律「終末の過ごし方」 2
律「終末の過ごし方」 3 【完結】
1:にゃんこ:2011/05/08(日) 02:45:52.11:cflo9fRe0
SSはよく書く方ですが、こういう形のアップは初めてなので、至らない事もあるかと思います。
何か問題などあれば、どうかご指導ご鞭撻をお願いします。
このSSは今は無きアボガドパワーズの『終末の過ごし方』の設定を下敷きに、
『けいおん!』のキャラクターが動くという感じのSSになっています。
もしよろしければ、読んでやって下さいませ。
地の文多めで、りっちゃん視点です。
あとネットカフェなどでの更新となるので、もしかしたらIDにバラつきが出るかもしれません。
申し訳ありませんが、どうかその旨もご了承下さい。
何か問題などあれば、どうかご指導ご鞭撻をお願いします。
このSSは今は無きアボガドパワーズの『終末の過ごし方』の設定を下敷きに、
『けいおん!』のキャラクターが動くという感じのSSになっています。
もしよろしければ、読んでやって下さいませ。
地の文多めで、りっちゃん視点です。
あとネットカフェなどでの更新となるので、もしかしたらIDにバラつきが出るかもしれません。
申し訳ありませんが、どうかその旨もご了承下さい。

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2:にゃんこ:2011/05/08(日) 03:06:57.04:cflo9fRe0
「りっちゃんが着たがってたあの高校の制服、お友達から借りられる事になったのー」
ほんの少しの楽器の練習の後、お茶の準備をしながら、いつもと変わらないほんわかとした柔らかい表情でムギが微笑んだ。
「えっ? マジで? ホントに?」
少し大袈裟に私はムギに尋ねてみる。
勿論、疑ってるわけじゃない。
三日前に何となく「あの高校の制服、着てみたいよなー」と雑談のついでに出した話題を、しっかりとムギが覚えていた事に少し驚いたからだ。
その私の驚きを分かっているのかどうなのか、それでもムギはいつもの優しい笑顔で続けてくれた。
「うん。中学の頃のお友達があの高校に通ってて、休日でよければ貸してくれるんだって」
中学の友達から借りられるとか、流石は相変わらずのムギの人脈の広さには驚いてしまう。
あの高校はかなりの進学校で、私なんかじゃ背伸びしても足下にも及ばない偏差値の進学校だ。
しかも、ついでに言うと県外だ。
それなのに、そんな進学校に通う友達が居るとか、どんな人脈だよ……。
「ムギちゃん、すごーい」
そう無邪気に感心した声を上げたのは唯だった。
もっとも、唯の場合はムギの人脈の広さに驚いているのか、何でも出来るムギ自体に驚いているのか、どちらなのかは微妙なところだけど。
3:にゃんこ:2011/05/08(日) 03:26:22.31:cflo9fRe0
「あの高校の制服か。私も着てみたかったんだよな」
普段、さわちゃんの衣装を着る時には、ほぼ確実に無駄な抵抗する澪も意外に乗り気な様子で呟いた。
まあ、あの高校の制服は流石に進学校の制服だけあって、別に露出度とか高くないしな。
最近では際限なく露出度の限界を極めようとしているさわちゃんの衣装を考えれば、あの高校の制服なら内気な澪でも百倍は気楽に着れるだろうし。
不意に視線をやると、何かを言いたそうにしながらも、言い出す機会を見失っている様子の私の後輩を見付けた。
悪戯に微笑み、私は座っていた自分の席から少しだけ身を乗り出して、ツインテールの後輩の頭を撫でてやる。
「大丈夫、大丈夫。成長の様子の見られない梓にもぴったりな制服があるって。なあ、ムギ?」
「なっ……! だから、律先輩には言われたくないです!」
ムギが応じるよりも先に、梓が自分の胸を押さえて赤面した。
胸の事は一言も触れてないのに、相変わらず可愛らしい反応を見せる後輩だ。
まあ、さっきの言葉は胸を見ながら言ったんだけどね。
その私達の伝統となりつつあるやり取りを見守った後、ムギがフォローの言葉を入れてくれた。
「大丈夫よ、梓ちゃん。私の友達にも、梓ちゃんくらいの身長の子がいるもの」
「そうですか……。安心しました。ありがとうございます、ムギ先輩」
本気で自分のサイズの制服があるか心配だったんだろう。
梓は本当に胸を撫で下ろすような表情をしていた。
7:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(栃木県):2011/05/08(日) 11:17:15.02:bMfdJY3Ao
「でも、ありがとな、ムギ。あの高校の服、女子高生のうちに着ておきたかったんだ」
私が言うと、ムギは給仕しながら、いえいえ、と微笑んだ。
学園祭が終わり、少し秋が深まり始めたこの頃、私達軽音部は受験シーズン真っ直中にも関わらず、ほとんど毎日部室に集合していた。
部室ではお茶をしたり、少し練習したり、やっぱりお茶したり、まあ、大体がそんなところ。
いやいや、勿論受験勉強だってしてるぞ?
私達は高校三年生で、やらなきゃいけない事とやるべき事があって、当然今やるべき事は受験勉強なわけで。
でも、私が、私達が大切にしたいのは、それだけじゃなくて。
こう言うのも照れるけど、放課後に部室に集まって、お茶をしたり、他愛もない事を話したり、
そんな時間が本当に楽しくて、とても大切な時間で、手放したくないくらい素敵な時間なんだと思う。
皆がそう考えているからこそ、こんな受験シーズンにも皆で集まっていられるんだろう。
自分で言うのも何だけど、本当にいい部だなって思う。
これも部長の人望の賜物だな。なんて自慢するわけじゃないけどさ。
11:にゃんこ:2011/05/09(月) 15:36:05.54:m9tD4tO90
「どしたの、りっちゃん?」
私が少しだけ黙っていたのが気になったのか、いつも隣の席に陣取っている唯が私の顔を覗き込んで首を傾げた。
何となく考えていた事を察された気がして、私は軽口を叩く事で誤魔化す事にした。
「いやー、梓くらいの身長の子はいるんだろうけどさ。
梓くらいのスタイルの子がムギの友達にいたらいいよなー、って部長として心配してあげてたんだよ」
そう言うと、やっぱり梓が胸元を押さえて、だから律先輩には言われたくありません、と頬を膨らませた。
ははっ、お約束お約束。
まあ、確かに私も梓の事を言えた立場じゃないのが、悲しいところなんだけど。
12:にゃんこ:2011/05/09(月) 16:01:36.81:m9tD4tO90
「おいおい、後輩をあんまりいじめるなよ、律」
幼馴染のくせに一人だけ嫌味なくらい成長した澪が、諌めるように言いながら肩を竦める。
何だよー、富裕層め。
持つ者には持たざる者の苦しみは分かるまい。
この私と梓のやり取りは、持たざる者同士の魂の触れ合いなのだ。
梓……、おまえだけはずっとこちら側の人間だと信じているぞ……。
そういう思いを込めて視線を移してみると、私の思いには一切気付いていないらしい梓が自分のポケットを探っていた。
こちら側の人間……だよな?
そんな願いも込めつつ、私は梓に訊ねてみる。
13:にゃんこ:2011/05/09(月) 16:05:58.64:m9tD4tO90
「どうした、梓? 忘れ物?」
「あ、いえ、すみません。忘れ物じゃないです。どうも携帯が鳴ってるみたいで……」
「あー、マナーモードにして、制服のポケットとかに入れとくと結構気付かないよねー」
私の質問に答えた梓の言葉に唯があるある的な表情で腕を組んで頷いていたが、
着信音が鳴る状態にしておいても、休日は寝てて着信に気付かない事が多い唯が言っても説得力は無かった。
いや、そんな事は今はどうでもいいか。
ポケットの中から携帯電話を取り出した梓が液晶を見ると、あ、純だ、と小さく呟く。
「すみません、ちょっと電話に出させて頂きますね」
そう丁寧に断ると、梓は席から立って、私達の鞄を置いている長椅子まで歩いて行った。
純ちゃんか……。今度の日曜に遊ぶ約束でもするのかな?
そう軽く考えていた私の耳に、それを打ち崩す非日常的な梓の会話が届いた。
14:にゃんこ:2011/05/09(月) 16:08:03.83:m9tD4tO90
「急にどうしたの、純。え? やっと繋がったって、何? 電波が悪いの?
え? そうじゃないって? うん、今軽音部だけど……。え? 変な冗談やめてよ。
冗談じゃないって……。嘘でしょ?
そんな……、世界が終わっちゃうなんて、急にそんな事言われても……」
世界が終わる?
映画かゲームの話か?
だけど、梓の様子を見る限りとても冗談には……。
突然過ぎる会話の流れに、あまり出来が良いとは言えない私の思考回路ではついていけない。
と。
不意に私の携帯電話のバイブレーターが震え始めた。
いや、私のだけじゃない。
周囲を見渡すと、唯の携帯電話のバイブも震えているようだった。
唯と二人で携帯電話を取り出して、突然過ぎる不自然な着信に不安な面持ちでお互いの顔を見合わせる。
何だ……? 何が起こってるんだ……?
更に数秒後。
その携帯電話の着信を取るより先に、私達の日常を完全に壊す無慈悲な音が響いた。
それは聞き慣れた校内放送のチャイム。
だけど、その内容はあまりにも私達の日常とはかけ離れていて……。
それが私達の……、いや、人類の終わりの始まり。
そして、終末までの長くて短い最後の日常の始まりだった。
18:にゃんこ:2011/05/12(木) 00:57:23.46:zY479YXo0
――月曜日
19:にゃんこ:2011/05/12(木) 00:57:53.53:zY479YXo0
自宅でドラムの練習をしていた私は手を止め、ラジカセの電源を入れる。
少し遅れたかと思っていたけど、ちょうど時間はぴったりみたいだった。
軽快な音楽が流れる。
20:にゃんこ:2011/05/12(木) 00:58:21.52:zY479YXo0
「胸に残る音楽をお前らに。本当の意味でも、ある意味でも、とにかく名曲をお前らに。
今日もラジオ『DEATH DEVIL』の時間がやって来た。
まあ、時間がやって来たって言っても、休憩時間以外は適当に喋ってんのはお前らも知っての通りだけどね。
こんな人類滅亡の寸前で死の悪魔なんて縁起の悪い事この上ないけど、聴いてくれてる物好きなお前らに感謝。
そんな物好きなお前らには今更だけど、一応毎度の番組紹介から入らせてもらうよ。
日曜休みで一日空いたし、もしかしたら初めてこの番組を聴いてくれてる新顔もいるかもしんないしね。
知ってるお前らはトイレにでも行って、スタンバイしといて。
21:にゃんこ:2011/05/12(木) 00:59:42.73:zY479YXo0
この番組は人類の終わりまでとにかく色んな曲を紹介し続けようって、適当でご機嫌なソウルフルラジオ。
それで、メインパーソナリティーのこのアタシがクリスティーナってわけ。
新顔のお前らがいたらよろしく。
クリスティーナって言っても、本当はガチで日本人なんだけど、その辺りは触れないのがお約束。オーケー?
さてさて、前回の放送から、日曜挟んで遂に訪れちゃった人類最後の一週間。
日本政府が国家非常事態宣言……、誰が言ったか通称『終末宣言』を宣言して一ヵ月半。
宣言されての一週間は暴動やら何やらで、今思い出しても相当に騒がしかったよね。
22:にゃんこ:2011/05/12(木) 01:00:17.42:zY479YXo0
変な宗教は出てくるし、自暴自棄に適当な暴動を起こす奴等もいるし、そりゃ騒がしかった。
芸能人なんかも海外に逃げ出す奴がいるかと思ったら、急に自分はロリコンだとか、同性愛者だとかってカミングアウトする奴までいる始末。
まあ、海外に逃げ出す奴より、カミングアウトする奴等の方がよっぽど信用出来るけど。
ただあの大御所がロリコンでショタコンでバイセクシャルだってカミングアウトしたのは、流石のアタシでも驚いたけどね。
でも、それだけ皆、最後くらいは偽らざる本当の自分を誰かに知っていて欲しいって事なのかもしれないね。
23:にゃんこ:2011/05/12(木) 01:01:12.13:zY479YXo0
あ、期待しても駄目だぞ、お前ら。
残念だけど、アタシにはカミングアウトする様な秘密なんか持ってないからね。
強いて言えば、本当は日本人だってことくらい?
それはさっき聞いたって?
こりゃまた失礼。
24:にゃんこ:2011/05/12(木) 01:01:43.84:zY479YXo0
とにかく『終末宣言』から約一ヵ月半、悟ったのか、飽きたのか、
最近は各地の暴動も沈静化してきたみたいで、ひとまずは一安心ってところだよね。
暴動なんかよりやるべき事が見つかったんならいいけどさ。
ただ最低限の警戒だけは忘れないでよ。
意味不明の暴動に巻き込まれて、終末より先に死んじゃうとかそれこそ馬鹿らしいってもんだ。
願わくば、お前らがこの番組を最後まで無事に聴き終えられますように。
25:にゃんこ:2011/05/12(木) 01:02:20.43:zY479YXo0
週末まではお前らと一緒!
それがこの番組の最後のキャッチコピーってね。
26:にゃんこ:2011/05/12(木) 01:02:46.92:zY479YXo0
似合わないって?
ほっといて。
さて、ラジオとは言え、アタシだけずっと喋ってても仕方がない。
27:にゃんこ:2011/05/12(木) 01:03:15.81:zY479YXo0
そろそろお前らからのリクエストの一曲目といってみようか。
メールだけど、こんな状況でも届くもんだね。
さて、それじゃ今週の記念すべき一曲目、岐阜県のガンレックスからのリクエストで、
L'Arc~en~cielの『Driver's High』――」
31:にゃんこ:2011/05/13(金) 22:48:35.82:O4OQsKgL0
放課後、と言うべきなのかどうなのか、とにかく普通だったら全ての授業が終わっている放課後の時間。
私は一人、部室で軽くドラムを叩いていた。
『終末宣言』から約一ヵ月半、多くの同級生が学校に来なくなる中、私はといえばほとんど毎日学校に足を向けている。
勿論、勉強が好きなわけじゃないし、高校生なら学校に登校しなきゃって使命感に燃えてるわけでもない。
人類の終末が近付いているらしいけど、焦って何かをする気にはなれなかったし、この状況で何処かに旅行するのも危険だった。
それにもうすぐ世界が終わるとしても、終わりまではいつも通りの日常が続くわけで、下手に特別な行動を取れるわけでもないわけで。
32:にゃんこ:2011/05/13(金) 22:49:05.42:O4OQsKgL0
だからというわけじゃないけど、私は平日休日を問わず登校している。
飽きっぽい私にしては、これは快挙なのかもしれない。
でも……、
33:にゃんこ:2011/05/13(金) 22:49:33.42:O4OQsKgL0
「日常に逃げ込んでんのかなあ、私……」
ドラムを叩く手を止め、自分に言い聞かせるように呟いてみる。
世界の終わりが一週間後に迫ったらしい今になっても、私は未だにその実感が湧いて来てなかった。
34:にゃんこ:2011/05/13(金) 22:50:02.17:O4OQsKgL0
そりゃあそうだ。
もうすぐ死ぬと言われても、私の身体に異変が起こっているわけでもなし、私自身は健康体そのものだし。
病気にかかっているわけでもないし、大怪我を負っているわけでもない。
これで死の実感を持てと言われても、誰にとっても無理な話だろう。
35:にゃんこ:2011/05/13(金) 22:51:07.58:O4OQsKgL0
だけど、思う。
それを実感しないように、私は『終末宣言』前の生活を繰り返してるんじゃないんだろうか。
いつも通りに過ごしていたら、一週間後の世界の終わりなんて夢みたいに消えて無くなって、何事もなくいつも通りの生活に戻れる。
澪をからかって、唯とふざけて、ムギとお茶をして、梓をいじってやる。
そんな変わらない日常が戻って来る。戻れる。
36:にゃんこ:2011/05/13(金) 22:51:41.27:O4OQsKgL0
心の何処かでそれを期待してるんじゃないか。
だから、こんな時期になってもしつこく登校し続けてるんじゃないかって、そう思えてしまう。
けれど、そう思えたところで、今更私には他にどうする事も出来ないんだけど。
少しだけ溜息を吐いて、ドラムの練習に戻ろうかと思った瞬間、部室の扉がゆっくりと開いた。
37:にゃんこ:2011/05/13(金) 22:53:15.05:O4OQsKgL0
「りっちゃん、おいっす」
扉を開いたのは唯だった。
『終末宣言』以来、私に次いで登校数の多い唯は、やっぱりいつも通りの唯に見えた。
こいつも私と同じように、一週間後に世界が終わるなんて、そんな実感は無いんだろうか。
そんな考えを顔に出さないように、おいっす、と軽く私が返すと、長椅子に鞄を置いて唯が続けた。
38:にゃんこ:2011/05/13(金) 22:53:41.06:O4OQsKgL0
「相変わらず早いね、りっちゃん」
「まあなー。家に居てもやる事無いしなー」
「駄目だよ、りっちゃん。時間はちゃんと使わないと青春の無駄遣いだよ」
「家に居ても大体ゴロゴロ転がってるだけのお前が言うな」
「甘いね、りっちゃん。それが私の充実した青春なのです!」
「うわっ、言い切りやがった……」
39:にゃんこ:2011/05/13(金) 22:54:07.84:O4OQsKgL0
苦い顔で私が言ってやると、唯はいつもの、してやったり、といった感じの表情を浮かべる。
ホント、こいつはいつでも何処でも変わらんなー。
それが唯の持ち味であり、唯の強さでもあるんだろうな。
『終末宣言』直後、私は軽音部の活動は以降自由参加という形式に変更する事を提案した。
そもそもが自由参加に近い軽音部だけど、あえて言葉にする事で皆の自由意思を尊重する事を伝えたかった。
勿論、誰も欠席するつもりなんてないだろう。
40:にゃんこ:2011/05/13(金) 22:54:35.77:O4OQsKgL0
それでも、こんな状況だし、家庭や色んな事情で仕方なく欠席する事も多くなるだろうと思ったからだ。
幸いなのか我が田井中家は放任主義で、
数日家族で過ごすだけで家族の時間は終わって、後は家族各々が自由に過ごすという形になっていた。
少しクール過ぎやしないかと思わなくもないけど、それがうちの家族だし、聡もそれで不満はないみたいだった。
とにかくそれ以来、軽音部の活動に参加する頻度は多い順に私、唯、梓、澪、ムギという順番になっている。
41:にゃんこ:2011/05/13(金) 22:55:02.81:O4OQsKgL0
「それより、りっちゃん」
急に真剣な顔になって、唯が言った。
何を言い出すのかと思って身構えたが、次の唯の言葉は本当にいつもと何も変わらない普段通りの唯の言葉だった。
「今日は久々にムギちゃんに会える日だねー。
美味しいお菓子いっぱい持って来てくれるって言ってたし、すっごく楽しみだよねー」
47:にゃんこ:2011/05/17(火) 18:31:43.00:M7ASOsG90
まったく……、こいつは何にしろお茶とお菓子が行動の基準なんだな。
そう思いながらも、私は微笑んでしまっていた。
ムギに会えるのが楽しみなのは私も同じだし、久々のムギのお菓子が楽しみなのも確かだった。
「うん、そうだな……。楽しみだよな、やっぱり。うん……」
「ん? どしたの、りっちゃん?」
48:にゃんこ:2011/05/17(火) 18:34:22.03:M7ASOsG90
つい何度も頷いてしまう私の様子を、唯が不思議そうに眺めながら訊ねる。
自分でも上手くは説明できないけれど、何故だかとても嬉しかった。
多分だけど、こんな状況でも顔馴染みと変わらず顔を合わせられるという事は、きっと幸せな事なんだ。
勿論、そんな恥ずかしい事を私が口に出来るはずもない。
その代わりに私は立ち上がって、唯の近くにまで歩いてからその腕を軽く取った。
49:にゃんこ:2011/05/17(火) 18:37:32.49:M7ASOsG90
「よっしゃ、行こうぜ」
「行くって……、何処に?」
「校門だよ、校門。そろそろムギも来る時間だし、紬お嬢様をお迎えにあがろうぜ!」
「おっ、いいねー。私達で紬お嬢様をお迎えしちゃおう! あ、そうだ!」
「お、どした? 何か面白いアイディアでもあるのか?」
50:にゃんこ:2011/05/17(火) 18:41:17.02:M7ASOsG90
「メイド服を着てお迎えするのはどうかな? ちょうどさわちゃんの服があるし!」
「いや、そこまではせんでいい……。軽音部の負の遺産については触れてくれるな……」
「えー……」
51:にゃんこ:2011/05/17(火) 18:44:03.16:M7ASOsG90
不満そうに唯が頬を膨らませたが、それでもその表情は少し笑っているようにも見えた。
そして、それは私も同じ。
いつもの唯のボケに呆れた表情を浮かべるように演じながらも、こみ上げてくる笑顔を抑え切れない。
馬鹿みたいだけど、本当に心地良い二人の距離。
良くも悪くも、これが私と唯の関係なんだろう。
それは変わらず続くはずだと思う。
52:にゃんこ:2011/05/17(火) 18:45:09.06:M7ASOsG90
世界の終わりまで。
きっと。
ずっと。
53:にゃんこ:2011/05/17(火) 19:14:46.34:M7ASOsG90
「とにかく行こうぜ。お嬢様をお待たせしては、執事の名折れ。遅れるわけにはいかん!」
「あ、メイドじゃなくて、執事って設定だったんだ。じゃあ、さわちゃんの執事服を着るとか?」
少し深呼吸をしてから唯に向けて宣言すると、
途端に笑顔になった唯が、嬉しそうにまた天然なのか本気なのかよく分からない発言をしてくれた。
やれやれ。
まあ、執事とか言っちゃってる私も、唯の事は言えないんだけどさ。
54:にゃんこ:2011/05/17(火) 19:17:08.12:M7ASOsG90
「いや、服に関してはもういい。とにかく行くぞ」
「ラジャー!」
そうして二人で部室から出て、私達はゆっくりと校舎の中を歩く。
お待たせするのは執事の名折れとは言ってみたけれど、実のところムギが来る予定の時間まではまだ三十分近くある。
校舎を二人でゆっくり歩く時間くらいはあった。
55:にゃんこ:2011/05/17(火) 19:20:25.80:M7ASOsG90
さっきまでの騒ぎぶりは何処へやら、私の隣に居る唯は珍しく静かに歩いていた。
私もその珍しい唯の様子を横目に、何となく口を噤んでゆっくりと校舎を見回しながら歩いてみる。
世界の終わりまであと一週間。もう一週間。
来週の月曜日は来ない……かもしれない。
かもしれない、と思うのは私の弱さなんだろうけど、とにかく今週で世界は終わるらしい。
56:にゃんこ:2011/05/17(火) 19:23:46.28:M7ASOsG90
そう考えると三年間過ごした何の変哲もない校舎が、何処となく特別に見えた。
今現在、登校する生徒が全校生徒の三割くらいになってしまった、我らが桜が丘女子高等学校。
登校してくる同級生達も目に見えて少なくなってきていた。
ほとんどの同級生の顔は、よくて数日に一度しか見ない。
逆によく目にするのは和に清水さん、それに意外といちごくらいかな。
57:にゃんこ:2011/05/17(火) 19:25:25.95:M7ASOsG90
関係ないけど、いちごをよく見かけるのは本当に意外だ。
いや、いちごの真似をしているわけじゃないんだけど。
とにかく、そんな生徒の少なくなった私達の校舎を見ながら、私は思う。
勿体ないなあ、って、そう思うんだ。
この光景を見られるのは、あとほんの少しかもしれないのに。
58:にゃんこ:2011/05/17(火) 19:32:10.21:M7ASOsG90
多分、そう思ってるから、私はずっと学校に来てるし、唯もよく来てくれているんだろう。
だから、私と唯は目に焼き付ける。
例え世界が終わらなくて、何事もなく卒業する事になったとしても、それでも。
私達の校舎を大切に思い出せるように。
59:にゃんこ:2011/05/17(火) 19:33:17.83:M7ASOsG90
「あれ、唯に……律?」
玄関の靴箱まであと数歩という距離にまで近付いた時、急に後ろから声を掛けられた。
聞き覚えのある声だった。
って、私と唯を知ってる人なんだから、その声に聞き覚えがあるのも当然なんだけど。
60:にゃんこ:2011/05/17(火) 19:37:33.53:M7ASOsG90
自分で自分に突っ込みながら振り返ってみると、そこに立っていたのは信代だった。
「あ、信代ちゃんだ! おひさー!」
久しぶりの同級生との再会が嬉しかったのか、唯が信代に駆け寄っていく。
唯が軽く手を上げると、信代も手を上げてお互いに軽く叩き合う。
61:にゃんこ:2011/05/17(火) 19:44:08.13:M7ASOsG90
当然、私も信代と久々に会えて嬉しかったんだけど、
それよりも信代が学校に居る事の方が意外で唯に一歩出遅れる形になってしまった。
それも仕方がないと言えば仕方ないと思う。
『終末宣言』の直後、誰よりも先に学校に来なくなったのは、この信代だった。
見る限りでは学校が嫌いなわけでもなさそうだったし、
友達を大切にする面倒見のいいタイプの信代が真っ先に学校に来なくなったのは、私としても気になるところだった。
62:にゃんこ:2011/05/17(火) 19:51:16.93:M7ASOsG90
もしかしたら、何かの暴動に巻き込まれて……、なんて嫌な想像もしていたくらいだったし。
携帯電話で連絡を取ろうかとも思ったんだけど、
もし繋がらなかったら、って思うと、情けないけどその一歩を踏み出せずにいた。
でも、とりあえずは元気そうな信代を見て、私は心の底から安心した。
親友と呼べるほど親しいわけじゃないけど、それでも同じクラスで友達なんだ。
無事でいてくれて、本当に嬉しかった。
唯と違い、その場で黙ったままの私の様子を不思議に思ったのか、信代が首を傾げながら言った。
63:にゃんこ:2011/05/17(火) 19:53:41.48:M7ASOsG90
「どうしたの、律? ひょっとして私と会えなくて寂しかったとか?」
心情を見透かされた気がして、私は目を逸らしながら、違うやい、と返してやった。
くそー、信代のくせに生意気な……。
悔しいからこのまま信代と唯を置いてムギを迎えに行こうかとちょっとだけ思ったけど、
やっぱり信代が今まで何をしていたのか気になって、私はその場から立ち去る事が出来なかった。
悔しがっている事が分からないよう声のトーンを少し変えて、結局、私は信代に訊ねてみる事にした。
64:にゃんこ:2011/05/17(火) 20:08:15.15:M7ASOsG90
「そんな事より本当にどうしたんだよ、信代。
急に学校に来なくなったと思ったら、いきなりそんな私服で学校に登校してきて。
色気づいて指輪なんかもしちゃってさ。校則違反だぞ、校則違反ー!」
65:にゃんこ:2011/05/17(火) 20:14:32.59:M7ASOsG90
学校外で会う事が少ないから、私は信代の私服姿をそんなに見た事がないからはっきりとは言えない。
だけど、今日の信代の私服姿は、妙に色っぽいというか艶っぽいというか、とにかく色気があった。
服自体はしまむらで見かけるような普通の服装なのに、どうにも輝いてる感じがする。
普段は私と同じく、可愛いのとか興味ない感じだったのにさ。
何だよー。さわちゃんにキラキラ輝く方法でも教えてもらってたのか?
66:にゃんこ:2011/05/17(火) 20:18:10.55:M7ASOsG90
ひょっとしたら、この見慣れない信代の指輪の魔力とかだったりして。
この指輪をはめただけで志望校に合格、宝くじにも当たり、身長も伸びてお肌もツヤッツヤー!
ホントもう次々と幸運が舞い込んで来て、今ではあの頃の悩みが嘘のように! なんてな。
特に左手の薬指にはめる事で幸運が舞い込む確率が更に倍とか?
……って、あれ? 左手? そんでもって、薬指……?
えっ……?
67:にゃんこ:2011/05/17(火) 20:19:02.59:M7ASOsG90
「まあまあ、指輪くらいいいじゃん、りっちゃん。
いいなー。その指輪可愛いなー。その指輪、信代ちゃんが自分で買ったの?」
何も気付いていない唯が、羨ましそうに信代の指輪を見つめる。
私はと言えば固唾を呑んで、信代の次の言葉を待つ事しか出来なかった。
まさか……だよな?
ラブリングとかそういうの……だよな?
それはそれで、結構衝撃的ではあるんだけど。
そして、しばらく後、信代は照れた顔で頭を掻きながら、ある意味私の予想通りの言葉を言った。
68:にゃんこ:2011/05/17(火) 20:19:42.67:M7ASOsG90
「ははっ。校則違反は勘弁してよ。これ旦那から貰ったもんなんだからさ」
「えっ……? 信代……ちゃん……? 旦……那……?」
流石の唯でも事態が呑み込めてきたらしく、静かに深刻に信代に訊ねていた。
唯の質問に答えるために、ゆっくりと信代が口を開く。
69:にゃんこ:2011/05/17(火) 20:20:15.07:M7ASOsG90
その瞬間、もう確定している、と私は思った。
これから信代はもう確定している事を口にするだけだ。
それを私は分かっている。何を言うかも分かっている。分かり切っている。
だから、私は驚かないようにしよう。
これから多分叫ぶ唯を、大声で叫ぶな、と説教する役に徹しよう。
大丈夫。私は冷静だ。今更、信代の言葉なんかに驚かない。
私はクールに定評のあるりっちゃんだ。
70:にゃんこ:2011/05/17(火) 20:20:42.73:M7ASOsG90
そうして、
信代が、
私達の疑問に答える、
言葉を発した。
「うん、結婚したんだよ、私」
「ええええええええええええええええっ!」
73:にゃんこ:2011/05/19(木) 22:30:37.22:re1EXFoM0
しまった。
唯を説教するつもりが私も唯と一緒に一緒に叫んでしまった。
でも、それも仕方が事だった。
会話の流れからある程度予想してはいたけど、実際本人の口から聞くとやっぱり衝撃的だ。
これまでそんな素振りを全然見せなかった信代が結婚なんていきなり過ぎだろ。
74:にゃんこ:2011/05/19(木) 22:31:06.25:re1EXFoM0
「何? 私が結婚した事がそんなに意外?」
怒ってる様子じゃなく、普段見せる豪快な笑顔で冗談交じりに信代が言った。
さっきの私達の反応は失礼だったかもしれないけど、信代はそんな事なんか全然気にしていないみたいだった。
凄い余裕だ。
まさかこれが主婦の余裕ってやつか?
75:にゃんこ:2011/05/19(木) 22:31:42.47:re1EXFoM0
「いや、意外っつーか……。何つーかさ……」
私は頬を掻きながら言葉を探してみたけど、中々いい言葉が見つからなかった。
何て言うべきなんだろう。
友達が結婚した事自体が初体験なんだ。
この様子を見る限り、信代の結婚は嘘とか冗談じゃないみたいだし。
やっぱりこういう時は笑顔で祝福するのが正しい反応なんだろうか。
いや、それだと普通過ぎるから、少し冗談交じりに反応するべきなのか?
76:にゃんこ:2011/05/19(木) 22:32:11.69:re1EXFoM0
あー、分からん!
そうして私が悩んでいると、私が何を言うより先に唯が信代の両手を握って微笑んだ。
「凄いね、信代ちゃん! おめでとう!」
「ははっ、ありがとう、唯」
77:にゃんこ:2011/05/19(木) 22:32:40.88:re1EXFoM0
そう言って、いつも豪快な信代が照れた表情ではにかむ。
そうか。唯の反応が正解だったのか。
私はつい一人で感心して頷いてしまう。
前から思ってるんだけど、こういういざという時の唯の行動は間違いがない。
物怖じもしなくて、感じるままに行動してるだけなんだけど、
そんな風に単純だからこそ、正解までの最短距離を見つけられてるって感じだ。
私もそんな唯の単純さを見習う事にした。
78:にゃんこ:2011/05/19(木) 22:33:06.68:re1EXFoM0
「うん、そうだな。結婚おめでとう、信代。
先を越しやがってー。こいつめー!」
言いながら、信代に駆け寄って肩を軽く叩いてやる。
本当はチョークスリーパーを仕掛けてやりたかったんだけど、
私と信代の身長差じゃ信代にチョーキングを仕掛けるのは無理があった。
79:にゃんこ:2011/05/19(木) 22:39:24.31:re1EXFoM0
「律もありがとう。
私なんかあんた達みたいに可愛くないから、先に結婚しちゃって申し訳ないね」
「お、言うようになったな、こいつー!」
私が笑いながら何度も肩を叩くと、信代は更に気持ちいいくらいはにかんだ。
80:にゃんこ:2011/05/19(木) 22:39:52.92:re1EXFoM0
その笑顔は本当に眩しくて、信代だって十分可愛いよ、と私は思った。
確かに信代は体格もよくて、女子高生って言うより肝っ玉母さんみたいだけど、
それでもその笑顔や照れた仕種は女の私から見ても本当に魅力的だった。
会った事もない人だけど、信代の旦那さんも信代のそんなところに惹かれたんじゃないかな、と何となく思う。
81:にゃんこ:2011/05/19(木) 22:40:25.70:re1EXFoM0
「ねえねえ」
信代の手を取ったままの唯が、聞きたくて仕方がないといった素振りで信代に訊ねた。
「信代ちゃんの旦那さんって一体誰なの?
私達の知ってる人? 年上? 年下? ねえねえ、教えてよー」
82:にゃんこ:2011/05/19(木) 22:40:59.20:re1EXFoM0
信代より年下だと日本の法律では結婚出来ないんだが……。
突っ込もうかと思ったけど、今それを言うのも何だか無粋な気がした。
私はその唯の言葉をスルーして、信代の返事を待つ事にする。
85:にゃんこ:2011/05/23(月) 21:11:18.30:EGGW5WVl0
「三歳年上だよ。幼馴染みの腐れ縁でさ。
元々、旦那が大学を卒業したら結婚するつもりだったんだけど、こんな状況だしね。
今の内にって事で、一ヶ月前に婚姻届けを出したんだ。
受け付けしてないんじゃないかと思ってたけど、意外と役所も開いてて律儀なおじさんが受理してくれたんだよ。
ちゃんと戸籍にまで反映されてるかは分かんないけど、でも、受け取って貰えただけでも気分的に嬉しかったな」
ほんの少し顔を赤くして、信代が語ってくれた。
本当に嬉しそうに。
86:にゃんこ:2011/05/23(月) 21:39:42.00:EGGW5WVl0
幼馴染みか……。
一瞬、私の頭の中に澪の顔が浮かんだ。
他に幼馴染みがいないわけじゃないけど、私にとって一番近い幼馴染みはやっぱり澪だった。
傍に居なくちゃいけない。居て当たり前の私の幼馴染み。
勿論、そんな事を本人に伝える事はないだろうけど。
と言うか、伝えたらあいつの中の感情が一周回って「恥ずかしい事を言うな!」と逆に殴られそうな気がする。
あいつに殴られ慣れているせいか、どうしてもそんな気がする。
非常にそんな気がする。
私の思い過ごしならいいんだけど……。
87:にゃんこ:2011/05/23(月) 22:07:08.92:EGGW5WVl0
「おー! 幼馴染み!
いいなー! 私も幼馴染み欲しいなー」
そうやって声を上げたのは、勿論唯だった。
私と違って、唯の方は自分の幼馴染みを思い浮かべなかったらしい。
おいおい。この事を知ったら、和泣くぞ。
いや、泣く……かな?
どうにも和には何かで泣くイメージが無いな。
和の事だから、冷静に何も聞かなかった事にするだけのような気がするし。
それはそれで長い付き合いの幼馴染みの姿ではあるんだろうけど。
88:にゃんこ:2011/05/24(火) 00:53:45.00:q+DyXaNG0
「だけど、水臭いぞ、信代ー。
幼馴染みと付き合ってるなんて、一言も言ってなかったじゃんかよー」
私が頬を膨らませて言ってやったけど、それでも信代は穏やかな表情のままで続ける。
「ごめんって。聞かれなかったし、自分から言うのも何か恥ずかしくってさ。
大体、嫌じゃん? 聞いてもないのに自分から彼氏が居るって言い出す奴って」
それは確かに嫌だな……。
89:にゃんこ:2011/05/24(火) 01:01:27.51:q+DyXaNG0
信代から見ても嫌そうな顔をしていたんだろう。
苦笑しながら、信代は話題を変えた。
「でも、こんな時期だからって、本当はこんなに急いで結婚するつもりじゃなかったんだ」
「え? そうなのか?」
私が信代の顔を覗き込みながら訊ねると、軽く信代は頷いた。
頷いたその信代はこれまでの照れ臭そうな笑顔じゃなくて、
そうだな……、何て言うんだろう……、
何かを懐かしそうに考えているみたいな……、『郷愁』……だっけ?
とにかくそんな静かで優しい表情をしていた。
90:にゃんこ:2011/05/24(火) 01:10:52.80:q+DyXaNG0
「卒業したら進路はどうするつもりか、確か唯には話した事あったよね?」
「うん、覚えてるよ。酒屋さんのお手伝いだよね?」
信代が訊ねると、間髪入れずに唯が自信満々で応える。
てっきり「そうだっけ?」と首を捻るもんだと思ってたんだけど、
意外に覚えてる事は覚えてるんだな、と私は唯の記憶力に感心した。
と言うか、普段から私と唯自身の言った事も覚えておいてくれると助かるんだけどさ。
とにかく、その信代の進路については私も知っていた。
信代自身から直接聞いた事はないけど、
信代の家が酒屋だって事は聞いた事があるし、
卒業後はそこを手伝うらしいという話も、又聞き程度で聞いた事はあった。
91:にゃんこ:2011/05/24(火) 01:21:57.33:q+DyXaNG0
「先月に『終末宣言』があったじゃん。
それでさ、私はこれからどうしたいのか考えたんだよ。
これからどうなるか分からないし、
テレビで言ってる通りなら一ヶ月半後には死んじゃうわけだし」
死んじゃう。
何気なく言ったんだろうその信代の言葉に、少しだけ私の心臓が高鳴る。
だけど、それを顔に出さないように、黙って信代の言葉の続きを私は待つ。
今はまだ、誰かが死ぬとか自分が死ぬとか、そういう事を考えたくなかったから。
92:にゃんこ:2011/05/24(火) 01:33:54.31:q+DyXaNG0
「それで単純だけど、私はやっぱりうちの酒屋を手伝いたいって思ったんだ。
欲を言うと日本一の酒屋になりたかったんだけど、流石にこんな短期間じゃね……。
でもさ、だったらせめて少しでも日本一の酒屋に近付いてやりたくってさ。
それで長いこと、学校に来てなかったんだよ。
ずっと家で酒屋の仕事をやっててさ。大変だけど、とてもやりがいがある仕事なんだ。
こんな時期でも、うちの常連の飲んだくれのおっちゃんとかが毎日来るしね。
どんだけ飲むんだよー、って感じだけどね」
「信代ちゃん、カッコイイ!」
茶化すわけではなく、本気の表情で唯が拍手していた。
釣られて私も拍手してしまう。
唯の言うとおり、そう語った信代の姿は本当にかっこよかったから。
少なくとも、色んな事を考えないようにしてる私より数十倍は。
93:にゃんこ:2011/05/24(火) 01:43:46.35:q+DyXaNG0
……って、そんな卑屈になってる場合でもないか。
私は頭を振って気を取り直して、信代に話の続きを催促する事にした。
卑屈になる事はいつだって出来るからな。そういうのは一人ぼっちの時にするべきだ。
「それで信代?
酒屋さんの手伝いをしてたのは分かったけど、
結婚するつもりはなかったってのはどういう事なんだ?
何か旦那さんに不満でもあったのか?」
そう私が訊ねると、また顔を赤くして信代が笑った。
94:にゃんこ:2011/05/24(火) 01:51:39.23:q+DyXaNG0
「いやいや、旦那に不満なんてないよ。
そもそも私を嫁に貰ってくれるだけで感謝ですよ。
小さい頃から、嫁の貰い手があるかお父さんにはよく心配されてたからね」
「じゃあ何で?」
「まだ結婚する前の旦那にさ、
学校を辞めてうちの酒屋を手伝いたいって伝えたんだ。
少しでも酒屋って仕事を経験しておきたいって。
そうしたら、あいつ、言ってくれたんだよ。
『俺もお前と酒屋をやる。お前のやりたい事が俺のやりたい事だ』ってさ。
気障だよね。言ってて自分で恥ずかしいよ」
95:にゃんこ:2011/05/24(火) 01:57:15.06:q+DyXaNG0
確かに気障だった。
気障で気恥ずかしいけど、素敵な話だった。
信代はそういう最後の時まで一緒に居られる相手を見つけられたって事なんだ。
それはとても素敵な話だ……、けど、つい私の背中が痒くなってしまっていたのは内緒だ。
いや、分かってはいる。
分かってはいるんだけど、そういう気障な話とかメルヘンな話とかはどうにも痒くなる。
それは私の持って生まれた性格で、どうにも変えようがないんだよなー。
申し訳ないけど、この辺は本当に勘弁して頂きたい。
96:にゃんこ:2011/05/24(火) 02:08:39.88:q+DyXaNG0
だけど、羨ましかったのも確かかな。
私にも最後の瞬間まで一緒に居たい誰か、居てくれる誰かは出来るんだろうか。
その時、またも一瞬浮かんだのは澪の顔だった。
我ながら色気無いな、と思いながらも、澪だったらどうだろうと私は考える。
澪なら最後まで居てくれる……とは思うけど……、いや、多分……。
腐れ縁の関係ではあるけど、あいつも私と一緒に居たいとは思ってくれているはず。
それが世界の最後までかどうかは分かんないけど、少なくとも私の方はまだあいつと離れたくなかった。
でも、もし……。
もしもあいつが誰か違う人と一緒に居たいと言い出したら、
私は気持ち良くあいつを送り出してやる事が出来るだろうか……?
97:にゃんこ:2011/05/24(火) 02:20:22.57:q+DyXaNG0
それはまだ、考えても仕方がない事だけどさ。
と。
「信代ちゃん、いいなー。私も結婚したいなー」
そんな私の思いに完全に気づいてないだろう唯が信代に向けて憧れの眼差しを向けていた。
やっぱりこいつの方はずっと変わらないんだな。
「はいはい。
唯ちゃんは結婚するよりも先に彼氏を作りまちょうねー」
からかう感じで私が言ってやると、
唯はまた頬を膨らませて「りっちゃんだってそうじゃん」と呟いた。
それはそれとして、そんな変わらない唯の姿にとても安心している私が居た。
色んな事が変わっていく。
世界も、人も、終わりに向けて変わっていく。
それは多分、必要な事なんだろうけど……。
でも、変わらない誰かが居てくれるってのは、何だかとても嬉しかった。
99:にゃんこ:2011/05/28(土) 20:55:46.21:REPpvMfk0
「それでさ」
急にまた信代が続ける。
私は苦笑して唯を見ながら、信代の言葉に耳を傾けた。
「そんな感じであいつがうちを手伝ってくれる事になったんだ、それも住み込みでさ。
もうこの際だから、入籍して夫婦で酒屋を盛り上げようって事になってね。
それでずっとうちを手伝ってて忙しくてさ、つい皆に連絡を取り忘れてたんだよ。
律も唯もごめんね」
私は軽く頭を振って、いいよ、とまた信代の肩を叩く。
そういう事情なら怒るに怒れないじゃないか。
そもそも怒ってたわけでもないけどさ。
100:にゃんこ:2011/05/28(土) 20:57:44.18:REPpvMfk0
「でも、今日はどうにか時間が出来たから、学校に来てみる事にしたんだ。
しばらく皆と会えてなかったし、それに……」
「それに……?」
私が先の言葉を催促すると、何処か寂しそうな顔で、でも、何かを決心した顔で、信代は言った。
あくまで明るく、いつも通りの肝っ玉の太い信代の声色で。
「今日はお別れの言葉を伝えに来たんだよ。
友達とか、先生とかにさ。もう皆と会えるのも最後かもしれないからね」
101:にゃんこ:2011/05/28(土) 20:59:54.04:REPpvMfk0
そんな今生の別れでもあるまいし、と私は明るく軽口を叩こうと一瞬考えたけど、やめた。
そうだったな。
本気で今生の別れになるかもしれないんだよな。
もう、そんな時期なんだよな……。
ほんの少しの沈黙。
唯も少し視線を落として、何となく寂しそうに見える。
119:にゃんこ:2011/05/29(日) 01:56:36.48:oaeVjkUw0
私も何を言えばいいのか分からなくて、どうしようかと少し迷ったけど……。
それでも私は信代の背中側に周って、背中から飛び付いてチョーキングの体勢を取っていた。
信代もちょっと驚いたみたいだったけど、私を振り落としたりはしなかった。
やっぱりと言うべきなのか、その体勢はチョーキングと言うより、
私が信代におんぶされてるみたいになってて、それを見てた唯が軽く笑った。
102:にゃんこ:2011/05/28(土) 21:00:54.68:REPpvMfk0
「あはは。二人とも何やってんのー?」
「いやいや、私は何もやってないし。律が勝手に飛びついて来ただけだよ」
「うるへー。考えてみりゃ、信代にチョークスリーパー掛けた事無かったからな。
折角だから、存分に味わっとけい!」
「うわ、無茶苦茶だ」
103:にゃんこ:2011/05/28(土) 21:01:23.20:REPpvMfk0
顔は見えないけど信代が苦笑したらしく、
信代の背中越しに見えた唯もそれに釣られてまた笑っていた。
私も多分笑っていた。
その顔は三人とも寂しさを含んではいただろうけど、今出来る最高の顔だったと思う。
そうして一分くらい信代の背中におんぶされて、
私は存分に信代をチョーキングしてから身体を離した。
唯の隣に戻って、信代の表情をうかがってみる。
ずっと私をおんぶしていたのに、信代は疲れた様子を全然見せずに笑っていた。
流石は信代。桜高最強の女(多分)。
104:にゃんこ:2011/05/28(土) 21:03:06.53:REPpvMfk0
「さてと……」
名残惜しそうに信代が呟く。
私も、多分唯も、次に信代が何を言おうとしているのか分かっていた。
その言葉は出来れば聞きたくなかったけど、それを止めるわけにもいかなかった。
私達は私達で、信代は信代で、しなきゃいけない事は違ってるんだから。
105:にゃんこ:2011/05/28(土) 21:03:54.98:REPpvMfk0
「そろそろ行かないと。まだ挨拶したい人は多いし、約束もあるしさ」
「そっか……」
「でも、律達に会えて本当によかったよ。
一応、軽音部の部室にも顔を出そうかとは思ってたんだけど、時間が取れるか分からなかったし……」
「もうすぐムギも来るから、会っとけよ」
「いや……、でも行くよ。春子とか待たせてるしさ。流石にもう行かないと」
「だったらさ、信代ちゃん。よかったらなんだけど……」
106:にゃんこ:2011/05/28(土) 21:05:10.94:REPpvMfk0
珍しく遠慮がちに唯が言った。
私は口を噤んで、唯の言葉を待つ事にする。
こいつが口ごもりながら何かを言う時は、本当に真剣に何かを考えてる時だから。
107:にゃんこ:2011/05/28(土) 21:05:38.29:REPpvMfk0
「どうしたの、唯?」
「今度、軽音部でライブやる予定なんだけど、よかったら信代ちゃんも見に来てよ。
部室でやる小さなライブなんだけど、本当にすごいよ!
歴史に残るくらいのすっごいライブだから!」
「おいおい……」
108:にゃんこ:2011/05/28(土) 21:08:11.03:REPpvMfk0
呆れた表情で軽く唯の頭をチョップしてやる。
唯の発案自体が悪いわけじゃないんだけど……。
私はチョップを唯の頭に置いたままノコギリみたいに動かしながら、言葉を続けた。
「歴史に残るライブって、まだ日にちも決まってないだろ。
大体、身内で、ライブやれたらいいな、って話してるだけじゃんか」
「えー……。でも、きっとすごいライブになるよ!
絶対歴史に残るし! て言うか歴史に残すし!」
「何だよ、その自信は……」
109:にゃんこ:2011/05/28(土) 21:09:29.99:REPpvMfk0
普段と変わらない私と唯の馬鹿なやり取り。
自分でも馬鹿みたいだな、とつくづく思う。
でも、それを見てる信代は笑ってくれた。
「いいね。時間は出来るだけ……、ううん、絶対空ける。
澪達にも会いたいし、放課後ティータイム……だったよね?
