「放課後ティータイムの演奏DVDだよ」
唯「ホントはね、すぐにでもムギちゃんにこれを見せてあげたかったの。
でもね、私はみんなの事を思い出すと悲しくて、辛くて、苦しくて……。
どうしてもこれを見る事が出来なかった……。
だから、このDVDの事をムギちゃんに言えなかったの……。
ごめんね、ムギちゃん……」
ムギちゃんは、優しい顔でゆっくり首を横に振った。
唯「でもね、今ならこのDVDを見れると思う。
ううん、観なきゃいけないと思うの。
そうしないと、私は前に進めない気がするから……。
だから、ムギちゃんと一緒にこのDVDを見たいの」
ムギちゃんは首を縦に振った。
紬「一緒に観ましょう、唯ちゃん」
唯「ありがとう、ムギちゃん」
部屋の隅には大きな薄型テレビが置かれ、DVDプレイヤーも備えてあった。
しかし、ベッドから観るには少し距離が離れている為、
私はテレビの横にあったノートパソコンで観る事にした。
ベッド用の食事台を設置し、その上にパソコンを置いた。
画面が見やすくなるように、ベッドの角度も調整した。
私はムギちゃんの隣に座り、パソコンの電源を入れた。
唯「これは1年の学際ライブ、これは2年の新歓ライブ、こっちが2年の学際ライブ、
これが3年の新歓迎ライブで、これが……あれ? これは何だろう……?」
一枚、表面に何も書かれていない、私の知らないDVDが入っていた。
とりあえず、私は3年の新歓ライブのDVDをパソコンにセットした。
唯「これは3年になった私達の、新歓ライブの映像だよ」
和『次は、軽音楽部の演奏です』
唯『皆さん、入学おめでとうございます。
私達軽音楽部は、5人と部としては少ない人数ですが、
お茶したり、お喋りしたり、毎日楽しく過ごしています。
あ、練習もたまにします!』
律『たまにかよっ!』
新入生『あははははっ!』
唯『私が軽音部に入った当時は、何の楽器も出来ませんでした。
そんな私でも、優しい仲間達のお陰で、今ではギターが弾けるようになりました。
ですから、初心者でも音楽を楽しみたいという方は、是非来てください。
勿論、経験者でも大歓迎です! 誰でも大歓迎します!』
唯『続いて、メンバー紹介!
私はギター&ボーカルの平沢唯です!』チャラリーラリチャラリラリラー
澪『何でチャルメラ!』
新入生『あははははっ!』
唯『ツッコミ担当ベースの澪ちゃん!』
澪『何だその紹介はっ!』ベベンベンベンベーン
唯『我等が部長、ドラムのりっちゃん!』
律『いえーい!』ドゴドゴドゴドゴジャーン
唯『愛しの後輩、可愛いあずにゃん!』
梓『唯先輩、恥ずかしいです!』ジャンジャンジャンジャラーン
唯『そして、皆を陰から支えてくれた、キーボードのムギちゃん!
家の都合で転校してしまいましたが、
ムギちゃんはいつまでも私達の大切なメンバーです。
今日は新入生の皆さんと、ムギちゃんの為に演奏したいと思います』
唯『それでは、聴いて下さい! ふわふわ時間!』
律『ワン、ツー!』カチカチ
ムギちゃんは食い入るように画面をじっと見詰めていた。
その目からは涙が零れ落ちていた。
ムギちゃんは手で涙を拭う事をしなかった。
真っ直ぐに画面を見詰め、一瞬でも視線を逸らす事は無かった。
映像が終わると、ムギちゃんは小さな声で呟いた。
紬「どうして……私はみんなを裏切ったのに……一人で逃げたのに……」
唯「私達は、本当にムギちゃんの事をそんな風に思ってないんだよ……。
みんなムギちゃんの事が大好きなんだよ。
その気持ちは絶対に本当だから。
ステージの上のキーボードがその証拠だよ。
ムギちゃんは、永遠に放課後ティータイムの仲間だから……」
紬「唯ちゃん……」
私はムギちゃんを抱き寄せ、頭を優しく撫でた。
ムギちゃんは大声で泣いた。
私は、ムギちゃんが泣き止むまで頭を撫で続けた。
思いっ切り泣いて、全てを吐き出して。
悲しみも苦しみも、一人で抱え込まないで。
ムギちゃんはもう一人じゃないのだから。
今までムギちゃんが皆を支えていたように、
今度は私がムギちゃんを支えるから。
その為に私はここにいるのだから。
紬「ごめんね、唯ちゃん。取り乱しちゃって……」
唯「いいんだよ、ムギちゃん。もう、泣きたい時には我慢しないでいいの。
好きなだけ泣いて。私がムギちゃんの涙を全部受け止めるから」
紬「ありがとう、唯ちゃん……」
唯「次はこのDVD……タイトルも書いてなくて、何だか分からないけど……」
私はDVDを入れ替えた。
この中には何が入っているのだろう?
もしかしたら、何も入っていないかもしれない。
だが、それもすぐに分かる事だ。
映像が流れ始めた。
映し出されたのは誰もいない部室。
いや、カメラに人が写っていないだけだ。
何を話しているかは聞き取れないけれど、微かに話し声がする。
2人?3人?いや、もっといる。
皆聞き覚えのある声だ。
一体これは何だ……。
日付は……2010年……今年の7月3日?
澪『それじゃあ、準備はいいか?』
純『バッチシです、澪先輩』
いちご『……問題ない。』
律『んじゃ、行くぞ!』
律澪梓和純いちごしずか『いえ~い!』
律澪和『唯、ムギ、見てるか~?』
梓純『唯先輩、ムギ先輩、ゾンビのアズジュンでーす!』
梓『って、何これ~! やっぱりもっと普通に行こうよ!』
純『いいじゃん、梓~。こっちの方が絶対面白いってば!』
しずか『ムギちゃん、私達、軽音部の新メンバーです』
いちご『ムギ、元気にしてる? あと唯も。』
律『いちごとしずかもムギと仲良かったのか? 渾名で呼んでるし』
しずか『私は一年生の時に同じクラスで、少し話した事があったから』
いちご『私は話した事が無いけれど、みんながそう呼んでたから。』
律『話した事も無いのに渾名で呼んだのかいっ!』
いちご『別にいいでしょ。軽音部のメンバーだし。』
律『だったら私の事をりっちゃんって呼んでみて!』
いちご『やだ。』
梓『もう、いい加減にして下さいよ、律先輩!』
澪『……』ゴツン
律『ってぇ……。なんであたしだけ……』
いちご『自業自得。』
和『とりあえず、話進めるわよ』
純『ですね』
しずか『これを企画したのはりっちゃんなの』
澪『新生放課後ティータイムを映像で残して置きたいっていうのと、
もしかしたら、今後唯がムギと会うかもしれないし、
そしたらムギに私達の事を見て欲しかったんだ』
梓『ムギ先輩に言いたい事もありますしね』
律『まぁ、唯がムギと会えたらの話なんだけどな』
梓『絶対会えます!』
和『まぁ、唯って物凄く運が良い子だからね』
律『確かに、憂ちゃんの姉って時点でかなりの強運の持ち主だよな』
純『あ、それ分かります』
しずか『憂ちゃんって、すっごくいい子だもんね』
律『あたしも憂ちゃんみたいな妹欲しかったな~』
澪『お前には聡がいるだろ』
律『いらねーよあんなの』バッサリ
いちご『ちなみに、唯は憂と一緒に帰宅。』
律『唯がいたら、サプライズ映像じゃなくなっちまうからな』
純『それは私のアイデアです』フンス
律『そうそう、鈴木さんのアイデアだぞ』
純『鈴木さんじゃありませんっ! ってアレ?』
律『ん?』
純『やっと覚えてくれたんですね、律先輩!』
律『そりゃあ同じ軽音部のメンバーだからな、佐藤さん!』
純『って、間違ってるし! てか、ずっとワザと間違えてましたよねっ!』
律『てへっ、バレちゃった?』
澪『……』ゴツン
律『だから何であたしだけ……』
和『それより律、澪、梓、あんた達はムギに言いたい事があるんでしょう?』
律『あ、そうだった。え~おほん! あー、ムギさん? えーっとですね……』
いちご『……。』ゴツン
律『いってぇーな澪! ……って思ったらいちごかよ!』
いちご『……一度殴ってみたかった。』
律『っておい! なんだそりゃ! 理不尽だ! なんて可哀相なりっちゃん!』
澪『……』ゴツン
律『……本当に理不尽だ。ぅぅ……』
純『本当に話進みませんねこれ……』
しずか『あ、あはっ……あはは……』
律『まぁ、こんな感じなんだよ、ムギ』
梓『私達はムギ先輩の事、怒ったりしてませんからね』
澪『ムギは優しいから、私達の事を気にしてるんじゃないかなって思ったんだ。
一人だけ遠くに行ってしまった事に、負い目を感じてるんじゃないかって……。
でも、そんな事気にする必要は全くないぞ?
