律「終末の過ごし方」 2
律「終末の過ごし方」 3 【完結】
354:にゃんこ:2011/07/09(土) 22:24:37.13:VESLlKEp0
○
――水曜日
泣いているうちに眠っていたらしい。
気が付けばセットしている携帯のアラームが鳴り響いていた。
アラームを解除して、私は何も考えないようにしながらラジカセの電源を入れる。
軽快な音楽が……、流れない。
雑音だけがスピーカーから耳障りな音を立てる。

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358:にゃんこ:2011/07/11(月) 19:09:54.61:XhGUk/oI0
○
私は電気を点けて、もう一度ラジカセを確認してみる。
コンセントは抜けてないし(雑音が出てるんだから抜けてるはずないけど)、
周波数も間違ってないし、AMとFMの切り替えを間違ってるわけでもなかった。
じゃあ、どうしてなんだろう、と思うけど、答えは出ない。
ラジオ局や電波自体に何かトラブルが起こったんだろうか?
「世界の終わり……か」
何となく呟いてみる。
正直な話、まだあまり実感は湧いてない。
でも、少しずつ、その終わりに近付いてる。
何かが一つずつ終わっていって、最後の日には何もかも無くしてしまう。
そんな気だけはする。
私は深い溜息を吐いて、自分の携帯電話を手に取った。
他の家のラジオの状況を確認してみようと思ったからだ。
ほとんど無い可能性だけど、
私の家だけ電波の入りが悪いとかそういう可能性がないわけじゃないしな。
それに何かが一つずつ終わってしまうとしても、
紀美さんのラジオ番組をもう無くしてしまうのはきつい。
世界の終わりが近付いていても、
そんな事関係なく発信してくれるラジオ『DEATH DEVIL』が私は好きだ。
言い過ぎな気もするけど、救いだったって言えるかもしれない。
本当はすごく恐くて、逃げ出したくて、
それでも、紀美さんの元気な声を聴いてるだけで、私は今までやってこれた。
だから、私はあの番組を無くしてしまいたくない。
「週末まではお前らと一緒!」と紀美さんは言ってくれた。
週末まで……、終末まで……。
だから、何があっても、何が起こったとしても、
それまでは紀美さんとあのスタッフは放送を続けてくれるはず。
私はそう信じたい。
携帯電話の電話帳を開いて、誰に電話を掛けようかと私は少し迷う。
軽音部のメンバーはさわちゃん含めて全員があのラジオを聴いてるらしかったけど、
流石に全員が全員、毎日聴いてるわけじゃないみたいだった。
唯は早寝に定評があるし、ムギも家の手伝い(社交的な意味で)で聴けない日が多いらしい。
さわちゃんも「恥ずかしいから何回かに一回聴くだけで十分」と苦笑してた。
そんなわけで、ラジオを毎日聴いてるのは私と澪、それと梓になる。
359:にゃんこ:2011/07/11(月) 19:11:46.20:XhGUk/oI0
澪……にはまだ電話を掛けられない。
あんな別れをした後だし、私もまだ自分の涙の理由を見つけられてない。
涙の理由が分かるまで、私は澪に会っちゃいけないし、何かを話せもしないと思う。
何かを話そうとしたって、また私達は涙を流し合ってしまうだけになるだろう。
勿論、澪とはもう一度話し合わないといけないけれど、今は無理だ。
もう時間は無いけれど、でも、今は駄目だと思う。
となると……。
「梓になる……よな」
自分に言い聞かせるように呟く。
考えるまでもない。
今の私が連絡を取るべきなのは梓だ。
最近、梓にはあんまりいい印象を持たれてないみたいだけど、
電話をすればラジオの受信状況くらいは教えてくれるだろう。
でも、それだけでいいのか?
折角のチャンスなんだ。
その電話で梓の悩みを聞いておく方がいいんじゃないのか?
そう思い始めると、梓の番号に発信できなくなる。
梓の悩みについても、もう触れてあげられるだけの時間も少ない。
部長として……、じゃないか。
一人の梓の友達として、本当は梓の悩みを解決してあげたい。
だけど、こんな私に何かできるのかって、不安になる。
動かなきゃ何も始まらない。
それを分かってるから、昨日私は動いた。
でも、動いた結果がどうだ?
意味不明の涙に縛られて、何もいい方向には動かなかった。
分かり合ってるはずの幼馴染みの澪との問題すら、何も解決させられなかった。
そんな私に何ができる?
まだ梓の悩みが何なのかさえ分かってない私に何をしてやれる?
何度も立ち止まりそうになる。
恐くて動き出せなくなる。
それでも……。
私はやっぱり馬鹿なのかもしれない。
気が付けば梓の電話番号に発信しようと、私は携帯電話の発信ボタンに指を置いていた。
動かないままでいる方が恐いから。
私の知らない所で梓が苦しんでると考える方が何倍も恐いから。
私は梓に電話を掛けようと思った。
いや、掛けようと思ったんだけど……。
ふと重大な事に気が付いて、私はベッドに全身から沈み込んだ。
身体から力が抜けていくのを感じる。
自分が情けなくて無力感に支配されてるとか、そういう事じゃない。
私は枕に顔を沈めて、自分の間の悪さに呆れながら呟く。
360:にゃんこ:2011/07/11(月) 19:16:36.58:XhGUk/oI0
「圏外かよー……」
そう。
私の携帯電話の電波状況は圏外を示していた。
これだけ気合を入れておいて、電波が圏外とかギャグかよ……。
私らしいと言えば私らしいんだけど、こりゃあんまりだ……。
でも、まあ、よかったと言えば、よかったのかもしれない。
これでとりあえずラジオ局の方に問題がある可能性は少なくなった。
こんな住宅地で携帯電話の電波が圏外になるなんて、普通はありえない。
そうなると電波塔か、衛星か、
とにかく電波そのものにトラブルがあったって事になる。
ラジオ局がテロか何かで壊された可能性も少しは考えていただけに、
ひとまずは胸を撫で下ろしたくなる気分だった。
「それにしても、どうするかなー……」
私は立ち上がって、自室の窓に近寄りながら呟く。
澪本人が言っていた事だし、今日、澪は登校してこないだろう。
家の中で一人、私と同じように涙の理由を考えるんだろう。
私は学校に行こうと思う。
澪が登校してこなくても、私は軽音部に行かなきゃいけない。
言い方は悪いけど、私は軽音部の最後のライブの主犯格で首謀者なんだ。
誰が来ても、誰も来なくても、私は軽音部の部室に行かなきゃいけない。
間違ってばかりの私だけど、それだけは間違ってないと思う。
でも、それを部の皆に押し付けるのはよくないとも思う。
今日、澪は登校しない。軽音部の皆が揃う事はない。
それなら、その事を皆にも伝えておくべきだ。
それで澪のいない軽音部に、
皆が揃わない軽音部に意味がないと思ったなら、
今日は登校せず思うように過ごす方が皆のためになるはずだ。
だけど、携帯電話が使えないとなると、それを伝えようがない。
どうしたものか……、と唸ってみたけど、
またそこで私は簡単な事に気付いて、またも脱力してしまった。
家の電話があるじゃんか。
最近、全然使ってなかったから、存在自体忘れてた。
ごめんな、家の電話。
電波が悪いと言っても、流石に電話線で繋がってる家の電話は無事なはずだ。
もしかしたら家の電話も使えなくなってるかもしれないけど、まだ試してみる価値はある。
窓の外を見ながら、自分の間抜けさ加減に何となく苦笑してしまう。
そういやカーテンも閉めずに寝ちゃったな、
と思いながらカーテンを閉めようと手に持って、そこで私の手が止まった。
361:にゃんこ:2011/07/11(月) 19:17:02.66:XhGUk/oI0
それは偶然なのか……、必然なのか……、
あってはいけないものがそこにあった。いてはいけない人がそこにいた。
見つけてしまったんだ。
それが私の妄想か幻覚ならどんなによかっただろう。
よく見えたわけじゃない。
そいつは窓の外でほんのちょっと私の視界の隅に入り込んで、すぐに消えていった。
だから、気のせいだと思ってもいいはずだった。
妄想や幻覚だと思い込んでも、何の問題もなかった。
だけど……!
万が一にでもそれがそいつである可能性があるのなら……!
放っておけるか!
「あの……馬鹿!」
思わず叫んで、朝から着たままの制服姿で私は部屋から飛び出る。
玄関まで走り、靴を履く時間ももどかしく感じながら、無我夢中で駆ける。
あいつが何処に行ったのかは分からない。
進んだ大体の方向も分かるかどうかだ。
それで十分だった。
こんな時期、こんな真夜中に、たった一人で出歩くなんて、正気の沙汰とは思えない。
それもあんな小さな……、
私よりも小さな後輩が……、
梓が……!
こんな真夜中に……!
放っておく事は出来なかった。
無視する事なんて出来なかった。
嫌になるほど泣いていたせいか、
普段使ってない身体の筋肉が筋肉痛で悲鳴を上げる。
それでも駆ける。
夜の闇の中、申し訳程度に点いた街灯の下を精一杯走る。
走らないといけなかった。見つけ出さないといけなかった。
あいつは馬鹿か。
あいつが何を悩んでいるのか知らない。
あいつに何が起こっているのかも知らない。
だけど、こんな何が起こるか分からない状況で、
何が起こっても自己責任で片付けられてしまうような状況で、
こんな真夜中にあんな女の子が一人きりでいていいはずがない。
別に戒厳令が出てるわけじゃない。
夜間外出禁止令が出てるわけでもない。
この付近は比較的治安のいい方だとも聞いてる。
でも、そんな事は関係ない!
私の後輩に……、大切な後輩に……、
嫌われていたとしても大好きな後輩に……、
何かが起こってほしくないんだ。
何かが起こってからじゃ遅いんだ!
私の間抜けな気のせいならそれでいい。
万が一にでもあの影が梓の可能性があるなら、私は走らなきゃ後悔する。
絶対に後悔するから。
だから!
私は夜の暗がりの中、目を凝らして梓を捜し続ける。
失いたくない後輩を走り回って探す。
かなり肌寒い季節、汗だくになって走る。
走り続ける。
息を切らす。
身体が軋む。
それでも、走り続け……。
362:にゃんこ:2011/07/11(月) 19:24:10.11:XhGUk/oI0
気が付けば、あまり知らない公園に私は辿り着いていた。
汗まみれで、息を切らして、
さっき転んだ時に膝を擦りむいて血を流しながら、私は一人で公園に立っていた。
三十分は捜していたはずだ。
ドラムをやってるんだし、
体力的にはかなり自信のある私が本気で限界を感じるくらいに走り回った。
梓は何処にも見付からなかった。
やっぱり私の見間違いだったんだろうか……。
気のせいだったんだろうか……。
何にしろ、これ以上捜し回っていても意味が無いかもしれない。
ひとまずは梓の家に連絡を取ろう。
間抜けな事に、さっきまでの私にはそこまで思いが至らなかった。
そうだ。連絡を取るべきだったんだ。
連絡を取って、その後にどうするか考えよう。
私は息を切らしながら、
持ち出していた携帯電話に目を向け、
瞬間、背筋が凍った。
分かっていた事だ。
分かっていたのに、動揺して忘れてしまっていた。
携帯電話の画面には、圏外と表示されていた。
そこでようやく私は気付いたんだ。
さっきまで馬鹿と責めていた梓と同じ状況に自分が陥ってしまっている事に。
急に身体が震え始める。
冬の夜の肌寒さだけじゃない。
恐怖と不安で、全身の震えを止める事が出来ない。
「大丈夫……。
大丈夫……のはずだ……」
自分に言い聞かせるけど、自分自身が納得できていない。
梓よりは背が高いけれども、男の子っぽいともよく言われるけども、
結局、私は平均よりも背の低くて力の弱い、小さな女の子でしかなかった。
考え始めると止まらない。
さっき梓に対して考えていた事が、そのまま自分に跳ね返ってくる。
酷いなあ……。
我ながら本当に酷いブーメランだよ……。
363:にゃんこ:2011/07/11(月) 19:24:38.45:XhGUk/oI0
少しの物音に怯える。
何かと思えば猫で胸を撫で下ろすけど、逆に人通りの無い事が余計不安に感じる。
夜の闇は深く、誰の気配もない。
世界にひとりぼっちになってしまったのような不安感。
いや、平気なはずだ。単に私はこのまま家に帰ればいいだけだ。
家に帰って、梓の家に連絡するだけだ。
分かっているのに、足を踏み出せない。
さっきまで三十分も走ってここまで辿り着いた。
家までの帰り道は何となく分かるけれど、
単純に計算して一時間近くは掛かる計算になってしまう。
一時間……。
この闇の中を一時間も歩くなんて、意識し出すと恐ろしくてたまらない。
誰か知り合いの家が近くに無いかと考えてみるけど、どうしても思い当たらなかった。
叫び出したくなる恐怖。
逃げ出したくなる現実。
恐い……。
恐いよ……。
と。
立ち竦む私を急に小さなライトが照らした。
「ひっ……」
小さく呻いて、身体を強張らせる私。
逃げ出したくても、足が動かない。
本当に弱い私……。
泣き出したくなるくらいに……。
でも。
こんな所で終わってしまうわけにはいかないから。
涙の理由を澪に伝えられてないから。
拳を握り締めて、勇気を出して、そのライトの光源に視線を向けて……。
「あれ……?」
またそこで私は力が抜けた。
今日は何だか空回りする事が多い気がする。
そういう星回りなのか?
「まったく、しょうがねえな……。
帰るぞ、姉ちゃん」
そうやって頭を掻きながら言ったのは、
母さんのママチャリに乗った私の弟……、聡だった。
366:にゃんこ:2011/07/15(金) 22:21:13.86:HiDnOgid0
○
夜道、聡の後ろ、ママチャリの荷台に乗って、私は運ばれていた。
さっき何で聡は自分のマウンテンバイクじゃなくて、
どうして母さんのママチャリに乗ってるんだろうと思ったけど、
それは私を後ろに乗せるためだったんだな。
確かにマウンテンバイクじゃ二人乗りは難しいだろう。
ちゃんと先まで考えてる聡の行動に私は何とも言えない気分になる。
「ごめんな、聡。
迷惑掛けちゃったな、また……」
荷台で揺られ、私は小さく呟いた。
後先を考えない自分の行動と、先まで見据えた弟の行動を比べてしまうと、
こんな自分が本当に梓を助けてやれるつもりだったんだろうか、とつい自虐的になる。
空回りばかりしてしまう自分。
情けなくて、不安で、溜息ばかりが出て来て、止まらない。
そんな私に向けて、聡は自転車を漕ぎながら軽く笑った。
「いいよ。姉ちゃんに迷惑掛けられるのは慣れてるしな」
「何だよ、もう……」
私は頬を膨らませてみるけど、言い返す言葉は無かった。
聡の言う通りだ。
私はいつも後先考えずに動いちゃって、人に迷惑を掛けてばかりだ。
友達だけじゃなく、弟の聡にだって……。
世界の終わりの直前のこんな夜道、
軽口を叩いているけど聡だって恐かったはずだ。
それなのに私を見付けて、駆け付けてくれるなんて、
私と違って本当によくできた弟だと思う。
「ごめん……な」
無力感が私の身体に広がりながら、消え入りそうな言葉で言った。
走り回って疲れ果てたせいもあるけど、勿論それだけじゃなかった。
世界の終わりまで残り四日。
日曜日は実質的に無いも等しい日だと聞いてるから、
普通通りに過ごせるのは土曜日が最後になる。
私はその土曜日を後悔なく過ごせるんだろうか。
最後のライブを悔いなくやり遂げられるんだろうか。
……今の状況じゃ、どう考えてもそれは無理そうだ。
だから、私は「ごめん」と言った。
「ごめん」としか言えなかった。
聡にだけじゃなく、何もしてやれない澪と梓に。
最後のライブを楽しみにしてるムギと唯に。
私を気に掛けてくれている全ての人に。
367:にゃんこ:2011/07/15(金) 22:29:40.12:HiDnOgid0
「おいおい、姉ちゃん。
そんなに落ち込まないでくれよ。俺、気にしてないしさ」
笑顔を消して、真剣な表情で聡が言ってくれる。
ふざけた感じじゃなくて、本気でそう思ってくれているみたいだった。
その様子が、私にはまた心苦しい。
「だけど……、聡にだって最後の日まで、
したい事や、それの準備なんかもあるだろ?
それをこんな……、私の考えなしの行動に時間を取られちゃって……。
そんなの……、いいわけないじゃんか……。
だから……」
「いいんだって。
だって、姉ちゃんだもんな。
そんな姉ちゃんでいいんだよ、俺」
「……どういう事?」
「姉ちゃんってさ。
自分に何か起こった時より、誰かに何か起こった時の方が心配そうな顔してるよな。
自分の事より、誰かの事を心配してるって思うんだよな。
だから、気が付いたら動いちゃってるんだよ、姉ちゃんは。
考えなしではあるけど、考えるより先に誰かの事を心配しちゃってるんだよ。
それってすごく馬鹿みたいだけど……、すごく嬉しいんだ」
何も言えない。
聡の言葉が正しいのかどうかは分からないし、
自分が何を考えて梓を追い掛けたのかも分からない。
聡が言ってくれるように、
梓の事が心配でそれ以上の事を考えられなかったのかもしれないし、
もしかしたらそうじゃない可能性もある。
でも、迷惑を掛けてばかりなのに、聡はそれを「すごく嬉しい」と言ってくれた。
それだけで私は救われた気になって、何だかとても安心できて、
気が付けば前でペダルを漕ぐ聡に手を回して、全身で抱き付いてしまっていた。
とてもそうしたい気分だった。
368:にゃんこ:2011/07/15(金) 22:34:21.03:HiDnOgid0
「ちょっと、姉ちゃん……。
くっ付くなよ、暑苦しいぞ……」
嫌がってるわけじゃない口振りで聡が呟く。
姉とは言っても、年の近い異性に抱き付かれて照れてるのかもしれない。
そんな反応をされてしまうと、私の方も少し恥ずかしくなってくる。
だけど、まだ聡から離れたくもなくて……。
「あててんだよ」
ちょっと上擦った声で、前に唯から流行ってると聞いた事のある漫画の台詞を言ってみる。
「あててんのよ」だったっけ?
まあ、いいか。
とにかく私は恥ずかしさを誤魔化すために、そうやってボケてみた。
だけど……。
「何をだよ」
と、そうやって聡が真顔で返すから、私は悔しくなって軽く聡の頭を小突いた。
「何すんだよ」と聡が非難の声を上げたけど、私はそれを無視した。
いや、自分でも分かってんだよ……。
最近、梓にすら追い抜かれそうで辛いんだよ……。
前に色々あって梓に胸を触られる事があった時、
これなら勝てると言わんばかりの表情を浮かべられた時の屈辱を私は忘れん。
流石に梓になら負ける事は無いだろう、と思いたいけど、
今じゃ化物レベルの澪だって中学の頃は私よりも小さかったんだ。
油断は出来ない。
豊胸のストレッチやら何やらは当てにならないけど、
少なくとも栄養だけは確実に摂取しておかないとな……。
そう思った瞬間、急に私のお腹が大きく鳴った。
考えてみれば、夕飯も食べてなかった。
夕食抜きで泣き疲れた上に三十分以上も走り回ったんだ。
そりゃ私のお腹も大声で鳴くよな。
仕方がない。それは必然的な生理現象なのである。
生理現象なのである……のに、振り向いた聡がとても嫌そうな顔で言った。
369:にゃんこ:2011/07/15(金) 22:36:00.50:HiDnOgid0
「うわー……。
姉とは言え、女の人のそんなでかい腹の音を聞きたくなかった……」
「うっさい。誰だって鳴る時は鳴るんだ。
澪だって、唯だって、ムギだって、梓だって鳴るんだ。
おまえの好きなアイドルのあの子だって、腹が減ったら腹が鳴るんだ」
「嘘だ!
春香さんはお腹を鳴らしたりなんかしない!」
「昭和のアイドルかよ……」
呆れて私が突っ込むと聡は小さく笑った。
どうやら冗談だったらしい。
流石にアイドルでもお腹を鳴らすという現実くらいは分かってたか。
それは何よりだ。たまに分かってない人もいるからなあ……。
そうして二人で小さく笑いながら、自転車で帰り道を走る。
たまに不満を口にしながらも、聡は後ろでくっ付く私を振り払いはしなかった。
私の好きにさせてくれるつもりなんだろう。
今更ながら、聡と二人乗りをするのはとても久し振りだと気付いた。
特に聡が漕ぐ方の二人乗りは初めてのはずだ。
聡も私を乗せて二人乗りできるくらいに成長したんだな、と何だか姉みたいな事を思ってしまう。
って、実際にも姉なんだけどさ。
「そういえば……」
不意に気になって、私は気になっていた事を訊ねる事にした。
少しだけ聡に回す手に力が入る。
「どうして私があんな所にいるって分かったんだ?」
「超能力だよ。
姉ちゃんも知ってるだろ?
双子には超常的なシンクロ能力が……」
「冗談はよせい。と言うか、私ら双子じゃねーし」
「はいはい、分かったって。
いや、部屋で漫画読んでたらさ、急に家の中がバタバタ騒々しくなったんだよ。
何かと思って部屋から出てみたら、姉ちゃんが家から出てくところじゃんか。
まるで親と喧嘩して家出してく娘みたいだったぞ?
それで一応、父さんに事情を聞いてみようと思って部屋に行ったら、父さんと母さん寝てたし……。
しかも、姉ちゃんに電話掛けようと思ったのに圏外だし……。
それで母さんのママチャリ借りて、姉ちゃんを追い掛けてきたんだよ。
結構捜し回ったんだぞ? 姉ちゃんって足速いよな」
「家出娘みたいだったか、私?」
「うん。とても必死で、何かに焦ってて、すごく泣きそうな顔に見えたし」
「……泣いてねーよ」
「見えたってだけだよ」
「泣きそうな顔に見えた……か」
370:にゃんこ:2011/07/15(金) 22:36:41.40:HiDnOgid0
弟の聡にそう見えたって事は、私は本当に泣きそうだったのかもしれない。
それは梓の事が心配だったからってのもあるんだろうけど、
これ以上、何かを無くしたくないっていう自己中心的な悲しみが原因でもあるような気もした。
聡は私が誰かを心配すると、考えるより先に動くと言ってくれた。
それは私自身もそう思わなくもないけど、
その心の奥底では誰かを失う事が恐くて、
自分が悲しみたくなくて、居ても立ってもいられなかっただけかもしれない。
勿論、そんな事を口に出す事はできなかった。
だけど……、それでも……。
聡は一人で怯えていた私の所に来てくれた。
それだけは本当に嬉しくて、私はまた全身で強く聡を抱き締めた。
そんな私の姿に、また聡が苦笑して言う。
「痛いよ、姉ちゃん」
「あててんだよ」
「肋骨を?」
「肋骨が当たったら、そりゃ痛いわな……。
って、何でやねん!」
「だから、冗談だって。
でも、何はともあれ、家に帰ったらゆっくり休めよ、姉ちゃん。
ライブやるんだろ? 体調管理も大事な仕事だぜ」
「ライブやるって伝えたっけ?」
「前にたまたま会った澪ちゃんに聞いたんだよ。
澪ちゃん、すごく楽しみにしてるみたいだった」
「澪ちゃん……ねえ」
「いや、澪さんな、澪さん!」
焦って聡が訂正する。別に恥ずかしがらなくてもいいのにな。
最近、聡は澪の事を『澪さん』と呼ぶようになった。
小学生の頃までは『澪ちゃん』と呼んでいたのだが、
中学生男子にとって、年上の女をちゃん付けで呼ぶのは抵抗があるものらしかった。
我が弟ながら、よく分からない所で繊細な男心だ。
いや、今はそれよりも……。
371:にゃんこ:2011/07/15(金) 22:38:29.80:HiDnOgid0
「そうか……。
あいつも楽しみにしてくれてるのか……」
私は声に出して呟いてしまっていた。
私だけじゃなく、聡もそう感じるって事は、
澪も本当に最後のライブを楽しみにしてくれてるんだろう。
「成功させたいな……」
本当に、成功させたい。
笑って、終わらせたい。
楽しみにしてくれてる皆の期待に応えたい。
そうして、最後に私達の結末を見せ付けたい。
世界に刻み込んでやりたい。
私達は軽音部でよかったんだと。
そのために越えなきゃいけない壁は大きいけど、
ライブを成功させたいのは自己中心的な理由ばかりかもしれないけど、
それでも……。
私の考えを感じ取ってくれたんだろうか。
不意に優しい声色になって、聡が言った。
「とにかく頑張ってくれよ、姉ちゃん。
ライブ、俺も観に行こうと思ってんだからさ」
「いいのか?」
「何だよ。俺が観に行っちゃ駄目なの?」
「いやいや、そうじゃなくて……。
実はさ、まだ確定じゃないけど、ライブは土曜日にやる予定なんだよ。
土曜日……、つまり世界の終わりの日の前日だぞ?
いいのかよ? 聡にだって予定があるんじゃないのか?」
「残念だが、無い!」
「うわっ、言い切りおった!
言い切りおったぞ、我が弟め!」
372:にゃんこ:2011/07/15(金) 22:39:07.74:HiDnOgid0
「実はさ、俺が世界が終わるまでにやりたかったのは、あのRPGのコンプリートなんだ。
いや、焦ったよ。始めたばかりの頃に『終末宣言』だったからさ。
大作RPGでコンプまで300時間は掛かるって聞いてたから、本気で頑張ったんだよ。
でも、それもこの前、鈴木と手分けして終わらせたから、後の予定は何もないんだ。
いや、本当はあったのかもしれないけど……」
「何かあったのか?」
「これ恥ずかしいから、あんまり言いたくないんだけど……」
「何だよ?」
「同じクラスの女子に告白したら、振られた。
だから、もう予定はないし、できる予定もないんだよな」
「あちゃー……」
言いたくない事まで言わせちゃっただろうか?
私は申し訳なくなって聡の顔を覗き込んだけど、
月明かりに照らされる聡の顔は何故かとても清々しく見えた。
「まあ、駄目で元々だったしさ。
告白できただけで十分……、なんて言うほど割り切れてはないけど、すっきりはしたよ。
だからさ、姉ちゃんのライブを観に行くよ。
鈴木達も予定無さそうだし、誘ってみる。
実は鈴木の奴、「おまえの姉ちゃん可愛いな」って言ってたから、多分姉ちゃんに気があるぞ?」
「マジな話?」
「うん。髪が長くてスタイルいいし、ツリ目な所も本当に可愛いって……」
「それ澪じゃねえか!」
「いや、実は姉ちゃんが澪さんと遊んでる時に見掛けた事があって、
「あれが俺の姉ちゃんなんだ」って鈴木に言ったら、
澪さんの方が俺の姉ちゃんだって勘違いされて、何となく訂正できなかった……」
「訂正しとこうぜ、そういう時は!」
「安心して。ライブの日に訂正しとくから」
「それ恥ずかしいの私じゃねえか!
やめてくれ……。
その鈴木君が幻滅した目で私を見るのが想像できる……」
げんなりと私が呟くと、本当に楽しそうに聡が笑った。
本当に生意気な弟だ。
でも、そんな所がやっぱり私の弟だな、って思えて、何だか私も笑えた。
これだけは『終末宣言』前からも変わらない私達の関係。
変わり行く世界で、変わらないものもあるんだ。
本当は私も変わらなきゃいけないのかもしれない。
でも、『変わらない』事がその時の私には嬉しかった。
373:にゃんこ:2011/07/15(金) 22:39:43.19:HiDnOgid0
○
結構長い時間、自転車の後ろで揺られて、自宅に戻った私を誰かが待っていた。
私の家の前、二つの影が寄り添って立っている。
誰だろう、と思って目を凝らすと、それは和と唯だった。
こんな時間に何の用なのか見当も付かないけど、少なくとも変質者の類じゃなくて安心した。
私は自転車から降りて、二人に近付いて話し掛けようとする。
瞬間、唯が予想外な行動を取って、私は言葉を失った。
行動自体は普通だったんだけど、普通なら唯が取るはずもない行動だったからだ。
だって、唯は膝の前で手を揃え、深々とお辞儀をしたんだ。
こんな事されたら、何かの異常事態じゃないかと思えて、硬直するしかないじゃないか。
そんな私の様子を分かっているのかどうなのか、
唯は頭を上げてから、柔らかく微笑んで続けた。
「こんばんは、律さん。
こんな時間にごめんなさい。今、お時間よろしいですか?」
そこでようやく私は気付いた。
唯が取るはずもない行動を取るのも当然だ。
和の隣で私に頭を下げたのは唯じゃなく、
髪を下ろした唯の妹の憂ちゃんだったんだ。
380:にゃんこ:2011/07/18(月) 21:56:19.96:ETGi5jXN0
○
「ごめんね、待たせて」
シャワーを浴びて、少しの腹ごしらえを終えてから、
私は私の部屋で待っててもらっていた憂ちゃんに声を掛けた。
「いいえ、こちらこそごめんなさい、律さん。
こんな時間に非常識だと思いますけど、律さんにどうしても話したい事があったんです」
申し訳なさそうな顔で憂ちゃんが頭を下げる。
私はそれを軽く微笑む事で制した。
私の方こそ、こんな時間に来てくれた人を待たせるなんてとんだ非常識だ。
でも、流石に空腹な上に汗まみれで話を聞く方が何倍も失礼だったし、
私の方も多少はマシな状態になってから、憂ちゃんの話を聞きたかった。
こんな時間に真面目で良識的な憂ちゃんが来てくれたんだ。
きっとよっぽどの事情があるんだろう。
少なくとも、疲れ果てて身の入らない状態で聞き流せる話じゃない事だけは確かだった。
ちなみに現在、和はリビングで聡と話をしている。
和はボディガードとして憂ちゃんに付き添ってきただけらしく、
私と憂ちゃんの話が終わるまでリビングで待っていると言っていた。
風呂上りにリビングをちょっと覗いてみた時、意外にも二人の話は盛り上がっていた。
聡がコンプリートしたらしいあの大作RPGは和の兄弟もプレイしているそうで、
攻略法やストーリー、キャラクターを演じている声優に至るまで幅広く会話してるみたいだった。
澪以外の女子と話す弟の姿は新鮮で、照れた様子で年上の女と会話する姿が可愛らしくて、
姉としてはいつまでも見ていたくはあったけど、そういうわけにもいかない。
少し後ろ髪を引かれる気分ながら、
どうにかその誘惑を振り切って、こうして私は自分の部屋に戻って来たわけだ。
「えっと……、ですね……」
何だか緊張した面持ちで憂ちゃんが目を伏せている。
とても話しにくい、だけど、話したい何かがあるんだろう。
私は律義に座布団に正座してる憂ちゃんの手を取って、私のベッドまで誘導する事にした。
少し躊躇いがちではあったけど、
すぐに私の考えが分かってくれたらしく、憂ちゃんは私のベッドに腰を下してくれた。
その横に私も腰を下ろし、憂ちゃんと肩を並べる。
憂ちゃんとこんなに近くで話をした事はあんまりないけど、
多分、今回の憂ちゃんの話はこれくらい近い距離で話し合うべき事のはずだと思った。
381:にゃんこ:2011/07/18(月) 21:57:22.64:ETGi5jXN0
「それでどうしたの、こんな時間に?
唯の事?」
私と憂ちゃんの間に他に話題が無いわけじゃない。
それでも、私は唯の事について訊ねていた。
これまでも私と憂ちゃんの会話で一番話題に上っていたのは唯の事だったし、
憂ちゃんがこんな真剣な表情で緊張しているなんて、その緊張の理由は唯以外に絶対にない。
「はい、お姉ちゃんの事なんですけど……、
あのですね……、明日……、いえ、もう今日ですね。
今日……なんですけど、お姉ちゃん、学校には行かないそうなんです」
「……来ない……のか?」
呟きながら、不安になる。呼吸が苦しくなるのを感じる。
唯も何かを悩んでいたんだろうか。
それとも、私が唯の気に障る何かをしてしまったんだろうか。
少しずつ、一人ずつ、軽音部から去ってしまうのか?
澪、唯、次は梓、最後にムギと去って、私だけが部室に取り残されちゃうのか?
その私の不安を感じ取ったんだろう。
憂ちゃんが軽く頭を振って、隣にいる私の瞳を覗き込んで言ってくれた。
「あ……、違うんです。
律さんが何かしたとか、軽音部に行きたくないとか、そんな事はないんです。
お姉ちゃん、ずっと……、今でも勿論、軽音部の事が大好きなんですよ?
いいえ、違いますね……。
大好きって言葉じゃ言い表せないくらい、
お姉ちゃんの中では軽音部の事が大きい存在なんだと思います」
だったら、唯はどうして?
ついそう訊きそうになってしまったけど、私はどうにかその言葉を押し留めた。
憂ちゃんはそれを話しに来てくれたんだ。
急いじゃいけない。焦っちゃいけない。
どんなに時間が無くても、憂ちゃんが言葉にしてくれるまで、それを待つだけだ。
それに急ぐ理由は私の中から一つ減っていた。
さっきシャワーを浴びる前、「先に梓の家に電話させて」と憂ちゃん達に伝え、
私が梓の家に電話しようと受話器を上げた時、憂ちゃんは首を傾げながら言ったんだ。
「梓ちゃんの家ならついさっき行って来ましたけど、梓ちゃんに何かご用なんですか?」
憂ちゃんの言葉に私は張り詰めていた糸が切れて、しばらくその場に座り込んだ。
ひとまずは安心できる気分だった。
憂ちゃんが言うには、私の家に来る二十分前には梓の家に行って、
話をしてきたばかりなんだそうだった。
夜道に私が見た梓の姿は単なる見間違いだったのか、
それとも何かの用事が終わった後の帰り道の梓を見たのか、
色んな可能性がありはしたけど、そんな事はどうでもよかった。
今は梓が無事に自分の家にいてくれるだけで十分だった。
382:にゃんこ:2011/07/18(月) 22:01:25.69:ETGi5jXN0
私は上げた受話器を元に戻し、
「用事はあったけど、やっぱり学校で会った時でいいや」と憂ちゃん達に伝えた。
梓の悩みについては、電話で話すような内容でもない。
直接あいつから聞き出さないといけない事だ。
今日、学校で会ったら、それを梓に聞こうと思う。
もしも本当に梓に嫌われていたとしても構わない。
それでも私は梓の悩みの力になるべきなんだ。
私はあいつの先輩で、軽音部の部長で、嫌われていてもあいつが大切なんだから。
そういうわけで、今の私は焦ってはいない。
時間が無い私だけど、焦る事だけはしちゃいけない気がする。
焦ると正常な判断ができなくなる。
当然の事だけど、私は少しずつ身に染みてそれを理解し始めていた。
はっきりとは言えないけど、澪との事も焦っちゃいけない気がする。
いや、違うな。
焦っちゃいけなかったんだ。
あの時、私は焦ってしまってたんだ。
だから……。
小さく溜息を吐いて、私は憂ちゃんの次の言葉を待つ。
今は梓の事、澪の事より、目の前の憂ちゃんの事だ。
じっと憂ちゃんの瞳を覗き込んで、話してくれるのを待ち続ける。
少しもどかしい時間だったけど、それはきっと私達に必要な時間だった。
しばらく経って……。
考えがまとまったのか、憂ちゃんがまっすぐな瞳で私を見つめながら口を開いた。
「お姉ちゃん、軽音部の事がすごく大切なんです。
軽音部の事も、律さんの事も、大切で仕方が無いんだと思います。
それでも、今日は部に顔を出さないって、お姉ちゃんは言ってました。
水曜日は……、「今日一日は憂と二人で過ごしたいから」って言ってくれたんです……」
そういう事か、と私は思った。
残り少ない時間、唯はその内の一日を大切な妹と過ごす事に決めたんだ。
それはそれで構わなかった。
軽音部の事も大切ではあるけど、私は唯の選択肢を尊重したい。
家族と過ごしたいのなら、私達に遠慮なんかせずにそうするべきなんだ。
「ごめんなさい、律さん……」
言葉も弱く、辛そうな表情に変わりながらも、
視線だけは私から逸らさずに憂ちゃんが言ってくれた。
本当に申し訳ないと思ってくれてるんだろう。
でも、本当に謝るべきなのは私の方だった。
こんなにお互いを大切に思い合ってる姉妹に気を遣わせるなんて、
私の方こそ謝るべきなんだ。
そう思って私は口を開いたけど、その言葉より先に憂ちゃんがまた言った。
383:にゃんこ:2011/07/18(月) 22:03:09.10:ETGi5jXN0
「私の事は気にしなくてもいいって、お姉ちゃんに何度も伝えたのに、
お姉ちゃんは絶対に私と過ごすって言ってくれて……。
ライブの準備がとても楽しいって、お姉ちゃん言ってたのに、それなのに……。
それが律さん達に申し訳ないのに、本当はすごく嬉しくって……。
そんな私が嫌で、せめて今日お姉ちゃんが軽音部に行かない事だけは、
皆さんに直接伝えたいと思って……。
それが私にできる精一杯で……。
ごめんなさい、律さん。本当にごめんなさい……」
「唯……は今、どうしてる?」
「最初……、本当はお姉ちゃんが皆さんの家を直接回るって言ってました。
でも、無理を言って、私と手分けして回ってもらう事にしたんです。
それで私は梓ちゃんと律さんの家に、
お姉ちゃんは紬さんの家と澪さんの家に、直接話しに行く事になったんです。
先に紬さんの家に向かったから、多分、今は澪さんの家で話をしてると思います」
「一人で?」
「いえ、それは大丈夫です。
お父さんが車で送ってくれてますから。
私の方はお母さんが付き添いで来てくれるはずだったんですけど、
うちのお母さん、ボディガードにはちょっと頼りなくて……。
それで、お姉ちゃんが和さんに電話で私の付き添いを頼んでくれたんです」
「そっか……。だったら、二人とも安心だな」
「それで……、実はですね、律さん……」
憂ちゃんの顔が辛そうな表情から、何かを決心した表情に変わる。
憂ちゃんは決して弱い子じゃない。
強い子ではないかもしれないけど、唯の事が関係するなら強くいられる子だ。
つまり、これから唯に関する大切な話を始めるんだろう。
「私、最初は軽音部の事が好きじゃありませんでした」
「そうなんだ……」
憂ちゃんの言葉に、意外と驚きはなかった。
何となくそんな気がしていた。
仲のいい姉妹の間に入って、
二人の関係を邪魔してしまっていいのかって思わなくもなかったんだ。
憂ちゃんは続ける。
「少しの時間、部活に行ってるだけなら気になりませんでした。
でも、少しずつ……、どんどんお姉ちゃんが家に帰ってくる時間が遅くなって……。
お休みの日も家にいてくれる事が少なくって、それが嫌で……。
軽音部の部長の会った事もない『りっちゃん』って人が嫌いになりそうでした。
確かお姉ちゃんが一年生の頃のテスト勉強の日だったと思うんですけど、
初めてその『りっちゃん』……、律さんに会って、その顔を見てるのが辛くて……。
それでついゲームの律さんとの対戦で本気を出しちゃったんです。
『これ以上、お姉ちゃんを私から取らないで』って、そんな気持ちで……。
あの時はごめんなさい……」
「えっ? あれってそんな意図がある重大な戦いだったの?
いや、マジで強いなー、とは思ってたんだけど……」
思いも寄らなかった真相に私は驚きを隠せない。
勿論、多少は大袈裟に言ってるんだろうけど、人には色んな考えがあるもんなんだな……。
憂ちゃんがその私の様子に表情を緩める。
384:にゃんこ:2011/07/18(月) 22:03:55.45:ETGi5jXN0
「でも、学園祭で初めてのお姉ちゃん達のライブを見て、
ライブ中のお姉ちゃんはすっごく格好良くて、すっごく楽しそうで……。
私……、思ったんです。
軽音部のお姉ちゃんが、今までのお姉ちゃんよりもずっと好きだって。
それから、お姉ちゃんが大好きな軽音部の事も、好きになっていきました。
もう、軽音部じゃないお姉ちゃんなんて、考えられないです。
私、軽音部の……、放課後ティータイムのお姉ちゃんが大好きです。
それを私、律さんにずっと伝えたかったんです。
軽音部の部長でいてくれて、ありがとうございます。
お姉ちゃんをもっと好きにさせてくれて、本当にありがとうございます」
憂ちゃんが頭を下げながら、私の手を握る。
私の方こそ、お礼を言いたい気分だった。
大好きなお姉ちゃんと一緒にいさせてくれてありがとう、と。
最初こそ頼りない初心者だったけど、唯はもう軽音部に無くてはならない存在だ。
軽音部はあいつの才能に引っ張られて機能していると言っても過言じゃない。
唯がいたからこそ、軽音部はこんなに楽しく、大切な部活にできた。
それは私達だけじゃどうやっても辿り着けなかった境地だろうし、
例え他にギター担当の誰かが入部して来てくれていたとしても、やっぱり無理だったと思う。
三年間、こんなに楽しかったのは、唯がいたからこそ、だ。
だから、私は唯に、憂ちゃんに感謝しなきゃいけない。
同時にやっぱり申し訳なくなった。
私は目を伏せたかったけど、どうにか耐えて憂ちゃんの瞳から目を逸らさずに言った。
「ありがとう、憂ちゃん。
そんなに私達を好きでいてくれて、本当に嬉しいよ。
でも……、これまではそれでよかったかもしれないけど、
この状況でも、それでいいの?
『今日一日は一緒にいる』って事は、逆に言うと今日一日って事でしょ?
世界の終わりを間近にして、たった一日だけで本当にいいの?」
憂ちゃんはその私の言葉に微笑んだ。
無理をしているわけでもなく、強がりでもなく、本当に心からの笑顔に見えた。
385:にゃんこ:2011/07/18(月) 22:04:48.20:ETGi5jXN0
「違いますよ、律さん。
『一日だけ』じゃありません。『一日も』ですよ、律さん。
こんなおしまいの日まで残り少ないのに、
お姉ちゃんはそんな貴重な時間を、私に『一日も』くれるんです。
私はそれがすっごく……、
すっごく嬉しいです……!」
そう言った憂ちゃんの笑顔は輝いていた。
眩しいくらいの笑顔。
そんな笑顔をさせる唯の時間を、私が一日以上も貰うんだと思うと少し震えた。
参ったなあ……。
絶対にライブを成功させなくちゃならなくなったじゃないか……。
恐いわけじゃないし、重圧に負けそうってわけでもない。
これは武者震い……、とりあえずはそういう事にしておこう。
何はともあれ、私は私のためにも、憂ちゃんのためにも、
私達は何としてもライブを成功させなくちゃならない。
ふと思い立って、私は隣に座る憂ちゃんの肩を抱き寄せて囁いた。
「成功させるよ。
最後のライブ、絶対に成功させる。
憂ちゃんに、これまで以上に格好いい唯の姿を見せたいからさ」
憂ちゃんは私の腕の中で、
「はい」と、笑顔で頷いてくれた。
388:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/07/18(月) 22:37:35.52:i3CN0gwC0
○
朝、軽音部の部室で私は一人座っていた。
ほんの少し曇っているけど、雨は降りそうにない空模様を私は見上げる。
太陽にたまに雲が掛かる程度のよくある天気。
確か数日前に天気予報で聞いた限りでは、世界の終わりの日まで雨は降らないらしい。
雨が好きなわけじゃないけど、もう体験できないと思うと何だか名残惜しかった。
でも、空模様に関しては私には何もできない。
何となく溜息を吐くけど、別に憂鬱ってわけでもない。
ただちょっと寂しかっただけだ。
それにできない事を考えていても仕方が無かった。
私にできない事はいくらでもある。
多分、できる事よりもできない事の方が遥かに多いだろうな。
でも、そんな事より、今の私にできる事を考えるべきだろう。
それは憂ちゃんのためでもあるけれど、それ以上に私のためでもあるんだから。
夜、話が終わり、和と一緒に家に帰る直前、
「梓ちゃんの事、助けてあげてください」と憂ちゃんは言った。
唯の事が大好きだけど、唯の事ばかり考えてるわけじゃない。
憂ちゃんはちゃんと友達の事にも目を向けられる子だ。
だから、自分が唯と二人で過ごすのが申し訳なくて、嬉しくて辛かったんだろう。
私の家に来る前、憂ちゃんが梓の家を訪ねた時、
頭を下げる憂ちゃんに梓は笑顔で答えたらしい。
「大丈夫だから」と。
「でも、唯先輩がいなくて、
全員が揃わない中で律先輩がちゃんと練習するか心配だな」と。
普段と変わらない様子と口調で笑っていたらしい。
泣きそうな顔で、笑っていたらしい。
梓の親友の憂ちゃんにも、その梓の表情をどうにかする事は出来なかった。
本当に大丈夫なのか、
悩み事があったら何でも言ってほしい、
そんな事を何度伝えても、梓は微笑むだけ。
今にも泣き出しそうな顔で微笑むだけ。
軽音部の皆にも、親友にも、誰にも、本心を見せずに辛そうに笑うだけ。
そんな梓を見て、憂ちゃんは一日も唯を独占してしまう自分に罪悪感を抱いてるみたいだった。
心の底から唯を必要としてるのは梓じゃないかと思うのに、
憂ちゃん自身も唯から離れたくないし、
唯と最後に一緒に過ごせる一日がどうしようもないくらいに嬉しくて……。
だからこそ、罪悪感ばかりが膨らんでいるみたいだった。
391:にゃんこ:2011/07/21(木) 23:48:08.14:Pj2QSlyz0
でも、それは憂ちゃんが悪いわけじゃない。
唯が悪いわけでもない。
唯だって梓の異変には気付いていた。
梓の悩みを何とかしてあげたいと考えていた。
だけど、梓は自分の悩みを一言も口にしなかったし、
その気遣い自体を誰にもしてほしくないみたいに見えた。
梓がそう振る舞う以上、
唯には何もできないし、憂ちゃんにも、誰にも何もしてあげられない。
どんなに辛い事でも、口にしない限りは他人には何もしてあげられないんだから。
それで迷った末に唯はこの水曜日って中途半端な時に、憂ちゃんと過ごす事に決めたんだと思う。
梓の悩みを解決したいとは勿論、思ってる。
でも、梓の悩みはいつになれば解決するのか分からないし、
下手をすれば世界の終わりの時に至っても解決する事はないかもしれない。
だから、その前に妹と過ごしたいと考えたんだ。
梓の事も大切だけど、妹の憂ちゃんの事だって同じくらい大切だからだ。
それに憂ちゃんと過ごすのが水曜日だけなら、
まだ木、金曜、土曜日と三日間を梓のために使えるから。
それで水曜日を選んだんだ。
いや、本当にそこまで考えてたのかどうかは分からないけど、
私の中では唯はそういう事を考えて行動する奴だった。
きっとそうなんだろうと思う。
だから、悪いのは梓なんだ。
自分の抱えている何かを隠し通そうとする梓が一番問題なんだ。
どんなに辛くても、恐くても、誰かに伝えるべきなんだ。
私に何ができるかは分からないけど、それでも伝えてほしかった。
例えその悩みが人の生死に関わるような重大な問題でも……。
それを想像すると震えてしまうくらいに恐いけど……。
だけど、それでもいいと思う。
そんな問題を梓が抱えてるとしても、私はそれを梓の口から聞きたい。
最後に部長として梓のために何かできるんだったら、私はそうしたいんだ。
困った後輩を持って災難だよな、まったく。
でも……。
392:にゃんこ:2011/07/21(木) 23:49:14.27:Pj2QSlyz0
「部長だからな」
自分に言い聞かせる。
そうだ。
私が部長。五人だけの部だけど、部長は部長だ。
それにドラマーでもある。
皆の背中を見ながら、何かを感じ取れるパートでもあるんだからな。
そういや前に唯が言ってたっけか。
「大丈夫。りっちゃんならできる。
部長だし、お姉ちゃんだし、ドラマーだし!」って。
何の保障にもなってないし、何の説明にもなってないけど、
それでも何かができそうな気になってくるから不思議だ。
よし、と私は一人で拳を握り締めて頷く。
と。
急に何の前触れもなく軽音部の扉が開いた。
「おはよう。早いね、りっちゃん」
自分だけでなく、周りまで優しい気分にさせてくれる声色が部室に響く。
顔を上げて確認するまでもなく、それはムギの声だった。
いや、そもそも何の前触れもなく扉が開いた時点で、
部室に来た人の選択肢はムギかさわちゃんの二人に絞られてたけどな。
足音も立てずに部室にやってくるのはこの二人くらいだ。
二人とも神出鬼没なんだよなあ……。
まあ、ムギの方はお嬢様的な教育か何かで、
足音を立てないよう歩く練習をしているとしても(勝手な推測だけど)、
さわちゃんの方はマジでどうやって足音も立てずに現れてるんだろうか。
……別にどうでもいい事だった。
私は顔を上げてムギの顔を見つめ、「おはよう、ムギ」と言った。
396:にゃんこ:2011/07/23(土) 23:32:01.72:XoDlxcvB0
部室に入ったムギは長椅子に自分の鞄を置きに行く。
私はムギに気付かれないよう、少しだけ微笑んだ。
ひとまずは安心した。
下手をすれば、今日は誰も軽音部に来ないかもと思わなくはなかったんだ。
憂ちゃんの話では、唯が来なくても梓は登校して来るつもりみたいだったけど、
それにしたってちゃんとした確証がある話じゃないしな。
だから、嬉しかった。
ムギが部室に顔を出してくれた事が、私は本当に心から嬉しい。
「ムギと部室で二人きりってのも珍しいよな」
胸の中だけでムギに感謝しながら私が言うと、
鞄を置き終わったムギが顔を上げて応じてくれた。
「そうだね。りっちゃんと二人きりなんて、何だかとっても久し振り。
ひょっとしたら、夏に二人で遊んだ時以来じゃないかな?」
「そうだっけ?」
夏に二人で遊んだ時……、確か夏期講習が始まる前日くらいの事だ。
まだ四ヶ月くらいしか経ってないはずなのに、随分と前の出来事の様な気がする。
『終末宣言』以来、この一ヶ月半、本当に色んな事があった。
世界が終わるなんて夢にも思わなかった事が現実になったし、
変わらないと思ってた私と澪の関係も、今更だけど大きく動き出そうとしている。
目眩がしそうなくらい多くの事があった。
でも、それも終わる。もうすぐ終わる。
その終わりがどんな形になるかは分からないけど、
少なくとも最後のライブだけは私達の結末として成功させたい。
……ムギはどうなんだろうか?
不意に気になって、私の胸が騒いだ。
そうやって人の考えが気になってしまうのは、私の悪い癖かもしれない。
でも、考え出すとどうにも止まらなかったし、胸の鼓動がどんどん大きくなった。
琴吹紬……、ムギ。
合唱部に入ろうとしてたところを私が引き止めて、軽音部に入ってもらったお嬢様。
キーボード担当で、放課後ティータイムの作曲のほとんどを任せてる。
いつも美味しいお茶とお菓子を振る舞ってくれて、
それ以外にも合宿場所とか多くの事で助けになってくれる縁の下の力持ち。
実際にもキーボードを軽々と運べる力持ちでもある。
397:にゃんこ:2011/07/23(土) 23:36:49.58:XoDlxcvB0
『終末宣言』直後から、ムギが軽音部に顔を出す事は少なくなった。
深く踏み込んで聞いた事はないけど、どうも家の事情が関係しているらしい。
世界の終わりが間近になったと言っても、いや、間近だからこそ、
名家と言えるレベルのムギの家にはやるべき事がたくさんあったみたいだ。
眉唾な話だけど、人類存続のためにそれこそSF的な対策への協力も行われたんだとか。
人類の遺伝子を地下深くに封印するとか、
超強力なシェルターを急ピッチで開発したりとか、
できる限り多くの人達を宇宙ステーションに避難させてみたりとか、
とにかくムギの家はそういう冗談みたいな世界の終わりへの対抗策に追われていたらしい。
家族思いのムギはこの約一ヶ月のほとんどを、
それらの対抗策に追われる両親の手伝いをする事で過ごしてたみたいだ。
「心配しないで」と月曜日に久し振りに会えたムギは言った。
「これからはずっと部活に顔を出せるから」と笑ってくれた。
家の事情で大変だったはずなのに、
登校するのもやっとの状況のはずなのに、
ムギは疲れを感じさせない笑顔でそう言ってくれた。
それ以来、ムギは一日も欠かさずに登校して来てくれている。
対抗策が成功したのかどうかは聞いてない。
国もやれる事はやったみたいだけど、それ以上の事はムギも分からないみたいだった。
まあ、名家とは言え、ムギの家も協力程度で深くは関わってないんだろうし、
もしも対抗策が成功していたとしても、庶民の私達には多分関係ない事だろう。
だから、それに関してはそれ以上の話をしない。
聞いたところで、ムギが困るだけだろうしな。
そんな事よりも、私はムギが登校してくれる事の方が嬉しかった。
それだけで十分だ。
それに最後のライブなんだけど、ムギは誰よりも成功させたいと思ってる気がするんだ。
家の手伝いをしている時でも、メールで澪のパソコンに新曲の楽譜を送って来てくれてたし、
久し振りに合わせたセッションでも全くブランクを感じさせなかった。
きっと時間を見ては練習をしてくれてたんだろう。
今でこそ何としても成功させたいと私も思ってるけど、
憂ちゃんと話すまではムギほど最後のライブに熱心じゃなかった。
軽い思い出作り程度にしか考えてなかったんだ。
考えてみれば、ムギは『終末宣言』前から軽音部の活動に本当に熱心だった。
いつも一生懸命に楽しんで、練習も、練習以外も楽しそうで、
そんなムギの楽しそうな姿が私には嬉しかった。
それだけで軽音部を立ち上げた甲斐があったって思えるくらいに。
私達の軽音部が、この五人の音楽が一番なんだって思えるくらいに。
だから、私はムギに訊ねる。
五人揃っての放課後ティータイムの今と先を考えるために。
398:にゃんこ:2011/07/23(土) 23:37:46.44:XoDlxcvB0
「ムギは私と二人で寂しかったりしない?」
持って回った言い方だったかもしれない。
でも、それ以上の言葉は思い付かなかったし、
思い付いたとしても口に出しては言えなかっただろう。
ムギは自分の椅子の前まで移動しながら、私の言葉に首を傾げる。
「どうして?
私、寂しくなんかないよ?
どうして、そんな事を聞くの?」
「いや……、折角家の用事も終わって、
部活に顔を出してくれてるのに、今日は全員揃えないじゃんか。
一番忙しいムギが参加してくれてるのに、何か悪いなって思ってさ」
私が頭を掻きながら言うと、ムギがまた微笑んだ。
優しい笑顔で、「心配しないで」と言ってくれた。
言葉自体は最近梓が泣きそうな笑顔で言う物と同じだったけど、
ムギのその言葉は梓の言葉とは優しさとか、想いとか、色んな物が違う気がした。
「大丈夫よ、りっちゃん。
勿論、今日唯ちゃんと会えないのは残念だけど、それは仕方の無い事だもの。
私だってずっと部活に来れなかったじゃない?
そんな事で唯ちゃんを責めたりしないし、それならむしろ責められるのは私の方。
ずっと出て来れなくて、私の方こそごめんね、りっちゃん……」
自分の椅子に手を置きながら、
それでも自分の椅子に腰を下ろさないままで、ムギが困ったように笑った。
困らせないようにしようと思っていたのに、
結局は私の行動がムギを困らせてしまったみたいだ。
私は自分の馬鹿さ加減に大きく溜息を吐いて、椅子から立ち上がった。
ムギが立って謝ってくれてるのに、私だけ座ったままじゃいられなかった。
立ち上がって目線をムギと合わせて、私は真正面からムギに頭を下げた。
399:にゃんこ:2011/07/23(土) 23:39:10.37:XoDlxcvB0
「謝らないでくれよ、ムギ。
こっちこそ変な事を言っちゃったみたいでごめんな。
だけど、気になったんだ。
唯もそうなんだけど、今日は……、澪も来ないからさ」
今日は澪も来ない。
それはとても言いにくい事だったけど、伝えないわけにもいかなかった。
「澪ちゃんも? 何かあったの?」
ムギが残念そうな声を上げる。
昨日、唯はムギの家に行った後、澪の家を訪ねたと憂ちゃんが言っていた。
例え澪が唯に今日登校しない事を伝えていたとしても、
それが唯からムギに伝える事は時間的にもできなかったんだろう。
結局、夜から携帯電話の電波も、ラジオ電波も、
それどころかテレビ回線と家の電話の電話回線も切れていて、復旧されていなかった。
連絡手段が無い私達は、お互いの出欠確認もままならなかった。
信じるしかなかったんだ。皆で交わした約束を。
部室に集まるって約束を。
だからこそ、私はムギの顔を見るのがとても恐かった。
唯も澪もいない軽音部に、ムギはがっかりしてるんじゃないだろうか。
約束を果たせなかった軽音部に、少なからず失望してるんじゃないだろうか。
しかも、それは澪が悪いわけでも、唯が悪いわけでもない。
この場合、梓だって悪くない。
梓に嫌われてると思えて仕方なくて、梓の悩みから逃げ出した私が無力だったんだ。
今日、全員が揃えない責任は全部部長の私にある。
だから、私はムギの顔を見られないんだ。
「ごめんな……」
顔を上げられないまま、私は絞り出すようにどうにか言葉を出した。
「澪に何かあったんじゃない。
澪が来ないのは私のせいなんだ。
こんな状況なのに、もう時間も残り少ないのに、
それでも答えが出せなくて、悩まずにはいられない私の責任なんだ。
本当にごめん……」
400:にゃんこ:2011/07/23(土) 23:45:04.00:XoDlxcvB0
実を言うと、澪の件に関しては私の中で一つの答えが固まりつつあった。
今からでもそれを澪の家に行って伝えたなら、
もしかすると澪の悩みは晴れるのかもしれない。
今日の昼過ぎからでも、登校して来てくれるかもしれない。
だけど、私はそれをしたくなかった。
それを澪に伝えるのが恐いって事もあるけど、
曖昧なままでその答えを伝えたくなかったし、
こう言うのも変かもしれないけど、私は悩んでいたかった。
澪にも今日一日は悩んでいてほしかった。
悩んでいたいなんて、滑稽で無茶苦茶にも程がある。
きっとそれは私の我儘なんだろうと思うけど、簡単に答えを出したくないんだ。
世界の終わりも間近なのに、
とても自分勝手で、周りにすごく迷惑を掛けてしまってる。
勿論、ムギにだって……。
だから、私はムギに謝るしかないんだ。
頭を下げる私に、ムギはしばらく何も言わなかった。
何を思って私を見てるのかは分からない。
胸の中で私を責めているのかもしれない。
でも、責められても仕方ないし、私はムギのどんな言葉でも受け入れようと思う。
どれくらい経ったんだろう。
突然、普段より低い声色で、ムギが深刻そうに呟いた。
「りっちゃんは……、澪ちゃんと喧嘩したの?」
何て答えるべきか少し迷ったけど、私は大きく頭を横に振った。
「いや……、喧嘩じゃ……ないな。
喧嘩じゃないんだけど、今日は会えないんだよ。
変な事を言ってるとは思うんだけど、悩んでるんだよ、お互いに……。
悩まなきゃ……、駄目なんだよ、私達は。
こんな状況で何を悠長な、って思われても仕方ないのは分かってる。
でも……、でもさ……」
上手く言葉にできない。
自分の中でも曖昧にしか固まってない考えなんだ。
そんな考えを人に上手く伝えられるはずなんてない。
だけど、上手くなくても私はムギに伝えなきゃいけなかった。
ムギも当事者だ。軽音部の仲間なんだ。
そんな私の我儘や曖昧な考えで振り回してしまってる事だけは、謝らなきゃならない。
勿論、まだムギの表情を見るのが恐くて堪らなかったけど、私は顔を上げた。
謝り続けたくはあったけど、単に頭を下げ続けるのも逃げの様な気がしたからだ。
これから責められるにしても、
私はムギの顔を見ながら責められるべきなんだと思うから。
だから、私は伏せていた視線をムギの顔に向ける。真正面から見つめる。
401:にゃんこ:2011/07/23(土) 23:46:08.47:XoDlxcvB0
「やっと顔を上げてくれたね、りっちゃん」
視線を合わせたムギは微笑んでいた。
さっきまでの困ったような笑顔じゃない。
安堵……って言うのかな。
すごくほっとしたみたいな笑顔だった。すごく意外な表情だった。
「よかった……。喧嘩じゃなかったんだね。
りっちゃんと澪ちゃんが喧嘩してるわけじゃないなら、私はそれで十分よ。
勿論、今日澪ちゃんと会えないのは残念だけど、
誰よりも澪ちゃんと付き合いの長いりっちゃんが言う事だもん。
きっとりっちゃんも澪ちゃんも今日は悩まなきゃいけない日なんだよね。
だったら、私も応援する。応援したいの、二人の事を」
責められると思ってた。
責められるだけの事はしたと思ってたし、今でも思ってる。
だけど、ムギは笑顔で私を見守ってくれている。
ムギの笑顔は本当に温かくて、それが辛くて、私はまた呟いた。
「でも……、それは私の我儘で、こんな状況なのに……。
それなのに応援してくれるなんて……、こんな私の我儘を……」
「ねえ、りっちゃん?
りっちゃんは優しくて、誰のためにでも一生懸命になってくれるよね?
私はそれが嬉しいし、そんなりっちゃんが大好きよ。
でも……、でもね……、
私、りっちゃんにはもっと自分に自信を持ってほしい。
我儘だって、もっと言ってほしいの」
404:にゃんこ:2011/07/25(月) 23:18:51.01:mNeqt+dR0
「自信って……、だけど私は……」
「学園祭の時だってそう。
メンバー紹介の時、りっちゃんの自分の紹介がすごく短かったじゃない?
私、それがとても残念だったの。
私達の軽音部の部長なんだって、自慢の部長なんだって、もっと皆に紹介したかったな」
「それは……、確かにそうだったけどさ……」
学園祭の時は夢中で記憶はあんまりないけど、何となくは覚えてる。
ムギの言葉通り、学園祭のメンバー紹介の時、私は自分の自己紹介を早々に切り上げた。
それは照れ臭かったからってのもあるけど、
私よりも他のメンバーの紹介をした方が観客の皆も喜んでくれると思ったからでもある。
部長ではある私だけど、
私自身を目当てにライブに来てくれた人はあんまりいないはずだと思ったんだ。
だから、皆の紹介を優先した。
その方が多くの人に喜んでもらえると思ったんだけど、ムギはそれを残念だと言った。
自慢の部長だって言ってくれた。
私はそのムギの言葉にどう反応したらいいのか分からない。
自慢の部長だと言ってくれるのは嬉しいけど、
私にそう言われるだけの価値があるのか自身が無かったからだ。
自身が無い……か。
考えていて、気付いた。
ムギが言うように、確かに私は自分に自信があんまり持ててないみたいだ。
それはもしかすると無意識の内に、
部のメンバーと自分を比較してるからかもしれなかったけど、それは別の問題だった。
ムギが私に自信を持ってほしいと言ってくれている。
今はそれを優先的に考えるべきなんだろう。
少し声を落として、小さな声でムギに訊ねる。
「私、自慢の部長かな……?」
「勿論!」
即答だった。
迷いがなく、お世辞でもなく、ムギは強い瞳でそう言った。
拳まで握り締めて、強く主張してくれた。
元々、ムギは嘘が吐けるタイプでもないし、本気でそう思ってくれてるんだろう。
でも、その理由が私にはどうしても分からなかった。
悪い部長ではなかったと思うけど、
ムギに力強く主張されるほどいい部長だったとも思えないんだ。
私のその疑問を感じ取ってくれたのか、ムギがまた珍しく強い語調で続けた。
「さっきも言ったけど、りっちゃんは部員の私達の事を考えてくれてる。
自分よりも優先して考えてくれてるよね。
いつも明るいし、楽しませてくれるし、
軽音部の皆もそんなりっちゃんの事が大好きだと思うわ。
この高校生活、途中で終わっちゃう事になっちゃったけど……、
それはすごく残念だけど……、
でも、これまでずっとずっと楽しかった。
本当に本当に嬉しくて……、楽しくて……、
それは軽音部の部長でいてくれたりっちゃんのおかげよ。
だから、りっちゃんは自慢の部長よ。
何度でも自信を持って言えるわ。
りっちゃんは私達の自慢の部長なの」
405:にゃんこ:2011/07/25(月) 23:21:10.71:mNeqt+dR0
嬉しかった。
そのムギの言葉が心から嬉しくて、舞い上がってしまいそうだった。
私はそんな部長でいられたんだな……。
それだけで軽音部を立ち上げた意味があったと思える。
だけど、同時にそれでいいのかって思ってしまう自分もいた。
ムギが軽音部を楽しんでくれたのは本当に嬉しい。
でも、それは……、それは……。
「ありがとう、ムギ。
私の事、自慢の部長って呼んでくれて嬉しい。
楽しんでくれて、私も嬉しい。
だけど……、それもさ……、私の我儘なんだ……」
私は言ってしまった。
言わない方がいい事だったんだろうけど、私はそれを伝えたかった。
ずっと心の中に引っ掛かっていた事、
皆と笑顔でいながらも少しの罪悪感に囚われてしまっていた事を。
伝えたかったんだ、ずっと。
「私はさ、皆にはいつも楽しんでほしいし、笑っててほしいよ。
そのためには何だってしてあげたいし、そうしてきたと思う。
さっきムギは私が優しくて、皆のために一生懸命になれるって言ってくれたけど、
それは全部、皆のためじゃなくて自分のためなんだよ。
私は皆が楽しんでるのが嬉しくて、自分が喜びたくて、皆を楽しませてるんだ。
軽音部の部長をやってるのも、自分が楽しみたかったからで……。
ごめんな……。
私はそんな自慢の部長なんかじゃなくて……。
澪との事でもムギに迷惑掛けてる自分勝手な奴なんだよ……」
私の言葉はどんどん小さくなって、最後には止まった。
こんな事を伝えてもムギが困るだけって事は分かってたのに、
私は何でこんな事を言っちゃってるんだろう。
でも、ずっと気になってる事だった。
皆の……、特にムギと唯の笑顔を見ると、たまに不安になってたんだ。
私は私のために軽音部をやってて、
自己満足のためにムギや唯を楽しませてて、
そんな自分勝手な私の姿を知られたくなくて……、
でも、知ってほしかった。
謝りたかったんだ、それだけは。
急にムギが歩き始める。
手を伸ばせば私に届く距離にまで近付く。
誰かのために一生懸命のようで、
その実は自分の事ばかり考えてた私にムギは失望したんだろうか。
平手打ちの一つでも来るんだろうか。
それも構わない、と私は思った。
平手打ちの一つどころか、好きなだけ叩いてくれていい。
ムギが私の目の前で両腕を上げ、勢いよく振り下ろす。
衝撃に備え、私は覚悟を決めて瞼を閉じる。
一瞬後、私の両側の頬に衝撃が走った。
406:にゃんこ:2011/07/25(月) 23:23:37.61:mNeqt+dR0
だけど……。
その衝撃は私の想像していたそれとは、痛みが全然違った。
平手打ちなんてものじゃない。
友達を呼び止める時、ちょっと勢いよく肩を叩く程度の衝撃だった。
「もう……。駄目よ、りっちゃん」
ムギの穏やかな声が響き、閉じていた瞼を開いてみて、気付く。
ムギが私の頬を両手で優しく包んでいる事に。
気が付けば、私は絞り出すように呟いていた
「何……で……?」
「いいんだよ、りっちゃん。
恐がらなくても、大丈夫。恐がる必要なんてないわ。
だからね、そんなに自分を責めちゃ駄目よ、りっちゃん」
「私が恐がってる……?」
私の言葉にムギがゆっくり頷く。
そのムギの頷きを見て、
そうか、私は恐かったのか、と妙に冷静に私は考えていた。
世界の終わりは勿論恐いけど、それ以外の事も多分恐かった。
澪との関係に答えを出す事も恐かったし、梓の問題を解決できるかも不安でたまらない。
これからの事に不安は山積みだ。
でも、何より恐いのは、最後のライブを成功できるのかって重圧かもしれなかった。
それは聡や憂ちゃんのせいじゃない。
ライブを楽しみにしてくれる人が想像以上に多かった事を、自分一人で恐がってたんだと思う。
「そうだな……。恐かったのかもな……」
軽く私が頷くと、「うん」とムギもまた頷いた。
それから困ったような笑顔を浮かべる。
微苦笑とでも言うんだろうか。私が困らせてしまった時、ムギが浮かべる表情だ。
407:にゃんこ:2011/07/25(月) 23:25:31.44:mNeqt+dR0
「私もね……、本当はすっごく恐かったの。
この一ヶ月、私、お家のお手伝いをしてたじゃない?
詳しい事は分からないんだけど、でもね、ずっとお手伝いをしてると実感してくるの。
家族や、お手伝いの皆や、色んな人が必死に頑張ってる姿を見てると、感じるの。
世界の終わりの日は冗談なんかじゃなくって、本当に来るんだって。
それを皆、分かってるんだって……。
私、恐かったわ。
世界の終わりも恐かったし、私の大好きな皆も消えちゃうのがすっごく恐かった。
だからね、私、お家で何度も泣いちゃったわ」
「泣いちゃったのか?」
「うん。自分で言うのは、ちょっと恥ずかしいね……。
でも、本当よ?
毎日、お家のお手伝いが終わったら、ベッドの中でずっと泣いてたの。
お手伝い中、泣かないように我慢してた涙を全部流しちゃうくらい、大声で泣いてた。
しばらくの間、朝起きたらすごい顔してたな」
そう言うと、ムギの微苦笑から苦笑が消えた。
簡単に言えば、普段の優しい微笑みに戻ってた。
こんな時だけど、私は気が付けば軽口を叩いていた。
「そっか……。見たかったな、その時のムギの顔」
「駄目よ。その時の顔だけはりっちゃんにも見せられないわ」
「そりゃ残念だ」
わざと悪い顔になって私が言うと、「もう」とムギは軽く私の頬を抓った。
いや、これも抓ったってほどじゃない。
指に少し力を入れただけなのが、どうにもムギらしい。
そう感じがら、私は安心してる自分に気付いていた。
この一ヶ月、泣き過ぎてすごい顔になってたとムギは言った。
毎日じゃないだろうけど、学校に来なかった日にはそういうすごい顔をしてた日もあったんだろう。
だけど、少なくとも今のムギはそんなすごい顔をしてなかった。
今のムギは私達を安心させてくれる優しい顔をしてる。
つまり、ムギは泣かなくなったんだ。
世界の終わりに対する恐怖は完全には消えてないにしても、泣く事だけはやめたんだ。
笑顔でいる事に決めたんだ、最後まで。
408:にゃんこ:2011/07/25(月) 23:26:02.46:mNeqt+dR0
「ムギはいい子だな」
言いながら、私も右手を伸ばしてムギの頬を触る。
柔らかく、温かいムギの頬。
ムギは首を傾げながら、少しだけ赤くなる。
もしかしたら、珍しい私の言動に照れてるのかもしれない。
顔を赤くしたまま、またムギが優しく微笑んで言った。
「りっちゃんだって素敵よ。
とっても素敵な私達の自慢の部長。
だって、世界の終わりの日が恐くなくなったのは、りっちゃんのおかげだもの」
「私の……?
でも、私は何も……」
してない、と言うより先に、ムギは首を横に振った。
癖のある柔らかいムギの髪が私の手をくすぐる。
その後に私に向けたムギの顔は、これまで見たどんなムギの顔より綺麗に見えた。
「ううん。
りっちゃんの……、りっちゃん達のおかげで私は恐くなくなったよ。
確かに『終末宣言』の後、りっちゃん達と話す機会は少なかったけど、
私の中のりっちゃん達が私を励ましてくれたの。
離れていたけど、ずっと傍にいてくれたの」
「ムギの中の私達……?」
「うん。私の中のりっちゃん達が……。
あ、でもね、妄想とか、妖精さんとかね、そういう事じゃないの。
泣いてた時、本当に恐かったのは世界が終わる事より、
りっちゃん達ともう会えなくなるって考える事だったんだ。
あんなに楽しかったのに、あんなに夢中になれたのに、
その時間がもうすぐ終わっちゃうなんて、とっても辛かった。
りっちゃん達が私と同じ大学を受けてくれるって聞いて、
まだ楽しい時間を続けられるって思ってたのに、それができなくなるのが嫌だったの。
だから、何度も何度も泣いちゃった」
409:にゃんこ:2011/07/25(月) 23:27:36.50:mNeqt+dR0
「私も……、そうだよ、ムギ……。
自分が死ぬとかより、皆と会えなくなる事の方が辛かった」
「でもね、泣きながら気付いたんだ。
離れてても、りっちゃん達が私の中にいる事に。
勿論、離れてても平気って事じゃなくて、
上手く言えないけど、上手く言えないんだけど……」
ムギが言葉を失う。
何か大切な事を伝えようとしてくれてるんだろうけれど、いい言葉が見つからないに違いない。
でも、それをムギには言葉にしてほしいし、私もそのムギの言葉を聞きたかった。
その手助けをしてあげたかったけれど、私はどうにも無力だった。
自分の想いすら曖昧にしか表現できない私には、ムギのその言葉を導いてあげられない。
くそっ……、何やってんだ、私は……!
どうにか……、どうにかしたいのに、してあげたいのに……!
左手で頭を抱え、私はつい唸り声を上げてしまう。
瞬間、ムギが笑った。
これまでの優しい微笑みとは違う、何かが楽しくて浮かべる様な笑顔だった。
「もう、りっちゃんたら……。
また私のために一生懸命になっちゃうんだから……。
本当に優しいよね、りっちゃんは」
「あっ……」
今度は私が赤くなる番だった。
ムギの頬から手を放して、視線を逸らす。
その私の様子をムギは嬉しそうに見てたみたいだったけど、
しばらくしてから、「そうだわ」と何かを思い付いたように言った。
「ねえ、りっちゃん?
これから新曲を合わせてみない?
微調整をしておきたい所もあるし、私、りっちゃんのドラムが聞きたいな」
413:にゃんこ:2011/07/27(水) 22:49:40.83:X9dpuirv0
○
ドラムとキーボートだけの曲合わせ。
前代未聞ってほどじゃないけど、結構珍しい事だとは思う。
私もムギと二人だけで曲を合わせるなんてほとんどした事なかったし、
二人だけで合わせるのが完全な新曲なんて事は初めてのはずだった。
それにドラムとキーボートだけで曲の微調整なんてできるものなのか?
私は少しそう思ったけど、
作曲なんてした事ない私に詳しい事は分からなかったし、
こう言うのもなんだけど、曲の微調整の方は別にどうでもよかった。
「りっちゃんのドラムが聞きたい」とムギは言った。
そう言ってくれるならすぐにでも聞かせてあげたいし、
私の方だってムギのキーボードが聞きたかった。
この三日間、ムギが登校して来てくれるようになったおかげで、
ムギのキーボードを全然聞けてないってわけじゃないけど、
月曜日も火曜日も私の心に迷いがあったせいで集中しては聞けてなかった。
だから、私はムギのキーボードを聞きたい。
いや、違う。聞きたいんじゃなくて、聴きたい。
耳を澄まして、肌を震わせて、身体全身でムギのキーボードを感じたいんだ。
勿論、私の方にはまだ多くの迷いや恐怖がある。
それを忘れる事はできないし、しちゃいけないと思うけど、
せめて迷いは頭の片隅に置くだけにしておいて、気合を入れて演奏したいと思う。
……って、気合を入れてみたんだけど、私にはまだ不安があった。
だけど、その不安の原因は澪の事でも、梓の事でもなかった。
実は我ながら恥ずかしいんだけど、新曲を上手く叩けるか自信が無いんだよな……。
だって、新曲、超難しいんだぜ?