私、実は結構あんた達のバンドのファンだし、楽しみに待ってる。
ライブの日程が決まったら、すぐに教えてよ」
「おー、流石は信代ちゃん!」
110:にゃんこ:2011/05/28(土) 21:13:11.18:REPpvMfk0
何が流石なのかは分からなかったが、信代の言葉に唯は満面の笑顔で喜んでいた。
私も、オッケー、と言いながら、信代とハイタッチを交わした。
ありがとう、信代。
心の中でだけそう言って、そうして私達はまずは春子と会うという信代を見送った。
三人とも笑顔で、とりあえずの別れを交わせた。
完全に信代の姿が見えなくなった頃、唯が何かに感心している様子で呟いた。
111:にゃんこ:2011/05/28(土) 21:13:43.73:REPpvMfk0
「何か……カッコよかったよね、信代ちゃん……。
女の『みりき』に溢れてるって言うか……」
「『魅力』な」
「むー……。分かってるよ。ついだよ」
「どっちだよ。
でも、分かるよ。
人妻の艶めかしさっつーか、セクシーさっつーか、とにかく余裕があったよな」
「あれが人妻のみりきなのか……」
「魅力な。まあ、いいや。とりあえずムギを迎えに行こうぜ」
112:にゃんこ:2011/05/28(土) 21:14:44.86:REPpvMfk0
私がそう言った瞬間。
背筋に何らかのどす黒いオーラ的な何かを感じた。
そのオーラ的な何かは本当に何の前触れも無く、私達の背後に現れていた。
瞬間移動でもしているかのようだった。
な、何を言ってるか分からねーと思うが、私も何をされたのか分からなかった。
催眠術とか超スピードとか、そんなチャチなもんじゃ断じてねえ。
もっと恐ろしい物の片鱗を……。
113:にゃんこ:2011/05/28(土) 21:15:11.77:REPpvMfk0
って、よく考えなくても私の知っている人の中には、そういう神出鬼没な人が居たんだった。
若干呆れつつ振り返ってみると、予想通り私達の顧問の先生が何故かその場に崩れ落ちていた。
「何やってんだよ、さわちゃん……」
小さく訊ねてみたけど、
さわちゃんは私の言葉に反応せずに何かを呟いていた。
114:にゃんこ:2011/05/28(土) 21:15:39.43:REPpvMfk0
「……された」
「何?」
「先を越された……」
「だから何?」
「中島さんに先を越された……。
生徒に……、よりにもよって生徒に……」
「あー……」
115:にゃんこ:2011/05/28(土) 21:17:39.36:REPpvMfk0
それ以上、私は何を言う事も出来なかった。
とても残念ではあるんだけど、
それに関して私がさわちゃんに言ってあげられる言葉はありそうにない。
と言うか、ずっと聞いてたのかよ。
いや、確かに信代が結婚したって話を聞いたら、そりゃ顔を出しにくかっただろうけど。
どうしたものか、と首を捻っていると、唯が事もなさげに軽く言い出した。
「大丈夫だよ、さわちゃん!
さわちゃんはまだ結婚してないかもしれないけど、私達だってまだ結婚してないから!」
「いや、それ何の慰めにもなってないから……」
120:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:09:14.12:Qb/2+Hqe0
私は唯の頭を掴んで軽く揺らしながら突っ込む。
それでも、唯は自分の発言の何が問題だったのか分かってないみたいで、きょとんとしていた。
そうなんだ。
こいつはこれでも本気でさわちゃんを慰めてるつもりなんだ。
私はそれをよく分かっているし、さわちゃんもそれだけは長い付き合いでよく分かってるみたいだった。
その場に崩れ落ちた体勢のままだったけど、さわちゃんは軽く苦笑を浮かべて私達を見つめた。
121:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:10:33.18:Qb/2+Hqe0
「そうね……。私はまだ結婚してないけど、貴方達も結婚してないものね……。
特に貴方達は彼氏が出来た事すらないものね……。
それに比べれば私なんてまだまだ幸せな方よね! ファイトよ、さわ子!」
拳を握り締めて、さわちゃんは自分に言い聞かせるよう気合を入れる。
ちょっと心配してみたらこれだ……。
彼氏が出来た事がないのは本当だけど、それを人に言われるのはちょっと腹立つな。
私の隣に居る唯も微妙な顔でさわちゃんを見つめていた。
私の知る限り、唯にも彼氏が出来た事はなかったはずだし。
そもそも男に興味があるのかどうかも怪しいし……。
122:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:11:43.98:Qb/2+Hqe0
まあ、さわちゃんが元気になったのは何よりだ。
私は唯の手を取って、唯と顔を見合わせる。
「さて、もうすぐムギも来る事だし、幸せな人は置いといて急ごうぜ、唯」
「あいよ! そうだね、りっちゃん!」
そうして二人でさわちゃんに背中を向け、私達は校門への新たな一歩を踏み出そうとして……。
123:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:12:14.37:Qb/2+Hqe0
「ちょっと、二人ともぉ!」
「うわっ!」
「おっとと! 掴まって、りっちゃん!」
さわちゃんに私の脚を掴まれ、体勢を崩して倒れそうになってしまった。
唯が私の手を支えてくれたおかげで倒れずにすんだけど、正直、結構危なかった。
体勢を立て直し、ありがとな、唯、と軽く頭を下げた後、
私は出来るだけ嫌そうな顔でさわちゃんに言った。
124:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:13:36.92:Qb/2+Hqe0
「ちょっとさわちゃん……、危ないじゃんかよー」
「それはごめんなさい……。確かにやり過ぎちゃったわね……。
でも、一週間ぶりに会った先生を置いて、そんなに急いで行かなくてもいいじゃないの。
この一週間何やってたの? とか聞いてくれてもいいじゃない」
聞いて欲しいのか……。
確かにこの一週間、さわちゃんの姿を見かけなかったし、何をやってたのかは気になるけど……。
でも、その言葉通りに、ただ聞いてあげるのも面白くないな。
そこで私は一つ少し意地の悪い事を思い付いた。
信代の結婚にショックを受けてた姿から考えるに、この一週間彼氏と過ごしてたわけでもなさそうだ。
倒されそうになった仕返しにその辺を弄ってみる事にしよう。
私はニヤリと意地の悪い笑顔を浮かべ、さわちゃんの肩に手を置いた。
125:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:14:25.53:Qb/2+Hqe0
「この一週間何をやってたかなんて、聞かなくても分かるよ、さわちゃん。
彼氏とめくるめく愛へのハイウェイ的なアバンチュールを過ごしてたんだろ?」
「おー、アバンチュール!」
アバンチュールという言葉の響きが好きなのか、唯が大袈裟に強調してくれる。
相変わらずよく分からない所にツボがある奴だな。
それに対して、何故かさわちゃんはしばらく反応を見せなかった。
あれ、おかしいな。いつも通り顔を伏せて嘆いてくれると思ったんだけど……。
ちょっと意地悪過ぎたかな、と私が不安になりかけた時、急にさわちゃんが驚いた表情を浮かべた。
126:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:16:00.17:Qb/2+Hqe0
「ど……、どうして知ってるのっ?」
「えっ? マジでっ?」
「いや、マジで、って何よ。私だって彼氏とアバンチュールする事くらいあるわよ。
実はね、前の彼氏とやり直す事になったの……。
それでこの一週間、二人で温泉旅行に行ったりして、ずっとアバンチュールしてたのよ」
「すごいよ! 温泉でアバンチュールなんて大人の関係だよね、りっちゃん!」
「そうだな、唯……。まさか本当にさわちゃんにそんなアバンチュールが……」
127:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:17:37.80:Qb/2+Hqe0
唯と二人で意外なさわちゃんの大人の一面に感心してしまう。
彼氏と二人で温泉旅行のアバンチュールしてたなんて……。
つい私はタオルも巻かずに混浴に入るさわちゃんと彼氏を想像してしまう。
二人は見つめ合い、いつしか唇を重ねてそのまま……って、何考えてんだ私!
何だか顔が熱い。自分でも自分の顔が赤くなってしまっているのが分かるくらいだ。
知っている人のそんな姿を想像してしまうのは、どうにも気恥ずかしくてたまらない。
128:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:19:37.66:Qb/2+Hqe0
どうしても落ち着かなくて、私は唯の顔を気付かれないように覗いてみる。
唯も私と同じ様な事を考えているんだろう。唯の顔も少しだけ赤くなっているように見えた。
そういう情報に疎く見える唯だけど、普通の女子高生並みの知識はあるに違いない。
って、そういえば前に唯に聡の隠してたそういうビデオを貸したのは私だった。
いや、ほら、私達も女子高生なわけで。そういうビデオを観たくなる事もあるわけで。
あー、もう、だから、とにかく!
そんな感じで私と唯が黙り込んで悶えていると、急にさわちゃんが大きな笑い声を上げた。
129:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:20:39.68:Qb/2+Hqe0
「あっははは! 何、赤くなってんのよ、二人とも。
冗談よ、冗談。この一週間は実家の整理とか同級生と会ったりとかしてただけよ。
彼氏が居たとしても、流石に一週間も温泉旅行なんか行くわけないじゃない。
それにしてもそんなに赤くなるなんて、幼く見えるけどあんた達も年頃なのねえ」
一瞬、さわちゃんが何を言い出したのか、私には分からなかった。
それくらい状況が呑み込めなかった。
130:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:21:19.97:Qb/2+Hqe0
数秒経ってからようやく私は、ああ、そうか、と思った。
からかったつもりが、逆にからかわれてたんだ。
それが分かった瞬間、急に悔しさが込み上げてきた。
「くっそー、騙したな!」
「謀ったな、さわちゃん!」
唯と二人で頬を膨らませて文句を言ってやったけど、
さわちゃんは、てへっ、と舌を出して首を傾げるだけだった。
132:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:23:33.35:Qb/2+Hqe0
やられた……。
普段、彼氏ネタで弄ってるからお約束の鉄板だと思ってたのに、まさかそれに返しネタを用意してくるなんて……。
大体、信代の結婚にショックを受けてたんだから、
彼氏が居ない事は分かってたはずなのに、完全に予想外の返しに思考停止しちゃってた……。
さわちゃんめ。悔しいけど三年生のこんな時期になってお約束を崩すなんて、敵ながら天晴れ。
133:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:24:03.40:Qb/2+Hqe0
「でもね。一つ嘘じゃない所もあるのよ」
急にさわちゃんが遠い目になって語り始める。
まだ悔しくはあったけど、とりあえずさわちゃんの言葉を聞いてみる事にした。
「そう。あれは一週間前の事……」
「その語り口、好きだよな、さわちゃん」
134:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:24:32.54:Qb/2+Hqe0
「黙って聞きなさい。
それでね、さっき前の彼氏とやり直す事になったって言ったでしょ?
実は前の彼氏から「やり直そう」って言われた事だけは本当なのよ。
これだけは嘘じゃないわよ。
急に一週間前に呼び出されてね、何の用事かと思ったらそう言われたの」
「でも、やり直さなかったの?」
135:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:25:17.15:Qb/2+Hqe0
また聞きにくい事を平然と唯が聞いていた。
でも、聞かないわけにもいかない事でもあるか。
今も彼氏が居ない事を嘆いてるって事は、つまりその前の彼氏とはやり直さなかったって事なんだから。
さわちゃんもその辺はちゃんと話そうと思っていたのか、特に唯を怒るわけでもなく続けた。
136:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:26:13.33:Qb/2+Hqe0
「そりゃそうよ。もう終わっちゃった関係だもの。
大体、振られちゃったのは私の方なのに、
それをこんな時期だからって都合よくやり直したいって言われてもね。
そう言われてもね……」
137:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:27:14.40:Qb/2+Hqe0
そこまで言うと、急にさわちゃんの身体が痙攣するように震え始める。
冬の始まりと言っても、まだ寒いわけじゃない。
勿論、唯の発言に怒っているわけじゃない。
私達に対する怒りじゃない。
つまり……。
と。
さわちゃんが唐突に立ち上がって眼鏡を外してから叫んだ。
138:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:28:03.43:Qb/2+Hqe0
「大体なあっ!
もうすぐ死ぬからって昔の女に縋り付くって根性が気に入らねーんだよ!
死が何だっつーの! こちとら死の悪魔の『DEATH DEVIL』だっつーんだよ!
しかも、後で調べてみりゃ、いつの間にか結婚してて妻子持ちだっつーじゃねーか!
不倫させるつもりだったのかよ!
ざけんじゃねーッ!」
139:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:28:46.44:Qb/2+Hqe0
あーあ、やっぱり出たよ、『DEATH DEVIL』……。
でも、まあ、仕方ないか。
自分から振っておいて、しかも結婚してて、
それでこの際だからって感じで昔の彼女とやり直そうとするとか、さわちゃんじゃなくても怒るよ。
勿論、その前の彼氏の方に何か事情が無かったとは言い切れない。
140:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:29:22.32:Qb/2+Hqe0
ひょっとしたら、この時期になって、最後の時間を目前にして、
本当に傍に居たかったのはさわちゃんだって気付いたのかもしれない。
それで今更だけど、やり直そうとしたのかもしれない。
気持ちは分からないでもないけど……。
だけど、それは多分、やっちゃいけない事なんだ。
だから、さわちゃんは怒ってるんだろう。
141:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:29:59.15:Qb/2+Hqe0
「大体なあっ! 大体なあ……。
何よ、もう、今更……。
あーあ、もう……」
さわちゃんの『DEATH DEVIL』モードは結構短い。
これまで何回か見て来たけど、どの時も数分で元に戻っていた。
今回も同じ様に素に戻ったんだろう。
眼鏡を掛け直して、さわちゃんはまたその場に崩れ落ちた。
142:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:30:52.61:Qb/2+Hqe0
泣いているわけじゃなかったけど、そのさわちゃんの姿はとても寂しそうに見えた。
身勝手な前の彼氏の行動に怒っているのは確かなんだろう。
それでも、本当は少しだけやり直したい気持ちもあったんだろう。
だから、信代の結婚を羨ましく思っているわけだし。
残された時間も少ないし、本当はやり直すという選択もありなんだろうとは思う。
思い残しの無いように、最後に何もかも捨てて誰かに縋るのも一つの選択なんだ。
それを選んでも、誰もさわちゃんを責めないだろうけど……。
だけど、さわちゃんはそれを選ばなかった。
さわちゃんには悪いけど、私はそれがとても嬉しいと思う。
それは多分……。
私はしゃがみ込んで、またさわちゃんの両肩に手を置いて言った。
143:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:31:30.48:Qb/2+Hqe0
「さわちゃんは立派だよ。皆、そんなさわちゃんの事が好きだよ」
「りっちゃん……」
「私だってさわちゃんの事が大好きだよ!」
「唯ちゃん……」
「さあ、立って、さわちゃん。
もうすぐムギが美味しいお菓子を持って来るからさ。
部室で一緒に食べよう」
「ムギちゃんが……。ねえ、りっちゃん……」
「うん……」
「りっちゃんの分のお菓子も分けて貰っていい?」
「うん……。って、うおい!」
144:にゃんこ:2011/05/30(月) 23:32:12.52:Qb/2+Hqe0
私が突っ込んで頭を軽く叩くと、その時のさわちゃんはもう笑顔だった。
悲しくないわけでもないし、後悔してないわけでもないと思う。
それでも、さわちゃんは……、私達の顧問の先生は笑顔だった。
きっとそういう風に生きて、そういう風に終わりを迎えてくれるんだ。
147:にゃんこ:2011/06/02(木) 01:19:39.13:fzyJMlSn0
○
148:にゃんこ:2011/06/02(木) 01:25:51.59:fzyJMlSn0
校門でムギと合流して部室に戻ると、澪と梓もいつの間にか部室に来ていた。
久しぶりに会うムギは少し疲れて見えたけれど、それでもとても楽しそうに振る舞ってくれた。
かなり久しぶりの軽音部の全員集合。
ムギはその事が嬉しかったんだと思う。
いつもよりも落ち着かず、はしゃいで見えた。
ムギが疲れている理由について、私は何も聞かなかった。
多分、それはムギが話したい時に話してもらえればいい事だと思う。
149:にゃんこ:2011/06/02(木) 01:31:17.61:fzyJMlSn0
そうしてさわちゃんを含めた六人でお茶をして、
さわちゃんが吹奏楽部の活動を見に行った後で
(私は知らなかったけど、
午前中はさわちゃんの授業を受けたい有志の生徒達相手に授業をしていたらしい)、
私達軽音部の間に少し気まずい空気が流れた。
150:にゃんこ:2011/06/02(木) 01:40:19.26:fzyJMlSn0
原因は練習でやった私達のセッションが妙に噛み合わなかった事だ。
勿論、その妙に噛み合わないセッションの原因は私……、
と言いたいところだけど今回はそうじゃなかった。
よくドラムが走り気味でリズムキープもバラバラと、
結構厳しい評価を受けがちな私だけど、今日の私のドラミングは悪くなかったと思う。
リズム隊の澪も何も言って来なかったし、唯とはアイコンタクトで難しいリフも何とかこなせた。
いや、普段の練習から考えると、出来過ぎなくらいに私の演奏は悪くなかったはずだ。
151:にゃんこ:2011/06/02(木) 01:46:56.26:fzyJMlSn0
今回の噛み合わないセッションの原因は、
こう言うのも人のせいにするみたいで嫌なんだけど、梓のミスによるものが大きかったと思う。
これは本当に意外な事だった。
私のミスのせいならともかく(って自分で言うのも悲しいんだけど)、
普段真面目で、子供の頃から演奏を続けている努力家の梓が今日に限って凡ミスを繰り返していた。
しかも、普段なら本当にありえないミスばかりを。
いや、今日に限って……、じゃないか。
考えてみると、最近の梓は何だかどうもおかしかった。
152:にゃんこ:2011/06/02(木) 01:58:42.15:fzyJMlSn0
最近とは言っても、『終末宣言』の日からじゃなかった。
あれはあれでとても衝撃的な宣言で、
あれ以来、恐怖とか諦めとかで学校に来れなくなった同級生も多かったけど、
少なくとも梓はそういう子じゃなかった。
あの日、純ちゃんの電話と校内放送で世界の終わりを知った梓だったけど、
その後の行動は私達三年生が見てもびっくりしてしまうくらい落ち着いていた。
静かに家族に連絡を取ったり、事の真偽をニュースとかで調べたり、
私達の横で呆然とする澪を気遣ったりするくらい、すごく落ち着いた行動だった。
本当のところは分からないけど、
きっと純ちゃんが梓が慌てないように、電話で何か言ってくれたんだろうって思う。
純ちゃんの事をよく知ってるわけじゃないけど、あの子は多分そういう子だった。
自由に見えて、いつも誰かの事を気遣ってる子なんだ。
だから、ちょっと固めで融通の利かない所もある梓が、あんなに心を開いているんだ。
私もそういう先輩になれたらよかったんだけど……、実際は梓にどう思われているんだろう?
153:にゃんこ:2011/06/02(木) 02:07:21.39:fzyJMlSn0
いやいや、今は梓の私の評価はどうでもいい。
とにかく、そんな落ち着いた様子の梓なのに、ここ三日くらいどうにも様子がおかしかった。
一昨日なんてかなり挙動不審で、
私が指摘するまで自分の髪を結んでない事、鞄を持って来てない事にも気付いてないくらいだった。
それは最後の日まで一週間を切ったから、というわけでもないとは思う。
これは単なる私の勝手な考えなんだけど、
梓は世界が終わるとか、自分が死ぬとか、そんな事よりも恐い何かに怯えているように見えるんだ。
それが何なのかは分からないけど、部長としてそんな梓の力になりたいと思う。
154:にゃんこ:2011/06/02(木) 02:12:01.98:fzyJMlSn0
だけど、梓はそんな私に何も言ってくれなかった。
悩み事があるのか、心配な何かがあるのか、
そんな感じで何度も聞いてみたんだけど、
梓は「何でもないです」の一点張りで私の質問に答えてくれなかった。
私じゃ駄目なのかと思って、唯やムギに頼んで聞いてもらった事もあったけど、
やっぱり梓は何も答えずに無理な笑顔で笑っただけみたいだった。
157:にゃんこ:2011/06/03(金) 23:24:30.58:zgVV8sPg0
その何も言わない梓に一番苛立っていたのは澪だった。
セッション中、梓が凡ミスを繰り返す度に目に見えて不機嫌になっていく。
いや、苛立っていると言うより、焦っているんだろうな。
人一倍練習しているくせに、学園祭の時も自分の腕に自信が持てずに眠れてなかった澪だ。
最後になるかもしれない私達のライブを何としても成功させたいんだろう。
だからこそ気負ってしまって、普段ミスする事がない梓の今の様子に焦りを募らせているんだ。
158:にゃんこ:2011/06/03(金) 23:28:46.84:zgVV8sPg0
いつもの澪なら梓を気遣って相談にも乗れていたはずだけど、
もうすぐ死ぬと言われて誰かの事を気遣えるほどの余裕はないんだ、あいつは。
あいつはそういう繊細な奴だった。
もし『終末宣言』より前に梓が悩んでいたのなら、きっと澪が梓を支えてやれていたんだろうな。
梓は澪に憧れているみたいだし、澪なら解決してやれたはずだった。
上手くいかないよな、色々と……。
159:にゃんこ:2011/06/03(金) 23:35:33.32:zgVV8sPg0
勿論、焦ってしまうのは私も同じだった。
ただ澪には悪いけど、私が焦るのはライブの成功を願うからじゃなくて、
私達には話せない梓の中の問題が解決出来るかって事が気になるからだ。
もうすぐ終わるかもしれない世界。
そんな世界でも……、いや、そんな世界だからこそ、
せめて梓の問題だけは解決して、また五人で笑いたいんだ。
160:にゃんこ:2011/06/03(金) 23:38:40.88:zgVV8sPg0
そうじゃないと……。
そうじゃないと、悲し過ぎるじゃないか……。
161:にゃんこ:2011/06/03(金) 23:41:38.17:zgVV8sPg0
結局、今日どうにか練習出来たのは、『五月雨20ラブ』とムギの作曲してくれた新曲を少しだけ。
『五月雨』の方はもう完成してる曲だから大体完璧だったけど、ムギの新曲はまだ二割も演奏出来なかった。
そもそも新曲の方は曲名も歌詞も決まってない。
新曲の内容については澪に任せてるけど、今の状況じゃ完成したのかどうかあいつに聞く事も出来なかった。
162:にゃんこ:2011/06/03(金) 23:52:39.73:zgVV8sPg0
梓の様子に澪が焦ってるからって事もあるけど、それよりも澪も澪で何かを抱えてるみたいだったから。
『終末宣言』後、軽音部の中で誰よりも取り乱したのはやっぱり澪だった。
最初の一週間はそれこそひどかった。
自宅に閉じ籠ってかなり情緒不安定で、怯えていたかと思えば突然泣き出したり、
かと思えば妙な現実逃避で周りを混乱させたり、一時期は手に負えないかと思ってしまったくらいに。
163:にゃんこ:2011/06/03(金) 23:57:07.32:zgVV8sPg0
でも、本当はそれが人間の正しい反応なのかもしれなかった。
私達みたいに平然としてる方がおかしいのかもしれないって、自分でもそう思わなくはないけどさ。
それでも、自分勝手だけど、私は澪に怯え続けて欲しくなかった。
だから、私は何度も澪の家に行って、澪の部屋で何度も話し合った。
もうすぐ世界が終わるかもしれないからって、それで何もしない方が勿体ないって何度も話した。
164:にゃんこ:2011/06/04(土) 00:03:11.37:9/KJvxcC0
勝手な言い分だと思う。
ずっと自分の家で家族と過ごすのも悪くなかったのに、私はそれを止めてしまった。
結局、それは多分、私が澪と一緒に居たかったから。
日常を無くしたくなかったから……。
165:にゃんこ:2011/06/04(土) 00:06:30.16:9/KJvxcC0
私の説得に根負けしたのか、私の我儘に付き合ってくれる気になったのか、
澪は自宅に籠るのをやめて、二日に一回くらいは学校に来てくれるようになった。
それ以来、澪は『終末宣言』前みたいな様子を見せるようになったけど……。
でも、分かる。
普段の澪みたいに見えて、人には言わない何かを抱えているんだって。
たまに見せる澪の寂しそうな笑顔に、そう感じさせられてしまう。
166:にゃんこ:2011/06/04(土) 00:10:30.11:9/KJvxcC0
最後のライブを目前に、私も含めてそんな風に沢山の問題を抱えてしまっている我が放課後ティータイム。
最後に悔いのないライブが出来るのか、それは私にも分からなかった。
こうして、最後の月曜日が終わる。
167:にゃんこ:2011/06/04(土) 00:15:53.60:9/KJvxcC0
○
168:にゃんこ:2011/06/04(土) 00:23:48.14:9/KJvxcC0
――火曜日
169:にゃんこ:2011/06/04(土) 00:25:05.15:9/KJvxcC0
少し寝入っていた私はセットしていた携帯電話のアラームに起こされた。
急いでラジカセの電源を入れる。
軽快な音楽が流れる。
170:にゃんこ:2011/06/04(土) 00:25:39.88:9/KJvxcC0
「胸に残る音楽をお前らに。本当の意味でも、ある意味でも、とにかく名曲をお前らに。
今日もラジオ『DEATH DEVIL』の時間がやって来た。
まあ、時間がやって来たって言っても、休憩時間以外は適当に喋ってんのはお前らも知っての通り。
その辺は気にせずノータッチで今日もお付き合いヨロシク。オーケー?
173:にゃんこ:2011/06/06(月) 02:10:27.85:9bU9HsRO0
パーソナリティーは勿論、昨日と同じくクリスティーナ。
つまり、アタシ。
って、ここまで付き合ってくれたリスナーなら、言わなくても分かってるか。
さて、最後の月曜がさっき終わったんで、今日はとうとう最後の火曜日。
ノンストップで世界が終末に向かってるってわけね。
今週の週末には終末って、ホントに出来の悪い冗談だけど、そんな冗談にこの放送は止められない。
何度も言うけど、最後までヨロシク。
174:にゃんこ:2011/06/06(月) 02:18:44.28:9bU9HsRO0
にしても、『終末宣言』で放送中止になっちゃったアニメのラジオ番組の枠を貰って、もう一ヶ月も経つんだね。
ラジオなんて聞いた事しかなかったアタシがいきなりパーソナリティーになっちゃって、
それでもここまでやって来れたのはリスナーのお前等と隠されてたアタシの潜在能力のおかげだね。
なんて冗談。
ほとんどリスナーのお前等のおかげだよ。本当に感謝してる。ありがとね。
大体さあ、番組の枠が空いたからって、
顔見知り程度でしかも未経験のアタシにパーソナリティーやらせるとか、
うちのディレクターってどうかしてると思わない?
しかも、いつの間にかどんどん放送時間が延びて、最近は一日中喋りっぱなしになっちゃってるし。
あの人本当にどうかしてるって。
175:にゃんこ:2011/06/06(月) 02:24:55.47:9bU9HsRO0
それにさ、あの人ってここだけの話、ヅラなんよ。
これはアタシとお前等だけの秘密。
誰にも言っちゃダメだぞ。
……って、これラジオだった。失敬失敬。
あはっ、ディレクター睨んでる。
こりゃ、後が恐いねー。
……でもさ。
これでもディレクターには感謝してるんだ。
音楽関係の仕事で、これだけ大きな仕事をやれるなんて思ってなかった。
世界が終わる非常事態だからこそ、
暇なアタシがパーソナリティーやれてるって事は分かってるけど、それでも嬉しいもんよね。
176:にゃんこ:2011/06/06(月) 02:29:56.83:9bU9HsRO0
音楽は好きだし、出来るだけ最後まで音楽と関わってたかったからさ。
そこんところはヅラのディレクターに感謝。
あ、また睨んでる。
いいじゃん、ディレクター。
アタシはカツラなんか被ってないありのままのディレクターが好きよ。
……被ってない姿は見た事ないけど、多分好きだから。
だーかーら、そんなに睨まないでよ。
177:にゃんこ:2011/06/06(月) 02:37:12.00:9bU9HsRO0
さてさて、ディレクターの事はさておいて、
思い返せば最初の一週間はそりゃすごいもんだったのよ。
当時を知らない新参のお前らに説明しとくと、
この時間枠って当初は放送中止になったアニメのラジオの枠だったからさ、
そのアニメ好きの皆さんから心温まるお便りを沢山頂いたわけよ。
「ちゃんと前番組を完結させろ」とか、
「せめて引き続き声優に放送させろ」とか、
「貴方の子を身篭りました」とか、
「クリスティーナ、逝ってよし」とかね。
ごめん、最後のは嘘。「逝ってよし」は古かったね。
178:にゃんこ:2011/06/06(月) 02:46:50.10:9bU9HsRO0
でも、その時はさ、アタシも若かったからさ、
本気でその心温まるお便りと口論したもんだったのよ。
お電話をくれた今は常連の島根の『ラジオネームなど無い』略して『ラジな』とも、
番組中にそりゃ大喧嘩しちゃったのよね、これが。
いや、新参のお前らは驚くかもしれないけど。
ディレクターも止めてくれりゃいいのに、面白そうにニヤニヤ見守ってくれちゃって。
今考えると、こんな状況だからこそ、普通は放送出来そうにない物を放送したかったみたいね。
……チッ、あのヅラめ。
ははっ、睨んでる睨んでる。
179:にゃんこ:2011/06/06(月) 02:56:51.68:9bU9HsRO0
ま、確かにラジなの言う事も分からないでもないんだけどさ。
楽しみにしてたラジオ番組がアタシみたいな無名の新人に乗っ取られちゃ、そりゃ気に入らないよね。
アタシだって抗議の電話をしたくなるわ。
一応自己弁護させてもらうと、
ラジなの好きなアニメは会社に残ったスタッフ有志が超特急で製作してるらしい。
完全版は無理かもしれないけど、せめて台本だけは完璧な物を仕上げるって意気込んでた。
何作品かは無理みたいだけど、それでも出来る限りは頑張ってくれるってさ。
声優の皆さんも何人かはそっちの仕事に集中してるらしいし。
だから、新参者のアタシがその人達にアニメ製作に集中して貰えるように、
お前らにせめてもの暇潰しを提供してるってわけ。
182:にゃんこ:2011/06/06(月) 03:04:44.86:9bU9HsRO0
それにしても、あれだけ大喧嘩したラジながうちの常連になるとは思わなかったね。
何か言いたい事を言い合ったら友情が芽生えてた感じ。
夕焼けの河原での殴り合いの決闘後、みたいな。
発想が古いって?
ほっといて。
あとはこう言うのも気障っぽいんだけど、音楽のおかげかもね。
正直言うと、アタシ実はアニメソングってなめてた。
アニメの付属品の安っぽい劇中曲だろ、なんて聴きもせずに馬鹿にしてた。
でも、喧嘩中にラジなが「この曲を聴いてみろ」って挙げてたアニソンを、
聴かないのも悔しいから何曲か聴いてみたら、悔しいけどいい曲もあるじゃない。
183:にゃんこ:2011/06/06(月) 03:12:31.46:9bU9HsRO0
それにラジなの奴もアタシが勧めたロックを律儀に聴いてくれたみたいでさ。
あいつもアニソン以外は聴かない奴だったみたいだけど、アタシの好きなロックを悪くないと思ってくれたみたい。
まさかあの喧嘩の後にまた電話掛けてくるなんて、本当に律儀な奴だよ。
それが受けてこのラジオが今まで続いてるってんだから、世の中分かんないね。
まさに音楽は世界を救うってやつ?
いや、世界は救ってない……か。
もうすぐ終わっちゃうしなあ……。
だけど、少なくともアタシとラジなはそんな感じに音楽で分かり合えた。
少しだけかもしれないけど、確かに音楽はこれまでそんな風に世界を救ってたって、アタシはそう思う。
184:にゃんこ:2011/06/06(月) 03:18:19.09:9bU9HsRO0
……さて、そろそろ一曲目のリクエストにいってみよう。
一曲目は今話題のラジオネームなど無いことラジなからのリクエスト。
って、終末が近いからって、いちいち世界の終わりっぽい曲を選ばないでよ……。
ま、いいや。
じゃあ今日の一曲目、島根県のラジオネームなど無いからのリクエストで、
FLOWの『WORLD END』――」
189:にゃんこ:2011/06/09(木) 20:39:53.73:6lNkwtuG0
○
190:にゃんこ:2011/06/09(木) 20:40:54.84:6lNkwtuG0
朝。
人通りの少なくなった通学路をゆっくりと歩く。
車の通りも少なくて、どこか別の街に来てしまったような気もする。
今となっては、遅刻を気にして、急いで学校に向かう必要もなくなった。
それはそれで大助かりではあるけど、
そういういつもの光景が無くなってしまったのは少し寂しいな。
ちょっと立ち止まって、周りを見渡してみる。
191:にゃんこ:2011/06/09(木) 20:43:02.62:6lNkwtuG0
見慣れた建物、橋、線路、店、道路、公園……。
ずっと一緒にいてくれて、ずっと私達と育ってきた街並み。
話によると、世界が終わった後もこの街並みだけは残るらしい。
人が居なくなって、動物達も居なくなって、それでもずっと人の街は残り続けるそうだ。
どういう世界の終わりだよって思わなくもないけど、終末ってのはそういうものらしかった。
192:にゃんこ:2011/06/09(木) 20:44:19.13:6lNkwtuG0
街だけ残る……か。
それはせめてもの救いなんだろうか。
それとも、この地球上には生物なんて必要なかったっていう皮肉なんだろうか。
193:にゃんこ:2011/06/09(木) 20:51:05.33:6lNkwtuG0
「律? どうしたんだ? 行くぞ」
立ち止まっていた私に向けて、私の長い黒髪の幼馴染みが言った。
私が街並みを見渡しているうちに、澪はかなり先の方まで行ってしまっていた。
194:にゃんこ:2011/06/09(木) 20:53:43.54:6lNkwtuG0
「何してんだよ、律。急に隣から居なくなったらびっくりするじゃないか」
「いやー、久しぶりに我が街を眺めてたら、ロマンティックが止まらなくなっちゃって」
「何だよ、それ……」
呆れた感じで澪が呟いて、私が悪戯っぽく微笑んでやる。
195:にゃんこ:2011/06/09(木) 21:04:21.78:6lNkwtuG0
それがずっと続いてきた私と澪の関係。
もうすぐ終わりを迎えるのかもしれないけど、私の我儘で続けてもらっている私達の関係だ。
『終末宣言』から大体一ヶ月、
やっと澪の様子も落ち着いてきたけど、本当の澪の本心は分からない。
気弱で怖がりなくせに強がりがちな澪。
世界の終わりまで一週間も残ってなくて、そんな中でこいつは何を考えているんだろう。
196:にゃんこ:2011/06/09(木) 21:07:14.24:6lNkwtuG0
いつもならそれをそれとなく聞けてたんだろう。
だけど、我ながら情けなくなるけど、今はそれを聞くのが恐い。
もしこいつの本心の中に、部活やライブ、私達よりも大切な何かがあって、
それを優先したいとこいつが考えていたら、私はそれを止める事が出来ない。止めていいわけない。
それが恐くて、私は澪の隣でわざとらしくても笑ってるしかない。
だけど、澪とは長い付き合いだ。
澪もそんな私の様子に気付いてるかもしれない。
それでも、私は笑って澪に話し掛けるだけだ。
このままでは駄目なんだと分かっていても。
197:にゃんこ:2011/06/09(木) 21:08:15.99:6lNkwtuG0
「ところでさ、澪」
「ん」
「今日はどうするんだ? ずっと部室に居る? それか他に何かするのか?」
「そうだな……。とりあえず今日はさわ子先生の授業に出ようと思ってる。
一時間目から希望者に授業してくれるみたいだし、私も出てみようかなって」
「なんと。さわちゃんもいい先生だなー。
昨日だけじゃなくて、今日まで授業してくれるなんて」
「いやいや、昨日部室で言ってただろ。この一週間はずっと授業する予定だって」
「あれ? そうだっけ?」
「おいおい……」
198:にゃんこ:2011/06/09(木) 21:13:16.63:6lNkwtuG0
そうだっけ? とは言ってみたけど、本当は私も知っていた。
昨日、さわちゃんが部室で、
「今週は音楽室でずっと授業してる予定だから、暇なら来てもいいわよ」
って、そう言ったさわちゃんの笑顔が眩しくて、忘れられるわけがない。
誤魔化したのはそのさわちゃんの笑顔が眩し過ぎて、照れ臭かったからだ。
私達の顧問の先生の山中さわ子先生。
半ば無理矢理に顧問になってもらったけど、私はさわちゃんが顧問で本当によかったと思う。
たまにエロ親父的な発言に困らせられる事もあるけど、それも御愛嬌って事で。
199:にゃんこ:2011/06/09(木) 21:16:36.58:6lNkwtuG0
「こんな状況で、自分の事より生徒の事を考えられるなんて、いい先生だよ」
「普段は変な衣装製作してくるけどなー」
「それもさわ子先生の魅力だろ? 変過ぎて困る事もあるけどさ」
「じゃあ、今度さわちゃんの作ったサンバカーニバルみたいな衣装着てあげたらいいじゃん?
さわちゃん喜ぶぞー」
「うっ……、それはちょっと……」
「冗談だよ。でも、確かにさわちゃんっていい先生だよな。
折角だし、今日は私も澪と一緒に、さわちゃんのいい先生ぶりを見物に行こうかな」
「うん。じゃあ、今日はとりあえず一緒にさわ子先生の授業を受けよう。
それから先の事は後で部室で考えればいいんじゃないかな」
200:にゃんこ:2011/06/09(木) 21:22:21.97:6lNkwtuG0
「えっと……さ」
また急に澪が立ち止まって喋り始める。
私も足を止めて、澪の言葉に耳を傾けた。
目を少し伏せながらも、力のこもった言葉で澪は続けた。
201:にゃんこ:2011/06/09(木) 21:25:09.22:6lNkwtuG0
「昨日の事……なんだけどさ」
「……梓の事か?」
「うん……。ごめん。私、先輩らしくなかったと思う」
「そうかもな……」
「頭では分かっててもさ、焦っちゃって自分じゃどうにもならなくて、苛立って……。
それで……」
202:にゃんこ:2011/06/09(木) 21:29:53.84:6lNkwtuG0
澪が少し口ごもる。
私は黙って澪の次の言葉を待つ。
黙ってはいたけど、私は嬉しかった。
澪も澪で梓の事を考えてないわけじゃないって分かったから。
いや、むしろ梓の事を考えていたから、澪も苛立ってしまってたんだろう。
それを澪自身も分かっているんだ。
だから、口ごもりながらも言葉を続けてくれた。
203:にゃんこ:2011/06/09(木) 21:31:11.75:6lNkwtuG0
「梓が何か悩んでるのは分かる。何とかしてあげたいと思う。
思う……んだけど、梓は何も言ってくれなくて、それ以上私には何も出来なくなって……。
梓に苛立っちゃってる私に一番苛立っちゃって……。
昨日……、ううん、ここ最近、先輩として最低だったと思う……」
「自分で分かってるんなら大丈夫だよ、澪。
後はそれを梓に伝えてあげればいいんだよ。
分かってても、難しい事だけどさ……」
「そうだよな……。そうなんだよな……」
「そうだよ」
204:にゃんこ:2011/06/09(木) 21:33:30.70:6lNkwtuG0
そう言いながらも、私は次の言葉を言い出す事が出来なくなった。
自分の言っている事は正論だと思うし、間違ってないと思う。
澪も私の言葉に納得してくれてるだろうし、難しい事だけどそれを実行しようと思ってくれてるはずだ。
だけど。
私は考えてしまう。
自分で言っておいて、それを自分で実行出来ているのか、って考えてしまう。
既に澪に我儘を押し付けてしまってる私にそんな事を言えるのか。
言ってしまっていいんだろうか……。
205:にゃんこ:2011/06/09(木) 21:40:04.86:6lNkwtuG0
と。
その沈黙は急に破られた。
耳を澄ませば聞こえるくらいの微かな声が校舎の廊下に響いたからだ。
普通に話してたら気付かなかっただろうけど、
黙っていたおかげと言うべきか、その呻くような声は妙に私達の耳に響いた。
しかもその呻き声は長く続いて、一度気にしてしまうともう耳から離れなくなってしまった。
206:にゃんこ:2011/06/09(木) 21:40:46.29:6lNkwtuG0
「な……、何?」
さっきまでの様子とは一転、別の意味で不安そうな表情を浮かべて澪が呟く。
こんな時でも性格の本質的なところは変わらないらしい。
私はちょっと嬉しくなって、からかうように言ってやる。
207:にゃんこ:2011/06/09(木) 21:42:08.94:6lNkwtuG0
「さあなー。お化けかもなー」
「お、お化けって……、そんな非科学的な……」
「世界の終わりの方が十分に非科学的じゃんか。
呻き声の正体、確かめに行ってみようぜ」
「いやいや、もしかしたら誰かが腹痛で苦しんでるだけかも……」
「そっちの方が大変じゃんか。
もしそうだったら、保健室に連れて行ってあげないといけないだろ」
「あっ……、しまった……」
208:にゃんこ:2011/06/09(木) 21:42:55.89:6lNkwtuG0
自分の言葉が墓穴を掘ってしまった事に気付いた澪が、
不安一杯という感じの表情を見せる。
私はそれに苦笑して、多分、澪の言葉が当たりだろ、
とフォローしながら、呻き声の発生源を探してみる事にした。
209:にゃんこ:2011/06/09(木) 23:22:13.93:6lNkwtuG0
周囲を見渡しただけで、発生源は案外に簡単に見つかった。
見つかった……んだけど、その発生源の場所が普通過ぎたから、
つい私はガッカリして呟いてしまっていた。
「何だ、オカルト研かよ……」
いや、別にオカルト研が悪いわけじゃないんだけど、もっと意外な展開を期待してた私的には拍子抜けだった。
オカルト研の部室からなら呻き声が聞こえてもおかしくないからなあ……。
うん、おかしくない……か?
まあ、いいや。
210:にゃんこ:2011/06/09(木) 23:34:28.84:6lNkwtuG0
「ほら澪、何か大丈夫そうだぞ。
呻き声が聞こえるの、オカルト研の中からだし」
「何が大丈夫なんだよ!」
「いや、病人や怪我人が居なさそうって意味で。
一大事じゃなくて何よりじゃないか」
「その代わり、呻き声の正体がお化けの可能性がぐっと高くなったじゃないか…」
「私としてはそれでも全然オッケーだぜ?」
「私は嫌だ!」
「でもほら、もしかしたらお化けじゃなくて宇宙人の方かも……」
「どっちにしろ嫌だ!」
211:にゃんこ:2011/06/09(木) 23:41:53.45:6lNkwtuG0
相変わらず我儘な幼馴染みである。
だけど、やっぱり安心した。
そういえば澪をこんな感じに弄るのは、すごく久しぶりな気がする。
何か落ち着くな。
こういうのが好きなんだよなあ、私って……。
212:にゃんこ:2011/06/09(木) 23:48:47.06:6lNkwtuG0
私はその落ち着いた表情を澪に見せないよう、わざとらしく笑いながら言った。
「まあまあ。とりあえずオカルト研の様子だけ見てみようぜ?
チラッと見るだけにしとくから、澪も来いよ。
呻き声は何かの魔術っぽい儀式の声だよ、きっと。
ベントラーベントラーみたいな」
「儀式……ね……。それなら、まあ、ちょっと見るだけなら……。
もしかしたら腹痛とかの可能性も少しは残ってるわけだし……。
でも、儀式だったら邪魔しちゃ駄目だからな。ちょっと見て終わりだぞ。
あとベントラーは魔術の儀式じゃないけどな」
「わーってるって。……って、恐がるくせに詳しいな、おまえ」
213:にゃんこ:2011/06/10(金) 00:11:29.50:Tp39Qv0Y0
突っ込んだ後、あれだけ騒いでおいて今更だけど、
オカルト研の子達に気配を悟られないように、私達は静かにオカルト研の部室に近付いていく。
勿論、その動機の半分はオカルト研の身を心配しての事だ。
学園祭をきっかけに折角仲良くなれたんだ。
あの子達にも何かあったら心配じゃないか。
いや、純粋な好奇心からって動機も半分あるけどさ。
214:にゃんこ:2011/06/10(金) 00:32:24.82:Tp39Qv0Y0
だけど、お化けとか宇宙人とか、そんな贅沢は言わないから何か面白い儀式が見れればいいなあ。
その程度のほんの少しの不純な期待を持って、私はオカルト研の部室の扉をそっと開いた。
おはようございまーす、ってね。と、そんな本当に軽い気持ちで。
でも、そんな不純な思いを持っていたのが悪かったのかもしれない。
オカルト研の中では、私には思いも寄らなかった衝撃的な光景が広がってた。
死体が転がっていたとか、宇宙人が居たとか、チュパカブラが背びれを振動させて飛び回っていたとか、
そういう非常事態は幸いにと言うべきか起こってはいなかった。
それでも。
その時、私が目にした光景はそういうのを目撃するのと同じくらい、衝撃的なものだった。
215:にゃんこ:2011/06/10(金) 00:40:33.79:Tp39Qv0Y0
「ぶふぉっ!」
オカルト研の部室の扉の間からその光景を目にした瞬間、私は思わずむせてしまっていた。
自分でも不細工だと思う酷い声が漏れてしまう。
それも仕方が無かった。
と言うか、これでむせない人間なんているか!
誰だって驚くよ! 私だけじゃなくて、絶対誰だって驚くって!
こんなの想像もしてなかったし!
普通なら自分の目を疑うし!
はっきり言って、おかしーし!
216:にゃんこ:2011/06/10(金) 00:50:13.85:Tp39Qv0Y0
……とにかく。
オカルト研の部室の中には二人の女子が倒れていた。
一瞬、病気か怪我で倒れてるのかと思ったけど、そうじゃなかった。
勿論、事件に巻き込まれているようでもなくて、二人は元気そうに動いていた。
そうなんだよ。動いてるのが問題だったんだ。
何をしてるんだろうって少し不審に思ったけど、その疑問もすぐに解決した。
解決してしまった。
何でかって、その答えは簡単だ。
何故なら二人とも半裸だったからだ。
いやいや、半裸っていう表現は大人しかった。
正確に言うと、申し訳程度に下着を着けているっていうほぼ全裸の姿で、
二人の女子生徒が抱き合うような距離でお互いに動いてたんだ。
217:にゃんこ:2011/06/10(金) 00:54:55.29:Tp39Qv0Y0
つまり……、その……、あれだ。
お互いに動くって言うのは……、
えっと、お互いにお互いを触り合ったり、お互いの唇を重ね合ったり、
何か舌とか出してお互いの舌に触れ合ってたり、つまりそういう事をしてたんだよ!
何だよ、もう!
しかも、よく見たらその女子ってオカルト研の子達じゃないし!
他人の部室で鍵も閉めずに誰だよ、ちくしょう!
218:にゃんこ:2011/06/10(金) 01:06:49.66:Tp39Qv0Y0
ああ、もう……。
いいや、もう。
何か疲れた……。
こんな他人の、しかも女子同士のなんて見てられないよ。
そりゃ私だって女子高に通ってる身だし、そういう関係の女子がいるって噂を聞いた事もあった。
誰と誰がそれっぽいかって話題で盛り上がった事もある。
別に女同士でそういう関係になっても、いいんじゃないかなとは思う。
ほら、私ってロックな女のつもりだし。
だけど、聞くと見るとじゃ大違いだ。
何だか見ちゃいけないものを見てしまったって気になってしまう。
219:にゃんこ:2011/06/10(金) 01:17:48.66:Tp39Qv0Y0
私は大きく溜息を吐いて、その場から去ろうとして……、その動きが止まった。
それは私の意思で止めたわけじゃなかった。
私の動きを止める誰かが居たからだ。
私の服を掴んで離さない誰かが居たからだ。
当然、その誰かが誰なのかは分かり切っていた。
澪だ。
澪は私の服を掴んで、食い入るみたいにオカルト研の中の女子二人を見つめていた。
その表情はとても……、その二人の姿をとても羨ましそうに見ているみたいだった。
224:にゃんこ:2011/06/11(土) 21:47:33.17:+7DPB8Sg0
「ちよっと……、離せよ、澪……!」
オカルト研の部室の中の二人に気付かれないよう私は囁いたけど、
その言葉を聞いていないのか、聞いていて拒否しているのか、とにかく澪は私の制服を掴んだまま離さなかった。
何処までも澪は裸で絡み合う二人をずっと見つめていて、
その表情は前に一度、澪以外の人間が浮かべた事のある表情によく似ている気がした。
それは一年の頃のムギの表情だ。
さわちゃんと唯が接近して、その二人の様子にうっとりしていたムギの表情。
多分、それは憧れだ。自分では手の届かない場所に居る人達への届かない想いだ。
225:にゃんこ:2011/06/11(土) 21:48:16.00:+7DPB8Sg0
詳しく話した事はないんだけど、ムギはそういう女の子同士の関係が好きらしかった。
ムギ自身が女の子同士の関係を誰かと築き上げたいのかどうかは分からない。
単にそういう関係の女の子同士を見ているのが好きなだけなのかもしれないし、それはどっちでもいい事だ。
ムギが何を好きだろうと、何を望んでいようと、ムギは私の大切な親友なんだから。
だけど。
そう思っている私でも、今の自分の胸の鼓動は止められそうになかった。
226:にゃんこ:2011/06/11(土) 21:51:00.32:+7DPB8Sg0
誰かの濡れ場を初めて目撃したからじゃない。
女同士の関係が現実にある事を知ってしまったからでもない。
勿論、それらが原因でもあるけど、それだけじゃなかった。
それ以上に胸が痛いほどに騒ぐ理由があった。
私は躊躇いながら、オカルト研の部室の中の二人に視線を戻す。
227:にゃんこ:2011/06/11(土) 22:02:52.64:+7DPB8Sg0
「お姉さま……」
「ほら、タイが曲がっていてよ」
裸の二人(よく見ると一人は長い黒髪で、もう一人はショートヘアで眼鏡を掛けていた)は抱き締め合い、
お互いに愛おしそうな表情で囁き合って、お互いの肉体を弄り合っていた。
そんな格好でタイとかそういう問題じゃないだろ!