何があっても、例えどんなに離れてても、私達は仲間だ。
ムギは永遠に放課後ティータイムのキーボードだからな』
★8
梓『私、ムギ先輩とは二人だけで話す機会が余り無くて……。
でも、ムギ先輩はいつも笑顔で優しくて、私はそんなムギ先輩の事が大好きです!』
律『ムギが軽音部に入ってくれなかったら、唯も軽音部に入らなかったかもしれない。
私達は本当にムギには感謝してるんだ。ありがとう、ムギ』
純『私もムギ先輩のお菓子食べたかったです!』
和『ちょっと純……いい話が台無しよ……』
梓『……』ゴツン
純『いったぁ~……』
いちご『……。』クスッ
純『あ、いちご先輩が笑った!』
澪『えっ、ウソ!?』
和『そう言えば、いちごの笑った所って見た事ないわね』
しずか『私も殆んど見た事ないかも……』
いちご『……笑ってない。』
純『え~、絶対笑ってましたっ!』
いちご『笑ってない。』
律『まぁ、全部録画してあるからな。後で確認しようぜ! ニシシ』
いちご『……律うざい。』
澪『それと、唯とムギに聴いて欲しい歌があるんだ。
私が来年の卒業の時の為に作っていた歌詞があって……。
時期的に早過ぎるんだけどさ、これにみんなで曲を付けたんだ。
本当は梓に捧げる予定の歌で、テーマは卒業だったんだけど、
【卒業】の部分を【さよなら】に変えて二人に送りたいと思う』
梓『さよならって言っても、別れるって意味のさよならじゃありません。
それはこの歌を聴いてくれれば分かると思います!』
和『私も、この歌はとても良いと思ったわ』
しずか『素敵な歌だと思います』
純『私も作曲に参加しましたっ!』
いちご『……嫌いじゃない。』
律『それじゃあ聴いて貰おうかな。
あ、そうだ、ムギは知らないと思うから言っとくと、
あたし達色々あって、演奏する楽器が変わってるんだ。
しかも、みんなで合わせたのが今日初めてだから、あまり期待するなよ?』
純『みんなで練習したら唯先輩にバレちゃいますからね』
律『あたしはベース。ドラムは和。澪はボーカル。
梓と純ちゃんはギター。純ちゃんのギターは、準備室漁ってたら出てきた奴。
いちごがリコーダーでしずかはピアニカだ。
新規メンバーの腕前を、篤とご覧あれ!』
しずか『りっちゃん、ハードル上げないでよ~』
いちご『律、うるさい。』
澪『本当は憂ちゃんのキーボードを入れたかったんだけど、
唯を一人にする訳にはいかないからな』
梓『唯先輩と憂も入れて演奏する案もあったのですが……』
和『律と純が、内緒の方が面白いって言い張ってね……』
律『細かい事はいいんだよっ!』
純『そうですよっ! とにかく、演奏しましょ!』
澪『唯、ムギ、聴いてくれ』
律『いっせーのっ!』
律澪梓和純いちごしずか『天使にふれたよ!』
卒業を意識したというお別れの歌詞。
本来ならば、これはあずにゃんに送られる筈の物。
その中には、澪ちゃんの優しさと、軽音部への想いが溢れていた。
皆、それぞれ大切な想いを込めて演奏しているのだろう。
それらの音は、乗算の様に互いの旋律を高め合う。
みんなの調べが一つになった時が、私達の本当の音楽になる。
それこそが、「放課後ティータイム」なのだ。
彼女達の演奏は、私とムギちゃんの心を震わせた。
律『ふぅ~』
しずか『どうだったかな……』
梓『良かったと思いますっ!』
和『こんなもんかしら?』
澪『そうだな』
純『私のギターは梓より上手かったね』
いちご『純、調子に乗り過ぎ。』
純『え~、酷いですよ、いちご先ぱ~い』
律『というワケで、そろそろお開きっ!』
律『唯、あんまりムギに迷惑かけるなよっ!』
澪『唯、ムギ、元気でな』
和『ムギ、大変だと思うけど、唯をよろしくね』
梓『唯先輩、ムギ先輩、私は二人に会えてとても良かったです』
純『梓と憂の面倒は私がちゃんと見ますから安心して下さい!』
梓『何よそれ! 逆でしょ! 逆!』
いちご『短い間だけど、軽音部は楽しかった……と思う。』
しずか『私も、軽音部に入って凄く楽しかったよ』
私もムギちゃんも涙が止まらなかった。
こうしてムギちゃんと再会する事も、ムギちゃんの気持ちも、
私達の事は全部お見通しだったんだね……。
やっぱり、みんな凄いよ……。
和ちゃん、最後はやっぱり私とお別れするつもりだったんだね。
自分がゾンビだから……私を傷付けない為に……。
映像が少し途切れたが、すぐにまた始まった。
場所は部室ではない。でも、私はここに見覚えがある。
そう、ここは生徒会室だ。
梓『準備はいい、純?』
純『オッケーオッケー!』
梓『じゃあ、始めるよ』
次の瞬間、私は心臓を押し潰される様な衝撃を受けた。
画面に現れた人物……。
「憂」
憂『何を言おうか考えてきたのに……分からなくなっちゃった……。
お姉ちゃんに言いたい事は山程あるのに、上手く言葉が出て来ないや。
……ごめん、梓ちゃん、純ちゃん、ちょっと待って。
考えが全然纏まらないの……どうしよう……』
純『憂、頑張って!』
梓『何でもいいから、今の自分の気持ちを全部出しちゃえばいいんだよ!』
憂『ありがとう、梓ちゃん、純ちゃん……』
純『時間はたっぷりあるからね。リラックス、リラックス!』
憂『お姉ちゃん、これを見ている時、私はもう近くにはいないと思う。
私はゾンビでお姉ちゃんは人間……。
だから、いつかはお別れをする時が絶対に来ると思うの。
でも、私はお姉ちゃんにずっと人間のままでいて欲しい』
憂『お姉ちゃんは、自分もゾンビだったらいいのに、なんて考えちゃってるよね。
自分一人だけが人間のままである事に罪悪感を感じて……。
でもね、それは間違っていると思う。
お姉ちゃんが人間だから救われている人だっているんだよ?
お姉ちゃんが人間だから、私は人間でいられるの』
憂『お姉ちゃんは私の、私達の希望なの。
私達が諦めないで頑張れるのは、お姉ちゃんのお陰なんだよ。
さわ子先生も言ってたよ。
唯ちゃんが人間だから、私も頑張らなきゃって。
教師である私が唯ちゃんを守らなきゃって』
憂『本当はね、私達も怖かった。凄く怖かったんだよ。
いつかあの人達みたいに、自分を失って人を傷付けるんじゃないかって。
でも、絶望しなかったのは、お姉ちゃんがいたからなの。
私達が自暴自棄になったら、お姉ちゃんが一人になっちゃうから。
私達自身が、お姉ちゃんを傷付ける事になっちゃうかもしれないから。
友達として、後輩として、家族として、私達はお姉ちゃんを守りたかったの。
みんなお姉ちゃんの事が好きだったから、守りたかったんだよ』
憂『私達は、そう思える自分達の事を誇りに思っているの。
大切な人を想う心、それを持つ人こそが『人間』なんだって。
だから、みんなでお姉ちゃんを守ろうって誓ったの。
私達が最後の最後まで『人間』で在り続ける為に』
憂『私はお姉ちゃんが好き。大好き。
ご飯を食べてるお姉ちゃんが好き。
アイスをねだるお姉ちゃんが好き。
ごろごろ寝転がってるお姉ちゃんが好き。
ギターの練習をしているお姉ちゃんが好き。
一緒に寝てくれるお姉ちゃんが好き。
どんな仕草でも、お姉ちゃんの全てが大好き』
憂『でも、一番好きなのは明るくて優しい笑顔のお姉ちゃん。
お姉ちゃんの笑顔が何よりも一番大好き。
でも、最近のお姉ちゃんの笑顔は全部嘘。
泣いているのに顔だけ笑って見せて……。
そんなお姉ちゃんは嫌い、大っ嫌いなの』
憂『泣きたい時には泣いていいんだよ。
それを無理して我慢して、偽りの笑顔なんて作らないで。
そんなの……お姉ちゃんらしくないよ。
そんなの、私の大好きなお姉ちゃんじゃない!』
憂は泣いていた。
憂の他にも鼻を啜る音が聞こえた。
私が憂の偽の笑顔に気付いていた様に、憂もまた私のそれに気付いていた。
結局また、私が一人で人を騙せている気になっていただけだったのだ。
憂『ごめんなさい……私……こんな事を言いたかったんじゃないのに……。
何で私、こんな嫌な事ばかり言っているんだろう……。
ごめんなさい、お姉ちゃん……私……私……』
あずにゃんが横から現れ、憂を抱き締めた。
二人は暫く抱き合っていた。
その間も、録画は続いていた。
画面から啜り泣く声だけが延々と流れてきた。
憂がこんな風に泣くのを、私は生まれて初めて見た。
私の胸は締め付けられ、呼吸すら困難な状態だった。
でも、私は目を離さない。
最後まで見続ける。絶対に。
憂『ごめんね、お姉ちゃん、私は駄目な妹だね……。
でも、私はお姉ちゃんに心から笑って欲しいの。
お姉ちゃんの本当の笑顔が私は大好きだから……。
ううん、私だけじゃない、みんなお姉ちゃんの笑顔が大好きなの』
憂『律さんが言ってた、お姉ちゃんの笑顔は天使みたいだって。
澪さんは、お姉ちゃんの笑顔を見ると歌詞が浮かんでくるって。
