181:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/20(月) 21:44:56.85 :gKoUvlDMo
*
「プロデューサーさん、進捗状況はどうですか?」
まだまだ暑さが引くことのない真夏。
学生達は青春に明け暮れている最中、俺とちひろさんはいつも通り出社していた。
カーテンを開ければ、明るい日差しが室内に入り込む。
パソコンの画面が見辛いことだけが唯一の難点か。
「順調ですよ。正直難しいと思っていましたけど、ゆかりがパートナーで本当に良かったです」
翠にとっては、まるで先生が二人いるような感覚だろう。
それほどまでにゆかりは自身の練習の他に翠をよくみてくれていた。
「…他所の事務所のアイドルに呼び捨てですか、プロデューサー」
横目でちひろさんが俺を見る。
「認可済み…というかゆかり直々の命令ですよ、命令。決して本意でないことはわかってください」
あの時俺にそう呼ばせるように言ったのも、結局は指導をして欲しかったが故の上下関係の明確化なのかもしれない。
「まあ、周囲で認められればそれでも構いませんけどね。それにしても、向こうの事務所もよく今回の企画を許可しましたね」
手元の紙の束をめくりって確認しながら、ちひろさんは言った。
「ゆかりのプロデューサーさんのおかげですね。俺も少しは頑張りましたけど」
「おんぶにだっこじゃないですか…」
思わず俺は苦笑する。
立場的にもこちらが下なのは明確である。
穿った見方をすれば、恩情だろう。
*
「プロデューサーさん、進捗状況はどうですか?」
まだまだ暑さが引くことのない真夏。
学生達は青春に明け暮れている最中、俺とちひろさんはいつも通り出社していた。
カーテンを開ければ、明るい日差しが室内に入り込む。
パソコンの画面が見辛いことだけが唯一の難点か。
「順調ですよ。正直難しいと思っていましたけど、ゆかりがパートナーで本当に良かったです」
翠にとっては、まるで先生が二人いるような感覚だろう。
それほどまでにゆかりは自身の練習の他に翠をよくみてくれていた。
「…他所の事務所のアイドルに呼び捨てですか、プロデューサー」
横目でちひろさんが俺を見る。
「認可済み…というかゆかり直々の命令ですよ、命令。決して本意でないことはわかってください」
あの時俺にそう呼ばせるように言ったのも、結局は指導をして欲しかったが故の上下関係の明確化なのかもしれない。
「まあ、周囲で認められればそれでも構いませんけどね。それにしても、向こうの事務所もよく今回の企画を許可しましたね」
手元の紙の束をめくりって確認しながら、ちひろさんは言った。
「ゆかりのプロデューサーさんのおかげですね。俺も少しは頑張りましたけど」
「おんぶにだっこじゃないですか…」
思わず俺は苦笑する。
立場的にもこちらが下なのは明確である。
穿った見方をすれば、恩情だろう。

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182:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/20(月) 21:46:02.71 :gKoUvlDMo
実を言えば、向こうの事務所でも反対の声はいくつかあったらしい。
彼はそんなことを言いながら笑っていたが。
ともかく、一時的ではあるがこうして組んで接点を持つことができれば、今後の仕事にもきっと役に立ってくれるだろう。
「あとは、翠の持ち歌があればいいんですけどねー」
カチャカチャ。返信。
事務的なメールを送信してから、簡素な椅子の背もたれに体を預けた。
「一応レーベルにいくつか問い合わせては見たんですが、ダメでしたよ」
やはり、向こうとしては実績があり、売れる予想がつかないと腰を上げづらいのだ。商品だから仕方のない話である。
「とりあえず、今回のライブでは翠ちゃんの高校のバンドが曲を出してくれるんでしたっけ」
身内での話ではないので、下手に曲を借りることができなかったのだ。
そこで、高校の軽音楽部が作った曲の中から選ぶことにしたのである。
ライブの構成はニ曲。
一曲目はオープニングとして、最初のレッスンから練習しているインスト曲を二人のダンスで盛り上げる。
観客が気持ちが乗ってきたところで、二人によるトークを少しだけ挟んでから、二曲目の軽音楽部作の歌を歌って貰う予定だ。
できれば一時間ほどフルに使ってイベントを行いたかったのだが、如何せんそれのために費やす練習時間がないのである。
実を言えば、向こうの事務所でも反対の声はいくつかあったらしい。
彼はそんなことを言いながら笑っていたが。
ともかく、一時的ではあるがこうして組んで接点を持つことができれば、今後の仕事にもきっと役に立ってくれるだろう。
「あとは、翠の持ち歌があればいいんですけどねー」
カチャカチャ。返信。
事務的なメールを送信してから、簡素な椅子の背もたれに体を預けた。
「一応レーベルにいくつか問い合わせては見たんですが、ダメでしたよ」
やはり、向こうとしては実績があり、売れる予想がつかないと腰を上げづらいのだ。商品だから仕方のない話である。
「とりあえず、今回のライブでは翠ちゃんの高校のバンドが曲を出してくれるんでしたっけ」
身内での話ではないので、下手に曲を借りることができなかったのだ。
そこで、高校の軽音楽部が作った曲の中から選ぶことにしたのである。
ライブの構成はニ曲。
一曲目はオープニングとして、最初のレッスンから練習しているインスト曲を二人のダンスで盛り上げる。
観客が気持ちが乗ってきたところで、二人によるトークを少しだけ挟んでから、二曲目の軽音楽部作の歌を歌って貰う予定だ。
できれば一時間ほどフルに使ってイベントを行いたかったのだが、如何せんそれのために費やす練習時間がないのである。
183:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/20(月) 21:47:53.88 :gKoUvlDMo
「でも、学生の作った曲というのはどうなんでしょうか。クオリティ的な意味でも」
その不安も尤もだ。
「大丈夫ですよ。テープは事前に受け取っていますし、一応向こうの事務所に縁深い編曲者に頼んでますので」
ちひろさんの言う通り、俺が動いているのは企画を持ちだしただけであって、実質的な行動は殆どあちら側に任せてしまっていた。
動けるのであれば俺もどんどん動いていきたいのは山々だが、規模の違いをここで強く感じることになってしまった。
「それでよく学生さん達がオーケーしましたね。自分たちの作った曲を変えられるって、あんまりいい気分はしないと思うんですが」
「勝手に変える訳じゃありませんよ。プロの方が採点してくれるという条件を出してますので、むしろ快く渡してくれました」
やはりプロという言葉は非情に強みがあるな、と俺はあの時思っていた。
どれだけ能力があろうと人に見られるのは第一印象であり、それが姿形でなければ実績が分身となるのだ。
上手いこと騙しますね、とちひろさんは巫山戯る。
「でも、学生の作った曲というのはどうなんでしょうか。クオリティ的な意味でも」
その不安も尤もだ。
「大丈夫ですよ。テープは事前に受け取っていますし、一応向こうの事務所に縁深い編曲者に頼んでますので」
ちひろさんの言う通り、俺が動いているのは企画を持ちだしただけであって、実質的な行動は殆どあちら側に任せてしまっていた。
動けるのであれば俺もどんどん動いていきたいのは山々だが、規模の違いをここで強く感じることになってしまった。
「それでよく学生さん達がオーケーしましたね。自分たちの作った曲を変えられるって、あんまりいい気分はしないと思うんですが」
「勝手に変える訳じゃありませんよ。プロの方が採点してくれるという条件を出してますので、むしろ快く渡してくれました」
やはりプロという言葉は非情に強みがあるな、と俺はあの時思っていた。
どれだけ能力があろうと人に見られるのは第一印象であり、それが姿形でなければ実績が分身となるのだ。
上手いこと騙しますね、とちひろさんは巫山戯る。
184:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/20(月) 21:48:51.33 :gKoUvlDMo
「その二曲目ももうすぐ取り掛かりますから、進行上では順調でしょう。それもこれも二人の力ですよ」
ゆかりは東京に住んでいるので、レッスンは東京で行う事になっている。
なので俺も営業周りが遅れない限りはほぼ毎回見にいくことができていた。
振付師やトレーナーからの評価も徐々に上がっているのだから、過度に心配する必要はないだろう。
…心配事といえば、別にある。
「俺的にはむしろ、翠の東京での生活の方が心配ですね。ちひろさん、大丈夫ですか?」
夏休みの間、毎日新幹線か高速バスで往復してもらうのは金銭的にも翠の体力的にも損失が大きいということで、両親の了承の下しばらくちひろさんの家に泊まる事になっている。
「心配するどころか、翠ちゃんも楽しんでますよ。私のお母さんなんか孫が出来たみたいで毎晩の夕食が豪華です」
「って、ちひろさんは実家通いなんですか」
今更ですね、とちひろさんは笑った。
「まあ特に詮索する話ではないので……」
こういう場合、プライベートな話題は深く掘り下げて訊いていくべきなのだろうか?
この匙加減がわかるようにならないと、この先やっていけるかどうか不安である。
「その二曲目ももうすぐ取り掛かりますから、進行上では順調でしょう。それもこれも二人の力ですよ」
ゆかりは東京に住んでいるので、レッスンは東京で行う事になっている。
なので俺も営業周りが遅れない限りはほぼ毎回見にいくことができていた。
振付師やトレーナーからの評価も徐々に上がっているのだから、過度に心配する必要はないだろう。
…心配事といえば、別にある。
「俺的にはむしろ、翠の東京での生活の方が心配ですね。ちひろさん、大丈夫ですか?」
夏休みの間、毎日新幹線か高速バスで往復してもらうのは金銭的にも翠の体力的にも損失が大きいということで、両親の了承の下しばらくちひろさんの家に泊まる事になっている。
「心配するどころか、翠ちゃんも楽しんでますよ。私のお母さんなんか孫が出来たみたいで毎晩の夕食が豪華です」
「って、ちひろさんは実家通いなんですか」
今更ですね、とちひろさんは笑った。
「まあ特に詮索する話ではないので……」
こういう場合、プライベートな話題は深く掘り下げて訊いていくべきなのだろうか?
この匙加減がわかるようにならないと、この先やっていけるかどうか不安である。
185:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/20(月) 21:49:36.33 :gKoUvlDMo
「あ、すいません。私先に出ますね」
先程からパソコンの画面と机に置いた紙を交互に見合わせていたちひろさんが、それを鞄に入れて立ち上がる。
「あれ、何か予定ありましたっけ?」
「まあ少しやることがありますので……。鍵は持ってますから、後お願いします」
ヒールを小気味よく鳴らして、ちひろさんは事務所を後にした。
「……事務員も忙しいんだなあ」
後ろ姿をぼんやりと眺め終えると、俺は再びパソコン画面に視線を映し変えたのだった。
「あ、すいません。私先に出ますね」
先程からパソコンの画面と机に置いた紙を交互に見合わせていたちひろさんが、それを鞄に入れて立ち上がる。
「あれ、何か予定ありましたっけ?」
「まあ少しやることがありますので……。鍵は持ってますから、後お願いします」
ヒールを小気味よく鳴らして、ちひろさんは事務所を後にした。
「……事務員も忙しいんだなあ」
後ろ姿をぼんやりと眺め終えると、俺は再びパソコン画面に視線を映し変えたのだった。
186:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/20(月) 21:50:39.18 :gKoUvlDMo
*
「正直、俺も通るとは思わなかったんだよな」
エアコンの聞いた店内。
タバコの煙を空に吐いて、彼は言った。
ある日、外回りの休憩中にばったりゆかりのプロデューサーと出会った。
お互い昼食がまだだということで、喫煙席のある喫茶店に入ることにしたのだ。
「ライブのゲストの件ですよね。私も拒否覚悟で話に行きましたよ」
基本的に営業なんて通らばリーチの連続である。
ゼロからイチに行くためには、少なくともそういった挑戦をして行かなければ始まらないのだから。
「上の人に確認を取ったら、何故だかは分からないが割と早くゴーサインがもらえたんだよ。もう少し話が混むか、即却下のどちらかだと思ってたから驚いたもんだ」
「あなたが尽力したんじゃ?」
タバコとコーヒーを交互に飲んで美味しいのだろうか。俺にはよくわからない。
「一緒に仕事をすることは悪いことじゃない。だが、無名の新人と組んでこちらに何のメリットがあるんだ、という話だ。ギャラの件も含めてな」
彼はタバコを指で挟んで顎を手に乗せ、窓から見える人の流れを見た。
つくづく打算的だ、と俺は思った。
いや、むしろ仕事を取る人間は総じてそうあるべきなのだろうが、現状俺はなりきれていないようだ。
「単にゲストでゆかりの歌を歌わせるってだけならまだしも、一から歌とダンスの練習だからなあ…。それにこの期間の短さ。アイツだからよかったものの、そんな仕事をよく堂々と持ってきたよ、お前は」
「嫌味ですか」
「褒めてるんだよ」
鼻で笑って、彼は答える。
*
「正直、俺も通るとは思わなかったんだよな」
エアコンの聞いた店内。
タバコの煙を空に吐いて、彼は言った。
ある日、外回りの休憩中にばったりゆかりのプロデューサーと出会った。
お互い昼食がまだだということで、喫煙席のある喫茶店に入ることにしたのだ。
「ライブのゲストの件ですよね。私も拒否覚悟で話に行きましたよ」
基本的に営業なんて通らばリーチの連続である。
ゼロからイチに行くためには、少なくともそういった挑戦をして行かなければ始まらないのだから。
「上の人に確認を取ったら、何故だかは分からないが割と早くゴーサインがもらえたんだよ。もう少し話が混むか、即却下のどちらかだと思ってたから驚いたもんだ」
「あなたが尽力したんじゃ?」
タバコとコーヒーを交互に飲んで美味しいのだろうか。俺にはよくわからない。
「一緒に仕事をすることは悪いことじゃない。だが、無名の新人と組んでこちらに何のメリットがあるんだ、という話だ。ギャラの件も含めてな」
彼はタバコを指で挟んで顎を手に乗せ、窓から見える人の流れを見た。
つくづく打算的だ、と俺は思った。
いや、むしろ仕事を取る人間は総じてそうあるべきなのだろうが、現状俺はなりきれていないようだ。
「単にゲストでゆかりの歌を歌わせるってだけならまだしも、一から歌とダンスの練習だからなあ…。それにこの期間の短さ。アイツだからよかったものの、そんな仕事をよく堂々と持ってきたよ、お前は」
「嫌味ですか」
「褒めてるんだよ」
鼻で笑って、彼は答える。
187:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/20(月) 21:52:20.32 :gKoUvlDMo
「一緒に歌うアイドルを連れて来ないでやってくるとは思ってもみなかったな。一応電話口で話すとは言ったが、ゆかりが話を聞いて希望しなければ、断るつもりだった」
俺の準備不足さは危うく破談を生む所であった。
まあ、翠はゆかりと買い物に行った後、すぐに愛知に帰っていったから同伴も難しかったのだから、仕方ないといえば仕方ない。
そもそも随伴して訪れられるようにスケジュールを調整すべきなのは俺の責任である。
「アイツがそれを望んだということも驚きといえば驚きだ。ゆかりは人懐っこいが、心の奥底からは信用できないように見える。……尤も、半分は俺の所為なんだろうが」
別に悪いことじゃない、と俺は返事をする。
ビジネスライクな世界でビジネスライクな関係を中心に動いていくのは、何一つとして間違ってはいない。
恐らく、彼も新人のゆかりに対してそういう見方を教えたのだろう。
あくまで仕事人の立場からすれば、彼の行動は限りなく正解に近い。
「ということは、今回の企画を希望したのはゆかりが単に仕事をしたかったからなんでしょうかね」
「…お前、わかってて言ってるだろ」
普段馬鹿にされたような口ぶりなので、俺も精一杯とぼけてみせた。
「一緒に歌うアイドルを連れて来ないでやってくるとは思ってもみなかったな。一応電話口で話すとは言ったが、ゆかりが話を聞いて希望しなければ、断るつもりだった」
俺の準備不足さは危うく破談を生む所であった。
まあ、翠はゆかりと買い物に行った後、すぐに愛知に帰っていったから同伴も難しかったのだから、仕方ないといえば仕方ない。
そもそも随伴して訪れられるようにスケジュールを調整すべきなのは俺の責任である。
「アイツがそれを望んだということも驚きといえば驚きだ。ゆかりは人懐っこいが、心の奥底からは信用できないように見える。……尤も、半分は俺の所為なんだろうが」
別に悪いことじゃない、と俺は返事をする。
ビジネスライクな世界でビジネスライクな関係を中心に動いていくのは、何一つとして間違ってはいない。
恐らく、彼も新人のゆかりに対してそういう見方を教えたのだろう。
あくまで仕事人の立場からすれば、彼の行動は限りなく正解に近い。
「ということは、今回の企画を希望したのはゆかりが単に仕事をしたかったからなんでしょうかね」
「…お前、わかってて言ってるだろ」
普段馬鹿にされたような口ぶりなので、俺も精一杯とぼけてみせた。
188:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/20(月) 21:54:26.57 :gKoUvlDMo
「なんだろうな。水野翠に対しては、ゆかりはどことなく距離が近い気がする。何か共鳴するものでも感じたんだろうかねえ」
彼が飲むコーヒーのカップの底が見えた。
「私もそう思ってますよ。初めてのレッスンの時、あなたが帰った後に彼女らで何か分かり合えたような雰囲気で話し合ってましたから」
再び彼は窓からの街の景色を眺める。
「…ゆかりは、お前と出会うべきだったのかもな」
もしそうだとすれば、ゆかりは今のように才能を最大限には発揮していなかっただろう。
言うまでもなく、彼が担当だったからここまで来られているのだ。
「まさか」
しかし。しかしだ。
「出会っていたら、私は翠と会ってませんよ」
そうであるならば、彼女が翠と会うこともきっとなかっただろう。
「なんだろうな。水野翠に対しては、ゆかりはどことなく距離が近い気がする。何か共鳴するものでも感じたんだろうかねえ」
彼が飲むコーヒーのカップの底が見えた。
「私もそう思ってますよ。初めてのレッスンの時、あなたが帰った後に彼女らで何か分かり合えたような雰囲気で話し合ってましたから」
再び彼は窓からの街の景色を眺める。
「…ゆかりは、お前と出会うべきだったのかもな」
もしそうだとすれば、ゆかりは今のように才能を最大限には発揮していなかっただろう。
言うまでもなく、彼が担当だったからここまで来られているのだ。
「まさか」
しかし。しかしだ。
「出会っていたら、私は翠と会ってませんよ」
そうであるならば、彼女が翠と会うこともきっとなかっただろう。
189:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/20(月) 21:55:40.37 :gKoUvlDMo
*
「……ふーん、ふん、ふー。ふふふふー」
汗だくになりながらも営業から返ってきたら、イヤホンで何かを聞きながら鼻声で歌う翠が居た。
ふふふー、ふふっふー、ふーふー。
俺が事務所の扉を開けた音も、歩く靴の音も何も聞こえていないようで、曲と歌に集中しているようだった。
ちひろさんの机に鞄だけあるので、どうやらちひろさんは近場に買い物にでも行っているのだろう。
静かな事務所に流れる、彼女の鼻歌。
そして俺は透明人間。
そこで、ふと。
彼女のリアクションが見たくなってしまった。
*
「……ふーん、ふん、ふー。ふふふふー」
汗だくになりながらも営業から返ってきたら、イヤホンで何かを聞きながら鼻声で歌う翠が居た。
ふふふー、ふふっふー、ふーふー。
俺が事務所の扉を開けた音も、歩く靴の音も何も聞こえていないようで、曲と歌に集中しているようだった。
ちひろさんの机に鞄だけあるので、どうやらちひろさんは近場に買い物にでも行っているのだろう。
静かな事務所に流れる、彼女の鼻歌。
そして俺は透明人間。
そこで、ふと。
彼女のリアクションが見たくなってしまった。
190:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/20(月) 21:57:20.85 :gKoUvlDMo
翠はソファーに深く座り、背のクッションに体を預けて目を閉じている。
俺に全く気づかなかったのは、完全にそっちの世界に入り込んでいたからか。
とりあえず忍び足で鞄と脱いだスーツを机に置き、翠の背後に立つ。
…もしも怒られたらどうしよう、ということで俺の手には冷えたジュースの缶。
冷蔵庫から取り出してきたのものだ。
俺と翠が同級生で仲良しなら、肩を叩いてから目を開けた所に間近で変顔をするぐらいやってのけただろうが、流石にこの状況では無理である。
頭の中の善良な紳士精神が制止を試みる。
…しかし、やらねばならない。
科学の発展に犠牲はつきものだからな!
俺の手に持った缶は翠の背後から左頬へ近づき、そして触れた―――。
翠はソファーに深く座り、背のクッションに体を預けて目を閉じている。
俺に全く気づかなかったのは、完全にそっちの世界に入り込んでいたからか。
とりあえず忍び足で鞄と脱いだスーツを机に置き、翠の背後に立つ。
…もしも怒られたらどうしよう、ということで俺の手には冷えたジュースの缶。
冷蔵庫から取り出してきたのものだ。
俺と翠が同級生で仲良しなら、肩を叩いてから目を開けた所に間近で変顔をするぐらいやってのけただろうが、流石にこの状況では無理である。
頭の中の善良な紳士精神が制止を試みる。
…しかし、やらねばならない。
科学の発展に犠牲はつきものだからな!
俺の手に持った缶は翠の背後から左頬へ近づき、そして触れた―――。
191:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/20(月) 21:58:42.13 :gKoUvlDMo
*
「ごめんなさい」
「いや、もう気にしてませんから…」
「ごめんなさい」
…俺が初めて翠を見た時の頃の表情を思い出した。
可愛らしい驚いた声を上げて尻餅をついたんだっけな。
それでも俺の心配をしてくれたのを、今でも強く記憶に残っていた。
結果的に言えば、一瞬体を震わせたと思いきや、ソファーから飛び起きてこちらを訳の分からぬといった表情で俺と向き合った。
一般的といえば一般的なリアクションだろう。芸人なら許されないが、アイドルなら充分許容範囲内である。
しかし問題はその後だ。
てっきり怒って拗ねたり顔を背けたり文句を言ったりするのだと思っていたら、なんと翠は瞬間的に恥ずかしい顔を見せた後、俺に帰宅と労いの挨拶をしてくれたのだ。
…こんな純真な相手に俺はなんてことをしてしまったのだろうか!
*
「ごめんなさい」
「いや、もう気にしてませんから…」
「ごめんなさい」
…俺が初めて翠を見た時の頃の表情を思い出した。
可愛らしい驚いた声を上げて尻餅をついたんだっけな。
それでも俺の心配をしてくれたのを、今でも強く記憶に残っていた。
結果的に言えば、一瞬体を震わせたと思いきや、ソファーから飛び起きてこちらを訳の分からぬといった表情で俺と向き合った。
一般的といえば一般的なリアクションだろう。芸人なら許されないが、アイドルなら充分許容範囲内である。
しかし問題はその後だ。
てっきり怒って拗ねたり顔を背けたり文句を言ったりするのだと思っていたら、なんと翠は瞬間的に恥ずかしい顔を見せた後、俺に帰宅と労いの挨拶をしてくれたのだ。
…こんな純真な相手に俺はなんてことをしてしまったのだろうか!
192:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/20(月) 21:59:50.18 :gKoUvlDMo
「プロデューサーさんも疲れてるんですよね。ちょっとは疲れ、取れましたか?」
そうして、俺は謝っていた。
周りが見ていれば、初めからそんなことをするなよという指摘が入ると思うが、実際この状況に出会ったらしないひとは殆どいないと思いたい。
こうでもなお俺の心配をしてくれる翠がまさに女神に見えた。
「うん、ホントごめんなさい。あとこれジュース、飲んで下さい」
「大丈夫ですから、いつもの状態に戻って下さい…」
ジュースを受け取ると、小気味よい音と立てて翠は缶を開けて飲み始める。
「プロデューサーさんも疲れてるんですよね。ちょっとは疲れ、取れましたか?」
そうして、俺は謝っていた。
周りが見ていれば、初めからそんなことをするなよという指摘が入ると思うが、実際この状況に出会ったらしないひとは殆どいないと思いたい。
こうでもなお俺の心配をしてくれる翠がまさに女神に見えた。
「うん、ホントごめんなさい。あとこれジュース、飲んで下さい」
「大丈夫ですから、いつもの状態に戻って下さい…」
ジュースを受け取ると、小気味よい音と立てて翠は缶を開けて飲み始める。
193:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/20(月) 22:00:56.84 :gKoUvlDMo
「さっき聞いてたのは翠の好きな歌か?」
俺の質問に彼女は少し戸惑った。
「…私の声、聞いてたんですね」
そういうことか、と即座に理解する。
「鼻歌でも綺麗だったぞ? これならいつか翠だけの歌をもらえる日も近いかもな」
「もう、からかわないで下さい」
翠はそう言いつつも、まんざらでもないように顔を赤らめる。
当然ながら、彼女も自分だけの歌を歌いたいのだろう。
「聞いてたのは、今度歌う予定のオフボーカルです。ずっと見てもらえるわけじゃないので、少しでも音程を合わせたくて」
……本当、邪魔してごめんなさい。
「さっき聞いてたのは翠の好きな歌か?」
俺の質問に彼女は少し戸惑った。
「…私の声、聞いてたんですね」
そういうことか、と即座に理解する。
「鼻歌でも綺麗だったぞ? これならいつか翠だけの歌をもらえる日も近いかもな」
「もう、からかわないで下さい」
翠はそう言いつつも、まんざらでもないように顔を赤らめる。
当然ながら、彼女も自分だけの歌を歌いたいのだろう。
「聞いてたのは、今度歌う予定のオフボーカルです。ずっと見てもらえるわけじゃないので、少しでも音程を合わせたくて」
……本当、邪魔してごめんなさい。
194:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/20(月) 22:02:45.46 :gKoUvlDMo
「どうだ、最近は。ダンスと歌と両方の練習で辛くないか?」
我ながら阿呆な事を訊いているなと思う。
レッスンが辛くないはずなんてないのに。
それでも、翠は笑顔で答える。
「確かに、ここ最近はそのレッスンばかりで集中力が切れそうになることもありますが、私は大丈夫です」
――なにより、ゆかりさんが隣に居てくれますから。
その言葉が、とてつもない信頼の基に生まれた言葉なのだということがはっきりと解った。
何故ならば、そう言う翠の表情がとても楽しそうだったからだ。
「…翠は強いな」
ふとぽつりと漏らすと、そんなことはありませんよ、と翠は首を横に振った。
「プロデューサーさんやゆかりさん、色々な人に助けられてますので」
驕ることもなく、しかし堂々と言うことができる人間を、どうして卑下できようか。
「どうだ、最近は。ダンスと歌と両方の練習で辛くないか?」
我ながら阿呆な事を訊いているなと思う。
レッスンが辛くないはずなんてないのに。
それでも、翠は笑顔で答える。
「確かに、ここ最近はそのレッスンばかりで集中力が切れそうになることもありますが、私は大丈夫です」
――なにより、ゆかりさんが隣に居てくれますから。
その言葉が、とてつもない信頼の基に生まれた言葉なのだということがはっきりと解った。
何故ならば、そう言う翠の表情がとても楽しそうだったからだ。
「…翠は強いな」
ふとぽつりと漏らすと、そんなことはありませんよ、と翠は首を横に振った。
「プロデューサーさんやゆかりさん、色々な人に助けられてますので」
驕ることもなく、しかし堂々と言うことができる人間を、どうして卑下できようか。
195:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/20(月) 22:04:17.32 :gKoUvlDMo
「……あ」
そこで、俺はふと彼女に何もしてやれていないことに気付く。
機会は出来る限り与えてやれているとは自負している。
だが、それが満足の出来る程度かどうかはわからなかった。
普通は何かの目標を達成したらインセンティブをしてやることが当たり前なのではないだろうか。
そうすることでやる気が続いていく、とも教育関連の書籍で言われているような気がする。
どうかしましたか、と俺の瞳を覗く彼女。
彼女の素振りからは一見そういう野暮な事は必要ない雰囲気は感じるが、もしかすると、心の奥底で何か不満や欲求を隠しているのかもしれない。
であるならば、それを解消してやるのもプロデューサーとしての役割だろう。
「……あ」
そこで、俺はふと彼女に何もしてやれていないことに気付く。
機会は出来る限り与えてやれているとは自負している。
だが、それが満足の出来る程度かどうかはわからなかった。
普通は何かの目標を達成したらインセンティブをしてやることが当たり前なのではないだろうか。
そうすることでやる気が続いていく、とも教育関連の書籍で言われているような気がする。
どうかしましたか、と俺の瞳を覗く彼女。
彼女の素振りからは一見そういう野暮な事は必要ない雰囲気は感じるが、もしかすると、心の奥底で何か不満や欲求を隠しているのかもしれない。
であるならば、それを解消してやるのもプロデューサーとしての役割だろう。
196:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/20(月) 22:04:58.33 :gKoUvlDMo
「…翠、何か欲しいものはないか?」
エアコンの作動音のみが響く部屋では、翠の聞き返す声がとてもよく聞こえた。
彼女との契約は現時点では月給制で、本人の了承のもと給料は彼女の両親に行くようになっている。
無論その給料の中から翠へお小遣いとして支払われいているらしいが、此処のところの激務の中、お小遣い程度の受け取る給料ではもしかしたら我慢している可能性があったからだ。
「ほら、何かご褒美でもあれば今の難しいレッスンも乗り越えられるんじゃないかと思ってな。ポケットマネーだが奮発してやろう」
「え、いや、悪いですよ、そんなこと…」
やはりというか、予想通り彼女は固辞の姿勢を見せた。
「いいんだよ。翠が頑張ってくれてるから俺も一生懸命仕事を取りにいけるからな。車とかは無理だが、ある程度ならなんでもいいぞ」
当然だが俺も月給で、せいぜい大卒の一年目の給料より少し多いぐらいなので、云百万もする貴金属は勘弁願いたい。
ちょっと待って下さい、と翠は考えこむ。
「…翠、何か欲しいものはないか?」
エアコンの作動音のみが響く部屋では、翠の聞き返す声がとてもよく聞こえた。
彼女との契約は現時点では月給制で、本人の了承のもと給料は彼女の両親に行くようになっている。
無論その給料の中から翠へお小遣いとして支払われいているらしいが、此処のところの激務の中、お小遣い程度の受け取る給料ではもしかしたら我慢している可能性があったからだ。
「ほら、何かご褒美でもあれば今の難しいレッスンも乗り越えられるんじゃないかと思ってな。ポケットマネーだが奮発してやろう」
「え、いや、悪いですよ、そんなこと…」
やはりというか、予想通り彼女は固辞の姿勢を見せた。
「いいんだよ。翠が頑張ってくれてるから俺も一生懸命仕事を取りにいけるからな。車とかは無理だが、ある程度ならなんでもいいぞ」
当然だが俺も月給で、せいぜい大卒の一年目の給料より少し多いぐらいなので、云百万もする貴金属は勘弁願いたい。
ちょっと待って下さい、と翠は考えこむ。
197:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/20(月) 22:05:50.55 :gKoUvlDMo
五秒、十秒、十五秒。
俯いた後、彼女は口を開く。」
「…何でも、いいんですか?」
「俺に出来る範囲でな」
茶化すように答えると、翠は意を決したように望みを言う。
「…ライブの後。一緒に学園祭、周りませんか?」
彼女に悪いが、俺は耳を疑った。
五秒、十秒、十五秒。
俯いた後、彼女は口を開く。」
「…何でも、いいんですか?」
「俺に出来る範囲でな」
茶化すように答えると、翠は意を決したように望みを言う。
「…ライブの後。一緒に学園祭、周りませんか?」
彼女に悪いが、俺は耳を疑った。
198:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/20(月) 22:11:06.45 :gKoUvlDMo
俺は戸惑う。
いや、戸惑わざるを得なかった。
「いやいや、そんなのでいいのか? 美味しいレストランに行きたいとか、オフが欲しいとかでもいいんだぞ?」
完全に予想外の望みだった。
「いえ、許されるなら、それがいいんです」
年頃の女子高生が、仕事で関わるだけの新人プロデューサーと一緒に学園祭を周って何が楽しいんだ?
もしやさっきのいたずらのお返しで俺をからかっているのかと翠をもう一度見るが、彼女の表情ははっきりと……ある種、思いつめたかのような真剣な眼差しだった。
「本気か?」
「…はい。プロデューサーさんさえ良ければ、お願いします」
…どうやら本気らしい。
不思議なことを望む人もいるもんだ、と俺はぼんやりと思った。
俺は戸惑う。
いや、戸惑わざるを得なかった。
「いやいや、そんなのでいいのか? 美味しいレストランに行きたいとか、オフが欲しいとかでもいいんだぞ?」
完全に予想外の望みだった。
「いえ、許されるなら、それがいいんです」
年頃の女子高生が、仕事で関わるだけの新人プロデューサーと一緒に学園祭を周って何が楽しいんだ?