しかも、何だよ、その演技掛かった口調は……。『お姉さま』だし……。
まあ、部室に鍵が掛かってなかった事から考えても、
例え誰かに見つかっても見せつけてやろうというくらいの感覚なんだろうな。
それで多少演技臭くても、そういう自分達に酔ってるんだろう。
228:にゃんこ:2011/06/11(土) 22:07:04.33:+7DPB8Sg0
……いやいや、そんな事は関係ない。
そんな事よりも重要なのは、その二人を澪がずっとムギに似た表情で見つめ続けている事だ。
幼馴染みだからって、澪の全てを知ってるわけじゃない。
私の知らない澪の姿だって、沢山あるんだろう。
だけど、こんな状況で澪がこんな行動を取るなんて、私の知らない澪にも程があった。
あんな甘々な歌詞を書くだけあって、澪は恋愛に対して人一倍敏感だ。
自分だけじゃなく、他人の恋愛にも敏感で、誰かの恋の話題が出るだけで赤面するくらいだった。
なのに、そんな澪が今、他人の、しかも女同士の濡れ場を目撃して、憧れる様にじっと見つめている。
違うだろ、澪。
そこは部室の中の二人の見物を続けようとする私を、
「失礼だろ!」ってお前が赤くなりながら殴るところだろ。
何だよ……。そんな私の知らないお前を見せないでくれよ……。
229:にゃんこ:2011/06/11(土) 22:11:21.38:+7DPB8Sg0
でも、それだけならまだよかった。
それだけなら幼馴染みの知らない一面を見てしまって、私が少し寂しくなってしまうだけの事だった。
気付かれないように、もう一度私は澪の表情をうかがってみる。
ムギに似た表情。だけど、ムギとも少し違う澪の表情。
もしかして……、と思う。
胸の奥に秘めていた私の考えが浮かび上がってくる。
だから、私の胸は痛んでるんだ。
230:にゃんこ:2011/06/11(土) 22:14:31.13:+7DPB8Sg0
「あっ……」
気付かれないようにしていたつもりが上手くいかなかったらしい。
視線に気付いた澪と私の目が合って、その一瞬後に澪は赤くなって視線を逸らした。
気が付けば私も視線を伏せていた。何だか顔が熱い。私も赤くなっちゃってるんだろうか。
正直に言うと、今までそれを考えてなかったわけじゃない。
でも、そんな事、誰にも言えるもんか。
澪が私の事を好きなんじゃないかって。
そんなの自意識過剰過ぎる。
こんな私が同性の幼馴染みに好かれてるって考えるなんて、それ自体恥ずかしくて口に出せるか。
231:にゃんこ:2011/06/11(土) 22:15:12.79:+7DPB8Sg0
ただ、噂になった事は何度かあった。
いつも傍に居て、皆にコンビとして認められている私と澪。
悪気は無いんだろうけど、そんな関係を見て、私達二人の恋愛関係を想像する子は少なくなかった。
特に下級生かな。
曽我部さんから聞いた話によると、
澪ファンクラブの中には澪の恋人が誰なのかという派閥があって、
それには唯やムギ、梓に果てはさわちゃんや和まで候補が居て、誰が澪の恋人なのかで争ってるんだそうだ。
いや、勿論、極一部の話なんだろうけれども。
と言うか、女同士なんだが……。
そして、その派閥の中で一番大きいのが澪の恋人は田井中律派……、つまり私の勢力らしかった。
ちなみに曽我部さんも私の派閥なんだそうだ。
それは何と言うか……、ありがとうございます……?
233:にゃんこ:2011/06/11(土) 22:25:25.48:+7DPB8Sg0
当然だけど、本来ならそれは笑い話の一つだ。
少し不謹慎だけど、何事もない生活の中で自分達で想像するだけなら何の問題も無い事だ。普段なら。
だけど、今は世界の終わりの直前っていう非常事態だった。
前にクリスティーナこと紀美さんがラジオで話してたけど、
『終末宣言』以来、自分の特殊な趣味や性格、性癖を告白する有名人は増える一方だ。
勿論、それは有名人だけの話じゃなくて、私の周りの人達でもそうだった。
私の友達の中ではボーイズラブってのが好きだって告白した子が居たし(皆、知ってたけど)、
父さんも友達(男)が急に好きだって告白してきたから驚いたって言っていた(妻を愛しているからって断ったらしい)。
皆、最後くらいはありのままの自分で居たいんだ。
ひょっとすると、オカルト研の中の二人も『終末宣言』後にこういう関係になったのかもしれない。
234:にゃんこ:2011/06/11(土) 22:26:51.07:+7DPB8Sg0
私にもその気持ちは分かる。
私には特に隠している性癖とかはないけど、
あればきっと誰かに言っておきたいと考えてたと思う。
澪はどうなんだろう……って、私は思う。
澪は追い込まれないと本当の実力を出せないタイプだし、
追い込まれないと本音もあまり口にしない。
でも今は……、人類全体が追い込まれてる状況だ。
まさか、だよな。
澪は別に私の事を好きとかじゃないよな?
澪はただ初めての女同士の濡れ場に驚いて、目を離せなくなってるだけだよな?
あの『冬の日』の歌詞も私の事を書いてたわけじゃないよな……?
235:にゃんこ:2011/06/11(土) 22:28:10.14:+7DPB8Sg0
そう考えてしまうから、私の胸は痛いほど鼓動しまっている。
澪に好かれるのが嫌なんじゃない。
澪の事は好きだ。
当然、恋愛対象としてじゃない。親友として、幼馴染みとして、大好きだ。
女同士の関係に抵抗があるわけでもない。
ムギの台詞じゃないけど、本人同士がよければいいと思う。
それが自分自身の事になると分からないけど、
もし誰かに告白されたりしたら本気で考えてみてもいいとも思う。
だけど、その誰かがもしも澪だったら……。
そう考えると、どうしても私の胸は痛くなる。
痛いんだ、とても。
237:にゃんこ:2011/06/14(火) 00:38:05.23:toNYD3r30
○
オカルト研の部室の中の二人を十分くらい見てたと思う。
急に澪が私の手を引いて、「行こう」と小さく囁いた。
何処に行くのか私は少し不安になったけど、
澪に手を引かれて辿り着いた場所は軽音部でない方の音楽室だった。
そうだった。
そういえば私達はさわちゃんの授業を受けるんだった。
そんな事、すっかり頭の中から消え去っていた。
最初は部室に寄る予定だったけど、
オカルト研を覗いてたせいでそんな時間も無くなってしまっていた。
それで澪は直に私を音楽室に連れて来たんだろう。
さっきまで私の言葉も聞かずにオカルト研を覗いてたくせに、
急に妙に冷静になっている澪に私は何も言えなかった。
何を考えてるんだよ、澪は……。
238:にゃんこ:2011/06/14(火) 00:38:45.39:toNYD3r30
さわちゃんの授業は面白かった……と思う。
授業にはムギと唯も参加していて、
久し振りに四人で受ける授業はとても嬉しかった。
だけど、そんな折角の授業なのに、どうしても私は授業に身を入れる事が出来なかった。
身を入れられるわけがない。
授業中、ずっと澪の視線を感じていたからだ。
実際に見られてるわけじゃないかもしれない。
単に私の自意識過剰な所が大きいんだろう。
でも、意識し始めるとどうしようもなかった。
澪に見られてると思うと、どうやっても授業に集中出来なかった。
授業の後、皆で部室に向かおうとした時、
そういや予定があったんだ、ってわざとらしい言い訳をして、私は皆の中から抜け出した。
居心地が悪くて、澪の傍には居られなかった。
本当はずっと傍に居たかった。
世界が終わるらしいって聞いてから、私は最後まで澪の傍に居たいと思ってた。
無理に家の中から連れ出してまで、澪には傍に居てほしかった。
澪に私が必要なんじゃなくて、私に澪が必要なんだ。
だけど、それはこんな意味でじゃない。
こんな居心地の悪さを求めてたわけじゃない。
だから、私は逃げ出したんだ。
239:にゃんこ:2011/06/14(火) 00:41:05.33:toNYD3r30
「あー……。何やってんだ、私は……」
皆から抜け出した先、
軽音部から少し離れた廊下の窓から校庭を見下ろしながら、私はつい口にしていた。
どうしようもない自己嫌悪。
こんなんじゃ駄目だ。
このままじゃ駄目だ。
『終末宣言』以来、何度そう思ったんだろう。
何度そう思いながら、何も変えられなかったんだろう。
「ちくしょー……」
自分の情けなさが悔しくて、拳を握りながら吐き捨ててみる。
勿論、そんな事で何も変わるわけがなかった。
ただ悔しさが増しただけだった。
悔しさをずっと感じながら、それでもどうしようもない私は校庭を見回してみる。
校庭を見回したところで、何も解決するはずがないのに。
それでも、私は他に何も出来なかった。
240:にゃんこ:2011/06/14(火) 00:42:18.75:toNYD3r30
見下ろしてみた校庭は『終末宣言』前と何も変わってないように見えた。
生徒の数こそ減ってるけど、それ以外はほとんど何も変わってない。
その何も変わってない校庭に、私はよく知っている長い黒髪を見つけた。
澪じゃない。
梓だ。
最近、様子のおかしい梓。
どうにか手助けをしてあげたい私の大切な後輩。
その梓は何かを探してるみたいに足下を見下ろしながら歩いていた。
「おーい、あず……」
反射的に手を上げて声を掛けようとして、その途中で私の言葉は止まった。
声を掛けて、どうする?
声を掛けて、どうなる?
こんな今の私が、何も言おうとしない梓の力になってやれるのか?
それとも、代わりにどうしようもない私の愚痴を聞かせるつもりか?
答えは出ない。
241:にゃんこ:2011/06/14(火) 00:43:24.66:toNYD3r30
でも、途中までしか出なかった私の言葉は、梓の耳に届いていたらしい。
梓は顔を上げて、私の方に視線を向けた。
梓と私の目が合って、視線がぶつかる。
その一瞬、気付いた。
梓が泣きそうな顔をしている事に。
多分、今の私と同じような顔をしている事に。
梓の表情を見た私は、何とかしなきゃと思った。
小さくて弱々しい後輩の力にならなきゃと思った。
何も出来ない私だけど、何とかしてあげたかった。
今度こそ、私は梓の悩みを聞きだすべきだった。
だから、私はなけなしの勇気を振り絞って、喉の奥から言葉を絞り出そうとした。
242:にゃんこ:2011/06/14(火) 00:45:12.73:toNYD3r30
「あず……」
だけど、その言葉はまた途中で止まる事になった。
私と目の合った梓が私から目を逸らして、すぐに校庭から走り去ってしまったから。
まるで私から逃げ出すみたいに。
それでも追い掛けるべきだったのかもしれない。
でも、なけなしの私の勇気は、逃げ出していく梓の姿に急に萎んでしまって……。
身体から力が抜けていくのを感じる。
脚に力が入らない。
私はその場に座り込んで、頭を抱えてとても大きな溜息を吐いた。
ひょっとして……、と思った。
私はずっと梓は何かに悩んでいるんだと思ってた。
私達に言えない何かを抱えて、ずっと無理に笑ってるんだと思ってた。
でも、ひょっとして……、それは違ったのか?
梓は私と関わりたくなくなっただけなのか?
私の近くに居たくなくて、それでするはずのないミスを連発していたのか?
そんなにまで、私の事が嫌いになったのか……?
243:にゃんこ:2011/06/14(火) 00:46:44.78:toNYD3r30
ひどい被害妄想だ。
梓がそんな事を考える子だと思う事自体、梓に対して失礼だ。
でも、駄目だった。
澪の視線を感じると気になって仕方がなくなったのと同じに、
梓に嫌われてるんじゃないかと思い始めると、その考えが私の頭から離れなくなった。
それにそれは、ずっと思ってなくもなかった事でもあったんだ。
梓はずっと真面目な部活を望んでた。
練習をせずにお茶ばかりしている私に呆れてた。
その不満と呆れが今になって爆発したんじゃないか。
世界の終わりを間近にして、その嫌悪感を隠す事が出来なくなったんじゃないか。
「あいつの近くで何をやってたんだ、私は……」
また呟いた。
ほとほと自分が嫌になって来る。
被害妄想が頭から離れない自分が嫌だったし、
それ以上にその考えを被害妄想と言い切れない自分がとても嫌だった。
244:にゃんこ:2011/06/14(火) 00:47:25.01:toNYD3r30
世界は終わる。もうすぐ終わる……らしい。
多分、それまでに皆、本当の自分を嫌でも見せ付けられる事になる。
私が今、見たくなかった自分の弱さを見せ付けられているみたいに。
こうして世界の終わりを目前にして、
隠していた本当の自分を曝け出して、ありのままで死んでいく事になるんだろう。
そこまで考えて、私はやっと気付いたんだ。
私達はもうすぐ死ぬんだって事に。
死ぬ……んだ。
来週を迎える事も出来ないんだ。
それまでの時間は、当然だけど止められない。
ずっと考えないようにしてきた事だった。
考えないようにして、普段通りの生活をしないと耐えられなかった。
世界の終末……。
その現実を分かっているつもりで、私は何も分かってなかったんだろう。
急に。
考えないようにしてた想いとか感情とか、
そんな色々な物が私の中で目眩がするくらいごちゃごちゃになって……。
それが吐き気になった。
私は近くにあった女子トイレに駆け込んで、思わず吐いた。
初めて心の底から感じる死の恐怖に、私は何度も吐く事になった。
死にたくない……。
死にたくないなあ……。
245:にゃんこ:2011/06/14(火) 00:49:13.95:toNYD3r30
○
しばらく吐いた後。
酸素が行き渡らなくてふらふらする頭で女子トイレから出ると、
何の気配もなく後ろから近づいて来た誰かに優しく背中を撫でられた。
見られた……?
自分の情けない姿を見られたかもしれない事が恥ずかしくて、
私の心臓が少しだけ早く動いてしまっていた。
特に軽音部の部員の誰かに、こんな弱い自分なんて見られたくなかった。
緊張しながら振り返ってみて、私は驚いた。
本当に驚いて、しばらく声が出せなかった。
多分、そこに軽音部の誰かが居たとしても、そこまで驚かなかったかもしれない。
それくらいに意外な人が私の背中を撫でてくれていた。
246:にゃんこ:2011/06/14(火) 00:50:38.43:toNYD3r30
「平気?」
その誰かは特徴的なクルクルした巻き毛を揺らして、私の表情を覗き込んでいた。
その顔は普段の無表情だったけど、
反対に背中を撫でる手付きはとても優しくて、それがまた意外で私は言葉を失っていた。
いや、普段のその人を知ってたら、そりゃ誰だって声が出せないよ。
だって、私の背中を撫でてくれていたのは、
私のクラスメイトの中でもクールで無表情な奴の代名詞こと、
いちごだったんだから。
あの若王子いちごだぞ?
無表情なままではあったけど、
いちごがこんな事をしてくれるなんて誰も想像もしないよ……。
ずっと黙ったままの私を変に思ったんだろう。
無表情に首を傾げながら、いちごがまたぼそりと私に訊ねる。
247:にゃんこ:2011/06/14(火) 00:52:23.89:toNYD3r30
「平気?
私じゃ不満?
軽音部の方がよかった?」
ぶつ切りの言葉で分かりにくかったけど、
つまり私の背中を撫でてるのが軽音部の部員じゃなくて、
いちごだったのを不満に思ってるのかって事なんだろう。
いやいや、もし本当にそうだったら、何様なんだよ、私……。
私は誤解を解くために首を振った。
いちごとは特別に仲が良いわけじゃなかったけど、そんな誤解はされたくなかった。
「そんな事ないよ、いちご。
……ごめん、心配掛けたな」
「別に心配はしてない。
急に女子トイレに駆け込むから、何事かと思っただけ」
「さいですか……。
でも、ありがとうな」
「別に。お礼なんて要らない」
248:にゃんこ:2011/06/14(火) 00:54:04.33:toNYD3r30
相変わらず無表情でぶっきら棒な奴だった。
普段なら取り付く島も無いと引き下がるところだったけど、
今日のところはそういうわけにもいかなかった。
私は背中を撫でてくれていたいちごの手を取って、軽く右手で握った。
バトンをやっているせいか少し豆があったけど、それでも小さくて柔らかい手だった。
「ありがと、いちご」
「だから……、そういうのはいいよ」
そう言っていちごは私から目を逸らしたけど、嫌がってるわけじゃないみたいだった。
無表情だから分かりにくいけど、もしかしたら照れているのかもしれない。
いつもクールないちごの意外な一面を見れた気がして、少し嬉しかった。
それで私の顔が少しにやけてしまっていたのかもしれない。
いちごが急に私と目を合わせると、無表情だけど神妙な声色になった。
「急に吐くなんてどうしたの?
妊娠?」
「そんなわけがあるか!」
「そう……」
「もしかしてからかってる……?」
「さあ……」
249:にゃんこ:2011/06/14(火) 00:54:36.72:toNYD3r30
やっぱり分かりにくいなあ……。
でも、それは別に嫌じゃなかった。
長い付き合いじゃないけど、いちごはそういう分かりにくい奴なんだ。
分かりにくいけど、多分、それがいちごで、それでいいんだよな。
私はそうして一人で納得してから、いちごの手を取ったまま訊ねてみた。
「いちごの方こそどうしたんだよ。
最近、いつも学校で見るけど」
「そっちもね」
「私は高校生の鑑だから、どんな状況でも学校に来るのだよ、いちごくん」
「じゃあ、私もそれで」
「じゃあ、ってなんだよ。じゃあ、って……」
254:にゃんこ:2011/06/16(木) 22:44:51.05:GDoU5EKg0
私は苦笑したけど、いちごは無表情のままだった。
だけど、その顔は単なる無表情とも違っていた。
本当に分かりにくいけど、
よく観察すると何となくいちごの心の動きが見える気がした。
もしかしたら、単にいちごは感情を顔に出さないタイプなだけなのかもしれない。
これまでも何となくそう思ってはいたけど、はっきりとは確信してなかった。
大体、こんなに長い間二人きりでいちごと話したのも、
考えてみれば初めてかもしれないな……。
不思議な感じだった。
さっき吐いたせいで身体はふらふらなのに、
思いも寄らなかったいちごとの会話のおかげで、自分の心がとても落ち着いてる気がする。
死ぬ事に対する恐怖が完全になくなったわけじゃないけど、それでも。
255:にゃんこ:2011/06/16(木) 22:47:51.02:GDoU5EKg0
結局、それ以上、いちごは私が吐いた理由について訊ねなかった。
だから、私もそれ以上、いちごが学校に来ている理由を訊ねなかった。
どちらの理由も、お互いが言いたくなった時に言えばいいだけの事だった。
それに多分、深く詮索し合わないのが、
いちごが人と付き合う時に重視してる事なんだと思ったから。
いちごは決して冷たいわけじゃない。
またいちごに背中を撫でられながら、私はいちごに深く頭を下げた。
「落ち着いたよ、いちご。
ごめん、本当にありがとう」
すると、いちごは私の言葉に対して、またもやとても意外な事を言った。
「関係ない……」
「え?」
「関係ないわけ、ないから」
「ん……あ?」
256:にゃんこ:2011/06/16(木) 22:48:33.01:GDoU5EKg0
また驚かされて、変な言葉が出てしまった。
口癖と言うわけじゃないけど、
いちごはこれまで何事に対しても「関係ないけど」とよく言っていた。
そんないちごが「関係ないわけない」って言ったんだ。
これは驚かされるよなあ……。
勿論、その言葉が私だけに向けられた物だと考えるのは、かなりの自意識過剰だった。
「関係ないわけない」ってのは、
自分と繋がる全てに対して……、って意味合いが強いんだと思う。
今までいちごは色んな事を「関係ない」と言っていた。
それは無関心が理由でもあったんだろうけど、
主にはそれ以上に他人の意思を尊重するって意味で使ってたんだろう。
自分の中の世界を大切にする代わりに、他人の中の世界も尊重する。
だから、お互いに必要以上干渉し合わないようにしよう。
そういう意味で、いちごは「関係ない」って言ってたんだと思う。
その考えは正しいと私も思う。
誰が何をしていても、それは個人の自由で、自分勝手に干渉する事でもない。
だから、他人のする事は自分には関係ない事なんだ。
257:にゃんこ:2011/06/16(木) 22:51:36.57:GDoU5EKg0
でも、「関係ないわけない」というのも、正しい考えだと思った。
他人が何をしていても、自分自身にはほとんど影響がない。
その意味じゃ、他人のする事は自分には何も「関係ない」。
だけど、ほとんどないってだけで、完全に影響がないわけでもないんだ。
他人の、自分の何気ない行動が色んな事に影響を与えて、
何かが大きく変わっちゃう事もあるんだ。
何かと無関係でいられなく事もあるんだ。
私はちょうど今それを強く実感してるところなんだ。
世界が終わるって現状もそうだけど、それ以上に考えてしまうのは……。
「うん……。そうだな……。
関係ないわけ、ないよな……」
私は自分に言い聞かせるみたいに言った。
いちごはその私の言葉については何も言わなかった。
優しく背中を撫でてくれるだけだった。
ただ少し優しさを増したその手付きが、
私の言葉に頷いてくれているみたいには思えた。
258:にゃんこ:2011/06/16(木) 22:53:16.84:GDoU5EKg0
何事にも無関係ではいられない。
いちごと私の関係にしてもそうだし、軽音部の皆と私の関係にしてもそうだ。
取り分け、梓と……澪だ。
特に澪と私はお互いに深過ぎるところにまで関わり合ってる。
小さい頃、私の好奇心から始まった私と澪の関係。
あの時、私がもし澪に声を掛けていなかったら、
澪の人生も、勿論、私の人生も今とは全く別の物になっていたんだろう。
澪がいなければ私はこの桜高には来てなかっただろうし、
私がいなければ澪は澪でそのメルヘンな性格を生かして、文学部か何処かで名を馳せていたのかもしれない。
当然それは仮定の話で、今現在の私が考えても仕方がない事だった。
だから、私は別の事を考えないといけない。
世界の終わりを目前にして、
私は澪との関係をどうするのか、どうしたいのかを考えなきゃいけない。
澪が私の事を好きかどうかは別としても、
少なくとも世界の終わりの日には何をしていたいのかを二人で話さないといけない。
それだけはこの残り少ない時間で私が解決しなきゃいけない事だ。
それで……。
それでもし、解決出来たのなら、その時は……。
まだ何も決まっていない状態で、こんな事を伝えるのは失礼かもしれない。
それでも伝えられるのは今しかなかったし、私達の結末をいちごにも知ってほしかった。
少し躊躇いながら、それでも私はゆっくりとそれを口にした。
「なあ、いちご。もしよかったらなんだけど……」
262:にゃんこ:2011/06/19(日) 02:48:17.55:Hc43SAZ70
○
部室。
いちごと別れた私は、
逃げ出しそうになる脚を無理矢理動かして、軽音部の自分の席に座っていた。
部室の中には私以外誰も居なかった。
代わりと言っては何だけど、私の机の上には変な落書き付きのメモが置かれている。
『あずにゃんをさがしてくるよ!』
落書きといい、文字といい、間違いなく唯の書き置きだった。
いや、書き置きを残してくれるのはありがたいんだけど、相変わらずこの落書きは何なんだ?
猫みたいな生物の両耳の辺りから、
妙に長くて太い毛がにょろりと生えているんだが……。
ひょっとして、これが唯の『あずにゃん』のイメージなんだろうか。
この長くて太い毛をツインテールだと考えれば、
梓+猫のイメージで『あずにゃん』だと考えられなくもない……気もする。
と言うか、自分をこういうイメージで見られてると知ったら、多分梓怒るぞ。
でも、我ながら情けない事だけど、その現状に私はとりあえず安心していた。
別に落書きの正体が『あずにゃん』なんだろうって事とは関係ないぞ。
勿論、今の部室の中に誰も居ない現状の事だった。
色んな問題を解決しなきゃいけないのは分かってる。
それでも、今の私にはその解決の糸口すら見つけられていない。
無理矢理にやる気と使命感を湧き上がらせる事だけは出来ても、
解決のための具体的な方法が全然思い浮かんで来てなかった。
263:にゃんこ:2011/06/19(日) 03:09:45.95:Hc43SAZ70
「いつもこうなんだよなあ、私……」
机に突っ伏しながら、つい呟いてしまう。
ドラムを叩いてる時もよく言われる事なんだけど、私は結構勢いだけで動いちゃうタイプだ。
よく考えて動くべきなんだろうって思う事も勿論あるけど、
それでもこれは私の持って生まれた性格って言うか、
変えたくない自分の中のこだわりって言うか、
とにかく勢いに乗っちゃうノリのいい自分でいたかった。
勢いに乗り過ぎて失敗する事も、誰かを傷付けちゃう事もいっぱいあったけど、
勢いだけでも動いていれば、何かが上手くいくはずだって、多分心の何処かで信じてた。
ううん、今だって、信じてる。
そうやって私は生きて来たんだから。
生きて来れたんだから。
だけど、今は勢いだけじゃどうにもならない。
そんな気もしてる。
何かをしなきゃとは思うし、
勢いで梓や澪の悩みに踏み込んでみるのもありだと思う。
そうすれば案外と簡単に、二人の悩みを晴らしてあげる事も出来るかもしれない。
そうだったらどんなにいいだろう。
でも、今勢いだけで動いたら、これまでの私の経験から考えて、
間違いなく私だけで空回っちゃって、余計に二人を傷付けてしまう気がする。
そんな……気がする。
思い出すのは、二年の時、澪と喧嘩をしてしまった時の事だ。
あの頃、私は自分の傍から澪が離れていく感じがして、凄く焦ってた。
今でも何故かは分からないけど、澪が離れていくのがとても嫌だった。
もしかしたら、ずっと傍に居てくれた澪が私の傍から居なくなったら、
それ以外の誰かもどんどん離れていって、
最後には独りぼっちになっちゃうなんて事を考えてたのかもしれない。
はっきりとは自分でも分からない事だけどさ……。
264:にゃんこ:2011/06/19(日) 03:26:38.52:Hc43SAZ70
だから、私はどうにか澪の注意を自分に向けさせようって思ったんだと思う。
勢いに乗ってふざけたりしていれば、いつもどおり澪がこっちに向いてくれるって思った。
でも、それは失敗した。
私のした事は澪を怒らせ、困らせるだけだった。
分かってくれない澪に私は腹を立てて、
それ以上に澪を困らせてしまった私に腹を立てて、しばらく軽音部にも顔を出せなかった。
それどころか風邪までひいちゃって、顔を出したくても出せない状況にまでなった。
さっき吐いたのもそうなんだけど、
私って意外と繊細で、少しでも精神的に参るとすぐに身体の方にも影響が出るんだよな。
こんな繊細さなんて、何の自慢にもなりゃしないけど……。
あの時、私は澪を傷付けた。
傷付けてしまったと思った。
そう思うと自分のしてしまった事が恐くて、何も出来なくなって。
勢いで前に進みたい自分と、それを止めようとする自分で雁字搦めになって……。
本当に意外に繊細で、それが自分でも嫌になる。
そういう意味で考えると、澪以上に気になるのが今の梓だった。
私の姿を見て逃げ出した梓。
嫌われてしまったのかもしれないし、嫌われる原因はいくつも思い当たる。
でも、それは被害妄想として片付ける事は出来る。
それだけなら、私もどうにか梓のために動き出せると思う。
動けなくなるのは、自分が梓に好かれる要素が一つも思い当たらなかったからだ。
265:にゃんこ:2011/06/19(日) 03:48:59.08:Hc43SAZ70
唯は梓を可愛がってるし、梓もかなり唯に懐いてると思う。
澪は梓の憧れの先輩で、澪の梓に対する指導は的確だ。
ムギも梓に優しいし、お互いに信頼し合っているみたいだ。
私……はどうなんだろう?
私は梓に対してどんな先輩だ?
可愛がっていたか?
いい先輩だったか?
優しくしてやれたのか?
……答えは出せない。
それでも、嫌われてると考える事よりも、
好かれてないのは間違いないと考えられる事の方が、私にはとても辛かった。
「なあ、お前は梓から何か聞いてないか?
私の事について……とかさ」
ちょっと思い立って、私は水槽に視線を向けてトンちゃんに呟いてみる。
トンちゃんは私の言葉を聞いているのかいないのか、
いつもと変わらず優雅に泳いでいた。
そりゃそうだ。
でも、思った。
梓は私だけじゃなく、軽音部の他の皆にも今の自分の悩みを話してくれなかった。
だけど、もしかしたらトンちゃんになら話しているかもしれない。
トンちゃんを一番世話しているのは梓だ。
『終末宣言』後も、梓はずっとトンちゃんの世話を欠かさなかった。
だから、梓もトンちゃんにだけは、自分の悩みを打ち明けているかもしれない。
勿論、それでどうなるわけでもない。
トンちゃんが私達の言葉を分かってるかどうかも分からないし、
もし分かってたとしても、私にもトンちゃんにもどうしようもない。
だって……。
「喋れないもんなあ、お前……」
266:にゃんこ:2011/06/19(日) 04:07:37.67:Hc43SAZ70
私は呟きながら、つい苦笑してしまう。
トンちゃんは喋れないって当たり前の事をおかしく思ったからじゃない。
もしも喋れたとしても、
トンちゃんなら梓の悩みを人に言ったりしないんじゃないかと思えたからだ。
梓もそう思っているから、トンちゃんに悩みを打ち明けているんだろうか。
「トンちゃんより信頼されてない部長か……」
それは全部私の勝手な思い込みだけど、少し落ち込んだ。
駄目だ駄目だ。
弱気になってるばかりじゃ、本当に何も出来ないままに終わっちゃうじゃないか。
突然。
そうやって頭を振っている私の耳に予想外の声が響いた。
「ハーイ! アタイ、スッポンモドキのトンちゃん!
チェケラッチョイ!」
「喋ったあああああ!」
つい叫んでみたけど、勿論そんな事があるわけない。
乗っておいて何だけど、呆れた視線を部室のドアの方に向けてみる。
聞き覚えのある声だからその声の正体は分かっていたけど、
それでも、その人の顔を確認しない事には、ちょっと信じられなかったからだ。
「何やってんだよ、和……」
その声の正体を確認して、私はつい肩を落としてしまう。
私のせめてもの願いも空しく、そこに立っていたのは予想通り和だった。
いや、本当に何やってんだよ、和……。
せめて和だけはボケ担当になってほしくなかった……。
271:にゃんこ:2011/06/21(火) 01:28:38.77:cHOTjrFR0
私がそうやって呆れた視線で見つめてみたけど、
和は何でもない様な顔で部室の中に入って来ながら言った。
「たまにはね」
「たまにはって和……」
「律がトンちゃんと話したいみたいだったから」
「……見てたのかよ」
「ええ」
「そっか……」
本当なら見られたくない自分の姿を、
人に見られてしまった私は焦るべきだったんだろう。
だけど、何故かそんな気は起きなかった。
見られた相手が和だからかもしれない。
「お母さんみたい」ってのが皆の和に対する評価だけど、私も何となくそう思ってる。
だから、私は不思議なくらい焦らなかったんだろうな。
272:にゃんこ:2011/06/21(火) 01:44:46.03:cHOTjrFR0
和は私がトンちゃんに話しかけていた事について、とりあえずはそれ以上触れなかった。
ただ部室の中に入って来て、長椅子の辺りで軽く微笑んでるだけだった。
私も釣られて軽く笑ってしまう。
何だかとても落ち着く空気が流れてる気がした。
でも、二人して微笑んでるだけっていうのも、何となく気恥ずかしかった。
私は頭を掻きながら、微笑んでる和に訊ねてみる。
「ところでどうしたんだ、和?
唯ならいないぞ」
「いいのよ。唯がいないのは知ってるわ。見てたもの」
それもそうだった。
私がトンちゃんに話しかける姿を和が見てたって事は、
和が部室の外からドアの隙間越しに部室内の様子を伺ってたって事だ。
唯がいない事は分かり切ってる事だった。
でも、だったらどうして部室に?
その疑問を私が口にするより先に、私の考えを読み取ったのか、和がその答えを口にした。
「今日は律に用があって来たのよ」
「私に?」
少しだけ意外だった。
和とはいい友達だけど、二人きりで話をする事は少なかった。
特に和自身に私への用事があるなんて、滅多にない事だったからだ。
私は好奇心を抑え切れず、和にまた訊ねてみる。
「何? 私に何の用?」
273:にゃんこ:2011/06/21(火) 01:59:34.47:cHOTjrFR0
すると和が少し激しい表情になって、
私達の間ではお決まりになっている台詞を口にした。
「ちょっと、律!
講堂の使用届がまだ提出されてないわよ!」
「忘れていたー!
……って、何の届けやねん!」
習慣でつい叫んじゃったけど、途中で思い直して和に突っ込んだ。
確かに私は書類を提出するのを忘れがちだけど、今は提出する書類なんてなかったはずだ。
疑いの眼差しで和を見つめたけど、
和はそれを気にせずにまた平然とした普段の表情に戻るだけだった。
怒った様子は演技だったみたいだけど、
書類の話自体は本当だったって事なのか?
何か出さなきゃいけない書類なんてあったっけ?
って、確か和は講堂の使用届って言ってたよな……。
まさか……。
そう思いながら、私はおずおずと和に訊ねる。
「講堂の使用届……?」
「そうよ」
「講堂を何のために使うの……?」
「放課後ティータイムのライブのため」
「使用届、必要なの……?」
「それはそうよ。
使いたがってる部も多いんだから」
「マジで?」
「マジよ」
「大マジ?」
「大マジよ」
274:にゃんこ:2011/06/21(火) 02:15:35.91:cHOTjrFR0
知らなかった……。
と言うか、まだそんなシステムが生きてたとは思わなかった。
それに講堂を使いたがってる部が他にあったなんて、
世界が終わる直前って言っても……、
いや、直前だからこそ、考える事は皆同じなんだな……。
これは素直に自分の考えが甘かったって思った。
私は和に頭を下げる。
「ごめんな、和。
まさか私達以外に何かやりたがってる部があるなんて思わなくて……。
でも、何で和がライブの事を知ってるんだ?
それに私達が講堂を使うかどうかも、まだ決めてなかったんだけど……」
私の言葉に和が少し優しい顔になった。
でも、それは私に対して優しくなったわけじゃない。
それは和が唯の事を話す時にする顔だったし、
その後に和が話し始めたのはやっぱり唯の話だった。
「唯がね。
最後に大きなライブをやるって言ってたのよ」
「やっぱり唯だったか。
信代だけじゃないとは思ってたけど、
唯の奴、あっちこっちで宣伝してんな……」
「そうね。でも唯、楽しそうだったわよ。
「絶対、歴史に残すライブにする!」って言ってたしね」
「あいつ、そのフレーズ好きだな、オイ」
275:にゃんこ:2011/06/21(火) 02:30:32.77:cHOTjrFR0
私が笑いながら言うと、和も「そうね」と優しく笑った。
「私とライブの事を話した時も五回くらい言ってたし、
今はそれが唯の好きなフレーズなのね。
でも、あの子、何処でライブをやるのかも決めてないみたいだったから、
それで律に講堂の使用届の事を話しておこうと思ったのよ」
「いや、別に私も部室でするか、
最悪グラウンドでやれればいいか、って思ってたんだけど……」
「駄目よ。
部室だと小さなライブになるし、グラウンドだと天候に左右されるじゃない。
「絶対、歴史に残すライブにする」んでしょ?
こういう準備はちゃんとしておかないとね」
「そうだな……。ありがとう、和。
「絶対、歴史に残す」んなら、会場もでっかいライブにしないとな……。
なあ和、講堂の使用届、まだ間に合いそうか?」
「深夜なら空いてなくはないけど、金曜日までは無理ね」
「もうそんなに予定が埋まってるのか?」
「ええ。どこの部も最後に何かを発表したいみたいだし、
桜高以外の団体からも申し込みがあるから、ほとんど埋まってるわね。
こんな時だけど、こんな時だからこそ、
そういう予定はきちんと組んでおかないと……。
それでまだ空いてる時間となると、金曜日か土曜日の夕方になるわ」
「金曜か、土曜か……」
280:にゃんこ:2011/06/23(木) 01:20:18.23:74LZJUpb0
そう呟きながら、私は迷っていた。
本当なら考えるまでもなく、金曜日にライブをやるべきだ。
いや、どうしても金曜日が好きってわけじゃなくて、
消去法で考えると必然的に金曜日しかなくなるだけだ。
だって、そうじゃないか。
よりにもよって世界の終わりの日の前日の土曜日にライブをやるなんて、
演奏する私達はともかく、呼ばれた皆にとっては迷惑この上ないだろう。
馬鹿らしい例えだけど、
それこそ富士山頂でやる結婚式に招待されるくらい迷惑に違いない。
だから、考えるまでもない。
ライブは金曜日の夕方。
これで決まりだ。
でも……。
そこまで考えて私は不安になる。
本当に金曜日で間に合うのか、とても不安になってしまう。
新曲は完成してないし、
梓の問題も澪との関係もまだ解決してない。
こんな状態でまともに演奏なんて出来るんだろうか……。
そうやって私は唸っていたけど、
気になって目をやると、私の様子を和が静かに見てくれている事に気付いた。
唯の事を話す時みたいな優しい表情の和が私の瞳の中に映る。
見守ってくれてるんだな、和……。
思わずそう考えていたけど、その考えは少し気恥ずかしくて、
私は顔が熱くなるのを感じながら、その気恥ずかしさを誤魔化す事にした。
「和、悪いけどもう少し考えたいから、ちよっと待ってくれるか?
あと立たせたままってのも悪いし、何処か空いてる席に座ってくれよ」
281:にゃんこ:2011/06/23(木) 01:44:54.00:74LZJUpb0
「じゃあ、お言葉に甘えて」と和が私の言葉に従って、席の近くまで移動する。
バランス的に澪の席に座るんだと思ってたけど、
それから和が選んだのは意外にも私のすぐ隣の梓の席(と言うより椅子)だった。
予想外に和と接近する事になって、私は少し緊張してしまう。
同時に普段梓が座っている席に和が座っている状況に新鮮さを感じる。
ありえない話ではあるんだけど、
もしも和が軽音部に入ってくれていたら、
こういう席割で一緒にお茶してたりしてたのかな。
「どうしたの、律?」
「ん、あ、いや、何となく……さ。
新鮮だなー、って思って」
「何が?」
「和と二人でこんなに近くで話すなんて、あんまりなかったじゃん?」
私がそう言うと、和が何となく悪戯っぽい顔を見せた。
最近、和がたまに見せてくれるようになった顔だ。
「そうね。
私が律に話し掛ける時は、大抵がお説教だったものね」
「いやいや、そんな事はありませんって。
和様にはいつも本当に感謝しておりますって。
たまに頂くお説教もありがたい事ですって」
笑いながら私が言うと、和も小さく微笑んでくれた。
いつも真面目で優等生な和だけど、冗談が通じないわけじゃない。
本当にたまにだけど、和の方から冗談を言ってくれる事も最近は増えてきた。
確信はないけど、それが私達の仲良くなった証拠だったら嬉しい。
282:にゃんこ:2011/06/23(木) 02:02:23.39:74LZJUpb0
「そういえば、それは何なの?」
微笑みながら和が指差したのは、唯の置いた書き置きだった。
机の上に置いたままにしてたから、目に入って気になったんだろう。
私はその質問には答えずに、「あいよ」と和にその書き置きを手渡した。
見てもらった方が分かりやすいし、自分で考えた方が面白いだろうと思ったからだ。
渡された書き置きを見た和は一瞬困った顔をしたけど、
すぐに「ああ、そっか」と明るい顔になって呟いた。
「この猫みたいな何かが『あずにゃん』って事ね」
「分かるの早いな!
私でも分かるのに二十秒くらい掛かったぞ?
流石は幼馴染みってやつか?」
軽くからかったつもりだったけど、
急に和の表情が萎んでいくのが目に見えて分かった。
あんまり急激に表情が変わるもんだから、
何かまずい事を言っちゃったのかって私が不安になるくらいに。
冗談を言う時の悪戯っぽい顔は見せてくれるようになった和だけど、
そんな本当に辛そうな表情の和を見るのは初めてだった。
そんな今にも泣き出しそうな和なんて……。
何て声を掛ければいいのか迷ったけど、私はまずは謝る事にした。
和の表情が辛そうに変わった原因が私の言葉なんだとしたら、
私は和に謝らないといけない。
283:にゃんこ:2011/06/23(木) 02:15:39.18:74LZJUpb0
「あの、和……。
ごめん……な」
「何……が……?」
「だって、そんな……。
そんな辛そうな顔してるの、私のせいなんだろ……?
ごめん……。いつも私、そういうのに気付けなくて……」
「律のせいじゃないわ……」
「だけど……」
「いいのよ。私の方こそごめんなさい、律……。
律相手なら、何とか耐えられるって思ってたんだけど……。
駄目みたいね。本当にごめんなさい……」
「耐えられる……って?」
一瞬、弱気な私が顔を出して、
和が私の事を嫌いだからその嫌悪感に耐えてる、って後ろ向きな考えをしてしまう。
和がそんな人じゃないのは分かっているのに。
分かり切ってるのに。
何を考えてるんだよ、私。
本当におかしいぞ、今日の私は……。
勿論、和の「耐えられる」って言葉は、そういう意味じゃなかった。
和は静かに私のその被害妄想を解き放つ言葉を口にしてくれた。
「唯の事を考えるとね……。
駄目なのよ……」
284:にゃんこ:2011/06/23(木) 02:27:11.90:74LZJUpb0
私は自分の被害妄想を恥じながら、
それでも今は和の言葉の続きを聞く事にした。
恥ずかしがるのは後からでも出来る。
今は和に失礼な考えをした分、和の言葉を聞かなきゃいけない時だった。
「唯と……、何かあったのか……?」
「ううん、そうじゃないわ。
唯はずっと私の幼馴染みで腐れ縁で、こんな時でも明るく話し掛けて来てくれる。
本当に明るい顔で笑ってくれる。
だから、唯の事を思うと、辛くなるの……」
「だけど、さっきは……」
「ええ。唯の話で笑えたわ。笑えてたと……思う。
でも、それはライブをするっていう未来の事を考えられるからなのよ。
まだ先に唯の笑顔を見られる時間があるって、それが嬉しくて安心出来るのよ。
だから、先の話じゃなくて、昔の話を思い出しちゃうと駄目だわ。
まだ私達が小さくて、小さい唯が笑ってた頃を思い出しちゃったら、
否応無しに私達に残された時間は本当に短い事に気付いちゃって……。
それが、辛いのよ……」
285:にゃんこ:2011/06/23(木) 02:44:53.66:74LZJUpb0
和の言葉を聞いていて、私は一つ気付いた。
さっき和は軽音部に入る前に、ドアの隙間から部室の中を覗いていた。
それは私がトンちゃんに話し掛けているところを覗き見したかったからじゃない。
きっと和は唯が部室の中に居るかどうかを確かめてたんだ。
唯の顔を見ると辛くなるから、
私一人しか居ない事を確かめてから部室に入ってきたんだ。
今の私が澪と顔を合わせる事が恐いのと同じように。
和はまた言葉を続けようと口を開く。
多分、ずっと我慢していたんだろう。
和の言葉は止まる事はなかったし、私も止めようとは思わなかった。
タイプは違っているけれど、私と和は本当はかなり似てるんじゃないかと思えたんだ。
「もうすぐ終末が来るらしいわよね……。
それは私も分かってるし、もう逃れられないってのも分かってる。
勿論、私自身が死ぬのは恐いし、嫌だわ。
私だってまだやりたい事が沢山あるもの。まだ死にたくないわよ。
でも、私が死ぬ事よりもっと恐い事があるの。
それは多分、律も同じだと思う」
「私も……?
そうか……。うん、そうだよ……。
私だって死にたくない。死ぬのは本当に恐い。
周りに恐がってる様には見せないけど、やっぱり恐いよ。
でも、私も和と同じにもっと恐い事があるな……」
そのもっと恐い事について、
和はとりあえずは触れなかった。私も今は触れなかった。
その代わり、和が少しだけ落ち着いた表情になってから、私に訊ねた。
286:にゃんこ:2011/06/23(木) 02:55:45.29:74LZJUpb0
「律もやっぱり恐いのよね……」
「和もな」
「私が言うのも何だけどね。
律ってこんな時でも毎日学校に登校してるみたいだし、
いつも唯と一緒に楽しそうに遊んでるから、終末なんて恐くないように見えたのよ」
「和が言うなよ。
和だって毎日じゃないけど学校で見るし、
ちょっとボケてみてもすごい冷静な顔で私に突っ込むじゃんか。
和には世界の終わりなんて何ともないんだって思ってたぞ」
「失礼ね。私を何だと思ってるのよ、律は」
「和の方こそ、私を何だと思ってんだよ」
言って、私は頬を膨らませて和を軽く睨む。
和も少し不機嫌そうな顔で私を見つめて……。
それから、すぐ後に二人して苦笑した。
何だよ。
二人ともお互いを同じ様な目で見てたってわけか。
やっぱり私達は何処か似てる所があるのかもしれない。
287:にゃんこ:2011/06/23(木) 03:15:30.36:74LZJUpb0
「何かさ……。
強がっちゃうんだよな……」
つい私は口に出していた。
和の前だと何故か素直になれている気がする。
近過ぎず、遠過ぎず、とても微妙な距離感の仲の私と和。
遠い他人じゃないけど、近くて本音を言えない相手とも違う。
二人きりになる事は少ないし、ずっと傍に居たいと依存してるわけでもない。
それでも、絶対失いたくない相手。
多分だけど、私と和はそんな関係の大切な友達なんだろう。
和もそう思ってくれているのかもしれない。
辛そうな表情は完全になくなってはいなかったけど、
それでも少しの優しさと穏やかさを取り戻した表情で和が言った。
「私は強がりとは違うんだけど……、
どんな時も落ち着いてなきゃって思ってたわ。
兄弟も小さいし、恐がってる姿なんて見せられないもの。
でも、それってやっぱり強がりなのかしらね?