いや、難しい事は難しいんだけど、
それより新曲のジャンルに慣れてないからってのが大きいかな。
新曲とは言ってもいつもの甘々な曲調になるだろうって思ってたんだけど、
ムギの作曲した新曲は何故か今までの放課後ティータイムには無い激しい曲だったんだ。
ひょっとすると、澪の意向があったせいかもしれないな。
何故だか分からないけど、澪は今回の曲だけは激しい曲に仕上げたいらしかった。
恩那組って感じの熱く激しいロックスピリッツなバンドをしたかった私としては嬉しい限りなんだけど、
いくら何でもバンドを結成して二年以上経ったこの時期に、
いきなりこれまでと全然違うジャンルの曲をやれと言われても難しいってもんだ。
まったく……。
困ったもんだよ、澪の気紛れも……。
でも、そう思いながら、気が付けば私は頬が緩んでいた。
何だかとても懐かしい感覚が身体中に広がってる。
新曲を上手く演奏できるかどうかで不安になれるなんて久し振りだ。
あんまり褒められた話でもないけど、
そんな事で不安になれる感覚が自分に残ってた事がとても嬉しい。
キーボードの準備をするムギに視線を向けて、気付かれないように頭を下げる。
これから先も私は迷い続けていくんだろうけど、
今だけだとしてもこんなに落ちつけてるのはムギのおかげだ。
私の視線に気付いたのか、ムギが私の方に向いて首を傾げる。
私は頭を上げて、何もなかったみたいに笑顔で手に持ったスティックを振る。
まだ少し首を傾げながらも、ムギは微笑んで右手の親指と人差し指で丸を作る。
キーボードの準備が完了したって事だ。
私は椅子に座り直し、背筋を伸ばしてから深呼吸する。
上手く演奏できるか分からないし、
そもそもドラムとキーボートだけでどれだけ合わせられるかも微妙なところだ。
だけど、それでも構わない。
これはこれからも私達が放課後ティータイムでいられるかの再確認なんだから。
414:にゃんこ:2011/07/27(水) 22:50:16.34:X9dpuirv0
頭上にスティックを掲げる。
両手のスティックをぶつけ、リズムを取る。
ムギのキーボードが奏でられ始める。
普段の甘い曲調かと錯覚させられる穏やかな曲の始まり。
だけど、即座に変調する。
激しく、滾るような、今までの私達には無い曲調に移行する。
歌詞が無いどころか、まだ曲名すら決まってない未完成の新曲。
でも、この曲は間違いなく私達の新曲で、恐らくは遺作となるだろう最後の曲。
私は全身で、これまでの曲以上に激しくリズムを刻む。
曲は所々で止まる。サビの部分も満足な形で演奏できない。
リードギターも、リズムギターも、ベースすらもいないんだから当然だ。
ドラムとキーボードだけの、ひどく間抜けなセッション。
セッションと呼んでいいのかも分からない曲合わせ。
でも、私とムギは目配せもなしに、演奏を合わせられる。
確かに私達の出番が無い箇所では演奏が短く止まる。
そればかりは誰だってどうしようもない事だ。
だけど、再開のタイミングを合わせる必要は私達には無い。
そりゃ楽譜通りに確実に演奏すれば、
タイミングを合わせる必要なんて無いだろうけど、残念ながら私にはそこまでの実力はない。
楽譜通りに完璧に演奏できれば、ドラムが走り過ぎてるなんて言われないだろうしな。
それでも私が確実に合わせられるのは、聞こえるからだ。
私だけじゃない。きっとムギも聞こえてるはずだ。
私達以外のメンバーの演奏が。
勿論、こう言うと台無しなんだけど、それは幻聴だ。
今ここにいないメンバーの演奏が聞こえるなんて、幻聴以外の何物でもない。
幻聴が聞こえる理由だって分かってる。
覚えてるからだ。
耳が、身体が、心が、皆の演奏を刻み込んでるからだ。
何度も練習した新曲を覚えてるから。覚えていられたから。
上達の早い唯のリードギターを。
努力の果てに手に入れた堅実な澪のベースを。
安定して皆を支える梓のリズムギターを。
仲間の、音楽を。
だから、そこにいなくても、私達は皆の演奏を心で聴く事ができる。
その演奏に合わせる事ができるんだ。
何も奇蹟って呼べるほどの現象じゃないだろう。
こんな事、多分、誰にだってできる。
仲間がいれば、きっと誰にでも起こるはずの日常だ。
日常で上等だ。特別なんて私には必要ない。
私は嬉しかった、その日常が。
さっきムギの言っていた事が理解できてくる。
「私の中のりっちゃん達が私を励ましてくれたの」ってムギの言葉。
傍にいるだけが仲間じゃない。
傍にいる事に越した事はないけど、傍にいなくても仲間は胸の中にいてくれる。
だから、ムギは泣くのをやめる事ができたんだ。
私もそうなんだって気付いた。
世界の終わりが辛くて悲しいのは仲間がいるからだけど、
世界の終わりを直前にしても前に進もうと思えるのは仲間のおかげなんだ。
当然だけど、皆が傍にいないのは寂しくて胸が痛む。
でも、それ以上に安心できて嬉しくなるし、胸が熱くなってくる。
私はまだ生きている。
私達はまだ生きていられる。
だから、逃げたくないし、世界の終わりに負けたくない。
もうすぐ死んでしまうとしても、それだけは嫌だ。嫌なんだ。
そうか……。
私があの時、澪の前で泣き出してしまった理由は……。
415:にゃんこ:2011/07/27(水) 22:52:45.37:X9dpuirv0
演奏が終わる。
一度もミスをする事なく、ムギとの演奏を終えられた。
完璧に合わせる事ができた。
ムギの演奏だけじゃなくて、私の中の皆の演奏とも。
心地良い疲れを感じながら、私はムギに声を掛ける。
「やっぱドラムとキーボードだけってのは寂しいよな」
「うん。それはそうよね。流石に少し無理があったね」
そう言いながら、ムギも微笑んで私を見ていた。
多分、私がすごく嬉しそうな顔をしてたからだろう。
仕方ないじゃないか。すごく嬉しかったんだから。
「ありがと、ムギ。
ムギの言いたい事、何となく分かったよ。
言葉にはしにくいけど、心の中では分かった気がする。
仲間と離れたくはない。離れてても平気なはずない。
だけど……、離れてても私達の中には、良くも悪くも仲間がいるんだよな……。
ドラムを叩いてると聞こえるんだよ、皆の演奏が。
それが辛いんだけど、悲しいんだけど……、それ以上に嬉しい……な」
「私も聞こえたよ、皆の演奏。
だから、もっと頑張らなくちゃって思うの。
それと、私の方こそありがとう、りっちゃん。
涙が止まらなったのはりっちゃん達がいたからだけど、
涙を止められたのもりっちゃん達のおかげなの。
だから、本当にありがとう、りっちゃん」
「考えてみりゃ、
私の勝手でムギを軽音部に引きずり込んだわけだけど、
今思うとそうしてて本当によかったと思うよ。
私の我儘に付き合ってくれて、ありがとな、ムギ」
「ねえ、りっちゃん?
私の持って来るお菓子、好き?」
唐突に話題が変わった。
ムギが何の話をしようとしているのか分からない。
私は面食らって変な顔をしてしまったけど、素直に頷く事にした。
「勿論好きだぜ?
美味しいもんな、ムギの持って来るおやつ。
前持って来てくれたFT何とかって紅茶も美味しかったしな」
「FTGFOPね。
今日も持って来てるから、後で淹れてあげるね」
「おっ、ありがとな、ムギ。
そういや、もしかしたら軽音部が廃部にならなかったのって、ムギのおかげかもな。
唯が入らなきゃ廃部になってたわけだけど、
唯の奴、ムギのおやつがなかったら、うちに入ってなかった可能性が高いからな……。
あっ、やべっ。冗談のつもりだったけど、何だか本当にそんな気がしてきた……。
……本当にありがとな、ムギ。その意味でも!」
416:にゃんこ:2011/07/27(水) 22:54:58.75:X9dpuirv0
私のお礼にムギは微笑んだけど、急に表情を曇らせて目を伏せた。
ムギがそんな表情をする必要なんて無いのに、何があったのか不安になった。
目を伏せたままで、ムギが小さな声で呟く
「そのお菓子をね……、
本当は私のために持って来てたって言ったら、りっちゃんは私を嫌いになる?」
「え? 何だよ、いきなり……」
「私ね、皆に美味しいお菓子を食べてもらいたかったの。
皆が喜んでくれるのは嬉しいし、皆の笑顔を見るのが好きだったから。
でもね……、それだけじゃないの。
ずっと隠してたけど、私ね、皆が喜んでくれるのが嬉しいから、
自分が嬉しくなりたいから、お菓子を持って来てたんだ。
「ムギちゃん、すごい」って言われたくて、自分のために持って来てたの」
「でも、それくらい誰だって……」
「ううん、最後まで聞いて。
それにもう一つ隠してた事があるの。
私、恐かったの……。
お菓子を持って来ない私を好きになってもらえる自信がなかったの……。
お菓子を持って来ない私なんて要らないって言われるのが恐くて、
だから、そんな私の我儘を通すためにずっとお菓子を持って来てた。
ねえ、りっちゃん?
そんな自分勝手な私の話を聞いてどう思う?
嫌いに……、なっちゃったかな……?」
そんな事で嫌いになるかよ!
ムギの気持ちは分かる。本当によく分かる。
私も恐かった。
いつも明るく楽しいりっちゃんって言われるけど、
そうじゃない私が人に好かれるか恐くなった事は何度もある。
たまに落ち込んで辛い時もあったけど、
そんな時でも無理して明るい顔をしてた。
恐かったからだ。明るくない自分が拒絶されるのが恐かったから。
だから、ムギの言う事がよく分かるんだ。
確かにそれは自分勝手かもしれないけど、そんな事で嫌いになるわけなんてない。
私はそれをムギに伝えようと口を開いたけど、それが言葉になる事はなかった。
言葉にする直前になって、
そのムギの言葉が新曲の演奏前に、私がムギに言っていた事と同じだと気付いたからだ。
そうだよ……、何を言っちゃってたんだよ、私は……。
自分勝手に動いてる罪悪感に耐え切れなくて、ムギに弱音を吐いてただけじゃんかよ……。
真の意味で自分の馬鹿さ加減に呆れてきて、放心してしまう。
そんな間抜けな表情を浮かべる私とは逆に、柔らかく微笑んだムギが続けた。
417:にゃんこ:2011/07/27(水) 22:58:57.52:X9dpuirv0
「分かってくれたみたいね、りっちゃん。
だから、自分の事を自分勝手だなんて、我儘だなんて思わないで。
誰かのために何かをしてるみたいで、
本当は全部自分のためだったなんて、誰だってそうなんだって私は思うの。
私だってそうだし、本当の意味で誰かのために何かを行動できる人なんていないと思うわ。
皆、自分の得のために、誰かの手助けをするの。
自分を好きになってもらうためだったり、自分をいい人だと思うためだったり、
でも、それでいいんだと思うわ。
それにね……、それでも私は嬉しかったの。
軽音部に入って、皆の仲間に入れてもらえて、すっごく嬉しかった」
「私だって……。
私だって、ムギが仲間に入ってくれてすごく嬉しかった。
澪にも言ってないけど、実はムギが入部してくれた日さ、
家に帰った後も布団の中で何度も何度もガッツポーズするくらい嬉しかったんだ。
本当に嬉しかった」
二人とも、いや、多分、誰でも自分のために生きてる。
自分のためにしか生きられない。
でも、ムギはそれでいいと言ってくれた。
私が私のためにムギを部に誘ったとしても、それがすごく嬉しかったからだ。
それを私に気付かせてくれるために、
隠してたかったはずのムギ自身の本音まで教えてくれて……。
私のせいでそんな事をさせてしまって、またムギに謝りたくなってしまう。
いや、きっとムギはそんなの望まないだろう。
今はごめんなさいって言葉よりも、ありがとうって言葉が必要なんだ。
だから、私はムギに感謝する。
仲間になってくれて、親友になってくれてありがとう。
心からそう伝えたい。
だけど、最後に一つだけ……。
私の最後の不安をムギに聞いてもらいたいと思う。
「私は我儘だと自分でも思う。でも、本当にそれでいいのか?」
「いいの。りっちゃんは我儘でもいい。
りっちゃんの我儘の中は、単に我儘だけじゃなくて、
私達の事を考えて言ってくれる我儘の方が多いんだから。
それが私達には嬉しいの。
りっちゃんの我儘のおかげで、私達は軽音部でとても楽しかったんだしね。
だから、もっと自分に自信を持って。
私達に自慢の部長って自慢させてほしいな」
「だけど、思うんだよな。
たまに私は度の過ぎた我儘を言っちゃう事があるって。
それで何度も皆を傷付けた事があると思ってる。
もしもまたそうなっちゃったら……。
気が付かないうちに皆を傷付ける我儘を言っちゃってたら……」
「大丈夫よ。その時は……」
言葉を止めたムギが、右手で自分の右目を吊り上げ、左手で何もない場所を軽く殴る。
何だか見慣れた光景を思い出す。
「その時は澪ちゃんが叩いてくれるよ」
言って、ムギが吊り上げてた目を元に戻す。
ツリ目で左利きの拳骨……、澪の物真似のつもりだったらしい。
そういや、マンボウ以外のムギの物真似は珍しい。
少しおかしくなって笑いをこぼしながら、私は自分に言い聞かせるように呟いた。
418:にゃんこ:2011/07/27(水) 22:59:29.67:X9dpuirv0
「そっか……。そうだよな……」
「勿論、そんな時は私達だってちゃんと言うよ。
唯ちゃんは突っ込んでくれるだろうし、きっと梓ちゃんも注意してくれる。
私だってりっちゃんのおやつを抜きにしちゃうからね」
「それだけは勘弁してくれ……」
うなだれて呟きながらも、私は嬉しくて泣きそうになっていた。
私が失敗してしまっても、注意してくれる仲間がいる。
そう思う事で、すごく安心できる。
おやつ抜きは嫌だしな。
最初こそ私の我儘から始まった部活だったけど、
皆にとってこんなにも大切な居場所にする事ができたのか……。
もうすぐ失ってしまうこの部活だけど、
このままじゃ終わらせない。絶対に終わらせてやらない。
もう世界の終わりになんか負けるもんか。
「ありがとう、ムギ」
これまで何度も言ってきた言葉だけど、
こんなに心の底から滲み出て、極自然にありがとうと言えたのは初めての気がする。
「どういたしまして」
ムギがとても綺麗な笑顔で微笑む。
私は照れ臭くなって、両手に持ったスティックを叩き合わせる事で誤魔化す事にした。
「よし。じゃあ、練習続けるぞ、ムギ!」
「あいよー!」
唯みたいな返事をして、ムギがまた演奏を始める。
私も難しい新曲に体当たりでぶつかっていく。
私達の音楽を、奏でる。
そこにいないメンバーの曲を心で再現しながら、未完成な曲を心で完成させる。
難易度の高いパートを終え、曲の繋ぎのパートに入った時、急にムギが演奏を止めた。
私も手を止め、振り返って私の方を見るムギに視線を向ける。
ムギがミスをしたわけじゃないし、私だってミスしてない。
急な訪問者があったわけでもない。
何の前触れもなく、唐突にムギが演奏を止めたんだ。
でも、その急展開の理由には、私にも心当たりがあった。
もしかしたら……。
「なあ、ムギ。ひょっとして……」
「うん、ごめんね……。
難しい所が終わって気を抜いてる私の中の唯ちゃんがギターを失敗しちゃって……。
それが気になって演奏止めちゃった……」
「確かにそこ何度も唯がミスした所だよな。
実を言うと、さっき私の思い出してる時も唯がそこでミスしてたし。
難易度の高い所はできるのに、何でそこが終わると気を抜いちゃうんだ……、
って、うおい!
そこまで再現せんでいい!」
長い乗り突っ込みだった。
私達の心の中にはいつだって軽音部の仲間がいる。
いい意味でも、悪い意味でも……。
今回は悪い意味だったみたいだけど。
勿論、それが嫌なわけじゃない。
ムギがばつの悪そうに苦笑して、私もそのムギに合わせて笑った。
明日、唯に会ったら、このパートを重点的に気を付けるように言っておこう。
421:にゃんこ:2011/07/31(日) 21:15:23.78:bwm/XcdO0
○
六回くらいムギと新曲を合わせ終わった時、
私は軽音部に向かってくる忙しない足音に気が付いた。
多分、走ってるんだろうその足音。
それは待ち合わせに遅刻しそうな時に唯が立てる足音に似てたけど、
今日は唯は憂ちゃんと過ごすはずで、ここには来ないはずだった。
勿論、澪の足音ともかなり違う気がする。
つまり、軽音部に近付いて来ているこの足音の持ち主は……。
私の身体が小さく硬直する。
心臓の鼓動が僅かにだけど速くなる。
逃げ出したあいつの姿を思い出して、胸が痛んでくる。
正直、辛いし、若干逃げ出したくもある。
でも、もう逃げられないし、逃げたくない。
まだ確認は取れてないけど、何が起こってもおかしくないこの時期、
あいつにあんな夜の道を一人で出歩かせるような事だけは、もうさせちゃいけない。
もう私があいつに嫌われているんだとしても、
嫌われてるなりにしなきゃいけない事もあるはずだ。
私は頷いて、スティックを片付ける。
近付いて来る足音をじっと待つ。
ふと視線を送ると、ムギもどこか緊張した表情で唇を閉じていた。
ムギは鈍感じゃない。
人の気持ちを察する事ができるし、近付く足音の持ち主が誰かも分かってるはずだ。
ムギも私と同じ気持ちなんだな……。
そう思うと勇気が湧いてくる。
今度こそあいつと向き合うんだって、そんな気持ちにさせてくれた。
「おはようございます!
すみません、遅くなりました!」
扉が開いて、挨拶が部室内に響く。
私はムギと二人で部室の扉の方向に視線を向ける。
勿論、扉を開いたのは私達の小さくて唯一の後輩の梓だった。
走ってたせいか息を上げて、ほんの少し汗も掻いてるみたいだ。
昨日までは制服で部室に来てたのに、
今日の梓は何故か私服なのが少し気になる。
「おう、おはよう」
自分の掌にも汗を掻くのを感じながら、私は何気ない素振りで声を掛ける。
これから重大な話をしなきゃいけないんだと思うと、やっぱり緊張してしまう。
「梓ちゃん、おはよう」
ムギの声も何だか上擦ってるように聞こえた。
ムギも緊張してるんだ。
梓は自分の悩みを私だけじゃなく、誰にも語らなかったし、
それどころか自分が悩んでいる素振りすら誰にも見せないようにしていた。
自分は悩んでない。
誰にも心配される必要はない。
梓のそんな姿はかえって私達を不安にさせる。
『本当に辛い事ほど、「大好き」な人には言えないものだから』。
不意に昨日聞いた和の言葉を思い出す。
梓が私達の事を大好きかどうかは別問題としても、
本当に辛い事ほど誰かに話す事ができないのは確かだと私も思う。
私だってそうだったし、誰だってそうだと思う。
本気で悩んでるんだけど……、
って、自分から切り出すような悩みなんて、きっと本当は大した事じゃない悩みなんだ。
だから、恐い。
梓がどれだけ大きな悩みを抱えてるのか、想像もできない。
そんな悩みを私なんかがどうにかできるんだろうか。
無理じゃないかと思えて仕方がない。
私はちっぽけで凡人の単なる女子高生なんだ。
きっと、私が梓の悩みを探るのは、梓にとっても迷惑に違いない。
それでも、このまま逃げる事だけはしちゃいけないはずだ。
私と梓のお互い……な。
422:にゃんこ:2011/07/31(日) 21:16:07.36:bwm/XcdO0
「今日、唯先輩が来ないらしいですね。
憂から聞きました。今日唯先輩と会えないのは残念ですけど……。
でも、唯先輩もちゃんと憂の事を考えてたみたいで、何だか嬉しいです」
寂しげな笑顔で呟きながら、
梓が長椅子に自分の鞄を置きに……いかない。
そりゃそうだ。
今日の梓は私服姿で自分のギターを持ってるだけだった。
どうして私は梓が長椅子に自分の鞄を置きに行くと思ったんだ?
いや、答えは簡単だった。
梓だけじゃない。部室に入った時、私達はまず長椅子に自分の鞄を置きに行くからだ。
誰が決めたわけでもない。
その方が楽だから誰もがそうしてるってだけの習慣だ。
考えてみれば、ここ最近、梓は自分の鞄を持って来てない気がする。
まあ、授業も無いんだから、かさばる鞄を家に置いてるだけなのかもしれないけど。
「あれ?
そういえば澪先輩は?」
梓は唯だけじゃなく、澪も部室にいない事に気付いたらしい。
部室内を見回しながら、何でもない事みたいに訊ねてきた。
そうだ。梓は今日澪も来ない事を知らなかったんだ。
澪が今日来ないのを知ってるのは、私がそれを話した憂ちゃんだけだからそれも当然だった。
ムギに伝える時もそうだったけど、他に悩みを持ってるはずの梓にはそれ以上に言いにくい。
嫌でも自分の身勝手さを実感させられて、ひどく申し訳なくなってくる。
でも、私はまっすぐに梓の瞳を見つめて、その言いにくい事を伝える事にした。
言わないで終わらせられる事じゃなかったし、
これから私は梓にそれよりもずっと言いにくい事を何度も言わなきゃいけないんだから。
「澪は今日、来ないんだ」
私の言葉に、梓の寂しげな笑顔が硬直した。
私が何を言っているのか理解できないって表情だった。
胸が強く痛い。心が折れそうだ。
梓は特に澪に憧れていた。その先輩と会えないなんて、かなりの衝撃だろう。
私なんかで澪や唯の代わりが務まるとも、とても思えない。
梓の中の自分の立ち位置を実感させられて、私の方が辛くなってきそうだ。
自業自得……かもな。
いや、私の辛さなんて、今は関係ないか。
今は梓の辛さや迷いの方に目を向けなきゃいけない時だ。
私は言葉を絞り出して続ける。
「ごめんな……。
別に喧嘩したわけじゃないんだけど、今日はさ、澪は……」
私のその言葉は最後まで伝える事はできなかった。
突然、梓が泣き出しそうな表情に変わって、
ギターの『むったん』も置かず、そのまま部室から飛び出してしまったからだ。
止める時間も隙もない。
本当に一瞬と言えるくらいの時間に、梓は部室からいなくなってしまった。
423:にゃんこ:2011/07/31(日) 21:18:31.29:bwm/XcdO0
私は呆然とするしかなかった。
そこまで……なのか?
そこまで私は梓に疎ましく思われてるのか?
唯と澪が傍にいなければ、話もしたくないくらいに私を嫌ってるのか?
嫌われてるなりに……とは思ってたけど、
ここまで嫌われてるなんて私は……、もう……。
陳腐な言い方だけど、心のダムが決壊してしまいそうだった。
ダムが決壊して、涙腺が崩壊して、その場で壊れるくらいに泣きじゃくりたい気分だ。
そんなに梓は私の事を嫌ってたのかよ……。
「りっちゃん……」
ムギが私に声を掛ける。
考えてみれば、ムギも同じ立場と言えるのかもしれない。
こんなのムギだって辛いはずだ。
泣きたくて仕方がないはずだ。
そう考えて、振り返って見てみたムギの表情は辛そう……じゃなかった。
私の予想とは裏腹に、ムギは意志を固めた強い表情で私を見ていた。
自分の辛さなんかより、優先しなきゃいけない事を分かっいてる表情。
「りっちゃん!」
もう一度ムギが言うけれど、
やっぱり情けなくて弱い私は、
辛さに沈み込みそうで、
今にも泣きそうで仕方がなくて、
私は……、私は……。
「うおりゃあっ!」
大声を出して、私はドラムの椅子から立ち上がる。
歯を食い縛り、なけなしの想いを奮い立たせて、無理矢理に立ってみせる。
「追い掛けるぞ、ムギ!」
大声でムギに宣言する。
ムギが嬉しそうに私を見てくれる。
分かってる。
立ち上がれたのは別に私自身の力ってわけじゃない。
だからってムギが励ましてくれたからでもない。
そうだ。私達は二人だから……、今は二人だから、一緒に強くいられたんだ。
その場で泣くんじゃなくて、梓をどうにかしなきゃって思えたんだ。
そういう事なんだ。
424:にゃんこ:2011/07/31(日) 21:19:42.30:bwm/XcdO0
「うん!」
ムギがキーボードの電源を落として、力強く頷く。
二人で部室の扉を開き、お互いにお互いを奮い立たせて駆け出していく。
部室を飛び出し、階段を駆け降りて、一瞬私達の動きが止まる。
梓の事で不安になったわけじゃない。
その気持ちはずっと心に抱いてるけど、
そんな事ではもう私達の脚や心は止められない。
動きが止まったのは、単に梓がどこに走って行ったのか見当も付かなかったからだ。
普通ならここで私達の思い出の場所なんかを捜すんだろうけど、
残念だけど私達と梓の思い出の場所は軽音部の部室なんだ。
軽音部の部室から出てきた以上、私達はどこか別の場所を捜さなくちゃいけない。
梓はどこだ……?
教室か? 体育館か? 保健室か?
それとももっと予想外の場所なのか?
下手すりゃ学校外に出てる可能性も……?
仕方ない。
ひとまずムギとは二手に分かれて片っ端から……。
「律先輩! ムギ先輩!」
瞬間、私達は呼ばれ慣れた呼び方で、遠くから誰かに呼ばれた。
でも、そう呼ぶのは梓だけのはずだなんだけど、その声は梓の声とは違っていた。
それなら誰が私達を呼んだんだ?
声がした方向を見回し、その声の持ち主が近付いて来るのを見付けて思い出した。
そういえば、あの子も私達を梓と同じ呼び方で呼んでいた。
クルクルしたツインテールの梓の親友……、純ちゃんも。
429:にゃんこ:2011/08/02(火) 22:27:09.14:02RQBnjM0
○
純ちゃんが息を切らし、可愛らしい癖毛を振り乱して駆け寄って来る。
今まで見た事もない、とても深刻な表情を浮かべて。
純ちゃんの事をそんなによく知ってるわけじゃない。
だけど、純ちゃんがこんなに必死な表情を浮かべる事なんて、滅多にないはずだった。
いつも笑顔ってわけじゃないけど、
私の知ってる純ちゃんは静かに微笑んで梓を見守ってくれる子だった。
つまり、よっぽどの事が起こったんだ、きっと。
「どうしたんだ、純ちゃん?」
駆け寄って来る純ちゃんの方に私達も向かう。
今は梓を追い掛けなきゃいけない時だけど、純ちゃんの事も放ってはおけなかった。
それに純ちゃんが深刻な表情で私達を呼び止める理由なんて、梓以外の理由であるはずがない。
私とムギも必死に廊下を駆ける。
私達と純ちゃんの距離は歩いて十秒掛かる距離ですらなかったけど、今はそんな時間ももどかしかった。
一秒でも早く純ちゃんと話がしたかったんだ。
私達と純ちゃんの距離が手が届くくらいになった時、私は純ちゃんの両肩を掴んで矢継ぎ早に訊ねた。
「何? どうしたの? 梓に何かあったの?
もしかして走るスピードが速過ぎて、転んで怪我したとか?
それとも、階段から転がり落ちたとかか?
梓は大丈夫なのか? 無事なのか?
怪我してるんだったら、すぐに保健室かどこかで治療しないと……」
早口にまくしたて過ぎてたかもしれない。
でも、私の言葉は止まらなかった。
梓が私の事を嫌いでもいい。
この際、世界が終わるのだって別問題だ。
せめて世界が終わるまでは、梓には怪我もなく無事にいてほしい。
誰だろうと何だろうと梓を傷付けさせたくない。
勿論、私自身も含めて、梓を傷付けるものを許したくなかった。
「りっちゃん、落ち着いて」
私の後ろまで駆け寄って来ていたムギが私の肩に手を置く。
落ち着けるはずない。そんな事をしている余裕なんてない。
落ち着いてなんて……。
不意に。
目の前の純ちゃんの表情が少し緩んだ事に私は気が付いた。
「純ちゃん……?」
「いえ、すみません。ちょっと嬉しくて……」
必死だった表情がどこへ行ったのか、
純ちゃんの表情は普段梓を見守ってくれるような優しく静かな微笑みになっていた。
嬉しい……?
純ちゃんが何を言っているのかは分からない。
でも、少なくとも純ちゃんの表情を見る限りは、
梓が怪我をしたとか、梓に何かの危険が迫ってるとか、そういう事は無さそうだった。
私は純ちゃんの両肩を掴んでいた手から力を抜いて言った。
「梓は無事なんだよね……?」
「はい、お騒がせしてすみません、律先輩。ムギ先輩も……。
梓は怪我なんかしてません。変質者に襲われてるって事もないですよ。
そういう意味では梓は大丈夫です」
「そういう意味で……?」
私がそう疑問を口にすると、また急に純ちゃんが真剣な表情になった。
さっきまでの深刻そうな表情とは違って、
自分が言うべき事を口にしようって強い意志を感じる表情に見えた。
純ちゃんは真剣な表情のままで口を開く。
「あの……、律先輩……?
律先輩は梓を苛めたりなんかしてませんよね?」
「え? 何なの、いきなり……。
そんな……。私は梓を苛めてなんて……」
430:にゃんこ:2011/08/02(火) 22:29:32.52:02RQBnjM0
いきなり過ぎる。純ちゃんは何を言ってるんだ。
私は梓を苛めてない。苛めるはずなんかない。
でも、自信を持って「苛めてない」と言えない自分も確かにいた。
梓が軽音部に入って以来、私は小さな後輩ができた事が嬉しくて、
梓をいじったりからかってきたし、何度も迷惑を掛けてきたとも思う。
だけど、それは全部梓が可愛くてやってきた事だ。
梓の事が好きだから、からかいながら一緒に楽しみたかった。
梓はそれをどう思っていたんだろう?
やっぱり迷惑で頼りない部長だって思ってたんだろうか?
もしかしたら、自分は苛められてると思っていたのかもしれない。
だから、この時期になって、私から何度も逃げ出しているのかもしれない。
梓は私に苛められてると思ってたのかもしれない。
私に苛められてるって純ちゃんに相談したりもしてたのかもしれない。
……私は梓にどう思われてるんだ?
どんなに決心しても、結局は何度も考えてきた壁にぶち当たる。
無限に迷路を迷い続けてるみたいに、無限に何度も……。
「違うよ!」
唐突に廊下に大きな声が響いた。
私の声でも、純ちゃんの声でもない。
勿論、私と純ちゃんのやりとりを後ろから見ていたムギの声だった。
振り返って見てみると、ムギが今にも泣きそうな顔で胸の前で拳を握り締めていた。
「違うよ、純ちゃん……!
りっちゃんは梓ちゃんを苛めたりしてない。
苛めたりなんかしない!
りっちゃんは……、りっちゃんはとっても梓ちゃんの事を大切に思ってるもの!
りっちゃんは私達の自慢の部長なんだから……!
勿論、私だって梓ちゃんの事が大切で……。
だから……、だからね……、りっちゃんは……!」
それ以上、言葉にならない。
涙を堪えるので精一杯なんだ、って思った。
何だよ……。
ムギは世界が終わる事も我慢できるのに……、
それだけの強さがあるくせに……、
私の事なんかで泣きそうにならないでくれよ……。
涙を流しそうにならないでくれよ……。
でも、思った。
梓にどう思われてるのかは分からないけど、
少なくともムギは私をそういう風に見てくれてたんだって。
梓を大切にしてると思ってくれてたんだって。
こんなに皆に支えられてる私を自慢の部長だって思ってくれるんだって……。
だから、私は言った。
少なくともムギの前では自慢の部長でいられるように。
「私はさ、純ちゃん……。
これまで梓を苛めた気はこれっぽっちもないけど、梓にどう思われてるか分からない。
ひょっとしたら、梓の方は私の事を嫌な先輩だって思ってたのかも……。
でもさ、本当にそうだとしたら私は梓に謝るよ。
だって、私は梓が大切だし、梓にとっても自慢の部長になりたいからさ」
まったく……、私は何度も回り道をし過ぎだった。
どんなに決心しても、結局は何度も考えてきた壁にぶち当たる。
無限に迷路を迷い続けてるみたいに、無限に何度も……。
でも、発想の転換が得意なひらめきりっちゃんと言われる私とした事が、
どうしてこんなに単純な事に気が付かなかったんだろう。
無限に迷い続けて何度も壁にぶつかるなら、その壁を壊せばいいだけの事なんだ。
どう思われてるかなんて、結局は本人に聞くしかないんだ。
そして、今がその時だった。
いや、ひらめきりっちゃんって呼び名を考えたのも、今だけどな。
「ごめんな、何度も何度も……。
でも、もう大丈夫。大丈夫だよ。
無理もしてないし、落ち着いて梓と話せると思う。
もしも梓に本当に嫌われてたらさ……。
その時はムギが慰めてくれよな」
431:にゃんこ:2011/08/02(火) 22:30:19.03:02RQBnjM0
私は軽く微笑みながら、まだ泣きそうな顔をしてるムギの頭を撫でる。
私は本当に無力で、一人じゃ何もできない。
仲間がいなきゃ、何もできやしない。
でも、仲間がいるから……、もう大丈夫だと思う。
またいつか迷う事もあるだろうけど、その時もきっと仲間がいてくれるだろう。
「うん……。
うん……!」
泣きそうな顔で、ムギが笑う。
その顔を見て、ムギは本当に可愛いな、ってこんな時だけど私は思った。
可愛くて、無邪気で、優しくて、強くて……。
そんなムギが部員でいてくれて、よかった。
唇を引き締め、純ちゃんに視線を戻す。
上手く伝わったかは分からないけど、
私達の梓に対する想いが少しでも伝わってたらいいなと思う。
純ちゃんはもう少しだけ真剣な顔を崩さなかったけど、
いつしか安心したような笑顔になっていた。
「変な事を聞いてすみません、律先輩。
だけど、確かめておきたかったんです。
今日、私、最近の梓の様子が気になって学校に来たんですけど、
さっき廊下を泣きそうな顔で走ってく梓を見たんです。
私が声を掛けても、返事もしないですごい勢いで走り去って行きました。
すごく……辛そうな顔で走って行ったんです」
「確かめておきたかった……、って?」
「まさかとは思ったんですけど、
もしかしたら、梓は軽音部の皆さんに苛められてるんじゃないかって思ったんです。
そんな事はないって信じてます。
信じてましたけど……、あんな顔の梓を見るとどうしても不安になっちゃって……。
律先輩だけじゃなくて、ムギ先輩にも失礼な事をしてしまって……、本当にすみませんでした」
「ううん、いいの。
純ちゃんは本気で梓ちゃんを心配しててくれたんでしょ?
だから、いいの。
私の方こそ、大きな声を出しちゃってごめんね……」
ムギが申し訳なさそうに頭を下げる。
純ちゃんの方は少し動揺した表情になって、胸の前で手を振った。
「い、いえいえ!
失礼な事をしたのは私の方なんですから、謝らないで下さい。
悪いのは私の方なんで……!
でも……」
「でも?」
「苛めはないにしても、梓が悩んでるのは軽音部の事だと思うんです。
この一週間、梓の様子がおかしいのは皆さんも分かってると思います。
私もそれを何度か梓に訊ねてみたんですけど、
梓ってば辛そうに「大丈夫。何でもないから」って答えるんですよ。
何でもないはずないのに、梓ってば何を言ってるのよ、もう……!」
苛立たしそうに純ちゃんが地団太を踏む。
何も言わない梓に苛立ってるってのもあるんだろうけど、
そんな親友に何もしてあげられない自分にも苛立ってるんだろう。
これまでの私達がそうだったみたいに……。
432:にゃんこ:2011/08/02(火) 22:30:56.03:02RQBnjM0
だけど、そうなると梓は軽音部どころか、親友にも何も相談してないみたいだ。
この調子だと家族にも何も伝えずに、自分一人で悩みを抱え込んでるんだろう。
一体、何をそんなに悩んでるってんだ……。
って、そういやさっき純ちゃんが気になる事を言ってなかったか?
私はおずおずとそれを純ちゃんに訊ねてみる。
「なあ、純ちゃん。
梓の悩みが軽音部の事……、ってのは?」
「あ、いえ、確証はないんですけど、何となくそう思うんです。
私が軽音部の事を話題に出す度に、梓が本当に辛そうな顔をするんですよ。
梓、『終末宣言』の前から皆さんの卒業が近付いてるのが寂しいみたいで、たまに憂鬱そうでした。
最近の梓の様子は何だかその憂鬱が悪化したみたいに見えるんです。
私が軽音部の話をしようとすると、怯えてるみたいに小刻みに震え出すくらいなんです。
梓は必死にそれを私や憂に気付かれないようにしてるみたいですけど……」
「そっか……。
そりゃ確かに軽音部で苛めがあるんじゃないか、って純ちゃんが思っても仕方ないな。
でも、軽音部の事で、一体何の悩みがあるんだ……?
私の事が嫌いなら、もうそれでもいい。
だけど、話を聞く限りじゃ、どうもそんな程度の問題じゃなさそうだし……」
「梓はその何かを終焉よりも恐がってると思います。
梓にとって、終焉より、自分の死よりも恐い何かって、何なんでしょう……。
それもそれが軽音部の事でなんて……。
悔しいなあ……。こんな事ならもっと早く軽音部に入っておけばよかった……」
「純ちゃん、軽音部に入ってくれるつもりだったの?」
私が訊ねるより先に、ムギが言葉に出していた。
何だかその声色には喜びが混じってるような感じもする。
ムギの言葉に、純ちゃんは「しまったなあ」と呟いて苦笑した。
「梓には言わないで下さいよ?
実は私、皆さんが卒業した後、憂と一緒に軽音部に入部するつもりだったんです」
「憂ちゃんも?」
「はい。私が頼んだら憂は梓のためならって、快く引き受けてくれました。
私もジャズ研の事は惜しいですけど、やっぱり梓を放っておけませんから。
これ本当に梓には言わないで下さいよ?
こういうのは相手に知られないでやるのがカッコいいんですから」
照れ臭そうに純ちゃんが笑う。
梓もいい親友を持ったんだな、と嬉しくなってくる。
私の隣にいるムギも嬉しそうだ。
でも、その純ちゃんの笑顔が少しだけ曇った。
「まあ、終焉のせいで、その計画も無駄になっちゃいましたけどね……」
終焉……、世界の終わりは私達からあらゆるものを奪っていく。
計画や予定、未来を奪い去る。
だけど……。
「無駄にさせないよ」
私は言った。
まだ遅くはないはずだ。まだ間に合うはずなんだ。
「世界の終わりを止めるのは無理だけど、純ちゃんのその気持ちは絶対に無駄にしない。
軽音部に入ろうとしてくれてた事は秘密にするけど、
それくらい梓の事を思ってくれた親友がいた事だけは絶対に梓に伝える。
無駄にしちゃいけないんだ」
純ちゃんの瞳を覗き込んで、私は心の底から宣言する。
強がりじゃないし、純ちゃんのためでもない。
私がそうしたいと感じたいから、そうするんだ。
433:にゃんこ:2011/08/02(火) 22:31:48.05:02RQBnjM0
「カッコいい……」
不意に純ちゃんがそう呟いたけど、すぐにはっとして自分の口元を押さえる。
私は悪戯っぽく微笑み、照れた様子の純ちゃんの前で右手の親指を立てた。
「お、私に惚れ直したかい? 私に惚れると火傷するぜ?」
「え……、遠慮しときます! 私には澪先輩がいるんで!」
そりゃ残念だ、と私が頬を膨らませると、純ちゃんが小さく笑う。
それから聞き取るのが難しいくらい小さな声で、何かを呟いた。
「もう……、面白いなあ、律先輩は……。
本当に先輩なのかな、この人は……。
でも、そんな律先輩が梓も好きなんだよね……。
ちょっと悔しいけど、律先輩なら……」
「ん? どしたの?」
「律先輩。
実は私、梓が今どこにいるか知ってるんです」
「本当っ?」
「はい。梓を追い掛けて、どこに入っていくかも見届けましたから。
ここから距離はありませんし、まだそこにいるはずです。
でも……」
そこで言葉を止め、純ちゃんは人差し指を立てて凛々しい顔になった。
何だか年上のお姉さんのような仕種だった。
「最初に言っておきますよ?
これから私は先輩達に梓の居場所を教えます。
でも、それは先輩達に梓の事を任せるって事じゃありませんよ。
多分、梓の抱えてる悩みは軽音部の事だから、
私は先輩達に梓の居場所を教えてあげるんです。
軽音部の悩みじゃ、私には梓に何もしてあげられないじゃないですか。
だから、軽音部の問題は軽音部の皆さんで解決して下さい」
そう言った純ちゃんの頬は少し赤味を帯びていた。
梓の問題を私達に任せるのが悔しく、
同時にそれを素直に表現できない自分が恥ずかしいんだろう。
その気持ちは私にも分かる。
もしも澪が何かの悩みを抱えていて(今抱えてる悩みじゃなくて、あくまで仮の話で)、
それを解決できるのが自分じゃない誰かだったとしたら、私も悔しくて堪らないと思う。
気が付けば私は口を開いていた。
純ちゃんを気遣ったわけじゃなく、素直な気持ちが言葉になっていた。
「分かってるよ。任されたなんて思ってない。
そうだな……。
言うならこれは軽音部の私達と、梓の親友の純ちゃんの共同作業なんだ。
純ちゃんは軽音部の問題に口出しできないから、私達が梓と話をする。
私達は梓の悩みが軽音部の何かだって事を分かってなくて、それを教えてもらえた。
これから梓の居場所も教えてもらえるしな。
だからこれは、誰が欠けてもできない律ムギ純の共同作業なんだよ」
伝えるべき事は全て伝えたつもりだ。
純ちゃんがそれをどう受け取ったかは分からなかったけど、
しばらくして純ちゃんは困った顔で微笑んでくれた。
434:にゃんこ:2011/08/02(火) 22:32:25.16:02RQBnjM0
「律ムギ純って……。
他に言い方なかったんですか?」
「え? 駄目だった?
私的に会心の出来だったんだけど……」
「全然駄目ですよ。カッコよくないです。
でも、共同作業って言葉は気に入りました。
意外とやりますね、律先輩」
「意外とってどゆことかなー……」
手を伸ばして、純ちゃんのモコモコしたツインテールをくしゃくしゃに弄ってやる。
癖毛を弄るのはあんまり好ましいと思われないだろう事だったけど、
純ちゃんは梓がたまに見せる甘えたような表情を見せた。
こう見えて、純ちゃんもやっぱり後輩なんだな。
「最後に一つだけ聞きたい事があります」
私にツインテールを弄られながら、純ちゃんが真顔で私とムギの顔を見渡して言った。
「先輩達は梓の事をどう思ってるんですか?」
「大切な仲間だ!」
「大事な後輩よ!」
私とムギの答えが重なる。
流石に一言一句同じとはいかなかったけど、二人の想いは一緒みたいだった。
私達の答えを聞いて、純ちゃんは満足そうに頷く。
「分かりました。これから梓の居場所を教えます。
軽音部の部室で待ってますから……、
絶対に笑顔の梓を連れて帰って来て下さいよ?」
「当然だ!」
「勿論!」
また私とムギの言葉が重なって、純ちゃんが嬉しそうに笑った。
438:にゃんこ:2011/08/07(日) 22:33:20.38:9FBCI9DI0
○
教室に前後があるかどうかは分からないけど、
教壇の方を前と考えると、二年一組の教室の後ろの扉の前。
梓の居場所を教えてもらった後、純ちゃんと別れた私達はそこに立っていた。
梓の居場所がそのまま梓の教室だなんて、何だか馬鹿みたいに単純な答えだった。
分かってみれば簡単ではあるけど、
純ちゃんに教えてもらえてなければ、私達はこんなに早くここには辿り着けなかった。
ずっと後で辿り着けていたとしても、その時間にはもう梓は教室の中に居なかっただろう。
さっき自分で言った事だけど、
確かにそれは私達と純ちゃんの共同作業のおかげだな、と思った。
そうだ。
ムギの励ましと純ちゃんの想いが無ければ、私はここには辿り着けなかった。
辿り着こうとも思えなかったんじゃないだろうか。
勿論、今の私の支えはその二人だけじゃない。
振り返ってみれば、
私の周りでは色んな人たちが世界の終わりを目の前にして、精一杯生きていた。
人を気遣い、たくさんの人を心配している憂ちゃん。
軽音部のために動いてくれてる和。
強く生きるための笑顔を見せた信代。
関係なく見える誰かと誰かでも、決して無関係ではない事を教えてくれたいちご。
人のために動ける私を嬉しいと言ってくれた聡。
この状況でも自分を変えずに生きている唯。
自分を変えて、私達の関係を変えたいと思っている澪。
あれ?
さわちゃんからは何か支えてもらったっけ?
……思い付かない。
突っ込みを鍛えてもらった気はする。
いや、鍛えてもらったっていうか、必然的に鍛えさせられたというか……。
ごめん、さわちゃん。
今度会う時までに考えとくよ。
439:にゃんこ:2011/08/07(日) 22:35:10.28:9FBCI9DI0
でも、思った。
多くの人達の生き方が私の胸の中でまだ生きてるんだって。
ほんの小さな支えが重なって、そのおかげで私は今ここにいられるんだって。
だから、進める。
進もうって思える。
緊張して胸が張り裂けそうなほど高鳴るけど、足を動かせる。
震える手を押し留めて、二年一組の教室の扉に手を掛ける事ができる。
後ろにいるムギに私は軽く視線を向けた。
胸の前で拳を握り締め、ムギが強い視線を返してくれる。
頑張って、とその視線は言っているように思えた。
そうだ。頑張らないといけない。
梓の悩みを聞き出すのは、私の役目なんだから。
さっき少し相談して、ムギは教室の中に入らない事に決めていた。
それはもしまた梓が逃げ出しても、
すぐに追いかけられるようにムギが待機しておくって意味もあったけど、
それ以上にムギが私を信じてくれてるのが大きかった。
「りっちゃんが梓ちゃんと話すのが一番いいと思う」ってムギは言った。
「私は口下手だし……」と苦笑交じりにそうも言ってたけど、
私は別にムギが口下手だとは思わない。
確かにムギは私達の中では比較的口数が少なめだし、
自分の想いを難しい言葉なんかで表現する事も少なかったけど、
その分自分の考えを単純な言葉でストレートに表現してくれてると私は思う。
「楽しい」とか、「素敵」とか、「面白い」とか、
ムギの言う言葉は本当に単純で、単純なのが嬉しかった。
自分の気持ちを的確に表現できてるし、そういうのは口下手とは言わないはずだ。
むしろ妙に持って回った言い方をしてしまう私の方こそ、本当に口下手って言えるかもしれない。
それでも、ムギは私に梓を任せてくれた。
私なら梓の悩みを聞き出せると信じてくれた。
「梓ちゃんが一番悩みを話しやすいのは、りっちゃんだと思うから」と言ってくれた。
ムギは教室の外で私達を待つ事に決めてくれた。
その想いに応えられるかどうかは分からない。
だけど、もう私は梓の前から逃げたくなかったから。
自分自身の迷いを断ち切るためにも、梓と正面から向き合いたかったから。
私は梓と話をしたい。話したいんだ。
考えてみれば、この一週間、梓とはろくに会話もできてないしな。
顔を合わせながら、一週間も会話できてないなんて辛過ぎるじゃないか……。
ひょっとしたら、ムギは私のその考えを感じ取ってもくれたのかもしれなかった。
どちらにしろ、私にできるのは進む事だけだ。
ムギにもう一度だけ視線を向けてから、私は教室の扉を引いた。
梓から見えないように、一歩引いてムギが廊下に身体を隠す。
結果がどうなろうと、ムギはそこで待っててくれるだろう。
440:にゃんこ:2011/08/07(日) 22:37:27.71:9FBCI9DI0
「頼もう」
小さく呟いて、私は二年一組の教室の中に足を踏み入れる。
何度か来た事のある教室だけど、入り慣れない梓の教室はとても新鮮に見えた。
いや、そんな事は別にどうでもいい。
教室の扉を軽く閉めてから、私はこの教室に居るはずの梓を捜し始める。
梓はすぐに見つかった。
と言うか、すぐ傍に居た。
教室の廊下側、後ろから三番目の梓の席だった。
私は後ろの扉の方から教室に入ったわけだから、
私から数歩ほどしか離れてない距離に梓は座っていた。
だけど、梓は私の存在には一切気付いてないみたいだった。
私は扉を開いて、「頼もう」と呟き、扉を閉めまでしたのに、
梓はその私の動きに全く気付かなかったようで、自分の席で微動たりともしなかった。
ただ両手で頬杖を付いて、何の動きも見せない。
そんな梓の後ろ姿を見て、私はひどく不安になる。
私はこれまで何度も梓に迷惑を掛けてきたと思うし、それで何度も梓に叱られてきた。
生意気な後輩だと思ったけど、同時に私に突っ掛かって来る梓の姿が嬉しかった。
その梓が私に文句の一つも言わずに、自分の中に悩みを抱え込んでいるなんて。
ずっと逃げ出してた私の姿に気付かないほど、胸の中の悩みに支配されてるなんて……。
この数日で何度も梓から逃げられてしまった私だけど、
そんな抜け殻みたいな梓の姿を見る方が、逃げられるよりも何倍も辛かった。
何とかしないと……。
私が……、何とかしないと……!
唇を閉じ、私は梓との数歩の距離を縮めるために足を動かす。
一歩。
梓が何を悩んでいるのかは分からない。
二歩。
純ちゃんの言うように、本当に軽音部の事を悩んでいるんなら、多分その原因は私だろう。
三歩。
私が原因なら、私はもう梓の目の前から消えよう。それで梓の悩みが晴れるんなら、それもいい。
四歩。
だけど、最後のライブは梓に参加させてやりたい。きっとそれが梓の心の支えになる。
五歩。
そうなると私は最後のライブには参加できなくなるのか。ドラムだけ録音しておくべきか?
六歩。
嫌だ! 本当は私も梓と一緒にライブに参加したい。皆と曲を合わせたいんだ!
そのためには……。
そのために私がするべき事は……!
「……確保」
私は手を伸ばし、梓の頬杖の左腕を軽く掴む。
梓に私の存在を気付かせるために、
それ以上に私の中の不安感を振り払うために、それは必要な行動だった。
441:にゃんこ:2011/08/07(日) 22:39:04.25:9FBCI9DI0
「えっ……?」
突然の事に驚いた梓が身体を震わせる。
自分の手を掴んだのが誰なのかを確認するために、私の方に視線を向ける。
梓と私の視線が合う。
その一瞬に、気付いた。
梓の顔がひどくやつれ果ててる事に。
頬は軽くこけ、目には深い隈が刻まれて、自慢のツインテールも左右非対称だ。
元気が無いとは思っていたけど、こんなにやつれてるなんて私は気付いてなかった。
気付けなかったのは、ずっと梓が私から視線を逸らしていたからだ。
それでも、梓が視線を逸らすだけなら、私は梓のやつれた顔に気付けたはずだ。
本当に気付けなかった理由はたった一つ。
梓に目を逸らされるのが恐くて、私の方もチラチラとしか梓の姿を見ていなかったからだ。
昨日一度だけ視線が合ったが、その時も遠目で何も気付く事ができなかった。
梓の何を分かってやれる気でいたんだよ、私は……!
心底、自分を軽蔑したくなる。
思わず梓の腕を掴んでいた手に力を入れてしまう。
だけど、梓は言った。
驚いた顔を無理に隠して、力の入らない笑顔まで浮かべて。
「さっきはすみません、律先輩……」
「すみませんって……、おまえ……」
まさか梓の方から謝られるなんて思ってなかった。
面食らった私は、掛けるつもりだった言葉が頭の中で真っ白になっていくのを感じた。
「驚かせちゃいましたよね、
急に逃げ出しなんかしちゃったりして……。
驚くなって言う方が無理な話ですよね。
本当にすみません。
でも、私、すごく寂しくなっちゃって……。
それで……」
「寂しく……なった……?」
「いえ……、ほら、今日唯先輩が来ないって事は私も分かってたんですけど、
澪先輩まで来ないなんて知らなくって……。
それが辛くて、何だか恐くなっちゃって……。
気が付いたら軽音部から飛び出してたんです」
「澪が来ないのが、そんなに辛かったか……?」
「はい……。あ、いえ、ちょっと違います。
澪先輩って言うか……、先輩達が一人ずつ減っていくのが恐くて……。
今冷静に考えると偶然だって事は分かるんですけど、
唯先輩に続いて澪先輩まで部活に来なくなって、
最後にはムギ先輩や律先輩まで来なくなっちゃうんじゃないかって。
そんな風に思っちゃって……」
「そんな事はないぞ。
私もムギも、週末までずっと部活に出るつもりだぜ?
唯だって明日には来るし、澪も今日は考え事があるから家に居るだけだ。
明日には全員揃う。全員揃って練習できるし、お茶だってできる。
ムギがFTG何とかって美味しい紅茶も入れてくれる」
「そう……ですよね。
そうですよね……。不安になる必要なんて、無いですよね」
言って、梓が笑う。
力無く、自信も無さそうに。
その表情のまま、梓は続けた。
442:にゃんこ:2011/08/07(日) 22:42:37.71:9FBCI9DI0
「ごめんなさい、律先輩。
後でムギ先輩にも謝らないといけませんね。
部活に戻りましょう、律先輩。
すみません、お時間を取らせてしまって……。
恐かったけど……、もう大丈夫です。
明日には皆揃うんですもんね。だから、大丈夫です」
梓は自分の席から立ち上がる。
まだ不安感を完全には拭えてないけど、自分の力だけで立ち上がる。
自分を待つ軽音部の仲間の下に、無理をしながらでも歩き出していく。
私にできるのは、そんな梓を見守ってやる事だけだ。
梓の抱えてた悩みは、
軽音部の仲間が居なくなるかもしれないって不安感からだったんだな……。
世界の終わりを間近に迎えたこの状況だ。
確かに誰かが欠けてしまってもおかしくはない。
その不安感は私にもある。ムギや唯、澪にだってあるだろう。
でも、軽音部の全員は最後まで部活に出たいと思ってる。
明日には全員が勢揃いして、いつしか不安感だって消えていく。
それでいい。それでいいんだ。
私が嫌われてるわけじゃなくて、本当によかった。
後は梓を大切にしてやるだけだ。
梓は足を踏み出して、教室を後にしようと歩き出そうとする。
私もそんな梓を笑顔で見送って……。
って……。
「ちょっと……、律先輩……?」
私は梓の腕を掴んだままにしていた手に力を込める。
さっきみたいに自分自身を嫌悪してるからじゃない。
絶対に離さないって思ったからだ。
この手だけは絶対に離しちゃいけない。
443:にゃんこ:2011/08/07(日) 22:47:16.84:9FBCI9DI0
「……あるかよ」
「えっ……? 何ですか、律先輩?」
「って、そんなわけがあるかよ!
そんなのってあるかよ!」
私は腹の底から叫ぶ。
教室が揺れる。そう思えるくらいに精一杯の大声で。
今は絶叫しなきゃいけない時だった。
自分を誤魔化してはいけないんだって。
不安を見ないふりをしてちゃいけないんだって。
私は梓と自分にそれを分からせなきゃいけないんだ!
「律先輩……、何を……?
何を……言って……」
貼り付けたみたいな梓の笑顔が硬直する。
分かってないはずがない。
私より誰より、梓自身が自分に嘘を吐いている事をよく分かっているはずだった。
いや、完全には嘘じゃないか。
でも、だからこそ、余計に始末に負えない嘘なんだ。
さっきまでの梓の言葉に嘘はなかったと思う。
軽音部の仲間が減っていくのが不安だったのは確かだろうし、
それ以外の話もほとんどが梓の本心だったはずだ。
悩みの理由としては問題無かったし、よくできた話ではあった。
だけど、よく考えてみなくても分かる。
梓はこんなに簡単に誰かに悩みを語る子だったか?
抱え込んで、一人で悩み続けるのが梓って子じゃなかったか?
良くも悪くもそれが梓なんだ。
そんな梓が自分の本心を簡単に語る理由だって分かる。
本当に隠しておきたい事を隠すために、それ以外の本心を語ったんだ。
普段は隠している本心を語れば、それで納得してもらえるだろうって思ったんだろう。
部活の先輩達が居なくなるのが辛い、ってのは、それはそれで十分な悩みだ。
これが昨日の私なら、私もその梓の言葉を信じてたと思う。
梓が私の前から逃げ出した理由は、
居なくなるかもしれない私の顔を見るのが辛いから、だの何だのって適当な理由でも考えて。
だけど、残念ながらと言うべきなのかな、
今日の私にはその梓の誤魔化しは通用しなかった。
まずはこんな時期の深夜に動き回ってる梓の姿を見たからってのがある。
私はそれを梓にぶつけてみる。
444:にゃんこ:2011/08/07(日) 22:49:48.23:9FBCI9DI0
「なあ、梓……。
おまえの悩みは本当にそれか?
そりゃ、私達と離れるのが辛かったって悩みは嬉しいし、それは本当だと思う。
でもさ、それじゃ説明が付かないんだよ。
おまえ……、昨日、いや、今日か。
今日の深夜に何してた?
憂ちゃんと会う前に外を走り回ってただろ?
見たんだよ、偶然」
梓の硬直した笑顔が今度は強張る。
私から視線を逸らして、足下に伏せる。
その様子が私の言葉を完全に認めていたけど、言葉だけは力強く梓が言った。
「何を言ってるんですか、律先輩。
夜は憂が来るまで、家でずっとギターの練習をしてましたよ?
それに、こんな時期の深夜に、どうして外を出歩かなきゃいけないんですか?
そんなはずないじゃないですか。
律先輩の見間違いですよ。見間違いに決まってるじゃないですか」
口早に梓が捲し立てる。
それだけでも嘘だと言ってる様なもんだけど、私はそれについて追及しなかった。
夜に見たあの影は間違いなく梓だったんだろうけど、
見間違いと言い切られたら、それ以上話を進めようがない。
水掛け論で終わっちゃうのが関の山だ。
だったら、私にできる事は結局はたった一つ。
それは梓の事を信じてやる事だ。
いや、梓の言う事を全面的に信じるって意味じゃない。
何度も語り掛けて、いつかは梓が本当の事を言ってくれるって信じる事だ。
これまでに積み重ねた私達の関係を信じるって事だ。
それを信じられなければ、私は梓の部長でいる意味も価値もないんだ。
ムギと純ちゃんと話してきた中で、私はそう思った。
私は自慢の部長と呼ばれるに相応しい部長になりたい。
そのためにも、梓の本心から逃げちゃいけない。
「梓。見間違いだっておまえが言うなら、それでいい。
無理をするなとも言わない。
無理しなきゃ、こんな状況で生きてけないもんな……。
でもさ、おまえのその無理は違う……。違うと思う。
無理しないおまえを受け止めてくれる人の前じゃ、無理しなくてもいいと思う。
そんなに私の事が信じられないか?
本当の悩みを口にしたら、見限られるとでも思ってるのか?
いや、確かに私はおまえにとっていい部長じゃなかったとは思うよ。
迷惑掛けてばっかりだったもんな……。
私を信じられないってんなら、それも仕方ない事だと思う。
おまえがそんなにやつれてるって事すら、
今日まで気付けなかった馬鹿な部長だもんな。仕方ないよ。
それなら……、それならさ……。
せめて……、せめて私以外の誰かには話してほしいんだ。
私じゃ役不足だと思うなら、唯にでも、憂ちゃんにでも、誰にでもいいから話してほしい。
おまえ自身のためだし、それが負い目になるってんなら、
駄目な部長の私の願いを聞いてやるって意味で、誰かに話してほしいんだよ……」
445:にゃんこ:2011/08/07(日) 22:50:44.24:9FBCI9DI0
話せば話すほど、自分自身の無力を実感させられる気がした。
私には梓に何かしてやれるほど、梓に信じられてなかったのかもしれない。
それを実感するのが恐くて、ずっと逃げ出してきた。
でも、もう逃げられない。逃げたくない。
私の胸の痛みなんかより、こんなに傷付いてる梓の姿こそどうにかしなきゃいけないんだ。
だから、梓の誤魔化しに騙されたふりをしちゃいけないんだ。
「そんな……、私が律先輩を信じてないなんて……。
そんな事……、そんな事ないよ……。
私は律先輩が……、律先輩の事が……。
でも……、でも……」
梓が呟きながら後ずさり、視線をあちこちに移動させる。
追い詰める形になってしまって、ひどく申し訳ない気分になってくる。
それでも、私は梓の腕を掴んだ手を離さなかった。
恨んでくれても構わない。
後で何度殴ってくれたっていい。
このままでいちゃいけないんだ。
梓の悩みがどんなに重い悩みでも、私はそれを受け止めたい。
それこそ犯罪が関わるような悩みだって構わない。
それを受け止めるのがここまで梓を追い詰めた私の責任だと思うから……。
不意に。
梓が視線を何度か自分の机の方に向けた。
さり気ない行為だったけど、
ずっと梓を見つめていた私は、それを見逃さなかった。
あらゆるものを見落としてきた私だけど、今度こそ見逃すわけにはいかなかった。
机の中に何かあるのか?
それが梓の悩みの原因なのか?
「机……?」
私が呟くと、梓がはっとした表情で急に動き始めた。
私が無理に机の中を覗こうとしたわけじゃない。
何となく疑問に思って呟いただけだったけど、
その事で梓は自分の机を探られるんじゃないかと過剰に反応していた。
身体を無理に動かし、私に掴まれた手を振りほどこうと暴れる。
危険だとは思ったけど、私としても梓の腕だけは離すわけにはいかない。
余計に力を込め、梓から離れないようにして……、それが悪かった。
446:にゃんこ:2011/08/07(日) 22:54:14.06:9FBCI9DI0
「ちょっ……!」
「うわっ……!」
無理な体勢でいたせいでバランスを崩してしまい、
二人で小さく悲鳴を上げて、その場で折り重なって倒れてしまった。
周りの机や椅子も巻き込んで倒れてしまって、豪快な音が教室に響く。
「痛たたた……。
大丈夫か、梓?」
それでも梓の腕だけは離さずにいられたみたいだ。
私は梓の手を掴んだまま顔を上げ、その場に座り込んで訊ねる。
梓からの返事はなかった。
やばいっ。打ち所が悪かったかっ?
そうやって心配になって梓の方に顔を向けてみたけど、
幸い梓の方は自分の椅子に倒れ込むような形になっただけみたいで、私よりも無事な様子に見えた。
だったら、どうして返事がなかったんだ?
梓の顔を覗き込んでみると、梓は大きく目を見開いて私じゃない何処かを見ていた。
そこでようやく私は気が付いた。
倒れた衝撃で梓の机を横向きに倒してしまい、机の中身をその場にぶち撒けてしまっていた事に。
梓がその机の中身を見ているんだって事に。
事故とは言え、梓が隠そうとしてた物をこの目で確認していいんだろうか。
そう思わなくもなかったけど、それを確認しないのも不自然過ぎた。
心の中で梓に謝り、私もその机の中に入っていた物に視線を向ける。
「えっ……?」
そう呟いてしまうくらい、予想外の物がそこに転がっていた。
死体とか拳銃とか麻薬とか、そういう不謹慎な意味で予想外だったわけじゃない。
意外じゃなさ過ぎて、逆に意外な物だったんだ。
その場所には、うちの学校の学生鞄が転がっていた。
机の中に入れるために小さく潰されている。
多分、中には何も入ってないんだろう。
でも、どうして鞄を机の中に……?
疑問に思って私が梓に視線を向けると、急に梓の表情が大きく崩れた。
いや、崩れたってレベルじゃない。
大粒の涙を流して、大声で泣き声を上げ始めた。
447:にゃんこ:2011/08/07(日) 22:55:02.89:9FBCI9DI0
「ごめんなさい!
ううっく……、う……、あ、ああ……!
うああああああああああああっ!」
梓が何を言っているのか見当も付かない。
鞄が何なんだ?
中には何も入ってなさそうだし、何で梓は泣き出してるんだよ?
突然の展開にこれまでと違った意味で不安になってくる。
「おい、ちょっと梓……」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!
本当にすみません! すみません、すみません、すみません!
すみま……せ……、うううう……!
ひぐっ……! あっ……、うわあああああああああああっ!」
梓の涙は止まらない。
その原因が私なら何とかしようもあるだろうけど、
本当に何が起こったのか私にはまだ何も理解できてない。
梓の涙の原因……、それはやっぱり机の中に隠されてた鞄なんだろう。
鞄といえば、考えてみれば、最近、梓は部室に鞄を持って来てなかった。
それは授業が少なくなって、荷物も無くなったからだと思ってたけど……。
そこで私は一つの事を思い出していた。
ああ、何で気付かなかったんだ。
授業がほとんど無くなったのは、当然だけど『終末宣言』の後だ。
『終末宣言』の後も、梓は普段通りに部室に学生鞄を持って来てたじゃないか。
そりゃそうだ。授業が無くたって、弁当やら何やらの荷物はあるんだから。
梓が部室に鞄を持って来なくなったのは、
そう、約一週間前……、梓の様子がおかしくなった頃からだ!
じゃあ、やっぱり梓の悩みは鞄に関係していて……。
そこでまた私の思考が止まる。
だから、鞄が何だってんだよ。
鞄の中身が悩みだって言うのか?
でも、中には何も入ってないだろうくらい小さく潰されてるし、
何かが入ってたとしても、そんな大袈裟な物が入ってるわけが……。
一瞬、また私の思考が止まった。
疑問に立ち止まってしまったわけじゃない。
梓の悩みと、梓の痛み、梓の隠してた事が分かったからだ。
やっぱり、梓の悩みは鞄の中身じゃなかった。
まだ見てないけど、鞄の中身なんて見る必要もなかったし、中身なんて何でもよかった。
でも、それじゃ……。
こんな……、こんな事で、梓は一週間も悩んでくれていたのか?
それもただの一週間じゃない。
世界の終わりを週末に控えたかけがえのないこの一週間を?
馬鹿だ。
本当に馬鹿な後輩だ、梓は……。
こんな取るに足らない事でずっと悩んでいただなんて……。
だけど、梓の辛さや不安は、私自身も痛いくらいに実感できた。
梓ほどじゃないにしても、同じ状況に置かれたら、
間違いなく私も同じ不安に襲われてただろう。
448:にゃんこ:2011/08/07(日) 22:55:34.42:9FBCI9DI0
私は掴んでいた梓の腕を離した。
もう掴んでいる必要はない。
必要なのは多分、私の言葉と心だ。
「失くしたんだな、梓……」
「ごめ……ひぐっ、なさい……。
大切にしてたのに……、大切だっ、ひっく、たのに……。
どうして……、こんな時に……、ううううう……。
ずっと探してるのに、どうして……、ひぐっ、どうして見つからないの……!」
「京都土産のキーホルダー……か」
梓じゃなくて、自分に言い聞かせるよう呟く。
修学旅行で行った京都で、
京都とは何の関係もないけど、私達が買ってきたお揃いのキーホルダー。
私が『け』。
ムギが『い』
澪が『お』。
唯が『ん』。
梓が『ぶ』。
五人合わせて『けいおんぶ』になる、そんな茶目っ気から購入したキーホルダーだ。
何気ないお土産だけど、梓がとても喜んでくれた事をよく覚えてる。
最初はそうでもなかったけど、梓の喜ぶ顔を見て、
私もこのキーホルダーを一生大切にしようって思った。
それくらい梓は喜んでくれたんだ。
少し大袈裟かもしれないけど、
多分他の部員の皆も軽音部の絆の品みたいな感じに思ってくれてるはずだ。
その『ぶ』のキーホルダーを梓は失くしてしまった。
梓の鞄をどう見回しても見つからないのは、そういう事なんだろう。
梓が隠したかったのは鞄そのものじゃない。
本当に隠したかったのは、キーホルダーを失くしてしまったって事実だったんだ。
これまでの梓の不審な行動も、
失くしてしまったキーホルダーを捜しての事だと考えて間違いない。
ずっと思いつめていたのは、
自分がキーホルダーを失くしてしまった事にいつ気付かれるかと気が気でなかったから。
昨日、校庭で私の前から逃げ出したのは、
キーホルダーを捜しているのを私に知られたくなかったから。
深夜に外を出歩いていたのは、
自分の身も案じずに必死にキーホルダーを捜していたからだ。
梓は本当に馬鹿だ。
小さなキーホルダーのために、どれだけ自分を追い詰めてしまったんだろう。
こんなにやつれ果ててまで、どうして……。
だけど、誰にそれが責められるだろう。
少なくとも私には、そんな梓を責める事なんてできない。
449:にゃんこ:2011/08/07(日) 22:58:46.25:9FBCI9DI0
不安で仕方がなかったんだろうと思う。
ずっと不安で、誰にも言い出せずに胸の中に溜め込んで、
不自然なくらい過剰にキーホルダーを失くした事を隠してた梓。
考えてみれば、さっきの行動にしたってそうだ。
鞄が梓の机から飛び出た時、いくらでも誤魔化しようがあったのに。
私にしたって、鞄を目にした当初は何も分かってなかったのに。
なのに、梓は過剰に反応してしまって、涙までこぼしてしまっていた。
それはきっと恐かったからだ。
キーホルダーを失くした事を知られてしまう事が恐くて、
ほんの少し私がその真相に近付いただけで、
全ての隠し事を知られてしまったと勘違いしてしまったんだ。
更に言わせてもらうと、何も梓は机の中に鞄を隠す必要なんてなかった。
鞄が学校の机にあるという事は、
キーホルダーを失くしたと梓が気付いたのは学校だったんだろう。
小さく潰れた学生鞄を見る限り、鞄の中身は小分けにして家に持ち帰ってるんだと思う。
多分、違う鞄を自宅から持って来て、それに入れて持ち帰ったに違いない。
梓はその時、学生鞄も持って帰ればよかったんだ。
持ち帰る時、学生鞄を誰かに見られるのが不安なら、
小さく折り畳んでその違う鞄にでも入れておけばよかったんだ。
まあ、そりゃ少し不自然ではあるけど、
普段と違う鞄を持ち歩いてるくらいじゃ、誰も深く問い詰めたりなんてしない。
でも、梓はその少しの不自然さすら、不安でしょうがなかったんだ。
もしもいつもと違う鞄を持っているのを誰かに見られてしまったら。
その誰かにいつもの学生鞄はどうしたのかと訊ねられてしまったら。
それで万が一、鞄の中身について訊ねられてしまったら……。
冷静に考えればそんな事があるはずないのに、きっと梓はそう考えてしまったんだろう。
だから、一週間も机の中に鞄を入れたまま、放置する事しかできなかったんだ。
誰かに見られるのが不安で、机以外の何処かに隠す事さえできなかったんだ。
「恐かっ……た……。恐かったんです……」
不意に梓が言葉を続けた。
しゃくり上げるのは少しだけ治まっていたけど、
梓の目からは止まることなく大粒の涙が流れ続けている。
私は座り込んだままで、涙に濡れる梓の瞳をじっと見つめる。
455:にゃんこ:2011/08/11(木) 21:40:53.70:okX2kLbx0
「『終末宣言』とか……、世界の終わりの日とか……、
それより前からずっと私、恐くて……。
不安で、寂しくて……。それで……」
「『終末宣言』の前から……?」
「はい……。私……、私、不安で……。
先輩達が卒業した後も、軽音部でやってけるのかなって……。
ひとりぼっちの軽音部で、
ちゃんと部を盛り上げていけるのかなって、そう思うと恐くて……。
それで私……、私……は……!
う……っ、ううううっ……!」
また梓の涙が激しさを増していく。
梓の言葉が涙に押し潰されそうになる。
だけど、梓は涙を流しながらも、しゃくり上げながらも言葉を止めなかった。
ずっと隠してた涙と同じように、ずっと隠してた言葉も止まらないんだと思う。
「ごめん……なさい、律先輩……!
私……、私、とんでもない事をして……!
皆さんに、ひっく、皆さんに……、私は……とんでもない事を……!」
「何だよっ? どうしたっ?
とんでもない事って何だよっ?」
梓の突然の告白。
気付けば私は立ち上がって梓の肩を掴んでいた。
梓の悩みはキーホルダーを失くした事だけじゃなかったのか?
新しい不安が悪寒となって私の全身を襲う気がした。
梓が「ごめんなさい」と言いながら、自らの涙を袖口で拭う。
「ごめ……んなさい……!
私、考えちゃったんです……。
願っちゃいけない事なのに、願って……しまったんです……。
『先輩達に卒業してほしくないな』って……。
『先輩達とまたライブしたいな』って……。
それが……、それがこんな……、こんな形で叶……、叶うなんて……!
私……が、願っちゃったから……! 終末なんて形で……、願いが叶って……!
そん……な……、そんなつもりじゃ、なかったのに……!」
おまえは何を言ってるんだ。
終末……、世界の終わりと梓の願いが関係してるはずがない。
それこそ自分が世界の中心だって、自分から宣言してるようなもんだ。
世界はおまえを中心に回ってない。
世界の終わりとおまえは考えるまでもなく無関係だ。
無関係に決まってる。
456:にゃんこ:2011/08/11(木) 21:41:54.07:okX2kLbx0
私はそう梓に伝えたかったけど、そうする事はできずに言葉を止めた。
そんなの私に言われるまでもない。
梓だって自分がどれだけ無茶な事を言っているか百も承知のはずだ。
梓は頭がいい後輩だ。私なんかよりずっと勉強もできる。
確かに梓の言葉通り、世界の終わりが来る事で私達の卒業は無くなったし、
あるはずがなかった最後のライブを開催する事ができるようにはなった。
だとしても、その自分の願いが世界の終わりと何の関係もない事は、梓だって理解してるだろう。
それでも……。
それでも梓がそう思わずにはいられない事も、私には痛いくらいに分かった。
世界の終わりがどうのこうのって話より、梓は多分、
間近に迫った私達の卒業を心から祝福できない自分に罪悪感を抱いてるんだと思う。
笑顔で見送りたいのに、私達を安心して卒業させたいのに、
それよりも自分の寂しさと不安を優先させてしまう自分が嫌なんだと思う。
梓は真面目な子で、いつも私達を気遣ってくれていて、
ちゃんとした部と呼ぶにはちょっと無理がある我が軽音部にも馴染んでくれて……。
梓はそんな私達には勿体無いよくできた後輩だ。
よくできた後輩だからこそ、色んな事に責任を感じてしまってるんだ。
そして、梓をそこまで追い込んでしまったのは、ある意味では私の責任でもあった。
二年生の部員は梓一人で、一年生の部員に至っては一人もいない我が軽音部。
五人だけの軽音部。
五人で居る事の居心地の良さに私は甘えてしまってた。
五人だけで私の部は十分だと思ってた。
それはそうかもしれないけれど、一人残される梓の気持ちをもっと考えるべきだったんだ。
五人でなくなった時の、軽音部の事を考えなきゃいけなかったんだ。
梓はずっとそれを考えてた。考えてくれてた。
だから、梓は私達の中の誰よりも、キーホルダーを大切にしてくれてたんだ。
世界の終わりの前の一週間を費やしてしまうくらいに。
457:にゃんこ:2011/08/11(木) 21:42:36.19:okX2kLbx0
「キーホルダーだけどさ……」
私が小さく口にすると、目に見えて梓が大きく震え出した。
触れずにいた方がいい事かもしれなかったけど、触れずにいるわけにもいかなかった。
梓をこんなに辛い目に合わせているのはキーホルダーだ。
小さなキーホルダーのせいで、梓はこんなにも怯えてしまっている。
でも、梓を救えるのも、恐らくはその小さなキーホルダーだと思うから。
私はキーホルダーの事について、話を始めようと思った。
「梓がそんなに大切にしてくれてるとは思わなかったよ。
京都の土産なのに、京都とは何の関係もないしさ。
実は呆れられてるんじゃないかって、何となく思ってた」
「呆れるなんて……、そんな事……。
私、嬉しくて……、宝物にしようと思って……、
でも、大切にしてたのに……、落としちゃうなんて、私……。
こんなんじゃ……、こんなんじゃ私……、
先輩達の後輩でいる資格なんて……」
涙を流して、梓はその場に目を伏せようとする。
私は梓の肩を掴んでいる手に力を入れて、視線を私の方に向かせる。
梓と目を合わせて、視線を逸らさない。
泣き腫らした梓の瞼が痛々しくて、ひどく胸が痛くなってくる。
梓を悲しませているのは、軽音部の先輩である私達の無力が原因だ。
私の方も、梓と同じく大声で泣きたい気分だった。
役に立てず、負い目しか感じさせる事のできない無力過ぎる私達。
自分の情けなさに涙が滲んでくる。
だけど、泣いちゃいけない。視線を逸らしちゃいけない。
今一番泣きたいのは梓で、今泣いていいのは梓だけだ。
どうして、キーホルダーを失くしたって言ってくれなかったんだ?
そう言葉にしようとしてしまうけど、唇を噛み締めて必死に堪える。
梓がキーホルダーを失くした事を私達に話さなかった理由……、
それは訊くまでもないし、訊いちゃいけない事だ。
キーホルダーを失くしたと私達に話してしまったら、
いや、知られてしまったら、
私達の心が自分から離れていってしまうって、梓は考えたんだ。
キーホルダーを一週間も一人で捜し続けてた事から考えても、それは間違いない。
あのキーホルダーは私達にとって、単なる思い出の品なんかじゃない。
軽音部の絆の証、絆の品なんだ。
特に来年一人で取り残されるはずだった梓にとっては、私達以上にその意味があるだろう。
一人でも大丈夫だと思えるために、梓はきっとあのキーホルダーに頼ってくれてたんだ。
絆を信じられるために。
そうだ。
梓が本当に悲しんでる理由は、キーホルダーを失くしたからじゃない。
キーホルダーを失くした事で、
私達の絆その物も失くしてしまった気がしてしまって、それが悲しいんだ。
実際、私達だって、キーホルダーを失くされた事で梓を責めたりしない。
梓も私達から責められるとは思ってないだろう。
梓を責めているのは梓自身。
世界の終わりを間近にしたこの時期に、絆を失くしてしまった自分を許せないんだ。
だから、誰にも知られないままに、自分の力だけで失くしたキーホルダーを見付けたかったんだ。
でも、だからこそ、私には梓に掛けてやれる慰めの言葉が思い付かなかった。
キーホルダーを失くした事なんて気にするな、なんて簡単な言葉で片付く話じゃない。
そんな言葉を掛けてしまったら、それこそ梓は今以上に自分自身を責める事になるはずだ。
一瞬だけの笑顔は貰えるかもしれない。
その場限りの安心は得られるかもしれない。
でも、それだけだ。
それ以降、世界の終わりまで、梓は自分自身を責め続ける事になるだろう。
勿論、私だって、私自身を許せないまま、世界の終わりを迎える事になる。
なら、私に何ができる?