もしやさっきのいたずらのお返しで俺をからかっているのかと翠をもう一度見るが、彼女の表情ははっきりと……ある種、思いつめたかのような真剣な眼差しだった。
「本気か?」
「…はい。プロデューサーさんさえ良ければ、お願いします」
…どうやら本気らしい。
不思議なことを望む人もいるもんだ、と俺はぼんやりと思った。
202:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:10:08.98 :6orG2Nwgo
*
夏休みが空けると、翠のスケジュールは更に多忙になる。
以前に比べ増え始めた仕事に加え、多大な時間を割くレッスン、そして二学期を迎える学校だ。
ちなみに夏休みの間に弓道のインターハイが開催され、翠率いる弓道部は残念ながら優勝旗を持ち帰ることはできなかったものの、準決勝まではコマを進めることが出来たのだった。
俺は両親と共に観戦に行き、終わった後は涙を見せることもなく、後悔なく、憂いなく、やりきった顔で部活の打ち上げに向かっていったのが印象に残っている。
その光景もテレビ放送され、多くはないが観客席にファンが訪れたのは余談である。
そして今。
俺とゆかりのプロデューサーは、もうかれこれ何十回目となるレッスンを普段通り見ていた。
*
夏休みが空けると、翠のスケジュールは更に多忙になる。
以前に比べ増え始めた仕事に加え、多大な時間を割くレッスン、そして二学期を迎える学校だ。
ちなみに夏休みの間に弓道のインターハイが開催され、翠率いる弓道部は残念ながら優勝旗を持ち帰ることはできなかったものの、準決勝まではコマを進めることが出来たのだった。
俺は両親と共に観戦に行き、終わった後は涙を見せることもなく、後悔なく、憂いなく、やりきった顔で部活の打ち上げに向かっていったのが印象に残っている。
その光景もテレビ放送され、多くはないが観客席にファンが訪れたのは余談である。
そして今。
俺とゆかりのプロデューサーは、もうかれこれ何十回目となるレッスンを普段通り見ていた。
203:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:11:05.88 :6orG2Nwgo
「流石にちょっと疲労が祟ってるな」
彼は腕を組みながら二人を見てそう言った。休ませるか、と呟いたのだ。
今までのレッスンだけでも厳しいのに、そこに勉学も加われば翠がバテるのも止むを得ない話だった。
ゆかりも翠ほどではないが、前回よりも微かに動きが若干鈍い。
これで無理をして怪我でもすれば最悪の事態になってしまう。
「そうですね、それがいいでしょう」
彼の言葉に俺は賛同すると、トレーナーも了承し、ひとまず休憩を取ることになった。
「もう基本的な動作は完璧に覚えられただろう。あとのレッスン日程はお前に任せる」
何故だか、彼は専ら彼女たちに対して俺を介することが多くなった。
…全部決めろ、ということか。
まあ、裏の根回しに関しては彼が大部分を受け取ってくれたので、仕事を回してくれたと思えば俺も渋る理由はないのだが。
ゆかりがきっちりしているのは俺もよく知っている。きっと仕事のスケジュールも彼から教えてもらった通り記憶しているのだろう。
それを踏まえて、俺を信用して任せてくれたということだ。
「流石にちょっと疲労が祟ってるな」
彼は腕を組みながら二人を見てそう言った。休ませるか、と呟いたのだ。
今までのレッスンだけでも厳しいのに、そこに勉学も加われば翠がバテるのも止むを得ない話だった。
ゆかりも翠ほどではないが、前回よりも微かに動きが若干鈍い。
これで無理をして怪我でもすれば最悪の事態になってしまう。
「そうですね、それがいいでしょう」
彼の言葉に俺は賛同すると、トレーナーも了承し、ひとまず休憩を取ることになった。
「もう基本的な動作は完璧に覚えられただろう。あとのレッスン日程はお前に任せる」
何故だか、彼は専ら彼女たちに対して俺を介することが多くなった。
…全部決めろ、ということか。
まあ、裏の根回しに関しては彼が大部分を受け取ってくれたので、仕事を回してくれたと思えば俺も渋る理由はないのだが。
ゆかりがきっちりしているのは俺もよく知っている。きっと仕事のスケジュールも彼から教えてもらった通り記憶しているのだろう。
それを踏まえて、俺を信用して任せてくれたということだ。
204:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:11:34.53 :6orG2Nwgo
「おーい、ちょっといいか、二人とも」
鏡の傍に置いている持参した荷物の所で座っていた二人の元へ俺は向かう。
「あ、Pさん…。心配させてしまってごめんなさい」
開口一番、ゆかりは突然謝罪した。
あまりにもいきなりすぎて困惑したが、すぐに我に返る。
「いや、日程の問題で少し焦りすぎた。ゆかりは悪くないよ。もちろん翠も」
やはりというか、一年の差は凄まじく感じる。メンタルだけなら翠もそれなりに強くはあるが、体力面では歴然とした違いがある。
「それでだが、二人とも学校生活も始まったから、これからはこうやって集合してのレッスンは少し控えることにする」
「いいんですか? もう本番も近いのに…」
翠は心配そうな声を上げるが、きっぱりと俺は言ってやる。
「大丈夫だ。俺が見た分には、動き自体はもう十二分に動けている。だからあとは各々の動きの精度を上げながら体調を万全に整える方が良い」
疲労した状態で本番の日を迎えるほど馬鹿な人間はいない。
どうせ練習した状態の十をそのまま本番で十発揮できるなんて事はありえないのだから、なるべく本番に十に近い状態で臨む方に持っていくのが賢明だろう。
「おーい、ちょっといいか、二人とも」
鏡の傍に置いている持参した荷物の所で座っていた二人の元へ俺は向かう。
「あ、Pさん…。心配させてしまってごめんなさい」
開口一番、ゆかりは突然謝罪した。
あまりにもいきなりすぎて困惑したが、すぐに我に返る。
「いや、日程の問題で少し焦りすぎた。ゆかりは悪くないよ。もちろん翠も」
やはりというか、一年の差は凄まじく感じる。メンタルだけなら翠もそれなりに強くはあるが、体力面では歴然とした違いがある。
「それでだが、二人とも学校生活も始まったから、これからはこうやって集合してのレッスンは少し控えることにする」
「いいんですか? もう本番も近いのに…」
翠は心配そうな声を上げるが、きっぱりと俺は言ってやる。
「大丈夫だ。俺が見た分には、動き自体はもう十二分に動けている。だからあとは各々の動きの精度を上げながら体調を万全に整える方が良い」
疲労した状態で本番の日を迎えるほど馬鹿な人間はいない。
どうせ練習した状態の十をそのまま本番で十発揮できるなんて事はありえないのだから、なるべく本番に十に近い状態で臨む方に持っていくのが賢明だろう。
205:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:12:12.16 :6orG2Nwgo
「スケジュールは…そうだな。基本的に日曜日はここで二人共レッスンで、土曜日は不定期に。それ以外は、個人で疲労を考慮してそれぞれトレーナーにレッスンを見てもらってくれ。くれぐれも勝手に無茶な自主練習はしないこと」
わかりました、と各々が返事をする。
二人とも、自主練習が行き過ぎる可能性が低くないのだ。そこだけは強く言っておく。
念のため、総ページの半分がそろそろ埋まろうかという状態の黒いスケジュール帳を開く。
そこには翠の現在の仕事の入り具合が記入されている。
ゆかりの学校のこともあるから、平日に時間を決めて集まるのは難しい。
だから日曜日は集まってタイミングの調整を、残りは個人で調整させることを選んだのである。
「不安になるかもしれないが、二人の上達具合は俺が保証する。今までのレッスンをちゃんとこなせてきたんだ、本番までこれぐらいのペースでも問題ないさ。…これでいいか?」
「はい!」
俺の言葉に納得してくれたかどうかは不明だが、二人は元気に声を上げてくれる。
その後二人に体の状態をトレーナーにチェックさせてから、先程より軽めのレッスンが再開した。
「スケジュールは…そうだな。基本的に日曜日はここで二人共レッスンで、土曜日は不定期に。それ以外は、個人で疲労を考慮してそれぞれトレーナーにレッスンを見てもらってくれ。くれぐれも勝手に無茶な自主練習はしないこと」
わかりました、と各々が返事をする。
二人とも、自主練習が行き過ぎる可能性が低くないのだ。そこだけは強く言っておく。
念のため、総ページの半分がそろそろ埋まろうかという状態の黒いスケジュール帳を開く。
そこには翠の現在の仕事の入り具合が記入されている。
ゆかりの学校のこともあるから、平日に時間を決めて集まるのは難しい。
だから日曜日は集まってタイミングの調整を、残りは個人で調整させることを選んだのである。
「不安になるかもしれないが、二人の上達具合は俺が保証する。今までのレッスンをちゃんとこなせてきたんだ、本番までこれぐらいのペースでも問題ないさ。…これでいいか?」
「はい!」
俺の言葉に納得してくれたかどうかは不明だが、二人は元気に声を上げてくれる。
その後二人に体の状態をトレーナーにチェックさせてから、先程より軽めのレッスンが再開した。
206:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:12:38.42 :6orG2Nwgo
*
「翠ちゃん、楽しそうですね」
午前の営業を終え、事務所で買ったばかりのコンビニの弁当を食べていると、隣のちひろさんはそう言った。
本番前のニ週間を調整期間と定めて、流れの確認と体調の管理をさせている今、翠やゆかりは並行して学園祭の準備に取り組んでいることだろう。
よく顔を合わせる翠や、週末しか顔を合わすことのないゆかりとも、そういったプライベートの話をよく聞いている。
ゆかりからはメールがたまに来る程度だが、翠は実際に仕事やレッスンで会うので、仕事帰りの移動中や休憩中などで楽しそうに話してくれていた。
「高校最後、ですからね。ああ、俺もあんな感じだったらなあ」
割り箸に付いたご飯粒を食べる。
俺の高校時代は、あそこまで楽しそうにはやっていなかった気がする。
そういう意味では彼女の一挙一動がとても羨ましく感じた。
*
「翠ちゃん、楽しそうですね」
午前の営業を終え、事務所で買ったばかりのコンビニの弁当を食べていると、隣のちひろさんはそう言った。
本番前のニ週間を調整期間と定めて、流れの確認と体調の管理をさせている今、翠やゆかりは並行して学園祭の準備に取り組んでいることだろう。
よく顔を合わせる翠や、週末しか顔を合わすことのないゆかりとも、そういったプライベートの話をよく聞いている。
ゆかりからはメールがたまに来る程度だが、翠は実際に仕事やレッスンで会うので、仕事帰りの移動中や休憩中などで楽しそうに話してくれていた。
「高校最後、ですからね。ああ、俺もあんな感じだったらなあ」
割り箸に付いたご飯粒を食べる。
俺の高校時代は、あそこまで楽しそうにはやっていなかった気がする。
そういう意味では彼女の一挙一動がとても羨ましく感じた。
207:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:13:45.11 :6orG2Nwgo
「…プロデューサーさん。翠ちゃんのこと、よく見てあげてくださいね」
お互いの学生時代を話のネタにしていた後、ちひろさんは突然静かに言った。
「見ていますよ。担当一人だけですし」
はは、と笑ったが、それは反響しなかった。
「そういう意味じゃないんですけどね……。まあいいです。ともかく、買い被りすぎることだけは気をつけて下さい」
買い被るも何も、翠は仕事に対しても真面目で練習熱心で、何でもやり通せる素晴らしい人間なのは事実だろう。
例え高みに居る人間が隣にいても決して折れない強さがある。
俺の役目は、そんな彼女の心を後ろから支えてやることだ。
「大丈夫ですよ。しっかりとコミュニケーションは取っているつもりですから――あ、そろそろ次の約束の時間か」
休憩は一時間きっちり取られている。しかし営業先の方との打ち合わせの約束が少し早めに設けられているので、俺はさっさと空箱をゴミ箱に捨てる。
「じゃあ行ってきます、よろしくお願いします!」
まだ冷めやらぬ太陽光の下を駆け抜けるため元気よく挨拶をして、事務所を後にした。
「…プロデューサーさん。翠ちゃんのこと、よく見てあげてくださいね」
お互いの学生時代を話のネタにしていた後、ちひろさんは突然静かに言った。
「見ていますよ。担当一人だけですし」
はは、と笑ったが、それは反響しなかった。
「そういう意味じゃないんですけどね……。まあいいです。ともかく、買い被りすぎることだけは気をつけて下さい」
買い被るも何も、翠は仕事に対しても真面目で練習熱心で、何でもやり通せる素晴らしい人間なのは事実だろう。
例え高みに居る人間が隣にいても決して折れない強さがある。
俺の役目は、そんな彼女の心を後ろから支えてやることだ。
「大丈夫ですよ。しっかりとコミュニケーションは取っているつもりですから――あ、そろそろ次の約束の時間か」
休憩は一時間きっちり取られている。しかし営業先の方との打ち合わせの約束が少し早めに設けられているので、俺はさっさと空箱をゴミ箱に捨てる。
「じゃあ行ってきます、よろしくお願いします!」
まだ冷めやらぬ太陽光の下を駆け抜けるため元気よく挨拶をして、事務所を後にした。
208:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:14:18.91 :6orG2Nwgo
*
「今度学園祭で特別ライブを行います、よろしくお願いします」
たとえいつもの制服に身を包んでいようとも、今の姿はアイドルだ。
商店街。
翠の起点となった縁深い場所で、翠と俺は学園祭の広報を行なっていた。
学校に掛けあってチラシの作成を許可してもらい、日時と主な模擬店やイベントを記載したカタログ紙を商店街で配っているのだった。
二つの駅の通り道となっているおかげで、チラシは飛ぶように人の手に渡っていく。
流石アイドルという訳か、少しだけ間を空けて配る俺よりも遥かにチラシがなくなるスピードが早い。
「…まあ、不審なスーツ姿の男とアイドルじゃな」
心の中で乾いた笑いをあげつつも、配布を継続した。
*
「今度学園祭で特別ライブを行います、よろしくお願いします」
たとえいつもの制服に身を包んでいようとも、今の姿はアイドルだ。
商店街。
翠の起点となった縁深い場所で、翠と俺は学園祭の広報を行なっていた。
学校に掛けあってチラシの作成を許可してもらい、日時と主な模擬店やイベントを記載したカタログ紙を商店街で配っているのだった。
二つの駅の通り道となっているおかげで、チラシは飛ぶように人の手に渡っていく。
流石アイドルという訳か、少しだけ間を空けて配る俺よりも遥かにチラシがなくなるスピードが早い。
「…まあ、不審なスーツ姿の男とアイドルじゃな」
心の中で乾いた笑いをあげつつも、配布を継続した。
209:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:14:53.00 :6orG2Nwgo
「…あ、もうないのでしょうか」
ものの数十分も経てば、シャッターの傍に置いたダンボールの中にあったチラシが全て消失していた。
元より、今回の配布では翠の友人にも広報担当として共に列をなして配布をしているため、なくなるのも時間の問題だったということか。
「翠ー、まだチラシ余ってるー?」
とたとた、と離れた所から女子生徒が駆けて来る。
ショートボブの似合う小さな女の子だ。
仲の良い友人では、彼女のように比較的大人しめの子が多いようだった。
「いえ、もう完売です。たくさん来てくれそうですね」
声に気付き振り向いた翠はそう答える。
その顔もどこか嬉しそうだ。
彼女の元気な声を聞いて、他に配布を担当していた友人らも全員集まる。
翠を含め、合計五人だ。
全部配りきった事を翠が改めて伝えると、各々が嬉々として喜びを伝えあう。
「流石アイドル様だね! 友人として鼻が高い!」
「あはは、あんたは何も関係ないのに!」
そんな声が、翠を一層嬉しくさせた。
「…あ、もうないのでしょうか」
ものの数十分も経てば、シャッターの傍に置いたダンボールの中にあったチラシが全て消失していた。
元より、今回の配布では翠の友人にも広報担当として共に列をなして配布をしているため、なくなるのも時間の問題だったということか。
「翠ー、まだチラシ余ってるー?」
とたとた、と離れた所から女子生徒が駆けて来る。
ショートボブの似合う小さな女の子だ。
仲の良い友人では、彼女のように比較的大人しめの子が多いようだった。
「いえ、もう完売です。たくさん来てくれそうですね」
声に気付き振り向いた翠はそう答える。
その顔もどこか嬉しそうだ。
彼女の元気な声を聞いて、他に配布を担当していた友人らも全員集まる。
翠を含め、合計五人だ。
全部配りきった事を翠が改めて伝えると、各々が嬉々として喜びを伝えあう。
「流石アイドル様だね! 友人として鼻が高い!」
「あはは、あんたは何も関係ないのに!」
そんな声が、翠を一層嬉しくさせた。
210:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:15:25.40 :6orG2Nwgo
談笑している間に、俺は事前に買っておいたペットボトルの入った袋を皆に見せる。
「みんなもありがとう。学校に戻る前に、俺からジュースのプレゼントだ。好きなのを選んでくれ」
「おー、流石マネージャー! 気が利くね!」
「マネージャーじゃないんだけどなあ…」
一番元気の良い子が強烈な笑顔を俺に飛ばした。
その子が袋を覗き込めば、他の友人らも順々に集まる。
人数も多くはないので、あっというまに袋は空になり、皆が感謝の言葉を口々にして飲み始めた。
「目上の立場の人ですよ、もう…」
「いいんだよ、翠以外からすればただのおっさんだしな」
全く、と呆れた様子の翠ではあったが、俺は別段気にすることでもなかった。
年頃の女子高生からすれば、俺みたいな人間には大体こんな感じの対応だろう。
「プロデューサーさんはまだまだ若いですよ。おじさんだなんて言わないで下さい」
「はは、ありがとう」
まだ三十路にすら言ってないのだが、ここで働いているとどうにも年齢があやふやになってしまう。
皆は俺と別れ、翠も交えて談笑しながら学校への帰路につくことになった。
当たり前だが俺は入校できるはずもなく…いや、そもそもするつもりもないが、予定通り商工会の方へ挨拶に向かうことにしたのだった。
談笑している間に、俺は事前に買っておいたペットボトルの入った袋を皆に見せる。
「みんなもありがとう。学校に戻る前に、俺からジュースのプレゼントだ。好きなのを選んでくれ」
「おー、流石マネージャー! 気が利くね!」
「マネージャーじゃないんだけどなあ…」
一番元気の良い子が強烈な笑顔を俺に飛ばした。
その子が袋を覗き込めば、他の友人らも順々に集まる。
人数も多くはないので、あっというまに袋は空になり、皆が感謝の言葉を口々にして飲み始めた。
「目上の立場の人ですよ、もう…」
「いいんだよ、翠以外からすればただのおっさんだしな」
全く、と呆れた様子の翠ではあったが、俺は別段気にすることでもなかった。
年頃の女子高生からすれば、俺みたいな人間には大体こんな感じの対応だろう。
「プロデューサーさんはまだまだ若いですよ。おじさんだなんて言わないで下さい」
「はは、ありがとう」
まだ三十路にすら言ってないのだが、ここで働いているとどうにも年齢があやふやになってしまう。
皆は俺と別れ、翠も交えて談笑しながら学校への帰路につくことになった。
当たり前だが俺は入校できるはずもなく…いや、そもそもするつもりもないが、予定通り商工会の方へ挨拶に向かうことにしたのだった。
211:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:16:05.59 :6orG2Nwgo
*
「どうですか、翠は」
相変わらずエアコンの効いた心地良い商工会事務所で、俺は会長に訊ねる。
少しだけ小太りだが、若いころはぶいぶい言わせていたんだとでもいいそうな会長は、和やかに笑ってみせた。
「いい方向に行ってくれてますな。聞いて回った分だと、売上が伸びた店舗も多いみたいで……いやあ、本当に頼んでよかったと思うとります」
その表情からは一遍の曇りもなさそうだ。
「何よりです。もし以前と変わらないようであれば私も申し訳なく感じるところでしたので」
実のところ、これは正直な気持ちである。
せっかく信用し、共生を目指したのに片方だけ利益を得るようであれば今後使ってもらえなくなる。
翠がアイドルを初めてまだ半年も経っていないが、東京でも小さな仕事だが少しづつ増えるようになっているのも、ここでの経験があってこそだ。
そして、現在住まいにしているのは実家だから、近場で仕事ができるのもメリットである。
*
「どうですか、翠は」
相変わらずエアコンの効いた心地良い商工会事務所で、俺は会長に訊ねる。
少しだけ小太りだが、若いころはぶいぶい言わせていたんだとでもいいそうな会長は、和やかに笑ってみせた。
「いい方向に行ってくれてますな。聞いて回った分だと、売上が伸びた店舗も多いみたいで……いやあ、本当に頼んでよかったと思うとります」
その表情からは一遍の曇りもなさそうだ。
「何よりです。もし以前と変わらないようであれば私も申し訳なく感じるところでしたので」
実のところ、これは正直な気持ちである。
せっかく信用し、共生を目指したのに片方だけ利益を得るようであれば今後使ってもらえなくなる。
翠がアイドルを初めてまだ半年も経っていないが、東京でも小さな仕事だが少しづつ増えるようになっているのも、ここでの経験があってこそだ。
そして、現在住まいにしているのは実家だから、近場で仕事ができるのもメリットである。
212:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:16:52.82 :6orG2Nwgo
「…あ、翠のサイン、丁寧に飾って頂いているんですね」
こちらから僅かに見える色紙は、色紙立てに置き、何やら説明書きの紙も用意してさながら展示しているようだ。
「そりゃ、我が商店街公式スポンサーになっているアイドルの色紙ですから、参拝させて頂いておりますよ」
…それは如何なものか。
ともかく、本当に大事に扱ってもらえているということが判って俺は安堵した。
そこで、俺は最近取った仕事の内容を思い出す。
「そうでした。実はですね、今度週刊誌の特集ではありますが翠がグラビア撮影することになりまして」
会長の鼻の穴が少し大きくなったのは見なかったことにしておこう。
「いわゆる過激なものはありませんが、一日の私というテーマで制服と私服両方の写真を撮るそうです。もしかするとこちらの商店街を背景に選ぶかもしれませんがよろしいでしょうか?」
「もちろん、もちろんいいですよ」
どうして二回言ったのかは不明だが、その返事はさしずめ快諾と評して問題ないだろう。
「…あ、翠のサイン、丁寧に飾って頂いているんですね」
こちらから僅かに見える色紙は、色紙立てに置き、何やら説明書きの紙も用意してさながら展示しているようだ。
「そりゃ、我が商店街公式スポンサーになっているアイドルの色紙ですから、参拝させて頂いておりますよ」
…それは如何なものか。
ともかく、本当に大事に扱ってもらえているということが判って俺は安堵した。
そこで、俺は最近取った仕事の内容を思い出す。
「そうでした。実はですね、今度週刊誌の特集ではありますが翠がグラビア撮影することになりまして」
会長の鼻の穴が少し大きくなったのは見なかったことにしておこう。
「いわゆる過激なものはありませんが、一日の私というテーマで制服と私服両方の写真を撮るそうです。もしかするとこちらの商店街を背景に選ぶかもしれませんがよろしいでしょうか?」
「もちろん、もちろんいいですよ」
どうして二回言ったのかは不明だが、その返事はさしずめ快諾と評して問題ないだろう。
213:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:17:20.64 :6orG2Nwgo
その後も少し雑談を交えてから、俺達はソファから立ち上がる。
「本日は場所を貸して頂きありがとうございました。今後とも良いお付き合いができますことを願っています」
軽く礼をして、握手を交わす。
彼及びこの商店街の人たちとは、既にビジネスライクな関係を超越して若干親戚的な関係性を築いていた。
翠に対して店舗の従業員が気付くのはもちろん、俺にすらも声を掛けてくれる人がいるくらいだ。
本来プロデューサーがなるべき立場ではないような事も考えはするが、根本的に人間として嬉しくないはずがない。
お互い笑顔を見せて、俺は商工会を後にする。
今日は翠が学校から帰ってトレーナーとレッスン。
俺は明日の東京の打ち合わせのために、今から東京へ帰るのだった。
その後も少し雑談を交えてから、俺達はソファから立ち上がる。
「本日は場所を貸して頂きありがとうございました。今後とも良いお付き合いができますことを願っています」
軽く礼をして、握手を交わす。
彼及びこの商店街の人たちとは、既にビジネスライクな関係を超越して若干親戚的な関係性を築いていた。
翠に対して店舗の従業員が気付くのはもちろん、俺にすらも声を掛けてくれる人がいるくらいだ。
本来プロデューサーがなるべき立場ではないような事も考えはするが、根本的に人間として嬉しくないはずがない。
お互い笑顔を見せて、俺は商工会を後にする。
今日は翠が学校から帰ってトレーナーとレッスン。
俺は明日の東京の打ち合わせのために、今から東京へ帰るのだった。
214:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:17:48.61 :6orG2Nwgo
*
「おはようございます、プロデューサーさん。早いですね」
暦の上では秋といってもまだまだ残暑は色濃く残り、少し多めに動けば皮膚の上には汗がひたひたと零れ落ちる9月。
既に二学期が始まって一ヶ月が経とうとした今、翠の通う高校は学園祭を迎えていた。
残念ながら仕事としての学園祭は二日目であるため、俺は一日目に高校へ行かず、東京で色々冬にかけての営業を行なっていた。
早朝。
本来であれば本校の生徒側は普段より早めの程度に登校し、模擬店などの下準備を済ませる一方、俺達は誰よりも早く学校の正門の前に到着していた。
まだ鳥が鳴く小さな声と川のせせらぎ以外に何も聞こえない静かな場所で、俺が腕時計を見ながら今日の流れを暗唱していると、翠が姿を表した。
*
「おはようございます、プロデューサーさん。早いですね」
暦の上では秋といってもまだまだ残暑は色濃く残り、少し多めに動けば皮膚の上には汗がひたひたと零れ落ちる9月。
既に二学期が始まって一ヶ月が経とうとした今、翠の通う高校は学園祭を迎えていた。
残念ながら仕事としての学園祭は二日目であるため、俺は一日目に高校へ行かず、東京で色々冬にかけての営業を行なっていた。
早朝。
本来であれば本校の生徒側は普段より早めの程度に登校し、模擬店などの下準備を済ませる一方、俺達は誰よりも早く学校の正門の前に到着していた。
まだ鳥が鳴く小さな声と川のせせらぎ以外に何も聞こえない静かな場所で、俺が腕時計を見ながら今日の流れを暗唱していると、翠が姿を表した。
215:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:18:34.87 :6orG2Nwgo
「約束よりも早い…いや、お互い様だな」
緊張してな、と俺が笑いながら言うと、翠も苦笑して同意した。
「じゃあ翠は先に体育館に行って体を慣らしておいてくれ。多分そろそろ機材が来るから、それから俺も行くよ」
学校側及びゆかりのプロデューサーと協議した結果、演奏は生で行う事になった。
実績が少ないバンドマンを使うことで、比較的安価で間に合わせられたのだ。
とはいっても、向こうの事務所では一度雇ったことのある人達なので、そこに不安はない。
一応曲の製作者である軽音楽部に演奏をお願いするプランもあったが、リスクを含め様々な理由で断念することとなった。
新人がやるライブとしては舞台の客層や集客人数は相応だが、最初からバンドマンを使うのは当然ながら豪華である。
「約束よりも早い…いや、お互い様だな」
緊張してな、と俺が笑いながら言うと、翠も苦笑して同意した。
「じゃあ翠は先に体育館に行って体を慣らしておいてくれ。多分そろそろ機材が来るから、それから俺も行くよ」
学校側及びゆかりのプロデューサーと協議した結果、演奏は生で行う事になった。
実績が少ないバンドマンを使うことで、比較的安価で間に合わせられたのだ。
とはいっても、向こうの事務所では一度雇ったことのある人達なので、そこに不安はない。
一応曲の製作者である軽音楽部に演奏をお願いするプランもあったが、リスクを含め様々な理由で断念することとなった。
新人がやるライブとしては舞台の客層や集客人数は相応だが、最初からバンドマンを使うのは当然ながら豪華である。
216:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:19:02.54 :6orG2Nwgo
「――と、来たか」
翠と別れて十数分後。
視線の先、川沿いを走る車が数台こちらに向かってくる。
この時間にここを目的もなく通る車など皆無だろう、俺は手を振ると車は接近を続け、校門横のフェンスに停車した。
「――と、来たか」
翠と別れて十数分後。
視線の先、川沿いを走る車が数台こちらに向かってくる。
この時間にここを目的もなく通る車など皆無だろう、俺は手を振ると車は接近を続け、校門横のフェンスに停車した。
217:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:19:40.83 :6orG2Nwgo
*
「では打ち合わせ通り、設置お願いします」
軽い返事と共に、バンドマンたちは舞台の上で楽器を組み立て始めた。
舞台に運ぶまでは俺も手伝ったが、如何せんそれ以上のことは何もわからないので丸投げしてある。
その方が相手にとってもやりやすいだろう、俺は彼らに設置を任せ、体育館の扉から外を眺める翠に近づいてそっと肩を叩いた。
「調子はどうだ?」
一瞬驚いたものの、振り返って叩いたのが俺だとわかると安堵した表情を見せる。
「可もなく不可もなく――いえ、万全と言うべきでしょうか」
「無理するなよ」
巫山戯て笑ってやる。緊張してないだなんて事はありえないのだから。
「あと数時間経ったらお前とゆかりはあそこで歌うんだぞ。初めてのライブが学校だなんて、運が良かったのかもな」
その点に関しては、提案してくれたゆかりに感謝する他無い。普通の人間であれば気付いて当然な事なのだから、見落としていた俺の恥は尽きそうにない。
「…こうして、皆の前で歌うことができるのもプロデューサーさんのおかげです。期待に応えるためにも、絶対に成功させてみせます」
にこりと口角を釣り上げる可憐な表情を俺に向ける。
普段落ち着いているせいか実年齢以上に思わせてしまいがちな翠だが、時折見せるこの笑顔はとても彼女を歳相応に見せた。
*
「では打ち合わせ通り、設置お願いします」
軽い返事と共に、バンドマンたちは舞台の上で楽器を組み立て始めた。
舞台に運ぶまでは俺も手伝ったが、如何せんそれ以上のことは何もわからないので丸投げしてある。
その方が相手にとってもやりやすいだろう、俺は彼らに設置を任せ、体育館の扉から外を眺める翠に近づいてそっと肩を叩いた。
「調子はどうだ?」
一瞬驚いたものの、振り返って叩いたのが俺だとわかると安堵した表情を見せる。
「可もなく不可もなく――いえ、万全と言うべきでしょうか」
「無理するなよ」
巫山戯て笑ってやる。緊張してないだなんて事はありえないのだから。
「あと数時間経ったらお前とゆかりはあそこで歌うんだぞ。初めてのライブが学校だなんて、運が良かったのかもな」
その点に関しては、提案してくれたゆかりに感謝する他無い。普通の人間であれば気付いて当然な事なのだから、見落としていた俺の恥は尽きそうにない。
「…こうして、皆の前で歌うことができるのもプロデューサーさんのおかげです。期待に応えるためにも、絶対に成功させてみせます」
にこりと口角を釣り上げる可憐な表情を俺に向ける。
普段落ち着いているせいか実年齢以上に思わせてしまいがちな翠だが、時折見せるこの笑顔はとても彼女を歳相応に見せた。
218:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:20:10.02 :6orG2Nwgo
――無機質な着信音がポケットから流れる。
液晶画面に映ったのはゆかりのプロデューサーから送られたメールだった。
内容には、近くの駅からタクシーで来ている事、後もう少しで着くこと、着いてからの行動の確認が書かれてあった。
全く以て準備やスケジュール管理に余念が無いな、と文面を見て感心する。
ひとしきり読んで頭に叩きこむと携帯を閉じ、視線を再び翠に向ける。
「あと少ししたらゆかり達がこっちに到着するらしい。着いてゆかりが休憩をとったら、二人で動作を確認しつつリハをするからよろしく頼むぞ」
「はい!」
元気よく答える翠に一安心しつつ、舞台上の準備の進捗状況を確認して、俺は体育館を後にしたのだった。
――無機質な着信音がポケットから流れる。
液晶画面に映ったのはゆかりのプロデューサーから送られたメールだった。
内容には、近くの駅からタクシーで来ている事、後もう少しで着くこと、着いてからの行動の確認が書かれてあった。
全く以て準備やスケジュール管理に余念が無いな、と文面を見て感心する。
ひとしきり読んで頭に叩きこむと携帯を閉じ、視線を再び翠に向ける。
「あと少ししたらゆかり達がこっちに到着するらしい。着いてゆかりが休憩をとったら、二人で動作を確認しつつリハをするからよろしく頼むぞ」
「はい!」
元気よく答える翠に一安心しつつ、舞台上の準備の進捗状況を確認して、俺は体育館を後にしたのだった。
219:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:20:47.04 :6orG2Nwgo
*
閉めきった体育館の中に、いくつかの音楽がしきりに流れている。
他の生徒に聞こえないよう配慮したこの空間で、二人は目線を合わせながらステップを踏んでいた。
専ら楽器には門外漢なのでよくは知らないが、まず各々の担当が音を調整してから、進行内容に沿って演奏を開始した。
予めバンドマンと翠とゆかりの二人を対面させ、進行について打ち合わせは行っている。紙面にて渡しているので、予想以上にスムーズにリハは進んでいく。
「さっきの所、ちょっとワンテンポだけズレてるな」
舞台の正面から間近で二人を見ると、僅かではあるがミスが見つかる。
すると俺は演奏の区切りの所で中断させて逐一指摘し、間違えた箇所の少し前から再開させる。
やはりレッスン室とこうしたいつもと違う風景の中で踊るのとでは感覚も違う。人同士の距離が離れているためか、反響した音に惑わされて翠のステップがややズレていた。
練習で起きなかったミスが本番で起きないように、今の内に俺とゆかりのプロデューサーが全力で彼女たちをサポートしてやる。
*
閉めきった体育館の中に、いくつかの音楽がしきりに流れている。
他の生徒に聞こえないよう配慮したこの空間で、二人は目線を合わせながらステップを踏んでいた。
専ら楽器には門外漢なのでよくは知らないが、まず各々の担当が音を調整してから、進行内容に沿って演奏を開始した。
予めバンドマンと翠とゆかりの二人を対面させ、進行について打ち合わせは行っている。紙面にて渡しているので、予想以上にスムーズにリハは進んでいく。
「さっきの所、ちょっとワンテンポだけズレてるな」
舞台の正面から間近で二人を見ると、僅かではあるがミスが見つかる。
すると俺は演奏の区切りの所で中断させて逐一指摘し、間違えた箇所の少し前から再開させる。
やはりレッスン室とこうしたいつもと違う風景の中で踊るのとでは感覚も違う。人同士の距離が離れているためか、反響した音に惑わされて翠のステップがややズレていた。
練習で起きなかったミスが本番で起きないように、今の内に俺とゆかりのプロデューサーが全力で彼女たちをサポートしてやる。
220:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:21:13.37 :6orG2Nwgo
念入りに確認しつつ、本人たちの体力を考慮した上でそろそろ休憩をしようか、と腕時計を見ると、既に他の生徒が学校に来始める頃合になっていた。
実際に体育館の扉を開けて外に出てみると、遠目からでも様々な生徒の姿が確認できる。
ゆかりのプロデューサーに了承を得てから、もう俺ですら聞き慣れた曲をキリの良い所で止めさせて舞台にいる皆を集め、開始時刻までの注意事項を連絡する。
学園祭二日目が始まるのは午前9時。そして二人のライブが開催されるのは10時半である。
まだ9時にもなっていないが、翠にとってはクラスの方の準備があるので、決して余裕がある訳ではない。
ライブが始まるまであと2時間程度。
翠の背中を見送った後、暫くの間休憩を取ることにした。
念入りに確認しつつ、本人たちの体力を考慮した上でそろそろ休憩をしようか、と腕時計を見ると、既に他の生徒が学校に来始める頃合になっていた。
実際に体育館の扉を開けて外に出てみると、遠目からでも様々な生徒の姿が確認できる。
ゆかりのプロデューサーに了承を得てから、もう俺ですら聞き慣れた曲をキリの良い所で止めさせて舞台にいる皆を集め、開始時刻までの注意事項を連絡する。
学園祭二日目が始まるのは午前9時。そして二人のライブが開催されるのは10時半である。