下手に落ち着こうとするのは、逆に恐がりな証拠って話もよく聞くし……」
「難しい話はよく分かんないけど、でも、言いたい事は分かるな。
私は世界の終わりが恐くて、それよりも恐がってる自分がもっと恐くて……さ。
上手く言えないけど、だから、恐がりたくなかったんだよな。
多分、いつもの自分じゃない自分になるのが、本当に恐かったんだと思う。
でも、それよりももっと恐いのが……、悲しいのが……」
288:にゃんこ:2011/06/23(木) 03:29:43.94:74LZJUpb0
そこで私は口ごもる。
言葉にするのが恐かった。
言葉にして実感してしまうのが恐かったし、
言葉にして和に実感させてしまうのが恐かった。
これからも強がるためには、それに気付かないふりをしている方がいいんだろう。
でも、その私の言葉は和が力強く継いでくれた。
そう。和は見ないふりをするのをやめたんだ。
「死ぬのは恐いわ。
きっと色んな物を失っちゃうんだろうって思うと恐いわよね……。
だけど、そんな事より、皆が死んじゃう事の方がずっと恐いわ。
家族が、唯が、憂が死ぬ事を考えたら、自分が死ぬ事を考えるより嫌な気分になる。
悲しくなるのよ、とても……」
「そうだよな……。
そう……なんだよな……」
私も父さんや母さんに聡……、
澪がもうすぐ死んでしまうって現実がすごく恐くて、悲しかった。
自分が死ぬのは嫌だけど、多分、それだけなら私も耐えられると思う。
だけど、私以外の誰かが死ぬって想像だけは、恐くてたまらなかった。
私自身より、澪が死んでしまう事の方が、何倍も辛かった。
だから、和は泣きそうな顔をしてるんだ。
私も泣き出したくなってるんだ。
291:にゃんこ:2011/06/25(土) 01:48:08.98:NEewVLDL0
もうすぐ私達は消えていなくなってしまう。
人間も、人生も、歴史も、何もかもが消え去ってしまう。
大切で、大好きな人が跡形もなく消えてしまう。
残された時間は本当に少なくて、
それまでの時間を私はせめて大切な幼馴染みと過ごしたいと思った。
幼馴染みに無理をさせて、自分で無理をして、
お互いに無理ばかり重ねながらだけど、それでも一緒の時間が欲しかったんだ。
もうすぐ終わる世界で、泣きながら過ごしたくなかったから。
「友達が居なくなるのは、嫌だもんな……」
私は自分に言い聞かせるように呟いてみる。
言葉にしてみると、少しずつ実感出来てくる気がした。
そうだよな。
別に難しい事じゃなかったんだ。
この世界の終わりが恐くて、悲しい理由は本当はすごく単純だったんだ。
友達を無くしたくないんだ、私は。
だから、澪を無理して学校に登校させてる。
だから、梓に嫌われたと思うのが、本当に悲しかったんだ。
292:にゃんこ:2011/06/25(土) 02:07:45.82:NEewVLDL0
「そうよね。
自分の傍に居てくれた誰かが居なくなるなんて、嫌よね……」
私の呟きは和にも聞こえていたらしい。
和も私の言葉に頷きながら呟いた。
馬鹿みたいに単純だけど、
人が死にたくない本当の理由はそんなものなのかもしれないよな。
勿論、友達が死んでほしくない理由も。
少し違うかもしれないけど、
前は私はこういう話を聞いて不安になった事がある。
自分が二十歳前後で自立するとして、両親が七十歳まで生きるとする。
そうすると、自分が年に十日の里帰りを毎年行ったとしても、
両親と一緒に過ごせる時間は、合計しても半年と少しという計算になるんだそうだ。
その話を高橋さん(だったと思う)から聞いた時、私はとても不安になった。
受かればの話だけど、大学生になったら寮に入るつもりだったし、
将来的には家自体の事を聡に任せて、私は家から出てく事になってたんだろうと思う。
それは普通の事で、特に意識した事もなかったけど……。
それでも、具体的に数字にして表されると、何だか焦ってしまって仕方がなかった。
そんなに短いんだ……、ってそう思えて不安だった。
いつかは居なくなる両親なんだって分かってたつもりだったけど、
単に私は考えないようにしてただけなのかな……、どうにも分かってなかったみたいだ。
293:にゃんこ:2011/06/25(土) 02:24:50.78:NEewVLDL0
自分と誰かの関係は時間制限付きなんだ。
両親とだってそうなんだから、誰とだってそうなんだ。
世界が終わるからってだけじゃなくて、
普通に生きてても、友達との時間制限は一つずつ尽きていってたんだろう。
こう考えるのは嫌だけど、
澪との関係もいつかは尽きてたんだろうな……。
その原因が喧嘩別れなのか、どっちかの死なのかは分かんないけどさ。
「頑張らないと、いけないわよね」
急に和が言った。
これまでみたいな呟きじゃなくて、少しだけど力強い言葉だった。
「唯の顔を見てると泣きそうになるし、辛いけど……。
でも、私は唯と一緒に居たいもの。
残された時間は少ないから、早く唯の顔を見ても泣かないように頑張るわ」
「無理はするなよ……って、そんな事は言ってられないか。
ははっ、こう言うのも変だけどさ」
お決まりの台詞と逆の言葉を言ってしまって、私はちょっと笑ってしまう。
和も眼鏡の奥の表情が緩んだように見えた。
「でも、終末だからってだけじゃなくて、
どんな時だって、誰だって無理して生きてるものだって私も思うわ。
勿論、無理せずに生きられるなら、
それに越した事は無いんでしょうけど、中々そうはいかないものね。
……頑張らなくちゃね」
294:にゃんこ:2011/06/25(土) 02:36:56.60:NEewVLDL0
「そうだな、和。
だからさ」
「そうね」
「これからも無理しよう、和」
「これからも無理しましょう、律」
二人の言葉が重なって、二人で笑った。
「無理しよう」なんて、基本努力が苦手な私に言えた事じゃないけど、
それでも多分、今は無理した方がいい時なんだろうって思えた。
私達に残された時間は少ないし、悲しくて辛い事も多い。
だけど、私達は立ち止まってなんかいられない。
立ち止まってるわけにはいかないんだ。
こう言うと少年漫画の台詞みたいだけど、実はそんな格好のいい決意表明じゃない。
本当は立ち止まっていられないから。
立ち止まったら不安で死にそうになるから。
泳いでないと死んでしまうらしいイルカやマグロ的な意味で、
無理をしてでも、私達は立ち止まっていられないんだ。
それがいい事なのか、悪い事なのかは分からない。
無理をする事で、また誰かを傷付けてしまうかもしれない。
また自分が傷付くかもしれない。
だけど、そうしながら、私と和は進み続けていくんだと思う。
和ならきっと大丈夫。
和ならもうすぐ立ち直れて、いつもみたいな冷静な突っ込みを見せてくれるようになれる。
最後の日まで唯と笑い合えるようになれるはずだ。
295:にゃんこ:2011/06/25(土) 02:51:56.45:NEewVLDL0
私の方は……、まだ分からない。
進み続けるのはやめないと思う。
もしかしたら、その先には誰からも嫌われて、
一人で生きていくしかない未来が待っているのかもしれないけど……。
また少し気弱になってる私の考えを察したんだろう。
机の上に出してる私の右手に、和が軽く自分の右手を乗せた。
唯や私とは違って、普段は決して誰かの身体に触ったりしない和の意外な行動だった。
「後悔だけは、したくないものね」
それは私に向けられた言葉ではあったけど、
きっと和自身にも向けられた言葉でもあったと思う。
どんな結果になっても、後悔はしたくない。
それは世界の終わりが近くなくても当たり前の事だったけど、
世界の終わりが近いからこそ、よくある言葉だけど重く心に残る言葉になった。
「確かに後悔は、したくないな……。
もう残り少ない時間だけど、せめて自分の気持ちに正直に……。
最後まで……」
301:にゃんこ:2011/06/29(水) 22:09:31.41:6fUAm3zg0
後悔は、したくない。
和の手の温かさを感じながら、思う。
おかげで一つだけだけど、答えも出せた。
「決めたよ、和」
「決まったの?」
「ライブだけど、土曜日の夕方にする事にする」
「それでいいのね?」
「ああ」
私が言うと、和は頷いて、私の答えを受け入れてくれた。
本当は金曜日の夕方にライブをした方がいいんだろう。
私もそう思わなくはないし、和もそっちの方がいいと考えてるはずだ。
でも。
金曜日じゃ、間に合わない。
今のままの私たちじゃ、どうやっても満足のいくライブは出来ない。
絶対、悔いの残るライブになってしまうだろうから。
そう思ったから。
私は土曜日の夕方に、最後のライブをする事に決めた。
勿論、一日の猶予じゃ、ライブの出来にそう変わりはないかもしれないけど……。
少しでも私達の目指す「歴史に残すライブ」に近付けるのなら、そうするべきなんだ。
私は後悔はしたくないし、誰にも後悔させたくない。
302:にゃんこ:2011/06/29(水) 22:11:57.16:6fUAm3zg0
ライブを見に来てくれる人は大幅に減るだろう。
今のところ三十人くらいを呼ぶ予定だけど、何しろ世界の最後の日の前日の事だ。
誰にだって私達のライブなんかより大切な予定があるだろうし、それは仕方のない事だと思う。
大体、土曜日の夕方にライブをする事自体、私の我儘なんだ。
ライブに来れない人達を責める事なんて出来ない。
最低、本当に数少ない身内だけのライブになる可能性も大きいな。
憂ちゃんはまず間違いなく来てくれるだろうけど、
放任主義の私の家族はどうなるかは分からないな。
聡にだって最後に何か予定があるかもしれないし。
それも仕方なかったし、それでいいんだと私は思った。
私達は最後に私達の満足のいくライブをやりたい。
多分それが世界の終わりに対して出来る、私の最後の抵抗だ。
「ねえ、律」
不意に和が温かい指を私の指に強く絡める。
強く強く、包んでくれる。
私は少し気恥ずかしい気分になりながら、でも訊ねた。
「どうしたんだ、和?」
「私、軽音部の最後のライブ、絶対見に行くから」
「いいのか?」
303:にゃんこ:2011/06/29(水) 22:19:13.83:6fUAm3zg0
予定とか大丈夫か?
私がそう言うより先に、和は優しく静かに頷いてくれた。
「スケジュールは絶対に空ける。
貴方達のライブ、絶対に見届けるわ。
見届けたいもの。唯が夢中になった音楽の魅力を。
唯を夢中にしてくれた律の音楽をね」
「そんな大したもんじゃ……」
「ううん、そんな事ないわ。
動機はどうであっても、律はぼんやりしてた唯の生きる理由を見つけてくれた。
そのきっかけになってくれた。そんな音楽を律は作ってくれた。
あんまり上手くなくても、お茶ばかりしてても、
それは全部、貴方達の音楽に、放課後ティータイムに必要なものだったんだって思うもの。
だから、見届けたいのよ、私のためにもね」
和の言葉に私は目を伏せてしまう。
滅多に自分の音楽について褒められた事がないから、
嬉しいんだか恥ずかしいんだか、どうにも身体中がむず痒かった。
その私の気恥ずかしさも察したんだろう。
本当に気の利く和は微笑んで、自分の制服のポケットの中から何かを取り出した。
何かと思えば、それは澪ファンクラブの会員証だった。
304:にゃんこ:2011/06/29(水) 22:21:57.44:6fUAm3zg0
「それに私、ファンクラブの会長だしね。
会長として、澪の演奏も見ておきたいしね。
勿論、律の演奏も楽しみにしてるわ」
「律義だよなー、和も……」
「『律』に『義』を通すから、『律義』ってところかしらね」
「また和がボケた!」
「たまにはね」
ボケはボケなんだけど、
ちょっと難しくて理知的なところが和らしく、それがおかしくて私は軽く笑った。
和も微笑んでいた。
その笑顔は不安を拭い切れていなかったかもしれないけど、私達は笑い合えていた。
世界の終わりまで、あとほんの少し。
それまでに出来る事は本当に少ない。
力のない凡人の私に出来る事は、ライブの成功のために駆け回る事だけだろう。
唯のように天才肌じゃなく、澪みたいな努力家でもなく、
梓やムギみたいな幼い頃からのサラブレッドでもなく、単に部長ってだけの私。
軽音部の中で一番足を引っ張ってるのは、多分私なんだろうって自覚はある。
でも、私は部長だから。
こんなんでも部長だから、最後くらいは部のために何かをしないといけないと思う。
305:にゃんこ:2011/06/29(水) 22:22:37.14:6fUAm3zg0
何かを……、出来るだろうか……?
いいや、やるんだ。やらなきゃいけないんだ。
これが無理を出来る最後の機会なんだ。
ここで無理をしなきゃ、きっと私は世界の最後の日まで後悔をし続ける事になる。
「大丈夫よ」
和が私に視線を向けて力強く言った。
励ましでも気休めでもなく、心の底からそう思ってくれているみたいだった。
「律なら大丈夫。
それに梓ちゃんも、律の事を大好きだと思うわよ」
「「大好き」……って、流石にそれは言い過ぎだろ……。
せめて「嫌いじゃない」くらいならいいな、って私も思うけどさ……」
「ううん。梓ちゃんは絶対に律の事が「大好き」だと思うわ。
だから、言えないのよ、色んな事が。
本当に辛い事ほど、「大好き」な人には言えないものだから……」
そうかな、と言おうと口を開いて、私はすぐに口を閉じた。
そうだったな。
和は唯が「大好き」だから顔を合わせられなくて、
私も多分、澪が「大好き」だから逃げ出しちゃったんだ。
梓も、そうなんだろうか……?
こう思うのは不謹慎過ぎるけど、そうだったらいいな、と私は思った。
もしもそうだとしたら、私の手がまだ梓に届くかもしれないから。
まだ梓の力になれるんだから。
306:にゃんこ:2011/06/29(水) 22:25:25.97:6fUAm3zg0
○
和は唯達が戻って来るより先に軽音部から出て行った。
生徒会の仕事が残ってるみたいだったし、
唯と顔を合わせるにはまだ心の整理が出来ていないらしかった。
和にもまだ少しだけ迷いが残っているんだろう。
それについて私が和に出来る事はなかったし、逆にしなくていいんだって思った。
和は一人で立ち直れるし、一人で立ち直りたいんだ。
最後まで和が私に助けを求めなかったのは、そういう事なんだと思うから。
私に出来るのは、その和を見守る事だけなんだ。
軽音部から出て行く時、和は私の顔色が悪い事を指摘してくれた。
鞄の中に入れっ放しだった手鏡で自分の顔を見てみると、確かに酷い顔をしていた。
別に和との会話で疲れ果てたってわけじゃない。
さっきまで吐いてたんだから、この顔色はある意味当然だった。
いちごや和のおかげで気分の方は良くなっていたけど、顔色はまだ正直だ。
私は洗面所で顔を洗い、一足先に弁当を食べる事でどうにか顔色を誤魔化す事にした。
それがどれくらい効果があるかは分からないけど、
軽音部の皆の前では少しでも落ち着いた顔をしておきたかった。
弁当を半分くらい食べ終わった頃、唯達が梓を連れて部室に戻って来た。
唯達が梓を探しに行ったのは、今日は昼前から梓が来ているはずだったのに、
全然姿を見せる気配が無かったのを不安に思ったからだそうだった。
その時の唯とムギはいつも通りに見えたけど、澪と梓の様子はどうもよくないように見えた。
とは言っても、澪と梓が昨日の険悪な雰囲気を引きずってるわけじゃなく、
お互いがお互いに別の事を悩んでいるようだった。
307:にゃんこ:2011/06/29(水) 22:28:35.66:6fUAm3zg0
まず澪の方は私と目を合わせず、唯やムギとばかり話している。
それも話しているのはイルクーツクとか、カムチャッカとか、
明らかに何かを誤魔化しているような内容ばかりだった。
オカルト研の部室の中の二人の事を考えてしまっているのか、
それとも全く違う事を考えて私から目を逸らしているのか、それは分からない。
梓は梓でまた無理をして笑っていた。
学校を一人でうろついていた事も、今日軽音部に中々顔を出さなかった事も、
「何でもないです」と口癖みたいに繰り返しながら、澪とは違って何度も私の方に視線を向けていた。
声を掛けようとした私の前から逃げ出した事を気にしているんだろう。
それについて、私は梓に何も聞かなかった。
聞かなかった理由は私にも分からない。
今聞くべき事じゃないのは確かだったけど、もしかしたら私もまだ恐かったのかもしれない。
うっかり訊ねてしまって、梓から嫌悪感に満ちた視線を向けられるのが恐かったのかも。
勿論、そうやって恐がり続けていいはずがないし、いつかは梓にそれを訊ねないといけない。
だけど、流石に澪と梓の二人の事を同時に考えるのは、私には出来そうもなかった。
まずは片方の問題から解決しないといけないだろう。
二人とも大切な仲間なんだし、
どちらかに優先順位を付けるのは嫌だったけど、そうも言っていられない。
少し悩んだけど、私はまず澪との問題を解決しようと思った。
澪の方が好きだったから。
……という理由ならまだよかったのかもしれない。
澪の方を選んだのは、本当はもっと消極的な理由からだった。
簡単な理由だ。
澪との関係に対する問題は、私が勇気を出して澪に訊ねるだけで済む事だ。
それはそれでとても難しい事だけど、少なくとも自分の意志だけでどうにかなる事だった。
308:にゃんこ:2011/06/29(水) 22:30:15.11:6fUAm3zg0
それに対して、梓の悩みに関しては私はまだその解決の入口にも立てていない。
梓が何に対して悩んでいるのか、全然見当も付いてない有様だ。
梓は何も言ってくれないし、言ってくれないからこそ、余計に不安が募ってくる。
まさか……、まさかだけど……、こんな事は考えたくないけど……。
家庭内暴力……とか……、麻薬……とか……、強姦……とか……。
悲惨過ぎて逆にリアリティの無い話が、私の頭の中に浮かんで離れなくなる。
まさか、とは思う。
そんなはずがない、とも思う。
でも、今はそういう事が起こってもおかしくない状況で、
梓の様子はそれくらい重大な何かが起こっているようにしか思えなくて……。
もしそうだとしたら、梓の悩みの件は私だけではとても手に負えない。
唯やムギ、それに澪の力を借りなければ、梓を助ける事なんてとても出来ない。
だから、私は勇気を出そうと思った。
まずは澪の考えをはっきりと聞いて、それから梓の問題を少しでも好転させたい。
澪との関係については、多分私の自意識過剰だろう。
澪が私の事を好きだなんて、
そんな事を考えてるなんて事を知られたら、誰からも笑われるだろうな。
女同士とかいう問題以前に、澪が私なんかを好きになるはずがなかった。
澪には、そう、もっと釣り合いの取れた素敵な相手が似合うだろう。
あいつにはそれだけの価値があるんだ。
だからこそ、私はあいつと話そうと思う。
私の我儘で無理に外に連れ出してしまってる事を謝ろう。
寂しいけれど、他に一緒に過ごしたい人が居たら、その人と過ごしてくれていい事を伝えよう。
その結果、澪が私達から離れていく事になっても、私はそれで後悔しないと思う。
友達を無くしたくはないけど、無理して友達でいてもらう事の方が、ずっと辛い事だから。
309:にゃんこ:2011/06/29(水) 22:30:40.97:6fUAm3zg0
でも、ひとまず今は全員で演奏をするべき時間だった。
これから離れ離れになってしまうとしても、
五人で居られた時間をもう少しだけでも感じていたかったから。
今の皆の気持ちはバラバラかもしれないけど、その想いだけは一緒だったはずだ。
その日の練習でぎこちないながら完璧に演奏出来たのは『冬の日』。
意識して選んだわけじゃなく、元々、今日練習する予定だった曲で、
澪が作詞したけど、私が没にしたはずの歌詞の曲だった。
澪には悪いとは思ったけど、
自分へのラブレターだと勘違いした歌詞を歌われるなんて、恥ずかしいにも程があるじゃないか。
でも、今日、私達はその曲を演奏していた。
何故かと言うと、ちょっと前、
澪がパソコンに残していた『冬の日』の歌詞を唯が見つけて、
「すごくいい歌詞だから私が歌いたい」と言って譲らなかったんだ。
私が何を言っても唯はその私の言葉を聞かずに、
「逆にりっちゃんはこの曲の何が駄目だと思ってるの?」と言った。
そう言われると私も弱くて、没にするのを断念するしかなかった。
悔しいけど、私も歌詞自体はとても気に入ってたからな。
そんなわけで、私達の曲に『冬の日』が追加される事になったわけだ。
まあ、今は気に入ってる曲で、私も大好きなんだけど……。
よりにもよって今日この日に練習する事になるなんて、何だかとても因縁めいたものを感じてしまう。
ひょっとしたら、澪じゃなくて、私の方が澪を意識してしまってるのかもしれない。
314:にゃんこ:2011/07/02(土) 02:26:05.60:LzvfiuWO0
○
夕焼けで街中が赤く染まる。
世界が終わると言っても、夕焼けが赤いのは変わらない。
多分、私達が居なくなっても、街は同じ様な時間帯に赤くなり続けるんだろう。
私達も私の部屋で赤く染まっていた。
来週には感じられなくなる夕焼けを特別感じてたいわけじゃないけど、
それでも今の私達は夕焼けに照らされ、赤く染まっている。染まっているんだ。
私達の頬も何となく赤く染まってるのは、そういう事のはずなんだ。
私達というのは、私と澪だった。
軽音部での練習が終わって皆と別れて、
二人きりの帰り道になった時、自分の家に帰ろうとする澪を私は呼び止めた。
少し戸惑ってる感じの澪に、私は私の家で話したい事があると伝えた。
これから私が話そうとしている事は、道端で話すような内容でもないと思ったからだ。
今、その自分の行動を、ほんの少し反省してる。
だって、自分の家の自分の部屋なんて、完全に私に都合のいい舞台じゃないか。
私はこれから勇気を出さなきゃいけないのに、
最初から自分に有利な状況を作り出しておくなんて、
情けないし、これじゃ澪にも申し訳なかった。
でも、だからと言って、今の私には澪の部屋に自分から行く事も出来なかった。
澪の部屋で、もしかしたら今生の別れになるかもしれない話を切り出すなんて、私にはとても出来ない。
そんな状況、考えただけで震えてしまう。
その話を終えた帰り道、自宅に帰れるかどうかも自信がないよ……。
315:にゃんこ:2011/07/02(土) 02:48:11.77:LzvfiuWO0
だから、私は卑怯だと思いながら、
私の部屋で澪と二人で夕焼けに照らされてる。
私はベッドの上で足を崩して。
澪は私のその隣で上品に足を揃えて。
二人、沈黙して、静かに。
たまに目に入る夕焼けに目を細めて。
私の部屋に入って十分……、いや、五分か……?
私達はずっとそうしていた。
本当に珍しい状況だった。
普段は私の方から澪に思い付いた事を何でも話した。何でも話せてた。
澪も私の話を真面目に聞いたり、私の話が下らないと思った時はスルーしたり。
スルーされると少し悔しかったりもしたけれど、
面白いと感じた時は二人で心の底から笑い合えて……。
澪とはずっとそういう風に過ごせると思ってた。
ずっとそんな感じで居たかった。
もう、そういうわけには、いかないのかな?
そうしてちゃ、いけないのか?
私はどうしてもそう思ってしまう。
世の中は緊急事態で、自分の命すらももうすぐ消えてしまいそうで、
そんな状況で、普段の私達のままでいちゃ、駄目なんだろうか?
答えを出さなくちゃいけないんだろうか?
分かってる。
時間がないのは、分かってる。
時間が解決してくれるなんて、悠長な事を言ってられないんだって分かってる。
時間は、もう無い。
なのに迷ってしまうのは、単に弱気な私が逃げ出したいからだ。
だから、普段のままの自分達でいたい、ってそう思ってしまうんだろう。
316:にゃんこ:2011/07/02(土) 03:02:22.09:LzvfiuWO0
「そういうわけにも、いかないよな……」
私は小さく呟いてみる。
逃げてばかりいられないんだ。
立ち向かわなきゃいけないんだ。
澪のためにも、私は私の我儘を終わらせなきゃいけないんだ。
きっとそれが一番いいんだ。
「え、何?」
私の呟きは澪の耳にも聞こえていたらしい。
ずっと黙ってたんだから、それも当然かな。
ちょっとだけ隣の澪に視線を向けてみる。
澪は顔を赤く染めて、何かに緊張しているみたいに見えた。
まるで小さな頃に戻ったみたいだ。澪だけじゃなくて、私も。
私の部屋で、今よりもずっと恥ずかしがり屋だった澪と二人きり。
確かあれは澪の作文の朗読の特訓中だったか。
何だか懐かしくて、微笑ましくて、楽しかった頃が思い出されて……、
………。
って、うおっと、危ない。
今、泣きそうだったな。
何だよ、どうも感傷的だなあ、私。
でも、駄目だ。今は泣いちゃいけない。
何をするべきなのか、何をすればいいのか確信は持てないけど、
少なくとも泣いてる場合じゃない事だけは、私にも分かってるんだから。
私は深呼吸して心を落ち着かせて、出来る限り笑ってみせる。
317:にゃんこ:2011/07/02(土) 03:22:12.21:LzvfiuWO0
「いや、さ。
そういや澪と私の部屋で二人きりになるのは、久し振りだと思ってさ。
最近は澪の部屋の方にばっか行ってたじゃん?」
「そう……だな。
ごめん……」
澪の顔が少し曇る。
部屋の中に閉じこもってた自分を思い出したんだろう。
それでも、だからこそ、私は澪に向けて微笑んだ。
そんな事は気にしなくていいんだって。
むしろ私の我儘の方を責めてくれていいんだって。
そう澪に伝えられるように。
「謝んなくてもいいって。
私の方こそ、何度も澪の部屋に押し掛けちゃっててごめんな。
何か他にしたい事があったんだったら悪かったな、って今更だけど思ってる。
だから、それはごめんな」
私の言葉に澪が目を伏せる。
でも、表情が暗くなったわけじゃないし、
よく見ると少しだけ顔が赤くなってるのも分かる。
きっと何かを言おうとしてくれてるんだけど、
何を言えばいいのか迷って、それが頭の中で一周して、
照れ臭い言葉や気恥ずかしい言葉なんかを思い付いたんだろうな。
318:にゃんこ:2011/07/02(土) 03:37:50.09:LzvfiuWO0
『終末宣言』前の私だったら、そんな澪をからかったりしてたんだろう。
でも、今日はそんな気分は起きなかった。
そんな普段と変わらない澪の姿に私は安心した。
これでいいんだって、思えたんだ。
「いいんだよ、律。
謝らなくてもいい……、ううん、謝らないでほしい。
だって……、私、嬉しかったんだよ?」
澪が顔を赤くして目を伏せたままで、
私よりも大きいくせに物凄く縮こまって、それでも想いを言葉にしてくれた。
「一ヶ月前……にさ……。
世界が終わっちゃうって聞いて、本当に恐かったんだ……。
自分でもおかしいと思うけど、外に出るのが恐かったんだよ。
家の中に居ても何も変わんないって分かってるのにさ……。
でも恐くて……、本当に恐くて……さ。
分かってても、外に出られない自分がまた情けなくて、ずっと泣いてた。
律が来てくれなかったら、多分まだ泣いてたと思う」
「私の方こそ……」
こんな事を言うつもりはなかった。
こんな事を言ったら、澪に呆れられると思ってたから、ずっと言わずにいようって思ってた。
でも、気が付けば、言葉にしてた。
呆れられても、軽蔑されても、澪には聞いてほしい事だったのかもしれない。
319:にゃんこ:2011/07/02(土) 03:47:58.39:LzvfiuWO0
「私もさ……。
澪が部屋から出てきてくれなかったら、ずっと泣いてたかもな……」
「律……も……?」
澪が顔を上げて、意外そうな顔で私を見上げる。
その表情は何故か少し嬉しそうに見えた。
「何だよ。そんなに意外か?
私だってそんなに図太いわけじゃないんだぜ?
恐いものは恐いし、泣く時は泣いてるじゃんか。
それに今だから言うけどさ、本当はずっと恐かったんだ。
私が澪の迷惑になってたら、どうしよう……ってさ」
「迷惑って……、何で?」
「断っておくけど、今だからだぞ?
今だから言う事だぞ。この事、誰にも言うなよ?」
「分かったってば」
「ほら、小さい頃からさ。
私って結構、澪を引っ張ってたじゃん?
軽音部だって、私が引っ張る形で澪に入ってもらったわけだし。
……入りたかったんだろ、文芸部」
「そりゃ入ろうとは思ってたけど……。
と言うか、よく覚えてるな、私が文芸部に入ろうとしてたこと」
320:にゃんこ:2011/07/02(土) 03:55:38.61:LzvfiuWO0
「覚えてるよ。
澪との事は……、全部覚えてるよ。
澪との事だもんな」
「真顔で恥ずかしい嘘を言うな」
少し笑って、澪が私の胸を軽く叩いた。
私は頭を掻きながら、それについては笑って誤魔化した。
でも、全部覚えてるってのは流石に嘘だけど、
文芸部の事についてはずっと気に掛かってたのは確かだった。
小さな頃から、澪にはずっと私の我儘に付き合ってもらってた。
嫌な顔もせずに……は言い過ぎか、
だけど、嫌な顔をしながらも、澪は私の我儘に付き合ってくれていた。
軽音部に入ってくれた事もそうだし、
今、こんな時期に学校に来てくれてる事だって……。
325:にゃんこ:2011/07/05(火) 22:49:08.40:DuUAFoKR0
私はどれだけ澪に頼ってきたんだろう。
私はどれだけ澪に迷惑を掛けてきたんだろう。
残り少ない時間、迷惑を掛け続けていいわけがない。
本当はこれからも傍にいたかったけど……、
こんな負い目を感じたままで一緒にいちゃいけないんだ。
だから、私は本当の事を伝えようと口を開いたんだ。
「文芸部の事もそうだけどさ。
今だってそうなんだよ。
迷惑掛けてるんじゃないかって、そう思うんだ。
なあ、だから、今更だけど……、聞いておきたいんだよ。
澪はさ、世界の終わりまで……」
言葉が止まる。
喉が渇く。
手足が震えて、全身が震えて、私の言葉が止められてしまう。
本当は聞かなくてもいい事。
聞かずにいれば、気付かないふりをすれば、私達はこのままでいられる。
それでもいいんじゃないか、と考えてしまう。
逃げたって悪くないじゃないか。
逃げ出したからって、誰も私を責めたりしないだろう。
だけど、その逃げた先の私達の関係は、何もかも誤魔化した関係だ。
今だって誤魔化してる。それを死ぬまで続ける事になる。
それが嫌だから、私は勇気を出すんだろう?
私は唾を飲み込んで、拳を握り締めて、言葉を続ける。
私の言葉を待ってくれている大切な幼馴染みに向けて。
326:にゃんこ:2011/07/05(火) 22:51:08.25:DuUAFoKR0
「世界の終わりまで……、終わりまでさ……、
他に過ごしたい誰かはいないのか……?」
私は言ってしまった。
今の私達の関係を終わりにしてしまうかもしれないその言葉を。
だけど、不思議と後悔はなかった。
ずっと聞きたかった事だったからだ。
世界が終わるからってだけじゃない。本当はずっと聞きたかった。
聞きたかったけど、恐くて聞けずにいた。
もしも、私の存在を澪が迷惑に感じていたとしたら、
そんな答えを澪の口から聞いてしまったら、
私は……、私は……。
でも、もう誤魔化したくはないから。
自分の気持ちもそうだし、澪にも自分の気持ちを誤魔化してほしくなかったから。
今は一歩を踏み出すべき時なんだ。
「他に過ごしたい人って……?」
澪が静かな声で私に訊ねる。
そう言った澪の表情は分からない。
私は視線を足下に落としたままで、隣の澪の表情なんてとても見られない。
それでも、どうにか口だけは動かした。
327:にゃんこ:2011/07/05(火) 22:52:38.98:DuUAFoKR0
「えっと、ほら……、あのさ……。
私、いつも澪に付き合ってもらってて……。
軽音部に入ってくれた事も、ずっと傍にいてくれた事も、
楽しくて、嬉しくて、本当に感謝してる……んだけど……。
でも……、でもさ……。
澪は本当にそれでよかったのかなって、
考え出したら申し訳なくなってきて……。
それで……、えっと……」
言葉がまとまらない。
頭の中が色んな言葉が渦巻いて、混乱して、ぐちゃぐちゃになっちゃってる。
こんなんで本当に私の気持ちは伝わるのか?
でも、もう途中で言葉を止めるわけにもいかなかった。
「今だってそうだよ。
『終末宣言』の後さ……、
澪は別に自分の家にいてもよかったんじゃないかって思っちゃうんだ。
もうすぐ世界が終わるなら、
澪の好きなように過ごさせるべきだったんじゃないかって……。
それを私が私の都合で、私の我儘で無理矢理に連れ出しちゃって、
澪はこんな時期まで私に付き合ってくれて、それが嬉しくて、それが申し訳なくて……。
だから……、今更だけど聞かせてくれ。
澪はこれから世界の終わりまで、誰か他に過ごしたい人はいないか……?
何か他にしたい事はないのか……?
私に遠慮せずに正直に言ってくれ。
澪が他の誰かと過ごしたいなら、私はそれを止めない。止められないよ……。
軽音部の事も気にしなくていいから、本当の事を言ってほしい。
最後のライブだって何とかする。
だから……」
上手く伝えられなかったのは自分でも分かってる。
我ながら酷い言い回しだ。
だけど、これまで恐くて言えなかった言葉は、全部言えたと思う。
もう後戻りはできない。
後は澪が出す答えを、どんなに辛くても受け止めるだけなんだ。
328:にゃんこ:2011/07/05(火) 23:08:17.84:DuUAFoKR0
澪はしばらく何も言わなかった。
澪はどんな表情をしてるんだろう。
私の今更な質問に怒ってるんだろうか。悲しんでるんだろうか。
だけど、澪がどんな表情をしていても、私はそれを受け止めないといけない。
足下にやっていた視線を少しずつ上げていく。
恐い。逃げ出したい。身体中が震えてしまう。
それでも、私は何とか顔を上げて、隣にいる澪の方に視線を向けた。
「やっとこっちを向いてくれたな、馬鹿律」
そう言った澪の顔は静かに微笑んでくれていた。
私が我儘を言った時や私が失敗してしまった時、
そんな時にいつも澪が見せてくれる優しい笑顔だった。
「何を気にしてるんだよ、律。
律の言うとおり文芸部には入りたかったし、終末まで家に閉じこもってもいたかったよ。
でも、それを律が引っ張ってくれたんじゃないか。
私は律に引っ張られて軽音部に入ったし、
律に引っ張られて終末の前に最後のライブをやる事にしたんだ。
それは律のせいでもあるけど、それ以上に律のおかげなんだよ」
「私の……おかげ……?」
「成り行きで入部する事になった軽音部だけど、私はそれを後悔してないよ。
終末の事だって、律のおかげで最後まで頑張ろうって思えたんだ。
すごく恐かったけど、律のおかげで恐いままじゃなくなったんだ。
全部、律のおかげなんだよ。
だからさ、他に過ごしたい誰かなんていないんだ。
そんな寂しい事を言わないでくれよ、律。
終末まで一緒に過ごしたいのは、軽音部の皆なんだから……」
329:にゃんこ:2011/07/05(火) 23:09:18.41:DuUAFoKR0
語り過ぎたと思ったのか、澪は赤くなって、
だけど、私から視線を逸らさなかった。
私も澪から視線を逸らさなかった。逸らしたくなかった。
二人の視線が合って、二人でお互いの気持ちを確かめ合ってたんだと思う。
でも、そんな事をしなくても分かり切ってた。
お互いに本音を伝え合ってるって事を。
気が付けば、私は小さく笑ってしまっていた。
澪の様子がおかしかったわけじゃない。
自分のしてきた事がとても滑稽に思えたんだ。
「あ、何笑ってんだよ、馬鹿律」
「馬鹿って言うなよ、馬鹿澪」
そう言いながらも、確かに馬鹿だったな、って思った。
私は何を考えていたんだろう。
考えてみれば、澪の好きにしてほしい、ってのも私の我儘だったかもしれない。
それもまた私の考えの押し付けだったんだ。
澪の事を考えているようで、
本当は自分の中の不安に耐えられなかっただけなんだろう。
自分が嫌われてるかもしれないと思うと、
それをどうにか確かめたくなってしまう時みたいに。
だけど、澪は私のその不安に付き合ってくれた。
また澪は私の我儘に付き合ってくれたんだ。
でも、多分、それでよかった。
勿論、度の過ぎた我儘は問題だろうけど、そういうのが私達の関係なんだろうな。
それをまた申し訳なくは感じたけど、
それ以上に私はそんな澪を幼馴染みに持てて喜ぶべきだと思った。
330:にゃんこ:2011/07/05(火) 23:10:52.26:DuUAFoKR0
「……悪かったな、澪。
変な事、聞いたりして」
「いいよ。律の気持ち、分かったから。
こう言うのも何だけど、律も不安なんだって分かって、嬉しかったから」
「何だよ、それ。
でも……、ありがとな」
照れ臭くなって私が笑うと、澪も顔を赤らめて笑った。
夕焼けの中の二人。穏やかな時間を過ごせている二人。
もう残り少ない時間だけど、私達はこうして大切な幼馴染みとしていられる。
大切な存在でいられるはずだった。
このままの二人だったなら。
331:にゃんこ:2011/07/05(火) 23:15:21.37:DuUAFoKR0
○
それから私は、澪と最後のライブについて少しだけ話す事にした。
今日会った和にライブの会場を用意してもらっている事は話したけど、
和に口止めされてた事もあって、ライブの日付と会場が講堂だって事は話さなかった。
和が言うには、講堂の使用届自体は完璧に受理したんだけど、
一介の生徒会長程度の権限じゃ、非常時には講堂を会場として用意出来ないかもしれないらしい。
非常時ってのは、世界の終わりの前に災害や暴動が起こった時の事だ。
確かにそんな事が起こってしまったら、講堂でライブなんてとてもできないだろう。
会場が確保できるかどうかの返事は、最低でも予定日の二日前までは待ってほしいとの事だった。
皆をぬか喜びさせたくないから、と和は真剣な表情で言っていた。
別にいいんだけどな、と私は思う。
もしも講堂が使えなくなったとしても和の責任じゃないし、
講堂を用意しようと提案してくれただけでも嬉しかった。
講堂が使えなくたって、唯達だってぬか喜びだなんて思わないだろう。
でも、和としてはそれだけは避けたいらしかった。
少しでも唯が悲しむ可能性のある事はしたくないんだろう。
本当に唯の事が大切なんだな……。
それが何だか嬉しい。
そんなわけで会場と日付については隠しながら、
私は澪と最後のライブについてどうにか話を進める。
「最後のライブか……。
ちゃんと練習してるんだろうな、律?」
言葉は厳しかったけど、そう言った澪の唇の形は笑っていた。
どうもからかってるつもりらしい。
やれやれ。
そういう態度に対しては、私もこのキャラを使わざるを得ない。
332:にゃんこ:2011/07/05(火) 23:17:45.78:DuUAFoKR0
「んまっ、失礼ね、澪ちゃん。
私の練習は完璧でしてよ。
そう言う澪ちゃんこそ、新曲の歌詞は完成してるのかしらん?」
「うっ……」
痛い所を突かれたって感じの表情を澪が見せる。
私は苦笑して、軽く澪の頭に手を置いた。
「おいおい……。
まだ出来ないのか、新曲の歌詞?」
「うん……。
どうしても納得のいく歌詞が書けなくてさ……」
「まあ、曲はもう出来てるし、
歌うのは澪の予定だから焦る事はないんだけど……。
そんなに悩む歌詞なのか?」
「だって、私達の最後の曲じゃないか。
最後に相応しい悔いの無い曲を作りたいんだよ。
私達の集大成って言えるみたいなさ……」
「そっか……」
澪がそう言うんなら、私から言える事は何もなさそうだ。
私は作詞の専門家じゃないし、甘々ながら澪の歌詞は観客に好評なんだ。
私があれこれ言うより、ギリギリまで澪に悩んでもらった方が、いい歌詞ができるだろう。
そうは思ったんけど、私は澪に一つだけ伝える事にした。
伝えた方がいい事だと思ったからだ。
333:にゃんこ:2011/07/05(火) 23:18:22.81:DuUAFoKR0
「なあ、澪」
「どうしたの、律?」
「私には作詞はよく分かんないし、
お節介だとは思うけど言わせてもらうよ。
多分だけどさ……、最後とか集大成とか、
そういう事は考えなくていいんじゃないか?」
「でも……、最後の曲なんだよ?」
「いや、よくあるじゃん?
歌手が「私の集大成としてこの歌詞を書きました!」って言う曲。
ああいう曲って大抵が今までの曲の歌詞をつぎはぎしたり、
完結してた前の曲の続きの曲を蛇足で作ったりで微妙だったりするんだ。
過去の曲に引きずられまくってるんだよな。
お祭り曲としてはアリだと思うけど、そういうのは集大成とは違うと思うんだ」
「それは……、そうかもな。
思い当たる曲は何曲もあるし、作詞してる身としては耳に痛いな……」
「大切なのは過去よりも今なんだって私は思うな。
こう言うのも何だけど、最後の曲とは言っても単なる完全新曲のつもりでいいはずだよ。
前の曲なんて関係なくて、今の自分に作詞できる精一杯の歌詞でいいんだよ」
「驚いた。律も色々と考えてるんだな……」
「ふふふ。もっと褒めたまえ」
「いや、本当にすごいよ、律。
私、そんな事、考えもしなかったから」
珍しく澪が私に賞賛の視線を向けて来る。
自分で「褒めたまえ」と言った身だけど、
そこまで褒められるとどうにも気恥ずかしくなってくる。
頭を掻きながら私はベッドから立ち上がって言った。
334:にゃんこ:2011/07/05(火) 23:20:04.25:DuUAFoKR0
「そういや、喉乾いてないか?
ずっと話しっぱなしだったしな。
冷蔵庫から何か飲み物持って来るよ。
私はコーラでも飲もうかな」
「えっと、律……」
「分かってるって。澪のは炭酸じゃないやつな」
「なあ、律……」
「澪は紅茶がいいか?
確か缶のやつの買い置きがあったはず……」
「律!」
何だよ、と言おうとしたけど、その言葉が私の口から出てくる事はなかった。
いつの間にか背中にとても柔らかい感触を感じていたからだ。
澪に抱き付かれたんだと気付いたのは、十秒くらい経ってからの事だった。
別に澪に抱き付かれる事自体は珍しい事じゃない。
基本は恐がりな澪だ。何かあればよく私に抱き付いてきていた。
面倒ではあったけど、よく抱き付いてくる澪の事を私は嫌いじゃなかった。
澪の身体は柔らくて気持ち良かったし、頼られているんだと思うのは嬉しかった。
でも、今回の抱き付きは違った。
普通なら澪は私の腰かお腹に手を回して抱き付いてくる事が多い。
抱き付きなんだ。そりゃ手を回すのは腰かお腹だろう。
335:にゃんこ:2011/07/05(火) 23:20:30.36:DuUAFoKR0
今回は違った。何もかもが違った。
澪は私の肩から手を回して、私の背中に全身を預けて抱き付いてきていた。
いや、そうじゃない。
これは抱き付かれたって言うより、抱き締められたって言う方が正しいか。
澪に抱き締められるのも初めてじゃない。
あれは学園祭の時、『ロミオとジュリエット』を演じた時にも澪に抱き締められた事がある。
劇の演出上、抱き合わなきゃいけなかったあの時、確かに私は澪に抱き締められた。
それに関して私は特に何も感じなかった。
劇の配役の事だし、相手が澪なんだ。
抱き締められる事には特に何の抵抗もなかった。
澪も私を抱き締める事について感じるものはないみたいで、
私を抱き締める澪の胸や腕から特別な感情は何も感じなかった。
でも、
これは、
違う。
私には分かる。分かってしまう。
澪は心の底から私を抱き締めている。
腕の中に抱き止めようとしているんだって。
それについて私は何も言えない。
言葉が見つからない。
さっき今生の別れになるかもしれない話を切り出した時よりも、頭が混乱してしまっている。
まさか……、やっぱり……、だけど……。
何も言えない私の様子を不安に感じたんだろう。
澪が震えながら、言葉を絞り出した。
私は背中で澪の震えを感じながら、その言葉を聞いた。
「……行かないでよ」
「……み……お……?」
「行かないで……。
傍にいてよ、律……!」
340:にゃんこ:2011/07/08(金) 00:33:05.09:scC/KyzD0
澪ちゃんは甘えんぼでちゅねー、とからかう事は出来なかった。
肝試しの時や怪談を話してみた時、色んな場面で澪は私に抱き付いてきた。
その時も澪は震えていたけど、
今回の澪の震えはそのどれよりも強く、心の底から震えてる感じがした。
さっき頼もしい姿で私の弱音を受け止めてくれたのは、強がりだったのか?
いや、それも違う。
あの姿とあの言葉は澪の本音だと思うし、強がってたわけじゃないはずだ。
だけど、今の澪は心底怯えてる様子だ。
という事は、さっきまでの頼もしい姿の真実は、つまり……。
「大丈夫だって、澪。
飲み物取ってくるだけだから。
ほんの少し離れるだけなんだからさ」
私は背中に澪の感触を感じながら囁いた。
そう囁いてあげる以外、どうすればいいかは思い付かなかった。
それにこれでよかったはずだ。
澪の姿を見て、私は一つの事を考えていた。
こう考えるのは、何度も感じてきた事だけど自意識過剰だと思う。
だけど、必要以上に卑屈でいる事も、もうやめるべきなんだろう。
私はあまり自分に自信がないけど……、
自信があるように見せておいて、本当はとても自分に自信が持てないけど……、
でも、分かった。
もう目を逸らさずに、そう考えなきゃいけなかった。
さっき澪が私の前で頼もしい姿を見せられたのは、私の前だったからだ。
私が傍にいたからなんだ。
私が近くにいたから、澪は強い姿の澪でいられた。
私の悩みを吹き飛ばしてくれる頼れる幼馴染みでいられたんだ。
341:にゃんこ:2011/07/08(金) 00:35:35.13:scC/KyzD0
だからこそ、今の澪は震えてるんだ。
怯え切って、私を行かせまいと私に縋り付いているんだ。
一人になってしまったら強い自分でいられなくなるから。
世界の終わりが恐ろしくて、居ても立ってもいられなくなるからだ。
その気持ちは私にもよく分かる。私だからこそよく分かる。
私も澪と同じだった。
流石に誰かと一瞬でも離れたくないほど怯えてたわけじゃないけど、
私だって世界の終わりが恐かったし、自分が死んでしまう事が嫌だった。
だから、澪に傍にいてもらいたくて、学校に連れ出したんだ。
澪にはそれに無理に付き合ってもらってるんだって、私はさっきまで思ってた。
それが負い目で、それが辛くて、
もう無理に付き合ってくれなくてもいいって、なけなしの勇気で澪に切り出した。
でも、澪は顔を横に振ってくれた。
他に過ごしたい誰かなんかいない。
最後まで一緒に過ごしたいのは軽音部の皆だって言ってくれた。
それはとても嬉しかったけど……。
違ったのか?
本当に一人でいる事が恐くて耐えられないのは、
私じゃなくて澪だったのか?
私が澪を必要とするよりも、澪の方がずっと私を必要としてたのか?
私は自分に自信が持てなくて、そう考えないようにしてた。
自分が誰かに必要にされるなんて、そんなの恥ずかしくて考えられなかった。
特に前に和と澪の仲の良さを見て、つい嫌な気分になって皆に迷惑を掛けちゃった私だ。
あれ以来、自分が澪に必要な人間だなんて、出来るだけ考えないようにしてたしな。
勿論、誰かに……、それも澪に必要にされる事が嫌なわけがない。
本当に嬉しい。
どうにか澪を助けてあげたい。
澪が私を支えてくれたみたいに、私も澪を支えてあげられたら……。
そう思えたから、私はもう一言だけ澪に伝えられた。
「大丈夫。傍にいるよ。
世界の終わりまで、もう澪が嫌だって言っても傍にいるぞ?
だからさ、そんなに抱き付かなくっても大丈夫だって」
恥ずかしい言葉だった気は自分でもする。
でも、それが私の本音だったし、今はそんな言葉を言ってもいい時だったと思う。
その私の言葉は、全部は無理だったけれど、
少しは私の後ろの澪の震えを弱めてあげられたみたいだった。
震えより柔らかさの方が気になるくらいになった頃、
落ち着いた声色を取り戻した澪は私の耳元で小さく囁いた。
342:にゃんこ:2011/07/08(金) 00:36:20.98:scC/KyzD0
「ごめん……。
ありがとう、律……。
何だかすごく不安になっちゃって。
私の隣から律が離れるのがすごく恐くて、行ってほしくなくて……。
こんな急に……、ごめん……」
「いいよ」
「傍に……、いてくれる?」
「いるよ」
私が言うと、澪はしばらく黙った。
私達二人には珍しい沈黙の時間。
でも、それが嫌じゃない。
澪は私から身体を離しはしなかったけど、
それでも震えを少しずつ弱めていって、その内に完全に震えを感じなくなった。
腕の力は弱めずに、少し強く私を抱き締めたままで澪が続ける。
「考えてみたら、私って律に抱き付いてばっかりだよな……」
「もう慣れたから気にすんなって。
でも、気を付けろよ?
相手が私だからいいけど、間違って男子になんか抱き付いてみろ。
澪は美人さんだからな、一発で恋されちゃうぞ?」
「美人……かな……」
「ファンクラブもある澪さんが何をおっしゃる。
間違いなく美人だよ、澪は。
いいよなー。羨ましいよ。
私が男子に抱き付いたりした日にゃ、「さば折りかと思った」とか言われる有様だし」
「……っ!