無力で、頼りなくて、後輩に気を遣わせて追い込んでしまった私に何が?
……何もできないのかもしれない。
何もしてやれないのかもしれない。
少なくとも、今の私にできる事は何もない。今の私には何もできないんだ。
でも……。
だからこそ、今の私じゃなく……。
462:にゃんこ:2011/08/13(土) 22:51:20.97:A5NjIVI60
私は大きく溜息を吐く。
何もできない今の自分を情けなく思いながら、
それでも、掴んでいた梓の肩を思い切り自分の方に引き寄せる。
私の胸元に椅子から転がり込んでくる梓を座り込んで抱き締める。
「あの……っ、えっと……?
律……先輩……?」
小さな身体を震わせて、何をされたのか分からない様子の梓が呟く。
呟きながらも、梓の涙はとめどなく流れ続けている。
しゃくり上げながら、震える身体も治まる事がない。
今の私には梓の涙を止められない。震えも止めてやる事ができない。
梓の不安を止めてやれるのは、今の私じゃない。
だから、胸元に引き寄せた梓を、私は頭から包み込むように抱き締める。
強く強く、抱き締める。
まだ掛けてあげられる言葉は見つからない。
その代わりに、小さな梓を身体全体で受け止める。
小さな梓と同じくらい小さな私が、小さな身体で小さく包み込む。
どこまでも小さな存在の私達。
それでも、私達は小さいけれど、とんでもなくちっぽけな存在だけど、
信じてる事だって……、信じていたい事だってあるんだ。
「梓……。きっとさ……。
今の私が何を言っても、おまえの不安を消してはやれないと思う。
私は人を支えてあげられるタイプじゃないだろうし、
誰かの不安を消してあげられるくらい頼り甲斐のある部長でもないんだ。
逆に皆に支えられてばかりだしさ……」
やっと見付けた言葉が私の口からこぼれ出る。
でも、これは梓の耳元に囁いてはいるけど、梓だけに聞かせてる言葉でもなかった。
これは自分に言い聞かせてもいる言葉だ。
願いみたいなものだった。
祈りみたいなものだった。
私の胸の中で、梓は私の言葉を震えながら聞いている。
その震えを止めてやれる自信はない。
今の私に梓を安心させてあげる事はできないだろう。
私の気持ちを上手く伝える事もできないかもしれない。
でも……。
「でもさ、梓……。
こう言われるのは迷惑かもしれないけど、
私の勝手な勘違いかもしれないけど、一つだけ思い出してほしい事があるんだよ。
なあ、梓。
キーホルダーを失くしちゃった事は、梓も辛くて不安だったんだろう。
もっと早く気付いてやれなくて、悪かった。
私はさ……、こう言うのも情けないんだけど、
あんまり梓が私と目を合わせてくれないもんだから、梓に嫌われちゃったんだって思ってた。
それが不安で辛くてさ……、それで梓と話す勇気が中々持てなかったんだよな」
私の言葉を聞くと、腕の中の梓の震えが大きくなった。
その震えは不安が増したってわけじゃなく、自分の行為をはっと思い出したって感じだった。
「そんな……。そんな風に思われてたなんて……。
でも……、思い出してみたら、そう思われても仕方ない事を私は……。
すみません、律先輩!
私は律先輩の事を……、嫌いになってなんか……」
「いいよ」
言って、私はまた腕に力を込めて梓を抱き締める。
今話すべきなのは、梓が私を嫌ってるかどうかじゃない。
嫌われてたって、疎まれてたって、
それでも梓の悩みを晴らしてあげるのが、私のなりたい『自慢の部長』だと思うから。
勿論、梓に嫌われてなかったのは嬉しいけどな。
本当に泣き出してしまいそうなくらい嬉しいけど、それを噛み締めるのはまだお預けだ。
463:にゃんこ:2011/08/13(土) 22:52:25.97:A5NjIVI60
「いいんだよ、梓。その言葉だけで私は十分だよ。
キーホルダーを失くして、梓がそんなに不安に思ってくれたのも嬉しい。
キーホルダーを失くした自分が許せなくて、必死に探してたんだろうって事も分かる。
こんなにやつれちゃってさ……、こんなになるまで……。
キーホルダーを失くしたからって、私達がおまえから離れてくって思ったのか?」
「いいえ……、そんな事考えてなんか……。
でも……、でも……、ひっく、そんな事あるはずがないって思ってても……、
心の何処かで考えちゃってたのかも……しれません……。
先輩達を信じてるのに、だけど……、夜に夢で見ちゃうんです……。
キーホルダーを失くした私の前から……、先輩が離れていく夢を……。
そんな……、そんな自分が、嫌で、本当に嫌で……。
うっ、ううっ……!」
梓の涙がまた強くなる。
もしもの話だけど、キーホルダーを失くしたのが『終末宣言』の前なら、
梓はこんなにも不安にならず、涙を流す事も無かったんじゃないだろうか。
世界の終わりっていう避けようがない非情な現実。
誰だってその現実に大きな不安を感じながら、それをどうにか耐えて生きている。
普段通りの生活を送る事で、世界の終わりから必死に目を背けたり。
秘密にしていた事を公表する事で、別の非日常の中に身を置いてみたり。
そんな風に何かを心の支えにしながら、どうにか生きていられる。
梓の場合は多分キーホルダーがそれだったんだと思う。
小さいけれど、目にするだけで私達の絆を思い出せるかけがえの無い宝物。
それを失くしてしまった梓の不安は、一体どれほどだったんだろう。
私も自分が世界の終わりから逃げてる事に気付いた時は、吐いてしまうくらいの不安と恐怖に襲われた。
その時の私はそれをいちごや和に支えてもらえたけど、
梓はずっと一人でその不安に耐えて、自分を責め続けていたんだ。
こんなにやつれるのも無理もない話だった。
小さい事だけど、きっと私達はそんな小さい事の積み重ねで生きていられる。
小さい物でも、失ってしまうと不安で仕方なくなるんだ。
だけど、不安になるという事はつまり……。
「なあ、梓。
話を戻させてもらうけど、一つだけ思い出してほしい」
「は……い……?」
「軽音部、楽しかったよな?
そりゃ普通の部とはかなり違ってたと思うけど、でも、すごく楽しかったよな?」
「あの……?」
「私は楽しかったよ。
ムギのおやつは美味しいし、ライブは熱かったし、楽しかった。
唯は面白いし、澪は楽しいし、ムギはいつも意外な事をやってくれるしな。
二年になって梓って生意気な後輩もできた。
楽しかったんだよ、本気で……。
軽音部、楽しかったよな……?
楽しかったのは、私だけじゃ……ないよな……?」
私の言葉の勢いが弱まっていく。
その私の姿を不審に思ったんだろう。
梓が少しだけ自分の腕を動かし、私の背中を軽く撫でてくれる。
「律先輩……? 急に何を……?」
「ああ、ごめんな……。ちょっと……さ。
梓はどうだったんだろうって思ってさ……」
「私……ですか……?」
「私ってさ、結構一人で空回りしちゃう事が多いだろ?
部長としても、役不足だったと思うし……。
でも、楽しかった事だけは、本当だったって信じてる。
……信じたいんだ。それだけは譲りたくないんだ。
だから、梓に思い出してほしいんだよ。
軽音部が楽しかったのかどうかを。私達のこれまでを。
今の私に梓の不安を消し去ってあげる事はできないと思う。
梓の不安を消せるのは梓だけだし、私にできるのはその手助けだけだ。
それも、その手助けができるのは今の私じゃなくて、梓の中の昔の私だけだと思うんだよ」
464:にゃんこ:2011/08/13(土) 22:53:10.02:A5NjIVI60
「昔の……律先輩……?」
「これまで私が梓に何をしてあげられたか。
梓をどれだけ楽しませてあげられたか……。それを思い出してほしい。
自信なんてこれっぽっちも無いけど、ほんの少しでも手助けになればいいと思う。
なってほしいと思う。
私じゃ役不足だと思うなら、私以外とのこれまでを思い出してくれ。
澪やムギ、唯と過ごしてきたこれまでの自分を思い出してくれ。
そうすれば……、少しはその不安も晴れるんじゃないかって……、思うんだ……」
今の私に梓の不安を晴らすだけの力が無いのは、すごく無念だ。
やっぱり私は、梓にとっていい部長じゃなかったんだろう。
だけど、梓と笑い合えたあの頃の事は嘘じゃなかったはずだ。
梓も楽しんでくれていたはずだ。
私はいい部長ではなかったけど、いい友達としては梓と関係してこれたはずだ。
そのはずなんだって……、信じたい。
不安な自分を奮い立たせるのは、自分の中のかけがえのない過去。
今の自分を作り上げた誰かと積み重ねてきた楽しかった思い出だと思うから。
私は梓にもそれができると信じるしかない。
それができるくらいには、私は梓と信頼関係を積み重ねてこれたんだって信じるしかない。
そもそも不安や罪悪感ってのは、そういうもののはずなんだ。
楽しかったから、かけがえがないものだから、失うのを不安になってしまうんだ。
失ってしまった自分に罪悪感を抱いてしまうんだ。
失くすものが無ければ、大切なものが無ければ、不安なんて感じるはずがない。
それを梓が気付いてくれたなら……、
いや、気付いてはいるだろうけど、心から実感してくれたなら……。
その涙を少しは拭う事ができるかもしれない。
私は小さな身体で小さな梓を強く抱き締める。
それは小さな私にできる世界の終わりへの小さな反抗でもあった。
まだその日が来てもいないのに、世界の終わりってやつは色んな物を私達から奪おうとする。
小さなものから取り囲んで奪い去っていく。
そうはいくもんか。
もうすぐ死んでしまうとしても、それまでは何も奪わせてやるもんか。
過去も、現在も、未来だって、奪わせてなんかやらない。
私から、梓を奪わせたりしない。
不意に私の腕の中の梓が震えを止めて、小さく言った。
「そうですね。
律先輩じゃ役不足ですよ」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
梓じゃなくて、私の身体が震え始める。止められない。
全身から何かを成し遂げようとしてた気力が抜けていくのを感じる。
駄目だった……のか……?
私じゃ、梓のいい部長どころか、いい友達にもなれなかったってのか……?
私の小さな反抗は脆くも崩れ去ったってのか……?
信じたかった私の思い出は、全部無意味だったのか……。
梓は別に私を嫌ってはいなかった。
でも、力になってやれるほど、私は信頼されてもいなかったんだ。
抱き締めていた梓を、私の胸から解放する。
もう私に抱き締められる事なんて、もう梓は求めないだろう。
私には梓の不安を晴らしてやれないし、涙も止められないし、震えも治められない。
私は梓に……。
信じさせたかった。
信じられたかった。
信じていたかった。
でも、もう私は……、私は……。
身体を離したけれど、私はそこにいる梓の顔を見る事ができない。
その場から逃げ出したくなる。
もうこの場には居られない。
465:にゃんこ:2011/08/13(土) 22:54:15.96:A5NjIVI60
「梓、ごめ……ん……」
喉の奥から絞り出して言って、
振り向きもせずに逃げ出そうとして……。
そんな私を華奢で柔らかい何かが包み込んだ。
何が起こったのか、数秒くらい私には分からなかった。
梓に抱き締められたんだって気付いたのは、それからしばらく経ってからの事だ。
私は私が梓にしたように、頭から胸の中に強く抱き留められていた。
「あず……さ……?」
何も分からなくて、間抜けな声を出してしまう。
ただ一つ分かるのは、抱き締められる一瞬前、梓が笑っていた事だった。
涙が止まったわけじゃない。
涙を止められたわけじゃない。
でも、梓は笑っていた。泣きながら、笑っていたんだ。
今梓の胸の中にいる私にとっては、もう確かめようもない事だけど……。
「ありがとうございます、律先輩……。
こんな面倒くさい後輩なのに、こんなに大切に思ってくれて、
私、嬉しいです」
「でも、梓、おまえ……。
えっと……、私を……」
言葉にできない。
梓の真意が掴めなくて、曖昧な言葉しか形にできない。
梓が明るい声を上げた。
「もう……、律先輩ったらこんな時にもいつもの律先輩で……。
真面目な話をしてるのに、普段通りのいい加減で大雑把な律先輩で……。
そんな律先輩を見てると……、何だか私、嬉しくなってきちゃうじゃないですか。
不安になってなんか、いられなくなっちゃうじゃないですか……」
「大雑把って、おまえ……。
いつもはともかく、さっきまではそんな変な事言ったつもりは……」
「もう一度、言いますよ。
律先輩は役不足です。
私の不安を晴らす役なんて、律先輩には役不足過ぎます」
「だから、そんなはっきり言うなよ……」
少しやけくそになって、吐き捨てるみたいに呟いてみる。
梓が明るい声になったのは嬉しいけど、そこまで馬鹿にされると釈然としない。
でも、梓はやっぱり明るい声を崩さなかった。
「ねえ、律先輩?
役不足の意味、知ってますか?」
「何だよ……。
その役を務めるには、実力が不足してるって事だろ……?」
「もう、やっぱり……。
受験生なんだから、ちゃんと勉強して下さいよ、律先輩。
役不足って、役の方が不足してるって意味なんですよ?」
「役の方が不足……って?」
「もういいです。これ以上は家で辞書で調べて下さい」
「何なんだよ、一体……」
「とにかく……、ありがとうございます、律先輩……。
私……、嬉しかったです。
律先輩との思い出……、思い出してみるとすごく楽しかった。
軽音部に入ってよかったって、思えました……」
まだ梓が何を言っているのかは分からない。
でも、梓の声が明るくなったのは何よりで、私の方も嬉しくなった。
梓の変な言葉も、まあ、いいか、と思える。
私の小さな反抗は、少しだけ成功したって事でいいんだろうか。
今の私も、過去の私も、結局は梓の涙を止める事はできなかった。
でも、少なくとも笑顔にしてあげる事はできたみたいだった。
それだけでも今は十分だ。
……役不足の意味は、後で純ちゃんにでも聞いてみる事にしよう。
471:にゃんこ:2011/08/16(火) 21:35:21.06:bAeskBad0
○
梓は笑顔になったけれど、その涙が完全に止まるまでには、もう少しだけ時間が掛かった。
笑顔を取り戻したとは言っても、心の中に残るしこりを取り除くには、まだ涙が必要みたいだ。
好きなだけ、泣いたらよかった。
泣いた先に晴れやかに笑えるんなら、泣かずに耐えるよりその方がずっといい。
涙は必要なもので、どんな涙にも意味があるはずなんだ。
昨日、私が澪の前で訳も分からず流してしまったあの涙にも、きっと意味があるはずだ。
私は多分、あの涙の理由を分かりかけてきていた。
澪に伝えたい言葉もほとんど固まってる。
答えは、出ていた。
後はそれを声に出して、その答えを澪の耳と心に伝えるだけだ。
その答えを他人が聞けば、大概が馬鹿な答えだって笑うかもしれない。
確かに自分で出した答えながら、馬鹿な答えを出したもんだと思わなくもない。
それでも、よかった。
馬鹿な答えでも、それが私の答えだし、
軽音部の皆なら、その答えを笑って受け入れてくれると思う。
澪がどう受け取るかは分からないけど、
できれば澪もその答えを笑顔で受け取ってくれれば嬉しい。
受け取ってくれる……、と思う。
自信過剰かもしれないけど、澪が涙を流した理由は私と同じはずだから……。
そうやって梓の腕の中で私が澪への想いを再確認し終わった頃、
若干震えが止まった梓が私の身体を解放してから、落ち着いた声色で言った。
「ありがとうございます、律先輩……。
やっとですけど……、落ち着きました。
長い間、無理な体勢をさせてしまって、ご迷惑をお掛けしました」
「気にするな」
言ってから、私はしばらくぶりに梓の顔を正面から見る。
瞼を泣き腫らしてはいたけど、梓は照れ臭そうに笑っていた。
長く涙を流してしまった事を、少し気恥ずかしく感じてるんだろう。
梓があまり見せる事が無い可愛らしい照れ笑い。
その表情を見て、梓は笑顔を取り戻せたんだな、と私は胸を撫で下ろす。
残り少ない時間、笑顔を失くしたまま終わらせるなんて悲し過ぎるじゃないか。
勿論、深刻に世界の終わりについて考え続けて、
哲学的な答えを出したりするのも一つの生き方だろう。
そういう生き方を否定しないし、立派だとも思うけど、その生き方は私達には似合わない。
皆が笑顔で、お茶をしたり、雑談に花を咲かせたり、
そんな普段通りのままで世界の終わりを迎えるのが、私達の生き方なんだ。
多分、世界が終わる詳しい理由も分からないまま、その日を迎えるんじゃないだろうか。
正直言って、テレビで世界が終わる理由を何度説明されても、よく分からなかったしな。
とりあえず隕石やマヤの予言とかとは、一切関係ない事だけは確からしいけどさ。
まあ、世界が終わる理由なんてのは、別に知っても仕方がない事だ。
理由を知ったところで世界の終わりを回避できるわけでもないし。
そんな事よりも、今の私には気になる事がある。
私にとっては、世界の終わる理由よりもそっちの方が何倍も重要だ。
軽く微笑んでから、私は梓の耳元で囁く。
472:にゃんこ:2011/08/16(火) 21:36:27.91:bAeskBad0
「梓、ちょっと後ろ向いてくれるか?」
「え、何ですか、いきなり?」
「ほら、早く早く」
「はあ……。分かりましたけど……」
狭いスペースだったけど、その場で梓が器用に半回転してくれる。
梓のうなじがちょうど私の目の前に来る体勢になる。
私は「ちょいと失礼」と手を伸ばして、梓の両側の髪留めをクルクル回して解いた。
「え? 律先輩……?」
「櫛は部室にあるから、手櫛で失礼」
「えっ……と……?」
「おまえさ、自慢のツインテールがボサボサだし、左右の位置も変になってんだよ。
気になるから、私に結び直させてもらうぞ」
「別にツインテールが自慢なわけじゃ……って、そうじゃなくて!
いいですって! 自分で結び直しますから! 大丈夫ですから!」
「何だよー、可愛くない後輩だなあ。
こういう時くらい、先輩の思いやりに身を任せたまえ、梓後輩」
私が言うと、少しだけ抵抗していた梓の動きが止まる。
私に結び直させてくれる気になったのか?
そう思った瞬間、梓が妙に重い声色で呟いた。
「大雑把な律先輩に、ちゃんと髪を結べるんですか?」
「中野ー!」
後輩の生意気な発言にいたく憤慨した私は、梓の首筋に自分の腕を回して力を入れる。
私の得意技、チョークスリーパーの体勢だ。
梓も私にそうされる事が分かってたらしく、
特に抵抗もせずに私のチョークスリーパーに身を任せた。
と言うか、チョークスリーパーに身を任せるって、言い得て妙だな……。
少しずつ力を込めると、チョークスリーパーって技の性質上、必然的に私達の顔は間近に近付いていく。
間近に見える梓の顔は笑うのを我慢してるように見えた。
どうもさっきの発言は冗談だったらしい。
私の方もいたく憤慨したってのは嘘だけどさ。
しばらくそのままの体勢でいたけど、先に根負けしたのは私の方だった。
気付けば私は笑顔になってしまっていて、梓も私につられて晴れやかな笑顔に変わっていた。
「ありがとうございます、律先輩」
何度目かのお礼の言葉を梓が口にする。
嬉しい言葉だけど、流石に何度も言われると私も背中がむず痒くなってくる。
「もう礼の言葉はいいって、梓」
「でも、伝えたいですから。
何度だって、言葉にしたいんです。
こんなに安心できたのはすごく久し振りで、すごく嬉しいんです。
律先輩が私の先輩でいてくれて、本当に嬉しいんです。
もうすぐ世界の終わりの日なのに、安心できるって変な話ですけど、でも……。
私……、幸せです」
473:にゃんこ:2011/08/16(火) 21:37:51.81:bAeskBad0
幸せなのは私も一緒だ。
梓とすれ違ったまま世界の終わりを迎えなくて、すごく幸せだった。
もうすぐ死ぬ事は分かってるけど、この幸せな気持ちは無駄にはならないはずだ。
よくもうすぐ死ぬのに、短い幸福なんて無意味だって言葉を聞く。
でも、残された時間が短い事と、幸せ自体は何の関係も無い事だと私は思う。
短い時間の幸福が無意味なら、結局は長生きして得た幸福だって無意味って事になる。
長かろうと短かろうと、最終的には死ぬ事で何もかも失われるんだから。
どうやっても、人は死んでしまうんだから。
だから、私は短い時間の幸せでも無意味だなんて思わない。思いたくない。
そのためにも、私は梓に訊いておかなきゃいけない事があった。
「なあ、梓。
キーホルダー……、一緒に捜すか?」
軽く、囁いてみる。
失くしてしまったキーホルダーを見付けだす事も、梓には大きな幸せになるだろう。
その幸せを梓が求めるんなら、私もその力になりたいと思う。
残りの時間、キーホルダーを捜す事に力を尽くすのも、一つの道だ。
だけど、梓はゆっくりと首を横に振った。
「いえ……、もういいんです。
一週間ずっと、これだけ捜しても見つからないって事は、
誰かに拾われるかなんかして、もう何処か遠い所にあるのかもしれませんしね。
それに……、キーホルダーが無くても、先輩達は私を仲間でいさせてくれる。
それを律先輩が教えてくれたから……、だから、もう大丈夫です」
完全に吹っ切れたわけじゃないんだろう。
梓のその声は寂しげで、少し掠れて聞こえた。
でも、今度こそ、その梓の言葉は信じられる。
まだ無理はしてるんだろうけど、梓はキーホルダーという形のある絆の品じゃなくて、
私達との絆そのものっていう形の無いものを信じてくれる事にしたんだ。
形の無いものを信じるのは恐いし、不安になってしまうから、
そりゃ少しの無理はしないといけない。無理をしなきゃ信じ続けられない。
だけど、梓はそれを信じてくれる。
信じるために、今の寂しさも耐えてくれる。
何だか急に、そんな梓が愛おしく思えた。
私はチョークスリーパーの体勢を解いて、抱き締めるみたいに梓の背中から両腕を回す。
「ありがとな」
信じてくれて。
後半の方は言葉にしなかった。
照れ臭いのもあったし、その言葉を伝えるのも今更な気がした。
でも、言葉にしなくても、今だけは梓に私の気持ちが伝わってると思う。
不意に梓が明るく微笑む。
「だから、お礼を言いたいのは私の方ですよ、律先輩。
これじゃ逆じゃないですか」
「そう……かな。そうかも……な。
でも、私からも礼を言いたくてさ。ありがとう、梓」
「私こそ……って、これじゃきりが無いですね」
「そうだな。じゃあ、最後に梓が私に感謝の気持ちを示してくれ。
お礼の言い合いっこはそれで終わりにしようぜ?」
「感謝の気持ちを示すって……、どうすればいいんですか?」
「梓の髪を私に結び直させてもらう。
私に感謝してるんなら、それくらいの事はさせてもらおうじゃないか、梓くん」
「そうきましたか……。
いいでしょう。それくらいは我慢してあげます」
よっしゃ、と声を上げて、私は梓から身体を離して少し距離を取る。
解いた梓の髪は真っ黒でまっすぐで、女の私から見てもすごく綺麗に思えた。
手を伸ばして、手櫛で丁寧に梓の髪を梳いていく。
少し痛んでるのに、梳く指に引っ掛かりがほとんど無い。
もしかしたら、これは澪よりもいい髪質かもしれないな。
ちょっと悔しくなって、ぼやくみたいに呟いてみる。
474:にゃんこ:2011/08/16(火) 21:38:28.96:bAeskBad0
「ちくしょー。
マジでまっすぐな髪だな。生意気な奴め」
「羨ましいですか?」
「んまっ、本気で生意気な子ね!
でも、まあ……、羨ましい事は羨ましいけど、そこまででもないかな。
ストレートはストレートで苦労があるみたいだし、あんまり髪を伸ばすつもりもないしさ」
「そう言う割には、律先輩も髪の扱いが意外と上手じゃないですか」
「ふふふ、まあな。
暇な時、澪の髪を結ばせてもらってるし、髪の扱いにかけてはそれなりの腕前だと思うぞ。
だからさ、気になるんだよ、梓みたいに綺麗な髪が傷んでるとさ。
澪の奴も精神的に追い込まれるとそれが髪質に出る奴だから、余計に気になるんだよな」
「ご心配……、お掛けします」
申し訳なさそうに梓が縮こまり、頭を小さく下げる。
その梓の頭を撫でて、私はそれを軽く笑い飛ばしてやる事にした。
「気にするなって。
まあ、でも、深夜に一人で外を出歩くのだけは頂けないけどな。
キーホルダーの事が気になるからって、いくら何でも危ないだろ。
ただでさえ梓は……」
可愛いんだから。
そう言おうとしてる自分に気付いて、慌ててその言葉を止めた。
流石にその言葉を梓自身に届けるのは恥ずかし過ぎる。
私は一息吐いてから、訂正して言い直す。
「小学生みたいに小さいんだからな」
「なっ……!
律先輩だって、人の事言えないじゃないですか!」
「私はおまえよりは大きい」
「年の差です!」
梓が頬を膨らませて拗ねる。
って、年の差……か?
見る限り、梓は一年の頃から全然成長してないように見えるんだが……。
この調子じゃ、今後どれだけ年月を経たとしても、成長しなさそうだぞ。
いや、私も人の事は言えないくらい、一年の頃から成長してないんだけどな……。
……何か悲しくなってきた。
梓も自分が全然成長してない事を自覚してるみたいで、物悲しそうに沈黙していた。
発育不良な二人が、揃って大きく溜息を吐く。
いやいや、今は私達の発育の事なんてどうでもいい。
私は梓の右の髪を結びながら、できるだけ声色を明るく変えて言った。
「でも、危ないのは確かだ。
もうあんな事するのはやめてくれよ、梓。
と言うか、深夜に私の家の前を通ったのは梓で間違いないんだよな?
まだおまえから本当のところを聞いてないけど」
「はい……。律先輩が見たのは、確かに私だと思います。
深夜、キーホルダーを捜して、走り回ってましたから……。
見間違いだなんて言って、すみませんでした……」
「それはいいけどさ。
私はさ、梓の事が本当に心配だったよ。
私だけじゃない。
ムギも、唯も、澪も、憂ちゃんや純ちゃんもおまえを心配してたんだからな」
「純……も……?」
意外そうに梓が呟く。
それは純ちゃんが梓を心配してるのが意外なんじゃなくて、
私が純ちゃんの事を話題に出すのが意外だと感じてるみたいだった。
確かに私と純ちゃんって、あんまり関わりがなさそうだからなあ……。
480:にゃんこ:2011/08/18(木) 21:55:32.89:Wnnpcz4x0
でも、私と純ちゃんが無関係に見えても、決して無関係じゃない。
いちごが言ってたみたいに、私達は自分でも知らない何処かで知らない誰かと必ず繋がってる。
何かと無関係ではいられないんだ。
特に私と純ちゃんには梓っていう大きな繋がりがある。
それだけで私と純ちゃんは、深い所で繋がり合ってるって言えるかもしれない。
今回、私はその繋がりに助けられ、梓の悩みを晴らす事ができた。
それは梓を大切に思う人間が多いって証拠でもある。
梓がそんな風に大切に思われるに足る子だから、
誰もが梓を放っておけなくて、結果的に梓自身を救う事になったんだ。
私はそれを梓に少しだけ伝えようと思った。
梓の悩みは私達の悩みでもあるんだって。
梓が悩んでいると、皆が梓を助けたくなるんだって。
梓は愛されてるんだって。
勿論、純ちゃんとの約束もあるから、
必要以上の事を伝えるわけにはいかないけど。
それでも、私は伝えるんだ。梓は一人じゃないんだと。
「この教室に来る前に、純ちゃんと話をしたんだよ。
梓が二年一組に居るって教えてくれたのも純ちゃんなんだぜ?
軽音部の部室から飛び出すおまえを見かけたって言ってた。
声も掛けたって言ってたけど、気付かなかったのか?」
「いえ……。無我夢中で走ってて、純が見てたなんて全然気付きませんでした。
でも、そうなんだ……、純が……。
純に……、悪い事しちゃったな……」
「後で純ちゃんに謝って……、いや、お礼の方が喜ぶな。
お礼を言っとけよ、梓。
純ちゃんが教えてくれなきゃ、私はこの教室まで来れなかった。
梓の悩みを聞き出す事もできなかったんだ。
今お前と私が笑えるのは、純ちゃんのおかげでもあるんだ」
「そうですね……。
いつもは好き勝手な事してるのに、純ったら……。
こんな時だけ……、こんな時だけ気が効くんだから……」
「いい友達だな」
「……はい!」
梓が感極まった様な大きな声を出す。
もしかしたら梓はまた少し泣いているのかもしれなかった。
でも、それはもう悲しい涙じゃなくて、胸が詰まるみたいな嬉しい涙なんだ。
少しだけ気難しい面がある梓にも、純ちゃんみたいな素敵な友達がいるんだな。
私はそれが嬉しくなって、梓の左側の髪を結び終えてから続けた。
「おまえが思う以上に、純ちゃんっていい子だぞ。
純ちゃんさ、おまえの知らない所で軽音部の新入部員を見つけてくれたらしい。
それも二人もだぜ。
入部してくれるのは来年度からみたいだけど、これで来年の軽音部も安泰だな」
「本当ですかっ?」
「ああ。でも、私が言ったって純ちゃんには内緒な。
純ちゃんから、新入部員の事は梓には内緒してくれって頼まれてるんだよ。
勿論、その新入部員が誰かも内緒なんだ。
だから、どうかここはご内密に頼むぜ、お代官様」
「そうですか……。二人も新入部員が……。
何だか……、来年度がすごく楽しみになってきました。
見てて下さいね、律先輩。
来年度の軽音部は、今の軽音部より絶対すごい部にしてやるです!」
「その意気だ」
481:にゃんこ:2011/08/18(木) 21:56:07.34:Wnnpcz4x0
私が不敵に微笑んでやると、梓も私の方に振り向きながら柔らかく微笑んだ。
勿論、二人とも分かってる。
来年度は、多分、無い事を。
それでも、私達は笑うんだ。
私達が私達でいられるために。
「よし、完了」
手櫛でもう少しだけ髪を梳かしてから、梓のその場に立ち上がらせる。
私も立ち上がって、私に背を向けていた梓を私の方に向かせた。
何となく、嬉しくなる。
そこには若干疲れた感じがするけど、普段と変わらない梓の姿があったからだ。
普段と変わらない梓の姿だけど、そんな普段の梓の姿を見るのはすごく久し振りだ。
梓が自分の髪の位置を手で確認しながら、軽く笑って言う。
「ありがとうございます、律先輩。
髪の位置も完璧じゃないですか。
大雑把だと思ってましたけど、律先輩の事、見直しました!」
「素直に褒めるって事を知らないのかい、梓ちゃん。
それに見直したって事は、これまでは見損なってたって事かよ。
まあ、いいけどさ」
軽口を叩き合う私達。
やっぱりあんまり部長と部員の関係って感じがしないな。
どっちかと言うと、同級生の部員同士っぽい。
でも、まあ、それもいいか。
それも私と梓が付き合ってきた二年間の結果なんだ。
求めてた関係とはちょっと違うけど、こんな友達みたいな関係も悪くない。
いや、友達みたいな、じゃない。
私と梓は友達だ。
友達で、いいんだと思う。
急に梓が少しだけ寂しそうな顔になる。
世界の終わりの事を思い出したのかと思ったけど、そうじゃなかった。
「あーあ……。
考えてみたら、何だか勿体無い事しちゃいましたね……」
自嘲的に梓が小さく呟く。
悲しんでるわけじゃなく、自分に腹を立ててるわけでもなく、
ただ自分のしてしまった事を少しだけ後悔してるみたいに。
「私……、一週間も一人で何を抱え込んでたんでしょうか。
キーホルダーを失くした事……、早く律先輩達に伝えればよかったなあ……。
律先輩達を信じればよかったのに、自分を信じられればよかったのに、
それができずに深夜に駆け回ったりまでして……、必死に捜し回って……。
そんな私のせいで皆に心配掛けちゃって……、
律先輩にまで勿体無い無駄な時間を掛けさせてしまって……。
私が……、信じられなかったせいで……」
梓が小さい身体を更に縮ませるみたいに小さくなる。
一つの悩みは晴れたけど、
その副産物として、今度は自分の掛けた迷惑について罪悪感を抱いてしまってるんだろう。
梓は責任感の強い子だ。
自分のミスや失敗を抱え込んで、たまにそれに押し潰されそうになっちゃう子だ。
今までの私なら、そんな梓を心配そうに見つめる事しかできなかっただろうけど……。
でも、もう大丈夫。
梓は私を信じてくれた。
後は私が梓を信じて、梓に自分自身を信じさせてあげるだけだ。
私は手を伸ばして、梳いたばかりの梓の頭頂部をくしゃくしゃにしてやる。
482:にゃんこ:2011/08/18(木) 21:59:42.15:Wnnpcz4x0
「ちょ……っ? 律先輩……っ?」
「馬ー鹿。
確かにおまえのせいで長い事悩まされたけど、それは別に無駄な時間じゃなかったよ。
勿体無いなんて事も無い。こんな時だけど、私自身や軽音部の事について深く考えられた。
それはおまえのせいで……、おまえのおかげだ」
「どうして……」
また泣きそうな顔で、梓が掠れた声を上げた。
「どうして律先輩は……、そんなに優しいんですか……?
私の事なんて……、もっと責めてくれてもいいのに……」
「生憎、私には人を責める趣味はないのだ。
それにさ、優しいのはおまえもだよ、梓。
キーホルダーの事でそんなに悩んだのは、私達の事を大切に思ってくれてたからだろ?
そんなおまえを責められないし、それに……」
「それ……に……?」
「まだ取り戻せる。
思い悩んだ分、心配掛けちゃった分なんて、いくらでも取り戻せるよ。
だから、梓さえよければさ、今日、私んちに泊まりに来ないか?
何ならムギや純ちゃんも誘って、皆で色んな話をしようぜ。
私の部屋で布団並べてさ、「好きな子いる?」って話し合ったりとか」
私の言葉に、梓は呆気に取られたみたいにしばらく沈黙していた。
まさか私がそんな話を始めるなんて、考えてもなかったんだろう。
実を言うと、私も自分がこんな話をするなんて思ってなかった。
泊まりに来ないかって言葉も、その場の勢いで言っただけだ。
でも、勢いながら、いい提案だって自分で自分を褒めたい気分でもある。
そうなんだ。
勿体無い事をしたと思うんなら、取り戻せばいいだけなんだ。
それを自覚して一緒の時間を過ごせれば、
勿体無かったと思える時間以上の充実した時間を過ごせるはずだ。
「もう……」
梓が呆れた表情で小さく呟く。
でも、その表情の所々からは、隠し切れない笑顔が滲み出ていた。
「それじゃ修学旅行じゃないですか、律先輩」
「お、それ頂き。
いいじゃんか、修学旅行。
梓とは一緒に行けなかったわけだし、私達だけの修学旅行って事でどうだ?
勿論、梓の予定が合えばだけどさ」
「……仕方ないですね。
律先輩がそこまで言うなら、付き合ってあげます。
やりましょう。律先輩の家で、私達だけの修学旅行を」
「よっしゃ。そうと決まれば早速ムギ達を誘いに行こうぜ。
折角だから、夕食は私が腕に縒りを掛けて用意しよう。
何かリクエストないか?
何でも梓の好きな物を作ってやるぞ」
483:にゃんこ:2011/08/18(木) 22:00:24.40:Wnnpcz4x0
「じゃあ……、ハンバーグをお願いしていいですか?」
「ハンバーグかよ。別に何でも作ってやるのに。
……って、ひょっとしてハンバーグしか作れないって思われてる……?」
「いえいえ、違いますよ。
前に律先輩の家で食べたハンバーグが美味しかったから、また食べたいんです。
……駄目ですか?」
「そう言われると、私も腕に縒りを掛けざるを得ない。
そうだな、今日はハンバーグにしよう。
美味しいご飯も炊いてやる。
今日は梓のリクエスト通り、愛情込めてハンバーグを作ってやるぞ」
「あ、別に愛情はいいです」
「中野ー!」
私が声を荒げて掴み掛ろうとすると、
梓は上手い具合に私の腕を避けて教室の扉まで駆けて行く。
最近、生意気さに加減の無い後輩だけど、
そんな生意気さをどうにかながら取り戻せて、私は嬉しかった。
教室の扉を開きながら、梓が私の方に振り返る。
「ほら、早く行きましょう、律先輩」
「あいあい」
「それと……」
「どうした?」
「何度も言いましたし、さっき最後だって言いましたけど、でも、もう一度言わせて下さい。
私の先輩でいてくれて、本当にありがとうございます、律先輩」
「おうよ。
……おまえこそ、私の後輩でいてくれて、ありがとな」
484:にゃんこ:2011/08/18(木) 22:01:32.16:Wnnpcz4x0
○
二年一組の教室を出た瞬間、
笑顔の私達を見つけたムギが、泣き出しそうな梓の胸に飛び込んだ。
ずっと私達の事を信じて待っていてくれたんだろう。
申し訳なさそうに、でも嬉しそうに梓が謝り、
これまでの事情を説明すると、ムギは怒る事も無くそのまま梓を抱き締めた。
ずっと唯が身近に居たせいか、どうも私達には唯の抱き付き癖がうつってしまってるみたいだ。
抱き付かれ慣れてるみたいで、梓の方もムギに抱き締められるままにしていた。
妙な感じだけど、これが私達のコミュニケーションでもあるんだろう。
ムギがしばらく梓を抱き締めた後、
私の家で私達だけの修学旅行をしないかと伝えると、
「後輩とのそういうイベント、夢だったの」と言って、目に見えてはしゃぎ出した。
ムギにはどれだけ色んな夢があるんだ……。
でも、ムギが積極的になってくれるのは大歓迎だ。
梓だけじゃなく、ムギも喜んでくれるんなら、一石二鳥ってやつじゃないか。
勿論、ムギが楽しんでくれるのは、私だって嬉しい。
そうして盛り上がっていると、
不意に梓が廊下の角から私達を見ている何者かの視線に気付いた。
当然ながら、その何者かは純ちゃんだった。
軽音部の部室で待ってると言っていたけど、
やっぱり梓の様子が気になって教室の近くまで来てたんだろう。
梓が手招きすると、少しだけ恥ずかしそうに梓の傍まで近付いて、
それでも純ちゃんは急に笑顔になって、梓の頭を強めに撫で始めた。
元気そうな梓を見て嬉しかったんだろう。
頭を撫でるのは純ちゃんなりの愛情表現なんだろうけど、
「撫でないでよ、もー!」と梓はほんの少し不機嫌そうな声を上げていた。
私達には結構自由に頭を撫でさせてくれる梓だけど、
流石に同級生に頭を撫でられるのは恥ずかしいらしい。
これまで、私には二人の関係は梓が主導権を取ってる関係に見えてた。
でも、本当は自由に見える純ちゃんの方が、梓をリードしてるのかもしれない。
485:にゃんこ:2011/08/18(木) 22:02:44.11:Wnnpcz4x0
そのムギの言葉に対しては、私は肯定も否定もしなかった。
ずっと私達を見てたムギが言うんならそうなのかもしれないけど、
簡単にそれを認めてしまうのも何だか恥ずかしかった。
だけど、どちらにしても、
明日には私と澪の関係にとりあえずの結末が訪れるんだろうな、って私は思った。
澪の言葉を信じるなら、明日には学校で私達が顔を合わせる事になる。
そこで私達は何かの話をして、何らかの結論を出すんだろう。
その時を考えると少し恐かったけど、同時に待ち遠しくもあった。
澪に私の想いと答えを伝えたい。
どんな形であっても、澪にはそれを聞いてもらいたい。
その時こそ、私と澪が自分の本当の気持ちを実感できる時だと思うんだ。
私の家での修学旅行については、純ちゃんも笑顔で了承してくれた。
世界の終わりも近いんだし、家族が心配したりしないかと確認すると純ちゃんは苦笑した。
純ちゃんが言うには、家族会議を行った結果、
家族皆が世界の終わりまで自由に過ごす事に決めてるらしい。
人に迷惑を掛けなければ、何処でどう過ごしてくれても構わないそうだ。
大らかな家庭だなあ、と思わなくもないけど、
我が田井中家も似たようなもんなので、人の家庭の事は言えなかった。
まあ、それだけ家族が信頼し合ってるって事だとも思うけどさ。
それから私達は軽音部の部室に向かって、
三人で新曲の練習を始めようとして……、気が付けば純ちゃんがその場から消えていた。
神隠しに遭ったってわけじゃない。
「単に修学旅行の準備に家に戻っただけです」と梓が言っていた。
「そんなの後でいいのに」と私がぼやくと、苦笑しながら梓が続けた。
純ちゃんは私達が最後にライブをする事を憂ちゃんから聞いて知っていたらしい。
どうやら純ちゃんも最後のライブを観に来てくれるらしく、
その楽しみをネタバレで減らしたくないから、って逃げるように帰ったんだそうだ。
こんな時でもマイペースを崩さない。
世界がどう変わっても、純ちゃんは純ちゃんだ。
純ちゃんを見習って、私も私のままでいたい。
486:にゃんこ:2011/08/18(木) 22:03:20.37:Wnnpcz4x0
○
――木曜日
布団を並べて話をしていると、純ちゃんは一人で早々に眠ってしまった。
その純ちゃんを起こさないよう小さな声で会話を続けていると、
携帯電話の大きめなアラームの音が私にいつもの時間を伝えた。
私は慌ててアラームを切り、眠ってる純ちゃんの方に視線を向けてみる。
……すげえ。結構大きい音だったのに、微動たりともしていない。
梓から話には聞いてたけど、どんだけ寝付きのいい子なんだ、純ちゃんは……。
まあ、これだけ寝付きがいいなら、少しは大きな音を出しても大丈夫だろう。
祈るような気分で、私はラジカセの電源を入れる。
電波の不調のせいか昨日は聴けなかったけど、今日は復旧してるだろうか?
できる事なら、世界の終わりまであの人の声を聴いていたい。
週末まではお前らと一緒!
あの人はそう言ってくれていた。私はその言葉を信じていたい。
私の祈りが届いたのか、スピーカーからは昨日みたいな雑音は出なかった。
軽快な音楽が流れる。
491:にゃんこ:2011/08/20(土) 20:16:14.34:DgFkpJqV0
「胸に残る音楽をお前らに。本当の意味でも、ある意味でも、とにかく名曲をお前らに。
今日もラジオ『DEATH DEVIL』の時間がやって来た。
一日空いちゃったけど、アタシの事ちゃんと憶えてる?
アタシよ、アタシ。
オレオレ詐欺じゃないわよ。アタシよ、クリスティーナ。
一日で忘れちゃってる困ったちゃん達はこの放送中に思い出しといてよ。
オーケー?
しっかし、昨日はまさかラジオどころかテレビ、電話まで電波障害になっちゃうなんてね。
シューマン共鳴だか何だかの異常だそうだけど、こりゃ本格的に終末が現実的になって来たわ。
電波が途絶えるなんて、これまでの人生で経験した事なかったかんね。
日常が少しずつ消え去ってるって実感も湧いてくるわね。
しかも、シューマン何たらってのも、滅多な事では異常が起きるはずがない自然現象らしいのよ。
それに異常が起きてるってんだから、いよいよ世界最後の日も間近ってわけだ。
まあ、それでもそんな異常下でも電波を一日で復旧できたわけだから、
ひょっとしたら終末ってのもそんな大したもんじゃないかもしれないけど。
それとも電波専門の電波職人さんの腕のおかげかしらね?
流石は職人さん。
洗練された腕にいつも頭が下がります。なんてね。
あははっ。
何はともあれ、終末までは今日入れて残り三日。
日曜日には未曾有の大災害ってやつがアタシ達の身に降り掛かるわけよ。
いや、そもそも災害なのかどうか科学者の皆さんもちゃんと分かってないらしいけど、
とにかく人類全体が消えちゃうのだけは間違いない。
そんな終末まで、残りもう三日。
でも、まだ三日。
泣いても笑っても三日間もあるわけだし、
どうせなら終末まで笑って過ごしていこうぜ、お前ら。
世界の制度に反抗して生きるのが、ロックってわけよ。
終末だろうと何だろうと、世界が勝手に決めた規範には違いないじゃん?
アタシ達に都合の悪い制度は、何だって切って捨てる。
それが真のロックスピリッツ。
アタシも付き合うから、最後くらいお前らもロックに生きようぜ。
オーケー?
492:にゃんこ:2011/08/20(土) 20:17:11.77:DgFkpJqV0
そういえば勘違いしてるお前らが多いみたいだけど、
ギター掻き鳴らしてドラムのビートを刻む激しい曲がロックってわけじゃないらしいのよ。
アタシも子供の頃は勘違いしてたんだけど、
ロックミュージックの定義って単に歌詞や心根が反骨的かどうかなんだってさ。
曲の激しさとか、ギターのテクニックとかは一切関係無し。
お前らの心の中に反骨心があれば、それだけで全ての歌がロックミュージックだ。
だから、演歌やアニメソング好きなお前らも、反骨心があれば当番組にメールヨロシク!
終末まで、一緒にこの番組盛り上げてこうぜ!
週末まではお前らと一緒!
……って、これじゃ番宣だった。
こりゃ失敬。
ああ、電波障害については心配はないみたいよ。
ウチのディレクターが独自のシステムを構築したらしくて、
今後、公共の電波に障害が起きたとしても、少なくともこの番組だけは終末までお届けできるらしいのよ。
……一体、何者なのよ、あの人は。
単なるヅラじゃないとは思ってたけど、ここまで得体の知れない人だったとは……。
謎が多いディレクターよ、マジで。
残念だけど、終末までにその謎は解けそうもないし……。
まあ、一つくらい謎を抱えたまま終末を迎えるのも悪くないわね。
この謎はアタシもお前らと一緒に墓場まで持ってくから、それで勘弁ヨロシク。
どっちにしても、謎多きディレクターのおかげで放送の心配はしなくてよさそうだし、
その点では感謝感激雨霰。
でも、ディレクターだけじゃなくて、昨日一日、アタシは色んな人に感謝したわ。
アタシの好きなミュージシャン、番組のスタッフ、電波職人さん、
直接スタジオまで来てくれたリスナーのお前ら、電波障害を心配して駆け付けてきたラジな……。
たくさんの人がこの番組のために頑張ってくれた。
たくさんの人にこの番組が支えられてるんだって教えてくれた。
一日かけて、精一杯この番組のために駆け回ってくれた。
アタシにできる仕事はほとんど無くて、足手纏いにしかならなかった。
その分、今日は喋らせてもらおうと思う。
アタシがこの番組のためにできるのは、喋る事だけだからさ。
493:にゃんこ:2011/08/20(土) 20:18:22.30:DgFkpJqV0
失くして初めて、それの大切さが分かる……。
よく聞く言葉だし、単に一日空いただけなんだけど、昨日一日でその言葉を強く実感させられたよ。
成り行きで続けてきた番組だけど、アタシはこの番組が大好きなんだなって。
アタシはこの番組が生き甲斐なんだなってさ。
アタシにこの番組続けさせてくれて、お前らサンキュ!
残り短い放送だけど、最期までお付き合いヨロシク!
週末まで……、終末まではお前らと一緒!
さってと、とは言え、湿っぽいのはこの番組には似合わないし主義じゃない。
そろそろ記念すべきリクエストの復帰第一発目といってみましょうかね。
えっと、曲名は……。
お、復帰記念のおかげか、珍しく世界の終わりっぽくないリクエスト……。
って、あれ何? どしたの、ディレクター?
え?
この曲も歌詞はともかく、この曲が流れた番組が世界の終わりっぽい番組なわけ?
おいおい、お前ら……。
とことんこの番組を世界終末記念番組にしたいわけ?
ま、それもいいか。
こんな時でも時事ネタを忘れないその腐れ根性、アタシは嫌いじゃないよ。
折角だから、とことん終末っぽい曲を集めてみるのもいいかもね。
んじゃ、今日の一曲目、長野県のムー・フェンスからのリクエストで、
中川翔子の『フライングヒューマノイド』――」
496:にゃんこ:2011/08/22(月) 21:24:01.81:Z8R6uNk30
○
朝、私達は三人で軽音部の部室でお茶を飲んでいた。
純ちゃんは居ない。
登校後、純ちゃんは私達と別れ、ジャズ研の部室に向かっていた。
ジャズ研も最後のライブを開催するから、そのための練習に行くらしい。
こんな時期に純ちゃんが登校してた理由は、ある意味で私達と同じだったってわけだ。
しかも、純ちゃんが言うには、そのライブは純ちゃんを中心に行われるんだそうだ。
そりゃほとんど毎日登校してるはずだよ。
ジャズ研のライブの開催は金曜日の午後。
会場は講堂らしく、もう既に使用届の提出もしているそうだ。
どの部も考える事は同じってわけだな。
世界の終わりに反抗したいのは、別に私達だけってわけじゃない。
私達のしている事は、何も特別な事じゃないんだ。
やっぱり皆、最後に何かを残したいんだと思う。
それは形として残るものじゃないけど、それでも何かを残そうとする事は無駄じゃないはず。
いや、私としては、別にその行為が無駄でも構わない。
私達はこれまで放課後を無駄に過ごして来た。
軽音部を設立して、たまに練習はするけど、ほとんどの時間をお喋りに費やして、
合宿に行っては遊んで、休日にはやっぱり雑談に花を咲かせて、それを梓や澪に怒られたりして……。
正直、音楽にまっしぐらに生きて来れたなんて、冗談でも口に出せない。
一言で言えば、私達にとっての放課後のほとんどは、人生の無駄遣いだったんだよな。
だけど、それでよかったと思う。
無駄だけど、楽しかった。
辛い事も少しはあったけど、皆と出会えて、最高に面白かった。
退屈する暇なんてないくらい、充実した無駄な時間を過ごせた。
その無駄が、私にとってすごく大切なものになったんだ。
だから、私達の最後のライブが無駄な行為でも、私は全然構わない。
それよりも気になるのは、やっぱり純ちゃんのライブの方だ。
純ちゃんの演奏は何度か聴いた事はあった。
でも、これまでの純ちゃんの演奏は、
ジャズ研の先輩達の伴奏的なパートである事が多く、
純ちゃん自身の本当の実力はいまいち掴みづらかった。
相当に練習を積んでるみたいだし、かなり上手い方だと思うんだけど、
伴奏的に演奏するのとメインで演奏するのでは、印象もかなり違ってくるだろう。
これは是非ともジャズ研のライブを観に行かなきゃいけない。
純ちゃんも私達のライブを観に来てくれるんだから、
私達もジャズ研のライブを観に行くのが礼儀ってもんだ。
それに新入部員(予定)の真の実力を把握しておくってのも、部長の大事な仕事だしな。
でも、何よりジャズ研のライブが観たい理由は、
今更だけど純ちゃん自身に興味が出始めたってのが一番かもしれない。
これまでは単なる梓の友達としてしか見てなかったんだけど、
昨日見せてくれた心から梓を心配する純ちゃんの姿がすごく印象的だった。
単なる友達なんかじゃない。
純ちゃんは梓の親友で、深く繋がってる仲間なんだなって思った。
単純だけど、私はそんな理由で純ちゃんに興味を持った。
それに梓の仲間だってんなら、私達の仲間でもあるってもんだ。
新しいお仲間としては、しっかりと相手の事を知っておかなきゃな。
497:にゃんこ:2011/08/22(月) 21:25:06.22:Z8R6uNk30
「どうしたんですか、律先輩?」
ムギの淹れてくれたFTGFO何とかって紅茶を飲みながら、梓が首を傾げた。
新しい軽音部の仲間が増えた事が嬉しかったせいか、私の顔が緩んでしまっていたらしい。
「何でもないよ」と私は首を振ったけど、
私の席の斜め向かいに座ってるムギはその私の誤魔化しを見逃してくれなかった。
「でも、りっちゃん、すごく嬉しそうよ?
何か素敵な事でもあったの?
言いたくないなら仕方ないけど、よかったら教えてほしいな」
ムギにそう言われちゃ、教えないわけにはいかなかった。
そもそも、隠し通さなきゃいけない事でもない。
私は自分の笑顔の理由をムギ達に伝える事にした。
「いや、昨日も話した事なんだけど、
純ちゃんが軽音部の新入部員を見つけてくれたってのが嬉しくてさ。
ついつい顔が緩んじゃったわけですよ、部長としては」
完全に真実ってわけじゃないけど、嘘を吐いてるわけでもない。
深く話せない事情を知ってるムギは、それを察して柔らかい笑顔を浮かべてくれた。
「そうよね。それって本当に素敵な事よね。
りっちゃんが笑顔になっちゃうのも分かるな。
私だって、嬉しくて自分が笑顔になっちゃうのを抑えられないもの。
……でも、純ちゃんってすごい子だよね。
私達があんなに探しても見つからなかったのに、新入部員を二人も見つけてくれるなんて……。
すごいなあ……、新入部員かあ……。
ねえ、梓ちゃんは新入部員ってどんな子だと思う?
どんな子だったら嬉しい?」
「え、私ですか……?
どんな子でも嬉しいですし、想像もできませんけど……。
そうですね……。
できればムギ先輩みたいな子か、それが無理なら大人しい子だと嬉しいです。
ムギ先輩みたいに気配りのできる子だと私も安心できますし、
大人しい子なら私でも色々と教えてあげられるんじゃないかって思うんです。
逆に活発な子や、私を振り回すような子はちょっと……」
そこで言葉を止めた梓は、わざとらしくチラチラと私の方を見た。
その目は明らかに私を挑発していた。
確実に私の突っ込みを待っていた。
こいつ……、誘ってやがる……。
そこまでされちゃ、私の方としても突っ込む事に関してやぶさかじゃない。
私は机を軽く掌で叩いてから、大声で言ってやる。
498:にゃんこ:2011/08/22(月) 21:26:15.08:Z8R6uNk30
「それって私みたいな子はノーサンキューって事かよ!」
「別に律先輩みたいな子とは一言も言ってませんよ」
「いや、言ってただろ! 私の方を見てもいただろ!」
「知りません。律先輩の自意識過剰じゃないんですか?」
「おい中野! コラ中野!
いい加減にしないと、ガラスの様なハートを持った部長が泣いちゃうぞ中野!」
「律先輩のは強化ガラスの様なハートだから、大丈夫なんじゃないですか?」
「強化ガラスでも、割れないだけでヒビは入るんだぞ!」
「あ、強化ガラスって自分で認めましたね、律先輩」
「中野ー!」
言葉だけだと辛辣な言い争いっぽいけど、私と梓の顔は笑っていた。
ふざけ合っているのはお互いが承知の上での言い争いなんだ。
昨日から梓の発言はいつもに増して生意気になっていた。
ムギ達と私の部屋に泊まった時も、何度梓が生意気な発言をしたか数え切れない。
でも、それは私に対して反骨心を持ち始めたからの発言じゃない。
いや、反骨心が無いとは言い切れないけど、どちらかと言えば甘えに近い発言に思える。
長く不安を抱えてた反動もあるんだろう。
梓は私に憎まれ口を叩く事で、これまでの勿体無かった時間を取り戻してるんだと思う。
好きな子にちょっかいを出して相手の興味を引いて甘える……。
そんな小学生みたいな行動が、梓の愛情表現の一つなんだろうな。
梓がその愛情表現を私に示してくれるのは勿論嬉しいんだけど、
これまた昨日からそんな私達を妙に嬉しそうに見守るムギの視線が気になるのは私だけか?
何か非常に生暖かい視線を感じるんだが……。
「なあ、ムギ……?」
どうにも気になって、
頬に手を当てて私達を見つめるムギに声を掛けてみたけど、
残念ながらムギは私達を見つめたまま何の反応も見せなかった。
どうやら何かに夢中になり過ぎて、私の声が聞こえてないらしい。
超うっとりしてる。
と言うか、そういや久々に見たな、こんなムギ。
一年の頃は頻繁に見せてた姿だけど、二年に上がってからは、
他の事に興味を持ち始めたのか、単に誤魔化し方が上手くなったのか、
こんなうっとりした感じのムギの姿を見せる事は少なくなっていた。
499:にゃんこ:2011/08/22(月) 21:26:44.91:Z8R6uNk30
「あの……、律先輩……?」
流石に妙過ぎるムギの姿が気になり始めたんだろう。
梓が不安そうに私の方に視線を向けた。
「ムギ先輩、どうしたんですか?
何だかうっとりしてるみたいに見えますけど……」
一年の頃のムギの姿を知らない梓だ。
私以上に妙な様子の今のムギを不審に……、じゃなくて、不安に思うのも無理はなかった。
しかし、このムギの姿をどう説明したらいいのか、私自身にもよく分からん。
私は頭を掻きながら、どうにか梓に上手く伝えるふりはしてみる。
「別に心配はないんだけど、
いや、なんつーか……、ムギってそういうのが好きな人なんだよ。
最近はあんまりそんな様子もなかったけど、どうも突発的に再発しちゃったみたいだな……」
「そういうのが好き……って、どういうのが好きなんですか?」
「えーっと……、だな……。
「女の子同士っていいな」っつーか……、
「本人達がよければいい」っつーか……、
ムギってそういうのが好きなんだよ。どんと来いなんだよ。
ほら、アレだ。みなまで言わせるな」
「女の子同士……?」
私の言葉を反芻するみたいに梓が呟く。
流石にすぐに理解できる事じゃないだろうし、いきなり理解されたらそっちの方が嫌だ。
十秒くらい経っただろうか。
私の言葉の意味を理解したらしい梓が目に見えて慌て始めた。
「えっ? あの……、えっ?
私と律先輩が……?
女の子同士の関係に……? ええっ?
私は別に……、そんなつもりじゃ……。
でも……」
理解してくれたのは嬉しいが、梓の動揺は私の予想とは違う原因のようだった。
見る限り、どうやら梓はムギが女の子同士の関係が好きな事よりも、
梓と私がムギにそんな関係として見られてるって事に動揺してるらしい。
そっちかよ。
まあ、流石に私に気があるって事は無いにしても、
意外と梓自身も女の子同士の関係に興味があるって事なのかもしれない。
同性の幼馴染みに告白されて、そいつの恋人になろうとした私に言えた事じゃないけど……。
澪の事を思い出して、私は少しだけ視線を伏せてしまう。
もうすぐ私は澪と一日ぶりに再会する。
それはすごく不安な事だけど、でも、それは澪と再会してから考えればいい事だ。
私はもうあの時の自分の涙の理由を分かってるんだ。
後はそれを澪に伝えるだけでいい。
軽く梓に視線を戻してみる。
決心を固めた私の視線を違う意味の視線と勘違いしたのか(何とは言わないけど)、
挙動不審に周囲に視線を散漫とさせながら、梓が早口に捲し立てるみたいに言った。
「そ……、そういえば、唯先輩達遅いですね!
一日空いちゃったから、唯先輩達に会えるの楽しみです!
二人とも今日は来てくれるんですよね?」
こいつ誤魔化した。
焦って誤魔化した。
いや、まあ、別にいいけど。
503:にゃんこ:2011/08/29(月) 21:33:51.61:hjrm0ayi0
それに唯達が学校に来てくれるか気になるのも本音ではあるんだろう。
誤魔化して振ってきた話題ではあるけど、
そう言った梓の顔はやっぱりまだ不安そうに見えた。
「ああ、心配しなくても大丈夫だぞ、梓。
昨日ちゃんと確認しといたしさ」
言いながら、私はポケットから自分の携帯電話を取り出す。
テレビや電話を含め、電波障害は昨日の夕方辺りには無くなっていた。
紀美さんの言葉じゃないけど、多分、電波職人さんのおかげなんだろう。
まあ、本当に電波職人さんのおかげかどうか分かんないし、
そもそも電波職人さんってどんな仕事の人達の事を指すのか不明だけど、
とにかく電波の復旧に関わってくれた人がいるなら、その全員に感謝したい。
ただ、電波が復旧したとは言っても、電話が繋がりにくい状態には変わりがなかった。
そんな状態で唯達に連絡を取るのも、いつ切れるか不安でもどかしいだけだ。
だから、私は電波の繋がりがよさそうな時間を見計らって(単なる勘だけど)、
唯と澪に梓の悩んでたのはキーホルダーを失くしたからだったって事、
でも、私達が梓と話し合って、その梓の不安をどうにか晴らしてやれた事、
その二つの用件だけを簡潔に書いた短いメールを出した。
詳しい事は直接会って話せばいい事……、
いや、直接会って話した方がいい事だからな。
唯と澪もその私の気持ちを分かってくれたのか、
私の送信からしばらく後に二人から短い返信が届いた。
返信の内容は『ありがとう。明日は絶対学校に行くから』って、二人とも大体そんな感じだったかな。
だから、大丈夫。梓が不安になる必要はない。
二人とも約束を守ってくれるタイプなんだし、
形や対応はそれぞれ違ってても、梓の事を心配してたのは確かなんだから。
「心配するなって。
大体、まだ十時にもなってないじゃんか。
今日早く目が覚めちゃったからって、私達が来るのが早過ぎただけだよ。
ほら、昨日唯達からのメールもしっかり届いてる」
私は唯達からの返信メールを開いて、隣に座ってる梓に見せる。
受信メールを人に見せるなんて本当はマナー違反だけど、
不安になってる梓になら唯達もきっと許してくれるだろう。
梓もマナー違反だって事は分かってるんだろう。
申し訳なさそうな顔をしながら、
私の見せたメールを早々と読んで、すぐに私の携帯から目を逸らした。
504:にゃんこ:2011/08/29(月) 21:34:23.47:hjrm0ayi0
「すみません、律先輩。
先輩達の事を信じるって言ったのに、まだ不安がっちゃって。
駄目ですよね、こんなんじゃ……」
「心配するなって言ってるだろ?
唯達がキーホルダーや今までの態度の事で梓を怒るとは思わないけど、
万が一おまえを怒るようなら私も一緒に謝るよ。
部員の不祥事は部長も謝るのが筋ってもんだしさ。
それに謝るのは慣れてんだよな、私」
「それ自慢になってませんよ、律先輩……。
でも、ありがとうございます。
もう……、大丈夫です。
唯先輩も澪先輩も優しいから、私を怒らないんじゃないかって思います。
だけど、私、しっかり謝りたいです。
よりにもよってこんな時に、迷惑掛けちゃったのは確かですから。
だから、謝らないといけないって思います。心から謝りたいんです。
それでやっと、私……、また軽音部の部員に戻れるんだって、そう思います」
そこまで決心できてるんなら、大丈夫だろう。
私は強い光を灯した梓の瞳を見つめながら、軽く微笑んで頷いた。
誰だって自分の失敗を認めて、謝るのは不安になる。
私だって梓と同じ不安を胸に抱えてる。
私もこれから澪に会って、謝らなきゃいけないからな。
とても不安で、今にも逃げ出したいけど……、
でも、梓も私も逃げないし、逃げたくない。
それこそ私達が私達のままでいるために必要な事だからだ。
何となく視線をやってみると、
いつの間にか素に戻っていたムギが真剣な目を私達に向けていた。
これから謝らなきゃいけない私達を見守っててくれるつもりなんだろう。
ありがとな、と胸の内だけでムギに囁いて、私もこれからの事に覚悟を決めた。
急に。
手に持った携帯のバイブが振動し始めた。
突然の事に驚いた私は、少し焦りながら携帯の画面を確認するとメールが一件届いていた。
覚悟を決めたばかりで情けないけど、こういう不測の事態くらいは焦らせてくれ。
急に鳴ったら焦るだろ、普通。
まあ、それはともかく。
当然の事だけど、確認してみた画面には見慣れた名前が表示されていた。
それは問題なかったんだけど、その差出人のメールの内容が問題だった。
いや、別に不自然な事が書いてあるわけじゃない。
メールの内容自体は誰でも一度は受けた事があるはずの内容だ。
でも、そのメールは不自然だったんだ。
結構長い付き合いになるけど、
あいつからこんな内容のメールを受け取るのは私も初めてだった。
特に傍に梓が居る事が分かってるはずなのに、
私だけにこんなメールを送って来るなんて、不自然を通り越して不審なくらいだ。
一体、どうしたっていうんだよ、あいつは……。
その不審なメールの差出人は唯。
メールの内容は『今から三年二組の教室で二人きりで会いたい』というものだった。
505:にゃんこ:2011/08/29(月) 21:36:26.74:hjrm0ayi0
○
三年二組……、つまり私達の教室に私が足を踏み入れた時、
唯は自分の席に座って、ぼんやりと窓の外の風景を眺めていた。
普段なら駆け寄ってたと思うけど、
今日に限って私はそんな唯の近くまで駆け寄れなかった。
ぼんやりとした唯の表情が妙に印象に残ったからだ。
いや、こいつがぼんやりしてるのはいつもの事なんだけど、
今日の唯のぼんやりはいつものぼんやりした表情とは違う気がした。
上手く言えないけど、何処となく大人びた雰囲気を見せるぼんやりって言うか……。
気だるげな大人の女の雰囲気を纏ってるって言うか……、とにかくそんな感じだ。
いつだったか唯の言った言葉を不意に思い出す。
「私を置いて大人にならないでよ」って、確か唯は前にそう言っていた。
マイペースで子供っぽい唯らしい言葉だって、その時は思ったもんだけど……。
何だよ……、おまえの方こそ私を置いて大人っぽくなってんじゃんかよ……。
ちょっと悔しい気持ちになりながら、私はゆっくりと唯の席の方に歩いていく。
勿論、唯が大人になるのは喜ばしい事なんだけど、
もう少しだけでいいから、私に面倒を見られる子供な唯のままでいてほしいって思う。
いや、本音はそうじゃないか。
子供だろうと、大人だろうと唯は唯だ。
唯がどう変わろうと、私はそれを受け止めたい。
それでも嫌な気分になってしまうのは、
世界の終わりが近いこの時期に、生き方を変えてほしくないっていう私の我儘なんだろう。
変わらなきゃ人は生きていけない。
特に自分の死を間近に感じたら、その死を覚悟できる自分に変わろうとする。
だけど……、それは違う。少なくとも私は違うと思う。
だから、大人びた唯の雰囲気に、私は不安になっちゃうんだろう。
506:にゃんこ:2011/08/29(月) 21:36:51.41:hjrm0ayi0
「あ、りっちゃん」
私が唯の前の和の席にまで近付いて、
やっと私に気が付いた唯がいつもと変わらない高めの明るい声を出した。
何となく安心した気分になった私は、
後ろ向きに和の椅子に座ってから手を伸ばし、唯の頬を軽く抓る。
「よ、唯。一日ぶりだな。
って、いきなり呼び出すなよな。びっくりするだろ」
「ごめんね、りっちゃん。
私、りっちゃんと二人きりで話したい事があったんだ。
だから、教室に来てもらおうって思ったんだけど……、迷惑だったかな?」
「別に迷惑じゃないし私はいいんだけど、
梓とムギを誤魔化して出てくるのは、大変だったし心苦しかったぞ?
……どうしても、私と二人きりじゃないと駄目だったのか?」
私が言うと、唯は寂しそうに「うん」と頷く。
いつも楽しそうな唯の寂しそうなその顔は、私の胸をかなり痛くさせた。
一年生の初め、軽音部に入部して以来、唯はいつも楽しそうに笑っていた。
どんなピンチや辛い事も、唯が笑顔で居てくれたから楽しく乗り越えられた。
『終末宣言』の後も、世界の終わりなんてそっちのけで、唯は明るい笑顔を私達に向けてくれていた。
私はそんな唯に呆れながら、同時に憧れてた。
マイペースに生きられる唯が羨ましかったんだ。
今、澪へ伝えようと思ってる答えも、変わらない唯が居たからこそ出せた答えでもある。
だから、大人びた表情の、寂しげな唯を見てると私の胸は痛くなる。
寂しそうな表情のままで、唯は小さく続けた。
「あずにゃんが悩んでたのって、京都のお土産の事だったんだよね……?」
509:にゃんこ:2011/08/31(水) 21:12:57.58:7SF4LcZt0
京都のお土産……、つまり、梓が失くしたキーホルダーの事だ。
昨日、私がメールで伝えてから、唯はずっとその事を気に掛けてたんだろう。
唯が寂しそうな顔をする理由は、多分それ以外に無い。
「そうだよ」と頷いてから、私は唯の顔から指を放して続ける。
「最近、梓がずっと悩んでたのは、
メールでも伝えたけどキーホルダーを失くした事だったんだ。
こんな時期にどうしてそんな事で悩んでるんだ。
どうして早く私達に伝えてくれなかったんだよ。
って、思わなくもなかったけど、あいつの気持ちも分かるんだよな。
世界の終わりを目前にして、梓はこれ以上何かを失くしたくなかったんだよ。
世界の終わりまでは、変わらない自分と私達のままで居たかったんだ。
だから、少しの変化が恐かったんだと思うし、梓自身もそういう事を言ってた。
唯もあまり責めないでやってくれよ」
「責めないよ。
あずにゃんの気持ち、私にも分かるもん。
私だって、あのキーホルダーを失くしたらすごくショックだと思うし、
こう見えても、おしまいの日の事を考えると不安になってるんだよ?
そう見えないかもしれないけどね。
だから、あずにゃんの不安と悩みが分かるし、その悩みが晴れて本当によかったよ」
「おしまいの日……ね」
確かめるみたいに呟いてみる。
唯は終末の事を『おしまいの日』と呼んでいる。
不謹慎な気もするけど、何だか唯らしい可愛らしい呼び方だ。
そういえば憂ちゃんも、終末を『おしまいの日』って呼んでたはずだ。
平沢家ではそう呼ぶようにしてるのかもしれない。
考えてみれば、それぞれに思うところがあるのか、
私の周囲でも皆が終末を色んな名前で呼んでる気がするな。
まず私は単純に『世界の終わり』って呼んでる。
それは終末って非現実的な言葉に抵抗があるからでもあるけど、
もっと言うとそんな言葉を口に出す事自体が気恥ずかしいからだ。
だって、『終末』だぞ?
『終末』なんて、漫画やアニメ以外で聞く事はまずない。
後は宗教的な本や番組なら言ってるかもしれないけど、それにしたって日常的な話じゃない。
そんな言葉、普段の生活で簡単に口に出せるかっつーの。
そりゃたまには言わなくもないけど、日常会話としてはあんまり使いたくない言葉だ。
世界の終わりをちゃんと『終末』って呼んでるのは、私の周りじゃ和と澪に梓か。
皆、どっちかと言うと、生真面目なタイプだから、正式名称で呼んじゃうんだろう。
性格が出てて、ちょっと面白い。
ムギはどうだったかな……?
えっと……、確か『世界の終わりの日』って呼んでたはず。
私とほとんど同じだけど、ムギの呼び方の方が何だかムギらしい。
単にムギの口から終末って言葉が出るのが、似合わな過ぎるだけかもしれないけど。
特殊な呼び方は純ちゃんだ。
純ちゃんは『終焉』って呼んでた。
私の部屋で話をしてる時に何度もそう呼んでたから、私の耳が覚えちゃってる。
その度に妙にお洒落な呼び方だなと思ってると、梓が隣から私に耳打ちしてくれた。
どうやら純ちゃんは最近そういうゲームをプレイしたらしく、
『終末宣言』が発令されてからずっと終末を『終焉』って呼んでるんだそうだ。
漫画好きで影響されやすい純ちゃんっぽくて、何だか安心する。
確かそのゲームはオーディン何たらってゲームらしいけど、まあ、それは別にいいか。
510:にゃんこ:2011/08/31(水) 21:13:27.57:7SF4LcZt0
「りっちゃん……?」
妙に長く考え事をしてしまったせいか、唯が私の顔を覗き込みながら訊ねてきた。
「悪い。何でもない」と言ってから、私は唯の頭を撫でた。
唯が寂しそうな顔をしてる時に悪いんだけど、私は少し安心していた。
安心したせいで、ちょっと余計な事を考える余裕もできたんだろう。
安心できたのは、唯の悩みが世界の終わりの事じゃなく、梓の事だって気付いたからだ。
今の唯の顔は、卒業を目前にして梓の事を考える先輩の顔だって気付けたから。
もしも世界の終わりが無かったとしても、
普通の日常生活で起こったかもしれない悩みと寂しさを唯が抱えてるんだって。
だから、私は安心できてるんだ。
後はその安心を唯にも分けてあげればいいんだ。
少しだけ強く、私は唯の頭を撫でる。
「責めないでやってくれってのは、梓の事だけじゃないよ、唯。
自分の事も責めるなって事だ。
唯は梓の悩みを晴らすその場に居れなかった自分に罪悪感を抱いてんだろ?
梓の悩みに気付けなかった自分に、寂しさを感じてるんだろ?
そんな寂しさを唯が感じてるってだけで、梓は十分嬉しいと思うぞ?」
「でもでも……、昨日私はあずにゃんより憂の事を優先しちゃったし……。
あずにゃんの悩みがキーホルダーの事だったなんて、全然気付けなかったし……。
りっちゃんみたいに、あずにゃんを慰められなかったし……。
あずにゃんの事が大好きなのに、私、何もできなくて……」
「昨日、憂ちゃんと一緒に居たのは、
今日からの残り三日を梓の悩みを晴らすために使ってあげるためだったんだろ?
そんなおまえを責められる奴は、おまえ自身を含めていちゃ駄目だよ。
梓もそれを分かってるし、私の部屋でもずっとおまえの事を気に掛けてた。
前に一度、梓の落としたキーホルダーが戻って来た事があっただろ?
憶えてるか?
おまえが梓の名前を書いたシールを、キーホルダーに貼ってた時の事だよ。
梓はあのシールをはがした事をすごく後悔してた。
あのシールをはがさなきゃ、また自分の所に戻って来たかもしれないのにって。
勿論、シールを貼ってたからって戻って来るとは限らないけど、
おまえのおかげで戻って来たキーホルダーなのに、
それをもう一度落としてしまった事を、梓はすごく申し訳なく思ってた。
一度取り戻せたものをもう一度失くすなんて、そんな辛い事は無いからさ。
だからさ……、二人してお互いの事を考えて、自分を責め合うのはやめようぜ?
梓はおまえに会いたがってたし、おまえだって梓の事が大好きなんだろ?
だったら、大丈夫だよ」
511:にゃんこ:2011/08/31(水) 21:14:02.73:7SF4LcZt0
「りっちゃん……」
言いながら、唯が真剣な顔で私の方を見つめる。
その表情からは寂しさが少しずつ消えているように見えた。
寂しさの代わりに、決心が増えていく感じだ。
「りっちゃんはすごいなあ……」
不意に唯が呟いた。
いつもは私をからかうために使われる言葉だけど、
今回ばかりはその意味は無いみたいに見えた。
「すごいか、私?」
「すごいよ。
あずにゃんの悩みの原因に気付いちゃうし、私の事だって慰めてくれるもん。
流石はりっちゃん部長だよね」
「そう言ってくれるのは嬉しいけどさ、梓の悩みの原因に気付けたのは偶然だよ。
本当にたまたま、運が良かったから気付けただけだ。
梓の悩みの原因がキーホルダーの事だったなんて、私も思いも寄らなかったもんな。
唯が居ない間に梓の悩みを晴らしてやれたのも、単にタイミングの問題だと思うよ。
唯は運悪くタイミングが合わなかっただけだ」
「でも、やっぱりすごいよ。
もしも何かのきっかけで私があずにゃんの悩みの原因に気付けてたとしても、
そんなあずにゃんをどうすれば支えてあげられたか、全然分かんないもん」
「だから、そうじゃないよ、唯。
私はたまたま軽音部を代表しただけだと思う。
もしもその場に居たのが私じゃなくて唯だったら、
もっと上手く梓を支えてやれてたんじゃないかな。
勿論、ムギはムギで、澪は澪でそれぞれがそれぞれの方法で梓を支えたはずだよ。
私もあれで本当によかったのか分からないしな」
役不足って言われたし、とは私の胸の内だけで囁いた。
実はまだ梓の言葉の真意は分かってない。
そういや純ちゃんに役不足の意味を聞くのを忘れてたしな。
辞書で調べるのもすっかり忘れてた。
私じゃ梓の悩みを晴らすのには役不足だから(頼りないから)、
梓自身がしっかりしなきゃいけないと思ったって事でいいのかな……。
しずかちゃんがのび太を放っておけないから結婚してあげた的な感じか?