和ちゃんも、お姉ちゃんの笑顔は反則なくらい素敵だって』
憂『だからお願い、本当な笑顔のお姉ちゃんでいて。
そうすれば、世界の誰もがお姉ちゃんの味方になるから。
必ずお姉ちゃんを守ってくれるから。
それが私からの、お姉ちゃんにする最後のお願いだよ』
ごめんね、憂。それは無理だよ。そのお願いだけは聞けないよ。
だって、私の隣に憂がいないんだもん。
憂がいないと、心から笑う事なんて出来ないんだよ。
そうだ、憂が悪いんだ。
憂が私の傍にいないから悪いんだ。
私は絶対に本当の笑顔なんて見せない。
憂のお願いなんて聞いてやるものか。
それが嫌なら今すぐ私の前に来てよ、憂。
憂『そして、もし、これを紬さんが見ていたら、お願いがあります』
憂『紬さん、私は貴女の優しさをよく知っています。
紬さんの優しさは、お姉ちゃんの優しさと凄く似ているから……。
だから、貴女はお姉ちゃんと同じ苦しみを感じていると思います』
憂『だからお願いです、苦しみを一人で抱え込まないで下さい。
困った事や辛い事があったら、お姉ちゃんに相談して下さい。
お姉ちゃんは絶対に紬さんの力になってくれる筈です。
それが私のお姉ちゃん、平沢唯です』
憂『私は毎日家事をして、お姉ちゃんのお世話をしてると思われています。
私がいないと、お姉ちゃんは一人では何も出来ない、
なんて知り合いから言われる事もありました」
憂『でも、それは違います』
憂『本当に困った時、辛い時、私はいつもお姉ちゃんに助けられてきました。
いつもダラダラしていて、怠け者の様に思われる事もあるお姉ちゃんですが、
いざという時には物凄い力を発揮するんです。
お姉ちゃんを、平沢唯を信じて頼って下さい。私が保証します』
憂『お姉ちゃん、私はお姉ちゃんの事なら何でも分かるよ。
私がこんな事を言わなくても、お姉ちゃんは全力で紬さんを守ろうとするって』
憂『でもね、これだけは言わせてね。
お姉ちゃんが傷付いたら、紬さんも傷付くって事。
だから、自分の事も大切にして。紬さんの為に』
憂『紬さん、私は今まで辛い事があっても、二人だから乗り越えられました。
紬さんも、もう一人じゃありません。お姉ちゃんが付いてます。
私がそうだった様に、貴女もお姉ちゃんと一緒なら絶対に大丈夫です。
紬さんとお姉ちゃんの無事を、心から願っています』
憂『最後に、お姉ちゃん、私はお姉ちゃんの事が大好きです。
世界で一番、お姉ちゃんの事が大好きです。
私のお姉ちゃんでいてくれてありがとう。
私は貴女の妹で本当に幸せでした』
憂は涙を流しながら、今までで一番素敵な笑顔を見せた。
それは作り物ではない、本物の笑顔だった。
そして映像は完全に途切れた。
唯「うい……」
唯「うい……うい……ぅぅぅ……う゛い゛ーーーー!」
唯「あ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ーーーーーーーー!!」
唯「う゛う゛ぅ゛う゛ぅ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ーーーーーー!!!」
唯「う゛い゛ーーう゛い゛ーーーう゛い゛ーーーー!!!!」
人間の体の中には、どれ位の涙が蓄えられているのだろう。
私の瞳からは大粒の涙が止まる所を知らずに流れ落ちた。
まるで、体中の全ての水分が飛び出していくかの様に。
ムギちゃんは激しく震える私の体を強く抱き締め、私を静めようとしてくれた。
そのムギちゃんの目からも激しく涙が溢れていた。
それでも、私は湧き上がる感情を抑える事が出来ず、
その衝動に従うまま号泣し続けた。
憂は駄目な妹なんかじゃない。世界で最高の妹だ。
私はありったけの言葉を並べて、それを憂に伝えたい。伝えたかった。
でも、それはもう無理なんだね……。
ごめんね憂。こんなお姉ちゃんで本当にごめんね。
私とムギちゃんはベッドに横になり、白い天井を眺めていた。
毛布の下で、私達は手を硬く結び合っていた。
唯「私ね、過去を全て切り捨てるつもりだった……」
唯「憂の事も、和ちゃんの事も、りっちゃんの事も、澪ちゃんの事も、
いちごちゃんの事も、しずかちゃんの事も、全部切り捨てようと思ってた……」
唯「だって、みんなの事を考えていると、どうしても立ち止まっちゃうんだ……。
過去に縛られて、未来を見る事が出来なくなっちゃうんだよ……。
私一人ならそれでもいいんだ。私はそれだけ罪深い人間なんだから。
でも、私はどうしてもムギちゃんを守りたい……。
過去に縛られてちゃ、ムギちゃんを守る事なんて出来ないんだ……。
だから過去を切り捨てたいの……切り捨てなきゃいけないのに……」
紬「唯ちゃんは私に、自分の出来る事をしているだけ、って言ったわよね?
それなら、自分に出来ない事を無理にする必要はないんじゃないかしら」
ムギちゃんは優しく微笑みながら私に言った。
紬「唯ちゃんに過去を切り捨てるなんて事は出来ないわ。
だって、唯ちゃんはとっても優しい女の子だもの。
今まで自分を愛してくれた人達の事を忘れるなんて出来る筈ない」
唯「でもそれじゃあ駄目なの……駄目なんだよ……。
そんな甘い考えじゃ誰も守れない、救えないんだよ!」
紬「でも、それが今の唯ちゃんなのでしょう?
その甘い考えを捨てる事が出来ない、それが唯ちゃんなの。
私はそれでいいと思ってる。だって、それが唯ちゃんなんだもの」
紬「無理に自分を変える事なんて絶対に出来ないわ。
そして、出来ない事をしようとすれば、必ず失敗してしまうのよ」
ムギちゃんは和ちゃんと同じ事を言った。
和ちゃんの言う事はいつでも正しかった。
私はそんな事すらも忘れてしまっていた。
紬「でもね、私は唯ちゃんの事を信じているの。
唯ちゃんは過去を切り捨てなくても、必ず私を守ってくれるって。
だって、憂ちゃんのお墨付きを貰っているんだもの」
唯(違う……私は……)
紬「それにね、私、憂ちゃんの言葉を聞いて思ったの。
私も誰かを守りたい、ううん、唯ちゃんを守りたいって。
私は今まで、誰かに守られてばかりだったわ。
その度に、自分の無力さを痛感していたの」
紬「私には財力……お金がある。
でも、そのお金は私自身の力じゃない。
全て私の親の力で、私はそれを借りているだけ。
バイトを始めて、私はその事に気が付いたの」
紬「今はまだ、お父様の力に縋って生きるしかない。
でも、私はいずれ自分だけでその力を手に入れたい。
その為に私は経済学、経営学、その他諸々の勉強をしてるわ。
それが今の私に出来る事、それしか私には出来ないから」
紬「そして私は今、もう一つの目標が出来たの。それは、早く元気になる事よ」
紬「今の状態では、私は唯ちゃんに何もしてあげられない、
唯ちゃんに守って貰うだけの存在だから。
私も元気になって、唯ちゃんを守れる人間になるわ」
ムギちゃんは目を輝かせながら言った。
この施設に来てから、初めて見せた眩しい笑顔だった。
その笑顔を齎したのは、憂の言葉だ。
私だけでは、ムギちゃんのこの笑顔を生む事は出来なかっただろう。
私一人では何も出来ない……。
でも、今はそれでも構わない。
ムギちゃんが笑ってくれるならそれでいいんだ。
私は、今の私の力を素直に認める事にした。
そして、私は私に出来る事をする。
それから私の新しい毎日が始まった。
一週間後、ムギちゃんは順調に回復し、病室から出る事が決まった。
これからは、特権階級居住区のスイートルームで暮らす事になる。
私もこの一週間で、以前とは比べ物にならない位体調が良くなった。
その主因は、食事をちゃんと取り、決して吐き出さないという私のルール。
味のしない食事が苦手なのは今も変わらない。
でも、食物が体の中に入れば、味など関係なく私のエネルギーになる。
ムギちゃんも、少しずつサプリメント以外の物を口にするようになった。
以前の私と同じで極少量ではあるけれど、0が1になる事は大きな変化だ。
また、ムギちゃんは医務室で一日に2時間ずつ3回、計6時間の点滴を行っている。
この間、ムギちゃんはずっと医務室に篭り本を読んでいる。
私はムギちゃんと別れるその時間を利用して、密かに様々な特訓をしていた。
その例の一つとして、私は斉藤さんにお願いをし、車の運転を教わっている。
もし、これから外に出るような事になった場合、車という移動手段は非常に魅力的だ。
長距離を楽に移動できるし、何より徒歩で移動するよりも安全性が格段に高い。
その他にも、護身術、応急手当の方法など、役に立ちそうな様々な事を教えて貰っている。
それらは全て、和ちゃん達がしていた事だ。
彼女達も、私に知られずに様々な訓練や準備をしていたのだ。
私が彼女達の様になる事は無理かもしれない。