男子に抱き付いた事……、あるの……?」
「いや、ないけど。
同じ学校のおまえに言う事じゃないけど、うち女子高じゃんか。
単なる予測だよ、予測」
「びっくりさせるなよ……」
「そんな驚く事じゃないだろ、失礼な奴だな。
くそー、今に見てろよ。
私だって澪が羨ましがるようなセレブリティなイケてるメンズを彼氏に……、って、痛!」
343:にゃんこ:2011/07/08(金) 00:37:38.25:scC/KyzD0
急に私を抱き締める澪の腕に力が入って、私はつい叫んでしまう。
正直、かなり苦しい。
単なる冗談なのに、何がそんなに気に入らないんだ。
私はわざと少し不機嫌な声色になって、後ろの澪に不満をぶつけてやる。
「私、何か変な事言ったか?」
「なあ、律……。
一つ聞いて欲しいんだけど……」
「何だよ……。
先に腕の力を緩めてくれよ。ちょっと苦しいぞ……」
「先に聞いてほしいんだ」
「……あ、ああ」
澪の妙に真剣な声に私は頷く事しかできなかった。
澪の言葉を聞かなきゃいけないと思った。
その時、私には一つの予感があったからだ。
できる限りだけど目を逸らす事をやめて、
目の前の事を受け入れようと思った私が正面から向かい合わないといけない問題。
その問題と向き合う時が目前に迫ってるって予感が。
「さっき律は間違えて誰かに抱き付くなって言った」
「……言ったな」
「でも、私は他の誰かに抱き付いたりなんかしないよ。
私が抱き付くのは、律だけだから。
いや、違うか。
抱き付くくらいなら、女子限定だけど誰かにする事はあるかもしれない。
でも……、私が自分の意志で、自分から抱き締めるのは律だけなんだ」
344:にゃんこ:2011/07/08(金) 00:39:03.98:scC/KyzD0
どういう意味?
って聞くのも不躾だろうし、もう今更過ぎる気もした。
澪の言いたい事は、さっき分かったんだ。
いや、分かってたんだ。自分で見ないようにしてただけで。
私はそれに応えないといけない。
また少しだけ二人で黙る。
それは多分、これから向き合わなきゃいけない事があるって、お互いに知ってるからだ。
しばらく経って、後ろの澪がほんの少し震え始めて、でも、強い言葉で澪が言った。
「私は律に傍にいてほしいんだ」
「……傍にいるよ」
「うん……。それは嬉しいけど、そうじゃないんだよ。
私……、私はもっと違った形で律と一緒にいたい。
私は……、律の事が好きだから」
「……私だって好きだよ」
「それは友達として……だよね?
私は、そう……、上手く言えないけど……、そうじゃなくて……。
そう……だな……。えっと……。
例に出すのは変だと思うけど……、
私は律と……、今日見たオカルト研の中の二人みたいになりたいんだ」
349:にゃんこ:2011/07/09(土) 22:09:40.09:VESLlKEp0
オカルト研の中の二人……。
その澪の言葉で最初に思い浮かんだのは、裸で絡み合う二人の姿だった。
いや、それは勿論、単なる分かりやすい例えで、
澪が言いたいのはそういう意味じゃないのは分かってるんだけど、
どうしてもあの裸の二人を思い出してしまう。
仕方ないじゃないか。
忘れるにはまだ時間が全然経ってないし、それくらい衝撃的な光景だったし。
何も言わない私の姿を見て、澪も自分が何を言ったのか気付いたんだろう。
顔が見えないから分からないけど、多分顔を真っ赤にしながら焦って訂正した。
「いや、オカルト研の中の二人っていうのは、違くて……。
そういう意味じゃなくて……。
あ、でも……、そういう意味に、なっちゃう……のかな……。
私は律が好きで……、
友達よりも……、親友よりも深い関係になりたくて……。
つまり……ね?
それは……、恋人……って事に……なる……のかな。
恋人……って事はやっぱりあのオカルト研の中の二人みたいに……。
いや、でもでも……」
私の後ろで澪はまた自分の発言の恥ずかしさに悶え始める。
私も何だか顔中が熱くなるのを感じながら、
澪の言った事を頭の中で何度も噛み締めていた。
律と恋人になりたい。
はっきりと言ったわけじゃないけど、澪はそういう意味の事を言った。
多分、私はその澪の言葉が嬉しかったと思う。
赤くなってるんだろう自分の顔を隠したくなるくらい、
澪に悟られないように自分の震えを止めるのが大変なくらいに、
多分、私は嬉しかった。
でも。
恋人というのがどんな物なのか、私は知らない。
恋愛漫画を読んだ事はあるし、
普通の女子高生より遥かに少ないだろうけど、恋愛モノのドラマも何本か観た事はある。
ただ、大抵の恋愛モノは主人公と相手役の恋模様や修羅場はよく見られるけど、
主人公が相手役を好きになった理由を深く表現した作品は少なかった気がする。
相手役が好みだったからとか、少し優しくしてもらえたからとか、
そんな理由で恋に落ちるもんなのか? って、私は何度も思ったもんだ。
格好いいな、と思う男子も何人かいた事はあるけど、
それだけで恋に落ちた事もないし、男子を恋愛的な意味で好きになった事もなかった。
恋を知らない女……なんて、まるで安い恋愛モノのキャッチフレーズみたいだけど、
そういう意味で私は確かに恋を知らない女なんだよな。
350:にゃんこ:2011/07/09(土) 22:12:18.10:VESLlKEp0
澪の事は好きだ。
幼馴染みで親友だし、澪とはもっと仲良くなりたいっていつも思ってる。
その先に澪との恋愛関係を期待してたのかどうかは分からないけど、
少なくともこれまでも、これからも私の人生から澪を外して考えるのは無理だった。
私の心のずっと深い所に澪がいるし、多分澪の深い所にも私がいる。
もう今生の別れになるような話は二度と切り出したくないし、
澪とはもう離れたくないよ……。
だから、私は澪に言ったんだ。できる限り私の想いが届くように。
「なあ、澪。
手を放してくれないか?」
「えっ……。
ご……ごめんなさい、私……。
律の気持ちも考えずに……、律の迷惑も考えずにこんな……、
ごめ……ん……」
澪が消え入りそうな声で呟いて、私を抱き締めていた手から力を緩める。
今にも泣き出してしまいそうな小さくて震える声。
きっとすごく悲しい顔をしてるんだろう。
でも、私は澪から身体を離して、向き合ってかなり久し振りに澪と顔を合わせて。
行き場を無くした澪の手を取って、できるだけ優しく包み込んで。
伝えられるように。
そうじゃないんだと。
「違うって、澪。
ほら、おまえだけ後ろで私の様子を見られるなんて、ずるいじゃん。
私にも澪の顔を見せてくれよ」
「えっ……」
やっぱりすごく悲しそうな顔をしてた澪が戸惑った表情に変わる。
こんな時に私と顔を合わせるなんて、恥ずかしがり屋の澪には難しい事だろう。
だけど、私は澪と顔を向け合いたかった。
私だって顔が赤い自分を見られる恥ずかしさに耐えてるんだ。
澪にだってその恥ずかしさには耐えてほしい。
まだ何が起こってるのか分からないといった感じで澪が呟く。
351:にゃんこ:2011/07/09(土) 22:18:04.29:VESLlKEp0
「り……つ……?
えっと……、私は……ごめん、その……」
「私はさ、澪の事が好きだよ」
「えっ……」
澪が驚いた表情に変わる。
まさかそんな事を言われるなんて思ってなかったんだろうか。
確かに私も自分の口からそんな言葉が出るなんて思ってなかった。
でも、その私の言葉に嘘はなかった。
私は澪が好きだ。大好きだ。
それが恋愛感情なのかどうかは分からないけど、
私と恋愛関係になりたいと、あの恥ずかしがり屋の澪が言ってくれた。
だから、私は澪の気持ちに応えていいんだと思った。
「澪は私の恋人になってくれるんだろ?」
「……いいの?」
「いいよ。
……澪こそいいのかよ、私なんかで。
もっと素敵な誰かは他にたくさんいるだろ……?」
そうだ。
澪には私なんかより他に相応しい相手がいるはずだ。
ずっとそう思ってた。
だから、こんな世界の終わりを間近にして、
私なんかが澪の傍にいていいのかって思えてしまって辛かった。
でも、澪は言ってくれた。
私の両手を握り返して、伝えてくれた。
「ううん……、そんな人なんていないし、
例えどんなに素敵な人がたくさんいたとしても、
私は……、その誰よりも律がいい。律の傍がいい。
律が一番いい」
「そっか……。
ありがとう……」
ずっと近くにいた私と澪。
女同士ではあるけれど、この気持ちに嘘はないはずだ。
私達の結末は恋人同士という関係でいいはずなんだ。
二人とも分かってる。
もう私達には時間が無い。解決してくれる猶予もない。
はっきりとさせないまま世界が終わるって結末に至っていいはずがない。
本当の事を言うと、私は澪の事を恋愛対象として好きなのかまだ分からない。
でも、それでいいんだ。
恋愛モノの作品で、恋に落ちるきっかけが腑に落ちないのも、そういう事のはずなんだ。
恋に落ちるきっかけなんてなくて、愛に理由なんてなくて、
恋人として付き合っていくうちに、本当の恋愛感情を抱くようになるはずなんだ。
もうすぐ世界が終わる。
それまで自分を好きでいてくれる人の気持ちに応え続けるのが、一番いい選択肢だと思ったから。
私は、澪の、恋人になろうと思う。
352:にゃんこ:2011/07/09(土) 22:19:21.73:VESLlKEp0
澪と無言で見つめ合う。
かなり色の濃くなった夕焼けに二人で照らされる。
二人の顔が赤いのは、その夕焼けのせいだけじゃない。
お互いに恋人になれた気恥ずかしさと緊張に頬を赤く染めながら、
すごく自然に……、誰かに操られるみたいに唇を近付けて……。
………。
瞬間。
何故だか目の前がぼやけた。
水の中にいるみたいに、焦点がはっきりしない。
何が起こったんだ……?
澪の手を握っていた右手を放して、私は自分の目尻を擦ってみる。
それで私はやっと気付いた。
自分が涙を流してる事に。
あれ……?
何でだ……?
どうして私は涙を流してるんだ……?
澪と恋人になれた嬉し涙なのか……?
いや……、違う……? 哀しく……て……?
いいや、駄目だ、泣くな、私!
こんな時に泣いてどうするんだ。
私は澪と恋人になるって決めたんだ。
こんな涙なんて澪に見せられないんだ!
私は急いで何で流れるのか分からない自分の涙を拭って、
もう一度澪と視線を合わせようと瞳を動かして……、
そこでまた気付いた。
澪も涙を流していた。
嬉し涙なんかじゃなく、澪が悲しい時に何度か見せたのと同じ顔で涙を流していた。
二人で、
顔を合わせて、
泣いていた。
どうして泣く?
何で泣いちゃってるんだよ、私達は……!
もう時間が無い私達を、どうして涙なんかが邪魔するんだよ……!
世界が終わるって聞いた時も、
今日の朝に死を実感した時にも流れなかったくせに、どうして……!
どうして、こんな今更……!
353:にゃんこ:2011/07/09(土) 22:22:16.36:VESLlKEp0
「違……っ。
こんな……泣いてなんか……」
止まらない涙を拭いながら、私はどうにか言い繕おうとする。
涙を流しながら説得力はないけれど、これを涙だと澪に思わせたくなかった。
これは汗なんだ。
単に澪と唇が近付いたから緊張して流れただけの汗なんだ。
どんなに無理があっても、そうでなくちゃいけないんだ。
だけど、やっぱり私のその言葉には無理があった。
澪も自分の涙を拭いながら私から手を放すと、
急いで自分の鞄を担いで私の部屋の扉を開けた。
「律、ごめん……」
「澪……、これは違くて……、その……」
「ごめん、今は……、帰らせて……。
本当に……ごめん……」
澪がそう言う以上、私には何もできなかった。
何かをしようにも、私の邪魔をする涙は次から次へと溢れ出て来てしまって、何もできなくなる。
涙の海に溺れて、動き出せなくなる。
部屋から出て行く時、澪は最後に一つだけ言った。
「明日、学校には行けない……。
ごめん……。律を嫌いになったわけじゃ……ない。
でも……、無理……。無理なの……。
こんな時に……、本当にごめんなさい……」
私の部屋の扉が閉まり、私は一人部屋の中に取り残される。
結局、最後まで、意味の分からない二人の涙は止まらなかった。
もうほとんど残されていない私達の時間が、どんどん削ぎ取られていく。
「何だよ……。
何だってんだよ……」
夕焼けが落ちても、
部屋を月明かりが照らすようになっても、
私はベッドに顔を埋めてわけの分からない涙を流し続けた。
何度も、ベッドに拳を叩き付けながら。
次へ
元スレ SS速報VIP
「りっちゃんが着たがってたあの高校の制服、お友達から借りられる事になったのー」
ほんの少しの楽器の練習の後、お茶の準備をしながら、いつもと変わらないほんわかとした柔らかい表情でムギが微笑んだ。
「えっ? マジで? ホントに?」
少し大袈裟に私はムギに尋ねてみる。
勿論、疑ってるわけじゃない。
三日前に何となく「あの高校の制服、着てみたいよなー」と雑談のついでに出した話題を、しっかりとムギが覚えていた事に少し驚いたからだ。
その私の驚きを分かっているのかどうなのか、それでもムギはいつもの優しい笑顔で続けてくれた。
「うん。中学の頃のお友達があの高校に通ってて、休日でよければ貸してくれるんだって」
中学の友達から借りられるとか、流石は相変わらずのムギの人脈の広さには驚いてしまう。
あの高校はかなりの進学校で、私なんかじゃ背伸びしても足下にも及ばない偏差値の進学校だ。
しかも、ついでに言うと県外だ。
それなのに、そんな進学校に通う友達が居るとか、どんな人脈だよ……。
「ムギちゃん、すごーい」
そう無邪気に感心した声を上げたのは唯だった。
もっとも、唯の場合はムギの人脈の広さに驚いているのか、何でも出来るムギ自体に驚いているのか、どちらなのかは微妙なところだけど。
「あの高校の制服か。私も着てみたかったんだよな」
普段、さわちゃんの衣装を着る時には、ほぼ確実に無駄な抵抗する澪も意外に乗り気な様子で呟いた。
まあ、あの高校の制服は流石に進学校の制服だけあって、別に露出度とか高くないしな。
最近では際限なく露出度の限界を極めようとしているさわちゃんの衣装を考えれば、あの高校の制服なら内気な澪でも百倍は気楽に着れるだろうし。
不意に視線をやると、何かを言いたそうにしながらも、言い出す機会を見失っている様子の私の後輩を見付けた。
悪戯に微笑み、私は座っていた自分の席から少しだけ身を乗り出して、ツインテールの後輩の頭を撫でてやる。
「大丈夫、大丈夫。成長の様子の見られない梓にもぴったりな制服があるって。なあ、ムギ?」
「なっ……! だから、律先輩には言われたくないです!」
ムギが応じるよりも先に、梓が自分の胸を押さえて赤面した。
胸の事は一言も触れてないのに、相変わらず可愛らしい反応を見せる後輩だ。
まあ、さっきの言葉は胸を見ながら言ったんだけどね。
その私達の伝統となりつつあるやり取りを見守った後、ムギがフォローの言葉を入れてくれた。
「大丈夫よ、梓ちゃん。私の友達にも、梓ちゃんくらいの身長の子がいるもの」
「そうですか……。安心しました。ありがとうございます、ムギ先輩」
本気で自分のサイズの制服があるか心配だったんだろう。
梓は本当に胸を撫で下ろすような表情をしていた。
元ネタは知らないけど期待
10:にゃんこ:2011/05/09(月) 15:35:20.67:m9tD4tO90「でも、ありがとな、ムギ。あの高校の服、女子高生のうちに着ておきたかったんだ」
私が言うと、ムギは給仕しながら、いえいえ、と微笑んだ。
学園祭が終わり、少し秋が深まり始めたこの頃、私達軽音部は受験シーズン真っ直中にも関わらず、ほとんど毎日部室に集合していた。
部室ではお茶をしたり、少し練習したり、やっぱりお茶したり、まあ、大体がそんなところ。
いやいや、勿論受験勉強だってしてるぞ?
私達は高校三年生で、やらなきゃいけない事とやるべき事があって、当然今やるべき事は受験勉強なわけで。
でも、私が、私達が大切にしたいのは、それだけじゃなくて。
こう言うのも照れるけど、放課後に部室に集まって、お茶をしたり、他愛もない事を話したり、
そんな時間が本当に楽しくて、とても大切な時間で、手放したくないくらい素敵な時間なんだと思う。
皆がそう考えているからこそ、こんな受験シーズンにも皆で集まっていられるんだろう。
自分で言うのも何だけど、本当にいい部だなって思う。
これも部長の人望の賜物だな。なんて自慢するわけじゃないけどさ。
「どしたの、りっちゃん?」
私が少しだけ黙っていたのが気になったのか、いつも隣の席に陣取っている唯が私の顔を覗き込んで首を傾げた。
何となく考えていた事を察された気がして、私は軽口を叩く事で誤魔化す事にした。
「いやー、梓くらいの身長の子はいるんだろうけどさ。
梓くらいのスタイルの子がムギの友達にいたらいいよなー、って部長として心配してあげてたんだよ」
そう言うと、やっぱり梓が胸元を押さえて、だから律先輩には言われたくありません、と頬を膨らませた。
ははっ、お約束お約束。
まあ、確かに私も梓の事を言えた立場じゃないのが、悲しいところなんだけど。
「おいおい、後輩をあんまりいじめるなよ、律」
幼馴染のくせに一人だけ嫌味なくらい成長した澪が、諌めるように言いながら肩を竦める。
何だよー、富裕層め。
持つ者には持たざる者の苦しみは分かるまい。
この私と梓のやり取りは、持たざる者同士の魂の触れ合いなのだ。
梓……、おまえだけはずっとこちら側の人間だと信じているぞ……。
そういう思いを込めて視線を移してみると、私の思いには一切気付いていないらしい梓が自分のポケットを探っていた。
こちら側の人間……だよな?
そんな願いも込めつつ、私は梓に訊ねてみる。
「どうした、梓? 忘れ物?」
「あ、いえ、すみません。忘れ物じゃないです。どうも携帯が鳴ってるみたいで……」
「あー、マナーモードにして、制服のポケットとかに入れとくと結構気付かないよねー」
私の質問に答えた梓の言葉に唯があるある的な表情で腕を組んで頷いていたが、
着信音が鳴る状態にしておいても、休日は寝てて着信に気付かない事が多い唯が言っても説得力は無かった。
いや、そんな事は今はどうでもいいか。
ポケットの中から携帯電話を取り出した梓が液晶を見ると、あ、純だ、と小さく呟く。
「すみません、ちょっと電話に出させて頂きますね」
そう丁寧に断ると、梓は席から立って、私達の鞄を置いている長椅子まで歩いて行った。
純ちゃんか……。今度の日曜に遊ぶ約束でもするのかな?
そう軽く考えていた私の耳に、それを打ち崩す非日常的な梓の会話が届いた。
「急にどうしたの、純。え? やっと繋がったって、何? 電波が悪いの?
え? そうじゃないって? うん、今軽音部だけど……。え? 変な冗談やめてよ。
冗談じゃないって……。嘘でしょ?
そんな……、世界が終わっちゃうなんて、急にそんな事言われても……」
世界が終わる?
映画かゲームの話か?
だけど、梓の様子を見る限りとても冗談には……。
突然過ぎる会話の流れに、あまり出来が良いとは言えない私の思考回路ではついていけない。
と。
不意に私の携帯電話のバイブレーターが震え始めた。
いや、私のだけじゃない。
周囲を見渡すと、唯の携帯電話のバイブも震えているようだった。
唯と二人で携帯電話を取り出して、突然過ぎる不自然な着信に不安な面持ちでお互いの顔を見合わせる。
何だ……? 何が起こってるんだ……?
更に数秒後。
その携帯電話の着信を取るより先に、私達の日常を完全に壊す無慈悲な音が響いた。
それは聞き慣れた校内放送のチャイム。
だけど、その内容はあまりにも私達の日常とはかけ離れていて……。
それが私達の……、いや、人類の終わりの始まり。
そして、終末までの長くて短い最後の日常の始まりだった。
――月曜日
自宅でドラムの練習をしていた私は手を止め、ラジカセの電源を入れる。
少し遅れたかと思っていたけど、ちょうど時間はぴったりみたいだった。
軽快な音楽が流れる。
「胸に残る音楽をお前らに。本当の意味でも、ある意味でも、とにかく名曲をお前らに。
今日もラジオ『DEATH DEVIL』の時間がやって来た。
まあ、時間がやって来たって言っても、休憩時間以外は適当に喋ってんのはお前らも知っての通りだけどね。
こんな人類滅亡の寸前で死の悪魔なんて縁起の悪い事この上ないけど、聴いてくれてる物好きなお前らに感謝。
そんな物好きなお前らには今更だけど、一応毎度の番組紹介から入らせてもらうよ。
日曜休みで一日空いたし、もしかしたら初めてこの番組を聴いてくれてる新顔もいるかもしんないしね。
知ってるお前らはトイレにでも行って、スタンバイしといて。
この番組は人類の終わりまでとにかく色んな曲を紹介し続けようって、適当でご機嫌なソウルフルラジオ。
それで、メインパーソナリティーのこのアタシがクリスティーナってわけ。
新顔のお前らがいたらよろしく。
クリスティーナって言っても、本当はガチで日本人なんだけど、その辺りは触れないのがお約束。オーケー?
さてさて、前回の放送から、日曜挟んで遂に訪れちゃった人類最後の一週間。
日本政府が国家非常事態宣言……、誰が言ったか通称『終末宣言』を宣言して一ヵ月半。
宣言されての一週間は暴動やら何やらで、今思い出しても相当に騒がしかったよね。
変な宗教は出てくるし、自暴自棄に適当な暴動を起こす奴等もいるし、そりゃ騒がしかった。
芸能人なんかも海外に逃げ出す奴がいるかと思ったら、急に自分はロリコンだとか、同性愛者だとかってカミングアウトする奴までいる始末。
まあ、海外に逃げ出す奴より、カミングアウトする奴等の方がよっぽど信用出来るけど。
ただあの大御所がロリコンでショタコンでバイセクシャルだってカミングアウトしたのは、流石のアタシでも驚いたけどね。
でも、それだけ皆、最後くらいは偽らざる本当の自分を誰かに知っていて欲しいって事なのかもしれないね。
あ、期待しても駄目だぞ、お前ら。
残念だけど、アタシにはカミングアウトする様な秘密なんか持ってないからね。
強いて言えば、本当は日本人だってことくらい?
それはさっき聞いたって?
こりゃまた失礼。
とにかく『終末宣言』から約一ヵ月半、悟ったのか、飽きたのか、
最近は各地の暴動も沈静化してきたみたいで、ひとまずは一安心ってところだよね。
暴動なんかよりやるべき事が見つかったんならいいけどさ。
ただ最低限の警戒だけは忘れないでよ。
意味不明の暴動に巻き込まれて、終末より先に死んじゃうとかそれこそ馬鹿らしいってもんだ。
願わくば、お前らがこの番組を最後まで無事に聴き終えられますように。
週末まではお前らと一緒!
それがこの番組の最後のキャッチコピーってね。
似合わないって?
ほっといて。
さて、ラジオとは言え、アタシだけずっと喋ってても仕方がない。
そろそろお前らからのリクエストの一曲目といってみようか。
メールだけど、こんな状況でも届くもんだね。
さて、それじゃ今週の記念すべき一曲目、岐阜県のガンレックスからのリクエストで、
L'Arc~en~cielの『Driver's High』――」
放課後、と言うべきなのかどうなのか、とにかく普通だったら全ての授業が終わっている放課後の時間。
私は一人、部室で軽くドラムを叩いていた。
『終末宣言』から約一ヵ月半、多くの同級生が学校に来なくなる中、私はといえばほとんど毎日学校に足を向けている。
勿論、勉強が好きなわけじゃないし、高校生なら学校に登校しなきゃって使命感に燃えてるわけでもない。
人類の終末が近付いているらしいけど、焦って何かをする気にはなれなかったし、この状況で何処かに旅行するのも危険だった。
それにもうすぐ世界が終わるとしても、終わりまではいつも通りの日常が続くわけで、下手に特別な行動を取れるわけでもないわけで。
だからというわけじゃないけど、私は平日休日を問わず登校している。
飽きっぽい私にしては、これは快挙なのかもしれない。
でも……、
「日常に逃げ込んでんのかなあ、私……」
ドラムを叩く手を止め、自分に言い聞かせるように呟いてみる。
世界の終わりが一週間後に迫ったらしい今になっても、私は未だにその実感が湧いて来てなかった。
そりゃあそうだ。
もうすぐ死ぬと言われても、私の身体に異変が起こっているわけでもなし、私自身は健康体そのものだし。
病気にかかっているわけでもないし、大怪我を負っているわけでもない。
これで死の実感を持てと言われても、誰にとっても無理な話だろう。
だけど、思う。
それを実感しないように、私は『終末宣言』前の生活を繰り返してるんじゃないんだろうか。
いつも通りに過ごしていたら、一週間後の世界の終わりなんて夢みたいに消えて無くなって、何事もなくいつも通りの生活に戻れる。
澪をからかって、唯とふざけて、ムギとお茶をして、梓をいじってやる。
そんな変わらない日常が戻って来る。戻れる。
心の何処かでそれを期待してるんじゃないか。
だから、こんな時期になってもしつこく登校し続けてるんじゃないかって、そう思えてしまう。
けれど、そう思えたところで、今更私には他にどうする事も出来ないんだけど。
少しだけ溜息を吐いて、ドラムの練習に戻ろうかと思った瞬間、部室の扉がゆっくりと開いた。
「りっちゃん、おいっす」
扉を開いたのは唯だった。
『終末宣言』以来、私に次いで登校数の多い唯は、やっぱりいつも通りの唯に見えた。
こいつも私と同じように、一週間後に世界が終わるなんて、そんな実感は無いんだろうか。
そんな考えを顔に出さないように、おいっす、と軽く私が返すと、長椅子に鞄を置いて唯が続けた。
「相変わらず早いね、りっちゃん」
「まあなー。家に居てもやる事無いしなー」
「駄目だよ、りっちゃん。時間はちゃんと使わないと青春の無駄遣いだよ」
「家に居ても大体ゴロゴロ転がってるだけのお前が言うな」
「甘いね、りっちゃん。それが私の充実した青春なのです!」
「うわっ、言い切りやがった……」
苦い顔で私が言ってやると、唯はいつもの、してやったり、といった感じの表情を浮かべる。
ホント、こいつはいつでも何処でも変わらんなー。
それが唯の持ち味であり、唯の強さでもあるんだろうな。
『終末宣言』直後、私は軽音部の活動は以降自由参加という形式に変更する事を提案した。
そもそもが自由参加に近い軽音部だけど、あえて言葉にする事で皆の自由意思を尊重する事を伝えたかった。
勿論、誰も欠席するつもりなんてないだろう。
それでも、こんな状況だし、家庭や色んな事情で仕方なく欠席する事も多くなるだろうと思ったからだ。
幸いなのか我が田井中家は放任主義で、
数日家族で過ごすだけで家族の時間は終わって、後は家族各々が自由に過ごすという形になっていた。
少しクール過ぎやしないかと思わなくもないけど、それがうちの家族だし、聡もそれで不満はないみたいだった。
とにかくそれ以来、軽音部の活動に参加する頻度は多い順に私、唯、梓、澪、ムギという順番になっている。
「それより、りっちゃん」
急に真剣な顔になって、唯が言った。
何を言い出すのかと思って身構えたが、次の唯の言葉は本当にいつもと何も変わらない普段通りの唯の言葉だった。
「今日は久々にムギちゃんに会える日だねー。
美味しいお菓子いっぱい持って来てくれるって言ってたし、すっごく楽しみだよねー」
まったく……、こいつは何にしろお茶とお菓子が行動の基準なんだな。
そう思いながらも、私は微笑んでしまっていた。
ムギに会えるのが楽しみなのは私も同じだし、久々のムギのお菓子が楽しみなのも確かだった。
「うん、そうだな……。楽しみだよな、やっぱり。うん……」
「ん? どしたの、りっちゃん?」
つい何度も頷いてしまう私の様子を、唯が不思議そうに眺めながら訊ねる。
自分でも上手くは説明できないけれど、何故だかとても嬉しかった。
多分だけど、こんな状況でも顔馴染みと変わらず顔を合わせられるという事は、きっと幸せな事なんだ。
勿論、そんな恥ずかしい事を私が口に出来るはずもない。
その代わりに私は立ち上がって、唯の近くにまで歩いてからその腕を軽く取った。
「よっしゃ、行こうぜ」
「行くって……、何処に?」
「校門だよ、校門。そろそろムギも来る時間だし、紬お嬢様をお迎えにあがろうぜ!」
「おっ、いいねー。私達で紬お嬢様をお迎えしちゃおう! あ、そうだ!」
「お、どした? 何か面白いアイディアでもあるのか?」
「メイド服を着てお迎えするのはどうかな? ちょうどさわちゃんの服があるし!」
「いや、そこまではせんでいい……。軽音部の負の遺産については触れてくれるな……」
「えー……」
不満そうに唯が頬を膨らませたが、それでもその表情は少し笑っているようにも見えた。
そして、それは私も同じ。
いつもの唯のボケに呆れた表情を浮かべるように演じながらも、こみ上げてくる笑顔を抑え切れない。
馬鹿みたいだけど、本当に心地良い二人の距離。
良くも悪くも、これが私と唯の関係なんだろう。
それは変わらず続くはずだと思う。
世界の終わりまで。
きっと。
ずっと。
「とにかく行こうぜ。お嬢様をお待たせしては、執事の名折れ。遅れるわけにはいかん!」
「あ、メイドじゃなくて、執事って設定だったんだ。じゃあ、さわちゃんの執事服を着るとか?」
少し深呼吸をしてから唯に向けて宣言すると、
途端に笑顔になった唯が、嬉しそうにまた天然なのか本気なのかよく分からない発言をしてくれた。
やれやれ。
まあ、執事とか言っちゃってる私も、唯の事は言えないんだけどさ。
「いや、服に関してはもういい。とにかく行くぞ」
「ラジャー!」
そうして二人で部室から出て、私達はゆっくりと校舎の中を歩く。
お待たせするのは執事の名折れとは言ってみたけれど、実のところムギが来る予定の時間まではまだ三十分近くある。
校舎を二人でゆっくり歩く時間くらいはあった。
さっきまでの騒ぎぶりは何処へやら、私の隣に居る唯は珍しく静かに歩いていた。
私もその珍しい唯の様子を横目に、何となく口を噤んでゆっくりと校舎を見回しながら歩いてみる。
世界の終わりまであと一週間。もう一週間。
来週の月曜日は来ない……かもしれない。
かもしれない、と思うのは私の弱さなんだろうけど、とにかく今週で世界は終わるらしい。
そう考えると三年間過ごした何の変哲もない校舎が、何処となく特別に見えた。
今現在、登校する生徒が全校生徒の三割くらいになってしまった、我らが桜が丘女子高等学校。
登校してくる同級生達も目に見えて少なくなってきていた。
ほとんどの同級生の顔は、よくて数日に一度しか見ない。
逆によく目にするのは和に清水さん、それに意外といちごくらいかな。
関係ないけど、いちごをよく見かけるのは本当に意外だ。
いや、いちごの真似をしているわけじゃないんだけど。
とにかく、そんな生徒の少なくなった私達の校舎を見ながら、私は思う。
勿体ないなあ、って、そう思うんだ。
この光景を見られるのは、あとほんの少しかもしれないのに。
多分、そう思ってるから、私はずっと学校に来てるし、唯もよく来てくれているんだろう。
だから、私と唯は目に焼き付ける。
例え世界が終わらなくて、何事もなく卒業する事になったとしても、それでも。
私達の校舎を大切に思い出せるように。
「あれ、唯に……律?」
玄関の靴箱まであと数歩という距離にまで近付いた時、急に後ろから声を掛けられた。
聞き覚えのある声だった。
って、私と唯を知ってる人なんだから、その声に聞き覚えがあるのも当然なんだけど。
自分で自分に突っ込みながら振り返ってみると、そこに立っていたのは信代だった。
「あ、信代ちゃんだ! おひさー!」
久しぶりの同級生との再会が嬉しかったのか、唯が信代に駆け寄っていく。
唯が軽く手を上げると、信代も手を上げてお互いに軽く叩き合う。
当然、私も信代と久々に会えて嬉しかったんだけど、
それよりも信代が学校に居る事の方が意外で唯に一歩出遅れる形になってしまった。
それも仕方がないと言えば仕方ないと思う。
『終末宣言』の直後、誰よりも先に学校に来なくなったのは、この信代だった。
見る限りでは学校が嫌いなわけでもなさそうだったし、
友達を大切にする面倒見のいいタイプの信代が真っ先に学校に来なくなったのは、私としても気になるところだった。
もしかしたら、何かの暴動に巻き込まれて……、なんて嫌な想像もしていたくらいだったし。
携帯電話で連絡を取ろうかとも思ったんだけど、
もし繋がらなかったら、って思うと、情けないけどその一歩を踏み出せずにいた。
でも、とりあえずは元気そうな信代を見て、私は心の底から安心した。
親友と呼べるほど親しいわけじゃないけど、それでも同じクラスで友達なんだ。
無事でいてくれて、本当に嬉しかった。
唯と違い、その場で黙ったままの私の様子を不思議に思ったのか、信代が首を傾げながら言った。
「どうしたの、律? ひょっとして私と会えなくて寂しかったとか?」
心情を見透かされた気がして、私は目を逸らしながら、違うやい、と返してやった。
くそー、信代のくせに生意気な……。
悔しいからこのまま信代と唯を置いてムギを迎えに行こうかとちょっとだけ思ったけど、
やっぱり信代が今まで何をしていたのか気になって、私はその場から立ち去る事が出来なかった。
悔しがっている事が分からないよう声のトーンを少し変えて、結局、私は信代に訊ねてみる事にした。
「そんな事より本当にどうしたんだよ、信代。
急に学校に来なくなったと思ったら、いきなりそんな私服で学校に登校してきて。
色気づいて指輪なんかもしちゃってさ。校則違反だぞ、校則違反ー!」
学校外で会う事が少ないから、私は信代の私服姿をそんなに見た事がないからはっきりとは言えない。
だけど、今日の信代の私服姿は、妙に色っぽいというか艶っぽいというか、とにかく色気があった。
服自体はしまむらで見かけるような普通の服装なのに、どうにも輝いてる感じがする。
普段は私と同じく、可愛いのとか興味ない感じだったのにさ。
何だよー。さわちゃんにキラキラ輝く方法でも教えてもらってたのか?
ひょっとしたら、この見慣れない信代の指輪の魔力とかだったりして。
この指輪をはめただけで志望校に合格、宝くじにも当たり、身長も伸びてお肌もツヤッツヤー!
ホントもう次々と幸運が舞い込んで来て、今ではあの頃の悩みが嘘のように! なんてな。
特に左手の薬指にはめる事で幸運が舞い込む確率が更に倍とか?
……って、あれ? 左手? そんでもって、薬指……?
えっ……?
「まあまあ、指輪くらいいいじゃん、りっちゃん。
いいなー。その指輪可愛いなー。その指輪、信代ちゃんが自分で買ったの?」
何も気付いていない唯が、羨ましそうに信代の指輪を見つめる。
私はと言えば固唾を呑んで、信代の次の言葉を待つ事しか出来なかった。
まさか……だよな?
ラブリングとかそういうの……だよな?
それはそれで、結構衝撃的ではあるんだけど。
そして、しばらく後、信代は照れた顔で頭を掻きながら、ある意味私の予想通りの言葉を言った。
「ははっ。校則違反は勘弁してよ。これ旦那から貰ったもんなんだからさ」
「えっ……? 信代……ちゃん……? 旦……那……?」
流石の唯でも事態が呑み込めてきたらしく、静かに深刻に信代に訊ねていた。
唯の質問に答えるために、ゆっくりと信代が口を開く。
その瞬間、もう確定している、と私は思った。
これから信代はもう確定している事を口にするだけだ。
それを私は分かっている。何を言うかも分かっている。分かり切っている。
だから、私は驚かないようにしよう。
これから多分叫ぶ唯を、大声で叫ぶな、と説教する役に徹しよう。
大丈夫。私は冷静だ。今更、信代の言葉なんかに驚かない。
私はクールに定評のあるりっちゃんだ。
そうして、
信代が、
私達の疑問に答える、
言葉を発した。
「うん、結婚したんだよ、私」
「ええええええええええええええええっ!」
しまった。
唯を説教するつもりが私も唯と一緒に一緒に叫んでしまった。
でも、それも仕方が事だった。
会話の流れからある程度予想してはいたけど、実際本人の口から聞くとやっぱり衝撃的だ。
これまでそんな素振りを全然見せなかった信代が結婚なんていきなり過ぎだろ。
「何? 私が結婚した事がそんなに意外?」
怒ってる様子じゃなく、普段見せる豪快な笑顔で冗談交じりに信代が言った。
さっきの私達の反応は失礼だったかもしれないけど、信代はそんな事なんか全然気にしていないみたいだった。
凄い余裕だ。
まさかこれが主婦の余裕ってやつか?
「いや、意外っつーか……。何つーかさ……」
私は頬を掻きながら言葉を探してみたけど、中々いい言葉が見つからなかった。
何て言うべきなんだろう。
友達が結婚した事自体が初体験なんだ。
この様子を見る限り、信代の結婚は嘘とか冗談じゃないみたいだし。
やっぱりこういう時は笑顔で祝福するのが正しい反応なんだろうか。
いや、それだと普通過ぎるから、少し冗談交じりに反応するべきなのか?
あー、分からん!
そうして私が悩んでいると、私が何を言うより先に唯が信代の両手を握って微笑んだ。
「凄いね、信代ちゃん! おめでとう!」
「ははっ、ありがとう、唯」
そう言って、いつも豪快な信代が照れた表情ではにかむ。
そうか。唯の反応が正解だったのか。
私はつい一人で感心して頷いてしまう。
前から思ってるんだけど、こういういざという時の唯の行動は間違いがない。
物怖じもしなくて、感じるままに行動してるだけなんだけど、
そんな風に単純だからこそ、正解までの最短距離を見つけられてるって感じだ。
私もそんな唯の単純さを見習う事にした。
「うん、そうだな。結婚おめでとう、信代。
先を越しやがってー。こいつめー!」
言いながら、信代に駆け寄って肩を軽く叩いてやる。
本当はチョークスリーパーを仕掛けてやりたかったんだけど、
私と信代の身長差じゃ信代にチョーキングを仕掛けるのは無理があった。
「律もありがとう。
私なんかあんた達みたいに可愛くないから、先に結婚しちゃって申し訳ないね」
「お、言うようになったな、こいつー!」
私が笑いながら何度も肩を叩くと、信代は更に気持ちいいくらいはにかんだ。
その笑顔は本当に眩しくて、信代だって十分可愛いよ、と私は思った。
確かに信代は体格もよくて、女子高生って言うより肝っ玉母さんみたいだけど、
それでもその笑顔や照れた仕種は女の私から見ても本当に魅力的だった。
会った事もない人だけど、信代の旦那さんも信代のそんなところに惹かれたんじゃないかな、と何となく思う。
「ねえねえ」
信代の手を取ったままの唯が、聞きたくて仕方がないといった素振りで信代に訊ねた。
「信代ちゃんの旦那さんって一体誰なの?
私達の知ってる人? 年上? 年下? ねえねえ、教えてよー」
信代より年下だと日本の法律では結婚出来ないんだが……。
突っ込もうかと思ったけど、今それを言うのも何だか無粋な気がした。
私はその唯の言葉をスルーして、信代の返事を待つ事にする。
「三歳年上だよ。幼馴染みの腐れ縁でさ。
元々、旦那が大学を卒業したら結婚するつもりだったんだけど、こんな状況だしね。
今の内にって事で、一ヶ月前に婚姻届けを出したんだ。
受け付けしてないんじゃないかと思ってたけど、意外と役所も開いてて律儀なおじさんが受理してくれたんだよ。
ちゃんと戸籍にまで反映されてるかは分かんないけど、でも、受け取って貰えただけでも気分的に嬉しかったな」
ほんの少し顔を赤くして、信代が語ってくれた。
本当に嬉しそうに。
幼馴染みか……。
一瞬、私の頭の中に澪の顔が浮かんだ。
他に幼馴染みがいないわけじゃないけど、私にとって一番近い幼馴染みはやっぱり澪だった。
傍に居なくちゃいけない。居て当たり前の私の幼馴染み。
勿論、そんな事を本人に伝える事はないだろうけど。
と言うか、伝えたらあいつの中の感情が一周回って「恥ずかしい事を言うな!」と逆に殴られそうな気がする。
あいつに殴られ慣れているせいか、どうしてもそんな気がする。
非常にそんな気がする。
私の思い過ごしならいいんだけど……。
「おー! 幼馴染み!
いいなー! 私も幼馴染み欲しいなー」
そうやって声を上げたのは、勿論唯だった。
私と違って、唯の方は自分の幼馴染みを思い浮かべなかったらしい。
おいおい。この事を知ったら、和泣くぞ。
いや、泣く……かな?
どうにも和には何かで泣くイメージが無いな。
和の事だから、冷静に何も聞かなかった事にするだけのような気がするし。
それはそれで長い付き合いの幼馴染みの姿ではあるんだろうけど。
「だけど、水臭いぞ、信代ー。
幼馴染みと付き合ってるなんて、一言も言ってなかったじゃんかよー」
私が頬を膨らませて言ってやったけど、それでも信代は穏やかな表情のままで続ける。
「ごめんって。聞かれなかったし、自分から言うのも何か恥ずかしくってさ。
大体、嫌じゃん? 聞いてもないのに自分から彼氏が居るって言い出す奴って」
それは確かに嫌だな……。
信代から見ても嫌そうな顔をしていたんだろう。
苦笑しながら、信代は話題を変えた。
「でも、こんな時期だからって、本当はこんなに急いで結婚するつもりじゃなかったんだ」
「え? そうなのか?」
私が信代の顔を覗き込みながら訊ねると、軽く信代は頷いた。
頷いたその信代はこれまでの照れ臭そうな笑顔じゃなくて、
そうだな……、何て言うんだろう……、
何かを懐かしそうに考えているみたいな……、『郷愁』……だっけ?
とにかくそんな静かで優しい表情をしていた。
「卒業したら進路はどうするつもりか、確か唯には話した事あったよね?」
「うん、覚えてるよ。酒屋さんのお手伝いだよね?」
信代が訊ねると、間髪入れずに唯が自信満々で応える。
てっきり「そうだっけ?」と首を捻るもんだと思ってたんだけど、
意外に覚えてる事は覚えてるんだな、と私は唯の記憶力に感心した。
と言うか、普段から私と唯自身の言った事も覚えておいてくれると助かるんだけどさ。
とにかく、その信代の進路については私も知っていた。
信代自身から直接聞いた事はないけど、
信代の家が酒屋だって事は聞いた事があるし、
卒業後はそこを手伝うらしいという話も、又聞き程度で聞いた事はあった。
「先月に『終末宣言』があったじゃん。
それでさ、私はこれからどうしたいのか考えたんだよ。
これからどうなるか分からないし、
テレビで言ってる通りなら一ヶ月半後には死んじゃうわけだし」
死んじゃう。
何気なく言ったんだろうその信代の言葉に、少しだけ私の心臓が高鳴る。
だけど、それを顔に出さないように、黙って信代の言葉の続きを私は待つ。
今はまだ、誰かが死ぬとか自分が死ぬとか、そういう事を考えたくなかったから。
「それで単純だけど、私はやっぱりうちの酒屋を手伝いたいって思ったんだ。
欲を言うと日本一の酒屋になりたかったんだけど、流石にこんな短期間じゃね……。
でもさ、だったらせめて少しでも日本一の酒屋に近付いてやりたくってさ。
それで長いこと、学校に来てなかったんだよ。
ずっと家で酒屋の仕事をやっててさ。大変だけど、とてもやりがいがある仕事なんだ。
こんな時期でも、うちの常連の飲んだくれのおっちゃんとかが毎日来るしね。
どんだけ飲むんだよー、って感じだけどね」
「信代ちゃん、カッコイイ!」
茶化すわけではなく、本気の表情で唯が拍手していた。
釣られて私も拍手してしまう。
唯の言うとおり、そう語った信代の姿は本当にかっこよかったから。
少なくとも、色んな事を考えないようにしてる私より数十倍は。
……って、そんな卑屈になってる場合でもないか。
私は頭を振って気を取り直して、信代に話の続きを催促する事にした。
卑屈になる事はいつだって出来るからな。そういうのは一人ぼっちの時にするべきだ。
「それで信代?
酒屋さんの手伝いをしてたのは分かったけど、
結婚するつもりはなかったってのはどういう事なんだ?
何か旦那さんに不満でもあったのか?」
そう私が訊ねると、また顔を赤くして信代が笑った。
「いやいや、旦那に不満なんてないよ。
そもそも私を嫁に貰ってくれるだけで感謝ですよ。
小さい頃から、嫁の貰い手があるかお父さんにはよく心配されてたからね」
「じゃあ何で?」
「まだ結婚する前の旦那にさ、
学校を辞めてうちの酒屋を手伝いたいって伝えたんだ。
少しでも酒屋って仕事を経験しておきたいって。
そうしたら、あいつ、言ってくれたんだよ。
『俺もお前と酒屋をやる。お前のやりたい事が俺のやりたい事だ』ってさ。
気障だよね。言ってて自分で恥ずかしいよ」
確かに気障だった。
気障で気恥ずかしいけど、素敵な話だった。
信代はそういう最後の時まで一緒に居られる相手を見つけられたって事なんだ。
それはとても素敵な話だ……、けど、つい私の背中が痒くなってしまっていたのは内緒だ。
いや、分かってはいる。
分かってはいるんだけど、そういう気障な話とかメルヘンな話とかはどうにも痒くなる。
それは私の持って生まれた性格で、どうにも変えようがないんだよなー。
申し訳ないけど、この辺は本当に勘弁して頂きたい。
だけど、羨ましかったのも確かかな。
私にも最後の瞬間まで一緒に居たい誰か、居てくれる誰かは出来るんだろうか。
その時、またも一瞬浮かんだのは澪の顔だった。
我ながら色気無いな、と思いながらも、澪だったらどうだろうと私は考える。
澪なら最後まで居てくれる……とは思うけど……、いや、多分……。
腐れ縁の関係ではあるけど、あいつも私と一緒に居たいとは思ってくれているはず。
それが世界の最後までかどうかは分かんないけど、少なくとも私の方はまだあいつと離れたくなかった。
でも、もし……。
もしもあいつが誰か違う人と一緒に居たいと言い出したら、
私は気持ち良くあいつを送り出してやる事が出来るだろうか……?
それはまだ、考えても仕方がない事だけどさ。
と。
「信代ちゃん、いいなー。私も結婚したいなー」
そんな私の思いに完全に気づいてないだろう唯が信代に向けて憧れの眼差しを向けていた。
やっぱりこいつの方はずっと変わらないんだな。
「はいはい。
唯ちゃんは結婚するよりも先に彼氏を作りまちょうねー」
からかう感じで私が言ってやると、
唯はまた頬を膨らませて「りっちゃんだってそうじゃん」と呟いた。
それはそれとして、そんな変わらない唯の姿にとても安心している私が居た。
色んな事が変わっていく。
世界も、人も、終わりに向けて変わっていく。
それは多分、必要な事なんだろうけど……。
でも、変わらない誰かが居てくれるってのは、何だかとても嬉しかった。
「それでさ」
急にまた信代が続ける。
私は苦笑して唯を見ながら、信代の言葉に耳を傾けた。
「そんな感じであいつがうちを手伝ってくれる事になったんだ、それも住み込みでさ。
もうこの際だから、入籍して夫婦で酒屋を盛り上げようって事になってね。
それでずっとうちを手伝ってて忙しくてさ、つい皆に連絡を取り忘れてたんだよ。
律も唯もごめんね」
私は軽く頭を振って、いいよ、とまた信代の肩を叩く。
そういう事情なら怒るに怒れないじゃないか。
そもそも怒ってたわけでもないけどさ。
「でも、今日はどうにか時間が出来たから、学校に来てみる事にしたんだ。
しばらく皆と会えてなかったし、それに……」
「それに……?」
私が先の言葉を催促すると、何処か寂しそうな顔で、でも、何かを決心した顔で、信代は言った。
あくまで明るく、いつも通りの肝っ玉の太い信代の声色で。
「今日はお別れの言葉を伝えに来たんだよ。
友達とか、先生とかにさ。もう皆と会えるのも最後かもしれないからね」
そんな今生の別れでもあるまいし、と私は明るく軽口を叩こうと一瞬考えたけど、やめた。
そうだったな。
本気で今生の別れになるかもしれないんだよな。
もう、そんな時期なんだよな……。
ほんの少しの沈黙。
唯も少し視線を落として、何となく寂しそうに見える。
私も何を言えばいいのか分からなくて、どうしようかと少し迷ったけど……。
それでも私は信代の背中側に周って、背中から飛び付いてチョーキングの体勢を取っていた。
信代もちょっと驚いたみたいだったけど、私を振り落としたりはしなかった。
やっぱりと言うべきなのか、その体勢はチョーキングと言うより、
私が信代におんぶされてるみたいになってて、それを見てた唯が軽く笑った。
「あはは。二人とも何やってんのー?」
「いやいや、私は何もやってないし。律が勝手に飛びついて来ただけだよ」
「うるへー。考えてみりゃ、信代にチョークスリーパー掛けた事無かったからな。
折角だから、存分に味わっとけい!」
「うわ、無茶苦茶だ」
顔は見えないけど信代が苦笑したらしく、
信代の背中越しに見えた唯もそれに釣られてまた笑っていた。
私も多分笑っていた。
その顔は三人とも寂しさを含んではいただろうけど、今出来る最高の顔だったと思う。
そうして一分くらい信代の背中におんぶされて、
私は存分に信代をチョーキングしてから身体を離した。
唯の隣に戻って、信代の表情をうかがってみる。
ずっと私をおんぶしていたのに、信代は疲れた様子を全然見せずに笑っていた。
流石は信代。桜高最強の女(多分)。
「さてと……」
名残惜しそうに信代が呟く。
私も、多分唯も、次に信代が何を言おうとしているのか分かっていた。
その言葉は出来れば聞きたくなかったけど、それを止めるわけにもいかなかった。
私達は私達で、信代は信代で、しなきゃいけない事は違ってるんだから。
「そろそろ行かないと。まだ挨拶したい人は多いし、約束もあるしさ」
「そっか……」
「でも、律達に会えて本当によかったよ。
一応、軽音部の部室にも顔を出そうかとは思ってたんだけど、時間が取れるか分からなかったし……」
「もうすぐムギも来るから、会っとけよ」
「いや……、でも行くよ。春子とか待たせてるしさ。流石にもう行かないと」
「だったらさ、信代ちゃん。よかったらなんだけど……」
珍しく遠慮がちに唯が言った。
私は口を噤んで、唯の言葉を待つ事にする。
こいつが口ごもりながら何かを言う時は、本当に真剣に何かを考えてる時だから。
「どうしたの、唯?」
「今度、軽音部でライブやる予定なんだけど、よかったら信代ちゃんも見に来てよ。
部室でやる小さなライブなんだけど、本当にすごいよ!