うわ、そう考えると、私って物凄く格好悪いじゃんか……。
自分自身の格好悪さに苦笑しながら、私は続ける。
「だから、自分を責めなくてもいいんだよ、唯。
おまえならきっと私よりも上手く梓を支えてやれる。
自信を持てって。梓はきっとおまえの事が大好きだよ」
それは誤魔化しも嘘偽りも無い私の本音だった。
私も梓の事を大切に思ってるけど、
多分、唯ほど梓の事を深く思ってやれてはいないと思う。
梓も役不足な私より、唯と会えて話せた方がきっと喜ぶはずだ。
それから、唯は私を真顔でしばらく見つめていて、
少しずつその表情が崩れて来て……、急に頭を掻きながら照れ笑いを浮かべた。
「でっへっへー。そうかなあ。
あずにゃん、私の事大好きかなあ。
いやはや、お恥ずかしい」
「立ち直り早いな、オイ!」
即座に私がチョップで突っ込むと、
唯は照れ笑いを浮かべたまま頬を膨らませた。
「えー……。
りっちゃんが自分に自信を持てって言ったんじゃん。
それとも、りっちゃんは私がずっと悩んでる方がよかったって言うの?」
「いや……、そうは言わんが……」
唯が元気になったのは嬉しいが、どうにも拍子抜けを感じるのも確かだった。
これまで梓達と長く話し合ってきただけに、余計にそう感じる。
517:にゃんこ:2011/09/02(金) 22:19:27.20:PfsZM32H0
でも、まあ、唯はそれでいいのかもしれない。
笑ったり、泣いたり、怒ったり、瞬く間に表情が変わる唯。
あまりにも簡単に表情が変わるから真意を掴みにくいけど、実はその全部が嘘じゃない。
唯は感情を誤魔化したりせず、そのまま受け止めて、そのまま表現してるだけなんだ。
自分の思ったままに、自然に生きてる。
それは簡単なようで、どんなに難しい事かを私は知ってる。
だから、皆、唯の事が眩しくて、好きなんだと思う。
勿論、私もそんな唯の事が大好きだ。
私は苦笑しながら、唯にチョップした手をノコギリみたいに前後に動かす。
「ま、いいや。
唯が立ち直ったんなら、私としても万々歳だよ。
その調子のままで早く梓に会いにやってやれよ。
あいつ、喜ぶぞ。勿論、ムギも。
ムギも唯と会いたがってたからさ」
「あいよー、りっちゃん!」
選手宣誓みたいに腕を上げて、元気よく唯が微笑む。
出会った頃から変わらない、世界の終わりを間近にしてもまだ変わらない逞しい笑顔。
この笑顔に私達は騙されてるんだよな。
唯の失敗や天然に困らせられる事もそりゃ多いけど、
この笑顔を見せられると別にいいかって思わせられてしまう。
特に長く唯の傍に居るだけに、和や憂ちゃんは私よりも強く騙されてるんだろうな。
でも、それもそれでよかった。
唯は騙すつもりもなくただ笑顔になって、私達はそんな唯の笑顔に騙されて、それでいいんだと思う。
それが私達の関係なんだ。
「そういえば、りっちゃん……」
急に真剣な表情に変えて、妙に深刻そうに唯が呟いた。
突然の事に気圧されそうになりながらも、私は唯の真剣な瞳を正面から見つめて訊ねてみる。
「どうしたんだ、唯?」
「さっきのりっちゃんの話の中で、
一つだけ気になる所があったんだけど……」
「私、何か変な事言ったっけ?」
「あずにゃんがりっちゃんの部屋で、私の事を気に掛けてたって言ってたでしょ?
りっちゃんの部屋……って?
あずにゃん、りっちゃんの家に来たの?」
「あー……」
妙な所で耳聡い奴だ。
聞き流してもいい所だったと思うけど、唯にとっては聞き逃せない話なのかもしれない。
そういえばメールで梓が家に泊まった事は書いてなかったしな。
別に隠さなきゃいけない話でもないし、私は正直に唯に説明する事にした。
「いや、昨日、梓が私の家に泊まりに来たんだよ。
私が誘ったからってのもあるけど、梓も私と話したい事がまだまだあったみたいでさ。
キーホルダーの事で、この一週間、ろくに話もできなかったしな。
だから、少しでもその時間が取り戻せればって、私も思ってさ。それで……」
「ずるいよ、りっちゃん!」
「いや、ずるいっておまえ……」
「私だってまだあずにゃんとお泊まり会なんてした事ないのにー!
しかも、『私の部屋』って事は、りっちゃんの部屋に泊まったって事だよね?
ずるいずるい! 私も私の部屋であずにゃんとお泊まり会したいー!
あずにゃんとパジャマパーティーしたいー!
あずにゃんとパジャマフェスティバルしたいー!」
「落ち着け」
518:にゃんこ:2011/09/02(金) 22:20:17.66:PfsZM32H0
軽音部で梓と一番仲がいいのは多分唯だ。
それを考えると、梓は誰より先に唯の部屋にこそ泊まりに行くべきだったんだろう。
実際に梓は、憂ちゃんの部屋には何回か泊まりに行った事があるらしい。
ただ唯のこの様子を見ると、梓じゃなくても唯の部屋に泊まるのは若干躊躇うな。
何をされるか分からんぞ。
その意味では、梓は賢明だったとも言えるかもしれん。
念のため、私は唯にそれを訊ねてみる。
「一つ訊いておくが、
その梓とのパジャマフェスティバルとやらで何する気だ」
「別に何も変な事はしません!
猫耳付けてもらったり、お風呂に一緒に入ったり、
私のベッドで一緒に寝たりしてもらうだけなのです!」
「それが既に変な事だという事に気付こう」
「えー……。
憂にはたまにやってもらってる事なのに……」
「そうか……。
おまえと憂ちゃんの関係に関してはもう何も言わんが、それを梓に求めるのはやめてやれ。
妹と後輩は違うものだからな。
違うものに同じ行為を求めるのは、お互いを不幸にするだけだぞ……」
「りっちゃんが珍しく知的な発言をしてる……」
「珍しくとは何だ!」
少し声を強くしてから、私は両手で唯の頬を包み込む。
それから指で唯の頬を掴むと、
「おしおきだべー」と言いながら外側に力強く引っ張った。
「いひゃい、いひゃいー……!
ごへんなさいー……!」
そうやって痛がりながらも、唯の表情は笑っているように見えた。
私が両側に頬を引っ張ってからでもあるんだけど、
それを前提として考えても、やっぱり唯の顔は嬉しそうに微笑んでるように見えた。
唯をおしおきしながら、私も気付けば笑顔になっていた。
これが軽音部なんだよなあ……、って何となく嬉しくなってくる。
いや、世間一般の軽音部とは大幅に違ってるとは思うけど、
こういうのこそが私達で作り上げた、私達だけの軽音部なんだ。
519:にゃんこ:2011/09/02(金) 22:20:57.90:PfsZM32H0
「もーっ……。
ひどいよ、りっちゃん。
お嫁に行く前の大切な身体に何してくれるの?」
十秒くらい後に頬を指から解放してやると、
唯は自分の頬を擦りながら軽い恨み事を口にした。
「心配するなって。
四十過ぎてもお嫁に行けてなかったら、私が責任取ってやるよ」
「えっ、りっちゃんがお嫁に貰ってくれるの?」
「いや、聡に嫁がせてやる。
そして私は小姑として、田井中家嫁の唯さんをいびってやるのだ。
あら、唯さん。このお味噌汁、お塩が濃過ぎるんじゃありませんこと?」
「りっちゃんの弟のお嫁さんか……。
それもありかもー」
「ありなのかよ!」
「いやー、りっちゃんの家族になるのって何か楽しそうだしー。
それに、そうなると私がりっちゃんの妹になるんだよね?
りっちゃんの事をお姉ちゃんって呼ばなきゃだよね。
ね、お姉ちゃん」
「自分で振っといて何だが、もうこの話題やめにしないか。
何つーか、それ無理……。
唯にお姉ちゃんって呼ばれるとか、正直無理……」
「あっ、お姉ちゃん、赤くなってるー」
「だから、やめい!」
また私が軽くチョップを繰り出すと、
唯が楽しそうに笑いながら頭でそれを受け止める。
もう何が何やら……。
色々と悩んでた事もあったはずだけど、
軽音部の仲間と居ると、特に唯と居ると悩みが何もかも吹き飛んじゃう感じだ。
簡単に言うと唯が空気を読めてないだけなんだろうけど、
世界の終わり直前の空気ってのは本当は読む必要なんてないのかもしれない。
唯と居るとそんな気がしてくるから不思議だった。
私は溢れ出る笑顔を止められないまま、笑顔で続ける。
「もういいから、早く音楽室に行こうぜ。
梓もムギもそろそろ待ちくたびれてる頃だよ。
それに心配しなくても大丈夫だぞ、唯。
昨日は別に梓と二人きりでパジャマフェスティバルをしたわけじゃないんだ。
ムギと純ちゃんも泊まりに来て、四人でお喋りしてたんだよ。
梓と二人きりのパジャマフェスティバルは、今度おまえが存分にやればいい」
「そうなんだ……。
それもちょっと残念かなー。
あずにゃんとりっちゃんが、
私の知らない所でラブラブになったのかと思って楽しみにしてたのに……」
「おまえは一体、何を求めてるんだ……。
まあ、とにかく、そんなわけで早く戻ろうぜ。
私なんか誤魔化して出て来ちゃったわけだから、そろそろ不審に思われてるだろうしさ」
520:にゃんこ:2011/09/02(金) 22:23:51.62:PfsZM32H0
「そういえば、どうやって誤魔化して出て来たの?」
「『そろそろ唯か澪が来る頃だろうから、ちょっと校門まで見に行ってくる』ってさ。
澪はまだ来てないけど、今からおまえと一緒に戻れば嘘にはならないだろ。
過去を捏造する事で有名な私ではあるけど、
ネタ無しでの誤魔化しや捏造は意外と心苦しいんだよ。
私ってば結構善良で臆病な小市民だからさ」
「どうもご迷惑をお掛けしました、りっちゃん隊長」
「分かればよろしい、唯隊員」
「あ、でも、迷惑掛けついでに最後に一つだけ訊きたいんだけど、いいかな?」
「何だね、唯隊員」
「あずにゃん、どうやって納得してくれたのかなって。
キーホルダーを失くして、一週間も捜し回ってて、
そのキーホルダーはまだ見つかってないんだよね?
でも、あずにゃんはりっちゃんのおかげで、キーホルダーを失くした悩みが解決したんでしょ?
私、それを一番聞きたくて、りっちゃんに教室に来てもらったんだ……」
そう言った唯の表情は、今まで見た事が無いくらいに真剣だった。
一番聞きたかったってのも、本心からの言葉なんだろう。
だったら、私にできるのは唯の言葉に真剣に答えてやる事だけだ。
「別に私のおかげじゃないよ、唯。
梓は私達を信じてくれたんだ。言葉に出すのは少し照れ臭いけど、私達の絆ってやつをさ。
梓はキーホルダーっていう形のある思い出じゃなくて、
形が無くて目にも見えない私達の思い出や絆を信じてくれる気になってくれたんだ。
私は梓がそれを信じられるように、ほんの少し梓の背中を押してあげただけ。
その絆を私自身も信じようと思っただけなんだ。
私にできたのはそれだけの事で、それを信じられたのは梓自身が強かったからだよ」
「そっか……。
でも、それならやっぱりあずにゃんが安心できたのは、りっちゃんのおかげだよ。
形が無いものを信じさせてあげられるなんて、すごく大変な事だよ?
やっぱり、りっちゃんはすごいなあ……。流石は部長だよね……。
だって……」
「だって……?」
私が呟くと、唯は机に掛けていた自分の鞄の中にゆっくりと手を突っ込んだ。
それから鞄の中にある何かを探し当てると、おもむろにそれを私に手渡した。
何かと思い、手渡されたそれに私は視線を向ける。
「写真……か?」
自分自身に確かめるみたいに呟く。
いや、確かめるまでもない。唯が私に手渡したのは、確かに写真だった。
軽音部の皆が写った一枚の写真。
写真を撮るのが好きな澪が所属してる我が軽音部だ。
部員の皆が写った写真は別に珍しくも何ともないけど、その写真は何処か不自然な写真だった。
その写真の中では、私だけ前に出てておでこしか写ってなくて、唯、澪、ムギは後ろで三人で並んでいる。
勿論、部員皆の写真なんだから、梓もその写真の中に居た。
でも、その梓の姿だけが不自然に浮いている。
空気や雰囲気的な意味で浮いてるんじゃなく、梓の上半身だけが本当の意味で宙に浮いていた。
別に心霊写真ってわけじゃない。
私達四人が写った写真に、別撮りの梓の写真を貼り付けてるってだけの話だ。
つまり、単純な合成写真ってやつだ。
「私ね……」
私がじっくりとその写真を見つめていると、不意に唯が囁くみたいに喋り始めた。
「昨日、憂とその写真を作ったんだ……。
あずにゃんの悩みが何なのかは分からないけど、
離れてたって私達はずっと一緒だよ、ってそれを伝えようと思って……。
別々に撮った写真でも、こんな風に一緒に居られるみたいにねって。
でも、この写真、もう無駄になっちゃったかな……?」
523:にゃんこ:2011/09/05(月) 21:58:54.68:x5w3qp9J0
そこでようやく私は唯が寂しそうな顔をしてる本当の理由に気付いた。
自分が間違えた事を言ったとは思っちゃいないけど、
ある意味で私の言葉は失言だったのかもしれない。
私が私で梓の悩みに向き合ってる時に、
唯も別の方法で梓の悩みに向き合おうとしてた。
目指した場所は一緒だけど、二人の選んだ道は別々で、
しかも、ほんの少しのタイミングの問題で、
私の選んだ道が梓の悩みを晴らしてあげられる結果になった。
梓が形の無い絆を信じてくれる結果になった。
唯の選んだ道も間違っていないのに、
結果的には唯の選んだ方法は私と正反対になってしまっていたんだ。
だから、唯はほんの少し寂しそうなのかもしれない。
私を羨ましく思ってしまうのかもしれない。
でも、羨ましいと思ってしまうのは、私も一緒だ。
私は手を伸ばして、唯の頬を軽く撫でる。
「何言ってんだよ、唯。
思い出の品が必要なくなっちゃうなんて、そりゃ極論だろ。
形の無いものを信じるのは大切な事だけどさ、形があるものだって大事だよ。
何のためにお土産があるんだ。何のために世界遺産は残ってるんだ。
自分達のしてきた事を形として残したいからじゃんか。
自分達の思い出を目に見える形にしておきたいからじゃんか。
私達だって、旅行先だけじゃなく、
撮る必要がほとんど無い時でもたくさん写真を撮ってたのは、
思い出を形にしておきたかったからだろ?
色んな事を忘れたくなかったからだろ?
だからさ、おまえの作った写真は無駄にはなんないよ。
梓もきっと喜ぶ。
キーホルダーの代わりってわけにはいかないだろうけど、
新しいおまえとの絆として大切にしてくれるよ」
「でも……、ううん、そうだよね……。
あずにゃん、喜んでくれるよね……。
ごめんね。私、りっちゃんの事が羨ましかったんだ。
私が考えてたのより、ずっと素敵な方法であずにゃんを支えてあげられるなんて、
すっごく羨ましくて、ちょっと悔しかったんだ……。
あずにゃんの事、ずっと見て来たつもりだったのに、
あずにゃんの事でりっちゃんに先を越されちゃったから……。
それが悔しくて、それを悔しがっちゃう自分が、何だか一番悔しかったんだよね……。
ごめんね、りっちゃん……」
「馬鹿、私だっておまえの事が羨ましかったよ、唯」
「私の事が……?」
うん、と私は唯の言葉に頷く。
選んだ道は違うけど、違うからこそ羨ましかった。
私には唯とは違う方法で梓を支える事ができた。
でも、唯は私とは違う、私には思いも寄らない方法で梓を支えようとしてた。
それが羨ましくて、ちょっと悔しくて、とても嬉しい。
524:にゃんこ:2011/09/05(月) 21:59:26.73:x5w3qp9J0
「特に何だよ、おまえ。
こんな写真作っちゃってさ……、カッコいいじゃんかよ。
何、カッコいい事やってんだよ、唯。
ホント言うとさ、私なんか、梓の前でオロオロしてただけだったんだぜ?
梓の悩みが何か分からなくて、梓の悩みを探る事ばかり考えてた。
でも、違ったんだな。他の方法もたくさんあったんだよな。
梓の悩みが何なのか分からなくても、
おまえみたいな方法で支えてやる事だってできたんだ。
新しい思い出で、悩みを一緒に抱えてやる事だって……。
私はそれを思い付かなかった自分が悔しいし、それを思い付けたおまえが羨ましいよ。
だから、お相子だな。
私もおまえも、自分にできない事をしたお互いが羨ましいんだ。
悔しい事は悔しいけどさ、今はそれを嬉しく思おうぜ。
二人とも梓の事を真剣に考えて、別々の解決策を見つけられたんだからな。
それってすごい事じゃないか?」
「すごい……かな。
ううん、すごいよね。
後輩を助けてあげられる方法を先輩が別々に二つも思い付くなんて、
そんなに大切に思われてるなんて……、あずにゃんの人徳ってすごいよね!」
「そっちかよ。
……でも、確かにそうだな。
生意気だけどさ、そんなあいつが大切だから、私達も一生懸命になれたんだよな。
あいつが居なきゃ、私も私でいい部長を目指せなかったかもしれない。
その意味では梓に感謝しなきゃな」
「りっちゃんは最初から私達の素敵な部長だよ。
勿論、澪ちゃんやムギちゃんも素敵な仲間だもん。
やっぱり軽音部のメンバーは誰一人欠けちゃいけない素敵な仲間達だよね」
「あんがとさん。
おまえこそ、素敵な部員だよ、唯。
そもそもおまえが居ないと軽音部は廃部になってたわけだしな。
そういう世知辛い意味でも、私達は誰一人欠けちゃいけない仲間だ」
「それを言っちゃおしまいだよ、りっちゃん……」
笑いながら「まあな」と言って、唯に手渡された写真にまた目を下ろす。
いつ撮った写真かは思い出せないけど、若干写真の中の私達の姿が今よりも若く見えた。
大体、梓抜きで集合写真を撮る事なんて、
二年生になってからはほとんどなかったはずだから、
この写真は私達が一年生の頃に撮った写真なんだろう。
合成された梓の写真も多分梓が一年生の頃の写真に違いない。
いや、梓の写真の方は自信が無いけど。
梓ってば、中身はともかく、外見が全然変わってないからなあ……。
しかし、それより気になるのは写真の中の私の姿だ。
唯達は並んで仲睦まじそうに写ってるのに、何故だか私だけおでこしか写っていない。
いや、前に出過ぎた私が悪いのは分かってるけど、何となく納得がいかなかった。
私は腕を組み、頬を膨らませながら唯に文句を言ってみる。
525:にゃんこ:2011/09/05(月) 21:59:59.94:x5w3qp9J0
「ところで唯ちゅわん。
どうして私だけ顔も写ってないこんな写真を選んだのかしらん?
もっと他にいい写真があったんじゃないのかしらん?」
「えー、いいじゃん。
だって、この写真が一番私達らしいって思ったんだもん。
りっちゃんだって、一番りっちゃんらしく写ってるよ?」
「私らしい……か?」
「うん!」
自信満々に唯が頷く。
その様子を見る限り、少なくとも冗談でこの写真を選んだわけじゃなさそうだ。
「りっちゃんらしい」って、そう言われちゃ私の方としても何も言えなくなる。
恥ずかしながら、確かに私らしいとは自分で思わなくもないし……。
仕方が無い。
唯だって真剣にこの写真を選んだんだろう。
納得はいかんが、これが私達らしい姿だってんなら、私もそれをそのまま受け入れよう。
でも、まだ納得できない……と言うより、もう一つだけ分からない疑問が残っていた。
「それで、唯?
何でこの写真は私達が一年生の頃の写真なんだ?
梓の写真はいいとして、私達が一年の頃の写真じゃなくても他に色々あっただろ?」
「分かってないね、りっちゃん。
これはね、私達とあずにゃんが違う学年で産まれて来ちゃって、
学校で同じ行事を過ごす事はできなかったし、私達が先に卒業もしちゃうけど……。
だけど、学年は違っても、
この写真みたいに心は一緒に居る事ができるからって、
いつまでも仲間だからって、そういう意味を込めて作った写真なんだよ」
「おー、すげー……」
「……って、憂が言ってました!」
「私の言ったすげーを返せ!」
声を張り上げながら、私は妙に納得もしていた。
考えてみれば、憂ちゃんも梓と同じく後に残される立場だ。
妹だから当たり前だけど、憂ちゃんは梓以上に何回も唯に取り残されてきたんだ。
その寂しさを知ってる憂ちゃんだからこそ、
梓の事を心配できたし、梓が一番喜ぶだろう写真の選択もできたんだろうな。
まったく……、梓の奴が何だか羨ましいな。
憂ちゃんにも純ちゃんにも心配されて、
軽音部の皆から気に掛けられて……、それだけ誰からも大切にされてるって事なんだろうな。
私は少しだけ苦笑して、手に持っていた写真を唯に返す。
「さ、そろそろ本当に帰ろうぜ。
その写真、早く梓に渡してやれ。きっと喜ぶぞ。
憂ちゃんが言ってた云々は……、まあ、おまえが言いたければ言えばいいんじゃないか。
色々と台無しな気もするが、それはそれで唯らしいしな」
526:にゃんこ:2011/09/05(月) 22:00:29.42:x5w3qp9J0
言ってから、私は和の席から立ち上がろうとして……、
急に唯に制服の袖を引かれた。
何かと思って目をやると、
「ほい」と言いながら唯が写真を私にまた渡そうとしていた。
「何だよ、私にその写真を梓に渡させる気か?
そんなの駄目だよ。
おまえ自身が梓に手渡す事に意味があるんだからさ」
諭すみたいに私が言うと、急に真剣な表情になった唯が頭を横に振った。
その唯の表情はこれまでのどの表情よりも寂しそうに見えた。
「違うよ、りっちゃん。
あずにゃんに渡す写真はちゃんとあるから大丈夫。
憂がパソコンで何枚も作ってくれたから、あずにゃんにはそっちを渡すよ。
だからね、その写真はね……、りっちゃんのなんだよ?」
「私……の……?」
「りっちゃんも私達の仲間でしょ?
それとも……、私達といつまでも仲間で居たくない?
高校生活が終わったら……、
ううん、おしまいの日が来たら、私達の仲間関係はおしまいになっちゃうの?」
「そんな事……、あるわけないだろ……?
私達はいつまでも仲間だよ、唯……」
「……だよね?
だから、私はりっちゃんにもこの写真を持ってて欲しいんだ。
実はね、この写真、あずにゃんのためだけじゃなくて、
りっちゃんにも渡したくて作ったんだよ?」
予想外の唯の言葉に、私は何も言えなくなる。
これまで考えてもなかった展開に、自分の胸の音が大きくなっていくのを感じる。
唯は寂しそうに微笑んだまま、続ける。
「りっちゃんさ……、最近、すっごく悩んでたでしょ?
あずにゃんの事もだけど、他にも多分色んな事で……。
分かるよ。最近のりっちゃん、すごく辛そうだったもん。
勿論、あずにゃんの事は心配だったけど、私はりっちゃんの事も心配だったんだ。
あずにゃんと同じくらい、りっちゃんの事も大切だから……」
527:にゃんこ:2011/09/05(月) 22:01:00.50:x5w3qp9J0
別に嫌われてると思ってたわけじゃないけど、唯の発言は衝撃的だった。
唯は一緒に居ると楽しくて、すごく大切な友達だけど、
そんな風に考えていてくれるなんて思ってなかった。
私の事をそんなに見てくれてるなんて、考えてなかった。
考えるのが恐かった。
だって、そうだろ?
仲がいいと思ってる友達の中での自分の位置がどれくらいかなんて、恐くてとても考えられない。
だから、私はその辺について深く考えないようにしてた。
梓の件でだって、例え梓に嫌われてても、自分が梓を大切に思ってればそれでいいんだと思ってた。
私が誰かの大切な存在になれるだなんて、そう思うのは自意識過剰な気がしてできなかった。
でも、唯は私の事を、私が思う以上に見てくれていた。
私の事を大切だと言ってくれた。
それだけの事で、胸の高鳴りが止まらない。
言葉に詰まる。
泣いてしまいそうだ。
そうして何も言わない私を不安に思ったのか、唯が自信なさげに呟く。
「私、軽音部の部長でいてくれたりっちゃんにすごく感謝してるんだ。
りっちゃんが居なきゃ音楽を始める事なんてなかったと思うし、
澪ちゃんや、ムギちゃん、あずにゃんやギー太とだって会えてなかったと思う。
私の高校生活、本当に楽しかったのはりっちゃんのおかげなんだ。
だからね、私はりっちゃんの事が大好きだよ。
大好きだから心配で……、とっても心配で……。
でも、今日久し振りに元気そうなりっちゃんを見られて、すごく嬉しかった。
りっちゃんは……、どう?
私にこんな風に思われて、迷惑じゃない?」
迷惑なわけがない。
でも、口を開けば泣いてしまいそうで、言葉にできない。
写真を受け取ってから私は和の席にまた座り込んで、
今にも涙が流れそうになりながらも、それでも唯の瞳だけはまっすぐに見つめる。
これだけで唯に伝わるだろうか?
泣いてしまいそうなほど嬉しい私の想いを伝える事はできただろうか?
誰からも大切に思われてないって思ってたわけじゃない。
それほど悲観的な考え方はしてないつもりだ。
でも、暴走しがちで皆に迷惑ばかりかけてる私が、こんな私が大切に思われてるなんて……。
それが、こんなにも、嬉しい。
それを気付かせてくれたのは唯だ。
唯は単純で、正直で、普通なら照れて言い出せない事でも平然と言い放つ子で……。
そんなまっすぐに感情や想いを表現してくれる子だから、唯の言葉には何の嘘も無い事が分かる。
唯以外の皆も私の事を考えてくれてるって気付ける。
私達はいつまでも仲間なんだって、確信できる。
「迷惑じゃ……ない。あり……」
やっぱり言葉にならない。
自分の想いを言葉にして伝えられない。
でも……。
唯は嬉しそうにいつもの笑顔を浮かべて、私の右手を両手で包んでくれた。
530:にゃんこ:2011/09/07(水) 21:27:19.45:tJM7Uq2s0
○
唯には先に部室に行ってもらって、私は少しだけ教室に残る事にした。
胸が詰まって、皆の前には顔を出せそうになかったからだ。
まだ泣いてるわけじゃないけど、ちょっとした事で大声で泣き出してしまいそうだ。
それは悲しみの涙じゃないけれど、皆の前で見せるのはちょっと恥ずかしかった。
ネタや悲しい涙ならともかく、
嬉しさから出る涙はあんまり人前で見せたいもんじゃないからな。
今頃、唯は謝る梓を笑って許して、いつもと変わらず梓に抱き付いてる事だろう。
いや、いつもとは言ってみたけど、そういえばこの一週間、唯は梓に抱き付いてない気がする。
梓が悩む姿を見せるようになってから、多分、一度も抱き付いてないはずだ。
自由に見える唯だって、空気が読めないわけじゃない。
梓が笑顔を取り戻せるようになってからじゃないと抱き付けなかったんだろう。
だから、唯は今、笑顔を取り戻した梓に存分に抱き付き、強く抱き締めてるに違いない。
これまで抱き付けなかった分、そりゃもう強く、強く……。
梓もそんな唯の姿に安心して、私と同じように嬉しさの涙を流しそうになってるかもな。
もしかしたら、唯だけじゃなく、ムギも梓に抱き付いてるかもしれない。
ムギだって梓の事を心配してたんだし、ムギが梓に抱き付いちゃいけないなんて決まりも無い。
唯が嬉しそうに梓に抱き付いてるのを見ると、私だってたまに梓に抱き付きたくなるもんな。
三人はそうして、今まで心を通わせられなかった時間を取り戻してるはずだ。
世界の終わりを間近にして、それでもギリギリでいつもの自分達を取り戻す事ができるはずだ。
できれば私もその場に居たかったけど、そういうわけにもいかなかった。
それは三人に涙をあんまり見せたくないからでもあったけど、
それ以上に私には最後に伝えなきゃいけない答えがまだあったからだ。
梓の悩みをきっかけに、私達放課後ティータイムは深く自分達の事について考えられた。
長い時間が掛かったけど、皆がそれぞれの答えを出して、
それぞれが世界の終わりに向き合って、どう生きていくか決める事ができた。
変な話だけど、梓が悩んでくれた事で、私達はまた強く一つになれたんだと思う。
だから、私がこれから伝えなきゃいけないのは、単なる個人的な問題の答えだ。
別にその答えがどんなものでも、私達が放課後ティータイムである事は変わらない。
必ず伝える必要がある答えでもない。
答えを伝えなくても、曖昧なままでも、私だけじゃなく、
あいつだって最後まで笑顔のまま、放課後ティータイムの一員でいられるはずだ。
曖昧なままで終わらせてもいい私達の最後の個人的な問題。
それはそれで一つの選択肢だけど、私はそれをしたくはなかった。
馬鹿みたいな答えしか出せてないけど、私はあいつにそれを伝えたい。
それが、私と私達が、最後まで私と私達でいられるって事だから。
だからこそ、私は教室に残ったんだ。
二人の関係にとりあえずでも、結論を出してみせるために。
予感があった。
いや、予感と言うより、経験則って言った方が正しいかもしれない。
経験則ってのは、経験から導き出せるようになった法則って意味でよかったはずだ。
その意味で合ってるとして、私はその経験則から教室に残った。
あいつは登校した後、間違いなく最初にここに来る。
部室に顔を出すより先に、私と二人きりで会おうとする。
皆の前で笑顔でいられるために、最初に私と話をしておきたいって考える。
それで何処に私を呼びだそうか考えるために、とりあえず教室に足を踏み入れるはずだ。
……って私が考えるだろう事を、あいつは分かってる。
分かってるから、今、あいつは自分を待つ私に会いに教室に向かっている。
そうして教室に向かって来るあいつを、私は待つ。
そんな風に私達はお互いが何を考えているか分かってしまっている。痛いくらいに。
だから、待つ。
心を静め、高鳴る胸を抑えて、自分の席に座ってその時をじっと待つ。
多分、その時はもうすぐそこにまで迫ってる。
それから数分も経たないうちに。
耳が憶えてるあいつの足音が近付いて、
教室の扉が開いて、
少し震えた声が、
教室に響いた。
「……おはよう、律」
ほら……、な。
私は立ち上がり、声の方向に視線を向ける。
震えそうになる自分の声を抑えながら、言った。
「よっ、澪。
……久しぶり」
531:にゃんこ:2011/09/07(水) 21:27:48.16:tJM7Uq2s0
○
会わなかったのは一日だけだったけれど、澪と会うのはすごく久しぶりな感じがした。
たった、一日。だけど、一日。
特に世界の終わりが近くなった一日を澪と離れて過ごすなんて、
思い出してみると気が遠くなるくらい長い時間だった。
片時も澪の事を忘れなかったと言ったら流石に嘘になるけど、
それでも、心の片隅にずっと澪が居たのは確かだし、
誰かと話してる時にもまず最初に考えてしまうのは澪の反応だった。
私がこうしたら澪はどう反応するんだろう。
私がこの言葉を言ったら澪はどんな話をし始めるんだろう。
そんな風に、何をする時でもそこには居ない澪の反応が気になってた。
そうだな。そう考えると、澪が居たのは私の心の片隅じゃない。
澪は私の心の真ん中をずっと占領していたんだ。
だから、一日会わなかっただけで、澪の存在がこんなにも懐かしいんだ。
「よっ、律……」
言いながら、澪はまず自分の席に近付いて行く。
私の「久しぶり」という挨拶については、何も突っ込まなかった。
澪も私と同じように考えているんだろう。
こう考えるのは自信過剰かもしれないけど、
多分、澪も自分が何かをしようとする時には、私の反応を気にしてくれてるはずだ。
去年の初詣だったか、私が電話を掛けると急に澪に怒られた事がある。
「今年は絶対騙されないからな」と、意味も分からず私は澪に怒られた。
澪が言ってるのがそれより更に一年前の初詣の事だと気付いたのは、結構後にムギに指摘されてからだ。
そういえば一昨年の初詣の時、
私は澪に晴れ着を着てくるのか聞いて、澪にだけ晴れ着を着させた事があった。
晴れ着を着るかと私が聞けば、真面目な澪は皆が晴れ着を着るって勘違いすると思ったんだ。
私の狙い通り、澪は一人だけ晴れ着を着て来て、恥ずかしそうにしていた。
からかうつもりがあったのは否定しないけど、
そんな事をした本当の理由は澪の晴れ着が見てみたかったからだ。
勿論、そんな事を口に出す事は、これからも一生ないだろうけど。
例え澪と恋人同士になったとしても、な。
とにかく、去年の初詣の時、澪はそういう理由で私を怒ったみたいだった。
そんな事気にせずに好きな服を着ればいいのに、澪はどうしても私の反応が気になるらしい。
「澪ちゃんはいつもりっちゃんの事を気にしてるんだよ」って、
去年の初詣前の事情を話した時にムギが妙に嬉しそうに言っていた。
何もそこまで、とその時は思わなくもなかったけど、
今になって考えてみると、私も人の事を言えた義理じゃない。
小さな事から大きな事まで、私の行動指針の中央には確かに澪が居る。
和と澪が仲良くしてるのが何となく悔しくて、
澪に嫌われたかもって考えた時には、恥ずかしながら体調を崩しちゃったくらいだしな。
いや、本当に今思い出すと恥ずかしいけどさ。
どんな時でも、そんな感じで私達はお互いの事を意識し合ってる。
それくらい私達はお互いの存在をいつも感じてる。
いつからこうなったんだろう……。
嫌なわけじゃないけど、何となくそう思う。
最初は特別仲良しだったわけじゃない。
元々は正反対な性格だったし、澪の方も最初は私を苦手に思ってた感じだった。
それなのに少しずつ二人の距離は近付いていって、
一日会わなかっただけでお互いの存在が懐かしくなるくらい身近になった。
禁忌ってほどじゃないけど、女同士で恋愛関係にさえなりそうになるくらいに。
そんな中で私に出せた答えは……。
535:にゃんこ:2011/09/12(月) 21:24:05.48:ouRyDjbN0
「梓の悩み、分かったんだな……」
自分の席に荷物を置きながら、小さく澪が呟いた。
その言葉からはまだ澪の真意や心の動きは掴めない。
「まあな。梓、おまえにも謝りたがってたよ。
後で会いに行ってやれよ」
「ああ……。
でも、まさかキーホルダーを失くした事で、
梓があんなに悩んでくれてたなんて思いもしなかったよ。
そんな小さな事であんなに……」
「小さな事に見えても、梓の中ではすごく大きな事だったんだ。
それに、人の事は言えないだろ?
私達も……さ」
「小さな悩み……か。
うん……、そうかも、しれない。
生きるか死ぬかって状況の時なのにさ、私は何を悩んでるんだろうな……」
少しだけ、澪が辛そうな表情をする。
ちっぽけな悩みやちっぽけな自分を実感してしまったのかもしれない。
死を目前にすると、悩みなんて何処までも小さい物でしかない。
勿論、私自身も含めて、だ。
私も『終末宣言』後、小さな事で心を痛め、死の恐怖に怯え、
声にならない叫びを上げそうになりながら、無力な自分に気付く。
その繰り返しを何度も続けるだけだった。
世界の終わりを間近にした人間がやる事なんて、何もかもがちっぽけなんだろう。
これから私がやろうとしている最後のライブだって……。
私は自分の席から立ち上がって、まだ立ったままの澪に近付いていく。
澪は動かず、近付く私をただ見つめている。
澪の前の……、いちごの席くらいにまで近付いてから、私はまた口を開いた。
「小さな悩みだよ、私達の悩みも。
すっげーちっぽけな悩みだ。
世界の終わりが近いのに、私達二人の関係なんかを悩んでる。
小さいよな、私達は……」
私の言葉に澪は何も返さない。
視線を落とし、唇を噛み締めている。
無力で弱い自分を身に染みて感じてるみたいに見える。
昔から、澪は弱い子だった。
恥ずかしがり屋で、臆病で、弱々しくて、
私より背が高くなった今でも何処までも女の子で……。
そんな風に、弱くて、儚い。
私の、
幼馴染み。
私はそんな弱くて儚い澪を、何も言わず見据える。
ちっぽけな私達を、もうすぐ終わる残酷な世界の空気が包む。
心が折れそうになるくらい、辛い沈黙。
言葉を失う私達……。
だけど。
不意に視線を落としていた澪が、顔を上げた。
強い視線で、私を見つめた。
辛そうにしながらも、言葉を紡ぎ出してくれた。
「でも……、でもさ……、律……。
小さい悩みだけど、その悩みは私にはすごく大きい悩みなんだ……。
終末の前だけど……、そんな事関係なくて、
ううん、終末なんかより私には大きい悩みでさ……。
馬鹿みたいだけど、それが私が私なんだって事で……。
上手く言えないけど……、上手く言えないんだけど……」
言葉がまとまってない。
言ってる事が無茶苦茶だ。
多分、澪自身も自分が何を言いたいのか分かってないんだろう。
でも、馬鹿みたいだと思いながらも、澪は自分の悩みを大きい物だと言った。
それくらい大きな……、大切な悩みなんだって、自分の口から言葉にして出してくれたんだ。
536:にゃんこ:2011/09/12(月) 21:25:00.92:ouRyDjbN0
「そうだよな……。馬鹿みたいだよな……」
私は囁くみたいに言った。
でも、それは辛いからじゃなくて、全てを諦めてるからでもない。
上手くなくても、自分の想いを澪が口にしてくれたのが嬉しかったからだ。
私は沈黙を破り、澪に伝えたかった言葉をまっすぐにぶつける。
「馬鹿みたいだし、何もかも小さい悩みなんだって事は分かってる。
私なんて物凄くちっぽけな存在で、
多分、居ても居なくてもこの世界には何の関係も無いんだろうな、とも思うよ。
私はそれくらい小さくて、そんな小さい私の悩みなんてどれくらい小さいんだって話だよな。
でもさ……、やっぱりそれが私でさ。
小さくて、世界の終わりの前に何もできなくても、私は生きてるんだ。
誰にとっても小さくても、私だけは私の悩みを小さい悩みなんて思いたくない。
大きくて大切な悩みなんだって思って、抱え続けたいんだ。
勿論、澪の悩みもな」
澪は何も言わなかった。
これまでみたいに、言葉を失ってるわけじゃない。
多分、私の真意が分かって、少し呆れてもいるんだろう。
しばらくして、澪はいつも見せる苦笑を浮かべながら呟いた。
「……試したのか、律?」
「別に試したわけじゃないぞ。
澪の気持ちを澪の口から聞きたかったんだ。
澪ってば、自分の気持ちを中々口にして出さないからさ。
その辺の本当の気持ちを聞いときたかった。
ごめんなー、澪ちゅわん」
「何だよ、その口調は……。
私は律が思うほど、自分の気持ちを隠してるわけじゃないんだぞ。
律は昨日、私が律の事を思って、
ずっと泣いてたって思ってるかもしれないけど、お生憎様、そんな事は無いぞ。
そりゃ律の事は考えてはいたけどさ、でも、それだけじゃないぞ。
ちゃんと新曲の歌詞を考えたりもしてたんだ。
おかげで律が感動して泣き出しちゃうくらいいい歌詞が書けたんだからな。
後で見せてやるから、覚悟しとけよな」
多少の強がりはあるんだろうけど、澪のその言葉は力強くて心強かった。
昔から、澪は弱い子だった。
でも、それは昔の話だ。
今もそんなに強い方じゃないけど、弱さばかり目立ってた昔とは全然違う。
澪は強くなったと思う。高校生になってからは特にだ。
それは私のおかげ、と言いたいところだけど、私のおかげだけじゃないだろうな。
唯やムギ、和や梓……、
色んな仲間達との出会いのおかげで、澪は私が驚くくらい強くなった。
そうでなきゃ、私と恋人同士になりたいなんて言い出さなかっただろうしな……。
昔の澪なら、仮にそう思ったとしても、
言い出せずにずっと胸にしまい込んでるだけだっただろう。
強くなったんだな、本当に……。
私はそれが少し寂しいけれど、素直に嬉しくもある。
「私の事を一日中考えてたわけじゃなかったのは残念だが、その意気やよし。
それにさ、小さな悩みだって分かってても、
それが世界の終わりより大きな悩みだって言えるなんてロックだぜ、澪。
世界に対するいい反骨心だ。
それでこそ我等がロックバンド、放課後ティータイムの一員と言えよう。
褒めてつかわすぞよ」
「……なあ、律。
今更、こんな事を聞くのは、おかしいかもしれないんだけど……」
「どした?」
「放課後ティータイムってロックバンドだったのか?」
本当に今更だな!
と突っ込もうとしたけど、私の中のもう一人の私が妙に冷静に分析していた。
実を言うと、前々からそう考えてなくもなかったんだ……。
軽音部で私がやりたいのはロックバンドだったし、
甘々でメルヘンながらも放課後ティータイムは一応はロックバンドだと思おうとしてた。
しかし、よくよく考えてみると、やっぱりロックバンドじゃない気がどんどん湧いて来る。
そういえば、今日の放送で紀美さんが言っていた。
ロックってのは、曲の激しさじゃなくて、歌詞や心根が反骨的かどうかなんだって。
537:にゃんこ:2011/09/12(月) 21:26:10.27:ouRyDjbN0
……やっべー。
放課後ティータイムの曲の中で、反骨的な歌詞の曲が一曲も無い気がする……。
いや、そんな事は無いはずだ。
いくらなんでも、一曲くらいはあってもいいはず。
えっと……、ふでペンだろ?
それとふわふわ、カレー、ホッチキス……。
ハニースイート、冬の日、五月雨にいちごパフェにぴゅあぴゅあ……。
あとはときめきシュガーとごはんはおかず、U&Iなわけだが……。
あー……。
見事なまでに反骨的な歌詞が無いな……。
作詞の大体を澪に任せたせいってわけじゃない。
ムギの作曲と唯の歌詞のせいでもある。
考えてみれば、放課後ティータイムの中で辛うじてロックっぽいのが私と梓しか居ない。
しかも、その二人が揃いも揃って、作詞も作曲もしてないわけだから、
そりゃ何処をどうやってもロックっぽい歌詞が出てくるわけが無いよな……。
そう考えると放課後ティータイムは、
ガールズバンドではあってもロックバンドとはとても言えんな……。
私は溜息を吐いて、澪の肩を軽く叩いた。
頬を歪めながら、苦手なウインクを澪にしてみせる。
「何を言ってるんだ、澪?
放課後ティータイムはロックバンドだぜ?」
「えっ……、でも……。
ほら、歌詞とか……さ。
私、ロックをイメージして作詞してないし、唯だって……」
「いや、ロックバンドなんだよ。
ロックバンドでありながら、反骨的な歌詞が無いというのが反骨的なんだ。
ロックに対するロック精神を持つロックバンド。
それが放課後ティータイムなのだよ、澪ちゃん……!」
「何、その屁理屈……」
澪が呆れ顔で呟く。
私だって、放課後ティータイムがロックバンドじゃないという事実は分かっている。
分かってはいるが、分かるわけにはいかん。
「まあ、律がそれでいいなら、それでいいけど……」
「そう。私はそれでいい。
……って事にしといてくれれば、助かる」
「それより、律?
私の方の昨日の話はしたけど、そっちは昨日はどうだったんだ?
どんな風に……、過ごしてたの?」
「気になるか?」
私が訊ねると、うん、と小さく澪が頷く。
私だって、澪が昨日過ごしたのか気になってたんだから、澪の言葉ももっともだった。
一日会わなかっただけだけど、その一日が気になって仕方ないんだよな、私達は。
ずっと傍に居た二人だから……。
私は澪の肩から手を放して、腕の前で手を組んで続けた。
「澪と別れてから、色々あったよ。
聡と二人乗りしたり、憂ちゃんと話したり、
ムギと二人でセッションしたり、梓と梓の悩みについて話したり……さ。
それに純ちゃんとムギと梓と私で、パジャマフェスティバルをしたりしたな」
「パジャマフェスティバル……?」
「いや、それはこっちの話。
まあ、とにかく色々あったよ。本当に目まぐるしいくらい、色々な事があった。
その分、ムギや梓……、純ちゃんともずっと仲良くなれたと思うけどさ」
「ムギと梓はともかく、律が鈴木さんと過ごしてたなんて意外だな……」
538:にゃんこ:2011/09/12(月) 21:27:38.99:ouRyDjbN0
「私だって意外だったけど、話してみると楽しい子だったよ。
梓の親友だってのも分かるくらい、いい子だったし。
澪も苦手意識持ってないで、純ちゃんと仲良くしてあげてくれよ。
金曜日にジャズ研のライブがあるみたいだから、観に行ってあげようぜ。
純ちゃん、きっと喜ぶと思うよ」
「鈴木さんか……。
律がそう言うなら、もうちょっと話してみるのもいいかもな……」
「まあ、苦手なのも分かるけどな。
澪に憧れてるのは分かるんだけど、えらく距離感が近いもんなあ。
でも、いい子だよ。
それに話してみると、純ちゃんも現実の澪の姿に幻滅して、
少しはちょうどいい距離に落ち着くかもしれないしな」
「どういう意味だよ、律……」
「言葉通りの意味だが?」
言ってから澪の拳骨に備えてみたけど、意外にも澪の拳骨は飛んで来なかった。
その代わり、少しだけ寂しそうに、澪は呟いた。
「そっか……。
律は昨日、元気だったんだな……」
私が居なくても……。
とは言わなかったけど、多分、澪はそういう意味で呟いていた。
私が私の居ない所で楽しそうにしてる澪を見るのが辛かったみたいに、
澪も澪の居ない所で私が元気に過ごしているという現実が辛かったんだろう。
何処までお互いの事を気にしてるんだろうな、私達は……。
それは依存なのかもしれなかったけど、
多分、私達はその依存のおかげで、まだ正気を失わずに世界の終わりに向き合えてる。
私は軽く微笑んでから、澪の耳元で囁く。
「うん……、元気だった。
澪が居なくても元気だったけど……、でも、物足りなかったよ。
片時も澪の事を忘れなかったって言うと嘘になるけど、
でも、楽しいと思う度に、澪が傍に居たらな、って思った。
一緒に楽しい事をしたかったよ。
梓の悩みの件でも、澪なら私の言葉をどう思うか考えながら梓と話してた。
ずっと、澪の事が気になってた。
考えてたよ。澪の言葉をさ。
私は澪とどうなりたいのかってさ」
澪はじっと私の言葉を聞いていた。
澪が次の私の言葉を待っている。
私の答えを待っているのを感じる。
もうすぐにでも、私が澪の想いに対する答えを言葉にするのを、澪は多分予感している。
私も澪に向けて、私の答えを伝えようと激しく響く心臓を抑えて口を開く。
思い出す。
澪に恋人同士になりたいって言われた時の喜びを。
きっと澪なら、私には勿体無いくらいの恋人になってくれる。
また、思い出す。
私を抱き締めた澪の柔らかさと、私が重ねようとした澪の唇を。
澪と恋人同士として、そういう関係で世界の終わりを迎えるのも悪くないって思えたのを。
澪と恋人になるのは、私達に安心と喜びを与えてくれると思う。
だから、澪と恋人同士になるのは、きっと悪くないんだ。
私は言葉を出す。
澪と私の関係をどうしたいかを、震えながらもまっすぐに伝えるために。
私の本当の気持ちを澪に伝えるために。
「私はすごく考えた。考えてた。それで、答えが出たんだ。
これから伝えるのが私の答えだよ、澪。
なあ、澪……。
私はさ……、
私はおまえと……、
恋人に……、
恋人同士には……なれないよ」
542:にゃんこ:2011/09/13(火) 21:22:29.73:lE/2SYIz0
伝えたくない言葉だった。
けれど、伝えたい言葉だった。
これが偽りの無い、澪に対する私の本音だ。
澪と恋人になるのは悪くないと思えた。
悪くないけれど……、良くもないって思ったんだ。
私は澪の告白が嬉しかった。澪と恋人になりたいと思った。安心できるって思えた。
でも、同時に思い出したんだ。
澪と自分の唇を重ねる直前、自分が涙を流したのを。
ほとんど同時に澪も泣き出してしまっていたのを。
長い事、私は私の涙の理由が分からなかった。
澪の涙の理由も分からなかった。
今はもうその涙の理由を確信している。
確信できたのは、軽音部の皆と話せたからだ。
唯もムギも梓も、苦しみながら、悩みながらも同じ答えを出していた。
皆が同じ答えを出していて、私の答えもそうなんだって気付けた。
だからこそ、あの時は泣いてしまってたんだ、私も、澪も。
世界の終わりが間近だからって、その選択だけはしちゃいけなかったんだ。
いや、しちゃいけないわけじゃないか。
選択したくなかったんだ、簡単な選択肢を。
「澪の告白は嬉しかった。
嬉しかったんだ、本当に……」
私は言葉を続ける。
どうしようもなく我儘な私の答えを澪に伝えるために。
上手く伝えられるかどうかは自信が無いけど、
少なくとも私が何を考えているかだけは分かってもらえるために。
「澪の事は好きだ。
澪はずっと傍に居てくれたし、一緒に居るとすごく楽しい。
そんな澪と恋人になれたら、どれだけ楽になれるかって思うよ。
でも、今の私達にそういうのは違う。違うと思う。
気付いたんだ。
一昨日、私が澪と恋人になろうとしたのは、世界の終わりから逃げたかったからなんだって。
澪と恋人になれば、世界の終わりの事なんて考えずに、澪と二人で笑顔で死ねるって思った。
自分の不安から目を逸らすために、私は澪を利用しようと思っちゃってたんだよ。
世界の終わりが近いんだし、そういう生き方も間違ってないんだろうけど……。
嫌だ。私は嫌なんだよ。澪をそんな風に利用したくなんかないんだよ……。
大切な幼馴染みを、そんな扱いにしたくないんだ。
今更……、今更な答えだと思うけど……、それが私の答えなんだよ」
澪は何も言わない。
私の瞳を真正面から見つめて、ただ私の言葉を黙って聞いている。
澪が何を考えているのかは分からない。
でも、少なくとも、私の言っている事の意味は分かってるはずだと思う。
澪は頭がいいし、一昨日、私と同じように涙を流したんだ。
澪も心の何処かでは、私と同じ答えを出していたはずなんだ。
私達は今、恋人同士にはなれないんだって。
「何度でも言うよ。
私は澪の事が好きで、傍に居たい。澪が本当に大切なんだ。
でも、それは恋人同士としてって意味とは違う。
一昨日、私はおまえと恋人同士になろうと思って、
雰囲気に流されるままにキス……しようとして、気が付けば泣いてた。
あの時はその涙の理由が分からなかったけど、今なら分かるよ。
急に澪と恋人になるなんて、何かが違うって心の何処かで分かってたからなんだ。
そんなの私達らしくないって気付いてたからなんだ。
だから、私はそれが悲しくて泣いちゃってたんだ……」
「私達らしくない……かな」
澪が久しぶりに口を開いて呟いた。
それは反論じゃなくて、純粋な疑問を言葉にしてるって感じの口調だった。
私はゆっくりと首を縦に振って頷く。
「うん……。私達らしくないと思う……。
澪もそれを分かってたから、あの時、泣いてたんだろ?
少なくとも、あの時、私はそういう理由で泣いたんだ。
私達が私達でなくなる気がして、それが嫌だったんだと思う。
軽音部の皆と話しててさ、思ったんだ。
唯もムギも梓も、世界の終わりを目の前にした今でも、これまでの自分で居たがってた。
皆、世界が終わるからって、自分の生き方を変えたくないんだ。
それは私達も同じなんだよ、澪。
もうすぐ死ぬからって、死ぬ事を自覚したからって、急に生き方を変えてどうするってんだよ。
そんなの、今まで私達がやってきた事を否定するって事じゃんか。
あの楽しかった時間全部を無駄だったって決め付けるって事じゃんか。
私達が私達じゃなくなるって事じゃんか。
嫌だ。そんなの嫌だ。私はそんなのは嫌なんだよ……」
543:にゃんこ:2011/09/13(火) 21:22:58.49:lE/2SYIz0
私の想いは伝えた。
すごく不安だったけれど、とりあえずは私の考えを伝える事ができた。
多分、澪も私の言う事を分かってくれたはずだ。
いや、最初から分かってたのかもしれない。
分かってたけど、それを認めたくなかっただけなんだろう。
「でもさ、律……」
不意に澪が小さく呟いた。
少しだけ辛そうに、でも、自分の想いを強く心に抱いたみたいに。
「終末から目を逸らしたいって意味があったのは、否定しないよ。
逃げようとしてたのは確かだと思う。
でもね……。
それでも、私は律と恋人になりたいと思ってたんだよ?
女同士だからそんなのは無理だって分かってたけど、でも……。
ずっと前から、私は律の事が……」
それも嘘の無い澪の想いなんだろうと私は思う。
世界の終わりから目を逸らすための手段だとしても、
完全に何の気も無い相手に恋心をぶつける事なんて澪は絶対にしない。
『終末宣言』の前から、澪は少しだけ私の事を恋愛対象として好きでいてくれたんだろう。
でも、それは私にとって急な話で……、
澪の事は好きだけど、澪と恋人になるっては発展し過ぎた話で……。
だから、私は自分でも馬鹿だと思う答えを澪に伝える事にした。
この答えを聞けば、多分、誰もが私を馬鹿だと思うだろうし、私自身もかなりそう思う。
だけど、それこそが私に出せた一番の答えだし、私の中で一番正直な想いだから……。
私は、
その答えを、
澪に伝えるんだ。
「女同士なんて私には無理だよ、澪……。
親友に急にそんな事を言われたって、
いきなり恋愛対象として見る事なんてできないよ……。
最初は恋人になろうとしておいて本当に悪いけど、無理なんだよ……」
ひどく胸が痛む言葉。
伝えている方も、伝えられる方も傷付くだけの辛い言葉だった。
私の言葉を聞いた澪は、自分の席にゆっくりと座り込んだ。
机に肘を着いて、絞り出すみたいにどうにか呟く。
「そっか……。
そうだよな……。迷惑だった……よな……。
ごめん……な、律……。
私が勝手に律を好きになって……、こんな時期に戸惑わせちゃって……。
本当に……ごめ……」
最後の方は言葉になってなかった。
澪の声は掠れて、涙声みたいになっていた。
多分、本当は泣きそうで仕方が無いんだろう。
それでも私に涙を見せないようにしてるんだろう。
もう私の負担になりたくないから。
もう私を戸惑わせたりしたくないから……。
だけど、私は澪に伝えなきゃいけない事がまだあった。
澪を余計に傷付けるだけかもしれないけど、それも私の本音だったから。
544:にゃんこ:2011/09/13(火) 21:23:46.19:lE/2SYIz0
「まったく……、本当に迷惑だよ。
こんなに私を迷わせて、私を戸惑わせて、
もうすぐ世界の終わりが来るってのに、こんなに私の心を揺らして……。
おまえって奴はさ……」
「ごめ……ん。り……つ……。
ごめん……なさ……」
「おかげでまた考えなくちゃいけない事ができちゃったじゃないか」
「え……っ?」
「私がおまえの事を恋愛対象として好きになれるかって事をさ」
「り……つ……?」
「私は澪と恋人にはなれないよ。今は……さ。
だって、そうじゃん?
おまえと知り合ってから大体十年くらいだけど、
その十年間、おまえとは幼馴染みで、ずっと親友で、
そんな奴をいきなり恋人だと思えってのは無理があるだろ、そりゃ。
実を言うとさ、
澪が私の事を好きなんじゃないかって思う事もたまにはあったけど、
そんな自意識過剰な事ばっか考えてられないし、確信が無かったから気にしないようにしてた。
でも、世界の終わり……終末がきっかけだったとしても、おまえは私に告白してくれただろ?
おまえが私とどういう関係になりたいのか、私はそこで初めて知ったって事だ。
おまえとは長い付き合いだけどさ、
私とおまえが恋人になるかどうかを考えるスタートラインは、私にとってはそこだったんだ。
それがまだ一昨日の話なんだぜ?
だから、考えさせてほしいんだよ、澪。
考える時間が無いのは分かってるし、どんなに頑張っても三日後までに出る答えでもない。
だけど、時間が無いからって、焦っておまえとの関係を結論付けるのだけは嫌なんだ。
それだけは嫌なんだ。絶対に絶対に嫌なんだ。
そんな適当にこれまでのおまえとの関係を終わらせたくないんだよ。
馬鹿みたいだし、実際に馬鹿なんだろうけどさ……、
その答えを出せるまで、私達は友達以上恋人未満って関係にしてくれないか?」
私はそうして、抱えていた想いの全てを澪にぶつける事ができた。
これが私の出せた我儘で馬鹿な答え。
馬鹿だけど、嘘偽りの無い私らしい答えだ。
正直、こんな答えを聞かされた澪の身としては、たまったもんじゃないだろうと自分でも思う。
世界の終わりが近いのに、何を悠長な話をしてるんだって怒られても仕方が無い。
怒ってくれても、構わない。
でも、焦って結論を出す事だけは、
これまでの私達を捨てる事だけは、絶対に間違ってると私は思うから。
だから、これが私の答えなんだ。
「それじゃ……」
澪が震える声で喋り始める。
目の端に涙を滲ませながら。
「それじゃ少年漫画みたいじゃないか、律……」
そうして澪は、泣きながら、笑った。
これまでの辛そうな顔じゃなくて、
呆れながら私を見守ってくれてた少し困ったような笑顔で。
私も苦笑しながら、小さく頭を掻いた。
545:にゃんこ:2011/09/13(火) 21:24:16.30:lE/2SYIz0
「しょうがないだろ?
私は少女漫画より少年漫画の方をよく読んでるんだから。
でも、確かに友達以上恋人未満って関係は、少年漫画の方が多いよな。
少女漫画は一巻から主人公達が付き合ってたりするもんな。
だから、勘違いするなよ、澪。
私が言ってるのは、そういう少年漫画的な意味での友達以上恋人未満の関係だからな。
付き合うつもりが無い相手を期待させるだけの便利な言葉を使ってるわけじゃないからな?
私が澪となりたい友達以上恋人未満ってのは、恋人になる一段階前っつーか……。
恋人になる前に、何度もデートを重ねてお互いの想いを確かめ合ってる関係っつーか……。
ごめん。上手く言えてないな、私……」
「……大丈夫。分かってるよ、律。
私を期待させるだけ期待させて便利に使うなんて、
そんな器用な事ができるタイプじゃないもんな、律は。
それにさ、律の表情を見てると、
私との事を本気で考えてくれてるんだって、分かるよ……。
同情や慰めで私と恋人になるんじゃなくて、
終末から目を背けるために恋人との蜜月に逃げ込むわけでもない。
律はただ私の想いをまっすぐに受け止めようとしてるんだって分かるんだ。
心の底から、私との関係を考えようとしてくれてるんだって……。
そんな律だから、私はさ……」
そこで言葉が止まって、また澪の瞳から涙がこぼれた。
でも、それは単なる悲しみの涙じゃない。
涙を流しながらも見せた澪の顔は、これまで見た事が無いくらい晴れやかな笑顔だった。
「やだな、もう……。
涙が止まらないよ、律……。
恥ずかしいよな、こんなに涙を流しちゃって……」
「いいよ。どれだけ泣いたっていい。
恥ずかしがらなくても、いいんだよ。
こう言うのも変だけど、今の澪の顔、すっげー綺麗だよ」
それは私の口から自然に出た言葉だった。
泣きながら笑って、笑いながら泣いて、
すごく矛盾してるけど、そんな澪の表情は見惚れてしまいそうになるくらい綺麗だった。
だから、私の言葉は何の飾りも無い私の本音だった。
……んだが、気が付けば、私の頭頂部が澪の拳骨に殴られていた。
さっきまで座ってたくせに、わざわざ一瞬のうちに立ち上がって、私の頭を殴ったわけだ。
「何をするだァーッ!」
私の方もわざわざ誤植まで再現して、澪に文句を言ってやる。
いや、マジでかなり痛かったぞ、今のは。
これくらい言ってやっても罰は当たらないだろう。ネタだし。
だけど、澪の奴は顔を赤くして、あたふたした様子で私の言葉に反論を始めた。
「だ……、だって律が恥ずかしい事を言うから……!
すごい綺麗とか……、真顔でそんな恥ずかしい冗談を言うな!
こんな時にそんな事言われたら、冗談でもびっくりするじゃないか……!」
「いや、別に冗談じゃなかったんだが……って、あぅんっ!」
最後まで言う前にまた澪に叩かれ、私は妙な声を出してしまう。
自分で言うのも何だが、「あぅんっ!」は我ながら気持ちの悪い声だったな……。
それはともかく、本音を言ってるのに、
どうして私はこんなに叩かれないとならんのか。
「何をするんだァーッ!」
今度は誤植を訂正して澪に文句を言ってみる。
あの漫画を読んでない澪がそのネタに気付くはずもなく、
顔を赤くどころか真紅に染めて、更に動揺した口振りで澪が続けた。
「だから……、そんな恥ずかしい冗談はやめろって……!
どうしたらいいか、分からなくなっちゃうじゃないか……!
やめてよ、もう……!」
「恥ずかしい冗談って、おまえな……。
これくらいの事で恥ずかしがっててどうすんだよ。
恋人同士ってのは、もっと恥ずかしい事をするもんなんだぞ」
546:にゃんこ:2011/09/13(火) 21:25:08.14:lE/2SYIz0
呆れ顔で私が返すと、澪はまた自分の椅子に座って、黙り込んでしまった。
顔を赤く染めたまま、視線をあっちこっちに動かしている。
どうも澪の許容できる恥ずかしさの限界を超えてしまったみたいな様子だ。
その瞬間、私は気が付いたね、澪が変な事を考えてるんだって。
「おい、澪。おまえ今、変な事考えてるだろー?」
「へ、変な事って何だよ……」
「私が言う恋人同士の恥ずかしい事ってのは、
夕陽の下で愛を語り合ったり、「君の瞳に乾杯」って言ったり、
そういう背中が痒くなるような恥ずかしい事って意味だぜ?
今、おまえが考えてる恥ずかしい事って、そういうのじゃないだろ?
例えば、そうだな……。
前に見たオカルト研の中の二人みたいな事、想像してただろ?
いやーん、澪ちゃんのエッチ」
「なっ……、か、からかうなよ、馬鹿律!」
叫ぶみたいに言いながら、澪が自分の拳骨を振り上げる。
もう一度拳骨が飛んで来るかと思ったけど、
澪はそうせずに、拳骨を振り上げたままで軽く吹き出した。
それはこれまでの笑顔とは違って、面白くて仕方が無いって表情だった。
微笑みながら、澪が嬉しそうに続ける。
「何か……、こういうのってすごく久しぶり……。
そんなに前の話じゃないはずなのに、懐かしい感じまでしてくるよ。
何だか、嬉しい。
律の言ってた事が、何となく実感できる気もするな。
多分だけどさ、
もし一昨日に私達があのまま恋人になってたら、今みたいに笑ってられなかった気がする。
今までの私達とは、全然違う私達になってた気がする。
律にはそれが分かってたんだな……」
「そんな大層な意味で言ったわけじゃないけどさ……。
でも、私はそれが嫌だったんだと思うよ。
勿論、恋人同士になって、
全然違う自分達になるのも悪くはないんだろうし、
そういう恋人関係もあるんだろうけど……。
私は澪とはそういう関係になりたくなかった。
もしもいつか私達が恋人になるんだとしても、
これまでの幼馴染みの関係の延長みたいな感じで私は澪と付き合いたい。
それこそ少年漫画みたいにさ。
よくあるじゃん?
十年以上連載して、長く意識し合ってた幼馴染みが、
最終回付近でようやく恋人になるみたいな、そんな感じでさ……。
それでその幼馴染みを知ってる仲間達から、
「あいつら本当に付き合い始めたのか? これまでと全然変わってないぞ」とか言われたりするわけだ」
「ベタな展開だよな」
「誰がベタ子さんやねん!」
「いや、ベタ子さんとは言ってないけど……」
「私は澪とそんなベタな関係になりたいんだけど……、
澪は嫌じゃないか?」
少し不安になって、囁くように訊ねてみる。
これは完全に私の自分勝手な我儘なんだ。
これまでの澪との関係をもっと大事にしたい。
いつか恋人になるんだとしても、澪との関係に焦って結論を出したくないって我儘だ。
だから、それについての答えを、私は澪自身の口から聞きたかった。
どんな答えだろうと、それを澪に言ってほしかったんだ。
547:にゃんこ:2011/09/13(火) 21:25:43.66:lE/2SYIz0
「嫌じゃないよ」
いつも見せる困ったような笑顔で、
いつも私を見守ってくれてる笑顔で、澪は小さく言ってくれた。
「嫌なわけないよ。
律がそんな真剣に私の事を考えてくれるなんて、それだけですごく嬉しいんだ。
焦って今までの私達の関係を壊しそうになってた私を、律が止めてくれたんだから。
一昨日、もしも律が私を恋人にしてくれてたとしても、今頃きっと後悔してた。
そうして後悔しながら、終末を迎えてたと思うよ。
だから……、私は律とこれから友達以上恋人未満の関係になりたいよ」
そう言った澪の本当の気持ちがどうだったのかは分からない。
女性は何でも結論を急ぎたがる、って感じの言葉を聞いた事がある。
確かにそうだと私も思わなくもない。
少女漫画なんか、特にその傾向があるような気がする。
さっき澪に言った事だけど、少女漫画は一巻から主人公達が付き合ってる事が多い。
こんなの少年漫画じゃ考えられない事だよな。
それくらい女の子達は(いや、私も女の子だけど)、曖昧な関係に満足できないんだ。
早く結婚するのも、自分から結婚を迫るのも、女性の方が遥かに多いみたいだし。
迷うくらいなら、とにかく早く結論を出して、とりあえずでも安心したい子が多いんだ。
それが女の子の本音なんだろうと思う。
私はどっちかと言うと少年漫画を読む方だし、
弟がいるせいか考え方もちょっと男子っぽいかな、って自分でも思う。
それで澪との結論を急ぎたくなかったのかもしれない。
だけど、昔から女の子っぽい性格の澪は、
強がってはいるけど、その実は誰よりも女の子な澪は、
私の答えを本当はどう思っていたんだろうか……。
本当はやっぱり私とすぐにでも恋人になりたかったんじゃないだろうか。
傷の舐め合いみたいな関係だとしても、
世界の終わりまで安心していたかったんじゃないだろうか。
そう考えると、私の胸が痛いくらい悲鳴を上げてしまう。
でも。
それはもう考えても意味の無い事だった。
本音が何であれ、澪は私の考えと想いを受け止めてくれた。
私と友達以上恋人未満の関係になると言ってくれた。
私にできるのは、その澪の気持ちに感謝して、
これからの澪との事を心から真剣に考える事だけだ。
「週二だ」
私は澪の前で指を二本立てて、不敵に笑った。
「え? 何が?」
「だから、週二だよ、澪。
今週はライブで忙しいから、来週から週二でデートするぞ。
覚悟しろよ。色んな場所に付き合ってもらうからな。
勿論、単に遊びにいくわけじゃない。
友達以上恋人未満ってのを意識して、恋人みたいなデートを重ねるんだ。
そこんとこ、よく覚えとけよ」
来週の約束……。
恐らくは果たせない約束……。
でも、その約束は私の心に、ほんの少しの希望を持たせてくれて……。
「ああ、分かったよ、律。
来週から週二でデートしよう。
私達、友達以上恋人未満だもんな。
……言っとくけど、遅刻するなよ?」
屈託の無い笑顔で、澪が左手の小指を私の前に差し出す。
「わーってるって」と言いながら、私は自分の小指を澪の小指に重ねる。
願わくば、この約束が本当に果たせるように。
552:にゃんこ:2011/09/15(木) 20:14:12.41:ExCrT+4b0
○
かなり長い間、二人で視線を合わせながら小指を絡ませていたけど、
いつまでもそのままでいるわけにもいかなかった。
二人で名残惜しく指切りを終えて、
それから私は澪が書き終えたと言っていた新曲の歌詞を見せてもらう事にした。
新曲の歌詞はこれまでの甘々な感じとは違って、
ロックってほどじゃないけど、少し硬派な感じの歌詞に仕上がっていた。
確かにこれまでとは違う感じの歌詞にしたいと言ってたけど、
まさかこんなに普段と印象の違う歌詞を澪が仕上げて来るとは思わなかった。
過去じゃなくて、未来でもなくて、
今を生きる、今をまだ生きている私達を象徴したみたいな歌詞……。
残された時間が少ない私達の『現在』を表現した歌……。
頭の中で、ムギの曲と澪の歌詞を融合させてみる。
悪くない。
……いや、すごくいい曲だと思う。
これまでの私達の曲とはかなり印象が違うけど、これもこれで私達の曲だと思えるから不思議だ。
早く皆と合わせて、澪の歌声を聴きながらこの曲を演奏したい。
ただ、激しい曲なだけに、私の技術と体力が保つかどうかが少し不安だけどな。
まあ、その辺は何とか気力と勢いでカバーするという事で。
はやる気持ちを抑えて、肩を並べて二人で音楽室に向かう。
音楽室まで短い距離、私達はどちらともなく手を伸ばして、軽く手を繋いだ。
お互いの指を絡め合うほど深く手を繋げたわけじゃない。
流石にそれはまだ恥ずかし過ぎるし、
例え私が澪とそうやって手を繋ごうとしても、澪の方が真っ赤になっちゃってた事だろう。
だから、私達は本当に軽く手を繋いだだけ。
二人の手を軽く重ねて、軽く握り合っただけだった。
でも、それがとても心地良くて、嬉しい。
それが『現在』の私達の距離。
友達以上で、恋人未満の距離。
背伸びをしない、恋愛関係に逃げ込んでもいない、極自然な距離なんだ。
もしも世界が終わらず、これからも続いていったとして、
私と澪が本当に恋人になるのかどうかは分からない。
単なる友達じゃないのは間違いないけど、
それを単純に恋愛感情に繋げるのはあんまりにも急ぎ過ぎだろう。
それこそ私達は女同士だし、私が女の子相手に恋心を抱けるかも分からない。
もしかしたら、友達以上恋人未満を続けていく内に、
お互いに自分の恋心は勘違いか何かだったと気付くのかもしれない。
でも、私の幼馴染みを……、
澪を大切にしたい事だけは、私の中でずっと前から変わらない事実だ。
多分、訪れない未来、例え私達が恋人同士になれなかったとしても、
私は澪と一生友達でいるだろうし、澪も私の傍で笑っていてくれるだろう。
先の事は何も分からないけど、その想いと願いだけは私の中で変えずにいたい。
音楽室に辿り着く直前、
澪が繋いでいた手を放そうとしたけど、私はその澪の手を放さなかった。
友達以上恋人未満って関係はまだ皆には内緒にしとこうとは思う。
でも、二人で手を繋いで音楽室に入るくらいなら問題ないはずだ。
特に何処まで分かっているのか、
唯とムギは私達の関係を心配してくれていたから、
これくらいアピールした方が二人にも分かりやすいはずだ。
私達はもう大丈夫なんだって。
軽音部の問題は、今の所だけどこれで全部解決したんだって。
何の心配もなく、最後のライブに臨めるんだって……な。
隣の澪は顔を赤くしてたけど、
音楽室に入った私達を待っていたのは、私達以上に仲が良さそうな二人だった。
言うまでもなく、唯と梓の事だ。
私が澪と話している間に全ての事情を話し終わったんだろう。
唯がここ最近見られなかった嬉しそうな表情を浮かべ、
梓に抱き着きながら、キスをしようとするくらいに顔を寄せていた。
梓はと言えばそんな唯の顔を右手で押し退けながらも、
左手では唯に渡されたんだろう写真を大事そうに掴んでいる。
こういうのツンデレ……って言うんだっけ?
まあ、とりあえず二人とも仲が良さそうで何よりだ。
553:にゃんこ:2011/09/15(木) 20:15:18.74:ExCrT+4b0
私達が若干呆れながら唯達の様子を見てると、ムギが嬉しそうに駆け寄って来た。
唯と梓もそれに続いて私達に駆け寄って来る。
三人が肩を並べ、繋がれた私と澪の手に揃って視線を向ける。
ムギが嬉しそうに微笑み、珍しく梓が私に抱き着いて来る。
唯が「妬けますなー、田井中殿」と茶化しながら笑う。
澪が顔を更に赤く染めて、私が「おうよ!」と澪と繋いだ手を頭上に掲げる。
五人揃って、笑顔になる。
心の底から、幸せになれる。
とても長い時間が掛かった。
世界の終わり……終末っていう、
対抗しようもない強大な相手の恐怖に私達が怯え出してから、本当に長い遠回りをした。
本当に気が遠くなるくらいに長い長い遠回り……。
だけど、そのおかげで、取り戻せた私の絆は、これまで以上に深く強くて……。
今なら、身震いするほどの最高のライブができる。
そんな気がする。
勿論、それには今日明日と精一杯練習しなきゃいけないけどなー……。
でも、やってやる。やってみせる。
私達のために、ライブに来てくれる皆のために、『絶対、歴史に残すライブ』にしてやる。
まずは唯がミスしそうな新曲のあのパートを注意しかないと、だな。
不意に。
「盛り上がってる所、悪いんだけど」という言葉と一緒に、誰かが音楽室に入って来た。
そんな事を言うのは、勿論、我等が生徒会長しかいない。
私が和に視線を向けると、既に唯が和の方に駆け寄っていた。
早いな、オイ。
まあ、これもこれで、私達と違った仲の良い幼馴染みの関係って事で。
「どうしたの、和ちゃん」と嬉しそうに唯が和に訊ねる。
苦笑しながら、「ちょっとね」と和が私と視線を合わせる。
瞬間、和が滅多に見せない晴れ晴れとした笑顔を見せた。
本当に嬉しそうな表情……。
今の私と和の間で、二人だけが分かる笑顔の理由……。
それが分かった途端、意識せずに私も笑顔になっていた。
高鳴る鼓動を抑えられない。
私は笑顔のまま、和以外の全員の顔を見渡す。
皆、何が起こってるのか分かってない表情を私達に向けている。
いや、一人だけ……、唯だけちょっと不機嫌そうだ。
私と和がアイコンタクトで語り合ってるのが気に入らないんだろう。
自分だけの大切な幼馴染みの和を、私に取られちゃった気分なんだろうな。
でも、私がその理由を話せば、きっと唯も皆も笑顔になる。
講堂の使用許可が取れた事を、
最後のライブの最大の会場を用意できた事を皆に話せば……。
私はもう一度、皆の顔を見回す。
最高の仲間達に、私の言葉を伝える。
「なあ、皆……、前々から話してた事だけど、
軽音部で最後のライブを開催したいと思うんだ。
もう会場の用意もできてるから、安心してくれ。
だからさ……、今更だけど聞かせてほしい。
皆……、
しゅうまつ、あいてる?」
554:にゃんこ:2011/09/15(木) 20:15:51.07:ExCrT+4b0
○
――金曜日
今日は澪が私の家に泊まりに来ていた。
いやいや、別に友達以上恋人未満として、色んな事をしようと思ったわけじゃないぞ。
澪が私とパジャマフェスティバルをしたいと言ってきたからってだけだ。
ムギ達との話をした時には平静を装ってたけど、
本当は澪も参加したくてしょうがなくなってたらしい。
そういや、前に私がムギと二人で遊んだ時も、
「私もムギと遊びたかった」って、誘ってたのに文句を言われたな。
今も昨日、ムギとどうやって過ごしたのかとか訊いて来てるし……。
澪の奴……、ひょっとして、私よりムギの事を好きだったりするんじゃないか?
ちょっとだけそんな考えが私の頭の中に浮かぶ。
……はっ、いかんいかん。
それじゃ、何だか私が澪にやきもち妬いてるみたいじゃないか……。
私はそんな照れ臭い気持ちを隠すために、立ち上がってラジカセのスイッチを入れる。
幸い、そろそろ紀美さんのラジオの時間だ。
軽快な音楽が流れる。
557:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(愛媛県):2011/09/16(金) 04:57:30.75:KkHRMbhGo
「胸に残る音楽をお前らに。本当の意味でも、ある意味でも、とにかく名曲をお前らに。
今日もラジオ『DEATH DEVIL』の時間がやって来た。
この番組も、今回入れて残り二回。
日曜休みだから、土曜が最後の放送って事になるわね。
勿論、お付き合いするのは、いつもの通り、このアタシ、クリスティーナ。
終末まではお前らと一緒!
後二回、ラストまで突っ走ってくから、お前らも最後までお付き合いヨロシク!