まだ9時にもなっていないが、翠にとってはクラスの方の準備があるので、決して余裕がある訳ではない。
ライブが始まるまであと2時間程度。
翠の背中を見送った後、暫くの間休憩を取ることにした。
221:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:21:47.53 :6orG2Nwgo
「Pさん。お疲れ様です」
「お疲れ様。本番はまだだけどな」
先ほど担当である彼と何か話し合いをしてから、ゆかりは俺の下に来た。
それは挨拶としては至極正しいが、内容はもう少し後で言うべき言葉である。
「普通なら翠一人でやるべきライブなんだけど……。わざわざ来てくれてありがとう、ゆかり。本当に助かった」
東京からこちらまで来るのには近畿地方や中国地方へよりはいくらかマシだが、それでも遠いことは遠い。
一応彼女たちの事を考え遅めに指定はしたが、それでも少し無理をさせてしまったことには間違いない。
「いいえ。私が言い出したことですし、翠ちゃんとこうしてライブができるのは楽しみに感じてますから」
翠に似た丁寧な言葉づかいでゆかりは小さく笑う。
その表情に偽りや曇りはない。
彼女の小さな体には、どれほどの経験があるのだろう。
有能なプロデューサーの手中でどれほど練習に明け暮れ、試練に立ち向かってきたのだろう。
翠よりも年下であるのに、たった一年の差を実感させられるぐらい、彼女の落ち着きっぷりは際立っていた。
「Pさん。お疲れ様です」
「お疲れ様。本番はまだだけどな」
先ほど担当である彼と何か話し合いをしてから、ゆかりは俺の下に来た。
それは挨拶としては至極正しいが、内容はもう少し後で言うべき言葉である。
「普通なら翠一人でやるべきライブなんだけど……。わざわざ来てくれてありがとう、ゆかり。本当に助かった」
東京からこちらまで来るのには近畿地方や中国地方へよりはいくらかマシだが、それでも遠いことは遠い。
一応彼女たちの事を考え遅めに指定はしたが、それでも少し無理をさせてしまったことには間違いない。
「いいえ。私が言い出したことですし、翠ちゃんとこうしてライブができるのは楽しみに感じてますから」
翠に似た丁寧な言葉づかいでゆかりは小さく笑う。
その表情に偽りや曇りはない。
彼女の小さな体には、どれほどの経験があるのだろう。
有能なプロデューサーの手中でどれほど練習に明け暮れ、試練に立ち向かってきたのだろう。
翠よりも年下であるのに、たった一年の差を実感させられるぐらい、彼女の落ち着きっぷりは際立っていた。
222:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:22:24.97 :6orG2Nwgo
「俺が言うのもおかしな話かもしれない…けど頼みたい。もし本番中に翠がトラブったら、助けてやって欲しい」
親ではない俺が言って納得できる話ではないのは事実だが、たった数ヶ月一緒に仕事をしてきただけで親心が湧いてきたもの事実である。
「もちろんですよ。今日は翠ちゃんの学友のために設けたライブです。私も、精一杯役に務めたいと思います」
見方を変えれば、ゆかりが持つ翠への感情を利用したも同然である。
心苦しくないはずはないが、それでも俺はゆかりの善意に頼るしか術が残されていのだ。
優しい雰囲気が印象に残る彼女の微笑み。
その彼女の笑顔が曇ることが無いように。そう俺は心の中で強く祈った。
「俺が言うのもおかしな話かもしれない…けど頼みたい。もし本番中に翠がトラブったら、助けてやって欲しい」
親ではない俺が言って納得できる話ではないのは事実だが、たった数ヶ月一緒に仕事をしてきただけで親心が湧いてきたもの事実である。
「もちろんですよ。今日は翠ちゃんの学友のために設けたライブです。私も、精一杯役に務めたいと思います」
見方を変えれば、ゆかりが持つ翠への感情を利用したも同然である。
心苦しくないはずはないが、それでも俺はゆかりの善意に頼るしか術が残されていのだ。
優しい雰囲気が印象に残る彼女の微笑み。
その彼女の笑顔が曇ることが無いように。そう俺は心の中で強く祈った。
223:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:22:50.32 :6orG2Nwgo
*
踊る、踊る。
壇上で、二人の少女が軽快に踊る。
つま先は四方八方に向き、体は縦横無尽に舞台を駆け巡る。
髪は揺れ、韻が踏まれ、足取りがビートを刻む。
その音を聞いている皆の心臓の鼓動が、早く早く、次へ次へと聞き急いでいた。
それは舞台袖で彼女達の横顔を見る俺も同様だった。
*
踊る、踊る。
壇上で、二人の少女が軽快に踊る。
つま先は四方八方に向き、体は縦横無尽に舞台を駆け巡る。
髪は揺れ、韻が踏まれ、足取りがビートを刻む。
その音を聞いている皆の心臓の鼓動が、早く早く、次へ次へと聞き急いでいた。
それは舞台袖で彼女達の横顔を見る俺も同様だった。
224:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:23:20.84 :6orG2Nwgo
甲高い音を挙げるエレキギターと共に、観客の動きが良くなる。とりわけ生徒達にはこの激しいリズムがお気に入りのようだった。
踊っているのは一人ではない。一人だと感じることの出来ないコンビネーション・ダンスがステージを横切るように披露されると、より雰囲気は盛り上がった。
普段の落ち着きが剥がれ落ちたかのようなキレのある動きに彼女を知る友人たちはきっと驚いただろう。
ここに見えるのは、アイドルとしての水野翠だということを、知らしめてやれ。
体育館に鳴り響く音に潰されることなく笑顔を見せる翠を見て、俺はそう呟いた。
甲高い音を挙げるエレキギターと共に、観客の動きが良くなる。とりわけ生徒達にはこの激しいリズムがお気に入りのようだった。
踊っているのは一人ではない。一人だと感じることの出来ないコンビネーション・ダンスがステージを横切るように披露されると、より雰囲気は盛り上がった。
普段の落ち着きが剥がれ落ちたかのようなキレのある動きに彼女を知る友人たちはきっと驚いただろう。
ここに見えるのは、アイドルとしての水野翠だということを、知らしめてやれ。
体育館に鳴り響く音に潰されることなく笑顔を見せる翠を見て、俺はそう呟いた。
225:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:23:49.09 :6orG2Nwgo
*
翠は舞台側の暗幕から観客席を覗くと、大層驚いた表情を見せた。
友人、先生、後輩やまだ知らない下級生、私服の色々な年代の人々、そして数台のカメラがまだ真新しい木の床を占有していたのだ。
少し早いが雑談の声が歓声の予感を感じさせた。
全校生徒全員が入っても余裕のあるこの体育館が人で程よく埋まるのは予想外だったのだろう。
それは本人にとって新人であるという自負のせいでもあったのかもしれない。
しかし、世間は予想以上に翠を見てくれていた。
担当しているが故の贔屓もあるが、それでも確実に『流れ』が彼女に来ていると俺は確信している。
このライブをきっかけに、来年、再来年も更に活躍できるはずだ。翠なら。
*
翠は舞台側の暗幕から観客席を覗くと、大層驚いた表情を見せた。
友人、先生、後輩やまだ知らない下級生、私服の色々な年代の人々、そして数台のカメラがまだ真新しい木の床を占有していたのだ。
少し早いが雑談の声が歓声の予感を感じさせた。
全校生徒全員が入っても余裕のあるこの体育館が人で程よく埋まるのは予想外だったのだろう。
それは本人にとって新人であるという自負のせいでもあったのかもしれない。
しかし、世間は予想以上に翠を見てくれていた。
担当しているが故の贔屓もあるが、それでも確実に『流れ』が彼女に来ていると俺は確信している。
このライブをきっかけに、来年、再来年も更に活躍できるはずだ。翠なら。
226:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:24:39.24 :6orG2Nwgo
「……翠」
刻々とライブ開始の時間が近づく最中、パイプ椅子に座る翠の肩は僅かに震えていた。
刹那、俺は安心したように感じた。
そっと近づくと、小さな肩に手を置いて、言う。
「練習は嘘を吐かない。翠が本気で取り組んでいたなら体は勝手に動いてくれるさ。だから……一生で一度しかないこの初めての体験を胸に刻め」
思い出としていつでも思い出せるように。
見繕う試みはなく、ただ本心で翠に伝える。
この時、俺はどういう風にいうのが正解か解らずに居た。
何故ならば、こういった場合への対処として、三者三様の答えがあるからだ。
例えば感情を普遍化するか、不安を払拭するために鼓舞するか、あるいは脅しを掛けてやるか、である。
「――はい」
周りの雑音がシャットアウトされ、彼女の返事だけが俺の耳に入る。
彼女は俯いていて、表情は見えない。
だが、そこに細切れそうな声はなかった。
「……翠」
刻々とライブ開始の時間が近づく最中、パイプ椅子に座る翠の肩は僅かに震えていた。
刹那、俺は安心したように感じた。
そっと近づくと、小さな肩に手を置いて、言う。
「練習は嘘を吐かない。翠が本気で取り組んでいたなら体は勝手に動いてくれるさ。だから……一生で一度しかないこの初めての体験を胸に刻め」
思い出としていつでも思い出せるように。
見繕う試みはなく、ただ本心で翠に伝える。
この時、俺はどういう風にいうのが正解か解らずに居た。
何故ならば、こういった場合への対処として、三者三様の答えがあるからだ。
例えば感情を普遍化するか、不安を払拭するために鼓舞するか、あるいは脅しを掛けてやるか、である。
「――はい」
周りの雑音がシャットアウトされ、彼女の返事だけが俺の耳に入る。
彼女は俯いていて、表情は見えない。
だが、そこに細切れそうな声はなかった。
227:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:25:47.76 :6orG2Nwgo
「皆さん本日のライブを見に来てくれてありがとうございます! 今日は特別ゲストとして、皆さんご存知の水本ゆかりさんが来てくれていますー!」
その言葉に、観客は歓声を上げた。
一曲目が終わって場が暖まった後、マイクスタンドからマイクを抜いて、翠は観客席に向かって自己紹介をする。
「ご紹介頂きました水本ゆかりです。今日はお招き頂きありがとうございます。精一杯頑張りますので、どうか最後までよろしくお願いしますね」
ダンス後のトークなので若干声が上ずって喋り急ぎ過ぎる傾向がありがちだが、彼女たちは踏ん張っていつも通りの落ち着いた口調を続けていた。
この場合はむしろ雰囲気に任せて勢いあるトークをしたほうがいいのかもしれないが、これも彼女達らしいか。
是非はこのライブの反省会でやるとして、俺は二人の関係を紹介する彼女達を眺めた。
「皆さん本日のライブを見に来てくれてありがとうございます! 今日は特別ゲストとして、皆さんご存知の水本ゆかりさんが来てくれていますー!」
その言葉に、観客は歓声を上げた。
一曲目が終わって場が暖まった後、マイクスタンドからマイクを抜いて、翠は観客席に向かって自己紹介をする。
「ご紹介頂きました水本ゆかりです。今日はお招き頂きありがとうございます。精一杯頑張りますので、どうか最後までよろしくお願いしますね」
ダンス後のトークなので若干声が上ずって喋り急ぎ過ぎる傾向がありがちだが、彼女たちは踏ん張っていつも通りの落ち着いた口調を続けていた。
この場合はむしろ雰囲気に任せて勢いあるトークをしたほうがいいのかもしれないが、これも彼女達らしいか。
是非はこのライブの反省会でやるとして、俺は二人の関係を紹介する彼女達を眺めた。
228:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:26:27.98 :6orG2Nwgo
数分もすると、進行役も兼ねている翠はバンドマン達に合図をする。
すると、ずっと練習していたもう一つの曲、学校の仲間が作った曲の伴奏が流れ始めた。
イントロを聞いて、一部の観客がざわつく。
「この曲は軽音楽部の方に頂いた曲です。……お礼は、私たちの声でお返しします!」
彼女の声と共に、一気に曲が加速する。
これも打ち合わせ通りで、翠が高らかに叫んだ後、ギター担当には少し調子を上げてもらう様にしてもらったのだ。
鳴り響くサウンドに負けじと観客が声を上げる。身内である翠はともかく、普段テレビでみる水本ゆかりが自分の高校の身内が作った歌を歌ってくれるのは最高に違いない。
ステージは既に暗く、体育館の二階部から照射されるスポットライトに映された二人だけがステージに視界に浮かび上がる。
大きなステージではないので豪華なレーザー装置こそはないものの、予算内で出来る限りの装飾は行っている。
たったそれだけの舞台でも、二人を含め、その場に居る皆が盛り上がってくれていた。
数分もすると、進行役も兼ねている翠はバンドマン達に合図をする。
すると、ずっと練習していたもう一つの曲、学校の仲間が作った曲の伴奏が流れ始めた。
イントロを聞いて、一部の観客がざわつく。
「この曲は軽音楽部の方に頂いた曲です。……お礼は、私たちの声でお返しします!」
彼女の声と共に、一気に曲が加速する。
これも打ち合わせ通りで、翠が高らかに叫んだ後、ギター担当には少し調子を上げてもらう様にしてもらったのだ。
鳴り響くサウンドに負けじと観客が声を上げる。身内である翠はともかく、普段テレビでみる水本ゆかりが自分の高校の身内が作った歌を歌ってくれるのは最高に違いない。
ステージは既に暗く、体育館の二階部から照射されるスポットライトに映された二人だけがステージに視界に浮かび上がる。
大きなステージではないので豪華なレーザー装置こそはないものの、予算内で出来る限りの装飾は行っている。
たったそれだけの舞台でも、二人を含め、その場に居る皆が盛り上がってくれていた。
229:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:26:56.37 :6orG2Nwgo
曲は流れ、旋律が彼女達の口からリリックへと姿を変えて空間を揺らす。
一つ一つの音、一つ一つの声がこのステージを支配する。
残念な話だが、翠一人の声ではきっと曲に埋もれていただろう。
ゆかりの繊細ながらも芯のある声が翠の声を補強してくれていたのだ。
尤も、それは恣意のある話ではない。
たまたま二人の声色が重なりあってそういう効果を表しただけなのだ。
それだけ、彼女達の相性が良いのだろう。
俺は強く照らされた翠をただ眺めていた。
アイドルが輝く瞬間は、俺みたいな人間は離れた所でじっと見ているしかない。
だから一観客として、この感動を、この反応を伝えたいと思う。
真剣な面持ちで――それでいて本当に楽しそうな横顔を見ながら、俺はこの光景を目に焼き付けていた。
曲は流れ、旋律が彼女達の口からリリックへと姿を変えて空間を揺らす。
一つ一つの音、一つ一つの声がこのステージを支配する。
残念な話だが、翠一人の声ではきっと曲に埋もれていただろう。
ゆかりの繊細ながらも芯のある声が翠の声を補強してくれていたのだ。
尤も、それは恣意のある話ではない。
たまたま二人の声色が重なりあってそういう効果を表しただけなのだ。
それだけ、彼女達の相性が良いのだろう。
俺は強く照らされた翠をただ眺めていた。
アイドルが輝く瞬間は、俺みたいな人間は離れた所でじっと見ているしかない。
だから一観客として、この感動を、この反応を伝えたいと思う。
真剣な面持ちで――それでいて本当に楽しそうな横顔を見ながら、俺はこの光景を目に焼き付けていた。
230:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:27:38.23 :6orG2Nwgo
*
ざわざわとした喧騒が、広い運動場に立ち込めている。
簡素な骨組みで作られた屋台が、あちらこちらに列を作っているのである。
ある生徒はクラスで作ったTシャツを、ある生徒は持参したエプロンをそれぞれ自由に着用しては色とりどりの看板や声で客を誘っている。
文化祭二日目。
賑やかな人混みが学校中に形成されているのは、近所の住民や小中学校の子供も数多く訪れているからである。
毎年この高校の文化祭は自由解放日があり尚且つ出店が多いこともあって人気があるとのことだが、今年に限って言えばチラシを大々的に配ったので一見の人も多数来てくれているようだった。
学校関係者にとっては、色々な人に来てもらえて嬉しい反面運営が更に多忙になり、いつも以上に困っていることだろう。
そんなちょっとしたお祭りの中、俺と翠――無事ライブを終えた俺達は、歩幅と共にゆっくりと移り変わる景色を楽しんでいた。
*
ざわざわとした喧騒が、広い運動場に立ち込めている。
簡素な骨組みで作られた屋台が、あちらこちらに列を作っているのである。
ある生徒はクラスで作ったTシャツを、ある生徒は持参したエプロンをそれぞれ自由に着用しては色とりどりの看板や声で客を誘っている。
文化祭二日目。
賑やかな人混みが学校中に形成されているのは、近所の住民や小中学校の子供も数多く訪れているからである。
毎年この高校の文化祭は自由解放日があり尚且つ出店が多いこともあって人気があるとのことだが、今年に限って言えばチラシを大々的に配ったので一見の人も多数来てくれているようだった。
学校関係者にとっては、色々な人に来てもらえて嬉しい反面運営が更に多忙になり、いつも以上に困っていることだろう。
そんなちょっとしたお祭りの中、俺と翠――無事ライブを終えた俺達は、歩幅と共にゆっくりと移り変わる景色を楽しんでいた。
231:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:28:10.19 :6orG2Nwgo
*
翠の友人と思しき女性の歓声。体育館の空気を揺らす拍手。
ライブが終わった瞬間、俺が耳にした音は予想する限り最高の物だった。
心の中で微かな悪寒は感じていた。
失敗。嘆息。罵声。アイドルが現実に引きずり出されるような、そんな光景。
しかし、今回に限っては杞憂に終ってくれた。
暖かい視線と雰囲気が、彼女達を祝福してくれたのだった。
立ちっぱなしで聞いていた俺は、へたりと重力のままパイプ椅子に座り込むと、多大なる安堵が肺を満たした。
*
翠の友人と思しき女性の歓声。体育館の空気を揺らす拍手。
ライブが終わった瞬間、俺が耳にした音は予想する限り最高の物だった。
心の中で微かな悪寒は感じていた。
失敗。嘆息。罵声。アイドルが現実に引きずり出されるような、そんな光景。
しかし、今回に限っては杞憂に終ってくれた。
暖かい視線と雰囲気が、彼女達を祝福してくれたのだった。
立ちっぱなしで聞いていた俺は、へたりと重力のままパイプ椅子に座り込むと、多大なる安堵が肺を満たした。
232:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:28:46.21 :6orG2Nwgo
ステージの袖に帰ってくると、翠はまずゆかりとハイタッチをし、次に共に音を奏でたバンドマン達とも笑顔でハイタッチを交わした。
緊張の糸が解けて安心した、という表情ではない。ただやりきった故の充実感が彼女を笑顔にさせていた。
最後に翠は俺を視界に捉えると、小走りで近づいてくる。
お疲れ様、よくやった。どんな言葉を掛けてやろうか、いやまずはハイタッチかな、と思案していた刹那だった。
「プロデューサーさん!」
胸に熱い空気と鈍い衝撃が走ったと同時に、良い香りが鼻腔を刺激する。
なんと、翠は俺の胸元に飛び込んできたのだ。
ステージの袖に帰ってくると、翠はまずゆかりとハイタッチをし、次に共に音を奏でたバンドマン達とも笑顔でハイタッチを交わした。
緊張の糸が解けて安心した、という表情ではない。ただやりきった故の充実感が彼女を笑顔にさせていた。
最後に翠は俺を視界に捉えると、小走りで近づいてくる。
お疲れ様、よくやった。どんな言葉を掛けてやろうか、いやまずはハイタッチかな、と思案していた刹那だった。
「プロデューサーさん!」
胸に熱い空気と鈍い衝撃が走ったと同時に、良い香りが鼻腔を刺激する。
なんと、翠は俺の胸元に飛び込んできたのだ。
233:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:29:13.22 :6orG2Nwgo
「み、翠!?」
「やりましたよ! 私、ちゃんと出来ました!」
俺の言葉を無視して、手を俺の胸元に当てて支えるように上目遣いで嬉しそうに報告をする翠。
それは、普段の姿とは全く違って酷く幼く見えてしまう。
――いや、それもライブの影響なのだろう。
自身の形作った性格や体裁も全て有耶無耶にしてしまうほど、ライブ…それも初めてのライブは不安と恐怖と重圧が彼女にのしかかっていたのだ。
「ちゃんとプロデューサーさんの期待に応えられました! これなら…私はプロデューサーさんの担当アイドルだって言えます!」
ぴょんぴょんと小さく跳ねながら、じゃれつくように胸元で笑う翠。
はて、彼女は本当に翠なのだろうか、と俺は場違いにも考えてしまった。
「み、翠!?」
「やりましたよ! 私、ちゃんと出来ました!」
俺の言葉を無視して、手を俺の胸元に当てて支えるように上目遣いで嬉しそうに報告をする翠。
それは、普段の姿とは全く違って酷く幼く見えてしまう。
――いや、それもライブの影響なのだろう。
自身の形作った性格や体裁も全て有耶無耶にしてしまうほど、ライブ…それも初めてのライブは不安と恐怖と重圧が彼女にのしかかっていたのだ。
「ちゃんとプロデューサーさんの期待に応えられました! これなら…私はプロデューサーさんの担当アイドルだって言えます!」
ぴょんぴょんと小さく跳ねながら、じゃれつくように胸元で笑う翠。
はて、彼女は本当に翠なのだろうか、と俺は場違いにも考えてしまった。
234:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:29:39.85 :6orG2Nwgo
「よくやった。大変だったけど、誰が見ても成功だろうな。おめでとう!」
瞬間我に返ると、俺は思いつく言葉で翠を褒める。
内心では色々なものに押し潰されそうになったのだ、多少ハイテンションで行動がいつもと違ってようと問題なかろう。
ありがとうございます、と元気の良い声で返事をした翠の肩を持つと、俺は少しだけ距離を離す。
天に掲げた俺の手に翠の手が重なると、パン、と舞台袖に乾いた音が鳴った。
「よくやった。大変だったけど、誰が見ても成功だろうな。おめでとう!」
瞬間我に返ると、俺は思いつく言葉で翠を褒める。
内心では色々なものに押し潰されそうになったのだ、多少ハイテンションで行動がいつもと違ってようと問題なかろう。
ありがとうございます、と元気の良い声で返事をした翠の肩を持つと、俺は少しだけ距離を離す。
天に掲げた俺の手に翠の手が重なると、パン、と舞台袖に乾いた音が鳴った。
235:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:30:19.29 :6orG2Nwgo
*
「――はい、クレープとジュースな」
校舎の壁際に置かれたベンチに俺達は座り、喧騒を遠くから眺めることにした。
昔商店街で食べたパフェからもわかるとおり、翠も女子高生らしくデザートに目がなかった。
クレープ屋台を見つけた時の目の変わり様と言ったら、とても微笑ましく思う。
ライブ後でまたこれだけ歩けば疲れるだろう、ということで、偶然視界の奥に見かけたベンチで休憩することにしたのだ。
「わあ、美味しそう……!」
先にベンチに行かせていたので、実物の温かいクレープを手に持った翠は子供のようにクリームを爛々と見た。
ジュースを脇に置いて、俺も座る。
さっきまで耳を覆っていた騒々しさが遠くなると、まるでそれが強い過去の回想のように思えた。
*
「――はい、クレープとジュースな」
校舎の壁際に置かれたベンチに俺達は座り、喧騒を遠くから眺めることにした。
昔商店街で食べたパフェからもわかるとおり、翠も女子高生らしくデザートに目がなかった。
クレープ屋台を見つけた時の目の変わり様と言ったら、とても微笑ましく思う。
ライブ後でまたこれだけ歩けば疲れるだろう、ということで、偶然視界の奥に見かけたベンチで休憩することにしたのだ。
「わあ、美味しそう……!」
先にベンチに行かせていたので、実物の温かいクレープを手に持った翠は子供のようにクリームを爛々と見た。
ジュースを脇に置いて、俺も座る。
さっきまで耳を覆っていた騒々しさが遠くなると、まるでそれが強い過去の回想のように思えた。
236:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:31:23.69 :6orG2Nwgo
「改めてお疲れ様。あんなに良いパフォーマンスだったのは、俺も驚きだったよ」
ライブ終了後、次に使う部活のために片付けを行うと共に、この後また東京で仕事があるらしいゆかりとそのプロデューサーには最大限の礼をして別れる事となった。
出来るならこの文化祭を少しでも楽しんでいって貰いたかったが、こういった移動の多いスケジュールも彼らに取っては比較的よくあることで、大変だなと思う一方羨ましくも思えた。
クレープを両手で大事そうに持っている隣の翠は、少し前の出来事を思い出すように秋空を仰ぐ。
「ゆかりさんが隣にいてくれて、とても心強かったです。…プロデューサーさんも、見てくれているとわかってたから、頑張れたんだと思います」
「プロデューサー冥利に尽きるな」
未だ熱気冷めやらぬといったところか、上気した頬をした翠は俺を見て小さく笑った。
「改めてお疲れ様。あんなに良いパフォーマンスだったのは、俺も驚きだったよ」
ライブ終了後、次に使う部活のために片付けを行うと共に、この後また東京で仕事があるらしいゆかりとそのプロデューサーには最大限の礼をして別れる事となった。
出来るならこの文化祭を少しでも楽しんでいって貰いたかったが、こういった移動の多いスケジュールも彼らに取っては比較的よくあることで、大変だなと思う一方羨ましくも思えた。
クレープを両手で大事そうに持っている隣の翠は、少し前の出来事を思い出すように秋空を仰ぐ。
「ゆかりさんが隣にいてくれて、とても心強かったです。…プロデューサーさんも、見てくれているとわかってたから、頑張れたんだと思います」
「プロデューサー冥利に尽きるな」
未だ熱気冷めやらぬといったところか、上気した頬をした翠は俺を見て小さく笑った。
237:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:31:58.91 :6orG2Nwgo
「…私、今の時間が夢みたいに感じてます」
クレープを食べ終えてから、ペットボトルのジュースを飲みつつ今日のライブの反省会を兼ねた、半分プライベートの時間。
ライブの衣装は既に着替えていつもの制服姿に身を包んだ翠は、スカートの上にペットボトルを置いて俺を見る。
「夢じゃないぞ。翠の初めてのライブは成功したんだ」
初めて担当したアイドルがこうして無事にステップを進める事ができて、俺もプロデューサーとして鼻が高い。
「……いえ。そうじゃないんです」
この調子だ、と意気揚々と翠を褒めてやると――予想外なことに、彼女は首を横に降った。
「勿論、ライブだって見てくれた皆さんに喜んでもらえましたし、ゆかりさんとも一緒に歌えたのは楽しかったですけど……ええと、その」
太ももに挟まれたスカートがすりすりと音をたてた。
言い難いのか、歯切りが悪い様子の彼女であったが、未だに含意が掴み取れない俺としてはもどかしい気分である。
「…私、今の時間が夢みたいに感じてます」
クレープを食べ終えてから、ペットボトルのジュースを飲みつつ今日のライブの反省会を兼ねた、半分プライベートの時間。
ライブの衣装は既に着替えていつもの制服姿に身を包んだ翠は、スカートの上にペットボトルを置いて俺を見る。
「夢じゃないぞ。翠の初めてのライブは成功したんだ」
初めて担当したアイドルがこうして無事にステップを進める事ができて、俺もプロデューサーとして鼻が高い。
「……いえ。そうじゃないんです」
この調子だ、と意気揚々と翠を褒めてやると――予想外なことに、彼女は首を横に降った。
「勿論、ライブだって見てくれた皆さんに喜んでもらえましたし、ゆかりさんとも一緒に歌えたのは楽しかったですけど……ええと、その」
太ももに挟まれたスカートがすりすりと音をたてた。
言い難いのか、歯切りが悪い様子の彼女であったが、未だに含意が掴み取れない俺としてはもどかしい気分である。
238:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:32:37.06 :6orG2Nwgo
翠は先程、『今』が夢みたいだ、と言っていた。
ライブのことかと問えば、違うと答えた。
そこから導き出される答えといえば……俺は思いつく。
しかし、仕事上の関係なのだから、こんな一歩間違えればセクハラになりかねない事を言ってよいものかと悩んだが、今の比較的親しい状態であれば戯言で済むか、と結論付けた。
「ああ、なるほど……、俺とこうして学園祭を歩くのが夢だったのか」
我ながら思春期の男子と相違ない妄想を口に出したと思う。
「……あ、そ、そうです」
しかし、馬鹿げた発言は馬鹿げた展開を生んだ。
翠は先程、『今』が夢みたいだ、と言っていた。
ライブのことかと問えば、違うと答えた。
そこから導き出される答えといえば……俺は思いつく。
しかし、仕事上の関係なのだから、こんな一歩間違えればセクハラになりかねない事を言ってよいものかと悩んだが、今の比較的親しい状態であれば戯言で済むか、と結論付けた。
「ああ、なるほど……、俺とこうして学園祭を歩くのが夢だったのか」
我ながら思春期の男子と相違ない妄想を口に出したと思う。
「……あ、そ、そうです」
しかし、馬鹿げた発言は馬鹿げた展開を生んだ。
239:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:33:02.68 :6orG2Nwgo
「……へ?」
今更だが、俺は少し前の出来事が脳裏に浮かんだ。
ライブが無事終わったら、何かご褒美をやろう、というような話だったと思う。
その時、彼女は高いプレゼントでもなければ長期休暇でもない、俺と学園祭を歩くことを選択した。
当時の自分はそれを変な事を言うな、という感想だけで結論づけてしまったが、今再びその推測が再燃する。
まかり間違っても、よもや今時の女子高校生がこんな大卒無職にリーチがかかっていた俺に好意を抱くことはあるまい。翠のような賢明な人間であれば尚更だ。
ならば、何故彼女はそう感じたのか。
翠の口から出た続きの言葉は、俺の想像を遥かに超える――いや、遥かに下回る程の純朴なものだった。
「……へ?」
今更だが、俺は少し前の出来事が脳裏に浮かんだ。
ライブが無事終わったら、何かご褒美をやろう、というような話だったと思う。
その時、彼女は高いプレゼントでもなければ長期休暇でもない、俺と学園祭を歩くことを選択した。
当時の自分はそれを変な事を言うな、という感想だけで結論づけてしまったが、今再びその推測が再燃する。
まかり間違っても、よもや今時の女子高校生がこんな大卒無職にリーチがかかっていた俺に好意を抱くことはあるまい。翠のような賢明な人間であれば尚更だ。
ならば、何故彼女はそう感じたのか。
翠の口から出た続きの言葉は、俺の想像を遥かに超える――いや、遥かに下回る程の純朴なものだった。
240:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:33:30.29 :6orG2Nwgo
「実は、その、今までこうして男性と一緒に出かけたり、いっぱいお話をしたりしたことが無くて……。それで、ちょっと憧れてたんです」
心の中の口が、無力になる。
「友人たちがそんな…仲のいい男子の友達と遊びに行ったとか、彼氏とデートしたとかいう話を楽しそうにしてたので……私も」
そう言って酷く顔を紅潮させると、翠は口をしぼませ俯く。
ああ……そういう事か。
酷く重く考えていた俺の脳みそが華麗に弾き飛ばされるイメージが容易く想像される。
「あ、い、いえ! 私はもうアイドルですから、そういった話題に顔を出してはいけないのは承知していますが、その、なんといいますか……」
一瞬だけこちらを向いて誤解を解くように手を振るが、再び視線を外して翠はペットボトルを触って遊び始めていた。
有り体に言えば、翠も人並みにこうした行動が取ってみたかった、という事だった。
当然といえば当然である。人間として生まれてきたのであれば、情緒を持って悩みや興奮と付き合って異性と通じあってみたいと皆考えていると言っても過言ではない。
問題は、彼女に今まで…アイドルになった日以前にそんな経験が無かった、ということである。
「実は、その、今までこうして男性と一緒に出かけたり、いっぱいお話をしたりしたことが無くて……。それで、ちょっと憧れてたんです」
心の中の口が、無力になる。
「友人たちがそんな…仲のいい男子の友達と遊びに行ったとか、彼氏とデートしたとかいう話を楽しそうにしてたので……私も」
そう言って酷く顔を紅潮させると、翠は口をしぼませ俯く。
ああ……そういう事か。
酷く重く考えていた俺の脳みそが華麗に弾き飛ばされるイメージが容易く想像される。
「あ、い、いえ! 私はもうアイドルですから、そういった話題に顔を出してはいけないのは承知していますが、その、なんといいますか……」
一瞬だけこちらを向いて誤解を解くように手を振るが、再び視線を外して翠はペットボトルを触って遊び始めていた。
有り体に言えば、翠も人並みにこうした行動が取ってみたかった、という事だった。
当然といえば当然である。人間として生まれてきたのであれば、情緒を持って悩みや興奮と付き合って異性と通じあってみたいと皆考えていると言っても過言ではない。
問題は、彼女に今まで…アイドルになった日以前にそんな経験が無かった、ということである。
242:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:34:49.44 :6orG2Nwgo
無論、ないにこしたことはない。
火種を抱えていれば、例えアイドルになる前の出来事であってもそれが取り沙汰され騒ぎになるタレントは後を絶たない。
それだけ芸能人に対する異性問題というものは過敏なのだ。
そういう意味では、翠がある種箱入り娘であることは個人的にも喜ばしいが……かといって、全く無い状態では今後問題行動を起こしかねないという懸念もあるのである。
正直に言えば、よくそんな経験もないままここまで生きてこれたな、という驚きがあった。
……しかし、それを恥ずかしそうに言う彼女が、たまらなく可愛いのだ。
どうしたものか、と一周だけ逡巡した後、俺はおもむろに立ち上がる。
「…じゃあ、今日はたくさん楽しもうか」
意味がわかれば、行動に移さない訳にはいかない。
無論、ないにこしたことはない。
火種を抱えていれば、例えアイドルになる前の出来事であってもそれが取り沙汰され騒ぎになるタレントは後を絶たない。
それだけ芸能人に対する異性問題というものは過敏なのだ。
そういう意味では、翠がある種箱入り娘であることは個人的にも喜ばしいが……かといって、全く無い状態では今後問題行動を起こしかねないという懸念もあるのである。
正直に言えば、よくそんな経験もないままここまで生きてこれたな、という驚きがあった。
……しかし、それを恥ずかしそうに言う彼女が、たまらなく可愛いのだ。
どうしたものか、と一周だけ逡巡した後、俺はおもむろに立ち上がる。
「…じゃあ、今日はたくさん楽しもうか」
意味がわかれば、行動に移さない訳にはいかない。
243:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:35:53.71 :6orG2Nwgo
「今日の時間も多くはないからな。日が暮れる前に全部回ろう」
結局、知らないが故の好奇心だったのだ。
そうした経験を得る相手が俺みたいな相手であることが残念でならないだろうが、俺もアイドルとしての彼女を導くプロデューサーだ、どんな悩みであれ、己の手で解決できるのであれば喜んで差し出そうではないか。
俺とて経験豊富の立場ではないが、いくつか場は踏んでいる。
突然立ち上がって宣言した俺に困惑して未だ座って俺を見上げている翠の手を取り、少しだけ引いてやる。
「ひゃ――」
すると、翠もするりとベンチ前に躍り出る。
「ほら。高校最後の学園祭だ、のんびりしてると出遅れるぞ!」
何だか翠やこの高校の生徒達の若気にあてられたか、俺も心がアグレッシブになっているような気がする。
いや、俺も年齢でいえばまだまだ若造なのだが――過ぎ去ってしまった昔の俺を回顧しながら、驚きから目が覚めてにこりと笑った彼女と共に学園祭を再び回り始めたのだった。
「今日の時間も多くはないからな。日が暮れる前に全部回ろう」
結局、知らないが故の好奇心だったのだ。
そうした経験を得る相手が俺みたいな相手であることが残念でならないだろうが、俺もアイドルとしての彼女を導くプロデューサーだ、どんな悩みであれ、己の手で解決できるのであれば喜んで差し出そうではないか。
俺とて経験豊富の立場ではないが、いくつか場は踏んでいる。
突然立ち上がって宣言した俺に困惑して未だ座って俺を見上げている翠の手を取り、少しだけ引いてやる。
「ひゃ――」
すると、翠もするりとベンチ前に躍り出る。
「ほら。高校最後の学園祭だ、のんびりしてると出遅れるぞ!」
何だか翠やこの高校の生徒達の若気にあてられたか、俺も心がアグレッシブになっているような気がする。
いや、俺も年齢でいえばまだまだ若造なのだが――過ぎ去ってしまった昔の俺を回顧しながら、驚きから目が覚めてにこりと笑った彼女と共に学園祭を再び回り始めたのだった。
244:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:36:39.93 :6orG2Nwgo
*
「はー……、足が疲れてしまいましたね」
グラウンドには模擬店の他、大きなスペースを用いたクイズ大会やゲームコーナー、参加型のアトラクションがあり、また校内にはクラスごとの催しであったり、文化部の作品を展示したり、あるいは喫茶店を営むクラスもあったりと、学校内の敷地を余すところなく使用していて、全部回るのに大変苦労した。
しかし、本当にたくさんの人数が関わって出来上がるこの学園祭という行事はやはり素晴らしいものだった。
そんな開かれた殆どの出店に足を運んで、翠の顔を見てライブを見た旨を伝えられて応援してくれる人とも数多く出会い、半ばファンとの交流会も兼ねつつ過ごしていれば、ただでさえ早く感じる時間は瞬時に加速していっていた。
見られる所を全て回り終えて、日が落ち始めていると言った頃、翠はとある教室に入るとそのまま窓際の席に座った。
黒板から近い、前から二番目の席だ。
俺は彼女に誘われるがままに、隣の席に座ることにする。
学園祭の終了時刻も近づき、客も帰って、今は殆どの出店も片付けを開始している時刻だ。
ここは学園祭では使われなかった教室のようで、俺達以外の人間がいない中、普段の教室の風景をありのまま映し出していた。
*
「はー……、足が疲れてしまいましたね」
グラウンドには模擬店の他、大きなスペースを用いたクイズ大会やゲームコーナー、参加型のアトラクションがあり、また校内にはクラスごとの催しであったり、文化部の作品を展示したり、あるいは喫茶店を営むクラスもあったりと、学校内の敷地を余すところなく使用していて、全部回るのに大変苦労した。
しかし、本当にたくさんの人数が関わって出来上がるこの学園祭という行事はやはり素晴らしいものだった。
そんな開かれた殆どの出店に足を運んで、翠の顔を見てライブを見た旨を伝えられて応援してくれる人とも数多く出会い、半ばファンとの交流会も兼ねつつ過ごしていれば、ただでさえ早く感じる時間は瞬時に加速していっていた。
見られる所を全て回り終えて、日が落ち始めていると言った頃、翠はとある教室に入るとそのまま窓際の席に座った。
黒板から近い、前から二番目の席だ。
俺は彼女に誘われるがままに、隣の席に座ることにする。
学園祭の終了時刻も近づき、客も帰って、今は殆どの出店も片付けを開始している時刻だ。
ここは学園祭では使われなかった教室のようで、俺達以外の人間がいない中、普段の教室の風景をありのまま映し出していた。
245:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:37:57.31 :6orG2Nwgo
「ここ、プロデューサーさんに見て欲しかったんです」
この席がか、と訊くと、こくりと頷く。
「実はここ、私の席なんですよ。学園祭ではグラウンドを使ったので、私のクラスは教室は使わなかったんです」
翠はガラス越しに外を見る。赤らんだ空が頬を彩っていた。
「私がアイドルとして通用するかどうか、…正直に言えば、今でもわからないでいます。ですが、プロデューサーさんと一緒にいると、わけもなく上手く行くような気がして。…おかしいでしょうか」
彼女は首を回してこちらを振り向く。
俺はこの時どんな顔をしていたか、自分でもわからなかった。
「誘った手前、どうやってでも成功させてみせるさ。……でも、君をアイドルにすると言ってしまった事。それは今更だけど、悪いと思ってる」
「え?」
意図していなかった返事だったか、翠は困惑する表情を見せた。
「今日の話だよ。もし翠をアイドルにしていなければ、もしかしたら翠の好きな男と今日みたいなデートが出来たかもしれない。そうでなくても、高校生活最後の年の青春を仕事で潰させたのは俺が原因だからな」
ふと考える。
特別な人間にとって、ありふれた人間の思いというのはどうなのだろうか、と。
世間一般的な考えとして、翠のような特別な立場の人間のことを皆羨ましく思う反面、彼女は通常送れるはずの学校生活を確実に犠牲にしている。
今日俺に恥ずかしながら語ってくれた心中を、俺が居なければもっとまともに叶える事が出来たのではないかと思うのだ。
「ここ、プロデューサーさんに見て欲しかったんです」
この席がか、と訊くと、こくりと頷く。
「実はここ、私の席なんですよ。学園祭ではグラウンドを使ったので、私のクラスは教室は使わなかったんです」
翠はガラス越しに外を見る。赤らんだ空が頬を彩っていた。
「私がアイドルとして通用するかどうか、…正直に言えば、今でもわからないでいます。ですが、プロデューサーさんと一緒にいると、わけもなく上手く行くような気がして。…おかしいでしょうか」
彼女は首を回してこちらを振り向く。
俺はこの時どんな顔をしていたか、自分でもわからなかった。
「誘った手前、どうやってでも成功させてみせるさ。……でも、君をアイドルにすると言ってしまった事。それは今更だけど、悪いと思ってる」
「え?」
意図していなかった返事だったか、翠は困惑する表情を見せた。
「今日の話だよ。もし翠をアイドルにしていなければ、もしかしたら翠の好きな男と今日みたいなデートが出来たかもしれない。そうでなくても、高校生活最後の年の青春を仕事で潰させたのは俺が原因だからな」
ふと考える。
特別な人間にとって、ありふれた人間の思いというのはどうなのだろうか、と。
世間一般的な考えとして、翠のような特別な立場の人間のことを皆羨ましく思う反面、彼女は通常送れるはずの学校生活を確実に犠牲にしている。
今日俺に恥ずかしながら語ってくれた心中を、俺が居なければもっとまともに叶える事が出来たのではないかと思うのだ。
246:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:39:29.19 :6orG2Nwgo
ほんの少しの間、俺の言葉を咀嚼してから、突如彼女はとんでもないことを口に出す。
「…ちょっと怒ってもいいですか?」
「え、いきなりどうしたんだ!?」
本当に脈略もない事を言われて俺は思わずたじろぐ。
何事かと訊けば、彼女はゆっくりと話し始めた。
「今日は、本当に楽しかったです。いつもは仕事の上でしかお話出来ませんでしたが、今日はプライベート気分で話が出来て…プロデューサーさんの事を一杯知ることができて、嬉しかったんです」
ライブ後の時間は、俺もプロデューサーであることを忘れて楽しめていた。
担当アイドルといえど、こうしてプライベートな事を友達のように話せたのはかなり久しぶりだったからだ。
仕事上の話からは少し離れて、昔の頃の思い出、楽しかったこと、好きなもの、嫌いなもの、恥ずかしかったこと、面白かったこと。
お互いが知り得なかった沢山の出来事や感情を伝え合うことが出来た時間が何よりも楽しく感じていた。
「私を見せて、その上で判断してもらって。それでまた今日もたくさん話して、私のことをもっと知ってくれたと思ったのに…そんな事を言われるなんて、正直心外です」
――あ、と俺の声が不意に漏れた。
ほんの少しの間、俺の言葉を咀嚼してから、突如彼女はとんでもないことを口に出す。
「…ちょっと怒ってもいいですか?」
「え、いきなりどうしたんだ!?」
本当に脈略もない事を言われて俺は思わずたじろぐ。
何事かと訊けば、彼女はゆっくりと話し始めた。
「今日は、本当に楽しかったです。いつもは仕事の上でしかお話出来ませんでしたが、今日はプライベート気分で話が出来て…プロデューサーさんの事を一杯知ることができて、嬉しかったんです」
ライブ後の時間は、俺もプロデューサーであることを忘れて楽しめていた。
担当アイドルといえど、こうしてプライベートな事を友達のように話せたのはかなり久しぶりだったからだ。
仕事上の話からは少し離れて、昔の頃の思い出、楽しかったこと、好きなもの、嫌いなもの、恥ずかしかったこと、面白かったこと。
お互いが知り得なかった沢山の出来事や感情を伝え合うことが出来た時間が何よりも楽しく感じていた。
「私を見せて、その上で判断してもらって。それでまた今日もたくさん話して、私のことをもっと知ってくれたと思ったのに…そんな事を言われるなんて、正直心外です」
――あ、と俺の声が不意に漏れた。
247:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:40:42.92 :6orG2Nwgo
「私はアイドルになった事を後悔していません。そして、プロデューサーさんに見つけた貰った事を本当に感謝しているんです。なのに、今更謝れても…」
ああ、そういう事だったのか。
彼女のことをアイドル扱いしていなかったのは、他ならず俺だったのだ。
翠はアイドルになることを決めて、普通の生活は出来ないということを重々承知していた。
その上で、アイドル・水野翠でなければ俺と今こうして過ごすことが出来ないと思い、感謝してくれていたのだ。
すなわち、それは俺に対して少なからず悪くは思っていないということ。
もっと簡単にいえば、俺を仕事だけでなく、人間として信頼してくれていること、親近感を抱いてくれているということである。
にも関わらず、どこか俺は翠と少し距離を置いてしまっていた。
今日の事だって、あくまでご褒美という名分に従って動いていた所以が心の中で微かではあるが確かにあった。
しかし彼女にとっては、そのご褒美というのはあくまで偶然降って湧いただけのただのきっかけにすぎない。
消去法的希望ではなく翠自身の欲求により、今日の出来事を選択した。
それがどういう意味を表すのか。
そこに気づかないで、イフの話を持ちだして謝る俺はどれだけ無理解だったのだろう。
「私はアイドルになった事を後悔していません。そして、プロデューサーさんに見つけた貰った事を本当に感謝しているんです。なのに、今更謝れても…」
ああ、そういう事だったのか。
彼女のことをアイドル扱いしていなかったのは、他ならず俺だったのだ。
翠はアイドルになることを決めて、普通の生活は出来ないということを重々承知していた。
その上で、アイドル・水野翠でなければ俺と今こうして過ごすことが出来ないと思い、感謝してくれていたのだ。
すなわち、それは俺に対して少なからず悪くは思っていないということ。
もっと簡単にいえば、俺を仕事だけでなく、人間として信頼してくれていること、親近感を抱いてくれているということである。
にも関わらず、どこか俺は翠と少し距離を置いてしまっていた。
今日の事だって、あくまでご褒美という名分に従って動いていた所以が心の中で微かではあるが確かにあった。
しかし彼女にとっては、そのご褒美というのはあくまで偶然降って湧いただけのただのきっかけにすぎない。
消去法的希望ではなく翠自身の欲求により、今日の出来事を選択した。
それがどういう意味を表すのか。
そこに気づかないで、イフの話を持ちだして謝る俺はどれだけ無理解だったのだろう。
248:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:41:51.85 :6orG2Nwgo
「…ごめん。俺が悪かったよ」
彼女の思いを知って、改めて謝罪する。
「いえ……。プロデューサーさんにとっては仕事の一部ですから、それで当然なのかもしれません」
ゆかりのプロデューサーの姿が突然思い浮かぶ。
彼はゆかりに対してストイックに接し、今の地位にたどり着いた。
物事は結果論なのだから、結局はそれがプロデューサーのあるべき姿なのかもしれない。
「…仕事の肩書きに俺が乗っ取られてたのかも知れない」
だが、それでは少し寂しすぎる。
心の中では、翠はきっと不安だらけだ。
そこに俺という柱の傍に立つことで、見にまとわりつく数々の恐怖を解消してきたのだろう。
「今日は俺も本当に楽しかったよ。俺が高校生の頃よりも…いや、人生の中で一番楽しかったかもな」
はは、と笑う。
翠は何も悪くない。ただ俺が無神経だっただけの話だ。
「…ごめん。俺が悪かったよ」
彼女の思いを知って、改めて謝罪する。
「いえ……。プロデューサーさんにとっては仕事の一部ですから、それで当然なのかもしれません」
ゆかりのプロデューサーの姿が突然思い浮かぶ。
彼はゆかりに対してストイックに接し、今の地位にたどり着いた。
物事は結果論なのだから、結局はそれがプロデューサーのあるべき姿なのかもしれない。
「…仕事の肩書きに俺が乗っ取られてたのかも知れない」
だが、それでは少し寂しすぎる。
心の中では、翠はきっと不安だらけだ。
そこに俺という柱の傍に立つことで、見にまとわりつく数々の恐怖を解消してきたのだろう。
「今日は俺も本当に楽しかったよ。俺が高校生の頃よりも…いや、人生の中で一番楽しかったかもな」
はは、と笑う。
翠は何も悪くない。ただ俺が無神経だっただけの話だ。
249:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:42:25.99 :6orG2Nwgo
最後にここに来たのも、この風景を俺に見て欲しかったのも、つまりは翠の事を俺に知って欲しかった故の行動だった。
――もっと私を知って下さい。出ては居ないが、そんな彼女の声が聞こえた気がした。
「今日は俺と一緒に学園祭を回ってくれてありがとう。翠の事を知れて嬉しいよ」
「……はい」
彼女の思いを聞いて改めて考えた上で言葉を選択し、発言する。
夕日を背景にした彼女の顔は、どこか暗いようで、瞳がとても輝いていた。
最後にここに来たのも、この風景を俺に見て欲しかったのも、つまりは翠の事を俺に知って欲しかった故の行動だった。
――もっと私を知って下さい。出ては居ないが、そんな彼女の声が聞こえた気がした。
「今日は俺と一緒に学園祭を回ってくれてありがとう。翠の事を知れて嬉しいよ」
「……はい」
彼女の思いを聞いて改めて考えた上で言葉を選択し、発言する。
夕日を背景にした彼女の顔は、どこか暗いようで、瞳がとても輝いていた。
250:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:43:35.57 :6orG2Nwgo
「…今日はデートって、プロデューサーは言いましたよね」
焦って違うと言いかけるが、ちょっと前の俺の発言を思い出して口を閉じる。
確かにニュアンスとしては相違ない。
「俺の立場でそれだと不味いんだけどなあ。いやまあ、そうなるな」
当然ではあるがアイドルが恋愛など論外である。そう言っておいて、俺と疑われるような行動をしていた事に今更ながら狼狽える。
「もっと近くに来てくれませんか?」
「近くに…って、こうか」
翠はそう俺にお願いしたので、普段の距離である机一個分離れた所から、椅子を動かして殆ど隣接するぐらいにまで近づいた。
教科書を忘れたので机をひっつけたよろしく、ひとつの机で二人が勉強するといった程だ。
「アイドルですから、デートだなんてきっともう出来ませんから……今日の、最後のお願いです。私に恋人っぽいこと、してくれませんか?」
これほど露骨に背中に冷や汗が走ったことが、今までの人生の中であっただろうか。
「…今日はデートって、プロデューサーは言いましたよね」
焦って違うと言いかけるが、ちょっと前の俺の発言を思い出して口を閉じる。
確かにニュアンスとしては相違ない。
「俺の立場でそれだと不味いんだけどなあ。いやまあ、そうなるな」
当然ではあるがアイドルが恋愛など論外である。そう言っておいて、俺と疑われるような行動をしていた事に今更ながら狼狽える。
「もっと近くに来てくれませんか?」
「近くに…って、こうか」
翠はそう俺にお願いしたので、普段の距離である机一個分離れた所から、椅子を動かして殆ど隣接するぐらいにまで近づいた。
教科書を忘れたので机をひっつけたよろしく、ひとつの机で二人が勉強するといった程だ。
「アイドルですから、デートだなんてきっともう出来ませんから……今日の、最後のお願いです。私に恋人っぽいこと、してくれませんか?」
これほど露骨に背中に冷や汗が走ったことが、今までの人生の中であっただろうか。
251:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:44:33.07 :6orG2Nwgo
ミイラ取りがミイラ。そんな言葉が頭をよぎる。
かつて俺が翠をスカウトした当初、ちひろさんに大まかなプロデュース方針としてそういった恣意的でない官能美をテーマに上げたことはある。
しかし、まさに俺自身がそれを目の前にしてしまうとは夢にも思わなかった。
男性的感覚から言ってしまえば、非常に『クる』ものがある。
恐らく本人としては打算的に話している訳ではないとは思うが、それ故に不自然さはなく、臨場感がそこはかとなく俺の心臓を圧迫していた。
「…やはり、駄目でしょうか」
首を傾げて、それが結果的に上目遣いになる。
ライブ用にしっかりとメイクをしているためもあってか、彼女がとても色っぽく感じてしまう。
かつて俺がちひろさんに言っていた翠の魅力に、とりつかれそうになるのを必死に抑えて俺は考える。
立場的に、『恋人っぽいこと』を俺がすることは絶対にできない。
それは俺を信じて任せてくれた両親に対する裏切りにもなるし、一人の人間として、今まで僅かではあるが培ってきた責務を放棄することなど到底許されることではない。
そうでもなくとも社会倫理的にアウトではあるのだが。
では、プロデューサーという立場としてレッドラインに触れない程度の『恋人っぽいこと』とは何かを考えた時だ。
「ん…」
――俺は、翠の頭に手を置いていた。
ミイラ取りがミイラ。そんな言葉が頭をよぎる。
かつて俺が翠をスカウトした当初、ちひろさんに大まかなプロデュース方針としてそういった恣意的でない官能美をテーマに上げたことはある。
しかし、まさに俺自身がそれを目の前にしてしまうとは夢にも思わなかった。
男性的感覚から言ってしまえば、非常に『クる』ものがある。
恐らく本人としては打算的に話している訳ではないとは思うが、それ故に不自然さはなく、臨場感がそこはかとなく俺の心臓を圧迫していた。
「…やはり、駄目でしょうか」
首を傾げて、それが結果的に上目遣いになる。
ライブ用にしっかりとメイクをしているためもあってか、彼女がとても色っぽく感じてしまう。
かつて俺がちひろさんに言っていた翠の魅力に、とりつかれそうになるのを必死に抑えて俺は考える。
立場的に、『恋人っぽいこと』を俺がすることは絶対にできない。
それは俺を信じて任せてくれた両親に対する裏切りにもなるし、一人の人間として、今まで僅かではあるが培ってきた責務を放棄することなど到底許されることではない。
そうでもなくとも社会倫理的にアウトではあるのだが。
では、プロデューサーという立場としてレッドラインに触れない程度の『恋人っぽいこと』とは何かを考えた時だ。
「ん…」
――俺は、翠の頭に手を置いていた。
252:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:45:36.18 :6orG2Nwgo
頭に触れた時、翠の体が小さく跳ねる。
恋人っぽいこと…それの予想からは大きく外れたからだろうか。
しかし、一回、二回、分を刻むようにゆったりと手を往復させていると、翠は次第に目を閉じて俺の手に体重を預けてきたのだった。
迷った挙句の事だった。
駄目だと断ることも出来ただろうが、それをしてしまうのは良くない事のような気がして、咄嗟に俺は手を伸ばして艶やかな翠の髪を撫でたのだ。
「…まさか、高校生にもなって頭を撫でられるなんて思いもしませんでした」
数えることを止め、ただ夕日の中流れる時間に沿って頭を撫でていると、不意に翠は感想を漏らす。
確かに、恋人っぽいことといえば普通であればもっと別の事を思いつくだろうが、その思いついた事が尽く立場的にNGをもらいそうな予感がしたので、こうすることに至ったのだった。
頭に触れた時、翠の体が小さく跳ねる。
恋人っぽいこと…それの予想からは大きく外れたからだろうか。
しかし、一回、二回、分を刻むようにゆったりと手を往復させていると、翠は次第に目を閉じて俺の手に体重を預けてきたのだった。
迷った挙句の事だった。
駄目だと断ることも出来ただろうが、それをしてしまうのは良くない事のような気がして、咄嗟に俺は手を伸ばして艶やかな翠の髪を撫でたのだ。
「…まさか、高校生にもなって頭を撫でられるなんて思いもしませんでした」
数えることを止め、ただ夕日の中流れる時間に沿って頭を撫でていると、不意に翠は感想を漏らす。
確かに、恋人っぽいことといえば普通であればもっと別の事を思いつくだろうが、その思いついた事が尽く立場的にNGをもらいそうな予感がしたので、こうすることに至ったのだった。
253:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/05/27(月) 20:46:21.80 :6orG2Nwgo
「俺にも立場っていうのがあるからな。こんなことしか思いつかなかったよ」
「でも、なんだか心地よいです」
そう言って、近づいていたお互いの肩が触れた。
撫でるという行為も、ここまでくると恋人っぽくなる。
しかし、翠は俺を相手にしてそこまで許せるものなのだろうか。
一応己も若者とはいうが、女子高生の感覚はいつまで経ってもわかりそうにない。
そしていつの間にか、時計の音が消える。
ただガラス越しに聞こえる生徒たちの声が、今の時間を奏でていた。
「俺にも立場っていうのがあるからな。こんなことしか思いつかなかったよ」
「でも、なんだか心地よいです」
そう言って、近づいていたお互いの肩が触れた。
撫でるという行為も、ここまでくると恋人っぽくなる。
しかし、翠は俺を相手にしてそこまで許せるものなのだろうか。
一応己も若者とはいうが、女子高生の感覚はいつまで経ってもわかりそうにない。
そしていつの間にか、時計の音が消える。
ただガラス越しに聞こえる生徒たちの声が、今の時間を奏でていた。
257:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 19:53:24.96 :6zYDImijo
*
「…はい、ありがとうございます。明日そちらに向かわせて頂きますので、よろしくお願いします」
相手の快い返事を聞いて、古臭い受話器を静かに置いた。
事務所も秋口になってくると早々に冷房の役目を終えている。
新品であればもっと使い道もあろうに、昭和の雰囲気ただようこのエアコンでは、暑いにも寒いにも微妙にしか対応してくれないのだから当然である。
ちひろさんも同じ事を思っていたようで、その話が持ち上がれば毎回昼ごはんのオカズが一品増えた。
「今日で三件目ですか。一気に増えましたね」
隣で事務作業をしているちひろさんがこちらの電話が終わることを見計らってお茶を入れてくれた。
一言感謝を述べてからお茶を飲むと、机に置いていたスケジュール帳に明日の予定を書き込む。
かつて雑多なメモ帳かと思われていた空白の多いこの手帳も、今や少なくとも五割は埋まっている。
まだまだ全国区の仕事がメインになっているとは言えないものの、それでも当初との差を知っているので嬉しい限りである。
*
「…はい、ありがとうございます。明日そちらに向かわせて頂きますので、よろしくお願いします」
相手の快い返事を聞いて、古臭い受話器を静かに置いた。
事務所も秋口になってくると早々に冷房の役目を終えている。
新品であればもっと使い道もあろうに、昭和の雰囲気ただようこのエアコンでは、暑いにも寒いにも微妙にしか対応してくれないのだから当然である。
ちひろさんも同じ事を思っていたようで、その話が持ち上がれば毎回昼ごはんのオカズが一品増えた。
「今日で三件目ですか。一気に増えましたね」
隣で事務作業をしているちひろさんがこちらの電話が終わることを見計らってお茶を入れてくれた。
一言感謝を述べてからお茶を飲むと、机に置いていたスケジュール帳に明日の予定を書き込む。
かつて雑多なメモ帳かと思われていた空白の多いこの手帳も、今や少なくとも五割は埋まっている。
まだまだ全国区の仕事がメインになっているとは言えないものの、それでも当初との差を知っているので嬉しい限りである。
258:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 19:54:11.25 :6zYDImijo
――まさかあのライブがそこまで起爆剤になるとは、俺ですら思っていなかった。
やはり決定的な要因となったのはカメラだろう。
今回行ったライブはカメラに撮影され、翌朝のニュース番組で特集として組んでもらっていたのだ。
仕方のない事だが、ピックアップされるのは当然ゆかりだった。
しかし、ライブ行うまでに至った経緯をライブ中のトーク部を編集して放送したために、翠の名前も同時に広めることが出来たのだ。
加えてインターネット上のニュースにもなっており、全く関係を知らなかったゆかりのファン達の反応を見ると快く受け入れてくれているようだった。
そうするまでの交渉は殆どがゆかりのプロデューサーが行っていた。
実利に関わってくる事柄に関しては、俺が介入することをあまり好ましく思っていないらしい。
てきぱきと話を進めていく中で、横から意見を言う立場になってしまっていたのが残念といえば残念か。
俺もいずれはああいう交渉術を身につけていかなければなるまい。
限定ユニットであっても、関係を持った以上はこれからも何らかの接触がないはずはない。
その中で俺も必ず学んでいかなければならない。
――まさかあのライブがそこまで起爆剤になるとは、俺ですら思っていなかった。
やはり決定的な要因となったのはカメラだろう。
今回行ったライブはカメラに撮影され、翌朝のニュース番組で特集として組んでもらっていたのだ。
仕方のない事だが、ピックアップされるのは当然ゆかりだった。
しかし、ライブ行うまでに至った経緯をライブ中のトーク部を編集して放送したために、翠の名前も同時に広めることが出来たのだ。
加えてインターネット上のニュースにもなっており、全く関係を知らなかったゆかりのファン達の反応を見ると快く受け入れてくれているようだった。
そうするまでの交渉は殆どがゆかりのプロデューサーが行っていた。
実利に関わってくる事柄に関しては、俺が介入することをあまり好ましく思っていないらしい。
てきぱきと話を進めていく中で、横から意見を言う立場になってしまっていたのが残念といえば残念か。
俺もいずれはああいう交渉術を身につけていかなければなるまい。
限定ユニットであっても、関係を持った以上はこれからも何らかの接触がないはずはない。
その中で俺も必ず学んでいかなければならない。
259:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 19:55:12.66 :6zYDImijo
「ですね。いずれはバラエティにも進出させたいところですが……」
大体の場合、バラエティなどの番組にゲスト出演する際には何らかの告知を兼ねた宣伝が目的となる。
俳優であれば映画、アーティストであれば音楽や芸術作品などである。
上気の目的のため事務所が掛けあって、ようやく出演が実現する。
それ以外で単純に出演が出来るのは認知度が高い大御所のタレントかバラエティに順応しやすい芸人が殆どである。
「武器を持っていない翠ちゃんには少し厳しいですか」
ちひろさんも訊ねる素振りを見せるが、きっとわかっている。
翠においては、確実に前者にあたる。
何かのきっかけがあって小さくてもいいから話題になるか、もしくは――。
「CDを出せれば、あるいは」
そう俺ははっきりと言った。
「ですね。いずれはバラエティにも進出させたいところですが……」
大体の場合、バラエティなどの番組にゲスト出演する際には何らかの告知を兼ねた宣伝が目的となる。
俳優であれば映画、アーティストであれば音楽や芸術作品などである。
上気の目的のため事務所が掛けあって、ようやく出演が実現する。
それ以外で単純に出演が出来るのは認知度が高い大御所のタレントかバラエティに順応しやすい芸人が殆どである。
「武器を持っていない翠ちゃんには少し厳しいですか」
ちひろさんも訊ねる素振りを見せるが、きっとわかっている。
翠においては、確実に前者にあたる。
何かのきっかけがあって小さくてもいいから話題になるか、もしくは――。
「CDを出せれば、あるいは」
そう俺ははっきりと言った。
260:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 19:55:39.92 :6zYDImijo
とりわけアイドルという職業において、CD、すなわち持ち歌の有無というのは生死を分かつ程に重要である。
何故ならば、それはアイドルがああいったテレビの中と繋がりを持つためのアイテムとなり得るからだ。
広告代理店の戦略の場合を除けば、番組にいきなりぽっと出の知らないアイドルが出てきた所で視聴者は何も思ってはくれない。
理由は一つ。ただインパクトが無い。
視聴者が受け身でいる以上は何も進展は見込めない。
彼ら自身が積極的に調べて、知りたい、見てみたいという欲求を生み出させることが何よりも必要なのだ。
そういった点を踏まえれば、現時点での翠では太刀打ち出来そうにはない。
そのために翠だけの歌が欲しい。
同時に何らかの切り口を見つけることが出来れば、タイミングさえ間違わなければ充分に勝機はある。
とりわけアイドルという職業において、CD、すなわち持ち歌の有無というのは生死を分かつ程に重要である。
何故ならば、それはアイドルがああいったテレビの中と繋がりを持つためのアイテムとなり得るからだ。
広告代理店の戦略の場合を除けば、番組にいきなりぽっと出の知らないアイドルが出てきた所で視聴者は何も思ってはくれない。
理由は一つ。ただインパクトが無い。
視聴者が受け身でいる以上は何も進展は見込めない。
彼ら自身が積極的に調べて、知りたい、見てみたいという欲求を生み出させることが何よりも必要なのだ。
そういった点を踏まえれば、現時点での翠では太刀打ち出来そうにはない。
そのために翠だけの歌が欲しい。
同時に何らかの切り口を見つけることが出来れば、タイミングさえ間違わなければ充分に勝機はある。
261:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 19:56:11.63 :6zYDImijo
「歌、ですか」
ちひろさんはぽつりと声を漏らす。
「ベストなのはタイアップですね……例えば新商品のイメージソングとか。映画のテーマソングまで行くと出来過ぎなくらいですけど」
巫山戯る俺をちひろさんはくすりと笑った。
本当に何かの特別な縁が無い限り、映画のテーマソングには絶対に行き着かないだろう。
「プロデューサーさん、翠ちゃんに曲をプレゼントできるように頑張って下さいね」
キーボードのエンターキーから指を話すと背を伸ばし、一息ついてちひろさんは言う。
オファーを待つ事ができるのは大きいプロダクションか、アイドルに類まれた才能があるかどうかだ。
残念ながら、この事務所や翠自身はその二つを持ちあわせてはいない。
だから、それを実現させるためには俺からどんどん攻める他ない。
「もちろんですよ。目標はソロライブ! ……ですかね?」
「そこは決めてくださいよ、もう…」
かざした俺の手がしおれるのを見て、ちひろさんは大きく息を吐いた。
「歌、ですか」
ちひろさんはぽつりと声を漏らす。
「ベストなのはタイアップですね……例えば新商品のイメージソングとか。映画のテーマソングまで行くと出来過ぎなくらいですけど」
巫山戯る俺をちひろさんはくすりと笑った。
本当に何かの特別な縁が無い限り、映画のテーマソングには絶対に行き着かないだろう。
「プロデューサーさん、翠ちゃんに曲をプレゼントできるように頑張って下さいね」
キーボードのエンターキーから指を話すと背を伸ばし、一息ついてちひろさんは言う。
オファーを待つ事ができるのは大きいプロダクションか、アイドルに類まれた才能があるかどうかだ。
残念ながら、この事務所や翠自身はその二つを持ちあわせてはいない。
だから、それを実現させるためには俺からどんどん攻める他ない。
「もちろんですよ。目標はソロライブ! ……ですかね?」
「そこは決めてくださいよ、もう…」
かざした俺の手がしおれるのを見て、ちひろさんは大きく息を吐いた。
262:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 19:56:41.45 :6zYDImijo
「おはようございます――って、どうかしましたか?」
「ああ、翠か。おはよう」
俺の背後からいつもの扉の音と一緒に凛とした声が聞こえた。振り向くまでもなくわかる。
「翠ちゃんおはよう。お茶は温かいのがいい?」
「あ、お願いします。いつもありがとうございます、ちひろさん」
学園祭も終わるといよいよ涼しく、場合によっては寒くすら感じる季節となる。
ちひろさんは見慣れたテーブルに翠の分のお茶を置いた。
綺麗さというよりも落ち着いた服装の翠は鞄をソファの近くに置いてお茶を飲んだ。やはりこの季節は温かいお茶もおいしかろう。
「ええと、今日の予定は番組の収録でしたよね?」
一つ間を挟んで、翠は俺に訊ねる。
その通りで、今日は昼からグルメ番組に出ることになっている。
一見あまり料理には縁がなさそうな翠も、料理に対する丁寧な感想と甘味を食べた時の美味しそうな顔がどうやら好評らしい。
たまにちひろさんに東京のおいしいスイーツについて話しているのを横目で作業することがあるので、本格的にハマっているようだ。
レッスンをきちんとする翠だから大丈夫だろうが、ボディラインの管理には気をつけてもらうように青木さんに言っておかねば。
「おはようございます――って、どうかしましたか?」
「ああ、翠か。おはよう」
俺の背後からいつもの扉の音と一緒に凛とした声が聞こえた。振り向くまでもなくわかる。
「翠ちゃんおはよう。お茶は温かいのがいい?」
「あ、お願いします。いつもありがとうございます、ちひろさん」
学園祭も終わるといよいよ涼しく、場合によっては寒くすら感じる季節となる。
ちひろさんは見慣れたテーブルに翠の分のお茶を置いた。
綺麗さというよりも落ち着いた服装の翠は鞄をソファの近くに置いてお茶を飲んだ。やはりこの季節は温かいお茶もおいしかろう。
「ええと、今日の予定は番組の収録でしたよね?」
一つ間を挟んで、翠は俺に訊ねる。
その通りで、今日は昼からグルメ番組に出ることになっている。
一見あまり料理には縁がなさそうな翠も、料理に対する丁寧な感想と甘味を食べた時の美味しそうな顔がどうやら好評らしい。
たまにちひろさんに東京のおいしいスイーツについて話しているのを横目で作業することがあるので、本格的にハマっているようだ。
レッスンをきちんとする翠だから大丈夫だろうが、ボディラインの管理には気をつけてもらうように青木さんに言っておかねば。
263:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 19:57:38.98 :6zYDImijo
「ああ、もうちょっと経ったら現場入りするからな……と。そうだ、翠」
本日と、今日入ったばかりの仕事について打ち合わせ日時を彼女に連絡していると、つい先程ちひろさんと話した内容を思い出す。
「なんでしょう?」
自分のスケジュール帳にメモをしていた翠が顔を上げて俺を見る。
わかりきったことだけど。当たり前のことだけど。
「翠は…歌を歌いたいか?」
何となく、訊かずにはいられなかった。
「……はい。歌いたいです」
突然の問いに一瞬戸惑った翠は、質問の内容を理解すると即座に回答してみせた。
「そうか。…そうだよな」
ただ、翠のはっきりとした意志が見たかった。
見ることで、俄然やる気が出てくるのだ。
彼女の表情に冗談はない。
いつだって純粋で、本気だから。
翠が歌を歌ったら、どうなるのだろうか。一人の人間として、一人のファンとして聞いてみたいのだ。
いつか来るであろうその時を期待して、俺はスケジュール帳を片手で閉じたのだった。
「ああ、もうちょっと経ったら現場入りするからな……と。そうだ、翠」
本日と、今日入ったばかりの仕事について打ち合わせ日時を彼女に連絡していると、つい先程ちひろさんと話した内容を思い出す。
「なんでしょう?」
自分のスケジュール帳にメモをしていた翠が顔を上げて俺を見る。
わかりきったことだけど。当たり前のことだけど。
「翠は…歌を歌いたいか?」
何となく、訊かずにはいられなかった。
「……はい。歌いたいです」
突然の問いに一瞬戸惑った翠は、質問の内容を理解すると即座に回答してみせた。
「そうか。…そうだよな」
ただ、翠のはっきりとした意志が見たかった。
見ることで、俄然やる気が出てくるのだ。
彼女の表情に冗談はない。
いつだって純粋で、本気だから。
翠が歌を歌ったら、どうなるのだろうか。一人の人間として、一人のファンとして聞いてみたいのだ。
いつか来るであろうその時を期待して、俺はスケジュール帳を片手で閉じたのだった。
264:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 19:58:21.95 :6zYDImijo
*
「今日来てくれたのは我が愛知出身のアイドル、水野翠さんです!」
「こんにちは。本日はよろしくお願いします」
ぱちぱち、というパーソナリティの拍手が部屋に響くと共に、丁寧に翠が挨拶をする。
ラジオ放送。
翠にとって…いや、俺にとって初めての仕事だ。
最近ではテレビでの露出も数えられるほどには増え始めて、俺も更に忙しくなってきた。
休日もなんのその。
休める時が休日だと言わんばかりのペースで外を動き回っていた。
隔離された狭い部屋でテーブルに二人、パーソナリティの女性と翠がマイクに向かって談笑している。
このラジオ番組は地元でも有数の放送局で、毎回ゲストを呼んでトークをしながら進めていく。
翠も例に違わず、パーソナリティの先導の下、様々な話題に対して話を広げていた。