歴史に残るくらいのすっごいライブだから!」
「おいおい……」
呆れた表情で軽く唯の頭をチョップしてやる。
唯の発案自体が悪いわけじゃないんだけど……。
私はチョップを唯の頭に置いたままノコギリみたいに動かしながら、言葉を続けた。
「歴史に残るライブって、まだ日にちも決まってないだろ。
大体、身内で、ライブやれたらいいな、って話してるだけじゃんか」
「えー……。でも、きっとすごいライブになるよ!
絶対歴史に残るし! て言うか歴史に残すし!」
「何だよ、その自信は……」
普段と変わらない私と唯の馬鹿なやり取り。
自分でも馬鹿みたいだな、とつくづく思う。
でも、それを見てる信代は笑ってくれた。
「いいね。時間は出来るだけ……、ううん、絶対空ける。
澪達にも会いたいし、放課後ティータイム……だったよね?
私、実は結構あんた達のバンドのファンだし、楽しみに待ってる。
ライブの日程が決まったら、すぐに教えてよ」
「おー、流石は信代ちゃん!」
何が流石なのかは分からなかったが、信代の言葉に唯は満面の笑顔で喜んでいた。
私も、オッケー、と言いながら、信代とハイタッチを交わした。
ありがとう、信代。
心の中でだけそう言って、そうして私達はまずは春子と会うという信代を見送った。
三人とも笑顔で、とりあえずの別れを交わせた。
完全に信代の姿が見えなくなった頃、唯が何かに感心している様子で呟いた。
「何か……カッコよかったよね、信代ちゃん……。
女の『みりき』に溢れてるって言うか……」
「『魅力』な」
「むー……。分かってるよ。ついだよ」
「どっちだよ。
でも、分かるよ。
人妻の艶めかしさっつーか、セクシーさっつーか、とにかく余裕があったよな」
「あれが人妻のみりきなのか……」
「魅力な。まあ、いいや。とりあえずムギを迎えに行こうぜ」
私がそう言った瞬間。
背筋に何らかのどす黒いオーラ的な何かを感じた。
そのオーラ的な何かは本当に何の前触れも無く、私達の背後に現れていた。
瞬間移動でもしているかのようだった。
な、何を言ってるか分からねーと思うが、私も何をされたのか分からなかった。
催眠術とか超スピードとか、そんなチャチなもんじゃ断じてねえ。
もっと恐ろしい物の片鱗を……。
って、よく考えなくても私の知っている人の中には、そういう神出鬼没な人が居たんだった。
若干呆れつつ振り返ってみると、予想通り私達の顧問の先生が何故かその場に崩れ落ちていた。
「何やってんだよ、さわちゃん……」
小さく訊ねてみたけど、
さわちゃんは私の言葉に反応せずに何かを呟いていた。
「……された」
「何?」
「先を越された……」
「だから何?」
「中島さんに先を越された……。
生徒に……、よりにもよって生徒に……」
「あー……」
それ以上、私は何を言う事も出来なかった。
とても残念ではあるんだけど、
それに関して私がさわちゃんに言ってあげられる言葉はありそうにない。
と言うか、ずっと聞いてたのかよ。
いや、確かに信代が結婚したって話を聞いたら、そりゃ顔を出しにくかっただろうけど。
どうしたものか、と首を捻っていると、唯が事もなさげに軽く言い出した。
「大丈夫だよ、さわちゃん!
さわちゃんはまだ結婚してないかもしれないけど、私達だってまだ結婚してないから!」
「いや、それ何の慰めにもなってないから……」
私は唯の頭を掴んで軽く揺らしながら突っ込む。
それでも、唯は自分の発言の何が問題だったのか分かってないみたいで、きょとんとしていた。
そうなんだ。
こいつはこれでも本気でさわちゃんを慰めてるつもりなんだ。
私はそれをよく分かっているし、さわちゃんもそれだけは長い付き合いでよく分かってるみたいだった。
その場に崩れ落ちた体勢のままだったけど、さわちゃんは軽く苦笑を浮かべて私達を見つめた。
「そうね……。私はまだ結婚してないけど、貴方達も結婚してないものね……。
特に貴方達は彼氏が出来た事すらないものね……。
それに比べれば私なんてまだまだ幸せな方よね! ファイトよ、さわ子!」
拳を握り締めて、さわちゃんは自分に言い聞かせるよう気合を入れる。
ちょっと心配してみたらこれだ……。
彼氏が出来た事がないのは本当だけど、それを人に言われるのはちょっと腹立つな。
私の隣に居る唯も微妙な顔でさわちゃんを見つめていた。
私の知る限り、唯にも彼氏が出来た事はなかったはずだし。
そもそも男に興味があるのかどうかも怪しいし……。
まあ、さわちゃんが元気になったのは何よりだ。
私は唯の手を取って、唯と顔を見合わせる。
「さて、もうすぐムギも来る事だし、幸せな人は置いといて急ごうぜ、唯」
「あいよ! そうだね、りっちゃん!」
そうして二人でさわちゃんに背中を向け、私達は校門への新たな一歩を踏み出そうとして……。
「ちょっと、二人ともぉ!」
「うわっ!」
「おっとと! 掴まって、りっちゃん!」
さわちゃんに私の脚を掴まれ、体勢を崩して倒れそうになってしまった。
唯が私の手を支えてくれたおかげで倒れずにすんだけど、正直、結構危なかった。
体勢を立て直し、ありがとな、唯、と軽く頭を下げた後、
私は出来るだけ嫌そうな顔でさわちゃんに言った。
「ちょっとさわちゃん……、危ないじゃんかよー」
「それはごめんなさい……。確かにやり過ぎちゃったわね……。
でも、一週間ぶりに会った先生を置いて、そんなに急いで行かなくてもいいじゃないの。
この一週間何やってたの? とか聞いてくれてもいいじゃない」
聞いて欲しいのか……。
確かにこの一週間、さわちゃんの姿を見かけなかったし、何をやってたのかは気になるけど……。
でも、その言葉通りに、ただ聞いてあげるのも面白くないな。
そこで私は一つ少し意地の悪い事を思い付いた。
信代の結婚にショックを受けてた姿から考えるに、この一週間彼氏と過ごしてたわけでもなさそうだ。
倒されそうになった仕返しにその辺を弄ってみる事にしよう。
私はニヤリと意地の悪い笑顔を浮かべ、さわちゃんの肩に手を置いた。
「この一週間何をやってたかなんて、聞かなくても分かるよ、さわちゃん。
彼氏とめくるめく愛へのハイウェイ的なアバンチュールを過ごしてたんだろ?」
「おー、アバンチュール!」
アバンチュールという言葉の響きが好きなのか、唯が大袈裟に強調してくれる。
相変わらずよく分からない所にツボがある奴だな。
それに対して、何故かさわちゃんはしばらく反応を見せなかった。
あれ、おかしいな。いつも通り顔を伏せて嘆いてくれると思ったんだけど……。
ちょっと意地悪過ぎたかな、と私が不安になりかけた時、急にさわちゃんが驚いた表情を浮かべた。
「ど……、どうして知ってるのっ?」
「えっ? マジでっ?」
「いや、マジで、って何よ。私だって彼氏とアバンチュールする事くらいあるわよ。
実はね、前の彼氏とやり直す事になったの……。
それでこの一週間、二人で温泉旅行に行ったりして、ずっとアバンチュールしてたのよ」
「すごいよ! 温泉でアバンチュールなんて大人の関係だよね、りっちゃん!」
「そうだな、唯……。まさか本当にさわちゃんにそんなアバンチュールが……」
唯と二人で意外なさわちゃんの大人の一面に感心してしまう。
彼氏と二人で温泉旅行のアバンチュールしてたなんて……。
つい私はタオルも巻かずに混浴に入るさわちゃんと彼氏を想像してしまう。
二人は見つめ合い、いつしか唇を重ねてそのまま……って、何考えてんだ私!
何だか顔が熱い。自分でも自分の顔が赤くなってしまっているのが分かるくらいだ。
知っている人のそんな姿を想像してしまうのは、どうにも気恥ずかしくてたまらない。
どうしても落ち着かなくて、私は唯の顔を気付かれないように覗いてみる。
唯も私と同じ様な事を考えているんだろう。唯の顔も少しだけ赤くなっているように見えた。
そういう情報に疎く見える唯だけど、普通の女子高生並みの知識はあるに違いない。
って、そういえば前に唯に聡の隠してたそういうビデオを貸したのは私だった。
いや、ほら、私達も女子高生なわけで。そういうビデオを観たくなる事もあるわけで。
あー、もう、だから、とにかく!
そんな感じで私と唯が黙り込んで悶えていると、急にさわちゃんが大きな笑い声を上げた。
「あっははは! 何、赤くなってんのよ、二人とも。
冗談よ、冗談。この一週間は実家の整理とか同級生と会ったりとかしてただけよ。
彼氏が居たとしても、流石に一週間も温泉旅行なんか行くわけないじゃない。
それにしてもそんなに赤くなるなんて、幼く見えるけどあんた達も年頃なのねえ」
一瞬、さわちゃんが何を言い出したのか、私には分からなかった。
それくらい状況が呑み込めなかった。
数秒経ってからようやく私は、ああ、そうか、と思った。
からかったつもりが、逆にからかわれてたんだ。
それが分かった瞬間、急に悔しさが込み上げてきた。
「くっそー、騙したな!」
「謀ったな、さわちゃん!」
唯と二人で頬を膨らませて文句を言ってやったけど、
さわちゃんは、てへっ、と舌を出して首を傾げるだけだった。
やられた……。
普段、彼氏ネタで弄ってるからお約束の鉄板だと思ってたのに、まさかそれに返しネタを用意してくるなんて……。
大体、信代の結婚にショックを受けてたんだから、
彼氏が居ない事は分かってたはずなのに、完全に予想外の返しに思考停止しちゃってた……。
さわちゃんめ。悔しいけど三年生のこんな時期になってお約束を崩すなんて、敵ながら天晴れ。
「でもね。一つ嘘じゃない所もあるのよ」
急にさわちゃんが遠い目になって語り始める。
まだ悔しくはあったけど、とりあえずさわちゃんの言葉を聞いてみる事にした。
「そう。あれは一週間前の事……」
「その語り口、好きだよな、さわちゃん」
「黙って聞きなさい。
それでね、さっき前の彼氏とやり直す事になったって言ったでしょ?
実は前の彼氏から「やり直そう」って言われた事だけは本当なのよ。
これだけは嘘じゃないわよ。
急に一週間前に呼び出されてね、何の用事かと思ったらそう言われたの」
「でも、やり直さなかったの?」
また聞きにくい事を平然と唯が聞いていた。
でも、聞かないわけにもいかない事でもあるか。
今も彼氏が居ない事を嘆いてるって事は、つまりその前の彼氏とはやり直さなかったって事なんだから。
さわちゃんもその辺はちゃんと話そうと思っていたのか、特に唯を怒るわけでもなく続けた。
「そりゃそうよ。もう終わっちゃった関係だもの。
大体、振られちゃったのは私の方なのに、
それをこんな時期だからって都合よくやり直したいって言われてもね。
そう言われてもね……」
そこまで言うと、急にさわちゃんの身体が痙攣するように震え始める。
冬の始まりと言っても、まだ寒いわけじゃない。
勿論、唯の発言に怒っているわけじゃない。
私達に対する怒りじゃない。
つまり……。
と。
さわちゃんが唐突に立ち上がって眼鏡を外してから叫んだ。
「大体なあっ!
もうすぐ死ぬからって昔の女に縋り付くって根性が気に入らねーんだよ!
死が何だっつーの! こちとら死の悪魔の『DEATH DEVIL』だっつーんだよ!
しかも、後で調べてみりゃ、いつの間にか結婚してて妻子持ちだっつーじゃねーか!
不倫させるつもりだったのかよ!
ざけんじゃねーッ!」
あーあ、やっぱり出たよ、『DEATH DEVIL』……。
でも、まあ、仕方ないか。
自分から振っておいて、しかも結婚してて、
それでこの際だからって感じで昔の彼女とやり直そうとするとか、さわちゃんじゃなくても怒るよ。
勿論、その前の彼氏の方に何か事情が無かったとは言い切れない。
ひょっとしたら、この時期になって、最後の時間を目前にして、
本当に傍に居たかったのはさわちゃんだって気付いたのかもしれない。
それで今更だけど、やり直そうとしたのかもしれない。
気持ちは分からないでもないけど……。
だけど、それは多分、やっちゃいけない事なんだ。
だから、さわちゃんは怒ってるんだろう。
「大体なあっ! 大体なあ……。
何よ、もう、今更……。
あーあ、もう……」
さわちゃんの『DEATH DEVIL』モードは結構短い。
これまで何回か見て来たけど、どの時も数分で元に戻っていた。
今回も同じ様に素に戻ったんだろう。
眼鏡を掛け直して、さわちゃんはまたその場に崩れ落ちた。
泣いているわけじゃなかったけど、そのさわちゃんの姿はとても寂しそうに見えた。
身勝手な前の彼氏の行動に怒っているのは確かなんだろう。
それでも、本当は少しだけやり直したい気持ちもあったんだろう。
だから、信代の結婚を羨ましく思っているわけだし。
残された時間も少ないし、本当はやり直すという選択もありなんだろうとは思う。
思い残しの無いように、最後に何もかも捨てて誰かに縋るのも一つの選択なんだ。
それを選んでも、誰もさわちゃんを責めないだろうけど……。
だけど、さわちゃんはそれを選ばなかった。
さわちゃんには悪いけど、私はそれがとても嬉しいと思う。
それは多分……。
私はしゃがみ込んで、またさわちゃんの両肩に手を置いて言った。
「さわちゃんは立派だよ。皆、そんなさわちゃんの事が好きだよ」
「りっちゃん……」
「私だってさわちゃんの事が大好きだよ!」
「唯ちゃん……」
「さあ、立って、さわちゃん。
もうすぐムギが美味しいお菓子を持って来るからさ。
部室で一緒に食べよう」
「ムギちゃんが……。ねえ、りっちゃん……」
「うん……」
「りっちゃんの分のお菓子も分けて貰っていい?」
「うん……。って、うおい!」
私が突っ込んで頭を軽く叩くと、その時のさわちゃんはもう笑顔だった。
悲しくないわけでもないし、後悔してないわけでもないと思う。
それでも、さわちゃんは……、私達の顧問の先生は笑顔だった。
きっとそういう風に生きて、そういう風に終わりを迎えてくれるんだ。
○
校門でムギと合流して部室に戻ると、澪と梓もいつの間にか部室に来ていた。
久しぶりに会うムギは少し疲れて見えたけれど、それでもとても楽しそうに振る舞ってくれた。
かなり久しぶりの軽音部の全員集合。
ムギはその事が嬉しかったんだと思う。
いつもよりも落ち着かず、はしゃいで見えた。
ムギが疲れている理由について、私は何も聞かなかった。
多分、それはムギが話したい時に話してもらえればいい事だと思う。
そうしてさわちゃんを含めた六人でお茶をして、
さわちゃんが吹奏楽部の活動を見に行った後で
(私は知らなかったけど、
午前中はさわちゃんの授業を受けたい有志の生徒達相手に授業をしていたらしい)、
私達軽音部の間に少し気まずい空気が流れた。
原因は練習でやった私達のセッションが妙に噛み合わなかった事だ。
勿論、その妙に噛み合わないセッションの原因は私……、
と言いたいところだけど今回はそうじゃなかった。
よくドラムが走り気味でリズムキープもバラバラと、
結構厳しい評価を受けがちな私だけど、今日の私のドラミングは悪くなかったと思う。
リズム隊の澪も何も言って来なかったし、唯とはアイコンタクトで難しいリフも何とかこなせた。
いや、普段の練習から考えると、出来過ぎなくらいに私の演奏は悪くなかったはずだ。
今回の噛み合わないセッションの原因は、
こう言うのも人のせいにするみたいで嫌なんだけど、梓のミスによるものが大きかったと思う。
これは本当に意外な事だった。
私のミスのせいならともかく(って自分で言うのも悲しいんだけど)、
普段真面目で、子供の頃から演奏を続けている努力家の梓が今日に限って凡ミスを繰り返していた。
しかも、普段なら本当にありえないミスばかりを。
いや、今日に限って……、じゃないか。
考えてみると、最近の梓は何だかどうもおかしかった。
最近とは言っても、『終末宣言』の日からじゃなかった。
あれはあれでとても衝撃的な宣言で、
あれ以来、恐怖とか諦めとかで学校に来れなくなった同級生も多かったけど、
少なくとも梓はそういう子じゃなかった。
あの日、純ちゃんの電話と校内放送で世界の終わりを知った梓だったけど、
その後の行動は私達三年生が見てもびっくりしてしまうくらい落ち着いていた。
静かに家族に連絡を取ったり、事の真偽をニュースとかで調べたり、
私達の横で呆然とする澪を気遣ったりするくらい、すごく落ち着いた行動だった。
本当のところは分からないけど、
きっと純ちゃんが梓が慌てないように、電話で何か言ってくれたんだろうって思う。
純ちゃんの事をよく知ってるわけじゃないけど、あの子は多分そういう子だった。
自由に見えて、いつも誰かの事を気遣ってる子なんだ。
だから、ちょっと固めで融通の利かない所もある梓が、あんなに心を開いているんだ。
私もそういう先輩になれたらよかったんだけど……、実際は梓にどう思われているんだろう?
いやいや、今は梓の私の評価はどうでもいい。
とにかく、そんな落ち着いた様子の梓なのに、ここ三日くらいどうにも様子がおかしかった。
一昨日なんてかなり挙動不審で、
私が指摘するまで自分の髪を結んでない事、鞄を持って来てない事にも気付いてないくらいだった。
それは最後の日まで一週間を切ったから、というわけでもないとは思う。
これは単なる私の勝手な考えなんだけど、
梓は世界が終わるとか、自分が死ぬとか、そんな事よりも恐い何かに怯えているように見えるんだ。
それが何なのかは分からないけど、部長としてそんな梓の力になりたいと思う。
だけど、梓はそんな私に何も言ってくれなかった。
悩み事があるのか、心配な何かがあるのか、
そんな感じで何度も聞いてみたんだけど、
梓は「何でもないです」の一点張りで私の質問に答えてくれなかった。
私じゃ駄目なのかと思って、唯やムギに頼んで聞いてもらった事もあったけど、
やっぱり梓は何も答えずに無理な笑顔で笑っただけみたいだった。
その何も言わない梓に一番苛立っていたのは澪だった。
セッション中、梓が凡ミスを繰り返す度に目に見えて不機嫌になっていく。
いや、苛立っていると言うより、焦っているんだろうな。
人一倍練習しているくせに、学園祭の時も自分の腕に自信が持てずに眠れてなかった澪だ。
最後になるかもしれない私達のライブを何としても成功させたいんだろう。
だからこそ気負ってしまって、普段ミスする事がない梓の今の様子に焦りを募らせているんだ。
いつもの澪なら梓を気遣って相談にも乗れていたはずだけど、
もうすぐ死ぬと言われて誰かの事を気遣えるほどの余裕はないんだ、あいつは。
あいつはそういう繊細な奴だった。
もし『終末宣言』より前に梓が悩んでいたのなら、きっと澪が梓を支えてやれていたんだろうな。
梓は澪に憧れているみたいだし、澪なら解決してやれたはずだった。
上手くいかないよな、色々と……。
勿論、焦ってしまうのは私も同じだった。
ただ澪には悪いけど、私が焦るのはライブの成功を願うからじゃなくて、
私達には話せない梓の中の問題が解決出来るかって事が気になるからだ。
もうすぐ終わるかもしれない世界。
そんな世界でも……、いや、そんな世界だからこそ、
せめて梓の問題だけは解決して、また五人で笑いたいんだ。
そうじゃないと……。
そうじゃないと、悲し過ぎるじゃないか……。
結局、今日どうにか練習出来たのは、『五月雨20ラブ』とムギの作曲してくれた新曲を少しだけ。
『五月雨』の方はもう完成してる曲だから大体完璧だったけど、ムギの新曲はまだ二割も演奏出来なかった。
そもそも新曲の方は曲名も歌詞も決まってない。
新曲の内容については澪に任せてるけど、今の状況じゃ完成したのかどうかあいつに聞く事も出来なかった。
梓の様子に澪が焦ってるからって事もあるけど、それよりも澪も澪で何かを抱えてるみたいだったから。
『終末宣言』後、軽音部の中で誰よりも取り乱したのはやっぱり澪だった。
最初の一週間はそれこそひどかった。
自宅に閉じ籠ってかなり情緒不安定で、怯えていたかと思えば突然泣き出したり、
かと思えば妙な現実逃避で周りを混乱させたり、一時期は手に負えないかと思ってしまったくらいに。
でも、本当はそれが人間の正しい反応なのかもしれなかった。
私達みたいに平然としてる方がおかしいのかもしれないって、自分でもそう思わなくはないけどさ。
それでも、自分勝手だけど、私は澪に怯え続けて欲しくなかった。
だから、私は何度も澪の家に行って、澪の部屋で何度も話し合った。
もうすぐ世界が終わるかもしれないからって、それで何もしない方が勿体ないって何度も話した。
勝手な言い分だと思う。
ずっと自分の家で家族と過ごすのも悪くなかったのに、私はそれを止めてしまった。
結局、それは多分、私が澪と一緒に居たかったから。
日常を無くしたくなかったから……。
私の説得に根負けしたのか、私の我儘に付き合ってくれる気になったのか、
澪は自宅に籠るのをやめて、二日に一回くらいは学校に来てくれるようになった。
それ以来、澪は『終末宣言』前みたいな様子を見せるようになったけど……。
でも、分かる。
普段の澪みたいに見えて、人には言わない何かを抱えているんだって。
たまに見せる澪の寂しそうな笑顔に、そう感じさせられてしまう。
最後のライブを目前に、私も含めてそんな風に沢山の問題を抱えてしまっている我が放課後ティータイム。
最後に悔いのないライブが出来るのか、それは私にも分からなかった。
こうして、最後の月曜日が終わる。
○
――火曜日
少し寝入っていた私はセットしていた携帯電話のアラームに起こされた。
急いでラジカセの電源を入れる。
軽快な音楽が流れる。
「胸に残る音楽をお前らに。本当の意味でも、ある意味でも、とにかく名曲をお前らに。
今日もラジオ『DEATH DEVIL』の時間がやって来た。
まあ、時間がやって来たって言っても、休憩時間以外は適当に喋ってんのはお前らも知っての通り。
その辺は気にせずノータッチで今日もお付き合いヨロシク。オーケー?
パーソナリティーは勿論、昨日と同じくクリスティーナ。
つまり、アタシ。
って、ここまで付き合ってくれたリスナーなら、言わなくても分かってるか。
さて、最後の月曜がさっき終わったんで、今日はとうとう最後の火曜日。
ノンストップで世界が終末に向かってるってわけね。
今週の週末には終末って、ホントに出来の悪い冗談だけど、そんな冗談にこの放送は止められない。
何度も言うけど、最後までヨロシク。
にしても、『終末宣言』で放送中止になっちゃったアニメのラジオ番組の枠を貰って、もう一ヶ月も経つんだね。
ラジオなんて聞いた事しかなかったアタシがいきなりパーソナリティーになっちゃって、
それでもここまでやって来れたのはリスナーのお前等と隠されてたアタシの潜在能力のおかげだね。
なんて冗談。
ほとんどリスナーのお前等のおかげだよ。本当に感謝してる。ありがとね。
大体さあ、番組の枠が空いたからって、
顔見知り程度でしかも未経験のアタシにパーソナリティーやらせるとか、
うちのディレクターってどうかしてると思わない?
しかも、いつの間にかどんどん放送時間が延びて、最近は一日中喋りっぱなしになっちゃってるし。
あの人本当にどうかしてるって。
それにさ、あの人ってここだけの話、ヅラなんよ。
これはアタシとお前等だけの秘密。
誰にも言っちゃダメだぞ。
……って、これラジオだった。失敬失敬。
あはっ、ディレクター睨んでる。
こりゃ、後が恐いねー。
……でもさ。
これでもディレクターには感謝してるんだ。
音楽関係の仕事で、これだけ大きな仕事をやれるなんて思ってなかった。
世界が終わる非常事態だからこそ、
暇なアタシがパーソナリティーやれてるって事は分かってるけど、それでも嬉しいもんよね。
音楽は好きだし、出来るだけ最後まで音楽と関わってたかったからさ。
そこんところはヅラのディレクターに感謝。
あ、また睨んでる。
いいじゃん、ディレクター。
アタシはカツラなんか被ってないありのままのディレクターが好きよ。
……被ってない姿は見た事ないけど、多分好きだから。
だーかーら、そんなに睨まないでよ。
さてさて、ディレクターの事はさておいて、
思い返せば最初の一週間はそりゃすごいもんだったのよ。
当時を知らない新参のお前らに説明しとくと、
この時間枠って当初は放送中止になったアニメのラジオの枠だったからさ、
そのアニメ好きの皆さんから心温まるお便りを沢山頂いたわけよ。
「ちゃんと前番組を完結させろ」とか、
「せめて引き続き声優に放送させろ」とか、
「貴方の子を身篭りました」とか、
「クリスティーナ、逝ってよし」とかね。
ごめん、最後のは嘘。「逝ってよし」は古かったね。
でも、その時はさ、アタシも若かったからさ、
本気でその心温まるお便りと口論したもんだったのよ。
お電話をくれた今は常連の島根の『ラジオネームなど無い』略して『ラジな』とも、
番組中にそりゃ大喧嘩しちゃったのよね、これが。
いや、新参のお前らは驚くかもしれないけど。
ディレクターも止めてくれりゃいいのに、面白そうにニヤニヤ見守ってくれちゃって。
今考えると、こんな状況だからこそ、普通は放送出来そうにない物を放送したかったみたいね。
……チッ、あのヅラめ。
ははっ、睨んでる睨んでる。
ま、確かにラジなの言う事も分からないでもないんだけどさ。
楽しみにしてたラジオ番組がアタシみたいな無名の新人に乗っ取られちゃ、そりゃ気に入らないよね。
アタシだって抗議の電話をしたくなるわ。
一応自己弁護させてもらうと、
ラジなの好きなアニメは会社に残ったスタッフ有志が超特急で製作してるらしい。
完全版は無理かもしれないけど、せめて台本だけは完璧な物を仕上げるって意気込んでた。
何作品かは無理みたいだけど、それでも出来る限りは頑張ってくれるってさ。
声優の皆さんも何人かはそっちの仕事に集中してるらしいし。
だから、新参者のアタシがその人達にアニメ製作に集中して貰えるように、
お前らにせめてもの暇潰しを提供してるってわけ。
それにしても、あれだけ大喧嘩したラジながうちの常連になるとは思わなかったね。
何か言いたい事を言い合ったら友情が芽生えてた感じ。
夕焼けの河原での殴り合いの決闘後、みたいな。
発想が古いって?
ほっといて。
あとはこう言うのも気障っぽいんだけど、音楽のおかげかもね。
正直言うと、アタシ実はアニメソングってなめてた。
アニメの付属品の安っぽい劇中曲だろ、なんて聴きもせずに馬鹿にしてた。
でも、喧嘩中にラジなが「この曲を聴いてみろ」って挙げてたアニソンを、
聴かないのも悔しいから何曲か聴いてみたら、悔しいけどいい曲もあるじゃない。
それにラジなの奴もアタシが勧めたロックを律儀に聴いてくれたみたいでさ。
あいつもアニソン以外は聴かない奴だったみたいだけど、アタシの好きなロックを悪くないと思ってくれたみたい。
まさかあの喧嘩の後にまた電話掛けてくるなんて、本当に律儀な奴だよ。
それが受けてこのラジオが今まで続いてるってんだから、世の中分かんないね。
まさに音楽は世界を救うってやつ?
いや、世界は救ってない……か。
もうすぐ終わっちゃうしなあ……。
だけど、少なくともアタシとラジなはそんな感じに音楽で分かり合えた。
少しだけかもしれないけど、確かに音楽はこれまでそんな風に世界を救ってたって、アタシはそう思う。
……さて、そろそろ一曲目のリクエストにいってみよう。
一曲目は今話題のラジオネームなど無いことラジなからのリクエスト。
って、終末が近いからって、いちいち世界の終わりっぽい曲を選ばないでよ……。
ま、いいや。
じゃあ今日の一曲目、島根県のラジオネームなど無いからのリクエストで、
FLOWの『WORLD END』――」
○
朝。
人通りの少なくなった通学路をゆっくりと歩く。
車の通りも少なくて、どこか別の街に来てしまったような気もする。
今となっては、遅刻を気にして、急いで学校に向かう必要もなくなった。
それはそれで大助かりではあるけど、
そういういつもの光景が無くなってしまったのは少し寂しいな。
ちょっと立ち止まって、周りを見渡してみる。
見慣れた建物、橋、線路、店、道路、公園……。
ずっと一緒にいてくれて、ずっと私達と育ってきた街並み。
話によると、世界が終わった後もこの街並みだけは残るらしい。
人が居なくなって、動物達も居なくなって、それでもずっと人の街は残り続けるそうだ。
どういう世界の終わりだよって思わなくもないけど、終末ってのはそういうものらしかった。
街だけ残る……か。
それはせめてもの救いなんだろうか。
それとも、この地球上には生物なんて必要なかったっていう皮肉なんだろうか。
「律? どうしたんだ? 行くぞ」
立ち止まっていた私に向けて、私の長い黒髪の幼馴染みが言った。
私が街並みを見渡しているうちに、澪はかなり先の方まで行ってしまっていた。
「何してんだよ、律。急に隣から居なくなったらびっくりするじゃないか」
「いやー、久しぶりに我が街を眺めてたら、ロマンティックが止まらなくなっちゃって」
「何だよ、それ……」
呆れた感じで澪が呟いて、私が悪戯っぽく微笑んでやる。
それがずっと続いてきた私と澪の関係。
もうすぐ終わりを迎えるのかもしれないけど、私の我儘で続けてもらっている私達の関係だ。
『終末宣言』から大体一ヶ月、
やっと澪の様子も落ち着いてきたけど、本当の澪の本心は分からない。
気弱で怖がりなくせに強がりがちな澪。
世界の終わりまで一週間も残ってなくて、そんな中でこいつは何を考えているんだろう。
いつもならそれをそれとなく聞けてたんだろう。
だけど、我ながら情けなくなるけど、今はそれを聞くのが恐い。
もしこいつの本心の中に、部活やライブ、私達よりも大切な何かがあって、
それを優先したいとこいつが考えていたら、私はそれを止める事が出来ない。止めていいわけない。
それが恐くて、私は澪の隣でわざとらしくても笑ってるしかない。
だけど、澪とは長い付き合いだ。
澪もそんな私の様子に気付いてるかもしれない。
それでも、私は笑って澪に話し掛けるだけだ。
このままでは駄目なんだと分かっていても。
「ところでさ、澪」
「ん」
「今日はどうするんだ? ずっと部室に居る? それか他に何かするのか?」
「そうだな……。とりあえず今日はさわ子先生の授業に出ようと思ってる。
一時間目から希望者に授業してくれるみたいだし、私も出てみようかなって」
「なんと。さわちゃんもいい先生だなー。
昨日だけじゃなくて、今日まで授業してくれるなんて」
「いやいや、昨日部室で言ってただろ。この一週間はずっと授業する予定だって」
「あれ? そうだっけ?」
「おいおい……」
そうだっけ? とは言ってみたけど、本当は私も知っていた。
昨日、さわちゃんが部室で、
「今週は音楽室でずっと授業してる予定だから、暇なら来てもいいわよ」
って、そう言ったさわちゃんの笑顔が眩しくて、忘れられるわけがない。
誤魔化したのはそのさわちゃんの笑顔が眩し過ぎて、照れ臭かったからだ。
私達の顧問の先生の山中さわ子先生。
半ば無理矢理に顧問になってもらったけど、私はさわちゃんが顧問で本当によかったと思う。
たまにエロ親父的な発言に困らせられる事もあるけど、それも御愛嬌って事で。
「こんな状況で、自分の事より生徒の事を考えられるなんて、いい先生だよ」
「普段は変な衣装製作してくるけどなー」
「それもさわ子先生の魅力だろ? 変過ぎて困る事もあるけどさ」
「じゃあ、今度さわちゃんの作ったサンバカーニバルみたいな衣装着てあげたらいいじゃん?
さわちゃん喜ぶぞー」
「うっ……、それはちょっと……」
「冗談だよ。でも、確かにさわちゃんっていい先生だよな。
折角だし、今日は私も澪と一緒に、さわちゃんのいい先生ぶりを見物に行こうかな」
「うん。じゃあ、今日はとりあえず一緒にさわ子先生の授業を受けよう。
それから先の事は後で部室で考えればいいんじゃないかな」
「えっと……さ」
また急に澪が立ち止まって喋り始める。
私も足を止めて、澪の言葉に耳を傾けた。
目を少し伏せながらも、力のこもった言葉で澪は続けた。
「昨日の事……なんだけどさ」
「……梓の事か?」
「うん……。ごめん。私、先輩らしくなかったと思う」
「そうかもな……」
「頭では分かっててもさ、焦っちゃって自分じゃどうにもならなくて、苛立って……。
それで……」
澪が少し口ごもる。
私は黙って澪の次の言葉を待つ。
黙ってはいたけど、私は嬉しかった。
澪も澪で梓の事を考えてないわけじゃないって分かったから。
いや、むしろ梓の事を考えていたから、澪も苛立ってしまってたんだろう。
それを澪自身も分かっているんだ。
だから、口ごもりながらも言葉を続けてくれた。
「梓が何か悩んでるのは分かる。何とかしてあげたいと思う。
思う……んだけど、梓は何も言ってくれなくて、それ以上私には何も出来なくなって……。
梓に苛立っちゃってる私に一番苛立っちゃって……。
昨日……、ううん、ここ最近、先輩として最低だったと思う……」
「自分で分かってるんなら大丈夫だよ、澪。
後はそれを梓に伝えてあげればいいんだよ。
分かってても、難しい事だけどさ……」
「そうだよな……。そうなんだよな……」
「そうだよ」
そう言いながらも、私は次の言葉を言い出す事が出来なくなった。
自分の言っている事は正論だと思うし、間違ってないと思う。
澪も私の言葉に納得してくれてるだろうし、難しい事だけどそれを実行しようと思ってくれてるはずだ。
だけど。
私は考えてしまう。
自分で言っておいて、それを自分で実行出来ているのか、って考えてしまう。
既に澪に我儘を押し付けてしまってる私にそんな事を言えるのか。
言ってしまっていいんだろうか……。
と。
その沈黙は急に破られた。
耳を澄ませば聞こえるくらいの微かな声が校舎の廊下に響いたからだ。
普通に話してたら気付かなかっただろうけど、
黙っていたおかげと言うべきか、その呻くような声は妙に私達の耳に響いた。
しかもその呻き声は長く続いて、一度気にしてしまうともう耳から離れなくなってしまった。
「な……、何?」
さっきまでの様子とは一転、別の意味で不安そうな表情を浮かべて澪が呟く。
こんな時でも性格の本質的なところは変わらないらしい。
私はちょっと嬉しくなって、からかうように言ってやる。
「さあなー。お化けかもなー」
「お、お化けって……、そんな非科学的な……」
「世界の終わりの方が十分に非科学的じゃんか。
呻き声の正体、確かめに行ってみようぜ」
「いやいや、もしかしたら誰かが腹痛で苦しんでるだけかも……」
「そっちの方が大変じゃんか。
もしそうだったら、保健室に連れて行ってあげないといけないだろ」
「あっ……、しまった……」
自分の言葉が墓穴を掘ってしまった事に気付いた澪が、
不安一杯という感じの表情を見せる。
私はそれに苦笑して、多分、澪の言葉が当たりだろ、
とフォローしながら、呻き声の発生源を探してみる事にした。
周囲を見渡しただけで、発生源は案外に簡単に見つかった。
見つかった……んだけど、その発生源の場所が普通過ぎたから、
つい私はガッカリして呟いてしまっていた。
「何だ、オカルト研かよ……」
いや、別にオカルト研が悪いわけじゃないんだけど、もっと意外な展開を期待してた私的には拍子抜けだった。
オカルト研の部室からなら呻き声が聞こえてもおかしくないからなあ……。
うん、おかしくない……か?
まあ、いいや。
「ほら澪、何か大丈夫そうだぞ。
呻き声が聞こえるの、オカルト研の中からだし」
「何が大丈夫なんだよ!」
「いや、病人や怪我人が居なさそうって意味で。
一大事じゃなくて何よりじゃないか」
「その代わり、呻き声の正体がお化けの可能性がぐっと高くなったじゃないか…」
「私としてはそれでも全然オッケーだぜ?」
「私は嫌だ!」
「でもほら、もしかしたらお化けじゃなくて宇宙人の方かも……」
「どっちにしろ嫌だ!」
相変わらず我儘な幼馴染みである。
だけど、やっぱり安心した。
そういえば澪をこんな感じに弄るのは、すごく久しぶりな気がする。
何か落ち着くな。
こういうのが好きなんだよなあ、私って……。
私はその落ち着いた表情を澪に見せないよう、わざとらしく笑いながら言った。
「まあまあ。とりあえずオカルト研の様子だけ見てみようぜ?
チラッと見るだけにしとくから、澪も来いよ。
呻き声は何かの魔術っぽい儀式の声だよ、きっと。
ベントラーベントラーみたいな」
「儀式……ね……。それなら、まあ、ちょっと見るだけなら……。
もしかしたら腹痛とかの可能性も少しは残ってるわけだし……。
でも、儀式だったら邪魔しちゃ駄目だからな。ちょっと見て終わりだぞ。
あとベントラーは魔術の儀式じゃないけどな」
「わーってるって。……って、恐がるくせに詳しいな、おまえ」
突っ込んだ後、あれだけ騒いでおいて今更だけど、
オカルト研の子達に気配を悟られないように、私達は静かにオカルト研の部室に近付いていく。
勿論、その動機の半分はオカルト研の身を心配しての事だ。
学園祭をきっかけに折角仲良くなれたんだ。
あの子達にも何かあったら心配じゃないか。
いや、純粋な好奇心からって動機も半分あるけどさ。
だけど、お化けとか宇宙人とか、そんな贅沢は言わないから何か面白い儀式が見れればいいなあ。
その程度のほんの少しの不純な期待を持って、私はオカルト研の部室の扉をそっと開いた。
おはようございまーす、ってね。と、そんな本当に軽い気持ちで。
でも、そんな不純な思いを持っていたのが悪かったのかもしれない。
オカルト研の中では、私には思いも寄らなかった衝撃的な光景が広がってた。
死体が転がっていたとか、宇宙人が居たとか、チュパカブラが背びれを振動させて飛び回っていたとか、
そういう非常事態は幸いにと言うべきか起こってはいなかった。
それでも。
その時、私が目にした光景はそういうのを目撃するのと同じくらい、衝撃的なものだった。
「ぶふぉっ!」
オカルト研の部室の扉の間からその光景を目にした瞬間、私は思わずむせてしまっていた。
自分でも不細工だと思う酷い声が漏れてしまう。
それも仕方が無かった。
と言うか、これでむせない人間なんているか!
誰だって驚くよ! 私だけじゃなくて、絶対誰だって驚くって!
こんなの想像もしてなかったし!
普通なら自分の目を疑うし!
はっきり言って、おかしーし!
……とにかく。
オカルト研の部室の中には二人の女子が倒れていた。
一瞬、病気か怪我で倒れてるのかと思ったけど、そうじゃなかった。
勿論、事件に巻き込まれているようでもなくて、二人は元気そうに動いていた。
そうなんだよ。動いてるのが問題だったんだ。
何をしてるんだろうって少し不審に思ったけど、その疑問もすぐに解決した。
解決してしまった。
何でかって、その答えは簡単だ。
何故なら二人とも半裸だったからだ。
いやいや、半裸っていう表現は大人しかった。
正確に言うと、申し訳程度に下着を着けているっていうほぼ全裸の姿で、
二人の女子生徒が抱き合うような距離でお互いに動いてたんだ。
つまり……、その……、あれだ。
お互いに動くって言うのは……、
えっと、お互いにお互いを触り合ったり、お互いの唇を重ね合ったり、
何か舌とか出してお互いの舌に触れ合ってたり、つまりそういう事をしてたんだよ!
何だよ、もう!
しかも、よく見たらその女子ってオカルト研の子達じゃないし!
他人の部室で鍵も閉めずに誰だよ、ちくしょう!
ああ、もう……。
いいや、もう。
何か疲れた……。
こんな他人の、しかも女子同士のなんて見てられないよ。
そりゃ私だって女子高に通ってる身だし、そういう関係の女子がいるって噂を聞いた事もあった。
誰と誰がそれっぽいかって話題で盛り上がった事もある。
別に女同士でそういう関係になっても、いいんじゃないかなとは思う。
ほら、私ってロックな女のつもりだし。
だけど、聞くと見るとじゃ大違いだ。
何だか見ちゃいけないものを見てしまったって気になってしまう。
私は大きく溜息を吐いて、その場から去ろうとして……、その動きが止まった。
それは私の意思で止めたわけじゃなかった。
私の動きを止める誰かが居たからだ。
私の服を掴んで離さない誰かが居たからだ。
当然、その誰かが誰なのかは分かり切っていた。
澪だ。
澪は私の服を掴んで、食い入るみたいにオカルト研の中の女子二人を見つめていた。
その表情はとても……、その二人の姿をとても羨ましそうに見ているみたいだった。
「ちよっと……、離せよ、澪……!」
オカルト研の部室の中の二人に気付かれないよう私は囁いたけど、
その言葉を聞いていないのか、聞いていて拒否しているのか、とにかく澪は私の制服を掴んだまま離さなかった。
何処までも澪は裸で絡み合う二人をずっと見つめていて、
その表情は前に一度、澪以外の人間が浮かべた事のある表情によく似ている気がした。
それは一年の頃のムギの表情だ。
さわちゃんと唯が接近して、その二人の様子にうっとりしていたムギの表情。
多分、それは憧れだ。自分では手の届かない場所に居る人達への届かない想いだ。
詳しく話した事はないんだけど、ムギはそういう女の子同士の関係が好きらしかった。
ムギ自身が女の子同士の関係を誰かと築き上げたいのかどうかは分からない。
単にそういう関係の女の子同士を見ているのが好きなだけなのかもしれないし、それはどっちでもいい事だ。
ムギが何を好きだろうと、何を望んでいようと、ムギは私の大切な親友なんだから。
だけど。
そう思っている私でも、今の自分の胸の鼓動は止められそうになかった。
誰かの濡れ場を初めて目撃したからじゃない。
女同士の関係が現実にある事を知ってしまったからでもない。
勿論、それらが原因でもあるけど、それだけじゃなかった。
それ以上に胸が痛いほどに騒ぐ理由があった。
私は躊躇いながら、オカルト研の部室の中の二人に視線を戻す。
「お姉さま……」
「ほら、タイが曲がっていてよ」
裸の二人(よく見ると一人は長い黒髪で、もう一人はショートヘアで眼鏡を掛けていた)は抱き締め合い、
お互いに愛おしそうな表情で囁き合って、お互いの肉体を弄り合っていた。
そんな格好でタイとかそういう問題じゃないだろ!
しかも、何だよ、その演技掛かった口調は……。『お姉さま』だし……。
まあ、部室に鍵が掛かってなかった事から考えても、
例え誰かに見つかっても見せつけてやろうというくらいの感覚なんだろうな。
それで多少演技臭くても、そういう自分達に酔ってるんだろう。
……いやいや、そんな事は関係ない。
そんな事よりも重要なのは、その二人を澪がずっとムギに似た表情で見つめ続けている事だ。
幼馴染みだからって、澪の全てを知ってるわけじゃない。
私の知らない澪の姿だって、沢山あるんだろう。
だけど、こんな状況で澪がこんな行動を取るなんて、私の知らない澪にも程があった。
あんな甘々な歌詞を書くだけあって、澪は恋愛に対して人一倍敏感だ。
自分だけじゃなく、他人の恋愛にも敏感で、誰かの恋の話題が出るだけで赤面するくらいだった。
なのに、そんな澪が今、他人の、しかも女同士の濡れ場を目撃して、憧れる様にじっと見つめている。
違うだろ、澪。
そこは部室の中の二人の見物を続けようとする私を、
「失礼だろ!」ってお前が赤くなりながら殴るところだろ。
何だよ……。そんな私の知らないお前を見せないでくれよ……。
でも、それだけならまだよかった。
それだけなら幼馴染みの知らない一面を見てしまって、私が少し寂しくなってしまうだけの事だった。
気付かれないように、もう一度私は澪の表情をうかがってみる。
ムギに似た表情。だけど、ムギとも少し違う澪の表情。
もしかして……、と思う。
胸の奥に秘めていた私の考えが浮かび上がってくる。
だから、私の胸は痛んでるんだ。
「あっ……」
気付かれないようにしていたつもりが上手くいかなかったらしい。
視線に気付いた澪と私の目が合って、その一瞬後に澪は赤くなって視線を逸らした。
気が付けば私も視線を伏せていた。何だか顔が熱い。私も赤くなっちゃってるんだろうか。
正直に言うと、今までそれを考えてなかったわけじゃない。
でも、そんな事、誰にも言えるもんか。
澪が私の事を好きなんじゃないかって。
そんなの自意識過剰過ぎる。
こんな私が同性の幼馴染みに好かれてるって考えるなんて、それ自体恥ずかしくて口に出せるか。
ただ、噂になった事は何度かあった。
いつも傍に居て、皆にコンビとして認められている私と澪。
悪気は無いんだろうけど、そんな関係を見て、私達二人の恋愛関係を想像する子は少なくなかった。
特に下級生かな。
曽我部さんから聞いた話によると、
澪ファンクラブの中には澪の恋人が誰なのかという派閥があって、
それには唯やムギ、梓に果てはさわちゃんや和まで候補が居て、誰が澪の恋人なのかで争ってるんだそうだ。
いや、勿論、極一部の話なんだろうけれども。
と言うか、女同士なんだが……。
そして、その派閥の中で一番大きいのが澪の恋人は田井中律派……、つまり私の勢力らしかった。
ちなみに曽我部さんも私の派閥なんだそうだ。
それは何と言うか……、ありがとうございます……?
