ベランダに出ると他人の家が見える。
このマンションの構造上、内向きにも縁側が作られている。
日の光は入ってこず、湿気が多い。冬になれば部屋と外の温度差で結露が窓を支配する。
構造的欠陥に文句を言うこともなく、大量の雫を拭き取る。
窓を開け、外にでる。向かいの部屋はカーテンで遮られ、中の様子はわからない。
こちらと向こう側までは約10メートル。少し大きな脚立が対岸を繋ぐ橋になりえる距離。
俺は他人の窓に背を向けて、冷たい空気に身を震わせながら濡れたガラスを拭こうとした。
「こんにちはー!!お向かいさん!!」
誰かの声に背中を押された。
振り返ると、そこには欄干に胸を乗せるようにして身を乗り出し、微笑んでいる少女がいた。
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3:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 16:36:55.19:WTh2oe4V0
どうも、とだけ返事をする。少女に届いたか分からないほどの声だった。
「なにしてるんですか?」
無邪気な好奇心で包まれた質問。特に何も思うこともなく、窓を拭いているとだけ伝えた。
「そうなんですかぁ」
それで会話を切り、窓ガラスを磨く。
時折、ガラスに映る少女の姿が気になったが、優先するべきは自分のこと。
全ての水分を拭き取ると、俺は対岸を見た。
少女の姿はない。ただ、吹き抜ける風が寒いだけ。
部屋に入り、鍵を閉め、リビングに向かった。
5:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 16:43:20.30:WTh2oe4V0
翌朝。カーテンを開けた。当然、日の光はない。
窓を開けて換気をする。朝の冷風が押し寄せ、机においてあったプリントが吹き飛んだ。
慌ててそれを拾おうと、向こう岸から視線を外した。
「おはようございまーす!!」
朝から威勢の良い声がした。肩越しに後ろを見れば、昨日見た少女だった。
近所にある学校の制服を着ている。その姿に一瞬だけ見惚れた。
「なにしてるんですか?」
昨日の同じ問い。俺は正直に答える。
「大変ですねぇ」
少女は微笑みながら、他人事だと言わんばかりの口調で告げた。
何か用事でもあるのか。そう訊こうかとも思ったが、俺は飛ばされたプリントを拾い集めることを優先する。
視線を戻したときには少女はいなかった。
6:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 16:50:32.22:WTh2oe4V0
夜。帰宅してから数時間が経過し、寝室へと移動した。
部屋の明かりをつけ、本を読もうと本棚に近づく。
ふと、閉じられたカーテンが目に入る。
あの少女が覗いているのではないか、と不安になった。
夜にまで見られているのはあまり気分の良いものではない。
何故か足音を殺しながら窓へと向かい、指でカーテンに僅か隙間を作る。
外は廊下を照らす白光でほんのりと明るい。誰かがベランダに立っていればすぐにわかる。
しかし、向こう側の窓は暗く、鏡になっており、俺の情けない姿を映しているだけだった。
安堵してベッドに潜った。
9:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 16:58:27.09:WTh2oe4V0
翌朝。当然のようにカーテンを開ける。
少女の姿はなかった。
換気するために窓を全開にする。早朝の冷え切った微風が前髪を揺らす。
「おはようございまーす!!」
その頑健な挨拶に背中が震えた。振り向けば、またあの少女が制服を着て、笑っていた。
「なにしてるんですか?」
一言一句違わない問い。何もしていない。ただ、窓を開けただけだと答えるしかない。
「へえ……そうなんですか」
興味があるのかないのか、はっきりとしない返事。無視してもよかったが、昨日、一昨日とは違う。
俺にはやるべきことがなく、また少女のことも気になっていた。
君はなにをしているのか、ただそれだけが知りたかった。
少女は屈託なく告げる。
「なにもしていません。何もすることがないので」
10:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 17:05:59.68:WTh2oe4V0
首を傾げると、彼女は続けた。
「えへへ。いやー、朝は起きてすぐに外の空気を吸うのが健康にいいんですよね?」
それはいいことなのか判断できないので、肯定も否定もしない。
「お兄さんも私と一緒じゃないんですか?」
いいや、と頭を振る。先ほど説明したこと以外に意味なんてない。
少女は笑いながら、それもそうですねえ、と頬を掻いた。
そろそろ朝食の時間であることを伝えると、彼女は胸元で手を合わせた。
「いただきます、しないとだめですよ?」
頷き、俺はリビングへと移動した。
十数分後、案の定、少女の姿はなかった。
11:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 17:13:49.42:WTh2oe4V0
その日の晩。寝る前にカーテンを少しだけ開けた。
昨日と変わらない。廊下側から漏れる蛍光灯の光が夜の暗闇を払拭している。
少女の姿は見当たらない。
特に何もない。それが普通のこと。
夜にまで朝の豪快でいて強壮な声を出されては近所迷惑でもある。
カーテンの隙間を閉じ、電気を消す。
天井を見つめながら、朝のことを思い出す。
不思議な少女。
元気な挨拶。
ただのご近所付き合いだと思えばいい。
珍しいことでもないだろうと考えつつ、まどろみに身を委ねた。
12:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 17:21:55.55:WTh2oe4V0
朝。日課の動作を済ませ、リビングへ足を向けた。
「おはようございまーす!!」
抵抗なく挨拶を交わす。窓辺から喋るだけの人。向こう岸までの距離以上に俺と彼女には隔たりがある。
それでも動揺することなく返事をするだけの余裕は生まれつつあった。
「なにをしているんですか?」
見ればわかるだろう、と自嘲気味に言ってみる。俺は本当になにもしていない。
「私と一緒ですね」
微笑する彼女に引寄せられるように、俺はベランダに出た。
「今日も寒いですね」
頷く。確かに寒い。ベランダに出るだけでもジャケットは着た方がいい。
「着てきたらどうですか?」
そうすると言って部屋に戻り、ジャケットを羽織った。
戻ってみると、少女の姿は―――。
「おかえりなさい」
そこにかわらず、あった。
14:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 17:28:29.75:WTh2oe4V0
「普段はなにをされているんですか?」
大学生。そういうことにしておいた。
実際は学校にも殆ど行かず、家に寄生しているだけ。
楽しみといえば食事と睡眠ぐらいだ。
「趣味とかあります?」
高校まではテニスをしていたが、それも中途半端な実力がついただけ。
ラケットもなんの未練もなく捨てることが出来た。
現時点では好きなものはない。
「楽しんですか、それ?」
憐れみの目が突き刺さる。確かに毎日無気力にいるだけで、楽しいことはない。
「ですよね。私も同じですから」
趣味がないのかと口から出る前に、彼女は言う。
「何もないんですよ。だから、趣味もありません」
15:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 17:34:46.50:WTh2oe4V0
何もない。その言い方が耳朶に残った。
「それではそろそろ失礼しますね」
そう言って少女は部屋の中へと姿を消した。
彼女のいう何もないが一体、どういうことを意味しているのか。
少しばかり考えてみるものの、すぐにどうでも良くなった。
所詮は他人のことだ。俺が気にしても仕方ない。
部屋に入り、もう一度彼女が居た場所を見る。
寒そうな白い壁と、錆びた欄干、そして空席になったベランダだけがそこにある。
あぁ、と声を漏らす。
あの子がいないと、結構寂しい場所なんだな。と今更気がついた。
16:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 17:43:31.45:WTh2oe4V0
翌朝。今日はカーテンを開けると、既に少女が対岸にいた。
ただ、俺のほうは見ずにただぼんやりと狭い寒空を仰いでいる。
窓をスライドさせると、いつものように少女は無垢な笑みを浮かべる。
「おはようございまーす!!」
彼女は手を大きく振ったので、こちらも挨拶と一緒に振り返す。
「今日は何をしているんですか?」
昨日と同じ問い。だから同じ答えを添える。
それでも少女は、そうなんですか、と関心があるのかないのかわからない感想を言う。
だから、負けじとこちらも昨日と同様の疑問を投げかける。
君はなにをしているのか、と。
だが、得られた答えはやはり変わらない。
「何も。何もないですから」
そう言うように指示されているかのように、軽やかな口調で言う。
少女は笑っていた。
19:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 17:52:43.45:WTh2oe4V0
何もない、とは、どの程度のことを言っているのか。
「そうですね。何もないんです。そうとしかいえません」
少し間を置く。どのような設問にすれば、その先の答えが聞けるのか思案する。
冗談交じりに家はあるじゃないか。服もあるじゃないか。そういった。
「あー、確かに。そうですね。一本、とられましたぁ!」
俺のふざけた言葉に合わせたのか少女は大げさに破顔した。
でも、それ以上のものは彼女から零れそうになかった。
諦めて次の話題を探そうとしたとき、笑い声が凍りつく。
「家があっても服があっても、私には何もないんです」
そのとき初めて、温暖だった彼女の季節が冬に近づいた気がした。
21:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 18:02:17.59:WTh2oe4V0
その言葉の真意を問う。
「話すほどのことではありません」
健やかな笑みを残して、彼女は姿を消した。
体が震えた。自分の手に白い息を吐きつつ、部屋へと戻る。
換気は十分だろう。窓をそっと閉めた。
それにしても、彼女の言う何もないとはいかなるものなのか。
夢や希望、将来、あとはお金だろうか。
だが、考えられるのはここまで。
あの表情を見てしまっては踏み込むかどうか逡巡してしまう。
そしてそう言う場合、踏み込まないほうがいい。
仮に彼女が俺に何か救いを求めているにしても、気の効いた台詞が喉の奥から出てくるとは思えない。
きっと失望させるだけだろう。
あのベランダとの距離は埋められないのと同じように、きっと縮めてはいけないもの。
これからはもう少し言動に気をつけて、近所付き合いを楽しもうと思った。
22:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 18:09:40.52:WTh2oe4V0
それからは毎朝、少女は必ず向こう岸に立っていた。
ベランダに出て、挨拶をする。
気温が低いことに文句をいい、互いの変化など見られない日常を報告する。
そして俺が一つ冗談を言う。彼女はそれに微笑む。
それだけで十分に楽しかった。
寒いだけだった朝に色が付け加えられたのだ。
この数分の朝だけが、俺にとって特別になっていく。
夜になれば日が昇るのを待ち遠しく思い、目が覚めれば幸福に酔う。
そんな日が数日続き、いつしか少女との会話は何事にも優先され始めた。
この距離がとても心地よかった。
簡単に届くけれど、手を伸ばすだけでは足りないこの距離感が。
25:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 18:20:34.13:WTh2oe4V0
少女と出会ってから二回目の週末が訪れた。
日曜日の朝は普段よりも寒気が和らいでいて、結露も大して発生していなかった。
カーテンを勢いよくあけると、いつもと同じように少女はいた。
茫々とした眼差しで空を見上げている。
釣られて俺も空を見る。建物の所為で空は狭められているが、天候だけははっきりと分かる。
曇天だ。
ベランダに出ると少女は笑顔になる。こうして話すことは彼女にとっても楽しみになっているのだろうか。
「おはようございまーす!!」
活発な声は反響し、空へと昇り、消えていく。そろそろ文句が出てもおかしくない。
「今日はなにをしているんですか?」
飽きもせずにその台詞を口にする。もはや、これも礼の一つになりつつある。
何もしてないよ。何もすることがない。そう答える。
いつもなら好奇の有無が判別できない言葉を聞くことになる。しかし、今日は違った。
「じゃあ、このまましばらくお話しませんか?」
彼女との距離がふいに無くなったようで、俺は戸惑った。
26:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 18:30:06.46:WTh2oe4V0
何を話すのか。動揺を隠すように訊いた。