それでも、私は彼女達の様になりたかった。
その為に努力をしたっていいだろう。
例えそれが無駄な足掻きであったとしても。
ギターも弾くようになった。
ギターは私が持っている最大の「力」だという事に気付いたからだ。
特権階級の中にはプロのミュージシャンや楽器の修理技術者もいるらしい。
さらにスタジオ、楽器、楽譜、修理道具なども揃っていて、音楽活動に不自由はしない。
私はスタジオが空いている時に限り、利用出来る許可を貰った。
しかし、私は主に自室でギターの練習をしていた。
ムギちゃんが、私のギターを聞きたいと言うからだ。
スタジオまではそれなりに距離があり、その移動はムギちゃんの負担になる。
今の状態のムギちゃんに、あまり体力的負担を掛けさせたくはない。
それに、私もムギちゃんも、あまり外出が好きではなかった。
私達は、外見をそれ程気にするタイプではないけれど、まだ十代の女子高生だ。
今の窶れた姿に、多少のコンプレックスを持っていた。
それは、私達が精神的ゆとりを持ち始めていた事をも意味していた。
自分の容姿に気を遣う余裕が出てきたのだ。
私は、今までに覚えた曲をムギちゃんに唄って聴かせた。
暫くギターには触れていなかったけれど、体が全てを覚えていた。
ムギちゃんは私のギターを聴くと、満面の笑みで私を褒め称えた。
私はムギちゃんの笑顔が見たくて、次々と新しい曲も覚えていった。
今、私は、私だけの「力」でムギちゃんに笑顔を咲かせているのだ。
特権階級居住区での生活は、一般人居住区での監獄の様な生活とは似ても似付かぬモノだった。
仕事は無いし、規則も無い。贅沢品も取り揃えられ、まるでリゾート地だ。
今更驚く事ではないが、この施設には豪勢なスポーツクラブなどの娯楽設備も完備されていた。
私はそこで水泳を始める事にした。
水泳は全身の筋肉を使うバランスの良い運動、和ちゃんがその様な事を言っていたからだ。
特権階級専用らしく、そこで汗を流している人間は品も身形も良い者達ばかりで、
私が一般人居住区で見た人達と、同じ人間であるとは思えなかった。
皆の表情は明るく、談笑し、面識の無い私にすら挨拶をしてくる。
それにしても、同じ施設の中に、こんなにも異なった空間が存在していたとは。
あらゆる娯楽を楽しむ事が可能な、優雅で贅沢な生活。
「お金持ち」達の暮らし振りは、私の想像を遥かに超えていた。
その事実を知った時、私はある種の「恐怖」とも言うべきモノを感じていた。
何故、この人達はそんなに「普通」でいられるのだ?
果たして外の惨状を知っているのだろうか、と。
一般人の居住区にいた人達は、皆常に何かに怯えていた。
外で地獄を体験した人間ならば、その理由などすぐに分かるだろう。
皆、危惧しているのだ。
この安全がいつか失われるのではないかと。
特権階級の人間達は、今の安泰が恒久であると信じている。
何があっても、自分達の安全は保障されているのだと。
噛み付き病が大騒ぎされる以前の人達と同じ心理状態。
『世界が崩壊する訳が無い』
根拠もなく、ただ盲心的にそう思い込んでいるのだ。
特権階級の人間はテレビを観る事が出来る。
通信衛星を利用して、今も普通に放送は継続されていた。
世界の状態は、その放送から全て知る事が出来る。
しかし、彼等には実感が無いのだ。
ニュースで戦争の光景を見るだけで、戦争の悲惨さを実感する事などできまい。
飢えに苦しむ人間達の存在を知った所で、我々は贅沢をやめる事などできまい。
所詮は他人事なのだ。
彼等にとって、噛み付き病など他人事に過ぎないのだ。
実際に自らが体験しなければ、それが事実であろうが虚構なのだ。
和ちゃんは言っていた。
「安心」は「慢心」を生み、そこから「綻び」が生じる。
小さな「綻び」はやがて大きくなり、全てを「瓦解」させる、と。
小学校の国語の授業で「油断大敵」という言葉を習った時の話だ。
私はこの「偽りの安全」に満ちた世界に染まらぬよう心掛けた。
ここでは、自ら何もしなくても、全て周りの人間が世話をしてくれる。
その為に、専用に雇われているスタッフ達が居るのだ。
一部の一般人は、そのスタッフの人達に雇われ仕事をしていた。
私は出来るだけ他人の手を借りないようにした。
掃除、洗濯、炊事……。私が憂に任せっきりにしていた事だ。
食材を貰い、一部厨房を借りて調理をさせて貰った。
私の調理する姿を見て、料理人達は私に包丁の使い方などを親切に指導してくれた。
聞くと、危なっかしくて見ていられなかったそうだ。
私は厨房の料理人達と親しくなり、様々なレシピも教えて貰った。
私の味覚消失は非常に特殊で、自分で料理した物の味は感じる事が出来た。
ムギちゃんは、私が料理を始めた日から、私の料理を食べてくれている。
最初は下手だからと断ったが、それでも私の料理が食べたいと言って聞かなかった。
ムギちゃんは、私の料理をいつも笑顔で受け入れてくれた。
僅かな量でも、ムギちゃんが食事をする姿を見られる事は私の幸せだった。
12月17日
ムギちゃんと一緒にこの部屋に引っ越して来てから一ヶ月が過ぎた。
伸び放題だった髪も切り、私は以前の健康的な姿に戻りつつあった。
ムギちゃんも、痩せたままではあるけれど、血色は以前より大分良くなっていた。
唯「きつい……。この服、ちょっと小さいかも……」
紬「新しい服を貰いに行きましょう。可愛い服もいっぱいあるわ」
一般人に配給される普段着や寝巻きは全て同じ物だった。
唯一違う所は、刺繍されている番号。
年頃の女の子が着る様な柄の物ではないが、私はこれが結構気に入っていた。
唯「そうだね、ムギちゃんも一緒に来てくれる?」
紬「もちろんよ」ニコ
私がムギちゃんに案内され着いた先は、まるで高級デパートの様だった。
見るからに高そうな服達が、所狭しと並べられている。
普段着から礼服、パーティードレスまで、あらゆる服が揃えてある。
ここに置いてある物は全て女性物で、男性物はまた別の所にあるらしい。
階を見回すと、小さな女の子を連れた貴婦人が子供用の服を選んでいた。
ムギちゃんは店員らしき人と何やら話をしている。
私は以前着ていた作業服が妙に懐かしくなっていた。
ムギちゃんは店員らしき人を引き連れ、私の元に来た。
紬「それじゃあ、唯ちゃんの服を選びましょう」
唯「あの、ムギちゃん、この服とかっていくら位するのかな……?」
紬「あ、ここの服は全て無料なの。だから好きなのを選んでいいのよ」
これは後に斉藤さんに聞いた話だけれど、
この施設の特権階級にいる人達は、多額の入居資金を支払っている。
それには、この施設のあらゆる設備・備品の使用権利も含まれているのだ。
特権階級の人間達は「被災者」ではなく「お客様」なのである。
そして、それを証明するのがこの黒いIDカード。
この黒いIDカードこそ、ここでの絶対的権力の証、「力」の象徴なのだ。
私は、陳列されている服の中から動きやすそうな物を数点選び、
それを店員らしき人に渡した。
後でこの人が私達の部屋まで荷物を持って来てくれるらしい。
それ位自分で出来るけれど、ムギちゃんの顔を立て、それに従う事にした。
紬「唯ちゃん、この服なんてどうかしら?」
ムギちゃんが可愛らしいひらひらした服を持って来た。
紬「唯ちゃんにはこういう服が似合うと思うの。ちょっと着てみてくれる?」
私がその言葉に逆らえる筈がない。
私はムギちゃんの着せ替え人形になった。
試着室で服を着替えムギちゃんに見せると、
ムギちゃんは絶賛し、とても喜んでくれた。
この笑顔の為なら、私はどんな事でもしよう。
紬「とっても可愛いわ、唯ちゃん」
結局、試着した服は全て貰う事になった。
次の日、私は今まで着ていた一般人用の普段着と寝巻きを返しに行く事にした。
私が一般人であったという証の物達。
何だか名残惜しい気もするけれど、サイズが合わないからどうしようもない。
私は久しぶりに一般人の居住区に来ていた。
以前には気付かなかった、その異様な雰囲気を私は感じ取っていた。
最初にここに来た時は、私自身絶望し、周りを気にする余裕など全く無かった。
だからこそ、今初めて私はこの場が異質である事に気付いたのだろう。
皆、私の方に視線を向ける。
私だけが皆と違う、綺麗な服装をしている。
この空間で、私は目立ち過ぎていた。
私は早足で受付に向かった。
受付嬢「あら……貴女は……平沢さん?」
唯「お久しぶりです」
受付嬢は私の事を覚えていたようだ。
受付嬢「以前と姿も服装も違うので驚きました。元気になったみたいですね」
この人は私の事を心配していてくれたらしい。
唯「あの、今日は服を返しに来たんです。サイズが合わなくなってしまって……」
受付嬢「分かりました。新しい服は……必要無いみたいですね」