……いやあ、にしても、思えば遠くに来たもんだ。
飽きたら早々に打ち切ってもらおうと思ってたのは内緒の話だけど、
これまたやってみると中々コクがあって、濃厚なのに、不思議と飽きが来なかった。
って、料理番組の感想みたいだけど、でも本当にそんな感じ。
一ヵ月半って短い間だったけど、この番組もリスナーのお前らもアタシの宝物。
残り二回の放送が心底名残惜しいわよ。
でも、勘違いしないでよね、お前ら。
終わるのはラジオ『DEATH DEVIL』の終末記念企画だからさ。
来週からはラジオ『DEATH DEVIL』の終末後記念企画が始まる予定なのよ。
超絶パワーアップ予定でさ。
そんなわけで、来週月曜から新装開店なんで、引き続き本番組をヨロシク。
あ、ディレクターがそんなの聞いてないって顔してる。
そりゃそうよね、言ったの今が初めてだもん。
いいじゃんか、ディレクター。
言ったもん勝ちだし、まだこの番組続けたいじゃん?
リスナーの皆も望んでると思うし、誰も損しない素敵企画だと思うけど?
……お。
苦笑いしてるけど、ディレクターからオーケーサインが出たわよ、お前ら。
おっし、これで本決まり。
ラジオ『DEATH DEVIL』破界篇は次回で終了。
来週からラジオ『DEATH DEVIL』再世篇にパワーアップして再開予定って事で。
ちなみに破界篇の『かい』は世界の『界』で、
再世篇の『せい』は世界の『世』って書くからお前らもよく覚えといてね。
何でかって?
いや、あんのよ、そういうゲームが。
深い意味は無いから、それ以上はお前らも気にしないで。
559:にゃんこ:2011/09/17(土) 21:44:42.79:PrE/G5mJ0
分かってるって。
別に終末の事を忘れてるわけじゃないよ。
日曜日の陽が落ちる前には、終末が……、世界の終わりがやって来る。
誰も望んじゃいないけど、とにかく足音響かせて、まっしぐらに終わりがやって来る。
でもさ、未来の事は誰にも分かんないじゃない?
九分九厘世界が終わるらしいけど、それは確定した未来じゃない。
『未来』ってのは、『今』になるまで永久に『未来』なんだから、
それがどうなるか不安に推論してたって無意味でしょ?
日曜日に世界がどうなるかは、結局は日曜になってみるまで分からない。
だったら、別に来週の事を予定してても、悪くないんじゃない?
馬鹿みたいだって自分でも分かっちゃいるけどさ。
え?
どしたの、ディレクター?
九分九厘じゃ全然決まってないも同然だって?
九分九厘……、あ、ホントだ。
九分九厘じゃ一割にもなってないじゃん。
こりゃ失礼。
いや、アタシの友達がさ、99%の事を九分九厘って言うのよ。
ついその口癖が感染しちゃったみたいね。
馬鹿みたいと言うか、ホントに馬鹿で申し訳ない。
正確には九割九分九厘終末がやって来るって話だけど、
それにしたって確定してないのは確かなんだし、確率の話をしててもしょうがないわよ。
……確率を思いっ切り間違えてたアタシが言うのもなんだけどさ。
あははっ、まあ、勘弁してちょうだい。
話はちょっと変わるけど、お前らパンドラの箱の話って知ってる?
有名な話だから知らない人は少ないと思うけど、
その箱を開けたら、世界にあらゆる災厄が飛び出して来たって話ね。
箱を開けたら、艱難辛苦、病別離苦、そんな感じの四苦八苦が世界に蔓延しちゃった。
四苦八苦は仏教用語だけど、それは今は置いといて。
それだけ災厄が一気に飛び出たけど、
一つだけパンドラの箱の中に残ってた物があったらしいのよ。
それは『希望』……、なーんて言い古された話をしたいわけじゃない。
箱の中に残ってた物が何なのか色んな説があるみたいだけど、
一説によると残ってた物は『予知能力』なんだって説もあるらしいのよね。
確かに人が『予知能力』なんて手に入れちゃったら、最高の災厄だと思わない?
先の事が分かんないから、人生ってやつは面白いし、人は生きていけるんでしょ?
馬鹿みたいって言うか馬鹿だけど、
アタシ達は先の事が分かんないから、どうにかながらでも生きて来られた。
終末が近付いてても、馬鹿話どころか来ないはずの来週の話までできる。
未来の事が分からないから……、そういう事ができるのよね。
人間って、そういう馬鹿な生き物でいいんじゃないかって、アタシは思うのよ。
だから、思う存分、未来の話をしようじゃない?
例え存在しない未来でも、『現在』を生きられるならそれもアリでしょ?
……しまった。
やけに真面目な話になってしまった。
ひょうきんクリスティーナと呼ばれるくらい、
ひょうきんに定評のあるアタシとした事が……。
ま、アタシはそう思うってだけの個人的な意見よ。
お前らはお前らの思うように生きてくれれば、それでオーケー。
自由を求めて、自由に生きてくのがロックってやつだしね。
さってと、そろそろ今日の一曲目といきますか。
今日の一曲目も終末っぽいって言ったら、終末っぽいのか?
歌詞を見る限り、内容が全然理解できないけど、
もしかしたら終末の曲なのかもしれない……と思わなくもない曲。
そんな変わり種の今日の一曲目、愛知県のジャガー・ニャンピョウのリクエストで、
サイキックラバーの『いつも手の中に』――」
次へ
元スレ SS速報VIP
○
私は電気を点けて、もう一度ラジカセを確認してみる。
コンセントは抜けてないし(雑音が出てるんだから抜けてるはずないけど)、
周波数も間違ってないし、AMとFMの切り替えを間違ってるわけでもなかった。
じゃあ、どうしてなんだろう、と思うけど、答えは出ない。
ラジオ局や電波自体に何かトラブルが起こったんだろうか?
「世界の終わり……か」
何となく呟いてみる。
正直な話、まだあまり実感は湧いてない。
でも、少しずつ、その終わりに近付いてる。
何かが一つずつ終わっていって、最後の日には何もかも無くしてしまう。
そんな気だけはする。
私は深い溜息を吐いて、自分の携帯電話を手に取った。
他の家のラジオの状況を確認してみようと思ったからだ。
ほとんど無い可能性だけど、
私の家だけ電波の入りが悪いとかそういう可能性がないわけじゃないしな。
それに何かが一つずつ終わってしまうとしても、
紀美さんのラジオ番組をもう無くしてしまうのはきつい。
世界の終わりが近付いていても、
そんな事関係なく発信してくれるラジオ『DEATH DEVIL』が私は好きだ。
言い過ぎな気もするけど、救いだったって言えるかもしれない。
本当はすごく恐くて、逃げ出したくて、
それでも、紀美さんの元気な声を聴いてるだけで、私は今までやってこれた。
だから、私はあの番組を無くしてしまいたくない。
「週末まではお前らと一緒!」と紀美さんは言ってくれた。
週末まで……、終末まで……。
だから、何があっても、何が起こったとしても、
それまでは紀美さんとあのスタッフは放送を続けてくれるはず。
私はそう信じたい。
携帯電話の電話帳を開いて、誰に電話を掛けようかと私は少し迷う。
軽音部のメンバーはさわちゃん含めて全員があのラジオを聴いてるらしかったけど、
流石に全員が全員、毎日聴いてるわけじゃないみたいだった。
唯は早寝に定評があるし、ムギも家の手伝い(社交的な意味で)で聴けない日が多いらしい。
さわちゃんも「恥ずかしいから何回かに一回聴くだけで十分」と苦笑してた。
そんなわけで、ラジオを毎日聴いてるのは私と澪、それと梓になる。
澪……にはまだ電話を掛けられない。
あんな別れをした後だし、私もまだ自分の涙の理由を見つけられてない。
涙の理由が分かるまで、私は澪に会っちゃいけないし、何かを話せもしないと思う。
何かを話そうとしたって、また私達は涙を流し合ってしまうだけになるだろう。
勿論、澪とはもう一度話し合わないといけないけれど、今は無理だ。
もう時間は無いけれど、でも、今は駄目だと思う。
となると……。
「梓になる……よな」
自分に言い聞かせるように呟く。
考えるまでもない。
今の私が連絡を取るべきなのは梓だ。
最近、梓にはあんまりいい印象を持たれてないみたいだけど、
電話をすればラジオの受信状況くらいは教えてくれるだろう。
でも、それだけでいいのか?
折角のチャンスなんだ。
その電話で梓の悩みを聞いておく方がいいんじゃないのか?
そう思い始めると、梓の番号に発信できなくなる。
梓の悩みについても、もう触れてあげられるだけの時間も少ない。
部長として……、じゃないか。
一人の梓の友達として、本当は梓の悩みを解決してあげたい。
だけど、こんな私に何かできるのかって、不安になる。
動かなきゃ何も始まらない。
それを分かってるから、昨日私は動いた。
でも、動いた結果がどうだ?
意味不明の涙に縛られて、何もいい方向には動かなかった。
分かり合ってるはずの幼馴染みの澪との問題すら、何も解決させられなかった。
そんな私に何ができる?
まだ梓の悩みが何なのかさえ分かってない私に何をしてやれる?
何度も立ち止まりそうになる。
恐くて動き出せなくなる。
それでも……。
私はやっぱり馬鹿なのかもしれない。
気が付けば梓の電話番号に発信しようと、私は携帯電話の発信ボタンに指を置いていた。
動かないままでいる方が恐いから。
私の知らない所で梓が苦しんでると考える方が何倍も恐いから。
私は梓に電話を掛けようと思った。
いや、掛けようと思ったんだけど……。
ふと重大な事に気が付いて、私はベッドに全身から沈み込んだ。
身体から力が抜けていくのを感じる。
自分が情けなくて無力感に支配されてるとか、そういう事じゃない。
私は枕に顔を沈めて、自分の間の悪さに呆れながら呟く。
「圏外かよー……」
そう。
私の携帯電話の電波状況は圏外を示していた。
これだけ気合を入れておいて、電波が圏外とかギャグかよ……。
私らしいと言えば私らしいんだけど、こりゃあんまりだ……。
でも、まあ、よかったと言えば、よかったのかもしれない。
これでとりあえずラジオ局の方に問題がある可能性は少なくなった。
こんな住宅地で携帯電話の電波が圏外になるなんて、普通はありえない。
そうなると電波塔か、衛星か、
とにかく電波そのものにトラブルがあったって事になる。
ラジオ局がテロか何かで壊された可能性も少しは考えていただけに、
ひとまずは胸を撫で下ろしたくなる気分だった。
「それにしても、どうするかなー……」
私は立ち上がって、自室の窓に近寄りながら呟く。
澪本人が言っていた事だし、今日、澪は登校してこないだろう。
家の中で一人、私と同じように涙の理由を考えるんだろう。
私は学校に行こうと思う。
澪が登校してこなくても、私は軽音部に行かなきゃいけない。
言い方は悪いけど、私は軽音部の最後のライブの主犯格で首謀者なんだ。
誰が来ても、誰も来なくても、私は軽音部の部室に行かなきゃいけない。
間違ってばかりの私だけど、それだけは間違ってないと思う。
でも、それを部の皆に押し付けるのはよくないとも思う。
今日、澪は登校しない。軽音部の皆が揃う事はない。
それなら、その事を皆にも伝えておくべきだ。
それで澪のいない軽音部に、
皆が揃わない軽音部に意味がないと思ったなら、
今日は登校せず思うように過ごす方が皆のためになるはずだ。
だけど、携帯電話が使えないとなると、それを伝えようがない。
どうしたものか……、と唸ってみたけど、
またそこで私は簡単な事に気付いて、またも脱力してしまった。
家の電話があるじゃんか。
最近、全然使ってなかったから、存在自体忘れてた。
ごめんな、家の電話。
電波が悪いと言っても、流石に電話線で繋がってる家の電話は無事なはずだ。
もしかしたら家の電話も使えなくなってるかもしれないけど、まだ試してみる価値はある。
窓の外を見ながら、自分の間抜けさ加減に何となく苦笑してしまう。
そういやカーテンも閉めずに寝ちゃったな、
と思いながらカーテンを閉めようと手に持って、そこで私の手が止まった。
それは偶然なのか……、必然なのか……、
あってはいけないものがそこにあった。いてはいけない人がそこにいた。
見つけてしまったんだ。
それが私の妄想か幻覚ならどんなによかっただろう。
よく見えたわけじゃない。
そいつは窓の外でほんのちょっと私の視界の隅に入り込んで、すぐに消えていった。
だから、気のせいだと思ってもいいはずだった。
妄想や幻覚だと思い込んでも、何の問題もなかった。
だけど……!
万が一にでもそれがそいつである可能性があるのなら……!
放っておけるか!
「あの……馬鹿!」
思わず叫んで、朝から着たままの制服姿で私は部屋から飛び出る。
玄関まで走り、靴を履く時間ももどかしく感じながら、無我夢中で駆ける。
あいつが何処に行ったのかは分からない。
進んだ大体の方向も分かるかどうかだ。
それで十分だった。
こんな時期、こんな真夜中に、たった一人で出歩くなんて、正気の沙汰とは思えない。
それもあんな小さな……、
私よりも小さな後輩が……、
梓が……!
こんな真夜中に……!
放っておく事は出来なかった。
無視する事なんて出来なかった。
嫌になるほど泣いていたせいか、
普段使ってない身体の筋肉が筋肉痛で悲鳴を上げる。
それでも駆ける。
夜の闇の中、申し訳程度に点いた街灯の下を精一杯走る。
走らないといけなかった。見つけ出さないといけなかった。
あいつは馬鹿か。
あいつが何を悩んでいるのか知らない。
あいつに何が起こっているのかも知らない。
だけど、こんな何が起こるか分からない状況で、
何が起こっても自己責任で片付けられてしまうような状況で、
こんな真夜中にあんな女の子が一人きりでいていいはずがない。
別に戒厳令が出てるわけじゃない。
夜間外出禁止令が出てるわけでもない。
この付近は比較的治安のいい方だとも聞いてる。
でも、そんな事は関係ない!
私の後輩に……、大切な後輩に……、
嫌われていたとしても大好きな後輩に……、
何かが起こってほしくないんだ。
何かが起こってからじゃ遅いんだ!
私の間抜けな気のせいならそれでいい。
万が一にでもあの影が梓の可能性があるなら、私は走らなきゃ後悔する。
絶対に後悔するから。
だから!
私は夜の暗がりの中、目を凝らして梓を捜し続ける。
失いたくない後輩を走り回って探す。
かなり肌寒い季節、汗だくになって走る。
走り続ける。
息を切らす。
身体が軋む。
それでも、走り続け……。
気が付けば、あまり知らない公園に私は辿り着いていた。
汗まみれで、息を切らして、
さっき転んだ時に膝を擦りむいて血を流しながら、私は一人で公園に立っていた。
三十分は捜していたはずだ。
ドラムをやってるんだし、
体力的にはかなり自信のある私が本気で限界を感じるくらいに走り回った。
梓は何処にも見付からなかった。
やっぱり私の見間違いだったんだろうか……。
気のせいだったんだろうか……。
何にしろ、これ以上捜し回っていても意味が無いかもしれない。
ひとまずは梓の家に連絡を取ろう。
間抜けな事に、さっきまでの私にはそこまで思いが至らなかった。
そうだ。連絡を取るべきだったんだ。
連絡を取って、その後にどうするか考えよう。
私は息を切らしながら、
持ち出していた携帯電話に目を向け、
瞬間、背筋が凍った。
分かっていた事だ。
分かっていたのに、動揺して忘れてしまっていた。
携帯電話の画面には、圏外と表示されていた。
そこでようやく私は気付いたんだ。
さっきまで馬鹿と責めていた梓と同じ状況に自分が陥ってしまっている事に。
急に身体が震え始める。
冬の夜の肌寒さだけじゃない。
恐怖と不安で、全身の震えを止める事が出来ない。
「大丈夫……。
大丈夫……のはずだ……」
自分に言い聞かせるけど、自分自身が納得できていない。
梓よりは背が高いけれども、男の子っぽいともよく言われるけども、
結局、私は平均よりも背の低くて力の弱い、小さな女の子でしかなかった。
考え始めると止まらない。
さっき梓に対して考えていた事が、そのまま自分に跳ね返ってくる。
酷いなあ……。
我ながら本当に酷いブーメランだよ……。
少しの物音に怯える。
何かと思えば猫で胸を撫で下ろすけど、逆に人通りの無い事が余計不安に感じる。
夜の闇は深く、誰の気配もない。
世界にひとりぼっちになってしまったのような不安感。
いや、平気なはずだ。単に私はこのまま家に帰ればいいだけだ。
家に帰って、梓の家に連絡するだけだ。
分かっているのに、足を踏み出せない。
さっきまで三十分も走ってここまで辿り着いた。
家までの帰り道は何となく分かるけれど、
単純に計算して一時間近くは掛かる計算になってしまう。
一時間……。
この闇の中を一時間も歩くなんて、意識し出すと恐ろしくてたまらない。
誰か知り合いの家が近くに無いかと考えてみるけど、どうしても思い当たらなかった。
叫び出したくなる恐怖。
逃げ出したくなる現実。
恐い……。
恐いよ……。
と。
立ち竦む私を急に小さなライトが照らした。
「ひっ……」
小さく呻いて、身体を強張らせる私。
逃げ出したくても、足が動かない。
本当に弱い私……。
泣き出したくなるくらいに……。
でも。
こんな所で終わってしまうわけにはいかないから。
涙の理由を澪に伝えられてないから。
拳を握り締めて、勇気を出して、そのライトの光源に視線を向けて……。
「あれ……?」
またそこで私は力が抜けた。
今日は何だか空回りする事が多い気がする。
そういう星回りなのか?
「まったく、しょうがねえな……。
帰るぞ、姉ちゃん」
そうやって頭を掻きながら言ったのは、
母さんのママチャリに乗った私の弟……、聡だった。
○
夜道、聡の後ろ、ママチャリの荷台に乗って、私は運ばれていた。
さっき何で聡は自分のマウンテンバイクじゃなくて、
どうして母さんのママチャリに乗ってるんだろうと思ったけど、
それは私を後ろに乗せるためだったんだな。
確かにマウンテンバイクじゃ二人乗りは難しいだろう。
ちゃんと先まで考えてる聡の行動に私は何とも言えない気分になる。
「ごめんな、聡。
迷惑掛けちゃったな、また……」
荷台で揺られ、私は小さく呟いた。
後先を考えない自分の行動と、先まで見据えた弟の行動を比べてしまうと、
こんな自分が本当に梓を助けてやれるつもりだったんだろうか、とつい自虐的になる。
空回りばかりしてしまう自分。
情けなくて、不安で、溜息ばかりが出て来て、止まらない。
そんな私に向けて、聡は自転車を漕ぎながら軽く笑った。
「いいよ。姉ちゃんに迷惑掛けられるのは慣れてるしな」
「何だよ、もう……」
私は頬を膨らませてみるけど、言い返す言葉は無かった。
聡の言う通りだ。
私はいつも後先考えずに動いちゃって、人に迷惑を掛けてばかりだ。
友達だけじゃなく、弟の聡にだって……。
世界の終わりの直前のこんな夜道、
軽口を叩いているけど聡だって恐かったはずだ。
それなのに私を見付けて、駆け付けてくれるなんて、
私と違って本当によくできた弟だと思う。
「ごめん……な」
無力感が私の身体に広がりながら、消え入りそうな言葉で言った。
走り回って疲れ果てたせいもあるけど、勿論それだけじゃなかった。
世界の終わりまで残り四日。
日曜日は実質的に無いも等しい日だと聞いてるから、
普通通りに過ごせるのは土曜日が最後になる。
私はその土曜日を後悔なく過ごせるんだろうか。
最後のライブを悔いなくやり遂げられるんだろうか。
……今の状況じゃ、どう考えてもそれは無理そうだ。
だから、私は「ごめん」と言った。
「ごめん」としか言えなかった。
聡にだけじゃなく、何もしてやれない澪と梓に。
最後のライブを楽しみにしてるムギと唯に。
私を気に掛けてくれている全ての人に。
「おいおい、姉ちゃん。
そんなに落ち込まないでくれよ。俺、気にしてないしさ」
笑顔を消して、真剣な表情で聡が言ってくれる。
ふざけた感じじゃなくて、本気でそう思ってくれているみたいだった。
その様子が、私にはまた心苦しい。
「だけど……、聡にだって最後の日まで、
したい事や、それの準備なんかもあるだろ?
それをこんな……、私の考えなしの行動に時間を取られちゃって……。
そんなの……、いいわけないじゃんか……。
だから……」
「いいんだって。
だって、姉ちゃんだもんな。
そんな姉ちゃんでいいんだよ、俺」
「……どういう事?」
「姉ちゃんってさ。
自分に何か起こった時より、誰かに何か起こった時の方が心配そうな顔してるよな。
自分の事より、誰かの事を心配してるって思うんだよな。
だから、気が付いたら動いちゃってるんだよ、姉ちゃんは。
考えなしではあるけど、考えるより先に誰かの事を心配しちゃってるんだよ。
それってすごく馬鹿みたいだけど……、すごく嬉しいんだ」
何も言えない。
聡の言葉が正しいのかどうかは分からないし、
自分が何を考えて梓を追い掛けたのかも分からない。
聡が言ってくれるように、
梓の事が心配でそれ以上の事を考えられなかったのかもしれないし、
もしかしたらそうじゃない可能性もある。
でも、迷惑を掛けてばかりなのに、聡はそれを「すごく嬉しい」と言ってくれた。
それだけで私は救われた気になって、何だかとても安心できて、
気が付けば前でペダルを漕ぐ聡に手を回して、全身で抱き付いてしまっていた。
とてもそうしたい気分だった。
「ちょっと、姉ちゃん……。
くっ付くなよ、暑苦しいぞ……」
嫌がってるわけじゃない口振りで聡が呟く。
姉とは言っても、年の近い異性に抱き付かれて照れてるのかもしれない。
そんな反応をされてしまうと、私の方も少し恥ずかしくなってくる。
だけど、まだ聡から離れたくもなくて……。
「あててんだよ」
ちょっと上擦った声で、前に唯から流行ってると聞いた事のある漫画の台詞を言ってみる。
「あててんのよ」だったっけ?
まあ、いいか。
とにかく私は恥ずかしさを誤魔化すために、そうやってボケてみた。
だけど……。
「何をだよ」
と、そうやって聡が真顔で返すから、私は悔しくなって軽く聡の頭を小突いた。
「何すんだよ」と聡が非難の声を上げたけど、私はそれを無視した。
いや、自分でも分かってんだよ……。
最近、梓にすら追い抜かれそうで辛いんだよ……。
前に色々あって梓に胸を触られる事があった時、
これなら勝てると言わんばかりの表情を浮かべられた時の屈辱を私は忘れん。
流石に梓になら負ける事は無いだろう、と思いたいけど、
今じゃ化物レベルの澪だって中学の頃は私よりも小さかったんだ。
油断は出来ない。
豊胸のストレッチやら何やらは当てにならないけど、
少なくとも栄養だけは確実に摂取しておかないとな……。
そう思った瞬間、急に私のお腹が大きく鳴った。
考えてみれば、夕飯も食べてなかった。
夕食抜きで泣き疲れた上に三十分以上も走り回ったんだ。
そりゃ私のお腹も大声で鳴くよな。
仕方がない。それは必然的な生理現象なのである。
生理現象なのである……のに、振り向いた聡がとても嫌そうな顔で言った。
「うわー……。
姉とは言え、女の人のそんなでかい腹の音を聞きたくなかった……」
「うっさい。誰だって鳴る時は鳴るんだ。
澪だって、唯だって、ムギだって、梓だって鳴るんだ。
おまえの好きなアイドルのあの子だって、腹が減ったら腹が鳴るんだ」
「嘘だ!
春香さんはお腹を鳴らしたりなんかしない!」
「昭和のアイドルかよ……」
呆れて私が突っ込むと聡は小さく笑った。
どうやら冗談だったらしい。
流石にアイドルでもお腹を鳴らすという現実くらいは分かってたか。
それは何よりだ。たまに分かってない人もいるからなあ……。
そうして二人で小さく笑いながら、自転車で帰り道を走る。
たまに不満を口にしながらも、聡は後ろでくっ付く私を振り払いはしなかった。
私の好きにさせてくれるつもりなんだろう。
今更ながら、聡と二人乗りをするのはとても久し振りだと気付いた。
特に聡が漕ぐ方の二人乗りは初めてのはずだ。
聡も私を乗せて二人乗りできるくらいに成長したんだな、と何だか姉みたいな事を思ってしまう。
って、実際にも姉なんだけどさ。
「そういえば……」
不意に気になって、私は気になっていた事を訊ねる事にした。
少しだけ聡に回す手に力が入る。
「どうして私があんな所にいるって分かったんだ?」
「超能力だよ。
姉ちゃんも知ってるだろ?
双子には超常的なシンクロ能力が……」
「冗談はよせい。と言うか、私ら双子じゃねーし」
「はいはい、分かったって。
いや、部屋で漫画読んでたらさ、急に家の中がバタバタ騒々しくなったんだよ。
何かと思って部屋から出てみたら、姉ちゃんが家から出てくところじゃんか。
まるで親と喧嘩して家出してく娘みたいだったぞ?
それで一応、父さんに事情を聞いてみようと思って部屋に行ったら、父さんと母さん寝てたし……。
しかも、姉ちゃんに電話掛けようと思ったのに圏外だし……。
それで母さんのママチャリ借りて、姉ちゃんを追い掛けてきたんだよ。
結構捜し回ったんだぞ? 姉ちゃんって足速いよな」
「家出娘みたいだったか、私?」
「うん。とても必死で、何かに焦ってて、すごく泣きそうな顔に見えたし」
「……泣いてねーよ」
「見えたってだけだよ」
「泣きそうな顔に見えた……か」
弟の聡にそう見えたって事は、私は本当に泣きそうだったのかもしれない。
それは梓の事が心配だったからってのもあるんだろうけど、
これ以上、何かを無くしたくないっていう自己中心的な悲しみが原因でもあるような気もした。
聡は私が誰かを心配すると、考えるより先に動くと言ってくれた。
それは私自身もそう思わなくもないけど、
その心の奥底では誰かを失う事が恐くて、
自分が悲しみたくなくて、居ても立ってもいられなかっただけかもしれない。
勿論、そんな事を口に出す事はできなかった。
だけど……、それでも……。
聡は一人で怯えていた私の所に来てくれた。
それだけは本当に嬉しくて、私はまた全身で強く聡を抱き締めた。
そんな私の姿に、また聡が苦笑して言う。
「痛いよ、姉ちゃん」
「あててんだよ」
「肋骨を?」
「肋骨が当たったら、そりゃ痛いわな……。
って、何でやねん!」
「だから、冗談だって。
でも、何はともあれ、家に帰ったらゆっくり休めよ、姉ちゃん。
ライブやるんだろ? 体調管理も大事な仕事だぜ」
「ライブやるって伝えたっけ?」
「前にたまたま会った澪ちゃんに聞いたんだよ。
澪ちゃん、すごく楽しみにしてるみたいだった」
「澪ちゃん……ねえ」
「いや、澪さんな、澪さん!」
焦って聡が訂正する。別に恥ずかしがらなくてもいいのにな。
最近、聡は澪の事を『澪さん』と呼ぶようになった。
小学生の頃までは『澪ちゃん』と呼んでいたのだが、
中学生男子にとって、年上の女をちゃん付けで呼ぶのは抵抗があるものらしかった。
我が弟ながら、よく分からない所で繊細な男心だ。
いや、今はそれよりも……。
「そうか……。
あいつも楽しみにしてくれてるのか……」
私は声に出して呟いてしまっていた。
私だけじゃなく、聡もそう感じるって事は、
澪も本当に最後のライブを楽しみにしてくれてるんだろう。
「成功させたいな……」
本当に、成功させたい。
笑って、終わらせたい。
楽しみにしてくれてる皆の期待に応えたい。
そうして、最後に私達の結末を見せ付けたい。
世界に刻み込んでやりたい。
私達は軽音部でよかったんだと。
そのために越えなきゃいけない壁は大きいけど、
ライブを成功させたいのは自己中心的な理由ばかりかもしれないけど、
それでも……。
私の考えを感じ取ってくれたんだろうか。
不意に優しい声色になって、聡が言った。
「とにかく頑張ってくれよ、姉ちゃん。
ライブ、俺も観に行こうと思ってんだからさ」
「いいのか?」
「何だよ。俺が観に行っちゃ駄目なの?」
「いやいや、そうじゃなくて……。
実はさ、まだ確定じゃないけど、ライブは土曜日にやる予定なんだよ。
土曜日……、つまり世界の終わりの日の前日だぞ?
いいのかよ? 聡にだって予定があるんじゃないのか?」
「残念だが、無い!」
「うわっ、言い切りおった!
言い切りおったぞ、我が弟め!」
「実はさ、俺が世界が終わるまでにやりたかったのは、あのRPGのコンプリートなんだ。
いや、焦ったよ。始めたばかりの頃に『終末宣言』だったからさ。
大作RPGでコンプまで300時間は掛かるって聞いてたから、本気で頑張ったんだよ。
でも、それもこの前、鈴木と手分けして終わらせたから、後の予定は何もないんだ。
いや、本当はあったのかもしれないけど……」
「何かあったのか?」
「これ恥ずかしいから、あんまり言いたくないんだけど……」
「何だよ?」
「同じクラスの女子に告白したら、振られた。
だから、もう予定はないし、できる予定もないんだよな」
「あちゃー……」
言いたくない事まで言わせちゃっただろうか?
私は申し訳なくなって聡の顔を覗き込んだけど、
月明かりに照らされる聡の顔は何故かとても清々しく見えた。
「まあ、駄目で元々だったしさ。
告白できただけで十分……、なんて言うほど割り切れてはないけど、すっきりはしたよ。
だからさ、姉ちゃんのライブを観に行くよ。
鈴木達も予定無さそうだし、誘ってみる。
実は鈴木の奴、「おまえの姉ちゃん可愛いな」って言ってたから、多分姉ちゃんに気があるぞ?」
「マジな話?」
「うん。髪が長くてスタイルいいし、ツリ目な所も本当に可愛いって……」
「それ澪じゃねえか!」
「いや、実は姉ちゃんが澪さんと遊んでる時に見掛けた事があって、
「あれが俺の姉ちゃんなんだ」って鈴木に言ったら、
澪さんの方が俺の姉ちゃんだって勘違いされて、何となく訂正できなかった……」
「訂正しとこうぜ、そういう時は!」
「安心して。ライブの日に訂正しとくから」
「それ恥ずかしいの私じゃねえか!
やめてくれ……。
その鈴木君が幻滅した目で私を見るのが想像できる……」
げんなりと私が呟くと、本当に楽しそうに聡が笑った。
本当に生意気な弟だ。
でも、そんな所がやっぱり私の弟だな、って思えて、何だか私も笑えた。
これだけは『終末宣言』前からも変わらない私達の関係。
変わり行く世界で、変わらないものもあるんだ。
本当は私も変わらなきゃいけないのかもしれない。
でも、『変わらない』事がその時の私には嬉しかった。
○
結構長い時間、自転車の後ろで揺られて、自宅に戻った私を誰かが待っていた。
私の家の前、二つの影が寄り添って立っている。
誰だろう、と思って目を凝らすと、それは和と唯だった。
こんな時間に何の用なのか見当も付かないけど、少なくとも変質者の類じゃなくて安心した。
私は自転車から降りて、二人に近付いて話し掛けようとする。
瞬間、唯が予想外な行動を取って、私は言葉を失った。
行動自体は普通だったんだけど、普通なら唯が取るはずもない行動だったからだ。
だって、唯は膝の前で手を揃え、深々とお辞儀をしたんだ。
こんな事されたら、何かの異常事態じゃないかと思えて、硬直するしかないじゃないか。
そんな私の様子を分かっているのかどうなのか、
唯は頭を上げてから、柔らかく微笑んで続けた。
「こんばんは、律さん。
こんな時間にごめんなさい。今、お時間よろしいですか?」
そこでようやく私は気付いた。
唯が取るはずもない行動を取るのも当然だ。
和の隣で私に頭を下げたのは唯じゃなく、
髪を下ろした唯の妹の憂ちゃんだったんだ。
○
「ごめんね、待たせて」
シャワーを浴びて、少しの腹ごしらえを終えてから、
私は私の部屋で待っててもらっていた憂ちゃんに声を掛けた。
「いいえ、こちらこそごめんなさい、律さん。
こんな時間に非常識だと思いますけど、律さんにどうしても話したい事があったんです」
申し訳なさそうな顔で憂ちゃんが頭を下げる。
私はそれを軽く微笑む事で制した。
私の方こそ、こんな時間に来てくれた人を待たせるなんてとんだ非常識だ。
でも、流石に空腹な上に汗まみれで話を聞く方が何倍も失礼だったし、
私の方も多少はマシな状態になってから、憂ちゃんの話を聞きたかった。
こんな時間に真面目で良識的な憂ちゃんが来てくれたんだ。
きっとよっぽどの事情があるんだろう。
少なくとも、疲れ果てて身の入らない状態で聞き流せる話じゃない事だけは確かだった。
ちなみに現在、和はリビングで聡と話をしている。
和はボディガードとして憂ちゃんに付き添ってきただけらしく、
私と憂ちゃんの話が終わるまでリビングで待っていると言っていた。
風呂上りにリビングをちょっと覗いてみた時、意外にも二人の話は盛り上がっていた。
聡がコンプリートしたらしいあの大作RPGは和の兄弟もプレイしているそうで、
攻略法やストーリー、キャラクターを演じている声優に至るまで幅広く会話してるみたいだった。
澪以外の女子と話す弟の姿は新鮮で、照れた様子で年上の女と会話する姿が可愛らしくて、
姉としてはいつまでも見ていたくはあったけど、そういうわけにもいかない。
少し後ろ髪を引かれる気分ながら、
どうにかその誘惑を振り切って、こうして私は自分の部屋に戻って来たわけだ。
「えっと……、ですね……」
何だか緊張した面持ちで憂ちゃんが目を伏せている。
とても話しにくい、だけど、話したい何かがあるんだろう。
私は律義に座布団に正座してる憂ちゃんの手を取って、私のベッドまで誘導する事にした。
少し躊躇いがちではあったけど、
すぐに私の考えが分かってくれたらしく、憂ちゃんは私のベッドに腰を下してくれた。
その横に私も腰を下ろし、憂ちゃんと肩を並べる。
憂ちゃんとこんなに近くで話をした事はあんまりないけど、
多分、今回の憂ちゃんの話はこれくらい近い距離で話し合うべき事のはずだと思った。
「それでどうしたの、こんな時間に?
唯の事?」
私と憂ちゃんの間に他に話題が無いわけじゃない。
それでも、私は唯の事について訊ねていた。
これまでも私と憂ちゃんの会話で一番話題に上っていたのは唯の事だったし、
憂ちゃんがこんな真剣な表情で緊張しているなんて、その緊張の理由は唯以外に絶対にない。
「はい、お姉ちゃんの事なんですけど……、
あのですね……、明日……、いえ、もう今日ですね。
今日……なんですけど、お姉ちゃん、学校には行かないそうなんです」
「……来ない……のか?」
呟きながら、不安になる。呼吸が苦しくなるのを感じる。
唯も何かを悩んでいたんだろうか。
それとも、私が唯の気に障る何かをしてしまったんだろうか。
少しずつ、一人ずつ、軽音部から去ってしまうのか?
澪、唯、次は梓、最後にムギと去って、私だけが部室に取り残されちゃうのか?
その私の不安を感じ取ったんだろう。
憂ちゃんが軽く頭を振って、隣にいる私の瞳を覗き込んで言ってくれた。
「あ……、違うんです。
律さんが何かしたとか、軽音部に行きたくないとか、そんな事はないんです。
お姉ちゃん、ずっと……、今でも勿論、軽音部の事が大好きなんですよ?
いいえ、違いますね……。
大好きって言葉じゃ言い表せないくらい、
お姉ちゃんの中では軽音部の事が大きい存在なんだと思います」
だったら、唯はどうして?
ついそう訊きそうになってしまったけど、私はどうにかその言葉を押し留めた。
憂ちゃんはそれを話しに来てくれたんだ。
急いじゃいけない。焦っちゃいけない。
どんなに時間が無くても、憂ちゃんが言葉にしてくれるまで、それを待つだけだ。
それに急ぐ理由は私の中から一つ減っていた。
さっきシャワーを浴びる前、「先に梓の家に電話させて」と憂ちゃん達に伝え、
私が梓の家に電話しようと受話器を上げた時、憂ちゃんは首を傾げながら言ったんだ。
「梓ちゃんの家ならついさっき行って来ましたけど、梓ちゃんに何かご用なんですか?」
憂ちゃんの言葉に私は張り詰めていた糸が切れて、しばらくその場に座り込んだ。
ひとまずは安心できる気分だった。
憂ちゃんが言うには、私の家に来る二十分前には梓の家に行って、
話をしてきたばかりなんだそうだった。
夜道に私が見た梓の姿は単なる見間違いだったのか、
それとも何かの用事が終わった後の帰り道の梓を見たのか、
色んな可能性がありはしたけど、そんな事はどうでもよかった。
今は梓が無事に自分の家にいてくれるだけで十分だった。
私は上げた受話器を元に戻し、
「用事はあったけど、やっぱり学校で会った時でいいや」と憂ちゃん達に伝えた。
梓の悩みについては、電話で話すような内容でもない。
直接あいつから聞き出さないといけない事だ。
今日、学校で会ったら、それを梓に聞こうと思う。
もしも本当に梓に嫌われていたとしても構わない。
それでも私は梓の悩みの力になるべきなんだ。
私はあいつの先輩で、軽音部の部長で、嫌われていてもあいつが大切なんだから。
そういうわけで、今の私は焦ってはいない。
時間が無い私だけど、焦る事だけはしちゃいけない気がする。
焦ると正常な判断ができなくなる。
当然の事だけど、私は少しずつ身に染みてそれを理解し始めていた。
はっきりとは言えないけど、澪との事も焦っちゃいけない気がする。
いや、違うな。
焦っちゃいけなかったんだ。
あの時、私は焦ってしまってたんだ。
だから……。
小さく溜息を吐いて、私は憂ちゃんの次の言葉を待つ。
今は梓の事、澪の事より、目の前の憂ちゃんの事だ。
じっと憂ちゃんの瞳を覗き込んで、話してくれるのを待ち続ける。
少しもどかしい時間だったけど、それはきっと私達に必要な時間だった。
しばらく経って……。
考えがまとまったのか、憂ちゃんがまっすぐな瞳で私を見つめながら口を開いた。
「お姉ちゃん、軽音部の事がすごく大切なんです。
軽音部の事も、律さんの事も、大切で仕方が無いんだと思います。
それでも、今日は部に顔を出さないって、お姉ちゃんは言ってました。
水曜日は……、「今日一日は憂と二人で過ごしたいから」って言ってくれたんです……」
そういう事か、と私は思った。
残り少ない時間、唯はその内の一日を大切な妹と過ごす事に決めたんだ。
それはそれで構わなかった。
軽音部の事も大切ではあるけど、私は唯の選択肢を尊重したい。
家族と過ごしたいのなら、私達に遠慮なんかせずにそうするべきなんだ。
「ごめんなさい、律さん……」
言葉も弱く、辛そうな表情に変わりながらも、
視線だけは私から逸らさずに憂ちゃんが言ってくれた。
本当に申し訳ないと思ってくれてるんだろう。
でも、本当に謝るべきなのは私の方だった。
こんなにお互いを大切に思い合ってる姉妹に気を遣わせるなんて、
私の方こそ謝るべきなんだ。
そう思って私は口を開いたけど、その言葉より先に憂ちゃんがまた言った。
「私の事は気にしなくてもいいって、お姉ちゃんに何度も伝えたのに、
お姉ちゃんは絶対に私と過ごすって言ってくれて……。
ライブの準備がとても楽しいって、お姉ちゃん言ってたのに、それなのに……。
それが律さん達に申し訳ないのに、本当はすごく嬉しくって……。
そんな私が嫌で、せめて今日お姉ちゃんが軽音部に行かない事だけは、
皆さんに直接伝えたいと思って……。
それが私にできる精一杯で……。
ごめんなさい、律さん。本当にごめんなさい……」
「唯……は今、どうしてる?」
「最初……、本当はお姉ちゃんが皆さんの家を直接回るって言ってました。
でも、無理を言って、私と手分けして回ってもらう事にしたんです。
それで私は梓ちゃんと律さんの家に、
お姉ちゃんは紬さんの家と澪さんの家に、直接話しに行く事になったんです。
先に紬さんの家に向かったから、多分、今は澪さんの家で話をしてると思います」
「一人で?」
「いえ、それは大丈夫です。
お父さんが車で送ってくれてますから。
私の方はお母さんが付き添いで来てくれるはずだったんですけど、
うちのお母さん、ボディガードにはちょっと頼りなくて……。
それで、お姉ちゃんが和さんに電話で私の付き添いを頼んでくれたんです」
「そっか……。だったら、二人とも安心だな」
「それで……、実はですね、律さん……」
憂ちゃんの顔が辛そうな表情から、何かを決心した表情に変わる。
憂ちゃんは決して弱い子じゃない。
強い子ではないかもしれないけど、唯の事が関係するなら強くいられる子だ。
つまり、これから唯に関する大切な話を始めるんだろう。
「私、最初は軽音部の事が好きじゃありませんでした」
「そうなんだ……」
憂ちゃんの言葉に、意外と驚きはなかった。
何となくそんな気がしていた。
仲のいい姉妹の間に入って、
二人の関係を邪魔してしまっていいのかって思わなくもなかったんだ。
憂ちゃんは続ける。
「少しの時間、部活に行ってるだけなら気になりませんでした。
でも、少しずつ……、どんどんお姉ちゃんが家に帰ってくる時間が遅くなって……。
お休みの日も家にいてくれる事が少なくって、それが嫌で……。
軽音部の部長の会った事もない『りっちゃん』って人が嫌いになりそうでした。
確かお姉ちゃんが一年生の頃のテスト勉強の日だったと思うんですけど、
初めてその『りっちゃん』……、律さんに会って、その顔を見てるのが辛くて……。
それでついゲームの律さんとの対戦で本気を出しちゃったんです。
『これ以上、お姉ちゃんを私から取らないで』って、そんな気持ちで……。
あの時はごめんなさい……」
「えっ? あれってそんな意図がある重大な戦いだったの?
いや、マジで強いなー、とは思ってたんだけど……」
思いも寄らなかった真相に私は驚きを隠せない。
勿論、多少は大袈裟に言ってるんだろうけど、人には色んな考えがあるもんなんだな……。
憂ちゃんがその私の様子に表情を緩める。
「でも、学園祭で初めてのお姉ちゃん達のライブを見て、
ライブ中のお姉ちゃんはすっごく格好良くて、すっごく楽しそうで……。
私……、思ったんです。
軽音部のお姉ちゃんが、今までのお姉ちゃんよりもずっと好きだって。
それから、お姉ちゃんが大好きな軽音部の事も、好きになっていきました。
もう、軽音部じゃないお姉ちゃんなんて、考えられないです。
私、軽音部の……、放課後ティータイムのお姉ちゃんが大好きです。
それを私、律さんにずっと伝えたかったんです。
軽音部の部長でいてくれて、ありがとうございます。
お姉ちゃんをもっと好きにさせてくれて、本当にありがとうございます」
憂ちゃんが頭を下げながら、私の手を握る。
私の方こそ、お礼を言いたい気分だった。
大好きなお姉ちゃんと一緒にいさせてくれてありがとう、と。
最初こそ頼りない初心者だったけど、唯はもう軽音部に無くてはならない存在だ。
軽音部はあいつの才能に引っ張られて機能していると言っても過言じゃない。
唯がいたからこそ、軽音部はこんなに楽しく、大切な部活にできた。
それは私達だけじゃどうやっても辿り着けなかった境地だろうし、
例え他にギター担当の誰かが入部して来てくれていたとしても、やっぱり無理だったと思う。
三年間、こんなに楽しかったのは、唯がいたからこそ、だ。
だから、私は唯に、憂ちゃんに感謝しなきゃいけない。
同時にやっぱり申し訳なくなった。
私は目を伏せたかったけど、どうにか耐えて憂ちゃんの瞳から目を逸らさずに言った。
「ありがとう、憂ちゃん。
そんなに私達を好きでいてくれて、本当に嬉しいよ。
でも……、これまではそれでよかったかもしれないけど、
この状況でも、それでいいの?
『今日一日は一緒にいる』って事は、逆に言うと今日一日って事でしょ?
世界の終わりを間近にして、たった一日だけで本当にいいの?」
憂ちゃんはその私の言葉に微笑んだ。
無理をしているわけでもなく、強がりでもなく、本当に心からの笑顔に見えた。
「違いますよ、律さん。
『一日だけ』じゃありません。『一日も』ですよ、律さん。
こんなおしまいの日まで残り少ないのに、
お姉ちゃんはそんな貴重な時間を、私に『一日も』くれるんです。
私はそれがすっごく……、
すっごく嬉しいです……!」
そう言った憂ちゃんの笑顔は輝いていた。
眩しいくらいの笑顔。
そんな笑顔をさせる唯の時間を、私が一日以上も貰うんだと思うと少し震えた。
参ったなあ……。
絶対にライブを成功させなくちゃならなくなったじゃないか……。
恐いわけじゃないし、重圧に負けそうってわけでもない。
これは武者震い……、とりあえずはそういう事にしておこう。
何はともあれ、私は私のためにも、憂ちゃんのためにも、
私達は何としてもライブを成功させなくちゃならない。
ふと思い立って、私は隣に座る憂ちゃんの肩を抱き寄せて囁いた。
「成功させるよ。
最後のライブ、絶対に成功させる。
憂ちゃんに、これまで以上に格好いい唯の姿を見せたいからさ」
憂ちゃんは私の腕の中で、
「はい」と、笑顔で頷いてくれた。
ええ子達や・・・・・・
390:にゃんこ:2011/07/21(木) 23:47:10.34:Pj2QSlyz0○
朝、軽音部の部室で私は一人座っていた。
ほんの少し曇っているけど、雨は降りそうにない空模様を私は見上げる。
太陽にたまに雲が掛かる程度のよくある天気。
確か数日前に天気予報で聞いた限りでは、世界の終わりの日まで雨は降らないらしい。
雨が好きなわけじゃないけど、もう体験できないと思うと何だか名残惜しかった。
でも、空模様に関しては私には何もできない。
何となく溜息を吐くけど、別に憂鬱ってわけでもない。
ただちょっと寂しかっただけだ。
それにできない事を考えていても仕方が無かった。
私にできない事はいくらでもある。
多分、できる事よりもできない事の方が遥かに多いだろうな。
でも、そんな事より、今の私にできる事を考えるべきだろう。
それは憂ちゃんのためでもあるけれど、それ以上に私のためでもあるんだから。
夜、話が終わり、和と一緒に家に帰る直前、
「梓ちゃんの事、助けてあげてください」と憂ちゃんは言った。
唯の事が大好きだけど、唯の事ばかり考えてるわけじゃない。
憂ちゃんはちゃんと友達の事にも目を向けられる子だ。
だから、自分が唯と二人で過ごすのが申し訳なくて、嬉しくて辛かったんだろう。
私の家に来る前、憂ちゃんが梓の家を訪ねた時、
頭を下げる憂ちゃんに梓は笑顔で答えたらしい。
「大丈夫だから」と。
「でも、唯先輩がいなくて、
全員が揃わない中で律先輩がちゃんと練習するか心配だな」と。
普段と変わらない様子と口調で笑っていたらしい。
泣きそうな顔で、笑っていたらしい。
梓の親友の憂ちゃんにも、その梓の表情をどうにかする事は出来なかった。
本当に大丈夫なのか、
悩み事があったら何でも言ってほしい、
そんな事を何度伝えても、梓は微笑むだけ。
今にも泣き出しそうな顔で微笑むだけ。
軽音部の皆にも、親友にも、誰にも、本心を見せずに辛そうに笑うだけ。
そんな梓を見て、憂ちゃんは一日も唯を独占してしまう自分に罪悪感を抱いてるみたいだった。
心の底から唯を必要としてるのは梓じゃないかと思うのに、
憂ちゃん自身も唯から離れたくないし、
唯と最後に一緒に過ごせる一日がどうしようもないくらいに嬉しくて……。
だからこそ、罪悪感ばかりが膨らんでいるみたいだった。
でも、それは憂ちゃんが悪いわけじゃない。
唯が悪いわけでもない。
唯だって梓の異変には気付いていた。
梓の悩みを何とかしてあげたいと考えていた。
だけど、梓は自分の悩みを一言も口にしなかったし、
その気遣い自体を誰にもしてほしくないみたいに見えた。
梓がそう振る舞う以上、
唯には何もできないし、憂ちゃんにも、誰にも何もしてあげられない。
どんなに辛い事でも、口にしない限りは他人には何もしてあげられないんだから。
それで迷った末に唯はこの水曜日って中途半端な時に、憂ちゃんと過ごす事に決めたんだと思う。
梓の悩みを解決したいとは勿論、思ってる。
でも、梓の悩みはいつになれば解決するのか分からないし、
下手をすれば世界の終わりの時に至っても解決する事はないかもしれない。
だから、その前に妹と過ごしたいと考えたんだ。
梓の事も大切だけど、妹の憂ちゃんの事だって同じくらい大切だからだ。
それに憂ちゃんと過ごすのが水曜日だけなら、
まだ木、金曜、土曜日と三日間を梓のために使えるから。
それで水曜日を選んだんだ。
いや、本当にそこまで考えてたのかどうかは分からないけど、
私の中では唯はそういう事を考えて行動する奴だった。
きっとそうなんだろうと思う。
だから、悪いのは梓なんだ。
自分の抱えている何かを隠し通そうとする梓が一番問題なんだ。
どんなに辛くても、恐くても、誰かに伝えるべきなんだ。
私に何ができるかは分からないけど、それでも伝えてほしかった。
例えその悩みが人の生死に関わるような重大な問題でも……。
それを想像すると震えてしまうくらいに恐いけど……。
だけど、それでもいいと思う。
そんな問題を梓が抱えてるとしても、私はそれを梓の口から聞きたい。
最後に部長として梓のために何かできるんだったら、私はそうしたいんだ。
困った後輩を持って災難だよな、まったく。
でも……。
「部長だからな」
自分に言い聞かせる。
そうだ。
私が部長。五人だけの部だけど、部長は部長だ。
それにドラマーでもある。
皆の背中を見ながら、何かを感じ取れるパートでもあるんだからな。
そういや前に唯が言ってたっけか。
「大丈夫。りっちゃんならできる。
部長だし、お姉ちゃんだし、ドラマーだし!」って。
何の保障にもなってないし、何の説明にもなってないけど、
それでも何かができそうな気になってくるから不思議だ。
よし、と私は一人で拳を握り締めて頷く。
と。
急に何の前触れもなく軽音部の扉が開いた。
「おはよう。早いね、りっちゃん」
自分だけでなく、周りまで優しい気分にさせてくれる声色が部室に響く。
顔を上げて確認するまでもなく、それはムギの声だった。
いや、そもそも何の前触れもなく扉が開いた時点で、
部室に来た人の選択肢はムギかさわちゃんの二人に絞られてたけどな。
足音も立てずに部室にやってくるのはこの二人くらいだ。
二人とも神出鬼没なんだよなあ……。
まあ、ムギの方はお嬢様的な教育か何かで、
足音を立てないよう歩く練習をしているとしても(勝手な推測だけど)、
さわちゃんの方はマジでどうやって足音も立てずに現れてるんだろうか。
……別にどうでもいい事だった。
私は顔を上げてムギの顔を見つめ、「おはよう、ムギ」と言った。
部室に入ったムギは長椅子に自分の鞄を置きに行く。
私はムギに気付かれないよう、少しだけ微笑んだ。
ひとまずは安心した。
下手をすれば、今日は誰も軽音部に来ないかもと思わなくはなかったんだ。
憂ちゃんの話では、唯が来なくても梓は登校して来るつもりみたいだったけど、
それにしたってちゃんとした確証がある話じゃないしな。
だから、嬉しかった。
ムギが部室に顔を出してくれた事が、私は本当に心から嬉しい。
「ムギと部室で二人きりってのも珍しいよな」
胸の中だけでムギに感謝しながら私が言うと、
鞄を置き終わったムギが顔を上げて応じてくれた。
「そうだね。りっちゃんと二人きりなんて、何だかとっても久し振り。
ひょっとしたら、夏に二人で遊んだ時以来じゃないかな?」
「そうだっけ?」
夏に二人で遊んだ時……、確か夏期講習が始まる前日くらいの事だ。
まだ四ヶ月くらいしか経ってないはずなのに、随分と前の出来事の様な気がする。
『終末宣言』以来、この一ヶ月半、本当に色んな事があった。
世界が終わるなんて夢にも思わなかった事が現実になったし、
変わらないと思ってた私と澪の関係も、今更だけど大きく動き出そうとしている。
目眩がしそうなくらい多くの事があった。
でも、それも終わる。もうすぐ終わる。
その終わりがどんな形になるかは分からないけど、
少なくとも最後のライブだけは私達の結末として成功させたい。
……ムギはどうなんだろうか?
不意に気になって、私の胸が騒いだ。
そうやって人の考えが気になってしまうのは、私の悪い癖かもしれない。
でも、考え出すとどうにも止まらなかったし、胸の鼓動がどんどん大きくなった。
琴吹紬……、ムギ。
合唱部に入ろうとしてたところを私が引き止めて、軽音部に入ってもらったお嬢様。
キーボード担当で、放課後ティータイムの作曲のほとんどを任せてる。
いつも美味しいお茶とお菓子を振る舞ってくれて、
それ以外にも合宿場所とか多くの事で助けになってくれる縁の下の力持ち。
実際にもキーボードを軽々と運べる力持ちでもある。
『終末宣言』直後から、ムギが軽音部に顔を出す事は少なくなった。
深く踏み込んで聞いた事はないけど、どうも家の事情が関係しているらしい。
世界の終わりが間近になったと言っても、いや、間近だからこそ、
名家と言えるレベルのムギの家にはやるべき事がたくさんあったみたいだ。
眉唾な話だけど、人類存続のためにそれこそSF的な対策への協力も行われたんだとか。
人類の遺伝子を地下深くに封印するとか、
超強力なシェルターを急ピッチで開発したりとか、
できる限り多くの人達を宇宙ステーションに避難させてみたりとか、
とにかくムギの家はそういう冗談みたいな世界の終わりへの対抗策に追われていたらしい。
家族思いのムギはこの約一ヶ月のほとんどを、
それらの対抗策に追われる両親の手伝いをする事で過ごしてたみたいだ。
「心配しないで」と月曜日に久し振りに会えたムギは言った。
「これからはずっと部活に顔を出せるから」と笑ってくれた。
家の事情で大変だったはずなのに、
登校するのもやっとの状況のはずなのに、
ムギは疲れを感じさせない笑顔でそう言ってくれた。
それ以来、ムギは一日も欠かさずに登校して来てくれている。
対抗策が成功したのかどうかは聞いてない。
国もやれる事はやったみたいだけど、それ以上の事はムギも分からないみたいだった。
まあ、名家とは言え、ムギの家も協力程度で深くは関わってないんだろうし、
もしも対抗策が成功していたとしても、庶民の私達には多分関係ない事だろう。
だから、それに関してはそれ以上の話をしない。
聞いたところで、ムギが困るだけだろうしな。
そんな事よりも、私はムギが登校してくれる事の方が嬉しかった。
それだけで十分だ。
それに最後のライブなんだけど、ムギは誰よりも成功させたいと思ってる気がするんだ。
家の手伝いをしている時でも、メールで澪のパソコンに新曲の楽譜を送って来てくれてたし、
久し振りに合わせたセッションでも全くブランクを感じさせなかった。
きっと時間を見ては練習をしてくれてたんだろう。
今でこそ何としても成功させたいと私も思ってるけど、
憂ちゃんと話すまではムギほど最後のライブに熱心じゃなかった。
軽い思い出作り程度にしか考えてなかったんだ。
考えてみれば、ムギは『終末宣言』前から軽音部の活動に本当に熱心だった。
いつも一生懸命に楽しんで、練習も、練習以外も楽しそうで、
そんなムギの楽しそうな姿が私には嬉しかった。
それだけで軽音部を立ち上げた甲斐があったって思えるくらいに。
私達の軽音部が、この五人の音楽が一番なんだって思えるくらいに。
だから、私はムギに訊ねる。
五人揃っての放課後ティータイムの今と先を考えるために。
「ムギは私と二人で寂しかったりしない?」
持って回った言い方だったかもしれない。
でも、それ以上の言葉は思い付かなかったし、
思い付いたとしても口に出しては言えなかっただろう。
ムギは自分の椅子の前まで移動しながら、私の言葉に首を傾げる。
「どうして?
私、寂しくなんかないよ?
どうして、そんな事を聞くの?」
「いや……、折角家の用事も終わって、
部活に顔を出してくれてるのに、今日は全員揃えないじゃんか。
一番忙しいムギが参加してくれてるのに、何か悪いなって思ってさ」
私が頭を掻きながら言うと、ムギがまた微笑んだ。
優しい笑顔で、「心配しないで」と言ってくれた。
言葉自体は最近梓が泣きそうな笑顔で言う物と同じだったけど、
ムギのその言葉は梓の言葉とは優しさとか、想いとか、色んな物が違う気がした。
「大丈夫よ、りっちゃん。
勿論、今日唯ちゃんと会えないのは残念だけど、それは仕方の無い事だもの。
私だってずっと部活に来れなかったじゃない?
そんな事で唯ちゃんを責めたりしないし、それならむしろ責められるのは私の方。
ずっと出て来れなくて、私の方こそごめんね、りっちゃん……」
自分の椅子に手を置きながら、
それでも自分の椅子に腰を下ろさないままで、ムギが困ったように笑った。
困らせないようにしようと思っていたのに、
結局は私の行動がムギを困らせてしまったみたいだ。
私は自分の馬鹿さ加減に大きく溜息を吐いて、椅子から立ち上がった。
ムギが立って謝ってくれてるのに、私だけ座ったままじゃいられなかった。
立ち上がって目線をムギと合わせて、私は真正面からムギに頭を下げた。
「謝らないでくれよ、ムギ。
こっちこそ変な事を言っちゃったみたいでごめんな。
だけど、気になったんだ。
唯もそうなんだけど、今日は……、澪も来ないからさ」
今日は澪も来ない。
それはとても言いにくい事だったけど、伝えないわけにもいかなかった。
「澪ちゃんも? 何かあったの?」
ムギが残念そうな声を上げる。
昨日、唯はムギの家に行った後、澪の家を訪ねたと憂ちゃんが言っていた。
例え澪が唯に今日登校しない事を伝えていたとしても、
それが唯からムギに伝える事は時間的にもできなかったんだろう。
結局、夜から携帯電話の電波も、ラジオ電波も、
それどころかテレビ回線と家の電話の電話回線も切れていて、復旧されていなかった。
連絡手段が無い私達は、お互いの出欠確認もままならなかった。
信じるしかなかったんだ。皆で交わした約束を。
部室に集まるって約束を。
だからこそ、私はムギの顔を見るのがとても恐かった。
唯も澪もいない軽音部に、ムギはがっかりしてるんじゃないだろうか。
約束を果たせなかった軽音部に、少なからず失望してるんじゃないだろうか。
しかも、それは澪が悪いわけでも、唯が悪いわけでもない。
この場合、梓だって悪くない。
梓に嫌われてると思えて仕方なくて、梓の悩みから逃げ出した私が無力だったんだ。
今日、全員が揃えない責任は全部部長の私にある。
だから、私はムギの顔を見られないんだ。
「ごめんな……」
顔を上げられないまま、私は絞り出すようにどうにか言葉を出した。
「澪に何かあったんじゃない。
澪が来ないのは私のせいなんだ。
こんな状況なのに、もう時間も残り少ないのに、
それでも答えが出せなくて、悩まずにはいられない私の責任なんだ。
本当にごめん……」
実を言うと、澪の件に関しては私の中で一つの答えが固まりつつあった。
今からでもそれを澪の家に行って伝えたなら、
もしかすると澪の悩みは晴れるのかもしれない。
今日の昼過ぎからでも、登校して来てくれるかもしれない。
だけど、私はそれをしたくなかった。
それを澪に伝えるのが恐いって事もあるけど、
曖昧なままでその答えを伝えたくなかったし、
こう言うのも変かもしれないけど、私は悩んでいたかった。
澪にも今日一日は悩んでいてほしかった。
悩んでいたいなんて、滑稽で無茶苦茶にも程がある。
きっとそれは私の我儘なんだろうと思うけど、簡単に答えを出したくないんだ。
世界の終わりも間近なのに、
とても自分勝手で、周りにすごく迷惑を掛けてしまってる。
勿論、ムギにだって……。
だから、私はムギに謝るしかないんだ。
頭を下げる私に、ムギはしばらく何も言わなかった。
何を思って私を見てるのかは分からない。
胸の中で私を責めているのかもしれない。
でも、責められても仕方ないし、私はムギのどんな言葉でも受け入れようと思う。
どれくらい経ったんだろう。
突然、普段より低い声色で、ムギが深刻そうに呟いた。
「りっちゃんは……、澪ちゃんと喧嘩したの?」
何て答えるべきか少し迷ったけど、私は大きく頭を横に振った。
「いや……、喧嘩じゃ……ないな。
喧嘩じゃないんだけど、今日は会えないんだよ。
変な事を言ってるとは思うんだけど、悩んでるんだよ、お互いに……。
悩まなきゃ……、駄目なんだよ、私達は。
こんな状況で何を悠長な、って思われても仕方ないのは分かってる。
でも……、でもさ……」
上手く言葉にできない。
自分の中でも曖昧にしか固まってない考えなんだ。
そんな考えを人に上手く伝えられるはずなんてない。
だけど、上手くなくても私はムギに伝えなきゃいけなかった。
ムギも当事者だ。軽音部の仲間なんだ。
そんな私の我儘や曖昧な考えで振り回してしまってる事だけは、謝らなきゃならない。
勿論、まだムギの表情を見るのが恐くて堪らなかったけど、私は顔を上げた。
謝り続けたくはあったけど、単に頭を下げ続けるのも逃げの様な気がしたからだ。
これから責められるにしても、
私はムギの顔を見ながら責められるべきなんだと思うから。
だから、私は伏せていた視線をムギの顔に向ける。真正面から見つめる。
「やっと顔を上げてくれたね、りっちゃん」
視線を合わせたムギは微笑んでいた。
さっきまでの困ったような笑顔じゃない。
安堵……って言うのかな。
すごくほっとしたみたいな笑顔だった。すごく意外な表情だった。
「よかった……。喧嘩じゃなかったんだね。
りっちゃんと澪ちゃんが喧嘩してるわけじゃないなら、私はそれで十分よ。
勿論、今日澪ちゃんと会えないのは残念だけど、
誰よりも澪ちゃんと付き合いの長いりっちゃんが言う事だもん。
きっとりっちゃんも澪ちゃんも今日は悩まなきゃいけない日なんだよね。
だったら、私も応援する。応援したいの、二人の事を」
責められると思ってた。
責められるだけの事はしたと思ってたし、今でも思ってる。
だけど、ムギは笑顔で私を見守ってくれている。
ムギの笑顔は本当に温かくて、それが辛くて、私はまた呟いた。
「でも……、それは私の我儘で、こんな状況なのに……。
それなのに応援してくれるなんて……、こんな私の我儘を……」
「ねえ、りっちゃん?
りっちゃんは優しくて、誰のためにでも一生懸命になってくれるよね?
私はそれが嬉しいし、そんなりっちゃんが大好きよ。
でも……、でもね……、
私、りっちゃんにはもっと自分に自信を持ってほしい。
我儘だって、もっと言ってほしいの」
「自信って……、だけど私は……」
「学園祭の時だってそう。
メンバー紹介の時、りっちゃんの自分の紹介がすごく短かったじゃない?
私、それがとても残念だったの。
私達の軽音部の部長なんだって、自慢の部長なんだって、もっと皆に紹介したかったな」
「それは……、確かにそうだったけどさ……」
学園祭の時は夢中で記憶はあんまりないけど、何となくは覚えてる。
ムギの言葉通り、学園祭のメンバー紹介の時、私は自分の自己紹介を早々に切り上げた。
それは照れ臭かったからってのもあるけど、
私よりも他のメンバーの紹介をした方が観客の皆も喜んでくれると思ったからでもある。
部長ではある私だけど、
私自身を目当てにライブに来てくれた人はあんまりいないはずだと思ったんだ。
だから、皆の紹介を優先した。
その方が多くの人に喜んでもらえると思ったんだけど、ムギはそれを残念だと言った。
自慢の部長だって言ってくれた。
私はそのムギの言葉にどう反応したらいいのか分からない。
自慢の部長だと言ってくれるのは嬉しいけど、
私にそう言われるだけの価値があるのか自身が無かったからだ。
自身が無い……か。
考えていて、気付いた。
ムギが言うように、確かに私は自分に自信があんまり持ててないみたいだ。
それはもしかすると無意識の内に、
部のメンバーと自分を比較してるからかもしれなかったけど、それは別の問題だった。
ムギが私に自信を持ってほしいと言ってくれている。
今はそれを優先的に考えるべきなんだろう。
少し声を落として、小さな声でムギに訊ねる。
「私、自慢の部長かな……?」
「勿論!」
即答だった。
迷いがなく、お世辞でもなく、ムギは強い瞳でそう言った。
拳まで握り締めて、強く主張してくれた。
元々、ムギは嘘が吐けるタイプでもないし、本気でそう思ってくれてるんだろう。
でも、その理由が私にはどうしても分からなかった。
悪い部長ではなかったと思うけど、
ムギに力強く主張されるほどいい部長だったとも思えないんだ。
私のその疑問を感じ取ってくれたのか、ムギがまた珍しく強い語調で続けた。
「さっきも言ったけど、りっちゃんは部員の私達の事を考えてくれてる。
自分よりも優先して考えてくれてるよね。
いつも明るいし、楽しませてくれるし、
軽音部の皆もそんなりっちゃんの事が大好きだと思うわ。
この高校生活、途中で終わっちゃう事になっちゃったけど……、
それはすごく残念だけど……、
でも、これまでずっとずっと楽しかった。
本当に本当に嬉しくて……、楽しくて……、
それは軽音部の部長でいてくれたりっちゃんのおかげよ。
だから、りっちゃんは自慢の部長よ。
何度でも自信を持って言えるわ。
りっちゃんは私達の自慢の部長なの」
嬉しかった。
そのムギの言葉が心から嬉しくて、舞い上がってしまいそうだった。
私はそんな部長でいられたんだな……。
それだけで軽音部を立ち上げた意味があったと思える。
だけど、同時にそれでいいのかって思ってしまう自分もいた。
ムギが軽音部を楽しんでくれたのは本当に嬉しい。
でも、それは……、それは……。
「ありがとう、ムギ。
私の事、自慢の部長って呼んでくれて嬉しい。
楽しんでくれて、私も嬉しい。
だけど……、それもさ……、私の我儘なんだ……」
私は言ってしまった。
言わない方がいい事だったんだろうけど、私はそれを伝えたかった。
ずっと心の中に引っ掛かっていた事、
皆と笑顔でいながらも少しの罪悪感に囚われてしまっていた事を。
伝えたかったんだ、ずっと。
「私はさ、皆にはいつも楽しんでほしいし、笑っててほしいよ。
そのためには何だってしてあげたいし、そうしてきたと思う。
さっきムギは私が優しくて、皆のために一生懸命になれるって言ってくれたけど、
それは全部、皆のためじゃなくて自分のためなんだよ。
私は皆が楽しんでるのが嬉しくて、自分が喜びたくて、皆を楽しませてるんだ。
軽音部の部長をやってるのも、自分が楽しみたかったからで……。
ごめんな……。
私はそんな自慢の部長なんかじゃなくて……。
澪との事でもムギに迷惑掛けてる自分勝手な奴なんだよ……」
私の言葉はどんどん小さくなって、最後には止まった。
こんな事を伝えてもムギが困るだけって事は分かってたのに、
私は何でこんな事を言っちゃってるんだろう。
でも、ずっと気になってる事だった。
皆の……、特にムギと唯の笑顔を見ると、たまに不安になってたんだ。
私は私のために軽音部をやってて、
自己満足のためにムギや唯を楽しませてて、
そんな自分勝手な私の姿を知られたくなくて……、
でも、知ってほしかった。
謝りたかったんだ、それだけは。
急にムギが歩き始める。
手を伸ばせば私に届く距離にまで近付く。
誰かのために一生懸命のようで、
その実は自分の事ばかり考えてた私にムギは失望したんだろうか。
平手打ちの一つでも来るんだろうか。
それも構わない、と私は思った。
平手打ちの一つどころか、好きなだけ叩いてくれていい。
ムギが私の目の前で両腕を上げ、勢いよく振り下ろす。
衝撃に備え、私は覚悟を決めて瞼を閉じる。
一瞬後、私の両側の頬に衝撃が走った。
だけど……。
その衝撃は私の想像していたそれとは、痛みが全然違った。
平手打ちなんてものじゃない。
友達を呼び止める時、ちょっと勢いよく肩を叩く程度の衝撃だった。
「もう……。駄目よ、りっちゃん」
ムギの穏やかな声が響き、閉じていた瞼を開いてみて、気付く。
ムギが私の頬を両手で優しく包んでいる事に。
気が付けば、私は絞り出すように呟いていた
「何……で……?」
「いいんだよ、りっちゃん。
恐がらなくても、大丈夫。恐がる必要なんてないわ。
だからね、そんなに自分を責めちゃ駄目よ、りっちゃん」
「私が恐がってる……?」
私の言葉にムギがゆっくり頷く。
そのムギの頷きを見て、
そうか、私は恐かったのか、と妙に冷静に私は考えていた。
世界の終わりは勿論恐いけど、それ以外の事も多分恐かった。
澪との関係に答えを出す事も恐かったし、梓の問題を解決できるかも不安でたまらない。
これからの事に不安は山積みだ。
でも、何より恐いのは、最後のライブを成功できるのかって重圧かもしれなかった。
それは聡や憂ちゃんのせいじゃない。
ライブを楽しみにしてくれる人が想像以上に多かった事を、自分一人で恐がってたんだと思う。
「そうだな……。恐かったのかもな……」
軽く私が頷くと、「うん」とムギもまた頷いた。
それから困ったような笑顔を浮かべる。
微苦笑とでも言うんだろうか。私が困らせてしまった時、ムギが浮かべる表情だ。
「私もね……、本当はすっごく恐かったの。
この一ヶ月、私、お家のお手伝いをしてたじゃない?
詳しい事は分からないんだけど、でもね、ずっとお手伝いをしてると実感してくるの。
家族や、お手伝いの皆や、色んな人が必死に頑張ってる姿を見てると、感じるの。
世界の終わりの日は冗談なんかじゃなくって、本当に来るんだって。
それを皆、分かってるんだって……。
私、恐かったわ。
世界の終わりも恐かったし、私の大好きな皆も消えちゃうのがすっごく恐かった。
だからね、私、お家で何度も泣いちゃったわ」
「泣いちゃったのか?」
「うん。自分で言うのは、ちょっと恥ずかしいね……。
でも、本当よ?
毎日、お家のお手伝いが終わったら、ベッドの中でずっと泣いてたの。
お手伝い中、泣かないように我慢してた涙を全部流しちゃうくらい、大声で泣いてた。
しばらくの間、朝起きたらすごい顔してたな」
そう言うと、ムギの微苦笑から苦笑が消えた。
簡単に言えば、普段の優しい微笑みに戻ってた。
こんな時だけど、私は気が付けば軽口を叩いていた。
「そっか……。見たかったな、その時のムギの顔」
「駄目よ。その時の顔だけはりっちゃんにも見せられないわ」
「そりゃ残念だ」
わざと悪い顔になって私が言うと、「もう」とムギは軽く私の頬を抓った。
いや、これも抓ったってほどじゃない。
指に少し力を入れただけなのが、どうにもムギらしい。
そう感じがら、私は安心してる自分に気付いていた。
この一ヶ月、泣き過ぎてすごい顔になってたとムギは言った。
毎日じゃないだろうけど、学校に来なかった日にはそういうすごい顔をしてた日もあったんだろう。
だけど、少なくとも今のムギはそんなすごい顔をしてなかった。
今のムギは私達を安心させてくれる優しい顔をしてる。
つまり、ムギは泣かなくなったんだ。
世界の終わりに対する恐怖は完全には消えてないにしても、泣く事だけはやめたんだ。
笑顔でいる事に決めたんだ、最後まで。
「ムギはいい子だな」
言いながら、私も右手を伸ばしてムギの頬を触る。
柔らかく、温かいムギの頬。
ムギは首を傾げながら、少しだけ赤くなる。
もしかしたら、珍しい私の言動に照れてるのかもしれない。
顔を赤くしたまま、またムギが優しく微笑んで言った。
「りっちゃんだって素敵よ。
とっても素敵な私達の自慢の部長。
だって、世界の終わりの日が恐くなくなったのは、りっちゃんのおかげだもの」
「私の……?
でも、私は何も……」
してない、と言うより先に、ムギは首を横に振った。
癖のある柔らかいムギの髪が私の手をくすぐる。
その後に私に向けたムギの顔は、これまで見たどんなムギの顔より綺麗に見えた。
「ううん。
りっちゃんの……、りっちゃん達のおかげで私は恐くなくなったよ。
確かに『終末宣言』の後、りっちゃん達と話す機会は少なかったけど、
私の中のりっちゃん達が私を励ましてくれたの。
離れていたけど、ずっと傍にいてくれたの」
「ムギの中の私達……?」
「うん。私の中のりっちゃん達が……。
あ、でもね、妄想とか、妖精さんとかね、そういう事じゃないの。
泣いてた時、本当に恐かったのは世界が終わる事より、
りっちゃん達ともう会えなくなるって考える事だったんだ。
あんなに楽しかったのに、あんなに夢中になれたのに、
その時間がもうすぐ終わっちゃうなんて、とっても辛かった。
りっちゃん達が私と同じ大学を受けてくれるって聞いて、
まだ楽しい時間を続けられるって思ってたのに、それができなくなるのが嫌だったの。
だから、何度も何度も泣いちゃった」
「私も……、そうだよ、ムギ……。
自分が死ぬとかより、皆と会えなくなる事の方が辛かった」
「でもね、泣きながら気付いたんだ。
離れてても、りっちゃん達が私の中にいる事に。
勿論、離れてても平気って事じゃなくて、
上手く言えないけど、上手く言えないんだけど……」
ムギが言葉を失う。
何か大切な事を伝えようとしてくれてるんだろうけれど、いい言葉が見つからないに違いない。
でも、それをムギには言葉にしてほしいし、私もそのムギの言葉を聞きたかった。
その手助けをしてあげたかったけれど、私はどうにも無力だった。
自分の想いすら曖昧にしか表現できない私には、ムギのその言葉を導いてあげられない。
くそっ……、何やってんだ、私は……!
どうにか……、どうにかしたいのに、してあげたいのに……!
左手で頭を抱え、私はつい唸り声を上げてしまう。
瞬間、ムギが笑った。
これまでの優しい微笑みとは違う、何かが楽しくて浮かべる様な笑顔だった。
「もう、りっちゃんたら……。
また私のために一生懸命になっちゃうんだから……。
本当に優しいよね、りっちゃんは」
「あっ……」
今度は私が赤くなる番だった。
ムギの頬から手を放して、視線を逸らす。
その私の様子をムギは嬉しそうに見てたみたいだったけど、
しばらくしてから、「そうだわ」と何かを思い付いたように言った。
「ねえ、りっちゃん?
これから新曲を合わせてみない?
微調整をしておきたい所もあるし、私、りっちゃんのドラムが聞きたいな」
○
ドラムとキーボートだけの曲合わせ。
前代未聞ってほどじゃないけど、結構珍しい事だとは思う。
私もムギと二人だけで曲を合わせるなんてほとんどした事なかったし、
二人だけで合わせるのが完全な新曲なんて事は初めてのはずだった。
それにドラムとキーボートだけで曲の微調整なんてできるものなのか?
私は少しそう思ったけど、
作曲なんてした事ない私に詳しい事は分からなかったし、
こう言うのもなんだけど、曲の微調整の方は別にどうでもよかった。
「りっちゃんのドラムが聞きたい」とムギは言った。
そう言ってくれるならすぐにでも聞かせてあげたいし、
私の方だってムギのキーボードが聞きたかった。
この三日間、ムギが登校して来てくれるようになったおかげで、
ムギのキーボードを全然聞けてないってわけじゃないけど、
月曜日も火曜日も私の心に迷いがあったせいで集中しては聞けてなかった。
だから、私はムギのキーボードを聞きたい。
いや、違う。聞きたいんじゃなくて、聴きたい。
耳を澄まして、肌を震わせて、身体全身でムギのキーボードを感じたいんだ。
勿論、私の方にはまだ多くの迷いや恐怖がある。
それを忘れる事はできないし、しちゃいけないと思うけど、
せめて迷いは頭の片隅に置くだけにしておいて、気合を入れて演奏したいと思う。
……って、気合を入れてみたんだけど、私にはまだ不安があった。
だけど、その不安の原因は澪の事でも、梓の事でもなかった。
実は我ながら恥ずかしいんだけど、新曲を上手く叩けるか自信が無いんだよな……。
だって、新曲、超難しいんだぜ?