「なんでもいいです。何を話しましょうか?」
しばらく見つめあい、次の句を必死に探した。
先に見つけたのは少女のほうだった。
「あの休日は一日中、何もしていないんですか?」
訊かれて、ここ半年の休日を振りかえる。
家で惰眠を貪っていた記憶しかない。
そのまま伝えるのは流石にカッコ悪いと思い、俺は嘘を吐く。
大学での課題をしたり、バイトにいったり、そんな当たり障りのないことをいう。
課題なんて大学に行っていないのだから課題そのものが手元にない。
バイトに至っては先月に半日で辞めて以来、情報誌すら手にとってはいなかった。
「へえ、すごいですね」
内心、焦った。もし、その嘘に突っ込んできたらどうしようか。更に俺は嘘を上塗りしないといけない。
咄嗟に架空の課題とバイト先を頭の中ででっちあげたが、必要はなかった。
彼女はただ微笑んでいた。俺の嘘を見透かしているように、優しく。
27:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 18:39:09.62:WTh2oe4V0
「じゃあ、次は私の話をさせてくれませんか?」
どうぞ、と俺は右手の平を差し出した。
「平日は学校に行ってます。部活には入ってません。運動は好きなんですけど」
彼女はしばらく学校での様子を訥々と語り始める。
授業中での態度。クラスの雰囲気。ノートの取りかた。友達との関係。
聞けば聞くほど、彼女は私生活において充実しているようだった。
途中、話を断ち切って、何もないなんて嘘じゃないか。と口を挟みそうになるほどに。
そして週末の学校生活を語り終えると、「はい。私の話は終わりです」とやや唐突に話を断った。
長々と聞いていても、そうなんだ。としか言えない。俺はそういう人間だ。
愛想を尽かされても文句は言えないが、彼女は笑みを浮かべてお礼を言う。
「ありがとうございます。私の話を聞いてくれて」
俺はただ頷くだけだった。
28:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 18:47:59.62:WTh2oe4V0
「では、次は私の休日について」
冷たい風が下から吹いてくる。俺と彼女の前髪を揺らす。
そして冷風は彼女の言葉に巻き付く。
「私には何もありません」
背筋が震えた。
「何もないってどういうことだと思いますか?」
分からない。
「家があっても、お金があっても、友人がいても、食べ物があっても、それでも何もないって感じるときはありませんか?」
どうだろう。
「自分に価値がないと、正直何も無いのと一緒ですよね?」
自分は何の役にも立っていない。そういうことだろうか。
彼女が俺に何を言いたいのか、まだ分からない。
困惑する俺を見かねて、彼女は付け加えた。
「私、誰からも必要とされていないんです」
きっと答えも同然だった。だけど、俺の口が開くことはない。
29:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 18:56:11.30:WTh2oe4V0
「携帯電話が鳴ることはありませんし、親が私になにかを求めることもない」
そんなことはない。そう安っぽい台詞でいいのか悩んでいる間にも彼女は続ける。
「学校で話すだけで私生活では誰とも関われない。勉強ができても誰も関わってこない」
「それって、価値がない。ってことですよね?」
光の無い眼差しが俺を捉えている。
沈黙だけが俺にできる精一杯の虚勢だった。
「ま、学生にはよくある悩みなのかもしれませんけど」
彼女が寂しげに笑う。胸に痛みが走った気がした。
彼女は俺に何を期待して、そんな話を始めたのか。
どんな言葉を待っているのか。
そもそも、どうして俺に声をかけたのか。
色んな疑問が頭の中で回る。けれど、出た言葉は、そうかも。という平常通りの距離感を保った冷酷な返事だけ。
「そうですよね」
そういって少女は手を振って部屋の中に戻っていった。
俺はしばらく欄干に凭れかかり、狭い空を仰ぎ見ていた。額に一粒の雨が落ちてきた。
30:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 19:02:47.45:WTh2oe4V0
翌朝から少女の姿がなくなった。
当然の帰結だろう。
俺はそれだけのことをしたし、それまでの男でしかない。
失った日常は大きいような気もするし、歯牙にもかけないようなものだった気もする。
カーテンを開けて、少女の姿がないことを確認する。
窓を開けて、対岸に背を向けても、朝の挨拶は聞こえてこない。
落胆はなかった。
元の毎日に戻っただけ。
この二週間は本当に楽しかった。だから満足するべきだ。
俺はリビングに向かい、味気の無い朝食を嚥下する。
食べ終えて時計の針を見る。
そのとき初めて、微かな喪失感を覚えた。
31:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 19:11:16.81:WTh2oe4V0
翌日も翌々日も彼女の姿がない。
日が増すにつれ、カーテンを開ける前の期待と後の失意が大きくなっていく。
今日も姿は見えず、深い嘆息をつく。
白く濁った自分の息が消えていくのを見ながら、この部屋と自分の心が同じように凍えていることに気づく。
夜にこっそり外を眺めてみても、やはり少女の姿はない。
照明を落とし、黒く染まった天井を見ながら、あの元気な挨拶はもう聞けないのか。そんな不安が頭をよぎる。
どうしてそう思うか。
ただの近所付き合いで始めた朝の会話。
それが楽しくて、嬉しくて、そして少女に見栄まで張って、会話をした。
溜息をもらし、寝返りをうつ。
自然と彼女の姿と声を思い出し、もう一度、と呟いていた。
33:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 19:18:34.29:WTh2oe4V0
彼女の出会ってから三回目の週末。
ベランダに出た。日曜日以来だった。
もう彼女には会えない。漠然とそう感じ始めていた。
あの距離感はもう味わえない。
もし会おうとするなら、この岸と岸を橋で繋ぐしかなく、二週間前には戻れない。
空虚な向こう側を眺めながら、俺は決心をした。
風が止むのを待つ。
頭のどこかで失敗してほしいと願う自分を確認する。
それでも風が止むと俺は自然と腕を思い切り振った。
向こう岸に袋に包まれたキャンディーが落ちる。
すぐさま後悔の念と自分の行動に対する嫌悪が押し寄せてきた。
でも、これでいい。
こうでもしないと、きっとあの子とは話せないから。
34:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 19:26:01.37:WTh2oe4V0
その次の日から俺はカーテンを開けることをやめた。
開けても彼女はいない。それが理由だった。
カーテンを閉めたままでも窓は開けられる。不都合なことはない。
そして夜を迎えるたびに虚無感に苛まれる。
もしかしたら居たかもしれない。そんなありもしない幻想を嘱望する。
だが、その閉じられた布に手をかけることはしなかった。
俺の出来ることは全てやった。
だから、その結果が出るまで待つことにしたのだ。
久しぶりに大学に行こうと思い立ち、準備を始めた。
どちらかというと家にはいたくなかった。
これからは真面目に大学に行くことになるかもしれない。
少女に感謝しないと、と電車内で考えた自分に呆れ、下を向いた。
汚い靴が目に入った。
35:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 19:32:02.14:WTh2oe4V0
数日が経過しても、大学にいく気力は萎えなかった。
家にいるのが辛いという所為もあるが、それでも半年も休学同然だった自分からすれば驚くべきこと。
しかし、講義の内容が頭に入ってきたことはない。
講師の言葉はただのBGMでしかなく、俺のノートはまだ真新しい。
前方の黒板よりもやや上をぼんやりと眺めつつ、少女の姿と声が頭の中に映りこむ。
もう彼女のことを考えない日はなかった。
けれど、あれからもうすぐ一週間。
そろそろ潮時だろう。
明日になっても何もないなら諦めるしかない。
俺はポケットにいれていた携帯電話を強く握りしめていた。
36:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 19:37:14.36:WTh2oe4V0
何の前触れも無く携帯電話が震えたのは、午後の講義が始まって15分ぐらいが経ってからだった。
ポケットからゆっくりと取り出し、履歴を見た。
登録されていないためにアドレスがむき出しで表示されている。
画面を開くと『夜に』とだけ書かれていた。
何の感情もない無機質な機械が打ち出した文字。
それでも俺の心音は胸から飛び出し、講義の妨害をしてもおかしくないほどでかく感じられた。
胸を押さえて、深呼吸を二回。
時計を見る。
夜まであと3時間ほどだった。
38:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 19:42:44.93:WTh2oe4V0
時間の指定はなかったために、日が落ちた6時ごろからベランダに出ていた。
厚着しても尚、夜の気温は容赦せずに身も心も震わせてくれる。
携帯電話で時刻を確認する。
もうすぐ8時になる。
現れないのか。そんなことを思う。
でも、こうして反応があった以上は、いつまでも待つつもりで居た。
もしかしたらカーテンの向こうでは友人を呼んで俺のことを指差し笑っているかもしれない。
それでもいい。
俺はそうされるだけのことをしたのだから。
震える手で携帯電話を見る。
時刻は9時になる。
彼女の姿は、ない。
39:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 19:49:43.95:WTh2oe4V0
液晶画面に寒々しく0:00と表示された。
諦観し、もう部屋に戻ろうかと何度も思う。
けれどその気を押し留めてくれるのは、朝の挨拶だった。
彼女と交わす朝の日常が恋しくて、自分はここにいた。
午前1時。とうとう眠気が襲ってきた。
欄干に凭れ、夜空を見上げる。
狭小な夜でも星がきちんと輝いていた。
そんなとき流れ星が目にはいった。生まれて初めて見た所為か、できもしないのに流れていった方向を目で追った。
そして、視線が真後ろにきたとき。
「こんばんは、お向かいさん」
少女がそこにいた。
41:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 19:59:42.85:WTh2oe4V0
久しぶり、と気さくに片手を挙げた。
少女は何も言わずこちらを見つめている。
いつも空を眺めていた、おぼろげな眼差しで。
大きく深呼吸をして、言葉を紡ぐ。
「ありがとう。見てくれて」
彼女はキャンディーの包み紙を取り出し、こんなことしてなんのつもりですか、と問う。
「アドレスを書いておけばメールしてくれると思った。ただそれだけ」
「飴は美味しかったです」
「よかった」
小さな笑い声が響く。
その弛緩した空気は気持ちよかった。
いつまでも浸っていたいと思えた。
だけど、その想いを断ち切るように喉から絞りだすようにして声を出す。
「君に会えなくて辛かった」
それだけなのに舌がうまく回らず、二回も言い直した。
43:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 20:10:50.98:WTh2oe4V0
それを言えたあとは、堰を切ったように言葉があふれてきた。
「ずっと君のことを考えていた」
彼女はいつもと同じ好奇心があるかどうかわからない表情でいる。
「君と出会ってから、毎日が、正確には朝が楽しくて仕方が無かった」
「だから、君と会えなくなってから、俺には何も無くなった気がした」
彼女の双眸が僅かに大きくなった。
「君の気持ちがよくわかった。何もないって、こういうことだったんだな」
俺はあの朝だけ必要とされていた。
それが嬉しかった。
思えば俺は今まで一度も誰かに期待されたり必要とされたことがなかった。
学校でも家でも。
ただ彼女と違うのは、俺の周囲に人がいなかった点だ。
彼女は外での環境には恵まれているからこそ、家に帰るとその疎外感は強くなっていたんだろう。
一方の俺は外でも内でもそもそも俺に構ってくれる人がいなかった。
故に彼女が何を求めているのか分からなかったし、知りようもなかった。孤独に慣れ過ぎた、駄目な男が俺だ。
46:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 20:20:53.27:WTh2oe4V0
「君に初めて必要とされることに喜びを覚えた」
少女は俯く。
「こんなに楽しかったのは生まれて初めてって思えるほどだった」
喉が渇いていた。唾液を飲み込もうにも口内は枯渇している。
「今だから君に言えることがある」
少女の顔が上がる。俺と彼女の視線が交錯し、それを断つようにして風が吹き上げる。
それでも俺は目を瞑らなかった。瞑ればあの子がいなくなるような気がして。
「俺が君を必要としている。ちっぽけな価値だけど、何もないよりはマシだと思う」