唯「あ、宜しければ、新しい普段着を2着ほど頂きたいです。
動きやすいし、ちょっと汚れるような事もしているので……」
受付嬢「分かりました、平沢さんに合いそうな服を持ってきますね。少々お待ちを」
そう言うと、受付嬢はカウンター奥の扉の中へと消えていった。
5分位経っただろうか。
扉が開き、中から受付嬢が服を2着持って私の前に来た。
受付嬢「どうぞ」
唯「ありがとうございます」
私は服を受け取り、足早にその場を後にした。
一般人居住区……。
私は、私が傷付けたあの女達の事を思い出していた。
何故、彼女達は私達を傷付けたのか。
彼女達があんな風になってしまった原因は何だったのだろうか。
もしかしたら、ここでの厳しい生活が彼女達を変えてしまったのかもしれない。
あんな雰囲気の中で、まともな精神でいられる筈が無い。
私は今日、あの場に行ってそれを確信した。
もし、私が彼女達の苦悩に気付き、もっと優しく出来ていたら……。
もしかしたら、私達は友人になれたかもしれない。
もう一度彼女達と会おう。
彼女達には仕事がある。今行っても会えない可能性が高い。
私は彼女達が部屋に帰るであろう時間まで待った。
21時。今なら彼女達も部屋にいる事だろう。
ムギちゃんは22時まで夜の点滴をしている。
台の上のお菓子の詰まったバスケットを持ち、私は彼女達の元に向かった。
彼女達の部屋は変わっていた。
私が騒ぎを起こした日から、あの部屋は空き部屋となっている。
私は受付嬢に無理を言って、彼女達の新しい部屋を教えて貰った。
大丈夫なの?と、受付嬢は心配そうに私に尋ねた。
当然この人も、あの事件の事を知っている。
彼女達が仕事をサボっていた事も、事件後聞かされたという。
私とあの女を引き合わせた張本人。
私に良かれと引き合わせた人物が、私をひどい目に遭わせていたのだ。
受付嬢にも、罪悪感があったのだろう。
事件後、受付嬢は私に会いに来て謝罪をした。
私はこの人を恨む気持ちなど全く無かった。
この人は純粋に私の事を想ってくれていたのだから。
受付に行く度、私の体の事を心配してくれていた。
唯(この人にも何かしないといけないね……)
私はバスケットの中からお菓子を取り出し、お礼を言って彼女に渡した。
私は新しい彼女達の部屋の前に来た。
彼女達はまた全員で同じ部屋に住んでいる様だ。
私はドアをノックした。
一般人用の部屋にはインターホンなど無い。
暫くして、ドアが開けられた。
私を出迎えたのは、私と一緒に仕事をしていた筈の女だった。
女「……どちら様?」
唯「平沢唯です……。……入っていいですか?」
女「平沢……お前が……? まぁ、取り敢えず入んなよ。歓迎するから」
意外な返事に、私は一瞬戸惑った。
私は彼女に導かれ、部屋の中へと入っていった。
部屋の中には、いつもの女達がいた。
皆、最初は私の事が誰だか分からなかった様だ。
唯「あの……」
私が彼女達に話し掛けようとすると、それを遮るかの様に女達が口を開いた。
女「本当にごめん、平沢さん!」
女2「私達、本当に反省してます」
女3「ごめんね」
女4「許してください」
彼女達は口々に謝罪の言葉を述べた。
唯「あ、あの……私の方こそごめんなさい。その、これ……」
私はお菓子の入ったバスケットを差し出した。
唯「今更こんな事を言うのはアレなんだけど……、
私、みんなと仲直りしたくて、これ持って来たの……。
良かったら、これみんなで食べて下さい……」
女「えっ? いいの? マジ嬉しい! ありがとう、平沢さん!」
女2「平沢さんも一緒に食べようよ」
女3「うんうん、そうしなよ」
女4「迷惑じゃなかったら……」
私は彼女達と一緒にお菓子を食べる事にした。
唯「私ね、みんなの事、全然知らないから……。
良かったらみんなの事、色々教えて貰えないかな……?」
私は今まで、彼女達がどういう人間かという事に全く興味が無かった。
彼女達だけではない。私は他人に全く関心を持てずにいた。
しかし今、私はここに住んでいる人間全てに興味が湧いていた。
一般の人も、特権階級の人も、どういう経緯でこの場に居るのだろうか、と。
そして今、何を考えているのだろうか、と。
この施設にいる全ての人間に話を聞く事は不可能だろう。
しかし、自分に関わった人間達の事位は知っておきたかった。
どのような形であれ、この女達は私に関わりのある人間なのだ。
彼女達は自分達の事を語り出した。
★9
彼女達4人は、美容師を養成する専門学校の学生で、
皆地元を離れ、同じ寮で暮らしていたらしい。
その美容専門学校でも桜ヶ丘高校の様な事件が起きた。
4人で逃げる途中、私同様この施設の兵士達に助けられたという。
助かったのは4人だけで、他の仲間は皆死んでしまったらしい。
その時の事を思い出してか、女2と女4は俯き啜り泣いていた。
私はいつの間にか涙を流していた。
彼女達の話に、私は自分の姿を重ねていた。
女「ごめんね、湿っぽい話になっちゃって」
唯「ううん、私の方こそ、思い出させてごめんね」
気付くと、時計は既に21時55分を回っていた。
ムギちゃんの点滴が終わる頃だ。
唯「私そろそろ戻るね」
女「ああ、平沢さんと話せて良かったよ。明日も来ない?」
唯「うん。あと、私の事は唯でいいよ」
女「分かったよ唯。じゃあ、明日もこの時間で」
女達は満面の笑みで私を見送った。
私は女達の部屋を後にし、ムギちゃんの待つ医務室に向かった。
医務室に着くと、ムギちゃんは既に点滴を終わらせていた。
唯「ごめん、ちょっと遅れちゃった」
紬「ううん、丁度今終わった所だから」
紬「唯ちゃんは何をしていたの?」
唯「……ちょっと女ちゃん達に会いに行ってたの」
紬「……彼女達、元気にしてる?」
唯「うん、元気そうだったよ……」
紬「そっか、良かった……」
ムギちゃんはほっとしていた。
やっぱり彼女達の事を気に掛けていたんだ。
ホントにムギちゃんは優しい子だ。
ムギちゃんは一方的に彼女達に傷付けられたのに。
部屋に戻り、私はお風呂にお湯を張った。
特権階級の部屋には、お風呂もトイレも付いていた。
豪勢な大浴場もあるけれど、ムギちゃんは殆んど利用しない。
私は毎日運動後にそこを利用している。
唯「ムギちゃん、お風呂の準備できたよ~」
紬「先に入ってて、私もすぐ行くわ~」
私は服を洗濯篭に入れ、浴室に入った。
この部屋の浴室は、私の家のそれより2倍程の広さがあり、
浴槽も、私達二人が悠々入れる程の大きさがあった。
紬「お待たせ、唯ちゃん」
私達はいつも二人で一緒にお風呂に入っていた。
その度に、私は憂とお風呂に入っていた時の事を思い出し涙した。
ここなら、涙を流してもムギちゃんに気付かれる事はなかった。
お風呂から上がり、ドライヤーで髪を乾かす。
当然、私の方が早く髪が乾く。
髪の長いムギちゃんのドライヤーは時間が掛かるのだ。
その間に、私はベッドメイキングをする。
二人で寝ても広すぎるキングサイズのベッド。
寄り添う私達には、シングルでも充分だというのに。
私はポートワインを開け、2つのグラスにそれを注ぐ。
ムギちゃんは、寝る前にお酒で睡眠薬を飲む。
アルコールと睡眠薬の相乗効果で、よく眠れるらしいのだ。
一般人居住区での生活の時には、睡眠薬だけを多めに飲んでいた様だが、
特権階級の居住区に居た頃は、お酒でそれを飲む事が習慣だったらしい。
ムギちゃんがそれを打ち明けた日から、私はムギちゃんの寝酒に付き合っている。
それが体に悪い事を私達は知っていた。
それでも、彼女はそうしないと熟睡出来ないのだ。
彼女は酷い睡眠障害も患っていた。
私達は乾杯をし、一気にグラスを飲み干した。
これが一番効率的な飲み方なのだ。
私達は別にお酒が好きというワケではない。
そもそも、どんな高級なお酒であろうが、味覚障害の私はそれを味わう事など出来ない。
ただ酔う為に、それを摂取しているだけだ。
ムギちゃんによると、このワインは「フォーティファイドワイン」と呼ばれるもので、
通常のワインよりもアルコール度数が高いのだそうだ。
私と違い、ムギちゃんはお酒に弱かった。
一口アルコールを口にすれば、すぐにその白い顔は紅潮する。
そして私に甘えてくるのだ。
私に逢うまで、ムギちゃんはずっと一人だった。
アルコールはムギちゃんの孤独と寂しさを紛らわせていたに違いない。
唯「ムギちゃん、寝る前にうがいと歯磨きだよ?」
紬「うん」ニコ
私達は歯磨きを終え、同じベッドに潜り込んだ。
今日もまた、私達は寄り添い抱き合って眠りに就いた。
ムギちゃんの寝息が聞こえる。
アルコールと薬の効果で、すぐにムギちゃんは深い眠りに就く。
私はそっとベッドから抜け出し、ギー太を持ってスタジオに向かう。