*
「今日来てくれたのは我が愛知出身のアイドル、水野翠さんです!」
「こんにちは。本日はよろしくお願いします」
ぱちぱち、というパーソナリティの拍手が部屋に響くと共に、丁寧に翠が挨拶をする。
ラジオ放送。
翠にとって…いや、俺にとって初めての仕事だ。
最近ではテレビでの露出も数えられるほどには増え始めて、俺も更に忙しくなってきた。
休日もなんのその。
休める時が休日だと言わんばかりのペースで外を動き回っていた。
隔離された狭い部屋でテーブルに二人、パーソナリティの女性と翠がマイクに向かって談笑している。
このラジオ番組は地元でも有数の放送局で、毎回ゲストを呼んでトークをしながら進めていく。
翠も例に違わず、パーソナリティの先導の下、様々な話題に対して話を広げていた。
265:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 19:59:17.86 :6zYDImijo
「――えー、続いてはラジオネーム・やっちゃんさん。『はじめまして。僕は最近退屈な事が多くて、よく何か起こらないかなーとついつい考えてしまいます。お二人は最近何か面白いことはありましたか? よければ教えて下さい』……はー、なるほど」
このラジオ番組ではメールを募集しており、今日もいくつかのお便りについて話していた。
その中の最後のお便りがこれだった。
「私はこういう仕事柄よく色んな人とお会いしましてですね、そうなると本当に見当もつかないような話も聞いたりして!」
「面白そうですね。どんな話なんですか?」
俺は全く関係ないが、少し考えてみる。
……まあ、冗談でも最近退屈など言えるはずがないな。
毎日歩きまわって腰を折って、事務所に帰ればチェックして連絡して。いつも大変である。
でもそれが翠の成長に繋がる大切な事なのはよく分かっているから、苦にはならないか。
今こうして壁越しに話す翠を見られるのもこれまでの結果だろうしな、と俺一人だけ頷く。
「――えー、続いてはラジオネーム・やっちゃんさん。『はじめまして。僕は最近退屈な事が多くて、よく何か起こらないかなーとついつい考えてしまいます。お二人は最近何か面白いことはありましたか? よければ教えて下さい』……はー、なるほど」
このラジオ番組ではメールを募集しており、今日もいくつかのお便りについて話していた。
その中の最後のお便りがこれだった。
「私はこういう仕事柄よく色んな人とお会いしましてですね、そうなると本当に見当もつかないような話も聞いたりして!」
「面白そうですね。どんな話なんですか?」
俺は全く関係ないが、少し考えてみる。
……まあ、冗談でも最近退屈など言えるはずがないな。
毎日歩きまわって腰を折って、事務所に帰ればチェックして連絡して。いつも大変である。
でもそれが翠の成長に繋がる大切な事なのはよく分かっているから、苦にはならないか。
今こうして壁越しに話す翠を見られるのもこれまでの結果だろうしな、と俺一人だけ頷く。
266:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 19:59:55.59 :6zYDImijo
「――だから、やっちゃんさんも色々な人と話をしてみたらどうでしょうかー? 翠さんはどうです、何か面白いことはありましたか?」
「私は……そうですね」
パーソナリティが誘導すると翠は少し考えて、語る。
「私も、アイドルになってからはとても沢山の方と沢山の事をしてきたので、退屈、という言葉はしばらく思いつきませんでしたね」
彼女は首を傾げて微笑む。
確かに、アイドルという立場では退屈とは遠ざかるを得まい。
「翠さんのデビューは今年…でしたよね。それでも最初の頃は大変だったんじゃないですか? 大体始めの頃って練習漬けだったりしますから」
パーソナリティの言う事も経験則のような重みを感じる。今こうして軽快に喋れているのは、きっと辛い練習の結果なのだろう。
「元々私は弓道をやってまして、そのおかげか練習を退屈だとは思いませんでしたね。…何より、私がアイドルになるのを期待している方がいるから――」
その人のために頑張りたい、そう思ってましたし、今ではもっと強く思ってます。
刹那、彼女の横顔が、ちらりと俺を見た気がした。
「――だから、やっちゃんさんも色々な人と話をしてみたらどうでしょうかー? 翠さんはどうです、何か面白いことはありましたか?」
「私は……そうですね」
パーソナリティが誘導すると翠は少し考えて、語る。
「私も、アイドルになってからはとても沢山の方と沢山の事をしてきたので、退屈、という言葉はしばらく思いつきませんでしたね」
彼女は首を傾げて微笑む。
確かに、アイドルという立場では退屈とは遠ざかるを得まい。
「翠さんのデビューは今年…でしたよね。それでも最初の頃は大変だったんじゃないですか? 大体始めの頃って練習漬けだったりしますから」
パーソナリティの言う事も経験則のような重みを感じる。今こうして軽快に喋れているのは、きっと辛い練習の結果なのだろう。
「元々私は弓道をやってまして、そのおかげか練習を退屈だとは思いませんでしたね。…何より、私がアイドルになるのを期待している方がいるから――」
その人のために頑張りたい、そう思ってましたし、今ではもっと強く思ってます。
刹那、彼女の横顔が、ちらりと俺を見た気がした。
267:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:00:40.58 :6zYDImijo
「最近も…少し前、私の今通っている高校で学園祭がありまして、そこで歌わせて頂くことになったんですが、その事を聞いたのは学園祭の一ヶ月前ぐらいで…練習もとてもハードでした」
翠はまだ半年も経ってない前の事を感慨深そうに語る。
「練習が苦にはならないと言っても、色々なことを指摘されて、何度も何度もやりなおしてばかりで…アイドルってこんなに大変だったんだって、少し挫けそうにもなりました」
「確か水本ゆかりさんと一緒にライブをしたんでしたね。プレッシャーもあったでしょう」
ゆかりの厳しい意見にも必死に耳を傾けて、ゆかりのプロデューサーからの指摘にもふてくされることなく受け入れて、初めてのライブという緊張と時間の無さという焦りと常に戦って、築き上げた成功を、包欠かさず翠は話す。
「はい。…それでも、私はいろいろな人の期待に応えるために練習しているんだって信じて練習して、無事ライブも終えることができたんです」
汗まみれになって動き尽くしたあの練習がどれほど大変だったか、所詮俺は見ているだけで全部を理解することなど不可能である。
だが、彼女の話を今俯瞰して聞くことで、リアリスティックに少しづつわかってきたような感覚がした。
「最近も…少し前、私の今通っている高校で学園祭がありまして、そこで歌わせて頂くことになったんですが、その事を聞いたのは学園祭の一ヶ月前ぐらいで…練習もとてもハードでした」
翠はまだ半年も経ってない前の事を感慨深そうに語る。
「練習が苦にはならないと言っても、色々なことを指摘されて、何度も何度もやりなおしてばかりで…アイドルってこんなに大変だったんだって、少し挫けそうにもなりました」
「確か水本ゆかりさんと一緒にライブをしたんでしたね。プレッシャーもあったでしょう」
ゆかりの厳しい意見にも必死に耳を傾けて、ゆかりのプロデューサーからの指摘にもふてくされることなく受け入れて、初めてのライブという緊張と時間の無さという焦りと常に戦って、築き上げた成功を、包欠かさず翠は話す。
「はい。…それでも、私はいろいろな人の期待に応えるために練習しているんだって信じて練習して、無事ライブも終えることができたんです」
汗まみれになって動き尽くしたあの練習がどれほど大変だったか、所詮俺は見ているだけで全部を理解することなど不可能である。
だが、彼女の話を今俯瞰して聞くことで、リアリスティックに少しづつわかってきたような感覚がした。
268:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:01:37.24 :6zYDImijo
「退屈って元々は仏教の用語で、修行に疲れ果てて精進する気持ちが屈することを意味したのですが、結局退屈というのは、手元に何も残っていない事だと思うんです」
「何もすることがないから退屈って言葉に繋がりますからね」
果たして翠は、アイドルになる前は退屈していたのだろうか。
それはノーであると俺は思う。
一言で表せば、翠という人間は努力だ。
仮にアイドルになっていなかったとしても、彼女は普通に学校生活で勉学や部活に対して一生懸命に取り組んでいただろう。
たまたまその矛先がアイドルになっただけで、挑戦し、成功するために努力するという行為は何一つとして変わっていない。
「やっちゃんさん。私のような若輩者が言っても仕方のない事だとは思いますが言わせて下さい。どんなきっかけでも、どんな物でもいいので、やっちゃんさんの好きなことに触れて見て下さい」
それはきっかけにおいても言える。
もしスカウトしたのが俺でなくとも、きっと翠はそのスカウトした人間のことを信頼して、アイドルになるために努力をしただろう。
――頭の何処かで、歪な音がした。
「退屈って元々は仏教の用語で、修行に疲れ果てて精進する気持ちが屈することを意味したのですが、結局退屈というのは、手元に何も残っていない事だと思うんです」
「何もすることがないから退屈って言葉に繋がりますからね」
果たして翠は、アイドルになる前は退屈していたのだろうか。
それはノーであると俺は思う。
一言で表せば、翠という人間は努力だ。
仮にアイドルになっていなかったとしても、彼女は普通に学校生活で勉学や部活に対して一生懸命に取り組んでいただろう。
たまたまその矛先がアイドルになっただけで、挑戦し、成功するために努力するという行為は何一つとして変わっていない。
「やっちゃんさん。私のような若輩者が言っても仕方のない事だとは思いますが言わせて下さい。どんなきっかけでも、どんな物でもいいので、やっちゃんさんの好きなことに触れて見て下さい」
それはきっかけにおいても言える。
もしスカウトしたのが俺でなくとも、きっと翠はそのスカウトした人間のことを信頼して、アイドルになるために努力をしただろう。
――頭の何処かで、歪な音がした。
269:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:02:19.11 :6zYDImijo
すぐに消えたその感覚の事は瞬時に忘れて、会話を聞く。
「理由はなくても、きっとやっていれば何かを感じると思います。そうしていけば、きっと退屈だなんて思わなくなると思いますよ」
「なんだか説得力のある口調でしたが…翠さんも、アイドルになったのは些細なきっかけだったんですか?」
本当に些細だった。物語としては三流にすら届かない、かすれて消えてしまうぐらいに品のない出会い方だったと我ながら思う。
「そう…ですね。今担当しているプロデューサーさんにスカウトされたのがきっかけですが、それも真正面から言われた訳じゃなくて」
「ほうほう。スカウトってよく聞きますけど、翠さんの場合はどうだったんですか?」
今、確実に翠は俺のことを見て、くすりと笑った。
「ふふ…ええと、本人の名誉のために秘密にしておきますが、かいつまんで言うと、プロデューサーさんは最初寝てましたね」
思い出してなのか、上品な笑みを漏らす翠。
「あはは、相当な出会い方だったみたいですねー。というわけでやっちゃんさん参考にしてみてください! 次は思い出に残る名曲のコーナーです――」
……おい、事務所に戻れないぞ俺。
すぐに消えたその感覚の事は瞬時に忘れて、会話を聞く。
「理由はなくても、きっとやっていれば何かを感じると思います。そうしていけば、きっと退屈だなんて思わなくなると思いますよ」
「なんだか説得力のある口調でしたが…翠さんも、アイドルになったのは些細なきっかけだったんですか?」
本当に些細だった。物語としては三流にすら届かない、かすれて消えてしまうぐらいに品のない出会い方だったと我ながら思う。
「そう…ですね。今担当しているプロデューサーさんにスカウトされたのがきっかけですが、それも真正面から言われた訳じゃなくて」
「ほうほう。スカウトってよく聞きますけど、翠さんの場合はどうだったんですか?」
今、確実に翠は俺のことを見て、くすりと笑った。
「ふふ…ええと、本人の名誉のために秘密にしておきますが、かいつまんで言うと、プロデューサーさんは最初寝てましたね」
思い出してなのか、上品な笑みを漏らす翠。
「あはは、相当な出会い方だったみたいですねー。というわけでやっちゃんさん参考にしてみてください! 次は思い出に残る名曲のコーナーです――」
……おい、事務所に戻れないぞ俺。
270:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:04:58.40 :6zYDImijo
*
「…みどりぃ」
「あはは…ごめんなさい、プロデューサーさん」
放送が終了すると、俺達は併設の喫茶店で休憩を取った。
翠はクリームパフェ、こちらはコーヒーだ。
まあ俺の名誉なんてあってないようなものだし、翠のトークネタとして活用してくれるなら喜んで差し出すが、それでも今回のは危うく行き過ぎるところだった。
「話をしていると、段々自分のことを振り返ってしまって。理由はどんなものでも、こうしてプロデューサーさんと知り合えたことが私にとって本当に幸せで、嬉しかったんです」
「そこまで言われると照れるな……」
コミュニケーションの基本は信頼関係だが、翠にそれほど信頼してもらえると照れ臭くなってしまう。
顔を触って頬がつり上がってないか確かめて、そして安堵する。
「だからでしょうか、プロデューサーさんのことを伝えたいと思ってしまって…ちゃんと抑えはしましたけど、本当に大丈夫でしょうか…?」
別に他のタレントでもメイクさんの話など、身内の話はいくらでもしているから問題はない。
むしろ問題は俺がちひろさんに何を言われるかわからないという点なのだ。
それを言うと、翠はただただ苦笑していた。
*
「…みどりぃ」
「あはは…ごめんなさい、プロデューサーさん」
放送が終了すると、俺達は併設の喫茶店で休憩を取った。
翠はクリームパフェ、こちらはコーヒーだ。
まあ俺の名誉なんてあってないようなものだし、翠のトークネタとして活用してくれるなら喜んで差し出すが、それでも今回のは危うく行き過ぎるところだった。
「話をしていると、段々自分のことを振り返ってしまって。理由はどんなものでも、こうしてプロデューサーさんと知り合えたことが私にとって本当に幸せで、嬉しかったんです」
「そこまで言われると照れるな……」
コミュニケーションの基本は信頼関係だが、翠にそれほど信頼してもらえると照れ臭くなってしまう。
顔を触って頬がつり上がってないか確かめて、そして安堵する。
「だからでしょうか、プロデューサーさんのことを伝えたいと思ってしまって…ちゃんと抑えはしましたけど、本当に大丈夫でしょうか…?」
別に他のタレントでもメイクさんの話など、身内の話はいくらでもしているから問題はない。
むしろ問題は俺がちひろさんに何を言われるかわからないという点なのだ。
それを言うと、翠はただただ苦笑していた。
271:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:05:36.76 :6zYDImijo
「……あの、プロデューサーさんは私のことを信頼してくれてるんですよね?」
ひとしきりこの話題を話し尽くしたあと、翠は少し考え込んでから訊ねてきた。
その前に、『コミュニケーションは信頼から』という翠の言葉がシックなBGMにかき消されそうで微かに聞こえた。
「当たり前だ。翠を信頼しているし、あの時声をかけてくれたのが翠で本当に良かったと思ってるよ」
あの時体に走った電流を俺はきっと忘れはしない。
一目惚れとはまさにこの事を体現しているのだと断言できる。
それ程までにひと目見た時の彼女の顔が美しかったと言えよう。
「私もプロデューサーさんの事、信頼しています。だから…お願いがあるんです。ええと、その――」
彼女が突拍子もない事を言い出すのはもはや慣れ始めてすらいた。
しかし、今回彼女が言い出した事は……なんとも可愛らしいお願いだった。
「……あの、プロデューサーさんは私のことを信頼してくれてるんですよね?」
ひとしきりこの話題を話し尽くしたあと、翠は少し考え込んでから訊ねてきた。
その前に、『コミュニケーションは信頼から』という翠の言葉がシックなBGMにかき消されそうで微かに聞こえた。
「当たり前だ。翠を信頼しているし、あの時声をかけてくれたのが翠で本当に良かったと思ってるよ」
あの時体に走った電流を俺はきっと忘れはしない。
一目惚れとはまさにこの事を体現しているのだと断言できる。
それ程までにひと目見た時の彼女の顔が美しかったと言えよう。
「私もプロデューサーさんの事、信頼しています。だから…お願いがあるんです。ええと、その――」
彼女が突拍子もない事を言い出すのはもはや慣れ始めてすらいた。
しかし、今回彼女が言い出した事は……なんとも可愛らしいお願いだった。
272:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:06:19.64 :6zYDImijo
*
「あ、おかえりなさい、プロデューサーさん、翠ちゃん」
休憩を終えて事務所に戻ると、ちひろさんは事務所の掃除をしていた。
よく見ると俺の机まで掃除をしてくれている。
「只今戻りました。いつもありがとうございます」
「いえいえ。私にはこれくらいしかできませんから。翠ちゃんもお疲れ様、すぐお茶を出しますね」
そう言って給湯室に入っていくちひろさんを見つつ、俺達はソファに座った。
「翠、お疲れ様。今日も頑張ったな」
定型ではあるが労う。口に出さなければ伝わらないのだから、味気なくても俺は言うことにしていた。
実際仕事も多くなり初めての形式の仕事も増えて、少なからずプレッシャーもかかっていることだろう。
この事務所の命運は彼女にかかっているのだから、俺にできることなら何でもしてやらねばなるまい。
「あの…出来ればでいいんですが、また…撫でてもらってもいいですか?」
…再び翠はろくでもない提案をした。
*
「あ、おかえりなさい、プロデューサーさん、翠ちゃん」
休憩を終えて事務所に戻ると、ちひろさんは事務所の掃除をしていた。
よく見ると俺の机まで掃除をしてくれている。
「只今戻りました。いつもありがとうございます」
「いえいえ。私にはこれくらいしかできませんから。翠ちゃんもお疲れ様、すぐお茶を出しますね」
そう言って給湯室に入っていくちひろさんを見つつ、俺達はソファに座った。
「翠、お疲れ様。今日も頑張ったな」
定型ではあるが労う。口に出さなければ伝わらないのだから、味気なくても俺は言うことにしていた。
実際仕事も多くなり初めての形式の仕事も増えて、少なからずプレッシャーもかかっていることだろう。
この事務所の命運は彼女にかかっているのだから、俺にできることなら何でもしてやらねばなるまい。
「あの…出来ればでいいんですが、また…撫でてもらってもいいですか?」
…再び翠はろくでもない提案をした。
273:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:06:55.87 :6zYDImijo
「おいおい…それはあの時だけの話だろ。それに高校生なのにって翠も言ってたじゃないか」
横に座る翠はまたしてもあの時を再現するかのように上目遣いでこちらを見てきた。
身長差により自然にできるのが運命なのだろうか。
「確かにそうなんですが……撫でてもらうと何だかふわっとしてきて、とても気持ちいいんです。……変なこと言ってすみません」
そう言って申し訳なさそうにする翠を見て、俺は一体どうしたらいいんだろう、と悩むしかなかった。
……まあ、本人がそれを願っているなら叶えるのも吝かではない。
ここは事務所で人目はつかないし、彼女も難しい立場なのを承知で頑張ってくれているのだから、望みは聞いてやるべきか。
「お疲れ様」
「わっ」
ぽん、と翠の頭に手を置くと、小さく声を上げた。
しかしあの時とは違って緊張した様子はなく、非常にリラックスしているようだった。
「おかしなことを言うもんだな……これでいいのか?」
「…ありがとうございます、Pさん」
納得しているのなら、支障をきたさない限りは問題なかろう。
幸い今日の仕事は朝の内に殆ど終わらせておいたので、彼女が満足するまで手は貸してやろうか。
ただ。
「……どうして頭を撫でているんでしょうかね、プロデューサーさん?」
事務所にいるもう一人の存在に留意しておくべきだというのは、今更だろうか。
「おいおい…それはあの時だけの話だろ。それに高校生なのにって翠も言ってたじゃないか」
横に座る翠はまたしてもあの時を再現するかのように上目遣いでこちらを見てきた。
身長差により自然にできるのが運命なのだろうか。
「確かにそうなんですが……撫でてもらうと何だかふわっとしてきて、とても気持ちいいんです。……変なこと言ってすみません」
そう言って申し訳なさそうにする翠を見て、俺は一体どうしたらいいんだろう、と悩むしかなかった。
……まあ、本人がそれを願っているなら叶えるのも吝かではない。
ここは事務所で人目はつかないし、彼女も難しい立場なのを承知で頑張ってくれているのだから、望みは聞いてやるべきか。
「お疲れ様」
「わっ」
ぽん、と翠の頭に手を置くと、小さく声を上げた。
しかしあの時とは違って緊張した様子はなく、非常にリラックスしているようだった。
「おかしなことを言うもんだな……これでいいのか?」
「…ありがとうございます、Pさん」
納得しているのなら、支障をきたさない限りは問題なかろう。
幸い今日の仕事は朝の内に殆ど終わらせておいたので、彼女が満足するまで手は貸してやろうか。
ただ。
「……どうして頭を撫でているんでしょうかね、プロデューサーさん?」
事務所にいるもう一人の存在に留意しておくべきだというのは、今更だろうか。
274:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:07:33.66 :6zYDImijo
*
何着目かのこのスーツも毎日の酷使により若干の傷が出始めた頃。
紅葉は既に終焉の合図を待ちわび、木枯らしを名乗る風がおいおいと街を荒らし始める秋のとある朝だった。
変化というものは、前後で繋がっているように見えて実は独立した何かなんだと、俺はこの時強く思った。
*
何着目かのこのスーツも毎日の酷使により若干の傷が出始めた頃。
紅葉は既に終焉の合図を待ちわび、木枯らしを名乗る風がおいおいと街を荒らし始める秋のとある朝だった。
変化というものは、前後で繋がっているように見えて実は独立した何かなんだと、俺はこの時強く思った。
275:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:08:02.98 :6zYDImijo
「ゴードーフェス?」
「合同フェスですよ、プロデューサーさん」
事務所。
いつものインスタントコーヒーを飲みながら今日の予定を確認していると、突然ちひろさんが聞いたことのない言葉を口に出した。
聞き返した口調がどうやら知らないみたいだと理解したちひろさんはちょいちょい、と手を小招いて俺を呼ぶ。
もう片方の手はちひろさんのパソコンの画面を指さしていた。見ろ、ということらしい。
椅子から立ち上がり、隣まで行くと液晶画面を横から覗きこむ。
すると画面にはメーラーが起動しており、一件のメールが表示されていた。
「…翠にフェスのお誘い!?」
内容には、合同フェスの推薦という文字が記されていた。
「ゴードーフェス?」
「合同フェスですよ、プロデューサーさん」
事務所。
いつものインスタントコーヒーを飲みながら今日の予定を確認していると、突然ちひろさんが聞いたことのない言葉を口に出した。
聞き返した口調がどうやら知らないみたいだと理解したちひろさんはちょいちょい、と手を小招いて俺を呼ぶ。
もう片方の手はちひろさんのパソコンの画面を指さしていた。見ろ、ということらしい。
椅子から立ち上がり、隣まで行くと液晶画面を横から覗きこむ。
すると画面にはメーラーが起動しており、一件のメールが表示されていた。
「…翠にフェスのお誘い!?」
内容には、合同フェスの推薦という文字が記されていた。
276:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:09:23.65 :6zYDImijo
合同フェスとは、アイドルが好きな者なら知らないものは居ない、毎年末に行われる多くのプロダクションが参加するライブコンサートである。
フェスでは、その年のヒット曲を生み出したアイドルや人気になったアイドルが集結して歌いあう、一種のお祭りのようなイベントなのだ。
当然ファン投票によるライブバトルも行われるが、大体は最高レベルのパフォーマンスショーだと思っててくれていい。
そういった説明をちひろさんから聞きながら、俺は顎に手を当てる。
「…でもちょっと待って下さい。仮に出場条件がそうなら、翠にどうして招待が来るんですか? まだ曲すら出していないんですよ」
説明によれば、その年有名になったアイドルがおおよその参加条件となっている。
しかし、残念ながら翠ではそれに合致しているとは思えない。
地元での人気はかなり上がってきているとは思うが、彼女のシングルすら出していない状況では、どうみてもつり合わないはずだ。
「ここを見て下さいよ、ここ」
とんとん、と液晶を爪で突いた所を見る。
そこにはこのメールを出した相手の名前が――。
「……って、ここはゆかりのいるプロダクションか!」
招待状をくれたのは、他でもなくゆかりの所属する事務所からだったのだ。
合同フェスとは、アイドルが好きな者なら知らないものは居ない、毎年末に行われる多くのプロダクションが参加するライブコンサートである。
フェスでは、その年のヒット曲を生み出したアイドルや人気になったアイドルが集結して歌いあう、一種のお祭りのようなイベントなのだ。
当然ファン投票によるライブバトルも行われるが、大体は最高レベルのパフォーマンスショーだと思っててくれていい。
そういった説明をちひろさんから聞きながら、俺は顎に手を当てる。
「…でもちょっと待って下さい。仮に出場条件がそうなら、翠にどうして招待が来るんですか? まだ曲すら出していないんですよ」
説明によれば、その年有名になったアイドルがおおよその参加条件となっている。
しかし、残念ながら翠ではそれに合致しているとは思えない。
地元での人気はかなり上がってきているとは思うが、彼女のシングルすら出していない状況では、どうみてもつり合わないはずだ。
「ここを見て下さいよ、ここ」
とんとん、と液晶を爪で突いた所を見る。
そこにはこのメールを出した相手の名前が――。
「……って、ここはゆかりのいるプロダクションか!」
招待状をくれたのは、他でもなくゆかりの所属する事務所からだったのだ。
277:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:10:02.54 :6zYDImijo
驚く俺に対し、ちひろさんは説明を続ける。
「もちろん基本的な条件はさっき言った通りですが、その他にも将来に期待なアイドルという意味の推薦枠というものがありまして。それを利用してあちらは翠ちゃんを推薦したんですよ!」
信じられない、という表情を俺は今しているだろうか。
いや、鏡を見なくてもそれは大体わかるような気がする。
「…でもどうして翠なんでしょうかね。そりゃ嬉しいですけど、相手方の事務所はかなり規模が大きいはず。なら他にも推薦する相手はいくらでもいると思うんですが」
考えれば考える程に不理解が進む。
確かにゆかりとは一度急なスケジュールだったが限定的にユニットを組んでライブ行い、無事成功を納めることができたが、それでもたった一度だけの事だ。
つながりでいえば、相手方にとってこちらの事務所よりも縁深い事務所は数多くあるはずである。
にも関わらずその中で翠を選んだ理由というのが今ひとつすんなりと飲み込めない。
嬉しいが故の懐疑なのだろうか。
「まあまあ。ともかく、一年目でフェス参加ですよ! 確実に流れが来てますよ、プロデューサーさん!」
ちひろさんは軽く手を叩いて喜んだ。
初ライブすらいきなりの事なのに、今度も突然で、更に大規模と来た。
しかも観客は温かい声援を送ってくれる比較的身内ではなく、年齢も出身も違う全く無関係の人達だ。
クオリティやパフォーマンスも、なあなあでは到底許されるものではない。
驚く俺に対し、ちひろさんは説明を続ける。
「もちろん基本的な条件はさっき言った通りですが、その他にも将来に期待なアイドルという意味の推薦枠というものがありまして。それを利用してあちらは翠ちゃんを推薦したんですよ!」
信じられない、という表情を俺は今しているだろうか。
いや、鏡を見なくてもそれは大体わかるような気がする。
「…でもどうして翠なんでしょうかね。そりゃ嬉しいですけど、相手方の事務所はかなり規模が大きいはず。なら他にも推薦する相手はいくらでもいると思うんですが」
考えれば考える程に不理解が進む。
確かにゆかりとは一度急なスケジュールだったが限定的にユニットを組んでライブ行い、無事成功を納めることができたが、それでもたった一度だけの事だ。
つながりでいえば、相手方にとってこちらの事務所よりも縁深い事務所は数多くあるはずである。
にも関わらずその中で翠を選んだ理由というのが今ひとつすんなりと飲み込めない。
嬉しいが故の懐疑なのだろうか。
「まあまあ。ともかく、一年目でフェス参加ですよ! 確実に流れが来てますよ、プロデューサーさん!」
ちひろさんは軽く手を叩いて喜んだ。
初ライブすらいきなりの事なのに、今度も突然で、更に大規模と来た。
しかも観客は温かい声援を送ってくれる比較的身内ではなく、年齢も出身も違う全く無関係の人達だ。
クオリティやパフォーマンスも、なあなあでは到底許されるものではない。
278:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:10:45.97 :6zYDImijo
あまりに急だったので急いで頭の中に内容を落としこみつつ、やるべきことについて考える。
すると、即座に思考が行き詰まってしまった。
「…あの、ちひろさん。フェスに参加するとして……曲はどうなるんですか? まさか学園祭の時の同じ曲を使うわけにもいかないでしょう」
さしあたって最も重要な問題である。
ヒット曲を生み出して有名になったアイドルならばその曲を披露すればまず間違いはないのだが、そもそもの話、翠は曲をリリースしていない。
今からフェス用の新曲を作るのか、とまたもや色々な方に無理をさせるスケジュールを組まなければいけない事に頭を悩ませると、ちひろさんはその思考を遮った。
「…プロデューサーさん、ちょっとこれを聞いてみてくれませんか?」
不意に彼女は引き出しを静かに開けると、一枚のCDケースを俺に手渡した。
ラベルもメモもない、プライベートで使用する目的として保存していたとおぼしき、白いCDだった。
あまりに急だったので急いで頭の中に内容を落としこみつつ、やるべきことについて考える。
すると、即座に思考が行き詰まってしまった。
「…あの、ちひろさん。フェスに参加するとして……曲はどうなるんですか? まさか学園祭の時の同じ曲を使うわけにもいかないでしょう」
さしあたって最も重要な問題である。
ヒット曲を生み出して有名になったアイドルならばその曲を披露すればまず間違いはないのだが、そもそもの話、翠は曲をリリースしていない。
今からフェス用の新曲を作るのか、とまたもや色々な方に無理をさせるスケジュールを組まなければいけない事に頭を悩ませると、ちひろさんはその思考を遮った。
「…プロデューサーさん、ちょっとこれを聞いてみてくれませんか?」
不意に彼女は引き出しを静かに開けると、一枚のCDケースを俺に手渡した。
ラベルもメモもない、プライベートで使用する目的として保存していたとおぼしき、白いCDだった。
279:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:11:11.38 :6zYDImijo
「これをですか? ……まあいいですけど」
CDケースには多数の傷が付着しており、随分昔から何回も使いまわしているんだな、とどうでもいい感想を抱きながらケースを開け、パソコンにCDを挿入する。
「……」
鈍い回転音と共にCDが読み込まれ、既定の音楽プレイヤーが起動する。
ちひろさんの声も止まり、音楽がスピーカーから流れるのを、ただ無言で待っているようだった。
その表情というのは実に真剣で、遊びや悪戯なんかでは到底無いことを明確に表していた。
この使い古されたケースといい彼女の表情といい、なんとも疑問点の多く浮かぶ事案である。
しかし、そんなことを考えていても何も始まらない。
自動的に起動されたソフトの再生画面を一度みれば、もののワンクリックで、記録されていたデータが再生された。
「これをですか? ……まあいいですけど」
CDケースには多数の傷が付着しており、随分昔から何回も使いまわしているんだな、とどうでもいい感想を抱きながらケースを開け、パソコンにCDを挿入する。
「……」
鈍い回転音と共にCDが読み込まれ、既定の音楽プレイヤーが起動する。
ちひろさんの声も止まり、音楽がスピーカーから流れるのを、ただ無言で待っているようだった。
その表情というのは実に真剣で、遊びや悪戯なんかでは到底無いことを明確に表していた。
この使い古されたケースといい彼女の表情といい、なんとも疑問点の多く浮かぶ事案である。
しかし、そんなことを考えていても何も始まらない。
自動的に起動されたソフトの再生画面を一度みれば、もののワンクリックで、記録されていたデータが再生された。
280:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:11:51.66 :6zYDImijo
――興味深い、というのが第一印象だった。
学園祭で歌った曲はどちらかと言えばポップ・ロックを頭から踏襲した、かなりベーシックなものであったのに対し、今この事務所に流れている曲は少し静かな曲調の物だった。
一本のエレキギターがメインで穏やかな旋律を紡ぎ出し、それを肉付けし彩るようにボーカルやベース、ピアノなどが重なり合っていた。
全体的に激しい印象は無いが、サビとその前のBメロで微かに音が賑やかになっていく様は、不思議としんみりさせてくれる。
特に気になったのがこの歌声だ。
誰の声かは分からないが、か細い中に芯の強さを感じて、声が完全に曲に溶け込んでいるのを感じた。
「ジャンルなら、一応ロック・バラードに分類されます。演劇的な歌い方が必要で、単純に歌というよりも弾き語りのような雰囲気が重要になります」
曲の一番が終わると、俺はひとまず一時停止のボタンを押した。
「プロデューサーさんならどう思いますか? …翠ちゃんにこの曲、似合うと思いますか?」
真剣な眼差しで――そして、少し不安げな瞳が変わった印象を受ける。
まるで秘蔵の隠し子を晒すかのような、大事そうな扱いだった。
――興味深い、というのが第一印象だった。
学園祭で歌った曲はどちらかと言えばポップ・ロックを頭から踏襲した、かなりベーシックなものであったのに対し、今この事務所に流れている曲は少し静かな曲調の物だった。
一本のエレキギターがメインで穏やかな旋律を紡ぎ出し、それを肉付けし彩るようにボーカルやベース、ピアノなどが重なり合っていた。
全体的に激しい印象は無いが、サビとその前のBメロで微かに音が賑やかになっていく様は、不思議としんみりさせてくれる。
特に気になったのがこの歌声だ。
誰の声かは分からないが、か細い中に芯の強さを感じて、声が完全に曲に溶け込んでいるのを感じた。
「ジャンルなら、一応ロック・バラードに分類されます。演劇的な歌い方が必要で、単純に歌というよりも弾き語りのような雰囲気が重要になります」
曲の一番が終わると、俺はひとまず一時停止のボタンを押した。
「プロデューサーさんならどう思いますか? …翠ちゃんにこの曲、似合うと思いますか?」
真剣な眼差しで――そして、少し不安げな瞳が変わった印象を受ける。
まるで秘蔵の隠し子を晒すかのような、大事そうな扱いだった。
281:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:12:19.78 :6zYDImijo
翠の歌を思い出す。
ライブをして分かったが、翠にはまだ声量が少し足りない。
実際あの時もゆかりの歌声に負けそうになった部分も少なからず見受けられていた。
しかし、針の穴に糸を通すような繊細な声は人の耳に効果的に入りやすく、高目の音程まで濃く出せるので表現の幅は高そうだ。
それとこの曲が組み合わさればどうなるか。
はっきり言って、俺には想像が全くできなかった。
そもそも、この音源はどこから入手したのだろうか。
CDケースの傷といい、明らかに公式に譲渡されたような様相ではない。
それについて訊ねても、「ちょっとした伝手で受け取った音源なんです」とはぐらかされて、欲しい答えは得られそうにはなかった。
翠の歌を思い出す。
ライブをして分かったが、翠にはまだ声量が少し足りない。
実際あの時もゆかりの歌声に負けそうになった部分も少なからず見受けられていた。
しかし、針の穴に糸を通すような繊細な声は人の耳に効果的に入りやすく、高目の音程まで濃く出せるので表現の幅は高そうだ。
それとこの曲が組み合わさればどうなるか。
はっきり言って、俺には想像が全くできなかった。
そもそも、この音源はどこから入手したのだろうか。
CDケースの傷といい、明らかに公式に譲渡されたような様相ではない。