到底、人の心を動かすには値しない、月並みの台詞。
ここ数日、考えに考えた安っぽい説得。
でも、俺にはこういうしかない。
「それが言いたかったんですか?」
少女の声に棘があるのも仕方が無い。
「それは君の見る目がなかったんだ」
だからこそ、一生懸命に俺は笑った。
48:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 20:28:36.68:WTh2oe4V0
「ふふ……なんですか、それ?」
彼女が笑う。いつもの朝が戻ってきていた。
「あのさ、どうして俺に声をかけたんだ?」
少女は口元に人差し指を当てて考える素振りをしつつ、柔らかい声で答える。
「いつも一人みたいだったんで、もしかしたら私の気持ちにも気づいてくれるかなって」
彼女曰く、ただ共感してほしかっただけだという。
友人や周囲の大人にその悩みを言っても当たり障りの無いもので、共感には程遠いものだった。
そんな中、いつも一人でいるお向かいさんになら、もしかしたらと考えたらしい。
「ごめんなさい。ただ、構って欲しかっただけなんです。それだけなのに」
彼女は精一杯の笑顔を浮かべ、
「あなたを困らせた」
涙を流していた。
49:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 20:34:16.52:WTh2oe4V0
それからすぐに彼女は泣きやみ、平素の姿に戻った。
「またメールしてもいいですか?」
俺は頷く。
「電話は?」
勿論、と答える。
「えっと……じゃあ、また」
そういって部屋に戻ろうとするのを俺は引きとめた。
「なんですか?」
ずっとポケットにいれていたキャンディーを投げる。
キャンディーは見事に彼女の両手に納まった。
「ありがとうございます」
夜の会話は終わった。
その余韻で中々部屋に戻れず、ベランダに立ち尽くしていた。
そんな中、携帯電話が震えた。メールが着たようだ。内容を確認してみる。
眩しい液晶画面には『これからもベランダで』と表示されていた。
52:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 20:43:01.39:WTh2oe4V0
翌朝。鳥の囀りが僅かに窓を通り過ぎて聞こえてくる。
冷え切った床に足を下ろすと、体の芯まで寒さが伝導する。
カーテンを開ける。窓を静かに開ける。
ベランダはいつも綺麗にしてある。だって、あの人に嫌われたくないから。
まだ朝の挨拶までは時間がありそうなので、空を見上げてみる。
雲が流れてその隙間から日の光が差し込んでいる。
今日は晴れ。体育の授業は残念ながら長距離走になるだろう。
それでも今日は一日上機嫌で過ごせるはずだ。またあの楽しみだった朝が戻ってきたのだから。
ただ共感が欲しかっただけなのに、それ以上の優しさを私にくれた。
だから今日もいっぱい共感してほしい。私のことを知ってほしい。
大好きな貴方に挨拶をするのが嬉しいって、感じて欲しい。
向こう側の窓がスライドする。私は満面の笑みを作ってスタンバイ。
間の抜けた彼の顔が視界に入る。私は大きく息を吸い、近所のことも考えずに叫ぶ。
「―――おはようございまーす!!お向かいさん!!」
END
54:ローカルルール・名前欄変更議論中@自治スレ:2012/01/16(月) 20:45:52.66:Af5U2P330
どうも、とだけ返事をする。少女に届いたか分からないほどの声だった。
「なにしてるんですか?」
無邪気な好奇心で包まれた質問。特に何も思うこともなく、窓を拭いているとだけ伝えた。
「そうなんですかぁ」
それで会話を切り、窓ガラスを磨く。
時折、ガラスに映る少女の姿が気になったが、優先するべきは自分のこと。
全ての水分を拭き取ると、俺は対岸を見た。
少女の姿はない。ただ、吹き抜ける風が寒いだけ。
部屋に入り、鍵を閉め、リビングに向かった。
翌朝。カーテンを開けた。当然、日の光はない。
窓を開けて換気をする。朝の冷風が押し寄せ、机においてあったプリントが吹き飛んだ。
慌ててそれを拾おうと、向こう岸から視線を外した。
「おはようございまーす!!」
朝から威勢の良い声がした。肩越しに後ろを見れば、昨日見た少女だった。
近所にある学校の制服を着ている。その姿に一瞬だけ見惚れた。
「なにしてるんですか?」
昨日の同じ問い。俺は正直に答える。
「大変ですねぇ」
少女は微笑みながら、他人事だと言わんばかりの口調で告げた。
何か用事でもあるのか。そう訊こうかとも思ったが、俺は飛ばされたプリントを拾い集めることを優先する。
視線を戻したときには少女はいなかった。
夜。帰宅してから数時間が経過し、寝室へと移動した。
部屋の明かりをつけ、本を読もうと本棚に近づく。
ふと、閉じられたカーテンが目に入る。
あの少女が覗いているのではないか、と不安になった。
夜にまで見られているのはあまり気分の良いものではない。
何故か足音を殺しながら窓へと向かい、指でカーテンに僅か隙間を作る。
外は廊下を照らす白光でほんのりと明るい。誰かがベランダに立っていればすぐにわかる。
しかし、向こう側の窓は暗く、鏡になっており、俺の情けない姿を映しているだけだった。
安堵してベッドに潜った。
翌朝。当然のようにカーテンを開ける。
少女の姿はなかった。
換気するために窓を全開にする。早朝の冷え切った微風が前髪を揺らす。
「おはようございまーす!!」
その頑健な挨拶に背中が震えた。振り向けば、またあの少女が制服を着て、笑っていた。
「なにしてるんですか?」
一言一句違わない問い。何もしていない。ただ、窓を開けただけだと答えるしかない。
「へえ……そうなんですか」
興味があるのかないのか、はっきりとしない返事。無視してもよかったが、昨日、一昨日とは違う。
俺にはやるべきことがなく、また少女のことも気になっていた。
君はなにをしているのか、ただそれだけが知りたかった。
少女は屈託なく告げる。
「なにもしていません。何もすることがないので」
首を傾げると、彼女は続けた。
「えへへ。いやー、朝は起きてすぐに外の空気を吸うのが健康にいいんですよね?」
それはいいことなのか判断できないので、肯定も否定もしない。
「お兄さんも私と一緒じゃないんですか?」
いいや、と頭を振る。先ほど説明したこと以外に意味なんてない。
少女は笑いながら、それもそうですねえ、と頬を掻いた。
そろそろ朝食の時間であることを伝えると、彼女は胸元で手を合わせた。
「いただきます、しないとだめですよ?」
頷き、俺はリビングへと移動した。
十数分後、案の定、少女の姿はなかった。
その日の晩。寝る前にカーテンを少しだけ開けた。