いや、難しい事は難しいんだけど、
それより新曲のジャンルに慣れてないからってのが大きいかな。
新曲とは言ってもいつもの甘々な曲調になるだろうって思ってたんだけど、
ムギの作曲した新曲は何故か今までの放課後ティータイムには無い激しい曲だったんだ。
ひょっとすると、澪の意向があったせいかもしれないな。
何故だか分からないけど、澪は今回の曲だけは激しい曲に仕上げたいらしかった。
恩那組って感じの熱く激しいロックスピリッツなバンドをしたかった私としては嬉しい限りなんだけど、
いくら何でもバンドを結成して二年以上経ったこの時期に、
いきなりこれまでと全然違うジャンルの曲をやれと言われても難しいってもんだ。
まったく……。
困ったもんだよ、澪の気紛れも……。
でも、そう思いながら、気が付けば私は頬が緩んでいた。
何だかとても懐かしい感覚が身体中に広がってる。
新曲を上手く演奏できるかどうかで不安になれるなんて久し振りだ。
あんまり褒められた話でもないけど、
そんな事で不安になれる感覚が自分に残ってた事がとても嬉しい。
キーボードの準備をするムギに視線を向けて、気付かれないように頭を下げる。
これから先も私は迷い続けていくんだろうけど、
今だけだとしてもこんなに落ちつけてるのはムギのおかげだ。
私の視線に気付いたのか、ムギが私の方に向いて首を傾げる。
私は頭を上げて、何もなかったみたいに笑顔で手に持ったスティックを振る。
まだ少し首を傾げながらも、ムギは微笑んで右手の親指と人差し指で丸を作る。
キーボードの準備が完了したって事だ。
私は椅子に座り直し、背筋を伸ばしてから深呼吸する。
上手く演奏できるか分からないし、
そもそもドラムとキーボートだけでどれだけ合わせられるかも微妙なところだ。
だけど、それでも構わない。
これはこれからも私達が放課後ティータイムでいられるかの再確認なんだから。
頭上にスティックを掲げる。
両手のスティックをぶつけ、リズムを取る。
ムギのキーボードが奏でられ始める。
普段の甘い曲調かと錯覚させられる穏やかな曲の始まり。
だけど、即座に変調する。
激しく、滾るような、今までの私達には無い曲調に移行する。
歌詞が無いどころか、まだ曲名すら決まってない未完成の新曲。
でも、この曲は間違いなく私達の新曲で、恐らくは遺作となるだろう最後の曲。
私は全身で、これまでの曲以上に激しくリズムを刻む。
曲は所々で止まる。サビの部分も満足な形で演奏できない。
リードギターも、リズムギターも、ベースすらもいないんだから当然だ。
ドラムとキーボードだけの、ひどく間抜けなセッション。
セッションと呼んでいいのかも分からない曲合わせ。
でも、私とムギは目配せもなしに、演奏を合わせられる。
確かに私達の出番が無い箇所では演奏が短く止まる。
そればかりは誰だってどうしようもない事だ。
だけど、再開のタイミングを合わせる必要は私達には無い。
そりゃ楽譜通りに確実に演奏すれば、
タイミングを合わせる必要なんて無いだろうけど、残念ながら私にはそこまでの実力はない。
楽譜通りに完璧に演奏できれば、ドラムが走り過ぎてるなんて言われないだろうしな。
それでも私が確実に合わせられるのは、聞こえるからだ。
私だけじゃない。きっとムギも聞こえてるはずだ。
私達以外のメンバーの演奏が。
勿論、こう言うと台無しなんだけど、それは幻聴だ。
今ここにいないメンバーの演奏が聞こえるなんて、幻聴以外の何物でもない。
幻聴が聞こえる理由だって分かってる。
覚えてるからだ。
耳が、身体が、心が、皆の演奏を刻み込んでるからだ。
何度も練習した新曲を覚えてるから。覚えていられたから。
上達の早い唯のリードギターを。
努力の果てに手に入れた堅実な澪のベースを。
安定して皆を支える梓のリズムギターを。
仲間の、音楽を。
だから、そこにいなくても、私達は皆の演奏を心で聴く事ができる。
その演奏に合わせる事ができるんだ。
何も奇蹟って呼べるほどの現象じゃないだろう。
こんな事、多分、誰にだってできる。
仲間がいれば、きっと誰にでも起こるはずの日常だ。
日常で上等だ。特別なんて私には必要ない。
私は嬉しかった、その日常が。
さっきムギの言っていた事が理解できてくる。
「私の中のりっちゃん達が私を励ましてくれたの」ってムギの言葉。
傍にいるだけが仲間じゃない。
傍にいる事に越した事はないけど、傍にいなくても仲間は胸の中にいてくれる。
だから、ムギは泣くのをやめる事ができたんだ。
私もそうなんだって気付いた。
世界の終わりが辛くて悲しいのは仲間がいるからだけど、
世界の終わりを直前にしても前に進もうと思えるのは仲間のおかげなんだ。
当然だけど、皆が傍にいないのは寂しくて胸が痛む。
でも、それ以上に安心できて嬉しくなるし、胸が熱くなってくる。
私はまだ生きている。
私達はまだ生きていられる。
だから、逃げたくないし、世界の終わりに負けたくない。
もうすぐ死んでしまうとしても、それだけは嫌だ。嫌なんだ。
そうか……。
私があの時、澪の前で泣き出してしまった理由は……。
演奏が終わる。
一度もミスをする事なく、ムギとの演奏を終えられた。
完璧に合わせる事ができた。
ムギの演奏だけじゃなくて、私の中の皆の演奏とも。
心地良い疲れを感じながら、私はムギに声を掛ける。
「やっぱドラムとキーボードだけってのは寂しいよな」
「うん。それはそうよね。流石に少し無理があったね」
そう言いながら、ムギも微笑んで私を見ていた。
多分、私がすごく嬉しそうな顔をしてたからだろう。
仕方ないじゃないか。すごく嬉しかったんだから。
「ありがと、ムギ。
ムギの言いたい事、何となく分かったよ。
言葉にはしにくいけど、心の中では分かった気がする。
仲間と離れたくはない。離れてても平気なはずない。
だけど……、離れてても私達の中には、良くも悪くも仲間がいるんだよな……。
ドラムを叩いてると聞こえるんだよ、皆の演奏が。
それが辛いんだけど、悲しいんだけど……、それ以上に嬉しい……な」
「私も聞こえたよ、皆の演奏。
だから、もっと頑張らなくちゃって思うの。
それと、私の方こそありがとう、りっちゃん。
涙が止まらなったのはりっちゃん達がいたからだけど、
涙を止められたのもりっちゃん達のおかげなの。
だから、本当にありがとう、りっちゃん」
「考えてみりゃ、
私の勝手でムギを軽音部に引きずり込んだわけだけど、
今思うとそうしてて本当によかったと思うよ。
私の我儘に付き合ってくれて、ありがとな、ムギ」
「ねえ、りっちゃん?
私の持って来るお菓子、好き?」
唐突に話題が変わった。
ムギが何の話をしようとしているのか分からない。
私は面食らって変な顔をしてしまったけど、素直に頷く事にした。
「勿論好きだぜ?
美味しいもんな、ムギの持って来るおやつ。
前持って来てくれたFT何とかって紅茶も美味しかったしな」
「FTGFOPね。
今日も持って来てるから、後で淹れてあげるね」
「おっ、ありがとな、ムギ。
そういや、もしかしたら軽音部が廃部にならなかったのって、ムギのおかげかもな。
唯が入らなきゃ廃部になってたわけだけど、
唯の奴、ムギのおやつがなかったら、うちに入ってなかった可能性が高いからな……。
あっ、やべっ。冗談のつもりだったけど、何だか本当にそんな気がしてきた……。
……本当にありがとな、ムギ。その意味でも!」
私のお礼にムギは微笑んだけど、急に表情を曇らせて目を伏せた。
ムギがそんな表情をする必要なんて無いのに、何があったのか不安になった。
目を伏せたままで、ムギが小さな声で呟く
「そのお菓子をね……、
本当は私のために持って来てたって言ったら、りっちゃんは私を嫌いになる?」
「え? 何だよ、いきなり……」
「私ね、皆に美味しいお菓子を食べてもらいたかったの。
皆が喜んでくれるのは嬉しいし、皆の笑顔を見るのが好きだったから。
でもね……、それだけじゃないの。
ずっと隠してたけど、私ね、皆が喜んでくれるのが嬉しいから、
自分が嬉しくなりたいから、お菓子を持って来てたんだ。
「ムギちゃん、すごい」って言われたくて、自分のために持って来てたの」
「でも、それくらい誰だって……」
「ううん、最後まで聞いて。
それにもう一つ隠してた事があるの。
私、恐かったの……。
お菓子を持って来ない私を好きになってもらえる自信がなかったの……。
お菓子を持って来ない私なんて要らないって言われるのが恐くて、
だから、そんな私の我儘を通すためにずっとお菓子を持って来てた。
ねえ、りっちゃん?
そんな自分勝手な私の話を聞いてどう思う?
嫌いに……、なっちゃったかな……?」
そんな事で嫌いになるかよ!
ムギの気持ちは分かる。本当によく分かる。
私も恐かった。
いつも明るく楽しいりっちゃんって言われるけど、
そうじゃない私が人に好かれるか恐くなった事は何度もある。
たまに落ち込んで辛い時もあったけど、
そんな時でも無理して明るい顔をしてた。
恐かったからだ。明るくない自分が拒絶されるのが恐かったから。
だから、ムギの言う事がよく分かるんだ。
確かにそれは自分勝手かもしれないけど、そんな事で嫌いになるわけなんてない。
私はそれをムギに伝えようと口を開いたけど、それが言葉になる事はなかった。
言葉にする直前になって、
そのムギの言葉が新曲の演奏前に、私がムギに言っていた事と同じだと気付いたからだ。
そうだよ……、何を言っちゃってたんだよ、私は……。
自分勝手に動いてる罪悪感に耐え切れなくて、ムギに弱音を吐いてただけじゃんかよ……。
真の意味で自分の馬鹿さ加減に呆れてきて、放心してしまう。
そんな間抜けな表情を浮かべる私とは逆に、柔らかく微笑んだムギが続けた。
「分かってくれたみたいね、りっちゃん。
だから、自分の事を自分勝手だなんて、我儘だなんて思わないで。
誰かのために何かをしてるみたいで、
本当は全部自分のためだったなんて、誰だってそうなんだって私は思うの。
私だってそうだし、本当の意味で誰かのために何かを行動できる人なんていないと思うわ。
皆、自分の得のために、誰かの手助けをするの。
自分を好きになってもらうためだったり、自分をいい人だと思うためだったり、
でも、それでいいんだと思うわ。
それにね……、それでも私は嬉しかったの。
軽音部に入って、皆の仲間に入れてもらえて、すっごく嬉しかった」
「私だって……。
私だって、ムギが仲間に入ってくれてすごく嬉しかった。
澪にも言ってないけど、実はムギが入部してくれた日さ、
家に帰った後も布団の中で何度も何度もガッツポーズするくらい嬉しかったんだ。
本当に嬉しかった」
二人とも、いや、多分、誰でも自分のために生きてる。
自分のためにしか生きられない。
でも、ムギはそれでいいと言ってくれた。
私が私のためにムギを部に誘ったとしても、それがすごく嬉しかったからだ。
それを私に気付かせてくれるために、
隠してたかったはずのムギ自身の本音まで教えてくれて……。
私のせいでそんな事をさせてしまって、またムギに謝りたくなってしまう。
いや、きっとムギはそんなの望まないだろう。
今はごめんなさいって言葉よりも、ありがとうって言葉が必要なんだ。
だから、私はムギに感謝する。
仲間になってくれて、親友になってくれてありがとう。
心からそう伝えたい。
だけど、最後に一つだけ……。
私の最後の不安をムギに聞いてもらいたいと思う。
「私は我儘だと自分でも思う。でも、本当にそれでいいのか?」
「いいの。りっちゃんは我儘でもいい。
りっちゃんの我儘の中は、単に我儘だけじゃなくて、
私達の事を考えて言ってくれる我儘の方が多いんだから。
それが私達には嬉しいの。
りっちゃんの我儘のおかげで、私達は軽音部でとても楽しかったんだしね。
だから、もっと自分に自信を持って。
私達に自慢の部長って自慢させてほしいな」
「だけど、思うんだよな。
たまに私は度の過ぎた我儘を言っちゃう事があるって。
それで何度も皆を傷付けた事があると思ってる。
もしもまたそうなっちゃったら……。
気が付かないうちに皆を傷付ける我儘を言っちゃってたら……」
「大丈夫よ。その時は……」
言葉を止めたムギが、右手で自分の右目を吊り上げ、左手で何もない場所を軽く殴る。
何だか見慣れた光景を思い出す。
「その時は澪ちゃんが叩いてくれるよ」
言って、ムギが吊り上げてた目を元に戻す。
ツリ目で左利きの拳骨……、澪の物真似のつもりだったらしい。
そういや、マンボウ以外のムギの物真似は珍しい。
少しおかしくなって笑いをこぼしながら、私は自分に言い聞かせるように呟いた。
「そっか……。そうだよな……」
「勿論、そんな時は私達だってちゃんと言うよ。
唯ちゃんは突っ込んでくれるだろうし、きっと梓ちゃんも注意してくれる。
私だってりっちゃんのおやつを抜きにしちゃうからね」
「それだけは勘弁してくれ……」
うなだれて呟きながらも、私は嬉しくて泣きそうになっていた。
私が失敗してしまっても、注意してくれる仲間がいる。
そう思う事で、すごく安心できる。
おやつ抜きは嫌だしな。
最初こそ私の我儘から始まった部活だったけど、
皆にとってこんなにも大切な居場所にする事ができたのか……。
もうすぐ失ってしまうこの部活だけど、
このままじゃ終わらせない。絶対に終わらせてやらない。
もう世界の終わりになんか負けるもんか。
「ありがとう、ムギ」
これまで何度も言ってきた言葉だけど、
こんなに心の底から滲み出て、極自然にありがとうと言えたのは初めての気がする。
「どういたしまして」
ムギがとても綺麗な笑顔で微笑む。
私は照れ臭くなって、両手に持ったスティックを叩き合わせる事で誤魔化す事にした。
「よし。じゃあ、練習続けるぞ、ムギ!」
「あいよー!」
唯みたいな返事をして、ムギがまた演奏を始める。
私も難しい新曲に体当たりでぶつかっていく。
私達の音楽を、奏でる。
そこにいないメンバーの曲を心で再現しながら、未完成な曲を心で完成させる。
難易度の高いパートを終え、曲の繋ぎのパートに入った時、急にムギが演奏を止めた。
私も手を止め、振り返って私の方を見るムギに視線を向ける。
ムギがミスをしたわけじゃないし、私だってミスしてない。
急な訪問者があったわけでもない。
何の前触れもなく、唐突にムギが演奏を止めたんだ。
でも、その急展開の理由には、私にも心当たりがあった。
もしかしたら……。
「なあ、ムギ。ひょっとして……」
「うん、ごめんね……。
難しい所が終わって気を抜いてる私の中の唯ちゃんがギターを失敗しちゃって……。
それが気になって演奏止めちゃった……」
「確かにそこ何度も唯がミスした所だよな。
実を言うと、さっき私の思い出してる時も唯がそこでミスしてたし。
難易度の高い所はできるのに、何でそこが終わると気を抜いちゃうんだ……、
って、うおい!
そこまで再現せんでいい!」
長い乗り突っ込みだった。
私達の心の中にはいつだって軽音部の仲間がいる。
いい意味でも、悪い意味でも……。
今回は悪い意味だったみたいだけど。
勿論、それが嫌なわけじゃない。
ムギがばつの悪そうに苦笑して、私もそのムギに合わせて笑った。
明日、唯に会ったら、このパートを重点的に気を付けるように言っておこう。
○
六回くらいムギと新曲を合わせ終わった時、
私は軽音部に向かってくる忙しない足音に気が付いた。
多分、走ってるんだろうその足音。
それは待ち合わせに遅刻しそうな時に唯が立てる足音に似てたけど、
今日は唯は憂ちゃんと過ごすはずで、ここには来ないはずだった。
勿論、澪の足音ともかなり違う気がする。
つまり、軽音部に近付いて来ているこの足音の持ち主は……。
私の身体が小さく硬直する。
心臓の鼓動が僅かにだけど速くなる。
逃げ出したあいつの姿を思い出して、胸が痛んでくる。
正直、辛いし、若干逃げ出したくもある。
でも、もう逃げられないし、逃げたくない。
まだ確認は取れてないけど、何が起こってもおかしくないこの時期、
あいつにあんな夜の道を一人で出歩かせるような事だけは、もうさせちゃいけない。
もう私があいつに嫌われているんだとしても、
嫌われてるなりにしなきゃいけない事もあるはずだ。
私は頷いて、スティックを片付ける。
近付いて来る足音をじっと待つ。
ふと視線を送ると、ムギもどこか緊張した表情で唇を閉じていた。
ムギは鈍感じゃない。
人の気持ちを察する事ができるし、近付く足音の持ち主が誰かも分かってるはずだ。
ムギも私と同じ気持ちなんだな……。
そう思うと勇気が湧いてくる。
今度こそあいつと向き合うんだって、そんな気持ちにさせてくれた。
「おはようございます!
すみません、遅くなりました!」
扉が開いて、挨拶が部室内に響く。
私はムギと二人で部室の扉の方向に視線を向ける。
勿論、扉を開いたのは私達の小さくて唯一の後輩の梓だった。
走ってたせいか息を上げて、ほんの少し汗も掻いてるみたいだ。
昨日までは制服で部室に来てたのに、
今日の梓は何故か私服なのが少し気になる。
「おう、おはよう」
自分の掌にも汗を掻くのを感じながら、私は何気ない素振りで声を掛ける。
これから重大な話をしなきゃいけないんだと思うと、やっぱり緊張してしまう。
「梓ちゃん、おはよう」
ムギの声も何だか上擦ってるように聞こえた。
ムギも緊張してるんだ。
梓は自分の悩みを私だけじゃなく、誰にも語らなかったし、
それどころか自分が悩んでいる素振りすら誰にも見せないようにしていた。
自分は悩んでない。
誰にも心配される必要はない。
梓のそんな姿はかえって私達を不安にさせる。
『本当に辛い事ほど、「大好き」な人には言えないものだから』。
不意に昨日聞いた和の言葉を思い出す。
梓が私達の事を大好きかどうかは別問題としても、
本当に辛い事ほど誰かに話す事ができないのは確かだと私も思う。
私だってそうだったし、誰だってそうだと思う。
本気で悩んでるんだけど……、
って、自分から切り出すような悩みなんて、きっと本当は大した事じゃない悩みなんだ。
だから、恐い。
梓がどれだけ大きな悩みを抱えてるのか、想像もできない。
そんな悩みを私なんかがどうにかできるんだろうか。
無理じゃないかと思えて仕方がない。
私はちっぽけで凡人の単なる女子高生なんだ。
きっと、私が梓の悩みを探るのは、梓にとっても迷惑に違いない。
それでも、このまま逃げる事だけはしちゃいけないはずだ。
私と梓のお互い……な。
「今日、唯先輩が来ないらしいですね。
憂から聞きました。今日唯先輩と会えないのは残念ですけど……。
でも、唯先輩もちゃんと憂の事を考えてたみたいで、何だか嬉しいです」
寂しげな笑顔で呟きながら、
梓が長椅子に自分の鞄を置きに……いかない。
そりゃそうだ。
今日の梓は私服姿で自分のギターを持ってるだけだった。
どうして私は梓が長椅子に自分の鞄を置きに行くと思ったんだ?
いや、答えは簡単だった。
梓だけじゃない。部室に入った時、私達はまず長椅子に自分の鞄を置きに行くからだ。
誰が決めたわけでもない。
その方が楽だから誰もがそうしてるってだけの習慣だ。
考えてみれば、ここ最近、梓は自分の鞄を持って来てない気がする。
まあ、授業も無いんだから、かさばる鞄を家に置いてるだけなのかもしれないけど。
「あれ?
そういえば澪先輩は?」
梓は唯だけじゃなく、澪も部室にいない事に気付いたらしい。
部室内を見回しながら、何でもない事みたいに訊ねてきた。
そうだ。梓は今日澪も来ない事を知らなかったんだ。
澪が今日来ないのを知ってるのは、私がそれを話した憂ちゃんだけだからそれも当然だった。
ムギに伝える時もそうだったけど、他に悩みを持ってるはずの梓にはそれ以上に言いにくい。
嫌でも自分の身勝手さを実感させられて、ひどく申し訳なくなってくる。
でも、私はまっすぐに梓の瞳を見つめて、その言いにくい事を伝える事にした。
言わないで終わらせられる事じゃなかったし、
これから私は梓にそれよりもずっと言いにくい事を何度も言わなきゃいけないんだから。
「澪は今日、来ないんだ」
私の言葉に、梓の寂しげな笑顔が硬直した。
私が何を言っているのか理解できないって表情だった。
胸が強く痛い。心が折れそうだ。
梓は特に澪に憧れていた。その先輩と会えないなんて、かなりの衝撃だろう。
私なんかで澪や唯の代わりが務まるとも、とても思えない。
梓の中の自分の立ち位置を実感させられて、私の方が辛くなってきそうだ。
自業自得……かもな。
いや、私の辛さなんて、今は関係ないか。
今は梓の辛さや迷いの方に目を向けなきゃいけない時だ。
私は言葉を絞り出して続ける。
「ごめんな……。
別に喧嘩したわけじゃないんだけど、今日はさ、澪は……」
私のその言葉は最後まで伝える事はできなかった。
突然、梓が泣き出しそうな表情に変わって、
ギターの『むったん』も置かず、そのまま部室から飛び出してしまったからだ。
止める時間も隙もない。
本当に一瞬と言えるくらいの時間に、梓は部室からいなくなってしまった。
私は呆然とするしかなかった。
そこまで……なのか?
そこまで私は梓に疎ましく思われてるのか?
唯と澪が傍にいなければ、話もしたくないくらいに私を嫌ってるのか?
嫌われてるなりに……とは思ってたけど、
ここまで嫌われてるなんて私は……、もう……。
陳腐な言い方だけど、心のダムが決壊してしまいそうだった。
ダムが決壊して、涙腺が崩壊して、その場で壊れるくらいに泣きじゃくりたい気分だ。
そんなに梓は私の事を嫌ってたのかよ……。
「りっちゃん……」
ムギが私に声を掛ける。
考えてみれば、ムギも同じ立場と言えるのかもしれない。
こんなのムギだって辛いはずだ。
泣きたくて仕方がないはずだ。
そう考えて、振り返って見てみたムギの表情は辛そう……じゃなかった。
私の予想とは裏腹に、ムギは意志を固めた強い表情で私を見ていた。
自分の辛さなんかより、優先しなきゃいけない事を分かっいてる表情。
「りっちゃん!」
もう一度ムギが言うけれど、
やっぱり情けなくて弱い私は、
辛さに沈み込みそうで、
今にも泣きそうで仕方がなくて、
私は……、私は……。
「うおりゃあっ!」
大声を出して、私はドラムの椅子から立ち上がる。
歯を食い縛り、なけなしの想いを奮い立たせて、無理矢理に立ってみせる。
「追い掛けるぞ、ムギ!」
大声でムギに宣言する。
ムギが嬉しそうに私を見てくれる。
分かってる。
立ち上がれたのは別に私自身の力ってわけじゃない。
だからってムギが励ましてくれたからでもない。
そうだ。私達は二人だから……、今は二人だから、一緒に強くいられたんだ。
その場で泣くんじゃなくて、梓をどうにかしなきゃって思えたんだ。
そういう事なんだ。
「うん!」
ムギがキーボードの電源を落として、力強く頷く。
二人で部室の扉を開き、お互いにお互いを奮い立たせて駆け出していく。
部室を飛び出し、階段を駆け降りて、一瞬私達の動きが止まる。
梓の事で不安になったわけじゃない。
その気持ちはずっと心に抱いてるけど、
そんな事ではもう私達の脚や心は止められない。
動きが止まったのは、単に梓がどこに走って行ったのか見当も付かなかったからだ。
普通ならここで私達の思い出の場所なんかを捜すんだろうけど、
残念だけど私達と梓の思い出の場所は軽音部の部室なんだ。
軽音部の部室から出てきた以上、私達はどこか別の場所を捜さなくちゃいけない。
梓はどこだ……?
教室か? 体育館か? 保健室か?
それとももっと予想外の場所なのか?
下手すりゃ学校外に出てる可能性も……?
仕方ない。
ひとまずムギとは二手に分かれて片っ端から……。
「律先輩! ムギ先輩!」
瞬間、私達は呼ばれ慣れた呼び方で、遠くから誰かに呼ばれた。
でも、そう呼ぶのは梓だけのはずだなんだけど、その声は梓の声とは違っていた。
それなら誰が私達を呼んだんだ?
声がした方向を見回し、その声の持ち主が近付いて来るのを見付けて思い出した。
そういえば、あの子も私達を梓と同じ呼び方で呼んでいた。
クルクルしたツインテールの梓の親友……、純ちゃんも。
○
純ちゃんが息を切らし、可愛らしい癖毛を振り乱して駆け寄って来る。
今まで見た事もない、とても深刻な表情を浮かべて。
純ちゃんの事をそんなによく知ってるわけじゃない。
だけど、純ちゃんがこんなに必死な表情を浮かべる事なんて、滅多にないはずだった。
いつも笑顔ってわけじゃないけど、
私の知ってる純ちゃんは静かに微笑んで梓を見守ってくれる子だった。
つまり、よっぽどの事が起こったんだ、きっと。
「どうしたんだ、純ちゃん?」
駆け寄って来る純ちゃんの方に私達も向かう。
今は梓を追い掛けなきゃいけない時だけど、純ちゃんの事も放ってはおけなかった。
それに純ちゃんが深刻な表情で私達を呼び止める理由なんて、梓以外の理由であるはずがない。
私とムギも必死に廊下を駆ける。
私達と純ちゃんの距離は歩いて十秒掛かる距離ですらなかったけど、今はそんな時間ももどかしかった。
一秒でも早く純ちゃんと話がしたかったんだ。
私達と純ちゃんの距離が手が届くくらいになった時、私は純ちゃんの両肩を掴んで矢継ぎ早に訊ねた。
「何? どうしたの? 梓に何かあったの?
もしかして走るスピードが速過ぎて、転んで怪我したとか?
それとも、階段から転がり落ちたとかか?
梓は大丈夫なのか? 無事なのか?
怪我してるんだったら、すぐに保健室かどこかで治療しないと……」
早口にまくしたて過ぎてたかもしれない。
でも、私の言葉は止まらなかった。
梓が私の事を嫌いでもいい。
この際、世界が終わるのだって別問題だ。
せめて世界が終わるまでは、梓には怪我もなく無事にいてほしい。
誰だろうと何だろうと梓を傷付けさせたくない。
勿論、私自身も含めて、梓を傷付けるものを許したくなかった。
「りっちゃん、落ち着いて」
私の後ろまで駆け寄って来ていたムギが私の肩に手を置く。
落ち着けるはずない。そんな事をしている余裕なんてない。
落ち着いてなんて……。
不意に。
目の前の純ちゃんの表情が少し緩んだ事に私は気が付いた。
「純ちゃん……?」
「いえ、すみません。ちょっと嬉しくて……」
必死だった表情がどこへ行ったのか、
純ちゃんの表情は普段梓を見守ってくれるような優しく静かな微笑みになっていた。
嬉しい……?
純ちゃんが何を言っているのかは分からない。
でも、少なくとも純ちゃんの表情を見る限りは、
梓が怪我をしたとか、梓に何かの危険が迫ってるとか、そういう事は無さそうだった。
私は純ちゃんの両肩を掴んでいた手から力を抜いて言った。
「梓は無事なんだよね……?」
「はい、お騒がせしてすみません、律先輩。ムギ先輩も……。
梓は怪我なんかしてません。変質者に襲われてるって事もないですよ。
そういう意味では梓は大丈夫です」
「そういう意味で……?」
私がそう疑問を口にすると、また急に純ちゃんが真剣な表情になった。
さっきまでの深刻そうな表情とは違って、
自分が言うべき事を口にしようって強い意志を感じる表情に見えた。
純ちゃんは真剣な表情のままで口を開く。
「あの……、律先輩……?
律先輩は梓を苛めたりなんかしてませんよね?」
「え? 何なの、いきなり……。
そんな……。私は梓を苛めてなんて……」
いきなり過ぎる。純ちゃんは何を言ってるんだ。
私は梓を苛めてない。苛めるはずなんかない。
でも、自信を持って「苛めてない」と言えない自分も確かにいた。
梓が軽音部に入って以来、私は小さな後輩ができた事が嬉しくて、
梓をいじったりからかってきたし、何度も迷惑を掛けてきたとも思う。
だけど、それは全部梓が可愛くてやってきた事だ。
梓の事が好きだから、からかいながら一緒に楽しみたかった。
梓はそれをどう思っていたんだろう?
やっぱり迷惑で頼りない部長だって思ってたんだろうか?
もしかしたら、自分は苛められてると思っていたのかもしれない。
だから、この時期になって、私から何度も逃げ出しているのかもしれない。
梓は私に苛められてると思ってたのかもしれない。
私に苛められてるって純ちゃんに相談したりもしてたのかもしれない。
……私は梓にどう思われてるんだ?
どんなに決心しても、結局は何度も考えてきた壁にぶち当たる。
無限に迷路を迷い続けてるみたいに、無限に何度も……。
「違うよ!」
唐突に廊下に大きな声が響いた。
私の声でも、純ちゃんの声でもない。
勿論、私と純ちゃんのやりとりを後ろから見ていたムギの声だった。
振り返って見てみると、ムギが今にも泣きそうな顔で胸の前で拳を握り締めていた。
「違うよ、純ちゃん……!
りっちゃんは梓ちゃんを苛めたりしてない。
苛めたりなんかしない!
りっちゃんは……、りっちゃんはとっても梓ちゃんの事を大切に思ってるもの!
りっちゃんは私達の自慢の部長なんだから……!
勿論、私だって梓ちゃんの事が大切で……。
だから……、だからね……、りっちゃんは……!」
それ以上、言葉にならない。
涙を堪えるので精一杯なんだ、って思った。
何だよ……。
ムギは世界が終わる事も我慢できるのに……、
それだけの強さがあるくせに……、
私の事なんかで泣きそうにならないでくれよ……。
涙を流しそうにならないでくれよ……。
でも、思った。
梓にどう思われてるのかは分からないけど、
少なくともムギは私をそういう風に見てくれてたんだって。
梓を大切にしてると思ってくれてたんだって。
こんなに皆に支えられてる私を自慢の部長だって思ってくれるんだって……。
だから、私は言った。
少なくともムギの前では自慢の部長でいられるように。
「私はさ、純ちゃん……。
これまで梓を苛めた気はこれっぽっちもないけど、梓にどう思われてるか分からない。
ひょっとしたら、梓の方は私の事を嫌な先輩だって思ってたのかも……。
でもさ、本当にそうだとしたら私は梓に謝るよ。
だって、私は梓が大切だし、梓にとっても自慢の部長になりたいからさ」
まったく……、私は何度も回り道をし過ぎだった。
どんなに決心しても、結局は何度も考えてきた壁にぶち当たる。
無限に迷路を迷い続けてるみたいに、無限に何度も……。
でも、発想の転換が得意なひらめきりっちゃんと言われる私とした事が、
どうしてこんなに単純な事に気が付かなかったんだろう。
無限に迷い続けて何度も壁にぶつかるなら、その壁を壊せばいいだけの事なんだ。
どう思われてるかなんて、結局は本人に聞くしかないんだ。
そして、今がその時だった。
いや、ひらめきりっちゃんって呼び名を考えたのも、今だけどな。
「ごめんな、何度も何度も……。
でも、もう大丈夫。大丈夫だよ。
無理もしてないし、落ち着いて梓と話せると思う。
もしも梓に本当に嫌われてたらさ……。
その時はムギが慰めてくれよな」
私は軽く微笑みながら、まだ泣きそうな顔をしてるムギの頭を撫でる。
私は本当に無力で、一人じゃ何もできない。
仲間がいなきゃ、何もできやしない。
でも、仲間がいるから……、もう大丈夫だと思う。
またいつか迷う事もあるだろうけど、その時もきっと仲間がいてくれるだろう。
「うん……。
うん……!」
泣きそうな顔で、ムギが笑う。
その顔を見て、ムギは本当に可愛いな、ってこんな時だけど私は思った。
可愛くて、無邪気で、優しくて、強くて……。
そんなムギが部員でいてくれて、よかった。
唇を引き締め、純ちゃんに視線を戻す。
上手く伝わったかは分からないけど、
私達の梓に対する想いが少しでも伝わってたらいいなと思う。
純ちゃんはもう少しだけ真剣な顔を崩さなかったけど、
いつしか安心したような笑顔になっていた。
「変な事を聞いてすみません、律先輩。
だけど、確かめておきたかったんです。
今日、私、最近の梓の様子が気になって学校に来たんですけど、
さっき廊下を泣きそうな顔で走ってく梓を見たんです。
私が声を掛けても、返事もしないですごい勢いで走り去って行きました。
すごく……辛そうな顔で走って行ったんです」
「確かめておきたかった……、って?」
「まさかとは思ったんですけど、
もしかしたら、梓は軽音部の皆さんに苛められてるんじゃないかって思ったんです。
そんな事はないって信じてます。
信じてましたけど……、あんな顔の梓を見るとどうしても不安になっちゃって……。
律先輩だけじゃなくて、ムギ先輩にも失礼な事をしてしまって……、本当にすみませんでした」
「ううん、いいの。
純ちゃんは本気で梓ちゃんを心配しててくれたんでしょ?
だから、いいの。
私の方こそ、大きな声を出しちゃってごめんね……」
ムギが申し訳なさそうに頭を下げる。
純ちゃんの方は少し動揺した表情になって、胸の前で手を振った。
「い、いえいえ!
失礼な事をしたのは私の方なんですから、謝らないで下さい。
悪いのは私の方なんで……!
でも……」
「でも?」
「苛めはないにしても、梓が悩んでるのは軽音部の事だと思うんです。
この一週間、梓の様子がおかしいのは皆さんも分かってると思います。
私もそれを何度か梓に訊ねてみたんですけど、
梓ってば辛そうに「大丈夫。何でもないから」って答えるんですよ。
何でもないはずないのに、梓ってば何を言ってるのよ、もう……!」
苛立たしそうに純ちゃんが地団太を踏む。
何も言わない梓に苛立ってるってのもあるんだろうけど、
そんな親友に何もしてあげられない自分にも苛立ってるんだろう。
これまでの私達がそうだったみたいに……。
だけど、そうなると梓は軽音部どころか、親友にも何も相談してないみたいだ。
この調子だと家族にも何も伝えずに、自分一人で悩みを抱え込んでるんだろう。
一体、何をそんなに悩んでるってんだ……。
って、そういやさっき純ちゃんが気になる事を言ってなかったか?
私はおずおずとそれを純ちゃんに訊ねてみる。
「なあ、純ちゃん。
梓の悩みが軽音部の事……、ってのは?」
「あ、いえ、確証はないんですけど、何となくそう思うんです。
私が軽音部の事を話題に出す度に、梓が本当に辛そうな顔をするんですよ。
梓、『終末宣言』の前から皆さんの卒業が近付いてるのが寂しいみたいで、たまに憂鬱そうでした。
最近の梓の様子は何だかその憂鬱が悪化したみたいに見えるんです。
私が軽音部の話をしようとすると、怯えてるみたいに小刻みに震え出すくらいなんです。
梓は必死にそれを私や憂に気付かれないようにしてるみたいですけど……」
「そっか……。
そりゃ確かに軽音部で苛めがあるんじゃないか、って純ちゃんが思っても仕方ないな。
でも、軽音部の事で、一体何の悩みがあるんだ……?
私の事が嫌いなら、もうそれでもいい。
だけど、話を聞く限りじゃ、どうもそんな程度の問題じゃなさそうだし……」
「梓はその何かを終焉よりも恐がってると思います。
梓にとって、終焉より、自分の死よりも恐い何かって、何なんでしょう……。
それもそれが軽音部の事でなんて……。
悔しいなあ……。こんな事ならもっと早く軽音部に入っておけばよかった……」
「純ちゃん、軽音部に入ってくれるつもりだったの?」
私が訊ねるより先に、ムギが言葉に出していた。
何だかその声色には喜びが混じってるような感じもする。
ムギの言葉に、純ちゃんは「しまったなあ」と呟いて苦笑した。
「梓には言わないで下さいよ?
実は私、皆さんが卒業した後、憂と一緒に軽音部に入部するつもりだったんです」
「憂ちゃんも?」
「はい。私が頼んだら憂は梓のためならって、快く引き受けてくれました。
私もジャズ研の事は惜しいですけど、やっぱり梓を放っておけませんから。
これ本当に梓には言わないで下さいよ?
こういうのは相手に知られないでやるのがカッコいいんですから」
照れ臭そうに純ちゃんが笑う。
梓もいい親友を持ったんだな、と嬉しくなってくる。
私の隣にいるムギも嬉しそうだ。
でも、その純ちゃんの笑顔が少しだけ曇った。
「まあ、終焉のせいで、その計画も無駄になっちゃいましたけどね……」
終焉……、世界の終わりは私達からあらゆるものを奪っていく。
計画や予定、未来を奪い去る。
だけど……。
「無駄にさせないよ」
私は言った。
まだ遅くはないはずだ。まだ間に合うはずなんだ。
「世界の終わりを止めるのは無理だけど、純ちゃんのその気持ちは絶対に無駄にしない。
軽音部に入ろうとしてくれてた事は秘密にするけど、
それくらい梓の事を思ってくれた親友がいた事だけは絶対に梓に伝える。
無駄にしちゃいけないんだ」
純ちゃんの瞳を覗き込んで、私は心の底から宣言する。
強がりじゃないし、純ちゃんのためでもない。
私がそうしたいと感じたいから、そうするんだ。
「カッコいい……」
不意に純ちゃんがそう呟いたけど、すぐにはっとして自分の口元を押さえる。
私は悪戯っぽく微笑み、照れた様子の純ちゃんの前で右手の親指を立てた。
「お、私に惚れ直したかい? 私に惚れると火傷するぜ?」
「え……、遠慮しときます! 私には澪先輩がいるんで!」
そりゃ残念だ、と私が頬を膨らませると、純ちゃんが小さく笑う。
それから聞き取るのが難しいくらい小さな声で、何かを呟いた。
「もう……、面白いなあ、律先輩は……。
本当に先輩なのかな、この人は……。
でも、そんな律先輩が梓も好きなんだよね……。
ちょっと悔しいけど、律先輩なら……」
「ん? どしたの?」
「律先輩。
実は私、梓が今どこにいるか知ってるんです」
「本当っ?」
「はい。梓を追い掛けて、どこに入っていくかも見届けましたから。
ここから距離はありませんし、まだそこにいるはずです。
でも……」
そこで言葉を止め、純ちゃんは人差し指を立てて凛々しい顔になった。
何だか年上のお姉さんのような仕種だった。
「最初に言っておきますよ?
これから私は先輩達に梓の居場所を教えます。
でも、それは先輩達に梓の事を任せるって事じゃありませんよ。
多分、梓の抱えてる悩みは軽音部の事だから、
私は先輩達に梓の居場所を教えてあげるんです。
軽音部の悩みじゃ、私には梓に何もしてあげられないじゃないですか。
だから、軽音部の問題は軽音部の皆さんで解決して下さい」
そう言った純ちゃんの頬は少し赤味を帯びていた。
梓の問題を私達に任せるのが悔しく、
同時にそれを素直に表現できない自分が恥ずかしいんだろう。
その気持ちは私にも分かる。
もしも澪が何かの悩みを抱えていて(今抱えてる悩みじゃなくて、あくまで仮の話で)、
それを解決できるのが自分じゃない誰かだったとしたら、私も悔しくて堪らないと思う。
気が付けば私は口を開いていた。
純ちゃんを気遣ったわけじゃなく、素直な気持ちが言葉になっていた。
「分かってるよ。任されたなんて思ってない。
そうだな……。
言うならこれは軽音部の私達と、梓の親友の純ちゃんの共同作業なんだ。
純ちゃんは軽音部の問題に口出しできないから、私達が梓と話をする。
私達は梓の悩みが軽音部の何かだって事を分かってなくて、それを教えてもらえた。
これから梓の居場所も教えてもらえるしな。
だからこれは、誰が欠けてもできない律ムギ純の共同作業なんだよ」
伝えるべき事は全て伝えたつもりだ。
純ちゃんがそれをどう受け取ったかは分からなかったけど、
しばらくして純ちゃんは困った顔で微笑んでくれた。
「律ムギ純って……。
他に言い方なかったんですか?」
「え? 駄目だった?
私的に会心の出来だったんだけど……」
「全然駄目ですよ。カッコよくないです。
でも、共同作業って言葉は気に入りました。
意外とやりますね、律先輩」
「意外とってどゆことかなー……」
手を伸ばして、純ちゃんのモコモコしたツインテールをくしゃくしゃに弄ってやる。
癖毛を弄るのはあんまり好ましいと思われないだろう事だったけど、
純ちゃんは梓がたまに見せる甘えたような表情を見せた。
こう見えて、純ちゃんもやっぱり後輩なんだな。
「最後に一つだけ聞きたい事があります」
私にツインテールを弄られながら、純ちゃんが真顔で私とムギの顔を見渡して言った。
「先輩達は梓の事をどう思ってるんですか?」
「大切な仲間だ!」
「大事な後輩よ!」
私とムギの答えが重なる。
流石に一言一句同じとはいかなかったけど、二人の想いは一緒みたいだった。
私達の答えを聞いて、純ちゃんは満足そうに頷く。
「分かりました。これから梓の居場所を教えます。
軽音部の部室で待ってますから……、
絶対に笑顔の梓を連れて帰って来て下さいよ?」
「当然だ!」
「勿論!」
また私とムギの言葉が重なって、純ちゃんが嬉しそうに笑った。
○
教室に前後があるかどうかは分からないけど、
教壇の方を前と考えると、二年一組の教室の後ろの扉の前。
梓の居場所を教えてもらった後、純ちゃんと別れた私達はそこに立っていた。
梓の居場所がそのまま梓の教室だなんて、何だか馬鹿みたいに単純な答えだった。
分かってみれば簡単ではあるけど、
純ちゃんに教えてもらえてなければ、私達はこんなに早くここには辿り着けなかった。
ずっと後で辿り着けていたとしても、その時間にはもう梓は教室の中に居なかっただろう。
さっき自分で言った事だけど、
確かにそれは私達と純ちゃんの共同作業のおかげだな、と思った。
そうだ。
ムギの励ましと純ちゃんの想いが無ければ、私はここには辿り着けなかった。
辿り着こうとも思えなかったんじゃないだろうか。
勿論、今の私の支えはその二人だけじゃない。
振り返ってみれば、
私の周りでは色んな人たちが世界の終わりを目の前にして、精一杯生きていた。
人を気遣い、たくさんの人を心配している憂ちゃん。
軽音部のために動いてくれてる和。
強く生きるための笑顔を見せた信代。
関係なく見える誰かと誰かでも、決して無関係ではない事を教えてくれたいちご。
人のために動ける私を嬉しいと言ってくれた聡。
この状況でも自分を変えずに生きている唯。
自分を変えて、私達の関係を変えたいと思っている澪。
あれ?
さわちゃんからは何か支えてもらったっけ?
……思い付かない。
突っ込みを鍛えてもらった気はする。
いや、鍛えてもらったっていうか、必然的に鍛えさせられたというか……。
ごめん、さわちゃん。
今度会う時までに考えとくよ。
でも、思った。
多くの人達の生き方が私の胸の中でまだ生きてるんだって。
ほんの小さな支えが重なって、そのおかげで私は今ここにいられるんだって。
だから、進める。
進もうって思える。
緊張して胸が張り裂けそうなほど高鳴るけど、足を動かせる。
震える手を押し留めて、二年一組の教室の扉に手を掛ける事ができる。
後ろにいるムギに私は軽く視線を向けた。
胸の前で拳を握り締め、ムギが強い視線を返してくれる。
頑張って、とその視線は言っているように思えた。
そうだ。頑張らないといけない。
梓の悩みを聞き出すのは、私の役目なんだから。
さっき少し相談して、ムギは教室の中に入らない事に決めていた。
それはもしまた梓が逃げ出しても、
すぐに追いかけられるようにムギが待機しておくって意味もあったけど、
それ以上にムギが私を信じてくれてるのが大きかった。
「りっちゃんが梓ちゃんと話すのが一番いいと思う」ってムギは言った。
「私は口下手だし……」と苦笑交じりにそうも言ってたけど、
私は別にムギが口下手だとは思わない。
確かにムギは私達の中では比較的口数が少なめだし、
自分の想いを難しい言葉なんかで表現する事も少なかったけど、
その分自分の考えを単純な言葉でストレートに表現してくれてると私は思う。
「楽しい」とか、「素敵」とか、「面白い」とか、
ムギの言う言葉は本当に単純で、単純なのが嬉しかった。
自分の気持ちを的確に表現できてるし、そういうのは口下手とは言わないはずだ。
むしろ妙に持って回った言い方をしてしまう私の方こそ、本当に口下手って言えるかもしれない。
それでも、ムギは私に梓を任せてくれた。
私なら梓の悩みを聞き出せると信じてくれた。
「梓ちゃんが一番悩みを話しやすいのは、りっちゃんだと思うから」と言ってくれた。
ムギは教室の外で私達を待つ事に決めてくれた。
その想いに応えられるかどうかは分からない。
だけど、もう私は梓の前から逃げたくなかったから。
自分自身の迷いを断ち切るためにも、梓と正面から向き合いたかったから。
私は梓と話をしたい。話したいんだ。
考えてみれば、この一週間、梓とはろくに会話もできてないしな。
顔を合わせながら、一週間も会話できてないなんて辛過ぎるじゃないか……。
ひょっとしたら、ムギは私のその考えを感じ取ってもくれたのかもしれなかった。
どちらにしろ、私にできるのは進む事だけだ。
ムギにもう一度だけ視線を向けてから、私は教室の扉を引いた。
梓から見えないように、一歩引いてムギが廊下に身体を隠す。
結果がどうなろうと、ムギはそこで待っててくれるだろう。
「頼もう」
小さく呟いて、私は二年一組の教室の中に足を踏み入れる。
何度か来た事のある教室だけど、入り慣れない梓の教室はとても新鮮に見えた。
いや、そんな事は別にどうでもいい。
教室の扉を軽く閉めてから、私はこの教室に居るはずの梓を捜し始める。
梓はすぐに見つかった。
と言うか、すぐ傍に居た。
教室の廊下側、後ろから三番目の梓の席だった。
私は後ろの扉の方から教室に入ったわけだから、
私から数歩ほどしか離れてない距離に梓は座っていた。
だけど、梓は私の存在には一切気付いてないみたいだった。
私は扉を開いて、「頼もう」と呟き、扉を閉めまでしたのに、
梓はその私の動きに全く気付かなかったようで、自分の席で微動たりともしなかった。
ただ両手で頬杖を付いて、何の動きも見せない。
そんな梓の後ろ姿を見て、私はひどく不安になる。
私はこれまで何度も梓に迷惑を掛けてきたと思うし、それで何度も梓に叱られてきた。
生意気な後輩だと思ったけど、同時に私に突っ掛かって来る梓の姿が嬉しかった。
その梓が私に文句の一つも言わずに、自分の中に悩みを抱え込んでいるなんて。
ずっと逃げ出してた私の姿に気付かないほど、胸の中の悩みに支配されてるなんて……。
この数日で何度も梓から逃げられてしまった私だけど、
そんな抜け殻みたいな梓の姿を見る方が、逃げられるよりも何倍も辛かった。
何とかしないと……。
私が……、何とかしないと……!
唇を閉じ、私は梓との数歩の距離を縮めるために足を動かす。
一歩。
梓が何を悩んでいるのかは分からない。
二歩。
純ちゃんの言うように、本当に軽音部の事を悩んでいるんなら、多分その原因は私だろう。
三歩。
私が原因なら、私はもう梓の目の前から消えよう。それで梓の悩みが晴れるんなら、それもいい。
四歩。
だけど、最後のライブは梓に参加させてやりたい。きっとそれが梓の心の支えになる。
五歩。
そうなると私は最後のライブには参加できなくなるのか。ドラムだけ録音しておくべきか?
六歩。
嫌だ! 本当は私も梓と一緒にライブに参加したい。皆と曲を合わせたいんだ!
そのためには……。
そのために私がするべき事は……!
「……確保」
私は手を伸ばし、梓の頬杖の左腕を軽く掴む。
梓に私の存在を気付かせるために、
それ以上に私の中の不安感を振り払うために、それは必要な行動だった。
「えっ……?」
突然の事に驚いた梓が身体を震わせる。
自分の手を掴んだのが誰なのかを確認するために、私の方に視線を向ける。
梓と私の視線が合う。
その一瞬に、気付いた。
梓の顔がひどくやつれ果ててる事に。
頬は軽くこけ、目には深い隈が刻まれて、自慢のツインテールも左右非対称だ。
元気が無いとは思っていたけど、こんなにやつれてるなんて私は気付いてなかった。
気付けなかったのは、ずっと梓が私から視線を逸らしていたからだ。
それでも、梓が視線を逸らすだけなら、私は梓のやつれた顔に気付けたはずだ。
本当に気付けなかった理由はたった一つ。
梓に目を逸らされるのが恐くて、私の方もチラチラとしか梓の姿を見ていなかったからだ。
昨日一度だけ視線が合ったが、その時も遠目で何も気付く事ができなかった。
梓の何を分かってやれる気でいたんだよ、私は……!
心底、自分を軽蔑したくなる。
思わず梓の腕を掴んでいた手に力を入れてしまう。
だけど、梓は言った。
驚いた顔を無理に隠して、力の入らない笑顔まで浮かべて。
「さっきはすみません、律先輩……」
「すみませんって……、おまえ……」
まさか梓の方から謝られるなんて思ってなかった。
面食らった私は、掛けるつもりだった言葉が頭の中で真っ白になっていくのを感じた。
「驚かせちゃいましたよね、
急に逃げ出しなんかしちゃったりして……。
驚くなって言う方が無理な話ですよね。
本当にすみません。
でも、私、すごく寂しくなっちゃって……。
それで……」
「寂しく……なった……?」
「いえ……、ほら、今日唯先輩が来ないって事は私も分かってたんですけど、
澪先輩まで来ないなんて知らなくって……。
それが辛くて、何だか恐くなっちゃって……。
気が付いたら軽音部から飛び出してたんです」
「澪が来ないのが、そんなに辛かったか……?」
「はい……。あ、いえ、ちょっと違います。
澪先輩って言うか……、先輩達が一人ずつ減っていくのが恐くて……。
今冷静に考えると偶然だって事は分かるんですけど、
唯先輩に続いて澪先輩まで部活に来なくなって、
最後にはムギ先輩や律先輩まで来なくなっちゃうんじゃないかって。
そんな風に思っちゃって……」
「そんな事はないぞ。
私もムギも、週末までずっと部活に出るつもりだぜ?
唯だって明日には来るし、澪も今日は考え事があるから家に居るだけだ。
明日には全員揃う。全員揃って練習できるし、お茶だってできる。
ムギがFTG何とかって美味しい紅茶も入れてくれる」
「そう……ですよね。
そうですよね……。不安になる必要なんて、無いですよね」
言って、梓が笑う。
力無く、自信も無さそうに。
その表情のまま、梓は続けた。
「ごめんなさい、律先輩。
後でムギ先輩にも謝らないといけませんね。
部活に戻りましょう、律先輩。
すみません、お時間を取らせてしまって……。
恐かったけど……、もう大丈夫です。
明日には皆揃うんですもんね。だから、大丈夫です」
梓は自分の席から立ち上がる。
まだ不安感を完全には拭えてないけど、自分の力だけで立ち上がる。
自分を待つ軽音部の仲間の下に、無理をしながらでも歩き出していく。
私にできるのは、そんな梓を見守ってやる事だけだ。
梓の抱えてた悩みは、
軽音部の仲間が居なくなるかもしれないって不安感からだったんだな……。
世界の終わりを間近に迎えたこの状況だ。
確かに誰かが欠けてしまってもおかしくはない。
その不安感は私にもある。ムギや唯、澪にだってあるだろう。
でも、軽音部の全員は最後まで部活に出たいと思ってる。
明日には全員が勢揃いして、いつしか不安感だって消えていく。
それでいい。それでいいんだ。
私が嫌われてるわけじゃなくて、本当によかった。
後は梓を大切にしてやるだけだ。
梓は足を踏み出して、教室を後にしようと歩き出そうとする。
私もそんな梓を笑顔で見送って……。
って……。
「ちょっと……、律先輩……?」
私は梓の腕を掴んだままにしていた手に力を込める。
さっきみたいに自分自身を嫌悪してるからじゃない。
絶対に離さないって思ったからだ。
この手だけは絶対に離しちゃいけない。
「……あるかよ」
「えっ……? 何ですか、律先輩?」
「って、そんなわけがあるかよ!
そんなのってあるかよ!」
私は腹の底から叫ぶ。
教室が揺れる。そう思えるくらいに精一杯の大声で。
今は絶叫しなきゃいけない時だった。
自分を誤魔化してはいけないんだって。
不安を見ないふりをしてちゃいけないんだって。
私は梓と自分にそれを分からせなきゃいけないんだ!
「律先輩……、何を……?
何を……言って……」
貼り付けたみたいな梓の笑顔が硬直する。
分かってないはずがない。
私より誰より、梓自身が自分に嘘を吐いている事をよく分かっているはずだった。
いや、完全には嘘じゃないか。
でも、だからこそ、余計に始末に負えない嘘なんだ。
さっきまでの梓の言葉に嘘はなかったと思う。
軽音部の仲間が減っていくのが不安だったのは確かだろうし、
それ以外の話もほとんどが梓の本心だったはずだ。
悩みの理由としては問題無かったし、よくできた話ではあった。
だけど、よく考えてみなくても分かる。
梓はこんなに簡単に誰かに悩みを語る子だったか?
抱え込んで、一人で悩み続けるのが梓って子じゃなかったか?
良くも悪くもそれが梓なんだ。
そんな梓が自分の本心を簡単に語る理由だって分かる。
本当に隠しておきたい事を隠すために、それ以外の本心を語ったんだ。
普段は隠している本心を語れば、それで納得してもらえるだろうって思ったんだろう。
部活の先輩達が居なくなるのが辛い、ってのは、それはそれで十分な悩みだ。
これが昨日の私なら、私もその梓の言葉を信じてたと思う。
梓が私の前から逃げ出した理由は、
居なくなるかもしれない私の顔を見るのが辛いから、だの何だのって適当な理由でも考えて。
だけど、残念ながらと言うべきなのかな、
今日の私にはその梓の誤魔化しは通用しなかった。
まずはこんな時期の深夜に動き回ってる梓の姿を見たからってのがある。
私はそれを梓にぶつけてみる。
「なあ、梓……。
おまえの悩みは本当にそれか?
そりゃ、私達と離れるのが辛かったって悩みは嬉しいし、それは本当だと思う。
でもさ、それじゃ説明が付かないんだよ。
おまえ……、昨日、いや、今日か。
今日の深夜に何してた?
憂ちゃんと会う前に外を走り回ってただろ?
見たんだよ、偶然」
梓の硬直した笑顔が今度は強張る。
私から視線を逸らして、足下に伏せる。
その様子が私の言葉を完全に認めていたけど、言葉だけは力強く梓が言った。
「何を言ってるんですか、律先輩。
夜は憂が来るまで、家でずっとギターの練習をしてましたよ?
それに、こんな時期の深夜に、どうして外を出歩かなきゃいけないんですか?
そんなはずないじゃないですか。
律先輩の見間違いですよ。見間違いに決まってるじゃないですか」
口早に梓が捲し立てる。
それだけでも嘘だと言ってる様なもんだけど、私はそれについて追及しなかった。
夜に見たあの影は間違いなく梓だったんだろうけど、
見間違いと言い切られたら、それ以上話を進めようがない。
水掛け論で終わっちゃうのが関の山だ。
だったら、私にできる事は結局はたった一つ。
それは梓の事を信じてやる事だ。
いや、梓の言う事を全面的に信じるって意味じゃない。
何度も語り掛けて、いつかは梓が本当の事を言ってくれるって信じる事だ。
これまでに積み重ねた私達の関係を信じるって事だ。
それを信じられなければ、私は梓の部長でいる意味も価値もないんだ。
ムギと純ちゃんと話してきた中で、私はそう思った。
私は自慢の部長と呼ばれるに相応しい部長になりたい。
そのためにも、梓の本心から逃げちゃいけない。
「梓。見間違いだっておまえが言うなら、それでいい。
無理をするなとも言わない。
無理しなきゃ、こんな状況で生きてけないもんな……。
でもさ、おまえのその無理は違う……。違うと思う。
無理しないおまえを受け止めてくれる人の前じゃ、無理しなくてもいいと思う。
そんなに私の事が信じられないか?
本当の悩みを口にしたら、見限られるとでも思ってるのか?
いや、確かに私はおまえにとっていい部長じゃなかったとは思うよ。
迷惑掛けてばっかりだったもんな……。
私を信じられないってんなら、それも仕方ない事だと思う。
おまえがそんなにやつれてるって事すら、
今日まで気付けなかった馬鹿な部長だもんな。仕方ないよ。
それなら……、それならさ……。
せめて……、せめて私以外の誰かには話してほしいんだ。
私じゃ役不足だと思うなら、唯にでも、憂ちゃんにでも、誰にでもいいから話してほしい。
おまえ自身のためだし、それが負い目になるってんなら、
駄目な部長の私の願いを聞いてやるって意味で、誰かに話してほしいんだよ……」
話せば話すほど、自分自身の無力を実感させられる気がした。
私には梓に何かしてやれるほど、梓に信じられてなかったのかもしれない。
それを実感するのが恐くて、ずっと逃げ出してきた。
でも、もう逃げられない。逃げたくない。
私の胸の痛みなんかより、こんなに傷付いてる梓の姿こそどうにかしなきゃいけないんだ。
だから、梓の誤魔化しに騙されたふりをしちゃいけないんだ。
「そんな……、私が律先輩を信じてないなんて……。
そんな事……、そんな事ないよ……。
私は律先輩が……、律先輩の事が……。
でも……、でも……」
梓が呟きながら後ずさり、視線をあちこちに移動させる。
追い詰める形になってしまって、ひどく申し訳ない気分になってくる。
それでも、私は梓の腕を掴んだ手を離さなかった。
恨んでくれても構わない。
後で何度殴ってくれたっていい。
このままでいちゃいけないんだ。
梓の悩みがどんなに重い悩みでも、私はそれを受け止めたい。
それこそ犯罪が関わるような悩みだって構わない。
それを受け止めるのがここまで梓を追い詰めた私の責任だと思うから……。
不意に。
梓が視線を何度か自分の机の方に向けた。
さり気ない行為だったけど、
ずっと梓を見つめていた私は、それを見逃さなかった。
あらゆるものを見落としてきた私だけど、今度こそ見逃すわけにはいかなかった。
机の中に何かあるのか?
それが梓の悩みの原因なのか?
「机……?」
私が呟くと、梓がはっとした表情で急に動き始めた。
私が無理に机の中を覗こうとしたわけじゃない。
何となく疑問に思って呟いただけだったけど、
その事で梓は自分の机を探られるんじゃないかと過剰に反応していた。
身体を無理に動かし、私に掴まれた手を振りほどこうと暴れる。
危険だとは思ったけど、私としても梓の腕だけは離すわけにはいかない。
余計に力を込め、梓から離れないようにして……、それが悪かった。
「ちょっ……!」
「うわっ……!」
無理な体勢でいたせいでバランスを崩してしまい、
二人で小さく悲鳴を上げて、その場で折り重なって倒れてしまった。
周りの机や椅子も巻き込んで倒れてしまって、豪快な音が教室に響く。
「痛たたた……。
大丈夫か、梓?」
それでも梓の腕だけは離さずにいられたみたいだ。
私は梓の手を掴んだまま顔を上げ、その場に座り込んで訊ねる。
梓からの返事はなかった。
やばいっ。打ち所が悪かったかっ?
そうやって心配になって梓の方に顔を向けてみたけど、
幸い梓の方は自分の椅子に倒れ込むような形になっただけみたいで、私よりも無事な様子に見えた。
だったら、どうして返事がなかったんだ?
梓の顔を覗き込んでみると、梓は大きく目を見開いて私じゃない何処かを見ていた。
そこでようやく私は気が付いた。
倒れた衝撃で梓の机を横向きに倒してしまい、机の中身をその場にぶち撒けてしまっていた事に。
梓がその机の中身を見ているんだって事に。
事故とは言え、梓が隠そうとしてた物をこの目で確認していいんだろうか。
そう思わなくもなかったけど、それを確認しないのも不自然過ぎた。
心の中で梓に謝り、私もその机の中に入っていた物に視線を向ける。
「えっ……?」
そう呟いてしまうくらい、予想外の物がそこに転がっていた。
死体とか拳銃とか麻薬とか、そういう不謹慎な意味で予想外だったわけじゃない。
意外じゃなさ過ぎて、逆に意外な物だったんだ。
その場所には、うちの学校の学生鞄が転がっていた。
机の中に入れるために小さく潰されている。
多分、中には何も入ってないんだろう。
でも、どうして鞄を机の中に……?
疑問に思って私が梓に視線を向けると、急に梓の表情が大きく崩れた。
いや、崩れたってレベルじゃない。
大粒の涙を流して、大声で泣き声を上げ始めた。
「ごめんなさい!
ううっく……、う……、あ、ああ……!
うああああああああああああっ!」
梓が何を言っているのか見当も付かない。
鞄が何なんだ?
中には何も入ってなさそうだし、何で梓は泣き出してるんだよ?
突然の展開にこれまでと違った意味で不安になってくる。
「おい、ちょっと梓……」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!
本当にすみません! すみません、すみません、すみません!
すみま……せ……、うううう……!
ひぐっ……! あっ……、うわあああああああああああっ!」
梓の涙は止まらない。
その原因が私なら何とかしようもあるだろうけど、
本当に何が起こったのか私にはまだ何も理解できてない。
梓の涙の原因……、それはやっぱり机の中に隠されてた鞄なんだろう。
鞄といえば、考えてみれば、最近、梓は部室に鞄を持って来てなかった。
それは授業が少なくなって、荷物も無くなったからだと思ってたけど……。
そこで私は一つの事を思い出していた。
ああ、何で気付かなかったんだ。
授業がほとんど無くなったのは、当然だけど『終末宣言』の後だ。
『終末宣言』の後も、梓は普段通りに部室に学生鞄を持って来てたじゃないか。
そりゃそうだ。授業が無くたって、弁当やら何やらの荷物はあるんだから。
梓が部室に鞄を持って来なくなったのは、
そう、約一週間前……、梓の様子がおかしくなった頃からだ!
じゃあ、やっぱり梓の悩みは鞄に関係していて……。
そこでまた私の思考が止まる。
だから、鞄が何だってんだよ。
鞄の中身が悩みだって言うのか?
でも、中には何も入ってないだろうくらい小さく潰されてるし、
何かが入ってたとしても、そんな大袈裟な物が入ってるわけが……。
一瞬、また私の思考が止まった。
疑問に立ち止まってしまったわけじゃない。
梓の悩みと、梓の痛み、梓の隠してた事が分かったからだ。
やっぱり、梓の悩みは鞄の中身じゃなかった。
まだ見てないけど、鞄の中身なんて見る必要もなかったし、中身なんて何でもよかった。
でも、それじゃ……。
こんな……、こんな事で、梓は一週間も悩んでくれていたのか?
それもただの一週間じゃない。
世界の終わりを週末に控えたかけがえのないこの一週間を?
馬鹿だ。
本当に馬鹿な後輩だ、梓は……。
こんな取るに足らない事でずっと悩んでいただなんて……。
だけど、梓の辛さや不安は、私自身も痛いくらいに実感できた。
梓ほどじゃないにしても、同じ状況に置かれたら、
間違いなく私も同じ不安に襲われてただろう。
私は掴んでいた梓の腕を離した。
もう掴んでいる必要はない。
必要なのは多分、私の言葉と心だ。
「失くしたんだな、梓……」
「ごめ……ひぐっ、なさい……。
大切にしてたのに……、大切だっ、ひっく、たのに……。
どうして……、こんな時に……、ううううう……。
ずっと探してるのに、どうして……、ひぐっ、どうして見つからないの……!」
「京都土産のキーホルダー……か」
梓じゃなくて、自分に言い聞かせるよう呟く。
修学旅行で行った京都で、
京都とは何の関係もないけど、私達が買ってきたお揃いのキーホルダー。
私が『け』。
ムギが『い』
澪が『お』。
唯が『ん』。
梓が『ぶ』。
五人合わせて『けいおんぶ』になる、そんな茶目っ気から購入したキーホルダーだ。
何気ないお土産だけど、梓がとても喜んでくれた事をよく覚えてる。
最初はそうでもなかったけど、梓の喜ぶ顔を見て、
私もこのキーホルダーを一生大切にしようって思った。
それくらい梓は喜んでくれたんだ。
少し大袈裟かもしれないけど、
多分他の部員の皆も軽音部の絆の品みたいな感じに思ってくれてるはずだ。
その『ぶ』のキーホルダーを梓は失くしてしまった。
梓の鞄をどう見回しても見つからないのは、そういう事なんだろう。
梓が隠したかったのは鞄そのものじゃない。
本当に隠したかったのは、キーホルダーを失くしてしまったって事実だったんだ。
これまでの梓の不審な行動も、
失くしてしまったキーホルダーを捜しての事だと考えて間違いない。
ずっと思いつめていたのは、
自分がキーホルダーを失くしてしまった事にいつ気付かれるかと気が気でなかったから。
昨日、校庭で私の前から逃げ出したのは、
キーホルダーを捜しているのを私に知られたくなかったから。
深夜に外を出歩いていたのは、
自分の身も案じずに必死にキーホルダーを捜していたからだ。
梓は本当に馬鹿だ。
小さなキーホルダーのために、どれだけ自分を追い詰めてしまったんだろう。
こんなにやつれ果ててまで、どうして……。
だけど、誰にそれが責められるだろう。
少なくとも私には、そんな梓を責める事なんてできない。
今夜はここまでです。
やっと梓の悩みが明らかに……。
って、悩みのスケール、超小さい。
のが。
可愛いと思うんですが。
(註)誤字脱字が多めな本作ですが、りっちゃんの役不足は誤植ではありません。
りっちゃん、役不足の意味を間違えて覚えてます。
何とも無駄なところで細かい設定で申し訳ない。
451:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/08/07(日) 23:56:05.01:NQELTxiOoやっと梓の悩みが明らかに……。
って、悩みのスケール、超小さい。
のが。
可愛いと思うんですが。
(註)誤字脱字が多めな本作ですが、りっちゃんの役不足は誤植ではありません。
りっちゃん、役不足の意味を間違えて覚えてます。
何とも無駄なところで細かい設定で申し訳ない。
世界の終わりなんて壮大な話やってるのに
すごいけいおんぽいと思う
いつも楽しみにしてる
452:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/08/08(月) 07:11:20.76:PZmI8XpSOすごいけいおんぽいと思う
いつも楽しみにしてる
乙
梓の悩みがわかった時ちょっとウルッときちゃったよ
いい話だな
454:にゃんこ:2011/08/11(木) 21:39:13.80:okX2kLbx0梓の悩みがわかった時ちょっとウルッときちゃったよ
いい話だな
不安で仕方がなかったんだろうと思う。
ずっと不安で、誰にも言い出せずに胸の中に溜め込んで、
不自然なくらい過剰にキーホルダーを失くした事を隠してた梓。
考えてみれば、さっきの行動にしたってそうだ。
鞄が梓の机から飛び出た時、いくらでも誤魔化しようがあったのに。
私にしたって、鞄を目にした当初は何も分かってなかったのに。
なのに、梓は過剰に反応してしまって、涙までこぼしてしまっていた。
それはきっと恐かったからだ。
キーホルダーを失くした事を知られてしまう事が恐くて、
ほんの少し私がその真相に近付いただけで、
全ての隠し事を知られてしまったと勘違いしてしまったんだ。
更に言わせてもらうと、何も梓は机の中に鞄を隠す必要なんてなかった。
鞄が学校の机にあるという事は、
キーホルダーを失くしたと梓が気付いたのは学校だったんだろう。
小さく潰れた学生鞄を見る限り、鞄の中身は小分けにして家に持ち帰ってるんだと思う。
多分、違う鞄を自宅から持って来て、それに入れて持ち帰ったに違いない。
梓はその時、学生鞄も持って帰ればよかったんだ。
持ち帰る時、学生鞄を誰かに見られるのが不安なら、
小さく折り畳んでその違う鞄にでも入れておけばよかったんだ。
まあ、そりゃ少し不自然ではあるけど、
普段と違う鞄を持ち歩いてるくらいじゃ、誰も深く問い詰めたりなんてしない。
でも、梓はその少しの不自然さすら、不安でしょうがなかったんだ。
もしもいつもと違う鞄を持っているのを誰かに見られてしまったら。
その誰かにいつもの学生鞄はどうしたのかと訊ねられてしまったら。
それで万が一、鞄の中身について訊ねられてしまったら……。
冷静に考えればそんな事があるはずないのに、きっと梓はそう考えてしまったんだろう。
だから、一週間も机の中に鞄を入れたまま、放置する事しかできなかったんだ。
誰かに見られるのが不安で、机以外の何処かに隠す事さえできなかったんだ。
「恐かっ……た……。恐かったんです……」
不意に梓が言葉を続けた。
しゃくり上げるのは少しだけ治まっていたけど、
梓の目からは止まることなく大粒の涙が流れ続けている。
私は座り込んだままで、涙に濡れる梓の瞳をじっと見つめる。
「『終末宣言』とか……、世界の終わりの日とか……、
それより前からずっと私、恐くて……。
不安で、寂しくて……。それで……」
「『終末宣言』の前から……?」
「はい……。私……、私、不安で……。
先輩達が卒業した後も、軽音部でやってけるのかなって……。
ひとりぼっちの軽音部で、
ちゃんと部を盛り上げていけるのかなって、そう思うと恐くて……。
それで私……、私……は……!
う……っ、ううううっ……!」
また梓の涙が激しさを増していく。
梓の言葉が涙に押し潰されそうになる。
だけど、梓は涙を流しながらも、しゃくり上げながらも言葉を止めなかった。
ずっと隠してた涙と同じように、ずっと隠してた言葉も止まらないんだと思う。
「ごめん……なさい、律先輩……!
私……、私、とんでもない事をして……!
皆さんに、ひっく、皆さんに……、私は……とんでもない事を……!」
「何だよっ? どうしたっ?
とんでもない事って何だよっ?」
梓の突然の告白。
気付けば私は立ち上がって梓の肩を掴んでいた。
梓の悩みはキーホルダーを失くした事だけじゃなかったのか?
新しい不安が悪寒となって私の全身を襲う気がした。
梓が「ごめんなさい」と言いながら、自らの涙を袖口で拭う。
「ごめ……んなさい……!
私、考えちゃったんです……。
願っちゃいけない事なのに、願って……しまったんです……。
『先輩達に卒業してほしくないな』って……。
『先輩達とまたライブしたいな』って……。
それが……、それがこんな……、こんな形で叶……、叶うなんて……!
私……が、願っちゃったから……! 終末なんて形で……、願いが叶って……!
そん……な……、そんなつもりじゃ、なかったのに……!」
おまえは何を言ってるんだ。
終末……、世界の終わりと梓の願いが関係してるはずがない。
それこそ自分が世界の中心だって、自分から宣言してるようなもんだ。
世界はおまえを中心に回ってない。
世界の終わりとおまえは考えるまでもなく無関係だ。
無関係に決まってる。
私はそう梓に伝えたかったけど、そうする事はできずに言葉を止めた。
そんなの私に言われるまでもない。
梓だって自分がどれだけ無茶な事を言っているか百も承知のはずだ。
梓は頭がいい後輩だ。私なんかよりずっと勉強もできる。
確かに梓の言葉通り、世界の終わりが来る事で私達の卒業は無くなったし、
あるはずがなかった最後のライブを開催する事ができるようにはなった。
だとしても、その自分の願いが世界の終わりと何の関係もない事は、梓だって理解してるだろう。
それでも……。
それでも梓がそう思わずにはいられない事も、私には痛いくらいに分かった。
世界の終わりがどうのこうのって話より、梓は多分、
間近に迫った私達の卒業を心から祝福できない自分に罪悪感を抱いてるんだと思う。
笑顔で見送りたいのに、私達を安心して卒業させたいのに、
それよりも自分の寂しさと不安を優先させてしまう自分が嫌なんだと思う。
梓は真面目な子で、いつも私達を気遣ってくれていて、
ちゃんとした部と呼ぶにはちょっと無理がある我が軽音部にも馴染んでくれて……。
梓はそんな私達には勿体無いよくできた後輩だ。
よくできた後輩だからこそ、色んな事に責任を感じてしまってるんだ。
そして、梓をそこまで追い込んでしまったのは、ある意味では私の責任でもあった。
二年生の部員は梓一人で、一年生の部員に至っては一人もいない我が軽音部。
五人だけの軽音部。
五人で居る事の居心地の良さに私は甘えてしまってた。
五人だけで私の部は十分だと思ってた。
それはそうかもしれないけれど、一人残される梓の気持ちをもっと考えるべきだったんだ。
五人でなくなった時の、軽音部の事を考えなきゃいけなかったんだ。
梓はずっとそれを考えてた。考えてくれてた。
だから、梓は私達の中の誰よりも、キーホルダーを大切にしてくれてたんだ。
世界の終わりの前の一週間を費やしてしまうくらいに。
「キーホルダーだけどさ……」
私が小さく口にすると、目に見えて梓が大きく震え出した。
触れずにいた方がいい事かもしれなかったけど、触れずにいるわけにもいかなかった。
梓をこんなに辛い目に合わせているのはキーホルダーだ。
小さなキーホルダーのせいで、梓はこんなにも怯えてしまっている。
でも、梓を救えるのも、恐らくはその小さなキーホルダーだと思うから。
私はキーホルダーの事について、話を始めようと思った。
「梓がそんなに大切にしてくれてるとは思わなかったよ。
京都の土産なのに、京都とは何の関係もないしさ。
実は呆れられてるんじゃないかって、何となく思ってた」
「呆れるなんて……、そんな事……。
私、嬉しくて……、宝物にしようと思って……、
でも、大切にしてたのに……、落としちゃうなんて、私……。
こんなんじゃ……、こんなんじゃ私……、
先輩達の後輩でいる資格なんて……」
涙を流して、梓はその場に目を伏せようとする。
私は梓の肩を掴んでいる手に力を入れて、視線を私の方に向かせる。
梓と目を合わせて、視線を逸らさない。
泣き腫らした梓の瞼が痛々しくて、ひどく胸が痛くなってくる。
梓を悲しませているのは、軽音部の先輩である私達の無力が原因だ。
私の方も、梓と同じく大声で泣きたい気分だった。
役に立てず、負い目しか感じさせる事のできない無力過ぎる私達。
自分の情けなさに涙が滲んでくる。
だけど、泣いちゃいけない。視線を逸らしちゃいけない。
今一番泣きたいのは梓で、今泣いていいのは梓だけだ。
どうして、キーホルダーを失くしたって言ってくれなかったんだ?
そう言葉にしようとしてしまうけど、唇を噛み締めて必死に堪える。
梓がキーホルダーを失くした事を私達に話さなかった理由……、
それは訊くまでもないし、訊いちゃいけない事だ。
キーホルダーを失くしたと私達に話してしまったら、
いや、知られてしまったら、
私達の心が自分から離れていってしまうって、梓は考えたんだ。
キーホルダーを一週間も一人で捜し続けてた事から考えても、それは間違いない。
あのキーホルダーは私達にとって、単なる思い出の品なんかじゃない。
軽音部の絆の証、絆の品なんだ。
特に来年一人で取り残されるはずだった梓にとっては、私達以上にその意味があるだろう。
一人でも大丈夫だと思えるために、梓はきっとあのキーホルダーに頼ってくれてたんだ。
絆を信じられるために。
そうだ。
梓が本当に悲しんでる理由は、キーホルダーを失くしたからじゃない。
キーホルダーを失くした事で、
私達の絆その物も失くしてしまった気がしてしまって、それが悲しいんだ。
実際、私達だって、キーホルダーを失くされた事で梓を責めたりしない。
梓も私達から責められるとは思ってないだろう。
梓を責めているのは梓自身。
世界の終わりを間近にしたこの時期に、絆を失くしてしまった自分を許せないんだ。
だから、誰にも知られないままに、自分の力だけで失くしたキーホルダーを見付けたかったんだ。
でも、だからこそ、私には梓に掛けてやれる慰めの言葉が思い付かなかった。
キーホルダーを失くした事なんて気にするな、なんて簡単な言葉で片付く話じゃない。
そんな言葉を掛けてしまったら、それこそ梓は今以上に自分自身を責める事になるはずだ。
一瞬だけの笑顔は貰えるかもしれない。
その場限りの安心は得られるかもしれない。
でも、それだけだ。
それ以降、世界の終わりまで、梓は自分自身を責め続ける事になるだろう。
勿論、私だって、私自身を許せないまま、世界の終わりを迎える事になる。
なら、私に何ができる?