それについて訊ねても、「ちょっとした伝手で受け取った音源なんです」とはぐらかされて、欲しい答えは得られそうにはなかった。
282:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:13:28.14 :6zYDImijo
「そのメール、こっちのパソコンに転送してもらってもいいですか?」
立って覗きこんで見るのも辛いので、招待状のメールを自分のメールアカウントに転送してもらい、改めて確かめる。
合同フェスの開催日は年末も近づくクリスマス後。
新年に向けて休みの人が多く、リアルタイムで見てもらいやすいという考えだろう。
テレビでも生放送していて他局の特番ともやや重なるが、過去の記事を見る限り、視聴率も良いようだった。
すなわち、ここで他のアイドルに負けないぐらいアピールを行えば、来年からのアイドル活動もより優位に立てるという事に他ならない。
そのためには、今からすぐにでも練習を始める必要がありそうだ。
学園祭の時に比べ練習期間は一ヶ月程伸びたが、規模は数倍も違う。
ライブ自体まだ二度目なのに、いきなり大舞台でのパフォーマンスとなれば相当精神的にキツいものがあるはずだから、それへの対策も十分に行わなければならない。
「…わかりました。この曲、翠に歌わせましょう」
そういう意味でも、曲を選り好める立場ではないことは明確だ。
無論、この曲が悪いという話ではない。
ただ実際問題として、翠に適した曲であるかどうかは完全に未知数で、博打的な判断と言える。
この曲を歌っている声のように歌えれば、翠の声質なら魅力を引き出せるだろうという考えだ。
「そのメール、こっちのパソコンに転送してもらってもいいですか?」
立って覗きこんで見るのも辛いので、招待状のメールを自分のメールアカウントに転送してもらい、改めて確かめる。
合同フェスの開催日は年末も近づくクリスマス後。
新年に向けて休みの人が多く、リアルタイムで見てもらいやすいという考えだろう。
テレビでも生放送していて他局の特番ともやや重なるが、過去の記事を見る限り、視聴率も良いようだった。
すなわち、ここで他のアイドルに負けないぐらいアピールを行えば、来年からのアイドル活動もより優位に立てるという事に他ならない。
そのためには、今からすぐにでも練習を始める必要がありそうだ。
学園祭の時に比べ練習期間は一ヶ月程伸びたが、規模は数倍も違う。
ライブ自体まだ二度目なのに、いきなり大舞台でのパフォーマンスとなれば相当精神的にキツいものがあるはずだから、それへの対策も十分に行わなければならない。
「…わかりました。この曲、翠に歌わせましょう」
そういう意味でも、曲を選り好める立場ではないことは明確だ。
無論、この曲が悪いという話ではない。
ただ実際問題として、翠に適した曲であるかどうかは完全に未知数で、博打的な判断と言える。
この曲を歌っている声のように歌えれば、翠の声質なら魅力を引き出せるだろうという考えだ。
283:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:14:19.99 :6zYDImijo
「…そう、ですか」
ほんの少しだけ、ちひろさんは息を吐いた。
「わかりました。では参加すると同時に、トレーナーにも音源と簡単な練習方針を送っておきます。次のこっちでのレッスンの時にそちらで詰め合わせを行なって下さいね」
慣れた手つきでキーボードを叩く。
恐らく関係各所へのメールを打っているのだろう。
「ん? 愛知で明後日レッスンですけど、その時にしなくていいんですか?」
基本的に翠は愛知での生活を軸にしているので、平日のレッスンは愛知で、休日は東京で、という体型を取っている。
次のレッスンというだけならば明後日でもいいのだが。
「確かにそうなんですが、今回のフェス対策に関して、別のトレーナーも臨時で見てくれることになってまして」
「ああ、なるほど……って、そんな前から言ってたんですか!?」
合同フェスの話すら今日知ったというのに、なんとその臨時トレーナーとやらはにはもっと前から話をしているというのだ。
「いえ。元々今のトレーナーは基礎レベルの範囲でお願いしてましたので、ハイレベルなレッスンに関しては別の方についてもらうよう前からそういう約束をしていたんですよ」
開いた口がふさがらないというか、感心で口が閉じられない。
ちひろさんは俺の見えない所で用意周到に土台作りに励んでいたというのだ。
全く以てその機敏さ、聡明さに尊敬の念を禁じ得ない。
「…そう、ですか」
ほんの少しだけ、ちひろさんは息を吐いた。
「わかりました。では参加すると同時に、トレーナーにも音源と簡単な練習方針を送っておきます。次のこっちでのレッスンの時にそちらで詰め合わせを行なって下さいね」
慣れた手つきでキーボードを叩く。
恐らく関係各所へのメールを打っているのだろう。
「ん? 愛知で明後日レッスンですけど、その時にしなくていいんですか?」
基本的に翠は愛知での生活を軸にしているので、平日のレッスンは愛知で、休日は東京で、という体型を取っている。
次のレッスンというだけならば明後日でもいいのだが。
「確かにそうなんですが、今回のフェス対策に関して、別のトレーナーも臨時で見てくれることになってまして」
「ああ、なるほど……って、そんな前から言ってたんですか!?」
合同フェスの話すら今日知ったというのに、なんとその臨時トレーナーとやらはにはもっと前から話をしているというのだ。
「いえ。元々今のトレーナーは基礎レベルの範囲でお願いしてましたので、ハイレベルなレッスンに関しては別の方についてもらうよう前からそういう約束をしていたんですよ」
開いた口がふさがらないというか、感心で口が閉じられない。
ちひろさんは俺の見えない所で用意周到に土台作りに励んでいたというのだ。
全く以てその機敏さ、聡明さに尊敬の念を禁じ得ない。
284:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:16:33.14 :6zYDImijo
「わかりました。そういうことならその日で。翠には先に伝えてもいいですよね?」
「大丈夫です。ただ、出来れば電話ではなく口頭で伝えてやって下さい。その方が嬉しいでしょうから」
ちひろさんのいうことは尤もだ。
面と向かって伝えられる方が、きっと翠も喜ぶに違いない。
次に会うのはいつだ、と思い、机に置いている手帳を手に取る。
明日の欄には、東京での写真撮影の仕事が記されていた。
「了解です。では明日伝えますね。それで、参加にあたって他に連絡しておく事項はありますか?」
これから色々な所に顔を出すだろうし…と思ったが、特にありません、とちひろさんは答える。
「こちらでできる処理は私が請け負いますので、プロデューサーさんは翠ちゃんに専念してあげて下さい。翠ちゃんにとって、味方はあなただけなんですから」
「そんなことないですよ。ちひろさんだって、翠の立派な理解者です」
東京での暮らしを親身になってサポートしているちひろさんが、翠に良く思われていないはずがないだろう。
そう言うと、ちひろさんは困った表情を見せたのだった。
「わかりました。そういうことならその日で。翠には先に伝えてもいいですよね?」
「大丈夫です。ただ、出来れば電話ではなく口頭で伝えてやって下さい。その方が嬉しいでしょうから」
ちひろさんのいうことは尤もだ。
面と向かって伝えられる方が、きっと翠も喜ぶに違いない。
次に会うのはいつだ、と思い、机に置いている手帳を手に取る。
明日の欄には、東京での写真撮影の仕事が記されていた。
「了解です。では明日伝えますね。それで、参加にあたって他に連絡しておく事項はありますか?」
これから色々な所に顔を出すだろうし…と思ったが、特にありません、とちひろさんは答える。
「こちらでできる処理は私が請け負いますので、プロデューサーさんは翠ちゃんに専念してあげて下さい。翠ちゃんにとって、味方はあなただけなんですから」
「そんなことないですよ。ちひろさんだって、翠の立派な理解者です」
東京での暮らしを親身になってサポートしているちひろさんが、翠に良く思われていないはずがないだろう。
そう言うと、ちひろさんは困った表情を見せたのだった。
285:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:17:12.24 :6zYDImijo
*
「今日の私は如何でしたか?」
若干の渋滞気味な幹線道路を走行中の事だった。
愛知から仕事のためにやってきた翠を送迎のために使用していた、その車内である。
ゆっくりと進む中、助手席にきちんと座っている翠はそう訊ねた。
都内のスタジオで写真撮影というのが今日の仕事だった。
トラベル誌の観光特集で翠を使ってくれるという事で、案内に使う写真を撮っていたということである。
「特に問題はなかったぞ。…何かおかしなことでもあったか?」
「いえ…、Pさんの目から見て、下手な所はあったのかな、と思いまして」
いよいよもって律儀な人間である。
たかだが18年生きただけの少女に、どうしてこれ程の勤勉さが備わっているのだろうか。
「大丈夫。向こうの人もすんなり行ったって喜んでたよ。流石翠だな」
「そうですか……よかったです」
横目で彼女を見ると、膝に手を置いて、嬉しそうにしていた。
ああそうだ、と俺は言おう言おうと思ってた例の件について不意に頭に浮かぶ。
*
「今日の私は如何でしたか?」
若干の渋滞気味な幹線道路を走行中の事だった。
愛知から仕事のためにやってきた翠を送迎のために使用していた、その車内である。
ゆっくりと進む中、助手席にきちんと座っている翠はそう訊ねた。
都内のスタジオで写真撮影というのが今日の仕事だった。
トラベル誌の観光特集で翠を使ってくれるという事で、案内に使う写真を撮っていたということである。
「特に問題はなかったぞ。…何かおかしなことでもあったか?」
「いえ…、Pさんの目から見て、下手な所はあったのかな、と思いまして」
いよいよもって律儀な人間である。
たかだが18年生きただけの少女に、どうしてこれ程の勤勉さが備わっているのだろうか。
「大丈夫。向こうの人もすんなり行ったって喜んでたよ。流石翠だな」
「そうですか……よかったです」
横目で彼女を見ると、膝に手を置いて、嬉しそうにしていた。
ああそうだ、と俺は言おう言おうと思ってた例の件について不意に頭に浮かぶ。
286:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:17:59.03 :6zYDImijo
「喜んでる所悪いが、翠に更に嬉しい事をお知らせすることがあったんだった」
信号待ちで車は到底進みそうにない。
もう少し早くスタジオを出られたらこんなことにはならなかったのかもしれない、と独りごちるが、詮ないことだ。
ハンドブレーキを引いてハンドルから手を離すと、近くに置いていた鞄からクリアファイルを取り出して翠に渡した。
「なんでしょうか、これ」
「いいから読んでみろ。悪いことは書いてない」
手渡されたファイルから紙を取り出して訝しみながら眺め始めると、ものの数秒で彼女は飛び跳ねた。
「――これって!」
タイトルを見ただけで、翠は理解したようだ。
この紙の中身は、あの例の招待状のメールを編集して印刷したものである。
よもや彼女が俺の言葉を質の悪い冗談だととるはずはないが、事が事のために一応証拠を用意しておいたのだ。
伝える言葉を考えたが特に思いつかなかったので、ただありのまま、俺は翠に報告をする。
「おめでとう、今年末のイベントに…翠が出演することになったぞ!」
わあ、と翠が言葉にならない声を上げて喜ぶ色がありありと見えたが、話はこれだけじゃない。
「喜んでる所悪いが、翠に更に嬉しい事をお知らせすることがあったんだった」
信号待ちで車は到底進みそうにない。
もう少し早くスタジオを出られたらこんなことにはならなかったのかもしれない、と独りごちるが、詮ないことだ。
ハンドブレーキを引いてハンドルから手を離すと、近くに置いていた鞄からクリアファイルを取り出して翠に渡した。
「なんでしょうか、これ」
「いいから読んでみろ。悪いことは書いてない」
手渡されたファイルから紙を取り出して訝しみながら眺め始めると、ものの数秒で彼女は飛び跳ねた。
「――これって!」
タイトルを見ただけで、翠は理解したようだ。
この紙の中身は、あの例の招待状のメールを編集して印刷したものである。
よもや彼女が俺の言葉を質の悪い冗談だととるはずはないが、事が事のために一応証拠を用意しておいたのだ。
伝える言葉を考えたが特に思いつかなかったので、ただありのまま、俺は翠に報告をする。
「おめでとう、今年末のイベントに…翠が出演することになったぞ!」
わあ、と翠が言葉にならない声を上げて喜ぶ色がありありと見えたが、話はこれだけじゃない。
287:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:18:26.58 :6zYDImijo
「そして翠にもう一つの嬉しいお知らせだ。聞きたいか?」
「ふふ、勿論聞きたいです」
冗談めかしていうと、彼女もそれに応える。
笑顔が漏れ出るこの状況では、幾分か彼女も純粋になっているように思える。
「じゃあ言うぞ、心して聞け――」
――合同フェスでは、翠のための歌を歌うぞ。
その時の翠の表情と言ったら、言葉では到底表現できそうにはなかった。
「そして翠にもう一つの嬉しいお知らせだ。聞きたいか?」
「ふふ、勿論聞きたいです」
冗談めかしていうと、彼女もそれに応える。
笑顔が漏れ出るこの状況では、幾分か彼女も純粋になっているように思える。
「じゃあ言うぞ、心して聞け――」
――合同フェスでは、翠のための歌を歌うぞ。
その時の翠の表情と言ったら、言葉では到底表現できそうにはなかった。
288:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:20:20.49 :6zYDImijo
「…でも、私なんかでいいのでしょうか」
ひとしきり喜んだ後、寝るまでずっとその気持ちを抱えているのかと思いきや、彼女は一転して声をすぼめた。
何だか、遠い昔にもそんな言葉を聞いた記憶がある。
…確か、スカウトする時だったか。
アイドルとして生きることに自信がなかった翠を勇気づけて決断に至った事は、印象深い出来事として頭に残っていた。
「なんか、じゃないさ」
結局、何にしたって不安というものは常に心臓の周りを漂っている。
それは自己のイメージを反映しただけで、客観的でない架空の存在だ。
「アイドル始めた時と似たような物だ。ちゃんと今、出来てるだろ? …だから今度も大丈夫だよ」
スケジュールも学園祭の時より余裕があるしな、というと、翠は小さく笑った。
本人もそれは懸案事項として抱いていたということだろう。
「…私、頑張りますから」
「翠だけじゃない、俺もちひろさんも頑張って、翠をサポートするよ」
ありがとうございます、と一言翠が述べると、その後は事務所に帰るまで談笑が続いた。
「…でも、私なんかでいいのでしょうか」
ひとしきり喜んだ後、寝るまでずっとその気持ちを抱えているのかと思いきや、彼女は一転して声をすぼめた。
何だか、遠い昔にもそんな言葉を聞いた記憶がある。
…確か、スカウトする時だったか。
アイドルとして生きることに自信がなかった翠を勇気づけて決断に至った事は、印象深い出来事として頭に残っていた。
「なんか、じゃないさ」
結局、何にしたって不安というものは常に心臓の周りを漂っている。
それは自己のイメージを反映しただけで、客観的でない架空の存在だ。
「アイドル始めた時と似たような物だ。ちゃんと今、出来てるだろ? …だから今度も大丈夫だよ」
スケジュールも学園祭の時より余裕があるしな、というと、翠は小さく笑った。
本人もそれは懸案事項として抱いていたということだろう。
「…私、頑張りますから」
「翠だけじゃない、俺もちひろさんも頑張って、翠をサポートするよ」
ありがとうございます、と一言翠が述べると、その後は事務所に帰るまで談笑が続いた。
289:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:20:54.26 :6zYDImijo
*
「もしもし、ゆかりは今大丈夫か?」
仕事も一区切り置いたところで、俺はゆかりへと電話をかけていた。
喫茶店で昼ごはんを注文し、やってくる料理を待つ合間の出来事である。
「はい。今はオフですよ、Pさん」
電話越しの彼女の周りからは何やらクラシックめいた音楽が小さくではあるが流れている。
大方彼女の部屋で音楽を聞きながら何かをしていたのだろう。
ところでどうしてゆかりへと電話をかけたのかというと、無論フェスの招待の事であった。
この度の経過は、通常であればあり得ないはずのことだ。
それが実際に起きているというのなら、それはあちら側で何らかのアクションを起こしたからだと推測できる。
もしそうであるのならば、ただ黙ってそれを享受している訳にはいかない。
こちらにとって好都合に事を運んでくれた人がいるのであれば俺からも何らかの感謝の形を伝えるのが筋という話だ。
そういう訳で、例え仕事中であっても一応は休憩中であろうこの時間を狙って電話をかけたのである。
彼女のプロデューサーにかけないのは、単にゆかりであれば内容はどうであれ包み隠さず教えてくれると踏んだからである。
*
「もしもし、ゆかりは今大丈夫か?」
仕事も一区切り置いたところで、俺はゆかりへと電話をかけていた。
喫茶店で昼ごはんを注文し、やってくる料理を待つ合間の出来事である。
「はい。今はオフですよ、Pさん」
電話越しの彼女の周りからは何やらクラシックめいた音楽が小さくではあるが流れている。
大方彼女の部屋で音楽を聞きながら何かをしていたのだろう。
ところでどうしてゆかりへと電話をかけたのかというと、無論フェスの招待の事であった。
この度の経過は、通常であればあり得ないはずのことだ。
それが実際に起きているというのなら、それはあちら側で何らかのアクションを起こしたからだと推測できる。
もしそうであるのならば、ただ黙ってそれを享受している訳にはいかない。
こちらにとって好都合に事を運んでくれた人がいるのであれば俺からも何らかの感謝の形を伝えるのが筋という話だ。
そういう訳で、例え仕事中であっても一応は休憩中であろうこの時間を狙って電話をかけたのである。
彼女のプロデューサーにかけないのは、単にゆかりであれば内容はどうであれ包み隠さず教えてくれると踏んだからである。
290:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:21:43.62 :6zYDImijo
「いきなりだけど……ゆかりは、翠がフェスに参加することを知ってるのか?」
俺の質問に対しては、身内の出来事だと言わんばかりに喜色めいた声で返事が返ってきた。
「ああ、はい。知ってますよ。私のプロデューサーさんから聞いたんです」
「ということは…ゆかりが直接翠を推薦した訳じゃないのか?」
予測の中の一つには、ゆかりが掛けあって実現したという案があった。
むしろ個人的にはそうであって欲しかった。
何らかの戦略で以て翠を招待したとあれば、こちら側にどんな干渉をしかけてくるか全く解らないからだ。
「そうですね。上での話し合いの結果ということらしいので、私にもどうだかはわからないんです。ごめんなさい」
「いや、ゆかりが謝ることじゃないよ。こっちこそいきなり悪かったね」
第二の予測として、ゆかりのプロデューサーが推薦した…というのも考えたが、彼女の話しぶりからするとどうやらそれも違うらしい。
当然、彼が推薦したという事実をゆかりに教えなかったということも、あり得る話ではある。
彼の胸の内に抱えるストイックさを考えれば、可能性はゼロではない。
「いきなりだけど……ゆかりは、翠がフェスに参加することを知ってるのか?」
俺の質問に対しては、身内の出来事だと言わんばかりに喜色めいた声で返事が返ってきた。
「ああ、はい。知ってますよ。私のプロデューサーさんから聞いたんです」
「ということは…ゆかりが直接翠を推薦した訳じゃないのか?」
予測の中の一つには、ゆかりが掛けあって実現したという案があった。
むしろ個人的にはそうであって欲しかった。
何らかの戦略で以て翠を招待したとあれば、こちら側にどんな干渉をしかけてくるか全く解らないからだ。
「そうですね。上での話し合いの結果ということらしいので、私にもどうだかはわからないんです。ごめんなさい」
「いや、ゆかりが謝ることじゃないよ。こっちこそいきなり悪かったね」
第二の予測として、ゆかりのプロデューサーが推薦した…というのも考えたが、彼女の話しぶりからするとどうやらそれも違うらしい。
当然、彼が推薦したという事実をゆかりに教えなかったということも、あり得る話ではある。
彼の胸の内に抱えるストイックさを考えれば、可能性はゼロではない。
291:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:23:24.47 :6zYDImijo
「実は後日に翠ちゃんから電話がかかってきまして…とっても嬉しそうに話してましたよ」
「…ありがとう、ゆかり」
ごく自然に、俺は感謝の言葉を漏らしていた。
「どれもこれも、ゆかりが翠と一緒にライブをしてくれたおかげだ。本当にありがとう」
俯瞰してみれば、どこにでもいるただの新人アイドルが曲も出さなかったにも関わらず年に一度の一大イベントに参加できるのは、結局彼女との繋がりがあったからだ。
あのオーディションでの偶然の出会いが今を演出しているという事実に、俺は彼らに感謝せずには居られなかった。
「そんな…いえ、私からもです、ありがとうございます、Pさん」
「え?」
すると不意に、彼女から俺へと何故か感謝されてしまう。
後ろから聞こえるクラシックの音楽に同調するような、優しい声だった。
「翠ちゃんが楽しそうに話す声が、私も好きなんです。そういう風にしてくれたのは…他でもない、Pさんのおかげでしょうから」
どうしてこうも、俺の知り合う年下の彼女達は大人びているのだろうか。
お世辞にしろ本心にしろ、即座にこんな言葉がすらすらと出てくるのは年齢を考えれば違和感でしかない。
尤も、それが芸能界で生きていく上での当たり前のことなのかもしれないが。
「実は後日に翠ちゃんから電話がかかってきまして…とっても嬉しそうに話してましたよ」
「…ありがとう、ゆかり」
ごく自然に、俺は感謝の言葉を漏らしていた。
「どれもこれも、ゆかりが翠と一緒にライブをしてくれたおかげだ。本当にありがとう」
俯瞰してみれば、どこにでもいるただの新人アイドルが曲も出さなかったにも関わらず年に一度の一大イベントに参加できるのは、結局彼女との繋がりがあったからだ。
あのオーディションでの偶然の出会いが今を演出しているという事実に、俺は彼らに感謝せずには居られなかった。
「そんな…いえ、私からもです、ありがとうございます、Pさん」
「え?」
すると不意に、彼女から俺へと何故か感謝されてしまう。
後ろから聞こえるクラシックの音楽に同調するような、優しい声だった。
「翠ちゃんが楽しそうに話す声が、私も好きなんです。そういう風にしてくれたのは…他でもない、Pさんのおかげでしょうから」
どうしてこうも、俺の知り合う年下の彼女達は大人びているのだろうか。
お世辞にしろ本心にしろ、即座にこんな言葉がすらすらと出てくるのは年齢を考えれば違和感でしかない。
尤も、それが芸能界で生きていく上での当たり前のことなのかもしれないが。
292:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:24:09.11 :6zYDImijo
対照的に大人と呼ばれるのにふさわしいのか未だに疑問の残る俺が浮かび上がって、一層気持ちが萎えてしまう。
これじゃまるで俺が年下みたいではないか。
もっとビジネス書でも読んだほうがいいのかな、とそういう思考がそもそも安直で大人ではないという事実に辟易としていた時だ。
「これでまた同じ会場でライブが出来ますね。私、楽しみにしてます」
……一つの大きな驚きが肺を震わせた。
対照的に大人と呼ばれるのにふさわしいのか未だに疑問の残る俺が浮かび上がって、一層気持ちが萎えてしまう。
これじゃまるで俺が年下みたいではないか。
もっとビジネス書でも読んだほうがいいのかな、とそういう思考がそもそも安直で大人ではないという事実に辟易としていた時だ。
「これでまた同じ会場でライブが出来ますね。私、楽しみにしてます」
……一つの大きな驚きが肺を震わせた。
293:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:24:34.15 :6zYDImijo
「同じ…というと、ゆかりもか!?」
「はい。ファンの皆様のおかげで二年連続で出させて頂くことになりました」
マジか、と無意識に口から言葉が漏れる。
通常、合同フェスは開催日ニ週間前に初めて今年参加するアイドルが好評される。
秘密裏に教えてもらうこと自体にも驚いたが、ゆかりもまさか参加しているのだということが一番の驚きだった。
その間にウェイトレスが四つ切りの食パンで作られたサンドイッチとコーヒーを運んできたので、なんとか目線で礼を言う。
「二年連続だって?」
「Pさんはご存知なかったんですね。…まあ、私の知名度では無理もなかったかもしれません」
おいおい、聞いちゃいないぞ。
……それ以前に、どうして気づかなかった?
「一年目はユニットで出させてもらったので、多分わからなかったんだと思います」
「ああ、なるほど…そういうことか」
ゆかりの口から出たユニット名を鞄に入っていたタブレット端末で検索すると、確かに前回の合同フェスの序盤に参加していたという記事が見つかる。
前に合同フェスの招待についてちひろさんから伝えられた時、一応過去の開催模様などを調べたりしたが、どれも有名所ばかりで彼女のユニットが埋もれて見逃していたのかもしれない。
「それでも一年目から参加できるなんて……やっぱりゆかりは凄いな」
「……そう、ですね。…幸運だと思います」
――俺の耳元に届く声から、覇気が一瞬だけ消え去った。
「同じ…というと、ゆかりもか!?」
「はい。ファンの皆様のおかげで二年連続で出させて頂くことになりました」
マジか、と無意識に口から言葉が漏れる。
通常、合同フェスは開催日ニ週間前に初めて今年参加するアイドルが好評される。
秘密裏に教えてもらうこと自体にも驚いたが、ゆかりもまさか参加しているのだということが一番の驚きだった。
その間にウェイトレスが四つ切りの食パンで作られたサンドイッチとコーヒーを運んできたので、なんとか目線で礼を言う。
「二年連続だって?」
「Pさんはご存知なかったんですね。…まあ、私の知名度では無理もなかったかもしれません」
おいおい、聞いちゃいないぞ。
……それ以前に、どうして気づかなかった?
「一年目はユニットで出させてもらったので、多分わからなかったんだと思います」
「ああ、なるほど…そういうことか」
ゆかりの口から出たユニット名を鞄に入っていたタブレット端末で検索すると、確かに前回の合同フェスの序盤に参加していたという記事が見つかる。
前に合同フェスの招待についてちひろさんから伝えられた時、一応過去の開催模様などを調べたりしたが、どれも有名所ばかりで彼女のユニットが埋もれて見逃していたのかもしれない。
「それでも一年目から参加できるなんて……やっぱりゆかりは凄いな」
「……そう、ですね。…幸運だと思います」
――俺の耳元に届く声から、覇気が一瞬だけ消え去った。
294:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:25:24.13 :6zYDImijo
先程まで感じていた嬉々の混じった抑揚の声とは明らかに違う何かを察知する。
「……ああ、折角のオフなのに長電話して悪かったな」
「いえ! そういう訳じゃ……! …勘違いさせてすみません」
てっきり、つい今までやっていた作業を中断されたから少し不愉快に感じてしまっていたのかと思って話を切ろうとすると、慌てた声で今度は彼女が謝った。
…どうにも歯切れが悪い。
何やら彼女の中で俺の知らない物体が蠢いているのだろうか。
「実際長電話すぎたからね……俺もこれから仕事だから切るよ。話してくれてありがとう、ゆかり」
…しかし、それを追求することはできなかった。
藪をつついて蛇を出すことだってよくあることだし、何より俺が踏み込んで良い世界ではないと思ったからだ。
人には誰しも如何なる自称に対して悩みや憂いを持っていることだろう。
だが、それを解決するのは近しい人物だ。
それをするのはゆかりのプロデューサーの彼であって、俺ではない。
力になれるのなら何でもしてやりたいが、部外者の俺では到底務まらないだろう。
「…今日、時間はありますか?」
ふと、耳元でゆかりの声が聞こえる。
先程まで感じていた嬉々の混じった抑揚の声とは明らかに違う何かを察知する。
「……ああ、折角のオフなのに長電話して悪かったな」
「いえ! そういう訳じゃ……! …勘違いさせてすみません」
てっきり、つい今までやっていた作業を中断されたから少し不愉快に感じてしまっていたのかと思って話を切ろうとすると、慌てた声で今度は彼女が謝った。
…どうにも歯切れが悪い。
何やら彼女の中で俺の知らない物体が蠢いているのだろうか。
「実際長電話すぎたからね……俺もこれから仕事だから切るよ。話してくれてありがとう、ゆかり」
…しかし、それを追求することはできなかった。
藪をつついて蛇を出すことだってよくあることだし、何より俺が踏み込んで良い世界ではないと思ったからだ。
人には誰しも如何なる自称に対して悩みや憂いを持っていることだろう。
だが、それを解決するのは近しい人物だ。
それをするのはゆかりのプロデューサーの彼であって、俺ではない。
力になれるのなら何でもしてやりたいが、部外者の俺では到底務まらないだろう。
「…今日、時間はありますか?」
ふと、耳元でゆかりの声が聞こえる。
295:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:25:54.95 :6zYDImijo
俺もサンドイッチとコーヒーが冷めきる前に食べないとな、と回線を切るために耳元から電話を離しかけた時だった。
慌てて電話を耳に近づけ直すと、彼女の誘いを咀嚼する。
「今日? 昼の…そうだな、14時から夕方までなら空いてるぞ。何かあるのか?」
静かな声でそう訊かれたら、何かあると思わざるを得ない。
「ありがとうございます。…それなら、暇になり次第来て頂けませんか? ……私の家に」
驚きしか耳に入って来なかった。
何だって? 俺がゆかりの家に行くように誘われた?
「…すまん、それって本気か?」
「少しお話がしたくて……駄目でしょうか?」
電話越しで、彼女は小さく答えた。
それが、どうにも声色と言葉が翠に似ているような気がして。
「…わかった。遅れるかもしれないけど、終わり次第行くよ」
「ありがとうございます。住所はメールで送ります。…待ってます」
果たして俺の行動は正しかったのだろうか。
それを証明してくれるものは……隣に居ない。
コーヒーは、喧騒に揉まれて望まれた熱を既に失っていた。
俺もサンドイッチとコーヒーが冷めきる前に食べないとな、と回線を切るために耳元から電話を離しかけた時だった。
慌てて電話を耳に近づけ直すと、彼女の誘いを咀嚼する。
「今日? 昼の…そうだな、14時から夕方までなら空いてるぞ。何かあるのか?」
静かな声でそう訊かれたら、何かあると思わざるを得ない。
「ありがとうございます。…それなら、暇になり次第来て頂けませんか? ……私の家に」
驚きしか耳に入って来なかった。
何だって? 俺がゆかりの家に行くように誘われた?
「…すまん、それって本気か?」
「少しお話がしたくて……駄目でしょうか?」
電話越しで、彼女は小さく答えた。
それが、どうにも声色と言葉が翠に似ているような気がして。
「…わかった。遅れるかもしれないけど、終わり次第行くよ」
「ありがとうございます。住所はメールで送ります。…待ってます」
果たして俺の行動は正しかったのだろうか。
それを証明してくれるものは……隣に居ない。
コーヒーは、喧騒に揉まれて望まれた熱を既に失っていた。
296:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:26:41.79 :6zYDImijo
*
「まずは改めまして、翠ちゃんのフェス参加、おめでとうございます」
ゆかりの部屋に行って茶のもてなしを受けたあと、開口一番に彼女はそう言った。
――水本ゆかりの家。
なんとも落ち着いた家、というのが真っ先に浮かんできた感想だった。
ゆかりは翠と同じく地方からの出身だが、東京からは遠いので都内に部屋を借りて生活をしているようだ。
マンション内には同じ事務所の仲間も別の部屋で住んでいるらしいが、昼間というだけあって会うことは無く、スムーズにゆかりの部屋にたどり着くことができた。
中は、お世辞にも芸能人らしい広々とした豪華な部屋とは言えず、一人暮らしの大学生が借りるようなワンルームマンションと言った感じであった。
じろじろと周りを見渡すのは失礼なので、部屋に入るときに一瞥したところ、歳以上に落ち着いた雰囲気だと実感した。
観葉植物などのインテリア小物やCDコンポやフルートのケースなどの実際に使いそうなものまで綺麗に整頓されていることから、彼女の性格がよく見えてくる。
*
「まずは改めまして、翠ちゃんのフェス参加、おめでとうございます」
ゆかりの部屋に行って茶のもてなしを受けたあと、開口一番に彼女はそう言った。
――水本ゆかりの家。
なんとも落ち着いた家、というのが真っ先に浮かんできた感想だった。
ゆかりは翠と同じく地方からの出身だが、東京からは遠いので都内に部屋を借りて生活をしているようだ。
マンション内には同じ事務所の仲間も別の部屋で住んでいるらしいが、昼間というだけあって会うことは無く、スムーズにゆかりの部屋にたどり着くことができた。
中は、お世辞にも芸能人らしい広々とした豪華な部屋とは言えず、一人暮らしの大学生が借りるようなワンルームマンションと言った感じであった。
じろじろと周りを見渡すのは失礼なので、部屋に入るときに一瞥したところ、歳以上に落ち着いた雰囲気だと実感した。
観葉植物などのインテリア小物やCDコンポやフルートのケースなどの実際に使いそうなものまで綺麗に整頓されていることから、彼女の性格がよく見えてくる。
297:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:27:55.45 :6zYDImijo
「何だか恥ずかしいですね、こう…面と向き合ってお話するのは」
ゆかりは照れくさそうに頬を掻いた。
如何にもそうだろう、という風貌をしている。
まさに清楚…いや、どこかのご令嬢ではないだろうかという疑問さえ浮かんでくるほどの落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
似たような感じで翠も同様の雰囲気は感じるが、翠の方がやや幼く感じてしまう。
……まあ、そう思ってしまうのも全てあの異質な言動のせいなのかもしれない。
「俺も女の子の部屋に入るなんて今まで滅多になかったから同じ気持ちかもな」
「ではお互い様ですね……ふふ」
漏らすように笑うと、ゆかりも同様に小さく笑った。
やはり笑っている顔がいい。翠にせよゆかりにせよ、一番似合っていると俺は思う。
「ああ、そういえばこの前翠ちゃんと買い物に行った時のことなんですが――」
ゆかりは掌を叩くと、その時の戦利品を棚から取り出してテーブルに置いた。
用事などどこへいったと言わんばかりに、他愛もない話が咲き誇った。
「何だか恥ずかしいですね、こう…面と向き合ってお話するのは」
ゆかりは照れくさそうに頬を掻いた。
如何にもそうだろう、という風貌をしている。
まさに清楚…いや、どこかのご令嬢ではないだろうかという疑問さえ浮かんでくるほどの落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
似たような感じで翠も同様の雰囲気は感じるが、翠の方がやや幼く感じてしまう。
……まあ、そう思ってしまうのも全てあの異質な言動のせいなのかもしれない。
「俺も女の子の部屋に入るなんて今まで滅多になかったから同じ気持ちかもな」
「ではお互い様ですね……ふふ」
漏らすように笑うと、ゆかりも同様に小さく笑った。
やはり笑っている顔がいい。翠にせよゆかりにせよ、一番似合っていると俺は思う。
「ああ、そういえばこの前翠ちゃんと買い物に行った時のことなんですが――」
ゆかりは掌を叩くと、その時の戦利品を棚から取り出してテーブルに置いた。
用事などどこへいったと言わんばかりに、他愛もない話が咲き誇った。
298:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:28:46.96 :6zYDImijo
――それで、話っていうのは何なんだ?
雑談もそこそこに、俺は本題を切り出す。
「…あ、すみません。つい脱線してしまって…えと」
一応ひとつの話が終わった区切りのいい所で訊ねはしたが、あの時…電話越しのゆかりと同様に、少し歯切りの悪い感じが見受けられた。
「実は、フェスのお話で……Pさんが、私をすごいって言ってくれた事なんです」
容易く記憶が蘇る。
僅か数時間前の出来事だ。
扱いはどうであれ、一年目から合同フェスに参加できたという事に対して俺が言った『凄い』という言葉に関わる話らしい。
気づかずに俺は彼女を傷つけるような事を言ってしまったのか、と俺の発言を軽く回想してみても、それらしきものは何も見当たらなかった。
「…よくわからないんだけど、俺の言葉が気に触ったのならごめん。謝る」
貸してもらったクッションに座りながら、俺は頭を下げる。
――それで、話っていうのは何なんだ?