当然だけど、本来ならそれは笑い話の一つだ。
少し不謹慎だけど、何事もない生活の中で自分達で想像するだけなら何の問題も無い事だ。普段なら。
だけど、今は世界の終わりの直前っていう非常事態だった。
前にクリスティーナこと紀美さんがラジオで話してたけど、
『終末宣言』以来、自分の特殊な趣味や性格、性癖を告白する有名人は増える一方だ。
勿論、それは有名人だけの話じゃなくて、私の周りの人達でもそうだった。
私の友達の中ではボーイズラブってのが好きだって告白した子が居たし(皆、知ってたけど)、
父さんも友達(男)が急に好きだって告白してきたから驚いたって言っていた(妻を愛しているからって断ったらしい)。
皆、最後くらいはありのままの自分で居たいんだ。
ひょっとすると、オカルト研の中の二人も『終末宣言』後にこういう関係になったのかもしれない。
私にもその気持ちは分かる。
私には特に隠している性癖とかはないけど、
あればきっと誰かに言っておきたいと考えてたと思う。
澪はどうなんだろう……って、私は思う。
澪は追い込まれないと本当の実力を出せないタイプだし、
追い込まれないと本音もあまり口にしない。
でも今は……、人類全体が追い込まれてる状況だ。
まさか、だよな。
澪は別に私の事を好きとかじゃないよな?
澪はただ初めての女同士の濡れ場に驚いて、目を離せなくなってるだけだよな?
あの『冬の日』の歌詞も私の事を書いてたわけじゃないよな……?
そう考えてしまうから、私の胸は痛いほど鼓動しまっている。
澪に好かれるのが嫌なんじゃない。
澪の事は好きだ。
当然、恋愛対象としてじゃない。親友として、幼馴染みとして、大好きだ。
女同士の関係に抵抗があるわけでもない。
ムギの台詞じゃないけど、本人同士がよければいいと思う。
それが自分自身の事になると分からないけど、
もし誰かに告白されたりしたら本気で考えてみてもいいとも思う。
だけど、その誰かがもしも澪だったら……。
そう考えると、どうしても私の胸は痛くなる。
痛いんだ、とても。
○
オカルト研の部室の中の二人を十分くらい見てたと思う。
急に澪が私の手を引いて、「行こう」と小さく囁いた。
何処に行くのか私は少し不安になったけど、
澪に手を引かれて辿り着いた場所は軽音部でない方の音楽室だった。
そうだった。
そういえば私達はさわちゃんの授業を受けるんだった。
そんな事、すっかり頭の中から消え去っていた。
最初は部室に寄る予定だったけど、
オカルト研を覗いてたせいでそんな時間も無くなってしまっていた。
それで澪は直に私を音楽室に連れて来たんだろう。
さっきまで私の言葉も聞かずにオカルト研を覗いてたくせに、
急に妙に冷静になっている澪に私は何も言えなかった。
何を考えてるんだよ、澪は……。
さわちゃんの授業は面白かった……と思う。
授業にはムギと唯も参加していて、
久し振りに四人で受ける授業はとても嬉しかった。
だけど、そんな折角の授業なのに、どうしても私は授業に身を入れる事が出来なかった。
身を入れられるわけがない。
授業中、ずっと澪の視線を感じていたからだ。
実際に見られてるわけじゃないかもしれない。
単に私の自意識過剰な所が大きいんだろう。
でも、意識し始めるとどうしようもなかった。
澪に見られてると思うと、どうやっても授業に集中出来なかった。
授業の後、皆で部室に向かおうとした時、
そういや予定があったんだ、ってわざとらしい言い訳をして、私は皆の中から抜け出した。
居心地が悪くて、澪の傍には居られなかった。
本当はずっと傍に居たかった。
世界が終わるらしいって聞いてから、私は最後まで澪の傍に居たいと思ってた。
無理に家の中から連れ出してまで、澪には傍に居てほしかった。
澪に私が必要なんじゃなくて、私に澪が必要なんだ。
だけど、それはこんな意味でじゃない。
こんな居心地の悪さを求めてたわけじゃない。
だから、私は逃げ出したんだ。
「あー……。何やってんだ、私は……」
皆から抜け出した先、
軽音部から少し離れた廊下の窓から校庭を見下ろしながら、私はつい口にしていた。
どうしようもない自己嫌悪。
こんなんじゃ駄目だ。
このままじゃ駄目だ。
『終末宣言』以来、何度そう思ったんだろう。
何度そう思いながら、何も変えられなかったんだろう。
「ちくしょー……」
自分の情けなさが悔しくて、拳を握りながら吐き捨ててみる。
勿論、そんな事で何も変わるわけがなかった。
ただ悔しさが増しただけだった。
悔しさをずっと感じながら、それでもどうしようもない私は校庭を見回してみる。
校庭を見回したところで、何も解決するはずがないのに。
それでも、私は他に何も出来なかった。
見下ろしてみた校庭は『終末宣言』前と何も変わってないように見えた。
生徒の数こそ減ってるけど、それ以外はほとんど何も変わってない。
その何も変わってない校庭に、私はよく知っている長い黒髪を見つけた。
澪じゃない。
梓だ。
最近、様子のおかしい梓。
どうにか手助けをしてあげたい私の大切な後輩。
その梓は何かを探してるみたいに足下を見下ろしながら歩いていた。
「おーい、あず……」
反射的に手を上げて声を掛けようとして、その途中で私の言葉は止まった。
声を掛けて、どうする?
声を掛けて、どうなる?
こんな今の私が、何も言おうとしない梓の力になってやれるのか?
それとも、代わりにどうしようもない私の愚痴を聞かせるつもりか?
答えは出ない。
でも、途中までしか出なかった私の言葉は、梓の耳に届いていたらしい。
梓は顔を上げて、私の方に視線を向けた。
梓と私の目が合って、視線がぶつかる。
その一瞬、気付いた。
梓が泣きそうな顔をしている事に。
多分、今の私と同じような顔をしている事に。
梓の表情を見た私は、何とかしなきゃと思った。
小さくて弱々しい後輩の力にならなきゃと思った。
何も出来ない私だけど、何とかしてあげたかった。
今度こそ、私は梓の悩みを聞きだすべきだった。
だから、私はなけなしの勇気を振り絞って、喉の奥から言葉を絞り出そうとした。
「あず……」
だけど、その言葉はまた途中で止まる事になった。
私と目の合った梓が私から目を逸らして、すぐに校庭から走り去ってしまったから。
まるで私から逃げ出すみたいに。
それでも追い掛けるべきだったのかもしれない。
でも、なけなしの私の勇気は、逃げ出していく梓の姿に急に萎んでしまって……。
身体から力が抜けていくのを感じる。
脚に力が入らない。
私はその場に座り込んで、頭を抱えてとても大きな溜息を吐いた。
ひょっとして……、と思った。
私はずっと梓は何かに悩んでいるんだと思ってた。
私達に言えない何かを抱えて、ずっと無理に笑ってるんだと思ってた。
でも、ひょっとして……、それは違ったのか?
梓は私と関わりたくなくなっただけなのか?
私の近くに居たくなくて、それでするはずのないミスを連発していたのか?
そんなにまで、私の事が嫌いになったのか……?
ひどい被害妄想だ。
梓がそんな事を考える子だと思う事自体、梓に対して失礼だ。
でも、駄目だった。
澪の視線を感じると気になって仕方がなくなったのと同じに、
梓に嫌われてるんじゃないかと思い始めると、その考えが私の頭から離れなくなった。
それにそれは、ずっと思ってなくもなかった事でもあったんだ。
梓はずっと真面目な部活を望んでた。
練習をせずにお茶ばかりしている私に呆れてた。
その不満と呆れが今になって爆発したんじゃないか。
世界の終わりを間近にして、その嫌悪感を隠す事が出来なくなったんじゃないか。
「あいつの近くで何をやってたんだ、私は……」
また呟いた。
ほとほと自分が嫌になって来る。
被害妄想が頭から離れない自分が嫌だったし、
それ以上にその考えを被害妄想と言い切れない自分がとても嫌だった。
世界は終わる。もうすぐ終わる……らしい。
多分、それまでに皆、本当の自分を嫌でも見せ付けられる事になる。
私が今、見たくなかった自分の弱さを見せ付けられているみたいに。
こうして世界の終わりを目前にして、
隠していた本当の自分を曝け出して、ありのままで死んでいく事になるんだろう。
そこまで考えて、私はやっと気付いたんだ。
私達はもうすぐ死ぬんだって事に。
死ぬ……んだ。
来週を迎える事も出来ないんだ。
それまでの時間は、当然だけど止められない。
ずっと考えないようにしてきた事だった。
考えないようにして、普段通りの生活をしないと耐えられなかった。
世界の終末……。
その現実を分かっているつもりで、私は何も分かってなかったんだろう。
急に。
考えないようにしてた想いとか感情とか、
そんな色々な物が私の中で目眩がするくらいごちゃごちゃになって……。
それが吐き気になった。
私は近くにあった女子トイレに駆け込んで、思わず吐いた。
初めて心の底から感じる死の恐怖に、私は何度も吐く事になった。
死にたくない……。
死にたくないなあ……。
○
しばらく吐いた後。
酸素が行き渡らなくてふらふらする頭で女子トイレから出ると、
何の気配もなく後ろから近づいて来た誰かに優しく背中を撫でられた。
見られた……?
自分の情けない姿を見られたかもしれない事が恥ずかしくて、
私の心臓が少しだけ早く動いてしまっていた。
特に軽音部の部員の誰かに、こんな弱い自分なんて見られたくなかった。
緊張しながら振り返ってみて、私は驚いた。
本当に驚いて、しばらく声が出せなかった。
多分、そこに軽音部の誰かが居たとしても、そこまで驚かなかったかもしれない。
それくらいに意外な人が私の背中を撫でてくれていた。
「平気?」
その誰かは特徴的なクルクルした巻き毛を揺らして、私の表情を覗き込んでいた。
その顔は普段の無表情だったけど、
反対に背中を撫でる手付きはとても優しくて、それがまた意外で私は言葉を失っていた。
いや、普段のその人を知ってたら、そりゃ誰だって声が出せないよ。
だって、私の背中を撫でてくれていたのは、
私のクラスメイトの中でもクールで無表情な奴の代名詞こと、
いちごだったんだから。
あの若王子いちごだぞ?
無表情なままではあったけど、
いちごがこんな事をしてくれるなんて誰も想像もしないよ……。
ずっと黙ったままの私を変に思ったんだろう。
無表情に首を傾げながら、いちごがまたぼそりと私に訊ねる。
「平気?
私じゃ不満?
軽音部の方がよかった?」
ぶつ切りの言葉で分かりにくかったけど、
つまり私の背中を撫でてるのが軽音部の部員じゃなくて、
いちごだったのを不満に思ってるのかって事なんだろう。
いやいや、もし本当にそうだったら、何様なんだよ、私……。
私は誤解を解くために首を振った。
いちごとは特別に仲が良いわけじゃなかったけど、そんな誤解はされたくなかった。
「そんな事ないよ、いちご。
……ごめん、心配掛けたな」
「別に心配はしてない。
急に女子トイレに駆け込むから、何事かと思っただけ」
「さいですか……。
でも、ありがとうな」
「別に。お礼なんて要らない」
相変わらず無表情でぶっきら棒な奴だった。
普段なら取り付く島も無いと引き下がるところだったけど、
今日のところはそういうわけにもいかなかった。
私は背中を撫でてくれていたいちごの手を取って、軽く右手で握った。
バトンをやっているせいか少し豆があったけど、それでも小さくて柔らかい手だった。
「ありがと、いちご」
「だから……、そういうのはいいよ」
そう言っていちごは私から目を逸らしたけど、嫌がってるわけじゃないみたいだった。
無表情だから分かりにくいけど、もしかしたら照れているのかもしれない。
いつもクールないちごの意外な一面を見れた気がして、少し嬉しかった。
それで私の顔が少しにやけてしまっていたのかもしれない。
いちごが急に私と目を合わせると、無表情だけど神妙な声色になった。
「急に吐くなんてどうしたの?
妊娠?」
「そんなわけがあるか!」
「そう……」
「もしかしてからかってる……?」
「さあ……」
やっぱり分かりにくいなあ……。
でも、それは別に嫌じゃなかった。
長い付き合いじゃないけど、いちごはそういう分かりにくい奴なんだ。
分かりにくいけど、多分、それがいちごで、それでいいんだよな。
私はそうして一人で納得してから、いちごの手を取ったまま訊ねてみた。
「いちごの方こそどうしたんだよ。
最近、いつも学校で見るけど」
「そっちもね」
「私は高校生の鑑だから、どんな状況でも学校に来るのだよ、いちごくん」
「じゃあ、私もそれで」
「じゃあ、ってなんだよ。じゃあ、って……」
私は苦笑したけど、いちごは無表情のままだった。
だけど、その顔は単なる無表情とも違っていた。
本当に分かりにくいけど、
よく観察すると何となくいちごの心の動きが見える気がした。
もしかしたら、単にいちごは感情を顔に出さないタイプなだけなのかもしれない。
これまでも何となくそう思ってはいたけど、はっきりとは確信してなかった。
大体、こんなに長い間二人きりでいちごと話したのも、
考えてみれば初めてかもしれないな……。
不思議な感じだった。
さっき吐いたせいで身体はふらふらなのに、
思いも寄らなかったいちごとの会話のおかげで、自分の心がとても落ち着いてる気がする。
死ぬ事に対する恐怖が完全になくなったわけじゃないけど、それでも。
結局、それ以上、いちごは私が吐いた理由について訊ねなかった。
だから、私もそれ以上、いちごが学校に来ている理由を訊ねなかった。
どちらの理由も、お互いが言いたくなった時に言えばいいだけの事だった。
それに多分、深く詮索し合わないのが、
いちごが人と付き合う時に重視してる事なんだと思ったから。
いちごは決して冷たいわけじゃない。
またいちごに背中を撫でられながら、私はいちごに深く頭を下げた。
「落ち着いたよ、いちご。
ごめん、本当にありがとう」
すると、いちごは私の言葉に対して、またもやとても意外な事を言った。
「関係ない……」
「え?」
「関係ないわけ、ないから」
「ん……あ?」
また驚かされて、変な言葉が出てしまった。
口癖と言うわけじゃないけど、
いちごはこれまで何事に対しても「関係ないけど」とよく言っていた。
そんないちごが「関係ないわけない」って言ったんだ。
これは驚かされるよなあ……。
勿論、その言葉が私だけに向けられた物だと考えるのは、かなりの自意識過剰だった。
「関係ないわけない」ってのは、
自分と繋がる全てに対して……、って意味合いが強いんだと思う。
今までいちごは色んな事を「関係ない」と言っていた。
それは無関心が理由でもあったんだろうけど、
主にはそれ以上に他人の意思を尊重するって意味で使ってたんだろう。
自分の中の世界を大切にする代わりに、他人の中の世界も尊重する。
だから、お互いに必要以上干渉し合わないようにしよう。
そういう意味で、いちごは「関係ない」って言ってたんだと思う。
その考えは正しいと私も思う。
誰が何をしていても、それは個人の自由で、自分勝手に干渉する事でもない。
だから、他人のする事は自分には関係ない事なんだ。
でも、「関係ないわけない」というのも、正しい考えだと思った。
他人が何をしていても、自分自身にはほとんど影響がない。
その意味じゃ、他人のする事は自分には何も「関係ない」。
だけど、ほとんどないってだけで、完全に影響がないわけでもないんだ。
他人の、自分の何気ない行動が色んな事に影響を与えて、
何かが大きく変わっちゃう事もあるんだ。
何かと無関係でいられなく事もあるんだ。
私はちょうど今それを強く実感してるところなんだ。
世界が終わるって現状もそうだけど、それ以上に考えてしまうのは……。
「うん……。そうだな……。
関係ないわけ、ないよな……」
私は自分に言い聞かせるみたいに言った。
いちごはその私の言葉については何も言わなかった。
優しく背中を撫でてくれるだけだった。
ただ少し優しさを増したその手付きが、
私の言葉に頷いてくれているみたいには思えた。
何事にも無関係ではいられない。
いちごと私の関係にしてもそうだし、軽音部の皆と私の関係にしてもそうだ。
取り分け、梓と……澪だ。
特に澪と私はお互いに深過ぎるところにまで関わり合ってる。
小さい頃、私の好奇心から始まった私と澪の関係。
あの時、私がもし澪に声を掛けていなかったら、
澪の人生も、勿論、私の人生も今とは全く別の物になっていたんだろう。
澪がいなければ私はこの桜高には来てなかっただろうし、
私がいなければ澪は澪でそのメルヘンな性格を生かして、文学部か何処かで名を馳せていたのかもしれない。
当然それは仮定の話で、今現在の私が考えても仕方がない事だった。
だから、私は別の事を考えないといけない。
世界の終わりを目前にして、
私は澪との関係をどうするのか、どうしたいのかを考えなきゃいけない。
澪が私の事を好きかどうかは別としても、
少なくとも世界の終わりの日には何をしていたいのかを二人で話さないといけない。
それだけはこの残り少ない時間で私が解決しなきゃいけない事だ。
それで……。
それでもし、解決出来たのなら、その時は……。
まだ何も決まっていない状態で、こんな事を伝えるのは失礼かもしれない。
それでも伝えられるのは今しかなかったし、私達の結末をいちごにも知ってほしかった。
少し躊躇いながら、それでも私はゆっくりとそれを口にした。
「なあ、いちご。もしよかったらなんだけど……」
○
部室。
いちごと別れた私は、
逃げ出しそうになる脚を無理矢理動かして、軽音部の自分の席に座っていた。
部室の中には私以外誰も居なかった。
代わりと言っては何だけど、私の机の上には変な落書き付きのメモが置かれている。
『あずにゃんをさがしてくるよ!』
落書きといい、文字といい、間違いなく唯の書き置きだった。
いや、書き置きを残してくれるのはありがたいんだけど、相変わらずこの落書きは何なんだ?
猫みたいな生物の両耳の辺りから、
妙に長くて太い毛がにょろりと生えているんだが……。
ひょっとして、これが唯の『あずにゃん』のイメージなんだろうか。
この長くて太い毛をツインテールだと考えれば、
梓+猫のイメージで『あずにゃん』だと考えられなくもない……気もする。
と言うか、自分をこういうイメージで見られてると知ったら、多分梓怒るぞ。
でも、我ながら情けない事だけど、その現状に私はとりあえず安心していた。
別に落書きの正体が『あずにゃん』なんだろうって事とは関係ないぞ。
勿論、今の部室の中に誰も居ない現状の事だった。
色んな問題を解決しなきゃいけないのは分かってる。
それでも、今の私にはその解決の糸口すら見つけられていない。
無理矢理にやる気と使命感を湧き上がらせる事だけは出来ても、
解決のための具体的な方法が全然思い浮かんで来てなかった。
「いつもこうなんだよなあ、私……」
机に突っ伏しながら、つい呟いてしまう。
ドラムを叩いてる時もよく言われる事なんだけど、私は結構勢いだけで動いちゃうタイプだ。
よく考えて動くべきなんだろうって思う事も勿論あるけど、
それでもこれは私の持って生まれた性格って言うか、
変えたくない自分の中のこだわりって言うか、
とにかく勢いに乗っちゃうノリのいい自分でいたかった。
勢いに乗り過ぎて失敗する事も、誰かを傷付けちゃう事もいっぱいあったけど、
勢いだけでも動いていれば、何かが上手くいくはずだって、多分心の何処かで信じてた。
ううん、今だって、信じてる。
そうやって私は生きて来たんだから。
生きて来れたんだから。
だけど、今は勢いだけじゃどうにもならない。
そんな気もしてる。
何かをしなきゃとは思うし、
勢いで梓や澪の悩みに踏み込んでみるのもありだと思う。
そうすれば案外と簡単に、二人の悩みを晴らしてあげる事も出来るかもしれない。
そうだったらどんなにいいだろう。
でも、今勢いだけで動いたら、これまでの私の経験から考えて、
間違いなく私だけで空回っちゃって、余計に二人を傷付けてしまう気がする。
そんな……気がする。
思い出すのは、二年の時、澪と喧嘩をしてしまった時の事だ。
あの頃、私は自分の傍から澪が離れていく感じがして、凄く焦ってた。
今でも何故かは分からないけど、澪が離れていくのがとても嫌だった。
もしかしたら、ずっと傍に居てくれた澪が私の傍から居なくなったら、
それ以外の誰かもどんどん離れていって、
最後には独りぼっちになっちゃうなんて事を考えてたのかもしれない。
はっきりとは自分でも分からない事だけどさ……。
だから、私はどうにか澪の注意を自分に向けさせようって思ったんだと思う。
勢いに乗ってふざけたりしていれば、いつもどおり澪がこっちに向いてくれるって思った。
でも、それは失敗した。
私のした事は澪を怒らせ、困らせるだけだった。
分かってくれない澪に私は腹を立てて、
それ以上に澪を困らせてしまった私に腹を立てて、しばらく軽音部にも顔を出せなかった。
それどころか風邪までひいちゃって、顔を出したくても出せない状況にまでなった。
さっき吐いたのもそうなんだけど、
私って意外と繊細で、少しでも精神的に参るとすぐに身体の方にも影響が出るんだよな。
こんな繊細さなんて、何の自慢にもなりゃしないけど……。
あの時、私は澪を傷付けた。
傷付けてしまったと思った。
そう思うと自分のしてしまった事が恐くて、何も出来なくなって。
勢いで前に進みたい自分と、それを止めようとする自分で雁字搦めになって……。
本当に意外に繊細で、それが自分でも嫌になる。
そういう意味で考えると、澪以上に気になるのが今の梓だった。
私の姿を見て逃げ出した梓。
嫌われてしまったのかもしれないし、嫌われる原因はいくつも思い当たる。
でも、それは被害妄想として片付ける事は出来る。
それだけなら、私もどうにか梓のために動き出せると思う。
動けなくなるのは、自分が梓に好かれる要素が一つも思い当たらなかったからだ。
唯は梓を可愛がってるし、梓もかなり唯に懐いてると思う。
澪は梓の憧れの先輩で、澪の梓に対する指導は的確だ。
ムギも梓に優しいし、お互いに信頼し合っているみたいだ。
私……はどうなんだろう?
私は梓に対してどんな先輩だ?
可愛がっていたか?
いい先輩だったか?
優しくしてやれたのか?
……答えは出せない。
それでも、嫌われてると考える事よりも、
好かれてないのは間違いないと考えられる事の方が、私にはとても辛かった。
「なあ、お前は梓から何か聞いてないか?
私の事について……とかさ」
ちょっと思い立って、私は水槽に視線を向けてトンちゃんに呟いてみる。
トンちゃんは私の言葉を聞いているのかいないのか、
いつもと変わらず優雅に泳いでいた。
そりゃそうだ。
でも、思った。
梓は私だけじゃなく、軽音部の他の皆にも今の自分の悩みを話してくれなかった。
だけど、もしかしたらトンちゃんになら話しているかもしれない。
トンちゃんを一番世話しているのは梓だ。
『終末宣言』後も、梓はずっとトンちゃんの世話を欠かさなかった。
だから、梓もトンちゃんにだけは、自分の悩みを打ち明けているかもしれない。
勿論、それでどうなるわけでもない。
トンちゃんが私達の言葉を分かってるかどうかも分からないし、
もし分かってたとしても、私にもトンちゃんにもどうしようもない。
だって……。
「喋れないもんなあ、お前……」
私は呟きながら、つい苦笑してしまう。
トンちゃんは喋れないって当たり前の事をおかしく思ったからじゃない。
もしも喋れたとしても、
トンちゃんなら梓の悩みを人に言ったりしないんじゃないかと思えたからだ。
梓もそう思っているから、トンちゃんに悩みを打ち明けているんだろうか。
「トンちゃんより信頼されてない部長か……」
それは全部私の勝手な思い込みだけど、少し落ち込んだ。
駄目だ駄目だ。
弱気になってるばかりじゃ、本当に何も出来ないままに終わっちゃうじゃないか。
突然。
そうやって頭を振っている私の耳に予想外の声が響いた。
「ハーイ! アタイ、スッポンモドキのトンちゃん!
チェケラッチョイ!」
「喋ったあああああ!」
つい叫んでみたけど、勿論そんな事があるわけない。
乗っておいて何だけど、呆れた視線を部室のドアの方に向けてみる。
聞き覚えのある声だからその声の正体は分かっていたけど、
それでも、その人の顔を確認しない事には、ちょっと信じられなかったからだ。
「何やってんだよ、和……」
その声の正体を確認して、私はつい肩を落としてしまう。
私のせめてもの願いも空しく、そこに立っていたのは予想通り和だった。
いや、本当に何やってんだよ、和……。
せめて和だけはボケ担当になってほしくなかった……。
私がそうやって呆れた視線で見つめてみたけど、
和は何でもない様な顔で部室の中に入って来ながら言った。
「たまにはね」
「たまにはって和……」
「律がトンちゃんと話したいみたいだったから」
「……見てたのかよ」
「ええ」
「そっか……」
本当なら見られたくない自分の姿を、
人に見られてしまった私は焦るべきだったんだろう。
だけど、何故かそんな気は起きなかった。
見られた相手が和だからかもしれない。
「お母さんみたい」ってのが皆の和に対する評価だけど、私も何となくそう思ってる。
だから、私は不思議なくらい焦らなかったんだろうな。
和は私がトンちゃんに話しかけていた事について、とりあえずはそれ以上触れなかった。
ただ部室の中に入って来て、長椅子の辺りで軽く微笑んでるだけだった。
私も釣られて軽く笑ってしまう。
何だかとても落ち着く空気が流れてる気がした。
でも、二人して微笑んでるだけっていうのも、何となく気恥ずかしかった。
私は頭を掻きながら、微笑んでる和に訊ねてみる。
「ところでどうしたんだ、和?
唯ならいないぞ」
「いいのよ。唯がいないのは知ってるわ。見てたもの」
それもそうだった。
私がトンちゃんに話しかける姿を和が見てたって事は、
和が部室の外からドアの隙間越しに部室内の様子を伺ってたって事だ。
唯がいない事は分かり切ってる事だった。
でも、だったらどうして部室に?
その疑問を私が口にするより先に、私の考えを読み取ったのか、和がその答えを口にした。
「今日は律に用があって来たのよ」
「私に?」
少しだけ意外だった。
和とはいい友達だけど、二人きりで話をする事は少なかった。
特に和自身に私への用事があるなんて、滅多にない事だったからだ。
私は好奇心を抑え切れず、和にまた訊ねてみる。
「何? 私に何の用?」
すると和が少し激しい表情になって、
私達の間ではお決まりになっている台詞を口にした。
「ちょっと、律!
講堂の使用届がまだ提出されてないわよ!」
「忘れていたー!
……って、何の届けやねん!」
習慣でつい叫んじゃったけど、途中で思い直して和に突っ込んだ。
確かに私は書類を提出するのを忘れがちだけど、今は提出する書類なんてなかったはずだ。
疑いの眼差しで和を見つめたけど、
和はそれを気にせずにまた平然とした普段の表情に戻るだけだった。
怒った様子は演技だったみたいだけど、
書類の話自体は本当だったって事なのか?
何か出さなきゃいけない書類なんてあったっけ?
って、確か和は講堂の使用届って言ってたよな……。
まさか……。
そう思いながら、私はおずおずと和に訊ねる。
「講堂の使用届……?」
「そうよ」
「講堂を何のために使うの……?」
「放課後ティータイムのライブのため」
「使用届、必要なの……?」
「それはそうよ。
使いたがってる部も多いんだから」
「マジで?」
「マジよ」
「大マジ?」
「大マジよ」
知らなかった……。
と言うか、まだそんなシステムが生きてたとは思わなかった。
それに講堂を使いたがってる部が他にあったなんて、
世界が終わる直前って言っても……、
いや、直前だからこそ、考える事は皆同じなんだな……。
これは素直に自分の考えが甘かったって思った。
私は和に頭を下げる。
「ごめんな、和。
まさか私達以外に何かやりたがってる部があるなんて思わなくて……。
でも、何で和がライブの事を知ってるんだ?
それに私達が講堂を使うかどうかも、まだ決めてなかったんだけど……」
私の言葉に和が少し優しい顔になった。
でも、それは私に対して優しくなったわけじゃない。
それは和が唯の事を話す時にする顔だったし、
その後に和が話し始めたのはやっぱり唯の話だった。
「唯がね。
最後に大きなライブをやるって言ってたのよ」
「やっぱり唯だったか。
信代だけじゃないとは思ってたけど、
唯の奴、あっちこっちで宣伝してんな……」
「そうね。でも唯、楽しそうだったわよ。
「絶対、歴史に残すライブにする!」って言ってたしね」
「あいつ、そのフレーズ好きだな、オイ」
私が笑いながら言うと、和も「そうね」と優しく笑った。
「私とライブの事を話した時も五回くらい言ってたし、
今はそれが唯の好きなフレーズなのね。
でも、あの子、何処でライブをやるのかも決めてないみたいだったから、
それで律に講堂の使用届の事を話しておこうと思ったのよ」
「いや、別に私も部室でするか、
最悪グラウンドでやれればいいか、って思ってたんだけど……」
「駄目よ。
部室だと小さなライブになるし、グラウンドだと天候に左右されるじゃない。
「絶対、歴史に残すライブにする」んでしょ?
こういう準備はちゃんとしておかないとね」
「そうだな……。ありがとう、和。
「絶対、歴史に残す」んなら、会場もでっかいライブにしないとな……。
なあ和、講堂の使用届、まだ間に合いそうか?」
「深夜なら空いてなくはないけど、金曜日までは無理ね」
「もうそんなに予定が埋まってるのか?」
「ええ。どこの部も最後に何かを発表したいみたいだし、
桜高以外の団体からも申し込みがあるから、ほとんど埋まってるわね。
こんな時だけど、こんな時だからこそ、
そういう予定はきちんと組んでおかないと……。
それでまだ空いてる時間となると、金曜日か土曜日の夕方になるわ」
「金曜か、土曜か……」
そう呟きながら、私は迷っていた。
本当なら考えるまでもなく、金曜日にライブをやるべきだ。
いや、どうしても金曜日が好きってわけじゃなくて、
消去法で考えると必然的に金曜日しかなくなるだけだ。
だって、そうじゃないか。
よりにもよって世界の終わりの日の前日の土曜日にライブをやるなんて、
演奏する私達はともかく、呼ばれた皆にとっては迷惑この上ないだろう。
馬鹿らしい例えだけど、
それこそ富士山頂でやる結婚式に招待されるくらい迷惑に違いない。
だから、考えるまでもない。
ライブは金曜日の夕方。
これで決まりだ。
でも……。
そこまで考えて私は不安になる。
本当に金曜日で間に合うのか、とても不安になってしまう。
新曲は完成してないし、
梓の問題も澪との関係もまだ解決してない。
こんな状態でまともに演奏なんて出来るんだろうか……。
そうやって私は唸っていたけど、
気になって目をやると、私の様子を和が静かに見てくれている事に気付いた。
唯の事を話す時みたいな優しい表情の和が私の瞳の中に映る。
見守ってくれてるんだな、和……。
思わずそう考えていたけど、その考えは少し気恥ずかしくて、
私は顔が熱くなるのを感じながら、その気恥ずかしさを誤魔化す事にした。
「和、悪いけどもう少し考えたいから、ちよっと待ってくれるか?
あと立たせたままってのも悪いし、何処か空いてる席に座ってくれよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」と和が私の言葉に従って、席の近くまで移動する。
バランス的に澪の席に座るんだと思ってたけど、
それから和が選んだのは意外にも私のすぐ隣の梓の席(と言うより椅子)だった。
予想外に和と接近する事になって、私は少し緊張してしまう。
同時に普段梓が座っている席に和が座っている状況に新鮮さを感じる。
ありえない話ではあるんだけど、
もしも和が軽音部に入ってくれていたら、
こういう席割で一緒にお茶してたりしてたのかな。
「どうしたの、律?」
「ん、あ、いや、何となく……さ。
新鮮だなー、って思って」
「何が?」
「和と二人でこんなに近くで話すなんて、あんまりなかったじゃん?」
私がそう言うと、和が何となく悪戯っぽい顔を見せた。
最近、和がたまに見せてくれるようになった顔だ。
「そうね。
私が律に話し掛ける時は、大抵がお説教だったものね」
「いやいや、そんな事はありませんって。
和様にはいつも本当に感謝しておりますって。
たまに頂くお説教もありがたい事ですって」
笑いながら私が言うと、和も小さく微笑んでくれた。
いつも真面目で優等生な和だけど、冗談が通じないわけじゃない。
本当にたまにだけど、和の方から冗談を言ってくれる事も最近は増えてきた。
確信はないけど、それが私達の仲良くなった証拠だったら嬉しい。
「そういえば、それは何なの?」
微笑みながら和が指差したのは、唯の置いた書き置きだった。
机の上に置いたままにしてたから、目に入って気になったんだろう。
私はその質問には答えずに、「あいよ」と和にその書き置きを手渡した。
見てもらった方が分かりやすいし、自分で考えた方が面白いだろうと思ったからだ。
渡された書き置きを見た和は一瞬困った顔をしたけど、
すぐに「ああ、そっか」と明るい顔になって呟いた。
「この猫みたいな何かが『あずにゃん』って事ね」
「分かるの早いな!
私でも分かるのに二十秒くらい掛かったぞ?
流石は幼馴染みってやつか?」
軽くからかったつもりだったけど、
急に和の表情が萎んでいくのが目に見えて分かった。
あんまり急激に表情が変わるもんだから、
何かまずい事を言っちゃったのかって私が不安になるくらいに。
冗談を言う時の悪戯っぽい顔は見せてくれるようになった和だけど、
そんな本当に辛そうな表情の和を見るのは初めてだった。
そんな今にも泣き出しそうな和なんて……。
何て声を掛ければいいのか迷ったけど、私はまずは謝る事にした。
和の表情が辛そうに変わった原因が私の言葉なんだとしたら、
私は和に謝らないといけない。
「あの、和……。
ごめん……な」
「何……が……?」
「だって、そんな……。
そんな辛そうな顔してるの、私のせいなんだろ……?
ごめん……。いつも私、そういうのに気付けなくて……」
「律のせいじゃないわ……」
「だけど……」
「いいのよ。私の方こそごめんなさい、律……。
律相手なら、何とか耐えられるって思ってたんだけど……。
駄目みたいね。本当にごめんなさい……」
「耐えられる……って?」
一瞬、弱気な私が顔を出して、
和が私の事を嫌いだからその嫌悪感に耐えてる、って後ろ向きな考えをしてしまう。
和がそんな人じゃないのは分かっているのに。
分かり切ってるのに。
何を考えてるんだよ、私。
本当におかしいぞ、今日の私は……。
勿論、和の「耐えられる」って言葉は、そういう意味じゃなかった。
和は静かに私のその被害妄想を解き放つ言葉を口にしてくれた。
「唯の事を考えるとね……。
駄目なのよ……」
私は自分の被害妄想を恥じながら、
それでも今は和の言葉の続きを聞く事にした。
恥ずかしがるのは後からでも出来る。
今は和に失礼な考えをした分、和の言葉を聞かなきゃいけない時だった。
「唯と……、何かあったのか……?」
「ううん、そうじゃないわ。
唯はずっと私の幼馴染みで腐れ縁で、こんな時でも明るく話し掛けて来てくれる。
本当に明るい顔で笑ってくれる。
だから、唯の事を思うと、辛くなるの……」
「だけど、さっきは……」
「ええ。唯の話で笑えたわ。笑えてたと……思う。
でも、それはライブをするっていう未来の事を考えられるからなのよ。
まだ先に唯の笑顔を見られる時間があるって、それが嬉しくて安心出来るのよ。
だから、先の話じゃなくて、昔の話を思い出しちゃうと駄目だわ。
まだ私達が小さくて、小さい唯が笑ってた頃を思い出しちゃったら、
否応無しに私達に残された時間は本当に短い事に気付いちゃって……。
それが、辛いのよ……」
和の言葉を聞いていて、私は一つ気付いた。
さっき和は軽音部に入る前に、ドアの隙間から部室の中を覗いていた。
それは私がトンちゃんに話し掛けているところを覗き見したかったからじゃない。
きっと和は唯が部室の中に居るかどうかを確かめてたんだ。
唯の顔を見ると辛くなるから、
私一人しか居ない事を確かめてから部室に入ってきたんだ。
今の私が澪と顔を合わせる事が恐いのと同じように。
和はまた言葉を続けようと口を開く。
多分、ずっと我慢していたんだろう。
和の言葉は止まる事はなかったし、私も止めようとは思わなかった。
タイプは違っているけれど、私と和は本当はかなり似てるんじゃないかと思えたんだ。
「もうすぐ終末が来るらしいわよね……。
それは私も分かってるし、もう逃れられないってのも分かってる。
勿論、私自身が死ぬのは恐いし、嫌だわ。
私だってまだやりたい事が沢山あるもの。まだ死にたくないわよ。
でも、私が死ぬ事よりもっと恐い事があるの。
それは多分、律も同じだと思う」
「私も……?
そうか……。うん、そうだよ……。
私だって死にたくない。死ぬのは本当に恐い。
周りに恐がってる様には見せないけど、やっぱり恐いよ。
でも、私も和と同じにもっと恐い事があるな……」
そのもっと恐い事について、
和はとりあえずは触れなかった。私も今は触れなかった。
その代わり、和が少しだけ落ち着いた表情になってから、私に訊ねた。
「律もやっぱり恐いのよね……」
「和もな」
「私が言うのも何だけどね。
律ってこんな時でも毎日学校に登校してるみたいだし、
いつも唯と一緒に楽しそうに遊んでるから、終末なんて恐くないように見えたのよ」
「和が言うなよ。
和だって毎日じゃないけど学校で見るし、
ちょっとボケてみてもすごい冷静な顔で私に突っ込むじゃんか。
和には世界の終わりなんて何ともないんだって思ってたぞ」
「失礼ね。私を何だと思ってるのよ、律は」
「和の方こそ、私を何だと思ってんだよ」
言って、私は頬を膨らませて和を軽く睨む。
和も少し不機嫌そうな顔で私を見つめて……。
それから、すぐ後に二人して苦笑した。
何だよ。
二人ともお互いを同じ様な目で見てたってわけか。
やっぱり私達は何処か似てる所があるのかもしれない。
「何かさ……。
強がっちゃうんだよな……」
つい私は口に出していた。
和の前だと何故か素直になれている気がする。
近過ぎず、遠過ぎず、とても微妙な距離感の仲の私と和。
遠い他人じゃないけど、近くて本音を言えない相手とも違う。
二人きりになる事は少ないし、ずっと傍に居たいと依存してるわけでもない。
それでも、絶対失いたくない相手。
多分だけど、私と和はそんな関係の大切な友達なんだろう。
和もそう思ってくれているのかもしれない。
辛そうな表情は完全になくなってはいなかったけど、
それでも少しの優しさと穏やかさを取り戻した表情で和が言った。
「私は強がりとは違うんだけど……、
どんな時も落ち着いてなきゃって思ってたわ。
兄弟も小さいし、恐がってる姿なんて見せられないもの。
でも、それってやっぱり強がりなのかしらね?
下手に落ち着こうとするのは、逆に恐がりな証拠って話もよく聞くし……」
「難しい話はよく分かんないけど、でも、言いたい事は分かるな。
私は世界の終わりが恐くて、それよりも恐がってる自分がもっと恐くて……さ。
上手く言えないけど、だから、恐がりたくなかったんだよな。
多分、いつもの自分じゃない自分になるのが、本当に恐かったんだと思う。
でも、それよりももっと恐いのが……、悲しいのが……」
そこで私は口ごもる。
言葉にするのが恐かった。
言葉にして実感してしまうのが恐かったし、
言葉にして和に実感させてしまうのが恐かった。
これからも強がるためには、それに気付かないふりをしている方がいいんだろう。
でも、その私の言葉は和が力強く継いでくれた。
そう。和は見ないふりをするのをやめたんだ。
「死ぬのは恐いわ。
きっと色んな物を失っちゃうんだろうって思うと恐いわよね……。
だけど、そんな事より、皆が死んじゃう事の方がずっと恐いわ。
家族が、唯が、憂が死ぬ事を考えたら、自分が死ぬ事を考えるより嫌な気分になる。
悲しくなるのよ、とても……」
「そうだよな……。
そう……なんだよな……」
私も父さんや母さんに聡……、
澪がもうすぐ死んでしまうって現実がすごく恐くて、悲しかった。
自分が死ぬのは嫌だけど、多分、それだけなら私も耐えられると思う。
だけど、私以外の誰かが死ぬって想像だけは、恐くてたまらなかった。
私自身より、澪が死んでしまう事の方が、何倍も辛かった。
だから、和は泣きそうな顔をしてるんだ。
私も泣き出したくなってるんだ。
もうすぐ私達は消えていなくなってしまう。
人間も、人生も、歴史も、何もかもが消え去ってしまう。
大切で、大好きな人が跡形もなく消えてしまう。
残された時間は本当に少なくて、
それまでの時間を私はせめて大切な幼馴染みと過ごしたいと思った。
幼馴染みに無理をさせて、自分で無理をして、
お互いに無理ばかり重ねながらだけど、それでも一緒の時間が欲しかったんだ。
もうすぐ終わる世界で、泣きながら過ごしたくなかったから。
「友達が居なくなるのは、嫌だもんな……」
私は自分に言い聞かせるように呟いてみる。
言葉にしてみると、少しずつ実感出来てくる気がした。
そうだよな。
別に難しい事じゃなかったんだ。
この世界の終わりが恐くて、悲しい理由は本当はすごく単純だったんだ。
友達を無くしたくないんだ、私は。
だから、澪を無理して学校に登校させてる。
だから、梓に嫌われたと思うのが、本当に悲しかったんだ。
「そうよね。
自分の傍に居てくれた誰かが居なくなるなんて、嫌よね……」
私の呟きは和にも聞こえていたらしい。
和も私の言葉に頷きながら呟いた。
馬鹿みたいに単純だけど、
人が死にたくない本当の理由はそんなものなのかもしれないよな。
勿論、友達が死んでほしくない理由も。
少し違うかもしれないけど、
前は私はこういう話を聞いて不安になった事がある。
自分が二十歳前後で自立するとして、両親が七十歳まで生きるとする。
そうすると、自分が年に十日の里帰りを毎年行ったとしても、
両親と一緒に過ごせる時間は、合計しても半年と少しという計算になるんだそうだ。
その話を高橋さん(だったと思う)から聞いた時、私はとても不安になった。
受かればの話だけど、大学生になったら寮に入るつもりだったし、
将来的には家自体の事を聡に任せて、私は家から出てく事になってたんだろうと思う。
それは普通の事で、特に意識した事もなかったけど……。
それでも、具体的に数字にして表されると、何だか焦ってしまって仕方がなかった。
そんなに短いんだ……、ってそう思えて不安だった。
いつかは居なくなる両親なんだって分かってたつもりだったけど、
単に私は考えないようにしてただけなのかな……、どうにも分かってなかったみたいだ。
自分と誰かの関係は時間制限付きなんだ。
両親とだってそうなんだから、誰とだってそうなんだ。
世界が終わるからってだけじゃなくて、
普通に生きてても、友達との時間制限は一つずつ尽きていってたんだろう。
こう考えるのは嫌だけど、
澪との関係もいつかは尽きてたんだろうな……。
その原因が喧嘩別れなのか、どっちかの死なのかは分かんないけどさ。
「頑張らないと、いけないわよね」
急に和が言った。
これまでみたいな呟きじゃなくて、少しだけど力強い言葉だった。
「唯の顔を見てると泣きそうになるし、辛いけど……。
でも、私は唯と一緒に居たいもの。
残された時間は少ないから、早く唯の顔を見ても泣かないように頑張るわ」
「無理はするなよ……って、そんな事は言ってられないか。
ははっ、こう言うのも変だけどさ」
お決まりの台詞と逆の言葉を言ってしまって、私はちょっと笑ってしまう。
和も眼鏡の奥の表情が緩んだように見えた。
「でも、終末だからってだけじゃなくて、
どんな時だって、誰だって無理して生きてるものだって私も思うわ。
勿論、無理せずに生きられるなら、
それに越した事は無いんでしょうけど、中々そうはいかないものね。
……頑張らなくちゃね」
「そうだな、和。
だからさ」
「そうね」
「これからも無理しよう、和」
「これからも無理しましょう、律」
二人の言葉が重なって、二人で笑った。
「無理しよう」なんて、基本努力が苦手な私に言えた事じゃないけど、
それでも多分、今は無理した方がいい時なんだろうって思えた。
私達に残された時間は少ないし、悲しくて辛い事も多い。
だけど、私達は立ち止まってなんかいられない。
立ち止まってるわけにはいかないんだ。
こう言うと少年漫画の台詞みたいだけど、実はそんな格好のいい決意表明じゃない。
本当は立ち止まっていられないから。
立ち止まったら不安で死にそうになるから。
泳いでないと死んでしまうらしいイルカやマグロ的な意味で、
無理をしてでも、私達は立ち止まっていられないんだ。
それがいい事なのか、悪い事なのかは分からない。
無理をする事で、また誰かを傷付けてしまうかもしれない。
また自分が傷付くかもしれない。
だけど、そうしながら、私と和は進み続けていくんだと思う。
和ならきっと大丈夫。
和ならもうすぐ立ち直れて、いつもみたいな冷静な突っ込みを見せてくれるようになれる。
最後の日まで唯と笑い合えるようになれるはずだ。
私の方は……、まだ分からない。
進み続けるのはやめないと思う。
もしかしたら、その先には誰からも嫌われて、
一人で生きていくしかない未来が待っているのかもしれないけど……。
また少し気弱になってる私の考えを察したんだろう。
机の上に出してる私の右手に、和が軽く自分の右手を乗せた。
唯や私とは違って、普段は決して誰かの身体に触ったりしない和の意外な行動だった。
「後悔だけは、したくないものね」
それは私に向けられた言葉ではあったけど、
きっと和自身にも向けられた言葉でもあったと思う。
どんな結果になっても、後悔はしたくない。
それは世界の終わりが近くなくても当たり前の事だったけど、
世界の終わりが近いからこそ、よくある言葉だけど重く心に残る言葉になった。
「確かに後悔は、したくないな……。
もう残り少ない時間だけど、せめて自分の気持ちに正直に……。
最後まで……」
後悔は、したくない。
和の手の温かさを感じながら、思う。
おかげで一つだけだけど、答えも出せた。
「決めたよ、和」
「決まったの?」
「ライブだけど、土曜日の夕方にする事にする」
「それでいいのね?」
「ああ」
私が言うと、和は頷いて、私の答えを受け入れてくれた。
本当は金曜日の夕方にライブをした方がいいんだろう。
私もそう思わなくはないし、和もそっちの方がいいと考えてるはずだ。
でも。
金曜日じゃ、間に合わない。
今のままの私たちじゃ、どうやっても満足のいくライブは出来ない。
絶対、悔いの残るライブになってしまうだろうから。
そう思ったから。
私は土曜日の夕方に、最後のライブをする事に決めた。
勿論、一日の猶予じゃ、ライブの出来にそう変わりはないかもしれないけど……。
少しでも私達の目指す「歴史に残すライブ」に近付けるのなら、そうするべきなんだ。
私は後悔はしたくないし、誰にも後悔させたくない。
ライブを見に来てくれる人は大幅に減るだろう。
今のところ三十人くらいを呼ぶ予定だけど、何しろ世界の最後の日の前日の事だ。
誰にだって私達のライブなんかより大切な予定があるだろうし、それは仕方のない事だと思う。
大体、土曜日の夕方にライブをする事自体、私の我儘なんだ。
ライブに来れない人達を責める事なんて出来ない。
最低、本当に数少ない身内だけのライブになる可能性も大きいな。
憂ちゃんはまず間違いなく来てくれるだろうけど、
放任主義の私の家族はどうなるかは分からないな。
聡にだって最後に何か予定があるかもしれないし。
それも仕方なかったし、それでいいんだと私は思った。
私達は最後に私達の満足のいくライブをやりたい。
多分それが世界の終わりに対して出来る、私の最後の抵抗だ。
「ねえ、律」
不意に和が温かい指を私の指に強く絡める。
強く強く、包んでくれる。
私は少し気恥ずかしい気分になりながら、でも訊ねた。
「どうしたんだ、和?」
「私、軽音部の最後のライブ、絶対見に行くから」
「いいのか?」
予定とか大丈夫か?