無力で、頼りなくて、後輩に気を遣わせて追い込んでしまった私に何が?
……何もできないのかもしれない。
何もしてやれないのかもしれない。
少なくとも、今の私にできる事は何もない。今の私には何もできないんだ。
でも……。
だからこそ、今の私じゃなく……。
私は大きく溜息を吐く。
何もできない今の自分を情けなく思いながら、
それでも、掴んでいた梓の肩を思い切り自分の方に引き寄せる。
私の胸元に椅子から転がり込んでくる梓を座り込んで抱き締める。
「あの……っ、えっと……?
律……先輩……?」
小さな身体を震わせて、何をされたのか分からない様子の梓が呟く。
呟きながらも、梓の涙はとめどなく流れ続けている。
しゃくり上げながら、震える身体も治まる事がない。
今の私には梓の涙を止められない。震えも止めてやる事ができない。
梓の不安を止めてやれるのは、今の私じゃない。
だから、胸元に引き寄せた梓を、私は頭から包み込むように抱き締める。
強く強く、抱き締める。
まだ掛けてあげられる言葉は見つからない。
その代わりに、小さな梓を身体全体で受け止める。
小さな梓と同じくらい小さな私が、小さな身体で小さく包み込む。
どこまでも小さな存在の私達。
それでも、私達は小さいけれど、とんでもなくちっぽけな存在だけど、
信じてる事だって……、信じていたい事だってあるんだ。
「梓……。きっとさ……。
今の私が何を言っても、おまえの不安を消してはやれないと思う。
私は人を支えてあげられるタイプじゃないだろうし、
誰かの不安を消してあげられるくらい頼り甲斐のある部長でもないんだ。
逆に皆に支えられてばかりだしさ……」
やっと見付けた言葉が私の口からこぼれ出る。
でも、これは梓の耳元に囁いてはいるけど、梓だけに聞かせてる言葉でもなかった。
これは自分に言い聞かせてもいる言葉だ。
願いみたいなものだった。
祈りみたいなものだった。
私の胸の中で、梓は私の言葉を震えながら聞いている。
その震えを止めてやれる自信はない。
今の私に梓を安心させてあげる事はできないだろう。
私の気持ちを上手く伝える事もできないかもしれない。
でも……。
「でもさ、梓……。
こう言われるのは迷惑かもしれないけど、
私の勝手な勘違いかもしれないけど、一つだけ思い出してほしい事があるんだよ。
なあ、梓。
キーホルダーを失くしちゃった事は、梓も辛くて不安だったんだろう。
もっと早く気付いてやれなくて、悪かった。
私はさ……、こう言うのも情けないんだけど、
あんまり梓が私と目を合わせてくれないもんだから、梓に嫌われちゃったんだって思ってた。
それが不安で辛くてさ……、それで梓と話す勇気が中々持てなかったんだよな」
私の言葉を聞くと、腕の中の梓の震えが大きくなった。
その震えは不安が増したってわけじゃなく、自分の行為をはっと思い出したって感じだった。
「そんな……。そんな風に思われてたなんて……。
でも……、思い出してみたら、そう思われても仕方ない事を私は……。
すみません、律先輩!
私は律先輩の事を……、嫌いになってなんか……」
「いいよ」
言って、私はまた腕に力を込めて梓を抱き締める。
今話すべきなのは、梓が私を嫌ってるかどうかじゃない。
嫌われてたって、疎まれてたって、
それでも梓の悩みを晴らしてあげるのが、私のなりたい『自慢の部長』だと思うから。
勿論、梓に嫌われてなかったのは嬉しいけどな。
本当に泣き出してしまいそうなくらい嬉しいけど、それを噛み締めるのはまだお預けだ。
「いいんだよ、梓。その言葉だけで私は十分だよ。
キーホルダーを失くして、梓がそんなに不安に思ってくれたのも嬉しい。
キーホルダーを失くした自分が許せなくて、必死に探してたんだろうって事も分かる。
こんなにやつれちゃってさ……、こんなになるまで……。
キーホルダーを失くしたからって、私達がおまえから離れてくって思ったのか?」
「いいえ……、そんな事考えてなんか……。
でも……、でも……、ひっく、そんな事あるはずがないって思ってても……、
心の何処かで考えちゃってたのかも……しれません……。
先輩達を信じてるのに、だけど……、夜に夢で見ちゃうんです……。
キーホルダーを失くした私の前から……、先輩が離れていく夢を……。
そんな……、そんな自分が、嫌で、本当に嫌で……。
うっ、ううっ……!」
梓の涙がまた強くなる。
もしもの話だけど、キーホルダーを失くしたのが『終末宣言』の前なら、
梓はこんなにも不安にならず、涙を流す事も無かったんじゃないだろうか。
世界の終わりっていう避けようがない非情な現実。
誰だってその現実に大きな不安を感じながら、それをどうにか耐えて生きている。
普段通りの生活を送る事で、世界の終わりから必死に目を背けたり。
秘密にしていた事を公表する事で、別の非日常の中に身を置いてみたり。
そんな風に何かを心の支えにしながら、どうにか生きていられる。
梓の場合は多分キーホルダーがそれだったんだと思う。
小さいけれど、目にするだけで私達の絆を思い出せるかけがえの無い宝物。
それを失くしてしまった梓の不安は、一体どれほどだったんだろう。
私も自分が世界の終わりから逃げてる事に気付いた時は、吐いてしまうくらいの不安と恐怖に襲われた。
その時の私はそれをいちごや和に支えてもらえたけど、
梓はずっと一人でその不安に耐えて、自分を責め続けていたんだ。
こんなにやつれるのも無理もない話だった。
小さい事だけど、きっと私達はそんな小さい事の積み重ねで生きていられる。
小さい物でも、失ってしまうと不安で仕方なくなるんだ。
だけど、不安になるという事はつまり……。
「なあ、梓。
話を戻させてもらうけど、一つだけ思い出してほしい」
「は……い……?」
「軽音部、楽しかったよな?
そりゃ普通の部とはかなり違ってたと思うけど、でも、すごく楽しかったよな?」
「あの……?」
「私は楽しかったよ。
ムギのおやつは美味しいし、ライブは熱かったし、楽しかった。
唯は面白いし、澪は楽しいし、ムギはいつも意外な事をやってくれるしな。
二年になって梓って生意気な後輩もできた。
楽しかったんだよ、本気で……。
軽音部、楽しかったよな……?
楽しかったのは、私だけじゃ……ないよな……?」
私の言葉の勢いが弱まっていく。
その私の姿を不審に思ったんだろう。
梓が少しだけ自分の腕を動かし、私の背中を軽く撫でてくれる。
「律先輩……? 急に何を……?」
「ああ、ごめんな……。ちょっと……さ。
梓はどうだったんだろうって思ってさ……」
「私……ですか……?」
「私ってさ、結構一人で空回りしちゃう事が多いだろ?
部長としても、役不足だったと思うし……。
でも、楽しかった事だけは、本当だったって信じてる。
……信じたいんだ。それだけは譲りたくないんだ。
だから、梓に思い出してほしいんだよ。
軽音部が楽しかったのかどうかを。私達のこれまでを。
今の私に梓の不安を消し去ってあげる事はできないと思う。
梓の不安を消せるのは梓だけだし、私にできるのはその手助けだけだ。
それも、その手助けができるのは今の私じゃなくて、梓の中の昔の私だけだと思うんだよ」
「昔の……律先輩……?」
「これまで私が梓に何をしてあげられたか。
梓をどれだけ楽しませてあげられたか……。それを思い出してほしい。
自信なんてこれっぽっちも無いけど、ほんの少しでも手助けになればいいと思う。
なってほしいと思う。
私じゃ役不足だと思うなら、私以外とのこれまでを思い出してくれ。
澪やムギ、唯と過ごしてきたこれまでの自分を思い出してくれ。
そうすれば……、少しはその不安も晴れるんじゃないかって……、思うんだ……」
今の私に梓の不安を晴らすだけの力が無いのは、すごく無念だ。
やっぱり私は、梓にとっていい部長じゃなかったんだろう。
だけど、梓と笑い合えたあの頃の事は嘘じゃなかったはずだ。
梓も楽しんでくれていたはずだ。
私はいい部長ではなかったけど、いい友達としては梓と関係してこれたはずだ。
そのはずなんだって……、信じたい。
不安な自分を奮い立たせるのは、自分の中のかけがえのない過去。
今の自分を作り上げた誰かと積み重ねてきた楽しかった思い出だと思うから。
私は梓にもそれができると信じるしかない。
それができるくらいには、私は梓と信頼関係を積み重ねてこれたんだって信じるしかない。
そもそも不安や罪悪感ってのは、そういうもののはずなんだ。
楽しかったから、かけがえがないものだから、失うのを不安になってしまうんだ。
失ってしまった自分に罪悪感を抱いてしまうんだ。
失くすものが無ければ、大切なものが無ければ、不安なんて感じるはずがない。
それを梓が気付いてくれたなら……、
いや、気付いてはいるだろうけど、心から実感してくれたなら……。
その涙を少しは拭う事ができるかもしれない。
私は小さな身体で小さな梓を強く抱き締める。
それは小さな私にできる世界の終わりへの小さな反抗でもあった。
まだその日が来てもいないのに、世界の終わりってやつは色んな物を私達から奪おうとする。
小さなものから取り囲んで奪い去っていく。
そうはいくもんか。
もうすぐ死んでしまうとしても、それまでは何も奪わせてやるもんか。
過去も、現在も、未来だって、奪わせてなんかやらない。
私から、梓を奪わせたりしない。
不意に私の腕の中の梓が震えを止めて、小さく言った。
「そうですね。
律先輩じゃ役不足ですよ」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
梓じゃなくて、私の身体が震え始める。止められない。
全身から何かを成し遂げようとしてた気力が抜けていくのを感じる。
駄目だった……のか……?
私じゃ、梓のいい部長どころか、いい友達にもなれなかったってのか……?
私の小さな反抗は脆くも崩れ去ったってのか……?
信じたかった私の思い出は、全部無意味だったのか……。
梓は別に私を嫌ってはいなかった。
でも、力になってやれるほど、私は信頼されてもいなかったんだ。
抱き締めていた梓を、私の胸から解放する。
もう私に抱き締められる事なんて、もう梓は求めないだろう。
私には梓の不安を晴らしてやれないし、涙も止められないし、震えも治められない。
私は梓に……。
信じさせたかった。
信じられたかった。
信じていたかった。
でも、もう私は……、私は……。
身体を離したけれど、私はそこにいる梓の顔を見る事ができない。
その場から逃げ出したくなる。
もうこの場には居られない。
「梓、ごめ……ん……」
喉の奥から絞り出して言って、
振り向きもせずに逃げ出そうとして……。
そんな私を華奢で柔らかい何かが包み込んだ。
何が起こったのか、数秒くらい私には分からなかった。
梓に抱き締められたんだって気付いたのは、それからしばらく経ってからの事だ。
私は私が梓にしたように、頭から胸の中に強く抱き留められていた。
「あず……さ……?」
何も分からなくて、間抜けな声を出してしまう。
ただ一つ分かるのは、抱き締められる一瞬前、梓が笑っていた事だった。
涙が止まったわけじゃない。
涙を止められたわけじゃない。
でも、梓は笑っていた。泣きながら、笑っていたんだ。
今梓の胸の中にいる私にとっては、もう確かめようもない事だけど……。
「ありがとうございます、律先輩……。
こんな面倒くさい後輩なのに、こんなに大切に思ってくれて、
私、嬉しいです」
「でも、梓、おまえ……。
えっと……、私を……」
言葉にできない。
梓の真意が掴めなくて、曖昧な言葉しか形にできない。
梓が明るい声を上げた。
「もう……、律先輩ったらこんな時にもいつもの律先輩で……。
真面目な話をしてるのに、普段通りのいい加減で大雑把な律先輩で……。
そんな律先輩を見てると……、何だか私、嬉しくなってきちゃうじゃないですか。
不安になってなんか、いられなくなっちゃうじゃないですか……」
「大雑把って、おまえ……。
いつもはともかく、さっきまではそんな変な事言ったつもりは……」
「もう一度、言いますよ。
律先輩は役不足です。
私の不安を晴らす役なんて、律先輩には役不足過ぎます」
「だから、そんなはっきり言うなよ……」
少しやけくそになって、吐き捨てるみたいに呟いてみる。
梓が明るい声になったのは嬉しいけど、そこまで馬鹿にされると釈然としない。
でも、梓はやっぱり明るい声を崩さなかった。
「ねえ、律先輩?
役不足の意味、知ってますか?」
「何だよ……。
その役を務めるには、実力が不足してるって事だろ……?」
「もう、やっぱり……。
受験生なんだから、ちゃんと勉強して下さいよ、律先輩。
役不足って、役の方が不足してるって意味なんですよ?」
「役の方が不足……って?」
「もういいです。これ以上は家で辞書で調べて下さい」
「何なんだよ、一体……」
「とにかく……、ありがとうございます、律先輩……。
私……、嬉しかったです。
律先輩との思い出……、思い出してみるとすごく楽しかった。
軽音部に入ってよかったって、思えました……」
まだ梓が何を言っているのかは分からない。
でも、梓の声が明るくなったのは何よりで、私の方も嬉しくなった。
梓の変な言葉も、まあ、いいか、と思える。
私の小さな反抗は、少しだけ成功したって事でいいんだろうか。
今の私も、過去の私も、結局は梓の涙を止める事はできなかった。
でも、少なくとも笑顔にしてあげる事はできたみたいだった。
それだけでも今は十分だ。
……役不足の意味は、後で純ちゃんにでも聞いてみる事にしよう。
○
梓は笑顔になったけれど、その涙が完全に止まるまでには、もう少しだけ時間が掛かった。
笑顔を取り戻したとは言っても、心の中に残るしこりを取り除くには、まだ涙が必要みたいだ。
好きなだけ、泣いたらよかった。
泣いた先に晴れやかに笑えるんなら、泣かずに耐えるよりその方がずっといい。
涙は必要なもので、どんな涙にも意味があるはずなんだ。
昨日、私が澪の前で訳も分からず流してしまったあの涙にも、きっと意味があるはずだ。
私は多分、あの涙の理由を分かりかけてきていた。
澪に伝えたい言葉もほとんど固まってる。
答えは、出ていた。
後はそれを声に出して、その答えを澪の耳と心に伝えるだけだ。
その答えを他人が聞けば、大概が馬鹿な答えだって笑うかもしれない。
確かに自分で出した答えながら、馬鹿な答えを出したもんだと思わなくもない。
それでも、よかった。
馬鹿な答えでも、それが私の答えだし、
軽音部の皆なら、その答えを笑って受け入れてくれると思う。
澪がどう受け取るかは分からないけど、
できれば澪もその答えを笑顔で受け取ってくれれば嬉しい。
受け取ってくれる……、と思う。
自信過剰かもしれないけど、澪が涙を流した理由は私と同じはずだから……。
そうやって梓の腕の中で私が澪への想いを再確認し終わった頃、
若干震えが止まった梓が私の身体を解放してから、落ち着いた声色で言った。
「ありがとうございます、律先輩……。
やっとですけど……、落ち着きました。
長い間、無理な体勢をさせてしまって、ご迷惑をお掛けしました」
「気にするな」
言ってから、私はしばらくぶりに梓の顔を正面から見る。
瞼を泣き腫らしてはいたけど、梓は照れ臭そうに笑っていた。
長く涙を流してしまった事を、少し気恥ずかしく感じてるんだろう。
梓があまり見せる事が無い可愛らしい照れ笑い。
その表情を見て、梓は笑顔を取り戻せたんだな、と私は胸を撫で下ろす。
残り少ない時間、笑顔を失くしたまま終わらせるなんて悲し過ぎるじゃないか。
勿論、深刻に世界の終わりについて考え続けて、
哲学的な答えを出したりするのも一つの生き方だろう。
そういう生き方を否定しないし、立派だとも思うけど、その生き方は私達には似合わない。
皆が笑顔で、お茶をしたり、雑談に花を咲かせたり、
そんな普段通りのままで世界の終わりを迎えるのが、私達の生き方なんだ。
多分、世界が終わる詳しい理由も分からないまま、その日を迎えるんじゃないだろうか。
正直言って、テレビで世界が終わる理由を何度説明されても、よく分からなかったしな。
とりあえず隕石やマヤの予言とかとは、一切関係ない事だけは確からしいけどさ。
まあ、世界が終わる理由なんてのは、別に知っても仕方がない事だ。
理由を知ったところで世界の終わりを回避できるわけでもないし。
そんな事よりも、今の私には気になる事がある。
私にとっては、世界の終わる理由よりもそっちの方が何倍も重要だ。
軽く微笑んでから、私は梓の耳元で囁く。
「梓、ちょっと後ろ向いてくれるか?」
「え、何ですか、いきなり?」
「ほら、早く早く」
「はあ……。分かりましたけど……」
狭いスペースだったけど、その場で梓が器用に半回転してくれる。
梓のうなじがちょうど私の目の前に来る体勢になる。
私は「ちょいと失礼」と手を伸ばして、梓の両側の髪留めをクルクル回して解いた。
「え? 律先輩……?」
「櫛は部室にあるから、手櫛で失礼」
「えっ……と……?」
「おまえさ、自慢のツインテールがボサボサだし、左右の位置も変になってんだよ。
気になるから、私に結び直させてもらうぞ」
「別にツインテールが自慢なわけじゃ……って、そうじゃなくて!
いいですって! 自分で結び直しますから! 大丈夫ですから!」
「何だよー、可愛くない後輩だなあ。
こういう時くらい、先輩の思いやりに身を任せたまえ、梓後輩」
私が言うと、少しだけ抵抗していた梓の動きが止まる。
私に結び直させてくれる気になったのか?
そう思った瞬間、梓が妙に重い声色で呟いた。
「大雑把な律先輩に、ちゃんと髪を結べるんですか?」
「中野ー!」
後輩の生意気な発言にいたく憤慨した私は、梓の首筋に自分の腕を回して力を入れる。
私の得意技、チョークスリーパーの体勢だ。
梓も私にそうされる事が分かってたらしく、
特に抵抗もせずに私のチョークスリーパーに身を任せた。
と言うか、チョークスリーパーに身を任せるって、言い得て妙だな……。
少しずつ力を込めると、チョークスリーパーって技の性質上、必然的に私達の顔は間近に近付いていく。
間近に見える梓の顔は笑うのを我慢してるように見えた。
どうもさっきの発言は冗談だったらしい。
私の方もいたく憤慨したってのは嘘だけどさ。
しばらくそのままの体勢でいたけど、先に根負けしたのは私の方だった。
気付けば私は笑顔になってしまっていて、梓も私につられて晴れやかな笑顔に変わっていた。
「ありがとうございます、律先輩」
何度目かのお礼の言葉を梓が口にする。
嬉しい言葉だけど、流石に何度も言われると私も背中がむず痒くなってくる。
「もう礼の言葉はいいって、梓」
「でも、伝えたいですから。
何度だって、言葉にしたいんです。
こんなに安心できたのはすごく久し振りで、すごく嬉しいんです。
律先輩が私の先輩でいてくれて、本当に嬉しいんです。
もうすぐ世界の終わりの日なのに、安心できるって変な話ですけど、でも……。
私……、幸せです」
幸せなのは私も一緒だ。
梓とすれ違ったまま世界の終わりを迎えなくて、すごく幸せだった。
もうすぐ死ぬ事は分かってるけど、この幸せな気持ちは無駄にはならないはずだ。
よくもうすぐ死ぬのに、短い幸福なんて無意味だって言葉を聞く。
でも、残された時間が短い事と、幸せ自体は何の関係も無い事だと私は思う。
短い時間の幸福が無意味なら、結局は長生きして得た幸福だって無意味って事になる。
長かろうと短かろうと、最終的には死ぬ事で何もかも失われるんだから。
どうやっても、人は死んでしまうんだから。
だから、私は短い時間の幸せでも無意味だなんて思わない。思いたくない。
そのためにも、私は梓に訊いておかなきゃいけない事があった。
「なあ、梓。
キーホルダー……、一緒に捜すか?」
軽く、囁いてみる。
失くしてしまったキーホルダーを見付けだす事も、梓には大きな幸せになるだろう。
その幸せを梓が求めるんなら、私もその力になりたいと思う。
残りの時間、キーホルダーを捜す事に力を尽くすのも、一つの道だ。
だけど、梓はゆっくりと首を横に振った。
「いえ……、もういいんです。
一週間ずっと、これだけ捜しても見つからないって事は、
誰かに拾われるかなんかして、もう何処か遠い所にあるのかもしれませんしね。
それに……、キーホルダーが無くても、先輩達は私を仲間でいさせてくれる。
それを律先輩が教えてくれたから……、だから、もう大丈夫です」
完全に吹っ切れたわけじゃないんだろう。
梓のその声は寂しげで、少し掠れて聞こえた。
でも、今度こそ、その梓の言葉は信じられる。
まだ無理はしてるんだろうけど、梓はキーホルダーという形のある絆の品じゃなくて、
私達との絆そのものっていう形の無いものを信じてくれる事にしたんだ。
形の無いものを信じるのは恐いし、不安になってしまうから、
そりゃ少しの無理はしないといけない。無理をしなきゃ信じ続けられない。
だけど、梓はそれを信じてくれる。
信じるために、今の寂しさも耐えてくれる。
何だか急に、そんな梓が愛おしく思えた。
私はチョークスリーパーの体勢を解いて、抱き締めるみたいに梓の背中から両腕を回す。
「ありがとな」
信じてくれて。
後半の方は言葉にしなかった。
照れ臭いのもあったし、その言葉を伝えるのも今更な気がした。
でも、言葉にしなくても、今だけは梓に私の気持ちが伝わってると思う。
不意に梓が明るく微笑む。
「だから、お礼を言いたいのは私の方ですよ、律先輩。
これじゃ逆じゃないですか」
「そう……かな。そうかも……な。
でも、私からも礼を言いたくてさ。ありがとう、梓」
「私こそ……って、これじゃきりが無いですね」
「そうだな。じゃあ、最後に梓が私に感謝の気持ちを示してくれ。
お礼の言い合いっこはそれで終わりにしようぜ?」
「感謝の気持ちを示すって……、どうすればいいんですか?」
「梓の髪を私に結び直させてもらう。
私に感謝してるんなら、それくらいの事はさせてもらおうじゃないか、梓くん」
「そうきましたか……。
いいでしょう。それくらいは我慢してあげます」
よっしゃ、と声を上げて、私は梓から身体を離して少し距離を取る。
解いた梓の髪は真っ黒でまっすぐで、女の私から見てもすごく綺麗に思えた。
手を伸ばして、手櫛で丁寧に梓の髪を梳いていく。
少し痛んでるのに、梳く指に引っ掛かりがほとんど無い。
もしかしたら、これは澪よりもいい髪質かもしれないな。
ちょっと悔しくなって、ぼやくみたいに呟いてみる。
「ちくしょー。
マジでまっすぐな髪だな。生意気な奴め」
「羨ましいですか?」
「んまっ、本気で生意気な子ね!
でも、まあ……、羨ましい事は羨ましいけど、そこまででもないかな。
ストレートはストレートで苦労があるみたいだし、あんまり髪を伸ばすつもりもないしさ」
「そう言う割には、律先輩も髪の扱いが意外と上手じゃないですか」
「ふふふ、まあな。
暇な時、澪の髪を結ばせてもらってるし、髪の扱いにかけてはそれなりの腕前だと思うぞ。
だからさ、気になるんだよ、梓みたいに綺麗な髪が傷んでるとさ。
澪の奴も精神的に追い込まれるとそれが髪質に出る奴だから、余計に気になるんだよな」
「ご心配……、お掛けします」
申し訳なさそうに梓が縮こまり、頭を小さく下げる。
その梓の頭を撫でて、私はそれを軽く笑い飛ばしてやる事にした。
「気にするなって。
まあ、でも、深夜に一人で外を出歩くのだけは頂けないけどな。
キーホルダーの事が気になるからって、いくら何でも危ないだろ。
ただでさえ梓は……」
可愛いんだから。
そう言おうとしてる自分に気付いて、慌ててその言葉を止めた。
流石にその言葉を梓自身に届けるのは恥ずかし過ぎる。
私は一息吐いてから、訂正して言い直す。
「小学生みたいに小さいんだからな」
「なっ……!
律先輩だって、人の事言えないじゃないですか!」
「私はおまえよりは大きい」
「年の差です!」
梓が頬を膨らませて拗ねる。
って、年の差……か?
見る限り、梓は一年の頃から全然成長してないように見えるんだが……。
この調子じゃ、今後どれだけ年月を経たとしても、成長しなさそうだぞ。
いや、私も人の事は言えないくらい、一年の頃から成長してないんだけどな……。
……何か悲しくなってきた。
梓も自分が全然成長してない事を自覚してるみたいで、物悲しそうに沈黙していた。
発育不良な二人が、揃って大きく溜息を吐く。
いやいや、今は私達の発育の事なんてどうでもいい。
私は梓の右の髪を結びながら、できるだけ声色を明るく変えて言った。
「でも、危ないのは確かだ。
もうあんな事するのはやめてくれよ、梓。
と言うか、深夜に私の家の前を通ったのは梓で間違いないんだよな?
まだおまえから本当のところを聞いてないけど」
「はい……。律先輩が見たのは、確かに私だと思います。
深夜、キーホルダーを捜して、走り回ってましたから……。
見間違いだなんて言って、すみませんでした……」
「それはいいけどさ。
私はさ、梓の事が本当に心配だったよ。
私だけじゃない。
ムギも、唯も、澪も、憂ちゃんや純ちゃんもおまえを心配してたんだからな」
「純……も……?」
意外そうに梓が呟く。
それは純ちゃんが梓を心配してるのが意外なんじゃなくて、
私が純ちゃんの事を話題に出すのが意外だと感じてるみたいだった。
確かに私と純ちゃんって、あんまり関わりがなさそうだからなあ……。
でも、私と純ちゃんが無関係に見えても、決して無関係じゃない。
いちごが言ってたみたいに、私達は自分でも知らない何処かで知らない誰かと必ず繋がってる。
何かと無関係ではいられないんだ。
特に私と純ちゃんには梓っていう大きな繋がりがある。
それだけで私と純ちゃんは、深い所で繋がり合ってるって言えるかもしれない。
今回、私はその繋がりに助けられ、梓の悩みを晴らす事ができた。
それは梓を大切に思う人間が多いって証拠でもある。
梓がそんな風に大切に思われるに足る子だから、
誰もが梓を放っておけなくて、結果的に梓自身を救う事になったんだ。
私はそれを梓に少しだけ伝えようと思った。
梓の悩みは私達の悩みでもあるんだって。
梓が悩んでいると、皆が梓を助けたくなるんだって。
梓は愛されてるんだって。
勿論、純ちゃんとの約束もあるから、
必要以上の事を伝えるわけにはいかないけど。
それでも、私は伝えるんだ。梓は一人じゃないんだと。
「この教室に来る前に、純ちゃんと話をしたんだよ。
梓が二年一組に居るって教えてくれたのも純ちゃんなんだぜ?
軽音部の部室から飛び出すおまえを見かけたって言ってた。
声も掛けたって言ってたけど、気付かなかったのか?」
「いえ……。無我夢中で走ってて、純が見てたなんて全然気付きませんでした。
でも、そうなんだ……、純が……。
純に……、悪い事しちゃったな……」
「後で純ちゃんに謝って……、いや、お礼の方が喜ぶな。
お礼を言っとけよ、梓。
純ちゃんが教えてくれなきゃ、私はこの教室まで来れなかった。
梓の悩みを聞き出す事もできなかったんだ。
今お前と私が笑えるのは、純ちゃんのおかげでもあるんだ」
「そうですね……。
いつもは好き勝手な事してるのに、純ったら……。
こんな時だけ……、こんな時だけ気が効くんだから……」
「いい友達だな」
「……はい!」
梓が感極まった様な大きな声を出す。
もしかしたら梓はまた少し泣いているのかもしれなかった。
でも、それはもう悲しい涙じゃなくて、胸が詰まるみたいな嬉しい涙なんだ。
少しだけ気難しい面がある梓にも、純ちゃんみたいな素敵な友達がいるんだな。
私はそれが嬉しくなって、梓の左側の髪を結び終えてから続けた。
「おまえが思う以上に、純ちゃんっていい子だぞ。
純ちゃんさ、おまえの知らない所で軽音部の新入部員を見つけてくれたらしい。
それも二人もだぜ。
入部してくれるのは来年度からみたいだけど、これで来年の軽音部も安泰だな」
「本当ですかっ?」
「ああ。でも、私が言ったって純ちゃんには内緒な。
純ちゃんから、新入部員の事は梓には内緒してくれって頼まれてるんだよ。
勿論、その新入部員が誰かも内緒なんだ。
だから、どうかここはご内密に頼むぜ、お代官様」
「そうですか……。二人も新入部員が……。
何だか……、来年度がすごく楽しみになってきました。
見てて下さいね、律先輩。
来年度の軽音部は、今の軽音部より絶対すごい部にしてやるです!」
「その意気だ」
私が不敵に微笑んでやると、梓も私の方に振り向きながら柔らかく微笑んだ。
勿論、二人とも分かってる。
来年度は、多分、無い事を。
それでも、私達は笑うんだ。
私達が私達でいられるために。
「よし、完了」
手櫛でもう少しだけ髪を梳かしてから、梓のその場に立ち上がらせる。
私も立ち上がって、私に背を向けていた梓を私の方に向かせた。
何となく、嬉しくなる。
そこには若干疲れた感じがするけど、普段と変わらない梓の姿があったからだ。
普段と変わらない梓の姿だけど、そんな普段の梓の姿を見るのはすごく久し振りだ。
梓が自分の髪の位置を手で確認しながら、軽く笑って言う。
「ありがとうございます、律先輩。
髪の位置も完璧じゃないですか。
大雑把だと思ってましたけど、律先輩の事、見直しました!」
「素直に褒めるって事を知らないのかい、梓ちゃん。
それに見直したって事は、これまでは見損なってたって事かよ。
まあ、いいけどさ」
軽口を叩き合う私達。
やっぱりあんまり部長と部員の関係って感じがしないな。
どっちかと言うと、同級生の部員同士っぽい。
でも、まあ、それもいいか。
それも私と梓が付き合ってきた二年間の結果なんだ。
求めてた関係とはちょっと違うけど、こんな友達みたいな関係も悪くない。
いや、友達みたいな、じゃない。
私と梓は友達だ。
友達で、いいんだと思う。
急に梓が少しだけ寂しそうな顔になる。
世界の終わりの事を思い出したのかと思ったけど、そうじゃなかった。
「あーあ……。
考えてみたら、何だか勿体無い事しちゃいましたね……」
自嘲的に梓が小さく呟く。
悲しんでるわけじゃなく、自分に腹を立ててるわけでもなく、
ただ自分のしてしまった事を少しだけ後悔してるみたいに。
「私……、一週間も一人で何を抱え込んでたんでしょうか。
キーホルダーを失くした事……、早く律先輩達に伝えればよかったなあ……。
律先輩達を信じればよかったのに、自分を信じられればよかったのに、
それができずに深夜に駆け回ったりまでして……、必死に捜し回って……。
そんな私のせいで皆に心配掛けちゃって……、
律先輩にまで勿体無い無駄な時間を掛けさせてしまって……。
私が……、信じられなかったせいで……」
梓が小さい身体を更に縮ませるみたいに小さくなる。
一つの悩みは晴れたけど、
その副産物として、今度は自分の掛けた迷惑について罪悪感を抱いてしまってるんだろう。
梓は責任感の強い子だ。
自分のミスや失敗を抱え込んで、たまにそれに押し潰されそうになっちゃう子だ。
今までの私なら、そんな梓を心配そうに見つめる事しかできなかっただろうけど……。
でも、もう大丈夫。
梓は私を信じてくれた。
後は私が梓を信じて、梓に自分自身を信じさせてあげるだけだ。
私は手を伸ばして、梳いたばかりの梓の頭頂部をくしゃくしゃにしてやる。
「ちょ……っ? 律先輩……っ?」
「馬ー鹿。
確かにおまえのせいで長い事悩まされたけど、それは別に無駄な時間じゃなかったよ。
勿体無いなんて事も無い。こんな時だけど、私自身や軽音部の事について深く考えられた。
それはおまえのせいで……、おまえのおかげだ」
「どうして……」
また泣きそうな顔で、梓が掠れた声を上げた。
「どうして律先輩は……、そんなに優しいんですか……?
私の事なんて……、もっと責めてくれてもいいのに……」
「生憎、私には人を責める趣味はないのだ。
それにさ、優しいのはおまえもだよ、梓。
キーホルダーの事でそんなに悩んだのは、私達の事を大切に思ってくれてたからだろ?
そんなおまえを責められないし、それに……」
「それ……に……?」
「まだ取り戻せる。
思い悩んだ分、心配掛けちゃった分なんて、いくらでも取り戻せるよ。
だから、梓さえよければさ、今日、私んちに泊まりに来ないか?
何ならムギや純ちゃんも誘って、皆で色んな話をしようぜ。
私の部屋で布団並べてさ、「好きな子いる?」って話し合ったりとか」
私の言葉に、梓は呆気に取られたみたいにしばらく沈黙していた。
まさか私がそんな話を始めるなんて、考えてもなかったんだろう。
実を言うと、私も自分がこんな話をするなんて思ってなかった。
泊まりに来ないかって言葉も、その場の勢いで言っただけだ。
でも、勢いながら、いい提案だって自分で自分を褒めたい気分でもある。
そうなんだ。
勿体無い事をしたと思うんなら、取り戻せばいいだけなんだ。
それを自覚して一緒の時間を過ごせれば、
勿体無かったと思える時間以上の充実した時間を過ごせるはずだ。
「もう……」
梓が呆れた表情で小さく呟く。
でも、その表情の所々からは、隠し切れない笑顔が滲み出ていた。
「それじゃ修学旅行じゃないですか、律先輩」
「お、それ頂き。
いいじゃんか、修学旅行。
梓とは一緒に行けなかったわけだし、私達だけの修学旅行って事でどうだ?
勿論、梓の予定が合えばだけどさ」
「……仕方ないですね。
律先輩がそこまで言うなら、付き合ってあげます。
やりましょう。律先輩の家で、私達だけの修学旅行を」
「よっしゃ。そうと決まれば早速ムギ達を誘いに行こうぜ。
折角だから、夕食は私が腕に縒りを掛けて用意しよう。
何かリクエストないか?
何でも梓の好きな物を作ってやるぞ」
「じゃあ……、ハンバーグをお願いしていいですか?」
「ハンバーグかよ。別に何でも作ってやるのに。
……って、ひょっとしてハンバーグしか作れないって思われてる……?」
「いえいえ、違いますよ。
前に律先輩の家で食べたハンバーグが美味しかったから、また食べたいんです。
……駄目ですか?」
「そう言われると、私も腕に縒りを掛けざるを得ない。
そうだな、今日はハンバーグにしよう。
美味しいご飯も炊いてやる。
今日は梓のリクエスト通り、愛情込めてハンバーグを作ってやるぞ」
「あ、別に愛情はいいです」
「中野ー!」
私が声を荒げて掴み掛ろうとすると、
梓は上手い具合に私の腕を避けて教室の扉まで駆けて行く。
最近、生意気さに加減の無い後輩だけど、
そんな生意気さをどうにかながら取り戻せて、私は嬉しかった。
教室の扉を開きながら、梓が私の方に振り返る。
「ほら、早く行きましょう、律先輩」
「あいあい」
「それと……」
「どうした?」
「何度も言いましたし、さっき最後だって言いましたけど、でも、もう一度言わせて下さい。
私の先輩でいてくれて、本当にありがとうございます、律先輩」
「おうよ。
……おまえこそ、私の後輩でいてくれて、ありがとな」
○
二年一組の教室を出た瞬間、
笑顔の私達を見つけたムギが、泣き出しそうな梓の胸に飛び込んだ。
ずっと私達の事を信じて待っていてくれたんだろう。
申し訳なさそうに、でも嬉しそうに梓が謝り、
これまでの事情を説明すると、ムギは怒る事も無くそのまま梓を抱き締めた。
ずっと唯が身近に居たせいか、どうも私達には唯の抱き付き癖がうつってしまってるみたいだ。
抱き付かれ慣れてるみたいで、梓の方もムギに抱き締められるままにしていた。
妙な感じだけど、これが私達のコミュニケーションでもあるんだろう。
ムギがしばらく梓を抱き締めた後、
私の家で私達だけの修学旅行をしないかと伝えると、
「後輩とのそういうイベント、夢だったの」と言って、目に見えてはしゃぎ出した。
ムギにはどれだけ色んな夢があるんだ……。
でも、ムギが積極的になってくれるのは大歓迎だ。
梓だけじゃなく、ムギも喜んでくれるんなら、一石二鳥ってやつじゃないか。
勿論、ムギが楽しんでくれるのは、私だって嬉しい。
そうして盛り上がっていると、
不意に梓が廊下の角から私達を見ている何者かの視線に気付いた。
当然ながら、その何者かは純ちゃんだった。
軽音部の部室で待ってると言っていたけど、
やっぱり梓の様子が気になって教室の近くまで来てたんだろう。
梓が手招きすると、少しだけ恥ずかしそうに梓の傍まで近付いて、
それでも純ちゃんは急に笑顔になって、梓の頭を強めに撫で始めた。
元気そうな梓を見て嬉しかったんだろう。
頭を撫でるのは純ちゃんなりの愛情表現なんだろうけど、
「撫でないでよ、もー!」と梓はほんの少し不機嫌そうな声を上げていた。
私達には結構自由に頭を撫でさせてくれる梓だけど、
流石に同級生に頭を撫でられるのは恥ずかしいらしい。
これまで、私には二人の関係は梓が主導権を取ってる関係に見えてた。
でも、本当は自由に見える純ちゃんの方が、梓をリードしてるのかもしれない。
そのムギの言葉に対しては、私は肯定も否定もしなかった。
ずっと私達を見てたムギが言うんならそうなのかもしれないけど、
簡単にそれを認めてしまうのも何だか恥ずかしかった。
だけど、どちらにしても、
明日には私と澪の関係にとりあえずの結末が訪れるんだろうな、って私は思った。
澪の言葉を信じるなら、明日には学校で私達が顔を合わせる事になる。
そこで私達は何かの話をして、何らかの結論を出すんだろう。
その時を考えると少し恐かったけど、同時に待ち遠しくもあった。
澪に私の想いと答えを伝えたい。
どんな形であっても、澪にはそれを聞いてもらいたい。
その時こそ、私と澪が自分の本当の気持ちを実感できる時だと思うんだ。
私の家での修学旅行については、純ちゃんも笑顔で了承してくれた。
世界の終わりも近いんだし、家族が心配したりしないかと確認すると純ちゃんは苦笑した。
純ちゃんが言うには、家族会議を行った結果、
家族皆が世界の終わりまで自由に過ごす事に決めてるらしい。
人に迷惑を掛けなければ、何処でどう過ごしてくれても構わないそうだ。
大らかな家庭だなあ、と思わなくもないけど、
我が田井中家も似たようなもんなので、人の家庭の事は言えなかった。
まあ、それだけ家族が信頼し合ってるって事だとも思うけどさ。
それから私達は軽音部の部室に向かって、
三人で新曲の練習を始めようとして……、気が付けば純ちゃんがその場から消えていた。
神隠しに遭ったってわけじゃない。
「単に修学旅行の準備に家に戻っただけです」と梓が言っていた。
「そんなの後でいいのに」と私がぼやくと、苦笑しながら梓が続けた。
純ちゃんは私達が最後にライブをする事を憂ちゃんから聞いて知っていたらしい。
どうやら純ちゃんも最後のライブを観に来てくれるらしく、
その楽しみをネタバレで減らしたくないから、って逃げるように帰ったんだそうだ。
こんな時でもマイペースを崩さない。
世界がどう変わっても、純ちゃんは純ちゃんだ。
純ちゃんを見習って、私も私のままでいたい。
○
――木曜日
布団を並べて話をしていると、純ちゃんは一人で早々に眠ってしまった。
その純ちゃんを起こさないよう小さな声で会話を続けていると、
携帯電話の大きめなアラームの音が私にいつもの時間を伝えた。
私は慌ててアラームを切り、眠ってる純ちゃんの方に視線を向けてみる。
……すげえ。結構大きい音だったのに、微動たりともしていない。
梓から話には聞いてたけど、どんだけ寝付きのいい子なんだ、純ちゃんは……。
まあ、これだけ寝付きがいいなら、少しは大きな音を出しても大丈夫だろう。
祈るような気分で、私はラジカセの電源を入れる。
電波の不調のせいか昨日は聴けなかったけど、今日は復旧してるだろうか?
できる事なら、世界の終わりまであの人の声を聴いていたい。
週末まではお前らと一緒!
あの人はそう言ってくれていた。私はその言葉を信じていたい。
私の祈りが届いたのか、スピーカーからは昨日みたいな雑音は出なかった。
軽快な音楽が流れる。
「胸に残る音楽をお前らに。本当の意味でも、ある意味でも、とにかく名曲をお前らに。
今日もラジオ『DEATH DEVIL』の時間がやって来た。
一日空いちゃったけど、アタシの事ちゃんと憶えてる?
アタシよ、アタシ。
オレオレ詐欺じゃないわよ。アタシよ、クリスティーナ。
一日で忘れちゃってる困ったちゃん達はこの放送中に思い出しといてよ。
オーケー?
しっかし、昨日はまさかラジオどころかテレビ、電話まで電波障害になっちゃうなんてね。
シューマン共鳴だか何だかの異常だそうだけど、こりゃ本格的に終末が現実的になって来たわ。
電波が途絶えるなんて、これまでの人生で経験した事なかったかんね。
日常が少しずつ消え去ってるって実感も湧いてくるわね。
しかも、シューマン何たらってのも、滅多な事では異常が起きるはずがない自然現象らしいのよ。
それに異常が起きてるってんだから、いよいよ世界最後の日も間近ってわけだ。
まあ、それでもそんな異常下でも電波を一日で復旧できたわけだから、
ひょっとしたら終末ってのもそんな大したもんじゃないかもしれないけど。
それとも電波専門の電波職人さんの腕のおかげかしらね?
流石は職人さん。
洗練された腕にいつも頭が下がります。なんてね。
あははっ。
何はともあれ、終末までは今日入れて残り三日。
日曜日には未曾有の大災害ってやつがアタシ達の身に降り掛かるわけよ。
いや、そもそも災害なのかどうか科学者の皆さんもちゃんと分かってないらしいけど、
とにかく人類全体が消えちゃうのだけは間違いない。
そんな終末まで、残りもう三日。
でも、まだ三日。
泣いても笑っても三日間もあるわけだし、
どうせなら終末まで笑って過ごしていこうぜ、お前ら。
世界の制度に反抗して生きるのが、ロックってわけよ。
終末だろうと何だろうと、世界が勝手に決めた規範には違いないじゃん?
アタシ達に都合の悪い制度は、何だって切って捨てる。
それが真のロックスピリッツ。
アタシも付き合うから、最後くらいお前らもロックに生きようぜ。
オーケー?
そういえば勘違いしてるお前らが多いみたいだけど、
ギター掻き鳴らしてドラムのビートを刻む激しい曲がロックってわけじゃないらしいのよ。
アタシも子供の頃は勘違いしてたんだけど、
ロックミュージックの定義って単に歌詞や心根が反骨的かどうかなんだってさ。
曲の激しさとか、ギターのテクニックとかは一切関係無し。
お前らの心の中に反骨心があれば、それだけで全ての歌がロックミュージックだ。
だから、演歌やアニメソング好きなお前らも、反骨心があれば当番組にメールヨロシク!
終末まで、一緒にこの番組盛り上げてこうぜ!
週末まではお前らと一緒!
……って、これじゃ番宣だった。
こりゃ失敬。
ああ、電波障害については心配はないみたいよ。
ウチのディレクターが独自のシステムを構築したらしくて、
今後、公共の電波に障害が起きたとしても、少なくともこの番組だけは終末までお届けできるらしいのよ。
……一体、何者なのよ、あの人は。
単なるヅラじゃないとは思ってたけど、ここまで得体の知れない人だったとは……。
謎が多いディレクターよ、マジで。
残念だけど、終末までにその謎は解けそうもないし……。
まあ、一つくらい謎を抱えたまま終末を迎えるのも悪くないわね。
この謎はアタシもお前らと一緒に墓場まで持ってくから、それで勘弁ヨロシク。
どっちにしても、謎多きディレクターのおかげで放送の心配はしなくてよさそうだし、
その点では感謝感激雨霰。
でも、ディレクターだけじゃなくて、昨日一日、アタシは色んな人に感謝したわ。
アタシの好きなミュージシャン、番組のスタッフ、電波職人さん、
直接スタジオまで来てくれたリスナーのお前ら、電波障害を心配して駆け付けてきたラジな……。
たくさんの人がこの番組のために頑張ってくれた。
たくさんの人にこの番組が支えられてるんだって教えてくれた。
一日かけて、精一杯この番組のために駆け回ってくれた。
アタシにできる仕事はほとんど無くて、足手纏いにしかならなかった。
その分、今日は喋らせてもらおうと思う。
アタシがこの番組のためにできるのは、喋る事だけだからさ。
失くして初めて、それの大切さが分かる……。
よく聞く言葉だし、単に一日空いただけなんだけど、昨日一日でその言葉を強く実感させられたよ。
成り行きで続けてきた番組だけど、アタシはこの番組が大好きなんだなって。
アタシはこの番組が生き甲斐なんだなってさ。
アタシにこの番組続けさせてくれて、お前らサンキュ!
残り短い放送だけど、最期までお付き合いヨロシク!
週末まで……、終末まではお前らと一緒!
さってと、とは言え、湿っぽいのはこの番組には似合わないし主義じゃない。
そろそろ記念すべきリクエストの復帰第一発目といってみましょうかね。
えっと、曲名は……。
お、復帰記念のおかげか、珍しく世界の終わりっぽくないリクエスト……。
って、あれ何? どしたの、ディレクター?
え?
この曲も歌詞はともかく、この曲が流れた番組が世界の終わりっぽい番組なわけ?
おいおい、お前ら……。
とことんこの番組を世界終末記念番組にしたいわけ?
ま、それもいいか。
こんな時でも時事ネタを忘れないその腐れ根性、アタシは嫌いじゃないよ。
折角だから、とことん終末っぽい曲を集めてみるのもいいかもね。
んじゃ、今日の一曲目、長野県のムー・フェンスからのリクエストで、
中川翔子の『フライングヒューマノイド』――」
○
朝、私達は三人で軽音部の部室でお茶を飲んでいた。
純ちゃんは居ない。
登校後、純ちゃんは私達と別れ、ジャズ研の部室に向かっていた。
ジャズ研も最後のライブを開催するから、そのための練習に行くらしい。
こんな時期に純ちゃんが登校してた理由は、ある意味で私達と同じだったってわけだ。
しかも、純ちゃんが言うには、そのライブは純ちゃんを中心に行われるんだそうだ。
そりゃほとんど毎日登校してるはずだよ。
ジャズ研のライブの開催は金曜日の午後。
会場は講堂らしく、もう既に使用届の提出もしているそうだ。
どの部も考える事は同じってわけだな。
世界の終わりに反抗したいのは、別に私達だけってわけじゃない。
私達のしている事は、何も特別な事じゃないんだ。
やっぱり皆、最後に何かを残したいんだと思う。
それは形として残るものじゃないけど、それでも何かを残そうとする事は無駄じゃないはず。
いや、私としては、別にその行為が無駄でも構わない。
私達はこれまで放課後を無駄に過ごして来た。
軽音部を設立して、たまに練習はするけど、ほとんどの時間をお喋りに費やして、
合宿に行っては遊んで、休日にはやっぱり雑談に花を咲かせて、それを梓や澪に怒られたりして……。
正直、音楽にまっしぐらに生きて来れたなんて、冗談でも口に出せない。
一言で言えば、私達にとっての放課後のほとんどは、人生の無駄遣いだったんだよな。
だけど、それでよかったと思う。
無駄だけど、楽しかった。
辛い事も少しはあったけど、皆と出会えて、最高に面白かった。
退屈する暇なんてないくらい、充実した無駄な時間を過ごせた。
その無駄が、私にとってすごく大切なものになったんだ。
だから、私達の最後のライブが無駄な行為でも、私は全然構わない。
それよりも気になるのは、やっぱり純ちゃんのライブの方だ。
純ちゃんの演奏は何度か聴いた事はあった。
でも、これまでの純ちゃんの演奏は、
ジャズ研の先輩達の伴奏的なパートである事が多く、
純ちゃん自身の本当の実力はいまいち掴みづらかった。
相当に練習を積んでるみたいだし、かなり上手い方だと思うんだけど、
伴奏的に演奏するのとメインで演奏するのでは、印象もかなり違ってくるだろう。
これは是非ともジャズ研のライブを観に行かなきゃいけない。
純ちゃんも私達のライブを観に来てくれるんだから、
私達もジャズ研のライブを観に行くのが礼儀ってもんだ。
それに新入部員(予定)の真の実力を把握しておくってのも、部長の大事な仕事だしな。
でも、何よりジャズ研のライブが観たい理由は、
今更だけど純ちゃん自身に興味が出始めたってのが一番かもしれない。
これまでは単なる梓の友達としてしか見てなかったんだけど、
昨日見せてくれた心から梓を心配する純ちゃんの姿がすごく印象的だった。
単なる友達なんかじゃない。
純ちゃんは梓の親友で、深く繋がってる仲間なんだなって思った。
単純だけど、私はそんな理由で純ちゃんに興味を持った。
それに梓の仲間だってんなら、私達の仲間でもあるってもんだ。
新しいお仲間としては、しっかりと相手の事を知っておかなきゃな。
「どうしたんですか、律先輩?」
ムギの淹れてくれたFTGFO何とかって紅茶を飲みながら、梓が首を傾げた。
新しい軽音部の仲間が増えた事が嬉しかったせいか、私の顔が緩んでしまっていたらしい。
「何でもないよ」と私は首を振ったけど、
私の席の斜め向かいに座ってるムギはその私の誤魔化しを見逃してくれなかった。
「でも、りっちゃん、すごく嬉しそうよ?
何か素敵な事でもあったの?
言いたくないなら仕方ないけど、よかったら教えてほしいな」
ムギにそう言われちゃ、教えないわけにはいかなかった。
そもそも、隠し通さなきゃいけない事でもない。
私は自分の笑顔の理由をムギ達に伝える事にした。
「いや、昨日も話した事なんだけど、
純ちゃんが軽音部の新入部員を見つけてくれたってのが嬉しくてさ。
ついつい顔が緩んじゃったわけですよ、部長としては」
完全に真実ってわけじゃないけど、嘘を吐いてるわけでもない。
深く話せない事情を知ってるムギは、それを察して柔らかい笑顔を浮かべてくれた。
「そうよね。それって本当に素敵な事よね。
りっちゃんが笑顔になっちゃうのも分かるな。
私だって、嬉しくて自分が笑顔になっちゃうのを抑えられないもの。
……でも、純ちゃんってすごい子だよね。
私達があんなに探しても見つからなかったのに、新入部員を二人も見つけてくれるなんて……。
すごいなあ……、新入部員かあ……。
ねえ、梓ちゃんは新入部員ってどんな子だと思う?
どんな子だったら嬉しい?」
「え、私ですか……?
どんな子でも嬉しいですし、想像もできませんけど……。
そうですね……。
できればムギ先輩みたいな子か、それが無理なら大人しい子だと嬉しいです。
ムギ先輩みたいに気配りのできる子だと私も安心できますし、
大人しい子なら私でも色々と教えてあげられるんじゃないかって思うんです。
逆に活発な子や、私を振り回すような子はちょっと……」
そこで言葉を止めた梓は、わざとらしくチラチラと私の方を見た。
その目は明らかに私を挑発していた。
確実に私の突っ込みを待っていた。
こいつ……、誘ってやがる……。
そこまでされちゃ、私の方としても突っ込む事に関してやぶさかじゃない。
私は机を軽く掌で叩いてから、大声で言ってやる。
「それって私みたいな子はノーサンキューって事かよ!」
「別に律先輩みたいな子とは一言も言ってませんよ」
「いや、言ってただろ! 私の方を見てもいただろ!」
「知りません。律先輩の自意識過剰じゃないんですか?」
「おい中野! コラ中野!
いい加減にしないと、ガラスの様なハートを持った部長が泣いちゃうぞ中野!」
「律先輩のは強化ガラスの様なハートだから、大丈夫なんじゃないですか?」
「強化ガラスでも、割れないだけでヒビは入るんだぞ!」
「あ、強化ガラスって自分で認めましたね、律先輩」
「中野ー!」
言葉だけだと辛辣な言い争いっぽいけど、私と梓の顔は笑っていた。
ふざけ合っているのはお互いが承知の上での言い争いなんだ。
昨日から梓の発言はいつもに増して生意気になっていた。
ムギ達と私の部屋に泊まった時も、何度梓が生意気な発言をしたか数え切れない。
でも、それは私に対して反骨心を持ち始めたからの発言じゃない。
いや、反骨心が無いとは言い切れないけど、どちらかと言えば甘えに近い発言に思える。
長く不安を抱えてた反動もあるんだろう。
梓は私に憎まれ口を叩く事で、これまでの勿体無かった時間を取り戻してるんだと思う。
好きな子にちょっかいを出して相手の興味を引いて甘える……。
そんな小学生みたいな行動が、梓の愛情表現の一つなんだろうな。
梓がその愛情表現を私に示してくれるのは勿論嬉しいんだけど、
これまた昨日からそんな私達を妙に嬉しそうに見守るムギの視線が気になるのは私だけか?
何か非常に生暖かい視線を感じるんだが……。
「なあ、ムギ……?」
どうにも気になって、
頬に手を当てて私達を見つめるムギに声を掛けてみたけど、
残念ながらムギは私達を見つめたまま何の反応も見せなかった。
どうやら何かに夢中になり過ぎて、私の声が聞こえてないらしい。
超うっとりしてる。
と言うか、そういや久々に見たな、こんなムギ。
一年の頃は頻繁に見せてた姿だけど、二年に上がってからは、
他の事に興味を持ち始めたのか、単に誤魔化し方が上手くなったのか、
こんなうっとりした感じのムギの姿を見せる事は少なくなっていた。
「あの……、律先輩……?」
流石に妙過ぎるムギの姿が気になり始めたんだろう。
梓が不安そうに私の方に視線を向けた。
「ムギ先輩、どうしたんですか?
何だかうっとりしてるみたいに見えますけど……」
一年の頃のムギの姿を知らない梓だ。
私以上に妙な様子の今のムギを不審に……、じゃなくて、不安に思うのも無理はなかった。
しかし、このムギの姿をどう説明したらいいのか、私自身にもよく分からん。
私は頭を掻きながら、どうにか梓に上手く伝えるふりはしてみる。
「別に心配はないんだけど、
いや、なんつーか……、ムギってそういうのが好きな人なんだよ。
最近はあんまりそんな様子もなかったけど、どうも突発的に再発しちゃったみたいだな……」
「そういうのが好き……って、どういうのが好きなんですか?」
「えーっと……、だな……。
「女の子同士っていいな」っつーか……、
「本人達がよければいい」っつーか……、
ムギってそういうのが好きなんだよ。どんと来いなんだよ。
ほら、アレだ。みなまで言わせるな」
「女の子同士……?」
私の言葉を反芻するみたいに梓が呟く。
流石にすぐに理解できる事じゃないだろうし、いきなり理解されたらそっちの方が嫌だ。
十秒くらい経っただろうか。
私の言葉の意味を理解したらしい梓が目に見えて慌て始めた。
「えっ? あの……、えっ?
私と律先輩が……?
女の子同士の関係に……? ええっ?
私は別に……、そんなつもりじゃ……。
でも……」
理解してくれたのは嬉しいが、梓の動揺は私の予想とは違う原因のようだった。
見る限り、どうやら梓はムギが女の子同士の関係が好きな事よりも、
梓と私がムギにそんな関係として見られてるって事に動揺してるらしい。
そっちかよ。
まあ、流石に私に気があるって事は無いにしても、
意外と梓自身も女の子同士の関係に興味があるって事なのかもしれない。
同性の幼馴染みに告白されて、そいつの恋人になろうとした私に言えた事じゃないけど……。
澪の事を思い出して、私は少しだけ視線を伏せてしまう。
もうすぐ私は澪と一日ぶりに再会する。
それはすごく不安な事だけど、でも、それは澪と再会してから考えればいい事だ。
私はもうあの時の自分の涙の理由を分かってるんだ。
後はそれを澪に伝えるだけでいい。
軽く梓に視線を戻してみる。
決心を固めた私の視線を違う意味の視線と勘違いしたのか(何とは言わないけど)、
挙動不審に周囲に視線を散漫とさせながら、梓が早口に捲し立てるみたいに言った。
「そ……、そういえば、唯先輩達遅いですね!
一日空いちゃったから、唯先輩達に会えるの楽しみです!
二人とも今日は来てくれるんですよね?」
こいつ誤魔化した。
焦って誤魔化した。
いや、まあ、別にいいけど。
それに唯達が学校に来てくれるか気になるのも本音ではあるんだろう。
誤魔化して振ってきた話題ではあるけど、
そう言った梓の顔はやっぱりまだ不安そうに見えた。
「ああ、心配しなくても大丈夫だぞ、梓。
昨日ちゃんと確認しといたしさ」
言いながら、私はポケットから自分の携帯電話を取り出す。
テレビや電話を含め、電波障害は昨日の夕方辺りには無くなっていた。
紀美さんの言葉じゃないけど、多分、電波職人さんのおかげなんだろう。
まあ、本当に電波職人さんのおかげかどうか分かんないし、
そもそも電波職人さんってどんな仕事の人達の事を指すのか不明だけど、
とにかく電波の復旧に関わってくれた人がいるなら、その全員に感謝したい。
ただ、電波が復旧したとは言っても、電話が繋がりにくい状態には変わりがなかった。
そんな状態で唯達に連絡を取るのも、いつ切れるか不安でもどかしいだけだ。
だから、私は電波の繋がりがよさそうな時間を見計らって(単なる勘だけど)、
唯と澪に梓の悩んでたのはキーホルダーを失くしたからだったって事、
でも、私達が梓と話し合って、その梓の不安をどうにか晴らしてやれた事、
その二つの用件だけを簡潔に書いた短いメールを出した。
詳しい事は直接会って話せばいい事……、
いや、直接会って話した方がいい事だからな。
唯と澪もその私の気持ちを分かってくれたのか、
私の送信からしばらく後に二人から短い返信が届いた。
返信の内容は『ありがとう。明日は絶対学校に行くから』って、二人とも大体そんな感じだったかな。
だから、大丈夫。梓が不安になる必要はない。
二人とも約束を守ってくれるタイプなんだし、
形や対応はそれぞれ違ってても、梓の事を心配してたのは確かなんだから。
「心配するなって。
大体、まだ十時にもなってないじゃんか。
今日早く目が覚めちゃったからって、私達が来るのが早過ぎただけだよ。
ほら、昨日唯達からのメールもしっかり届いてる」
私は唯達からの返信メールを開いて、隣に座ってる梓に見せる。
受信メールを人に見せるなんて本当はマナー違反だけど、
不安になってる梓になら唯達もきっと許してくれるだろう。
梓もマナー違反だって事は分かってるんだろう。
申し訳なさそうな顔をしながら、
私の見せたメールを早々と読んで、すぐに私の携帯から目を逸らした。
「すみません、律先輩。
先輩達の事を信じるって言ったのに、まだ不安がっちゃって。
駄目ですよね、こんなんじゃ……」
「心配するなって言ってるだろ?
唯達がキーホルダーや今までの態度の事で梓を怒るとは思わないけど、
万が一おまえを怒るようなら私も一緒に謝るよ。
部員の不祥事は部長も謝るのが筋ってもんだしさ。
それに謝るのは慣れてんだよな、私」
「それ自慢になってませんよ、律先輩……。
でも、ありがとうございます。
もう……、大丈夫です。
唯先輩も澪先輩も優しいから、私を怒らないんじゃないかって思います。
だけど、私、しっかり謝りたいです。
よりにもよってこんな時に、迷惑掛けちゃったのは確かですから。
だから、謝らないといけないって思います。心から謝りたいんです。
それでやっと、私……、また軽音部の部員に戻れるんだって、そう思います」
そこまで決心できてるんなら、大丈夫だろう。
私は強い光を灯した梓の瞳を見つめながら、軽く微笑んで頷いた。
誰だって自分の失敗を認めて、謝るのは不安になる。
私だって梓と同じ不安を胸に抱えてる。
私もこれから澪に会って、謝らなきゃいけないからな。
とても不安で、今にも逃げ出したいけど……、
でも、梓も私も逃げないし、逃げたくない。
それこそ私達が私達のままでいるために必要な事だからだ。
何となく視線をやってみると、
いつの間にか素に戻っていたムギが真剣な目を私達に向けていた。
これから謝らなきゃいけない私達を見守っててくれるつもりなんだろう。
ありがとな、と胸の内だけでムギに囁いて、私もこれからの事に覚悟を決めた。
急に。
手に持った携帯のバイブが振動し始めた。
突然の事に驚いた私は、少し焦りながら携帯の画面を確認するとメールが一件届いていた。
覚悟を決めたばかりで情けないけど、こういう不測の事態くらいは焦らせてくれ。
急に鳴ったら焦るだろ、普通。
まあ、それはともかく。
当然の事だけど、確認してみた画面には見慣れた名前が表示されていた。
それは問題なかったんだけど、その差出人のメールの内容が問題だった。
いや、別に不自然な事が書いてあるわけじゃない。
メールの内容自体は誰でも一度は受けた事があるはずの内容だ。
でも、そのメールは不自然だったんだ。
結構長い付き合いになるけど、
あいつからこんな内容のメールを受け取るのは私も初めてだった。
特に傍に梓が居る事が分かってるはずなのに、
私だけにこんなメールを送って来るなんて、不自然を通り越して不審なくらいだ。
一体、どうしたっていうんだよ、あいつは……。
その不審なメールの差出人は唯。
メールの内容は『今から三年二組の教室で二人きりで会いたい』というものだった。
○
三年二組……、つまり私達の教室に私が足を踏み入れた時、
唯は自分の席に座って、ぼんやりと窓の外の風景を眺めていた。
普段なら駆け寄ってたと思うけど、
今日に限って私はそんな唯の近くまで駆け寄れなかった。
ぼんやりとした唯の表情が妙に印象に残ったからだ。
いや、こいつがぼんやりしてるのはいつもの事なんだけど、
今日の唯のぼんやりはいつものぼんやりした表情とは違う気がした。
上手く言えないけど、何処となく大人びた雰囲気を見せるぼんやりって言うか……。
気だるげな大人の女の雰囲気を纏ってるって言うか……、とにかくそんな感じだ。
いつだったか唯の言った言葉を不意に思い出す。
「私を置いて大人にならないでよ」って、確か唯は前にそう言っていた。
マイペースで子供っぽい唯らしい言葉だって、その時は思ったもんだけど……。
何だよ……、おまえの方こそ私を置いて大人っぽくなってんじゃんかよ……。
ちょっと悔しい気持ちになりながら、私はゆっくりと唯の席の方に歩いていく。
勿論、唯が大人になるのは喜ばしい事なんだけど、
もう少しだけでいいから、私に面倒を見られる子供な唯のままでいてほしいって思う。
いや、本音はそうじゃないか。
子供だろうと、大人だろうと唯は唯だ。
唯がどう変わろうと、私はそれを受け止めたい。
それでも嫌な気分になってしまうのは、
世界の終わりが近いこの時期に、生き方を変えてほしくないっていう私の我儘なんだろう。
変わらなきゃ人は生きていけない。
特に自分の死を間近に感じたら、その死を覚悟できる自分に変わろうとする。
だけど……、それは違う。少なくとも私は違うと思う。
だから、大人びた唯の雰囲気に、私は不安になっちゃうんだろう。
「あ、りっちゃん」
私が唯の前の和の席にまで近付いて、
やっと私に気が付いた唯がいつもと変わらない高めの明るい声を出した。
何となく安心した気分になった私は、
後ろ向きに和の椅子に座ってから手を伸ばし、唯の頬を軽く抓る。
「よ、唯。一日ぶりだな。
って、いきなり呼び出すなよな。びっくりするだろ」
「ごめんね、りっちゃん。
私、りっちゃんと二人きりで話したい事があったんだ。
だから、教室に来てもらおうって思ったんだけど……、迷惑だったかな?」
「別に迷惑じゃないし私はいいんだけど、
梓とムギを誤魔化して出てくるのは、大変だったし心苦しかったぞ?
……どうしても、私と二人きりじゃないと駄目だったのか?」
私が言うと、唯は寂しそうに「うん」と頷く。
いつも楽しそうな唯の寂しそうなその顔は、私の胸をかなり痛くさせた。
一年生の初め、軽音部に入部して以来、唯はいつも楽しそうに笑っていた。
どんなピンチや辛い事も、唯が笑顔で居てくれたから楽しく乗り越えられた。
『終末宣言』の後も、世界の終わりなんてそっちのけで、唯は明るい笑顔を私達に向けてくれていた。
私はそんな唯に呆れながら、同時に憧れてた。
マイペースに生きられる唯が羨ましかったんだ。
今、澪へ伝えようと思ってる答えも、変わらない唯が居たからこそ出せた答えでもある。
だから、大人びた表情の、寂しげな唯を見てると私の胸は痛くなる。
寂しそうな表情のままで、唯は小さく続けた。
「あずにゃんが悩んでたのって、京都のお土産の事だったんだよね……?」
京都のお土産……、つまり、梓が失くしたキーホルダーの事だ。
昨日、私がメールで伝えてから、唯はずっとその事を気に掛けてたんだろう。
唯が寂しそうな顔をする理由は、多分それ以外に無い。
「そうだよ」と頷いてから、私は唯の顔から指を放して続ける。
「最近、梓がずっと悩んでたのは、
メールでも伝えたけどキーホルダーを失くした事だったんだ。
こんな時期にどうしてそんな事で悩んでるんだ。
どうして早く私達に伝えてくれなかったんだよ。
って、思わなくもなかったけど、あいつの気持ちも分かるんだよな。
世界の終わりを目前にして、梓はこれ以上何かを失くしたくなかったんだよ。
世界の終わりまでは、変わらない自分と私達のままで居たかったんだ。
だから、少しの変化が恐かったんだと思うし、梓自身もそういう事を言ってた。
唯もあまり責めないでやってくれよ」
「責めないよ。
あずにゃんの気持ち、私にも分かるもん。
私だって、あのキーホルダーを失くしたらすごくショックだと思うし、
こう見えても、おしまいの日の事を考えると不安になってるんだよ?
そう見えないかもしれないけどね。
だから、あずにゃんの不安と悩みが分かるし、その悩みが晴れて本当によかったよ」
「おしまいの日……ね」
確かめるみたいに呟いてみる。
唯は終末の事を『おしまいの日』と呼んでいる。
不謹慎な気もするけど、何だか唯らしい可愛らしい呼び方だ。
そういえば憂ちゃんも、終末を『おしまいの日』って呼んでたはずだ。
平沢家ではそう呼ぶようにしてるのかもしれない。
考えてみれば、それぞれに思うところがあるのか、
私の周囲でも皆が終末を色んな名前で呼んでる気がするな。
まず私は単純に『世界の終わり』って呼んでる。
それは終末って非現実的な言葉に抵抗があるからでもあるけど、
もっと言うとそんな言葉を口に出す事自体が気恥ずかしいからだ。
だって、『終末』だぞ?
『終末』なんて、漫画やアニメ以外で聞く事はまずない。
後は宗教的な本や番組なら言ってるかもしれないけど、それにしたって日常的な話じゃない。
そんな言葉、普段の生活で簡単に口に出せるかっつーの。
そりゃたまには言わなくもないけど、日常会話としてはあんまり使いたくない言葉だ。
世界の終わりをちゃんと『終末』って呼んでるのは、私の周りじゃ和と澪に梓か。
皆、どっちかと言うと、生真面目なタイプだから、正式名称で呼んじゃうんだろう。
性格が出てて、ちょっと面白い。
ムギはどうだったかな……?
えっと……、確か『世界の終わりの日』って呼んでたはず。
私とほとんど同じだけど、ムギの呼び方の方が何だかムギらしい。
単にムギの口から終末って言葉が出るのが、似合わな過ぎるだけかもしれないけど。
特殊な呼び方は純ちゃんだ。
純ちゃんは『終焉』って呼んでた。
私の部屋で話をしてる時に何度もそう呼んでたから、私の耳が覚えちゃってる。
その度に妙にお洒落な呼び方だなと思ってると、梓が隣から私に耳打ちしてくれた。
どうやら純ちゃんは最近そういうゲームをプレイしたらしく、
『終末宣言』が発令されてからずっと終末を『終焉』って呼んでるんだそうだ。
漫画好きで影響されやすい純ちゃんっぽくて、何だか安心する。
確かそのゲームはオーディン何たらってゲームらしいけど、まあ、それは別にいいか。
「りっちゃん……?」
妙に長く考え事をしてしまったせいか、唯が私の顔を覗き込みながら訊ねてきた。
「悪い。何でもない」と言ってから、私は唯の頭を撫でた。
唯が寂しそうな顔をしてる時に悪いんだけど、私は少し安心していた。
安心したせいで、ちょっと余計な事を考える余裕もできたんだろう。
安心できたのは、唯の悩みが世界の終わりの事じゃなく、梓の事だって気付いたからだ。
今の唯の顔は、卒業を目前にして梓の事を考える先輩の顔だって気付けたから。
もしも世界の終わりが無かったとしても、
普通の日常生活で起こったかもしれない悩みと寂しさを唯が抱えてるんだって。
だから、私は安心できてるんだ。
後はその安心を唯にも分けてあげればいいんだ。
少しだけ強く、私は唯の頭を撫でる。
「責めないでやってくれってのは、梓の事だけじゃないよ、唯。
自分の事も責めるなって事だ。
唯は梓の悩みを晴らすその場に居れなかった自分に罪悪感を抱いてんだろ?
梓の悩みに気付けなかった自分に、寂しさを感じてるんだろ?
そんな寂しさを唯が感じてるってだけで、梓は十分嬉しいと思うぞ?」
「でもでも……、昨日私はあずにゃんより憂の事を優先しちゃったし……。
あずにゃんの悩みがキーホルダーの事だったなんて、全然気付けなかったし……。
りっちゃんみたいに、あずにゃんを慰められなかったし……。
あずにゃんの事が大好きなのに、私、何もできなくて……」
「昨日、憂ちゃんと一緒に居たのは、
今日からの残り三日を梓の悩みを晴らすために使ってあげるためだったんだろ?
そんなおまえを責められる奴は、おまえ自身を含めていちゃ駄目だよ。
梓もそれを分かってるし、私の部屋でもずっとおまえの事を気に掛けてた。
前に一度、梓の落としたキーホルダーが戻って来た事があっただろ?
憶えてるか?
おまえが梓の名前を書いたシールを、キーホルダーに貼ってた時の事だよ。
梓はあのシールをはがした事をすごく後悔してた。
あのシールをはがさなきゃ、また自分の所に戻って来たかもしれないのにって。
勿論、シールを貼ってたからって戻って来るとは限らないけど、
おまえのおかげで戻って来たキーホルダーなのに、
それをもう一度落としてしまった事を、梓はすごく申し訳なく思ってた。
一度取り戻せたものをもう一度失くすなんて、そんな辛い事は無いからさ。
だからさ……、二人してお互いの事を考えて、自分を責め合うのはやめようぜ?
梓はおまえに会いたがってたし、おまえだって梓の事が大好きなんだろ?
だったら、大丈夫だよ」
「りっちゃん……」
言いながら、唯が真剣な顔で私の方を見つめる。
その表情からは寂しさが少しずつ消えているように見えた。
寂しさの代わりに、決心が増えていく感じだ。
「りっちゃんはすごいなあ……」
不意に唯が呟いた。
いつもは私をからかうために使われる言葉だけど、
今回ばかりはその意味は無いみたいに見えた。
「すごいか、私?」
「すごいよ。
あずにゃんの悩みの原因に気付いちゃうし、私の事だって慰めてくれるもん。
流石はりっちゃん部長だよね」
「そう言ってくれるのは嬉しいけどさ、梓の悩みの原因に気付けたのは偶然だよ。
本当にたまたま、運が良かったから気付けただけだ。
梓の悩みの原因がキーホルダーの事だったなんて、私も思いも寄らなかったもんな。
唯が居ない間に梓の悩みを晴らしてやれたのも、単にタイミングの問題だと思うよ。
唯は運悪くタイミングが合わなかっただけだ」
「でも、やっぱりすごいよ。
もしも何かのきっかけで私があずにゃんの悩みの原因に気付けてたとしても、
そんなあずにゃんをどうすれば支えてあげられたか、全然分かんないもん」
「だから、そうじゃないよ、唯。
私はたまたま軽音部を代表しただけだと思う。
もしもその場に居たのが私じゃなくて唯だったら、
もっと上手く梓を支えてやれてたんじゃないかな。
勿論、ムギはムギで、澪は澪でそれぞれがそれぞれの方法で梓を支えたはずだよ。
私もあれで本当によかったのか分からないしな」
役不足って言われたし、とは私の胸の内だけで囁いた。
実はまだ梓の言葉の真意は分かってない。
そういや純ちゃんに役不足の意味を聞くのを忘れてたしな。
辞書で調べるのもすっかり忘れてた。
私じゃ梓の悩みを晴らすのには役不足だから(頼りないから)、
梓自身がしっかりしなきゃいけないと思ったって事でいいのかな……。
しずかちゃんがのび太を放っておけないから結婚してあげた的な感じか?
うわ、そう考えると、私って物凄く格好悪いじゃんか……。
自分自身の格好悪さに苦笑しながら、私は続ける。
「だから、自分を責めなくてもいいんだよ、唯。
おまえならきっと私よりも上手く梓を支えてやれる。
自信を持てって。梓はきっとおまえの事が大好きだよ」
それは誤魔化しも嘘偽りも無い私の本音だった。
私も梓の事を大切に思ってるけど、
多分、唯ほど梓の事を深く思ってやれてはいないと思う。
梓も役不足な私より、唯と会えて話せた方がきっと喜ぶはずだ。
それから、唯は私を真顔でしばらく見つめていて、
少しずつその表情が崩れて来て……、急に頭を掻きながら照れ笑いを浮かべた。
「でっへっへー。そうかなあ。
あずにゃん、私の事大好きかなあ。
いやはや、お恥ずかしい」
「立ち直り早いな、オイ!」
即座に私がチョップで突っ込むと、
唯は照れ笑いを浮かべたまま頬を膨らませた。
「えー……。
りっちゃんが自分に自信を持てって言ったんじゃん。
それとも、りっちゃんは私がずっと悩んでる方がよかったって言うの?」
「いや……、そうは言わんが……」
唯が元気になったのは嬉しいが、どうにも拍子抜けを感じるのも確かだった。
これまで梓達と長く話し合ってきただけに、余計にそう感じる。
でも、まあ、唯はそれでいいのかもしれない。
笑ったり、泣いたり、怒ったり、瞬く間に表情が変わる唯。
あまりにも簡単に表情が変わるから真意を掴みにくいけど、実はその全部が嘘じゃない。
唯は感情を誤魔化したりせず、そのまま受け止めて、そのまま表現してるだけなんだ。
自分の思ったままに、自然に生きてる。
それは簡単なようで、どんなに難しい事かを私は知ってる。
だから、皆、唯の事が眩しくて、好きなんだと思う。
勿論、私もそんな唯の事が大好きだ。
私は苦笑しながら、唯にチョップした手をノコギリみたいに前後に動かす。
「ま、いいや。
唯が立ち直ったんなら、私としても万々歳だよ。
その調子のままで早く梓に会いにやってやれよ。
あいつ、喜ぶぞ。勿論、ムギも。
ムギも唯と会いたがってたからさ」
「あいよー、りっちゃん!」
選手宣誓みたいに腕を上げて、元気よく唯が微笑む。
出会った頃から変わらない、世界の終わりを間近にしてもまだ変わらない逞しい笑顔。
この笑顔に私達は騙されてるんだよな。
唯の失敗や天然に困らせられる事もそりゃ多いけど、
この笑顔を見せられると別にいいかって思わせられてしまう。
特に長く唯の傍に居るだけに、和や憂ちゃんは私よりも強く騙されてるんだろうな。
でも、それもそれでよかった。
唯は騙すつもりもなくただ笑顔になって、私達はそんな唯の笑顔に騙されて、それでいいんだと思う。
それが私達の関係なんだ。
「そういえば、りっちゃん……」
急に真剣な表情に変えて、妙に深刻そうに唯が呟いた。
突然の事に気圧されそうになりながらも、私は唯の真剣な瞳を正面から見つめて訊ねてみる。
「どうしたんだ、唯?」
「さっきのりっちゃんの話の中で、
一つだけ気になる所があったんだけど……」
「私、何か変な事言ったっけ?」
「あずにゃんがりっちゃんの部屋で、私の事を気に掛けてたって言ってたでしょ?