雑談もそこそこに、俺は本題を切り出す。
「…あ、すみません。つい脱線してしまって…えと」
一応ひとつの話が終わった区切りのいい所で訊ねはしたが、あの時…電話越しのゆかりと同様に、少し歯切りの悪い感じが見受けられた。
「実は、フェスのお話で……Pさんが、私をすごいって言ってくれた事なんです」
容易く記憶が蘇る。
僅か数時間前の出来事だ。
扱いはどうであれ、一年目から合同フェスに参加できたという事に対して俺が言った『凄い』という言葉に関わる話らしい。
気づかずに俺は彼女を傷つけるような事を言ってしまったのか、と俺の発言を軽く回想してみても、それらしきものは何も見当たらなかった。
「…よくわからないんだけど、俺の言葉が気に触ったのならごめん。謝る」
貸してもらったクッションに座りながら、俺は頭を下げる。
299:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:29:21.34 :6zYDImijo
「いや、そういうことじゃないんです! 頭をあげて下さい!」
すると、勢い強い声で彼女は否定する。
言葉のまま頭をあげると、体の前で手を振り回していた彼女が居た。
「…じゃあ、どういうことだ?」
どうにも主旨が読み取れない。
謝罪要求でもなければ何だというのだろう。
ただのお茶会であればあんな気落ちした声色で誘うことは変だし、あえてゆかりの部屋に誘った理由もよくわからなかった。
すう、はあ、とゆかりは胸に手を当てて、テーブル越しに深呼吸する。
まるで一世一代のプロポーズをするかのような仕草だ。
一体どんな言葉が出てくるのだろうか、と俺も唾を飲んで彼女の発言を待っていると、三回ほど深呼吸をしたゆかりは真剣な面持ちでこう言った。
――去年は、私の知る限り……最悪の日でした。
静かに語りだす彼女の声は、とてもじゃないがいつものそれではなかった。
「いや、そういうことじゃないんです! 頭をあげて下さい!」
すると、勢い強い声で彼女は否定する。
言葉のまま頭をあげると、体の前で手を振り回していた彼女が居た。
「…じゃあ、どういうことだ?」
どうにも主旨が読み取れない。
謝罪要求でもなければ何だというのだろう。
ただのお茶会であればあんな気落ちした声色で誘うことは変だし、あえてゆかりの部屋に誘った理由もよくわからなかった。
すう、はあ、とゆかりは胸に手を当てて、テーブル越しに深呼吸する。
まるで一世一代のプロポーズをするかのような仕草だ。
一体どんな言葉が出てくるのだろうか、と俺も唾を飲んで彼女の発言を待っていると、三回ほど深呼吸をしたゆかりは真剣な面持ちでこう言った。
――去年は、私の知る限り……最悪の日でした。
静かに語りだす彼女の声は、とてもじゃないがいつものそれではなかった。
300:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:30:32.99 :6zYDImijo
「私の所属している事務所はどんなところか…Pさんはご存知ですよね?」
「知っているも何も、超大手の芸能事務所じゃないか」
当たり前だと言わんばかりに答えてみせる。
事実、俺達の事務所とは比べ物にならないくらいの差がある程にゆかりの事務所は大規模だ。
「はい、その通りです。この業界では、こちらの事務所は有数といっても過言ではありません」
それは、調べようとすれば、テレビ番組には殆ど出演しているという結果が出るのではないかと現実的に思えてしまう位のものだ。
可愛らしい形の丸テーブルに用意したコップのお茶を少し飲んでから、彼女は言う。
「……ですが、それは私にとって利益であり、また不利益でもあったんです」
よく吟味してみるが、味を知るまでには味覚が到達しなかった。
所属する事務所が大きいと営業のパイプも無数に伸び、また太いので、多種多様のアイドル活動においてはこれ程重要なものはあまりない。
大手であればあるほどルートは正確になり、段階を踏んでいけばすぐに羽ばたいていける、そんな整備された階段を持っているものだ。
現に、口に出すつもりはないが、ゆかりだってそのパイプを知らないうちに利用しているのだろう。
「私の所属している事務所はどんなところか…Pさんはご存知ですよね?」
「知っているも何も、超大手の芸能事務所じゃないか」
当たり前だと言わんばかりに答えてみせる。
事実、俺達の事務所とは比べ物にならないくらいの差がある程にゆかりの事務所は大規模だ。
「はい、その通りです。この業界では、こちらの事務所は有数といっても過言ではありません」
それは、調べようとすれば、テレビ番組には殆ど出演しているという結果が出るのではないかと現実的に思えてしまう位のものだ。
可愛らしい形の丸テーブルに用意したコップのお茶を少し飲んでから、彼女は言う。
「……ですが、それは私にとって利益であり、また不利益でもあったんです」
よく吟味してみるが、味を知るまでには味覚が到達しなかった。
所属する事務所が大きいと営業のパイプも無数に伸び、また太いので、多種多様のアイドル活動においてはこれ程重要なものはあまりない。
大手であればあるほどルートは正確になり、段階を踏んでいけばすぐに羽ばたいていける、そんな整備された階段を持っているものだ。
現に、口に出すつもりはないが、ゆかりだってそのパイプを知らないうちに利用しているのだろう。
301:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:31:16.41 :6zYDImijo
では、彼女の言う不利益とは何なのだろうか。
ゆっくりと紡ぐように、ゆかりは語りだす。
「…私が一年目にフェスに出場できたのは、事務所の無理矢理なねじ込みが原因だったんです」
「ねじ込み?」
途端に嫌な影が見え隠れする。
「はい。…事務所内で次に売り出すアイドルは誰か、というのが上の方たちの中で会議したそうで、それに私が選ばれ、その結果、去年のフェスには無理を通す形での参加となりました」
この言葉だけで、俺でなくとも十分理解できた。
しかし、もういい、とは言い難かった。
…ゆかり自身がこれを吐露したかったのだろう。
口ぶりが次第に加速していくのがわかった。
「合同フェスは主にアイドルの舞台なんです。ただいつもと違うのは……音楽に対してファンが妥協しないという事」
俺は今年からこの業界に入ってきて、それまではアイドルなんて何も興味もなかったから、一年前に開催された前回のフェスは知らないし、このイベントの空気などもあまり理解できていない。
しかし、しかしだ。
恐らくではあるが、ゆかりはその中で持てる力を出しきって歌い、踊り、足元の覚束ないアウェーの中、必死で頑張ったのだろう。
では、彼女の言う不利益とは何なのだろうか。
ゆっくりと紡ぐように、ゆかりは語りだす。
「…私が一年目にフェスに出場できたのは、事務所の無理矢理なねじ込みが原因だったんです」
「ねじ込み?」
途端に嫌な影が見え隠れする。
「はい。…事務所内で次に売り出すアイドルは誰か、というのが上の方たちの中で会議したそうで、それに私が選ばれ、その結果、去年のフェスには無理を通す形での参加となりました」
この言葉だけで、俺でなくとも十分理解できた。
しかし、もういい、とは言い難かった。
…ゆかり自身がこれを吐露したかったのだろう。
口ぶりが次第に加速していくのがわかった。
「合同フェスは主にアイドルの舞台なんです。ただいつもと違うのは……音楽に対してファンが妥協しないという事」
俺は今年からこの業界に入ってきて、それまではアイドルなんて何も興味もなかったから、一年前に開催された前回のフェスは知らないし、このイベントの空気などもあまり理解できていない。
しかし、しかしだ。
恐らくではあるが、ゆかりはその中で持てる力を出しきって歌い、踊り、足元の覚束ないアウェーの中、必死で頑張ったのだろう。
302:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:32:00.44 :6zYDImijo
その結果。
「…私達を待っていたのは、批判でした」
心なしか、ゆかりの視線が下を向く。
これが、合同フェスが普段のライブと違う所以。
通常のライブであれば、自分の好きなアイドルの歌や踊りを見に行くのが理由なのに対して、合同フェスというのは少し独特の価値観があった。
それは、『アイドルだけ』にスポットライトがあたるのではなく、『アイドルが披露するパフォーマンス』に観客の焦点があてられる、ということだ。
合同フェスがその年人気になったアイドルを運営が厳選して参加資格を与えるのも、質の低い音楽を観客達に見せないため、という理由から来るのかもしれない。
あくまで推測でしかないが、そのイベントが年末の恒例行事とまで言われる程人気なのも、運営により実力が保証されたアイドル達だけが出てくるからなのだろう。
「流石に合同フェス中こそブーイングが起きることはありませんでしたが……その後は酷いものでした」
俯いたゆかりの唇が、きゅっと結ばれた。
その結果。
「…私達を待っていたのは、批判でした」
心なしか、ゆかりの視線が下を向く。
これが、合同フェスが普段のライブと違う所以。
通常のライブであれば、自分の好きなアイドルの歌や踊りを見に行くのが理由なのに対して、合同フェスというのは少し独特の価値観があった。
それは、『アイドルだけ』にスポットライトがあたるのではなく、『アイドルが披露するパフォーマンス』に観客の焦点があてられる、ということだ。
合同フェスがその年人気になったアイドルを運営が厳選して参加資格を与えるのも、質の低い音楽を観客達に見せないため、という理由から来るのかもしれない。
あくまで推測でしかないが、そのイベントが年末の恒例行事とまで言われる程人気なのも、運営により実力が保証されたアイドル達だけが出てくるからなのだろう。
「流石に合同フェス中こそブーイングが起きることはありませんでしたが……その後は酷いものでした」
俯いたゆかりの唇が、きゅっと結ばれた。
303:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:32:38.10 :6zYDImijo
「…インターネットか」
こくり、と頷くのが見えた。
言うなれば、舌の肥えた客が評判の良い料亭に行ったが出された料理が普通だった、ということなのだろう。
俺はインターネット上でそこまで深くアイドルについて語り合う書き込みをあまり見たことがないのではっきりとは解らない。
しかし、合同フェスという「良い者」だけが出てくるはずの場に新人…それも、事務所の方針で無理矢理入れられた者が紛れ込んだら、目と耳が肥えた観客達は何を思うか。
想像に、難くなかった。
どの世界にも過激な人間は居る。
その内、『目に見える形で』彼女達のユニットを批判した可能性も、十分に有り得る。
「…その件もありまして、当時組んでいたユニットのもう一人の方はアイドルを辞めてしまいました。そして、残されて弱り切った私の担当に新しく就いてくれたのが、今のプロデューサーなんです」
少し、ゆかりのプロデューサーの態度が理解できたような気がした。
その当時のゆかりは意気消沈し、歌やファンに対して恐怖感を抱くまでに陥ってしまったのかもしれない。
彼はそんな彼女の担当につき、厳しく指導することで立ち直らせることにしたのだろう。
傷を舐め合うことでは癒されない。むしろ、雑菌が入り込み、症状が悪化する。
ゆかりのプロデューサーはそう判断し、彼女に接したのだ。
「…インターネットか」
こくり、と頷くのが見えた。
言うなれば、舌の肥えた客が評判の良い料亭に行ったが出された料理が普通だった、ということなのだろう。
俺はインターネット上でそこまで深くアイドルについて語り合う書き込みをあまり見たことがないのではっきりとは解らない。
しかし、合同フェスという「良い者」だけが出てくるはずの場に新人…それも、事務所の方針で無理矢理入れられた者が紛れ込んだら、目と耳が肥えた観客達は何を思うか。
想像に、難くなかった。
どの世界にも過激な人間は居る。
その内、『目に見える形で』彼女達のユニットを批判した可能性も、十分に有り得る。
「…その件もありまして、当時組んでいたユニットのもう一人の方はアイドルを辞めてしまいました。そして、残されて弱り切った私の担当に新しく就いてくれたのが、今のプロデューサーなんです」
少し、ゆかりのプロデューサーの態度が理解できたような気がした。
その当時のゆかりは意気消沈し、歌やファンに対して恐怖感を抱くまでに陥ってしまったのかもしれない。
彼はそんな彼女の担当につき、厳しく指導することで立ち直らせることにしたのだろう。
傷を舐め合うことでは癒されない。むしろ、雑菌が入り込み、症状が悪化する。
ゆかりのプロデューサーはそう判断し、彼女に接したのだ。
304:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:33:42.97 :6zYDImijo
「だから、私は凄い訳じゃないんです。私のプロデューサーさんのおかげで立ち直っただけの…強くない人間なんです」
ぽつりとそう言うと、ゆかりはそっと口を閉じた。
彼女が俺をわざわざ呼び、思い出したくもない過去を晒したのは何故か。
――デジャヴ。
不意にそんな横文字が頭に浮かんだ。
「……ゆかりは、やっぱり凄いよ」
「いや、そんな…私は」
思いつく言葉を、俺はただ言う。
「だから、私は凄い訳じゃないんです。私のプロデューサーさんのおかげで立ち直っただけの…強くない人間なんです」
ぽつりとそう言うと、ゆかりはそっと口を閉じた。
彼女が俺をわざわざ呼び、思い出したくもない過去を晒したのは何故か。
――デジャヴ。
不意にそんな横文字が頭に浮かんだ。
「……ゆかりは、やっぱり凄いよ」
「いや、そんな…私は」
思いつく言葉を、俺はただ言う。
305:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:34:11.94 :6zYDImijo
「多分、ゆかりは今年の合同フェスにも参加することで、去年のリベンジをしたいという気持ちもあるんじゃないか?」
「それは……」
あの時こき下ろしてくれた観客たちに後悔させてやる。
少なからずそういった反骨心もあって立ち直り、今までやってきたのかもしれない。
それを果たす事で、彼への恩返しになると考えたのだろう。
では、そんな人間が今こうして過去の話など話す余裕があるのだろうか?
考えれば考える程、彼女の中に大きく存在する優しさが、静かに、ゆるやかに、俺の中に入ってくる。
「それなのに、翠が参加するという話を聞いてゆかりは危機感を覚えた。…一年前の自分と同じ境遇に翠がなってしまうんじゃないかという事に」
前回で植え付けられたトラウマも全く無い訳じゃない。
そして観客も、きっと彼女を実力不足という色眼鏡で見ることになる。
今年の合同フェスでは、きっと体に色んな重しをつけて舞台に上がることを余儀なくされる、間違いなく苦しいライブとなるだろう。
それでも、ゆかりは翠を心配した。
ゆかりは、翠が朽ちる姿を見たくないのだ。
「……ありがとう、ゆかり」
少し体をあげると、俺は自然にゆかりの頭を撫でていた。
「多分、ゆかりは今年の合同フェスにも参加することで、去年のリベンジをしたいという気持ちもあるんじゃないか?」
「それは……」
あの時こき下ろしてくれた観客たちに後悔させてやる。
少なからずそういった反骨心もあって立ち直り、今までやってきたのかもしれない。
それを果たす事で、彼への恩返しになると考えたのだろう。
では、そんな人間が今こうして過去の話など話す余裕があるのだろうか?
考えれば考える程、彼女の中に大きく存在する優しさが、静かに、ゆるやかに、俺の中に入ってくる。
「それなのに、翠が参加するという話を聞いてゆかりは危機感を覚えた。…一年前の自分と同じ境遇に翠がなってしまうんじゃないかという事に」
前回で植え付けられたトラウマも全く無い訳じゃない。
そして観客も、きっと彼女を実力不足という色眼鏡で見ることになる。
今年の合同フェスでは、きっと体に色んな重しをつけて舞台に上がることを余儀なくされる、間違いなく苦しいライブとなるだろう。
それでも、ゆかりは翠を心配した。
ゆかりは、翠が朽ちる姿を見たくないのだ。
「……ありがとう、ゆかり」
少し体をあげると、俺は自然にゆかりの頭を撫でていた。
306:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:34:51.99 :6zYDImijo
翠にやるようになって、抵抗感が薄れていた故の行動かもしれない。
しかし、こうまでして心配してくれたゆかりを見ていると、こうしなければいけない気がしたのだ。
「そこまでして翠を心配してくれて。翠と仲良くしてくれて。…君が居て良かった。君と知りあえて、本当に嬉しいよ」
彼女は恥を晒してでも、俺に教えてくれた。
新人のアイドルが合同フェスに挑むことが、どういう結果をもたらすのか。
まだ知らぬ俺と翠が、どんな感情を抱き、今後の道を選ぶのか。
他所の事務所の人間が相手でも構わずにゆかりは、翠を、俺を助けることを選択した。
何故ならば、翠の今まで歩んできた道のりが彼女のそれと錯覚したからだろう。
そして同じように弱り切って、もうこの世界から消えてしまったゆかりの相方のようになって欲しくない。
それだけのために、この時間を作り出したのだ。
す、す。
ゆったりとした動きで、頭頂から耳元へ、そっと手を動かす。
彼女は抵抗すること無く、されるがまま俺の行動を許していた。
翠にやるようになって、抵抗感が薄れていた故の行動かもしれない。
しかし、こうまでして心配してくれたゆかりを見ていると、こうしなければいけない気がしたのだ。
「そこまでして翠を心配してくれて。翠と仲良くしてくれて。…君が居て良かった。君と知りあえて、本当に嬉しいよ」
彼女は恥を晒してでも、俺に教えてくれた。
新人のアイドルが合同フェスに挑むことが、どういう結果をもたらすのか。
まだ知らぬ俺と翠が、どんな感情を抱き、今後の道を選ぶのか。
他所の事務所の人間が相手でも構わずにゆかりは、翠を、俺を助けることを選択した。
何故ならば、翠の今まで歩んできた道のりが彼女のそれと錯覚したからだろう。
そして同じように弱り切って、もうこの世界から消えてしまったゆかりの相方のようになって欲しくない。
それだけのために、この時間を作り出したのだ。
す、す。
ゆったりとした動きで、頭頂から耳元へ、そっと手を動かす。
彼女は抵抗すること無く、されるがまま俺の行動を許していた。
307:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:36:23.53 :6zYDImijo
五回、六回だろうか、少しの時間を置いて、ゆかりは口を再び開く。
「正直に言って、覚悟しないといけないかもしれません」
「え?」
突然の言葉に思わず手が離れる。
覚悟、というと、合同フェスのことだろうか。
「今回翠ちゃんに招待が来たのは、恐らく事務所の偉い人たちの目論見があってもおかしくないと私は思っています」
思えば、どうして大手の事務所からこんな小さな事務所に所属している翠に招待が来るのかを考えれば、邪推であっても答えは自ずと出てくる。
「…当て馬、ってことか」
「自分の所属する事務所を疑うつもりはありませんが…やり方として、十分に可能性は考えられます」
新人のゆかり達をフェスに無理矢理送り込んで活躍を計算するなどといった無謀な策を実行してしまうぐらい馬鹿げた上層部だ、そんなことを考えていても不思議ではない。
「今からでも辞退することはできませんか?」
ゆかりは後ろめたそうに問う。
実際、この合同フェスの参加者というのは、当日より少し前の特番で初めて世間に公表されることになっている。
いわゆるファンに対してのサプライズ演出、ということなのだろうか。
それとも、年末に起こるムーブメントまで見極めたいという運営の考えなのだろうか。
どちらにせよ、今現在において翠が合同フェスに参加することはまだ世間には知られていない。
五回、六回だろうか、少しの時間を置いて、ゆかりは口を再び開く。
「正直に言って、覚悟しないといけないかもしれません」
「え?」
突然の言葉に思わず手が離れる。
覚悟、というと、合同フェスのことだろうか。
「今回翠ちゃんに招待が来たのは、恐らく事務所の偉い人たちの目論見があってもおかしくないと私は思っています」
思えば、どうして大手の事務所からこんな小さな事務所に所属している翠に招待が来るのかを考えれば、邪推であっても答えは自ずと出てくる。
「…当て馬、ってことか」
「自分の所属する事務所を疑うつもりはありませんが…やり方として、十分に可能性は考えられます」
新人のゆかり達をフェスに無理矢理送り込んで活躍を計算するなどといった無謀な策を実行してしまうぐらい馬鹿げた上層部だ、そんなことを考えていても不思議ではない。
「今からでも辞退することはできませんか?」
ゆかりは後ろめたそうに問う。
実際、この合同フェスの参加者というのは、当日より少し前の特番で初めて世間に公表されることになっている。
いわゆるファンに対してのサプライズ演出、ということなのだろうか。
それとも、年末に起こるムーブメントまで見極めたいという運営の考えなのだろうか。
どちらにせよ、今現在において翠が合同フェスに参加することはまだ世間には知られていない。
308:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:37:41.62 :6zYDImijo
しかし。
「…それはできない」
去年のゆかりへの風当たりを考慮すれば、ここで潔く辞退して今後のアイドル活動への悪影響を避けるべきなのだろう。
だが、俺はこの事を伝えた時の翠の笑顔を見てしまった。
こんな巫山戯た格好で取り消しにしてしまっただなんて、言える訳がない。
現実的な問題を挙げれば、招待を蹴った形になって相手方の事務所との関係が悪くなってしまうという懸念もある。
それでも、進むと決めた。
翠なら、きっと成功できる。
疑問も批判も歓声に変えて、皆を魅了することができる。
お世辞でも贔屓でもなく、俺はそう思っていた。
「そう、ですか」
ゆかりはまた一つお茶を飲み、息を吐く。
「……では、翠ちゃんを支えてあげて下さい。私のようにならないように。お友達として……お願いします」
その表情は、親愛から来るものに違いない。
取引先の相手に頭を下げるような目つきではなく、それ以上の…心から思う、真摯な顔だった。
しかし。
「…それはできない」
去年のゆかりへの風当たりを考慮すれば、ここで潔く辞退して今後のアイドル活動への悪影響を避けるべきなのだろう。
だが、俺はこの事を伝えた時の翠の笑顔を見てしまった。
こんな巫山戯た格好で取り消しにしてしまっただなんて、言える訳がない。
現実的な問題を挙げれば、招待を蹴った形になって相手方の事務所との関係が悪くなってしまうという懸念もある。
それでも、進むと決めた。
翠なら、きっと成功できる。
疑問も批判も歓声に変えて、皆を魅了することができる。
お世辞でも贔屓でもなく、俺はそう思っていた。
「そう、ですか」
ゆかりはまた一つお茶を飲み、息を吐く。
「……では、翠ちゃんを支えてあげて下さい。私のようにならないように。お友達として……お願いします」
その表情は、親愛から来るものに違いない。
取引先の相手に頭を下げるような目つきではなく、それ以上の…心から思う、真摯な顔だった。
309:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/04(火) 20:38:53.04 :6zYDImijo
「わかってるよ。大丈夫」
「――わっ」
もう一度、ゆかりの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
こんな表情をされて、断れる人など居るはずがない。
元々断る権利もない。
俺にできることなら何だってしてみせる。
翠がこれからも活動していけるように。彼女の笑顔を守れるように。
そう伝えると、ゆかりは今日一番の朗らかな笑みを浮かべて、ポツリと呟く。
「…翠ちゃんの言うことがよくわかった気がします。何だかふわふわします」
……翠め、そんなことも話していたのか。
「わかってるよ。大丈夫」
「――わっ」
もう一度、ゆかりの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
こんな表情をされて、断れる人など居るはずがない。
元々断る権利もない。
俺にできることなら何だってしてみせる。
翠がこれからも活動していけるように。彼女の笑顔を守れるように。
そう伝えると、ゆかりは今日一番の朗らかな笑みを浮かべて、ポツリと呟く。
「…翠ちゃんの言うことがよくわかった気がします。何だかふわふわします」
……翠め、そんなことも話していたのか。
315:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:08:11.11 :kE10GcaOo
*
「キミが件の…いや、失礼」
都内のレッスンスタジオ。
休日にレッスンを行う場合にいつも使用している、青木さんが所属している会社のスタジオだ。
今日は年末に控えたフェスに向けての臨時トレーナーとの顔合わせと話し合いのためにここを訪れていた。
扉をノックして入ると、背中を向けていた女性がこちらを振り向く。
手にはメモが握られている。何かを考えていたのだろうか。
「おはようございます。初めてお目にかかります、彼女はシンデレラガールズプロダクション所属の水野翠で、私はそのプロデューサーです」
「水野翠です。これからよろしくお願いします」
名刺を渡すと共に頭を下げる。隣に居る翠も、綺麗に腰を曲げた。
「いや、妹から話は伺ってるよ。なかなかどうして、頑張ってるらしいじゃないか」
「ありがとうございま……妹って、まさかあなたは」
聞きなれない言葉に耳を疑う。
すると、女性は凛々しい笑みを浮かべて俺の言葉の続きを言った。
「その通り。多分妹から聞いているとは思うが、私は慶の姉の青木麗だ」
深々と青木さんのお姉さんは礼をする。形も美しく、風貌からしてベテランと言ったところである。
*
「キミが件の…いや、失礼」
都内のレッスンスタジオ。
休日にレッスンを行う場合にいつも使用している、青木さんが所属している会社のスタジオだ。
今日は年末に控えたフェスに向けての臨時トレーナーとの顔合わせと話し合いのためにここを訪れていた。
扉をノックして入ると、背中を向けていた女性がこちらを振り向く。
手にはメモが握られている。何かを考えていたのだろうか。
「おはようございます。初めてお目にかかります、彼女はシンデレラガールズプロダクション所属の水野翠で、私はそのプロデューサーです」
「水野翠です。これからよろしくお願いします」
名刺を渡すと共に頭を下げる。隣に居る翠も、綺麗に腰を曲げた。
「いや、妹から話は伺ってるよ。なかなかどうして、頑張ってるらしいじゃないか」
「ありがとうございま……妹って、まさかあなたは」
聞きなれない言葉に耳を疑う。
すると、女性は凛々しい笑みを浮かべて俺の言葉の続きを言った。
「その通り。多分妹から聞いているとは思うが、私は慶の姉の青木麗だ」
深々と青木さんのお姉さんは礼をする。形も美しく、風貌からしてベテランと言ったところである。
316:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:08:55.14 :kE10GcaOo
「わかりにくいだろうから私のことは気軽に麗と呼んでくれていい。これからたくさん時間を共にするわけだからな」
青木さんのお姉さん…もとい麗さんはそう言いつつ、翠を一瞥する。
「…ふむ、色々予定を先に話したいところだが、まずはキミにテストを受けてもらおうか」
「テスト…ですか?」
翠は素直に聞き返す。
「そうだ。まあテストと言っても、キミがどれくらいのレベルか測る目的のものだ。妹ともやったことがあるだろうから、それと同じと考えてくれていい」
メモを一度ポケットにしまうと、麗さんは部屋の中央に歩みつつ上着を脱ぐ。
下はランニングシャツを着用していて、隙間ないピッタリの服は彼女の持つ立派な肢体のラインをありのまま露わにしていた。
「翠、準備運動をしてからしっかりテストに臨むようにな」
「はい!」
ストレッチを始める麗さんを横目に、俺は着替えを促すと、翠は室内に設備として設けられている更衣室に入っていった。
そして着替え終わった翠はストレッチの後、麗さんによるテストを受けることとなった。
「わかりにくいだろうから私のことは気軽に麗と呼んでくれていい。これからたくさん時間を共にするわけだからな」
青木さんのお姉さん…もとい麗さんはそう言いつつ、翠を一瞥する。
「…ふむ、色々予定を先に話したいところだが、まずはキミにテストを受けてもらおうか」
「テスト…ですか?」
翠は素直に聞き返す。
「そうだ。まあテストと言っても、キミがどれくらいのレベルか測る目的のものだ。妹ともやったことがあるだろうから、それと同じと考えてくれていい」
メモを一度ポケットにしまうと、麗さんは部屋の中央に歩みつつ上着を脱ぐ。
下はランニングシャツを着用していて、隙間ないピッタリの服は彼女の持つ立派な肢体のラインをありのまま露わにしていた。
「翠、準備運動をしてからしっかりテストに臨むようにな」
「はい!」
ストレッチを始める麗さんを横目に、俺は着替えを促すと、翠は室内に設備として設けられている更衣室に入っていった。
そして着替え終わった翠はストレッチの後、麗さんによるテストを受けることとなった。
317:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:10:10.93 :kE10GcaOo
*
――絶望感。
一言でこの心境を素直に表すことが出来る言葉はこれ以外には存在しない。
「…今日は調子が悪いのか?」
彼女は…麗さんは、一瞬にしてこの空気の温度を氷点下にまで落とさせた。
テストとは、まずは普通に体の柔軟性をチェックしてから、麗さんが披露するパターン化したダンスを即興で覚えて踊る適応力と、教えてからダンスをさせる純粋な能力、そして動きながら歌を歌い続ける持続性を確かめることだった。
「い、いえ。万全です」
俺の目からすれば、今までの練習の成果を出した、申し分ない出来だったように思う。
「だとすれば……今からでも遅くない、参加を辞退しろ」
だが、麗さんからみれば、それは生まれたばかりの子馬のように見えたのだ。
翠の顔が、疲労以上に青ざめているのが明らかにわかった。
*
――絶望感。
一言でこの心境を素直に表すことが出来る言葉はこれ以外には存在しない。
「…今日は調子が悪いのか?」
彼女は…麗さんは、一瞬にしてこの空気の温度を氷点下にまで落とさせた。
テストとは、まずは普通に体の柔軟性をチェックしてから、麗さんが披露するパターン化したダンスを即興で覚えて踊る適応力と、教えてからダンスをさせる純粋な能力、そして動きながら歌を歌い続ける持続性を確かめることだった。
「い、いえ。万全です」
俺の目からすれば、今までの練習の成果を出した、申し分ない出来だったように思う。
「だとすれば……今からでも遅くない、参加を辞退しろ」
だが、麗さんからみれば、それは生まれたばかりの子馬のように見えたのだ。
翠の顔が、疲労以上に青ざめているのが明らかにわかった。
318:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:11:07.97 :kE10GcaOo
「ちょ、ちょっと麗さん!」
硬化した空気に足を抑えられつつも何とか抜けだした俺は、麗さんの前に言って手を広げて抗議する。
彼女は憮然とした表情で、…まるで地面に落ちた食べ物を見るような目で俺を見た。
「なんだい?」
ただひとつ、ポツリと彼女は訊く。
俺の意を汲んでいないのか?
……いや、わかっていて訊いているのだろう。
麗さんはベテランで、恐らく何度も合同フェスを間近で見てきただろうし、それに参加するアイドル達も担当してきたのだろう。
それで、過去の記憶や映像データと翠を比較して、そう言い放ったのだ。
確かに新人で、ベテランに比べたらまだまだ未熟な面もあるだろう。
しかし、それを指導し成功させるのがあなたの役目なのではないだろうか。
お前は落第だ。
彼女の目からは暗にそう言っているような気がして、俺の感情が一気にあちらこちらに振れる。
あなたに何がわかる。
あなたに翠の努力が一ミリでも理解できるのか。
俺が信じてきた翠というアイドルをさっと触れただけでこき下ろしたトレーナーの横暴な態度に、いっそのこと殴りかかってやろうか、という禁断の思いすら抱き始めようとした瞬間だった。
「それは、承知しています」
思考を放棄した俺が馬鹿であると思わざるを得ない程、背後に居た翠の声は、酷く落ち着いていた。
「ちょ、ちょっと麗さん!」
硬化した空気に足を抑えられつつも何とか抜けだした俺は、麗さんの前に言って手を広げて抗議する。
彼女は憮然とした表情で、…まるで地面に落ちた食べ物を見るような目で俺を見た。
「なんだい?」
ただひとつ、ポツリと彼女は訊く。
俺の意を汲んでいないのか?
……いや、わかっていて訊いているのだろう。
麗さんはベテランで、恐らく何度も合同フェスを間近で見てきただろうし、それに参加するアイドル達も担当してきたのだろう。
それで、過去の記憶や映像データと翠を比較して、そう言い放ったのだ。
確かに新人で、ベテランに比べたらまだまだ未熟な面もあるだろう。
しかし、それを指導し成功させるのがあなたの役目なのではないだろうか。
お前は落第だ。
彼女の目からは暗にそう言っているような気がして、俺の感情が一気にあちらこちらに振れる。
あなたに何がわかる。
あなたに翠の努力が一ミリでも理解できるのか。
俺が信じてきた翠というアイドルをさっと触れただけでこき下ろしたトレーナーの横暴な態度に、いっそのこと殴りかかってやろうか、という禁断の思いすら抱き始めようとした瞬間だった。
「それは、承知しています」
思考を放棄した俺が馬鹿であると思わざるを得ない程、背後に居た翠の声は、酷く落ち着いていた。
319:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:11:34.88 :kE10GcaOo
「そうか、なら話が早い。今なら先方にも間に合うから、辞退の連絡を――」
その時だった。
耳をつんざくような高音が、周囲の空気を激しく振動させる。
テストを受けての麗さんの評価に対し、ただ彼女は叫んだのだ。
お願いします、と。
「そうか、なら話が早い。今なら先方にも間に合うから、辞退の連絡を――」
その時だった。
耳をつんざくような高音が、周囲の空気を激しく振動させる。
テストを受けての麗さんの評価に対し、ただ彼女は叫んだのだ。
お願いします、と。
320:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:12:25.17 :kE10GcaOo
流石のベテランも、突然の大声には呆気に取られたのだろう、少し目を見開いて、俺の背後を…頭を下げる翠を見ていた。
「…重々承知しています。私がまだ一年目のアイドルで、合同フェスに参加するような技量もあなたが見てきた中で最低なのかもしれません」
「自己評価はできているようだな。なら――」
「ですが!」
麗さんの声を打ち消すかのごとく反応し、頭をあげる。
「目の前に現れた道を、ただ呆然と眺めているだけのアイドルでありたくはないんです。機会を差し伸べてくださった方、期待してくださった方、その気持ちに応えるためにも私はやりたいんです。……お願いします」
先ほどの空気が震えるような強い声とはうってかわって、静かな声で翠が語る。
俺がやるべき姿を、翠が代わりにやっていた。
写し身のような行動だ。
酷く否定されたことを意に介さず、ただ頭を下げて、ひたすら懇願する。
客観的に見れば哀れにも見えるだろう。
しかし、翠は自分を見失っていない。
大舞台で歌うという目標を前にして現れた問題から、逃げようとはしなかった。
「…麗さん。お願いします」
完全に収まった気持ちになった俺もお願いをする。
現状駄目だからといってそこで諦めては、絶対に上に行くことはできない。
せっかく色々な縁あって到達できるチャンスを得た今を、ふいにはしたくない。
翠と俺の気持ちは、確実にひとつになっていた。
流石のベテランも、突然の大声には呆気に取られたのだろう、少し目を見開いて、俺の背後を…頭を下げる翠を見ていた。
「…重々承知しています。私がまだ一年目のアイドルで、合同フェスに参加するような技量もあなたが見てきた中で最低なのかもしれません」
「自己評価はできているようだな。なら――」
「ですが!」
麗さんの声を打ち消すかのごとく反応し、頭をあげる。
「目の前に現れた道を、ただ呆然と眺めているだけのアイドルでありたくはないんです。機会を差し伸べてくださった方、期待してくださった方、その気持ちに応えるためにも私はやりたいんです。……お願いします」
先ほどの空気が震えるような強い声とはうってかわって、静かな声で翠が語る。
俺がやるべき姿を、翠が代わりにやっていた。
写し身のような行動だ。
酷く否定されたことを意に介さず、ただ頭を下げて、ひたすら懇願する。
客観的に見れば哀れにも見えるだろう。
しかし、翠は自分を見失っていない。
大舞台で歌うという目標を前にして現れた問題から、逃げようとはしなかった。
「…麗さん。お願いします」
完全に収まった気持ちになった俺もお願いをする。
現状駄目だからといってそこで諦めては、絶対に上に行くことはできない。
せっかく色々な縁あって到達できるチャンスを得た今を、ふいにはしたくない。
翠と俺の気持ちは、確実にひとつになっていた。
321:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:16:49.10 :kE10GcaOo
「……よく言った」
限りなく長く思えた地面とのにらめっこも、麗さんの一言で終了を迎える。
「では、翠を――!」
「勿論だ。ここで逃げ出すなら本当にそうしていたが、そこまでいうなら私も喜んで付き合おうじゃないか」
ポケットの中のメモを取り出して、何かを確認する。
「いいか、翠。少しでも投げ出すような素振りを見せたら、すぐにでもレッスンを止めるぞ。それぐらいキミの実力はあの舞台に立つアイドルのそれと乖離している事を理解しないといけない」
強く、麗さんは言う。
否定したくもなるが、決して妄言でも脅迫でもない。れっきとした事実だ。
だから彼女は言う。
フェスに泥を塗る様な姿は許さない、と。
「わかっています。その基準を超えるために、あなたが絶対に必要なんです。よろしくお願いします」
そして、翠は応える。
絶対にそうはさせない、と。
ふふ、と笑った麗さんの顔が、酷く狡猾に見えた。
「……よく言った」
限りなく長く思えた地面とのにらめっこも、麗さんの一言で終了を迎える。
「では、翠を――!」
「勿論だ。ここで逃げ出すなら本当にそうしていたが、そこまでいうなら私も喜んで付き合おうじゃないか」
ポケットの中のメモを取り出して、何かを確認する。
「いいか、翠。少しでも投げ出すような素振りを見せたら、すぐにでもレッスンを止めるぞ。それぐらいキミの実力はあの舞台に立つアイドルのそれと乖離している事を理解しないといけない」
強く、麗さんは言う。
否定したくもなるが、決して妄言でも脅迫でもない。れっきとした事実だ。
だから彼女は言う。
フェスに泥を塗る様な姿は許さない、と。
「わかっています。その基準を超えるために、あなたが絶対に必要なんです。よろしくお願いします」
そして、翠は応える。
絶対にそうはさせない、と。
ふふ、と笑った麗さんの顔が、酷く狡猾に見えた。
322:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:17:56.62 :kE10GcaOo
*
「元々、断るつもりはなかったよ」
わずかに与えられた休憩時間中、麗さんは共に廊下に出て俺にそう言った。
「契約だからですか?」
ちひろさんが青木さん達の所属する会社と契約しているため、俯瞰して考えれば雇われの身である以上、断る権限はどこにも存在していない。
それを承知しての言動なのだろうか、と疑問に思う。
「無論それもあるがね。流石に初対面で相手の人間性を測るのは難しいから」
スポーツドリンクを少し体内に落としこみ、息を吐く。
つまるところ、あの言動すらも彼女によるテストの続きだったのだ。
これを行ったのが麗さんでなければ、きっと怒りに身を任せていただろう。
「もしそれで翠があなたの思い通りにいかなければ、どうするつもりだったんです」
「そこで終わり。実力がないのなら、必要になるのはやる気だけだからね」
俺の問いに、彼女はあっけらかんと答えてみせた。
少しでも考える素振りを見せると思っていた俺は唖然としてしまう。
*
「元々、断るつもりはなかったよ」
わずかに与えられた休憩時間中、麗さんは共に廊下に出て俺にそう言った。
「契約だからですか?」
ちひろさんが青木さん達の所属する会社と契約しているため、俯瞰して考えれば雇われの身である以上、断る権限はどこにも存在していない。
それを承知しての言動なのだろうか、と疑問に思う。
「無論それもあるがね。流石に初対面で相手の人間性を測るのは難しいから」
スポーツドリンクを少し体内に落としこみ、息を吐く。
つまるところ、あの言動すらも彼女によるテストの続きだったのだ。
これを行ったのが麗さんでなければ、きっと怒りに身を任せていただろう。
「もしそれで翠があなたの思い通りにいかなければ、どうするつもりだったんです」
「そこで終わり。実力がないのなら、必要になるのはやる気だけだからね」
俺の問いに、彼女はあっけらかんと答えてみせた。
少しでも考える素振りを見せると思っていた俺は唖然としてしまう。
323:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:18:52.65 :kE10GcaOo
「これだってちひろとの約束だったからな。『あなたが見て、良ければお願いします』だなんてよく言うもんだ」
くつくつと笑い、麗さんは手を広げてみせた。
おかしな話だ、と即座に俺は訝しむ。
そもそもこれは契約の話だろう。普通であれば…とりわけ彼女のようなトレーナーを雇い派遣する形の企業形態であれば、基本的な相談や交渉といったものはトレーナー本人に対してではなく、会社の管理をする人間が決める話だ。
そこで決められた大まかなギャランティと契約期間の間で顧客と細かい打ち合わせをしていくのが当然だと思っていたが、どうやら彼女の話によれば違うらしい。
考えれば考える程訳がわからなくなってくるが、それ以前に大きな疑問符が頭上に浮かぶ。
「…ちひろ?」
どうして麗さんはちひろさんの事を親しげに呼び捨てて話すのだろうか。
「これだってちひろとの約束だったからな。『あなたが見て、良ければお願いします』だなんてよく言うもんだ」
くつくつと笑い、麗さんは手を広げてみせた。
おかしな話だ、と即座に俺は訝しむ。
そもそもこれは契約の話だろう。普通であれば…とりわけ彼女のようなトレーナーを雇い派遣する形の企業形態であれば、基本的な相談や交渉といったものはトレーナー本人に対してではなく、会社の管理をする人間が決める話だ。
そこで決められた大まかなギャランティと契約期間の間で顧客と細かい打ち合わせをしていくのが当然だと思っていたが、どうやら彼女の話によれば違うらしい。
考えれば考える程訳がわからなくなってくるが、それ以前に大きな疑問符が頭上に浮かぶ。
「…ちひろ?」
どうして麗さんはちひろさんの事を親しげに呼び捨てて話すのだろうか。
325:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:21:09.09 :kE10GcaOo
「――いや、どうでもいい話だね」
「どういうことですか?」
麗さんは言いかけていた言葉を取り消して再び飲み物を口に運んだ。
「キミが知っても意味はないよ。それに、私が話すのは悪いだろう」
一体どういうことなのだろうか。
その後は訊ねても茶を濁すばかりで明確な回答は帰ってこず、そのまま休憩時間を終えて練習再開となってしまった。
俺は現状ですら器から色々なものが零れ落ちそうな程キャパシティに余裕が無い。
翠に出会えてからは月日を忘れ我武者羅に動いて彼女のためにやってきたつもりだ。
それがひいては事務所のためになっていると信じている。
……もしかしたら、何か見落としているのか?