時計は22:50分を回っている。
この時間にスタジオを使う者は私以外いない。
ここは完全防音になっていて、外に音が洩れる心配は無い。
私はギターをアンプにk~ぎ、大音量でただ只管に掻き乱す。
それはまるで、悲哀の咆哮。
そこで私は、全ての悲しみ、苦しみをギー太から吐き出した
嘆きの独奏は、私の気が済むまで続けられる。
夜中の2時、遅い時には3時頃まで、私はギー太を奏でていた。
気が治まったら、スタジオを片付け部屋に戻る。
ムギちゃんが目覚める気配は無い。
私はギー太を元の位置に戻し、ベッドに戻る。
ムギちゃんの寝顔を見ながら「おやすみ」と呟き、軽く頬にキスをした。
次の日も、私はいつも通りの日課を熟していた。
何も変わらぬ日常。
そう、今の私にとって、この生活が日常になりつつあった。
朝食を作り、ムギちゃんと二人でそれを食べる。
少しお喋りをして、ムギちゃんを医務室まで送る。
彼女が朝の点滴をしている間、私は掃除や洗濯を済ませる。
早めにそれらを片付けたら、余った時間でギターの練習だ。
11時、彼女の1回目の点滴が終わる時間だ。
私は医務室に彼女を迎えに行く。
彼女はベッドに腰を掛け、迎えに来た私に笑顔でこう言うのだ。
紬「今日も調子がとってもいいわ」
唯「それじゃあ、お散歩にでも行こうか」
まずは屋上。
もうすぐクリスマス。
外はとても寒く、吐いた息が白くなる。
呼吸をすると、冷たい空気が肺に入り、体の中から冷えるのを感じた。
それでも私達は、新鮮な空気を求め屋外に出る。
屋上に設置されているベンチに座り、二人で空を見上げる。
空は今も昔も変わらず、ただ鮮やかな青色に満ちていた。
こんなにも美しい空の下で、今もどこかで惨劇は続いているのだろう。
ウイルスの所為だけではない。
戦争、飢餓、凶悪事件……。
世界は常に悲劇で溢れていた。
私が知らなかっただけだ。
知らない振りをしていただけだ。
私にとって、そんな世界の惨禍など、他人事に過ぎなかったから。
屋上で一息ついた後、今度は施設から出て敷地内を歩く。
私たちの他にも、散歩をしている人の姿がちらほら見える。
施設の庭は、職人達によって綺麗に整備されていた。
「まるで恋人みたいね」
ムギちゃんが呟く。
散歩をする時、ムギちゃんは自分の腕を私に絡める。
「そうだね」
私は優しく彼女を引き寄せる。
私もムギちゃんも、ただ純粋に温もりを求めていた。
心と体を暖かくしてくれる存在を求めていたのだ。
私達はお互いに深く依存していた。
誰であろうと、私達を引き離す事など出来ないだろう。
12時が過ぎ、私達は昼食の準備の為に厨房に向かう。
今ではムギちゃんも一緒に料理を作っているのだ。
「おいしい?」
ムギちゃんは、いつも自分の料理の感想を私に求める。
「うん、美味しいよ」
私は笑顔で答える。
嘘ではなかった。
ムギちゃんの料理には、ちゃんと「味」があった。
私にとっては、一流シェフのフルコースよりも美味しい御馳走だ。
楽しい食事の時間が戻ってきたのだ。
楽しい時間はあっと言う間に過ぎ去るもの。
14時、2度目の点滴の時間だ。
別れを惜しみ、私は着替えを持ってプールに向かう。
帽子を深く被り、ゴーグルをして顔を隠すようにした。
以前、しつこくナンパをしてきた男がいたのだ。
今の私は人付き合いが億劫ではない。
しかし、ああいうタイプの人間は正直苦手だ。
私は水泳専用レーンで、ただ泳ぐ事だけに没頭した。
気が済むまで泳いだ後は、大浴場で体を綺麗にする。
プールと浴場は中で繋がっていて、
私の他にも、遊泳後塩素に染まった体を洗う人達がいた。
16時、ムギちゃんと二人でティータイムの準備をする。
厨房を借り、私達は自分達でお菓子を作るようになっていた。
この施設には、当然一流のパティシエ達がいる。
斉藤さんの計らいで、私達は彼等から色々学ぶ事が出来た。
お菓子の準備も整い、私達のティータイムが始まる。
偽りではない、本物のティータイム。
水泳でお腹の減った私の、貴重なエネルギー源だ。
軽音部のみんなで行っていたティータイム。
それと遜色の無い程、この時間は心地よかった。
お茶の後はムギちゃんとギターの練習だ。
練習と言うより、発表会と言った方がしっくり来るかもしれない。
私は夜中に覚えた曲や、ムギちゃんがリクエストした曲を披露した。
ムギちゃんは子供の様な笑顔を私に向け、演奏を聴いてくれる。
紬「次はねぇ、次はねぇ……」
夕飯の準備を始める18時半まで、彼女のリクエストが止まる事は無い。
そろそろご飯の準備をしよう、そう言って私は彼女を宥めた。
彼女はしぶしぶながらも、それに従う。
「また明日弾いてあげるからね」
そう言って、私は彼女と指切りをする。
ムギちゃんの細い指が、私の指に絡まる。
「約束ね」
彼女はそう言うと、私に明るい笑顔を見せるのだった。
20時、ムギちゃんの今日最後の点滴が始まる。
いつもなら、斉藤さんに様々な事を教えて貰う時間だ。
斉藤さんは仕事が忙しく、夜でないと自由な時間が取れないらしい。
そんな貴重な時間を削ってまで、彼は私の我侭に付き合ってくれていた。
しかし、昨日に続き、今日も斉藤さんとの訓練は無い。
私が女達の部屋に行くからだ
21時まで時間がまだある。
私はギー太を取り出し、練習を始めた。
ギターを弾いていると、時の流れが急に早くなる。
気付けばもう40分も経っていた。
少し早くてもいいかな……。
私はお菓子の入ったバスケットを持ち、女達の部屋に向かった。
唯「ごめんね、ちょっと早く来ちゃったんだけどいいかな?」
女「……ああ。入りなよ唯」
私は女に招かれ部屋に入った。
ガチャリ。
オートロックの鍵が閉まる音がした。
部屋に入ると、いつもの女達の他に、3人の男達がいた。
以前に見た男達ではない。
柄も悪そうには見えないが、体躯が良く圧倒的な威圧感があった。
女達の方を見ると、何故かニヤニヤしている。
厭らしい笑い方だ。
唯「あの……これ、お菓子です……」
漢1「おー、旨そうじゃん」
漢2「ありがとう、唯ちゃん。俺、腹減ってたんだよね」
漢3「さっき飯食ったばっかじゃん」
私の名前を知っていた。
この男達は彼女達の友人だろうか?
私は女の顔を見た。
女は私を淫靡漂う表情で見詰めている。
どうしてそんな目で私を見るの……?
漢1「へぇ~、唯ちゃんって……聞いてたより全然可愛いじゃん」
漢2「だね。ゾンビとか言ってたから、どんな子が来るかと思ってたら」
漢3「こんな可愛い子とは思わなかったわ」
男達は、舐める様な視線で、私の下半身から上半身を隈無く品定めしていた。
戸惑う私を尻目に、女達はクスクスと小さく笑い出していた。
漢1「でも、マジでいいの? ヤバクない?」
女「大丈夫、この子そういうのが好きだから」
女2「そうそう、遠慮とかしなくていいから」
女3「その子、口めっちゃ堅いから大丈夫」
唯「あの……女ちゃん……?」
漢2「あ、唯ちゃんのその表情、凄くいいね!」
漢3「俺もちょっと興奮した!」
漢1「てか、もう始めちゃって良いワケ?」
女「……ああ、好きなだけ犯っちゃって」
唯「なに……それ……どういう事……?」
女4「お前をこれから輪姦すんだよ」
漢2「唯ちゃんにはたっぷり乱れて貰うからね」
唯「女ちゃん……どうして……?」
女2「どうしてだって!? 馬鹿かこいつ!」
女3「あれだけやっといて、今更仲良しとかありえないだろ」
女4「しかもそんな服着て、自分はうちらとは違うとでも言いたいのか?」
女「あたしら、ずっとお前に復讐しようと思ってたんだよね」
唯「復讐……?」
女「あんなナメた真似しといて、タダで済むと思ってんのか?」
唯「……。」
女「でも、お前の方からこっちに来てくれて良かったよ。
あたしらじゃ、あっちの居住区には入れないからな」
女2「誘い出す手間が省けたね」
唯「……。」
唯「……じゃあ、どうして昨日は謝ってくれたの……?」
女3「お前を油断させて、今日も来て貰う為だよ」
女4「お前が暴れると、うちらだけじゃ手に負えないからな」
漢2「それで俺達の出番ってワケだな」
女2「こいつら、この施設の兵士だからな。前のヘタレチンピラ共とは全然違うぜ」
漢3「うわ、ひど! その男達かわいそ~」
唯「……昨日言ってた話は全部嘘だったの?」
女2「ああ。あたし達は専門学校なんて行ってねーし」
女「あたしの彼氏が金持ちで、ここに連れて来て貰ったんだ」
女4「彼氏というか財布だろ」
女3「あたしと女2と女4は、女の彼氏の愛人だよん」
女4「最初うちらも金持ち共の居住区に住んでたんだけどさ、
女の手癖が悪すぎて追い出されたんだよ」
女「お前らだって同じだろ。それにあいつ等だって同類だぜ?