りっちゃんの部屋……って?
あずにゃん、りっちゃんの家に来たの?」
「あー……」
妙な所で耳聡い奴だ。
聞き流してもいい所だったと思うけど、唯にとっては聞き逃せない話なのかもしれない。
そういえばメールで梓が家に泊まった事は書いてなかったしな。
別に隠さなきゃいけない話でもないし、私は正直に唯に説明する事にした。
「いや、昨日、梓が私の家に泊まりに来たんだよ。
私が誘ったからってのもあるけど、梓も私と話したい事がまだまだあったみたいでさ。
キーホルダーの事で、この一週間、ろくに話もできなかったしな。
だから、少しでもその時間が取り戻せればって、私も思ってさ。それで……」
「ずるいよ、りっちゃん!」
「いや、ずるいっておまえ……」
「私だってまだあずにゃんとお泊まり会なんてした事ないのにー!
しかも、『私の部屋』って事は、りっちゃんの部屋に泊まったって事だよね?
ずるいずるい! 私も私の部屋であずにゃんとお泊まり会したいー!
あずにゃんとパジャマパーティーしたいー!
あずにゃんとパジャマフェスティバルしたいー!」
「落ち着け」
軽音部で梓と一番仲がいいのは多分唯だ。
それを考えると、梓は誰より先に唯の部屋にこそ泊まりに行くべきだったんだろう。
実際に梓は、憂ちゃんの部屋には何回か泊まりに行った事があるらしい。
ただ唯のこの様子を見ると、梓じゃなくても唯の部屋に泊まるのは若干躊躇うな。
何をされるか分からんぞ。
その意味では、梓は賢明だったとも言えるかもしれん。
念のため、私は唯にそれを訊ねてみる。
「一つ訊いておくが、
その梓とのパジャマフェスティバルとやらで何する気だ」
「別に何も変な事はしません!
猫耳付けてもらったり、お風呂に一緒に入ったり、
私のベッドで一緒に寝たりしてもらうだけなのです!」
「それが既に変な事だという事に気付こう」
「えー……。
憂にはたまにやってもらってる事なのに……」
「そうか……。
おまえと憂ちゃんの関係に関してはもう何も言わんが、それを梓に求めるのはやめてやれ。
妹と後輩は違うものだからな。
違うものに同じ行為を求めるのは、お互いを不幸にするだけだぞ……」
「りっちゃんが珍しく知的な発言をしてる……」
「珍しくとは何だ!」
少し声を強くしてから、私は両手で唯の頬を包み込む。
それから指で唯の頬を掴むと、
「おしおきだべー」と言いながら外側に力強く引っ張った。
「いひゃい、いひゃいー……!
ごへんなさいー……!」
そうやって痛がりながらも、唯の表情は笑っているように見えた。
私が両側に頬を引っ張ってからでもあるんだけど、
それを前提として考えても、やっぱり唯の顔は嬉しそうに微笑んでるように見えた。
唯をおしおきしながら、私も気付けば笑顔になっていた。
これが軽音部なんだよなあ……、って何となく嬉しくなってくる。
いや、世間一般の軽音部とは大幅に違ってるとは思うけど、
こういうのこそが私達で作り上げた、私達だけの軽音部なんだ。
「もーっ……。
ひどいよ、りっちゃん。
お嫁に行く前の大切な身体に何してくれるの?」
十秒くらい後に頬を指から解放してやると、
唯は自分の頬を擦りながら軽い恨み事を口にした。
「心配するなって。
四十過ぎてもお嫁に行けてなかったら、私が責任取ってやるよ」
「えっ、りっちゃんがお嫁に貰ってくれるの?」
「いや、聡に嫁がせてやる。
そして私は小姑として、田井中家嫁の唯さんをいびってやるのだ。
あら、唯さん。このお味噌汁、お塩が濃過ぎるんじゃありませんこと?」
「りっちゃんの弟のお嫁さんか……。
それもありかもー」
「ありなのかよ!」
「いやー、りっちゃんの家族になるのって何か楽しそうだしー。
それに、そうなると私がりっちゃんの妹になるんだよね?
りっちゃんの事をお姉ちゃんって呼ばなきゃだよね。
ね、お姉ちゃん」
「自分で振っといて何だが、もうこの話題やめにしないか。
何つーか、それ無理……。
唯にお姉ちゃんって呼ばれるとか、正直無理……」
「あっ、お姉ちゃん、赤くなってるー」
「だから、やめい!」
また私が軽くチョップを繰り出すと、
唯が楽しそうに笑いながら頭でそれを受け止める。
もう何が何やら……。
色々と悩んでた事もあったはずだけど、
軽音部の仲間と居ると、特に唯と居ると悩みが何もかも吹き飛んじゃう感じだ。
簡単に言うと唯が空気を読めてないだけなんだろうけど、
世界の終わり直前の空気ってのは本当は読む必要なんてないのかもしれない。
唯と居るとそんな気がしてくるから不思議だった。
私は溢れ出る笑顔を止められないまま、笑顔で続ける。
「もういいから、早く音楽室に行こうぜ。
梓もムギもそろそろ待ちくたびれてる頃だよ。
それに心配しなくても大丈夫だぞ、唯。
昨日は別に梓と二人きりでパジャマフェスティバルをしたわけじゃないんだ。
ムギと純ちゃんも泊まりに来て、四人でお喋りしてたんだよ。
梓と二人きりのパジャマフェスティバルは、今度おまえが存分にやればいい」
「そうなんだ……。
それもちょっと残念かなー。
あずにゃんとりっちゃんが、
私の知らない所でラブラブになったのかと思って楽しみにしてたのに……」
「おまえは一体、何を求めてるんだ……。
まあ、とにかく、そんなわけで早く戻ろうぜ。
私なんか誤魔化して出て来ちゃったわけだから、そろそろ不審に思われてるだろうしさ」
「そういえば、どうやって誤魔化して出て来たの?」
「『そろそろ唯か澪が来る頃だろうから、ちょっと校門まで見に行ってくる』ってさ。
澪はまだ来てないけど、今からおまえと一緒に戻れば嘘にはならないだろ。
過去を捏造する事で有名な私ではあるけど、
ネタ無しでの誤魔化しや捏造は意外と心苦しいんだよ。
私ってば結構善良で臆病な小市民だからさ」
「どうもご迷惑をお掛けしました、りっちゃん隊長」
「分かればよろしい、唯隊員」
「あ、でも、迷惑掛けついでに最後に一つだけ訊きたいんだけど、いいかな?」
「何だね、唯隊員」
「あずにゃん、どうやって納得してくれたのかなって。
キーホルダーを失くして、一週間も捜し回ってて、
そのキーホルダーはまだ見つかってないんだよね?
でも、あずにゃんはりっちゃんのおかげで、キーホルダーを失くした悩みが解決したんでしょ?
私、それを一番聞きたくて、りっちゃんに教室に来てもらったんだ……」
そう言った唯の表情は、今まで見た事が無いくらいに真剣だった。
一番聞きたかったってのも、本心からの言葉なんだろう。
だったら、私にできるのは唯の言葉に真剣に答えてやる事だけだ。
「別に私のおかげじゃないよ、唯。
梓は私達を信じてくれたんだ。言葉に出すのは少し照れ臭いけど、私達の絆ってやつをさ。
梓はキーホルダーっていう形のある思い出じゃなくて、
形が無くて目にも見えない私達の思い出や絆を信じてくれる気になってくれたんだ。
私は梓がそれを信じられるように、ほんの少し梓の背中を押してあげただけ。
その絆を私自身も信じようと思っただけなんだ。
私にできたのはそれだけの事で、それを信じられたのは梓自身が強かったからだよ」
「そっか……。
でも、それならやっぱりあずにゃんが安心できたのは、りっちゃんのおかげだよ。
形が無いものを信じさせてあげられるなんて、すごく大変な事だよ?
やっぱり、りっちゃんはすごいなあ……。流石は部長だよね……。
だって……」
「だって……?」
私が呟くと、唯は机に掛けていた自分の鞄の中にゆっくりと手を突っ込んだ。
それから鞄の中にある何かを探し当てると、おもむろにそれを私に手渡した。
何かと思い、手渡されたそれに私は視線を向ける。
「写真……か?」
自分自身に確かめるみたいに呟く。
いや、確かめるまでもない。唯が私に手渡したのは、確かに写真だった。
軽音部の皆が写った一枚の写真。
写真を撮るのが好きな澪が所属してる我が軽音部だ。
部員の皆が写った写真は別に珍しくも何ともないけど、その写真は何処か不自然な写真だった。
その写真の中では、私だけ前に出てておでこしか写ってなくて、唯、澪、ムギは後ろで三人で並んでいる。
勿論、部員皆の写真なんだから、梓もその写真の中に居た。
でも、その梓の姿だけが不自然に浮いている。
空気や雰囲気的な意味で浮いてるんじゃなく、梓の上半身だけが本当の意味で宙に浮いていた。
別に心霊写真ってわけじゃない。
私達四人が写った写真に、別撮りの梓の写真を貼り付けてるってだけの話だ。
つまり、単純な合成写真ってやつだ。
「私ね……」
私がじっくりとその写真を見つめていると、不意に唯が囁くみたいに喋り始めた。
「昨日、憂とその写真を作ったんだ……。
あずにゃんの悩みが何なのかは分からないけど、
離れてたって私達はずっと一緒だよ、ってそれを伝えようと思って……。
別々に撮った写真でも、こんな風に一緒に居られるみたいにねって。
でも、この写真、もう無駄になっちゃったかな……?」
そこでようやく私は唯が寂しそうな顔をしてる本当の理由に気付いた。
自分が間違えた事を言ったとは思っちゃいないけど、
ある意味で私の言葉は失言だったのかもしれない。
私が私で梓の悩みに向き合ってる時に、
唯も別の方法で梓の悩みに向き合おうとしてた。
目指した場所は一緒だけど、二人の選んだ道は別々で、
しかも、ほんの少しのタイミングの問題で、
私の選んだ道が梓の悩みを晴らしてあげられる結果になった。
梓が形の無い絆を信じてくれる結果になった。
唯の選んだ道も間違っていないのに、
結果的には唯の選んだ方法は私と正反対になってしまっていたんだ。
だから、唯はほんの少し寂しそうなのかもしれない。
私を羨ましく思ってしまうのかもしれない。
でも、羨ましいと思ってしまうのは、私も一緒だ。
私は手を伸ばして、唯の頬を軽く撫でる。
「何言ってんだよ、唯。
思い出の品が必要なくなっちゃうなんて、そりゃ極論だろ。
形の無いものを信じるのは大切な事だけどさ、形があるものだって大事だよ。
何のためにお土産があるんだ。何のために世界遺産は残ってるんだ。
自分達のしてきた事を形として残したいからじゃんか。
自分達の思い出を目に見える形にしておきたいからじゃんか。
私達だって、旅行先だけじゃなく、
撮る必要がほとんど無い時でもたくさん写真を撮ってたのは、
思い出を形にしておきたかったからだろ?
色んな事を忘れたくなかったからだろ?
だからさ、おまえの作った写真は無駄にはなんないよ。
梓もきっと喜ぶ。
キーホルダーの代わりってわけにはいかないだろうけど、
新しいおまえとの絆として大切にしてくれるよ」
「でも……、ううん、そうだよね……。
あずにゃん、喜んでくれるよね……。
ごめんね。私、りっちゃんの事が羨ましかったんだ。
私が考えてたのより、ずっと素敵な方法であずにゃんを支えてあげられるなんて、
すっごく羨ましくて、ちょっと悔しかったんだ……。
あずにゃんの事、ずっと見て来たつもりだったのに、
あずにゃんの事でりっちゃんに先を越されちゃったから……。
それが悔しくて、それを悔しがっちゃう自分が、何だか一番悔しかったんだよね……。
ごめんね、りっちゃん……」
「馬鹿、私だっておまえの事が羨ましかったよ、唯」
「私の事が……?」
うん、と私は唯の言葉に頷く。
選んだ道は違うけど、違うからこそ羨ましかった。
私には唯とは違う方法で梓を支える事ができた。
でも、唯は私とは違う、私には思いも寄らない方法で梓を支えようとしてた。
それが羨ましくて、ちょっと悔しくて、とても嬉しい。
「特に何だよ、おまえ。
こんな写真作っちゃってさ……、カッコいいじゃんかよ。
何、カッコいい事やってんだよ、唯。
ホント言うとさ、私なんか、梓の前でオロオロしてただけだったんだぜ?
梓の悩みが何か分からなくて、梓の悩みを探る事ばかり考えてた。
でも、違ったんだな。他の方法もたくさんあったんだよな。
梓の悩みが何なのか分からなくても、
おまえみたいな方法で支えてやる事だってできたんだ。
新しい思い出で、悩みを一緒に抱えてやる事だって……。
私はそれを思い付かなかった自分が悔しいし、それを思い付けたおまえが羨ましいよ。
だから、お相子だな。
私もおまえも、自分にできない事をしたお互いが羨ましいんだ。
悔しい事は悔しいけどさ、今はそれを嬉しく思おうぜ。
二人とも梓の事を真剣に考えて、別々の解決策を見つけられたんだからな。
それってすごい事じゃないか?」
「すごい……かな。
ううん、すごいよね。
後輩を助けてあげられる方法を先輩が別々に二つも思い付くなんて、
そんなに大切に思われてるなんて……、あずにゃんの人徳ってすごいよね!」
「そっちかよ。
……でも、確かにそうだな。
生意気だけどさ、そんなあいつが大切だから、私達も一生懸命になれたんだよな。
あいつが居なきゃ、私も私でいい部長を目指せなかったかもしれない。
その意味では梓に感謝しなきゃな」
「りっちゃんは最初から私達の素敵な部長だよ。
勿論、澪ちゃんやムギちゃんも素敵な仲間だもん。
やっぱり軽音部のメンバーは誰一人欠けちゃいけない素敵な仲間達だよね」
「あんがとさん。
おまえこそ、素敵な部員だよ、唯。
そもそもおまえが居ないと軽音部は廃部になってたわけだしな。
そういう世知辛い意味でも、私達は誰一人欠けちゃいけない仲間だ」
「それを言っちゃおしまいだよ、りっちゃん……」
笑いながら「まあな」と言って、唯に手渡された写真にまた目を下ろす。
いつ撮った写真かは思い出せないけど、若干写真の中の私達の姿が今よりも若く見えた。
大体、梓抜きで集合写真を撮る事なんて、
二年生になってからはほとんどなかったはずだから、
この写真は私達が一年生の頃に撮った写真なんだろう。
合成された梓の写真も多分梓が一年生の頃の写真に違いない。
いや、梓の写真の方は自信が無いけど。
梓ってば、中身はともかく、外見が全然変わってないからなあ……。
しかし、それより気になるのは写真の中の私の姿だ。
唯達は並んで仲睦まじそうに写ってるのに、何故だか私だけおでこしか写っていない。
いや、前に出過ぎた私が悪いのは分かってるけど、何となく納得がいかなかった。
私は腕を組み、頬を膨らませながら唯に文句を言ってみる。
「ところで唯ちゅわん。
どうして私だけ顔も写ってないこんな写真を選んだのかしらん?
もっと他にいい写真があったんじゃないのかしらん?」
「えー、いいじゃん。
だって、この写真が一番私達らしいって思ったんだもん。
りっちゃんだって、一番りっちゃんらしく写ってるよ?」
「私らしい……か?」
「うん!」
自信満々に唯が頷く。
その様子を見る限り、少なくとも冗談でこの写真を選んだわけじゃなさそうだ。
「りっちゃんらしい」って、そう言われちゃ私の方としても何も言えなくなる。
恥ずかしながら、確かに私らしいとは自分で思わなくもないし……。
仕方が無い。
唯だって真剣にこの写真を選んだんだろう。
納得はいかんが、これが私達らしい姿だってんなら、私もそれをそのまま受け入れよう。
でも、まだ納得できない……と言うより、もう一つだけ分からない疑問が残っていた。
「それで、唯?
何でこの写真は私達が一年生の頃の写真なんだ?
梓の写真はいいとして、私達が一年の頃の写真じゃなくても他に色々あっただろ?」
「分かってないね、りっちゃん。
これはね、私達とあずにゃんが違う学年で産まれて来ちゃって、
学校で同じ行事を過ごす事はできなかったし、私達が先に卒業もしちゃうけど……。
だけど、学年は違っても、
この写真みたいに心は一緒に居る事ができるからって、
いつまでも仲間だからって、そういう意味を込めて作った写真なんだよ」
「おー、すげー……」
「……って、憂が言ってました!」
「私の言ったすげーを返せ!」
声を張り上げながら、私は妙に納得もしていた。
考えてみれば、憂ちゃんも梓と同じく後に残される立場だ。
妹だから当たり前だけど、憂ちゃんは梓以上に何回も唯に取り残されてきたんだ。
その寂しさを知ってる憂ちゃんだからこそ、
梓の事を心配できたし、梓が一番喜ぶだろう写真の選択もできたんだろうな。
まったく……、梓の奴が何だか羨ましいな。
憂ちゃんにも純ちゃんにも心配されて、
軽音部の皆から気に掛けられて……、それだけ誰からも大切にされてるって事なんだろうな。
私は少しだけ苦笑して、手に持っていた写真を唯に返す。
「さ、そろそろ本当に帰ろうぜ。
その写真、早く梓に渡してやれ。きっと喜ぶぞ。
憂ちゃんが言ってた云々は……、まあ、おまえが言いたければ言えばいいんじゃないか。
色々と台無しな気もするが、それはそれで唯らしいしな」
言ってから、私は和の席から立ち上がろうとして……、
急に唯に制服の袖を引かれた。
何かと思って目をやると、
「ほい」と言いながら唯が写真を私にまた渡そうとしていた。
「何だよ、私にその写真を梓に渡させる気か?
そんなの駄目だよ。
おまえ自身が梓に手渡す事に意味があるんだからさ」
諭すみたいに私が言うと、急に真剣な表情になった唯が頭を横に振った。
その唯の表情はこれまでのどの表情よりも寂しそうに見えた。
「違うよ、りっちゃん。
あずにゃんに渡す写真はちゃんとあるから大丈夫。
憂がパソコンで何枚も作ってくれたから、あずにゃんにはそっちを渡すよ。
だからね、その写真はね……、りっちゃんのなんだよ?」
「私……の……?」
「りっちゃんも私達の仲間でしょ?
それとも……、私達といつまでも仲間で居たくない?
高校生活が終わったら……、
ううん、おしまいの日が来たら、私達の仲間関係はおしまいになっちゃうの?」
「そんな事……、あるわけないだろ……?
私達はいつまでも仲間だよ、唯……」
「……だよね?
だから、私はりっちゃんにもこの写真を持ってて欲しいんだ。
実はね、この写真、あずにゃんのためだけじゃなくて、
りっちゃんにも渡したくて作ったんだよ?」
予想外の唯の言葉に、私は何も言えなくなる。
これまで考えてもなかった展開に、自分の胸の音が大きくなっていくのを感じる。
唯は寂しそうに微笑んだまま、続ける。
「りっちゃんさ……、最近、すっごく悩んでたでしょ?
あずにゃんの事もだけど、他にも多分色んな事で……。
分かるよ。最近のりっちゃん、すごく辛そうだったもん。
勿論、あずにゃんの事は心配だったけど、私はりっちゃんの事も心配だったんだ。
あずにゃんと同じくらい、りっちゃんの事も大切だから……」
別に嫌われてると思ってたわけじゃないけど、唯の発言は衝撃的だった。
唯は一緒に居ると楽しくて、すごく大切な友達だけど、
そんな風に考えていてくれるなんて思ってなかった。
私の事をそんなに見てくれてるなんて、考えてなかった。
考えるのが恐かった。
だって、そうだろ?
仲がいいと思ってる友達の中での自分の位置がどれくらいかなんて、恐くてとても考えられない。
だから、私はその辺について深く考えないようにしてた。
梓の件でだって、例え梓に嫌われてても、自分が梓を大切に思ってればそれでいいんだと思ってた。
私が誰かの大切な存在になれるだなんて、そう思うのは自意識過剰な気がしてできなかった。
でも、唯は私の事を、私が思う以上に見てくれていた。
私の事を大切だと言ってくれた。
それだけの事で、胸の高鳴りが止まらない。
言葉に詰まる。
泣いてしまいそうだ。
そうして何も言わない私を不安に思ったのか、唯が自信なさげに呟く。
「私、軽音部の部長でいてくれたりっちゃんにすごく感謝してるんだ。
りっちゃんが居なきゃ音楽を始める事なんてなかったと思うし、
澪ちゃんや、ムギちゃん、あずにゃんやギー太とだって会えてなかったと思う。
私の高校生活、本当に楽しかったのはりっちゃんのおかげなんだ。
だからね、私はりっちゃんの事が大好きだよ。
大好きだから心配で……、とっても心配で……。
でも、今日久し振りに元気そうなりっちゃんを見られて、すごく嬉しかった。
りっちゃんは……、どう?
私にこんな風に思われて、迷惑じゃない?」
迷惑なわけがない。
でも、口を開けば泣いてしまいそうで、言葉にできない。
写真を受け取ってから私は和の席にまた座り込んで、
今にも涙が流れそうになりながらも、それでも唯の瞳だけはまっすぐに見つめる。
これだけで唯に伝わるだろうか?
泣いてしまいそうなほど嬉しい私の想いを伝える事はできただろうか?
誰からも大切に思われてないって思ってたわけじゃない。
それほど悲観的な考え方はしてないつもりだ。
でも、暴走しがちで皆に迷惑ばかりかけてる私が、こんな私が大切に思われてるなんて……。
それが、こんなにも、嬉しい。
それを気付かせてくれたのは唯だ。
唯は単純で、正直で、普通なら照れて言い出せない事でも平然と言い放つ子で……。
そんなまっすぐに感情や想いを表現してくれる子だから、唯の言葉には何の嘘も無い事が分かる。
唯以外の皆も私の事を考えてくれてるって気付ける。
私達はいつまでも仲間なんだって、確信できる。
「迷惑じゃ……ない。あり……」
やっぱり言葉にならない。
自分の想いを言葉にして伝えられない。
でも……。
唯は嬉しそうにいつもの笑顔を浮かべて、私の右手を両手で包んでくれた。
○
唯には先に部室に行ってもらって、私は少しだけ教室に残る事にした。
胸が詰まって、皆の前には顔を出せそうになかったからだ。
まだ泣いてるわけじゃないけど、ちょっとした事で大声で泣き出してしまいそうだ。
それは悲しみの涙じゃないけれど、皆の前で見せるのはちょっと恥ずかしかった。
ネタや悲しい涙ならともかく、
嬉しさから出る涙はあんまり人前で見せたいもんじゃないからな。
今頃、唯は謝る梓を笑って許して、いつもと変わらず梓に抱き付いてる事だろう。
いや、いつもとは言ってみたけど、そういえばこの一週間、唯は梓に抱き付いてない気がする。
梓が悩む姿を見せるようになってから、多分、一度も抱き付いてないはずだ。
自由に見える唯だって、空気が読めないわけじゃない。
梓が笑顔を取り戻せるようになってからじゃないと抱き付けなかったんだろう。
だから、唯は今、笑顔を取り戻した梓に存分に抱き付き、強く抱き締めてるに違いない。
これまで抱き付けなかった分、そりゃもう強く、強く……。
梓もそんな唯の姿に安心して、私と同じように嬉しさの涙を流しそうになってるかもな。
もしかしたら、唯だけじゃなく、ムギも梓に抱き付いてるかもしれない。
ムギだって梓の事を心配してたんだし、ムギが梓に抱き付いちゃいけないなんて決まりも無い。
唯が嬉しそうに梓に抱き付いてるのを見ると、私だってたまに梓に抱き付きたくなるもんな。
三人はそうして、今まで心を通わせられなかった時間を取り戻してるはずだ。
世界の終わりを間近にして、それでもギリギリでいつもの自分達を取り戻す事ができるはずだ。
できれば私もその場に居たかったけど、そういうわけにもいかなかった。
それは三人に涙をあんまり見せたくないからでもあったけど、
それ以上に私には最後に伝えなきゃいけない答えがまだあったからだ。
梓の悩みをきっかけに、私達放課後ティータイムは深く自分達の事について考えられた。
長い時間が掛かったけど、皆がそれぞれの答えを出して、
それぞれが世界の終わりに向き合って、どう生きていくか決める事ができた。
変な話だけど、梓が悩んでくれた事で、私達はまた強く一つになれたんだと思う。
だから、私がこれから伝えなきゃいけないのは、単なる個人的な問題の答えだ。
別にその答えがどんなものでも、私達が放課後ティータイムである事は変わらない。
必ず伝える必要がある答えでもない。
答えを伝えなくても、曖昧なままでも、私だけじゃなく、
あいつだって最後まで笑顔のまま、放課後ティータイムの一員でいられるはずだ。
曖昧なままで終わらせてもいい私達の最後の個人的な問題。
それはそれで一つの選択肢だけど、私はそれをしたくはなかった。
馬鹿みたいな答えしか出せてないけど、私はあいつにそれを伝えたい。
それが、私と私達が、最後まで私と私達でいられるって事だから。
だからこそ、私は教室に残ったんだ。
二人の関係にとりあえずでも、結論を出してみせるために。
予感があった。
いや、予感と言うより、経験則って言った方が正しいかもしれない。
経験則ってのは、経験から導き出せるようになった法則って意味でよかったはずだ。
その意味で合ってるとして、私はその経験則から教室に残った。
あいつは登校した後、間違いなく最初にここに来る。
部室に顔を出すより先に、私と二人きりで会おうとする。
皆の前で笑顔でいられるために、最初に私と話をしておきたいって考える。
それで何処に私を呼びだそうか考えるために、とりあえず教室に足を踏み入れるはずだ。
……って私が考えるだろう事を、あいつは分かってる。
分かってるから、今、あいつは自分を待つ私に会いに教室に向かっている。
そうして教室に向かって来るあいつを、私は待つ。
そんな風に私達はお互いが何を考えているか分かってしまっている。痛いくらいに。
だから、待つ。
心を静め、高鳴る胸を抑えて、自分の席に座ってその時をじっと待つ。
多分、その時はもうすぐそこにまで迫ってる。
それから数分も経たないうちに。
耳が憶えてるあいつの足音が近付いて、
教室の扉が開いて、
少し震えた声が、
教室に響いた。
「……おはよう、律」
ほら……、な。
私は立ち上がり、声の方向に視線を向ける。
震えそうになる自分の声を抑えながら、言った。
「よっ、澪。
……久しぶり」
○
会わなかったのは一日だけだったけれど、澪と会うのはすごく久しぶりな感じがした。
たった、一日。だけど、一日。
特に世界の終わりが近くなった一日を澪と離れて過ごすなんて、
思い出してみると気が遠くなるくらい長い時間だった。
片時も澪の事を忘れなかったと言ったら流石に嘘になるけど、
それでも、心の片隅にずっと澪が居たのは確かだし、
誰かと話してる時にもまず最初に考えてしまうのは澪の反応だった。
私がこうしたら澪はどう反応するんだろう。
私がこの言葉を言ったら澪はどんな話をし始めるんだろう。
そんな風に、何をする時でもそこには居ない澪の反応が気になってた。
そうだな。そう考えると、澪が居たのは私の心の片隅じゃない。
澪は私の心の真ん中をずっと占領していたんだ。
だから、一日会わなかっただけで、澪の存在がこんなにも懐かしいんだ。
「よっ、律……」
言いながら、澪はまず自分の席に近付いて行く。
私の「久しぶり」という挨拶については、何も突っ込まなかった。
澪も私と同じように考えているんだろう。
こう考えるのは自信過剰かもしれないけど、
多分、澪も自分が何かをしようとする時には、私の反応を気にしてくれてるはずだ。
去年の初詣だったか、私が電話を掛けると急に澪に怒られた事がある。
「今年は絶対騙されないからな」と、意味も分からず私は澪に怒られた。
澪が言ってるのがそれより更に一年前の初詣の事だと気付いたのは、結構後にムギに指摘されてからだ。
そういえば一昨年の初詣の時、
私は澪に晴れ着を着てくるのか聞いて、澪にだけ晴れ着を着させた事があった。
晴れ着を着るかと私が聞けば、真面目な澪は皆が晴れ着を着るって勘違いすると思ったんだ。
私の狙い通り、澪は一人だけ晴れ着を着て来て、恥ずかしそうにしていた。
からかうつもりがあったのは否定しないけど、
そんな事をした本当の理由は澪の晴れ着が見てみたかったからだ。
勿論、そんな事を口に出す事は、これからも一生ないだろうけど。
例え澪と恋人同士になったとしても、な。
とにかく、去年の初詣の時、澪はそういう理由で私を怒ったみたいだった。
そんな事気にせずに好きな服を着ればいいのに、澪はどうしても私の反応が気になるらしい。
「澪ちゃんはいつもりっちゃんの事を気にしてるんだよ」って、
去年の初詣前の事情を話した時にムギが妙に嬉しそうに言っていた。
何もそこまで、とその時は思わなくもなかったけど、
今になって考えてみると、私も人の事を言えた義理じゃない。
小さな事から大きな事まで、私の行動指針の中央には確かに澪が居る。
和と澪が仲良くしてるのが何となく悔しくて、
澪に嫌われたかもって考えた時には、恥ずかしながら体調を崩しちゃったくらいだしな。
いや、本当に今思い出すと恥ずかしいけどさ。
どんな時でも、そんな感じで私達はお互いの事を意識し合ってる。
それくらい私達はお互いの存在をいつも感じてる。
いつからこうなったんだろう……。
嫌なわけじゃないけど、何となくそう思う。
最初は特別仲良しだったわけじゃない。
元々は正反対な性格だったし、澪の方も最初は私を苦手に思ってた感じだった。
それなのに少しずつ二人の距離は近付いていって、
一日会わなかっただけでお互いの存在が懐かしくなるくらい身近になった。
禁忌ってほどじゃないけど、女同士で恋愛関係にさえなりそうになるくらいに。
そんな中で私に出せた答えは……。
「梓の悩み、分かったんだな……」
自分の席に荷物を置きながら、小さく澪が呟いた。
その言葉からはまだ澪の真意や心の動きは掴めない。
「まあな。梓、おまえにも謝りたがってたよ。
後で会いに行ってやれよ」
「ああ……。
でも、まさかキーホルダーを失くした事で、
梓があんなに悩んでくれてたなんて思いもしなかったよ。
そんな小さな事であんなに……」
「小さな事に見えても、梓の中ではすごく大きな事だったんだ。
それに、人の事は言えないだろ?
私達も……さ」
「小さな悩み……か。
うん……、そうかも、しれない。
生きるか死ぬかって状況の時なのにさ、私は何を悩んでるんだろうな……」
少しだけ、澪が辛そうな表情をする。
ちっぽけな悩みやちっぽけな自分を実感してしまったのかもしれない。
死を目前にすると、悩みなんて何処までも小さい物でしかない。
勿論、私自身も含めて、だ。
私も『終末宣言』後、小さな事で心を痛め、死の恐怖に怯え、
声にならない叫びを上げそうになりながら、無力な自分に気付く。
その繰り返しを何度も続けるだけだった。
世界の終わりを間近にした人間がやる事なんて、何もかもがちっぽけなんだろう。
これから私がやろうとしている最後のライブだって……。
私は自分の席から立ち上がって、まだ立ったままの澪に近付いていく。
澪は動かず、近付く私をただ見つめている。
澪の前の……、いちごの席くらいにまで近付いてから、私はまた口を開いた。
「小さな悩みだよ、私達の悩みも。
すっげーちっぽけな悩みだ。
世界の終わりが近いのに、私達二人の関係なんかを悩んでる。
小さいよな、私達は……」
私の言葉に澪は何も返さない。
視線を落とし、唇を噛み締めている。
無力で弱い自分を身に染みて感じてるみたいに見える。
昔から、澪は弱い子だった。
恥ずかしがり屋で、臆病で、弱々しくて、
私より背が高くなった今でも何処までも女の子で……。
そんな風に、弱くて、儚い。
私の、
幼馴染み。
私はそんな弱くて儚い澪を、何も言わず見据える。
ちっぽけな私達を、もうすぐ終わる残酷な世界の空気が包む。
心が折れそうになるくらい、辛い沈黙。
言葉を失う私達……。
だけど。
不意に視線を落としていた澪が、顔を上げた。
強い視線で、私を見つめた。
辛そうにしながらも、言葉を紡ぎ出してくれた。
「でも……、でもさ……、律……。
小さい悩みだけど、その悩みは私にはすごく大きい悩みなんだ……。
終末の前だけど……、そんな事関係なくて、
ううん、終末なんかより私には大きい悩みでさ……。
馬鹿みたいだけど、それが私が私なんだって事で……。
上手く言えないけど……、上手く言えないんだけど……」
言葉がまとまってない。
言ってる事が無茶苦茶だ。
多分、澪自身も自分が何を言いたいのか分かってないんだろう。
でも、馬鹿みたいだと思いながらも、澪は自分の悩みを大きい物だと言った。
それくらい大きな……、大切な悩みなんだって、自分の口から言葉にして出してくれたんだ。
「そうだよな……。馬鹿みたいだよな……」
私は囁くみたいに言った。
でも、それは辛いからじゃなくて、全てを諦めてるからでもない。
上手くなくても、自分の想いを澪が口にしてくれたのが嬉しかったからだ。
私は沈黙を破り、澪に伝えたかった言葉をまっすぐにぶつける。
「馬鹿みたいだし、何もかも小さい悩みなんだって事は分かってる。
私なんて物凄くちっぽけな存在で、
多分、居ても居なくてもこの世界には何の関係も無いんだろうな、とも思うよ。
私はそれくらい小さくて、そんな小さい私の悩みなんてどれくらい小さいんだって話だよな。
でもさ……、やっぱりそれが私でさ。
小さくて、世界の終わりの前に何もできなくても、私は生きてるんだ。
誰にとっても小さくても、私だけは私の悩みを小さい悩みなんて思いたくない。
大きくて大切な悩みなんだって思って、抱え続けたいんだ。
勿論、澪の悩みもな」
澪は何も言わなかった。
これまでみたいに、言葉を失ってるわけじゃない。
多分、私の真意が分かって、少し呆れてもいるんだろう。
しばらくして、澪はいつも見せる苦笑を浮かべながら呟いた。
「……試したのか、律?」
「別に試したわけじゃないぞ。
澪の気持ちを澪の口から聞きたかったんだ。
澪ってば、自分の気持ちを中々口にして出さないからさ。
その辺の本当の気持ちを聞いときたかった。
ごめんなー、澪ちゅわん」
「何だよ、その口調は……。
私は律が思うほど、自分の気持ちを隠してるわけじゃないんだぞ。
律は昨日、私が律の事を思って、
ずっと泣いてたって思ってるかもしれないけど、お生憎様、そんな事は無いぞ。
そりゃ律の事は考えてはいたけどさ、でも、それだけじゃないぞ。
ちゃんと新曲の歌詞を考えたりもしてたんだ。
おかげで律が感動して泣き出しちゃうくらいいい歌詞が書けたんだからな。
後で見せてやるから、覚悟しとけよな」
多少の強がりはあるんだろうけど、澪のその言葉は力強くて心強かった。
昔から、澪は弱い子だった。
でも、それは昔の話だ。
今もそんなに強い方じゃないけど、弱さばかり目立ってた昔とは全然違う。
澪は強くなったと思う。高校生になってからは特にだ。
それは私のおかげ、と言いたいところだけど、私のおかげだけじゃないだろうな。
唯やムギ、和や梓……、
色んな仲間達との出会いのおかげで、澪は私が驚くくらい強くなった。
そうでなきゃ、私と恋人同士になりたいなんて言い出さなかっただろうしな……。
昔の澪なら、仮にそう思ったとしても、
言い出せずにずっと胸にしまい込んでるだけだっただろう。
強くなったんだな、本当に……。
私はそれが少し寂しいけれど、素直に嬉しくもある。
「私の事を一日中考えてたわけじゃなかったのは残念だが、その意気やよし。
それにさ、小さな悩みだって分かってても、
それが世界の終わりより大きな悩みだって言えるなんてロックだぜ、澪。
世界に対するいい反骨心だ。
それでこそ我等がロックバンド、放課後ティータイムの一員と言えよう。
褒めてつかわすぞよ」
「……なあ、律。
今更、こんな事を聞くのは、おかしいかもしれないんだけど……」
「どした?」
「放課後ティータイムってロックバンドだったのか?」
本当に今更だな!
と突っ込もうとしたけど、私の中のもう一人の私が妙に冷静に分析していた。
実を言うと、前々からそう考えてなくもなかったんだ……。
軽音部で私がやりたいのはロックバンドだったし、
甘々でメルヘンながらも放課後ティータイムは一応はロックバンドだと思おうとしてた。
しかし、よくよく考えてみると、やっぱりロックバンドじゃない気がどんどん湧いて来る。
そういえば、今日の放送で紀美さんが言っていた。
ロックってのは、曲の激しさじゃなくて、歌詞や心根が反骨的かどうかなんだって。
……やっべー。
放課後ティータイムの曲の中で、反骨的な歌詞の曲が一曲も無い気がする……。
いや、そんな事は無いはずだ。
いくらなんでも、一曲くらいはあってもいいはず。
えっと……、ふでペンだろ?
それとふわふわ、カレー、ホッチキス……。
ハニースイート、冬の日、五月雨にいちごパフェにぴゅあぴゅあ……。
あとはときめきシュガーとごはんはおかず、U&Iなわけだが……。
あー……。
見事なまでに反骨的な歌詞が無いな……。
作詞の大体を澪に任せたせいってわけじゃない。
ムギの作曲と唯の歌詞のせいでもある。
考えてみれば、放課後ティータイムの中で辛うじてロックっぽいのが私と梓しか居ない。
しかも、その二人が揃いも揃って、作詞も作曲もしてないわけだから、
そりゃ何処をどうやってもロックっぽい歌詞が出てくるわけが無いよな……。
そう考えると放課後ティータイムは、
ガールズバンドではあってもロックバンドとはとても言えんな……。
私は溜息を吐いて、澪の肩を軽く叩いた。
頬を歪めながら、苦手なウインクを澪にしてみせる。
「何を言ってるんだ、澪?
放課後ティータイムはロックバンドだぜ?」
「えっ……、でも……。
ほら、歌詞とか……さ。
私、ロックをイメージして作詞してないし、唯だって……」
「いや、ロックバンドなんだよ。
ロックバンドでありながら、反骨的な歌詞が無いというのが反骨的なんだ。
ロックに対するロック精神を持つロックバンド。
それが放課後ティータイムなのだよ、澪ちゃん……!」
「何、その屁理屈……」
澪が呆れ顔で呟く。
私だって、放課後ティータイムがロックバンドじゃないという事実は分かっている。
分かってはいるが、分かるわけにはいかん。
「まあ、律がそれでいいなら、それでいいけど……」
「そう。私はそれでいい。
……って事にしといてくれれば、助かる」
「それより、律?
私の方の昨日の話はしたけど、そっちは昨日はどうだったんだ?
どんな風に……、過ごしてたの?」
「気になるか?」
私が訊ねると、うん、と小さく澪が頷く。
私だって、澪が昨日過ごしたのか気になってたんだから、澪の言葉ももっともだった。
一日会わなかっただけだけど、その一日が気になって仕方ないんだよな、私達は。
ずっと傍に居た二人だから……。
私は澪の肩から手を放して、腕の前で手を組んで続けた。
「澪と別れてから、色々あったよ。
聡と二人乗りしたり、憂ちゃんと話したり、
ムギと二人でセッションしたり、梓と梓の悩みについて話したり……さ。
それに純ちゃんとムギと梓と私で、パジャマフェスティバルをしたりしたな」
「パジャマフェスティバル……?」
「いや、それはこっちの話。
まあ、とにかく色々あったよ。本当に目まぐるしいくらい、色々な事があった。
その分、ムギや梓……、純ちゃんともずっと仲良くなれたと思うけどさ」
「ムギと梓はともかく、律が鈴木さんと過ごしてたなんて意外だな……」
「私だって意外だったけど、話してみると楽しい子だったよ。
梓の親友だってのも分かるくらい、いい子だったし。
澪も苦手意識持ってないで、純ちゃんと仲良くしてあげてくれよ。
金曜日にジャズ研のライブがあるみたいだから、観に行ってあげようぜ。
純ちゃん、きっと喜ぶと思うよ」
「鈴木さんか……。
律がそう言うなら、もうちょっと話してみるのもいいかもな……」
「まあ、苦手なのも分かるけどな。
澪に憧れてるのは分かるんだけど、えらく距離感が近いもんなあ。
でも、いい子だよ。
それに話してみると、純ちゃんも現実の澪の姿に幻滅して、
少しはちょうどいい距離に落ち着くかもしれないしな」
「どういう意味だよ、律……」
「言葉通りの意味だが?」
言ってから澪の拳骨に備えてみたけど、意外にも澪の拳骨は飛んで来なかった。
その代わり、少しだけ寂しそうに、澪は呟いた。
「そっか……。
律は昨日、元気だったんだな……」
私が居なくても……。
とは言わなかったけど、多分、澪はそういう意味で呟いていた。
私が私の居ない所で楽しそうにしてる澪を見るのが辛かったみたいに、
澪も澪の居ない所で私が元気に過ごしているという現実が辛かったんだろう。
何処までお互いの事を気にしてるんだろうな、私達は……。
それは依存なのかもしれなかったけど、
多分、私達はその依存のおかげで、まだ正気を失わずに世界の終わりに向き合えてる。
私は軽く微笑んでから、澪の耳元で囁く。
「うん……、元気だった。
澪が居なくても元気だったけど……、でも、物足りなかったよ。
片時も澪の事を忘れなかったって言うと嘘になるけど、
でも、楽しいと思う度に、澪が傍に居たらな、って思った。
一緒に楽しい事をしたかったよ。
梓の悩みの件でも、澪なら私の言葉をどう思うか考えながら梓と話してた。
ずっと、澪の事が気になってた。
考えてたよ。澪の言葉をさ。
私は澪とどうなりたいのかってさ」
澪はじっと私の言葉を聞いていた。
澪が次の私の言葉を待っている。
私の答えを待っているのを感じる。
もうすぐにでも、私が澪の想いに対する答えを言葉にするのを、澪は多分予感している。
私も澪に向けて、私の答えを伝えようと激しく響く心臓を抑えて口を開く。
思い出す。
澪に恋人同士になりたいって言われた時の喜びを。
きっと澪なら、私には勿体無いくらいの恋人になってくれる。
また、思い出す。
私を抱き締めた澪の柔らかさと、私が重ねようとした澪の唇を。
澪と恋人同士として、そういう関係で世界の終わりを迎えるのも悪くないって思えたのを。
澪と恋人になるのは、私達に安心と喜びを与えてくれると思う。
だから、澪と恋人同士になるのは、きっと悪くないんだ。
私は言葉を出す。
澪と私の関係をどうしたいかを、震えながらもまっすぐに伝えるために。
私の本当の気持ちを澪に伝えるために。
「私はすごく考えた。考えてた。それで、答えが出たんだ。
これから伝えるのが私の答えだよ、澪。
なあ、澪……。
私はさ……、
私はおまえと……、
恋人に……、
恋人同士には……なれないよ」
伝えたくない言葉だった。
けれど、伝えたい言葉だった。
これが偽りの無い、澪に対する私の本音だ。
澪と恋人になるのは悪くないと思えた。
悪くないけれど……、良くもないって思ったんだ。
私は澪の告白が嬉しかった。澪と恋人になりたいと思った。安心できるって思えた。
でも、同時に思い出したんだ。
澪と自分の唇を重ねる直前、自分が涙を流したのを。
ほとんど同時に澪も泣き出してしまっていたのを。
長い事、私は私の涙の理由が分からなかった。
澪の涙の理由も分からなかった。
今はもうその涙の理由を確信している。
確信できたのは、軽音部の皆と話せたからだ。
唯もムギも梓も、苦しみながら、悩みながらも同じ答えを出していた。
皆が同じ答えを出していて、私の答えもそうなんだって気付けた。
だからこそ、あの時は泣いてしまってたんだ、私も、澪も。
世界の終わりが間近だからって、その選択だけはしちゃいけなかったんだ。
いや、しちゃいけないわけじゃないか。
選択したくなかったんだ、簡単な選択肢を。
「澪の告白は嬉しかった。
嬉しかったんだ、本当に……」
私は言葉を続ける。
どうしようもなく我儘な私の答えを澪に伝えるために。
上手く伝えられるかどうかは自信が無いけど、
少なくとも私が何を考えているかだけは分かってもらえるために。
「澪の事は好きだ。
澪はずっと傍に居てくれたし、一緒に居るとすごく楽しい。
そんな澪と恋人になれたら、どれだけ楽になれるかって思うよ。
でも、今の私達にそういうのは違う。違うと思う。
気付いたんだ。
一昨日、私が澪と恋人になろうとしたのは、世界の終わりから逃げたかったからなんだって。
澪と恋人になれば、世界の終わりの事なんて考えずに、澪と二人で笑顔で死ねるって思った。
自分の不安から目を逸らすために、私は澪を利用しようと思っちゃってたんだよ。
世界の終わりが近いんだし、そういう生き方も間違ってないんだろうけど……。
嫌だ。私は嫌なんだよ。澪をそんな風に利用したくなんかないんだよ……。
大切な幼馴染みを、そんな扱いにしたくないんだ。
今更……、今更な答えだと思うけど……、それが私の答えなんだよ」
澪は何も言わない。
私の瞳を真正面から見つめて、ただ私の言葉を黙って聞いている。
澪が何を考えているのかは分からない。
でも、少なくとも、私の言っている事の意味は分かってるはずだと思う。
澪は頭がいいし、一昨日、私と同じように涙を流したんだ。
澪も心の何処かでは、私と同じ答えを出していたはずなんだ。
私達は今、恋人同士にはなれないんだって。
「何度でも言うよ。
私は澪の事が好きで、傍に居たい。澪が本当に大切なんだ。
でも、それは恋人同士としてって意味とは違う。
一昨日、私はおまえと恋人同士になろうと思って、
雰囲気に流されるままにキス……しようとして、気が付けば泣いてた。
あの時はその涙の理由が分からなかったけど、今なら分かるよ。
急に澪と恋人になるなんて、何かが違うって心の何処かで分かってたからなんだ。
そんなの私達らしくないって気付いてたからなんだ。
だから、私はそれが悲しくて泣いちゃってたんだ……」
「私達らしくない……かな」
澪が久しぶりに口を開いて呟いた。
それは反論じゃなくて、純粋な疑問を言葉にしてるって感じの口調だった。
私はゆっくりと首を縦に振って頷く。
「うん……。私達らしくないと思う……。
澪もそれを分かってたから、あの時、泣いてたんだろ?
少なくとも、あの時、私はそういう理由で泣いたんだ。
私達が私達でなくなる気がして、それが嫌だったんだと思う。
軽音部の皆と話しててさ、思ったんだ。
唯もムギも梓も、世界の終わりを目の前にした今でも、これまでの自分で居たがってた。
皆、世界が終わるからって、自分の生き方を変えたくないんだ。
それは私達も同じなんだよ、澪。
もうすぐ死ぬからって、死ぬ事を自覚したからって、急に生き方を変えてどうするってんだよ。
そんなの、今まで私達がやってきた事を否定するって事じゃんか。
あの楽しかった時間全部を無駄だったって決め付けるって事じゃんか。
私達が私達じゃなくなるって事じゃんか。
嫌だ。そんなの嫌だ。私はそんなのは嫌なんだよ……」
私の想いは伝えた。
すごく不安だったけれど、とりあえずは私の考えを伝える事ができた。
多分、澪も私の言う事を分かってくれたはずだ。
いや、最初から分かってたのかもしれない。
分かってたけど、それを認めたくなかっただけなんだろう。
「でもさ、律……」
不意に澪が小さく呟いた。
少しだけ辛そうに、でも、自分の想いを強く心に抱いたみたいに。
「終末から目を逸らしたいって意味があったのは、否定しないよ。
逃げようとしてたのは確かだと思う。
でもね……。
それでも、私は律と恋人になりたいと思ってたんだよ?
女同士だからそんなのは無理だって分かってたけど、でも……。
ずっと前から、私は律の事が……」
それも嘘の無い澪の想いなんだろうと私は思う。
世界の終わりから目を逸らすための手段だとしても、
完全に何の気も無い相手に恋心をぶつける事なんて澪は絶対にしない。
『終末宣言』の前から、澪は少しだけ私の事を恋愛対象として好きでいてくれたんだろう。
でも、それは私にとって急な話で……、
澪の事は好きだけど、澪と恋人になるっては発展し過ぎた話で……。
だから、私は自分でも馬鹿だと思う答えを澪に伝える事にした。
この答えを聞けば、多分、誰もが私を馬鹿だと思うだろうし、私自身もかなりそう思う。
だけど、それこそが私に出せた一番の答えだし、私の中で一番正直な想いだから……。
私は、
その答えを、
澪に伝えるんだ。
「女同士なんて私には無理だよ、澪……。
親友に急にそんな事を言われたって、
いきなり恋愛対象として見る事なんてできないよ……。
最初は恋人になろうとしておいて本当に悪いけど、無理なんだよ……」
ひどく胸が痛む言葉。
伝えている方も、伝えられる方も傷付くだけの辛い言葉だった。
私の言葉を聞いた澪は、自分の席にゆっくりと座り込んだ。
机に肘を着いて、絞り出すみたいにどうにか呟く。
「そっか……。
そうだよな……。迷惑だった……よな……。
ごめん……な、律……。
私が勝手に律を好きになって……、こんな時期に戸惑わせちゃって……。
本当に……ごめ……」
最後の方は言葉になってなかった。
澪の声は掠れて、涙声みたいになっていた。
多分、本当は泣きそうで仕方が無いんだろう。
それでも私に涙を見せないようにしてるんだろう。
もう私の負担になりたくないから。
もう私を戸惑わせたりしたくないから……。
だけど、私は澪に伝えなきゃいけない事がまだあった。
澪を余計に傷付けるだけかもしれないけど、それも私の本音だったから。
「まったく……、本当に迷惑だよ。
こんなに私を迷わせて、私を戸惑わせて、
もうすぐ世界の終わりが来るってのに、こんなに私の心を揺らして……。
おまえって奴はさ……」
「ごめ……ん。り……つ……。
ごめん……なさ……」
「おかげでまた考えなくちゃいけない事ができちゃったじゃないか」
「え……っ?」
「私がおまえの事を恋愛対象として好きになれるかって事をさ」
「り……つ……?」
「私は澪と恋人にはなれないよ。今は……さ。
だって、そうじゃん?
おまえと知り合ってから大体十年くらいだけど、
その十年間、おまえとは幼馴染みで、ずっと親友で、
そんな奴をいきなり恋人だと思えってのは無理があるだろ、そりゃ。
実を言うとさ、
澪が私の事を好きなんじゃないかって思う事もたまにはあったけど、
そんな自意識過剰な事ばっか考えてられないし、確信が無かったから気にしないようにしてた。
でも、世界の終わり……終末がきっかけだったとしても、おまえは私に告白してくれただろ?
おまえが私とどういう関係になりたいのか、私はそこで初めて知ったって事だ。
おまえとは長い付き合いだけどさ、
私とおまえが恋人になるかどうかを考えるスタートラインは、私にとってはそこだったんだ。
それがまだ一昨日の話なんだぜ?
だから、考えさせてほしいんだよ、澪。
考える時間が無いのは分かってるし、どんなに頑張っても三日後までに出る答えでもない。
だけど、時間が無いからって、焦っておまえとの関係を結論付けるのだけは嫌なんだ。
それだけは嫌なんだ。絶対に絶対に嫌なんだ。
そんな適当にこれまでのおまえとの関係を終わらせたくないんだよ。
馬鹿みたいだし、実際に馬鹿なんだろうけどさ……、
その答えを出せるまで、私達は友達以上恋人未満って関係にしてくれないか?」
私はそうして、抱えていた想いの全てを澪にぶつける事ができた。
これが私の出せた我儘で馬鹿な答え。
馬鹿だけど、嘘偽りの無い私らしい答えだ。
正直、こんな答えを聞かされた澪の身としては、たまったもんじゃないだろうと自分でも思う。
世界の終わりが近いのに、何を悠長な話をしてるんだって怒られても仕方が無い。
怒ってくれても、構わない。
でも、焦って結論を出す事だけは、
これまでの私達を捨てる事だけは、絶対に間違ってると私は思うから。
だから、これが私の答えなんだ。
「それじゃ……」
澪が震える声で喋り始める。
目の端に涙を滲ませながら。
「それじゃ少年漫画みたいじゃないか、律……」
そうして澪は、泣きながら、笑った。
これまでの辛そうな顔じゃなくて、
呆れながら私を見守ってくれてた少し困ったような笑顔で。
私も苦笑しながら、小さく頭を掻いた。
「しょうがないだろ?
私は少女漫画より少年漫画の方をよく読んでるんだから。
でも、確かに友達以上恋人未満って関係は、少年漫画の方が多いよな。
少女漫画は一巻から主人公達が付き合ってたりするもんな。
だから、勘違いするなよ、澪。
私が言ってるのは、そういう少年漫画的な意味での友達以上恋人未満の関係だからな。
付き合うつもりが無い相手を期待させるだけの便利な言葉を使ってるわけじゃないからな?
私が澪となりたい友達以上恋人未満ってのは、恋人になる一段階前っつーか……。
恋人になる前に、何度もデートを重ねてお互いの想いを確かめ合ってる関係っつーか……。
ごめん。上手く言えてないな、私……」
「……大丈夫。分かってるよ、律。
私を期待させるだけ期待させて便利に使うなんて、
そんな器用な事ができるタイプじゃないもんな、律は。
それにさ、律の表情を見てると、
私との事を本気で考えてくれてるんだって、分かるよ……。
同情や慰めで私と恋人になるんじゃなくて、
終末から目を背けるために恋人との蜜月に逃げ込むわけでもない。
律はただ私の想いをまっすぐに受け止めようとしてるんだって分かるんだ。
心の底から、私との関係を考えようとしてくれてるんだって……。
そんな律だから、私はさ……」
そこで言葉が止まって、また澪の瞳から涙がこぼれた。
でも、それは単なる悲しみの涙じゃない。
涙を流しながらも見せた澪の顔は、これまで見た事が無いくらい晴れやかな笑顔だった。
「やだな、もう……。
涙が止まらないよ、律……。
恥ずかしいよな、こんなに涙を流しちゃって……」
「いいよ。どれだけ泣いたっていい。
恥ずかしがらなくても、いいんだよ。
こう言うのも変だけど、今の澪の顔、すっげー綺麗だよ」
それは私の口から自然に出た言葉だった。
泣きながら笑って、笑いながら泣いて、
すごく矛盾してるけど、そんな澪の表情は見惚れてしまいそうになるくらい綺麗だった。
だから、私の言葉は何の飾りも無い私の本音だった。
……んだが、気が付けば、私の頭頂部が澪の拳骨に殴られていた。
さっきまで座ってたくせに、わざわざ一瞬のうちに立ち上がって、私の頭を殴ったわけだ。
「何をするだァーッ!」
私の方もわざわざ誤植まで再現して、澪に文句を言ってやる。
いや、マジでかなり痛かったぞ、今のは。
これくらい言ってやっても罰は当たらないだろう。ネタだし。
だけど、澪の奴は顔を赤くして、あたふたした様子で私の言葉に反論を始めた。
「だ……、だって律が恥ずかしい事を言うから……!
すごい綺麗とか……、真顔でそんな恥ずかしい冗談を言うな!
こんな時にそんな事言われたら、冗談でもびっくりするじゃないか……!」
「いや、別に冗談じゃなかったんだが……って、あぅんっ!」
最後まで言う前にまた澪に叩かれ、私は妙な声を出してしまう。
自分で言うのも何だが、「あぅんっ!」は我ながら気持ちの悪い声だったな……。
それはともかく、本音を言ってるのに、
どうして私はこんなに叩かれないとならんのか。
「何をするんだァーッ!」
今度は誤植を訂正して澪に文句を言ってみる。
あの漫画を読んでない澪がそのネタに気付くはずもなく、
顔を赤くどころか真紅に染めて、更に動揺した口振りで澪が続けた。
「だから……、そんな恥ずかしい冗談はやめろって……!
どうしたらいいか、分からなくなっちゃうじゃないか……!
やめてよ、もう……!」
「恥ずかしい冗談って、おまえな……。
これくらいの事で恥ずかしがっててどうすんだよ。
恋人同士ってのは、もっと恥ずかしい事をするもんなんだぞ」
呆れ顔で私が返すと、澪はまた自分の椅子に座って、黙り込んでしまった。
顔を赤く染めたまま、視線をあっちこっちに動かしている。
どうも澪の許容できる恥ずかしさの限界を超えてしまったみたいな様子だ。
その瞬間、私は気が付いたね、澪が変な事を考えてるんだって。
「おい、澪。おまえ今、変な事考えてるだろー?」
「へ、変な事って何だよ……」
「私が言う恋人同士の恥ずかしい事ってのは、
夕陽の下で愛を語り合ったり、「君の瞳に乾杯」って言ったり、
そういう背中が痒くなるような恥ずかしい事って意味だぜ?
今、おまえが考えてる恥ずかしい事って、そういうのじゃないだろ?
例えば、そうだな……。
前に見たオカルト研の中の二人みたいな事、想像してただろ?
いやーん、澪ちゃんのエッチ」
「なっ……、か、からかうなよ、馬鹿律!」
叫ぶみたいに言いながら、澪が自分の拳骨を振り上げる。
もう一度拳骨が飛んで来るかと思ったけど、
澪はそうせずに、拳骨を振り上げたままで軽く吹き出した。
それはこれまでの笑顔とは違って、面白くて仕方が無いって表情だった。
微笑みながら、澪が嬉しそうに続ける。
「何か……、こういうのってすごく久しぶり……。
そんなに前の話じゃないはずなのに、懐かしい感じまでしてくるよ。
何だか、嬉しい。
律の言ってた事が、何となく実感できる気もするな。
多分だけどさ、
もし一昨日に私達があのまま恋人になってたら、今みたいに笑ってられなかった気がする。
今までの私達とは、全然違う私達になってた気がする。
律にはそれが分かってたんだな……」
「そんな大層な意味で言ったわけじゃないけどさ……。
でも、私はそれが嫌だったんだと思うよ。
勿論、恋人同士になって、
全然違う自分達になるのも悪くはないんだろうし、
そういう恋人関係もあるんだろうけど……。
私は澪とはそういう関係になりたくなかった。
もしもいつか私達が恋人になるんだとしても、
これまでの幼馴染みの関係の延長みたいな感じで私は澪と付き合いたい。
それこそ少年漫画みたいにさ。
よくあるじゃん?
十年以上連載して、長く意識し合ってた幼馴染みが、
最終回付近でようやく恋人になるみたいな、そんな感じでさ……。
それでその幼馴染みを知ってる仲間達から、
「あいつら本当に付き合い始めたのか? これまでと全然変わってないぞ」とか言われたりするわけだ」
「ベタな展開だよな」
「誰がベタ子さんやねん!」
「いや、ベタ子さんとは言ってないけど……」
「私は澪とそんなベタな関係になりたいんだけど……、
澪は嫌じゃないか?」
少し不安になって、囁くように訊ねてみる。
これは完全に私の自分勝手な我儘なんだ。
これまでの澪との関係をもっと大事にしたい。
いつか恋人になるんだとしても、澪との関係に焦って結論を出したくないって我儘だ。
だから、それについての答えを、私は澪自身の口から聞きたかった。
どんな答えだろうと、それを澪に言ってほしかったんだ。
「嫌じゃないよ」
いつも見せる困ったような笑顔で、
いつも私を見守ってくれてる笑顔で、澪は小さく言ってくれた。
「嫌なわけないよ。
律がそんな真剣に私の事を考えてくれるなんて、それだけですごく嬉しいんだ。
焦って今までの私達の関係を壊しそうになってた私を、律が止めてくれたんだから。
一昨日、もしも律が私を恋人にしてくれてたとしても、今頃きっと後悔してた。
そうして後悔しながら、終末を迎えてたと思うよ。
だから……、私は律とこれから友達以上恋人未満の関係になりたいよ」
そう言った澪の本当の気持ちがどうだったのかは分からない。
女性は何でも結論を急ぎたがる、って感じの言葉を聞いた事がある。
確かにそうだと私も思わなくもない。
少女漫画なんか、特にその傾向があるような気がする。
さっき澪に言った事だけど、少女漫画は一巻から主人公達が付き合ってる事が多い。
こんなの少年漫画じゃ考えられない事だよな。
それくらい女の子達は(いや、私も女の子だけど)、曖昧な関係に満足できないんだ。
早く結婚するのも、自分から結婚を迫るのも、女性の方が遥かに多いみたいだし。
迷うくらいなら、とにかく早く結論を出して、とりあえずでも安心したい子が多いんだ。
それが女の子の本音なんだろうと思う。
私はどっちかと言うと少年漫画を読む方だし、
弟がいるせいか考え方もちょっと男子っぽいかな、って自分でも思う。
それで澪との結論を急ぎたくなかったのかもしれない。
だけど、昔から女の子っぽい性格の澪は、
強がってはいるけど、その実は誰よりも女の子な澪は、
私の答えを本当はどう思っていたんだろうか……。
本当はやっぱり私とすぐにでも恋人になりたかったんじゃないだろうか。
傷の舐め合いみたいな関係だとしても、
世界の終わりまで安心していたかったんじゃないだろうか。
そう考えると、私の胸が痛いくらい悲鳴を上げてしまう。
でも。
それはもう考えても意味の無い事だった。
本音が何であれ、澪は私の考えと想いを受け止めてくれた。
私と友達以上恋人未満の関係になると言ってくれた。
私にできるのは、その澪の気持ちに感謝して、
これからの澪との事を心から真剣に考える事だけだ。
「週二だ」
私は澪の前で指を二本立てて、不敵に笑った。
「え? 何が?」
「だから、週二だよ、澪。
今週はライブで忙しいから、来週から週二でデートするぞ。
覚悟しろよ。色んな場所に付き合ってもらうからな。
勿論、単に遊びにいくわけじゃない。
友達以上恋人未満ってのを意識して、恋人みたいなデートを重ねるんだ。
そこんとこ、よく覚えとけよ」
来週の約束……。
恐らくは果たせない約束……。
でも、その約束は私の心に、ほんの少しの希望を持たせてくれて……。
「ああ、分かったよ、律。
来週から週二でデートしよう。
私達、友達以上恋人未満だもんな。
……言っとくけど、遅刻するなよ?」
屈託の無い笑顔で、澪が左手の小指を私の前に差し出す。
「わーってるって」と言いながら、私は自分の小指を澪の小指に重ねる。
願わくば、この約束が本当に果たせるように。
○
かなり長い間、二人で視線を合わせながら小指を絡ませていたけど、
いつまでもそのままでいるわけにもいかなかった。
二人で名残惜しく指切りを終えて、
それから私は澪が書き終えたと言っていた新曲の歌詞を見せてもらう事にした。
新曲の歌詞はこれまでの甘々な感じとは違って、
ロックってほどじゃないけど、少し硬派な感じの歌詞に仕上がっていた。
確かにこれまでとは違う感じの歌詞にしたいと言ってたけど、
まさかこんなに普段と印象の違う歌詞を澪が仕上げて来るとは思わなかった。
過去じゃなくて、未来でもなくて、
今を生きる、今をまだ生きている私達を象徴したみたいな歌詞……。
残された時間が少ない私達の『現在』を表現した歌……。
頭の中で、ムギの曲と澪の歌詞を融合させてみる。
悪くない。
……いや、すごくいい曲だと思う。
これまでの私達の曲とはかなり印象が違うけど、これもこれで私達の曲だと思えるから不思議だ。
早く皆と合わせて、澪の歌声を聴きながらこの曲を演奏したい。
ただ、激しい曲なだけに、私の技術と体力が保つかどうかが少し不安だけどな。
まあ、その辺は何とか気力と勢いでカバーするという事で。
はやる気持ちを抑えて、肩を並べて二人で音楽室に向かう。
音楽室まで短い距離、私達はどちらともなく手を伸ばして、軽く手を繋いだ。
お互いの指を絡め合うほど深く手を繋げたわけじゃない。
流石にそれはまだ恥ずかし過ぎるし、
例え私が澪とそうやって手を繋ごうとしても、澪の方が真っ赤になっちゃってた事だろう。
だから、私達は本当に軽く手を繋いだだけ。
二人の手を軽く重ねて、軽く握り合っただけだった。
でも、それがとても心地良くて、嬉しい。
それが『現在』の私達の距離。
友達以上で、恋人未満の距離。
背伸びをしない、恋愛関係に逃げ込んでもいない、極自然な距離なんだ。
もしも世界が終わらず、これからも続いていったとして、
私と澪が本当に恋人になるのかどうかは分からない。
単なる友達じゃないのは間違いないけど、
それを単純に恋愛感情に繋げるのはあんまりにも急ぎ過ぎだろう。
それこそ私達は女同士だし、私が女の子相手に恋心を抱けるかも分からない。
もしかしたら、友達以上恋人未満を続けていく内に、
お互いに自分の恋心は勘違いか何かだったと気付くのかもしれない。
でも、私の幼馴染みを……、
澪を大切にしたい事だけは、私の中でずっと前から変わらない事実だ。
多分、訪れない未来、例え私達が恋人同士になれなかったとしても、
私は澪と一生友達でいるだろうし、澪も私の傍で笑っていてくれるだろう。
先の事は何も分からないけど、その想いと願いだけは私の中で変えずにいたい。
音楽室に辿り着く直前、
澪が繋いでいた手を放そうとしたけど、私はその澪の手を放さなかった。
友達以上恋人未満って関係はまだ皆には内緒にしとこうとは思う。
でも、二人で手を繋いで音楽室に入るくらいなら問題ないはずだ。
特に何処まで分かっているのか、
唯とムギは私達の関係を心配してくれていたから、
これくらいアピールした方が二人にも分かりやすいはずだ。
私達はもう大丈夫なんだって。
軽音部の問題は、今の所だけどこれで全部解決したんだって。
何の心配もなく、最後のライブに臨めるんだって……な。
隣の澪は顔を赤くしてたけど、
音楽室に入った私達を待っていたのは、私達以上に仲が良さそうな二人だった。
言うまでもなく、唯と梓の事だ。
私が澪と話している間に全ての事情を話し終わったんだろう。
唯がここ最近見られなかった嬉しそうな表情を浮かべ、
梓に抱き着きながら、キスをしようとするくらいに顔を寄せていた。
梓はと言えばそんな唯の顔を右手で押し退けながらも、
左手では唯に渡されたんだろう写真を大事そうに掴んでいる。
こういうのツンデレ……って言うんだっけ?
まあ、とりあえず二人とも仲が良さそうで何よりだ。
私達が若干呆れながら唯達の様子を見てると、ムギが嬉しそうに駆け寄って来た。
唯と梓もそれに続いて私達に駆け寄って来る。
三人が肩を並べ、繋がれた私と澪の手に揃って視線を向ける。
ムギが嬉しそうに微笑み、珍しく梓が私に抱き着いて来る。
唯が「妬けますなー、田井中殿」と茶化しながら笑う。
澪が顔を更に赤く染めて、私が「おうよ!」と澪と繋いだ手を頭上に掲げる。
五人揃って、笑顔になる。
心の底から、幸せになれる。
とても長い時間が掛かった。
世界の終わり……終末っていう、
対抗しようもない強大な相手の恐怖に私達が怯え出してから、本当に長い遠回りをした。
本当に気が遠くなるくらいに長い長い遠回り……。
だけど、そのおかげで、取り戻せた私の絆は、これまで以上に深く強くて……。
今なら、身震いするほどの最高のライブができる。
そんな気がする。
勿論、それには今日明日と精一杯練習しなきゃいけないけどなー……。
でも、やってやる。やってみせる。
私達のために、ライブに来てくれる皆のために、『絶対、歴史に残すライブ』にしてやる。
まずは唯がミスしそうな新曲のあのパートを注意しかないと、だな。
不意に。
「盛り上がってる所、悪いんだけど」という言葉と一緒に、誰かが音楽室に入って来た。
そんな事を言うのは、勿論、我等が生徒会長しかいない。
私が和に視線を向けると、既に唯が和の方に駆け寄っていた。
早いな、オイ。
まあ、これもこれで、私達と違った仲の良い幼馴染みの関係って事で。
「どうしたの、和ちゃん」と嬉しそうに唯が和に訊ねる。
苦笑しながら、「ちょっとね」と和が私と視線を合わせる。
瞬間、和が滅多に見せない晴れ晴れとした笑顔を見せた。
本当に嬉しそうな表情……。
今の私と和の間で、二人だけが分かる笑顔の理由……。
それが分かった途端、意識せずに私も笑顔になっていた。
高鳴る鼓動を抑えられない。
私は笑顔のまま、和以外の全員の顔を見渡す。
皆、何が起こってるのか分かってない表情を私達に向けている。
いや、一人だけ……、唯だけちょっと不機嫌そうだ。
私と和がアイコンタクトで語り合ってるのが気に入らないんだろう。
自分だけの大切な幼馴染みの和を、私に取られちゃった気分なんだろうな。
でも、私がその理由を話せば、きっと唯も皆も笑顔になる。
講堂の使用許可が取れた事を、
最後のライブの最大の会場を用意できた事を皆に話せば……。
私はもう一度、皆の顔を見回す。
最高の仲間達に、私の言葉を伝える。
「なあ、皆……、前々から話してた事だけど、
軽音部で最後のライブを開催したいと思うんだ。
もう会場の用意もできてるから、安心してくれ。
だからさ……、今更だけど聞かせてほしい。
皆……、
しゅうまつ、あいてる?」
○
――金曜日
今日は澪が私の家に泊まりに来ていた。
いやいや、別に友達以上恋人未満として、色んな事をしようと思ったわけじゃないぞ。
澪が私とパジャマフェスティバルをしたいと言ってきたからってだけだ。
ムギ達との話をした時には平静を装ってたけど、
本当は澪も参加したくてしょうがなくなってたらしい。
そういや、前に私がムギと二人で遊んだ時も、
「私もムギと遊びたかった」って、誘ってたのに文句を言われたな。
今も昨日、ムギとどうやって過ごしたのかとか訊いて来てるし……。
澪の奴……、ひょっとして、私よりムギの事を好きだったりするんじゃないか?
ちょっとだけそんな考えが私の頭の中に浮かぶ。
……はっ、いかんいかん。
それじゃ、何だか私が澪にやきもち妬いてるみたいじゃないか……。
私はそんな照れ臭い気持ちを隠すために、立ち上がってラジカセのスイッチを入れる。
幸い、そろそろ紀美さんのラジオの時間だ。
軽快な音楽が流れる。
いよいよしゅうまつか。
558:にゃんこ:2011/09/17(土) 21:43:52.43:PrE/G5mJ0「胸に残る音楽をお前らに。本当の意味でも、ある意味でも、とにかく名曲をお前らに。
今日もラジオ『DEATH DEVIL』の時間がやって来た。
この番組も、今回入れて残り二回。
日曜休みだから、土曜が最後の放送って事になるわね。
勿論、お付き合いするのは、いつもの通り、このアタシ、クリスティーナ。
終末まではお前らと一緒!
後二回、ラストまで突っ走ってくから、お前らも最後までお付き合いヨロシク!
……いやあ、にしても、思えば遠くに来たもんだ。
飽きたら早々に打ち切ってもらおうと思ってたのは内緒の話だけど、
これまたやってみると中々コクがあって、濃厚なのに、不思議と飽きが来なかった。
って、料理番組の感想みたいだけど、でも本当にそんな感じ。
一ヵ月半って短い間だったけど、この番組もリスナーのお前らもアタシの宝物。
残り二回の放送が心底名残惜しいわよ。
でも、勘違いしないでよね、お前ら。
終わるのはラジオ『DEATH DEVIL』の終末記念企画だからさ。
来週からはラジオ『DEATH DEVIL』の終末後記念企画が始まる予定なのよ。
超絶パワーアップ予定でさ。
そんなわけで、来週月曜から新装開店なんで、引き続き本番組をヨロシク。
あ、ディレクターがそんなの聞いてないって顔してる。
そりゃそうよね、言ったの今が初めてだもん。
いいじゃんか、ディレクター。
言ったもん勝ちだし、まだこの番組続けたいじゃん?
リスナーの皆も望んでると思うし、誰も損しない素敵企画だと思うけど?
……お。
苦笑いしてるけど、ディレクターからオーケーサインが出たわよ、お前ら。
おっし、これで本決まり。
ラジオ『DEATH DEVIL』破界篇は次回で終了。
来週からラジオ『DEATH DEVIL』再世篇にパワーアップして再開予定って事で。
ちなみに破界篇の『かい』は世界の『界』で、
再世篇の『せい』は世界の『世』って書くからお前らもよく覚えといてね。
何でかって?
いや、あんのよ、そういうゲームが。
深い意味は無いから、それ以上はお前らも気にしないで。
分かってるって。
別に終末の事を忘れてるわけじゃないよ。
日曜日の陽が落ちる前には、終末が……、世界の終わりがやって来る。
誰も望んじゃいないけど、とにかく足音響かせて、まっしぐらに終わりがやって来る。
でもさ、未来の事は誰にも分かんないじゃない?
九分九厘世界が終わるらしいけど、それは確定した未来じゃない。
『未来』ってのは、『今』になるまで永久に『未来』なんだから、
それがどうなるか不安に推論してたって無意味でしょ?
日曜日に世界がどうなるかは、結局は日曜になってみるまで分からない。
だったら、別に来週の事を予定してても、悪くないんじゃない?
馬鹿みたいだって自分でも分かっちゃいるけどさ。
え?
どしたの、ディレクター?
九分九厘じゃ全然決まってないも同然だって?
九分九厘……、あ、ホントだ。
九分九厘じゃ一割にもなってないじゃん。
こりゃ失礼。
いや、アタシの友達がさ、99%の事を九分九厘って言うのよ。
ついその口癖が感染しちゃったみたいね。
馬鹿みたいと言うか、ホントに馬鹿で申し訳ない。
正確には九割九分九厘終末がやって来るって話だけど、
それにしたって確定してないのは確かなんだし、確率の話をしててもしょうがないわよ。
……確率を思いっ切り間違えてたアタシが言うのもなんだけどさ。
あははっ、まあ、勘弁してちょうだい。
話はちょっと変わるけど、お前らパンドラの箱の話って知ってる?
有名な話だから知らない人は少ないと思うけど、
その箱を開けたら、世界にあらゆる災厄が飛び出して来たって話ね。
箱を開けたら、艱難辛苦、病別離苦、そんな感じの四苦八苦が世界に蔓延しちゃった。
四苦八苦は仏教用語だけど、それは今は置いといて。
それだけ災厄が一気に飛び出たけど、
一つだけパンドラの箱の中に残ってた物があったらしいのよ。
それは『希望』……、なーんて言い古された話をしたいわけじゃない。
箱の中に残ってた物が何なのか色んな説があるみたいだけど、
一説によると残ってた物は『予知能力』なんだって説もあるらしいのよね。
確かに人が『予知能力』なんて手に入れちゃったら、最高の災厄だと思わない?
先の事が分かんないから、人生ってやつは面白いし、人は生きていけるんでしょ?
馬鹿みたいって言うか馬鹿だけど、
アタシ達は先の事が分かんないから、どうにかながらでも生きて来られた。
終末が近付いてても、馬鹿話どころか来ないはずの来週の話までできる。
未来の事が分からないから……、そういう事ができるのよね。
人間って、そういう馬鹿な生き物でいいんじゃないかって、アタシは思うのよ。
だから、思う存分、未来の話をしようじゃない?
例え存在しない未来でも、『現在』を生きられるならそれもアリでしょ?
……しまった。
やけに真面目な話になってしまった。
ひょうきんクリスティーナと呼ばれるくらい、
ひょうきんに定評のあるアタシとした事が……。
ま、アタシはそう思うってだけの個人的な意見よ。
お前らはお前らの思うように生きてくれれば、それでオーケー。
自由を求めて、自由に生きてくのがロックってやつだしね。
さってと、そろそろ今日の一曲目といきますか。
今日の一曲目も終末っぽいって言ったら、終末っぽいのか?
歌詞を見る限り、内容が全然理解できないけど、
もしかしたら終末の曲なのかもしれない……と思わなくもない曲。
そんな変わり種の今日の一曲目、愛知県のジャガー・ニャンピョウのリクエストで、
サイキックラバーの『いつも手の中に』――」
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