昨日と変わらない。廊下側から漏れる蛍光灯の光が夜の暗闇を払拭している。
少女の姿は見当たらない。
特に何もない。それが普通のこと。
夜にまで朝の豪快でいて強壮な声を出されては近所迷惑でもある。
カーテンの隙間を閉じ、電気を消す。
天井を見つめながら、朝のことを思い出す。
不思議な少女。
元気な挨拶。
ただのご近所付き合いだと思えばいい。
珍しいことでもないだろうと考えつつ、まどろみに身を委ねた。
朝。日課の動作を済ませ、リビングへ足を向けた。
「おはようございまーす!!」
抵抗なく挨拶を交わす。窓辺から喋るだけの人。向こう岸までの距離以上に俺と彼女には隔たりがある。
それでも動揺することなく返事をするだけの余裕は生まれつつあった。
「なにをしているんですか?」
見ればわかるだろう、と自嘲気味に言ってみる。俺は本当になにもしていない。
「私と一緒ですね」
微笑する彼女に引寄せられるように、俺はベランダに出た。
「今日も寒いですね」
頷く。確かに寒い。ベランダに出るだけでもジャケットは着た方がいい。
「着てきたらどうですか?」
そうすると言って部屋に戻り、ジャケットを羽織った。
戻ってみると、少女の姿は―――。
「おかえりなさい」
そこにかわらず、あった。
「普段はなにをされているんですか?」
大学生。そういうことにしておいた。
実際は学校にも殆ど行かず、家に寄生しているだけ。
楽しみといえば食事と睡眠ぐらいだ。
「趣味とかあります?」
高校まではテニスをしていたが、それも中途半端な実力がついただけ。
ラケットもなんの未練もなく捨てることが出来た。
現時点では好きなものはない。
「楽しんですか、それ?」
憐れみの目が突き刺さる。確かに毎日無気力にいるだけで、楽しいことはない。
「ですよね。私も同じですから」
趣味がないのかと口から出る前に、彼女は言う。
「何もないんですよ。だから、趣味もありません」
何もない。その言い方が耳朶に残った。
「それではそろそろ失礼しますね」
そう言って少女は部屋の中へと姿を消した。
彼女のいう何もないが一体、どういうことを意味しているのか。
少しばかり考えてみるものの、すぐにどうでも良くなった。
所詮は他人のことだ。俺が気にしても仕方ない。
部屋に入り、もう一度彼女が居た場所を見る。
寒そうな白い壁と、錆びた欄干、そして空席になったベランダだけがそこにある。
あぁ、と声を漏らす。
あの子がいないと、結構寂しい場所なんだな。と今更気がついた。
翌朝。今日はカーテンを開けると、既に少女が対岸にいた。
ただ、俺のほうは見ずにただぼんやりと狭い寒空を仰いでいる。
窓をスライドさせると、いつものように少女は無垢な笑みを浮かべる。
「おはようございまーす!!」
彼女は手を大きく振ったので、こちらも挨拶と一緒に振り返す。
「今日は何をしているんですか?」
昨日と同じ問い。だから同じ答えを添える。
それでも少女は、そうなんですか、と関心があるのかないのかわからない感想を言う。
だから、負けじとこちらも昨日と同様の疑問を投げかける。
君はなにをしているのか、と。
だが、得られた答えはやはり変わらない。
「何も。何もないですから」
そう言うように指示されているかのように、軽やかな口調で言う。
少女は笑っていた。
何もない、とは、どの程度のことを言っているのか。
「そうですね。何もないんです。そうとしかいえません」
少し間を置く。どのような設問にすれば、その先の答えが聞けるのか思案する。
冗談交じりに家はあるじゃないか。服もあるじゃないか。そういった。
「あー、確かに。そうですね。一本、とられましたぁ!」
俺のふざけた言葉に合わせたのか少女は大げさに破顔した。
でも、それ以上のものは彼女から零れそうになかった。
諦めて次の話題を探そうとしたとき、笑い声が凍りつく。
「家があっても服があっても、私には何もないんです」
そのとき初めて、温暖だった彼女の季節が冬に近づいた気がした。
その言葉の真意を問う。
「話すほどのことではありません」
健やかな笑みを残して、彼女は姿を消した。
体が震えた。自分の手に白い息を吐きつつ、部屋へと戻る。
換気は十分だろう。窓をそっと閉めた。
それにしても、彼女の言う何もないとはいかなるものなのか。
夢や希望、将来、あとはお金だろうか。
だが、考えられるのはここまで。
あの表情を見てしまっては踏み込むかどうか逡巡してしまう。
そしてそう言う場合、踏み込まないほうがいい。
仮に彼女が俺に何か救いを求めているにしても、気の効いた台詞が喉の奥から出てくるとは思えない。
きっと失望させるだけだろう。
あのベランダとの距離は埋められないのと同じように、きっと縮めてはいけないもの。
これからはもう少し言動に気をつけて、近所付き合いを楽しもうと思った。
それからは毎朝、少女は必ず向こう岸に立っていた。
ベランダに出て、挨拶をする。
気温が低いことに文句をいい、互いの変化など見られない日常を報告する。
そして俺が一つ冗談を言う。彼女はそれに微笑む。
それだけで十分に楽しかった。
寒いだけだった朝に色が付け加えられたのだ。
この数分の朝だけが、俺にとって特別になっていく。
夜になれば日が昇るのを待ち遠しく思い、目が覚めれば幸福に酔う。
そんな日が数日続き、いつしか少女との会話は何事にも優先され始めた。
この距離がとても心地よかった。
簡単に届くけれど、手を伸ばすだけでは足りないこの距離感が。
少女と出会ってから二回目の週末が訪れた。
日曜日の朝は普段よりも寒気が和らいでいて、結露も大して発生していなかった。
カーテンを勢いよくあけると、いつもと同じように少女はいた。
茫々とした眼差しで空を見上げている。
釣られて俺も空を見る。建物の所為で空は狭められているが、天候だけははっきりと分かる。
曇天だ。
ベランダに出ると少女は笑顔になる。こうして話すことは彼女にとっても楽しみになっているのだろうか。
「おはようございまーす!!」
活発な声は反響し、空へと昇り、消えていく。そろそろ文句が出てもおかしくない。
「今日はなにをしているんですか?」
飽きもせずにその台詞を口にする。もはや、これも礼の一つになりつつある。
何もしてないよ。何もすることがない。そう答える。
いつもなら好奇の有無が判別できない言葉を聞くことになる。しかし、今日は違った。
「じゃあ、このまましばらくお話しませんか?」
彼女との距離がふいに無くなったようで、俺は戸惑った。
何を話すのか。動揺を隠すように訊いた。
「なんでもいいです。何を話しましょうか?」
しばらく見つめあい、次の句を必死に探した。
先に見つけたのは少女のほうだった。
「あの休日は一日中、何もしていないんですか?」
訊かれて、ここ半年の休日を振りかえる。