薬に買春、なんでもありだからな。屑だよ屑。
金だって有り余る程あんだし、ちょっと位こっちに寄こせっての」
漢3「ほんと、お前ら悪女だよな」
漢2「俺は唯ちゃんみたいに純粋な子が好みだよ」
漢1「あ、やべっ! ゴム持って来るの忘れちった」
女2「中に出しちゃっていいよ」
女3「後で腹パンすればオッケー」
漢1「うわ、鬼畜~」
漢3「あ、順番決めようぜ! 俺いっちば~ん」
漢1「あっ!? 勝手に決めんなよ、俺も一番がいい」
漢2「この子処女っぽいし、一番は譲れないな」
漢1「おい、誰がこの話持って来たか覚えてるか?」
漢3「う~ん、それを言われるとなぁ……」
漢2「……仕方無い。じゃあ俺は処女アナルで我慢するよ」
女4「処女にいきなりアナルかよ!」
女3「悶・絶・必・死!」
漢2「泣き叫ぶから興奮するんじゃん」
漢3「こいつドSだから」
漢1「というワケで、唯ちゃんの処女は俺が頂くね」
私は3人の漢達に囲まれていた。
唯「……。」
漢1「怖くて声出せないのかな~? でも、挿れた時はちゃんと鳴いてね?
そうじゃないと、こっちも興奮しないからさ」
唯「……。」
漢2「唯ちゃん、すっごく気持ち良くしてあげるからね」
唯「……。」
漢3「唯ちゃんを可愛がったら、今度は紬ちゃんの番だな」
女2「こいつを餌にすれば、あいつすぐ来るだろうな」
唯「……………………。」
私の心の中で何かが壊れる音がした。
漢1「それじゃあ、まずその可愛い服を脱がしちゃおうかな」
男の大きな手が、ゆっくりと私に近づいて来た。
次の瞬間、男は悲鳴と共に崩れ落ちた。
女達も男達も、最初は何が起こったのか分からなかった。
しかし、私の右手でバチバチと音を立て、
放電するスタンガンを見て、皆その状況を理解した。
私は服の裏に隠し持っていたスタンガンを、男の下腹部に思いっきり押し当てたのだ。
男は余りの痛みに悶絶している。
苦しみ悶えるその姿は、とても滑稽だった。
悶絶するのは私の方じゃなかったみたいだね。
男達は油断していた。以前の男達と同じだ。
屈強な男が3人もいれば、女一人に負ける筈など無いと。
女達も同じ考えだろう。
今、自分達が絶対的に有利な立場にいる。
それは何があっても揺るがないのだという、根拠の無い自信。
そんな「安心」が「慢心」を生み、隙が出来るのだ。
進歩無いね。
いい加減、気付こうよ。
絶対的な安心、安全なんてどこにも存在しないって事にさ。
私の予想外の反撃によって、他の男達は動揺していた。
私はそれを見逃さなかった。
素早く二人の男達の腹部にスタンガンを当てた。
男達は体勢を崩した。
しかし、腹部に当てた程度では、すぐに起き上がってくるだろう。
私は、 獅ォ苦しむ男達の頸部にスタンガンを押し当て、止めを刺した。
男達は気絶し、完全に動かなくなった。
女達は恐怖の形相で目を見開き、言葉を失っている。
部屋に沈黙が続いた。
この光景、激しくデジャビュだ 。
唯「私さ、初めから分かってたんだよ。女ちゃん達の謝罪も笑顔も全部ウソだって」
唯「私はね、女ちゃん達にした事を、凄く後悔していたの。
もっと別のやり方があったんじゃないかって……。
もしかしたら、女ちゃん達も、私と同じ苦しみを感じていたんじゃないかって。
だから、私は女ちゃん達に謝りたかった。私のした酷い行為を謝りたかった。
例え女ちゃん達が、自分達の行為を反省していなかったとしてもね」
唯「昨日の別れ際の女ちゃん達の笑顔、とても素敵だったよ。
でもね、状況を考えたらとっても不自然なんだよ。
本当に謝罪の気持ちがあるのなら、あんな風に笑えるワケないんだよ」
唯「そうだ、状況が不自然だったんだ……。
だからあの時、斉藤さんは私の笑顔を見てあんな顔をしたんだ。
ムギちゃんは私の姿を見たから私の嘘が分かったんだ。
みんなが無事なら私があんな姿になる筈ないもんねぇ、そっかそっかぁ」
唯「あー、私は駄目だなぁ……。
そんな事、ちょっと考えれば分かるじゃないか。
どうして私はそんな事にも気付かなかったんだろう。
これじゃあ、また失敗しちゃうよ……困ったなぁ……」
唯「……。」
唯「考えても分からないや。とりあえず、私に今出来る事をしよう」
私は女達の方を見た。
唯「今日は静かだね。前は震えながら謝ってくれたのに」
私が女達の方に近付こうとすると、彼女達は後退りした。
彼女達はあの時と同じく、部屋の隅で固まった。
ヒューヒューと変な呼吸音が聞こえる。
唯「ねぇ、女ちゃん……」
女の体がビクっと動いた。
唯「どうすれば、女ちゃんは私達を傷付ける事、辞めてくれるの?」
女「ご、ごめん……なさい……」
消え入るような声で女は謝罪の言葉を口にした。
私はしゃがみ込み、蹲っている彼女の顔を、目を見開き正面から近くで見た。
唯「前もそうやって謝ってたけど、何も変わってないじゃない……」
私は女の顔を平手で力いっぱい打った。
女の体はその衝撃で横に倒れ込んだ。
その様子を見て、女達は皆震えだした。
唯「ねぇ、前にいた男達と、あの日以来会った事ある?」
私は隅に蹲る女達の方に目をやった。
彼女達は怯えた目で私を見ている。
唯「……質問に答えろ。」
女2「い、いえ、あれから会った事は無いです……」
唯「……そうなんだ。」
女3「ほ、本当です! あの人達の事は何も知りません!」
唯「……そう。じゃあ、私が首を噛み切った男の事……覚えてる?」
女2「お、覚えてます……」
唯「その人がどうなったか……知ってる?」
沈黙が流れた。
唯「あの人、死んだって。」
女達の体の震えが一段と大きくなった。
唯「私ね、人を殺しちゃったみたいなの……。
でもね、今はそれでよかったと思ってるの。
だって、そうすれば、二度と私達を傷付けられないでしょ?」
唯「私ね、どんな人でも話せばきっと分かり合えると思ってた。
でも、その考えって間違ってるよね。
絶対に分かり合えない人って、やっぱりいるもん。
貴女達みたいに、他人の痛みが分からない人とかさ」
私は女2の顔を思い切りグーで殴りつけた。
女2の鼻からは真っ赤な鼻血がボトボトと垂れ落ちた。
唯「でも、それってしょうがない事なのかもしれない。
だって、他人の痛みはやっぱり他人の痛みで、分かるワケないもん。
他人の痛みが分かる、何て軽々しくいう人は痴がましいよね」
私は女3のお腹を思い切り蹴り上げた。
女3は呻き声を上げ、先程食べた夕飯を嘔吐した。
唯「腹パンってこういうのだよね。あ、パンってパンチの事だっけ。
間違えて蹴っちゃったよ。ごめんね、女3ちゃん」
唯「私、女ちゃん達に謝らなきゃ……。
私ね、貴女達って最低の屑だと思ってたの。
でもね、私も貴女達と同じ卑しい最低の人間だったんだ……」
唯「だって、こんなにも簡単に人を傷付ける事が出来るんだもん」
私は女4の髪を掴み、俯いている顔を強引に上げさせた。
唯「ねぇ、女4ちゃん、私はどうすればいい?
どうすれば貴女は私を傷付けなくなるの? 教えて?」
女4「ごめん……な……さい……」
唯「だからさ……、それじゃあ答えになってないでしょ!」
私は女4の頭を思いっ切り地面に打ち付けた。
何度も何度も彼女の頭を地面に打ち付けた。
彼女の体の震えが止まった。彼女は動かなくなった。
その時、後ろで男の呻き声がした。
振り向くと、漢1がゆっくりと立ち上がろうとしていた。
私は漢1に飛び掛った。
馬乗りになり、近くにあった木製の置物で漢1の顔を殴り続けた。
そのうち、漢1は動かなくなった。
顔は原形を留めない程腫れ上がり、前歯は全て折れていた。
念の為、私はもう一度3人の男達にスタンガンを当てた。
唯「ねえ、女ちゃん……」
私は女の両肩を掴み、体をこっちに向けさせた。
唯「女ちゃんは、自分達が私よりも強いと思ったから、こんな事をしようとしたんでしょ?