自身に突き詰めてみても、一向に結論は導き出されなかった。
「――いや、どうでもいい話だね」
「どういうことですか?」
麗さんは言いかけていた言葉を取り消して再び飲み物を口に運んだ。
「キミが知っても意味はないよ。それに、私が話すのは悪いだろう」
一体どういうことなのだろうか。
その後は訊ねても茶を濁すばかりで明確な回答は帰ってこず、そのまま休憩時間を終えて練習再開となってしまった。
俺は現状ですら器から色々なものが零れ落ちそうな程キャパシティに余裕が無い。
翠に出会えてからは月日を忘れ我武者羅に動いて彼女のためにやってきたつもりだ。
それがひいては事務所のためになっていると信じている。
……もしかしたら、何か見落としているのか?
自身に突き詰めてみても、一向に結論は導き出されなかった。
326:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:21:51.13 :kE10GcaOo
練習しているであろうレッスンルームに戻ると、柔和な笑みを浮かべて指導にあたる麗さんの姿があった。
翠も先程のイメージとは全く違って困惑しただろうが、麗さんの言っていることは本当なのだ、鏡に映る彼女の顔つきは必死そのものであった。
やはりそうなったのも先の啖呵の影響だろう。
麗さんは翠の一挙一動を見て、余すところなく指導をしているように見えた。
まずは第一関門突破、というところか。
全く麗さんの『テスト』には困ったものだ、と独りごちる。
「…頑張れ」
結局、遠巻きに見ている俺ができるのは応援をすることだけだ。
一体俺はその間、彼女に何をしてやれるのだろう。
どんな助けが俺にできるのだろう。
この時、俺の中で募るもどかしさは一層渦巻いていた。
練習しているであろうレッスンルームに戻ると、柔和な笑みを浮かべて指導にあたる麗さんの姿があった。
翠も先程のイメージとは全く違って困惑しただろうが、麗さんの言っていることは本当なのだ、鏡に映る彼女の顔つきは必死そのものであった。
やはりそうなったのも先の啖呵の影響だろう。
麗さんは翠の一挙一動を見て、余すところなく指導をしているように見えた。
まずは第一関門突破、というところか。
全く麗さんの『テスト』には困ったものだ、と独りごちる。
「…頑張れ」
結局、遠巻きに見ている俺ができるのは応援をすることだけだ。
一体俺はその間、彼女に何をしてやれるのだろう。
どんな助けが俺にできるのだろう。
この時、俺の中で募るもどかしさは一層渦巻いていた。
327:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:23:01.63 :kE10GcaOo
*
――大丈夫か、翠。
初日のレッスンを終えてちひろさんの実家に送る前に、俺達はふと事務所に寄っていた。
既にちひろさんは帰宅を済ませており、今この暗い部屋には二人しか居ない。
「はい、大丈夫です。行けます」
対する翠は、あれほどのレッスンを終えてなお意欲を見せていた。
尽きることのない意志。消えることのない魂。
彼女を構成する要素に、一体神様は何を混ぜたのだろう。
本来であればそのまま直帰させるのがベストな選択肢なのだろうが、俺に何ができるかを考えた時、ひとつだけ思いついたのだ。
俺は暗い事務所の電気をつけてから彼女のためのお茶を用意する一方、パソコンの電源を入れる。
その間に引き出しから例のCDを机の上に置いた。
「翠、ちょっと来てくれないか」
何の用なのだろう、といった表情の翠は、手招きする俺の元…パソコンの隣にやってきたので、ちひろさんのデスクの椅子の車輪を転がして翠に寄越した。
*
――大丈夫か、翠。
初日のレッスンを終えてちひろさんの実家に送る前に、俺達はふと事務所に寄っていた。
既にちひろさんは帰宅を済ませており、今この暗い部屋には二人しか居ない。
「はい、大丈夫です。行けます」
対する翠は、あれほどのレッスンを終えてなお意欲を見せていた。
尽きることのない意志。消えることのない魂。
彼女を構成する要素に、一体神様は何を混ぜたのだろう。
本来であればそのまま直帰させるのがベストな選択肢なのだろうが、俺に何ができるかを考えた時、ひとつだけ思いついたのだ。
俺は暗い事務所の電気をつけてから彼女のためのお茶を用意する一方、パソコンの電源を入れる。
その間に引き出しから例のCDを机の上に置いた。
「翠、ちょっと来てくれないか」
何の用なのだろう、といった表情の翠は、手招きする俺の元…パソコンの隣にやってきたので、ちひろさんのデスクの椅子の車輪を転がして翠に寄越した。
328:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:23:55.23 :kE10GcaOo
「なんですか、これ?」
傷ついたケースから何のラベルも印刷されていない簡素なCDを取り出すと、パソコンに挿入する。
「ん、もうすぐわかるさ」
鈍い音とともに画面上に現れる音楽プレイヤー。
まるで今の翠はちょっと前の俺のようだ。
この存在に訝しんでいるのが何だか少し微笑ましかった。
「準備完了。じゃ、聞いてくれ――」
特にためらうこと無く、再生ボタンをクリックすると、俺があの時聞いた音が今一度部屋に響き渡った。
「なんですか、これ?」
傷ついたケースから何のラベルも印刷されていない簡素なCDを取り出すと、パソコンに挿入する。
「ん、もうすぐわかるさ」
鈍い音とともに画面上に現れる音楽プレイヤー。
まるで今の翠はちょっと前の俺のようだ。
この存在に訝しんでいるのが何だか少し微笑ましかった。
「準備完了。じゃ、聞いてくれ――」
特にためらうこと無く、再生ボタンをクリックすると、俺があの時聞いた音が今一度部屋に響き渡った。
329:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:24:39.92 :kE10GcaOo
あの時は昼。今は夜。
夜景の中に光がぼんやりと浮かぶようなこの部屋だから、この歌はより一層感情を励起させてくれる。
「翠はこの歌を、どう思う?」
エレキギターがさながらピアノのように落ち着いた旋律を流し、ドラムが一秒以下の世界を刻んでいる。
「…もしかして、これは」
状況や因果が理解らぬ彼女ではない。
少しだけ目を大きく見開いて、口を開く。
俺が翠にできること。
それは、ちょっとだけ早い鑑賞会だった。
本当であれば、麗さんのレッスンが翠の身に馴染んできた所でレコーディングの練習を始めるという予定だったが、一足先に聞かせてやることにした。
当然ちひろさんや麗さんには内緒である。
あの時は昼。今は夜。
夜景の中に光がぼんやりと浮かぶようなこの部屋だから、この歌はより一層感情を励起させてくれる。
「翠はこの歌を、どう思う?」
エレキギターがさながらピアノのように落ち着いた旋律を流し、ドラムが一秒以下の世界を刻んでいる。
「…もしかして、これは」
状況や因果が理解らぬ彼女ではない。
少しだけ目を大きく見開いて、口を開く。
俺が翠にできること。
それは、ちょっとだけ早い鑑賞会だった。
本当であれば、麗さんのレッスンが翠の身に馴染んできた所でレコーディングの練習を始めるという予定だったが、一足先に聞かせてやることにした。
当然ちひろさんや麗さんには内緒である。
330:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:25:26.32 :kE10GcaOo
「不思議な…声ですね」
「声?」
静かだった部屋の中に、燦々と鳴り響く歌を聞いていると、翠はぽつりと呟いた。
曲調ではなく、翠はこれを歌っている女性のボーカルに感想を抱いた。
「Pさんはこの方が誰か知っているんですか?」
「いや、全く。ちひろさんも教えてくれないしな」
正直に答えると、そうですか、と静かに返される。
「とっても思い入れのあるような、綺麗な歌声ですね。この曲を私が歌えるのなら、是非とも直接ご指導願いたいものです」
ちひろさんは、この曲を演劇的な歌い方が必要だと言っていた。
それは純粋に歌を歌う能力以外に歌に感情をやや過剰気味に込める事が大事だということだ。
CDの中の女性は、まさしくその言葉を体現したような歌声だったのである。
「不思議な…声ですね」
「声?」
静かだった部屋の中に、燦々と鳴り響く歌を聞いていると、翠はぽつりと呟いた。
曲調ではなく、翠はこれを歌っている女性のボーカルに感想を抱いた。
「Pさんはこの方が誰か知っているんですか?」
「いや、全く。ちひろさんも教えてくれないしな」
正直に答えると、そうですか、と静かに返される。
「とっても思い入れのあるような、綺麗な歌声ですね。この曲を私が歌えるのなら、是非とも直接ご指導願いたいものです」
ちひろさんは、この曲を演劇的な歌い方が必要だと言っていた。
それは純粋に歌を歌う能力以外に歌に感情をやや過剰気味に込める事が大事だということだ。
CDの中の女性は、まさしくその言葉を体現したような歌声だったのである。
331:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:25:57.33 :kE10GcaOo
ただただ翠は曲を耳に入れる。
音階一つ楽器一つそれぞれを理解して聞いているようだった。
曲は更に進み、時間が少し跳んだところでようやく音楽の再生が停止する。
シークバーが初期の位置に戻るのは、この曲が終わった証拠だ。
先程まで流れていた音楽のある部屋が不意に静寂に包まれ、耳に少し違和感が残る。
翠を見ると、目を閉じて何かを考えているように見えた。
それは、本当に合同フェスに出たい。
出て、満足のいくパフォーマンスをしたい。
たくさんの人に自分の歌声を聞いて欲しい。
そういった願いが彼女の仕草によって顕現されていた。
翠の表情を見た時、俺は今更ながら『彼女はもうプロなんだ』と思ってしまった。
ただただ翠は曲を耳に入れる。
音階一つ楽器一つそれぞれを理解して聞いているようだった。
曲は更に進み、時間が少し跳んだところでようやく音楽の再生が停止する。
シークバーが初期の位置に戻るのは、この曲が終わった証拠だ。
先程まで流れていた音楽のある部屋が不意に静寂に包まれ、耳に少し違和感が残る。
翠を見ると、目を閉じて何かを考えているように見えた。
それは、本当に合同フェスに出たい。
出て、満足のいくパフォーマンスをしたい。
たくさんの人に自分の歌声を聞いて欲しい。
そういった願いが彼女の仕草によって顕現されていた。
翠の表情を見た時、俺は今更ながら『彼女はもうプロなんだ』と思ってしまった。
332:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:27:04.02 :kE10GcaOo
「…俺はさ。この曲を初めて聞いた時、『本当に翠が適しているのか』って疑問に思ったんだよ」
しかし、いくら翠が練習に対して真剣に取り組める人間であったとしてもだ、心の何処かで不安や恐怖を抱えている事は以前で十分に理解している。
彼女はもはやプロそのものだ。だが、彼女はただの少女なのだ。
「でも何度も聞いていると、今度は翠にこそこれが歌えるんだ、って思うようになったんだ」
これからは、恐らく奈落の底に向かって突き進んでいくことになる。
だから、手元にだけは光を持っていて欲しい。
「この女性の声じゃなく、翠の声でこの歌が聞いてみたい。…俺の願い、聞いてくれるか」
曲が、俺の言葉が、彼女に良いモチベーションたる影響を与えられるのなら。
そういう意味で、今日の鑑賞会を開いたのだった。
「…俺はさ。この曲を初めて聞いた時、『本当に翠が適しているのか』って疑問に思ったんだよ」
しかし、いくら翠が練習に対して真剣に取り組める人間であったとしてもだ、心の何処かで不安や恐怖を抱えている事は以前で十分に理解している。
彼女はもはやプロそのものだ。だが、彼女はただの少女なのだ。
「でも何度も聞いていると、今度は翠にこそこれが歌えるんだ、って思うようになったんだ」
これからは、恐らく奈落の底に向かって突き進んでいくことになる。
だから、手元にだけは光を持っていて欲しい。
「この女性の声じゃなく、翠の声でこの歌が聞いてみたい。…俺の願い、聞いてくれるか」
曲が、俺の言葉が、彼女に良いモチベーションたる影響を与えられるのなら。
そういう意味で、今日の鑑賞会を開いたのだった。
333:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:27:50.29 :kE10GcaOo
「…当たり前じゃないですか」
パソコンのファンの音だけが事務所に漂っている中、翠はぽつりと口を開いた。
「せっかくPさんが私に渡してくれた曲を、無下にするなんて事はしたくありません」
その言葉の中にあるのは、揺るぎない絆めいた感情。
たかが仕事の関係と言ってしまえばそれだけであるが、水野翠という人間にとって俺という存在はどれほどの価値を見出しているのだろうか。
かつてしてきた俺の選択は正しかったか。より広い道に導くことは出来たのか。
「何より、それがPさんの願いなら……絶対に叶えてみせます」
彼女と接していく中で常にあらゆる不安に苛まれてきた俺は、翠の答えこそが唯一の標識なのだと感じた。
「…当たり前じゃないですか」
パソコンのファンの音だけが事務所に漂っている中、翠はぽつりと口を開いた。
「せっかくPさんが私に渡してくれた曲を、無下にするなんて事はしたくありません」
その言葉の中にあるのは、揺るぎない絆めいた感情。
たかが仕事の関係と言ってしまえばそれだけであるが、水野翠という人間にとって俺という存在はどれほどの価値を見出しているのだろうか。
かつてしてきた俺の選択は正しかったか。より広い道に導くことは出来たのか。
「何より、それがPさんの願いなら……絶対に叶えてみせます」
彼女と接していく中で常にあらゆる不安に苛まれてきた俺は、翠の答えこそが唯一の標識なのだと感じた。
334:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:28:17.63 :kE10GcaOo
*
「残念だけどこのCDは今は渡せない。麗さんの思うタイミングで渡されるだろうから、その時まで楽しみにしておいてくれ」
「はい、それまでずっと練習に励みます」
あまり夜の事務所に長居することは褒められたことではないので、俺達は早々と退出し、夜の道路を車で走っていた。
ちひろさんの実家は事務所から歩いてもさほど遠いという距離ではないが、夜という時間帯に加えこの下がりつつある気温では体調に悪い影響を与えかねないので、念のための処置だった。
古い社用車の暖房をつけると、効果があるのかないのかよくわからない空気が車内に吹き込まれる。
だがそんなすぐには暖かくならないので、翠の格好は外に出た時と同じく学校で普段着用しているらしいコートと手袋姿である。
それが、より彼女を普通の少女めいた姿にしてくれていた。
*
「残念だけどこのCDは今は渡せない。麗さんの思うタイミングで渡されるだろうから、その時まで楽しみにしておいてくれ」
「はい、それまでずっと練習に励みます」
あまり夜の事務所に長居することは褒められたことではないので、俺達は早々と退出し、夜の道路を車で走っていた。
ちひろさんの実家は事務所から歩いてもさほど遠いという距離ではないが、夜という時間帯に加えこの下がりつつある気温では体調に悪い影響を与えかねないので、念のための処置だった。
古い社用車の暖房をつけると、効果があるのかないのかよくわからない空気が車内に吹き込まれる。
だがそんなすぐには暖かくならないので、翠の格好は外に出た時と同じく学校で普段着用しているらしいコートと手袋姿である。
それが、より彼女を普通の少女めいた姿にしてくれていた。
335:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:29:41.81 :kE10GcaOo
予定では、一週間程度で基礎体力を麗さんの望む通りに仕上げ、その後にCDを聞かせてレコーディングとライブ用のパフォーマンスの練習をする事になっている。
一悶着あった初日も、結果的に麗さんの思惑通りという訳ではあったが無事終了した。
モチベーションも十分だし、これなら良い状態で明日を迎えることができるだろう。
「あの、Pさん」
仕事面でも彼女の負担にならない程度に組まないとな、とハンドルを握りながら考えていると、翠は運転する俺を見て切り出す。
「どうした、寒いか?」
暖房のツマミを回して強くしてやると、いえ、違うんです、と否定される。
「…これからはしばらく学校も休みがちになるんですよね」
改めて聞かされたその声には、若干の揺れが含まれていた。
彼女の言う通りで、前回以上に詰め込んでレッスンを行うためにやむを得ず学校を休む日を多くすることに決まっていた。
当然仕事に関しても減らす、あるいは麗さんの休養日に合わせて行うようにし、レッスンの時間を削る事のないようにしなければならない。
なので、フェス後もスムーズに以前の仕事のペースに戻りやすいように営業は普段以上に行わなければならず、今まで通り翠に常に付きそうような形は取り辛くなってしまう。
これからは俺は営業、翠はレッスンと別行動をする時間が多くなるだろう。
その間、きっと孤独感といったものが彼女に襲いかかる。
単身東京に出てきた翠にとって、親しい人物は俺とちひろさんとその家族、そしてゆかりだけだからだ。
地元であれば、俺やちひろさんが居なくても学友が居たから何も問題はなかったが、これからは違う。
俺も仕事の付き添いであったり、レッスンでも一日一回は必ず顔を出すなりして和らげる努力は行うつもりではいるが……。
予定では、一週間程度で基礎体力を麗さんの望む通りに仕上げ、その後にCDを聞かせてレコーディングとライブ用のパフォーマンスの練習をする事になっている。
一悶着あった初日も、結果的に麗さんの思惑通りという訳ではあったが無事終了した。
モチベーションも十分だし、これなら良い状態で明日を迎えることができるだろう。
「あの、Pさん」
仕事面でも彼女の負担にならない程度に組まないとな、とハンドルを握りながら考えていると、翠は運転する俺を見て切り出す。
「どうした、寒いか?」
暖房のツマミを回して強くしてやると、いえ、違うんです、と否定される。
「…これからはしばらく学校も休みがちになるんですよね」
改めて聞かされたその声には、若干の揺れが含まれていた。
彼女の言う通りで、前回以上に詰め込んでレッスンを行うためにやむを得ず学校を休む日を多くすることに決まっていた。
当然仕事に関しても減らす、あるいは麗さんの休養日に合わせて行うようにし、レッスンの時間を削る事のないようにしなければならない。
なので、フェス後もスムーズに以前の仕事のペースに戻りやすいように営業は普段以上に行わなければならず、今まで通り翠に常に付きそうような形は取り辛くなってしまう。
これからは俺は営業、翠はレッスンと別行動をする時間が多くなるだろう。
その間、きっと孤独感といったものが彼女に襲いかかる。
単身東京に出てきた翠にとって、親しい人物は俺とちひろさんとその家族、そしてゆかりだけだからだ。
地元であれば、俺やちひろさんが居なくても学友が居たから何も問題はなかったが、これからは違う。
俺も仕事の付き添いであったり、レッスンでも一日一回は必ず顔を出すなりして和らげる努力は行うつもりではいるが……。
336:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:30:10.85 :kE10GcaOo
「安心してくれ。勿論麗さんとの一対一のレッスンが多くなるだろうが、俺も極力顔を出すようにはするからさ」
彼女の意図やこれから言わんとする要望は十分に理解できる。
しかし、それを聞く訳はいかない。
そんなことに時間を大きく割いてはいけないからだ。
時間はまだある、が、ゴールには程遠い。翠には辛くとも頑張ってもらうしか無いのである。
当然だが学校を完全に休むという訳ではないので、レッスンの休日には学校に行かせる選択肢も用意している。
これならば精神的なストレスにも多少は効果があるはずだ。
「…じゃあ、撫でて下さい」
そう伝えると、助手席の翠はそっと頭を横に傾けた。
「安心してくれ。勿論麗さんとの一対一のレッスンが多くなるだろうが、俺も極力顔を出すようにはするからさ」
彼女の意図やこれから言わんとする要望は十分に理解できる。
しかし、それを聞く訳はいかない。
そんなことに時間を大きく割いてはいけないからだ。
時間はまだある、が、ゴールには程遠い。翠には辛くとも頑張ってもらうしか無いのである。
当然だが学校を完全に休むという訳ではないので、レッスンの休日には学校に行かせる選択肢も用意している。
これならば精神的なストレスにも多少は効果があるはずだ。
「…じゃあ、撫でて下さい」
そう伝えると、助手席の翠はそっと頭を横に傾けた。
337:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:30:55.24 :kE10GcaOo
「今運転中だぞ、全く……ほら」
一体どうしてこんな事になってしまったか。
由来は定かではないが、もはや彼女のこの願いを聞くのが当たり前になってしまっていた。
流石に人前ではアイドルに対するイメージもあるため自重しているようだが、以降は車内や事務所内などで時折頼まれるようになっていた。
「…やっぱり変でしょうか」
不意に翠は呟いた。
変、といえば変だ。
感受性豊かな女子高校生が赤の他人たる男に頭を撫でさせるという行為が如何に非常識であるかは、火を見るよりも明らかである。
だが、伝えるという選択肢だけは頑なに拒否をする。
…それをしてしまったら、一体彼女はどうなってしまうのだろう。
直接的な褒美を願わずに、ただ俺の手だけを求める。
図らずとも非常識が常識なりつつあるこの今を壊すのは、あまりにリスクが大きすぎるのだ。
「変じゃないさ。…俺も翠の髪を撫でるのは好きだからな」
確かに変なのは間違いないが、それで今彼女は上手く行っているのだから止めることは難しい。
ならば、素直に聞いてやるのが吉だろう。
「……そうですか」
目を閉じてそう言う翠の表情は、さながら女優のようだった。
「今運転中だぞ、全く……ほら」
一体どうしてこんな事になってしまったか。
由来は定かではないが、もはや彼女のこの願いを聞くのが当たり前になってしまっていた。
流石に人前ではアイドルに対するイメージもあるため自重しているようだが、以降は車内や事務所内などで時折頼まれるようになっていた。
「…やっぱり変でしょうか」
不意に翠は呟いた。
変、といえば変だ。
感受性豊かな女子高校生が赤の他人たる男に頭を撫でさせるという行為が如何に非常識であるかは、火を見るよりも明らかである。
だが、伝えるという選択肢だけは頑なに拒否をする。
…それをしてしまったら、一体彼女はどうなってしまうのだろう。
直接的な褒美を願わずに、ただ俺の手だけを求める。
図らずとも非常識が常識なりつつあるこの今を壊すのは、あまりにリスクが大きすぎるのだ。
「変じゃないさ。…俺も翠の髪を撫でるのは好きだからな」
確かに変なのは間違いないが、それで今彼女は上手く行っているのだから止めることは難しい。
ならば、素直に聞いてやるのが吉だろう。
「……そうですか」
目を閉じてそう言う翠の表情は、さながら女優のようだった。
338:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:31:22.00 :kE10GcaOo
*
「あー……。お姉ちゃ――いえ、姉が失礼なことをしてしまってすみません」
麗さんとのレッスンの内容についての打ち合わせのため、都内のいつものスタジオに早々に到着してエントランスで待機していると、偶然彼女の妹…普段のトレーナーである慶さんに出会った。
「今は仕事中じゃないので、言い辛いならそのままでいいですよ」
言い直す仕草は歳相応と言った可愛げがあったが、特に改まった礼儀が必要なほど俺と慶さんは遠い距離ではないはずだ。
「それなら…ええと。私からも謝ります。ご迷惑かけます」
ぺこりと頭を下げる慶さん。
「いや、そんな程でもないですよ。…というか、麗さんは誰に対してもあんな感じなんですか?」
少なくとも、姉の所業を何度も見てきたかのような態度だ。
でなければわざわざ謝りはしないだろう。
「確かにトレーナーに身を置いて長いし優秀なので会社からの信頼は厚いんですが、私も勉強としてお姉ちゃんを見ていると、ややアイドルの反骨心に賭ける部分もあって…」
過激、というのは無論初日に翠にかけた言葉の数々だろう。
決して暴言なんて野蛮なものではないが、人によっては尊厳を踏みにじるようなものと捉えられても不思議ではない。
「驚きましたよ、私も。でも、翠は麗さんに負けないで食いかかって行ってくれた」
「同じ意見です。…強い子だとは思ってましたけど、まさかあんな反応ができるとは考えられませんでした」
麗さんと翠の顛末を慶さんに話した時、彼女も大層驚いていた。
翠は静かながらもひたむきに努力する人間だと表面上は見えてしまうが、なかなかどうして熱い闘志を持っている。
昨今においては稀有な人格の持ち主と言えよう。
*
「あー……。お姉ちゃ――いえ、姉が失礼なことをしてしまってすみません」
麗さんとのレッスンの内容についての打ち合わせのため、都内のいつものスタジオに早々に到着してエントランスで待機していると、偶然彼女の妹…普段のトレーナーである慶さんに出会った。
「今は仕事中じゃないので、言い辛いならそのままでいいですよ」
言い直す仕草は歳相応と言った可愛げがあったが、特に改まった礼儀が必要なほど俺と慶さんは遠い距離ではないはずだ。
「それなら…ええと。私からも謝ります。ご迷惑かけます」
ぺこりと頭を下げる慶さん。
「いや、そんな程でもないですよ。…というか、麗さんは誰に対してもあんな感じなんですか?」
少なくとも、姉の所業を何度も見てきたかのような態度だ。
でなければわざわざ謝りはしないだろう。
「確かにトレーナーに身を置いて長いし優秀なので会社からの信頼は厚いんですが、私も勉強としてお姉ちゃんを見ていると、ややアイドルの反骨心に賭ける部分もあって…」
過激、というのは無論初日に翠にかけた言葉の数々だろう。
決して暴言なんて野蛮なものではないが、人によっては尊厳を踏みにじるようなものと捉えられても不思議ではない。
「驚きましたよ、私も。でも、翠は麗さんに負けないで食いかかって行ってくれた」
「同じ意見です。…強い子だとは思ってましたけど、まさかあんな反応ができるとは考えられませんでした」
麗さんと翠の顛末を慶さんに話した時、彼女も大層驚いていた。
翠は静かながらもひたむきに努力する人間だと表面上は見えてしまうが、なかなかどうして熱い闘志を持っている。
昨今においては稀有な人格の持ち主と言えよう。
339:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:34:23.65 :kE10GcaOo
「今、慶さんは何をやっているんですか?」
元々翠の担当トレーナーという役職で契約していたため、今のレッスンは麗さんが担当している以上、何をしているのか俺にはわからなかった。
「休憩、というと聞こえはいいですが、今は色んな子…新人の子を見て回って指導しています」
「すみませんね、翠との契約だったのに」
現在はある一人との専属形式は取らず、言うなれば非常勤講師的な役割であちこち動き回っているらしかった。
営業であることを除けば、おおよそ俺との違いはない。
「いえ、私はこの機会を利用して勉強していますから、またレッスンする頃には私もパワーアップしてますよっ」
ぐ、と両手を握り元気なアクションを見せる。
麗さんとは違った少女らしさ、元気さを感じ取り、いや慶さんもいずれ姉のようにベテランの風貌を見せるのか、といささか残念な気持ちが出てきてしまう。
「はは、翠もパワーアップしてますから、覚悟してて下さいよ」
今のこの和んだ場に相応しい笑みを浮かべると、彼女もにこりと笑って返事をしてくれた。
「今、慶さんは何をやっているんですか?」
元々翠の担当トレーナーという役職で契約していたため、今のレッスンは麗さんが担当している以上、何をしているのか俺にはわからなかった。
「休憩、というと聞こえはいいですが、今は色んな子…新人の子を見て回って指導しています」
「すみませんね、翠との契約だったのに」
現在はある一人との専属形式は取らず、言うなれば非常勤講師的な役割であちこち動き回っているらしかった。
営業であることを除けば、おおよそ俺との違いはない。
「いえ、私はこの機会を利用して勉強していますから、またレッスンする頃には私もパワーアップしてますよっ」
ぐ、と両手を握り元気なアクションを見せる。
麗さんとは違った少女らしさ、元気さを感じ取り、いや慶さんもいずれ姉のようにベテランの風貌を見せるのか、といささか残念な気持ちが出てきてしまう。
「はは、翠もパワーアップしてますから、覚悟してて下さいよ」
今のこの和んだ場に相応しい笑みを浮かべると、彼女もにこりと笑って返事をしてくれた。
340:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:35:10.15 :kE10GcaOo
「――あと、杞憂かもしれませんが……翠ちゃんには気をつけて下さい」
「どういうことです?」
そろそろレッスンの時間だ、と慶さんは立ち去る寸前で意味深な事を口走った。
担当トレーナーからの懸念。
実の姉が担当するとなっているにも関わらず切り出すということは、何らかの確証があるということだろうか。
「いえ…その、翠ちゃんってとっても真面目で練習熱心で、そのせいで私もつい指導に熱が入ることがよくあるんです。お姉ちゃんも翠ちゃんみたいな子が大好きですから、私以上にハードとなると何が起きるか…」
姉の性格を汲み取った予測だったが、間違いとは思いにくい。
初めこそあんな口調だったものの、それからは翠のことをよく気にかけて熱心に指導してくれているのが、外野の俺にもよくわかっていた。
それに、翠の性格への言及も的を射ている。
彼女の言うとおり、真っ直ぐに向かっていけるのは翠の良さだ。
麗さんに対しても進んで指導を請い、なかなかのスピードで習得をしていっている。
「慶さんも翠の事、よく考えてくれているんですね」
「け、慶さんって…」
相手を称賛するように言うと、別の部分で彼女は顔を赤らめる。
「ああ、いや、すみません。姉妹二人と交流を持ってると苗字だと混同しやすいので、つい」
俺も反応の意味に気付いて取り繕う。
「――あと、杞憂かもしれませんが……翠ちゃんには気をつけて下さい」
「どういうことです?」
そろそろレッスンの時間だ、と慶さんは立ち去る寸前で意味深な事を口走った。
担当トレーナーからの懸念。
実の姉が担当するとなっているにも関わらず切り出すということは、何らかの確証があるということだろうか。
「いえ…その、翠ちゃんってとっても真面目で練習熱心で、そのせいで私もつい指導に熱が入ることがよくあるんです。お姉ちゃんも翠ちゃんみたいな子が大好きですから、私以上にハードとなると何が起きるか…」
姉の性格を汲み取った予測だったが、間違いとは思いにくい。
初めこそあんな口調だったものの、それからは翠のことをよく気にかけて熱心に指導してくれているのが、外野の俺にもよくわかっていた。
それに、翠の性格への言及も的を射ている。
彼女の言うとおり、真っ直ぐに向かっていけるのは翠の良さだ。
麗さんに対しても進んで指導を請い、なかなかのスピードで習得をしていっている。
「慶さんも翠の事、よく考えてくれているんですね」
「け、慶さんって…」
相手を称賛するように言うと、別の部分で彼女は顔を赤らめる。
「ああ、いや、すみません。姉妹二人と交流を持ってると苗字だと混同しやすいので、つい」
俺も反応の意味に気付いて取り繕う。
341:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/12(水) 21:35:47.96 :kE10GcaOo
今のように一人相手だと青木さんという呼称で十分だが、二人同時に話すこともあると苗字呼びでは混同してしまう、と頭で考えていた事が不意に出てしまったのだ。
「別に嫌な訳じゃないですよ――う、嬉しいですし! もしよければこれからもそのままでお願いしますね!」
「え、まあそういうことでしたら…今後ともよろしくお願いします、慶さん」
不意に訪れた予想外の展開に困惑しつつも、慶さんは改めてエントランスを立ち去っていった。
「慶さん、か。翠と殆ど変わらないのに不思議なもんだ」
真面目で真っ直ぐなのは慶さんも同じだろうに、と俺は苦笑し、もうすぐ来るであろう麗さんの到着を再び待ったのだった。
今のように一人相手だと青木さんという呼称で十分だが、二人同時に話すこともあると苗字呼びでは混同してしまう、と頭で考えていた事が不意に出てしまったのだ。
「別に嫌な訳じゃないですよ――う、嬉しいですし! もしよければこれからもそのままでお願いしますね!」
「え、まあそういうことでしたら…今後ともよろしくお願いします、慶さん」
不意に訪れた予想外の展開に困惑しつつも、慶さんは改めてエントランスを立ち去っていった。
「慶さん、か。翠と殆ど変わらないのに不思議なもんだ」
真面目で真っ直ぐなのは慶さんも同じだろうに、と俺は苦笑し、もうすぐ来るであろう麗さんの到着を再び待ったのだった。











































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