家で惰眠を貪っていた記憶しかない。
そのまま伝えるのは流石にカッコ悪いと思い、俺は嘘を吐く。
大学での課題をしたり、バイトにいったり、そんな当たり障りのないことをいう。
課題なんて大学に行っていないのだから課題そのものが手元にない。
バイトに至っては先月に半日で辞めて以来、情報誌すら手にとってはいなかった。
「へえ、すごいですね」
内心、焦った。もし、その嘘に突っ込んできたらどうしようか。更に俺は嘘を上塗りしないといけない。
咄嗟に架空の課題とバイト先を頭の中ででっちあげたが、必要はなかった。
彼女はただ微笑んでいた。俺の嘘を見透かしているように、優しく。
「じゃあ、次は私の話をさせてくれませんか?」
どうぞ、と俺は右手の平を差し出した。
「平日は学校に行ってます。部活には入ってません。運動は好きなんですけど」
彼女はしばらく学校での様子を訥々と語り始める。
授業中での態度。クラスの雰囲気。ノートの取りかた。友達との関係。
聞けば聞くほど、彼女は私生活において充実しているようだった。
途中、話を断ち切って、何もないなんて嘘じゃないか。と口を挟みそうになるほどに。
そして週末の学校生活を語り終えると、「はい。私の話は終わりです」とやや唐突に話を断った。
長々と聞いていても、そうなんだ。としか言えない。俺はそういう人間だ。
愛想を尽かされても文句は言えないが、彼女は笑みを浮かべてお礼を言う。
「ありがとうございます。私の話を聞いてくれて」
俺はただ頷くだけだった。
「では、次は私の休日について」
冷たい風が下から吹いてくる。俺と彼女の前髪を揺らす。
そして冷風は彼女の言葉に巻き付く。
「私には何もありません」
背筋が震えた。
「何もないってどういうことだと思いますか?」
分からない。
「家があっても、お金があっても、友人がいても、食べ物があっても、それでも何もないって感じるときはありませんか?」
どうだろう。
「自分に価値がないと、正直何も無いのと一緒ですよね?」
自分は何の役にも立っていない。そういうことだろうか。
彼女が俺に何を言いたいのか、まだ分からない。
困惑する俺を見かねて、彼女は付け加えた。
「私、誰からも必要とされていないんです」
きっと答えも同然だった。だけど、俺の口が開くことはない。
「携帯電話が鳴ることはありませんし、親が私になにかを求めることもない」
そんなことはない。そう安っぽい台詞でいいのか悩んでいる間にも彼女は続ける。
「学校で話すだけで私生活では誰とも関われない。勉強ができても誰も関わってこない」
「それって、価値がない。ってことですよね?」
光の無い眼差しが俺を捉えている。
沈黙だけが俺にできる精一杯の虚勢だった。
「ま、学生にはよくある悩みなのかもしれませんけど」
彼女が寂しげに笑う。胸に痛みが走った気がした。
彼女は俺に何を期待して、そんな話を始めたのか。
どんな言葉を待っているのか。
そもそも、どうして俺に声をかけたのか。
色んな疑問が頭の中で回る。けれど、出た言葉は、そうかも。という平常通りの距離感を保った冷酷な返事だけ。
「そうですよね」
そういって少女は手を振って部屋の中に戻っていった。
俺はしばらく欄干に凭れかかり、狭い空を仰ぎ見ていた。額に一粒の雨が落ちてきた。
翌朝から少女の姿がなくなった。
当然の帰結だろう。
俺はそれだけのことをしたし、それまでの男でしかない。
失った日常は大きいような気もするし、歯牙にもかけないようなものだった気もする。
カーテンを開けて、少女の姿がないことを確認する。
窓を開けて、対岸に背を向けても、朝の挨拶は聞こえてこない。
落胆はなかった。
元の毎日に戻っただけ。
この二週間は本当に楽しかった。だから満足するべきだ。
俺はリビングに向かい、味気の無い朝食を嚥下する。
食べ終えて時計の針を見る。
そのとき初めて、微かな喪失感を覚えた。
翌日も翌々日も彼女の姿がない。
日が増すにつれ、カーテンを開ける前の期待と後の失意が大きくなっていく。
今日も姿は見えず、深い嘆息をつく。
白く濁った自分の息が消えていくのを見ながら、この部屋と自分の心が同じように凍えていることに気づく。
夜にこっそり外を眺めてみても、やはり少女の姿はない。
照明を落とし、黒く染まった天井を見ながら、あの元気な挨拶はもう聞けないのか。そんな不安が頭をよぎる。
どうしてそう思うか。
ただの近所付き合いで始めた朝の会話。
それが楽しくて、嬉しくて、そして少女に見栄まで張って、会話をした。
溜息をもらし、寝返りをうつ。
自然と彼女の姿と声を思い出し、もう一度、と呟いていた。
彼女の出会ってから三回目の週末。
ベランダに出た。日曜日以来だった。
もう彼女には会えない。漠然とそう感じ始めていた。
あの距離感はもう味わえない。
もし会おうとするなら、この岸と岸を橋で繋ぐしかなく、二週間前には戻れない。
空虚な向こう側を眺めながら、俺は決心をした。
風が止むのを待つ。
頭のどこかで失敗してほしいと願う自分を確認する。
それでも風が止むと俺は自然と腕を思い切り振った。
向こう岸に袋に包まれたキャンディーが落ちる。
すぐさま後悔の念と自分の行動に対する嫌悪が押し寄せてきた。
でも、これでいい。
こうでもしないと、きっとあの子とは話せないから。
その次の日から俺はカーテンを開けることをやめた。
開けても彼女はいない。それが理由だった。
カーテンを閉めたままでも窓は開けられる。不都合なことはない。
そして夜を迎えるたびに虚無感に苛まれる。
もしかしたら居たかもしれない。そんなありもしない幻想を嘱望する。
だが、その閉じられた布に手をかけることはしなかった。
俺の出来ることは全てやった。
だから、その結果が出るまで待つことにしたのだ。
久しぶりに大学に行こうと思い立ち、準備を始めた。
どちらかというと家にはいたくなかった。
これからは真面目に大学に行くことになるかもしれない。
少女に感謝しないと、と電車内で考えた自分に呆れ、下を向いた。
汚い靴が目に入った。
数日が経過しても、大学にいく気力は萎えなかった。
家にいるのが辛いという所為もあるが、それでも半年も休学同然だった自分からすれば驚くべきこと。
しかし、講義の内容が頭に入ってきたことはない。
講師の言葉はただのBGMでしかなく、俺のノートはまだ真新しい。
前方の黒板よりもやや上をぼんやりと眺めつつ、少女の姿と声が頭の中に映りこむ。
もう彼女のことを考えない日はなかった。
けれど、あれからもうすぐ一週間。
そろそろ潮時だろう。
明日になっても何もないなら諦めるしかない。
俺はポケットにいれていた携帯電話を強く握りしめていた。
何の前触れも無く携帯電話が震えたのは、午後の講義が始まって15分ぐらいが経ってからだった。