私が女ちゃん達よりも強そうだったら、女ちゃん達は私を傷付けようとはしなかった。
昨日私に手を出さなかったのは、そういう理由だったよね?」
唯「はっきり言っておくよ。
私はね、いつでも女ちゃん達より強いんだよ?
女ちゃんがどんなに強そうな男の人を連れて来てもね、絶対に私には勝てないの」
唯「私がやろうと思えば、何でも出来るんだよ?
貴女達をここから追い出す事だって、殺す事だって簡単にね」
唯「じゃあ、何でそれをしないと思う?
それはね、それをすると悲しむ人がいるからなんだよ。
私はね、その人が悲しむ事をしたくはないんだよ!」
私は女ちゃんの体を激しく揺さ振った。
唯「でもね、私はその人程優しい人間じゃないの!
私は貴女達と同じだから!
だからね、いざとなれば、私は貴女達を殺す事なんて躊躇い無く出来るんだよ!」
私は震える彼女の首に手を掛け、ゆっくりと締め上げた。
唯「女2ちゃん、女3ちゃん、このままだと女ちゃん、死んじゃうよ?」
二人はガタガタと激しく震えていた。
恐怖で顔は引き攣り、私に抵抗する気力などありはしなかった。
唯「ねぇ、本当に死んじゃうよ? 友達なんでしょ? 助けなくていいの?」
女の顔から血の気が引いていく。
顔は白くなり、唇は紫に変色していった。
唯(そんなものだよね、貴女達の関係なんて……)
もし軽音部のみんななら……。
自分の命なんて顧みず、即座に相手に飛び掛っていくだろう。
大切な仲間を守る為に。
私は彼女の首から手を離した。
大きく咳き込む彼女の耳の傍で、私は囁いた
「今度私に歯向かったら殺すからね」
唯「こっちの二人にはもう少しお仕置きが必要だよね……」
私は倒れている漢2と漢3の方へ歩み寄った。
女達に唆されたとはいえ、面識の無い人間を手篭めにしようとしたのだ。
しかも、悪びれる様子もなく、意気揚々と。
他人を傷付けるって事は、自分も他人に傷付けられる覚悟があるって事だよね?
そうじゃなきゃ、フェアじゃないよ。
一方的に相手を傷付けるだけなんて、そんな都合の良い話があるワケないでしょ。
私は、失神してうつ伏せになっている漢2の腕を、力を込めて後方に捩じ上げた。
唯「んぐぐぐぐぐぐ……」
ミシミシと腕が軋む音がした。
私はそんな事を気にせず、全体重を掛けた。
唯「ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛……」
鈍い音がした。男の腕が在り得ない方向に曲がっていた。
痛みで漢2は覚醒し、呻き声を上げた。
唯「うるさいよ。」
私は漢2が完全に意識を失うまでスタンガンを押し付けた。
同様に、漢3の腕も圧し折った。
唯「ふぅ~、腕を折るのって結構疲れるね。やり方が悪いのかなぁ?」
私は震い慄く女達の方に体を向けた。
唯「部屋、また汚しちゃったね……。今回は自分達で掃除するんだよ?」
唯「それと……」
唯「この事を誰かに言ったら、ただじゃおかないから」ニコ
唯「寝てる人達にも教えてあげて。誰かが喋ったら、連帯責任だからね?」
唯「……。」
唯「ちゃんと返事してよ!」
女達は震えながら頷いた。
ふと部屋にあった時計に目をやった。
もうすぐムギちゃんの点滴が終わる時間だ。
医務室に迎えに行かなきゃ……。
私は女達の部屋を後にした。
医務室で私の姿を見たムギちゃんは、一目散に私の近くに寄って来た。
紬「どうしたの唯ちゃん!?」
私の服や顔には、あの人達の返り血が付いていた。
ムギちゃんの事を考えていたら、血を拭くのを忘れちゃった。
ああ、私はまたムギちゃんに心配を掛けてしまっているのか。
唯「大丈夫、これ私の血じゃないから」ニコ
私は心配そうに尋ねるムギちゃんに元気一杯の笑顔で答えた。
怪我をしている人間が、こんな笑顔を作れる筈がない。
だって、痛いんだからこんな風に笑えるワケないじゃん。
平気だよ、私は無傷だから。どこも痛くないの。
だから安心してね、ムギちゃん。
紬「……何があったの? 唯ちゃん……」
唯「ん? 大した事ないよ?」
紬「大した事無いって……」
私はその場で服を脱ぎ、下着姿になった。
ムギちゃんと医師は驚きの表情で私を見ている。
唯「ほらね、よく見て? 私はどこも怪我してないでしょ?
私はもうムギちゃんには嘘を付かないよ。
だから大丈夫、心配しないでね」
紬「と、とにかく服を着て部屋に戻りましょ」
唯「うん」ニコ
部屋に入ると、私はムギちゃんに浴室に連れて行かれた。
まだお風呂にお湯を張ってないよ……。
ムギちゃんは私の顔にシャワーを掛け、あいつらの血を洗い流した。
紬「……あの女の人達ね?」
唯「うん。」
紬「あの人達が、また唯ちゃんを傷付けようとしたのね……?」
唯「うん。」
紬「ごめんなさい……ごめんなさい、唯ちゃん……」
ムギちゃんは泣いていた。
お湯ではない液体が、ムギちゃんの顔に流れている。
なんで……どうしてムギちゃんが泣くの?
私を傷付けようとした人達をやっつけただけなのに。
そんなにあの人達の事が心配?
違う、ムギちゃんは私を見て泣いている……。
ムギちゃんの表情……私の事を……心配している……?
私は無事だよ?どこも痛くないよ?
わからない……わからないよ、ムギちゃん。
唯「なんでムギちゃんが泣くの?
私を見て、なんでムギちゃんが泣くの?
どこも怪我なんてしてないのに、なんで泣くの?
分からない……分からないよムギちゃん。
教えて、なんで泣いているのか、教えてよムギちゃん!」
シャワーが私の涙を掻き消していた。
ムギちゃんは、無言で私を見詰めている。
高い場所に設置されたシャワーが私達に降り注ぐ。
私のどこに心配される要因があるの?
ムギちゃんは私の何を見て涙を流したの?
どこ?どこ?私の何所にそんなモノがあるの?
見えない。ムギちゃんに見えるモノが、私には見えないよ。
見えない……見えない……見えない……見えない?
見えない物……目では見えない物……心?
ムギちゃんは私の心を見たの?私の心を見て……。
私の心……?
ああ、そうか。
ムギちゃんも気付いちゃったんだ。
「平沢唯」が既に死んでいた事に。
そうだった……。すっかり忘れていた……。
私はもう人間じゃないんだ……。
人間だった「平沢唯」はもう死んだんだよ。
唯「う゛う゛う゛……」
急に眩暈がし、足元がふらついた。
倒れそうになる私を、ムギちゃんが受け止めてくれた。
紬「唯ちゃん、大丈夫!?」
唯「私は……もう……人間じゃ……ないんだ……」
紬「何を言っているの!? 唯ちゃんは人間よ!」
唯「違う……私は人間じゃない……。ゾンビの……平沢なんだ……」
唯「私の……中に……怪物がいるの……。
人を……平気で……傷付ける事の……出来る……怪物……ゾンビが……」
紬「違う、貴女はゾンビなんかじゃないわっ!
とっても可愛くて、とっても優しい女の子、平沢唯よ!」
唯「私は……ひらさわ……ゆい?」
紬「そうよ、貴女は平沢唯、平沢唯なの!」
唯「ぅぅ……ムギちゃん……」
唯「ぅぅ、怖いよムギちゃん……。私、怖いよ……。
私の中に、ゾンビがいるんだよ……。
時々ね、そのゾンビが出てくるの……。
ゾンビが出てくると、私、自分を抑えられないんだよ……!」
唯「ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっーーーー」
唯「私がみんなを傷付ける……ムギちゃんも傷付ける……」
唯「ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛……」
唯「怖い……助けて……誰か……お願い……」
紬「落ち着いて、大丈夫、大丈夫よ、唯ちゃん……」
浴室は、湯気が濃い霧の様に立ち込めていた。
白い霞の中で、ムギちゃんの姿だけがハッキリと見えていた。
紬「大丈夫、私が付いているから大丈夫よ……。
唯ちゃんを困らせるゾンビなんて、私がやっつけちゃうわ。
だから安心して。私はいつでも唯ちゃんの味方なのよ……」
唯「ムギちゃん……」
降り頻るシャワーの下で、ムギちゃんは私を強く抱き締めた。
私は大声で泣いた。
泣き続けている間、ムギちゃんはずっと頭を優しく撫でてくれていた。
大丈夫、安心して、と慰めの言葉を紡ぎながら。
浴室から出た私達は、髪も乾かさず、裸のままベッドに入った。
ムギちゃんの肌の温もりが、私の心を落ち着かせた。
その日、私達はワインを飲まなかった。

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はげど
急に鬱展開かよ……
鬱展開は大嫌いなのに読むのを止められない