私がそう言うより先に、和は優しく静かに頷いてくれた。
「スケジュールは絶対に空ける。
貴方達のライブ、絶対に見届けるわ。
見届けたいもの。唯が夢中になった音楽の魅力を。
唯を夢中にしてくれた律の音楽をね」
「そんな大したもんじゃ……」
「ううん、そんな事ないわ。
動機はどうであっても、律はぼんやりしてた唯の生きる理由を見つけてくれた。
そのきっかけになってくれた。そんな音楽を律は作ってくれた。
あんまり上手くなくても、お茶ばかりしてても、
それは全部、貴方達の音楽に、放課後ティータイムに必要なものだったんだって思うもの。
だから、見届けたいのよ、私のためにもね」
和の言葉に私は目を伏せてしまう。
滅多に自分の音楽について褒められた事がないから、
嬉しいんだか恥ずかしいんだか、どうにも身体中がむず痒かった。
その私の気恥ずかしさも察したんだろう。
本当に気の利く和は微笑んで、自分の制服のポケットの中から何かを取り出した。
何かと思えば、それは澪ファンクラブの会員証だった。
「それに私、ファンクラブの会長だしね。
会長として、澪の演奏も見ておきたいしね。
勿論、律の演奏も楽しみにしてるわ」
「律義だよなー、和も……」
「『律』に『義』を通すから、『律義』ってところかしらね」
「また和がボケた!」
「たまにはね」
ボケはボケなんだけど、
ちょっと難しくて理知的なところが和らしく、それがおかしくて私は軽く笑った。
和も微笑んでいた。
その笑顔は不安を拭い切れていなかったかもしれないけど、私達は笑い合えていた。
世界の終わりまで、あとほんの少し。
それまでに出来る事は本当に少ない。
力のない凡人の私に出来る事は、ライブの成功のために駆け回る事だけだろう。
唯のように天才肌じゃなく、澪みたいな努力家でもなく、
梓やムギみたいな幼い頃からのサラブレッドでもなく、単に部長ってだけの私。
軽音部の中で一番足を引っ張ってるのは、多分私なんだろうって自覚はある。
でも、私は部長だから。
こんなんでも部長だから、最後くらいは部のために何かをしないといけないと思う。
何かを……、出来るだろうか……?
いいや、やるんだ。やらなきゃいけないんだ。
これが無理を出来る最後の機会なんだ。
ここで無理をしなきゃ、きっと私は世界の最後の日まで後悔をし続ける事になる。
「大丈夫よ」
和が私に視線を向けて力強く言った。
励ましでも気休めでもなく、心の底からそう思ってくれているみたいだった。
「律なら大丈夫。
それに梓ちゃんも、律の事を大好きだと思うわよ」
「「大好き」……って、流石にそれは言い過ぎだろ……。
せめて「嫌いじゃない」くらいならいいな、って私も思うけどさ……」
「ううん。梓ちゃんは絶対に律の事が「大好き」だと思うわ。
だから、言えないのよ、色んな事が。
本当に辛い事ほど、「大好き」な人には言えないものだから……」
そうかな、と言おうと口を開いて、私はすぐに口を閉じた。
そうだったな。
和は唯が「大好き」だから顔を合わせられなくて、
私も多分、澪が「大好き」だから逃げ出しちゃったんだ。
梓も、そうなんだろうか……?
こう思うのは不謹慎過ぎるけど、そうだったらいいな、と私は思った。
もしもそうだとしたら、私の手がまだ梓に届くかもしれないから。
まだ梓の力になれるんだから。
○
和は唯達が戻って来るより先に軽音部から出て行った。
生徒会の仕事が残ってるみたいだったし、
唯と顔を合わせるにはまだ心の整理が出来ていないらしかった。
和にもまだ少しだけ迷いが残っているんだろう。
それについて私が和に出来る事はなかったし、逆にしなくていいんだって思った。
和は一人で立ち直れるし、一人で立ち直りたいんだ。
最後まで和が私に助けを求めなかったのは、そういう事なんだと思うから。
私に出来るのは、その和を見守る事だけなんだ。
軽音部から出て行く時、和は私の顔色が悪い事を指摘してくれた。
鞄の中に入れっ放しだった手鏡で自分の顔を見てみると、確かに酷い顔をしていた。
別に和との会話で疲れ果てたってわけじゃない。
さっきまで吐いてたんだから、この顔色はある意味当然だった。
いちごや和のおかげで気分の方は良くなっていたけど、顔色はまだ正直だ。
私は洗面所で顔を洗い、一足先に弁当を食べる事でどうにか顔色を誤魔化す事にした。
それがどれくらい効果があるかは分からないけど、
軽音部の皆の前では少しでも落ち着いた顔をしておきたかった。
弁当を半分くらい食べ終わった頃、唯達が梓を連れて部室に戻って来た。
唯達が梓を探しに行ったのは、今日は昼前から梓が来ているはずだったのに、
全然姿を見せる気配が無かったのを不安に思ったからだそうだった。
その時の唯とムギはいつも通りに見えたけど、澪と梓の様子はどうもよくないように見えた。
とは言っても、澪と梓が昨日の険悪な雰囲気を引きずってるわけじゃなく、
お互いがお互いに別の事を悩んでいるようだった。
まず澪の方は私と目を合わせず、唯やムギとばかり話している。
それも話しているのはイルクーツクとか、カムチャッカとか、
明らかに何かを誤魔化しているような内容ばかりだった。
オカルト研の部室の中の二人の事を考えてしまっているのか、
それとも全く違う事を考えて私から目を逸らしているのか、それは分からない。
梓は梓でまた無理をして笑っていた。
学校を一人でうろついていた事も、今日軽音部に中々顔を出さなかった事も、
「何でもないです」と口癖みたいに繰り返しながら、澪とは違って何度も私の方に視線を向けていた。
声を掛けようとした私の前から逃げ出した事を気にしているんだろう。
それについて、私は梓に何も聞かなかった。
聞かなかった理由は私にも分からない。
今聞くべき事じゃないのは確かだったけど、もしかしたら私もまだ恐かったのかもしれない。
うっかり訊ねてしまって、梓から嫌悪感に満ちた視線を向けられるのが恐かったのかも。
勿論、そうやって恐がり続けていいはずがないし、いつかは梓にそれを訊ねないといけない。
だけど、流石に澪と梓の二人の事を同時に考えるのは、私には出来そうもなかった。
まずは片方の問題から解決しないといけないだろう。
二人とも大切な仲間なんだし、
どちらかに優先順位を付けるのは嫌だったけど、そうも言っていられない。
少し悩んだけど、私はまず澪との問題を解決しようと思った。
澪の方が好きだったから。
……という理由ならまだよかったのかもしれない。
澪の方を選んだのは、本当はもっと消極的な理由からだった。
簡単な理由だ。
澪との関係に対する問題は、私が勇気を出して澪に訊ねるだけで済む事だ。
それはそれでとても難しい事だけど、少なくとも自分の意志だけでどうにかなる事だった。
それに対して、梓の悩みに関しては私はまだその解決の入口にも立てていない。
梓が何に対して悩んでいるのか、全然見当も付いてない有様だ。
梓は何も言ってくれないし、言ってくれないからこそ、余計に不安が募ってくる。
まさか……、まさかだけど……、こんな事は考えたくないけど……。
家庭内暴力……とか……、麻薬……とか……、強姦……とか……。
悲惨過ぎて逆にリアリティの無い話が、私の頭の中に浮かんで離れなくなる。
まさか、とは思う。
そんなはずがない、とも思う。
でも、今はそういう事が起こってもおかしくない状況で、
梓の様子はそれくらい重大な何かが起こっているようにしか思えなくて……。
もしそうだとしたら、梓の悩みの件は私だけではとても手に負えない。
唯やムギ、それに澪の力を借りなければ、梓を助ける事なんてとても出来ない。
だから、私は勇気を出そうと思った。
まずは澪の考えをはっきりと聞いて、それから梓の問題を少しでも好転させたい。
澪との関係については、多分私の自意識過剰だろう。
澪が私の事を好きだなんて、
そんな事を考えてるなんて事を知られたら、誰からも笑われるだろうな。
女同士とかいう問題以前に、澪が私なんかを好きになるはずがなかった。
澪には、そう、もっと釣り合いの取れた素敵な相手が似合うだろう。
あいつにはそれだけの価値があるんだ。
だからこそ、私はあいつと話そうと思う。
私の我儘で無理に外に連れ出してしまってる事を謝ろう。
寂しいけれど、他に一緒に過ごしたい人が居たら、その人と過ごしてくれていい事を伝えよう。
その結果、澪が私達から離れていく事になっても、私はそれで後悔しないと思う。
友達を無くしたくはないけど、無理して友達でいてもらう事の方が、ずっと辛い事だから。
でも、ひとまず今は全員で演奏をするべき時間だった。
これから離れ離れになってしまうとしても、
五人で居られた時間をもう少しだけでも感じていたかったから。
今の皆の気持ちはバラバラかもしれないけど、その想いだけは一緒だったはずだ。
その日の練習でぎこちないながら完璧に演奏出来たのは『冬の日』。
意識して選んだわけじゃなく、元々、今日練習する予定だった曲で、
澪が作詞したけど、私が没にしたはずの歌詞の曲だった。
澪には悪いとは思ったけど、
自分へのラブレターだと勘違いした歌詞を歌われるなんて、恥ずかしいにも程があるじゃないか。
でも、今日、私達はその曲を演奏していた。
何故かと言うと、ちょっと前、
澪がパソコンに残していた『冬の日』の歌詞を唯が見つけて、
「すごくいい歌詞だから私が歌いたい」と言って譲らなかったんだ。
私が何を言っても唯はその私の言葉を聞かずに、
「逆にりっちゃんはこの曲の何が駄目だと思ってるの?」と言った。
そう言われると私も弱くて、没にするのを断念するしかなかった。
悔しいけど、私も歌詞自体はとても気に入ってたからな。
そんなわけで、私達の曲に『冬の日』が追加される事になったわけだ。
まあ、今は気に入ってる曲で、私も大好きなんだけど……。
よりにもよって今日この日に練習する事になるなんて、何だかとても因縁めいたものを感じてしまう。
ひょっとしたら、澪じゃなくて、私の方が澪を意識してしまってるのかもしれない。
○
夕焼けで街中が赤く染まる。
世界が終わると言っても、夕焼けが赤いのは変わらない。
多分、私達が居なくなっても、街は同じ様な時間帯に赤くなり続けるんだろう。
私達も私の部屋で赤く染まっていた。
来週には感じられなくなる夕焼けを特別感じてたいわけじゃないけど、
それでも今の私達は夕焼けに照らされ、赤く染まっている。染まっているんだ。
私達の頬も何となく赤く染まってるのは、そういう事のはずなんだ。
私達というのは、私と澪だった。
軽音部での練習が終わって皆と別れて、
二人きりの帰り道になった時、自分の家に帰ろうとする澪を私は呼び止めた。
少し戸惑ってる感じの澪に、私は私の家で話したい事があると伝えた。
これから私が話そうとしている事は、道端で話すような内容でもないと思ったからだ。
今、その自分の行動を、ほんの少し反省してる。
だって、自分の家の自分の部屋なんて、完全に私に都合のいい舞台じゃないか。
私はこれから勇気を出さなきゃいけないのに、
最初から自分に有利な状況を作り出しておくなんて、
情けないし、これじゃ澪にも申し訳なかった。
でも、だからと言って、今の私には澪の部屋に自分から行く事も出来なかった。
澪の部屋で、もしかしたら今生の別れになるかもしれない話を切り出すなんて、私にはとても出来ない。
そんな状況、考えただけで震えてしまう。
その話を終えた帰り道、自宅に帰れるかどうかも自信がないよ……。
だから、私は卑怯だと思いながら、
私の部屋で澪と二人で夕焼けに照らされてる。
私はベッドの上で足を崩して。
澪は私のその隣で上品に足を揃えて。
二人、沈黙して、静かに。
たまに目に入る夕焼けに目を細めて。
私の部屋に入って十分……、いや、五分か……?
私達はずっとそうしていた。
本当に珍しい状況だった。
普段は私の方から澪に思い付いた事を何でも話した。何でも話せてた。
澪も私の話を真面目に聞いたり、私の話が下らないと思った時はスルーしたり。
スルーされると少し悔しかったりもしたけれど、
面白いと感じた時は二人で心の底から笑い合えて……。
澪とはずっとそういう風に過ごせると思ってた。
ずっとそんな感じで居たかった。
もう、そういうわけには、いかないのかな?
そうしてちゃ、いけないのか?
私はどうしてもそう思ってしまう。
世の中は緊急事態で、自分の命すらももうすぐ消えてしまいそうで、
そんな状況で、普段の私達のままでいちゃ、駄目なんだろうか?
答えを出さなくちゃいけないんだろうか?
分かってる。
時間がないのは、分かってる。
時間が解決してくれるなんて、悠長な事を言ってられないんだって分かってる。
時間は、もう無い。
なのに迷ってしまうのは、単に弱気な私が逃げ出したいからだ。
だから、普段のままの自分達でいたい、ってそう思ってしまうんだろう。
「そういうわけにも、いかないよな……」
私は小さく呟いてみる。
逃げてばかりいられないんだ。
立ち向かわなきゃいけないんだ。
澪のためにも、私は私の我儘を終わらせなきゃいけないんだ。
きっとそれが一番いいんだ。
「え、何?」
私の呟きは澪の耳にも聞こえていたらしい。
ずっと黙ってたんだから、それも当然かな。
ちょっとだけ隣の澪に視線を向けてみる。
澪は顔を赤く染めて、何かに緊張しているみたいに見えた。
まるで小さな頃に戻ったみたいだ。澪だけじゃなくて、私も。
私の部屋で、今よりもずっと恥ずかしがり屋だった澪と二人きり。
確かあれは澪の作文の朗読の特訓中だったか。
何だか懐かしくて、微笑ましくて、楽しかった頃が思い出されて……、
………。
って、うおっと、危ない。
今、泣きそうだったな。
何だよ、どうも感傷的だなあ、私。
でも、駄目だ。今は泣いちゃいけない。
何をするべきなのか、何をすればいいのか確信は持てないけど、
少なくとも泣いてる場合じゃない事だけは、私にも分かってるんだから。
私は深呼吸して心を落ち着かせて、出来る限り笑ってみせる。
「いや、さ。
そういや澪と私の部屋で二人きりになるのは、久し振りだと思ってさ。
最近は澪の部屋の方にばっか行ってたじゃん?」
「そう……だな。
ごめん……」
澪の顔が少し曇る。
部屋の中に閉じこもってた自分を思い出したんだろう。
それでも、だからこそ、私は澪に向けて微笑んだ。
そんな事は気にしなくていいんだって。
むしろ私の我儘の方を責めてくれていいんだって。
そう澪に伝えられるように。
「謝んなくてもいいって。
私の方こそ、何度も澪の部屋に押し掛けちゃっててごめんな。
何か他にしたい事があったんだったら悪かったな、って今更だけど思ってる。
だから、それはごめんな」
私の言葉に澪が目を伏せる。
でも、表情が暗くなったわけじゃないし、
よく見ると少しだけ顔が赤くなってるのも分かる。
きっと何かを言おうとしてくれてるんだけど、
何を言えばいいのか迷って、それが頭の中で一周して、
照れ臭い言葉や気恥ずかしい言葉なんかを思い付いたんだろうな。
『終末宣言』前の私だったら、そんな澪をからかったりしてたんだろう。
でも、今日はそんな気分は起きなかった。
そんな普段と変わらない澪の姿に私は安心した。
これでいいんだって、思えたんだ。
「いいんだよ、律。
謝らなくてもいい……、ううん、謝らないでほしい。
だって……、私、嬉しかったんだよ?」
澪が顔を赤くして目を伏せたままで、
私よりも大きいくせに物凄く縮こまって、それでも想いを言葉にしてくれた。
「一ヶ月前……にさ……。
世界が終わっちゃうって聞いて、本当に恐かったんだ……。
自分でもおかしいと思うけど、外に出るのが恐かったんだよ。
家の中に居ても何も変わんないって分かってるのにさ……。
でも恐くて……、本当に恐くて……さ。
分かってても、外に出られない自分がまた情けなくて、ずっと泣いてた。
律が来てくれなかったら、多分まだ泣いてたと思う」
「私の方こそ……」
こんな事を言うつもりはなかった。
こんな事を言ったら、澪に呆れられると思ってたから、ずっと言わずにいようって思ってた。
でも、気が付けば、言葉にしてた。
呆れられても、軽蔑されても、澪には聞いてほしい事だったのかもしれない。
「私もさ……。
澪が部屋から出てきてくれなかったら、ずっと泣いてたかもな……」
「律……も……?」
澪が顔を上げて、意外そうな顔で私を見上げる。
その表情は何故か少し嬉しそうに見えた。
「何だよ。そんなに意外か?
私だってそんなに図太いわけじゃないんだぜ?
恐いものは恐いし、泣く時は泣いてるじゃんか。
それに今だから言うけどさ、本当はずっと恐かったんだ。
私が澪の迷惑になってたら、どうしよう……ってさ」
「迷惑って……、何で?」
「断っておくけど、今だからだぞ?
今だから言う事だぞ。この事、誰にも言うなよ?」
「分かったってば」
「ほら、小さい頃からさ。
私って結構、澪を引っ張ってたじゃん?
軽音部だって、私が引っ張る形で澪に入ってもらったわけだし。
……入りたかったんだろ、文芸部」
「そりゃ入ろうとは思ってたけど……。
と言うか、よく覚えてるな、私が文芸部に入ろうとしてたこと」
「覚えてるよ。
澪との事は……、全部覚えてるよ。
澪との事だもんな」
「真顔で恥ずかしい嘘を言うな」
少し笑って、澪が私の胸を軽く叩いた。
私は頭を掻きながら、それについては笑って誤魔化した。
でも、全部覚えてるってのは流石に嘘だけど、
文芸部の事についてはずっと気に掛かってたのは確かだった。
小さな頃から、澪にはずっと私の我儘に付き合ってもらってた。
嫌な顔もせずに……は言い過ぎか、
だけど、嫌な顔をしながらも、澪は私の我儘に付き合ってくれていた。
軽音部に入ってくれた事もそうだし、
今、こんな時期に学校に来てくれてる事だって……。
私はどれだけ澪に頼ってきたんだろう。
私はどれだけ澪に迷惑を掛けてきたんだろう。
残り少ない時間、迷惑を掛け続けていいわけがない。
本当はこれからも傍にいたかったけど……、
こんな負い目を感じたままで一緒にいちゃいけないんだ。
だから、私は本当の事を伝えようと口を開いたんだ。
「文芸部の事もそうだけどさ。
今だってそうなんだよ。
迷惑掛けてるんじゃないかって、そう思うんだ。
なあ、だから、今更だけど……、聞いておきたいんだよ。
澪はさ、世界の終わりまで……」
言葉が止まる。
喉が渇く。
手足が震えて、全身が震えて、私の言葉が止められてしまう。
本当は聞かなくてもいい事。
聞かずにいれば、気付かないふりをすれば、私達はこのままでいられる。
それでもいいんじゃないか、と考えてしまう。
逃げたって悪くないじゃないか。
逃げ出したからって、誰も私を責めたりしないだろう。
だけど、その逃げた先の私達の関係は、何もかも誤魔化した関係だ。
今だって誤魔化してる。それを死ぬまで続ける事になる。
それが嫌だから、私は勇気を出すんだろう?
私は唾を飲み込んで、拳を握り締めて、言葉を続ける。
私の言葉を待ってくれている大切な幼馴染みに向けて。
「世界の終わりまで……、終わりまでさ……、
他に過ごしたい誰かはいないのか……?」
私は言ってしまった。
今の私達の関係を終わりにしてしまうかもしれないその言葉を。
だけど、不思議と後悔はなかった。
ずっと聞きたかった事だったからだ。
世界が終わるからってだけじゃない。本当はずっと聞きたかった。
聞きたかったけど、恐くて聞けずにいた。
もしも、私の存在を澪が迷惑に感じていたとしたら、
そんな答えを澪の口から聞いてしまったら、
私は……、私は……。
でも、もう誤魔化したくはないから。
自分の気持ちもそうだし、澪にも自分の気持ちを誤魔化してほしくなかったから。
今は一歩を踏み出すべき時なんだ。
「他に過ごしたい人って……?」
澪が静かな声で私に訊ねる。
そう言った澪の表情は分からない。
私は視線を足下に落としたままで、隣の澪の表情なんてとても見られない。
それでも、どうにか口だけは動かした。
「えっと、ほら……、あのさ……。
私、いつも澪に付き合ってもらってて……。
軽音部に入ってくれた事も、ずっと傍にいてくれた事も、
楽しくて、嬉しくて、本当に感謝してる……んだけど……。
でも……、でもさ……。
澪は本当にそれでよかったのかなって、
考え出したら申し訳なくなってきて……。
それで……、えっと……」
言葉がまとまらない。
頭の中が色んな言葉が渦巻いて、混乱して、ぐちゃぐちゃになっちゃってる。
こんなんで本当に私の気持ちは伝わるのか?
でも、もう途中で言葉を止めるわけにもいかなかった。
「今だってそうだよ。
『終末宣言』の後さ……、
澪は別に自分の家にいてもよかったんじゃないかって思っちゃうんだ。
もうすぐ世界が終わるなら、
澪の好きなように過ごさせるべきだったんじゃないかって……。
それを私が私の都合で、私の我儘で無理矢理に連れ出しちゃって、
澪はこんな時期まで私に付き合ってくれて、それが嬉しくて、それが申し訳なくて……。
だから……、今更だけど聞かせてくれ。
澪はこれから世界の終わりまで、誰か他に過ごしたい人はいないか……?
何か他にしたい事はないのか……?
私に遠慮せずに正直に言ってくれ。
澪が他の誰かと過ごしたいなら、私はそれを止めない。止められないよ……。
軽音部の事も気にしなくていいから、本当の事を言ってほしい。
最後のライブだって何とかする。
だから……」
上手く伝えられなかったのは自分でも分かってる。
我ながら酷い言い回しだ。
だけど、これまで恐くて言えなかった言葉は、全部言えたと思う。
もう後戻りはできない。
後は澪が出す答えを、どんなに辛くても受け止めるだけなんだ。
澪はしばらく何も言わなかった。
澪はどんな表情をしてるんだろう。
私の今更な質問に怒ってるんだろうか。悲しんでるんだろうか。
だけど、澪がどんな表情をしていても、私はそれを受け止めないといけない。
足下にやっていた視線を少しずつ上げていく。
恐い。逃げ出したい。身体中が震えてしまう。
それでも、私は何とか顔を上げて、隣にいる澪の方に視線を向けた。
「やっとこっちを向いてくれたな、馬鹿律」
そう言った澪の顔は静かに微笑んでくれていた。
私が我儘を言った時や私が失敗してしまった時、
そんな時にいつも澪が見せてくれる優しい笑顔だった。
「何を気にしてるんだよ、律。
律の言うとおり文芸部には入りたかったし、終末まで家に閉じこもってもいたかったよ。
でも、それを律が引っ張ってくれたんじゃないか。
私は律に引っ張られて軽音部に入ったし、
律に引っ張られて終末の前に最後のライブをやる事にしたんだ。
それは律のせいでもあるけど、それ以上に律のおかげなんだよ」
「私の……おかげ……?」
「成り行きで入部する事になった軽音部だけど、私はそれを後悔してないよ。
終末の事だって、律のおかげで最後まで頑張ろうって思えたんだ。
すごく恐かったけど、律のおかげで恐いままじゃなくなったんだ。
全部、律のおかげなんだよ。
だからさ、他に過ごしたい誰かなんていないんだ。
そんな寂しい事を言わないでくれよ、律。
終末まで一緒に過ごしたいのは、軽音部の皆なんだから……」
語り過ぎたと思ったのか、澪は赤くなって、
だけど、私から視線を逸らさなかった。
私も澪から視線を逸らさなかった。逸らしたくなかった。
二人の視線が合って、二人でお互いの気持ちを確かめ合ってたんだと思う。
でも、そんな事をしなくても分かり切ってた。
お互いに本音を伝え合ってるって事を。
気が付けば、私は小さく笑ってしまっていた。
澪の様子がおかしかったわけじゃない。
自分のしてきた事がとても滑稽に思えたんだ。
「あ、何笑ってんだよ、馬鹿律」
「馬鹿って言うなよ、馬鹿澪」
そう言いながらも、確かに馬鹿だったな、って思った。
私は何を考えていたんだろう。
考えてみれば、澪の好きにしてほしい、ってのも私の我儘だったかもしれない。
それもまた私の考えの押し付けだったんだ。
澪の事を考えているようで、
本当は自分の中の不安に耐えられなかっただけなんだろう。
自分が嫌われてるかもしれないと思うと、
それをどうにか確かめたくなってしまう時みたいに。
だけど、澪は私のその不安に付き合ってくれた。
また澪は私の我儘に付き合ってくれたんだ。
でも、多分、それでよかった。
勿論、度の過ぎた我儘は問題だろうけど、そういうのが私達の関係なんだろうな。
それをまた申し訳なくは感じたけど、
それ以上に私はそんな澪を幼馴染みに持てて喜ぶべきだと思った。
「……悪かったな、澪。
変な事、聞いたりして」
「いいよ。律の気持ち、分かったから。
こう言うのも何だけど、律も不安なんだって分かって、嬉しかったから」
「何だよ、それ。
でも……、ありがとな」
照れ臭くなって私が笑うと、澪も顔を赤らめて笑った。
夕焼けの中の二人。穏やかな時間を過ごせている二人。
もう残り少ない時間だけど、私達はこうして大切な幼馴染みとしていられる。
大切な存在でいられるはずだった。
このままの二人だったなら。
○
それから私は、澪と最後のライブについて少しだけ話す事にした。
今日会った和にライブの会場を用意してもらっている事は話したけど、
和に口止めされてた事もあって、ライブの日付と会場が講堂だって事は話さなかった。
和が言うには、講堂の使用届自体は完璧に受理したんだけど、
一介の生徒会長程度の権限じゃ、非常時には講堂を会場として用意出来ないかもしれないらしい。
非常時ってのは、世界の終わりの前に災害や暴動が起こった時の事だ。
確かにそんな事が起こってしまったら、講堂でライブなんてとてもできないだろう。
会場が確保できるかどうかの返事は、最低でも予定日の二日前までは待ってほしいとの事だった。
皆をぬか喜びさせたくないから、と和は真剣な表情で言っていた。
別にいいんだけどな、と私は思う。
もしも講堂が使えなくなったとしても和の責任じゃないし、
講堂を用意しようと提案してくれただけでも嬉しかった。
講堂が使えなくたって、唯達だってぬか喜びだなんて思わないだろう。
でも、和としてはそれだけは避けたいらしかった。
少しでも唯が悲しむ可能性のある事はしたくないんだろう。
本当に唯の事が大切なんだな……。
それが何だか嬉しい。
そんなわけで会場と日付については隠しながら、
私は澪と最後のライブについてどうにか話を進める。
「最後のライブか……。
ちゃんと練習してるんだろうな、律?」
言葉は厳しかったけど、そう言った澪の唇の形は笑っていた。
どうもからかってるつもりらしい。
やれやれ。
そういう態度に対しては、私もこのキャラを使わざるを得ない。
「んまっ、失礼ね、澪ちゃん。
私の練習は完璧でしてよ。
そう言う澪ちゃんこそ、新曲の歌詞は完成してるのかしらん?」
「うっ……」
痛い所を突かれたって感じの表情を澪が見せる。
私は苦笑して、軽く澪の頭に手を置いた。
「おいおい……。
まだ出来ないのか、新曲の歌詞?」
「うん……。
どうしても納得のいく歌詞が書けなくてさ……」
「まあ、曲はもう出来てるし、
歌うのは澪の予定だから焦る事はないんだけど……。
そんなに悩む歌詞なのか?」
「だって、私達の最後の曲じゃないか。
最後に相応しい悔いの無い曲を作りたいんだよ。
私達の集大成って言えるみたいなさ……」
「そっか……」
澪がそう言うんなら、私から言える事は何もなさそうだ。
私は作詞の専門家じゃないし、甘々ながら澪の歌詞は観客に好評なんだ。
私があれこれ言うより、ギリギリまで澪に悩んでもらった方が、いい歌詞ができるだろう。
そうは思ったんけど、私は澪に一つだけ伝える事にした。
伝えた方がいい事だと思ったからだ。
「なあ、澪」
「どうしたの、律?」
「私には作詞はよく分かんないし、
お節介だとは思うけど言わせてもらうよ。
多分だけどさ……、最後とか集大成とか、
そういう事は考えなくていいんじゃないか?」
「でも……、最後の曲なんだよ?」
「いや、よくあるじゃん?
歌手が「私の集大成としてこの歌詞を書きました!」って言う曲。
ああいう曲って大抵が今までの曲の歌詞をつぎはぎしたり、
完結してた前の曲の続きの曲を蛇足で作ったりで微妙だったりするんだ。
過去の曲に引きずられまくってるんだよな。
お祭り曲としてはアリだと思うけど、そういうのは集大成とは違うと思うんだ」
「それは……、そうかもな。
思い当たる曲は何曲もあるし、作詞してる身としては耳に痛いな……」
「大切なのは過去よりも今なんだって私は思うな。
こう言うのも何だけど、最後の曲とは言っても単なる完全新曲のつもりでいいはずだよ。
前の曲なんて関係なくて、今の自分に作詞できる精一杯の歌詞でいいんだよ」
「驚いた。律も色々と考えてるんだな……」
「ふふふ。もっと褒めたまえ」
「いや、本当にすごいよ、律。
私、そんな事、考えもしなかったから」
珍しく澪が私に賞賛の視線を向けて来る。
自分で「褒めたまえ」と言った身だけど、
そこまで褒められるとどうにも気恥ずかしくなってくる。
頭を掻きながら私はベッドから立ち上がって言った。
「そういや、喉乾いてないか?
ずっと話しっぱなしだったしな。
冷蔵庫から何か飲み物持って来るよ。
私はコーラでも飲もうかな」
「えっと、律……」
「分かってるって。澪のは炭酸じゃないやつな」
「なあ、律……」
「澪は紅茶がいいか?
確か缶のやつの買い置きがあったはず……」
「律!」
何だよ、と言おうとしたけど、その言葉が私の口から出てくる事はなかった。
いつの間にか背中にとても柔らかい感触を感じていたからだ。
澪に抱き付かれたんだと気付いたのは、十秒くらい経ってからの事だった。
別に澪に抱き付かれる事自体は珍しい事じゃない。
基本は恐がりな澪だ。何かあればよく私に抱き付いてきていた。
面倒ではあったけど、よく抱き付いてくる澪の事を私は嫌いじゃなかった。
澪の身体は柔らくて気持ち良かったし、頼られているんだと思うのは嬉しかった。
でも、今回の抱き付きは違った。
普通なら澪は私の腰かお腹に手を回して抱き付いてくる事が多い。
抱き付きなんだ。そりゃ手を回すのは腰かお腹だろう。
今回は違った。何もかもが違った。
澪は私の肩から手を回して、私の背中に全身を預けて抱き付いてきていた。
いや、そうじゃない。
これは抱き付かれたって言うより、抱き締められたって言う方が正しいか。
澪に抱き締められるのも初めてじゃない。
あれは学園祭の時、『ロミオとジュリエット』を演じた時にも澪に抱き締められた事がある。
劇の演出上、抱き合わなきゃいけなかったあの時、確かに私は澪に抱き締められた。
それに関して私は特に何も感じなかった。
劇の配役の事だし、相手が澪なんだ。
抱き締められる事には特に何の抵抗もなかった。
澪も私を抱き締める事について感じるものはないみたいで、
私を抱き締める澪の胸や腕から特別な感情は何も感じなかった。
でも、
これは、
違う。
私には分かる。分かってしまう。
澪は心の底から私を抱き締めている。
腕の中に抱き止めようとしているんだって。
それについて私は何も言えない。
言葉が見つからない。
さっき今生の別れになるかもしれない話を切り出した時よりも、頭が混乱してしまっている。
まさか……、やっぱり……、だけど……。
何も言えない私の様子を不安に感じたんだろう。
澪が震えながら、言葉を絞り出した。
私は背中で澪の震えを感じながら、その言葉を聞いた。
「……行かないでよ」
「……み……お……?」
「行かないで……。
傍にいてよ、律……!」
澪ちゃんは甘えんぼでちゅねー、とからかう事は出来なかった。
肝試しの時や怪談を話してみた時、色んな場面で澪は私に抱き付いてきた。
その時も澪は震えていたけど、
今回の澪の震えはそのどれよりも強く、心の底から震えてる感じがした。
さっき頼もしい姿で私の弱音を受け止めてくれたのは、強がりだったのか?
いや、それも違う。
あの姿とあの言葉は澪の本音だと思うし、強がってたわけじゃないはずだ。
だけど、今の澪は心底怯えてる様子だ。
という事は、さっきまでの頼もしい姿の真実は、つまり……。
「大丈夫だって、澪。
飲み物取ってくるだけだから。
ほんの少し離れるだけなんだからさ」
私は背中に澪の感触を感じながら囁いた。
そう囁いてあげる以外、どうすればいいかは思い付かなかった。
それにこれでよかったはずだ。
澪の姿を見て、私は一つの事を考えていた。
こう考えるのは、何度も感じてきた事だけど自意識過剰だと思う。
だけど、必要以上に卑屈でいる事も、もうやめるべきなんだろう。
私はあまり自分に自信がないけど……、
自信があるように見せておいて、本当はとても自分に自信が持てないけど……、
でも、分かった。
もう目を逸らさずに、そう考えなきゃいけなかった。
さっき澪が私の前で頼もしい姿を見せられたのは、私の前だったからだ。
私が傍にいたからなんだ。
私が近くにいたから、澪は強い姿の澪でいられた。
私の悩みを吹き飛ばしてくれる頼れる幼馴染みでいられたんだ。
だからこそ、今の澪は震えてるんだ。
怯え切って、私を行かせまいと私に縋り付いているんだ。
一人になってしまったら強い自分でいられなくなるから。
世界の終わりが恐ろしくて、居ても立ってもいられなくなるからだ。
その気持ちは私にもよく分かる。私だからこそよく分かる。
私も澪と同じだった。
流石に誰かと一瞬でも離れたくないほど怯えてたわけじゃないけど、
私だって世界の終わりが恐かったし、自分が死んでしまう事が嫌だった。
だから、澪に傍にいてもらいたくて、学校に連れ出したんだ。
澪にはそれに無理に付き合ってもらってるんだって、私はさっきまで思ってた。
それが負い目で、それが辛くて、
もう無理に付き合ってくれなくてもいいって、なけなしの勇気で澪に切り出した。
でも、澪は顔を横に振ってくれた。
他に過ごしたい誰かなんかいない。
最後まで一緒に過ごしたいのは軽音部の皆だって言ってくれた。
それはとても嬉しかったけど……。
違ったのか?
本当に一人でいる事が恐くて耐えられないのは、
私じゃなくて澪だったのか?
私が澪を必要とするよりも、澪の方がずっと私を必要としてたのか?
私は自分に自信が持てなくて、そう考えないようにしてた。
自分が誰かに必要にされるなんて、そんなの恥ずかしくて考えられなかった。
特に前に和と澪の仲の良さを見て、つい嫌な気分になって皆に迷惑を掛けちゃった私だ。
あれ以来、自分が澪に必要な人間だなんて、出来るだけ考えないようにしてたしな。
勿論、誰かに……、それも澪に必要にされる事が嫌なわけがない。
本当に嬉しい。
どうにか澪を助けてあげたい。
澪が私を支えてくれたみたいに、私も澪を支えてあげられたら……。
そう思えたから、私はもう一言だけ澪に伝えられた。
「大丈夫。傍にいるよ。
世界の終わりまで、もう澪が嫌だって言っても傍にいるぞ?
だからさ、そんなに抱き付かなくっても大丈夫だって」
恥ずかしい言葉だった気は自分でもする。
でも、それが私の本音だったし、今はそんな言葉を言ってもいい時だったと思う。
その私の言葉は、全部は無理だったけれど、
少しは私の後ろの澪の震えを弱めてあげられたみたいだった。
震えより柔らかさの方が気になるくらいになった頃、
落ち着いた声色を取り戻した澪は私の耳元で小さく囁いた。
「ごめん……。
ありがとう、律……。
何だかすごく不安になっちゃって。
私の隣から律が離れるのがすごく恐くて、行ってほしくなくて……。
こんな急に……、ごめん……」
「いいよ」
「傍に……、いてくれる?」
「いるよ」
私が言うと、澪はしばらく黙った。
私達二人には珍しい沈黙の時間。
でも、それが嫌じゃない。
澪は私から身体を離しはしなかったけど、
それでも震えを少しずつ弱めていって、その内に完全に震えを感じなくなった。
腕の力は弱めずに、少し強く私を抱き締めたままで澪が続ける。
「考えてみたら、私って律に抱き付いてばっかりだよな……」
「もう慣れたから気にすんなって。
でも、気を付けろよ?
相手が私だからいいけど、間違って男子になんか抱き付いてみろ。
澪は美人さんだからな、一発で恋されちゃうぞ?」
「美人……かな……」
「ファンクラブもある澪さんが何をおっしゃる。
間違いなく美人だよ、澪は。
いいよなー。羨ましいよ。
私が男子に抱き付いたりした日にゃ、「さば折りかと思った」とか言われる有様だし」
「……っ!
男子に抱き付いた事……、あるの……?」
「いや、ないけど。
同じ学校のおまえに言う事じゃないけど、うち女子高じゃんか。
単なる予測だよ、予測」
「びっくりさせるなよ……」
「そんな驚く事じゃないだろ、失礼な奴だな。
くそー、今に見てろよ。
私だって澪が羨ましがるようなセレブリティなイケてるメンズを彼氏に……、って、痛!」
急に私を抱き締める澪の腕に力が入って、私はつい叫んでしまう。
正直、かなり苦しい。
単なる冗談なのに、何がそんなに気に入らないんだ。
私はわざと少し不機嫌な声色になって、後ろの澪に不満をぶつけてやる。
「私、何か変な事言ったか?」
「なあ、律……。
一つ聞いて欲しいんだけど……」
「何だよ……。
先に腕の力を緩めてくれよ。ちょっと苦しいぞ……」
「先に聞いてほしいんだ」
「……あ、ああ」
澪の妙に真剣な声に私は頷く事しかできなかった。
澪の言葉を聞かなきゃいけないと思った。
その時、私には一つの予感があったからだ。
できる限りだけど目を逸らす事をやめて、
目の前の事を受け入れようと思った私が正面から向かい合わないといけない問題。
その問題と向き合う時が目前に迫ってるって予感が。
「さっき律は間違えて誰かに抱き付くなって言った」
「……言ったな」
「でも、私は他の誰かに抱き付いたりなんかしないよ。
私が抱き付くのは、律だけだから。
いや、違うか。
抱き付くくらいなら、女子限定だけど誰かにする事はあるかもしれない。
でも……、私が自分の意志で、自分から抱き締めるのは律だけなんだ」
どういう意味?
って聞くのも不躾だろうし、もう今更過ぎる気もした。
澪の言いたい事は、さっき分かったんだ。
いや、分かってたんだ。自分で見ないようにしてただけで。
私はそれに応えないといけない。
また少しだけ二人で黙る。
それは多分、これから向き合わなきゃいけない事があるって、お互いに知ってるからだ。
しばらく経って、後ろの澪がほんの少し震え始めて、でも、強い言葉で澪が言った。
「私は律に傍にいてほしいんだ」
「……傍にいるよ」
「うん……。それは嬉しいけど、そうじゃないんだよ。
私……、私はもっと違った形で律と一緒にいたい。
私は……、律の事が好きだから」
「……私だって好きだよ」
「それは友達として……だよね?
私は、そう……、上手く言えないけど……、そうじゃなくて……。
そう……だな……。えっと……。
例に出すのは変だと思うけど……、
私は律と……、今日見たオカルト研の中の二人みたいになりたいんだ」
オカルト研の中の二人……。
その澪の言葉で最初に思い浮かんだのは、裸で絡み合う二人の姿だった。
いや、それは勿論、単なる分かりやすい例えで、
澪が言いたいのはそういう意味じゃないのは分かってるんだけど、
どうしてもあの裸の二人を思い出してしまう。
仕方ないじゃないか。
忘れるにはまだ時間が全然経ってないし、それくらい衝撃的な光景だったし。
何も言わない私の姿を見て、澪も自分が何を言ったのか気付いたんだろう。
顔が見えないから分からないけど、多分顔を真っ赤にしながら焦って訂正した。
「いや、オカルト研の中の二人っていうのは、違くて……。
そういう意味じゃなくて……。
あ、でも……、そういう意味に、なっちゃう……のかな……。
私は律が好きで……、
友達よりも……、親友よりも深い関係になりたくて……。
つまり……ね?
それは……、恋人……って事に……なる……のかな。
恋人……って事はやっぱりあのオカルト研の中の二人みたいに……。
いや、でもでも……」
私の後ろで澪はまた自分の発言の恥ずかしさに悶え始める。
私も何だか顔中が熱くなるのを感じながら、
澪の言った事を頭の中で何度も噛み締めていた。
律と恋人になりたい。
はっきりと言ったわけじゃないけど、澪はそういう意味の事を言った。
多分、私はその澪の言葉が嬉しかったと思う。
赤くなってるんだろう自分の顔を隠したくなるくらい、
澪に悟られないように自分の震えを止めるのが大変なくらいに、
多分、私は嬉しかった。
でも。
恋人というのがどんな物なのか、私は知らない。
恋愛漫画を読んだ事はあるし、
普通の女子高生より遥かに少ないだろうけど、恋愛モノのドラマも何本か観た事はある。
ただ、大抵の恋愛モノは主人公と相手役の恋模様や修羅場はよく見られるけど、
主人公が相手役を好きになった理由を深く表現した作品は少なかった気がする。
相手役が好みだったからとか、少し優しくしてもらえたからとか、
そんな理由で恋に落ちるもんなのか? って、私は何度も思ったもんだ。
格好いいな、と思う男子も何人かいた事はあるけど、
それだけで恋に落ちた事もないし、男子を恋愛的な意味で好きになった事もなかった。
恋を知らない女……なんて、まるで安い恋愛モノのキャッチフレーズみたいだけど、
そういう意味で私は確かに恋を知らない女なんだよな。
澪の事は好きだ。
幼馴染みで親友だし、澪とはもっと仲良くなりたいっていつも思ってる。
その先に澪との恋愛関係を期待してたのかどうかは分からないけど、
少なくともこれまでも、これからも私の人生から澪を外して考えるのは無理だった。
私の心のずっと深い所に澪がいるし、多分澪の深い所にも私がいる。
もう今生の別れになるような話は二度と切り出したくないし、
澪とはもう離れたくないよ……。
だから、私は澪に言ったんだ。できる限り私の想いが届くように。
「なあ、澪。
手を放してくれないか?」
「えっ……。
ご……ごめんなさい、私……。
律の気持ちも考えずに……、律の迷惑も考えずにこんな……、
ごめ……ん……」
澪が消え入りそうな声で呟いて、私を抱き締めていた手から力を緩める。
今にも泣き出してしまいそうな小さくて震える声。
きっとすごく悲しい顔をしてるんだろう。
でも、私は澪から身体を離して、向き合ってかなり久し振りに澪と顔を合わせて。
行き場を無くした澪の手を取って、できるだけ優しく包み込んで。
伝えられるように。
そうじゃないんだと。
「違うって、澪。
ほら、おまえだけ後ろで私の様子を見られるなんて、ずるいじゃん。
私にも澪の顔を見せてくれよ」
「えっ……」
やっぱりすごく悲しそうな顔をしてた澪が戸惑った表情に変わる。
こんな時に私と顔を合わせるなんて、恥ずかしがり屋の澪には難しい事だろう。
だけど、私は澪と顔を向け合いたかった。
私だって顔が赤い自分を見られる恥ずかしさに耐えてるんだ。
澪にだってその恥ずかしさには耐えてほしい。
まだ何が起こってるのか分からないといった感じで澪が呟く。
「り……つ……?
えっと……、私は……ごめん、その……」
「私はさ、澪の事が好きだよ」
「えっ……」
澪が驚いた表情に変わる。
まさかそんな事を言われるなんて思ってなかったんだろうか。
確かに私も自分の口からそんな言葉が出るなんて思ってなかった。
でも、その私の言葉に嘘はなかった。
私は澪が好きだ。大好きだ。
それが恋愛感情なのかどうかは分からないけど、
私と恋愛関係になりたいと、あの恥ずかしがり屋の澪が言ってくれた。
だから、私は澪の気持ちに応えていいんだと思った。
「澪は私の恋人になってくれるんだろ?」
「……いいの?」
「いいよ。
……澪こそいいのかよ、私なんかで。
もっと素敵な誰かは他にたくさんいるだろ……?」
そうだ。
澪には私なんかより他に相応しい相手がいるはずだ。
ずっとそう思ってた。
だから、こんな世界の終わりを間近にして、
私なんかが澪の傍にいていいのかって思えてしまって辛かった。
でも、澪は言ってくれた。
私の両手を握り返して、伝えてくれた。
「ううん……、そんな人なんていないし、
例えどんなに素敵な人がたくさんいたとしても、
私は……、その誰よりも律がいい。律の傍がいい。
律が一番いい」
「そっか……。
ありがとう……」
ずっと近くにいた私と澪。
女同士ではあるけれど、この気持ちに嘘はないはずだ。
私達の結末は恋人同士という関係でいいはずなんだ。
二人とも分かってる。
もう私達には時間が無い。解決してくれる猶予もない。
はっきりとさせないまま世界が終わるって結末に至っていいはずがない。
本当の事を言うと、私は澪の事を恋愛対象として好きなのかまだ分からない。
でも、それでいいんだ。
恋愛モノの作品で、恋に落ちるきっかけが腑に落ちないのも、そういう事のはずなんだ。
恋に落ちるきっかけなんてなくて、愛に理由なんてなくて、
恋人として付き合っていくうちに、本当の恋愛感情を抱くようになるはずなんだ。
もうすぐ世界が終わる。
それまで自分を好きでいてくれる人の気持ちに応え続けるのが、一番いい選択肢だと思ったから。
私は、澪の、恋人になろうと思う。
澪と無言で見つめ合う。
かなり色の濃くなった夕焼けに二人で照らされる。
二人の顔が赤いのは、その夕焼けのせいだけじゃない。
お互いに恋人になれた気恥ずかしさと緊張に頬を赤く染めながら、
すごく自然に……、誰かに操られるみたいに唇を近付けて……。
………。
瞬間。
何故だか目の前がぼやけた。
水の中にいるみたいに、焦点がはっきりしない。
何が起こったんだ……?
澪の手を握っていた右手を放して、私は自分の目尻を擦ってみる。
それで私はやっと気付いた。
自分が涙を流してる事に。
あれ……?
何でだ……?
どうして私は涙を流してるんだ……?
澪と恋人になれた嬉し涙なのか……?
いや……、違う……? 哀しく……て……?
いいや、駄目だ、泣くな、私!
こんな時に泣いてどうするんだ。
私は澪と恋人になるって決めたんだ。
こんな涙なんて澪に見せられないんだ!
私は急いで何で流れるのか分からない自分の涙を拭って、
もう一度澪と視線を合わせようと瞳を動かして……、
そこでまた気付いた。
澪も涙を流していた。
嬉し涙なんかじゃなく、澪が悲しい時に何度か見せたのと同じ顔で涙を流していた。
二人で、
顔を合わせて、
泣いていた。
どうして泣く?
何で泣いちゃってるんだよ、私達は……!
もう時間が無い私達を、どうして涙なんかが邪魔するんだよ……!
世界が終わるって聞いた時も、
今日の朝に死を実感した時にも流れなかったくせに、どうして……!
どうして、こんな今更……!
「違……っ。
こんな……泣いてなんか……」
止まらない涙を拭いながら、私はどうにか言い繕おうとする。
涙を流しながら説得力はないけれど、これを涙だと澪に思わせたくなかった。
これは汗なんだ。
単に澪と唇が近付いたから緊張して流れただけの汗なんだ。
どんなに無理があっても、そうでなくちゃいけないんだ。
だけど、やっぱり私のその言葉には無理があった。
澪も自分の涙を拭いながら私から手を放すと、
急いで自分の鞄を担いで私の部屋の扉を開けた。
「律、ごめん……」
「澪……、これは違くて……、その……」
「ごめん、今は……、帰らせて……。
本当に……ごめん……」
澪がそう言う以上、私には何もできなかった。
何かをしようにも、私の邪魔をする涙は次から次へと溢れ出て来てしまって、何もできなくなる。
涙の海に溺れて、動き出せなくなる。
部屋から出て行く時、澪は最後に一つだけ言った。
「明日、学校には行けない……。
ごめん……。律を嫌いになったわけじゃ……ない。
でも……、無理……。無理なの……。
こんな時に……、本当にごめんなさい……」
私の部屋の扉が閉まり、私は一人部屋の中に取り残される。
結局、最後まで、意味の分からない二人の涙は止まらなかった。
もうほとんど残されていない私達の時間が、どんどん削ぎ取られていく。
「何だよ……。
何だってんだよ……」
夕焼けが落ちても、
部屋を月明かりが照らすようになっても、
私はベッドに顔を埋めてわけの分からない涙を流し続けた。
何度も、ベッドに拳を叩き付けながら。
次へ









































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