ポケットからゆっくりと取り出し、履歴を見た。
登録されていないためにアドレスがむき出しで表示されている。
画面を開くと『夜に』とだけ書かれていた。
何の感情もない無機質な機械が打ち出した文字。
それでも俺の心音は胸から飛び出し、講義の妨害をしてもおかしくないほどでかく感じられた。
胸を押さえて、深呼吸を二回。
時計を見る。
夜まであと3時間ほどだった。
時間の指定はなかったために、日が落ちた6時ごろからベランダに出ていた。
厚着しても尚、夜の気温は容赦せずに身も心も震わせてくれる。
携帯電話で時刻を確認する。
もうすぐ8時になる。
現れないのか。そんなことを思う。
でも、こうして反応があった以上は、いつまでも待つつもりで居た。
もしかしたらカーテンの向こうでは友人を呼んで俺のことを指差し笑っているかもしれない。
それでもいい。
俺はそうされるだけのことをしたのだから。
震える手で携帯電話を見る。
時刻は9時になる。
彼女の姿は、ない。
液晶画面に寒々しく0:00と表示された。
諦観し、もう部屋に戻ろうかと何度も思う。
けれどその気を押し留めてくれるのは、朝の挨拶だった。
彼女と交わす朝の日常が恋しくて、自分はここにいた。
午前1時。とうとう眠気が襲ってきた。
欄干に凭れ、夜空を見上げる。
狭小な夜でも星がきちんと輝いていた。
そんなとき流れ星が目にはいった。生まれて初めて見た所為か、できもしないのに流れていった方向を目で追った。
そして、視線が真後ろにきたとき。
「こんばんは、お向かいさん」
少女がそこにいた。
久しぶり、と気さくに片手を挙げた。
少女は何も言わずこちらを見つめている。
いつも空を眺めていた、おぼろげな眼差しで。
大きく深呼吸をして、言葉を紡ぐ。
「ありがとう。見てくれて」
彼女はキャンディーの包み紙を取り出し、こんなことしてなんのつもりですか、と問う。
「アドレスを書いておけばメールしてくれると思った。ただそれだけ」
「飴は美味しかったです」
「よかった」
小さな笑い声が響く。
その弛緩した空気は気持ちよかった。
いつまでも浸っていたいと思えた。
だけど、その想いを断ち切るように喉から絞りだすようにして声を出す。
「君に会えなくて辛かった」
それだけなのに舌がうまく回らず、二回も言い直した。
それを言えたあとは、堰を切ったように言葉があふれてきた。
「ずっと君のことを考えていた」
彼女はいつもと同じ好奇心があるかどうかわからない表情でいる。
「君と出会ってから、毎日が、正確には朝が楽しくて仕方が無かった」
「だから、君と会えなくなってから、俺には何も無くなった気がした」
彼女の双眸が僅かに大きくなった。
「君の気持ちがよくわかった。何もないって、こういうことだったんだな」
俺はあの朝だけ必要とされていた。
それが嬉しかった。
思えば俺は今まで一度も誰かに期待されたり必要とされたことがなかった。
学校でも家でも。
ただ彼女と違うのは、俺の周囲に人がいなかった点だ。
彼女は外での環境には恵まれているからこそ、家に帰るとその疎外感は強くなっていたんだろう。
一方の俺は外でも内でもそもそも俺に構ってくれる人がいなかった。
故に彼女が何を求めているのか分からなかったし、知りようもなかった。孤独に慣れ過ぎた、駄目な男が俺だ。
「君に初めて必要とされることに喜びを覚えた」
少女は俯く。
「こんなに楽しかったのは生まれて初めてって思えるほどだった」
喉が渇いていた。唾液を飲み込もうにも口内は枯渇している。
「今だから君に言えることがある」
少女の顔が上がる。俺と彼女の視線が交錯し、それを断つようにして風が吹き上げる。
それでも俺は目を瞑らなかった。瞑ればあの子がいなくなるような気がして。
「俺が君を必要としている。ちっぽけな価値だけど、何もないよりはマシだと思う」
到底、人の心を動かすには値しない、月並みの台詞。
ここ数日、考えに考えた安っぽい説得。
でも、俺にはこういうしかない。
「それが言いたかったんですか?」
少女の声に棘があるのも仕方が無い。
「それは君の見る目がなかったんだ」
だからこそ、一生懸命に俺は笑った。
「ふふ……なんですか、それ?」
彼女が笑う。いつもの朝が戻ってきていた。
「あのさ、どうして俺に声をかけたんだ?」
少女は口元に人差し指を当てて考える素振りをしつつ、柔らかい声で答える。
「いつも一人みたいだったんで、もしかしたら私の気持ちにも気づいてくれるかなって」
彼女曰く、ただ共感してほしかっただけだという。
友人や周囲の大人にその悩みを言っても当たり障りの無いもので、共感には程遠いものだった。
そんな中、いつも一人でいるお向かいさんになら、もしかしたらと考えたらしい。
「ごめんなさい。ただ、構って欲しかっただけなんです。それだけなのに」
彼女は精一杯の笑顔を浮かべ、
「あなたを困らせた」
涙を流していた。
それからすぐに彼女は泣きやみ、平素の姿に戻った。
「またメールしてもいいですか?」
俺は頷く。
「電話は?」
勿論、と答える。
「えっと……じゃあ、また」
そういって部屋に戻ろうとするのを俺は引きとめた。
「なんですか?」
ずっとポケットにいれていたキャンディーを投げる。
キャンディーは見事に彼女の両手に納まった。
「ありがとうございます」
夜の会話は終わった。
その余韻で中々部屋に戻れず、ベランダに立ち尽くしていた。
そんな中、携帯電話が震えた。メールが着たようだ。内容を確認してみる。
眩しい液晶画面には『これからもベランダで』と表示されていた。
翌朝。鳥の囀りが僅かに窓を通り過ぎて聞こえてくる。
冷え切った床に足を下ろすと、体の芯まで寒さが伝導する。
カーテンを開ける。窓を静かに開ける。
ベランダはいつも綺麗にしてある。だって、あの人に嫌われたくないから。
まだ朝の挨拶までは時間がありそうなので、空を見上げてみる。
雲が流れてその隙間から日の光が差し込んでいる。
今日は晴れ。体育の授業は残念ながら長距離走になるだろう。
それでも今日は一日上機嫌で過ごせるはずだ。またあの楽しみだった朝が戻ってきたのだから。
ただ共感が欲しかっただけなのに、それ以上の優しさを私にくれた。
だから今日もいっぱい共感してほしい。私のことを知ってほしい。
大好きな貴方に挨拶をするのが嬉しいって、感じて欲しい。
向こう側の窓がスライドする。私は満面の笑みを作ってスタンバイ。
間の抜けた彼の顔が視界に入る。私は大きく息を吸い、近所のことも考えずに叫ぶ。
「―――おはようございまーす!!お向かいさん!!」
END
乙!いい作品だった!
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